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心のふるさと


今までも何度かブログで触れたが、私は著者に対して一方的な親しみを持っている。
それは西宮で育ち、町田で脂の乗った時期を過ごした共通点があるからだ。
また、エッセイで見せる著者の力の抜けた人柄は、とかく肩に力の入りがちだった私に貴重な教えをくれた。同士というか先生というか。

タイトル通り、本書で著者は昔を振り返っている。
すでに大家として悠々自適な地位にある著者が、自らの活動を振り返り、思い出をつづる。その内容も力が抜けていて、老いの快適さを読者に教えてくれる。

冒頭から著者は自らのルーツに迫る。
著者のルーツは岡山の竹井氏だそうだ。竹井氏にゆかりのある地を訪ね、自身のルーツに思いを馳せる内容は、まさに紀行文そのものだ。

続いて著者は、若き日の思い出を章に分けて振り返る。
著者がクリスチャンであることはよく知られている。そして、当社が幼い頃に西宮に住んでいたことも。
西宮には夙川と言う地がある。そこの夙川教会は著者が洗礼を浴びた場所であり、著者にとって思い出の深い教会であるようだ。
そこの神父のことを著者は懐かしそうに語る。そして著者が手のつけられない悪童として、教会を舞台にしでかした悪行の数々と、神父を手こずらせたゴンタな日々が懐かしそうに語られる。

また、著者が慶応で学ぶなか、文学に染まっていった頃の事も語られる。同時に、著者が作家見習いとして薫陶を受けてきた先生がたのことも語られていく。
その中には、著者が親交を結んだ作家とのエピソードや、他の分野で一流の人物となった人々との若き日の交流がつぶさに語られていく。

「マドンナ愛子と灘中生・楠本」
本書に登場する人物は、著者も含めてほとんどが物故者である。
だが、唯一存命な方がいる。それは作家の佐藤愛子氏だ。
90歳を過ぎてなお、ベストセラー作家として名高い佐藤愛子氏だが、学生時代の美貌は多くの写真に残されている。
この章では、学生の頃の佐藤愛子氏が電車の中で目を引く存在だったことや、同じ時期に灘中の学生だった著者らから憧れの目で見られていたこと。また佐藤愛子氏が霊感の強い人で、北海道の別荘のポルターガイスト現象に悩んでいたことなど、佐藤愛子氏のエッセイにも登場するエピソードが、著者の視点から語られる。

「消えた文学の原点」と名付けられた章では、著者は西宮の各地を語っている。書かれたのは、阪神・淡路大震災の直後と思われる。
著者のなじみの地である仁川や夙川は、阪神・淡路大震災では甚大な被害を被った。
著者にとって子供の時代を過ごした懐かしい時が、地震によってその様相をがらりと変えてしまったことへの悲しみ。これは、同じ地を故郷とする私にとって強い共感が持てる思いだ。
本編もまた、私に著者を親しみをもって感じさせてくれる。

本書を読んでいて思うのが、著者の交流範囲の広さだ。その華やかな交流には驚かされる。
さらに言えば、著者の師匠から受けた影響の大きさにも見るべき点が多々ある。
私自身、自らの人生を振り返って思い返すに、そうした師匠にあたる人物を持たずにここまで生きてきた。目標とする人はいたし、短期間、技術を盗ませてもらった恩人もいる。だが、手取り足取り教えてもらった師匠を持たずに生きてきた。それは、私にとって悔いとして残っている。

別の章「アルバイトのことなど」では、著者が戦後すぐにアルバイトをしていた経験や、フランスのリヨンで留学し、アルバイトをしていたことなど、懐かしい思い出が生き生きと描かれている。かつて美しかった女性が、送られてきた写真では、おばあさんになってしまったことなど、老境に入った思い出の無残が、さりげなく描かれているのも本書にユーモアと同時に悲しみをもたらしている。

また別の章「幽霊の思い出」では、怪談が好きな著者が体験した怪談話が記されている。好奇心が旺盛なことは著者の代名詞でもある。だから、そんな好奇心のしっぺ返しを食うこともあったようだ。
私に霊感は全くない。ただ、好奇心だけはいまだに持ち続けている。こうした体験を数多くしてきた著者は羨ましいし、うらやましがるだけでなく、私自身も好奇心だけは老境に入っても絶対に失いたくないと強く思う。

他の章には、エッセイが七つほどちりばめられている。

「風立ちぬ」で知られる堀辰雄のエッセイの文体から、「テレーズ・デスケルウ」との共通点を語り、後者が著者にとって生涯の愛読書となったことや、堀辰雄やモウリヤックの作品から、宗教と無意識、無意識による罪のテーマを見いだし、それが著者の生涯の執筆テーマとなったことなど、著者の愛読者にとっては読み流せない記述が続く。

また、本書は著者の創作日記や小説技術についての短いエッセイも載っている。
著者のユーモリストとしての側面を見ているだけでも楽しいが、著者の本分は文学にある。
その著者がどのようにして創作してきたのかについての内容には興味を惹かれる。
特に創作日記をつける営みは、作家の中でどのようにアイデアが生まれ育っていくかを知る上で作家への志望者には参考になるはずだ。

著者は、他の作家の日記を読む事も好んでいたようだ。作家の日々の暮らしや、観察眼がどのように創作物として昇華されたのかなどに興味を惹かれるそうだ。
それは私たち読者が本書に対して感じることと同じ。
本書に収められた著者のエッセイを読んでいると、一人の人間の日常と創作のバランスが伺える。本書を読み、ますます著書に親しみを持った。

‘2019/7/21-2019/7/21


アクアビット航海記 vol.14〜航海記 その3


あらためまして、合同会社アクアビットの長井です。前回にも書きましたが、弊社の起業物語をこちらに転載させて頂くことになりました。前々回からタイトルにそって弊社の航海記を書いていきます。以下の文は2017/11/9にアップした当時の文章が喪われたので、一部修正しています。

違う環境に身を置くこと

もう一つ。起業にとって大きな糧となったこと。その糧は、大学のキャンバス内ではなく、大学の外で得ました。当時、ダブルスクールという言葉がありました。ダブルスクールとは、大学以外の別の学校でも学ぶことを指します。そこに入るきっかけはどうだったか覚えていません。多分、電話セールスだったはず。

世間知らずの私は言葉巧みに会う約束を交わされ、そして契約してしまったのです。正直、その金額は覚えていませんが、80万くらいだったのではないかと思います。しかもあろうことか、私はこの学校の名前を忘れていました。この連載までずっと。トリニティー・アカデミーという学校です。今、調べたところ、名前が変わったみたいですね。しかも当時の勧誘方法に問題があったことまでWikipediaに書かれています。営業の方のお名前や顔も覚えていないし、どういう営業トークだったかも覚えていません。ですが、言葉巧みな営業トークで契約まで追い込まれたのでしょうね。親に払ってもらったことにとても感謝しています。

学校の名前すら憶えていなかったくらいなので、そこでの交流関係は当時も今も全くありません。友人は一人も作れなかったし。ところが、そこで得たスキルが今なお役に立っているのだから、何事もやってみるものです

確かこの学校のカリキュラムはワープロとパソコン、英会話の三コースから成り立っていました。パソコンの授業内容は今から思えばベーシック言語で丸や図形を描くといった、ビジネスではまったく使えない類の授業。英会話も当時ならったスキルが自分にどう身に付いたのか心もとないです(第十二回で書いた台湾一周旅行には役立ったのかもしれませんが)。ですが、ワープロコースだけは違いました。なぜなら、私はブラインドタッチをこのコースでマスターしたためです。私はワープロ検定の3級と2級を持っているのですが、その試験もこの学校で受けました。ブラインドタッチこそ、私が後年、パソコンで身を立てる素地となったのです。

もともと中学の頃から家にあったワープロ(確かSANYO製SWP-330だったはず)で、大名家の家系図作りや、アドベンチャー・ゲームを作っていました(うーん、インドアやなぁ)。ところがキータッチは完全に自己流。とても仕事で使えるレベルではありませんでした。でも、この学校で覚えたブラインドタッチが、私にとって重要な武器となったのです。

これだから人生どうなるか分からない。もちろん、私がプログラミングやシステムエンジニアで食っていくなど、当時は想像すらしません。ましてや起業するなど。

もし本連載を読んでいる学生の方がいらっしゃったら、違う環境に身を置いてみること、と忠告しておきたいです。

アルバイトも社会経験の一つです

最後に糧になったこと。それはアルバイト経験です。

建前をいえば、大学生は学ぶことが本分です。アルバイトにうつつを抜かすなどもってのほか、という声があることも理解できます。その上で敢えて言います。社会経験としてアルバイトは必要だと思います。今、せっかく新卒で入った会社を性に合わないとすぐやめてしまう方が多いといいます。ま、私もあまり人のことはいえませんが。それでも私があえて言うとすれば、大学時代になるべく大変なアルバイトを、しかもいろんな職種を経験しておくべきだと思うのです。そうすれば社会人になってもある程度応用は効くはず。ま、入った会社によってまちまちな環境であることは承知の上ですけどね。

私自身のバイト経験ですが、高校の頃は甲子園球場の売り子、年末年始の年賀状配達ぐらいでした。大学に入ってからはダイエー塚口店で日配食品売り場の整理。プランタン甲子園店で自転車整理。プランタン甲子園店の電機売り場でワープロの販売員。そして都ホテル甲子園を拠点とした配膳スタッフを順にこなしました。特に最後の二つは後年の起業を語る上で欠かせません。

ワープロの販売などやったこともない中で、自転車整理から電機売り場にスカウトされまして。もちろん販売ノウハウなどあるわけありません。私はカシオ計算機の販売スタッフとして、カシオのワープロを売っていました。当時のワープロ市場でもカシオ社製はメジャーではありませんでした。ただ、上に書いた通り中学のころからワープロには親しんでいた私。販売員として店頭に立ちながら、自分なりに工夫して売っていたのです。そして私のセールストークで何台も売り上げることもできました。これは自信になりましたね。商談して提案して販売する快感を得たのはこの時だったと思います。実際、カシオ社からは辞める際に引き留められたくらいなので。

また、最後の配膳スタッフは大学3,4回生の2年間を捧げました。配膳スタッフとは結婚式の料理を配膳するホールスタッフと思ってもらえればよいです。これがまた大変なお仕事。表向きの優雅な給仕とは違い、裏側は体育会系の怒号乱れる現場なのです。時間単価は高かったので大学卒業まで勤め上げましたが、よくぞ自分でも続けたものだと思います。もちろん私は、落ちこぼれの配膳スタッフだったと思います。ミスもヘマも何度もしでかしましたし。

こういうチームワークや協力関係が求められる現場は、私はとても向いていないと思いました。自分の仕事のやりかたや向き不向きを知ったことだけでもとてもよい経験だったと思います。ワープロ販売員と配膳スタッフの経験は、私に社会に出る前に自分の素養を教えてくれました。とても得難い経験です。アルバイト関係の交流は、ダイエー塚口店のアルバイト仲間との交流を除いて、今や消滅してしまいました。残念です。

もし本連載を読んでいる学生の方がいらっしゃったら、社会経験を積め、と忠告しておきたいです。

大学時代のまとめ

大きく四つ、大学時代の私を振り返ってみました。こうやって書いていても、当時の私からは、”起業”して社会に活躍するイメージが全くわいてきません。自分のことなのに。いや、当時は当時なりに頑張って生きていたのでしょう。

キャンバスライフをステレオタイプに分けたとして、体育会系で上下関係を叩き込まれる、サークルでぶいぶい言わせる、学術に没頭して学問の世界にのめりこむ、の三つがあります。でも、私のキャンバスライフは三つのどれにも当てはまりません

でも、当時こそ全く気づいていなかったのですが、今から思えば”起業”するための素養は大学のキャンバスライフで養われていたのですね。起業には直接関係ないので触れませんでしたが、他にも大学生活では今から考えると貴重な経験を積まさせていただきました。本当に関わった皆様には感謝です。遊んでばかりいたように思っていましたが、人生で過ごす時間に無駄なものは一つもない、と逆説を言っておきたいです。

次回は、漂流を始めた私の日々を書きます。


二流小説家


宝島社の「このミステリがすごい」は私が毎年必ず買い求めるガイド本だ。本書は「このミステリがすごい」2012年版の海外部門で一位になっている。

主人公は売れない作家。そのため、ポルノやミステリ、SFなどジャンルごとに筆名を使い分けている。糊口をしのぐためSM雑誌で相談者に扮して読者からの相談を受けていた時期もある。

そんな彼のもとに著名なシリアルキラー、ダリアン・クレイから手紙が届く。

クレイは12年前に死刑判決を受け服役中の身だ。彼の犯罪は殺人だけにとどまらない。人体を愚弄しきった、残虐かつ凄惨な処置を四人の被害者の死体に加えたのだ。その全貌は明るみになっておらず、遺体の頭部はいまだに見つかっていない。

手紙の中で、クレイは相談者ハリーの回答文に注目していたと述べる。さらに全ての事実を告白するからその告白本の著者にならないか、と申し出る。

黙殺するにはあまりにも魅力的な話。興味を惹かれ、ハリーは刑務所に面会に行く。面会の結果はハリーよりも、むしろクレアの興味を激しく沸き立たせる。クレアはハリーがアルバイトでやっている家庭教師の教え子で女子高生。今では教え子の立場を超えてハリーの作家業のエージェントまで買って出てくれている。ハリーの名が一気に有名になる千載一遇のチャンスにクレアが舞い上がってしまう。

しかし、ハリーが面会の場でクレイから出された執筆条件はとても奇妙なものだった。クレイのようなシリアルキラーに憧れ、歪んだ妄想に浸る人物は多い。クレイのもとにはそういう情欲をもつ女性から、常軌を逸したレターが届く。

ハリーがクレイから頼まれたのは、それらの女性に逢うこと。そして、彼女達とクレイの濡れ場を描いたポルノ小説を執筆すること。その執筆と引き換えに少しずつ告白をしようというのがクレイの出した条件だ。

気が進まないながらもしぶしぶ女性たちに会うハリー。ひと通り話を聞き終わったハリーは、再び最初に話を聞いた女性のもとを訪れる。そこでハリーが目にしたのは、クレイによる犯罪を思わせるグロテスクな死体。危険を感じたハリーは同様に逢って話を聞いた残りの二人の家に駆けつける。だが、すでにその場は殺戮と凄惨な処置を加えられた慘死体で彩られていた。これが本書の序盤の筋書きだ。

エロとグロにまみれた本書の語り手はハリー本人。ハリーは自らを二流の作家として自嘲している。家庭教師のバイトをこなさねばならない低収入。クレイの誘いに乗ってしまうほど名声に飢えている現状。

それでいながら、本書はハリーの語りに読み応えがある。読者に語りかけるようなハリーの語り口は当事者でありながら他人事のようだ。その客観的な語りと視点は、エロとグロにまみれ低俗な読み物となってしまいがちな本書を引き締める。エロとグロをここまで描きながら客観的な視点を保ち続けられるのは、著者が実際にポルノ業界に身をおいていたからかもしれない。本書には相当に踏み込んだ描写も出てくるが、品を失わない著者の筆さばきは見事というほかない。

それには訳者の功も大きいだろう。本書には女性にとっては口にするのも憚られるような描写が幾度も出てくる。しかし訳者は女性でありながら、怯むことなく訳しきっている。訳者のプロ意識に対して失礼を承知で、評価させて頂きたい。

実際、本書は筋書きや謎解きも一級品だ。それだけでも優れたミステリとして読める。だがそれ以上にハリーの語り口が本書の優れた点だ。ハリーの語りはともすればミステリに慣れた読者の先手を行く。読者に語りかけながら読者を導く筆致。それは、絶妙に読者を幻惑させる。

エロとグロに加え、登場人物達も脇役に至るまできっちり書かれている。となれば、本書にけちをつける余地はないだろう。

強いていえば一つだけ引っかかる点がある。それは犯人の素性について。果たして日本では、この犯人でここまでの犯罪は可能なのだろうか。きっと成り立たないはずだ。もしくはアメリカの制度だから許されるのだろうか。そこが私には分からなかった。この点は本書の謎に直結する部分なのでこれ以上書かない。だが、私の中で少しの引っ掛かりとして残った。

もちろん、本書の完成度にとっては些細なことでしかないのは勿論だが。

‘2016/04/21-2016/04/26