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ビジュアル年表 台湾統治五十年


はじめ、著者の名前と台湾が全く結びつかなかった。
エンターテインメントの小説家として名高い著者が台湾にどのように関係するのか。
そのいきさつについては、あとがきで国立台湾歴史博物館前館長の呂理政氏が書いてくださっている。
それによると、2013年の夏に日本台湾文化経済交流機構が台湾を訪れたが、著者はその一員として来台したという。

著者はその縁で、もともと興味を持っていた台湾の歴史を描こうと思ったそうだ。
本書の前に読んだ「日本統治下の台湾」のレビューにも書いたが、私ははじめて台湾を訪れたとき、人々の温かさに感動した。そして、台湾と日本の関係について関心を持った。
著者もおそらく同じ感慨を抱いたに違いない。

はじめに、で著者はベリーの来航から90年間で、日本がくぐり抜けた歴史の浮き沈みの激しさを描く。
そして著者は、その時期の大部分は、日本が台湾を統治していた時期に重なっていることを指摘する。つまり、当時の台湾にはかつての日本が過ごした歴史が残っている可能性があるのだ。

本書はビジュアル年表と言うだけあって、豊富な図面とイラストが載っている。
それは、国立台湾歴史博物館と秋惠文庫の協力があったからだそうだ。
それに基づき、著者は台湾の統治の歴史を詳細に描く。歴代の台湾総督の事歴や、領有に当たっての苦労や、日本本土との関係など。

本書は、資料としても活用できるほど、その記述は深く詳しい。そして、その視点は中立である。
台湾にもくみしていないし、日本を正当化してもいない。

ただ、一つだけ言えるとすれば、日本は統治した以上は整備に配慮を払っていたことだ。
本書にも詳しく載っているが、図面による台湾の街の様子や地図の線路の進展などは、五十年の間に次々と変わっていった。それはつまり、日本の統治によりインフラが整備されていったことを表している。
特に有名なのは八田氏による烏山頭ダムの整備だ。そうした在野の人物たちによる苦労や努力は否定してはならないと思う。
歴代総督の統治の意識によっても善し悪しがあることは踏まえた上で。

特に児玉源太郎総督とその懐刀だった後藤新平のコンビは、一時期はフランスに売却しようかとすら言われていた台湾を飛躍的に発展させた。
日本による統治のすべてをくくって非難するより、その時期の国際情勢その他によって日本の統治の判断は行われるべきではないだろうか。

そうした統治の歴史は、本書の前に読んだ「日本統治下の台湾」にも描かれていた。が、本書の方が歴史としての記述も資料としての記述も多い。

私はまだ、三回の台湾訪問の中で台湾歴史博物館には訪れたことがない。初めての台湾旅行では故宮博物院を訪れたが、あくまでも中国四千年の歴史を陳列した場所だ。
台湾の歴史を語る上で、私の知識は貧弱で頼りないと自覚している。だから、本書の詳細な資料と記事はとても参考になった。

特に本書に詳しく描かれている当初は蛮族と呼ばれた高砂族の暮らしや、蛮行をなした歴史についてはほとんどを知らなかった。
高砂族を掃討する作戦については、本書に詳しく描かれている。それだけでなく、当時の劣悪な病が蔓延していた様子や、高砂族の人が亡くなった通夜会場の様子なども。本書は台湾の歴史だけではなく、先住民族である高砂族の文化にも詳しく触れていることも素晴らしい。
おそらく私が最初の台湾旅行で訪れた太魯閣も、かつては高砂族が盤踞し、旅行どころか命の危険すらあった地域だったはずだ。
そうした馴化しない高砂族の人々をどうやって鎮圧していったのかといういきさつ。さらには、男女の生活の様子や、差別に満ちた島をデモクラシーの進展がどう変えていったのか。
皇太子時代の昭和天皇の訪問が台湾をどう親日へと変えていったのか。本書の記述は台湾の歴史をかなりカバーしており、参考になる。

また、本書は日本の歴史の進展にも触れている。日本の歴史に起こった出来事が台湾にどのように影響を与えたのかについても、詳しく資料として記していることも本書の長所だ。
皇民化政策は、この時期の台湾を語るには欠かせない。どうやって高砂族をはじめとした台湾の人々に日本語を学ばせ、人々を親日にしていったのか。
八紘一宇を謳った割に、今でも一部の国からは当時のふるまいを非難される日本。
そんなわが国が、唯一成功したといえる植民地が台湾であることは、異論がないと思う。

だからこそ、本書に載っている歴史の数々の出来事は、これからの日本のアジアにおける地位を考える上でとても興味深い。それどころか、日本の来し方とこれからの国際社会でのふるまい方を考える上でも参考になる。

本書はまた、太平洋戦争で日本が敗れた後の台湾についても、少しだけだが触れている。
日本が台湾島から撤退するのと引き換えに国民党から派遣されてやってきた陳儀。台湾の行政担当である彼による拙劣かつ悪辣な統治が、当時の台湾人にどれほどのダメージを与えたのか。
そんな混乱の中、日本人が台湾での資産をあきらめ、無一文で日本に撤退していった様子など。

国民党がどのようにして台湾にやってきて、どのような悲惨な統治を行ったか。本書の国民党に対する記述は辛辣だ。そして、おそらくそれは事実なのだろう。
台北の中正紀念堂で礼賛されているような蒋介石の英雄譚とは逆に、当初の国民党による統治は相当お粗末な結果を生んだようだ。
だからこそ2.28事件が起き、40年あまり台湾で戒厳令が出され続けたのだろうから。
このたびの旅行で私は228歴史記念公園を訪れたが、それだけ、この事件が台湾に与えた傷が深かったことの証だったと感じた。
そして、国民党の統治の失敗があまりにも甚大だったからこそ、その前に台湾を統治した日本への評価を高めたのかもしれない。

本書がそのように政権与党である国民党の評価を冷静に行っていること。それは、すなわち台湾国立歴史博物館の展示にも国民党の影響があまり及んでいない証拠のような気がする。
本書を読み、台湾国立歴史博物館には一度行ってみたくなった。

この旅で、私は中正紀念堂の文物展示室の展示物である、蒋介石が根本博中将に送った花瓶の一対をこの目で見た。
根本博中将と言えば、共産軍に圧倒的に不利な台湾に密航してまで渡り、金門島の戦いを指揮して共産軍から守り抜いた人物である。
だが、中正紀念堂には根本博中将に関する記述はもちろんない。日本統治を正当化する展示ももちろんない。

そんな根本中将への公正な評価も、台湾国立歴史博物館では顕彰されているのかもしれない。
それどころか、日本による統治の良かった点も含め、公正に評価されているとありがたい。
そんな感想を本書から得た。

‘2019/7/24-2019/7/25


坂の上の雲(六)


本書を通して著者は、日露戦争で陸海軍の末路が太平洋戦争の敗戦にあることを指摘する。
さらに著者は、このころの陸軍にすでに予断だけで敵を甘く見る機運があったことも指摘する。
例えばロシアの満州軍は、厳冬のさなかには矛を収めるはずという予断。その予断からは児玉源太郎ですら逃れられなかった。いわんや陸軍の全体は言うまでもなく。
ただし、秋山好古が率いる騎兵団を除いて。

騎兵団から敵情視察の結果、幾たびもロシア軍に動きがあるとの報告をあげても、参謀本部はたかをくくったまま。
好古はここにきて腹を決める。敵軍の動きをわずかな手勢で食い止めるしかないと。
秋山好古が幾たびもの軍の壊滅の危機をどうやって防いだか。それはただ耐えることに尽きる。動じない。愛用の酒の入った水筒を携え、ただ呑み、ただ耐える。
その忍耐こそが好古の名を後世に残したといってもよい。

陸軍首脳が完全にロシア軍の意図を読み違えていた「黒溝台付近の会戦」は、軍の動員の状況からロシア軍の攻勢までのすべてにおいて日本に不利だった。そう著者はいう。
その結果、一方的に押し込まれる日本軍。しかもロシア軍の攻勢は好古のいる翼の側面に集中する。
そんな攻勢をやり過ごすため、好古は騎兵の長所である馬をあきらめる。そして秋山支隊に支給された機関銃を携え、壕にこもって防戦する。守戦に徹しつつ、将の風格である豪胆さを示す。そこに秋山好古の真骨頂はある。

そんな風に危機に瀕していた日本軍を救ったのはロシア軍の分裂だ。
グリッペンベルク将軍が率いる第二軍の攻勢に乗じ、クロパトキン将軍の第一軍の攻勢が合流すれば戦局は決したはず。
だが、グリッペンベルク将軍の策が的中し、功を挙げることで自らの立場が喪われることを懸念したクロパトキン将軍は、攻めるのをやめ、そればかりか退却を指示する。
9割以上の兵が無傷に残されていたというのに。官僚の打算が日本を救ったのだ。まさに僥倖という他はない。

さて、バルチック艦隊は、マダガスカルの北辺にあるノシベという小さな港で二カ月待機している。それはロシア政府からの指示を待っていたため。
ロシア外務省の外交力はまったく効果を上げていない。そして旅順艦隊が消え去った今、新たな艦隊をこれ以上派遣することに意味があるのか。そんな意見の分裂があったかどうかは資料に残っていない。
ただ言えるのは、そうした時間の浪費が日本の連合艦隊の傷を完全に癒やしたことだ。そればかりか日々の厳しい砲撃訓練によって、連合艦隊の精度は上がってゆく。

そして著者の筆は、長期の停泊によってバルチック艦隊を覆った士気の低下と、長期にわたる航海が露わにした石炭の補給の問題に進む。それは、バルチック艦隊が最初からはらんでいた宿命だ。
ロシア皇帝はそんなバルチック艦隊のために、第三艦隊を追加で編成させる。そして極東に向けて出航させる。

そこにはロシア政府の思惑もあった。ロシアの国内で起こる革命の機運を鎮めるためにも、バルチック艦隊には勝ってもらわねばならないという。
それほどまでにロシアの国内には不穏な空気が充ちていた。
その空気の醸成に一枚も二枚も噛んでいたのが、明石元二郎大佐だ。
本書では明石大佐の八面六臂の活躍がつぶさに描かれる。その活躍はロシアの屋台骨を揺るがし、ロシア革命へとつながる道を帝政ロシアに敷いた。
その活躍によるかく乱の戦果は、一説には日本軍の二十万に匹敵したというほどだ。

帝政ロシアの害悪とは、ただ専制体制だったからではない。
極東に侵略の手を伸ばしたように、東欧やバルト海沿岸でもロシアの侵略の手はフィンランドやポーランドに苦しみを与えていた。
明石大佐はそうした国際風潮を即座に読み取る。そして明石大佐は謀略の全てを実名で行った。そうすることで信頼を得、ロシアの周辺国とロシアの内部から反帝政の機運を煽ったのだ。

およびスパイが持つ暗いイメージとは反対のあけすけで飾りを知らない人物。そんな人物だからこそ明石は信頼されたのだろう。
また、その行動を助けるように、反ロシアの空気が充満していたからこそ、彼の行動は広い範囲に影響を与え、絶大な効果をあげたのだと思う。

本書とは関係がないが、明石元二郎は日露戦争後、台湾総督をつとめた。
その縁からか、元二郎の子の元長が、国共内戦で苦境に陥った臺灣の国民党軍を助けるため、日本の根本博中将を台湾に送り届ける役割を果たしたという。
その事実を扱った本を読んだのは、本書を読む二週間ほど前の話。
それを知っていたから、本書で八面六臂の活躍を見せる明石元二郎の姿には、単なるスパイではなく別の印象を受けた。

明石元二郎がどれほど変人だったかは、本書にも描写されている。たとえば生涯、歯を磨かなかったとか。
そういえば、本書に登場する秋山好古も生涯、風呂を嫌っていたという。
そうした人物が活躍できるほど、当時の社会は匂いに鈍麻していたのだろうか。現代の私たちが何かあればすぐ臭いを言いつのる事を考えると隔世の感がある。

そして本書はいよいよ、奉天会戦と日本海海戦へ向けて時間を進める。
まずは、士気の低下したままのバルチック艦隊の様子を描く。
後世ではあまり芳しくない評価を与えられているバルチック艦隊。そして、司令長官のロジェストウェンスキーへの評価も辛辣だ。
著者は辛辣に描きつつ、彼を若干だが擁護する。それはロシアの官僚主義が司令長官の力だけではどうにもならなかったという指摘からだ。

ロシアの満州軍は、黒溝台付近の会戦の結果、辞表を叩きつけたグリッペンベルク将軍が本国に帰ってしまう。
残されたクロパトキン将軍は奉天を最終決戦の場にするべく準備を進める。
準備を行うのは日本側も同じ。
遊軍に近い扱いの鴨緑江軍を満州に送り込んだ大本営の意図は、奉天会戦を見込んだのではなく、日露戦争の戦後を見据えたものだ。少しでも有利な条件を勝ち取れるよう、敵の占領地を確保することが鴨緑江軍の目的だった。が、現地の参謀本部は少しでも軍勢を増やすため、鴨緑江軍を戦場の遊軍として組み入れる。

奉天会戦が迫る中、日本の連合艦隊は砲術の猛特訓を行い、バルチック艦隊がいつ日本近海に現れてもよいように万端の準備を進める。

‘2018/12/17-2018/12/22


坂の上の雲(五)


前巻から続く旅順攻略の大苦戦。朝日を拝んでまで人を超えた力を望んだ児玉源太郎の苦悩は晴れない。
悩んだ挙げ句に、児玉源太郎はついに大山元帥に申し出る。第三軍の指揮権を児玉参謀に委任する一筆をもらうことを。そして委任状を懐に忍ばせ、旅順へと向かう。

旅順を攻める第三軍の責任者は乃木大将。ところがこのままの戦況が続けば、日本にとっては国の存続に関わる問題になる。乃木大将と伊知地参謀に任せておいては日本はロシアに負け、そして滅ぶ。
追い詰められた思いを抱き、児玉源太郎は乃木大将に指揮権の一時預かりを申し出る。幸いにも両者の思惑と相手を思いやる思いが通じ、乃木将軍の面目は保たれたまま、児玉源太郎は一時的に第三軍の作戦をひきうけることで落ち着く。

実権を握った児玉源太郎がさっそく取りかかったのが、28サンチ榴弾砲の移設や二〇三高地を重点的に攻める戦略だ。また軍紀を一新するため、戦線を見ずに後方で図面だけで作戦を立てる参謀たちを叱責し、参謀が自ら最前線を視察させるよう指導する。迅速に立て直しを図った児玉策が的中し、第三軍は極めて短時間で二〇三高地を落とすことに成功する。乃木将軍と伊知地参謀の面目は対外的には保たれた。だが、内心はいかばかりだったか。

ところが、この二〇三高地を巡る下りは、今に至るまで賛否両論なのだという。
本書では、著者は伊地知参謀をこれでもかとこき下ろす。一方で乃木大将のことは人格者として、全軍を統括する大将であり、実際の作戦の立案には関わっていないとして否定しない。だが、著者が振るう伊地知参謀への批判の刃は、間違いなく乃木将軍をずたずたにしている。

その事を許せないと思う人がいるのか、著者と全く違う見解を持つ人もいる。
その説によれば、実は伊地知参謀の立てた策は戦場の現実を考えると真っ当で、著者の批判こそが戦場を見ずに書いた空想だという。
その説は詳しくはWikipediaに書かれている。が、私にはどちらの説が正しいのかわからない。
本書の記述が誤っているのか、それとも史実は全く違うのか。別の説によると、児玉源太郎が旅順で計画を立て直したことすら事実ではないという。もしそれが正しければ、本書の記述は根底から覆ってしまうのだが。

二〇三高地の陥落によって、高地から旅順港の旅順艦隊にやすやすと砲弾を降らせることが可能になった。そして旅順要塞そのものの攻撃も容易になった。ここに戦局は一つの転換を迎える。

印象的なのは、旅順が落ちた後、児玉源太郎が乃木大将に詩会をしようと声をかけるシーンだ。ここで著者は、児玉の漢詩と乃木大将の詩を比べる。そして、詩才においては乃木のそれが児玉を遥かに凌駕していたことを指摘して乃木の株を上げる。その時に乃木が吟じたのが爾霊山の詩だ。

爾霊山嶮豈難攀
男子功名期克艱
鉄血覆山山形改
万人斉仰爾霊山

爾霊山という言葉は二〇三高地にかけた乃木大将の造語であり、「この言葉を選び出した乃木の詩才はもはや神韻を帯びているといってもよかった」(148P)と著者は最大の賛辞を寄せている。
著者がここで言いたいのは、人の才とは適所を得てこそ、という事に尽きる。
乃木大将の才能は戦にはない。けれども、人格や詩才にこそ、将軍の才として後世に伝えられるべきだといいたいかのようだ。
著者は旅順戦については第三軍をこっぴどく非難している。だが、それは直ちに乃木大将の人格を否定するものではない、という事を強調したかったのだろう。

旅順艦隊はほぼ撃滅され、残討処理は第三軍に任された。そして、連合艦隊も旅順艦隊の監視をせずに良くなり、佐世保で修理に入る。
旅順要塞は、旅順艦隊が掃討された後も激烈な抵抗を繰り返す。だが、ついにステッセル将軍の戦意は萎え、日本に降伏を申し出る。
二〇三高地は落ちても、それがすぐ旅順戦の終結にならなかったことは覚えておきたい。

一方、バルチック艦隊はバルト海を出航した。だが、その航海は前代未聞の長大なものであり、苦難に満ちていた。
北海では日本の艦船と勘違いしてイギリス漁船を砲撃し、英露間に戦争を起こす寸前の事態を招いている。
つまり、航海のはじめからバルチック艦隊の士気は低く、あまり意気揚々とした航海ではなかった。司令長官のロジェストウェンスキーは水兵や将官に厳しくあたり、人を容易に信じない人物として描かれる。
四巻から描かれた航海の描写ではアフリカ沿岸を南下し、マダガスカルに行くところまでが描かれる。

本書では、日本と同盟を結ぶイギリスの妨害が日本に有利に働く。露仏同盟を結んでいるはずのフランスも、イギリスからの圧力でバルチック艦隊に港を提供することを渋る。
折しも、極東でロシアが敗北を繰り返す報が入り、バルチック艦隊の前途を危うくする。
そんな中で航海を続けたことの方が大変なこと。むしろ今では、バルチック艦隊は日本海海戦で全滅したことを嘲られるより、無事に航海を成し遂げた偉業が讃えられているぐらいだ。

ステッセル将軍は降伏時の会見で乃木将軍の態度に感銘を受ける。
そうした場での所作の一つ一つが絵になり、また感銘を与える。それが乃木将軍の良い点だ。
乃木将軍に限らず、本書に主に登場する人物の多くは、戊辰戦争の時代を知る人々だ。
乃木、大山、山本、東郷、小村。
本書の主人公は秋山兄弟と正岡子規であるが、彼らではなく、維新の風を知る人物が脇を固めることで、本書で描かれる明治の様相は層が厚く、説得力も増す。

一方のロシアは、相変わらず官僚的な発想が幅を利かせ、軍に弊害をもたらす。
クロパトキンとグリッペンベルクの争いもその一つだ。
日本は秋山騎兵団が背後を撹乱し、戦線を維持している。が、ロシアの全軍が乱れず総力をあげられれば突破されてしまう薄さしかない。ところがロシアの軍を率いる二人の意見が衝突し、さらに官僚の保身が邪魔して、意思の統一が図れない。この点も日本にとっての僥倖だった。

‘2018/12/14-2018/12/17


坂の上の雲(四)


本書では日露戦争の最初の山場が描かれる。それは黄海海戦と沙河会戦、そして遼陽会戦だ。

黄海海戦は、ロシアの旅順艦隊にとって惨々たる結果となった。もちろん日本にとっても。
それまでは旅順港外での小規模な戦いや機雷の敷設の応酬があったとはいえ、戦いというよりも小競り合いと呼んだ方がよいぐらい。小手調べのような争いに終始していた。

それは旅順艦隊がロシア本国の皇帝の命令に縛られていたからである。その命令とは、ウラジオストクへ向かえという意図のはっきりしないもの。そこに極東総督のアレクセーエフが抱く、やがてやって来るはずのバルチック艦隊が極東に来るまでは艦隊を温存しておきたいとの思惑が絡み、旅順艦隊司令長官のウィトゲフトから決断力を奪っていた。

三巻ではそうした帝政ロシアにはびこっていた官僚主義の弊害に触れている。
ヴィッテがロシア満州軍総司令官のクロパトキンに進言していたのは、アクレセーエフを早めに追放すること。指揮と命令の系統が硬直した官僚主義は、ロシアにとっては不幸な結末の原因となったが、日本にとっては幾たびも幸運な結果をもたらす。

しかし、機が熟したと判断したウィトゲフトは、ついにウラジオストクへ艦隊を出航させる。そしてそれを防ごうとした日本の艦隊との間で砲火を交える。黄海海戦だ。
著者の筆は、この海戦の一部始終を語る。本書の巻末にも黄海海戦の動きが図解されている。
この海戦で威力を発揮したのは、日本の砲弾に詰められた下瀬火薬だ。下瀬火薬は貫通力には乏しい。だが、当たると高熱の火災を生じさせる。その火災は、甲板の非金属部分や乗員に甚大な被害を与える。
下瀬火薬によって旅順艦隊は指揮系統が乱された上に、三笠の放った十二インチ砲弾が旅順艦隊旗艦のツェザレウィッチの司令塔に命中し、ウィトゲフトや操舵員を消し去る。著者はこの砲弾を「運命の一弾」と名付けている。また、後年になっても黄海海戦で勝てる見込みはわずかしか持っていなかったという秋山真之も「怪弾」と呼んでいる。この一弾が戦局に決定的な役割を果たす。黄海海戦のみならず日露戦争にも影響を与えた一撃だった
といえよう。

沈没はしなかったものの、コントロールが効かず漂い始めたツェザレウィッチは、かえって他の旅順艦隊の動きを乱す。旅順艦隊のそれぞれの戦艦は、下瀬火薬によって甲板上をさんざんに痛めつけられながら、あちこちの港に逃げ込む。逃げこんだ先が中立国の港であった場合は武装解除され、別の港に逃げ込めたとしても戦艦として二度と使えなくなる。ウラジオストクから出撃してきたウラジオ艦隊も日本の連合艦隊から戦艦として使えなくなるほどの打撃を受ける。
そうして黄海海戦は日本の勝利が確定した。旅順艦隊の一部は旅順に逃げ帰り、再び旅順港に籠ってしまう。

続いては陸軍の戦いだ。遼陽の会戦。それは、近代日本が戦った初の大会戦。
ロシア軍はシベリア鉄道を活用して物資も要員も潤沢に供給できる。対する日本は弾薬の使用量の見込みが信じられないほど甘く、常に戦闘員と砲弾と物資の残りを心配しながらの戦う羽目に陥る。

この戦いで運命を分けたのは、秋山好古の率いる騎兵だ。敵の後方で躍動し、それがクロパトキンの判断を散乱させたことが、戦局の流れを変えた。そして第一軍の黒木大将が敵将のクロパトキンの目をかすめ、太子河の渡河に成功したことも結果に大きな影響を与えた。

本書の全体に通じるのは、情報が不便だった時代だからこそ、情報を得られなかった側が負ける教訓だ。
通常であればどの戦いもロシアが圧倒的に有利であるはず。なのに、一瞬の判断が勝敗を分けている。ロシアは情報が不足することで疑心暗鬼となる。対する日本は遮二無二の攻めダルマを貫いてロシアを押し切ってしまう。

それは沙河会戦でも同じ。もはや砲弾の不足は異常な状態。本書の記述を読んでいると、日本は砲弾がないのにどうやって勝ったのか疑問に思えるほどだ。
実は日本の勝利とは、薄氷を踏むような奇跡が繰り返し起こり、その積み重ねで勝ったことを著者は繰り消し語る。

遼陽会戦と沙河会戦は、まだ児玉源太郎の立てた入念な計画があったからまだ勝てる見込みが少しはあった。
だが、旅順攻略戦を担当する第三軍の場合、作戦も何もなく、ただ人海戦術で押すしかない稚拙なものであった。
乃木大将は後世、神に祀られた人だ。人物の魅力を高く備え、その魅力によって人々を惹きつけ、将たる威厳を持っていたという。そのカリスマ性は兵を死ぬための突撃に向かわせる力となった。
ところが、乃木大将は戦が上手ではない。そして乃木将軍を補佐すべき参謀がこれまた頑固な人海戦術しか知らない伊知地孝介だったことが第三軍の不幸だった。一度決めた方針に固執し、客観的になれず、人に意見を聞く謙虚さもない日本人の悪い点を体現したような人物。著者はとにかくこの伊知地参謀をけなしにけなす。その描写は全ての日本の悪徳を一身に背負ったかのようだ。

いく度も要塞に突撃を敢行しては、掘に日本兵の死体を埋めてゆく。そして何の工夫もなく、大本営に人員と弾薬の補給をひたすら要請する。

旅順要塞を攻略しないことには港内に閉じこもった旅順艦隊は動かせない。そして旅順艦隊を生き延びさせていると、やがてやって来るバルチック艦隊と合流し、日本の連合艦隊が勝てないほどの戦力となる。旅順要塞を落とし、そこに守られている旅順艦隊を一掃しなければ日本の勝利はない。第三軍に日本の運命が託されているのだ。

焦る児玉源太郎。
彼が朝日を毎朝拝むようになったのもゆえなきことではない。
江ノ島には児玉源太郎を祀る神社がある。後世、神になった彼にして、祈るしかなかったのが日露戦争の現実だった。

戦争の結末を知っているのに、スリルに満ちた物語に引き込まれてゆく。

‘2018/12/13-2018/12/14