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ワールドカップ


サッカーのロシア・ワールドカップが終わった。総じてよい大会だったと思う。その事は好意的な世評からも裏付けられているのではないか。私自身、ロシア・ワールドカップは今までのワールドカップで最も多くの試合を観戦した大会だ。全部で十数試合は見たと思う。

私がサッカーのワールドカップを見始めたのは、1990年に開催されたイタリア大会からだ。それ以来、三十年近く、八回のワールドカップを見てきた。その経験からも、ロシア・ワールドカップは見た試合の数、質、そしてわれらが日本代表の成長も含め、一番だと思っている。

総括の意味を込め、大会が終わった今、あらためて本書を読んでみた。本書が上梓されたのは、1998年のフランス大会が始まる直前のことだ。フランス大会といえば、日本が初出場した大会。そして若き日の私が本気で現地に見に行こうと企てた大会でもある。

最近でこそ、ワールドカップに日本が出場するのは当たり前になっている。だが、かつての日本にとって、ワールドカップへの出場は見果てぬ夢だった。1998年のフランス大会で初出場を果たしたとはいえ、当時の日本人の大多数はワールドカップ自体になじみがなかった。2002年には日韓共催のワールドカップも控えていたというのに。本書は当時の日本にワールドカップを紹介するのに大きな役割を果たしたと思う。

本書を発表した時期が時期だけに、本書はブームに乗った薄い内容ではないかと思った方。本書はとても充実している。薄いどころか、サッカーとワールドカップの歴史が濃密に詰まった一冊だ。1930年の第一回ウルグアイ大会から1994年のアメリカ大会までの歴史をたどりながら、それぞれの大会がどのような開催形式で行われたのか、各試合の様子はどうだったのか、各大会を彩ったスター・プレーヤーの活躍はどうだったのかが描かれる。ワールドカップは今も昔もその時代のサッカーの集大成だ。つまり、ワールドカップを取り上げた本書を読むことで、サッカースタイルの変遷も理解できるのだ。本書は、ワールドカップの視点から捉え直したサッカー史の本だといってもよい。

ワールドカップの歴史には、オリンピックと同じような紆余曲折があった。例えば開催権を得るための争いもそう。南米とヨーロッパの間で開催権が揺れるのは今も変わらない。だが、当初は今よりも争いの傾向が強かった。そもそも第一回がウルグアイで開かれ、そして開催国のウルグアイが優勝した事実。その事は開催当時のいびつな状況を表している。当時、参加する各国の選手の滞在費や渡航費用を負担できるのが、好況に沸いていたウルグアイであったこと。費用が掛からないにもかかわらず、船旅を嫌ったヨーロッパの強国は参加しなかったこと。それが元で第二回のイタリア大会は南米の諸国が出なかったこと。特に当時、今よりもはるかに強かったとされるアルゼンチンが、自国開催を何度も企てながら、当初は隣国の大会に参加すらボイコットしていたこと。

他にもまだある。サッカーの母国と言えばイギリス。だが、イギリス連邦の四協会(イングランド、ウェールズ、スコットランド、北アイルランド)は母国のプライドからワールドカップへの参加の必要を認めていなかった。実際、開催からしばらくの間、ワールドカップに発祥国イングランドの諸国は参加していない。上記の四協会は、今もフットボールのルール改正に大きな権限を持っている。ところが、当時はそもそもFIFAにすら加入していなかった。それ以後もなんどもFIFAへの脱退と再加入を繰り返し、サッカーの母国としてのプライドを振りかざし続けた。そんな歴史も本書には描かれている。

つまり、ワールドカップの歴史の始まりには、さまざまなプライドや利権が付いて回っていたのだ。世界の主要なサッカー強国が初めてそろったのが1958年のスウェーデン大会まで待たねばならなかった事実は、サッカーの歴史の上で見逃してはならない。

本書の読みどころは他にもある。サッカースタイルの象徴である選手の移り変わり。なぜ、ブラジルのペレが偉大だといわれるのか。それは彼が1958年大会で鮮烈なデビューを飾ったからだ。当時、サッカー界を席巻していたのは1950年初頭に無敵を誇り「マジック・マジャール」と呼ばれたハンガリー代表だ。その中心選手であるフェレンツ・プスカシュ。彼は当時の名選手として君臨していた。しかし、プスカシュはサッカーの王様とは呼ばれない。また、レアル・マドリードの五連覇に貢献したディ・ステファノも当時の名選手だ。ペレやマラドーナ、その他の世界的スターからサッカーのヒーローとして今も名前が挙げられ続けるディ・ステファノ。しかしディ・ステファノもサッカーの王様とは呼ばれない。それだけ、1958年のペレの出現は、当時のサッカー界に衝撃を与えたのだ。ワールドカップが初めて世界的な大会となった1958年の大会。真の世界大会で彗星のように現れたペレが与えた衝撃を超える選手が現れるまで、サッカーの王様の称号はペレに与えられ続けるのだろう。

1958年大会以降、サッカーは世界でますます人気となった。そして、その大会で優勝したブラジルこそがサッカー大国としての不動の地位を築く。しかし、1966年のイングランド大会では地元イングランドが地元の有利を活かして優勝する。1978年のアルゼンチン大会でも開催国アルゼンチンが優勝した。著者はそうした歴史を描きながら、開催国だからと言って、あからさまなひいきや不正があったわけでないこともきちんと記す。

その一方で、著者はつまらない試合や、談合に思えるほどひどい試合があったこときっちりと指摘する。この度のロシア大会でも、ポーランド戦の日本が消極的な戦いに徹し、激しい論議を呼んだのは記憶に新しい。そのままのスコアを維持すると決勝トーナメントに進むことのできる日本が、ラスト8分間で採ったボール回しのことだ。だが、かつての大会では、それよりもひどい戦いが横行していた。予選のリーグ戦ではキックオフに時間差があり、他の会場の試合結果に応じた戦い方が横行していた。特に1982年大会。1982年のスペイン大会といえば、幾多もの名勝負が行われたことでも知られる。だが、その中で西ドイツVSオーストリアの試合は「ヒホンの恥」と呼ばれ、いまだにワールドカップ史上、最低の試合と呼ばれている。

そして1986年のメキシコ大会だ。神の手ゴールや“五人抜き “ ゴールなど、マラドーナの個人技が光った大会だ。当時の私にとっても、クラスメイトの会話から、生まれて初めてサッカーのワールドカップの存在を意識した大会だ。私が実際にワールドカップをリアルタイムで見るようになったのは冒頭にも書いた1990年のイタリア大会だ。だが、本書でも書かれているとおり、守備的なゲームが多かったこの大会は、私の印象にはあまり残っていない。

守備的な試合が多かったことは、1994年のアメリカ大会でも変わらなかった。だが、私にとってはJリーグが開幕した翌年であり、今までの生涯でも、サッカーに最もはまっていたころだ。夜中まで試合を見ていたことを思い出す。

そして1998年だ。この大会は冒頭に書いたとおり、私が現地で観戦しようと企てた大会だ。初出場の日本は悔しいことに一勝もできず敗れ去った。そして、その結果は本書には載っていない。

だが、本書の真価とは、初出場する日本にとって、ワールドカップが何かを詳しく記したことにある。それまでのワールドカップの歴史を詳しく載せてくれた本書によって、いったい何人の日本人サッカーファンが助かったことか。本書はまさに、語り継がれるべき名著だと思う。

本書がよいのは、ワールドカップをゲーム内容だけでなく、運営の仕組みまで含めて詳しく書いていることだ。ワールドカップが今の形に落ち着くまで、どのように公平で中立な大会運営を目指して試行錯誤してきたのか。その過程がわかるのがよい。それは著者が政治学博士号を持っていることに関係していると思う。組織論の視点から大会運営の変遷に触れており、それが本書を通常のサッカー・ジャーナリズムとは一線を画したものにしている。

本書には続編がある。そちらのタイトルは「ワールドカップ 1930-2002」。私はその本を2006年に読んでいる。2002年の日韓ワールドカップの直前に、1998年大会の結果を加えて出されたもののようだ。私はその内容をよく覚えていない。それもあって、2002年の日韓共催大会の結果や、その後に行われたドイツ、南アフリカ、ブラジル、ロシア大会の結果も含めた総括が必要ではないかと思うのだ。参加国が拡大し、サッカーがよりワールドワイドなものになり、日本が出場するのが当たり前のようになった今、本書の改定版が出されてもよいと思うのは私だけだろうか。

‘2018/07/18-2018/07/20


プレミアムテキーラ


私の家にはちょっとしたミニバーを設えている。

並んでいるボトルはほとんどがウイスキーだ。だが、ウイスキー以外にもリキュール、ラム、ジン、焼酎(米・芋・麦・黒糖)、ウォッカ、ブランデー、アクアビット、ピンガ、アラックなどをそろえている。かつてはカルヴァドスやミードも棚に並んでいた。

だが、一度も並んだことのない蒸留酒があった。それがテキーラ。どうも苦手意識を持っていたのだ。その状態が改まったのは2年ほど前。仕事で西荻窪に数度訪れる機会があり、「Bar Frida」さんに伺った。テキーラ専門のバーという珍しさにふらっと寄らせていただき、テキーラの量に圧倒された。私がそれまで知っていたテキーラのブランドと言えば、SAUZAやJose Quervoくらい。だが「Bar Frida」さんのバックバーには私の知らないテキーラがずらりと並んでいた。メニューにも詳細に各銘柄の味や特徴が記されており、私のような初心者にも頼みやすかった。

その時はバーテンダーさんが常連さんとの会話に入ってしまい、あまり喋る事ができなかった。私もあまり長居しなかったのでどういった銘柄を頼んだのかは覚えていない。だが、テキーラがバラエティにあふれ、おいしい事だけは私の知識として刻み付けられた。それは同時に、私の長年のテキーラへの苦手意識を払拭してくれた。ただそれ以来、いくつものBarに訪れているが、どうしてもウイスキーに目が行き、頼んでしまう。そしてテキーラを飲む機会はなかなか訪れなかった。

そんなところに図書館で本書を見つけた。装丁には気合が入っている。中身もほぼカラー。意気込みが感じられる。著者はメキシカンの方。長年日本で仕事をし、今はテキーラを日本に紹介・輸入する仕事をしているそうだ。

私は本書で初めてテキーラを体系的に知った。多分、私のような方は多いのではないか。テキーラについてはあまり知らないという方が。そんな方のために、本書は冒頭からテキーラに関する誤解を解きにかかる。例えば。テキーラはサボテンでできている。テキーラには虫が入っている。テキーラは強い酒で二日酔いする、などなど。

実は私も誤解していた。テキーラの原料がリュウゼツランであることは知っていたが、なんとなくそれはサボテンの一種だと思っていた。でも全く違う種だ。テキーラに虫がはいっていることもそう。一部のテキーラには虫が入っていると思っていたが、正確には「一部のメスカルには虫を衛生的に処理して入れている」が正しい。メスカルはリュウゼツランを使ったメキシコの蒸留酒だが、特定産地で育った特定種のリュウゼツランをテキーラ村周辺で蒸留したメスカルがテキーラと呼ばれるのだ。そして虫を入れたテキーラはない。虫を入れたメスカルはあるが。そしてテキーラはメキシコ政府や業界団体によって品質管理や統制をきっちり行っており、メスカルとテキーラには一線が引かれている。また強い酒で二日酔いするとは、幻覚症状が出るとの誤解もあったようだ。実際は他の蒸留酒と同じぐらいの度数。他の蒸留酒では二日酔いしてもテキーラは平気な方がいるらしい。もっともそれは体質にもよるのだろうが。

本書は製法や産地、特徴など網羅してテキーラを紹介している。特定種のリュウゼツランであるブルーアガベと水のみを使った製品がプレミアムテキーラと呼ばれるとか。ラムのようにさとうきびの糖蜜を原料に混ぜることもあり、そちらはミクストテキーラと呼ぶようだ。そして本書はプレミアムテキーラを特に紹介している。写真と解説付きで図版で紹介しているが、読んでいるだけで楽しくなる。ウイスキーやラムにも同様にカラーを駆使した図説をちりばめた図鑑のような本がある。本書もそれらの本と同じように精細に楽しくテキーラを紹介している。それらの図面はとてもおいしそうで、読みながら飲みたくてたまらなくなったほどだ。他にもカクテルレシピやテキーラに合う料理など、全てがカラー図版で占められている。とてもぜいたくな一冊だと思う。

本書は全ての蒸溜酒愛好者にオススメの一冊だ。私はこれを読んだ後、テキーラを衝動的に飲みたくてたまらなくなり、スーパーの酒売り場に足を運んでしまった程だ。そこにプレミアムテキーラが見つからなかったので、翌日には酒の専門店に行きLUNAZULのレポサドを購入してしまった。LUNAZULは我が家のミニバーに収まった初めてのテキーラ。それぐらい本書に載っているテキーラはおいしそうなのだ。

さらに本稿をアップする数カ月前、たまたま見ていたテレビの「クレイジージャーニー」で日本人で唯一、本場のテキーラ蒸留所でテキレロ(テキーラ職人)として働いている景田哲夫氏のことを知った。カスカウィン蒸留所で働く氏の、フロンティア精神に溢れた旅を見ていると、またまたテキーラに惹かれてしまったのだ。LUNAZULもそろそろ空きそうなので、次はカスカウィンを購入したいと思っている。

‘2017/04/20-2017/04/20


ペドロ・パラモ


本書の存在は、昨年読んだ『魔術的リアリズム』によって教えられた。『魔術的リアリズム』の中で著者の寺尾隆吉氏は本書の紹介にかなりのページを割き、ラテンアメリカ文学の歴史においてなぜ本書が重要かを力説していた。それだけ本書がラテンアメリカ文学を語る上で外せない作品なのだろう。それまで私は本書の存在すら知らなかった。なので、本書の和訳があればぜひ読みたいと思っていた。そこまで激賞される本書とはいかなる本なのか。そんな私の願いはすぐに叶うことになる。多摩センターの丸善で本書を見つけたのだ。しかも岩波文庫の棚だから値段も控えめ。その場で購入したことは言うまでもない。

そして本書は、2017年の冒頭を飾る一冊として私の読書履歴に加わることになった。ここ数年、新年の最初に読む本は世界文学全集が続いていた。ゆっくりと読書の時間がとれるのは新年しかないので。ところが2017年は年頭から忙しくなりそうな感じ。そのため比較的ページ数が少ない本書を選んだ。

本書は、ラテンアメリカ文学史に残る傑作とされている。だが、一度読んで理解できる小説ではない。二度、三度と読まねば理解はおぼつかないはずだ。すくなくとも私には一度目の読破では理解できなかった。

なぜなら、本書は場所と時代が頻繁に入れ替わるからだ。本書はたくさんの断章の積み重ねでできあがっている。訳者によるあとがきの解説によると七十の断章からなっているとか。そして各章のそれぞれで時代と場所を変えている。さらには話者も変わるのだ。各章が続けて同じ時代、同じ場所を語ることもあれば、ばらばらになることもある。それらは、章の冒頭で断られる事なく切り替わる。そもそも章番号すら振られていない。つまり、それぞれの章の内容や登場人物を丹念に把握しないとその断章がどの時代と場所を語っているのか迷ってしまうのだ。そのため本書を読み通すだけでも少し苦労が求められる。

読者は本書の冒頭の文で本書のタイトル『ペドロ・パラモ』の意味を知る。それはフアン・プレシアドが会おうとする自らの父の名前である。ところがすぐに読者は「ペドロ・パラモはとっくの昔に死んでるのさ」というセリフがファン・プレシアドに投げかけられる(14P)ことで困惑する。タイトルになった人物が死んでいるとはどういうことだろう、と。さらには、冒頭の断章がフアン・プレシアドの視点になっているはずなのに、フアン・プレシアドと会話している相手が、たった数ページの間に二転三転するのだ。そもそもフアン・プレシアドは誰と話しているのか。フアン・プレシアドに話しかけているのは誰なのか。読者は見失うことになる。そしてファン・プレシアドはいくつかの断章でいなくなり、別の人物の視点に物語は切り替わる。さらに、主人公であるはずのペドロ・パラモは死んでいる。その時点で誰が本書の主人公なのかわからなくなる。多分、死んでいるペドロ・パラモは主人公ではなりえない。と思ったら終盤では過去の世界の住人としてペドロ・パラモが登場する。そして、それまでの断章でも語り手が次々と切り替わるのだ。どの時代、どの場所の人物の視点で物語が語られているのか、わからなくなる。もはや誰が主人公なのか、読者は著者の仕掛けた世界に惑わされてゆくばかりだ。

本書が読みにくい理由はその外にもある。それぞれの場所や時代ごとに目を引くような比喩や表現による書き分けがないのだ。印象に残るエピソードが現れないので、記憶に残りにくい。それぞれの場所と時間ごとのエピソードに関係が付けにくいのだ。そして、全体的なトーンは暗めだ。前向きな展開でもない。その上、登場人物たちの発するセリフは微妙に食い違う。それらは読者に釈然としない感じを抱かせる。誰が誰に語っているのかもはっきりしないセリフが次々と積み重なり、読者の脳に処理されずに溜まってゆく。明らかに過去からの亡霊と思われるセリフが違う書体で随所に挟まれる。セリフとセリフの間には、話者の間にコミュニケーションがなりたっている。が、それはある瞬間でブツリと途切れてしまうのだ。そして何事もなかったかのように次の断章に繋がってゆく。本書を読むだけでもとても難儀するはずだ。

だが、そういったもやもやは、本書を読み終えた時点でかなり解消されるだろう。なぜこれほどまでに曖昧な印象を受けるのか。その理由を読者が知るのは、本書を読み終え、本書の構造を理解してからとなる。その時、読者は知る。なぜ、本書の登場人物の話す言葉や視線がぼやけているのか。なぜ、頻繁に死を示すことばや比喩が登場するのかを。

本書が込み入っているのは時間と場所だけではない。生者と死者の関係も同じように込み入っているのだ。普通に話している相手が実は死者であり、さらには断章の主人公さえも死者である物語。死者と生者が混在する世界。死者ゆえに時間を超越する。死者故に空間を飛び越えて遍在できる。そのため、本書は複雑なのだ。何次元もの層が複雑に折り重なっている。そしてわかりにくい。

また、もう一つ。本書を分かりにくくしている要素がある。それは構造だ。本書が70の断章で成り立っていることは上に書いたが、全体の行動がループしているのだ。それも本書をわかりにくくしている。本書の終わりが本書のはじまりにつながるのだ。つまり、終わりまで読んでようやく本書の始まりの意味に気づく仕掛けになっている。上に書いたとおり本書を2度、3度読まねば理解したといえない理由はここにある。

『魔術的リアリズム』の中で著者の寺尾氏は本書の円環構造を、このように書いている。
「円環構造の真の意義は作品の基調となる非日常的視点を内部に自己生産するところにある」(92P)、と。

ここでいう自己生産とは登場人物による会話が、次の展開を呼ぶことを意味する。先にも書いたとおり、本書は断章のセリフが次の断章を呼び出している。だから本書の主人公は誰でもよいのだ。死者でもよいし、過去の住人でもよい。会話だけが主人公のいない本書に一貫して流れ続ける。そう考えると『ペドロ・パラモ』とは主人公をさすタイトルではない。どんな呼び方でも構わないと思える。ところが本書のあとがきの訳者の解説ではペドロ・パラモにも意味があることを教えられるのだ。ペドロが石、パラモは荒れ地。ということはペドロ・パラモを求める意図とは、「荒れ地の石」をもとめる旅にもつながる。だからこそ本書はつかみどころがない。登場する人々は死に、あらゆるものが読者にあいまいな世界。目的が荒れ地の石なのだから当然だ。その意味ではペドロ・パラモは主人公ではなく、本書の存在そのものかもしれない。

本書が荒れ地の石なのであれば、読者はそもそも何を求めて本書を読めばよいのだろう。それは読者もまた死ぬという絶対的な真実を突きつけるためなのか。もしそうだとすれば、個人にとって救いがない。だが、本書はもう一つ世のならいとは堂々めぐりにあることも示している。それは種族としての希望として考えられないだろうか。たとえ個人の営みはむなしく虚になることがわかっていても、種族は未来に向けて延々と円を描き続けていく。そこに読者は希望を見いだせないだろうか。本書を読む意味とは円環の仕組みにこそあるのかもしれない。

訳者はこう書いている。「断片と断片をつなぐ伏線の中に、うっかりして見落としてしまいそうなものもたくさんある。読み返して、ふと気づいたりするのだが、こんな目立たぬところにもこういう仕掛けがあったのかと驚くと同時に、作品の隅々にいたるまでの精緻な構築にあらためて感嘆の声をあげてしまいそうになる。」(217P)

原書と日本語訳を何度も読み返したはずの訳者にしてこのような感慨を持つぐらいだ。私など本書の仕掛けのほんの一部しか知らないに違いない。なにしろまだ一度しか読んでいないのだから。だからこそ必ずや本書は読み直し、理解できるように努めたいと思う。

‘2017/01/01-2017/01/09


オン・ザ・ロード


「おい、おまえの道はなんだい? 聖人の道か、狂人の道か、虹の道か、グッピーの道か、どんな道でもあるぞ。どんなことをしていようがだれにでもどこへでも行ける道はある。さあ、どこでどうする?」(401P)

「こういうスナップ写真をぼくらの子どもたちはいつの日か不思議そうにながめて、親たちはなにごともなくきちんと、写真に収まるような人生を過ごし、朝起きると胸を張って人生の歩道を歩んでいったのだと考えるのだろう、とぼくは思った。ぼくらのじっさいの人生が、じっさいの夜が、その地獄が、意味のない悪夢の道がボロボロの狂気と騒乱でいっぱいだったとは夢にも考えないのだろう。」(406P)

若いときに読んでおかねばならない本があるとすれば、本書はその一冊にあげられるにちがいない。先日ノーベル賞を受賞したボブ・ディランは、本書を自分の人生を変えた本と言ったとか。

多分、中高生の私が本書を読んでいたならば、私にとっても人生を変えた本になっていたことだろう。私ももっと前に本書を読んでおきたかったと思う。

ただ、20代の私が本書を読んでも、どの程度まで影響を受けていたかはわからない。放浪癖に目覚めた頃だったので、同じ嗜好を持ち、同じ方向を向いている本書はかえってすっと受け入れてしまい、なじみすぎて印象に残らなかったかもしれない。親しんだ記憶は残っただろうけど。

今回、40の坂を越えてからはじめて本書を読んだ。そこから感じた読後感も悪くない。二十歳の頃には出逢えなかったが、40代の感性でしか感じられない新鮮さもある。もっとも、40代の今の視点で本書を読むと、自分自身の過ぎ去った日々を懐かしむ思いがどうしても混じってしまうのも事実。ただ、40代が感じた本書の感想も悪くないはず。その視点でつづりたいと思う。

本書は、あてなき放浪の物語だ。アメリカ大陸の東と西をさまよい、北から南へと越境してメキシコまで。時は1947年〜1949年。第二次世界大戦に勝利し、世界の超大国となったアメリカ。まだソ連が原爆を持つ前の、ベルリンが東西に分割される前の、中華人民共和国が建国される前の勝利の幸福に浸れていた頃のアメリカ。そんなアメリカを縦横に旅しまくるのが本書だ。主人公サル・パラダイスの名前のとおりに幸せなアメリカは、また、素朴なアメリカでもあった。

東西冷戦が始まるや、アメリカは西側の同盟国を引き締めにかかる。自国の文化を紐がわりにして。それは文化的な侵略といってよいだろう。だが、本書で描かれるアメリカは、自国の文化を世界中にまき散らす前のアメリカだ。大戦の勝利の余韻が尊大さの色を帯びる前のアメリカでもある。

主人公サルとアメリカ中を駆け巡るディーンは、狂人すれすれの奇行と社交性を持つ人物として描かれる。だが、そんな彼らにも、やがて落ち着きの日がやってくる。いくら乱痴奇騒ぎを繰り広げようが、彼らも叔母の前では汚い言葉を控えるようになる。彼らとつるんで騒いでいた友人たちも、やがて常識的な言動を身に付け始める。

それは、アメリカが建国以来持ち続けいた、素朴な開拓者スピリットを脱ぎ捨て、政治・文化のリーダーとして振る舞い始める様を思わせないか。サルとディーンが見せる躁鬱の繰り返しは、アメリカ自身が19世紀後半から見せて来た内戦と繁栄の焼き直しに思える。

本書で印象を受けたのは、冒頭に掲げたような言葉だ。これらのセリフは、彼らが旅を終えてから次の旅までの間、金を稼ぎ妻子を養ったりしている間にはかれる。旅中のハイテンションな日々を躁とすれば、旅の合間の準備期間は鬱ともいえる。

だが、本書がひときわ輝いているのは、実はその合間とも言える鬱の時期だ。狂騒の時期はひたすら騒がしい描写に終始しているが、静かな時期にこそ、人生の陰影が彫り込まれてる。その深みは、読者に印象を与える。

冒頭に掲げた二つの文はまさに旅の合間のセリフだ。このセリフには、旅というものの本質が見事に表されている。

私自身、旅への衝動に従って生きてきた。今もそれに身を委ねては、気の向くままに放浪したいと思っている。なので、彼らが旅の合間、稼いだり妻子を養っている間に感じる焦燥感や衝動はとても理解できるのだ。

旅にこそ、人生の実感はある。旅にこそ、人々との触れ合いがある。

だが、旅とはリスクの塊だ。離婚と結婚を繰り返すディーンの生きざまは、旅が結婚という定住生活の対極にあることがわかる。

旅と結婚。その二つは相反するものなのかもしれない。

二つの生き方に迷い、引き裂かれてわれわれは生きていく。本書のサルとディーンのように。

サルが著者ケルアックであり、ディーンがニール・キャサディてあることは訳者が後書きで触れている。著者はビート・ジェネレーションの名付け親であり、その代表的な存在としても知られている。キャサディもまた、破天荒な人生を送った事で知られている。結局、二人ともヒッピー文化が華やかなりし時期に相次いで亡くなっている。本書の終盤で、ディーンはサルと離ればなれになってしまう。サルもディーンも本書において、どういう末路をたどったのか本書には書かれていない。多分、定住を拒み続けただろうし、末路も平穏では済まなかっただろう。

でも、人の一生はそれぞれ。彼らは後悔しなかったに違いない。そもそも人生とは旅なのだから。たとえ結末が惨めなものだったとしても。決して後悔しない。安定を求めない。それが旅人というもの。

私もそういう姿勢で生きていこうと思う。

‘2016/11/01-2016/11/13


澄みわたる大地


魔術的リアリズムの定義を語れ、と問われて、いったい何人が答えられるだろう。ほとんどの方には無理難題に違いない。ラテンアメリカ文学に惹かれ、数十冊は読んできだ私にも同じこと。魔術的リアリズムという言葉は当ブログでも幾度か使ってきたが、しょせんは知ったかぶりにすぎない。だが、寺尾氏による『魔術的リアリズム』は、その定義を明らかにした好著であった。

その中で寺尾氏は、魔術的リアリズムに親しい小説や評論をかなり紹介してくださっている。その中には私の知らない、そもそも和訳がまだで読むことすらままならない作品がいくつも含まれていた。

著者略歴には寺尾氏が訳したラテンアメリカの作家の著作も数冊載っている。それによって知ったのは、寺尾氏が、理論だけでなく実践「翻訳」もする方であること。私は寺尾氏がまだ知らぬラテンアメリカ文学を翻訳してくれることを願う。

そんなところに、本書を見掛けた。著者はラテンアメリカ文学を語る上で必ず名の挙がる作家だ。だが、上述の寺尾氏の著作の中では、著者の作品はあまり取り上げられていない。作風が魔術的リアリズムとは少し違うため、寺尾氏の論旨には必要なかったのだろう。だが、著者の名は幾度も登場する。メキシコの文学シーンを庇護し、魔術的リアリズムを世界的なムーブメントへと育てるのに大きな役割を果たした立役者として。その様な著者の作品を訳したのが寺尾氏であれば、読むしかない。

本書はセルバンテス文化センター鯵書の一冊に連なっている。セルバンテス文化センターとは、麹町にあってスペイン語圏の文化を発信している。私も二度ほど訪れたことがある。セルバンテス文化センターでは、スペイン本国だけでなくスペイン語圏を包括している。つまり、本書のようなメキシコを舞台とした文学も網羅するわけだ。

そういったバックがあるからかは知らないが、本書の内容には気合いが入っている。小説の内容はもちろんだが、内容を補足するための資料が充実しているのだ。

脇役に至るまで登場するあらゆる人物の一覧。メキシコシティの地図。本書に登場したり、名前が言及されるあらゆる人物の略歴。さらには年表。この年表もすごい。本書の舞台である1950年代初頭までさかのぼったメキシコの近代史だけでなく、そこには本書の登場人物たちの人物史も載っている。

なぜここまで丁寧な付録があるかというと、本書を理解するためには少々の知識を必要とするからだ。革命をへて都市化されつつあるメキシコ。農地を手広く経営する土地持ちが没落する一方で、資本家が勃興してマネーゲームに狂奔するメキシコ。そのようなメキシコの昔と今、地方と都市が本書の中で目まぐるしく交錯する。なので、本書を真に理解しようと思えば、付録は欠かせない。もっとも、私は付録をあまり参照しなかった。それは私がメキシコ史を知悉していたから、ではもちろんない。一回目はまず筋を読むことに専念したからだ。なので登場人物達の会話に登場する土地や人物について、理解せぬままに読み進めたことを告白する。

筋書きそのものも、はじめは取っ付きにくい思いように思える。私も物語世界になかなか入り込めないもどかしさを感じながら読み進めた。それは、訳者の訳がまずいからではない。そもそも原書自体がやさしく書かれているわけではないから。

冒頭のイスカ・シエンフエゴスによる、メキシコを総括するかのような壮大な独白から場面は一転、どこかのサロンに集う人々の様子が書かれる。紹介もそこそこに大勢の人物が現れては人となりや地位を仄めかすようなせりふを吐いて去ってゆく。読者はいきなり大勢の登場人物に向き合わされることになる。やわな読者であればここで本書を放り投げてしまいそうだ。本書に付されている付録は、ここで役に立つはずだ。

前半のこのシーンで読者の多くをふるいにかけたあと、著者はそれぞれの登場人物を個別に語り始める。それぞれの個人史は、すなわちメキシコの各地の歴史が語られることに等しい。メキシコの地理や歴史を知らない読者は、物語に置いていかれそうになる。またまた付録と本編を行きつ戻りつするのが望ましい。

実のところ、中盤までの本書は導入部だ。読者にとっては退屈さとの戦いになるかもしれない。

しかし中盤以降、本書はがぜん魅力を放ち始める。本書は、文章の表現や比喩の一つ一つが意表をついた技巧で飾られている。それは、著者と訳者による共作の芸術とさえ言える。前半にも技巧が凝らされた文章でつづられているのだが、いかんせん世界に入り込めない以上は、飾りがかえって邪魔になるだけだ。だが、一度本書の世界観に入り込むことに成功すると、それらの文章が生き生きとし始めるのだ。

文章が輝きを放つにつれ、本書内での登場人物達の立ち位置もあらわになって行く。ここに至ってようやく冒頭のサロンで人々が交わす言葉の意味が明らかになっていく。本書はそのような趣向からなっている。

登場人物たちが迎える運命の流れは、読者にページをめくる手を速めさせる。本書を読み進めていくうちに読者は理解するはずだ。本書がメキシコを時間の流れから書き出そうとする壮大な試みであることに。

革命とその後に続く試行錯誤の日々に翻弄される人々。その変わりゆく営みのあり方はさまざまだ。成り上がり階級の人々が謳歌していた栄華は、恥辱に塗れ、廃虚となる。没落地主の雌伏の日々は、名声の中に迎えられる。人々の境遇や立場は、時代の渦にはもろい。本書の中でもそれらは不安定に乱れ舞う。吉事に一喜し、凶事に一憂する人々。著者のレトリックはそんな様子を余すところなく自在に書いてゆく。閃きが縦横に走り、メキシコの混乱した世相が映像的に描き尽くされる。

だが、それらの描写はあくまでも比喩として多彩なのだ。非現実的な出来事は本書には起こらない。つまり、本書は魔術的リアリズムの系譜に連なる作品ではないのだ。それでいて、本書の構成、描写など、間違いなくラテンアメリカ文学の代表として堂々たるものだと思う。おそらくは、寺尾氏もそれを考えて『魔術的リアリズム』に本書を取り上げなかったと思われる。だが、魔術的リアリズムを抜きにしても、本書はラテンアメリカ文学史に残るべき一冊だ。寺尾氏も我が意を得たりと、本書の翻訳を引き受けたのだと思う。

‘2016/07/17-2016/08/05


007 SPECTRE


東西冷戦、宇宙開発、冷戦後の情勢、最新技術。007は、常に時代を取り入れ、スクリーンに映し出す。ダニエル・クレイグのボンドになってからの007も最初の2作は、最新の技術を惜しげもなく展開していた。例えば、スタイリッシュなオープニングシーン。クレイグ版のボンドは、オープニングシーンだけで素晴らしい映像美が楽しめる。ここだけで映像技術の最先端が味わえること間違いないほどの。ボンドがスマホを自在に扱う姿や巨大なタッチパネルを自在に操る様子からはIT技術の最先端が読み取れた。それこそ、どんなSF映画よりも未来の技術を先取りしている、それが007だった。

が、前作のスカイフォールからは、意図してか、時代に007を合わせていない。仕掛けもストーリーも内省的なボンドに合わせて原点回帰している気がする。仕掛けについてはあまりにITの技術発展が早すぎて、作中でどう活かすか決め切れていないのではないか。前作スカイフォールからQ役がベン・ウィショーへと替わっている。IT技術が全盛の今は年輩のQよりも若々しいQのほうが、リアリティがあってよい。ベン・ウィショー扮するQはIT技術を活かすのにふさわしい外見で、はまり役といえる。それにも関わらず、映画の仕掛けからはIT技術が遠ざかっているように思えるのは皮肉だ。本作でもCがMにドローンを使えば007など不要と言い放つ台詞がある。つまり、007はもはやITの進展には追い付けない。そのことを自覚し、方向転換を宣言した台詞ではなかったか。

007の製作陣もそういった時代の空気の変化を敏感に察知し、007の中におけるITの役割を控えめにしたと思われる。IT技術の替わりにここ2作で目立つのはボンドの内面描写である。ボンド自身の過去に潜む秘密を抱えながら、ボンドがどう振る舞い、どうスパイとしての自分を律してゆくのか。本作でも寡黙でありかつ僅かに揺れるボンドの内面が見事に描かれている。先ほど、CがMに対して語る台詞を紹介した。それに対してMがCに対して返答する台詞がある。ドローンもその他IT技術をいかに使おうとも、結局殺すか殺さないかを決めるのはボンド自身だと。この台詞に製作者たちの想いの一つは凝縮されているといえるだろう。

ITのような小道具に頼らないと決めたのであれば、どうすべきか。それは、アクション映画の本分に力を入れることである。本作のアクションシーンは、007の50年間のエッセンスを詰め込んだごとく素晴らしい。特にオープニングアクトの「死者の日」のソカロ広場上空でのシーン。死者に扮した多数のエキストラがソカロ広場を逃げ惑い、広場上空では不安定に錐もみするヘリコプターの中で壮絶なアクションが繰り広げられる。このシーンだけでも観客は手を握り締め、固唾を呑むに違いない。万が一失敗したらエキストラもただでは済まないはずだが、縦に横に360度旋回するヘリコプターの映像はCGが使われている気配は感じさせないほどリアルだった。見事である。

また、ローマの街中でのカーチェイスも良かったし、オーストリアの雪山のランドローバーと飛行機の追跡シーンも良かった。それらシーンに登場するのは、ミスター・ヒンクス。元総合格闘技家の迫力をフルに活かしての立ち回りは歴代のボンド悪役でも随一ではないか。最後にボンドが勝つと思いながらも、「ボンド危うし」と思わせたのはさすがである。デイヴ・バウティスタというこの役者には注目したい。

だが、もちろん本作の黒幕はミスター・ヒンクスではない。スペクターの首領であるあの方である。血を汚す仕事は部下に任せ、首領たるものあくまでスマートにスタイリッシュに、という意図は分かる。分かるのだが、少し演技を抑制しすぎのように思えた。クリストフ・ヴァルツは私が興味を持っている役者で、本作でも「イングロリアス・バスターズ」で魅せたあのナチス将校の冷静と狂気を揺れる絶妙な演技を期待していただけに、そこは少し消化不良。まあ007の黒幕に共通するのは知的で冷静な振る舞いである。その役作りに縛られてしまったと云ってしまえばそれまでだが。

さて、007といえば、Qの新技術や悪役以外にも楽しめる要素がいろいろある。まずは冒頭。かつての007には必ずあったシーン。左からは銃口が、右からは歩いてくるボンド。重なった瞬間左に振り向き観客へ発砲する。このシーン、ダニエル・クレイグ版では初めて使われたのではないか。これは正直いって嬉しい。50周年の節目ということもあったのだろうか。

さらにオープニングシーン。映像美の見事さは上に書いたが、今回のサム・スミス歌う主題歌がなかなか良かった。007の主題歌は、歴代あまりキャッチーさは求められておらず、007の世界観を壊さないものが多かったように思う。(とはいえ、私が一番好きな007の主題歌は、キャッチーなa-haのThe Living Daylightsやデュラン・デュランのA View To A Killなのだが)。が、本作のサム・スミスの主題歌は久々になんか来た気がする。本作のオープニングシーンが、ここ3作とは違い、煌びやかな演出ではなかったためかもしれない。ここ3作は映像美だけでぐっとスクリーンに引き込まれてしまい、音楽に意識が行かなかった。しかし、本作は映像とともに主題歌も脳内に入ってきた。

続いてボンド・ガール。今回はモニカ・ベルッチという意表をついたところで来た。すでに大分年齢を重ねられているようだが、妖艶さはさすがというところか。とはいえ、最近のご本人の出演作はほとんど観ていない。時間があれば観たいと思うのだが。そして入れ替わるように後半のボンド・ガールを務めるのはレア・セドゥ。最近よくスクリーンでお見かけする。確かミッション・インポッシブルにも出ていなかったっけ?007とミッション・インポッシブルの両シリーズでヒロインを張るって凄いことだと思う。上にも書いたがここ2作の007は技術を追うのではなく、内面描写に重点が充てられている。ヒロインが超格闘技のような活躍をすれば興ざめになってしまうが、今回もその辺りの演技は自然体のようで素晴らしいと思った。

最後に、ジェームズ・ボンド。今までの007と違い、ダニエル・クレイグのボンド作は全て劇場で観ている。切れのある動きや抑制された内面など、私は凄く素敵だと思っている。本作の終わり方は、ダニエル・クレイグ勇退を思わせるような感じなのだが、報道で観る限りではまだ続投するとか。どっちなのだろう?いずれにせよ、次回もまた彼がジェームズ・ボンドに扮するのであれば是非観に行きたいと思う。

’2015/12/19 イオンシネマ新百合ヶ丘


すべての美しい馬


少年と青年を隔てるものがなにか、という主題について近代文学では、幾多の作家が採り上げてきた。

大部分の人は少年から青年への移り変わりに気付かず、青年になって初めて自分が何を失い何を背負ったかを知る。そして、社会に囲われ時代に追われる自分を突き付けられる度に、こんなはずではなかったと精進を誓い、そこから逃れるために少年期の自分が何者だったかもう一度思い返そうと文章に表したり、読み返したりすることで、失われた過去を取り戻そうとする。

私などがそのいい見本である。

本書は少年から青年への通過儀礼を描く試みに成功しているばかりか、国境越えと恋愛、そして荒野と都会との対比など、重層的なテーマを詩的な文体の中に散りばめることで、見事な文学作品として体をなしている。

広がる荒野、夜空に瞬く星々、素朴な人々、そして生命力の象徴である馬。それら描写は少年のまっさらな人生のこれからの可能性を想像させて余りある。

逆に、少年の農場が工場になる将来、粗暴な人々、新たな出会い、そして別れは青年に降りかかる試練を暗示しているように思える。

本書では重要な分岐点として、主人公の燃えるような恋と、それがもたらす新たな苦難についても残酷なまでに筆を揮っている。人生にとって恋が分岐点となる展開は、通俗的ではあるが、外せない点ではないか。

読み終えた後、読者は主人公たちが少年から青年へと成長を遂げ、これから彼らがどんな人生を歩んでいくのだろうと思わずにはいられない。子供の時にあれほど憧れていた大人の世界を、大人になった今どう思っているか、読者の想像力に委ねられる部分であり、読書の醍醐味もここにあるのではないだろうか。

大方の人がこういった分かり易い通過儀礼を経ている訳ではないけれど、自分の過ぎ去った成長の跡を思い返すきっかけには相応しい作品である。

’12/02/24-’12/02/29