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盤上の夜


本書は、友人に貸してもらった一冊だ。
友人宅に遊びに行った際、本書をお勧めとして貸してくれた。
お勧めされただけあって、本書はとても素晴らしい内容だった。

本書が取り上げているのは、有名なボードゲームだ。将棋、囲碁、チェッカー、インドの古代将棋、マージャン。それぞれの短編の中で、対象となるボードゲームを題材に物語が編まれている。
ボードゲームは一見すると単純に思える。だが、奥は深い。盤上のルールだけで世界を構築することだってできる。
そのとっつきやすさと奥の深さが人々を長きにわたって魅了し続けているのだろう。

ところが今や、人工知能の進化は人間の囲碁チャンピオンを破るまでになった。
その事実から、すでにボードゲームには限界が生じているのではないかという嘆きすら聞こえてくる。

本書に収められた「人間の王」は、チェッカーが取り上げられている。
チェッカーはチェスよりも早く、人工知能の前に人間のチャンピオンが屈したゲームだ。
チャンピオンとはマリオン・ティンズリー。実在の人物であり、42年の間、チェッカーで無敗だった。
そして、チェッカーのコンピュータープログラム「チヌーク」こそ、初めて人間を破った存在だ。

ティンズリーは一体、何を思い何を考えながらチェッカーのプロでありつづけたのだろう。
そして、自らの生命を賭して、人間に相手がいない人工知能との対戦を望み、ほぼ互角の戦績を残す。
マリオン・ティンズリーは「チヌーク」と六戦連続で引き分け、そして最後は体調がすぐれずに途中で棄権した。敗れたことは事実だとしても、生身の肉体で負けた、というのがまさに肝だ。

語り手は、ティンズリーの戦いの軌跡をたどりながら、人間が人工知能に負けた理由を考察する。
そして語り手は「チヌーク」に問いを投げ、対話することで答えを導き出そうとする。
著者が「人間の王」の中で描いているのは、チェッカーというゲームが、人工知能と人間によって葬られる瞬間だ。

後年、「チヌーク」を開発したプログラマーであるシェーファーによって、お互いが最善手を指し続けると必ず引き分けに終わることが証明されたという。
ゲームを創り出した人間の手によって、すべての指し手が解明されてしまった初めてのボードゲームこそ、チェッカーなのだ。

囲碁や将棋も、人工知能が人間のチャンピオンを凌駕してしまったことでは同じだ。だが、それらのボードゲームでは全ての解がまだ明らかになっていない。
つまり、まだ囲碁や将棋にはひらめきや可能性が残されている。
一方、すべての解が人工知能によって導かれ、ゲームとしての限界も暴かれた。それがチェッカーの悲劇。
語り手は、その事実を基に、人と機械の決定的な違いを明らかにしようと試みる。「人間の王」というタイトルは、その違いの本質を鋭く突いている。

本書に収められた他の短編も、ボードゲームの世界を再構築しようと試みている。それが本書のタイトルにもなっている。
ボードゲームの世界には、人間の論理が入り込む余地がある。そして、人の感情と感覚を色濃く投影できる。
ボードゲームといえ、完全に論理の世界だけでは場の魅力は構築できない。そこに人間の感情や感覚が入り込むからこそ、それらの競技がゲームとして成り立ってきたのではないだろうか。

そのことが特に顕著に表れているのが、表題作である「盤上の夜」だ。
「盤上の夜」は、盤上の局面のすべてを感覚として体にとらえることのできる女性棋士の話だ。
その能力は、中国を旅した際に騙され、すべての四肢を奪われたことによって得られた。それもまた運命。
その境遇から脱出するため、その女性は囲碁のスキルを身につけた。そして、庇護者を見つけることにも成功した。
四肢が失われた替わりに感覚を身につける。その設定はあながち荒唐無稽ではない。幻肢痛という症状もあるぐらいだから。
局面ごとに盤上の全ての駒の可能性を皮ふで感じる。それこそ、棋士が没入する究極の到達地といえるだろう。そればかりは人工知能の論理だけではない、人としての生の感覚に違いない。

「千年の虚空」は将棋の話だ。
そこで著者は、奨学金が頼りの若手の棋士たちの生活を描きながら、将棋の何たるかを語っていく。
二人の兄弟、そして一人の女性。三人は幼いころから性に溺れ、自堕落な生活を続けていく。そんな暮らしは、将棋に救いを求めたことで終わりを迎える。
だが、三人の爛れた育ちは、長じてからも彼らの人生に陰を与える。
兄弟のうち、兄の一郎は政治家になり、弟の恭二は棋士の道を進む。綾はその二人を翻弄し、その揚げ句に自殺する。
綾の死をきっかけに精神病院に入った兄弟。彼らの人生は、綾に翻弄される。そして、ゲームを殺すためのゲームの駒として、将棋の世界をさながら現実の世界でも指しきるように生きてゆく。
ここには、将棋というゲームの持つ自由さに焦点が当てられている。まるで棋士が指す棋譜が駒の動きだけにあきたらず、人生のあらゆる可能性を表す年譜だというように。
そこに、将棋の奥深さを見いだすことは可能だ。そして、駒の動きを人生の可能性に投影できる想像力こそ、決して人工知能の棋士が演じきれない個性なのだろう。

「清められた卓」は麻雀を取り上げている。
麻雀は私も遊んだ経験がある。技量と運の両立が必要なゲームであり、奥深さでは囲碁や将棋に引けを取らないと思う。技量と運が絶妙に両立しており、それを卓を囲んだ空間で完璧に出し切ることが求められる。
手練れになると、それぞれの手牌だけで、ある程度の局面を読み切ることも可能だという。
もちろん、いかさまでもしない限り、一人が局面の全てを支配することなど、普通は無理だ。

ところが優澄は、神業のような確率で麻雀に勝つ。なぜか。
著者は運を味方につけることと技量のバランスがどこにあるのかを本編で表現しようとしている。
優澄が行き詰まる局面。その中で果たして優澄は神業をなし得るのか。
本編を読むと、ボードゲームの仲間として麻雀を含めていなかった自らの不明も気づかされる。
そして、しばらく遠ざかっていた麻雀がやりたくなった。実際にオンラインで麻雀に手を染めてしまったほどだ。

「象を飛ばした王子」は、将棋やチェスの源流となったとされるチャトランガを創始した人物が主人公だ。
その人物とは、かのブッダこと、釈迦の息子と言う設定だ。
父は、悟りを開いたまま、国の統治を放り出して修業と悟りの旅に去ってしまった。
残された王子は、国を統治しながら、自分の中に独自の想念を育てあげていく。
その想念とは、ゲームに政治家や王族を没頭させることによって、国同士の戦争をやめさせるというものだ。

そのような発想の下、ゲームを取り上げた小説を私は今まで読んだことがない。
そして、囲碁や将棋、チェスの源流がチャトランガであったことも、本編を読んで初めて知った。このような天才によってチャトランガは創始されたとしても驚かない。
まさに、クリエイターとはこういう人のことを指すのだろう。

最後の一編「原爆の局」は、盤上の夜の続編にあたる。
広島の原爆が投下された時、ちょうど囲碁の対局が行われていた事はよく知られている。
本編はこの局面を取り上げている。
原爆によって石がバラバラに飛び散り、会場が破壊されたあと、二人の棋士は石を元どおりに戻し、対局を続けたという。
棋士たちは何を思い、どのように囲碁に向き合っていたのか。
現実の凄惨な状況よりも囲碁の盤上こそが大切だった。それは職業の性や偏執といった言葉では片づけられない。
おそらく、二人の棋士には盤上に広がる可能性が見えていたのではないか。そこにこそ、人の生きる本質が広がっているとでもいうかのように。

はじめての原爆実験が行われたアラモゴード砂漠。この砂漠の爆心地に碁盤を置き、ちょうど原爆が落ちたときの棋譜を並べ、時空を超えた再現を試みる。実に面白い。
確かに、知能で比べると人間は人工知能にかなわない。だが、この時の棋譜は今に記憶されている。それは、人間による思考の跡だ。
棋士が頭脳を絞り、しのぎを削った証。それが棋譜となり、当時の人間の活動となって残る。
ところが人工知能にとって、過去の棋譜とは判断の基盤となるデータに過ぎない。
その違いこそが、人工知能と生の人間の違いを示しているようで面白い。

‘2019/4/1-2019/4/5


犯罪


本書は、ヨーロッパの文学賞三つを受賞した。その三つとはクライスト賞、ベルリンの熊賞、今年の星賞だ。どれほどすごいのかと本書を読み終えたが少し拍子抜けした。つまらなくはない。逆だ。本書はとても面白かった。面白かったが、読後の余韻が弱いように思えた。余韻がそれほど私の中で尾を引かなかったのが意外に思えた。

おそらくそれは、本書が短編集であることに理由がありそうだ。一つ一つの短編はとても良くできている。それぞれに余韻もある。だが、一つ一つが優れていることは、読者をそれぞれの短編に没入させる。読者が短編の世界に入り込む時、前の短編が響かせた余韻は消えてしまう。それは短編の宿命だともいえる。

登場人物の背景をじっくり書き込み、彼らが犯罪を犯した理由をあらゆる著述テクニックを駆使して語る。本書に収められた各短編は実に素晴らしい。だが、短編であるため、それぞれの編ごとに読み手は気分を切り替えなければならない。そのため、一つ一つの印象が弱くなる。それぞれの短編の出来にばらつきがあればまだいい。だが、本書はそれぞれの短編が優れていたため、逆に互いの印象を弱めてしまった。

ただ、本書は全体の余韻が弱い点を除けば、著者の本業が弁護士であるとは思えないほどよくできている。本書の各編のモチーフは著者が見聞きした職業上の経験であることは間違いない。そうは思いながらも、本書の扉に掲げられている箴言が、読者の勘繰りをあらかじめ妨げる。

「私たちが物語ることのできる現実は、現実そのものではない。」
ヴェルナー・K・ハイゼンベルク

本書で書かれた物語は現実そのものではない。だが、現実は小説よりも奇なり、ということだろう。実際に各編に描かれたような出来事は起き、関係者に傷を残した。それはほぼ間違いないと思う。それが本書に迫真性を与えている。本書に対して登場人物に血が通っているとの評も見かけたが、それもうなづける。

たとえば、巻頭を飾る「フェーナー氏 Fähner」は、長年の妻からの圧迫に耐え続けた夫が、老いてから妻を惨殺する話だ。なぜもっと早くに夫はその状況から逃げようとしなかったのか。なぜすべてが終わろうとする今になって妻を殺したのか。そこにはあるのは、犯罪ではない。人生という不可思議なものの深淵だ。

本書が扱うのは、犯人が誰か、動機は何か、手口はどうやって?という推理小説の文脈ではない。本書が扱う謎はもっと深い。各編は単なる謎解きではない。そもそも、各編には冒頭から犯罪をおかす人物が登場する。つまり本書はwhodunit(Who Done It?)ではなく、howdunit(How Done It?)でもない。ましてやwhydunit(Why Done It?)でもない。では何か。

本書が書こうとするのは、犯罪とは何か(What Is Crime?)なのだと思う。または、罪とは何か(What Is Sin?)と言い換えてもいい。その問いこそが本書に一貫して流れている。犯罪とはなにか? 冒頭のフェーナー氏の事案はまさにそれを思わせる。

続いての「タナタ氏の茶盌 Tanatas Teeschale」もスリリングだ。ちんけな犯罪者二人組が盗んだのが、日本の財閥グループの総帥がドイツに持つ別邸の茶盌だ。これが盗まれてからというもの、関係者が謎の失踪をとげ、死体となって見つかる。しかしタナタ氏の関与は全くうかがうことができない。もはやそれは科学の範疇に収まらぬ呪いに等しい。犯罪とはどこからをもって犯罪というのか。まさにWhat Is Crime?だ。タナタ氏の意思がどう呪いの実行者に伝わったのか。実行者はそれをどう遂行したのか。そもそも何らかの犯罪の指令は発せられたのか。すべては謎だ。

続いての「チェロ Das Cello」も印象に残る一篇だ。富豪の家に生まれた姉弟の悲惨な生涯。姉弟が生まれてから育って行くまでの境遇。そのいきさつが簡潔に、そして冷徹に描かれる。犯罪とは何か。動機とは何か。裁かれるべきなのは誰なのか。全ては環境のせいなのか。この環境を姉弟に与えたものは犯人だと指弾できないのか。本編の姉弟を襲う運命の過酷さはあまりにもむごい。だが、実際にありえたと思わせる迫真性があるのは、本編がとっぴな出来事に頼っていないからだろう。

続いての「ハリネズミ Der Igel」は、本書の中でも少し異色の一編だ。犯罪者一家に生まれながら、自らを愚鈍に装い切った男。その男の成し遂げる完全犯罪の一部始終が描かれる。犯罪とは複数の要素がそろって初めて犯罪となる。その要素とは被害者であり被疑者だ。そして訴状の対象となる犯罪行為。本編がもし実際に起こった出来事をもとに描かれたのであれば、まさに事実は小説よりも奇なりだ。

続いての「幸運 Glück」も、犯罪が何から構成されるのかを問う一編だ。自然に亡くなった死を犯罪によるものと勘違いした主人公は、死体をばらばらにして隠ぺいする。その行いは確かに死体損壊罪に相当するはず。そこに犯罪が成立しているのはたしかだ。だが、その犯罪がなされた動機を考えた時、犯罪者をなんの罪に問うのか。それを追い求め、考えることは、犯罪の本質に迫る道に通じるのかもしれない。

続いての「サマータイム Summertime」は、本書の中でもっともミステリー仕立ての一編ともいえる。そもそも本編の肝となるのは何か。それは捜査の粗さだ。果たしてこれだけの事件程度では日本では検察が犯罪として立件しない気もする。ドイツは日本とは多少司法制度が違っているという。その違いが本編のような出来事が生んだのだろうか。興を削ぐため、詳しくは書かないが興味深い。

続いての「正当防衛 Notwehr」も、犯罪のあり方が何かを問う一編だ。正当防衛とは受けた攻撃に対して、相手への反撃をやむを得ないと判断された場合に成立する。だが、その正当防衛が凄腕の殺し屋によって行れた場合、どう判断すればよいのか。そのあたりがとても興味深い。今の正当防衛を認める法的な解釈には、どこかにとてつもない矛盾が潜んでいるのでは。その矛盾は方そのものへと波及しはしまいか。そんな気にさせられる一編だ。

続いての「緑 Grün」は、統合失調症を扱う。犯人が精神疾患を患っている場合、おうおうにしてその犯罪に対しては罰が課せられない。それは日本に限らず各国も同じようだ。本書もそう。犯罪の疑いがあっても犯罪の結果がない場合、果たしてその統合失調患者を罪に問えるのか、という問題を描いている。本編もまた、実際に起こってもおかしくない物語だ。それがゆえにとても興味深い。

続いての「棘 Der Dorn」もまた、犯罪とは何かを問う。ここで突きつけられる問いとは、組織の存在そのものが罪と言い換えてもよいほどだ。組織の動きがシステマチックであればあるほど、その行いを罪と糾弾しにくくなる。だが、わずかな組織の狂いは、その間に生きる人を犯罪へと導いてゆく。それも長い時間を掛けて。そのような組織の持つ恐ろしさが描かれるのが本編には描かれている。これも今の我が国でも起こり得る出来事だ。

続いての「愛情 Liebe」は、犯罪の予防という視点が持ち出される。その行いが愛情から出たと認められる場合、その者は罰せられない。ところが、そこには将来の犯罪の種が含まれていることも多い。司法に携わる方にとっては、この視点はとても大切ではないかと思う。

最後の「エチオピアの男 Der Äthiopier」は、最後に収められるのにふさわしい一編だ。一人の数奇な男の一生が描かれる。そこにはとても暖かい余韻がある。が、その分、他の10編の余韻が消えてしまうのだ。本編には、人の一生の中で犯罪が一時期の出来事でしかないこと示されている。

‘2018/04/21-2018/04/22