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76回目の終戦記念日にあたって


今日は76回目の終戦記念日です。

おととしにこのような記事をアップしました。今年も思うところがあり、振り返ってみようと思います。
なぜそう思ったか。それは今日、昭和館を訪れ、靖国神社に参拝したからです。

今年は初めて終戦記念日に靖国神社に参拝しました。その前には近くにある昭和館を訪れました。こちらも初訪問です。
さらにここ最近に読んでいる本や、レビューに取り上げた書物から受けた感化もありました。そうした出来事が私を投稿へと駆り立てました。

つい先日、東京オリンピックが行われました。ですが、昨今の世相は新型コロナウィルスの地球規模の蔓延や地球温暖化がもたらした天災の頻発、さらなる天災の予感などではなはだ不透明になっています。本来、オリンピックは世界を一つにするはず。ですが排外主義の台頭なども含め、再び世界が分裂する兆しすら見えています。

なぜ太平洋戦争に突入してしまったのか。私たちはその反省をどう生かしていけばいいのか。
戦争を再び繰り返してはならないのは当たり前。それを前提として、自分なりに考えてみました。

太平洋戦争を語る際に必ずついて回るのは、1929年のウォール街の株価大暴落に端を発する昭和恐慌であり、第一次世界大戦の戦後処理の失敗から生まれたナチスの台頭です。

当時のわが国は恐慌からの打開を中国大陸に求めました。それが中国からの視点では、満州事変から始まる一連の侵略の始まりだったことは言うまでもありません。
しかも中国への侵略がアメリカの国益を損なうと判断され、ABCD包囲網からハル・ノートの内容へと追い込まれたことも。ハル・ノートが勧告した内容が満州事変の前に状況を戻すことであり、それを受け入れられなかった指導層が戦争を決断したことも知られたことです。
結局、どちらが悪いと言うよりも、恐慌に端を発した資源獲得競争の中で生じた国際関係の矛盾が、戦争につながった。それは確かです。真珠湾攻撃を事前にアメリカ側が知っていたことは確かでしょうし、在米領事館の失態で宣戦布告交付が遅れたとしても。
一年くらいなら暴れてみせると言った山本五十六司令長官の半ばバクチのような策が当たり、太平洋戦争の序盤の大戦果につながったことも周知の通りです。

私は、そこまでのいきさつは、仕方がないと思っています。では、これからの私たちは敗戦の何を教訓にすれば良いのでしょうか。

私は三つを挙げられると思っています。
まず、一つ目は戦を始める前に、やめ時をきちんと決めておかなかったこと。
二つ目はトップがそれまでの出来事を覆す決断力を欠いていたこと。
さらに三つ目として、兵隊の統率の問題もあると考えています。

山本司令長官が、開戦前に一年と決めていたのなら何があろうと一年でやめるべきだったはずです。それをミッドウェイ海戦で敗戦した後もずるずると続けてしまったのが失敗でした。この時に軍部や新聞社の作る世論に惑わされず終戦の決断を速やかにしておけば。悔いが残ります。
また、日露戦争の際には国際法を遵守し、捕虜の扱いについても板東収容所のように模範となる姿勢をとれた日本軍が、日中戦争にあたっては軍紀が大きく崩れたことも悔やまれます。
経済の打開を求めて中国に進軍したのであれば、絶対に略奪行為に走ってはならばかったはず。侵略された側から三光作戦と呼ばれるきっかけを与えたら大義が崩れてしまいます。それも悔やんでも悔やみきれない失敗です。

そうした教訓をどう生かすか。
実は考えてみると、これらは今の私に完全に当てはまる教訓なのです。
経営者として広げた業務の撤退は考えているか。失敗が見えた時に色気を出さず決断ができるか。また、従業員に対してきちんと統制がとれているか。教育をきちんと行えているか。
私が仮に当時の指導者だったとして考えても同じです。戦の終わりを考えて始められただろうか。軍の圧力を押しのけて終わらせる決断ができただろうか。何百万にも上る軍の統率ができただろうか。私には全く自信がありません。
ただ、自分で作った会社は別です。自分で作って会社である以上、自らの目の届く範囲である今のうちにそれらができるように励まなければと思うのです。

ただ、その思索の過程で、わが国の未来をどうすべきかも少しだけ見えた気がしました。

まず前提として、わが国の地理の条件から考えても武力で大陸に攻め込んでも絶対に負けます。これは白村江の戦いや、豊臣秀吉による文禄・慶長の役や、今回の太平洋戦争の敗戦を見ても明らかです。

であれば、ウチに篭るか、ソトに武力以外の手段で打って出るかのどちらかです。
前者の場合、江戸時代のように自給自足の社会を築けば何とかなるのかもしれません。適正な人口を、しかもピラミッド形を保ったままであれば。多分、日本人が得意な組織の力も生かせます。
ただし、よほど頭脳を使わないと資源に乏しいわが国では頭打ちが予想されます。おそらく、群れ社会になってしまうことで、内向きの論理に支配され、イノベーションは起こせないでしょうね。世界に対して存在感を示せないでしょうし。

ソトに出る場合、日本人らしい勤勉さや頭脳を駆使して海外にノウハウを輸出できると思います。
日本語しか使えない私が言うのはふさわしくないでしょうけど、私はこちらが今後の進む道だと思っています。今までに日本人が培われてきた適応力はダテではないからです。あらゆる文明を受け入れ、それを自分のものにしてきたわが国。実はそれってすごいことだと思うのです。
日本人は、組織の軛を外れて個人で戦った時、実は能力を発揮できる。そう思いませんか。今回のオリンピックでも見られたように、スポーツ選手に現れています。
ただ、そのためには起業家マインドが必要になるでしょう。組織への忠誠を養うのではなく、自立心や自発の心を養いたいものです。ただし、日本人の今までの良さを保った上で。
固定観念に縛られるのは本来のわが国にとって得意なやり方でないとすら思えます。

私は、今後の日本の進む道は、武力や組織に頼らず個人の力で世に出るしかないと思います。言語の壁などITツールが補ってくれます。

昭和館で日本の復興の軌跡を見るにつけ、もう、この先に人口増と技術発展が重なるタイミングに恵まれることはないと思いました。
そのかわり、復興を成し遂げたことに日本人の個人の可能性を感じました。
それに向けて微力ながらできることがないかを試したい。そう思いました。

任重くして道遠きを念い
総力を将来の建設に傾け
道義を篤くし 志操を堅くし
誓って国体の精華を発揚し世界の進運に後れざらんことを期すべし


浮世の画家


先日、読んだ『遠い山並みの光』に続く著者の二作目の長編小説である本書。前作と同じく戦後の日本が舞台となっている。

テーマは、時代による価値の移り変わりに人はどうあるべきか。
『遠い山並みの光』にも戦前の考えを引きずったまま、戦後になって世の中の転換に困惑する人物が登場した。主人公の義父にあたる緒方さんだ。

本書の主人公である画家の小野は、その緒方さんをより掘り下げて造形した人物だ。
戦前に戦争を推進する立場についていたため、戦後になって世の中から声を掛けてもらえず、引退も同然の毎日を過ごしている。
かつて盛り場だった街で、昔からのなじみであるマダム川上がやっているバーに通う日々。
本書の時代背景は、1948年10月から1950年6月にかけての一年八カ月の期間だ。

その時期とは、ようやく戦後の復興が端緒についた時期。進駐軍による占領は続いており、その中で戦後の新体制への移行や憲法の施行が行われ、戦時中の日本のあらゆる価値がもっともドラマチックに捨て去られた時期だ。
その時期の日本の某都市を舞台に、小野の周りの人間模様を描くことで日本の置かれた状況を描き出している。

だが、本書には終戦後の日本を彩った歴史の年表に並ぶような出来事はほぼ出てこない。
著者はあえてそうした社会の変動を描かず、社会の通念の流れと価値の観念が揺り動いたことを本書の登場人物の日常から表現する。

人々の考えが変わった証し。それは、小野に対する目に見えない冷淡な世間の対応として現れる。
考え方の変化を読者に伝える題材として、著者はお見合いに着目する。お見合いとはまさに日本の慣習であり、人々の考え方の変化がもっとも見えやすい対象だ。

小野の次女の紀子は、先方からの急な断りによって縁談を破談にされる。あまりに急な先方の豹変に困惑する紀子と姉の節子。その理由を敏感に感じた節子は、父にそれとなく理由を伝えようとする。だが、小野の反応はあいまいなもの。なぜ破談になったのかを気づいていないようにすら思える。

著者が巧みなのは、小野の周囲に人物を配置する手法だ。小野のかつての弟子だけでなく、娘二人とその家族や見合い相手を置く。それだけで、戦後日本の風潮の転換を具体的な思想やイデオロギーを出さずに表現しているのだから。

長女の節子は息子の一郎を連れてくる。が、一郎の幼さに迎合しようとする小野は、ローン・レンジャーに夢中になり、アイスクリームを欲しがる太郎に手を焼く。
かつてならば、家長の権威を振りかざし、いうことをきかせられたものを、孫に厳しく接することにためらい戸惑う小野。

人々の価値が変わってしまったことを如実に示すのが、小野と一郎の関係だ。

モリさんこと師匠の森山に対して小野が放った決別の言葉も、小野に跳ね返ってくる。
「先生、現在のような苦難の時代にあって芸術に携わる者は、夜明けの光と共にあえなく消えてしまうああいった享楽的なものよりも、もっと実体のあるものを尊重するよう頭を切り替えるべきだ、というのが僕の信念です。画家が絶えずせせこましい退廃的な世界に閉じこもっている必要はないと思います。先生、ぼくの良心は、ぼくがいつまでも〈浮世の画家〉でいることを許さないのです」(267ページ)

森山は、かつて武田工房に属する一人の画家に過ぎなかった小野を招いてくれた人物だ。
だが、技巧に秀でた小野はさらに独立への道を選ぶ。そして、同時期に知り合った国粋主義の思想を持つ松田知州に誘われる。そしてともに新日本精神運動を起こす。
小野が戦後に冷遇される理由は、翼賛体制に寄り添った新日本精神運動へ参加したことが原因と思われる。戦中に軍国主義を推進した政治家や実業家が戦後に公職から追放されたのと同じ理由と理解すればよい。

だが、単純に小野をかたくなな軍国主義の持ち主として描いていないことが著者の工夫だ。
小野がモリさんこと森山のもとを去った理由となる作風の変化は、社会の低層をキャンバスに写し取ろうとした小野の決意にある。それは、作中には描かれていないが、軍部が問題視したプロレタリアの精神すら感じさせるものだ。
組織を去ってまで己の道を貫こうとした小野のあり方は、進め一億火の玉だと叫ばれた戦前の風潮とは一線を画している。そこを見逃してはならないと思う。
小野はただ、時代の風潮に寄り添うことを良しとせず、自らの道を歩もうとしただけなのだ。そうした意味では、小野もまた時代の犠牲者に過ぎないと思う。

一方。小野は自らが冷遇されていることを心の底では理解していながら、娘たちにはなんでもない風を装う。そして、紀子の見合いの席では率直に自らの戦時中の言動を謝罪しようとする。小野は本書において頑迷な人物としては描かれない。見苦しい自己弁護に堕ちない小野の印象は、物語を読み進めるほどに変わってゆく。共感すら覚えたくなる人物だ。

小野の具体的な過ちが一体何かは、終盤までぼやかされている。にもかかわらず、本書はある種の清々しさがある。
それは周囲が小野の過去にこだわって距離を置こうとする対応とは逆に、小野自身は時代の流れに乗ろうとせず、人としての信念のままに過去から未来へと、たどたどしいながらも歩もうとしているからだろう。それは、浮世の画家というタイトルから受ける印象とは逆だ。

日本人の血をひいているとはいえ、異国の英語文化の中で育った著者。そんな著者が著した日本の物語は、価値の転換や文化の違いなどを隔てているだけに、層をなしていて読みごたえがある。

‘2020/01/05-2020/01/09


74回目の終戦記念日に思う


74回目の8/15である今日は、今上天皇になって初めての終戦記念日です。令和から見たあの夏はさらに遠ざかっていきつつあります。一世一元の制が定められた今、昭和との間に平成が挟まったことで、74年という数字以上に隔世の感が増したように思います。

ところが、それだけの年月を隔てた今、お隣の韓国との関係は戦後の数十年で最悪の状況に陥っています。あの時に受けた仕打ちは決して忘れまい、恨みの火を絶やすなかれ、と燃料をくべるように文大統領は反日の姿勢を明確にし続けています。とても残念であり、強いもどかしさを感じます。

私は外交の専門家でも国際法の専門家でもありません。ましてや歴史の専門家でもありません。今の日韓関係について、あまたのオピニオン誌や新聞やブログで専門家たちが語っている内容に比べると、素人である私が以下に書く内容は、吹けば飛ぶような塵にすぎません。

私の知識は足りない。それを認めた上でもなお、一市民に過ぎない私の想いと姿勢は世の中に書いておきたい。そう思ってこの文章をしたためます。

私が言いたいことは大きく分けて三つです。
1.フェイクニュースに振り回されないよう、歴史を学ぶ。
2.人間は過ちを犯す生き物だと達観する。
3.以徳報怨の精神を持つ。

歴史を学ぶ、とはどういうことか。とにかくたくさんの事実を知ることです。もちろん世の中にはプロパガンダを目的とした書がたくさん出回っています。フェイクニュースは言うまでもなく。ですから、なるべく論調の違う出版社や新聞を読むとよいのではないでしょうか。産経新聞、朝日新聞、岩波書店、NHKだけでなく、韓国、中国の各紙の日本版ニュースや、TimesやNewsweekといった諸国の雑誌まで。時にはWikipediaも参照しつつ。

完璧なバランスを保った知識というのはありえません。ですが、あるニュースを見たら、反対側の意見も参照してみる。それだけで、自分の心が盲信に陥る危険からある程度は逃れられるはずです。時代と場所と立場が違えば、考えも違う。加害者には決して被害者の心は分からないし、逆もまたしかり。論壇で生計を立てる方は自分の旗幟を鮮明にしないと飯が食えませんから、一度主張した意見はそうそう収められません。それを踏まえて識者の意見を読んでいけば、バランスの取れた意見が自分の中に保てると思います。

歴史を学んでいくと、人間の犯した過ちが見えてきます。南京大虐殺の犠牲者数の多寡はともかく、旧日本軍が南京で数万人を虐殺したことは否定しにくいでしょう。一方で陸海軍に限らず、異国の民衆を助けようとした日本の軍人がいたことも史実に残されています。国民党軍、共産党軍が、民衆が、ソビエト軍が日本の民衆を虐殺した史実も否定できません。ドレスデンの空襲ではドイツの民衆が何万人も死に、カティンの森では一方的にポーランドの人々が虐殺され、ホロコーストではさらに無数の死がユダヤの民を覆いました。ヒロシマ・ナガサキの原爆で被爆した方々、日本各地の空襲で犠牲になった方の無念はいうまでもありません。中国の方や朝鮮の方、アメリカやソ連の人々の中には人道的な行いをした方もいたし、日本軍の行いによって一生消えない傷を負った方もたくさんいたはず。

歴史を学ぶとは、人類の愚かさと殺戮の歴史を学ぶことです。近代史をひもとくまでもなく、古来からジェノサイドは絶えませんでした。宗教の名の下に人は殺し合いを重ね、無慈悲な君主のさじ加減一つで国や村はいとも簡単に消滅してきました。その都度、数万から数百万の命が不条理に絶たれてきたのです。全ては、人間の愚かさ。そして争いの中で起きた狂気の振る舞いの結果です。こう書いている私だっていざ戦争となり徴兵されれば、軍隊の規律の中で引き金を引くことでしょう。自分の死を逃れるためには、本能で相手を殺すことも躊躇しないかもしれません。私を含め、人間とはしょせん愚かな生き物にすぎないのですから。その刹那の立場に応じて誰がどのように振舞うかなど、制御のしようがありません。いわんや、過去のどの民族だけが良い悪いといったところで、何も解決しません。

それを踏まえると、蒋介石が戦後の日本に対して語ったとされる「以徳報怨 」の精神を顧みることの重みが見えてきます。

「怨みに報いるに徳を以てす」という老子の一節から取られたとされるこの言葉。先日も横浜の伊勢山皇大神宮で蒋介石の顕彰碑に刻まれているのを見ました。一説では、蒋介石が語ったとされるこの言葉も、台湾に追い込まれた国民党が日本を味方につけるために流布されたということです。実際、私が戦後50年目の節目に訪れた台湾では、日本軍の向井少尉と野田少尉が百人斬りを競った有名な新聞記事が掲げられていました。台湾を一周した先々で、人々が示す日本への親しみに触れていただけに、国の姿勢のどこかに戦時中の恨みが脈々と受け継がれていることに、寒々とした矛盾を感じたものです。先日訪れた台湾では、中正紀念堂で蒋介石を顕彰する展示を見学しましたが、そうした矛盾はきれいに拭い去られていました。

でも、出所がどうであれ、「以徳報怨」の言葉が示す精神は、有効だと思うのです。この言葉こそが、今の混沌とした日韓関係を正してくれるのではないでしょうか。人間である以上、お互いが過ちを犯す。日本もかつて韓国に対し、過ちを犯した。一方で韓国も今、ベトナム戦争時に起こしたとされるライダイハン問題が蒸し返され、矛盾を諸外国から指摘されています。結局、恨むだけでは何も解決しない。相手に対してどこまでも謝罪を求め続けても、何度謝られても、個人が被った恨みは永遠に消えないと思うのです。

外交や国際法の観点から、韓国の大法院が下した徴用工判決が妥当なのかどうか、私にはわかりません。でも、日韓基本条約は、当時の朴正熙大統領が下した国と国の判断であったはず。蒋介石と同じく朴正熙も日本への留学経験があり、おそらく「以徳報怨」の精神も持っていたのではないでしょうか。それなのに、未来を向くべき韓国のトップが過去を振り返って全てをぶち壊そうとすることが残念でなりません。そこに北朝鮮の思惑があろうとなかろうと。

戦争で犠牲を強いられた方々の気持ちは尊重すべきですが、国と国の関係においては、もう徳を以て未来を向くべきではないかと思うのです。来年には75年目の終戦記念日を控えています。今年の春に発表された世界保健機関の記事によると女性の平均寿命は74.2年といいます。つまり75年とは、男性だけでなく女性の平均寿命を上回る年数なのです。もうそろそろ、怨みは忘れ、人は過ちを犯す生き物であることを踏まえて、未来へ向くべき時期ではないでしょうか。

一市民の切なる願いです。


日本のいちばん長い日 決定版


本書を読むのは二度目だ。私が二十年以上前から付けている読書記録によれば、1997年の2月以来、十九年半をへての再読となる。

その間、私は太平洋戦争について書かれた本をたくさん読んできた。それらの本を読んできたにもかかわらず、本書は私の中で不動の位置を占めている。おそらく今後もそうあり続けるはずだ。それは、戦後七十年の節目に本作が再度映画化され、劇場で鑑賞したことで確固となった。(レビュー)

本書は決定版と銘打たれている。前回私が読んだのも決定版だ。私は初版を読んだことがないため、本書から受けた印象は全て決定版から得られた。その印象は十九年半前、初めて本書を読んだ私に鮮烈な影響を与えた。私の中に根付いていた日本陸軍への印象を一変させたのだ。それまでは当時の陸軍すなわち悪という一面だけの見方に縛られていた。ところが、本書によって陸軍にもさまざまな人物がいたことを知ったのだ。それは、陸軍を一括りに断罪することの愚かさを私に教えた。それまで持っていた教科書で習った知識では陸軍によって戦争は始められ、遂行され、終戦までも引き延ばされた、という記憶だけが残っていたのだ。もちろん、紙数の都合上、細かく説明はできなかったのだろう。だが、本書に書かれていた内容は、そんな浅い知識をひっくり返すだけの力があった。まさに私の知識は塗り替えられたのだ。特に阿南陸軍大臣への印象が変わったことは記憶に鮮やかだ。御前会議で戦争継続を一貫して訴えた阿南陸相の姿。その表面だけをみれば、軍人の硬直した思考と捨ててしまうものだ。ところが、本書を読んだ後はそんな通り一遍の批判は慎まねば、と思わせる迫真性がある。前回、読んだ際に感じた印象は今回も変わらなかった。新鮮さこそ薄れたとはいえ、今も変わることがない。

本書は著者にとっての出世作だ。文藝春秋社を定年退職してからの著者は、歴史探偵と名乗って活発な文筆活動を繰り広げている。昭和史だけでなく幕末史にも手を出すほどに。だが、本書は著者にとって出世作というよりも原点だと思う。もともと本書は五十年以上前、著者が三十代の頃に発表されている。それ以来、今もなお出版され続けている。昭和史にとって価値ある一冊との評価をおとしめられることなく。今回の二度目の映画化を劇場で見た後、あらためて本書を読んだ。やはり本書から教えられることは多い。そしてスクリーンの中で当時の様子が映像となって頭にしみ込んだことで、本書がより理解できた気がする。それは私が十九年半の間に積み重ねた経験や知識に相乗りして、本書を理解する上でよき助けとなってくれた。

十九年半の間、私にとって糧となったのは書物だけではない。たとえば、二年ほど前に訪れた鈴木貫太郎記念館での経験もそうだ。この時の訪問は、私の知見を深めてくれた。鈴木貫太郎記念館には白川一郎画伯による「最後の御前会議」の実物が展示されている。厳粛な御前会議の様子が書かれた原画。それを眼前でみたときの私の気持ちは、ただ感無量。その体験は私の中で貴重な思い出として残っている。この記念館には鈴木貫太郎氏の大礼服なども飾ってある。それらを見ると鈴木首相が大将として威厳のあった人物だったことが伺える。 人の訪れることも少ないであろう記念館は、確かに「日本の一番長い日」の余韻を伝えていた。

そういった背景を頭にたたき込んだ上で本書を再読する。すると、鈴木首相の腹のすわった政権運営ぶりに得心がいくのだ。鈴木首相は首相として失敗もした。如才なく立ち回れた政権運営だったとはいえない。それでも見事に終戦に持ち込んだ。在任中、鈴木首相はボケていたわけでも、逃げを打っていたわけでもないのだ。おそらくは軍の圧力をとぼけていなし、はぐらかして交わし続けていたはず。鈴木首相が傑物だったことを記念館の訪問と本書、そして映画によって再確認できたと思う。

阿南陸相もまた同じだ。本書で再現された阿南陸相の言動から読み取れること。それは、阿南陸相が陸軍内の暴発を抑えるためにぎりぎりで綱渡りをしていたことだ。刃の上を裸足で歩くがごとし。足を踏み外せば足だけでなく日本が破滅する。そんな阿南陸相の抱いていたであろう緊迫感が読者の胸に迫ってくる。

一方で神州不滅を信じていた若手将校の焦りもリアルに描かれている。彼らを衝き動かして極限の焦りや危機感。それらに打ち克つには玉音放送を防ぐ以外ない。そのためには玉音盤を奪取するほかすべきことはない。そんな若さゆえの純な気持ち。そこを現代の価値観で測ろうとすれば彼らは理解できない。そして彼らの焦りや危機感は、今のわれわれには決して理解できないのだろう。

この暴走に直面した陸軍の将官がクーデターに同調せず統制を保ったこと。この冷静な態度が宮城事件を不発に終わらせたことも見逃せない。宮城事件が成功していれば、私がこの文書を書くことはおそらくなかっただろう。そもそも日本という国もなかった可能性だってあるのだ。当時の挙国一致の風潮を非難することは簡単だ。国民の多くが軍国主義にあてられ、載せられたことは事実だろう。だが、クーデターに同調しなかった将官たちは、熱に浮かされた若手将校に引きずられなかったのだ。陸軍の将官が若手将校に同調せず、個人としてきちんと対応したこと。それが、暴走する将校たちの企図を頓挫させ、日本を破滅から救ったことは忘れてはならない。

また、本書は私に一つの思い付きを与えてくれた。それは、日本が島国であることだ。それは日本人に島国の心を養った。大陸の端。周りは海に囲まれ逃げ場がない。その地理的条件は日本に守る強さを備わらせたのだ。

今までの我が国の歴史を振り替えると、大陸に攻め込んだ際はことごとく敗れている。白村江の戦い、文禄・慶長の役、シベリア出兵。そして太平洋戦争。日清戦争も勝ったとはいえ、戦局を決定づけたのは海戦だ。日露戦争では多大な犠牲を出してようやく旅順攻略戦に勝利した。が、ロシアに講和を決意させるほどの決定的な勝利は日本海海戦によることに異論はないはず。日清戦争の後は大陸に足掛かりを作ろうとして三国からの干渉で遼東半島の返還を余儀なくされた。日露戦争後は満州で利権を確保し、朝鮮半島への支配権を強化できたが、その支配も太平洋戦争の敗戦で水の泡と消えた。要するに我が国は攻めは不得手であり、本来やるべきではないのだ。

一方で守りに入ると、案外日本は強い。元の侵略を神風で退けたのはよく知られている。薩摩藩や長州藩は、イギリスに完膚なきまでにやっつけられたが占領の憂き目を見ず、逆にそれをばねに倒幕を果たした。幕末には開国を余儀なくされたが、不平等条約を撤廃させ、返す刀で近代化を達成してしまう。徹底的にやられたはずの太平洋戦争も、あまりにも見事な負けっぷりを見せる。それがGHQの占領後に経済大国として世界を驚かせる原動力になった。それでいながらアメリカに国防を任せるというしたたかさを身につけるのだ。要するに我が国は守りに入ってこそ真価を発揮する、とても打たれ強い国なのだ。

それは第二次大戦でのナチス・ドイツの敗北と日本の敗北を比べてみればわかる。ナチス・ドイツが破滅する直前、指揮系統は乱れに乱れた。ヒトラーはじめ著名なナチスの指導者たちは自殺し、さらに膨大な数のナチス戦犯達に逃亡を許してしまった。しかし我が国は違う。一度敗北を受け入れたら、実に従容たる態度を示した。あれだけ完膚なきまでの敗北を喫しながら、昭和天皇の戦争責任は結局不問となった。

日本がこれだけ徹底的に敗北しながら、国としての組織が瓦解しなかった事。その理由とは何だろう。それは、本書で書かれた宮城事件に際しての陸軍指揮官の対応が表わしているのではないだろうか。国の存亡がかかった瀬戸際にあってもなお、統率を旨とする精神。天皇の臣下として統率を聖なるものとして奉じ、若手将校の跳ね返りを抑え込む国民性といえばよいか。現代に生きるわれわれは、当時の重臣たちの終戦の決断までがあまりにも鈍いことにじれったさを感じる。だが、あれだけ国土が蹂躙されてからの降伏だったからこそ軍は暴発せずに軍備を解いたのではないか。そしてかなりの戦力を保持していたにもかかわらず、大本営からの降伏を受け入れた関東軍の態度にも、天皇の威厳がついに保たれ続けた我が国の美徳を見ることができる。仮に若手将校のクーデターが成功していたらどうなっただろう。おそらく日本は戦争を継続していたことだろう。そして天皇制をも危機にさらしていたはずだ。私が習う言葉もアルファベットだけになっていたこともありうる。本書に描かれた若手将校たちの言動を読んでいると、彼らの行動が真剣であること、まかり間違っていればクーデターが成っていた可能性が高いことがわかる。だからこそクーデターを冷静に止めた陸軍の将官たちは賞されるべきなのだ。彼らの冷静な判断があったからこそ、若手将校による暴発は最小限で収まり、日本は国の体裁を保ったまま終戦を迎えられた。こう言っても言い過ぎではないと思うのだが。

本書で逐一書かれた出来事。それは確かに『日本の一番長い日』と呼ぶにふさわしい。だが、それ以上に、「日本の一番堅い日」だったのではないだろうか。日本の底知れぬ堅さを示した日々、という意味で。

ここ数年、日本の国防に不安の声が上がっている。北朝鮮の暴発や中国の膨張、日本の経済不況など不安要素は多い。だが、この期に及んでもまだ我が国の守りに強い本領は発揮されていないように思える。そして前回、我が国の専守の強さが発揮された時こそが、本書に描かれた一日だったのではないか。空襲や原爆など国土が荒廃し、天皇制も未曽有の危機に立たされた終戦時。本当の危機に瀕した時、日本人に何ができたのか。それを確かめるためにも本書は読まれるべきなのだ。そして日本の底力を知るためにものちの世に長く伝えられるべき一冊なのだ。

‘2016/12/29-2016/12/30


日本のいちばん長い日


70年前、日本のいちばん長い日に日本の将来を憂い、かつ、戦後の日本のために命をかけて動いた人々がいた。そして、丁度70年後の8/14から15日にかけて、私はスクリーンを通し、それら人々の動きを食い入るように見ていた。

「阿南さんのお気持ちは最初からわかっていました。それもこれも、みんな国を思う情熱から出てきたことです。しかし阿南さん、私はこの国と皇室の未来に対し、それほどの悲観はしておりません。わが国は復興し、皇室はきっと護持されます。陛下は常に神をお祭りしていますからね。日本はかならず再建に成功します」

これは、原作から抜粋した鈴木首相の台詞である。手元に原作がなく、Webソースからコピーしたが、本作ではこの台詞やそれに対する阿南陸相の返答はほぼ同じ内容で再現されていた。70年前、日本の復興を信じた人々の思いを噛みしめるように、再建成った日本の安全な映画館で本作を見られる幸せを実感した。

本作は、戦後70年を掛けて成し遂げた日本映画の最高峰といえるのではないか。俳優陣の演技は圧巻だし、美術や時代考証、衣装など文句のつけようもない。本作のパンフレットには、ロケ地や衣装、美術、音楽、時代考証などの解説が載っている。そこから読み取れるのは、監督やスタッフの凄まじい熱意である。熱意と、モデルになった人々に対する敬意あってこその本作と云える。

本木雅弘さん演ずる昭和天皇は、その容姿や所作など今まで様々な俳優によって演じられた昭和天皇の中でも、後世の基準となるかもしれない素晴らしさである。今まで昭和天皇が日本人監督によってこれほど真正面から撮られたことは無かったのではなかろうか。そこには畏れ多さもあったことだろう。しかしもう70年である。昭和天皇が崩御されてからもすでに四半世紀以上の時が過ぎた。これからは歴史上の人物として取り上げられていってよいと思う。
本作で本木さん演ずる昭和天皇は、超越したような孤高の雰囲気が劇中一貫して保たれていた。また、昭和天皇が戦前、統帥権と立憲君主としての立場の狭間にあって、意思表示すらも自制していたことはよく言われる。意思表示をぎりぎりまで抑えながらも毅然とした決断を述べる部分など、当時の昭和天皇が抱える制約や苦悩を良く演じ切っていたと思う。鈴木総理との以心伝心で終戦の聖断を下したシーンなど、当時の実際を垣間見ているようにすら思える。実は私はもっくんの演技を観るのは、ドラマも含めて初めてなのだが、素晴らしい俳優であると思った。
東条元首相への謁見で、サザエの貝殻を軍隊に例えた東条元首相の比喩を一蹴するシーンやナポレオンを引き合いに出して、東条元首相を窘めるシーンがあった。原作を読んだ記憶ではそのようなシーンは無かったように思えるが、パンフレットによればサザエのシーンは原田監督の演出だとか。そこまで突っ込んで東条元首相を諌めた史実はなかったように記憶しているが、監督の解釈として興味あるところだ。

阿南陸相を演じた役所広司さんも、また素晴らしい演技であった。阿南陸相と役所さんの容貌は、個人的には本作に登場する人物の中で一番ギャップがあったように思う。しかし、それすらも気にならなくなるほどに役所さん演ずる阿南陸相は素晴らしかった。阿南陸相は子煩悩な家庭第一の人としてよく知られている。そういった家庭的な温かみと、陸軍にあって人望を備える厳しさとの両立が演じる側には必要となる。阿南陸相は、陸軍の暴発を抑えるために和戦両様の腹芸を打つといった、本作にあって一番難しい「やくどころ」だと思うが、さすがに芸名に相応しく見事に本作を引き締めていた。ちなみに私にとっての阿南陸相は、命を懸けて和戦の釣り合いをぎりぎりまで見極めた、日本史に残る軍人であり役者だと思っている。日本史の中でもっともっと評価されてよい方だと思っている。機会があれば墓前にも参拝したいとも思っている。それゆえに、自刃直前に言ったとされる「米内を斬れ!」が本作では割愛されていたことが少しひっかかった。本作中でも米内海相との丁々発止のやりとりもあり、原作ではたしかその台詞はあったように思うのだが・・・勘違いかな。

鈴木貫太郎首相は、私にとってまた思い入れ深い方である。昨年の秋、一人で旧関宿町の鈴木貫太郎資料館を訪問した。墓前にも参拝し、その人間的な広い器の一端に触れさせて頂こうと思っていた。その際に得た鈴木首相の印象と、山崎努さん演ずる姿は見事に一致していた。まさに俳優の芸の深さに頭が下がる想いである。鈴木首相もまた、和戦両様の構えで新聞や軍を煙に巻き、聖断へと持ちこんだ人である。戦前の華々しい軍果の数々もそうだが、敗戦後の日本にとっても欠かす事のできない方である。しかし、私が昨秋に資料館を訪問した際は、私以外2人しか訪問者がおらず、実相寺の墓地には私以外誰もいなかった。今では全く世の中から忘れられてしまった方なのだが、本作を通じて再び見直されることを強く願う。故鈴木首相が在任中の失敗として述懐していることとして、ポツダム宣言への「黙殺」報道がある。本意として「黙殺」ではなかったのに、そのように海外には報道されたことで、ヒロシマ・ナガサキの悲劇が起きた。本作の中では「黙殺」との台詞が出ているが、そのあたりの経緯も描かれている。原作ではどのように描写されていたのか覚えていないが、気になるところである。

松坂桃李さん演ずる 畑中健二少佐もまた見事であった。早口な台詞など、追い詰められ、触れれば切れる刃のような状態にあった彼らの様子は、このような感じだったろうと思わせる。宮城事件を起こした将校たちの狂気紙一重の純粋さがなければ、陸軍の暴発を恐れるがゆえに腹芸を打った昭和天皇、鈴木首相、阿南陸相の行動にリアリティが生まれない。得てして後世の平和な我々にとって、あの時、原爆を落とされ、ソ連が参戦するぎりぎりの状況にあってもなお国体護持に拘る姿勢、陸軍の暴発を極度に恐れる姿勢は、非現実的に思える。陸軍将校たちが唱える本土決戦の非現実さを笑うのは、後世の平和な我々には簡単である。しかし、当時の純粋育成された軍将校にとっては、開戦以来、島嶼部の戦闘以外で負けていないのに戦争を放棄することなどありえない。そのような事情は鑑みるべきだろう。ましてや満州や中国に数百万の将兵を温存出来ていたとするならば。そのあたりの狂気紙一重の純粋さを演じ切っていた松坂桃李さんは私にとってほとんど初見の俳優さんなのだが、今後興味を持って観て行きたいと思う。

堤真一さんの迫水久常書記官長役もまたよかった。昭和天皇とはまた違う、現場の空気に染まらず、冷静に客観的に見るその演技は、なんとなく私自身の仕事上のそれに通ずるところがあり、共感できた。会議の仕切りなど事務方の取りまとめ役の所作を、見事に演じていたと思う。ただ、どこか私にとって腹に落ち切れていない部分があり、それが何か考えていたのだが、ようやく分かった。上に挙げた歴史上の人物は、大抵他の著作や伝記などで触れた経験があるのだが、迫水氏については、全く読んだことがないのだ。終戦時の日本を取り上げた文章にあって、迫水氏はほぼ登場するにも関わらず、人物像に焦点を当てた文章にはまだお目にかかったことがない。他の方々の演技は私の腹に完全に落ち、そのイメージとの一致に膝を叩く思いだったのに、迫水氏だけは現実の氏のことをほとんど知っておらず、これは一度関連書籍を探して見なければ、と思った。

本作は、70年後の日本人が当時の日本を描写している。そのため、日本を描写したハリウッド作品とは、時代考証に求められるレベルが違う。各段の厳密さが求められるのは当然である。私のような素人の現代史好きにとって、ロケ地や衣装、美術、音楽、時代考証などで本作におかしな点は見られなかった。本作は、東京を舞台としたシーンが多いが、関西のロケ地が多いという。だが、観ていて違和感は抱かなかった。
関西のロケ地の中でも私に縁のあるロケ地が二か所あった。一つは、天皇の居室や吹上御所として登場した甲子園会館。ここは私の実家から徒歩数分の場所にあり、普段は武庫川女子大のキャンパスとして使われている。幼少時から外観はよく見ているのに、まだ中に入ったことは一度もない。数年前の帰省の際に外観はじっくりと観たが、本作を観て強く館内を見学したくなった。もう一つは、滋賀の五箇荘にある藤井彦四郎邸である。ここは4年前、一人で訪れ、邸内にも入った。本作では阿南陸相の三鷹の邸宅として使われており、観劇中は全く気付かなかった。あとでパンフレットを観て藤井彦四郎邸であることに気付いた次第。これは悔しかった。そのほか、京都御所や舞鶴の旧東郷邸や神戸税関など、関西人としては嬉しい場所が多数ロケ地で使われていたことがパンフレットに載っていた。本作は間違いなくDVDが発売されるだろうし、私も買い求めると思うが、劇場で観られない方もパンフレットだけでもお買い求めることをお勧めしたい。

また、本作の様な内容は、云い方は悪いが簡単に観客を泣かせることが可能といえる。しかし、あえてそういう演出を採らなかったことに逆に監督の真摯な想いが伝わってきたように思える。もちろん昭和天皇の胸を打つ言葉、鈴木首相の達観したような凄味、阿南陸相の温かみと国を思う想いなど、胸が熱くなるシーンは沢山ある。阿南陸相の妻が三鷹から空襲下の東京を陸相官邸まで駆けつけ、最期に間に合わなかったものの、戦死した子息の最期の様子を物言わぬ遺体に切々と語りかける場面など、観る方によっては号泣必至かもしれない。しかし、彼らが命を懸けて得た日本の繁栄に安住している私のような観客からみると、ただただ感謝の気持ちが胸を満たすのである。

’15/8/14 イオンシネマ 新百合ヶ丘