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成功している人は、なぜ神社に行くのか?


本書は、神社に祈ることの効用を勧めている。その中にはスピリチュアルな視点も含んでいる。
本書が説く効用とは、端的に成功を指している。成功とは政治や経営なども含め、人を統率し、その名を天下に残すことにある、と考えてよいだろう。
古今、天下人の多くは特定の神社を崇敬していた。成果を上げ、成功した人の多くに共通するのが、特定の神社を熱く崇敬していたことだという。

私は神社仏閣によく立ち寄る。
訪れた旅先の地に鎮座する神社で旅の無事を祈る。そして家族、会社、地域や親族の発展を望み、日本と世界の安寧を願う。

私は誰に祈っているのか。
もちろん、神社であれば御祭神が祀られている。寺であれば安置された仏様がいる。
私の祈りはおおまかにいえば、それらの神仏に対して捧げられている。
ただ、私は具体的な神仏を念頭に置いて祈っていない。例えばスサノオノミコトとかタケミカヅチとか、廬舎那仏とか。私は、目の前の本殿や本堂に鎮座する神仏というより、自分の中に向けて真剣に祈っている。

当たり前だが、宗教が信仰の対象とする神は私の中にはいない。私にとって神仏とは目に見える形で存在するものでもない。
仮に神仏がいたとしても、そうした存在は私たちの認識の外にいる、と考えている。例えばこの宇宙を創造した存在がいたとする。その知的存在を神と呼ければ、神は実在すると考えてもいい。だが、私たちにはその存在を認識することは到底無理。なぜなら宇宙ですら知覚が覚束ないのに、その外側から宇宙を客観的に見ることのできる存在を知覚できるわけがないからだ。
だから私は、神は目に見えず、知覚も不可能な存在だと考えている。
とはいえ、神が知覚不能の存在だとしても、自分のうちの無意識にまで降りることができれば、神の片鱗には触れられるのではないだろうか。その無意識を人は昔から集合的無意識といった言葉で読んできた。
神のいる世界に近づくためには自分を深く掘り下げる必要がある。私はそう思っている。

では、自分のうちに遍在するかもしれない神に近づくためにはどうすればよいか。必ず寺社仏閣で詣で、そこで祈ることが条件なのだろうか。
私は日常の生活では神に近づくことは容易ではないと思っている。
なぜなら、日常はあまりにも雑事に満ちているからだ。自分の無意識に降りられる機会などそうそうないはず。

今、わが国は便利になっている。外を歩いてもスマホをつければ情報がもらえる。
ふっと思い立って旅することも、いまや気軽にできるようになった。
それは確かに喜ばしいことだ。
だが、その便利さによって、あらゆることが気持ちを切り替えずにこなせるようになってきた。気持ちと集中力を極限にまで高めなくてもたいていのことはできてしまう。
だが、その状況になれてしまうと、正念場にぶちあたった際、人は力を発揮する方法を忘れてしまう。
仕事でも暮らしの中でも、いざという時の集中力がなければ乗り超えられない局面はやって来る。
危機的な状況に出会うたびに、日常の態度の延長で局面にあたっていても大した成果は得られない。

自分の中で気を整え、集中して力を発揮するための術を身につけておかないと、平凡な一生で終わってしまう。自分の中で気持ちを切り替えるための何かの言動が必要なのだ。
だから、私たちは神社仏閣に訪れ、静謐な空間の中で祈る。日常からの変化を自分の中に呼び覚ますために。

私も長じるたびに雑事に追われる頻度が増えてきた。その一方で、スキルやガジェットを駆使すればたいていのことはこなせるようになってきた。
だが、ここぞという局面で成果を出すためには、気持ちを込める必要も分かってきた。そうでなければ成果につながらないからだ。そのため、私は神社仏閣で祈る時間を増やしている。たとえスピリチュアルな感覚が皆無だとしても。

さて、前置きが長くなったが本書だ。

冒頭にも書いた通り、わが国には幾多の英雄が名を残してきた。今でも政治家で国の政治を動かす立場になった人がいる。
そうした人々の多くに共通するのが、神社を熱く崇敬していたことだ。
古くは藤原不比等、白河上皇、平清盛、源頼朝、北条時政、足利尊氏、豊臣秀吉、徳川家康から、現代でも佐藤栄作、松下幸之助、出光佐三、安倍晋三。etc。
藤原不比等と春日大社、平清盛と厳島神社。源頼朝と箱根神社。徳川家康と諏訪大社。

それらの偉人のうち、何人かは自らが祭神になって祀られている。
有名なのは豊国神社。豊臣秀吉が祀られている。日光東照宮と久能山東照宮には徳川家康が。日本海海戦でロシアのバルチック艦隊を破った東郷平八郎は東郷神社の祭神でもある。

今までの歴史上の物語を読むと、そうした英雄が戦いの前に神社で戦勝を祈願する描写のいかに多いことか。
祈りとは「意(い)宣(の)り」。つまり意思を宣言することだ。
言霊という言葉があるように、意思を常に宣言しておくことは意味がある。常に意思を表に表しておくと、周りの人はそれを感じ取り、御縁を差し伸べてくれる。
かつて聞いたエピソードで、こんなことが印象に残っている。それは電話相談室の回答で、流れ星を見かけたら三回願いを唱えられたらその願いは叶うのはなぜか、という質問への回答だ。
なぜ願いは叶うのか。それは流れ星を見たら即座に自分の願いが三回思い浮かべられるほど、普段から頭の中でその願いを考えているからだ。

私も法人を立ち上げた40歳過ぎから神社への参拝頻度を増やした。
この忙しない情報処理業界でなんとか経営を続けて居られるのも、こうした祈りを欠かさなかったからではないかと思っている。
上に書いた通り、自分の中でけじめをつけ、気持ちを切り替えるためだ。

本書には禰宜や宮司さんが行うような神道の正式な参拝方法が説明されているわけではない。
むしろ、私たちが気軽に神社で参拝するためのやり方を勧めている。
もっとも基本になるのは、年三回は参拝に行くこと。そしてきちんと心の中で祈ること。
私の祈り方はまだまだ足りないし、精進も必要だろう。そのためにも本書を折に触れて読み返してみたい。

‘2020/05/19-2020/05/22


「ご当地もの」と日本人


本書を読んでいる最中、商談の後に神奈川県立歴史博物館を訪れた。
「井伊直弼と横浜」という特別展示をじっくり楽しんだ。

すると、神奈川県立歴史博物館のゆるキャラこと「パンチの守」が現れた。私は館内を鷹揚に巡回する「パンチの守」を追った。「パンチの守」が博物館の表玄関に出て迎えたのは彦根市が誇るゆるキャラこと「ひこにゃん」だ。
全くの偶然で二体のゆるキャラの出会いを見届けられたのは望外の喜びだった。
しかもそのタイミングが本書を読んでいる最中だった。それは何かの暗合ではないかと思う。

私はゆるキャラが好きだ。地方のイベントでも会うたびに写真を撮る。

私が好きなのはゆるキャラだけではない。

私は旅が大好きだ。月に一度は旅に出ないと心身に不調が生じる。
ではなぜ、旅に出るのか。それは日常にない新奇なものが好きだからだ。

日常にない新奇なものとは、私が普段生活する場所では見られないものだ。その地方を訪れなければ見られないし、食べられないもの。それが見たいがために、私はいそいそと旅をする。

例えば寺社仏閣。博物館や城郭。山や海、滝、川、池。美味しい名物や酒、湯。珍しい標識や建物。それらは全てご当地でしか見られないものだ。
もちろん、食べ物や酒はアンテナショップに行けば都内でも味わえる。郷土料理のお店に行けば現地で食べるのと遜色のない料理が味わえる。
でも違う。これは私の思い込みであることを承知でいうが、地方の産物はやはり地方で味わってこそ。

他にもご当地ソングやご当地アイドルがある。地方に行かなければ存在にも気づかない。でも、現地に行けばポスターやラジオで見聞きできる。

私などは、ご当地ものが好きなあまり、地方にしかない地場のスーパーや農協にも行く。必ず観光案内所にも足を運ぶ。もちろん駅にも。

そうした私の性向は、ただ単に旅が好きだから、日常にないものが好きだから。そう思っていた。

だが、著者は本書でより深い分析を披露してみせる。
著者によると、ご当地意識の発生については、律令国家の成立の頃、つまり奈良時代にまで遡れるという。
当時、大和朝廷には各地から納められた物品が届いていた。いわゆる納税だ。租庸調として知られるそれらの納税形態のうち、調は各地の名産を納めることが定められていた。
地方からの納税の形で、大和には各地の風物の彩りに満ちた産物が集まっていた。

大和が地方を統べるためには、役人も派遣する。国司として赴任する役人も、地方と大和の赴任を繰り返していた。地方ではその地の新鮮な産物を楽しんでいたはずだ。例えば魚は、大和では干物でしか手に入らないが、現地では生魚として刺し身で味わえたことだろう。干物とは違う新鮮な風味に満足しながら。

各地の名産を納めさせるためには、その地の状況を把握しなければならない。だから、各地の風土記が編まれた。著者はそう推測する。

大和朝廷と地方を行き来する役人の制度は、江戸時代になり参勤交代が制度に定められたことで強固なものとなった。それが260年近い年月も続けられたことにより、日本人の中にご当地意識として根付いたのだと著者は説く。

実際、他の国々では日本ほどご当地にこだわらないのだという。その理由を著者は、日本の国土が東西南北に広く、海と山の多様な起伏に恵まれているため、土地によって多様な産物があるためだと考えている。

江戸時代から各地の産物の番付表があったこと。春夏の甲子園が地方の代表としての誇りを胸に戦うこと。県民性の存在が科学的に実証されていること。地域性を実証する団体として、県人会の集まりが盛んであること。

そう考えると、私も東京に住んで二十年近くになるが、いまだに故郷への愛着は深い。マクドナルドはマクド。野球は阪神タイガース。そのあたりは譲れない。

私は、クラウドを使ったシステム構築を専業にしている。だから、合理的な考え方を尊んでいるつもりだ。だが、故郷への愛着はそうした合理性の対象外だ。そもそも比べること自体がナンセンスで、価値の範疇が違っている。
それは当然、私だけでなく日本の多くの人に共通した考えだと思っている。

東京は私のように各地から集った人の持ち寄る文化や価値の違いが渦を巻いている。顔には出さずとも、それぞれが違う県民性を抱く人の集まり。だからこそ、各人が鎧をまとって生きている。皆が仮面をかぶって生活をしているから、こんなに冷たい街になったのだ、という論はよく聞く。

著者は本書でさまざまなご当地ものの実情を挙げていく。その中で、ご当地ものにも光と影があることを示す。
ゆるキャラの成功が経済効果をもたらした自治体もあれば、いつのまにかひっそりと姿を消し、お蔵入りを余儀なくされたゆるキャラもいる。

また、商品に産地を名付けることの規制が整っていないこと。それが傍若無尽な産地を騙った手法の蔓延につながっていることにも警鐘を鳴らす。
著者が例として示すように、縁日の屋台に描かれた富士宮焼きそばや中津から揚げの文字は本当に産地の製法を使っているのかという疑問はもっともだと思う。さらにいうと、製法はその土地の手法をまねていても、果たして素材はその土地のものなのか。つまり地産地消でなくても良いのか、という疑問まで生じる。

また、ゆるキャラの著作権の問題も見過ごされがちだ。本書ではひこにゃんの著作権訴訟も取り上げている。著作権について述べられている章は、私が神奈川県立歴史博物館でひこにゃんを見てすぐに読んだため、印象に残る。

今、戦後の経済発展が、似たような街をあちこちに作ってしまった反動がご当地キャラに現れているとの分析はその通りだと思う。各地が画一的だからこそ、無理やり地域に結びつけた名物を創造し、違いを打ち出す必要に駆られている。それが今のゆるキャラの過当競争になっている事実など。

著者はそうした負の面をきちんと指摘しつつ、地域の多彩な名物が日本の魅力の一つとして、諸外国にアピールできる可能性も指摘する。
オリンピックを控えた今、日本には有名観光地だけでない魅力的な場所を擁していることも。

地方の活性化をなんとかしてはかりたい、東京一局集中の弊害を思う私には、本書は参考となった。

‘2020/02/21-2020/02/26