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人魚の眠る家


本書はミステリというよりも、医学的なテーマについて考えさせられる小説だ。
ここでいう医学的なテーマとは、脳死とは何か、果たして人間の意識とは何かを意味する。本書にはそれらのテーマが取り上げられている。

人の意識とは何か。この問題に対して容易に答えを出すのは難しい。
今、考えていること自体が意識なのか。考えていることを指の動きまで伝達するまでの全ての営みが意識なのか。この意識とは、私の自由意志であるとみなしてもよいのか。
脳波を調べると、情報の伝達からそれに基づいた選択が行われるよりも前に脳のどこかで反応が生じるという。つまり、私たちが判断を行っているという意識よりも上位の何かが命令を発している論議さえまことしやかに交わされている。

そもそも、私たちの意思とはあらかじめプログラムされた命令の発動でしかないという説すらある。
そうした意識について人々が思索できるのも、私たちが今まさに活動し、外界に向けてアウトプットをしているからだ。私が笑ったり声を出したり動いたりするからこそ、私以外の人は私に意識があると判断する。
では、不慮の事故で外界に反応しなくなった場合、意識はないとみなしてよいのか。
生存に必要な生体反応や生理反応は生じるが、まったく外界に向けて反応がない場合、その人は生きているといえるのか。

ここに挙げた問題は容易には答えが出せない。
現代の医学でも、こうした問題については脳波やその他の反応を確認して意識の有無、つまりは脳死の有無を判断するしかないのが現状だ。本当に脳が死んでいるのか生きているのかは、あくまで脳波などの客観的な要素でしか判断できないのだ。

では、客観的に脳波があっても、外部への反応が確認できない場合、脳死と判断することは可能なのだろうか。
それが自分の子どもであれば、なおさらそのような判断を下すことは困難だ。呼吸はしているし、ただ寝てだけのように思えるわが子に死の宣告を下す。そして、死に至らしめる。
それは子を持つ親にとってあまりにも過酷な判断である。不可能といっても過言ではない。

はたして、親は眠ったままのわが子に脳死の判断を下せるのか。また、下すべきなのか。

著者はそれらの問いを登場人物に突き付ける。もちろん、読者にも。

本書の中で脳死になるのは瑞穂だ。播磨和昌と薫子の間に生まれた娘だ。
この二人が瑞穂に起こったアクシデントを聞かされたのは、和昌の浮気が原因で離婚の話し合いをしている時だった。
プールでおぼれて脳死状態になった瑞穂をいったんはあきらめ、臓器移植の意思表示をした二人。だが、最終的にその意思を示す直前で瑞穂の手から反応が返ってきたことで、二人は延命に望みをつなぐ。

和昌が経営する会社では、ちょうど人間に接続したデバイスを脳から動作させる研究が進展していた。
その研究が娘の意識を取り戻すための助けになるなら、そして妻が望みを持ち続けられるなら、と離婚を取りやめた和昌は、娘の体を機械で操作する研究に手を染め始める。
その和昌による研究は進展し、研究の成果によって薫子は瑞穂を生きている時と変わらないように動かせるまでになる。
起きることのないわが娘を、さも生きているかのようにふるまわせる薫子は、次第に周囲から疎んじられるようになる。

狂気すら感じられるわが子への愛は、どのような結末を迎えるのか。そんな興味に読者は引っ張られていく。

法的には生かされているだけの脳死状態の人。
私たちは脳死という問題についてあまりにも無知だ。医者が脳死判定を下す基準は何か。脳死状態の人が再び意識を取り戻すことはありえるのか。脳死状態の人の法的な地位はどうなるのか。意識はなくとも肉体は成長する場合、その人の年齢や教育はどう考えるべきなのか。
また、脳死状態にある人の臓器を移植したい場合、誰の意思が必要なのか。その時に必要な手続きは何なのか。
当事者にならない限り、私たちはそうした問題に対してあまりにも無知だ。

私は常々、今の世の中の全ての出来事に対して当事者であり続けることは不可能だと思っている。
当事者でない限り、深くその問題にコミットはできない。そして、説得力のある意見を述べることもできない。だから私はあまり他人の問題に言及しないし、ましてや非難もしない。
さらにいうと、当事者でもない政治家や官僚があらゆる問題を決める仕組みはもはや存族不能だと考えている。
日々の暮らしに起こりうる可能性の高い出来事についてすら、いざ事故が起きてみないと当事者にはなれないのが現実だから。

本書を読むと、まさに脳死の問題とは、当事者にならなければ深く考えることもできない事実を突きつけられる。

では、死に対してはどうだろう。または、意識に対しては。
これらについても当事者にならなければ深く考えることはできないのだろうか。
ここで冒頭の問いに回帰してゆくのだ。
果たして意識とは何だろうか。

そう考えたとき、本書から得られる教訓は当事者意識の問題だけでないことに気づかされる。
私たちは普段、自らの意識を意識して生きているのか、という問いだ。つまり、私たちは自分の意識について当事者意識を持っているのだろうか。
冒頭に書いたような問いを繰り返す時に気づく。私たちは普段、自らの意識を意識して生きていないことに。

例えば呼吸だ。無意識に吸って吐いての動作を繰り返す呼吸を私たちが意識して行うことはない。
だが、ヨガ行者や優れたスポーツ選手は呼吸を意識し、コントロールすることによって超人的な能力を発揮するという。
また、大ブームになった『鬼滅の刃』にも全集中の呼吸がキーワードになっている。

呼吸だけでなく、歩き方や話し方、思考の流れを意識する。そうすることで、私たちは普段の力よりも高い次元に移り行くことができる。

脳死の問題について私たちが当事者になる機会はないし、そうならないことが望ましい。
だからといって、本書から得られることはある。
本書は、そうした意識の大切さと意識に対して目を向けることに気づかせてくれる小説だといえる。

2020/12/12-2020/12/15


「死」とは何か イェール大学で23年連続の人気講義 完全翻訳版


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本書はその重厚な分厚さと、壇上にあぐらをかいて語る著者の風貌が目につく。本屋や書評でも見かけ、読みたいと思っていた。
そこで47歳の誕生日の自分へのプレゼントとして妻に買ってもらった。

47歳。あと3年で50歳を迎える。いわゆるアラフィフだ。人生の後半戦であり、その後にやってくる死が意識の端にのぼり始める。

永遠に続くはずと思い込んでいた日々。そのはるか先に暗闇、つまり無が口を開けている。無が私たちの前途を黒く塗りつぶす光景は、想像の難しい領域だ。だが、誰にも必ずその終わりは来る。それに備えておかなければ。
本書のテーマである「死」は、私にとって知っておかねばならないテーマだった。

本書はイエール大学で23年間続いたという講義の内容をもとにしている。
とはいえ、本書は死についての本質を明快に語ってくれるわけではない。世に多くある哲学書と同じく、本書は死の概念の周囲を歩き回りながら、さまざまな視点と切り口から死の本質を覗き込もうとしている。
死は著者の慧眼を持ってしても一言で言い表せる類の概念ではない。そのため、本書は決して読みやすいとは言えない。

だが、ありとあらゆる切り口と視点から死と生を語る本書は、私たちにその概念を考えるきっかけを与えてくれる。

自己の同一性や時間の概念。魂の存在や死後の世界。そして自殺は倫理的に正しいのかについての考察。

以前もどこかで書いたように思うが、子供の頃の私は死を恐れていた。
死んだらどうなるのか。自分が死んだ後、世の中は何も変わらず続くのに、世界でたった一つの自我は無に消える。そのことが耐え難く恐ろしく、心の底から死に慄いていた。
頭では、ほぼ全ての人間が自我を持っていることは分かっている。だが、自分の主観から見た世界は、他人の客観から見た世界の間には絶対的な違いがある。唯一無二の自我。それがどうにも理解できないでいた。

それから40年以上が経過した今、私は日々の仕事の忙しさを乗りこなすのに精一杯だ。死や虚無を恐れる暇がない。
私にとって仕事とは、死の恐怖を忘れるために人類が発明した営みだと思っている。
でなければ仕事のための仕事や、管理のための管理がまかり通っている理由がない。

だが、無我夢中で仕事と戦っていた時期に終わりが見え、ある程度乗りこなせるようになってきた。子育ても娘の卒業が見えた今、関わる必要が薄れてきた。

そうなると、次に考えるのは自分の死にざまだ。後半生では、死に向かうだけの自分の生きかたを考えなければ。

だが、今の私には死それ自体や、死の後に来るはずの虚無よりも恐ろている事がある。それは、残りの時間に自分がやりたいことがやれない未練だ。死の瞬間、私は自分のしたいことができずに死んでいく無念を全霊で悲しむだろう。

そうした迷いの数々を振り切りたくて、本書を手に取った。

著者はまず自らの死生観を明らかにする。そこで明言するのは、死後の魂を否定することだ。来世や輪廻、天国を否定する著者の口調に一切の迷いはない。死ねばそれで終わり。救いもなければ、やり直す機会もない。そもそも著者にとって死は悪いものですらない。

死は悪くない。その考えは果たしてどこから来るのか。死とはいったい何にとって悪いのだろうか。死を残念がるのは、死する主体、つまり魂なのか。その時に死ぬのは肉体だけで、魂は別と主張する人もいる。
では、肉体と魂は別々の存在なのだろうか。肉体が死んでも魂が別ならば、死を恐れる必要がない。魂があるなら死後の世界も生まれ変わりもあるだろう。天国すら存在するかもしれない。
だが、それを実証する術は私たちにはない。著者は魂の不在を主張する。だが、ないことを証明できない以上、魂が存在しないとも断言しない。

魂や意識は今の科学でも説明ができない。物質主義に寄った立場を隠そうとしない著者も、魂の存在については両者が引き分けと言っている。

著者は物質主義を貫くが、性急に結論を出さない。デカルトやプラトンの見解を援用し、詳細に彼らの哲学を検討し、本当に魂は存在しないのかについての綿密な論考を重ねてゆく。

私たちが魂を信じる理由は、自己の一貫性があるからだ。夜に寝て朝に起きた時、前の日の私と今の私は同一人物だ。私たちはそれを当たり前のこととして受け入れている。だが本来、それは証明ができない。同一に見えるのは外見だけ。もし精神に変調をきたした場合、前の日と次の日の自分は同じなのだろうか。それを証明する手段はない。だが、私たちはその同一性を当たり前のようにして日々を生きている。

著者はこの同一性を魂ではなく人格だと説く。記憶、肉体、魂で歯なく人格。
著者は人格こそが人の本質であることをほのめかす。この自己同一性があるからこそ、私たちは自分の人格を信じる。同一性が大切なことは、時間と空間を隔てても保持できることからも分かる。肉体と魂は別ではく、肉体の一機能である脳機能の発現こそ人格。

ここまで、本書の400ページ弱が費やされている。まだ半分だ。死とはまず何の主体に対しての死なのか。それをきちんと定義しておく。それが著者のアプローチだ。

ここまで論を深めた上で、著者はようやく死とは何かについて語る。意識の不在が死であるなら、睡眠もまた死と言えるはずだ。だが、睡眠が死とは違うことは誰もがわかっている。
そもそも本人にとって悪い事とは何か。悪い事と意識が認識して初めて、それが悪い事になる。意識とは生きている。悪い事を認識するには生きていることが必要だ。
では、意識が虚無である死のなかで、死は本人にとって悪い事なのだろうか。

さらに、意識のない状態が悪ならば、生まれてくる前の状態は本人にとってどういう状態なのか。生とは無限の時間の中で一瞬だけの間の話なのだろうか。

死が人間にとって悪くないとすれば、生きている間は人にとってどのような状態なのか。それが永遠に続く、いわゆる不死の状態は人にとって果たしてあるべき姿なのか。それは悪いことではないのか。

上に出てきた自己同一性の問題も不死が必要なのかについて考える題材になる。不死の体現者となった時、人は何百年、何万年と生きるだろう。その時、膨大な時を隔ててもその人は果たして同じ人物と言えるのだろうか。
10,000年前の自分が考えていたことを完全に覚えていない場合、自分は10,000年前の自分と同じ人物と言えるだろうか。
不死も同じ理由だ。しかも、不死と言っても常に成長を続けることはできない。どこかで衰えや飽きに苛ませられる。その時、不死は人にとって良いことではなくなる。むしろ、身の毛のよだつと言う表現まで使って著者は不死を拒否する。
そのように突き詰めて考えると、死は悪いことでない。

その上で著者は人生の価値、人生の良し悪しが何かについて述べる。
結局、人は死によってその生を中断させられる。来世も転生もなく。限られているからこそ、生を輝かせようとする。

著者は本書において明確な生の本質を語らない。むしろ、著者自身も自らの考えをまとめながら死を考えているように思う。
だが、著者による回りくどくも精緻な分析は、私たちが普段、考えずにやり過ごしている己の生を考えさせてくれる。本書から明確な死の定義を求めようとしても無駄だ。
だが、宗教が形骸化し、元となった仏典や経典が顧みられなくなった今、現代の人が死を考え直さねばならない現実を本書は教えてくれる。

正直に言うと、私は本書を読んでもなお、膨大な時間を求めている。数万年の生を。だが、いざ不死が自分の身に訪れた時、一億年もの間、衰えや飽きを知らずに生きていけるだろうか。
それを考えるためにも折に触れ、本書を読みなおしてみようと思う。

2020/9/2-2020/9/25


憂鬱な10か月


本書はまた、奇抜な一冊だ。
私は今まで本書のような語り手に出会ったことがない。作家は数多く、今までに無数の小説が書かれてきたにもかかわらず、今までなどの小説も本書のような視点を持っていなかったのではないか。その事に思わず膝を打ちたくなった。
実に痛快だ。

本書の語り手は胎児。母の胎内にいる胎児が、意思と知能、そして該博な知識を操りながら、母の体内から聞こえる音やわずかな光をもとに、自らが生み出されようとしている世界に想いを馳せる。本書はそのような作品だ。

そんな「わたし」を守っている母、トゥルーディは、妊娠中でありながら深刻な問題を抱えている。夫であり「わたし」の種をまいてくれたジョンとは愛情も冷め、別居中だ。その代わり、母は夫の弟である粗野で教養のないクロードと付き合っている。
夜毎、性欲に任せて母の体内に侵入するクロード。その度に「わたし」はクロードの一物によって凌辱され、眠りを妨げられている。

そんな二人はあらぬ陰謀をたくらんでいる。それはジョンを亡き者にし、婚姻を解消すること。その狙いは兄の遺産を手中にすることにある。

だが、そんな二人の陰謀はジョンによって見抜かれる。ある日、家にやってきたジョンが同伴してきたのはエロディ。恋人なのか友人なのか、あいまいな関係の女性が現れたことにトゥルーディは逆上する。そして、衝動的にジョンを殺すことを決意する。

詩の出版社を経営し、自ら詩人としても活動しているジョン。詩人として二流に甘んじている上に、手の疥癬が悪化した事で自信を失っている。

「わたし」にとってはそのような頼りない父でも実の父だ。その父が殺されてしまう。そのような大ごとを知っているにもかかわらず、胎内にいる「わたし」には何の手も打てない。胎児という絶妙な語り手の立場こそが、本書のもっともユニークな点だ。

当然ながら、胎児が意思を持つことは普通、あり得ない。荒唐無稽な設定だと片付けることも可能だろう。
だが、本書の冒頭で曖昧に、そして巧みに「わたし」の意思の由来が語られている。
そもそも本書の内容にとって、そうした科学的な裏付けなど全く無意味である。
今までの小説は、あらゆるものを語り手としている。だから、胎児が語り手であっても全く問題ない。
むしろ、そうした語り手であるゆえの制約がこの小説を面白くしているのだから。

語り手の知能が冴えているにもかかわらず、大人の二人の愚かさが本書にユーモラスな味わいを加えている。
感情に揺さぶられ、いっときの欲情に身をまかせる。将来の展望など何も待たずに、彼らの世界は身の回りだけで閉じてしまっている。胎内で「わたし」がワインの銘柄や哲学の深遠な世界に思考を巡らせ、世界のあらゆる可能性に希望を見いだしているのに。二人の大人が狭い世界でジタバタしている愚かさ。
その対比が本書のユーモアを際立たせている。

胎児。これほどまでに、世界に希望を持った存在は稀有ではなかろうか。ましてや、「わたし」以外の胎児のほとんどは、丁重すぎる両親の保護を受け、壊れ物を扱うかのように大切に育てられているのだから。10カ月間。

ところが「わたし」の場合、夜ごとのクロードの侵入によってコツコツと子宮口を通じて頭を叩かれている。しかも、連夜の酒で酩酊する母の体の扇動や変化によって悪影響を受けつつある。そんな「わたし」でさえ、母を信頼し、ひと目会いたいと願い、世の中が良かれと希望を失わずにいる。

胎内で育まれた希望に比べ、現実の世の中のでたらめさと言ったら!

私たちのほとんどは、外の世界に出された後、世俗の垢にまみれ、世間の悪い風に染まっていく。
かつては胎内であれほど希望に満ちた誕生の瞬間を待っていたはずなのに。
その現実に、私たちは苦笑いを浮かべるしかない。

私も娘たちが生まれる前、胎内からのメッセージを受け取ったことがある。おなかを蹴る足の躍動として。
それは、胎内と外界をつなぐ希望のコミュニケーションであり、若い親だった私にとっては、不安と希望に満ちた誕生の兆しでしかなかった。
だが、よく考え直すと、実はあの足蹴には深い娘の意思がこもっていたのではなかったか。

そして、私たちは誕生だけでなく、その前の受胎や胎内で育まれる生命の奇跡に対し、世俗のイベントの一つとして冷淡に対応していないか。
いや、その当時は確かにその奇跡におののいていた。だが、娘が子を産める年まで育った今、その奇跡の本質を忘れてはいないか。
本書の卓抜な視点と語り手の意思からはそのような気づきが得られる。

本書のクライマックスでは誕生の瞬間が描かれる。不慣れな男女が処置を行う。
その生々しいシーンの描写は、かつて著者が得意としていた作風をほうふつとさせる。だが、グロテスクさが優っていた当時の作品に比べ、本書の誕生シーンには無限の優しさと、世界の美しさが感じられる。

トゥルーディとクロードのたくらみの行方はどうなっていくのか。壮大な喜劇と悲劇の要素を孕みながら、本書はクライマックスへと進む。

親子三人の運命にもかかわらず、「わたし」が初めて母の顔を見たシーンは、本書の肝である。世界は赤子にとってかくも美しく、そしてかくも残酷なものなのだ。

著者の作品はほぼ読んでいるし、本書を読む数カ月前にもTwitter上で著者のファンの方と交流したばかり。
本書のようなユニークで面白く、気づきにもなる作品を前にすると、これからの著者の作品も楽しみでならない。
本書はお薦めだ。

‘2020/07/03-2020/07/10


太陽の簒奪者


ハードSFは読んでいる間は楽しく読めるのだが、読み終えるとなぜか中身を忘れてしまうことが多い。本書も同じだった。
設定や頻出する英文字略語、登場人物などは真っ先に忘れる。それらが失われると、筋の運びすらバラバラに解けていく。

本書については、あらすじすらもあやふやになっていた。
そのため、本稿を書くに当たって改めてざっと読み直してみた。
本書のあらすじはこんな感じだ。

突如として水星の地中から高く噴き出した柱。それを発見したのは高校の天文部の部長である白石亜紀。その柱は水星を構成する鉱物資源であり、それは太陽の引力に引かれ、直径8000万キロのリングとなって太陽を取り巻いた。
それによって地球に届くべき太陽エネルギーは激減し、地球は寒冷の星と化した。収穫は減り、それによって多くの産業が衰えていた。大量の人が死んでいき、既存の経済に頼ったあらゆる体制は崩壊していく。
リングがなぜできたのか、リングをどうすればなくせるのか。
長じて科学者となった亜紀は、長きにわたってリングの謎に関わっていく。

本書は異星人とのファースト・コンタクトを描いている。
リングの正体については、本書の中盤あたりで描かれる。だから本稿がネタバレを含んでいても許してほしい。
このリングは、正体の不明な異星人がどこかの星系から次の星系へ船団ごと移動するための手段だ。

リングの構築にあたって、地球と人類に甚大な損害を与えた異星人。異星人を糾弾し、彼らを撃退する迎撃体制が組まれる。そうした風潮に対し、白石亜紀はその異星人が地球に知的生物がいると知らずにリングを設定したのではないかと仮定する。そして、異星人を迎撃しないよう必死に訴える。異星人とのファースト・コンタクトに臨んだクルーは、そこで何を見るのか。

著者は、本書を書くにあたって、異星人とのファースト・コンタクトにおける可能性を熟慮したのだろう。本書を読めばそのことが感じられる。

実際、私たちがファースト・コンタクトを経験する日は来るのだろうか。
私はこの広大な宇宙のどこかに人間と同じような知的生物は存在すると思っている。その存在と遭遇するのはいつか、またはどういう形で遭遇するのか。私にはわからない。そもそも、その存在に確たる証拠がない以上、私がそう思っていることは、もはや信仰に近いのかもしれない。

人類と異星人が遭遇するケースはさまざまに考えられる。例えば、SETI(地球外知的生命体探査)が検出した信号をもとに何かしらの交信が始まることもあるだろう。パイオニア・ボイジャー探査機に取り付けられた銘板を見た異星人が地球を訪問する可能性もゼロではない。逆に、人類の発したメッセージとは無関係に異星人が地球を発見する可能性もありえる。
人類と異星人の遭遇のあり方についてはあらゆるケースを考えた方がいいし、SF作家にとってはテーマとしては使い古されていても、あらゆる書き方が可能である。著者がその一つとして描いたのが本書だ。

異星人の文明が地球よりも相当進化している場合、そもそも遭遇の実際は、人類が想像することすら難しいかもしれない。著者のようなSF作家が知恵を絞っても思い付かないような。

では仮に、私たちの思いもよらない方法で遭遇が実現したとする。
その時、人類は国や民族、宗教の違いによって殺し合うよう段階から、一つ成長できるのではないかと思っている。
異星人は思考回路や思考パターンも人類と違うだろう。そもそも知的水準すら今の人類を凌駕しているとすれば、人類は彼らの思考パターンの片鱗さえも読み取れないはずだ。その時、異星人の容姿や思考回路の違いなど、人類が悩む暇などないはずだ。マスコミが面白おかしく取り上げるとしても。
容姿や思考パターンの違いなど、本書で書かれたようにほとんどの人は触れずに終わってしまうだろう。

ただ、遭遇して初めて人類は知るだろう。それぞれの個人が持つ考え方の違いなど、異星人と人類の違いに比べたら、比較にならないことを。
自分たちが仕事や宗教や文化、価値観の違いに悩んでいることなどちっぽけであることを。それを争いのタネとすることの愚かさを。

そこから人類はどのような道を選んでいくのだろうか。
そもそも今の人類のあり方は、生命として能率的な形なのだろうか。今の生命体としてのあり方は絶対の普遍なのだろうか。
もし、生命のあり方から変えた方がよりよい未来が望めるのなら、どのような生命へと変わっていくのか最適なのか。

なぜそう思うのか。それは、本書に出てくる異星人が、生物としてのあり方を根本から変革しているからだ。
われわれの存在と違う形で発展した異星人の姿が描かれた本書は、今の人類のあり方に問いを投げかける。

今の人類は、それぞれの個体がそれぞれの思惑や欲求をばらばらに抱えている。だから、生まれた民族や文化や宗教や土地に縛られた思考しか巡らせられない。
そのあり方のままで果たして、種族としての進化は可能なのだろうか。

そうした思索からは、根源的な疑問すら湧き上がる。私たちの存在のあり方が理想の形なのだろうかという。
全ての思考の型が今までに人類の発展する中で設けられた枠から抜けられないとすれば、人類が次の段階に進むことは到底無理だろう。
もし人類が次の段階に進みたいのであれば、私たちは徹底的に自らを客観的に考える訓練をしなければならない。自己の思考の道筋を客観的に考え、その思考の道筋を自分の主観から自由にする。それはまさに哲学が今まで苦闘してきた道そのものだ。

SFとはサイエンス・フィクションの略であることは誰でも知っている。だが、フィクションだからといって、その内容を自己の思索の材料にしないのはもったいない。たとえ壮大な時間軸であっても。

‘2020/05/22-2020/05/23


ウロボロスの波動


宇宙とは広大な未知の世界だ。

その広さの尺度は人類の認識の範囲をゆうに超えている。
宇宙科学や天文学が日進月歩で成果を挙げている今でさえ、すべては観測のデータから推測したものに過ぎない。

ビックバンや、ブラックホール。それらはいまだに理論上の推測でしかない。また、宇宙のかなりの部分を占めると言われるダークマターについても、その素性や作用、物理法則についても全く未知のままだ。

未知であるからロマンがある。未知であるから想像力を働かせる余地がある。
とは言え、科学がある程度進歩し、情報が行き渡った世界において、ロマンも想像力も既存の科学の知見に基づいていなければ売り物にならない。それは当たり前のことだ。

SF作家は想像力だけで物語を作れる職業。そんな訳はない。
物語を作るには、裏付けとなる科学知識が求められる。単純にホラ話だけ書いていればいい、という時代はとうの昔に終わっている。

そこで本書だ。
本書はハードSFとして区分けされている。ハードSFを定義するなら、高質な科学的記事をちりばめ、世界観をきっちり構築した上で、読者に科学的な知見を求めるSFとすればよいだろうか。

本書において著者が構築した世界観とはこうだ。

地球から数十天文単位の距離、つまり太陽系の傍に小さいながらブラックホールが発見された。
そのカーリーと名付けられたブラックホールが太陽に迫ると太陽系や地球は危機に陥る。そのため、ブラックホールをエネルギー源として使い、なおかつ太陽に近づけさせまいとするための人工降着円盤が発明された。人工降着円盤を管理する組織として人工降着円盤開発事業団(AADD)が設立された。
カーリーが発見されたのが西暦2100年。すでに人類は火星へ入植し、人類は宇宙へ飛び出していた。
ところが、AADDは地球の社会システムとは一線を画したシステムを考案し、実践に移していた。それによって、地球とAADDとの間で考え方の違いや感性の違いが顕わになり始め、人類に不穏な分裂が見られ始めていた。

そうした世界観の下、人々の思惑はさまざまな事件を起こす。
ガンダム・サーガを思わせる設定だが、本書の方は単なる二番煎じではない。科学的な裏付けを随所にちりばめている。
本書はそうした人々の思惑や未知の宇宙が起こす事件の数々を、連作短編の形で描く。本書に収められた各編を総じると、70年にわたる時間軸がある。

それぞれの短編にはテーマがある。また、各編の冒頭には短い前書きが載せられており、読者が各編の前提を理解しやすくなるための配慮がされている。

「ウロボロスの波動」
「偶然とは、認知されない必然である」という前書きで始まる本編。
ウロボロスとは、カーリーの周りを円状に囲んだ巨大な構造物。人が居住できるスペースも複数用意されている。それらの間を移動するにはトロッコを使う必要がある。
ある日、グレアム博士が乗ったトロッコが暴走し、グレアム博士の命を奪った。それはグレアム博士のミスか、それともAIの暴走か。または別の理由があるのか。
その謎を追求する一編だ。
AIの認識の限界と、人類がAIを制御できるのか、をテーマとしている。

「小惑星ラプシヌプルクルの謎」
小惑星ラプシヌプルクルが謎の電波を受信し、さらに異常な回転を始めた。それは何が原因か。
過去の宇宙開発の、または未知の何かが原因なのか。クルーたちは追求する。
人類が宇宙に旅立つには無限の障害と謎を乗り越えていく必要がある。その苦闘の跡を描こうとした一編だ。

「ヒドラ氷穴」
人間の意識は集合したとき、カオスな振る舞いをする。前書きにも書かれたその仮説から書かれた本編は、AADDを巡る暗殺や戦いが描かれている。本書の中では最も読みやすいかもしれない。
AADDの目指す新たな社会と、既存の人類の間で差異が生じつつあるのはなぜなのか。それは環境によるものなのか。それとも意識のレベルが環境の違いによってたやすく変わったためなのか。

「エウロパの龍」
異なる生命体の間に意思の疎通は可能か。これが本編のテーマだ。
いわゆるファースト・コンタクトの際に、人類は未知の生命体の生態や意思を理解し、相手に適した振る舞いができるのか。
それには、人類自身が己の行動を根源から理解していることが前提だ。果たして今の人類はそこまで己の肉体や意識を生命体のレベルで感知できているのか。
そうした問いも含めて考えさせられる一編だ。

「エインガナの声」
エインガナとは矮小銀河のこと。
それを観測するシャンタク二世号の通信が突然途絶し、乗組員がAADDと地球の二派にわかれ、それぞれに疑念と反目が生じる。
通信が途絶した理由は何かの干渉があったためか。果たして両者の反目は解決するのか。
文明の進展が人類の意識を根本から変えることは難しい。本編はそのテーマに沿っている。

「キャリバンの翼」
恒星間有人航行。今の人類にはまだ不可能なミッションだ。だが、SFの世界ではなんでも実現が可能だ。
ただし、そこに至るまでには人類の中の反目や意識の違いを解消する必要がある。
さらに、未知のミッションを達成するためには、技術と知能をより高めていかねばならない。

本書を読んでいると、今の人類がこの後の80年強の年月でそこまで到達できるのか不安に思う。
だが、希望を持ちたいと思う。
SFは絵空事の世界。とはいえ、今の人類に希望がなければ、100年先の人類など書けないはずだから。

‘2019/12/22-2019/12/30


プランク・ダイブ


本書を読む前、無性にSFが読みたくなった。その理由は分かっている。本書を読む少し前からワークスタイルを変えたからだ。常駐先での統括部門でのフル稼動から、月の半分を自分で営業し仕事を請けるスタイルへ。それは技術者としてプログラマとして第一線に立つことを意味する。その自覚が私をSFへと向かわせたのだろう。

また、SFジャンルの今を知りたくなったのも本書を手に取った理由だ。今は現実がかつてないほどSFに近づいた時代。A.Iを取り上げた記事が紙面やサイトを賑わせ、実生活でもお世話になる事が多くなりつつある。ドローンは空を飛び交う機を静かに伺い、Googleが世に出したAlphaGoはついに現役の囲碁世界チャンピオンを破った。今やサイエンス・フィクションと名乗るには、中途半端なホラ=フィクションだと現実の前に太刀打ちできない。

そのような現実を前に最前線のSF作家はどのような作品で答えるのか。そのことにとても興味があった。著者の作品を読むのは初めてだが、現代SF作家の最高峰として名前は知っていた。著者ならば私の期待に応えてくれるはずだ。

本書に納められた作品は直近で2007年に発表されたものだ。そのため、ここ数年の爆発的ともいえるIT技術の発展こそ本書には反映されていない。だが、本書は人々が当たり前のようにネットを使い、人工知能を現実のものとして語る時代に産み落とされている。

果たして著者の産み出す未来世界は現実を凌駕し得るか。

私の問いに対し、著者は想像力と科学知見の全てを駆使して応えてくれた。私の懸念は著者の紡ぐ新鮮なSFによって解消されたといっていい。サイエンス・フィクションの存在意義が科学を通して読者に夢を見させることにあるとすれば、本書はそれを満たしている。私にとって本書は、科学が発達した未来の姿だけでなく科学がもたらす希望も与えてくれた作品となった。

本書の内容は難解だ。だが、面白い。本書に登場するのは人類の未来。その未来では人工知能によって人類が滅ぼされておらず、人類が技術を乗りこなしている。遠い遠い未来の話だ。その未来には私の実存は無くなっていることだろう。だがもしかするとデータとして残っているかもしれない。あわよくば、私という実存はデータとしてだけではなく、意識して思考する主体として活動しているかもしれない。そんな希望が本書には描かれている。

ここまで書いて気づいた。私が自分の死を恐れていることに。人類が絶滅し、私の意識が無限の闇の中に沈んでいくことに。

本書には、未来の人類が登場する。そして彼らは意識をデータ化し事実上の不死を実現している。

その技術の恩恵を今の世代が受けることはおそらくないだろう。不死を手に入れる特権は、さらに未来の世代まで待たねばならない。私たちは果たして死した後に何を残せるのだろうか。本書のとある一節では、既に亡くなった死者をデータ化して復活させることは難しいと宣告される。今の私たちが実存者として意識し思考する事はおそらくないだろう。それでも、本書からは人類の未来に差すいく筋かの光が感じられた。

それは私にとって何よりの喜びであり救いだ。

本書には、難しい宇宙論を駆使した一編が収められている。芸術や物語という、今の我々が依って立ち、救いとしている伝承や伝統を突き放し、否定するような一編もある。

それでもなお、本書に収められた科学の行く末は、我々に取っての希望だ。

囲碁が人工知能に負ける時代を共有している私たち。この中でどれほどの人々の生きた証が後世に残されるのか。そんな技術の恩恵に与れるのは一握りなのかもしれない。でも、本書には書かれていないとはいえ、あらゆる社会的な矛盾が技術によって一掃された未来。本書からはそのような希望すら汲み取れる。

‘2016/04/10-2016/04/14