76回目の終戦記念日にあたって


今日は76回目の終戦記念日です。

おととしにこのような記事をアップしました。今年も思うところがあり、振り返ってみようと思います。
なぜそう思ったか。それは今日、昭和館を訪れ、靖国神社に参拝したからです。

今年は初めて終戦記念日に靖国神社に参拝しました。その前には近くにある昭和館を訪れました。こちらも初訪問です。
さらにここ最近に読んでいる本や、レビューに取り上げた書物から受けた感化もありました。そうした出来事が私を投稿へと駆り立てました。

つい先日、東京オリンピックが行われました。ですが、昨今の世相は新型コロナウィルスの地球規模の蔓延や地球温暖化がもたらした天災の頻発、さらなる天災の予感などではなはだ不透明になっています。本来、オリンピックは世界を一つにするはず。ですが排外主義の台頭なども含め、再び世界が分裂する兆しすら見えています。

なぜ太平洋戦争に突入してしまったのか。私たちはその反省をどう生かしていけばいいのか。
戦争を再び繰り返してはならないのは当たり前。それを前提として、自分なりに考えてみました。

太平洋戦争を語る際に必ずついて回るのは、1929年のウォール街の株価大暴落に端を発する昭和恐慌であり、第一次世界大戦の戦後処理の失敗から生まれたナチスの台頭です。

当時のわが国は恐慌からの打開を中国大陸に求めました。それが中国からの視点では、満州事変から始まる一連の侵略の始まりだったことは言うまでもありません。
しかも中国への侵略がアメリカの国益を損なうと判断され、ABCD包囲網からハル・ノートの内容へと追い込まれたことも。ハル・ノートが勧告した内容が満州事変の前に状況を戻すことであり、それを受け入れられなかった指導層が戦争を決断したことも知られたことです。
結局、どちらが悪いと言うよりも、恐慌に端を発した資源獲得競争の中で生じた国際関係の矛盾が、戦争につながった。それは確かです。真珠湾攻撃を事前にアメリカ側が知っていたことは確かでしょうし、在米領事館の失態で宣戦布告交付が遅れたとしても。
一年くらいなら暴れてみせると言った山本五十六司令長官の半ばバクチのような策が当たり、太平洋戦争の序盤の大戦果につながったことも周知の通りです。

私は、そこまでのいきさつは、仕方がないと思っています。では、これからの私たちは敗戦の何を教訓にすれば良いのでしょうか。

私は三つを挙げられると思っています。
まず、一つ目は戦を始める前に、やめ時をきちんと決めておかなかったこと。
二つ目はトップがそれまでの出来事を覆す決断力を欠いていたこと。
さらに三つ目として、兵隊の統率の問題もあると考えています。

山本司令長官が、開戦前に一年と決めていたのなら何があろうと一年でやめるべきだったはずです。それをミッドウェイ海戦で敗戦した後もずるずると続けてしまったのが失敗でした。この時に軍部や新聞社の作る世論に惑わされず終戦の決断を速やかにしておけば。悔いが残ります。
また、日露戦争の際には国際法を遵守し、捕虜の扱いについても板東収容所のように模範となる姿勢をとれた日本軍が、日中戦争にあたっては軍紀が大きく崩れたことも悔やまれます。
経済の打開を求めて中国に進軍したのであれば、絶対に略奪行為に走ってはならばかったはず。侵略された側から三光作戦と呼ばれるきっかけを与えたら大義が崩れてしまいます。それも悔やんでも悔やみきれない失敗です。

そうした教訓をどう生かすか。
実は考えてみると、これらは今の私に完全に当てはまる教訓なのです。
経営者として広げた業務の撤退は考えているか。失敗が見えた時に色気を出さず決断ができるか。また、従業員に対してきちんと統制がとれているか。教育をきちんと行えているか。
私が仮に当時の指導者だったとして考えても同じです。戦の終わりを考えて始められただろうか。軍の圧力を押しのけて終わらせる決断ができただろうか。何百万にも上る軍の統率ができただろうか。私には全く自信がありません。
ただ、自分で作った会社は別です。自分で作って会社である以上、自らの目の届く範囲である今のうちにそれらができるように励まなければと思うのです。

ただ、その思索の過程で、わが国の未来をどうすべきかも少しだけ見えた気がしました。

まず前提として、わが国の地理の条件から考えても武力で大陸に攻め込んでも絶対に負けます。これは白村江の戦いや、豊臣秀吉による文禄・慶長の役や、今回の太平洋戦争の敗戦を見ても明らかです。

であれば、ウチに篭るか、ソトに武力以外の手段で打って出るかのどちらかです。
前者の場合、江戸時代のように自給自足の社会を築けば何とかなるのかもしれません。適正な人口を、しかもピラミッド形を保ったままであれば。多分、日本人が得意な組織の力も生かせます。
ただし、よほど頭脳を使わないと資源に乏しいわが国では頭打ちが予想されます。おそらく、群れ社会になってしまうことで、内向きの論理に支配され、イノベーションは起こせないでしょうね。世界に対して存在感を示せないでしょうし。

ソトに出る場合、日本人らしい勤勉さや頭脳を駆使して海外にノウハウを輸出できると思います。
日本語しか使えない私が言うのはふさわしくないでしょうけど、私はこちらが今後の進む道だと思っています。今までに日本人が培われてきた適応力はダテではないからです。あらゆる文明を受け入れ、それを自分のものにしてきたわが国。実はそれってすごいことだと思うのです。
日本人は、組織の軛を外れて個人で戦った時、実は能力を発揮できる。そう思いませんか。今回のオリンピックでも見られたように、スポーツ選手に現れています。
ただ、そのためには起業家マインドが必要になるでしょう。組織への忠誠を養うのではなく、自立心や自発の心を養いたいものです。ただし、日本人の今までの良さを保った上で。
固定観念に縛られるのは本来のわが国にとって得意なやり方でないとすら思えます。

私は、今後の日本の進む道は、武力や組織に頼らず個人の力で世に出るしかないと思います。言語の壁などITツールが補ってくれます。

昭和館で日本の復興の軌跡を見るにつけ、もう、この先に人口増と技術発展が重なるタイミングに恵まれることはないと思いました。
そのかわり、復興を成し遂げたことに日本人の個人の可能性を感じました。
それに向けて微力ながらできることがないかを試したい。そう思いました。

任重くして道遠きを念い
総力を将来の建設に傾け
道義を篤くし 志操を堅くし
誓って国体の精華を発揚し世界の進運に後れざらんことを期すべし


スポーツの感動は人類に必要


東京オリンピックが閉幕式を迎えようとしています。
よくぞ終わったといえるほど、波乱の大会でしたね。
開会式の前日まで、各地で行われていた開催を反対する訴え。開会式の演出をめぐる人々の相次ぐ辞任や更迭。その結果を受けた開会式の酷評。
開催中には新型コロナ患者数が連日過去の数字を更新し、医療崩壊が叫ばれていました。

そんな中で行われたオリンピックの各競技は、さまざまな感動を私たちに与えてくれました。
私もロードレースのルートが家のすぐ近くだったので、女子決勝を沿道から応援してきました。それ以外の競技も仕事の合間を縫ってテレビで何時間も観戦しました。

開会式の前日にアップしたブログにも書いたとおり、私はオリンピックの開催に賛成の立場でした。
今もその考えに変わりはありません。むしろ、期待以上にスポーツ選手から多くの感動を分けてもらった今、その考えはより強固になっています。
勝者も敗者も含め、日頃の努力を披露する場が選手に与えられたことを祝福したいと思います。

その一方で、ある論者はスポーツが始まった途端、にわか愛国心を刺激されて熱狂する日本人の姿に太平洋戦争の過ちを結びつけていました。
医療が現実に崩壊しつつある中、スポーツにうつつを抜かすなんてけしからんと。
そもそも、国民からさまざまなイベントを取り上げておいて、なぜオリンピックだけが優遇されるのか。
もっともな意見だと思います。

前のブログで書いたとおり、私は無条件に開催を喜ぶつもりはありません。東京に経済や文化や人口が集中するリスクが全く改善されなかったことや、日本の前例主義の限界が露呈したこと。官僚や政治家の実務能力にも限界が表れました。
今回のオリンピックはさまざまな課題を突き付けたのではないかと思います。
先のブログに書いたとおり、商業主義はもうやめて、開会式や閉会式もシンプルで良いのではないかと思います。オリンピックとは選手の頑張りに感動するだけで十分。

ただ、オリンピックはこれからも行われるべきです。スポーツから受ける感動は、これからも私たちの生きる活力になるはずだからです。組織の失敗や商業主義に対する非難とスポーツのあり方は別に考えるべきではないでしょうか。

オリンピックとはスポーツの優劣を決める最高峰のレベルであるべきです。そこで勝ったメダリストには最大級の栄誉が与えられて良いと思います。プロアマを問わず金銭上の利益も含めて。

ただし、オリンピックの期間中は、スポンサーも含めて一切の商業主義の匂いを排除する。放映権すら、民間ではなく国が掌握して良いとすら思います。

そのかわり、オリンピックではドーピングも含めた不正には厳重に対処していただきたい。
公正な最高峰の舞台をみせてくれるのなら、これからのオリンピックも無観客でもいいくらい。国際交流すら断念して。
そのくらいの覚悟でやるのなら、国民のイベントを中止してまでオリンピックを行っても、国民に理解されるのではないでしょうか。

今回のオリンピックで出た課題を今後に活かさなければ、何のためにコロナ下でオリンピックを敢行したのかわかりません。

スポーツに打ち込む姿は美しい。だからこそ、今後のオリンピックは原点に立ち戻って純粋なスポーツだけが見たいと思います。

その意味でも、商業主義の香りが薄いパラリンピックも引き続き見ようと思います。


東京オリンピックが開幕しますが


すでに一部の競技では予選が始まっていますが、明日はいよいよ東京オリンピックの開幕式ですね。
言うまでもなく、開幕前からケチが付きまくってるのですが。
もう、取り返しは付かないでしょう。

ですが、私はスポーツ観戦が好きです。だから、いまさら中止を訴えようとは毛頭思いません。
それよりも競技の中身に期待したいと思っています。
バルセロナで古賀選手が、北京でソフトボールチームが感動を与えてくれたように、選手たちの競技から感動を受け取れると信じて。
今回は白血病からの復活を遂げた池江選手もいます。
無観客のテレビ越しだっていいじゃないですか。今までのオリンピックだってテレビ越しの競技を見ているだけで感動できたのですから。

むしろ、これほどまでにオリンピックとそれにまつわる商業主義や国家の威信が傷ついた後だからこそ、純粋な競技そのものに集中したいと思うのです。
誰もが忘れ去っていますが、クーベルタン男爵が理想とした古代ギリシアのオリンピックとは、純粋に競技だけに熱狂するものだったはず。

もちろん、私も経営者の端くれです。商機がある時に稼いでしまいたくなる気持ちはわかります。
ですが、今回のオリンピックはその路線に限界が生じたことを如実にしめしてくれました。

1976年のモントリオールオリンピックで出た莫大な赤字への反省から、オリンピックは商業主義に舵を切ったことはよく知られています。
その前にもナチス・ドイツによって国威発揚に利用され、ミュンヘンオリンピックではテロリストによって蹂躙され、東西のイデオロギーの争いによってボイコットもされました。
そこに今度のコロナによる延期と、運営の不手際による問題です。
もう、オリンピックの拡大主義と商業主義には無理が生じているのです。

ですが、いまさらJOCの責任を言い募っても仕方がありません。
段取りと前例踏襲を擁したわが国の得意技がコロナによって封じられた以上、こうなっても当然だと思うのです。今さら誰を非難してもオリンピックは始まるし、傷ついた威信は改善されません。

そもそも、復興をうたっていながら東京で行う前提からして間違っていたのですから。
これ以上東京に富と人口を集中させても仕方がないのに、東京に招致してしまったこと。

私は以前からこのことをあちこちで書いてきました。

東京オリンピック 文学者の見た世紀の祭典

東京から地方へ・・・・

むしろ、地震や富士山噴火でダメにならず、無観客とはいえ開幕できたことだけでもよしとしなければ。

開幕式を演出する方も二転三転としていますが、それもシンプルな開幕式でよいではありませんか。
商業主義から脱却する記念の大会としてはふさわしいと思います。
その代わりに競技から感動を受け取ろうではありませんか。


人の身に起こる死について


先日の大雨による熱海の土石流による被害によって亡くなられた方々。
そして、元プロ野球選手の大島選手が大腸がんでお亡くなりになったこと。
謹んでご冥福をお祈りいたします。

私自身の行動にリンクするところがあったので、一文をしたためてみました。

土石流が起こった7/3の3週間前、私は熱海駅の三つ隣の根府川駅を訪れていました。
関東大震災で駅舎や列車が海に流され、多数の死者を出した災害。私はこの災害のことを書籍などで知っていましたが、駅をきちんと訪れたことがありませんでした。どのような地形でどのような土石流が流れたのか、一生懸命イメージを膨らませてきました。
その後、駅舎のすぐ脇に建てられた慰霊碑、近くの道に沿って立っていた慰霊碑、白糸川鉄橋の下にある慰霊碑などを訪れ、手を合わせてきました。
いつ、同様の事故が起こっても備えられるように。

その日から3週間後、土石流による災害が起こってしまいました。動画で見た土石流の威力の前には、人の備えなど無力です。
災害は決してひと事ではありません。私はそのことを心に刻むとともに、亡くなられた方の身になって心を痛めました。
私もいつ、同じような被害にあってもおかしくないのです。

そして、大島選手の死去です。昭和のプロ野球に親しんだ私には、大島選手の姿はおなじみでした。
70歳は早すぎますね。

大島選手の命を奪ったのが大腸がんだったとのことですが、ちょうどその日、私は市から案内された大腸がん検診の申し込みをしたところでした。
その後に大島選手の逝去のニュースを聞いたので、何かの暗合のように思いました。私も健康ケアに心を配らないと、という思いを新たにしたのが大島選手の死でした。

大島選手のブログ https://ameblo.jp/ohshima-yasunori/ はこのような言葉で締めくくられていました。

命には
必ず終わりがある

自分にもいつか
その時は訪れる

その時が
俺の寿命

それが
俺に与えられた運命

病気に負けたんじゃない

俺の寿命を
生ききったということだ

その時が来るまで

俺はいつも通りに
普通に生きて

自分の人生を、命を
しっかり生ききるよ

全くその通りですね。とても心にしみます。

私も必ず死にます。自らの残りの余命を常に感じながら生きています。
その一方で、自分の命を生ききれているか、日々の生活が惰性に落ちていないか、を常に感じています。

今の私は大島選手のように生ききれているとは、思っていません。やりたいことが多すぎるのに、時間は足りない。
寿命は甘んじて受け入れるとしても、絶対に死ぬ前に後悔はするまい、と思います。
70歳といえば、定年が65歳だとして、5年間。65歳で引退できたとして、5年で自分のしたいことが本当にできるのでしょうか。
それを考えると、今のうちから一瞬も無駄にしてはならないと思うのです。

土石流によって亡くなられた方も、ある日突然このような形で命を奪われるとは思っていなかったことでしょう。

大島選手のように、自らの死に対して気持ちを整える時間があればまだ救いがあるのかもしれません。

私もやり残したことがないようにしなければ。

弊社のメンバーにも私の技術などを伝えていきたいと思います。
うちの娘たちにも、私の少々枠をはみ出した生き方などを伝えていければ。


3度目の緊急事態宣言に際し


3度目の緊急事態宣言が出されました。
「またか!」と言う悲鳴や政府の対応を批判する声など、世間の反応はさまざまです。

この機会に改めて私の考えを述べてみたいと思います。

そもそも、わが国の状況が欧米に比べて深刻ではない状態で、どういう状態を目指せばよいのでしょう。
さらに、前提として考えておきたい問いがあります。それは、今の複雑な社会において、特定の誰かに責任を被せられるのか、という疑問です。

政治家や官僚。医師や医師会をはじめとした医療関係者。そもそもの拡散地とされる中国。営業自粛に応じないお店。家にこもらずに外出する人々。
今回のコロナ禍において槍玉に挙げられるのはこのような方々でしょうか。

まず、政治家や官僚。
たしかに、個々の事例では非難されるべき不祥事もあります。ですが、全体としては今以上の成果を求めるのは難しいのではないでしょうか。
あらゆる利害関係者や諸外国との関係を調整し、国民の声も考慮しながら国としての全体最適を追求する。
私が同じ立場になったとしても、今以上の成果を出す自信はありません。

続いて医療関係者。
医師の立場として人命救助は最も優先すべきです。コロナの感染経路の最も濃厚な場所が飲食店である以上、飲食店の営業の自粛を国に進言するのは当然でしょう。
その決定的なエビデンスがいまだにないとしても、医療に携わる以上、言いにくくても言わざるを得ません。人は酒が入ると身構えを解き、たやすく感染源になってしまう生き物です。医療関係者はむしろよくやっていると思います。
また、ワクチンの製造競争で欧米におくれをとっていることや、感染のメカニズム解析のおくれも非難のタネになりえます。
ですが、それを責めるべきではありません。努力はなされているはず。であれば、素人が後講釈で非難すべきではありません。

営業自粛に応じないお店。
お店を開けなければ経営が立ち行きません。当たり前のことです。
支給される補助金で何とかして、というのは酷な話です。一人でやりくりしているようなお店ならまだしも、従業員を抱えるようなお店にとって、今の支給額は雀の涙。足りないのです。
経営者の立場では休業に応じず営業するお店の気持ちはよく分かります。
そもそも、支給金申請のための書類が煩雑で、その作成だけで、支給金分の人件費が賄えるのではないかと思えるほどです。むしろ、ここを何とかすべきでしょう。

家にこもらずに外出する人々。
人の価値観やライフスタイルはそれぞれ。ですが、私のように家にこもるのが苦手な人にとって、家へ閉じこめられる苦しみは大変なものです。
その一方で、コロナをきっかけに家にこもりがちの人の世間からの視線は大幅に改善したとか。
そもそも、誰も外に出なければ、特定の業種にとっては死活問題です。
それこそ逆に、人々の心身の不調が生じ、社会に無益な出費を強いてしまうのではないでしょうか。

では、国や官僚が補助金を無尽蔵に支給すればよいのでしょうか。
それは、残念ながら得策ではありません。
昨年の緊急事態宣言で支給されたような一括支給は現実的ではありません。国の財政にとってよくないことは当然です。
たとえ、いくら国民の貯蓄額が大きいから国の財政は赤字でも国は安泰、との論が正しいとしてもです。国の財政赤字をこれ以上悪化させることに渋くなるのは当然です。

国は全体最適を考える組織。特定の個人や団体に恩恵を与えることは建前として無理でしょう。
たしかに、国の予算が最適な組織に適正な価格で配分されているかは、甚だ疑問です。
ですが、こうした予算の配分については、すでに政治家や官僚の調整能力の範疇を越えていると思います。今の複雑な社会の中で国民すべてが納得できる方法などどだい無理なのです。

結局、誰にも責任を求められないのが現実ではないでしょうか。
誰にも責任を求められない社会。これ、どこかで聞いたことがありますよね。そう、わが国の文化です。
わが国の、いや日本の文化の特徴。特定の人間に責任を負わせず、責任の所在を曖昧にする。これは日本のオハコと言うべきでしょう。

冒頭に書いた通り、わが国の状況は諸外国に比べて深刻ではありません。
でも、コロナは私たちの何かを変えるチャンスでもあります。コロナが起こる前から長期低落傾向が顕著だったわが国の将来。それを変えるチャンスなのです。

日本には和を以て貴しとなすの精神が強く根付いています。歴史を振り返ってみてもそう。
日本の歴史を紐解くと、歴史はさまざまな教訓を教えてくれます。
私たちは歴史から何を学び、どのように変えるべきでしょうか。

今回のコロナをきっかけに変えるべきこと。それは制度だと思います。
日本の歴史の中で、既存の仕組みを壊す人物は多数現れました。木曽義仲、新田義貞、織田信長などはそうした人々です。ですが、彼らの栄華は短いものでした。彼らの後には最後の勝利者がいます。源頼朝、足利義満、徳川家康。彼らが行ったことこそ、制度の整備です。制度をもって国を治める。最近では明治政府がそれを成し遂げました。

歴史から学ぶ教訓とは制度の整備です。社会制度を少しずつ変えていく。これしかないと思います。
過去、わが国は外圧によって何度か大きな変革を遂げてきました。最近では明治維新や、第二次大戦の敗戦がそうでしょう。

今回のコロナは言うならば外圧です。
であれば私たちは外圧であるコロナをきっかけに大きく変われるのではないでしょうか。
いまや、疲弊した制度を変えるべき時だと思います。
もう、日本の高度成長を支えた制度は破綻しています。そのことを認め、新たな方向に舵を切るべきです。

もちろんこれは当時の制度を設計した人々の責任ではありません。むしろその方々こそ、日本の高度成長を成し遂げたのであり、彼らは褒められこそすれ、非難されるいわれはありません。ですが、制度はいつか疲弊し、磨耗します。不磨の制度などありえません。

ということは、われわれはこの機会に今の制度を変える努力をすべきです。特に働き方に関する制度変更は喫緊です。
もはや儀式のための儀式、運営のための運営、統制のための統制はやめなければ。無意味で形骸化したあらゆる儀式はこの機会に取りやめるべきでしょう。
かつての成功事例を捨て去り、新たな制度設計を!
コロナによって強いられた変革であっても、これを前向きな機会ととらえ、制度を見直す!
そのためにはITの力はどんどん使うべきです。情報処理の力を最大限に生かす。

情報処理の力を生かすには、われわれが知恵を絞らなければならないことがあります。
それは、対面ではなく、ディスプレイ越しに意思の疎通を図る方法についてです。

くしくも今年になり、弊社もスタッフを募り体制を増やしました。
となると私が教える必要があります。ですが、情報の伝達には苦労しています。
リモートを前提とした体制を作ったものの、実際、会って話したほうがスキルや要件の伝達ははるかに効率的です。
これは私が感じているだけでなく、スタッフさんからも同じことを言われました。

リモートは対面での伝達に劣る。
この事実を錦の御旗として、一体どれだけの会社がテレワークへの道を閉ざしてきたのでしょう。
とはいえ、あの無残な通勤の混雑は、決して人間にとってあるべき姿だとは思いません。
テレワークを閉ざすのと引き換えに、通勤が残されるとすれば、それは進歩でもなんでもありません。

リモートワークを進め、なおかつ意思の疎通をきちんと行うには何が足りないのか。それを考える必要があります。

国も東京都もテレワークの推進を訴えてはいるものの、実際、国の制度を決めるべき官僚自らが通勤を余儀なくされている現状では、何を言っても説得力はありません。
単純な作業からやめていくのは当然のことです。その意味では脱ハンコは当然です。また、電話番などの無意味な慣習も止めるべきでしょう。

さらに、国全体が電話ではなく官民合わせてデジタルツールを使った連絡を推進すべきだと思います。
また、国中がコロナによってテレワークに移行しつつある今、Zoomのようなオンラインコミュニケーションツールを使うためのよりよい知見は溜まってきています。
複数のコミュニケーションツールも各社から出されています。
国は、こうした事例を積極的に集め、国民により積極的な啓発活動をしていく必要があるのではないでしょうか。

最後に、何より訴えたいことがあります。
それは私たち国民が、国や自治体や特定の誰かに責任を負わせるのではなく、自らで変革の道を探っていかなければならないことです。
明治維新でも先の敗戦後にも制度を整えたのは国です。ですが、その時に復興の力となったのは民間の力です。民間が国に頼らず責任をせず、前を向き、未来を見る。

今回のコロナは外からやってきた外圧です。
この機会を生かし、民間からもっと積極的にデジタルを使い、テレワークを推進する。そして、ディスプレイ越しでのコミュニケーションの効率的な方法をより突き進める。
それがコロナによって強いられた現状を逆手にとる策だと思うのです。
上記に書いた緊急事態宣言の効果や責任の所在は直近で見るべきとし、私たちはより先の未来を見つめようではありませんか。シン・ニホンを目指して。


あの日から10年


今日は東北地方太平洋沖地震から10年目の節目の日です。

10年前、私の動きは以下の二つのブログに書いています。
東北地方太平洋沖地震(発生日編)
東北地方太平洋沖地震(3/12-18編)

阪神・淡路大震災は、私の人生に強烈な影響を与えました。
東北地方太平洋沖地震もまた、阪神・淡路ほどではなかったものの、私の人生に大きな影響を与えました。

その影響を五つ、挙げてみたいと思います。

一つ目は、私に危機感を植え付けたことです。

上記のブログ内で3月25日に納品を予定していた某開発案件があったことは書きました。
その案件とは、ウェブサイトの作成とコンテンツを管理する仕組み(CMS)を含めたウェブサイト構築の二つでした。

ところが、地震とその後の激動の日々は、私から開発案件への時間と気力を奪いました。
その結果、納品がぎりぎりとなってしまったのです。
納品がぎりぎりになったことにより、お客様が前もって確保していたエンドユーザー様への納品までの余裕も使い果たしてしまいました。もちろん、相当にお叱りを受けました。
地震が理由なのは間違いないのですが、地震を理由にしてはなりません。当初の見積額からの減額を求められました。私の苦い思い出の一つです。

地震直後、私は少し躁状態で舞い上がっていました。
ところがしばらくして、私は逆に抑うつ状態に陥ったのです。
その理由は三つほど挙げられます。
地震によって若干の躁状態になった反動が来たこと。そして、上に書いたようないきさつでご迷惑をかけたこと。
最後の一つは地震とは直接関係ないのですが、私がとてもお世話になった大学の先輩がなくなったのが地震の起きる数日前で、そのお知らせが届いたのが地震が終わって数週間後。そのお知らせは私を強烈に揺さぶり、抑うつ状態へと落としました。

その当時の私は、都心の某銀行の本店に常駐していました。正直、この現場はいろいろと恵まれていました。銀行の本店ならではの雰囲気は、開発現場のような殺伐さとは無縁です。残業もなく、社食は安く。
ですから、この現場でずっと骨を埋める選択肢もあったのかもしれません。

ですが、この地震は私に危機感を植え付けました。
やがて抑うつ状態から上向いた私は、外部への働きかけを活発に始めました。
そうした私の外への活動は行員の方によく思われなかったのでしょう。私はその常駐現場を翌年の3月末で離任しました。

地震から離任するまでの一年、私はいろいろと動き回りました。
kintoneのβテスターに応募しました。また、自治会で役員の当番が回ってきた機会に総務部長を引き受けました。後にも書く通り、歯科診療所の開設の準備を進めました。
それらの活発な行動は、地震をきっかけに生まれた危機感が原動力となっていました。

その原動力は私を突き動かし、kintone・法人設立・自治会・エバンジェリストなどの今につながっています。

二つ目は、テレワークの必要を痛感したことです。

地震の当日、私がたまたま家で仕事をしていたため、さまざまな危険に遭わずに済んだこと。
錦糸町に行っていた妻が翌朝まで帰れず、しかも学童の保護会長としての仕事や、当時診療のアルバイトに通っていた鴻巣との行き来でかなり疲弊したこと。
妻が行けなかった代わりにたまたま家にいた私が娘たちを迎えに行けたこと。

こうした経験は、都心で仕事をするワークスタイルへの疑問とつながりました。
この先、都心への通勤を数十年続けた場合、やがて起こるはずの首都圏直下型地震や東南海地震によって同じ目に遭うに違いない。
その恐れは、私の中にリスクを回避する働き方への決意を固めさせました。

これまでの働き方ではどうにもならない、という決意。
その時の私の決意にkintoneが刺さったこと。
kintoneならば通勤せず、自宅で仕事をするスタイルが貫けるのではないか、というほのかな期待。

2012年の4月から私が常駐の技術者として参画したのはめちゃめちゃ忙しい現場でした。リスク回避どころか、平日はほぼ休めず、毎日終電が当たり前の現場でした。PMOと呼ばれるプロジェクトマネジメントの部署といえば、わかる人にはわかります。
そのような忙しい現場に、最初の一年間、町田からお台場まで毎日通っていました。
そんな日々の中、私は自治会の総務部長をこなし、後述する妻のココデンタルの開院準備に奔走していました。
そうした激動の日々に耐えられたのも、地震をきっかけとして芽生えた危機感を生かし、絶対に独立するという決意があったからです。

この現場でのお台場の日々は一年で終わりました。そこから同じプロジェクトの別現場である麹町に移動して四年。さらに稼働時間を半分に減らした麹町での一年半。
その間も終電で帰ることなどしょっちゅうでした。だから、独立するための準備にもなかなか時間が割けませんでした。ですが、そんな日々にあっても私は、自分で常駐に頼らずテレワークを武器にやっていくための覚悟や準備を数年かけて練っていました。
おかげでその常駐先を離脱して以降、私は常駐現場には一度も参画していません。今は常駐に頼らず、何とか法人を運営できています。

三つ目は、妻の歯科診療所開設です。

地震が起こった当時、妻は鴻巣の某歯科医院まで週一度ほどアルバイトに通っていました。
上のブログにも書いた通り、地震の当日から翌朝まで錦糸町に足止めを食らった妻は、地震の翌日に鴻巣に行かねばなりませんでした。ところが、学童の保護者会長だった妻は、地震への対応もこなさねばならず、その上に交通機関がマヒして疲弊の極にありました。
結局、翌日の鴻巣での診療はなくなったのですが、遠距離の通勤をいつまでも続けてはいられないとの思いが強まりました。

その経験は、妻と私に開業への気持ちを高めさせてくれました。
その時、ちょうど物件のご紹介をいただきました。妻がココデンタルクリニックを開院したのは、地震の翌年の6月です。

地震がなかったら、妻はココデンタルクリニックを開いていなかったかもしれません。
そして今もまだ、ココデンタルクリニックは続けられています。

四つ目は、地域に関心が向いたことです。

この地震によって東北地方、特に福島が大変な苦しみにあったことは誰もが知っています。

地震は私に地方への関心を呼び起こしてくれました。特に福島へのご縁と関心を。

地震の起こった翌秋のこと。次女が通っていた学童の秋祭りで飛ばした風船。
その風船が、偶然にもいわき市のスパリゾートハワイアンズに近いクレストヒルズゴルフ倶楽部さんに落ちました。
それがご縁で、家族でスパリゾートハワイアンズに泊まりに行ったのは2013年の8月のことです。

さらに福島とのご縁は続きます。kintone Caféからつながったご縁で郡山に行く機会をいただいたのは2016年。
そこで味わった温かさには感銘を受けました。また、夜の懇親会では、皆さんが風評被害への憤りとやるせなさを抱えていることも知りました。
郡山駅前では福島を襲う放射能の危機と福島からの脱出を訴える街頭演説に出会いました。人々の不安をあおるような演説に私は憤りました。

そうしたきっかけから、私は郡山や福島を応援するようになりました。それ以降、私が福島を訪れたのは六回。
おそらく地震がつないでくれたご縁だと思っています。

また上に書いたように、地震の翌年から就任した自治会の総務部長の活動も、私に地域への関心を向かせてくれました。

五つ目は、家族との絆です。

地震の当日、娘たちや妻と離ればなれになった経験は、家族への思いを強めました。
それまでも家族は大切にしていたつもりです。が、災害は家族をいやおうなしに引き離してしまいます。それをまざまざと感じさせてくれたのがあの日でした。

やがて起こるであろう首都圏直下型地震や東南海地震は、私から家族を引き離すかもしれません。
それどころか、私の命すら奪いかねません。
そのためにも、今のうちからやりたいことをしておかねば。

危機感をバネにリモートワークの体制を作り、地域と家族を大切にする。
私がこの地震で感じたことです。

上にも書いたとおり、阪神・淡路大震災の方が私に与えた影響は甚大でした。でも、その当時の私は学生であり、できることなどわずかでした。でも、今は違います。長じて経験を積み、それなりに社会的な立場もあります。
そんな今だからこそ、地震から受けた影響を社会に還元しなければ、と思うのです。
もちろん、私の力などまだまだ未熟です。が、そろそろ未熟だといって責任から目を背けていられません。

先日も余震とみられる揺れが東北を襲いました。まだ、3.11は終わっていないのです。
これからも地震で無念の死を遂げた方々に哀悼の意を込め続けたいです。そして、十年後の今も地震の苦しみを抱えていらっしゃる方を応援したいと思います。

地震から十年。私に何ができるのか。私が自らの一生を悔いなく全うし、しかも社会に対して貢献するにはどうすればよいのか。
あの日から十年たった今、その思いをかみしめたいと思います。


弊社では身内への呼び捨てをやめます


商談でお客様と話す際、身内の名前を呼び捨てにする。
メールでも身内のことを呼び捨てにする。
昔から私は、こうした慣習に違和感を持っていました。

商談の場において身内同士で話す際はお互いがさん付け、または役職で呼び合いますよね。ところが同じ商談の場で、お客様に対して話す時は打って変わって身内を呼び捨てにする。

なんかこれって一貫してなくね?と思っていたのです。

お客様に対して身内を呼び捨てにするのであれば、同じ場で身内に話しかける際にも呼び捨てにしなければ一貫性が保てません。

なんのためにそうした使い分けが必要なのか。私はずっとその意味が分からずにいました。
それでありながら、今までの私は慣習に従って身内を呼び捨てにしていました。違和感を抱えながら。

今年から弊社でも新たに二人の仲間に参加してもらい、身内の概念ができました。
この機会に弊社は、身内に対する呼び捨ての習慣をやめることにしました。

商談の場でも、身内を呼ぶ際は呼び捨てにしない。メールやチャットの中でも。
それを貫くことが普段からの身内への敬意につながると思っています。

そもそもなぜ身内を呼び捨てにする習慣が生まれたのでしょう。
おそらく、身内をおとしめることによってお客様を持ち上げることが狙いなのでしょう。謙譲語の考えと同じですね。

確かに、リアルな商談が商いを左右していた時代ならそれも理解できます。
というのも、リアルな商談は応接室で話します。応接室は上座と下座を意識したレイアウトになっていて、お客様と身内が向かい合って座る配置になっています。つまり、机を挟んで身内とお客様が相対します。
前を向いて話す際は、お客様に対して敬語を使い、視線を向けない左右の身内は呼び捨てにする。左右を向いて話す際は、身内であっても向き合って話すからさん付けで呼ぶ。いちおう、つじつまは合います。
リアルな場における商談では、身内を呼び捨てにする習慣が根付いたのもわかる気がします。

ですが、今や打ち合わせのほとんどがオンラインです。
数あるオンラインの会議ツールには、上座も下座もありません。スピーカー以外は同じパネルの中で並びます。
場の構成がフラットである以上、身内を呼び捨てにする意味は薄れている。そう思いませんか?

もっとも、マナー講師によってはオンライン会議の場にまで、妙なルールやマナーを持ち込もうとしているようです。ですが、もうナンセンスでしょう。

もう一つ、呼び捨てを無意味だと思う理由は、今や身内といっても同じ会社に所属していないことです。
これは弊社が活動する情報処理業界に特有なのかもしれませんが、身内といっても複数の企業や個人事業主などで連携して商談に臨むことがよくあります。
つまり、身内でありながら実態は属する組織がバラバラ、というケースが増えているのです。その場合、身内というよりも同じ目的に向けて集まった仲間です。ということは、たとえ商談の場であっても呼び捨てにできる関係ではないですよね。
同じ目的を目指す意味では、お客様も身内も同じ仲間と考えてもよいと思うのです。であれば、お客様も身内も等しくさん付けで呼んでよいのではないでしょうか。敬意を表す意味でも。

そういう訳で、弊社は身内であっても商談の場では○○さん、と呼ぶことにします。
メールでも同じ。
まずは代表の私からそれを徹底したいと思います。

もちろん、反論もあるでしょう。
今、思いつく反論は二つです。
一つ目は、身内もさん付けで呼ぶことで商談の場における主客が分かりにくくなること。
二つ目は、先に書いた通り身内をおとしめることでお客様を持ち上げる効果があること。

前者については、商談の流れの中で主語と述語を意識して使い分けるようにすれば、主客は簡単に判別できるはずです。むしろ、曖昧な言葉を改めることで商談の効率も上がるはず。
後者については、普段からお客様に対して敬意を払うのは当たり前であり、身内を卑下してまでお客様への敬意を表すのではなく、ストレートにお客様に敬意を表すのが当然と考えます。

ただ、お客様への敬意を持ち続けるには、コツがいります。
たとえば、内輪だけの会話であってもお客様を呼び捨てにしない習慣を保ち続けること。普段からこの慣習ができていれば、商談の場でわざわざ身内を呼び捨てにする必要もありません。自然とお客様への敬意が伝わるはずですので。お客様への敬意を持つのは当然、という前提がありますが。
もちろん、敬意を持ちにくいクレーマーのお客様や合わないお客様もいるでしょう。その時はすぐに取引をやめるようにすればよいだけ。

また、身内への呼び捨てをやめるようにすることは、別の利点もあります。それは、お客様にもお互いを尊重する社内の関係性を伝えられることです。
お客様にしても、社内がギクシャクしている会社には仕事は任せにくいですよね。
社内の関係が円滑であることを分かっていただくことで、お客様にも安心してお仕事をお任せいただけるのではないでしょうか。

ということで、今後弊社からお送りするメールや商談の際は呼び捨てをしない、を励行していきます。
なお、これは弊社の外に強制するつもりもありませんし、呼び捨ての習慣を続けるからといってたしなめるつもりもありません。

今後ともよろしくお願い申し上げます。


人の道を踏み外さぬ経営を


コロナに振り回された一年も終わりを迎えようとしています。
今、福島出張の帰りの新幹線です。その中でこれを書いています。

12/25日のクリスマスには、ジョン・レノンのHappy Xmas (War Is Over)の歌詞を読み、そのシンプルかつじかに心に響く歌詞に惹かれました。

Happy Xmas Kyoko

Happy Xmas Julian

So this is Xmas

And what have you done?

Another year over

And a new one just begun

And so this is Xmas

I hope you have fun

The near and the dear one

The old and the young

A very Merry Xmas

And a happy New Year

Let’s hope it’s a good one

Without any fear

ここに書かれているとおり、来年こそは何の恐れもない年を願いたいと思います。
ジョンの残したシンプルでかつ力のある歌詞に心を揺り動かされたクリスマスでした。

歌詞の余韻の醒めやらぬ中、次の日は福島出張の前乗りで、新白河の隣の駅にあるアウシュヴィッツ平和博物館を訪れました。

かつて、グラフィックデザイナーの青木進々氏が、1980年代後半から1990年代後半にかけ、全国で「心に刻むアウシュヴィッツ展」を開催していました。ここアウシュヴィッツ平和博物館は、その時の展示品を集めた場所です。

かつて、私は「心に刻むアウシュヴィッツ展」が京都で催された際、単身でボランティアに志願しました。どういういきさつで参加したのか思い出せませんが、1時間ほどかけて会場に向かい、一日中、案内係をした記憶があります。
その後の打ち上げ会も、誰も知り合いがいないにもかかわらず一人で参加しました。青木進々氏とも言葉を交わしたように思います。
1997年ごろのことですから、私がようやく鬱から立ち直り、いろいろと外に向いて活動を始めたころです。

正直にいうと、青木進々氏と何を話したかも覚えていません。アウシュヴィッツ展の展示物も、人体から作った石鹸やかつらや衣服や靴やメガネの山に強烈な印象を受けた以外は、あまり覚えていません。

それ以来、23年の月日がたちました。その間の私はあまり社会貢献ができていませんでした。
むしろ自分の家族を築き、家を処分し、仕事を覚え、自らの立場を確立するので精一杯でした。

今年、コロナで世の中は非常に苦しんでいます。
そんな世相にあって、弊社はご縁があって町田市地域活動サポートオフィスの皆さんとご一緒にお仕事をさせていただく機会がありました
その中で、私の中で忘れかけていた社会貢献の熱がよみがえってきました。
町田市地域活動サポートオフィスさんの立ち上げたクラウドファンディングにも寄付させていただいたのも今年です。

コロナがもたらしたリモートワークの促進もあって、弊社は忙しくなったと同時に、金銭的には少し余裕ができつつあります。
それが社会貢献にもつながっています。そして、その余裕を生かして雇用にも目を向けられるようになりました。
年末でお一方を雇用するめどはつきました。来年からは外注先に頼む以外に、自社のリソースを活用できるはずです。

雇用するということは、その方の人生や暮らしにも責任を持たねばなりません。
悪辣な経営者であれば、責任は持たずに搾取して使役して疲弊させることに腐心するのでしょう。

いうまでもなく、私はそうしたくありません。
たとえ微力であっても、弊社のために働いてくださる方の人生にとって糧となるような会社でありたい。そう願っています。
ましてや、私がかつて属していたような圧力で社員を萎縮させるブラック企業のようには。
そのような企業に堕してしまうことは、ナチス・ドイツがかつてアウシュヴィッツをはじめとした収容所で強制労働に駆り立てたことと同じです。
アウシュヴィッツの言語を絶する所業の数々を見るにつけ、経営者の立場として襟を正さねばと思います。利益追求や人を傷つけるような思想に与することのないように。

そのためにも弊社として何をなすべきか。
正当な労働対価を受け取り、それをきちんと社員に還元できるようにしなければ。
今までの安価な見積金額は改めねばならないでしょう。
また、不要な残業ももってのほか。それには生産性を上げるような施策を打たねばなりますまい。
ただ理想を語るだけでは、何も変わらないことは今までの人生で思い知らされてきました。語るだけでなく動こうと思います。

今年の正月はそのあたりのことも、きちんと心機一転して考えたいと思っています。
ジョンがかつてこう歌ったように。

A very Merry Xmas メリークリスマス

And a happy New Year そして新年おめでとう

Let’s hope it’s a good one よい年になるように祈ろう

Without any fear 何の恐れもないように

War is over! 争いは終わる

If you want it もしそれを望めば

War is over! Now! 今、争いは終わる

人々が、そして弊社が争いもなく過ごせるようになる方法。
それは、人や他社と比べるのではなく、自らと比べ、自らを成長させていくことだと思っています。
このような会社にしていきたいですね。年の瀬によい気付きができたように思います。


地方への流れはまずプロ野球から


今年の日本シリーズはホークスが完全にジャイアンツを圧倒しましたね。
二年続けて四タテでジャイアンツを破ったホークスの強さに隙は見当たりません。

この圧倒的な結果を前にして、私たちは「球界の盟主」という古びた言葉を久々に思い出しました。仮にこの言葉に意味があったとして、それが今回の日本シリーズの結果によって東京から福岡へと移ったという論調すら見かけます。

東京と福岡。古くからのプロ野球ファンは、この二つの土地から象徴的な関係を思い出すはずです。それは読売ジャイアンツと西鉄ライオンズ。
かつて、ジャイアンツの監督を追われ、西鉄ライオンズの監督に就任した三原監督は「我いつの日か中原に覇を唱えん」と語ったと聞きます。数年後、西鉄ライオンズはジャイアンツを三年続けて日本シリーズで破り、三原監督の宿願は見事に成就しました。
三原監督のこの言葉からは、この頃の東京が中原=中心と位置づけられていたことが読み取れます。
なにせ、この頃の世相を表す言葉として有名なのが「巨人、大鵬、卵焼き」なる言葉だったくらいですから。これは、当時の子どもたちに愛された対象を並べたキャッチフレーズですが、地方の野球少年少女にとって巨人が羨望の的だったことは事実でしょう。

全国からの上京者を飲み込み続けた東京が文字通りの首都だった時代。
それが今や、コロナにあって四カ月連続で転出超過となっています。
(記事はこちら
これはまさに時代を表す出来事だと思います。
この出来事は、東京への一極集中に異常さを感じていた私にとっては歓迎したい現象です。ようやくあるべき姿に戻りつつある傾向として。

実はプロ野球は、地方への流れを先んじて実施していました。プロ野球、というよりパ・リーグが、です。
今や、プロ野球において、強いチームとは地方に比重が移りつつあります。かつてはセ・パー両リーグともに東名阪にプロ野球チームが集中していました。わずかに広島と福岡に本拠を置くチームがあった以外は。
その頃に比べ、今は福岡・広島・仙台・北海道にチームが移り、それらのチームが一時代を築くまでになりました。
その流れはパ・リーグに顕著です。
その流れが近年のパ・リーグの強さにつながっていると思います。

かつて「人気のセ、実力のパ」という言葉がありました。
私はかつての西宮球場の状況を知っています。戦力的には黄金期であったにもかかわらず、試合中でも閑散とした球場の異様さを。それは、近くの甲子園球場で行われた試合の観客が盛り上げる様子に比べると悲壮さすら漂うほどでした。
最も格差が開いた時期(1975年)では、セ・リーグの観客数がパ・リーグの2.96倍、つまりほぼ3倍に達していました。
それが今や、ここ数年は1.20倍前後に落ち着いています。人気の面でもパ・リーグがセ・リーグに伯仲しようとしているのです。
セ・リーグ観客数の推移表(https://npb.jp/statistics/attendance_yearly_cl.pdf
パ・リーグ観客数の推移表(https://npb.jp/statistics/attendance_yearly_pl.pdf
セ・パ両リーグの観客数の推移グラフ

その理由はいくつでも挙げられると思います。
その中でも、今の都市圏にはかつてのように地方の野球少年を惹きつける魅力がないことに尽きると思います。
テレビ放送の黎明期を担った方がジャイアンツのオーナーであった頃、地方で放映されるプロ野球の試合といえばジャイアンツのみでした。それが全国の野球少年の憧れをジャイアンツに向けさせていたことは否めません。それが入団希望者の多さにもつながっていました。
その時の影響は、今もなお、FAで巨人を希望する選手や、逆指名でジャイアンツを希望する選手もいる現象として見られるくらいです。

でも、少しずつジャイアンツの占める重みは減り続けています。
「球界の紳士たれ」なる窮屈な言葉がある球団に入るより、地方の球団でのびのびしたいという選手の思い。
今や、ジャイアンツの選手であることのブランド力は薄れ、それが今回の日本シリーズの結果でさらに拍車がかかるような気がします。

情報が流通する社会において、都市に集まる利点はどんどん減っています。
かろうじて、ビジネス面では首都であることの利点があるのかもしれません。でも、そのメリットはプロ野球の世界ではもはや効果を失いつつあります。
それにいち早く気づき、活路を見いだしたのがパ・リーグの球団。であるとすれば、いつまでも東名阪に止まっているセ・リーグの各球団はそろそろ地方に目を向けるべきだと思うのです。

特に、首都圏に五球団というのは多すぎます。埼玉、千葉、横浜はいいとしても、東京に二つというのはどうなんでしょう。例えば思い切って、キャンプ地の宮崎を本拠地にするぐらいの改革をしても良いのではないでしょうか。
今回の二年続けてのような体たらくでは、やがては観客数すら逆転しかねません。

もちろんこれはプロ野球だけの話ではなく、東京に集中して報道しがちなマスコミやビジネス界についても同じです。
もはや東京への一極集中はデメリットでしかない。それが今回の東京からの転出超過につながっているように思います。

これは、何も東京を軽んじているわけではないのです。
私は常々、日本の健全な発展とは、東京一極集中ではなく地方と東京が等しく発展してこそ成されるものだと思っています。それが逆に東京の魅力をよみがえらせる処方箋であると。

ジャイアンツも、いつまでも首都の威光を傘にきて「球界の盟主」なる手垢のついた言葉に頼っているうちは、地方の活きのいい球団の後塵を拝し続ける気がします。
今回の日本シリーズの結果がまさにそれを証明しているのではないでしょうか。


アクアビット航海記-営業チャネルの構築について


「アクアビット航海記」では、個人事業主から法人を設立するまでの歩みを振り返っています。
その中では、代表である私がどうやって経営や技術についての知識を身につけてきたかについても語っています。

経営や技術。それらを私は全て独学で身につけました。自己流なので、今までに数えきれないほどの失敗と紆余曲折と挫折を経験して来ました。だからこそ、すべてが血肉となって自分に刻まれています。得難い財産です。

本稿では、その中で学んだ営業チャネルの築き方を語りたいと思います。
私自身が試行錯誤の中で培ってきたノウハウなので、これを読んでくだった方の参考になれば幸いです。

起業する上で切実な問題。それは、お客様の確保だと思います。
お客様が確保出来なければ売り上げが立たず、経営も破綻します。
破綻すると分かっているのに起業に踏み切る人はいないでしょう。

私もエイヤっと起業したとはいえ、顧客の確保は心のどこかに不安の種として持っていました。
しかも私の場合、貯金がほぼない状態での独立でした(その理由は本編でいずれ描くと思います。)
ですから、最初は安全な方法を採りました。

それは、常駐の技術者としての道です。
まず、技術者の独立について検索しました。そして、いくつかのエージェントサイトに登録し、エージェントに連絡を取りました。
その動きがすぐに功を奏し、常駐の開発現場に職を得られました。そこから、十年以上にわたる、常駐開発現場を渡り歩く日々が始まりました。
毎日、決まった場所へ出勤し、与えられた業務をこなし、毎月、決まった額を営業収入として得る。
実際、個人事業を営む技術者のほとんどはこのようにして生計を立てているはずです。

ところが、この方法は自分自身で営業チャネルを構築したとはいえません。なぜなら、エージェントに営業を依存しているからです。あくまでもお仕事を取ってくるのはエージェントです。
複数のエージェントに自らを売り込めば、頼りになる技術者として営業にはなります。エージェントも実際の顧客に対して有能な技術者だと熱意をもって推薦してもらえるはずです。
ですが、あくまでも直接の顧客と相対するのはエージェントであり、あなた自身の営業チャネルが確立できたわけではありません。
あなた自身の技術力が仕事につながったことは確かですが、その結果を営業力や営業チャネルによるものだと勘違いしないほうが良いです。
そこを間違え、技術力だけで案件がずっと潤沢にもらい続けると考えてしまうと、後々にリスクとなって返ってきます。

そのリスクは、社会が不安になったり、年齢を重ねることによってあらわになります。
実際、私はエージェントに頼った年配の技術者さんが、リーマン・ショックによって仕事を失い、苦しむ様子をそばで見ています。
見るだけでなく、私自身がかわりに営業を代行していたので、なおさらそのリスクを私自身のこととして痛感しています。
なので、私はエージェントさんには頼らないと決めています。
そう、営業チャネルは自分自身で構築しなければならないのです。

では、自社で営業チャネルを確保するにはどうすれば良いでしょうか。
本稿ではそれを語ってみようと思います。
ただし、本稿で語れるのはあくまで私の実践例だけです。
これが普遍的に使えるノウハウで、あらゆる会社や個人に当てはまるとは全く考えていません。
一人一人、一社一社の業態やワークスタイルによって答えはまちまちのはずです。そもそも業種によって営業チャネルの構築方法はさまざまのはずです。だから、本稿が参考にならないこともあるでしょう。そのことはご了承くださいませ。
本稿では私の携わっている情報業界を例にあげたいと思います。
情報業界と言っても幅広く、コンサルタントやウェブデザイナも含めて良いと思います。

まず、身内、肉親、親族は除外します。
もし、そうした身近な存在を営業チャネルとしてお考えなら、やめた方が良いです。むしろ親族は、初めから営業チャネルと見なさないことをお勧めします。

営業チャネルとなってくださるよう働きかける対象は、まだお会いしたことがない方です。
まだ見ぬ方にどうすれば自社のサービスを採用してもらえるか。そして、その中であなた自身の魅力に気づいてもらえるか。

一つの方法はメディアの活用です。
ここでいうメディアは、TVCMももちろんですし、新聞や雑誌などもそうです。ウェブ広告やSNSも含みます。

ただし、私は実はこうしたメディアを使うことには消極的です。
これらのメディアを使って効果を出すには、ある程度の規模がないと難しいと思っています。

なぜかというと、こうした媒体ではこちらのメッセージを受け取ってほしい相手に届く確率が少ないからです。
弊社の場合だと、システムを必要とする方でしょうか。今、切実にシステムを導入したい、または、ホームページを今すぐ作りたいという会社様。または下請けとなってシステムを構築している技術者を求める会社様や、協業する技術者を欲する会社様が対象です。
そうした相手に弊社のメッセージが届かないと、いくら広告費を掛けても無駄になります。
ただし、自社の名前がある程度知られている場合は、見知らぬ相手にもあなたのメッセージは届くことでしょう。

もし、知名度がない場合、広告の予算を潤沢に投入しないと、受け取ってほしい相手にこちらのメッセージが届かない可能性が高いのです。
今はまだ、アカウントに紐づいた検索履歴などの情報や端末に保存されたCookieでピンポイントに広告を届けられるほど、ウェブマーケティングの精度は上がっていません。
そもそも、そうした情報の二次利用を嫌がる方も多く、それがウェブマーケティングの精度の妨げとなっています。

そうした現状を省みるに、Google AdWordsに費用をかけても、コンテンツによっては無駄に終わる可能性が高いです。
ウェブ広告に携わっている方には申し訳ないですが。
(弊社も上限額の設定を間違え、20万円以上もGoogleに支払ってしまった苦い経験があります。もちろん反応はゼロで、ムダ金に終わりました。もちろん何も対策をせずにいた私が悪いのですが。)
メールマガジンやTVCMや雑誌、タウン誌なども同じです。これらの媒体では営業チャネルの構築は難しいと思っています。

仮にユニークな広告によってこうしたメディアでバズらせることが出来たとしても、そこで得た効果を生かせるかどうかはまた別の話。バズッたことはフロックだと考えておいた方がよさそうです。
起業直後で人的リソースに限りがある場合に、まぐれ当たりで大量に問合せが来ても、対応ができず、品質や納期に問題を生じさせたのでは意味がありません。

だからこそ、まずは身の丈にあったリアルな場での営業チャネルの構築が必要と思うのです。

ただし、ウェブでも使える味方があります。それは、マッチングサイトです。CloudworksやLancersなどが有名ですね。

これらのサービスを利用することによって案件につながることは間違いありません。私も他のマッチングサイトなども含め、さまざまに利用していました。また、そこから多くの案件をいただくことができました。

ですが、マッチングサイトには一つ問題ががあります。
それは商談を含めた未来のやりとりをマッチングサイトに通すことを求められることです。つまり、マッチングサイトを通さない直取引に制約がかかるのです。
利用者にとっては不便ですが、マッチングサイトの運営者の立場を考えれば当然です。せっかくプラットホームを作ってビジネスの縁組をしたのにお金が入って来ないからです。
それもあって私は、マッチングサイトを使ったご縁は営業チャネルになりにくいとの印象を持っています。これは私の未熟さも影響していることでしょう。
もちろん、この課題はマッチングサイト側でも当然認識しているはずで、私が盛んに利用していたころに比べると徐々に改善されているようです。今後の取り組みに期待したいところです。

もう一つ、ウェブで使える営業チャネルを挙げるとすれば、YouTubeなどの動画配信サービスが真っ先に思い浮かびます。
これらのサービスを私は営業チャネルとして使っていません。なので語る資格はありませんが、動画配信サイトは良い営業チャネルの手段となると見ています。

もう一つ、ウェブで使える手段として、SNSやオウンドメディアを忘れるわけにはいきません。これらは、動画配信サービスの利用と同じく利点があると思っています。そのことは後で触れます。

私にとって、営業チャネルの構築でもっとも経営に役立った手段。それはリアルの場です。

私は起業の前後、どこかの交流会から声がかかるたび、とにかく可能な限り顔を出すようにしました。

そうした交流会によっては運営のためのルールを設けています。例えば、皆の前で一分間のスピーチをしたり、四、五人でグループセッションを行ったり。かといえば、完全に自由にしゃべるだけの会もありました。
そうした集まりに参加する中で経験を積み、どうすれば自分を売り込み、営業チャネルが構築できるかを私なりに体得してきました。

本稿では、私なりに得たいくつかのノウハウを挙げてみます。
・話上手より聞き上手。
・知り合いは一人だけでも飛び込む。
・名刺コレクターにはならない。
・全員と語るより、少数の方とじっくり語る。
・お会いした方には数日以内に御礼のメールを送る。
・あれこれ欲張らず、一つに絞ってアピールする。

交流会に出たことのある方はご存じでしょうが、交流会には多くの方が来られます。
例えば、三十人の方が集まる交流会に初めて出た場合を考えてみましょう。
三十人の全ての方の顔と名前、趣味や得意とする仕事。これを一週間後に思い出せ、と言われてどこまで覚えていられるでしょうか。まず無理だと思います。
だからこそ、あなたを相手に印象付けなければなりません。印象付けられなければ、渡した名刺はただの紙切れです。

交流会に出ると、人々の中を回遊しながら、話すことより名刺を集めることを目的とするかのような方をよく見かけます。ですが、そうした方と商談に結びついたことはほとんどありません。それどころか、一週間もたてば名前すら忘れてしまいます。
それよりも、じっくりと会話が成立した方とのご縁は商談につながります。
私の場合、三十人が出席する交流会で10枚ほど名刺を配らないこともあります。残りの二十人とは話しすらしません。
ですが、浅いご縁を二十人と作るよりも、十人の方とじっくりと語り、深いご縁を作ったほうが商談につながります。

さらに、じっくり語る際は、唾を飛ばして自らを語るよりも、相手の語る事をじっくりと聞きます。そして相槌を打ちながら、自分がビジネスとして貢献できる事を返します。相手の目を見つめながら。
話をよく聞いてくれる人は、語る側にとって心地よい相手として記憶に残ります。それが、ビジネスの相談もきっちりと聞いてくれるに違いないとの安心感にもつながり、商談へと結びつくと私は思っています。

ことさら自らの仕事をアピールしなくてもよいのです。相手の話を伺いながら、相手の中で自分が貢献できる事を返答するだけで、十分なほどの営業効果が見込めます。
こちらから一生懸命アピールするよりも、相手が抱えている課題に対してこちらのビジネスで貢献できることを真摯に返しましょう。それだけでよいのです。
それが相手にとって課題の解決に役に立つと思ってもらえればしめたものです。
相手に対して真剣に関心を持ち、自分が貢献できることを考える。それは相手を尊重しているからこそです。単にビジネスの相手だと思ってくる相手は話していてすぐにわかります。相手にも見透かされます。
まずは相手を尊重し、受け入れ、関心を持ち、貢献しようと思えばよいのです。

もし自分の得意分野では貢献できないと思っても、周りの友人関係の中で、相手のビジネスにとって有益なご縁を探すのもよいです。
それを聞き出すため、相手により深く質問することも効果的です。
人は、質問してくれる相手に対して、自分に興味と好意を持ってくれていると考えます。するとますます会話が進み、相手はあなたにますます好印象を抱いてくれるはずです。

また、交流会には単身で飛び込むぐらいの気持ちが必要です。
たとえ交流会の中で知っている方が、紹介してくださった方のみだとしても、一人で飛び込むべきです。
よく、顔見知りとつるんで交流会に参加する方がいらっしゃいます。ですが、つるんでしまうと人との交流ができません。その中に逃げてしまうからです。
私もはじめの頃は臆病で、誰かを誘っていました。ですが、途中から単身で飛び込むことも平気になりました。
ただし、逆もいえます。誰も知らない交流会に単身で飛び込むのはやめた方が良いです。誰との縁もないのに飛び込むと、手練れの勧誘者と思われ、逆に警戒させてしまうからです。
そして、お会いした方にはできれば翌日に、最低でも先方があなたのことを覚えている数日以内にメールを送ることをお勧めします。

一旦、交流会で絆が出来たら後日、相手からきっと何かのお誘いが来ることでしょう。
そうしたら、万難を排して参加しましょう。それによってますます絆は強くなります。そうなればもう営業チャネルは築けたも同然です。

ここで挙げたノウハウは、私が自分で築き上げました。ですが、最初は逆でした。
名刺を配ることに腐心し、自分の持っている得意分野や趣味のアピールに必死で、御礼メールの送信を怠り、仲良しを誘って参加しては、身内だけで話していました。
だから、交流会に参加し始めたころは、全く商談につながりませんでした。それどころかお金と時間だけを支払い続けていました。
私はそれを改善しなければ人生が無駄になると考えました。
そして、今までの自分を全て反面教師としました。そうすることで、商談につながる割合が劇的に増えました。
今では何かの懇親会に出ると、必ず一件は商談につながります。

さて、絆が作れました。
そこからはあなたの人間を知ってもらえるとよりよい絆が結べます。
そこで初めてSNSの登場です。
よく、交流会の当日や翌日に交流会で知り合ったからからFacebookのお友達申請をいただきます。
ただ、私はあえて最初からフランクなSNSは使わず、最初はフォーマルなメールを使うようにしています。
そこでフォーマルなあいさつを行ったのちに、SNSを使ったやりとりに進みます。その方が後々の商談につながるように思います。
最初からフランクな感じで始まった方が、ビジネスにつながらない。不思議なものです。

SNSの活用については本稿では深く踏み込みません。
ですが、一つだけ言えるのは、いいねやコメントをいただく数と、営業チャネルの成果は比例しないということです。

私の場合、SNSの投稿がバズったり、大量のいいねをもらうことに重きは置いていません。
むしろ、私のSNSの使い方はいいねをもらうためのノウハウとは逆行しています。だから、SNSでいいねをもらいたい方にとっては私のやり方は逆効果です。
私は他人の投稿に反応するのはやめました。それどころか、一日の中でSNSに滞在する時間は20分もないでしょう。
ただ、他人の投稿に反応しないよりした方が良いのは確かです。そして、なるべくSNSの滞在時間を増やした方が、いいねにつながることは間違いありません。それは、SNSのアルゴリズム上、優先的に投稿が表示されなくなるからです。また、いいねは相手への承認ですから、いいねが返ってくる割合も増えることは間違いありません。
私の場合、限られた時間を活用するにはSNSの巡回時間を減らさねばならないと考え、ある時期からSNSでいいねを押すことをやめてしまいました。
ですが、もし時間があるのであれば、なるべくSNSの滞在時間や反応はしたほうがいいです。

ただ、いいねが少なく、コメントがもらえていないからといって、投稿が見られていないと考えない方が良いです。いいねやコメントがなくても、継続することであなたの投稿は必ず誰かの目に触れています。その繰り返しがあなたの印象となるはずです。

要はSNSを通して、あなたという人間を知ってもらうことです。
何かを勧誘してきそうな人ではないか。書き込みにうそや誇張や見えが感じられないか。日々の投稿でそれを知ってもらえれば良いのです。
それが達成できれば、いいねやコメントの数などささいな問題に過ぎません。気にしなくて良いです。

それよりも、日々の投稿は必ずや日常を豊かにし、しかも仕事にも結び付きます。
まずは投稿を継続することが肝心だと思います。ぜひやってみてください。

結局、営業チャネルの構築とは、サービスの営業窓口があなた個人である限り、あなた自身の人間で勝負するしかないのです。
私はそう思っています。
動画配信であなたの人間が伝えられればなお良いですし、そこまでは難しくても、リアルな場でも仕事をお願いするに足る信頼をもっていただくことは可能なはずです。それは、業績となって必ず戻ってくるはずです。

本稿が皆さんのご参考になればと思います。


75年目に社会活動に思いをいたす


原爆が落ちて75年目の今日。

切りの良い数字だと思い出したところで、被爆者の方の無念は晴れません。
それは分かっているのですが、切りの良い数字は、自らの人生を振り返るきっかけにもなります。

25年前の今朝は、私は原爆ドームの前にいました。そして、世界中の人たちとダイ・インに参加していました。
(ちなみにその前日は原爆ドームの前にテントを立て、友人達と野宿していました。)

当時、私は大学の政治学研究部の部長を退任した直後だったので、国際関係や政治には深い関心を持っていました。
ですが、今や疎くなってしまいました。会社を経営しながら自分でも商談や設計やコーディングに携わっていると、そんな時間はなかなか取れません。
私の中の関心も当時に比べて隔世の感があります。

ですが、それでは駄目なんですね。経営者の立場としても、そして年齢の上でも、こうした問題にもっとコミットしなければ、と反省しています。
なぜなら、今の複雑に絡み合った動きの速い社会に対して、官僚や政治家が有効な政策を迅速に立案できるとは、とても思えなくなっているからです。
つまり、私たち民間の人間がもっと自覚し、民間で世の中を回すようにしなければなりません。
小さい政府を想定し、それに備えた動きをしなければならない。そう思うようになってきました。

忙しい毎日。
そんな中でも、どこかで理想を追う自分を維持し、どこかで社会のために役立つ自分を持っておく。
そうでないと、日々の売上や支出や進捗に自分が引き裂かれてしまいそうです。

ですが、私は今、そうした政治や国際関係を語るだけの知識や見識が失われています。
少なくとも大学時代に比べると。

だから、今の私は、自分にできることをしようと考えを変えています。
それは地道な方法で社会貢献することしかないです。

昨日は生まれて初めてクラウドファンディングに寄付しました。
町田市地域活動サポートセンターさんが今、実施されているものです。
https://camp-fire.jp/projects/view/305818

また今夜、行われるfreee & kintone Biztech Hackも活動自体は無償です。
https://page.cybozu.co.jp/-/fk-biztech/
私には一銭も入りません。
これも技術を社会に広める意味では、社会貢献の一つだと感じています。

そもそも、日々の仕事を正直に公正に行うことも、立派な社会貢献だと思います。
それが社会を回し、人々の役に立っている限り。
だから、ことさら社会貢献にとらわれなる必要はないと思います。

ですが、せっかくの仕事も、組織のためだけで完結してしまうとなると、社会に及ぼす効果は薄いです。
管理のための管理、時間をつぶすための仕事になっていないか。そこは気を付けたいですね。
日々の行動を外部に直接的な影響を及ぼす。それが結果として社会貢献につながればよい、と思っています。

75年前に非業の死を遂げた方々のためにも。


47歳。若いとみるか、老いとみるか。


おとといの6/6で、私は47歳になりました。

その年齢を若いと見るか、それとも老いとみるか。
人によってとらえ方はさまざまです。

ですが、私は自分の余命がわずかだと感じています。
根が楽観的な私であるにもかかわらず、「まだ」47歳ではなく、「もう」47歳だと感じています。

だからこそ、仕事だけで時間が過ぎていくことに気を尖らせています。
よく言われるような「楽しみや趣味は引退後に」という考えにはどうしてもなじめません。

十数年前に亡くなった私の父方の祖父の享年は95歳でした。一方、父方の祖母は十年ほど前に亡くなりましたが、100歳を超えていました。
つまり、父方は長命の家系のようです。
そして、私の年齢は祖父の享年の半分に達しました。

長命だった祖父母の年齢を考えると、私の年齢など若造に過ぎません。
実際、わたしの人格、実績、教養、知識は、わたしが自分にそうあれかし、と思うレベルに比べて、百分の一にも達していません。
焦っています。危機感を感じています。

なぜ私がそういう価値観を抱くようになったか。
それは老いてゆく両親を見ているからです。
私が子供の頃、エネルギッシュにあちこちへと連れて行ってくれた両親。
ところが、寄る年波には勝てません。
体力がついていかず、気力もそれにつれて衰える。
その様子を帰省するたびに感じています。

47才の誕生日の翌日、出張もあって、甲子園の実家に帰りました。
母が4/2に結構大きな手術を受け、そのお見舞いが出来たのはよかったです。
5カ月ぶりに会う母は、ひと回りだけ小さく見えました。

わたしの両親は、まだ大量の読書を続けているから、気力はまだあるでしょう。ですが、かつてを知る私からすれば、老いた両親を見るのは寂しい。

6/6は両親の結婚記念日です。ちょうど二年後に生まれたのが私。
あと一年で両親は金婚式を迎えます。
そんな49回目の結婚記念日に、両親が長らく飼っていたモルモットのレオンが亡くなったそうです。これも何かの縁かもしれません。

最近は連日、コロナによる死のニュースが報じられています。慣れから、統計上の数字に過ぎなくなっていることは否めません。
ですが、死は必ずやってきます。一という数字を伴って。一とは自分自身の死です。

おとといの誕生日、妻にシェリー・ケーガンの「「死」とはなにか」を買ってもらいました。
ただ、その本に救いを求めたところで、死とは何か、生とは何かを私が悟ることはないでしょう。
一つだけ言えることは、老いた自分が今の自分と同じか分からない、ということです。

祖父の年齢まで生きたとして、あと47年。そのうちの何年、健康でいられるか。
ひょっとしたら数日後に不慮の事故で亡くなるかもしれません。
それがわからない以上、私は自分に授かった生の喜びを全力でまっとうしようと思うのです。
いまや、老いてから好きなことをする、という人生プランすら、コロナによって無意味にされようとしているのですから。

47歳を迎え、実家へ帰省する。
このイベントは私の危機感を再び高めました。そして、人生の後半を生きる気力を湧かせました。
そこには、私の同年代に元気が感じられず、挑戦の心が失われつつあることへの反発もあります。

引退後を待たず、今のうちからしたいことをする。これが私の人生訓です。
仕事も遊びも。
行くべき場所、読むべき本、達すべき仕事の目標、果たすべき社会貢献、見るべき映画。
家族や両親を元気にし、両親も連れて海外へと。
私がやるべきことは多い。

47歳は私にとっては老いの年齢です。が、老いている場合ではありません。
これからもフルパワーで動くつもりです。
娘が幼稚園の頃、おじいちゃんおばあちゃんのために書いたリンゴ。このリンゴのように豊かな人生を目指して。

今、これをアップしながら、私の眼前には、私が四年間を過ごした大学や、地震の後に一年半住んだ家が見えています。それだけでなく、私があちこちをさまよった大阪の北部が一望のもとに。私の迷いの日々をこうやって眺めると、若い頃の迷いも遠くなり、しかも迷っておいてよかったと思えます。

最後にSNSで、お祝いの言葉をくださった皆様。ありがとうございました。


コロナをSDG’sの実現に活かすために。



コロナウィルスが世界を席巻して三カ月弱。
我が国でも4/7に発令された緊急事態宣言が50日弱で解除され、コロナに翻弄され続けた日々に終わりが見えています。

とはいえ、世界にはまだ流行が盛んな地域や、これから拡大が予期される国もあります。コロナの第二波、第三波が来た場合、後の流行の方が甚大な被害を出した二十世紀初頭のスペイン風邪の例もあります。

技術の進展が人々のライフスタイルを変えることは間違いない。
そうした予測は、随分以前から数多くの識者によってとなえられていました。
ところが、コロナの流行は変化のスピードを急激かつ広範に速めてしまいました。

何よりも、コロナは35万人を超える尊い命を奪ってしまいました。
亡くなられた方には謹んで哀悼の意を表したいと思います。
また、業種によっては耐えがたいストレスにさらされた方も多かったでしょう。

そうした犠牲を今後に活かすにはどうすべきか。
私たちは真剣に考えなければなりません。
このタイミングで起こったコロナをどのように教訓にし、後世に伝えるべきか。

もちろん、医療の体制や研究は進めるべきでしょう。行政の手続きや情報体制にも見直すべき課題は多いはず。
でも、もっと根本の部分で見直せる論点があると思うのです。
その論点とは、人口密度の高さです。
今、空間と時間の二つで人口密度が限界まで近づいています。

空間とは、具体的にいうと東京一極集中です。
総務省統計局のサイト
時間とは、具体的にいうと平日朝夕の混雑です。
国土地理院
それらの混雑が解消されない限り、コロナのようなリスクはいつまでも人類を苦しめることでしょう。これは日本だけでなく世界にも同じことが言えます。
この解消が急務です。

今回、緊急事態宣言が解除されたことによって、朝夕のラッシュが復活しているとの話もあります。休日に観光地に人混みが復活するのでは、という予測も出されています。
リモートワークの流れに抗うように、元のワークスタイルを貫こうとする会社。これはいけません。
物理的にリモートワークが難しい業種は仕方ないでしょう。ですが、リモートワークができる職種でありながら、社内制度や慣習を理由として朝夕の出社を義務付けることは、人口密度をいつまでも高く保ち続け、リスクの元凶であり続けるに違いありません。

リモートワークの推進により、時間の拘束から自由になれます。
例えば打ち合わせがある時だけ11時に出社して、それが終われば昼を同僚と食べ、二時に帰宅するなど。
そうすれば朝夕のラッシュは分散されることでしょう。
なおかつ、都心の飲食業や鉄道事業者に与える影響も抑えられます。

また、リモートワークは場所の拘束からも自由になれます。
地方でも仕事ができればわざわざ混雑した東京で働く必要はありません。
地方の活性化につながります。

そうした流れを読み、今後もリモートワークを続けると宣言する企業も増えています。大手企業ですら。もはや変化の流れは確定的ともいえます。

コロナが引き起こした変化の流れに乗るだけではなく、そのスピードを利用して、さらに人類の今後に向けて加速する。
今はそのチャンスと言えるのではないでしょうか。

人類の今後とは、SDG‘sの一語で言い表せます。
持続可能な開発目標。
コロナが発生する前から唱えられていた言葉ですが、コロナ前はSDG’sへの進みは遅々としていました。
ところがコロナによって経済活動が停滞したことで、環境が改善したとの報告が挙がっています。
Natureの記事(英語)

皮肉にも、コロナが経済の流れを止めたことで環境が改善し、SDG‘sの目標に近づいた。
この現実を認めることは、快適な生活を享受する私たちにはつらい。
ですが、そうした経済の果実とそれを産み出す人類の活動が環境に悪い影響を与えていたと結論づけるしかありません。

「経済を回さないと」
コロナの間、一体何度、この言葉を口にし、耳にしたでしょう。
今の世界は資本主義で回っています。そして人類はいまだに資本主義に変わる社会体制を見つけ出せていません。

私も経営者の端くれである以上、自粛による経済活動の停滞は座視できません。
同時に、コロナによる直接の生命の危機と金回りの停滞による間接の生命の危機。どちらかを選ぶこともできません。

とあれば、今私たちにできることは限られてきます。
その一つこそ、リモートワークによる人口密度の分散です。
人口密度が分散すれば、集中による環境への負荷も軽減でき、しかもある程度の経済活動も維持できます。なおかつ、新たなるウィルスの危機からもある程度は身を守れるのではないでしょうか。

なおかつ、それはSDG‘sの実現に向けた大きな寄与にもなるはずです。

もちろん、リモートワークと言っても簡単ではありません。
なぜ企業の多くがリモートワークに及び腰かというと、統制や社風や生産性が守れなくなる恐れがあるからでしょう。
そこには信頼の欠如が大きな理由となってはびこっています。

社員をどこまで信頼できるか。
それは、どの企業にも突きつけられた大きな課題であると同時に、従業員にとっても課題となっています。
統制がない中、どこまで自主的に自律的に成果を出すか。
この自己コントロールがリモートワークの鍵だと思います。
自己コントロールが出来ない労働者が一定の割合でいる以上、企業もリモートワークには踏み切れないはずです。
全ての労働者にも意識の改革が迫られています。

他にも実際のオフィスにあってリモートワークにはない長所はいろいろとあります。
たとえば雑談の効用。雑談がないことは、リモートワークにとっては、統制の欠如よりも大きな課題といえます。
ただ、雑談は無数にあるチャットツールや進捗ツールを使えば、解消できそうです。
そうしたツールの導入や、意識改善に向け、企業側にも研究の余地は多いでしょう。
まだまだ労使双方にやるべきことは多いと思います。

リモートワークを導入しなければ仕事すら覚束なくなる。
コロナは私たちにとても大きな変化と課題を突きつけました。
だからこそ、制度が整うまで、といった悠長なことは言ってられません。まず一歩踏み出す必要があるのです。
その踏み出した足は、最初の数歩はよろめくことでしょう。混乱もあることでしょう。
それでも長く歩いていれば、次第に歩調は整ってゆくのです。赤ちゃんが歩み始めた頃のように。

私たちにできることは、コロナによって一歩後退を強いられたとしても、それを逆手にとって大いなる二歩の前進を成し遂げることだと思います。
私たちは経済を回すことだけでなく、SDG’sのことも視野に含めなければならないのですから。

弊社もリモートワークの実現のため、SDG’sの実現のため、少しでもお手伝いできればと思います。


世界が音楽で熱くなった頃-The Beatles


中国の武漢から発生したコロナウィルスが世界を止めてほぼ一カ月。
私たちは今、人類の歴史の中でも有数の事件のまっただなかにあります。

コロナウィルスに翻弄される今を、第二次世界大戦以来の危機とたとえる人もいます。
ここまで世界中に影響を与えた事件が他に思い浮かばないことを考えると、この例えもあながち間違っていないと思います。

私は家で過ごす時間が増えたため、その時間を生かし、二十世紀を振り返る年表に目を通しました。
年表の中には、数え切れないほどの事件が載っており、激動の時代を如実に表しています。

私は年表を眺めるうちに、世界中に影響を与えた事件の多くが、良くない出来事で占められていることに気づきました。
良いとされる出来事も、実は苦しみからの復活に過ぎないことがほとんどのようです。既存の差別からの解放や災害や戦災からの回復という意味で。

世界的に明るさをもたらした出来事を数えると、万博、五輪、W杯などの定期的に催されるイベントが目立ちます。それらを除けば、アポロ11号による月面着陸ぐらいでしょうか。

そんな中、目についたのはビートルマニアの存在です。
彼女、彼たちが熱狂した対象。それはThe Beatles。言わずと知れた世界を熱狂させた四人組のロック・バンドです。
その熱狂は全世界を席巻し、20世期の年表の中にはまず間違いなく掲載されています。
悲劇で塗りつぶされた世界の歴史の中にあってまぶしく光りつづけている、それがThe Beatles。

今、止まってしまっている世界。
それに比べ、かつて世界を熱くさせた彼らの実績は色あせていません。
1969年のウッドストックまで、ロックとは人々にとって自由と希望の象徴でした。その流れに乗ったのがThe Beatlesでした。時代の空気が彼らの絶大な人気の源泉だったことは言うまでもありません。

私はこの二日間、The Beatlesが残した全てのアルバムを聴き直しました。そして、あらためて彼らの残した音楽の素晴らしさに聞き惚れました。

彼らが巻き起こした旋風のすさまじさは、今さら振り返るまでもないでしょう。
それよりも、私が全てのアルバムを聴き直して思ったのは、彼らの音楽から感じられるエナジーです。
50年前に解散したグループとは思えない創意工夫とエネルギー。
初期の音源こそ、古びて聴こえるのは否めません。ですが、後期の作品からは今なお新鮮さすら感じられます。
何よりも、メロディーが普遍的なメッセージとなり、英語のわからぬ私の耳になじんできます。

音楽が世界をつなぐ、との使い古されたスローガン。
彼らの音楽からは、そうしたスローガンを具現する力がまだ放たれているようです。
そして、世界が動きを止めた今こそ、そうした音楽の力が求められている。そう思うのは私だけでしょうか。

ロックン・ロールが生まれて65年。以来、あらゆるジャンルの音楽が生まれ、消費されてきました。
さらに、LP盤からCD、そしてストリーミングへ。音楽の消費も形を変えてきました。
そうした変化の波は、あまたの曲を生み出してきました。
その結果、残されたメロディーも枯渇しつつあるように思えます。
私は最近の曲もなるべく聴くようにしています。ですが、斬新かつ耳になじむメロディーにはなかなか出会えません。
それは、俗説にある通り、私の耳が老化しているからなのでしょうか。

とはいえ、今の音楽が50年前とは変わってしまっており、それらの変革がThe Beatlesから始まったことに異論はありますまい。

そんな今だからこそ、彼らの残した音楽を味わってみるべきだと思ったのです。
世界的な出来事に不慣れな1973年生まれの世代として。
彼らが解散して50年が過ぎた節目の年にこうした奇禍に襲われたことをきっかけとして。

The Beatlesが活動した1962年から1970年までの年月とは、世界中で学生運動など、変革を求める嵐が吹き荒れた時期と重なっています。
そうした嵐の象徴として彼らがいた。

今、世界は動きを止めています。
ですが、いずれ世界は再び動き出すことでしょう。
その時、何か巨大で革新的なムーヴメントが世界を席巻し始めるような気がしてなりません。60年近く前にThe Beatlesが巻き起こしたような何かが。

今回のコロナにより、政治、社会、経済、文化などが大きく揺さぶられています。コロナウィルスが地球史の年表の中で大きくページを占めることは間違いないでしょう。
ただ、おそらくコロナが明けた世界からは、CO2の濃度が減って大気がクリアになったように、既存の価値観も除去されてクリアになっているはずです。
働き方、移民、科学技術、経済体制。リモートワークが市民権を得、通勤という習慣が廃れるばかりか、さらに大きな変革にさらされることは間違いないと思った方が良さそうです。
さしずめ、二十世紀の年表の中で苦難からの回復が重要な出来事として刻まれているように。

何がどう変わろうとしているのか。
何が生まれようとしているのか。
私にはまだ見えていません。

ですが、彼らの音楽には、50年前に世界を動かしたうねりの余韻が感じられるのです。私は、彼らの音楽をききながら、ばく然とした未来への期待に身を委ねていました。
再び彼らが起こしたのと同じぐらいの規模で、人類が熱狂するような何かが起こる期待に。

もちろん、私も弊社もその何かが起こった際には、微力でも協力したいと思っています。

最後に213曲あると言われる彼らの曲の中から、私が好きな20曲を選んで以下に載せています。上から順に好きな曲を並べましたが、私の好みなど、時が過ぎれば違ってゆくはず。このリストも違う順番に変わっているでしょう。

ですが、リストに挙げたうちの一曲「Here Comes The Sun」の歌詞が示すメッセージは変わらないはず。

Here comes the sun
Here comes the sun, and I say
It’s all right

きっと世界はコロナを克服し、太陽がまた昇るに違いないと信じてこの曲を口ずさもうと思います。

20曲のリストです。
Here, There And Everywhere
Strawberry Fields Forever
Come Together
Please Please Me
All My Loving
Let It Be
Here Comes The Sun
Hey Jude
Good Day Sunshine
Yesterday
When I’m Sixty-Four
While My Guitar Gentry Weeps
Michelle
If I Fell
Girl
Helter Skelter
A Day In The Life
Octopus’s Garden
Two Of Us
In My Life


アクアビット航海記-リモートワークの効用


「アクアビット航海記」の冒頭では十回分の連載を使い、起業の長所と短所を述べました。
本稿ではその長所となる自由な働き方を実現する上で欠かせない基盤となるリモートワークについて語りたいと思います。

そもそも、私自身の「起業」に最大のモチベーションとなったのは、ラッシュアワーが嫌だったためです。
ラッシュアワーに巻き込まれたくない。巻き込まれないためにはどうするか。嫌なことから逃れる方法だけを考え続けて今のスタイルに落ち着いた、というのが実際です。

では、ラッシュアワーはなぜ起きるのでしょう。
それは周辺都市に住んでいる労働者が、首都に集まった職場に通うためです。
リモートワークやテレワークなどという言葉がなかった時期、人々は一つ所に通い、そこで顔を突き合わせながら働くしかありませんでした。
そうしなければ仕事の資料もありません。指示すら受けられません。そして雇う側も管理するすべがないのです。
そのため、一カ所に集まって仕事をするのが通念となっていました。

今、情報技術の進化によって、リモートワークが当たり前になりつつあります。リモートワークによって、ラッシュアワーからはおさらばできるのです!

ただし、それには条件があります。その条件とは、置かれた立場の違いによって変わります。
大きく分けて、雇われているか、そうでないか、の違いです。

まず、あなたが雇われているか、契約によってどこかに通う条件に縛られているとします。
雇用契約を結んでいる場合は、雇い主の人事発令に応じた部署で働くことが前提です。
その企業の人事制度が自由な働き方を認めている場合は、喜び勇んでその制度の恩恵にあずかればよいでしょう。
そうでない場合は、まずリモートワークを認めてもらうための運動を始めなければなりません。

おそらく、その企業にはそれまでの慣習があるでしょうから、リモートワークを見越した業務の設計がなされていません。
リモートワークを申請しようにも、体制が整っていないから無理、と却下されるの関の山でしょう。
その体制を上司や別の部署を巻き込んで変えてもらう必要が生じます。おそらくは大変で面倒な作業となることでしょう。
それをやりぬくには、あなたの日ごろの業務への姿勢と、あなたが扱う情報の性質にかかっています。
上司の理解と信頼、という二つの味方が支えてくれていれば、決して不可能ではないはずです。

もう一つの立場とは、個人事業主か経営者の場合です。この場合、上司はいません。あなたの意思が組織の意思です。リモートワークまでの障壁は低いはずです。
ただし、顧客先との契約によってはリモートワークが無理なこともあります。契約に特定の場所で作業することが定められている場合、リモートワークはできません。
そうしたケースは情報処理業界の場合によく見られます。
常駐でなければならない理由は、情報漏洩のリスクです。ハッキングのリスクもさることながら、監視がゆるいため、モラルがない故意に情報をさせてしまうのです。
また、情報処理業界といってもまだまだ対面による打ち合わせが主流です。そして、進捗管理や仕様の伝達に手間がかかります。そうした手間がリモートワークの普及を妨げています。

しかし、それらもリモートワークのためのツールは多く存在しています。実際は、組織や企業の考え方次第で、リモートワークの導入は進むはずです。
また、労働者の側でも意識を変える必要があることは、言うまでもありません。

ここでは、労働者として、私自身がどういうことに心がけてきたかを述べたいと思います。

・連絡をこまめに。
リモートワークは、相手の顔が見えません。だから発注側はお願いした仕事がきちんと納品されるのか不安です。だからこそ、こまめな連絡は必須です。
初めて出会った方は、こちらの人物をまだよく知りません。私の場合、さまざまなイベントで出会った方にはメールで丁寧なメールを返すことを心がけています。
最初はメールで、そのうちに徐々にチャットツールでの連絡に導きます。その方がメールよりも簡略に連絡ができるからです。電話もよいのですが、やりとりが後に残りません。また、電話は相手に準備の時間を与えないため、チャットツールをお薦めします。
ただし、連絡をもらったら返信は即座に。原則として受け取ったボールは相手に預けるようにしましょう。

・コンプライアンス意識
リモートワークは信頼がなければ成り立ちません。
情報を意図して漏洩させることは論外ですし、ミスも起こさないように気をつけたいものです。
その意味でもメールではなくチャットツールは有用です。添付ファイルは後でも取り消せますし、暗号化通信が基本です。堅牢な防御体制をクラウド事業者に任せてしまうのです。もし、印刷して紙の情報に頼ってしまう癖があるのなら、あらためた方が良いです。

・リモート端末の操作に通じる
リモートワークである以上、ノートパソコンは欠かせません。タブレットやスマートフォンは連絡程度であれば可能ですが、業務や作業にはまだまだ不向きです。
また、最近は有線LANが張りめぐらされている光景もあまり見なくなりました。ほとんどがWi-Fi接続による無線LANです。だから、お使いの端末にWi-Fiアダプタがあるか、また、出先でもWi-Fiのアクセスポイントをうまく拾う方法をチェックしておきましょう。
キャリアや鉄道会社、コワーキングスペースが提供しているWi-Fiが安全です。コンビニのものも連絡程度ならよいでしょう。
また、電源の確保も重要なので、どう言った場所に電源があるのか、チェーン別に把握しておくことは大事です。モバイルバッテリーの準備も検討してよいですね。
また、ブラインドタッチに慣れてしまうと、タブレットやスマホで文字入力がやりにくく能率が落ちます。フリック入力などもマスターしておくべきでしょうね。

・移動中はスマホやタブレットの操作に十分注意する。
これは最近、鉄道会社のマナー啓発キャンペーンでも良く登場します。実際に操作しながら移動するあなたは動く凶器です。
なので操作と移動はきっちりメリハリをつけた方が良いです。
そもそも、せっかくリモートワークを行なっているのですから、もっと外の景色を楽しみましょうよ。外の景色から刺激を受けることは、あなたの生産性の向上にもきっと寄与してくれるはずです。


福島県お試しテレワークツアー


今回の「福島県お試しテレワークツアー」の募集要項を読み、三年前の思い出が蘇りました。
その時に感じた郡山の皆さんの温かみ、そして復興への想い。その経験は私に地方への目を開かせてくれました。
それ以来、機会があるごとに、福島にできることは何かを考えていました。なので今回のお誘いも、すぐに参加を申し込みました。
https://www.facebook.com/191888961588176/posts/575688259874909

初日(1/16)、郡山で集合した私たちは、今回のツアーを主催する株式会社LIFULLの内田さんの運転で、co-ba koriyamaへと向かいました。
ここは三年前、kintone Café 福島Vol.1が開催され、私が登壇した場所です。
運営されている三部さんからは、co-ba koriyamaのご紹介と、取り組みのご説明を行っていただきました。
今後も農業経営のセミナーや、エストニアの動向の報告会、シェアリング・エコノミーを紹介するイベントなど、面白そうなイベントが開催されるようです。
前回にも感じたco-ba koriyamaの存在感と役割がさらに強く広がり、今の郡山の商業をつなぐハブとなっていることが感じられました。うれしいですね。
https://co-ba.net/koriyama/

続いてはランチトーク「⼆拠点ワーカーの実践者の話を聞こう」です。
普段、co-ba koriyamaを拠点にされている株式会社フリクシーの片岡さんは、実際に二拠点ワークを実践されている技術者です。しかも、株式会社フリクシーさんは医療系のアプリ開発を主な業務とされていらっしゃるとか。
https://www.flixy.co/

医療情報ガイドラインが用意されているとおり、医療情報には機微な内容が含まれます。そのため、まだまだクラウドへの取り組みが遅れている分野です。ネットワークでつながり、クラウドを利用されていても、開発は都心の開発センターでまかなわれている事が多いようです。
ですから、片岡さんのワークスタイルは相当に先進的ではないかと思います。郡山に住むと、首都圏で住むのに比べ生活のレベルが向上することは自明です。そうした実感を語る片岡さんの目は輝いておられました。
私もとても興味をもってお話を伺わせていただきました。たけやさんのお弁当をおいしく頬張りながら。

さて、テレワークを行うには無線LANが欠かせません。なのでタブレットやPCなどはWi-Fi対応が当然です。
ところが、私のノートPCはco-ba koriyamaのステルスSSIDがうまく拾えませんでした。タブレットは速攻でつながってくれたのに。
なので、テレワークをされる方はステルスSSIDもきちんと取れるようにしておいたほうがよいです。
ちなみに私がco-ba koriyamaで挙げた成果は以下の通り。
  ・弊社サイトのSSL化に欠かせない証明書取得のための仕様調査
  ・多数のお客様とのやりとり
  ・Zenrin APIとkintoneの連携の調査
合間には三年前にお世話になった方が二人、私に会いにco-ba koriyamaまで足を運んでくださり、旧交を温められました。ありがたいことです。うれしかった。

18時になり、内田さんの運転で向かったのは磐梯町。まずはLIFULLさんが運営されているLivingAnywhere Commons会津磐梯へ。
ここはとても立派で、仕事にも旅にも住めそうな施設でした。
今は伊豆下田と会津磐梯の二カ所が開設されていますが、今後、全国にLivingAnywhere Commonsのブランドで展開を予定されているようです。私も加入を検討したいと思いました。
https://livinganywherecommons.com

LivingAnywhere Commonsでは福島県の地域振興課の橋本さんと中根さん、さらにお隣の猪苗代町で株式会社アウレを経営されている遠藤さんと石川さんがお出迎えしてくださいました。
ここであらためて、皆さんと仕事を忘れて語らいの場を。

大きなお鍋に盛られた「ちゃんこ やぐら太鼓」さんのちゃんこ鍋と、地元の銘酒七重郎の純米大吟醸と会津ほまれの純米大吟醸。そしてビールのどれもが旅人のこころと初対面のぎこちなさをほぐしてくれます。
https://retty.me/area/PRE07/ARE235/SUB23501/100000362314/
こういう場を設けていただいたことに本当に感謝です。福島を何とか盛り上げたいという気持ちが伝わってきますし、私もなんとかしたいという思いが募ります。
福島県の地域振興課ではさまざまな機会を用意しているそうです。これを見逃すのはもったいない。
https://www.pref.fukushima.lg.jp/sec/11025b/

続いて私たちは、猪苗代町の道の旅籠「椿」へ。こちらが今回、二泊お世話になる宿です。
ゲストハウスには泊まらせていただいた経験がありますが、この椿さんもまた居心地がよく、良い時間を過ごさせていただきました。少々お酒をたしなみすぎましたが・・・・
https://hatago-tsubaki.net/

二日目(1/17)、ご用意いただいた朝ごはんをいただき、まず向かったのは猪苗代町のアスパラ邸。
ここは遊休不動産活用事業のケースとして、コワーキングが可能なように民家をリノベーションした施設です。とてもすっきりとした邸内は仕事にうってつけの様に思えます。
私はアスパラ邸でも作業してみたかったのですが、今回はスケジュールの都合でここでの作業は行いませんでした。
https://m.facebook.com/events/2369790489957237

続いて向かったのは、集まりいなです。
「こどもたちのサードプレイス」と銘打たれたこちら、現在進行形で施設の拡充が進んでいる様子。
今回のツアーの参加者にはお子さんもいましたが、熱心にロボットを組み立てている様子が印象的でした。そして見事に動かしていたことに感心しました。
https://atsumarina.jp/

集まりいなのWi-Fiと私のノートPCは無事につながったので、さまざまな作業が進められました。
  ・前夜、遠隔ミーティングを開きたいとのご要望をいただき、zoomを使って首都圏の方と打ち合わせ
  ・Zenrin APIとkintoneの連携の実装完了
  ・某kintone案件の項目および画面設計(ほぼ完了)

合間には猪苗代町のまるいち食堂でソースカツ丼をいただきました。うまい!!!

お昼を食べた後、LivingAnywhere Commonsと集まりいなの二カ所に分かれて作業することになりました。
私は前者にも惹かれましたが、作業に集中できそうだったので、そのまま後者にとどまりました。
その決断が吉と出たのか、上に挙げたタスクは13:30にはほぼ完了しました。
いくらワーケーションやテレワークといっても、遊んでばかりだと能率が落ちます。
仕事と遊びの両立を行うには、集中力が肝心だと思います。
そうした私のモットーを実証するのに、co-ba koriyamaと集まりいなで集中できた事は、会心の事例となりました。

タスクに一区切りをつけられたことで、猪苗代の街へ散策にでました。
猪苗代駅、猪苗代町観光案内所、猪苗代町役場、猪苗代城を1時間半で巡り、見聞を広めました。そこで感じたことについては、稿をあらためたいと思います。
ただ一つだけ書いておくべきなのは、雪不足で苦しむ猪苗代駅前の閑散とした様子でした。
鉄道が地域交通の主役の座から降りて久しいとはいえ、その様子は、何とかしたいと思わせるに十分でした。

さて、3時過ぎになって合流した私たちが向かったのは、車で三十分ほど離れた中ノ沢温泉の花見屋旅館です。
広大な露天風呂につかり、ボーッとする。これぞ旅のだいご味です。

しかもこの温泉郷は見覚えがあると思ったら、三年前に一人で訪れた達沢不動滝の道中に通っていました。当時はこんなに素晴らしい温泉郷だとは全く気付かずにいました。
豊かな温泉が周囲に点在していることも首都圏ではなかなか味わえない旅の喜びではないでしょうか。

十分に英気を養ったところで、再び道の旅籠「椿」へ。
遠藤さんが猪苗代の夜をご案内してくださるというので、喜び勇んで散策に出かけました。
かつては映画館を擁する繁華街があったそうですが、今は残念なことにそれほどの賑わいは感じられません。
それでも、歴史の重みは感じられます。
  ・郷土の誇り野口英世氏のゆかりの地が点在しています。
  ・松平会津藩祖の保科正之公が眠り、祀られている土津神社(今回、とうとう行かれませんでした)。
  ・伊達軍と蘆名軍がかつて矛を交えた摺上原の戦いもこのあたりが舞台です。
猪苗代町は歴史が好きな方にとって、魅力的なアピールがまだまだ可能だと確信しました。

私たちが訪れたのは「すし割烹 はなまる」さん。
ここでも会津の豊かな農産物や銘酒を心行くまで堪能し、会話に花をまるっと咲かせました。
https://www.inawashiro-hanamaru.jp/

私は、この機会に遠藤さんに猪苗代で住む利点やきっかけや、今の状況などを失礼も顧みず質問しました。
遠藤さんが猪苗代で仕事をしようと思った動機は、
・海外か福島か、今後の身の振り方を考えたとき、地震後の被害に苦しむ福島のためになりたい。
・郡山や会津若松にはない磐梯山の雄大な景色に惹かれた。
・行政の中心福島、商業の中心郡山、ITの中心会津のどこにもアクセスしやすい場所に猪苗代が位置している。
・東京はプレイヤーが多く、やれることが限られている。猪苗代には一人ひとりにやるべき責任ややりがいが多い。
どれもがとても有意義な示唆でした。私にとって移住も視野に入れた情報としてとても参考になりました。
遠藤さんが経営する株式会社アウレさんのサイトはこちら。https://awre.co.jp/

道の旅籠「椿」に戻ってからも、日本酒を相当飲ませていただきました。酒どころ福島を旅する幸せを五臓六腑で味わい尽した二泊でした。
仕事と旅と飲食のどれもに満足できる。これぞワーケーションの妙味ではないでしょうか。

三日目(1/18)、朝ごはんをいただいた後、お世話になった「椿」のオーナーに別れを告げます。ありがとうございました。
続いて私たちが向かったのは「はじまりの美術館」。あいにく、美術館は閉館していましたが、猪苗代の周辺の風景に溶け込んだ外観にとても好感が持てました。
http://www.hajimari-ac.com/

猪苗代の街は、アートの街でもあります。夜の散策でも町のあちこちにアートが点在しています。
これらのアートはドイツをベースに活動するアーティストのTONAさんに猪苗代青年会議所さんが依頼したもののようです。
https://www.instagram.com/tona_one/

こうした活動が、街並みに活気を与えています。こうしたアートを巡るだけでも猪苗代は楽しめそうです。
猪苗代青年会議所には遠藤さんと石川さんも関わっていて、今後の活動が楽しみです。
https://www.facebook.com/647jc/

今回私たちがお世話になった稲川酒造さんを訪れた後、続いて向かったのは雪下野菜の収穫体験です。
会津猪苗代激甘フルーツ雪下キャベツ-猪苗代キャベツ研究会という名前で雪下野菜の栽培と普及を行っていらっしゃる深谷さんと古川さんにご案内いただき、キャベツ畑へ。

その前にご自宅でご用意してもらった長靴に履き替えながら、農家の風情にひたりました。飾られたアンコールワットの拓本が見事で、ネコちゃんやワンちゃんの人懐っこさとともに皆さんの心の温かさが感じられます。
去年も会津若松で会津伝統野菜や無農薬栽培に取り組む方のご自宅にお邪魔させていただきましたが、農家のたたずまいは東京では味わえないゆとりに満ちています。

雪下野菜のキャベツは、本来なら1メートルにもなる積雪の下で甘味を蓄え、収穫されます。
ところがニュースにもなった通り、今年の異常な暖冬は猪苗代にも影響を及ぼし、キャベツ畑に雪はまったく見られません。
ところが、収穫を体験させてもらい、その場でかじったキャベツの甘いこと!
凍って固い歯応えが、口の中で溶けて広がって甘みへと変化します。
雪の下に育つ野菜は徐々に雪の中で甘味を失うそうです。だから、雪の下にあっても甘味を失わないため、甘味に富んだ品種を植えるのだとか。そんな甘みの糖分がキャベツの体内を巡っているため、生命と甘みは維持される。私たちが口にしたキャベツはまさに甘みの結晶でした。
そうした説明を聞くにつけ、植物のたくましさと、それを活かす農家さんの英知が感じられます。そして農業とはつくづく奥深いものだという感慨も。

聞けば雪下野菜は首都圏には出荷されておらず、農協も通らずに直接地元のスーパーに下ろしているとのこと。産地ならではの貴重な体験をさせていただきました。
そして、雪下野菜を育てているのに雪下野菜を名乗れないこの冬の異常。そんな切実な危機感を感じたのも今回の旅の経験として残ることでしょう。

お花や野菜などを栽培しつつ、会津の未来に思いをはせる。お二方の取り組みは今後も応援させていただきたいですね。
会津猪苗代激甘フルーツ雪下キャベツ-猪苗代キャベツ研究会さんのページhttps://m.facebook.com/cabbaken/

そこからいよいよ猪苗代駅へ。ここで内田さんとはお別れです。
運転やアテンドなど、内田さんにはとてもお世話になりました。本当に感謝です。
飲んべえが集ってしまい、さぞ大変だったことでしょう。
https://lifull.com/

郡山へ向かう皆さんとは逆に、私は会津若松へ。
街並みを歩き、飯盛山を訪れ、会津若松への見聞を深めました。が、その内容はまた別の記事に譲りたいと思います。

この旅でご縁をいただいたあらゆる方に感謝です!

Twitterまとめ


ラグビーワールドカップがくれたもの


ラグビーワールドカップが南アフリカの優勝で幕を閉じましたね。
開幕戦から優勝戦まで、ほんとうにたくさんの感動をもらえました。選手の皆様、スタッフの皆様、ありがとうございました。

私は、多くの人たちと同じくラグビーのにわかファンです。
ジャパン・ラグビー・トップリーグは六~七年前に秩父宮で一度だけ観戦したきり。前回のイングランド大会で南アフリカを破ったブライトンの奇跡でラグビーの面白さに目覚め、その直後にさいたまブリティッシュ・フェアで日本大会を告知するブースをみて、寄せ書きを書くほど盛り上がったにもかかわらず、結局それ以降、ジャパン・ラグビー・トップリーグも見ることなく、今回の大会のチケットも購入しませんでした。
しょせんは私もにわかだった、ということでしょう。

でも、にわかでもいいと思うのです。
誰でも最初はにわか。これから好きになればよいのです。にわかを恥じることもなければ、揶揄されるいわれもありません。

今回のラグビーの何が良かったって、多様性を実現しながら、日本の良さを体現していたからでしょうね。
それは多くのブログや記事でも指摘されていたから、詳しくは繰り返しますまい。
多国籍でありながら君が代をうたい、献身的なプレイで組織の力を見せつけてくれた。その姿は、今の閉塞する日本をうちやぶる可能性に満ちていました。
だからこそこれだけ国民が熱狂したのでしょう。

これからの日本は移民に頼らなければ立ちいかなくなる。これは明らかです。
もう、今の出生率では日本の国力が高度経済成長期のような発展を見込むことは無理でしょう。技術によって生産性が上がったとしても、既存の経済理論が需給の活性化に依拠しているからです。
どうやって移民を受け入れ、しかも日本の良さを維持するのか。そのヒントをラグビー日本代表「ブレイブ・ブロッサムズ」は与えてくれました。

ヘッド・コーチとコーチは試合中、スタンドから指示をだすだけ。事前の練習やフォーメーションを決めるだけで、実業務は現場の判断に任せる。
そして、15人の選手はキャプテンも含めて全てフラット。等しく走り、汗を流す。ポジションによって役割はあるけれど、そこに上下はなく、皆が目的に向けて奉仕する。

思うに今のわが国は、階層を分けすぎたのでしょう。いわゆる大企業病というやつです。
そこから脱し、再び日本に活力を与えるためには、ブレイブ・ブロッサムズの姿を参考にするのが良いはずです。
多様性をもったメンバーが一つの目的のために集まる。
上下関係をなくし、フラットに目的にまい進する。
そして経営層は過度に現場に介入しない。スタンドから指示を出すようにITを活かしてリモートで指示を出す。

今回のラグビーは競技としての感動だけでなく、組織のあるべき姿に多大なヒントを与えてくれました。
私を含めたにわかファンは、ジャパン・ラグビー・トップリーグの試合に足を運ぶべきです。私もがんばって試合を見くようにします。今回、やっぱりチケット買えばよかったーと後悔したので。
きっと個人としての生き方、組織の中での生き方にヒントをもらえるはずだから。


74回目の終戦記念日に思う


74回目の8/15である今日は、今上天皇になって初めての終戦記念日です。令和から見たあの夏はさらに遠ざかっていきつつあります。一世一元の制が定められた今、昭和との間に平成が挟まったことで、74年という数字以上に隔世の感が増したように思います。

ところが、それだけの年月を隔てた今、お隣の韓国との関係は戦後の数十年で最悪の状況に陥っています。あの時に受けた仕打ちは決して忘れまい、恨みの火を絶やすなかれ、と燃料をくべるように文大統領は反日の姿勢を明確にし続けています。とても残念であり、強いもどかしさを感じます。

私は外交の専門家でも国際法の専門家でもありません。ましてや歴史の専門家でもありません。今の日韓関係について、あまたのオピニオン誌や新聞やブログで専門家たちが語っている内容に比べると、素人である私が以下に書く内容は、吹けば飛ぶような塵にすぎません。

私の知識は足りない。それを認めた上でもなお、一市民に過ぎない私の想いと姿勢は世の中に書いておきたい。そう思ってこの文章をしたためます。

私が言いたいことは大きく分けて三つです。
1.フェイクニュースに振り回されないよう、歴史を学ぶ。
2.人間は過ちを犯す生き物だと達観する。
3.以徳報怨の精神を持つ。

歴史を学ぶ、とはどういうことか。とにかくたくさんの事実を知ることです。もちろん世の中にはプロパガンダを目的とした書がたくさん出回っています。フェイクニュースは言うまでもなく。ですから、なるべく論調の違う出版社や新聞を読むとよいのではないでしょうか。産経新聞、朝日新聞、岩波書店、NHKだけでなく、韓国、中国の各紙の日本版ニュースや、TimesやNewsweekといった諸国の雑誌まで。時にはWikipediaも参照しつつ。

完璧なバランスを保った知識というのはありえません。ですが、あるニュースを見たら、反対側の意見も参照してみる。それだけで、自分の心が盲信に陥る危険からある程度は逃れられるはずです。時代と場所と立場が違えば、考えも違う。加害者には決して被害者の心は分からないし、逆もまたしかり。論壇で生計を立てる方は自分の旗幟を鮮明にしないと飯が食えませんから、一度主張した意見はそうそう収められません。それを踏まえて識者の意見を読んでいけば、バランスの取れた意見が自分の中に保てると思います。

歴史を学んでいくと、人間の犯した過ちが見えてきます。南京大虐殺の犠牲者数の多寡はともかく、旧日本軍が南京で数万人を虐殺したことは否定しにくいでしょう。一方で陸海軍に限らず、異国の民衆を助けようとした日本の軍人がいたことも史実に残されています。国民党軍、共産党軍が、民衆が、ソビエト軍が日本の民衆を虐殺した史実も否定できません。ドレスデンの空襲ではドイツの民衆が何万人も死に、カティンの森では一方的にポーランドの人々が虐殺され、ホロコーストではさらに無数の死がユダヤの民を覆いました。ヒロシマ・ナガサキの原爆で被爆した方々、日本各地の空襲で犠牲になった方の無念はいうまでもありません。中国の方や朝鮮の方、アメリカやソ連の人々の中には人道的な行いをした方もいたし、日本軍の行いによって一生消えない傷を負った方もたくさんいたはず。

歴史を学ぶとは、人類の愚かさと殺戮の歴史を学ぶことです。近代史をひもとくまでもなく、古来からジェノサイドは絶えませんでした。宗教の名の下に人は殺し合いを重ね、無慈悲な君主のさじ加減一つで国や村はいとも簡単に消滅してきました。その都度、数万から数百万の命が不条理に絶たれてきたのです。全ては、人間の愚かさ。そして争いの中で起きた狂気の振る舞いの結果です。こう書いている私だっていざ戦争となり徴兵されれば、軍隊の規律の中で引き金を引くことでしょう。自分の死を逃れるためには、本能で相手を殺すことも躊躇しないかもしれません。私を含め、人間とはしょせん愚かな生き物にすぎないのですから。その刹那の立場に応じて誰がどのように振舞うかなど、制御のしようがありません。いわんや、過去のどの民族だけが良い悪いといったところで、何も解決しません。

それを踏まえると、蒋介石が戦後の日本に対して語ったとされる「以徳報怨 」の精神を顧みることの重みが見えてきます。

「怨みに報いるに徳を以てす」という老子の一節から取られたとされるこの言葉。先日も横浜の伊勢山皇大神宮で蒋介石の顕彰碑に刻まれているのを見ました。一説では、蒋介石が語ったとされるこの言葉も、台湾に追い込まれた国民党が日本を味方につけるために流布されたということです。実際、私が戦後50年目の節目に訪れた台湾では、日本軍の向井少尉と野田少尉が百人斬りを競った有名な新聞記事が掲げられていました。台湾を一周した先々で、人々が示す日本への親しみに触れていただけに、国の姿勢のどこかに戦時中の恨みが脈々と受け継がれていることに、寒々とした矛盾を感じたものです。先日訪れた台湾では、中正紀念堂で蒋介石を顕彰する展示を見学しましたが、そうした矛盾はきれいに拭い去られていました。

でも、出所がどうであれ、「以徳報怨」の言葉が示す精神は、有効だと思うのです。この言葉こそが、今の混沌とした日韓関係を正してくれるのではないでしょうか。人間である以上、お互いが過ちを犯す。日本もかつて韓国に対し、過ちを犯した。一方で韓国も今、ベトナム戦争時に起こしたとされるライダイハン問題が蒸し返され、矛盾を諸外国から指摘されています。結局、恨むだけでは何も解決しない。相手に対してどこまでも謝罪を求め続けても、何度謝られても、個人が被った恨みは永遠に消えないと思うのです。

外交や国際法の観点から、韓国の大法院が下した徴用工判決が妥当なのかどうか、私にはわかりません。でも、日韓基本条約は、当時の朴正熙大統領が下した国と国の判断であったはず。蒋介石と同じく朴正熙も日本への留学経験があり、おそらく「以徳報怨」の精神も持っていたのではないでしょうか。それなのに、未来を向くべき韓国のトップが過去を振り返って全てをぶち壊そうとすることが残念でなりません。そこに北朝鮮の思惑があろうとなかろうと。

戦争で犠牲を強いられた方々の気持ちは尊重すべきですが、国と国の関係においては、もう徳を以て未来を向くべきではないかと思うのです。来年には75年目の終戦記念日を控えています。今年の春に発表された世界保健機関の記事によると女性の平均寿命は74.2年といいます。つまり75年とは、男性だけでなく女性の平均寿命を上回る年数なのです。もうそろそろ、怨みは忘れ、人は過ちを犯す生き物であることを踏まえて、未来へ向くべき時期ではないでしょうか。

一市民の切なる願いです。


平成から令和へ思うこと


 令和の御代がすぐそこに来ています。新たな時代への期待が高まっているのを感じ、私も楽しみです。
 
 今上天皇のご意向による譲位は、国民の間でもさまざまな意見を生んだようです。ただ、私は全く賛成です。そもそも今の伝統を謳う方々の意見をよくよく吟味してみると、明治以降に作り上げた伝統に根ざしているように思えてなりません。光格天皇が譲位したのも十九世紀初めの事。長きに渡った天皇制の歴史でも、つい最近まで譲位が行われていたのです。だから、私にとって、譲位に反対する理由などありません。むしろ今上天皇の誠意を感じたぐらいです。

 今上天皇が象徴となっていただいた平成の世。それは私にとって生涯消えることのない思い出であり続けるでしょう。平成の時代が始まったの私が中学三年生の時。以来三十一年。その期間は、現在四十五歳の私にとって、三分の二を占めています。私が成長し、挫折し、また蘇るまでの日々。中学から高校、大学。そして地震からニートをへて上京、結婚、引っ越し、独立、法人化。そうした私の激動の日々に寄り添ってくれたのは平成なのです。思い出に残らないはずがありません。

 平成という字は、「平らに成る」と書きます。この字面を指して、日本が悪平等に陥った時代であったという説を唱える方もいるようです。皆が平らに成ろうとするあまり、冒険を恐れ、出る杭は打たれる時代。それが長期にわたる不況につながった。確かに一理ある意見です。

 古来、元号の文字には次なる時代への願いがこめられていたといいます。天変地異や疫病が流行する度、凶事を吉事に変えるための改元が行われ、吉兆を祝うためにも改元が成されました。その意味でいえば、平成の前の昭和は、本邦の歴史上でも有数の振幅を示した時代でした。だから、昭和の次の時代は平らかに成って欲しい、との提案者の意図は理解できます。そして願い通り、平成の世の日本は戦争とは無縁でした。災害やテロに苦しめられたとはいえ、総じて良い時代だったといえるのではないでしょうか。

 では次の令和はどういう時代になるのでしょう。令和には政府発表によれば美しい調和の意味が込められているとか。美しい調和。まさに日本のこれからの道を示していると思います。今の日本の一番の問題は少子高齢化です。そのため、移民に門戸を開かねばどうにも社会が維持できない。そのことに異論を唱える方はあまりいないと思います。

 これからのわが国は、諸外国からやってきた移民との調和が欠かせません。わが国は歴史上、何度となく移民の波にさらされてきました。全国各地に点在する「秦野」「太秦」「高麗」「百済」の地名はそれを物語っています。日本はもともと移民で成り立ってきた国なのです。だから移民に対して神経質になることはありません。ただ、今回の移民の波は、多種多様な国・民族を受け入れます。これまでの移民とは質量ともにレベルが違います。そのため、新たに来られた方々によって日本の良さが打ち消されないよう、国民にも意識の向上が求められます。それでいながら移民の方々を調和しながら受け入れ、皆で日本の文化を育てていく必要があるのです。

 元号は不要という意見も聞きます。ですが、私は元号は時代の流れを象徴する、とても良い制度だと思っています。もちろん、情報屋の立場から言わせてもらうと、システムの仕組み上、元号を使うことは不利益でしかありません。ですが、あらゆる年月計算は西暦をベースとし(Unix Timeが2038年までしか用意されていないことは脇において)、元号による表記はあくまでローカライズされた表示用の値とすればよいだけの話。そうすればなんら問題はないはずです。

 むしろ、元号によってわが国の時代の総意が象徴されることのほうが大切ではないでしょうか。私は象徴天皇制には賛成です。そして象徴の立場であり続けるためにも今の皇室は努力されていると思います。今上天皇・皇后の両陛下の姿勢からもその事は感じられます。何度か皇居の奉仕活動に参加した妻は両陛下からの気品を感じ、襟を正したとか。私も先日、こどもの国を訪問された両陛下のお姿をお見掛けしました。そして本稿を書いた前日には、令和の御代の象徴となる皇太子殿下が三年半前に登られたという石老山に登り、富士を眺め、令和に思いを馳せてきました。そうした機会に触れる度、平成への感謝と令和への期待が増していきます。

 ここにきて日本でも多様性を求める声が増えてきています。平らかに成る世から、多様性をベースとしたハーモニーの時代へ。時代は明らかに変化し、しかも良いほうに向かっているはず。私も令和への改元を楽しみに待ち望みたいと思います。


DevRelConに参加して思った技術者のこれから


3/9にサイボウズ社で開催されたDevRelCon Tokyo 2019に参加しました。
この参加は代表である私のキャリアパスにとって得難い経験となりました。なのでレポートとして報告いたします。

昨年の秋からお誘いを受け、私はDevRelJpに参加させていただいております。DevRelのサイトに載っている定義によれば、「DevRelとはDeveloper Relationsの略で、自社製品/サービスと外部開発者とのつながりを作り上げる活動になります。 一般的にエバンジェリストまたはアドボケイターと呼ばれる人たちが活動します。」とのこと。つまりkintoneのエバンジェリストである私にとっては参加するしかないのです。

DevRelのイベントには二度ほど参加しました。そこで感銘を受けたのは、プログラムの内容や設計よりも、いかにして自社またはイチオシのサービスを広めるかに注力していることです。その内容は私の思いにもマッチしました。なぜなら、私は昨年あたりから自分のなかで力を入れるべき重点を変えようとしていたからです。開発者から伝道者へ。技術者から経営者へ。そうしたキャリアパスの移行を検討し始めていた私にとって、DevRelJpへの参加は必然だったといえます。

さて、今回のDevRelConは私ともう一人で参加しました。もう一人とは、とあるイベントで知り合った若い女性。大手企業の安定を捨て、新たな分野に飛び込む志を持った方です。その志に感じ入った私は、ちょくちょくこうしたイベントにお誘いしています。

今回も「こうしたイベントがあるよ」とその方をお誘いしました。ところが当の私がDevRelConのサイトを熟読せずに申し込んだのだから始末が悪い。もちろん、英語のスピーカーが多いなどの断片的な情報は頭の片隅にありました。ハードルがちょっと高いかもしれないというほんのわずかな懸念も。ところがそれぐらいの情報しか持たず、聴きたいセッションも選ばず、ただ申し込むだけというノーガード戦法。

今回の会場は私も何度も訪れているおなじみのサイボウズ社。いつもの動物達がお出迎えしてくれ、ボウズマンもサイボウ樹も健在。日本人の姿も結構見うけられます。自分のホームに帰ってきたような安心感。それもあって甘く見ていたのかもしれません。

そんな私の思いは開催とともに打ち砕かれます。司会進行は中津川さん。DevRelJpでもおなじみです。ところが喋っている言葉は全て英語。ほかの日本人スピーカーも流暢な英語を操っているではありませんか。普段、日本語で喋っているのに、今日に限ってどうしたことでしょう。さらに驚くべきことに、その状況におののいているのはどうやら私たちだけらしいという事実。英語で威勢よく進行する状況を周りは当然のこととして受け入れているのに、私たちだけ蚊帳の外。

普段、こうした技術系イベントでは同時通訳の副音声が流れるイヤホンが貸し出されます。ところがDevRelConにそうした甘えは許されず、全てを自分の耳で聞き取らねばなりません。と、横のサイボウ樹のディスプレイに日英の両方の文章が流れていることに気づきました。どうやらスマートスピーカーが言葉を聞き取り、通訳して文章を吐き出してくれている様子。普段、サイボウ樹のディスプレイは沈黙しています。今回、初めて大活躍の場を見ることができました。ですが、何か様子がおかしい。精度が悪く、ディスプレイにはほとんど意味をなさない文章が流れているのです。たまに口にするのもためらうような言葉も混じったり。話者によってはある程度の長さの文章を拾ってくれますが、流暢なネイティブスピーカーの言葉はほぼ支離滅裂。私たちの目を疑わせます。その内容にはあぜんとしました。流暢な人の言葉こそ、いちばん通訳を求められるのに。

つまりDevRelConとは、英語ヒアリング能力がなければ、まったく理解がおぼつかないイベントだったのです。

うかつにも私はイベントが始まってからその残酷な事実に気づきました。そして心の底からヤバいと思いました。こんな体たらくで10時間以上の長丁場に耐えられるのか、と。一緒に来た方も英語力は私とそう変わらない様子。全く聞き取れない英語の流れる会場で、絶望に満ちた顔を見合わせながら、日本語でヒソヒソと言葉を交わす二人。しかも私はまだ技術的な単語に免疫がありますが、この方は技術者ではありません。なので私など比べ物にならないほどの苦痛を感じていたはず。お誘いして申し訳ない、と思いました。

ところが、そんな私たちは結局最後まで会場に残り、懇親会にまで出席したのです。それはなぜかというと、会場のスピリットが伝わったからです。そのスピリットとは、上にも書いたDevRelの定義「自社製品/サービスと外部開発者とのつながりを作り上げる活動」です。スピーカーのおっしゃる内容は正確な意味は分かりません。ですがニュアンスは伝わってきます。つながりを作る活動。その思いが会場に満ち、私たちの心に何らかの作用を及ぼします。

全てのスピーカーの方々が訴えるメッセージとは、好きなサービスをテーマとしたコミュニティを作り上げ、そこからより活発な発信を行う。それだけのことなのです。それはそうです。DevRelConである以上、DevRelの理念が話されるのですから。そして私たちはまさにそうした内容が知りたくてこのイベントに参加したのです。

そのことに気づいてからは、気持ちが楽になりました。三つ用意された部屋を移り、それぞれでヴァラエティにあふれたスピーカーの皆様のプレゼンを聞きながら、プレゼンの仕方や、画像の挟み方を学びます。そしてプレゼンのエッセンスを必死に吸収しようと集中します。実際、勉強になることは多い。だてに英語の千本ノックを浴びていただけではないのです。絶え間ない英語のシャワーに耳を洗われ、洗練されたスピーカーのプレゼン技術に見ほれながら、私は受け取るべきメッセージは受け取り、自分の中に知見を吸収していきました。

私が得た気づき。それは、日本の技術者が陥っている閉塞感と終末感です。そして切迫した危機感。私にとって英語だけが交わされるこの空間は、余計な雑念を排してくれました。それほどまでに英語だけの環境は新鮮でした。

私も単身でイベントに参加することはよくあります。何十人も集まるイベントで私が知っているのは招待してくださった方のみ。なんて経験はザラです。そこで一分間しゃべる事を求められても動じなくなりました。そのようなイベントに積極的に出るようになったのは法人化したここ三年ぐらいのこと。そんな孤独感に満ちたイベント参加に慣れた私ですら、DevRelConの英語の飛び交う会場からは強烈な新鮮さを受け取りました。強烈な危機感とともに。その危機感は今までも感じていましたが、しょせんそれは頭の中だけの話。上辺だけの危機感です。ところがいざ、英語に満ちたフィールドに身を置いてみると、その危機感がより切実に私に迫ってきました。

Rubyの創始者として著名なまつもと氏も登壇されておりましたが、内容はごく当たり前に英語。本邦で生まれたプログラム言語が世界で使われるすごさ。それは、技術の世界に身を置いていると痛切に感じます。そこにはまつもと氏による地道な発信があったのです。最初は小規模なコミュニティからスタートし、英語で発信を行う。それがある日、拡大局面をむかえる。そこまでの日々にあるのはただ地道な努力のみ。近道はありません。

もしRubyのコミュニティが日本語だけに閉じていたとしたら、当然、今の繁栄もなかったはずです。情報技術が英語を母語として発展したことに疑いをはさむ人はよもやいないでしょう。英語が母語の状況がこれからも覆りようがないことも。例えばExcelやWordのマクロをいじろうとしてちょっと検索すれば、すぐに英語のドキュメントがしゃしゃり出てきます。クラウドサービスのドキュメントも英語まみれ。プログラム言語のドキュメントとなればあたり一面に技術的な英語がバシバシ現れます。それらのドキュメントは日本語に翻訳されていますが、ほとんどは自動翻訳によってズタズタにされ、いたいけな技術者をさらに惑わしにかかります。これからの技術者にとって英語はさらに必須となる事実は、今でも簡単に証明できます。

また、これからの日本には移民がさらに増えてくるはずです。国際的な取引にもますます英語が絡んでくることは疑いのないところ。英語を読み書きする能力もそうですが、会話する能力を磨かないと、これからのビジネスでは通用しなくなると言い切ってよいはず。正直、今までの私はたかをくくっていました。じきにドラえもんの「翻訳こんにゃく」が実用化され、英語を学ぶ必要はなくなるだろう、と。ですがサイボウ樹のディスプレイに流れる意味の分からぬ日英の文章の羅列は、私の甘い見通しを打ち砕きました。「翻訳こんにゃく」の実現にはあと10年はかかりそうです。

もう一つ、このイベントに出て思ったこと。それは日本人の閉鎖性です。異文化にさらされるようになってきた最近のわが国。ですが、しょせんは日本語で囲まれています。コンビニエンスストアで店員をしている諸外国の方も、たどたどしい日本語で頑張って対応してくれています。今はまだ。日本人が日本で暮らす分にはなんの脅威もなく、治安もある程度保たれています。ですが、その状況はこのまま移民が増えても大丈夫なのか、という危機感が私の脳裏から拭えません。その危機感とは治安に対してではなく、日本にいながら日本語が使えなくなることに対してです。すでに、クラウドや技術界隈の奔流が非日本語圏から流れてきています。その現状は、日本語文化への危機感をさらに煽り立てます。

日本人が大勢を占める職場で日本語だけを喋っていれば事足りる日々。実はその状態はものすごく恵まれており、極上のぬるま湯につかったような環境なのではないか。そして、その状況が取っ払われた時、日本人は果たして生き残っていけるのか。日本をめぐる危機がさまざまに叫ばれる今ですが、これから数十年の日本人が直面する危機とは、財政や年金や自然災害によるものではなく、実は文化や言語をめぐる根本的な変化が原因となるのではないか。その時、今の状況に甘んじている日本人はその変化に対応できず、没落するほかないのでは。そんな危機感に襲われました。かつて、新渡戸稲造が英語で武士道を書き、世界に向けて日本のすばらしさを啓蒙しました。英語を自在に操れるようになったからといって、日本の心は消えないはず。むしろより英語が必要になるこれからだからこそ、英語で日本文化を守っていかねば。日本語のみにしがみついていたらマズいことになる。そんな風に思いました。

DevRelConにいるのなら、コミュニケーションを取らねば。まつもと氏とは会話し、握手もさせてもらいました。TwitterブースにいたDanielさんとは英語で会話もし、Twitterのやりとりもしました。夜の懇親会でもさまざまな方と会話を交わしました。ですが、私の英語コミュニケーション能力は絶望的なままです。去年断念したサンノゼのGoogleイベントに今年もご招待されました。ですが今のままでは会話がおぼつかない。それ以前に異文化に飛び込む勇気が私には欠けています。日本のイベントに単身で飛び込むのとはレベルが違う恐怖。まず私が克服しなければならないのはこの恐怖です。

そうした強烈な気づきが得られたこと。それが今回DevRelConに出た最大の収穫だったと思います。まとめサイトもアップされており、私がイベント中に発信したつぶやきもいくつも収められています。

折しも、複雑なアルゴリズムの開発で苦しみ、私自身が技術者としての賞味期限を意識した途端、同学年のイチロー選手の引退のニュースが飛び込んで来ました。その翌日、EBISU Tech Nightというシステム開発会社のイベントで登壇依頼を受け、優秀な技術者の方々へ話す機会をいただきました。スライド

そこで話したのはDevRelConの経験です。簡潔に私の得た気づきを語りました。技術者だからこそこれからの時代でコミュニケーションを身につけねばならない。それにはDevRelConのようなイベントに飛び込んで行くだけの気概を持たないと。そんな内容です。冒頭の自己紹介を英語でしゃべり、盛大に自爆したのは御愛嬌。終わった後の懇親会でも私の趣旨に賛同してくださる方がいました。その方からは殻に閉じこもる技術者がいかに多いかという嘆きも伺いました。どうすればザ・グレート・シタウケから日本の技術者は脱却できるのか。それを追い求めるためにも、私も引き続き精進し、全編フルのスペクタクルに満ちた英語のプレゼンテーションができるようになりたい。ならねばならないのです。


灘五郷の矜持を待ってます。


元旦。今津の大関酒造の隣にある「やまや」に立ち寄りました。その「やまや」は天下の大関の隣に軒を構えています。場所柄、さぞや大関の色とりどりの銘柄が置いてあるはず。そう思いきや。私の思いは裏切られました。種類こそさまざまの日本酒がそろっていました。が、その中で大関は埋もれていました。ラミネート加工されたポップで今津郷や西宮郷の紹介こそされていましたが、これでは量販店の陳列と変わりません。とてもがっかりしました。

灘五郷といえば日本酒の中では不動のブランドのはず。その中の一郷と称されるのが今津郷であり、大関はその代表銘柄のはず。なのに、大関本社の隣にある「やまや」にしてこの扱い。少しは灘五郷について詳しい紹介があるべきではないでしょうか。いや、これは「やまや」のせいではありません。そもそも今の灘五郷の日本酒の状況が「やまや」の陳列に現われたに違いありません。

私が酒蔵通りを自転車で訪れ、やまやに寄ったのも、灘五郷の酒が今の日本酒の中でどのような位置付けなのかを確かめたかったからです。いや、確かめるまでもなく、すでに知っていました。

昨年、私はさまざまな日本酒のイベントにお呼ばれしました。「まさるや2018仲秋 日本酒呑んでる会in町田(9月)」「Tokyo Rice Wine 日本酒の会(9月)」「酒家 盃爛処(10月)」「かもすや酒店(10月)新政呑みくらべ」「中澤酒造株式会社(12月)」の五つです。どれも味わいが繊細かつ多彩。日本酒の世界が深く、広がっている事を如実に感じました。素晴らしい経験だったと感謝しています。ところが、そうした場で私が西宮の出身であることを明かし、灘五郷のお膝元で育ったことを語ります。するとそして、私が地元の酒がおいしくないと感じていたことをいうと皆さんは納得するのです。なぜ?

各地に豊潤な日本酒の世界が実現する中、日本酒の源は伊丹であり、池田であり、灘五郷のはず。ところが今や、私が顔を出す日本酒のイベントで灘五郷の酒に出会うことは皆無。私はそれがすごく不満であり、かつ悔しい。

私は今回、「やまや」であえて大関を買いました。純米の山田錦。果たして何が違うのか。どう呑み心地が替わるのか。その思いで1/2に全部空けました。飲み口は遜色がない。そう思いました。ちょっと後味に酸味が残ってしまうかな、とも。

なお誤解しないように伝えておくと、私はなにも、灘五郷の酒が日本でオンリーワンである必要もナンバーワンである必要もないと思っています。むしろ日本の至る所に意欲的な日本酒メーカーがあり、それらが切磋琢磨している今の状況はとてもすばらしいと思うのです。だからこそ、その中の一つとして、灘五郷の酒は存在感を発揮してほしいと思います。

私は去年、ウイスキーのイベントにいくつか顔を出しました。そこにはサントリーやニッカといった日本を代表するメーカーが出ていました。その姿勢なのです。私が求めているのは。

そのためには、灘五郷という大看板を捨て、大企業の構えを解き、挑戦してほしい。そう思います。機械化だけが、効率化だけが酒造りではないはず。職人の魂がこもった酒に回帰して欲しい。切にそう思います。まずは首都圏のイベントに出て、渾身の灘五郷の味を問うてほしい。矜持を見せて欲しい。例えるなら、ドームツアーを満席にするアーチストがライブハウスを巡るような心意気で。

私の故郷、西宮で誇るべきものはたくさんあります。宮水を擁する日本酒造りもその一つ。甲子園だけが、タイガースだけが、阪神競馬場だけが、阪急西宮ガーデンズだけが、えべっさんだけが西宮ではない。まず西宮が日本に名を轟かせたのは、「下らない」酒の真反対である銘酒のブランドによって。今年は無理でも来年あたり、首都圏のどこかの酒イベントで灘五郷の酒にであえること。私はそれを願っています。


SNSはライフログツール

portrait

はじめに

今回、kintone advent calendarで記事「ライフログのkintone 盛り alasqlとGoogle chartを添えて」を書きました。
記事の中では私はライフログをこう表しました。「システムが行った作業の結果がログ。ウェブ上にログを残すからウェブログ。略してブログ。そして、人生のイベントを記録するのがライフログ。」

記事を書いている私の心に居座っていたのは「私にとってライフログとは何か」です。
いったい、ライフログの本質ってなんだろう。私にとってのライフログは実践可能なものだろうか、と。
その結果、私にとってSNS「ソーシャル・ネットワーク・サービス」がすなわちライフログにほかならないことに気づきました。

人生の意味とライフログ

人は何のために生きるべきか。
これは古来から延々と考え続けられてきたテーマです。人は誰もが死にます。一個人としての意識は死んだ瞬間、消え去る。後には何も残らない。貧富の差も、宗教の違いも、身分の差も関係なく平等に死は訪れる。これは霊界通信を読むまでもなく、生きている人にとって疑いのない真理です。
ただ、それをもって人生をむなしいと捉えるのは間違い。一人一人の個人は、人類という種を構成する一部であると考えれば、私という個人の意識は絶たれても、人類としての存続は続く。そう考えれば死のむなしさの恐怖から逃れられるのではないでしょうか。
そして生の意義とは、人類という種の存続になにがしかの寄与をすることにあると思います。それは子を作り育てるだけではありません。子を養わなくても、人類が存続するため、社会に貢献することだって立派な行いです。
そして私はもう一つ寄与できる事があるのではないかと思います。それは時代の集合意識をのちの世に残すことです。

人類の集合意識。
それは各時代、各地域によってさまざまな形を持ちます。
かつての常識は今の非常識。東のしきたりは西のタブー。だからこそ、古人によって描かれた日記の類が、将来の歴史家にとってその地その時代を映し出す第一級の資料とされるのです。
ただ、一方で現代とは日ごとに膨大な写真や文章が生み出される時代。だから今の時代をトータルで捉えたければ、それらをビッグデータとして解析することで事足りるかもしれません。
ですが、そうしたとらえ方では時代の全体としてしか精神をとらえきれないような気がしています。
一個人としての連続した言動、日々のつぶやきや日記として残された意識の断片をつなげると、そこには一貫した意識が残されるのではないかと思うのです。私はそれこそがライフログの意味だと思います。
だから私自身のライフログが重要なのは私自身よりも、むしろ未来の人々が参照する時代意識の資料としてではないかと思っています。
むしろ私は、ライフログを日々の膨大なイベントを忘れるために使っています。いったんSNSにあげてしまえば、速やかに忘れ去る。必要があれば取り出す。そして一人の個人の生きた歴史としてのちの世に委ねる。個人史のサンプルとして。
私はライフログとはそういう営みだととらえています。

今回の記事をキッカケとして、私にとってSNSとはすなわちライフログの手段、と肚に落ちました。

SNSとライフログ

そもそも人はなぜこれほどSNSにハマるのでしょうか?
自己表現、自己顕示、承認欲求、つながりの明示化、人脈作り、商機の拡大。その動機は人によってさまざまです。
利用者の抱える多様なニーズに合わせ、いかようにも使える可能性があったからこそ、SNSはここまで支持されたはず。
では私にとってのニーズは何か。SNSを通して、発信し続ける理由はなんなのか。それを自らに問うた時、出てきた答えがライフログだったのです。
今回の記事をキッカケに、SNSの意味がやっと見えたように思います。

ここでSNSの一般的な意味を考えてみます。SNSは古くはfriendsterやmixi、LinkedInから、今のFacebook、Twitter、Instagramなどに至るまで多くのサービスが産まれては消えて行きました。
今もまだ、いくつものサービスがしのぎを削っています。全てを合わせるとかなりの利用者数を誇り、ハマる人は1日何時間もSNSに浸っていると聞きます。
SNSはそんなところから企業の生産性悪化の元凶として、また鬱などの元凶として槍玉にあげられる一方、イベント集客やつながりの構築が便利になり、遠方の友人の消息を知るのにも使われています。

さらに考えを進めると、SNSによって特性が違うことにも気づきました。
例えばFacebookです。最近、Facebookばなれがよく言われます。当のFacebookから、よくアンケートを求められ、Facebook自身も危機感をもっている事を感じます。
若年層がFacebookから離れた原因として、中高年のキラキラ成功体験がFacebookに埋め尽くされているのがウザい、という声をよく聞きます。多分私の書いている内容もその一つなのでしょう。

それは、Facebookに書かれる内容の多くが過ぎ去った事という実情に関係しそうです。そう思いませんか?
今日のイベントの結果。こんな食事を食べた。こんな景色を見てきた。こんな内容で登壇した。こんな記事を読んだ。エトセトラエトセトラ。もちろん私自身が書く内容もそう。
そこには実名主義であるFacebookの特質が潜んでいそうです。実名であるがゆえに、未来の展望も控えめにしか書けない。なぜなら書いたことに責任が生ずるから。大風呂敷は広げた以上、きちんと畳まねばなりません。そして未確定な予言である以上、必要最小限のことしか書けない。

それに対し、Twitterは実名も仮名も許されています。
そして140字という制限があるため、そもそも込み入ったことが書けません。つまり理屈や自慢が入りにくい。
わが国のTwitter利用率は諸国の中でも高いと聞きますが、それはおそらくFacebookの実名主義や人との距離感が日本人には合わないからだと思います。むしろ最近の技術者界隈ではTwitterの方が情報発信ツールとして重視されているような感触も持っています。
それもまた、未来志向であるTwitterの特性なのかもしれません。

ただ、過去志向であれ、未来志向であれ、個人を発信することに違いありません。
記事のシェアや他人のつぶやきをRetweetすることだって個人の意見の発信です。つまりはその時々の関心事であり、全てはその人の生きた証です。
よく言われるのが、発信する内容がプライベート寄りだと避けられてしまうということ。
ですが私に言わせると、そもそも対象が公共だろうが閉じたサークル内だろうが、内容が仕事のことだろうがプライベートのことだろうが、発信すること自体がすでに自分の顕示だと思っています。全ては「自分語り」なのです。
SNSとは結局、自分を顕示し、語ると同時に、記録してくれるツールに過ぎません。
でもそれを認めると、かえってスッキリしませんか?。
そして最後に書いた「記録する」という点こそ、SNSがライフログツールである理由だと思うのです。

SNSとは発信する人がその時々で生きる証(行動、言葉、考え)を記録するツールだと考えられないでしょうか。つまりライフログ。
今日何を食べた。こんなキレイな景色をみた。セミナーで登壇した、私はこういう意見がある、他人はこう言っていると紹介する。全てはその人の人生のログです。
ここまで考えを煮詰めてゆくと、私がなぜ今までSNSへの書き込みを続けているのかが腑に落ちました。

もちろん、SNSの重要な機能としてネットワーキングは外せません。ですがネットワークを構築するには、まずあなた自身がどういう人間か開示しないことには、相手もトモダチにはなってくれません。
その意味でもSNSのベースとは自己顕示のツールと考えてあながち的外れではないと思います。

一方で、プライバシーの問題もあります。
自分の行動を開示することによる不利益をおそれる。もっともなことです。
死んだあとにまで自分の行動を詮索されるのはいやだ。そう思う人もいます。当然です。
自分が死んだらライフログもまとめて闇に葬って欲しいと思う。当たり前です。
SNSなどしょせん、ビジネスのつながりが構築できて、その場の承認欲求が満たせればいい、そう思う人もいるのも理解できます。
だからこそSNOWやSnapchatやInstagramのStoriesのような一定時間で投稿が消えるSNSにプライベートな内容を書く利用者が流出しているのでしょう。

そもそも、若い頃はだれもライフログなど興味を持ちません。未来が輝いて見える以上、過去には興味をもたないものです。
私もそうでした。私の20代のころの記録などほとんど残っていません。なので、今になって過去のことをブログに書く度に苦労しています。
そもそも40半ばになった今ですら、過去の記録を覚えていようとも、しがみつこうとも思いませんし。

だからこそ、SNSをライフログツールととらえるとよいのではないかと思うのです。目的は完全にプライベート。将来の自分のために記録するための、今の行動の詳細な情報を忘れてしまうためのツール。
老年に入って死が近づけば「終活」の一環で過去のアカウントを消してしまってもよいし、先に述べた通り時代精神の資料としてのちの世に委ねるのもあり。
当初からSNSをビジネス目的のみで考えず、ライフログの副産物として何かしらの反応があったらそれはありがたく利用させていただく。
こう考えるとSNSへの付き合い方がずっと楽になるのではないでしょうか。
少なくとも私はSNSを巡回し、「いいね」を押して回るのをやめてからは時間もできました。そしてずいぶんと楽になりました。

今回の記事を書いてみて、ライフログとSNSの関係がはっきりするとともに、SNSへの付き合い方への指針のようなものが自分にたったのではないかと思います。
結局のところ、日々の人生は「どう幸せに生き、どう悔いなく死ぬか」にかかっているのですから。


日本代表はこれからも成長し続ける。


ロシアワールドカップが佳境を迎えています。

今朝未明には、日本がベルギーに対して後一歩まで追い詰める戦いを見せてくれました。私もテレビの前で応援していました。そして感動しました。サッカーの試合をみた後、ここまで放心状態になったのは久しぶりです。多分、ドーハの悲劇以来かも。でも、今は日本代表の選手やスタッフの皆さんに激闘をねぎらいたい気持ちでいっぱいです。特に今回のワールドカップの日本代表は攻める気持ちに満ちていたのでなおさらうれしかった。

もちろん、ポーランド戦の最後の8分+アディショナルタイムは、観ていた私もイライラが募りました。でも、よく考えると当然ありうる批判を承知であういう戦術を取ったのだから、それは逆説的に攻めの姿勢だといえます。ポーランド戦のあの時間の使い方にはさまざまな方から多様な意見がでました。それでいいと思います。いろいろな意見が同居してこそ成熟していけるのですから。さまざまな意見は成長にもつながります。私はあのパス回しは、ドーハの悲劇を経験したからこその成長だと思っています。

私は何よりも今回の戦いで日本の成長が感じられたことがうれしかった。感謝です。私にとって日本代表のあるべき姿とは、奇跡でもジャイアント・キリングを成し遂げることでもなく、着実な成長によって一歩一歩成長していくことなのです。ベスト8に行けなかったとしても、成長の結果があれば胸を張れます。なぜならそれは私自身の生き方にかぶるからです。

1993年のドーハの悲劇も同点シーンの直前までテレビ観戦していました。あの同点ゴールの瞬間、私はやきもきしていたあまりに見ちゃいられないと目を離しました。その悔しさから1997年のジョホールバルの歓喜はテレビで目撃していました。そして1998年、日本が初めて参加するフランス大会を応援に行こうと一念発起しました。スコットランドの蒸留所で働きながら、フランスへ休暇をとって遠征しようと。英文で蒸留所に履歴書を送りもしました。結局、渡英も渡仏もできませんでしたが、そのエネルギーは単身東京に出て一人暮らしする推進力となりました。上京した私は、2002年の日韓ワールドカップをスカパーのカスタマーセンターで体験しました。それはまさにワールドカップ景気の真っただ中でした。以来、2006年、2010年、2014年と毎回テレビで観戦しています。日本代表がワールドカップで戦う日々は、私が勤め人から個人事業主へ独立し、家族や家の問題で悩む私の人生の浮き沈みと軌を一つにしています。だからこそ、今回の日本代表チームがオフェンシブな姿勢を見せてくれたことがうれしいのです。守りではなく攻めの姿勢でいてくれたことが。

私の人生には失敗もたくさんあります。それは全て攻めの姿勢から出た失点です。でも、私は後悔していません。その失敗は私の糧となりました。ちょうど日本代表がドーハの悲劇で攻め続けたことで逆襲を食らい同点にされた経験を、今回のポーランド戦で生かしてくれたように。それが成長の証なのだと思っています。そして、批判されたポーランド戦の振る舞いを倍返しするかのように、ベルギー戦では躍動する姿で見返してくれました。ベルギー戦の最後のカウンターアタックも、性急に攻めたとの批判をあるようですが、私はそれを含めて誉めたいとおもいます。その姿は守りの姿勢では日本代表は強くなれないことの何よりの証明です。そして人生も守りに入るとそこで成長は終わりです。

おそらくファンの方には性急な結果を求める人もいることでしょう。ベスト8に進みたかったと。でも、私には今回の戦いで日本が成長していることを世界の人々に分かってもらったことで十分です。そしてピッチの中だけでなくスタンドでもそう。サポーターの皆さんがスタンドの清掃を率先して行うことで、日本が世界の中で存在感を見せてくれました。ベルギー戦の敗戦後もロッカールームをきちんと清掃した日本代表の姿も称賛されました。

私がサッカーを見始めたころの日本にとって、ワールドカップとは夢の世界でした。三菱ダイヤモンド・サッカー(かつて放映していたテレビ番組)の中で髪を振り乱して疾走するマリオ・ケンペスの姿に印象を受けた頃、私は日本がワールドカップに出られるなんて考えてもいませんでした。それから30何年。いまや日本は世界から称賛される国になりました。これを成長と呼ばずして、何と呼ぶのでしょう。成長を続けていけば、いずれは日本もベスト8に勝ち残り、ゆくゆくは決勝の舞台を戦うことだってあるでしょう。私が存命中に日本のキャプテンがトロフィーを掲げる姿が見られることもあるはず。女子がすでにそれを成し遂げているのですから。

私はサッカーと政治を結び付けることはくだらないと思います。政治とは関係なく、まずサッカーでさらなる成長を遂げること。それが望みです。そして日本サッカーの成長を楽しみながら、これからの人生を歩みたいと思っています。その望みを叶えるためには、もっと関心が高まらないと。日本が敗退したから「はい、ワールドカップみるのやんぴ」というのではなく、引き続きサッカーを見てほしいのです。これから準々決勝、準決勝、決勝と世界の強豪チームによる素晴らしい試合が見られるはず。今回も私が観た中でスペインVSポルトガル、アルゼンチンVSフランス、日本VSセネガル、日本VSベルギーといった名勝負がありました。同じように素晴らしい試合をまだ楽しめるはず。決して一過性のブームでやり過ごすのではなく、サッカーを楽しみ、サッカーに興味を持ってほしい。人々が祭りだけでなく、普段からサッカーに関心を持ってくれれば日本はさらに成長できるはず。

そんな私もここ十年ほどは、J1、J2の試合を年に一度見に行くぐらいの、ワールドカップの時に湧き出るにわかサッカーファンの一人に成り下がっていました。だからこそ私は、今回の日本代表の戦いに感銘を受け、これではいかんと思いました。そんなわけで、弊社にできることといえば地元チームのサポートです。今回、弊社は地元の町田ゼルビアの一口サポーターになりました。まだ弊社には余裕がないので一口しかサポートできませんし、オフィシャルサイトに名前も載りません。そもそも登録してくれたのはうちの妻ですし。ですが、私もこの機会に町田ゼルビアをまた応援しようと思います。町田ゼルビアは娘たちがチアリーディングチームに属し、お世話になったチーム。私もその頃は何度も観戦に行きました。なので、この機会にまず地元から協力しようと思います。そしてここ二年ほど、応援にも行けていないので、サポーターに登録したことを機会にゼルビアの試合から観に行こうと思います。日本がより強くなるためにも。


弁論の力


先日、一人で相模原の旧津久井町にある尾崎咢堂記念館に行ってきました。

尾崎咢堂翁は、またの名を尾崎行雄ともいい、明治から昭和にかけ政界で重きをなした方です。「憲政の神様」の異名も持ち、憲政記念館の中庭には銅像も立っています。憲政記念館自体、もともと尾崎咢堂を記念して建てられた建物。国家議事堂のそばに建つ憲政記念館を訪れるとすぐに翁の銅像に出会えます。私は昨年、二度ほどセミナーで憲政記念館を訪れました。そして中庭に立つ咢堂翁の銅像と対峙し、手前にある碑に刻まれた翁の言葉を心に刻みました。その言葉とは、
「人生の本舞台は常に将来にあり」
これは、私が常々思っていることです。



尾崎咢堂記念館は、私が結婚して町田に住みはじめてすぐの頃に一度行ったことがあります。自転車で寄り道しながら十数キロ走って記念館にたどり着いたのは夕方。すでに記念館は閉まっていました。以来、18年の月日が流れました。記念館の付近は橋本から相模湖や道志へ向かう交通の要です。18年の間には何度も通りかかる機会もありました。それなのに行く機会を逸し続けていました。しかし、憲政記念館で尾崎翁のまなざしに接したことがきっかけで、私の中で記念館を一度訪れなければとの思いが再燃。この度、良い機会があったので訪れました。

翁の生涯については近代史が好きな私はある程度知っていました。憲政記念館の展示でも振り返りましたし。少しの知識を持っていても、翁の生誕地でもある記念館に訪れて良かったです。なぜなら、生涯をたどったビデオと、展示室で館長さんから説明いただきながら振り返った翁の生涯は、私い新しい知識を教えてくれたからです。翁の生涯には幾度もの起伏があり、その度に翁はそれらを乗り越えました。その中で学んだことは、翁が憲政の神様と呼ばれるようになった理由です。その理由とは、弁論の力。

尾崎咢堂翁の生涯を追うと、幾度かのターニングポイントと呼べる時期があります。そこで翁の人生を変えたのは、文章の力です。若き日に慶應義塾で学んだ翁が福沢諭吉に認められたのも論文なら、福沢諭吉の紹介で入社した新潟新報でも論説の力で台頭します。

ただ、そこからが違う。翁が神様と呼ばれるまでになったゆえん。そこには弁論の力がありました。まず、翁が認められ、新潟から東京に官僚に取り立てられたきっかけは講演です。政治の世界に入ってからも、桂首相弾劾演説や、普通選挙法の決議を訴える翁の遊説は全国に尾崎行雄の名を轟かせました。国が右傾化する中、翁は議会の壇上で弁論によって軍に反抗し、議会制民主主義の良心を訴え続けます。


世界に類をみない63年もの議員生活。それを支えたのは文章力に加え、弁論の力だった。特に後者の力が翁を世界的な影響力を持たせた。その影響力は、戦争中に米軍が巻いたビラの中で翁は日本における自由人の代表として挙げられています。私は、記念館でそのことを教えられました。そしてその気づきを心にしっかりと刻みました。

ひるがえって今、です。

いまは誰もがライター、誰もがジャーナリスト、誰もがインフルエンサーの時代です。しかもほとんどが志望者。バズれば当たるが、ライバルは無数。いつでもどこでも誰もが世界に向けて文章を発信でき、匿名と実名を問わず意見を問えます。ですが、誰もが意見を発信するため、情報の奔流の中に埋もれてしまうのがオチ。あまりの情報量の多さに、私はSNSからの情報収集をやめてしまいました。最近は論壇メディア(左右を問わず)や書籍から情報を絞って取り込むようにしています。

そんな今、無数の発信者の中で一頭地を抜く方々がいます。それらの方々に共通するのは、弁論の力、です。

例えば、経営者がプレゼンの達人である会社。いわゆるトップ営業を得意とする企業には活気が漲っている印象を受けます。代表的な人物は米アップル社の故スティーヴ・ジョブズ氏でしょう。また、いわゆるインフルエンサーと呼ばれる方々は、ブログやツイートだけでなく、イベントでのトークがもてはやされます。また、文章での表現に秀でた方は、講演にも秀でている方が多い。そんな印象を受けます。

実際、彼らのトークを聞くと、何かしら心が高揚します。そして、高揚した気持ちとトーク内容が積極的に記憶されます。正直なところ、トーク自体に含まれる情報量は、文章よりも少ないことがほとんどです。しかし、記憶に残っているのは文章よりもトークの内容。そんな経験をされた方もいるのではないでしょうか。

なぜか。考えてみました。

多分、感情と理性がうまく脳内で混ざり合った時にこそ、情報は記憶されるから、というのが私の素人なりの考えです。文章を読む時、人の脳は理性が勝る。そこには感情の関わりが薄い。その一方、手練れの講演者は間に笑いを挟み、聴衆の注意を引きつける。笑うことは感情を刺激し、聞いた内容を脳内に刻む。そのため、講演内容が記憶され、肚に落ちる。私はそんな風に考えています。また、講演をじかに聞く時、私たちは視覚と聴覚を使います。文章を読むときは視覚だけ。その差もあると思います。

つまり、今や文章をアップするだけではだめなのです。もちろん発信することは大切です。ただそれだけでは無数のネット上の文章に埋もれます。文章に加え、人前で弁論をふるい、視覚と聴覚で訴えるスキルが求められると思うのです。それは私のように普段から商談に臨む者にとってみればスキルの延長です。もちろん、提案書だけで一度も会わずに受注いただくこともあります。でもそれはレアケース。一対一の商談に加え、一対多でも表現して、発信するスキル。人前でしゃべる機会を持ち、スキルを磨くことで受注ばかりか、引き合いの機会も増えてゆく。その取り組みが大切なのだと思います。それは私のように経営者だけに限りません。勤め人の方だって同じです。日々の業務とは自己発信のよい機会なのですから。

私は三年前に法人化しました。それからというもの、文章でアピールするだけでは今の時代、生き延びられないと考えていました。それでおととしはしゃべる機会を増やしました。人前でしゃべる技術。それは一朝一夕には得られません。とくに私のようにプログラミングをしていたらプログラマーに、システムの構成を考えていたらシステムエンジニアに、文章を書いていたらライターになってしまう要領の悪い脳を持っている人にとっては切実に欲しいスキルです。

ところが昨年の私は年末に総括した通り、開発やブログを書くことに集中してしまいました。人前で発信する機会は一、二度とほど。サッパリでした。失敗しました。売り上げこそかろうじて前年比増を達成したとはいえ、それでは今後、生き残れません。去年の失敗を挽回するため、今年は人前で話す機会を増やしています。ここ数日も人前で二、三度しゃべりました。その一度目の成果として、明日5/16にサイボウズ社本社で行われるセミナーに登壇します。リンク

明日に向けてリハーサルも何回か行い、内容は練りつつあります。が、まだまだ私のトークスキルには向上の余地があるはず。少なくとも尾崎咢堂翁のように人に影響を与えるには、さらなる研鑽が必要です。そのためにも今回に限らず、今年は積極的にお話しする機会に手を挙げるつもりです。私の知己にも、紙芝居形式のプレゼンを行う方や人前で話すことに長けた方がいます。そういった方の教えを請いつつ、少しでも尾崎翁に追いつきたいと決意を新たにしました。

弁論の力こそ、ポストA.I.時代を生きるすべではないか。そんな風に思った尾崎咢堂記念館でのひと時でした。


長崎の旅 被曝都市からの再生


遅くまでホテルの部屋で仕事をしていた私ですが、朝は普通に起きました。朝ごはんはハウステンボスで買い込んだパン。いわゆるホテルバイキングではありませんでしたが、これがなかなかうまい。満足です。私は早速、駅レンタカーを予約しておいたJRハウステンボス駅に向かいます。昨日学習したとおり、園内を突っ切ることができないため、外周道路を歩いて向かいます。

東京ディズニー・リゾートは、外周道路からパークの内部が見えないように配慮されています。しかしハウステンボスはそうではありません。普通に歩いていても、ハウステンボスのバックルームが丸見えです。確かに、私が歩いた道は観光客の通らないルートです。とはいっても、私みたいに歩いて駅まで向かう酔狂な客はたまにいるはず。そういった好事家には、スキがありすぎ。でもそういう開けっ広げさも、ハウステンボスの魅力が雑多さであることを発見した後では、好ましく思えます。

駅に着いたはいいけれど、レンタカー屋さんの開店まで時間があります。その間を利用して駅を撮りまくります。駅の裏手は国道205号が通り、山が国道の際まで迫っています。どこにでもある田舎の光景。これが面白い。ハウステンボス側が美しいだけに、ギャップとして私に迫ります。東京ディズニーリゾートを擁する舞浜駅の裏に洗練された住宅街が広がっていることに比べ、こちらにはそういった見た目を繕う努力すら感じられません。むしろすがすがしいほどです。

ホテルに車で戻り、ホテルの前に広がる大村湾を眺めながら荷物を積み込みます。波のない凪いだ海。とても静かです。ハウステンボスという日本有数のテーマパークにいながら偉大な辺境にたたずむ解放感に包まれます。名残惜しいですが、長崎に向けて出発です。米海軍針尾住宅地区の物々しく警備された正門を見つつ、西海パールラインという有料道路に乗って南下していきます。大串インターで一般道に合流した後も、長崎の田舎風景は健在です。長崎オランダ村の跡地をみたり、バイオパークの看板に惹かれたりしつつ、ドライブは続きます。琴浦や時津といった街々を過ぎてゆくと、少しずつ車の量は増え始めてます。そしていつしか、道ノ尾駅前という看板が現れます。道ノ尾駅といえば、長崎の原爆を扱う記録に幾度となく登場する駅です。

長崎市内に入ったわれわれはまず、長崎駅によりました。そこで妻がおススメと買ってきた岩崎本舗の角煮まんをほおばります。とてもおいしかった。朝はハウステンボスのパンだけで、何も食べずにここまで来たのでなおさらおいしく感じました。

さて、私が車を止めたパーキングは、爆心地公園と平和公園の間にあります。目の前を国道206号線が通り、交差点で交わる道路は浦上天主堂へと続いています。後で思い返すと、原爆の遺構を歩いて回るには最適な場所だったようです。

駐車場の脇から目の前を登ってゆく階段をいき、高台へ設けられた平和公園に足を踏み入れます。そしておびただしい数の慰霊碑を視野に入れつつ平和祈念像へと向かいました。この像こそ、私が昨日読んでいた「ナガサキ 消えたもう一つの「原爆ドーム」」で取り上げられたテーマである、長崎が被爆したシンボルを後世に残すべき、に直結しています。

今、被爆都市ナガサキのシンボルはこの平和祈念像が担っています。ヒロシマの原爆ドームが持ついかにもな廃虚感は平和祈念像にはありません。「ナガサキ 消えたもう一つの「原爆ドーム」」の著者が非難するのは、浦上天主堂の廃虚を被爆のシンボルとせず、米国の対外宣伝策に乗せられ、新たな天主堂に建て替えてしまったことです。そして、実質的に浦上天主堂の廃虚の代償として建てられたのが平和祈念像なのです。この平和祈念像は、長崎市の公式観光ページの説明文を引用すると「制作者の長崎出身の彫刻家北村西望氏はこの像を神の愛と仏の慈悲を象徴とし、天を指した右手は“原爆の脅威”を、水平に伸ばした左手は“平和”を、軽く閉じた瞼は“原爆犠牲者の冥福を祈る”という想いを込めました。」とあります。私は、この説明の主旨や平和祈念像自体に何も含むところはありません。平和祈念像は後世に伝えられるにふさわしい。「ナガサキ 消えたもう一つの「原爆ドーム」」を読んだあとも、平和祈念像を眼前にした後でもその思いは替わりません。この後訪れた浦上天主堂や原爆資料館に行った後でもそうですし、これを書いている今もそうです。

ですが、一つだけ言えることがあります。それは、責任の不在です。責任の不在とは、ヒロシマの原爆死没者慰霊碑に書かれた「安らかに眠って下さい 過ちは繰返しませぬから」の文言が引き起こした議論でもおなじみです。ここでいう”過ち”が日本を指すのか、アメリカを指すのか、責任はいったいどこにあるのか。ヒロシマの原爆死没者慰霊碑の文言が問いかける主体は何か。そして平和祈念像は責任の所在を示さず、巨大な像として鎮座しています。

昨日のハウステンボスのエントリーでも書きましたが、私が長崎に来たのは16年ぶりです。けど、その時は平和祈念像には訪れませんでした。新婚夫婦が訪れたのは、オランダ坂やグラバー邸、出島、大浦天主堂といった異国情緒の長崎です。原爆資料館や爆心地といった反核平和のナガサキではなく。ですから、私が前回、平和祈念像の前に立ったのはさらにさかのぼること5年。ですから21年ぶりです。

その時は学生時分の気楽さもあり、直前までヒロシマにいました。8/5の朝は原爆ドーム前でテントを立てて野宿して迎え、翌日の投下50周年の投下時刻にはダイ・インにも参加しました。つまり、50年の節目に揺れるヒロシマをそれなりに経験し、ナガサキに乗り込んだといえます。ですが、当時の私は平和祈念像に何の違和感も感じませんでした。そもそも当時は長崎原爆資料館が建て替え中で、ナガサキの原爆の生々しさにあまり触れることができませんでした。ましてや、被爆のシンボルが米国の意向で撤去されたという知識もなく。

ですが、今回は違います。私も40歳を過ぎ、少しは知識がついてきたはず、といううぬぼれがあります。その目でナガサキをきちんと見てまわろうと思って乗り込んでいます。娘たちにナガサキの惨禍を知ってほしい。私自身にも被爆の実相を見せたい。そんな思いで街を歩きます。その目でみたナガサキは、普通の街でした。

まず、平和祈念像の横にある「被爆者の店」に立ち寄ります。長崎の物産を扱うこの店で、私が目にとめたのは書籍コーナー。川上郁子という方が書かれた「牧師の涙 あれから六十五年 老いた被爆者」に惹かれ、少し中身をめくります。著者は官能小説作家として著名な川上宗薫の義理の妹だといいます。内容は、有名作家になってもまったく長崎に帰ってこない義理の兄への恨みつらみでした。この本によると、宗薫自身が被爆死しかけ、母と二人の妹を原爆で喪ったにも関わらず、その事実を作品にほとんど著そうとしなかったとか。発言できる立場にいながら、ナガサキの被爆を語りたがらなかった、ナガサキを遠ざけ続けていたという事実にとても興味を惹かれました。私は川上宗薫の小説は一冊も読んだことがありません。なので本書を購入しようか迷ったのですが、今回は断念しました。

今回の長崎の被爆地巡礼の旅は、妻のリクエストでもありました。詳しくは書きませんが、妻は長崎にある思い入れがあります。なので、今回の被爆遺構巡りの案内は妻に任せます。続いてわれわれが向かったのは永井隆記念館。被爆者として妻を亡くしながら被爆者の治療にあたり、放射線医師としての立場から著した諸作品はよく知られています。記念館の屋外に当時のまま如己堂が残されています。じっくりと見ました。私は如己堂は初めて訪問します。この狭さに起居しながら、命を削って自身の想いを伝えようとした永井博士の意志に頭がさがります。

実は「ナガサキ 消えたもう一つの「原爆ドーム」」では永井博士は批判的に論じられています。この本でもっとも批判を受けているのは、移設に関わった当時の二人の人物です。浦上天主堂を統括していた山口司祭と田川長崎市長。彼らは著者の非難をもろに浴びています。そして永井博士は彼らに比べると舌鋒は緩めですが、原爆投下を神の摂理と受け入れた永井博士の考えは到底受け入れがたいと、批判の目が注がれています。

しかし、永井博士は別の場所では被爆直後の時期に違うことも言い残しています。原子力の平和利用のため、科学研究が必要、と。これは、なかなかいえないことだと思います。永井博士の言葉の一部を切り取ってあげつらうのは、永井博士の想いを誤解しかねない気がするのです。永井博士だけではありません。どうも、長崎の方は、被爆を被害者として受け取らないように思えます。当時の田川市長は米国の思惑を忖度して転向しただけかもしれません。ですが、山口司祭はなによりも浦上天主堂の再建を考えたようです。また、本島長崎市長が発した昭和天皇の責任問題や、原爆投下は日本軍の犯罪行為の報いだ、という言葉はまだ記憶にも新しいです。

そういった長崎の人々のこころを理解するために、本来ならば永井隆記念館に入ってみるべきだったのでしょう。ですが、今日のスケジュールではとても無理でした。残念なことに。

続いてわれわれは、高台に見える浦上天主堂に向かいます。ここもわたしにとっては初訪問。そして「ナガサキ 消えたもう一つの「原爆ドーム」」がいうもう一つの原爆ドームとは、被爆遺構の浦上天主堂のことです。ナガサキの被爆のシンボルになりえたのに、建て替えでその機会を永遠に逸した、と著者に嘆かせている場所です。街を歩いていると、あちこちから丘に建つ天主堂が見えます。宗教の施設という見方を抜きにしても、見事な外見です。ここが原爆ドームの廃虚のように今もなお遺構のまま立っていたら、と惜しむ気持ちはわからなくもありません。きっと原爆投下という人類屈指の愚行の証人として長崎のシンボルになっていたことでしょう。原爆ドームのように。グラバー園や眼鏡橋、大浦天主堂よりも、誰もが真っ先にナガサキのランドマークは天主堂として思い描くくらいに。

でも、長崎の街を歩いていて思いました。高台に建つ浦上天主堂は思った以上に目立ちます。今でもそうなのですから、建て替え当時のまだ原子野の気配が濃厚な長崎にあっては、その姿はより目立ったことでしょう。広島の原爆ドームは、大田川沿いで見晴らしのよい場所にあります。でも、高台にはないので街中から見えません。でも、浦上天主堂は常に目に付く場所にたっています。ここが今もなお、被爆の遺構の姿を残していたらどうなっていたでしょう。多分被爆のシンボルではあり続けたことでしょう。でも、それはナガサキの街を今以上に被爆の街として縛ってしまっていたように思うのです。ですが、私が歩いた浦上地区は、平和公園、爆心地公園、長崎原爆資料館の一角を除けば、普通によくある坂の多い街でした。それは浦上天主堂が遺構でなかったから、と仮定するのは言い過ぎでしょうか?街を歩いてみて、ナガサキとヒロシマの被爆のシンボルに対する考え方の違いは、地形にあるのではないかと思うようになりました。

ナガサキが被爆の街として世界の非核化の旗印となるべきか。今もなお、被爆の街として世界にメッセージを発信し続けるべきか。それは、長崎の人が決めるべき話です。私のような長崎に縁の薄い人間がどうこう言う話ではありません。なので、今の浦上天主堂が荘厳な姿で立っていることに、今さら反対も賛成もありません。実は当初「ナガサキ 消えたもう一つの「原爆ドーム」」を読み終えた後は著者の意見に賛同していました。ですが、こうやって街を歩いてみて賛同の意見が揺らぎました。

被爆のシンボルを残すべきか建て替えるべきか。果たしてどちらが良かったのか。長崎に被爆のシンボルがない事は、確かに後世への痛恨事だったと思います。特に同じ被爆都市ヒロシマとナガサキを比べるとその差は歴然としています。ヒロシマは今や世界遺産である原爆ドームを擁しています。昨年、オバマ米大統領がヒロシマを訪問し、原爆慰霊碑に献花したニュースがありました。そしてオバマ大統領がナガサキに足を延ばすことはありませんでした。毎年挙行されている長崎原爆犠牲者慰霊平和祈念式典は全国ニュースでもあまり中継されていないようです。ナガサキは被爆都市でありながら、被爆を訴える発信力がヒロシマに比べて弱い。それは当の長崎の皆様が感じていることだと思います。ですが、それは他の地域の方が言うべきことではないと思います。ナガサキの皆様で決めていただくことだと。

われわれは永井隆記念館から歩を進め、浦上天主堂の立つ丘のふもとに着きました。堂々とした天主堂を見上げながら近づき、目にしたのは側溝に落ちた鐘楼。いわゆる長崎の鐘が被爆前まで収まっていた被爆の証人です。実は天主堂の被爆遺構はすべてが撤去されたわけではなかった。被爆の痕跡などなかったかのようにそびえ立つ天主堂の下には、被爆の瞬間を今に伝える遺構が生々しく遺されている。この対照的な景色が持つ意味は、この場に来てみなければ決してわからなかったと思います。

鐘楼の遺構が残されていることは、被爆のシンボルとして天主堂を残さなかったことのささやかな代償だと思います。私は、溝に落ちたままの無残な鐘楼の残骸と、空へと向かう壮麗な天主堂の姿を見比べながら、しばし鐘楼の前にたたずみました。ボランティアガイドの方が鐘楼を由来を修学旅行生に説明している姿が印象的でした。

丘の上に登ると、浦上天主堂の壮麗な建物が目の前に現れます。浦上とは、切支丹禁制の時代からこの地で信仰を守り続け、幾度もの浦上崩れと呼ばれる迫害に耐えた信者の地。天主堂を残骸としてではなく、信者のために建て直したいという当時の山口司祭の願いは理解したいと思います。

礼拝堂の中は撮影禁止でしたが、教会のもつ特有の静けさに包まれていました。見学して、外に出ようとした私は、首だけの小さな像に気づきます。これこそが被爆のマリア像。被爆のマリア像は崩壊した天主堂から首だけ救い出され、45年間各地を転々としたあと天主堂へと戻された数奇な運命の持ち主です。マリア像の、両眼を失い、右ほほに傷を負った姿の前から私はしばらく動けませんでした。その間に私が思ったのは、被爆のマリア像に課せられた使命です。天主堂が再建されたことで、天主堂は被爆のシンボルでなくなりました。日本の中でも一番西洋の宗教を受け入れてきたナガサキを、西洋自身が破壊した罪。その罪を後世に伝えていく役割は本来は天主堂が担うはずでした。しかし、天主堂の遺構はすでにありません。爆心地公園に遺構の一部と、長崎原爆資料館内のジオラマとして再現されているのみです。ですが、この被爆のマリア像が原爆の悪魔的所業を伝える何よりの証人となってくれることでしょう。アメリカが自身の宗教的なバックボーンを破壊し、ミサ中だった信者たちを熱線と暴風と放射線で殺戮した事実。その事実はアメリカの罪の意識をさいなみ、天主堂を再建させようと働きかけさせました。ですが、天主堂の遺構は消えても、被爆のマリア像にはその痕跡が残り続けるのです。西洋文明の母性の象徴をこのように傷つけ汚した証が、被爆のマリア像にくっきりと残っています。そして今も行方不明のマリアの両目は、きっとどこかであの閃光を映し続けているに違いありません。

わたしは、側溝の鐘楼と被爆のマリア像を見て被爆のシンボルがナガサキから撤去された経緯を問うことはやめました。「ナガサキ 消えたもう一つの「原爆ドーム」」にナガサキの被爆のシンボルが撤去されるまでの経緯は書かれています。その是非を私が判断することはもうありません。結局、長崎に縁のない私がそれをどうこういう必要はないのです。もちろん、キリスト教の文化が根強いナガサキに同じ西洋人が悪魔の兵器を落とした事実は消えません。神を信ずるクリスチャンの頭上に、残虐な兵器が落とされた意味も忘れるわけにはいきません。しかし、アメリカの意向によって遺構が撤去されたとしても、原爆がキリスト教会の上に落とされた事実は消えないのです。そのことは、浦上天主堂の前庭に立つ、被爆して焼けただれた神父像も無言で語っています。

続いてわれわれは信徒会館にも向かいます。ここにも残骸の破片が残されています。それは原爆資料館の展示に比べるといくぶんぞんざいに扱われているようにもみえます。でも、被爆のマリア像と側溝の鐘楼が残されている限り、教会自身も原爆を落とされた事を忘れないと思うのです。

続いて、長崎原爆資料館へと歩いていきます。途中、ファミリーマートで少しだけジバニャンマンをおなかに入れ、横のフルーツいわながさんでおいしそうな果物を買って帰ります。原爆資料館へ向かう道を歩いていると、「被爆国首相よ 八月六日九日を人類総ザンゲの日として休日に制定せよ」というビラが貼られています。その近くには鯨料理の店があるのがなんだかおかしい。

坂を上がってゆくと碑が多数現れ、そこは長崎原爆資料館。初めて長崎にきてから21年。ようやく来ることができました。入り口にはオバマ大統領が来日した際、機内で折ったという千羽鶴が飾られていました。原爆資料館の展示については、今さら私がいうことはありません。ただ原爆の非人間性を思いしるのみです。私一人、じっくり見ました。妻子は、展示は見てくれたのでしょうが、先に出て待っていました。そして時刻は、長崎を出発していなければならない時間をとうに過ぎています。私はこういう資料館にきて、時間の許すままじっくり観覧した経験はほとんどありません。毎回、最後のほうは駆け足になってしまいます。

出がけに売店で、記念館に行けなかった埋め合わせに永井隆博士の著書を買い、山口彊さんの二重被爆の本も買います。これらのレビューは後日アップしたいと思います。そして資料館を出て爆心地公園へ。ここには爆心地を示す碑とともに、浦上天主堂の廃虚の一部が移築復元されています。それらも写真だけ撮影して車に急ぎます。雨も降ってきました。出発するべき時刻はとうに過ぎています。

そこから、車を飛ばして福岡へ。天神の繁華街を焦りながら車を走らせます。妻子を薬院駅の近くで下ろし、私は博多駅のレンタカー返却場所へ向かいます。そこから地下鉄と西鉄を乗り継いで薬院へ。妻の昔からの知り合いであるLucaさんは、私にとって初めての訪問でしたが、とてもおいしかったです。今日一日、食事は控えめにしていたのですが、その甲斐がありました。

そのまま地下鉄で福岡空港へ。そして羽田行きの便へ。そして羽田からは家へと。なんとか日が変わる前に帰れました。昨日のハウステンボスと今日の長崎、福岡のあわただしい二日間が終わりました。ですが、とても楽しみました。そして長崎の街を少し理解できたように思います。また、行きたいと思っています。


長崎の旅 ハウステンボスの魅力について


妻と二人で長崎を旅したのは2000年のゴールデン・ウィークの事です。前年秋に結婚してから半年が過ぎ、一緒の生活に慣れてきた頃。そんな時期に訪れた長崎は、妻がハウステンボスでつわりに気付いたこともあり、とても思い出に残っています。

それ以来16年がたちました。娘たちを連れて行きたいね、と言いながら仕事に雑事に追われる日々。なかなか訪れる機会がありませんでした。今回は妻が手配し、娘たちを連れて家族での再訪がようやく実現しました。うれしい。

2016/10/30早朝。駐車場に車を停め、踏み入れた羽田空港第一ターミナルは人影もまばら。諸手続きをこなし、搭乗口へと。私は搭乗口の手前の作業スペースでノートPCを開き、搭乗開始を待ちながら作業します。家族四人揃っての飛行機搭乗は11年ぶり。ハワイに旅行して以来のことです。実は私にとっても飛行機搭乗は10年ぶりとなりました。今回はスカイマークを利用したのですが、LCC(Low Cost Carrier)自体も初めての利用です。機内ではスカイマークデザインのキットカットが配布され、旅情を盛り上げてくれます。

やはり飛行機は速い。2時間ほどで福岡空港に着陸です。私にとって九州に上陸するのも前回のハウステンボス以来です。心踊ります。ただでさえ旅が好きな私。海を渡ると気分も高揚します。空港のコンコースを歩く歩幅も二割り増し。目にはいるすべてが新鮮で、私の心を明るく照らします。

福岡市営地下鉄に乗るのは20年ぶり。全てが懐かしい。ちょくちょく福岡に来ている妻に交通の差配は任せ、JR博多へ。みどりの窓口でハウステンボス号のチケットを購入し、いざホームへ。お店を冷やかし、パンフレットを覗き、街ゆく人の博多弁に耳を澄ませます。よかたいばってん。旅情ですね。

ホームに降り立つと、フォルムも独特なJR九州の車両群がホームにずらりと並んでいます。その光景に浮き立つ気分を抑えられません。鉄ちゃんじゃなくともワクワクさせられる光景です。もともと妻がJR九州には良い印象を持っていて、ユニークなデザインの車両については妻から話を聞いていました。私自身、ハウステンボス号に乗るのも、ユニークな車両群に会えるのをとても楽しみにしていました。そんな期待を裏切らぬかのように、やがて入線して来たハウステンボス号は、二種類の異なる車両が連結されていました。ハウステンボス号にみどり号が連結されているのです。

家族揃っての鉄旅は良いです。かつてスペーシアに乗って日光に行った事が思い出されます。本当はもっと何度もこういう旅がしたかったのですが。ま、過ぎた事を言っても仕方ありません。

鳥栖から長崎方向に転じたハウステンボス号は、佐賀の主要駅に停車していきます。私にとってなじみのない佐賀の駅はそれぞれの地の色あいで私を迎えてくれます。吉野ヶ里遺跡らしきものが見え、世界気球選手権大会が線路側で開催されています。有田では街に林立する窯の数に目をみはります。旅情です。旅です。

私は家族と会話したり、車窓をみたり、国とりゲームをしたり。そして、飛行機に乗っている時から読み耽っていた「ナガサキ 消えたもう一つの「原爆ドーム」」を読み切ったり。この本のレビューは、いずれ読読ブログでもアップする予定です。本を読み終えた翌日、家族で長崎の街を歩いたのですが、この本を読んでおいたことは、長崎の街を歩くにあたって得るものがたくさんありました。

早岐の駅で佐世保に向かうみどり号から切り離され、ハウステンボス号は運河沿いを走ります。そして間も無くハウステンボス駅に到着。駅から、運河を挟んでそびえ立っているホテルオークラJRハウステンボスが見えます。ここからのハウステンボスはとても映えます。写真を撮りまくりました。期待が高まります。

私は今回でハウステンボスに来るのは3回目です。そして、ハウステンボス駅を利用するのはたぶん初めて。小ぶりな駅ですが、駅舎の面構えからしてハウステンボス感を爆発させています。これは駅鉄として、駅の全てをくまなく撮らねば。

入り口に向かったわれわれですが、実はまだこの時点で入園券を買っていませんでした。宿泊するウォーターマークホテル長崎・ハウステンボスのみ予約済の状態。16年ぶりの訪問は、正面から見て一番奥にあるホテルへの行き方もすっかり忘れてしまっています。正門から宿泊者用通行券のようなパスを使って入場すると思ったら、そんなものはないとのこと。外をぐるりと回るか、送迎バスに頼るしかないとか。結局、着いて早々、ハウステンボスの外周を送迎バスで回ってから中に入ることになりました。

前回来手から16年。ハウステンボスは波乱の年月を潜り抜けたといいます。一度は会社更生法が適用されたとも。そんな状態からHIS社のテコ入れで復活し、今や日本屈指のテーマパークになった経緯は、まさにカムバック賞もの。何がそれほどハウステンボスを復活させたのか。どれほどすごくなったのか期待していました。ですが不思議です。正門や外周からみたハウステンボスにオーラが感じられないのです。ディズニー・リゾートのように、エリアごと夢と魔法の世界でラッピングしたような演出には出会えずじまい。統一感がなくバラバラな世界観が散らばっているように思えます。

ホテルでチェックインすると、内装はさすがに洗練されています。今回チェックインしたウォーターマークホテルには、前回も泊まりました。その時はたしかホテルデンハーグという名前だったと覚えています。多分ハウステンボス自体の経営権が移った時に名称を変えたのでしょう。なので、ホテルの中では特段違和感を感じることはありませんでした。でも、ホテルを出て、ハウステンボス方向に向かうと何かが違うのです。このエリアはフリーエリアになっていて、ゲートを通らずに楽しめます。石畳に旅情あふれる欧風の建物が並んでいます。それは、異国情緒を感じさせます。ですが、よくよく見ると建物に入居しているのはココカラファインだったりします。観光土産屋さんが長崎の名産品や地域限定商品を陳列しています。建物の飾り付けも自由気まま。好きなように各店がポップを掲出し、幟を立てています。ディズニー・リゾートのような統一された世界とは対極です。おしゃれな道の駅? のような感じさえ抱きます。

それでも我が家は、見かけた佐世保バーガーのお店に入ります。うわさに聞く佐世保バーガーとはどんなんや?うまいっ!旅の疲れが佐世保バーガーで満たされ、気分も上向きます。

が、せっかく上向いた気分も、北に向かって歩いて行くにつれ、違和感に覆われていきます。レトロゲームの展示コーナーがあります。ここでは私も懐かしいゲームを何プレイかしました。でも、ゲームをやりにハウステンボスに来たわけやない、と違和感だけが募っていきます。海辺のウッドデッキをあしらったような場所には、ONE PIECEをあしらった海賊船が停泊しています。そしてウッドデッキにはフードを深々とかぶった謎の人物、フォースを使いこなしそうな人がのろのろと歩いています。この何でもありな感じは、かつて私がきた時の印象とはあまりにも違っています。ディズニー・リゾートの統一された世界観に慣れた我が家の全員が同じ感想を抱いたはず。ハウステンボスって、ショボくねぇ?という。

モヤモヤした感じを抱きながら、入場券をかざしてゲートを潜ります。ハウステンボスのランドマークともいうべきドムトールンを見上げつつ、跳ね橋を渡るとそこはハウステンボスの中心部。先ほど見た謎の人物にも似た妙な通行人がどっと増えます。そう、今日はハロウィーン前日。街中が仮装であふれています。ハロウィーンがアメリカではなく欧風の街並みに合うのかどうか。それはこの際大した問題ではありません。でも、欧風な街並みに洋風の仮装をした通行人が増えたことで、フリーエリアで感じたショボさがだいぶ払拭されました。でも、何でもありな感じは変わりません。お化け屋敷やARのホラー体験のアトラクションがあり、屋外のトイレは惨劇を思わせる血糊で汚されています。

一体どこに向かえばいいのか、行くあてを見失いそうです。それでも事前に下調べしておいたチョコレートの館や、チーズの館、ワインセラー、長崎の名産物などのアトラクションを巡ります。フリーチケットで入場したとはいえ、追加料金が必要となるアトラクションには結局入りませんでした。ただ、広大な敷地を移動し、道中の景色や種々のバラエティに富んだのぼりや掲示をみていると瞬く間に時間は過ぎて行きます。ハロウィーン期間ということもあって、巨大なイルミネーションが園内で展開されています。長崎ちゃんぽんを食べ、SF映画に顔合成された私たちを登場させてくれるアトラクションや、AAAのホログラムコンサートなど、技術の粋を惜しみなく注いだアトラクションには驚かされます。そんな風に過ごしていると、閉園時間が近づいてきます。結局、園内のかなりの場所を訪れることはできませんでした。北側の風車付近や、マリーナ、庭園や美術館の地区など。

広い園内と、雑多過ぎるほど統一感のない世界観。それでいながら、オランダを模した建物が林立する中、建物を縫うように石畳の街路が縦横に広がります。パトレイバーの等身大像や、運河を挟んだ建物の側面に映し出されたプロジェクションマッピングで太鼓の達人が遊べるアトラクション。徹底的に世界観の統一を拒むかのような園内。飽きるどころか、ほぼ並ばずにアトラクションを訪れていても、遊びきれていない満腹感とは反対の感覚。園内で感じた統一感のなさは、マンネリ感や既視感とは逆の感じです。それはかえってハウステンボスの巨大さを知らしめます。

ところが夜になると印象は一変。イルミネーションが園内に点灯し、統一感のある光で満ち溢れるのです。その素晴らしさは、ドムトールンに登って園内を見下ろすとより鮮やかになります。園内がマクロなレベルで統一されています。日中に見えていたオランダ風の街路や建物は、イルミネーションの影のアクセントとして存在感を増します。光の氾濫は眼をくらませるようでいて、その裏にある街路や建物の存在をかえって主張しています。

ここに至って私のハウステンボスへの認識は改まりました。フリーエリアで抱いたショボいかも、という認識。これはハウステンボスの目指す方向を見誤っていたことによるものだと気づいたのです。

ハウステンボスの目指す方向。それは、統一感のある世界観とは逆を向いています。つまり、東京ディズニー・リゾートの作り上げる夢と魔法の国からの決別です。ディズニーキャラの住むカートゥーンの世界観。それは東京のディズニー・リゾートがガッチリと抑えています。大阪のUSJもそう。ハリウッド映画の世界観が大都市からすぐの場所で楽しめる。

たぶん、かつてのハウステンボスは、オランダの異国情緒を体験できるとの触れ込みで統一感のある世界として創りあげられたはずです。しかし、長崎という日本のはしでは無理があった。ではどうすればいいか。HISはハウステンボスが日本の周辺に位置しているという条件を逆手に取ったのです。そして、それにふさわしい方針転換をしたのだと思います。すなわち、なんでもありの世界。統一感のない世界の実現へと。

何度も東京ディズニー・リゾートに行っていると、統一された世界観に、次第にマンネリズムを感じていきます。いくら趣向を凝らしたディスプレイで飾られていても、しょせんはディズニーキャラの世界。世界観が強固であれば、そのぶん閉塞感も増します。春夏秋冬、季節ごとにイベントで色合いを変えても、ディズニーキャラの世界観の延長でしかありません。それは、観客の達成感や飽和感につながります。ハウステンボスは、世界観に左右されないがため、逆に自由な発想が展開できます。オランダ風の建物や路地はただのベースに過ぎないのです。

逆説的ですが、そのことに気づいた時、私は最近のハウステンボスが盛り返している理由をおぼろげに理解したように思いました。ディズニー・リゾートと同じ土俵にあがらず、統一感をあえて出さずに勝負する。そして訪問客に満足感を感じさせない。それが、次なるリピートにつながる。実際、ハウステンボスをくまなく訪れられなかったことで、かえって園内の広さに満足感を持ったくらいなので。聞くところによれば、USJも雑多ななんでもありの路線を打ち出し始めているようです。上に書いたように従来のUSJはハリウッド映画の世界観で統一していました。でも、今は何でもありの世界観を出すことで、ディズニー・リゾートと一線を画しています。そしてディズニー・リゾートを凌駕しつつあります。成功の理由とは、世界観の統一を放棄したことにあるといってもよいのではないでしょうか。いまや、世界観の統一という満足だけだと、訪問客に見切られてしまうのでしょう。

地方を活性化するヒントも、ここにあります。田舎の何でもあり感は、洗練されたスタイリッシュな都心に住んでいるとかえって新鮮です。都心は、人が多すぎる。それゆえに、固定客をつかめば経営が成り立つのです。固定客とはつまり世界観が確立している店へのリピートです。つまり、都心では世界観を固定させることが繁盛へのキーワードだったといえます。しかし、ハウステンボスは田舎にあります。田舎で都会並みの統一感を出したところで、都会の人間にははまらないのです。オランダの街並みがはまった人にはリピーターになってもらったでしょうが、そうでない方には世界観の限界を見切られてしまいます。それこそが、当初のハウステンボスの凋落の原因だったと思います。すでに都会の世界観に疲れている私には、ハウステンボスが展開するこのとりとめのなさが、とても魅力的に映りました。そして、東京ディズニー・リゾートのような感覚で、テーマパークを当てはめてしまっていた自分の感性の衰えも感じました。

すでに寝静まろうとしている店を訪れ、少しでも長く多くハウステンボスを経験しようとする我が家。ホテルに一度戻り、娘たちを寝かせた後、夫婦で再びハウステンボスに戻ります。フリーエリアと有料エリアを分ける跳ね橋のそば。ここに、深夜までやっているbarがあります。「カフェ ド ハーフェン」。16年前もここに来ました。そして妻はジン・トニックの味が違うことにいぶかしさを感じました。それはもちろんつわりの一症状でした。このbarにはそんな思い出があります。今回、大きくなった娘たちを連れて来たことに万感の思いを抱きつつ、結婚生活を振り返りました。そして、16年ぶりのハウステンボスが、世界観を変えてよみがえったことに満足しつつ、お酒を楽しみました。

また、訪れようと思います。


今さらメールがすごいと言われても


先日、フォーブスジャパンのオンライン版でこんな記事を見つけました(SNS時代でも、メールがやっぱりすごい理由)。メールを礼賛するようなタイトルに、この期に及んでメール?と逆に興味をもって読んだのですが、正直いってあまりにも現状にさからった記事内容にがっかりしました。

メールって、コミュニケーションツールだったはずですよね?普通、コミュニケーションといえば、双方向のやり取りを指すはず。ところがこの記事を読むと、双方向の視点が見事に欠けています。双方向ではなく一方通行のツール。それも配信業者にとって都合の良い配信手段として。この記事の中で礼賛されるメールとはコミュニケーションツールではなく配信手段でしかありません。送り手側に都合のよいだけの一方通行のコミュニケーション手段の可能性を力説されても、シラケてしまいます。

私の感覚では、メールはもはや主流のコミュニケーションツールではありません。もちろん、私もコミュニケーション手段としてメールは残しています。一部のお客様とはいまだにメールでやり取りしているので。

おそらくオンライン上で行う双方向のやりとりの手段として、メールはもうしばらく生き残るでしょう。ですが私が技術者同士のやり取りでメールを使うことはほぼありません。chatworkやLINE、Facebook メッセンジャーやSlackで仕事のやりとりはほぼ事足ります。メールに頼らずともお手軽なコミュニケーション手段は十分用意されているのです。

なぜメールが使われなくなったのか。その理由を知りたければ最適な情報があります。それはサイボウズ社が以前展開していたNo email キャンペーンです。この中に理由が書かれています。(キャンペーンサイトは無くなってしまったようですが、スライドシェア上にアップされています)。
・整理されない
・引き継げない
・取り消せない
・添付できない
・集計できない
・経緯を追いづらい
・見落とす

サイボウズ社の主力製品の一つはグループウエアやんか、アンチemailの主張は差し引いて受け取らなあかん、という声もあるでしょう。でもここに列挙したアンチemailの理由は今もなお有効です。少なくともフォーブスジャパンの記事にはここに挙げたemailの欠点を補う記述は見当たりませんでした。

それどころかフォーブスジャパンの記事にはこう書かれています。「ウェブサイトのデザインに使われるHTML5やCSS3などの技術が進化し、メールは一方通行の「読み物」から、ウェブサイトばりにインタラクティブなツールになった」。ところが、こういったインタラクティブなHTMLメールは、メーラーによっては完全に読めません(こちらに英文ですがメーラーのCSS対応状況が掲載されています)。メールでやりとりする上で不可欠なメーラーが、インタラクティブなHTMLメールに対応し切れておらず、しかもそれが改善される気配がない。これは、メール市場の拡大を謳うこの記事の説得力を完全に損なっています。もう一つフォーブスジャパンの記事に抜けていると思ったのが暗号化への対応です。実はほとんどのメーラーでは暗号化設定が実装されています。ですが、メールサーバーの設定によって利用者がメーラーの設定を変えねばなりません。それなのに、フォーブスジャパンの記事にはそのことに触れていません。そもそも双方向性が考慮されていないため、暗号化の問題に触れる必要がないのでしょう。でも、この点はメールの将来性にとって不可欠な視点のはず。

なぜメーラー開発各社がHTMLメール対応に本腰を入れないのか。それは私見ですが、ひとたびその機能を許せば通信データ量を食うHTMLメールによる一方的な配信が増大し、通信料も莫大になるからではないでしょうか。No emailキャンペーンでは触れられていませんが、そもそもメールとは送信者が受信先のアドレスさえ知っていれば、自由な内容、自由な容量のメールが送り放題です(メールサーバーを持っていれば流量制限も無尽蔵です)。それに比べて、LINEやchatworkやSlackでメッセージを送るには、受信者側の許可が必要です。

そういう許可制が敷かれたプラットホームでは、メール配信会社は大量配信が出来なくなります。この点を抜きにしたフォーブスジャパンのこの記事には、配信会社の思惑を感じずにはいられません。

とはいえ、フォーブスジャパンの記事にはメールの優位性として情報量を盛り込める点が指摘されています。これはchatworkやLINEにない利点であることは認めざるをえません。また、記事内に登場するハイムス社の紹介では、効果的なメール配信を行う仕組みを備えているそうです。だとしたら一目置くべきかもしれません。ですから、一概にメールを否定するのもまた賢い対応ではないのです。どうにか双方の良い点を兼ね備えたコミュニケーション手段ができればいいのに、と常々思います。

もし、フォーブスジャパンの記事にあるような配信業者が、本気でメールプラットホームに未来を賭けたいのであれば、まずは下手な鉄砲も数撃ちゃ式手法より、本当に記事が読まれるべき内容にすべきだし、対象も絞るべきではないでしょうか。一方通行ではなく、読み手からも適切なフィードバックが戻るようなツールであるべきだと思います。そのためにはメーラーにも改善の余地があります。上に書いたようにメーラーのCSS対応もまだまだです。本来ならばウェブサイトと同じレベルでCSSによるデザインが施されたページが読まれるべきでしょう。ですが今の対応状況は発展途上もいいところです。それ以外にもメーラーでできることがあるはずです。例えばメルマガの末尾には配信停止のリンクが記載されています。これをもう少し改善し、メーラー側に配信停止機能を持たせるというのはどうでしょうか。その都度メール末端のURLをクリックして配信停止を行わせるのではなく、メール一覧から右クリックで配信停止を実現する機能。この機能をメーラーが実装するだけで、余分な一方通行メールが減るのではないかと思います。

コミュニケーションツールにはまだまだ改善の余地がありそうです。これを読んだIT技術者の方。よかったら改善に取り組んでみられてはいかがでしょうか? え? おまえがやれって? うむむ、興味はありますが、多分私一人には荷が重いですね。もし興味がある方、一緒にやりませんか?


この六年を契機にSNSの過去投稿について思ったこと


今日で東日本大震災が発生して六年が経ちました。テレビやブログでも六年の日々が取り上げられているようですね。

今日の14:46を私は家で仕事しながら迎えました。六年前のその瞬間も同じ。あの時も家で仕事していました。違う事といえば、今日は直前に町田市の広域放送で黙祷を促されたことでしょうか。よい機会をもらえたと思い、しばし目を閉じ自分なりに物思いにふけります。

この六年を自分なりに振り返ろうかと思ったのですが、やめておきます。昨年秋に二回ほど郡山に仕事でお呼ばれしました。郡山の素敵な方々や産物や美しい風景の数々。地震が起きてから東北の方々に何も貢献できていなかった自分に少しは区切りはつけられました。でも私はいまだに浜通りや三陸を訪問できていません。私が東日本大地震を語るには時期が早いようです。
弊社は、福島を応援します。(まとめ版)
弊社は、福島を応援します。(9/30版)
弊社は、福島を応援します。(10/1版)
弊社は、福島を応援します。(10/2版)

ふと、3.11前後の日記を覗いてみたくなりました。その頃の日記には一体何を書いていたのか。そして何を思ったのか。当時の私はまだmixiを利用していました。今や全くログインすることのないmixi。今回の機会に久々に当時のmixi日記を覗いてみることにしました。

久々に訪れるmixiはユーザーインターフェースが刷新された以外は案外同じでした。六年前の3.11の前後に書いた日記にもすぐアクセスできました。時間軸ではなく、年と月でカテゴライズされたmixi日記へのアクセスはFacebookに慣れた身には逆に新鮮です。日記ごとにタイトルが付けられるのも、後から日記を見たいニーズには適しています。私のようにSNS利用のモチベーションが自己ログ保存にあるような人にはうってつけですね。

最近のSNSはタイムライン表示が全盛です。Facebook、Twitter、Instagram、Snapchat。どれもがタイムライン表示を採用しています。mixiも過去日記の閲覧が容易とはいえ、基本はタイムライン表示です。多分、膨大に飛び込んでくる情報量をさばくには、タイムライン表示が適しているのでしょう。Snapchatに至っては投稿してもすぐ自動消去され、それが絶大な支持を得ているのですから。

mixiのように後から投稿を容易に閲覧できる機能はもはや流行から外れているのでしょう。今を生きる若者にはそもそも、後日のために投稿を取っておくという発想すらないのかもしれません。私も二十歳前後の記録は友達と撮りまくった写真以外はほとんど残っていないし。

でも、3.11の時のような天災では、アーカイブされた記録が後になって大きな意味を持つと思うのです。つい先日にも膨大にアップされたYouTube動画を場所や時間でアーカイブし、検索できる仕組みが東北大学によって公開されたとか。動画でふりかえる3.11ー東日本大震災公開動画ファインダーー

各種SNSでは、システムAPIなどを使って一括アーカイブはできるはずですし、Facebookでは一般アカウント設定から過去投稿の一括ダウンロードもできます。ただ、それだけでは足りません。mixiのように、容易に利用者が過去のウォール投稿やツイートにカテゴリーツリー経由でアクセスできるようにしても良いと思うのですよ。システム実装はあまり難しくないと思いますし。学術的な投稿アーカイブだけでなく、利用者にとっても過去日記を閲覧できる機能はあってもよいと思うのですが。

今回、過去の日記を久々に読み返して、過去の自分に向き合うのも悪くないと思いました。仕事を多数抱え、過去の日記を読み返す暇などほとんど無い今だからこそなおさらに。

とはいえ、気恥ずかしい記述があるのも事実。地震前最後に書いた日記は2011/3/8のこと。長女と二人で風呂に入ったこと。学校で性教育の授業を受けたと教えてもらったことが書かれてました。うーむ、、、これは気恥ずかしい。さらに、実名が求められないmixiでは私の書く筆致が全体的にのびのびしている気がしました。これは今の自分の書きっぷりについて反省しないと。


日本の未来は暗いという新成人へ


日本の未来は暗い。

成人の日を前に、マクロミル社が新成人にアンケートをとったそうです。その結果、「あなたは、「日本の未来」について、どのようにお考えですか。」という問いにたいし、67.2%の人が「暗いと思う」「どちらかといえば、暗いと思う」と答えたとか。つまり冒頭に挙げたような感想を持った人がそれだけいたということですね。https://www.macromill.com/honote/20170104/report.html

うーん、そうか。と納得の思いも。いや、それはあかんやろ、ていう歯がゆさも。

この設問にある「日本」が日本の社会制度のことを指すのだったら、まだ分からなくもないのですよ。だけど、「日本」が新成人が頼りとする共同体日本を指すのであれば、ちょっと待てと言いたい。

今の日本の社会制度は、個人が寄りかかるには疲れすぎています。残念ですけどね。これからの日本は、文化的なアイデンティティの拠り所になっていくか、最低限の社会保障基盤でしかなくなる。そんな気がしてなりません。今の日本の社会制度を信じて国や会社に寄りかかっていると、共倒れしかねません。個人の食い扶持すらおぼつかなくなるでしょう。

トランプ大統領、少子高齢化、人工知能。今年の日本を占うキーワードです。どうでしょう。どれも日本に影響を与えかねないキーワードですよね。

でも、どういう未来が日本に訪れようとも、個々人が国や会社におんぶやだっこを決め込むのではなく、人生を切り開く気概を養いさえすれば乗り切れると思うのです。戦後の高度経済成長もそう。戦前の価値観に頼っていた個々人の反動が、原動力になったともいえるのですから。

これからの日本の未来は暗いかもしれませんが、それは疲弊した社会制度の話。組織や国に寄りかかるのではなく、個人で未来を切り開く気概があれば、未来は明るいですよ、と言いたいです。

それは、何も個人主義にはしり、日本の良さを否定するのではありません。むしろ「和を以て貴しとなす」でいいのです。要は、組織にあって個人が埋没さえしなければ。だから、組織を離れるとなにをすればよいかわからない、ではマズいです。週末の時間をもて余してしまう、なんてのはもってのほか。

学問を究めようが、政治に興味を持とうが、サブカルに没頭しようがなんでもいいのです。常に客観的に自分自身を見つめ、個人としてのあり方や成長を意識する。それが大事だと思います。その意識こそが新成人に求められるスキルだといってもよいです。

だから、アンケートの設問で「あなたはどのような方法で、世の中のニュースや話題を得ていますか?[情報を得ているもの]」でテレビが89.6%とほぼ9割であることに若干不安を覚えます。なぜならテレビとは受け身の媒体だから。特定の番組を選び、意識して見に行くのならまだしも、何となくテレビの前でチャンネルザッピングして飛び込んでくる情報を眺めているだけなら、個人の自立は遠い先の話です。やがて日本の社会制度の疲弊に巻き込まれ、尾羽打ち枯らすのが関の山です。

でも、アンケートの結果からは救いも見えます。それは、皆さん日本の未来については悲観的ですが、ご自分の未来については楽観的なことです。アンケートの中に「あなたは、「自分の未来」について、どのようにお考えですか。」という設問があり、65.8%が楽観的な答えだったのです。これはとても良いこと。未来は暗いと言っている場合ではないのですから。同じく「あなたは、自分たちの世代が日本の将来を変えてゆきたいと思いますか。」の問いに61.4%の方が肯定的な回答をしていたことにも希望が持てます。

日本に誇りをもちつつ、日本に頼らない。日本の文化に属しつつ個人としての感性を磨き、充実の社会人生活を送ってほしいものです。

ま、私もこんな偉そうなことを言える新成人ではなかったのですが。私も人のことを言ってる場合やない。私という個人をもっと磨かねば。そして子供たちにも個人の意識を打ち立てるように教え諭さないと!


弊社は、福島を応援します。(10/2版)


10/1

7:00-9:50

目覚ましなしで朝を迎える。かなり楽しく飲んだが、あまりアルコールは残っていない。

昨日の朝と同じく、無料の朝食サービスで腹ごしらえ。ここの朝食サービス、スープがうまい。

さて、今日をどうすごすか。大町商店街での宝探しイベントにも行きたい。あと、銚子ケ滝は必訪だ。さらにはお勧めいただいた達沢不動滝にも足を延ばしたい。さらには湖南公民館でマンホールカードをコンプリートするミッションも発生中。そもそも私にそのミッションを授けた開成館で安積疎水について見聞を深めねばなるまい。だが、宝探しイベントの開始は11時からと遅めだ。さてどうする?

作業もあったので、それをこなしつつ、作戦を練り、カーシェアリングの予約を完了させる。結局あれやこれやでホテルをチェックアウトしたのは9:45。カーシェアリングの予約は9:50。実はカーシェアリングの駐車場はホテルから50メートルしか離れていない。

9:50-11:15
駐車場で私を待っていた相棒
カーシェアリングを使うのは今回が初めてだ。郡山に来る前日の昼に紀尾井町にある受付カウンターでカードも作っておいた。ウェブからの予約も順調に終わる。予約したのはHUSTLER。車にはうとい私もアラレちゃんでお馴染みであることは分かる。だが、HUSTLERの形がよく分からない。車が見つからず、広大な駐車場をウロウロする羽目に。今回の相棒は昨日に続いて赤色。野郎一人のドライブとしてはなかなか勇気のいる色合わせ? ま、私はあまりそういうの気にしないたちだが。

私の作戦はこう。まず開成館に行って建物をじっくり。それから街の中心部にもどってイベントに参加し、そこから湖南公民館や滝方面に向かうというもの。

松方正義卿による茂松清風舎の扁額

開成館外観
開成館扁額
そして訪れた開成館。おととい受付にいらっしゃった親切なおじさんの姿はなかった。でも、開館したての敷地には清新の気が満ちている。敷地内には数棟建物が。それぞれの建物は中にも入れるようだ。そして中では明治初頭の暮らしが実感できる。そこには明治政府の要人が何人も宿泊した記録が残され、そこかしこに揮毫の書や掛け軸が飾られている。開成館とその周囲の建物が安積地域にとって重要だった事が見て取れる。この開成館を拠点に、明治政府の一大事業、安積開拓は行われた。開成館の前庭には、ざくろの木が実を成らせていた。
開拓の 成果を語る ざくろの実

展示の中の一つ。猪苗代湖と郡山市街地
そもそも安積開拓とは何かというと、古来この地はあまり水利が良くなかった。阿武隈川の水は引き上げねばならず、当時の技術では困難。一方、すぐ近くには猪苗代湖という巨大な水瓶が満々と水をたたえている。この水を利用すれば、この地は肥沃な地に一変し、日本にとって重要な穀倉地帯となるに違いない。これが明治政府の思惑だ。そして大久保内務卿の肝いりの政策といっても良い。だからこそ何人も明治政府の要人たちが訪れたのだ。何十キロもかなたの湖から水を流す水路を通すわけだから 、当時の日本にとっては一大事業であったことは容易に想像できる。

こういった知識は全て、開成館の展示で知った事だ。ここに書いたことの100倍以上の情報量が、開成館には詰まっていた。そしてそれが私の計画を狂わせる事になる。あまりにも展示が充実しているので、私の予定時間を過ぎても観きれないのだ。

だが、安積開拓を知らねば、郡山を知った事にはならない。ここはどうしても観ておきたい。そんな訳で、私の観覧時間はどんどん延びてしまい、これでは滝にも行けない恐れがでてきた。

そんな訳で、予定を変更。イベントの参加は後回しにする。そもそも今回の郡山訪問はイベント実施の話から始まった話。イベントに参加しないとなると主客転倒になってしまう。正直言ってかなり迷った。が、逡巡の末、滝を優先する。これが功を奏したかどうか。。。はこの後の私の行動次第。

11:15-12:10

予定を大幅に超過してしまったが、作戦変更した私は開成館を出る。実は時間があったら安積歴史博物館や郡山市歴史資料館への訪問も考えていたのだが、開成館の展示があまりに充実していたのでパス。だが、開成館の展示だけでも郡山市がなぜ県庁所在地である福島市を差し置いて県下第一の商業都市となったか理解できた気がする。
開拓地 実りの秋に kintone

さらに理解できたのは、なぜこの地への風評被害に心を痛める方がいるのかについて。それは、汗水垂らして開拓を成し遂げた先祖への申し訳なさではないだろうか。安積の地が平静なのに、いわれなき風評被害を受け、科学的評価が定まっていないうちから人体への影響をうんぬんされ、それがために県外の方に忌避される。それは、先祖から脈々と受け継がれた開拓の精神からすると到底受け入れられない事に違いない。

猪苗代湖が安積地域に果たした役割を知ったところで、それでは、明治の先人達が安積発展の希望とした猪苗代湖へと、いざ向かわん!

開成館からはひたすら西へ。これが結構遠い。距離にして30キロほど。急峻ではないが、山道もトンネルもそれなりに通る。この距離と勾配をモノともせずに疎水を開通させた先人の苦労がしのばれるというものだ。そして道中には農地が広がっているが、それら畑は放棄されず、稲穂を実らせていたこと、休耕地のような荒地めいた風景には出会わなかったことも書いておきたい。ここで農地保全の努力が放棄されているようなら、今回、私が書いてきた事がうそになってしまう。だが、風評被害にも負けず、栽培から収穫までの一連の作業が営まれている事に安堵を感じる。

収穫の風景は、三森トンネルを越えたあたりからいよいよ顕著になる。福島県を縦に三本に割ると、東から順に浜通り、中通り、会津と分けられるが、三森トンネルは、会津と中通りの分水嶺となるのだろう。そして農村風景は続く。しかし、猪苗代湖のきらめきには行けども巡り合えない。この付近の地形については、私のような訪問者には一筋縄では行かないらしい。

湖南公民館の特徴的な外観
そうしているうちに目的地である湖南公民館に到着。ここでは2枚目となるマンホールカードが配られている。係の方も心得たもので「台紙要りますか?」と声を掛けていただく。台紙はすでに開成館で入手していたのでお断りし、2枚目となるマンホールカードをいただいた。湖南公民館にはマンホールを立派なパネル状にしたものが置かれ、全国マンホールカード発行の告知ポスターまで貼られていた。

さて、マンホールカードを入手した事で、続いては猪苗代湖だ。HUSTLERを駆ってむかったのは、青松浜湖水浴場。

猪苗代湖と磐梯山
駐車場に乗り付けた私の眼前に、猪苗代湖の水面が横たわる。その彼方には一目で磐梯山とわかる山塊が水と空をくっきりわけている。空と山と湖。この三つが調和し、溶け合い、自然の持つ味わい本質を携えて私の前に展開されている。紛れも無く福島の象徴。私の前に降臨したのは、度重なる戦乱や噴火や地震や事故の中、一貫してあり続ける自然の姿。

空と山と湖を前に英気を養う相棒
ここに、HUSTLERの赤をアクセントとして加える事で、この完璧な調和を乱す事にならないか。いろいろ撮影アングルを変えて試して見たがどうだろう。一番マシと思える一枚を載せてみる。

HUSTLERと猪苗代湖と磐梯山
かつて、この山が大爆発を起こした際、ここからの眺めはどんなものだったか、想像せずにはいられない。いま、湖面には水上スキーヤーがボートと疾走し、天鏡湖とも言われる猪苗代湖の湖面を波立たせる。それすらもこの調和を乱すことはない。一点の曇りもないこの風景。これこそが福島や郡山や会津の人々の心のよりどころとなって来たことが実感できた一瞬だった。

12:10-12:50

稲穂の中の紅一点
あまり時間もないので、HUSTLERのエンジンを始動し次の目的地へと向かう。が、走り始めてすぐ、輝くばかりの稲穂たちに囲まれる。ここにHUSTLERの赤をなじませてみたくなった。昨日は小柄な自転車の赤だったが、今日は大柄なクルマの赤を。うん、似合うかも。
磐梯を まばゆく飾る 稲穂かな

湖岸から見える湖そして山
湖岸を北上する私の視野には、常に磐梯山と猪苗代湖のペアがついて回る。切っても切れない関係。砂浜や船着き場や畑が現れては去って行くが、主役となる両者は相譲らず。常に視界に陣取って私を魅了しつづける。
青色を 湖面と空と 競いあい

やがてHUSTLERはT字路へと至る。左に折れると猪苗代町内や会津若松へと至る道。そちらの方角にも興味深い出会いがあるはず。が、今日は素直に右に折れる事にする。そしてすぐに上戸駅という看板を見つける。これはJR磐越西線の駅のようだ。今回の旅では機会があればこの辺りの小さな駅にも行こうと思っていたので寄ってみる。

上戸駅舎箱型の駅舎に単線ホームが伸びる単純な構造。だが、これがいい。そっと集落の一員として溶け込んでいる様が。実はこの駅は旅客としてかつて通り過ぎたことがある。12年ほど前に、友人と二人で八王子、小渕沢、小諸、姨捨、長岡、新潟、会津若松と一泊二日の旅を楽しんだ。新潟から会津若松まではSLばんえつ物語というイベント列車に乗り、会津若松から郡山で乗り換えて東北新幹線で帰った。その際、確かにこの上戸駅は通ったはず。上戸駅の駅名標
だが、全く記憶にない。ついでに言えば、その際に乗り換え駅として利用したはずの郡山駅の記憶も全く残っていない。当時は全く郡山の街にも駅にも興味がなかったことが分かる。その当時の写真を出して見ても、猪苗代駅の次の写真が池袋なのだから。猪苗代湖の湖面もおぼろげに記憶はあるが、じっくり見ずに通り過ぎただけだった。あかべぇの書かれた車両が発車する瞬間

だが、今回はしっかりと猪苗代湖、そして上戸駅を心に刻んだ。写真を撮っているとちょうど郡山行きの列車がやって来た。側面に会津若松のマスコットあかべぇが描かれた車両だ。黒みの車体が何だか似合っていてかわいい。車掌さんも女性だし。

12:50-13:50
磐梯熱海駅構内
次に車に乗って向かったのは、磐梯熱海駅。この駅は東北の駅百選にも選ばれている。なので寄ってみるつもりだった。熱海という名には由来があって源頼朝が奥州藤原氏を滅ぼした合戦の後、磐梯熱海駅舎鎌倉出身の武士が地元の熱海の名を付けたのが始まりだという。つまり、安積開拓の行われるはるか以前から、郡山にも土地の名所はあったのだ。ここは覚えておかねば。磐梯熱海駅の駅名標

磐梯熱海駅の足湯
駅前には足湯が設けられ、のどかな時間が駅前を覆っている。駅舎にもホームにも入って撮影した。誰もホームで電車を待っておらず、百選の駅らしからぬ人気のなさ。個人的には自由にホームを歩きまわれたので問題ない。が、これは2011年3月以前からも変わらぬ光景なのだろうか。少し心配になる。

13:50-15:20
続いて向かったのは銚子ケ滝、昨日の乙字ケ滝に続いて日本の滝百選に選出された滝だ。カーブ続きの山道を登ったところ駐車場があったが、駐車場から上に登ると車道が。そしてその車道をさらに登ることになる。それならこの車道を車できたほうが早く行かれるんじゃね?ということで、カーブ続きの山道を戻り、郡山市ふれあい牧場の敷地にはいる。その中を突っ切ると、先ほどの車道を通って銚子ケ滝入り口へ。ここからもさらに20分ほど山道を歩く。たまに人にすれ違う以外は、一人の山歩き。そしてこのあたり、熊が出没するそうで。熊出没注意の看板
うーん、出遭った時はその時。と覚悟を決めて山道。ここからは安達太良山への登山道にもつながっているのね。時間があったら登ってみたい。が、私の思いとは裏腹に、道は急激な下りに。これがまた、実にきつい下りだった。鎖場も途中にあるほどの急坂。入り口に軽装禁止と注意書きされていたのが良く分かる。
熊の住む 道行く声も 高らかに
誰一人 見えぬ山道 息荒く

銚子ヶ滝
それだけの苦労の甲斐あって、眼前に見る銚子ヶ滝は見事。途中にある大岩に水流がぶつかり、水がぶわっと広がりつつ落下する。その形が酒を入れる銚子のように見える。自然の造形の妙が味わえる滝といってよいだろう。私にとって銚子ヶ滝は日本の滝百選の中で訪れた21箇所目。その中でもこちらは形のユニークさとアプローチの急峻さで記憶に残るに違いない。

帰路には、森閑とした木立の向こうできつつきが立てる音を生で聴く。得がたい経験。
きつつきの リズムにしばし立ち竦む

誰も居ない山道を急ぎつつ、私の頭には次の行動をどうするか目まぐるしく考えていた。すでに時刻は15:10。ここで今日の行動を終了させるのか。それともあと一つ達沢不動滝にも足を向けるか。

15:20-17:15
車に戻った私は、車のカーナビで達沢不動滝の位置を探す。すると、ここからそんなに離れていないことを知る。これは、、、、行けるかも!

HUSTLERには少々酷だが、カーブの度にタイヤが悲鳴を上げる。ふれあい牧場までかっ飛ばす。そしてカーブ続きの山道を登り、裏磐梯の高原地帯を一路、達沢不動滝まで。この道路もじっくり運転すれば見ごたえのある景色が続いていたが、私にはただ達沢不動滝しか見えない。かなりの速度で突っ走る。

私の無茶な運転は、達沢不動滝前の駐車場で終わりを告げる。そこから渓流と木立に沿った道を走る。居合わせた10数名の人に、走る私はさぞや人目を引いたことだろう。

不動堂
が、不動堂を前に先客が。足腰の不自由な年配の方が杖をつき、介添えの方二人と一緒に歩を進めている。ここで、私も深呼吸。17:30までにHUSTLERを郡山駅東口のカーポートに返さなければという焦りはあれど、ここで強引に前を行くのは諌めなければ。自分の運の強さを信じ、まずは不動明王の碑に向かって一礼。そして前の二人を待ち、滝へと踏み出す。

達沢不動滝
達沢不動滝。実に端正な滝姿だ。巨大な一枚岩の幅の全てに水が流れ落ち、滝と岩が一体となっている。そしてこの造形には人の手は関わらず、自然によるものだ。この姿を見て仏性が宿っていると古人が考えたのもうなづける。私もしばし滝の前に立ち尽くし、時間のたつのも忘れ、ただ見とれる。だが、よくよく見ると一見すると端正なこの滝だが、滝つぼにあたる岩の前には大小の岩が並んでいる。おそらくは上流から運ばれてきた岩なのだろう。角も粗削りで、険のある様子。端正なだけではないこの滝の本性を見た気がする。不動明王をこの滝になぞらえた事も納得。
端正な 滝の本性 壺の岩
先駆けて 寒気に慣れし 紅葉かな
滝打たれ 巌の末も 砂ならん

じっくりと滝を見ていると、奥まったところにもう一つの滝も見える。よくみると「女滝」という案内板も掲げられている。なるほど、先に見たほうは「男滝」に当たるのか。「女滝」のほうは奥まったところで縦に長く水が糸を引いているような姿をしている。二つの滝の比較にも興が湧く。対比の妙が楽しめることもポイントが高い。

さて、離れがたいが、そろそろ行かなくてはならない。レンタカーをの延長は避けたいところ。

HUSTLERに最後の一踏ん張りをお願いし、郡山市街まで車を駆る。 行楽帰りの車が多く、渋滞っぽい速度減もあったが、17:15に無事に到着する。返却期限の15分前には到着出来た。それにしてもカーシェアリングは初めて利用したが、カーナビの仕組みをうまくビジネス用途に改造している。これもkintoneと連携したいと思いたくなる。

さて、郡山に戻ったからには、イベントに顔を出さねば。。。という望みは、実はすでに潰えていた。郡山市街に向けて最後の工程に入る前にウェブで調べたのだ。終了15:00だとか。申し訳ない。

だが、最後にまざっせプラザに行って後片付けの現場で一言ご挨拶出来れば。。。と思ってまざっせプラザに着いたら普段通りの平常営業モード。果たしてイベントやってた?という感じの。店の中には昨日と一昨日お世話になった皆様がいらっしゃったので、一言声掛けて行こうか迷ったのだが、わざわざどうかと思って声をかけずに去る。こう言うのって多分都会の人間の駄目なところなんやろなあ、と後から反省する。でも、まざっせプラザの皆様にはいい郡山の印象を与えて頂き感謝。そして、それを潮に離れがたく思っていた郡山を去る決心をつける。

The Bar Watanabeの前を通り、フルーツたっぷりカクテルで店構えが引かれるAikaにも寄りたかったが、我慢して駅へ。郡山駅コンコースに掲げられている歴程

郡山駅で買った切符のつり銭
駅では郡山の思い出をモノで残そうと、お酒やお土産を買う。そしていよいよ切符を買う。すると戻ってきたのは十円玉数枚。しかも全て新品の。郡山を去るにあたって新品の銅貨が戻ってきたことに何かの示唆を感じる。これはまた郡山に来るということを示しているのではないか。帰りに乗ったはやぶさ

郡山から帰って数日の後、高幡不動を訪問した。高幡不動は新撰組に縁のある地。すなわち会津に縁のある寺だ。そこに何かの機縁を感じ、私も郡山駅で得た新品の10円玉数枚を賽銭として使った。

そのご縁からか、再び郡山に訪れることになった。訪れるのは11/12、13の両日。私が郡山で話した何がしかが評価を頂いたのか、それとも10円玉に込めた思いが通じたのかは分からない。でも、一つだけいえるのは、再度郡山に呼んでもらったからには、また全力でお話をさせていただこうと思う。

地図集

コンフォートホテル郡山から郡山駅東口駐車場への経路

郡山駅東口駐車場から郡山市開成館への経路

郡山市開成館から湖南公民館への経路

湖南公民館から青松浜湖水浴場への経路

青松浜湖水浴場から上戸駅までの経路

上戸駅から磐梯熱海駅までの経路

磐梯熱海駅から銚子ヶ滝入口駐車場への経路

銚子ヶ滝入口駐車場からふれあい牧場入口までの経路

銚子ヶ滝入口からふれあい牧場までの経路

ふれあい牧場から達沢不動滝への経路

達沢不動滝から郡山駅東口駐車場への経路

郡山駅東口駐車場からまざっせプラザへの経路

まざっせプラザから郡山駅への経路