Articles tagged with:

ミッション:インポッシブル フォールアウト


イメージがこれほどまでに変わった俳優も珍しい。トム・クルーズのことだ。ハンサムなアイドルとしての若い頃から今まで早くも30年。今なお第一線にたち、相変わらずのアクションを見せている。しかもスタントなしで。ここまで大物俳優でありながら、芸術的な感性を感じる作品にも出演している。それでいて、50歳も半ばを超えているのに、本作のような激しいアクションにスタントなしで挑んでいるのだからすごい。もはや、若かった頃のアイドルのイメージとは対極にいると思う。

正直言うと、本作も半ばあたりぐらいまでは、『ミッション:インポッシブル』や『007』シリーズなどに共通するアクション映画のセオリーのような展開が目についてしまい、ほんの少しだけだが「もうおなかがいっぱい」との感想を抱きかけた。だが、本作の後半は違う。畳みかけるような、手に汗握る展開はシリーズでも一番だと思う。それどころか、今まで私が観てきたアクション映画でも一、二を争うほどの素晴らしさだと思う。

なぜ本書の後半の展開が素晴らしいのか。少し考えてみた。二つ思いついた。一つは、トム・クルーズふんするイーサン・ハントだけを完全無欠なヒーローとして描いていなかったことだ。もちろん、ハントのアクションは驚異的なものだ。それらのアクションのほとんどを50代半ばになるトム・クルーズがスタントなしで演じないことを考えるとなおさら。だが、彼にはIMFのチームがある。ベンジーとルーサー、そしてイルサのチーム。クライマックスに至るまで、ハントとハントのチームは最後の瞬間まで並行して難題に取り組む。普通、こうした映画の展開は、主人公が最後の戦いに挑むまでの間に、露払いのように道を開く仲間の活躍を描く。それは主人公を最後の戦いに、最大の見せ場にいざなうためだけに存在するかのように。だが、本作ではハントが最後の努力を続けるのと同時に、ハントの仲間たちもぎりぎりまで戦う。その演出はとてもよかった。もはや一人のスーパーヒーローがなんでも一人で成し遂げる展開は時代にそぐわないと思う。

また、超人的な活躍を繰り広げるハントの動きも本作のすばらしさに一役買っている。ハントの動きにうそが感じられないのだ。スタントが替わりに演じていたり、ワイヤーアクションによる動きは目の肥えた観客にはばれる。要するにトム・クルーズ自身がスタントなしで演じている様子が感じられるからこそ、本作の後半の展開が緊迫感を保てているのだと思う。

それを是が非でも訴えたいかのように、パンフレットにもスタントなしの撮影の大変さに言及されていることが多かった。トム・クルーズが撮影中に足を骨折したシーンと、全治9カ月と言われたケガからわずか6週間で撮影に復帰したトム・クルーズの努力。トム・クルーズがけがしたシーンは、パンフレットの記述から推測するに、ハントがイギリスで建物の屋根を走って追いかけるシーンで起こったようだ。骨を折っても当然と思えるほど、本書のアクションは派手だ。そして、ここで挙げたシーンの多くは、本作の前半のシーンだ。私が「もうおなかがいっぱい」とほざいたシーンとは、実は他のアクション映画ならそれだけでメインアクションとなりえるシーンなのだ。それらのシーンを差し置いても、終盤のアクションの緊張感が半端ないことが、本作のすごさを表している。

なお、50代半ばというトム・クルーズの年齢を表すように、直接肉体で戦うアクションシーンは本書にはそれほど出てこない。だが、本書にはそのことを感じられないほど、リアルで斬新なアクションシーンが多い。例えば成層圏を飛ぶ飛行機から飛び降りたり、ヘリコプターから吊り下げた荷物へと10数メートル飛び降りるシーン。パリの街並みを逆走してのバイクチェイス。イギリスで建物の屋上を走り抜け、ジャンプするシーン。そもそも、ミッション:インポッシブルのシリーズにはアクション映画におなじみの格闘シーンはさほど登場しない。それよりも独創的なアクションが多数登場するのがミッション:インポッシブルのシリーズなのだ。

ちなみに、本作はIMAXでみた。本当ならば4Dでみたかった。だが、なぜか4Dでは字幕ではなく、吹替になってしまう。それがなぜなのかわからなかったが、おそらく4Dの強烈な座席の揺れの中、観客が字幕を読むのが至難の業だからではないか、という推測が妻から出た。IMAXでもこれだけの素晴らしい音響が楽しめた。ならば、4Dではよりすごい体験が得られるのではないだろうか。

よく、映画は映画館でみたほうがよい、という作品にであう。本作は、映画館どころか、4Dのほうが、少なくともIMAXで観たほうが良い作品、といえるかもしれない。

なお、スタントやアクションのことばかり誉めているが、共演陣が素晴らしいことはもちろんだ。だが、本作の俳優がどれほど素晴らしかろうとも、アクションシーンの迫力がそれを凌駕している。

また、本作は少々ストーリーがややこしい。誰が誰の味方で、誰が誰の敵なのか、かなり観客は混乱させられる。私自身、本作の正確なストーリーや、登場人物の相関図を書けと言われると詰まってしまう。多分、そこは正式に追っかけるところではなく、アクションシーンも含めて大迫力の映画館で何度でも見に来てね、という意図なのかもしれない。私もそれに乗ってみようと思う。

‘2018/08/14 TOHOシネマズ ららぽーと横浜


70年目のナガサキを考える


今日は、長崎への原爆投下から70年の日。

丁度11時2分の時間は仕事をしていたので、黙とうはできませんでした。

この様に、残念ながらナガサキは、ヒロシマに比べて少し扱いが下に置かれているように思われてなりません。しかし同じぐらいナガサキへの投下は我が国にとって重要な出来事です。やはり考えない訳には行きません。

ナガサキへの原爆投下は2つの意味で、ヒロシマのそれとは違っています。一つは、当日になって残酷な運命を浴びせられてしまったことです。当日の第一目標は小倉市であり、本来はナガサキは免れるはずだったことです。もう一つは、ナガサキが日本のキリスト教や西洋文化の玄関口として栄えた街だったことです。

よりによって大村天主堂や浦上天主堂といった東洋のキリスト教の拠点に、天候という運命のいたずらで原爆を落とされることになったのは、考えさせられるところです。日本二十六聖人の殉教など、長崎にはキリスト教と日本の関わりを問う上で、重要な史跡が多数残されていますが、西洋文明の一つの成果である原爆が、ここで運命の導きによって落とされたことは、もっと考えられてよいかもしれません。

20年前の8/6に広島の原爆ドーム前でダイ・インを経験したことは先に書きました。実はその後、私と同行した大学の友人達とで九州にも移動し、8/9には長崎も訪れました。ところが、その時期、長崎原爆資料館は建替えが予定されており、一部展示を縮小しての展示となってしまいました。

その後、一度妻と長崎には訪れたのですが、長崎原爆資料館はその時には訪れずじまい。私にとって心残りが続いています。また、妻の大叔父は、広島と長崎の二重被爆者だったそうです。数年前にお亡くなりになられ、残念ながら当時のお話を聞くことはできませんでした。

そのような心のこりを払しょくするためにも、今年後半か来年には長崎を訪れ、改めて長崎の原爆関連の史跡を巡ってみたいと思っています。日本においてのキリスト教の複雑な根付き方を感じるためにはじっくりと巡ってみることが必要です。

丁度今日、ディズニー社が誤解を著しく招きかねないツイートを流し、物議をかもしたばかり。ナガサキは不当な扱いを受けていると思います。


70年目のヒロシマを考える


ここ8日ほど、連日東京は熱暑の中にゆだっています。丁度70年前もそうだったように。今朝は、廣島に原爆が投下されてから70回目の朝。その時間、電車の中で黙とうを行いました。

20年前の今日、8:15に原爆ドームの前でダイ・インに参加しました。以来20年。それだけの時間が経ってもまだ原爆が風化していないことに胸をなでおろす気持ちがあります。

周辺国が日本に向ける視線は、70年近く守ってきた憲法をそのままにしておけないところまで来ています。とはいえ、日本は何があろうと平和を礎として行かねばなりません。自衛隊はあくまで自衛のための軍隊です。かつてのように武力をもって日本の国威を外に向ける、そのような過ちはもう繰り返してほしくありません。

安らかに眠って下さい 過ちは 繰返しませぬから
との有名な碑文も、賛否はあれど、真理と云えましょう。

原爆ドームも広島平和記念資料館も、日本が身を以て体験した戦争の愚かさを後世に永久に残すための施設です。少しでも多くの人々に、これらの施設を訪れて欲しいと思います。原爆の引き起こしたむごたらしい被害の前では、主義の右も左も沈黙するはずです。これからの日本の外交がどうあれ、二度も原爆を落とされた国として、平和を礎とした思いは忘れないで頂きたいものです。

IMG_8574

我が家も、妻や娘達を連れて一昨年のゴールデンウィークに訪問しました。写真に写した本のうち数冊はその際に広島平和記念資料館で買い求めたものです。また機会を見て再訪し、意識を新たにしたいと思います。