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全一冊 小説 立花宗茂


先日に読んだ『立花三将伝』はとても面白かった。本書はそれに続いて読んだ一冊だ。
『立花三将伝』は、立花家の滅びを描いていた。作中の中でも史実でも、立花家は一度終わった。そして、新たな立花家の当主に就いたのが、戸次道雪とその養子である立花宗茂だ。

立花宗茂といえば関ヶ原の戦いで西軍に属し、一度は領地を没収された。その境遇から旧領に復帰した唯一の大名としてよく知られている。
その起伏に満ちた生涯を描いていているのが本書だ。
著者はさまざまな歴史上の人物を取り上げ、それを小説仕立てにする技術に長けている。
立花宗茂の生涯を小説にし、概観するには適任の方だ。

本書は、関ヶ原の敗戦後から始まる。肥後の加藤家の下で食客として過ごす中、京に出て浪人となる道を選ぶ。殿についていきたいと願う多数の家臣から一九名をくじで選び、故郷を出た一行。京では日々の糧を得るため、虚無僧に身をやつしたり、人足に出かけたりする家臣たち。皆、殿のために役に立てることに喜びを感じ、進んで労役に就く。

その時期の立花宗茂を表すとしてよく取り上げられるのが、以下の挿話だ。
家臣が干飯を作ろうと干していた飯を、雨が降り出して台無しになりつつある中、何もしなかった立花宗茂。
小事にこだわらず、大事にまい進する。将たるものはこうでなければ。小事にこだわらない立花宗茂の姿勢を示し、将の心構えを端的に表す挿話としても分かりやすい。

この挿話は浪人時代、十九人の家臣と京にいた時のものだ。何百、何千、何万の家臣を従えているならまだしも、十九人ならば私の手の届く人数だ。
少ない人数であれば、それぞれがそれぞれのことに手一杯。さらに十九人がそれぞれすべての事を差配しなければならない。だが、そのような中にあって、立花宗茂は小事にこだわらない。
将が悠揚とした姿勢を貫く事は容易ではない。ここで卑屈になってはならない。家臣たちの心を案じて同じ視点を持ち、同じように振る舞ったらそれはもう殿ではない。家臣からの信を失ってしまう。
家臣たちもそんな殿だからこそ仕えがいがあると信じてついて行く。

もちろん立花宗茂は暗愚な武将ではない。干飯が十九人の糧であることも何となく察している。その上でその様な些事にあえて手を付けないことも自分の役割だと分かっている。そして彼は自分を「作為的な道化者」として演じる道を選ぶ。

著者は、このときの立花宗茂の心中をこのように書いている。あえて家臣たちが自分に信じてついてきてくれている。そうである以上、家臣が付いて来てもらえるのにふさわしい将たる姿勢を演じよう、と。それが家臣の安心につながるのであれば良いではないか。将とは、人の上に立つものとは、案外そういうものかもしれない。同じ船に乗っていても友達のようになってはダメなのだ。

私も勤め人から独立し、経営者になってきた。そして今は人を雇用するようになった。その中で、人の上に立つ者としてのあり方は何かを考えてきた。細かいことは気にせず、器を大きく保ち続けなければ、と。
だが、実際のところはまだ私がコーディングをすることが多い。商談も私が表に出る事がほとんどだ。そうした時、小事にこだわらねば事態は進まない。
小事にかかずらう度、私は自分の未熟さを痛感する。まだまだだと。もっと大局から見るようにしなければ、と。

本書は、冒頭の挿話を描いた後、立花宗茂の幼少から語り直していく。大友家中の二大大将として知られる高橋紹運と戸次道雪。高橋家に生まれた宗茂は、やがて戸次道雪の娘誾千代と夫婦になり、戸次家の養子になる。この二大将の下、人としての生き方や筋の通し方を学んでいく。島津家の侵攻に抗して豊臣軍について戦う日々。実父は、岩屋城の戦いとして知られる激烈な戦闘の末に命を落とし、いくさ人としての死にざまを人々に刻み付けた。
やがて、時代は豊臣家から徳川の世に移る。そして関ケ原の戦い前夜へ。その時、立花宗茂は、豊臣家の恩顧を忘れぬため、あえて西軍についた。
そこから京、そして江戸での浪人生活を経て、二代将軍秀忠の御相伴衆として呼ばれる。そこで秀忠の信任を得、陸奥棚倉一万石で大名に復帰する。さらに家康が亡くなってしばらくの後、旧領の柳川への復帰を果たす。

立花宗茂は筋を通したことによって道を開いてきた。それに尽きる。
棚倉をかりそめの地とは考えず、徳川家の恩を返すために必死に励んだ。そのため、骨を埋める覚悟を家臣たちや領民に示し、必死になって内政に取り組んだ。
本書にも書かれている通り、棚倉の地形を故郷の立花山城に似ているとして鼓舞するシーンもそう。私も棚倉には訪れたが、三つのこぶの山を探したものだ。

筋を通すことも私の課題だ。私は同じことをすることが嫌いだ。昨日と今日が違わず、同じであると苦痛を感じる。
私が大名であれば、次々と領地を変えてほしいと願うかもしれない。これではいけない。ついてくる人には筋道を示してやらないと。それも太く伸びる一本の筋を。
もちろん、私も弊社の中でも筋を示そうとはしている。クラウドを担いでシステムを提供する業務を社業に据えると。そのクラウドとはkintoneだ。弊社の業務を情報処理とし、それを一本の太い道として伸ばし、その道にはkintoneと書かれている。
だが、私は決してkintoneだけに限ろうとしない。IoTやメタバースにも手を出す。他のPaaS/SaaSにも関わってゆくし、kintone Caféやワーケーションのイベントにも頻繁に参加する。
もし一本の筋だけを進むことが真理なら、さしずめ私は節操がない代表なのだろう。

本書を読み、そうした経営者としての姿勢についてあらためて考えさせられた。
おそらく私の性分は、同じことを繰り返すことを今後とも嫌い続けるだろう。昨日と同じ明日を断じて避ける事だろう。
だが、それにメンバーを振り回さぬよう、自戒しなければ。

本書は将たるものの示すあり方を私に教えてくれた。

2020/10/29-2020/10/30


立花三将伝


2020年の夏に福岡へ出張した先のお客様が歴史に深い関心を持ち、立花宗茂を敬愛しておられる方だった。その方のお住まいも立花山城の近くだとか。伺った際に、歴史談義で大いに盛り上がってしまった。
私もせっかくのご縁なので、図書館で見かけた本書を手に取った。また福岡に来ることもあるだろうし。

だが、実は本書には立花宗茂はほぼ出てこない。プロローグとエピローグで立花家の主として間接的に触れられるぐらい。
立花宗茂の父である立花道雪は、本書の後半に重要なキャラクターとして登場する。だが、立花道雪も本書の中では本名である戸次鑑連の名前で描かれる。

立花家と言えば立花道雪と宗茂の親子が有名だ。たが、その二人は実の親子ではない。しかも、二人とも立花家の血筋を引いていない。
立花宗茂の実の親は岩屋城の戦いで知られた高橋紹運。立花道雪に請われて高橋家からの養子として迎えられたのが宗茂。そして、立花道雪のもともとの苗字は戸次。
立花家は、立花宗茂や立花道雪がその名を全国に知らしめる前に筑前で勢力を保っていた。だが、主家である大友家に二度にわたって反旗を翻したことで、結果として廃絶させられている。家名だけ存続させ、主人は戸次鑑連が大友家の命で就いた。立花家の人から見ると乗っ取られたのに等しい。

立花家とはそもそも大友家の家臣として長年奉公してきた。たが、その本拠地は筑前、つまり今の福岡にある。立花家の拠点である立花山城は博多と宗像の中間あたりに位置している。主家である大友家は豊後、つまり大分に本拠を構えており、筑前に盤石の基盤を築いていた訳ではない。
立花山城は、天然の良港である博多を見下ろす要衝にあり、良港を擁するこの辺りは、戦国時代の初期から、立花家、原田家、宗像家、秋月家などで小競り合いが続いていた。
さらにその周囲には龍造寺家や大内家が虎視眈々と狙っており、のちには毛利家や島津家にも狙われる。

立花家が道雪と宗茂によって全国的に名が知られる前の立花家は、不安定な領地を確保する小勢力に過ぎなかった。
そのような脆弱な立花家で奮闘する三人の将の物語。それこそが本書だ。
タイトルにも登場する三将とは、薦野弥十郎こと薦野増時と、米多比三左衛門こと米多比鎮久、そして藤木和泉の三名を指す。私は本書を読むまで、この三将のことは全く知らなかった。三将のうち先に挙げた二人はWikipediaにも項目として設けられている。が、もう一人の藤木和泉はWikipediaでは項目としてすら設けられていない。

Wikipediaで藤木和泉を検索しても、ヒットするのは上のWikipediaに登場する二人の記事のみ。
記事の中では、藤木和泉の名は、薦野増時と米多比鎮久を討伐するため、立花鑑載によって差し向けられた将として言及されている。
しかし、これ以外にあったはずの藤木和泉の事績や生涯の起伏にはWikipediaでは全く触れられていない。

頭ではわかっているつもりでもついつい忘れてしまうこと。それは戦国時代とは、有名な大名や軍師や武将だけの時代ではなかったことだ。庶民には庶民の暮らしがあり、悲喜こもごもの生活を繰り返していた。武将も同じ。巷間に伝えられるエピソードを持つ武将などほんの一部でしかない。ほとんどの武将は伝えるにふさわしいエピソードを持っていても、それが後世に伝わらぬままに戦場で死んでいく。私が知らないあまたの武将たちは、それぞれがそれぞれの縄張りを守るため、必死に戦っていた。彼らの逸話は語り継がれていないだけで、有名な武将たちに遜色のない、むしろそれ以上に勇壮で悲惨な武勇伝や挫折が無数にあったはずだ。

だが、後世の人たちがそれを知る術はない。私たちは藤木和泉が何をした人物かを知らない。ましてや、日々の暮らしでどのような悲しみや喜びを感じ、戦場ではどれほどの苦しみと昂りに炙られていたのかも知らない。

若いころから、米多比三左衛門と薦野弥十郎とともに立花家に忠節を貫いていた藤木和泉。だが、主君が大友家に反旗を翻したことによって家が二つに割れた。それによって固い友情を抱きながらも、三人は敵と味方に分かれ、その結果、生と死も分かれてしまった。米多比三左衛門と薦野弥十郎にとってかけがえのない友であり、名将の資質を存分に発揮していた藤木和泉。たが、若くして亡くなったため、名も残さぬままに戦国の渦の中に消えてしまった。後世の私たちに伝えられることもなく。

ここで登場する立花鑑載が、藤木和泉にとっての宿命だった。立花鑑載は大友家を二度にわたって裏切り、薦野増時と米多比鎮久の二名はその乱の中で親を殺されている。だが、下克上の世にあって藤木和泉は立花鑑載を主君として立てつづけ、忠誠を貫き通した。そして結局は立花家を後世に残すため、従容として死についた。
その覚悟を決めた姿はまさに本作のクライマックスといえる。

本書のプロローグは老年に差し掛かった米多比三左衛門が、関ヶ原の戦いで西軍に身を投じようとする直前にかつての友たちを懐かしむ。また、エピローグも隠居した米多比三左衛門が登場する。
そこに共通するのは時の流れだ。時の流れは斟酌せず、誰の上にも等しく影響を及ぼす。

著者は本書において、歴史に名を残さなかった者に光を当てようとする。歴史に名が残せるかどうかは、本人の能力や運もあるし、周りの協力があってこそだ。その人の実績を悪様に書かれても、本人には修正のしようがない。
それは今の私たちにも通じる。
今の私たちから数百年後の人類に私たちの日々の暮らしや実績を伝えられるだろうか。それはほぼ期待しない方がよい。だが、私たちは日々の生活を真剣に懸命に生きる。それが人生というものだから。

藤木和泉のように歴史に名を残さぬまま、優れた人物だった人は他にも無数にいるだろう。私たちは歴史小説を読むとき、そうした人のあり方にも心を向けたいものだ。

2020/10/12-2020/10/14