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タイガーズ・ワイフ


生と死。
それは私たちに人間にとって永遠の問題だ。頭ではわかっているつもりになっても、心で理解することが難しい。

人が自分の死を実感することは、不可能のようにも思える。それは、死が儀式で飾られる今の日本ではなおさら到達できない概念のように思える。

かつての戦争では、無数の人が死んだ。空襲によって燃え上がった翌朝の街には黒焦げの焼死体が数限りなく転がっている。それが当たり前の日常だった。
そうした光景が当たり前になると死への感覚がマヒしてしまう。その時に同時に起こるのは、死が日常になることだ。実感として死が深く刻み込まれる。
戦乱に次ぐ戦乱の日々が続いた中世の日本ではなおさら死は身近だったはずだ。
今の日本は平和になり、死の感覚は鈍っている。もちろん私もそうだ。それが平和ボケと呼ばれる現象ではないだろうか。

平和な日本とは逆に、世界はまだ争乱に満ちている。例えば本書の舞台であるバルカン北部の国々など。
著者はセルビアの出身だという。幼時に騒乱を避け、各国を転々とした経験を持ち、アメリカで作家として大成した経歴を持っているようだ。
そのため、本書には生と死の実感が濃密なほどに反映されている。

例えば舞台となったセルビアとその周辺国。バルカン半島は火薬庫と呼ばれるほど、紛争がしきりに起こった地である。
死者は無数に生まれ、生者は生まれてすぐに死を間近にしていた。

本書において、著者は人の死の本質を描こうとしている。生と死をつかさどる象徴があちこちに登場し、読者を生死への思索へと向かわせる。
例えば主人公は、人の生と死を差配する医者だ。主人公に多大な影響を与えた祖父も医者だった。本書の冒頭はその祖父の死で始まる。

主人公は、祖父の死の謎を追う。なぜ祖父は死ぬ間際に誰にも黙って家族の知らない場所へ向かったのか。何が祖父をその地に向かわせたのか。
主人公は奉仕活動に従事しながらの合間に祖父の死を追い求める。
奉仕活動の現場で主人公は墓掘りの現場に遭遇し、人々の間に残る因習と向き合う経験を強いられる。墓場は濃厚な死がよどむ場所であり、このエピソードも本書のテーマを強める効果を与えている。

祖父の生涯を追い求める中、主人公は祖父の子供時代に起きた不思議な出来事を知る。
永遠の生命を持つ謎めいた男。殺しても死なず、時代を超えて現れる男。祖父はその男ガヴラン・ガイレと浅からぬ因縁があったらしい。
不死もまた、人の生や死と逆転した事象だ。

不死の本質を追究することは、生の本質を追い求める営みの裏返しだ。
そもそも、なぜ人は死なねばならないのか。死は人間や社会にとって欠かせないのだろうか。不死を願うことは、生命の本分にもとるタブーなのだろうか。
死が免れない運命だとすれば、なぜ人は健康を願うのか。そもそも死が当たり前の世界であれば、医者など不要ではないか。
著者は生と死に関する疑問の数々を読者に突き付ける。そして、死と生の不条理と不思議を描いていく。

祖父の謎めいた出来事の二つ目は生を象徴する出来事だ。つまり誕生。
ここから著者はバルカンの豊穣な神話の世界を描いていく。
サーカスから逃げ出した虎が周辺の人々を襲う。そんな中、夫のルカに日頃から虐待されていた幼い嫁は、夫のルカが忽然と姿を消した後に妊娠が発覚する。
虎が辺りを彷徨っている目撃情報もある中、幼かった祖父は、幼い嫁に食料をひそかに運んでやる。
あたりには虎の気配が満ちている中、幼い嫁と幼かった祖父は襲われずに生き延びる。幼い嫁は虎の嫁ではないかといううわさがまことしやかに語られる。

そんな虎を追って、剥製師のクマのダリーシャが罠をあちこちに仕掛ける。だが虎は捕まらない。やがてクマのダリーシャも死体となって見つかる。その姿を見つけたのは薬屋のマルコ・パロヴィッチ。

著者は、ルカや虎の嫁、クマのダリーシャ、薬屋のマルコといった人々を生い立ちから語る。
彼らの生い立ちから見えてくるのは、街の歴史と、戦争に苦しんできた人々の生の積み重ねだ。
そうした歴史の積み重ねの中に祖父や主人公は生を受けた。無数の生と死のはざまに。

やがて虎の嫁が臨月を迎えようとした頃、虎の嫁は死体で見つかる。そして虎は忽然と姿を消す。

本書の冒頭は、祖父に連れられた動物園での主人公の追憶から始まる。
なぜ祖父がそれほどまでに動物園の、それも虎に執着するのか。それがここで明かされる。
虎はあくまでも生きのびようとしたのだ。生への執着をあらわにして。
だが、動物園は相次ぐ戦乱の中で放置され、動物たちは次々と餓死していった。
祖父が子供の頃に見かけた虎はどこかに子孫を残しているのだろうか。

成長して医師になり、重職に上り詰めた祖父は、子供の頃と若い日に出会った生と死の象徴である二人の人物に再び出会うため、最後に旅にでた。
主人公はそのことに思い至る。

生と死に満ちた時代を生き抜いた祖父は、生涯を通じて生と死のメタファーに取り付かれていた。
おそらくそれは、著者自身の体験も含まられているはずだ。
あとがきには訳者による解説が付されている。そこでは祖父のモデルとなった人物との交流があったそうだ。

そうした思い出を一つの物語として紡ぎ、神話と現実の世界を描いている本書。戦争に苦しめられた地であるからこそ、生と死のイメージが豊穣だ。

生と死、そして戦争を描く手法は多くある。その二つの概念を即物的に描かず、歴史と神話の世界のなかに再現したところに本書の妙味があると思う。

‘2020/07/18-2020/07/31


少女は夜明けに夢をみる


本作を見てとても心が痛くなった。試写が終わった後、パネリストの方が仰った「この現実は日本でもおきている」事実が、同じ年ごろの娘を持つ身として私の心を刺した。この鋭さこそがドキュメンタリー。映像の持つメッセージの力をあらためて認識させられた。それが本作だ。

私にとってサイボウズさんとのご縁はもう6,7年になる。今までにもさまざまなイベントにお招きいただき、参加する度に多くの勉強をさせていただいた。もともと、働き方改革や柔軟な人事制度など、サイボウズさんの社風には賛同するところが多い。だから展開するサービスにも惹かれる点があり、私もkintoneやチーム応援ライセンスなどでお世話になっている。私のキャリアにとってもサイボウズさんは飛躍へのステップを作ってくださった会社。本当に感謝しているし、これからも続くべき会社だと思っている。

ところが、私が今までに参加したサイボウズさんのイベントは、そのほとんどがITに関係している。それはサイボウズさんがIT企業である以上、当然のことだ。

そんな私が今回、参加させていただいたのは、本作の特別試写会。まったくITには関係がない。なぜ、このような社会的なメッセージの強い作品の試写会を開催したのか。それは、サイボウズさんが児童虐待防止特別プランを展開されていることと密に関係しているはずだ。
子どもの虐待プロジェクト2018
南丹市、児童虐待防止の地域連携にkintoneを導入

この試写会のご担当者様は、サイボウズさんがチーム応援ライセンスを開始するにあたっての記念セミナーでもお世話になった方。私はそのセミナーで登壇させていただき、その時も今も、私が自分にできる社会貢献とは何か、について考え続けていた。そのため、お誘いを受けてすぐに参加を決めた。

本作は、2019/11/2から岩波ホールで公開予定だとか。
岩波ホールの告知サイト
公式サイト
それにしても、私が今回のような純然たる社会派の映画を見るのは久しぶりのことだ。

冒頭にも書いた通り、本作はとても心を痛める映画だ。描かれた現実そのものが発する痛みもそうだが、その痛みの一部は、私自身の無知ゆえの恥からも来ている。

そもそも私はイランのことをほとんど知らない。世界史の教科書から得た知識ぐらいのもの。「風土は?」と聞かれても、吹きすさぶ砂嵐の中に土づくりの家が集まっている、というお粗末な答えしか持っていなかった。日本をハラキリゲイシャのイメージで想像する国外の方を笑えない。

だから、本書の冒頭で一面の雪景色が登場するだけで意表をつかれてしまう。イランにも雪がふる事実。そして、普通に舗装された道路を車が走る描写。それだけで、私の認識は簡単に揺さぶられてしまう。

さらに、その雪をぶつけ合い、はしゃぐ少女たちが、とても楽しそうなのをみて、私の思いはさらに意外な方向に向かう。彼女たちは保護施設に収容された犯罪者ではなかったのか。

だが、少女たちが歌う内容を知ると、私の認識は一変する。字幕には「幸せだからって不幸せな私たちを笑わないで」という文字が。少女たちが悪事を犯した罪人という見え方が変わる瞬間だ。

本作を上映する前振りで本作の宣伝スタッフの方の言葉や、リーフレットを見ていた私は、彼女たちを単なる犯罪者だとくくっていたように思う。だが、彼女たちは犯罪者の前に一人の人間なのだ。彼女たちの多くは私の娘たちと同じ年ごろであり、本来ならば芳紀を謳歌しているはずのかわいらしい少女なのだ、という事実に思い至る。

その事実に気づくと同時に、心から楽しんでいるように見える彼女たちの笑いの裏には、想像を絶するほどの痛みがあることが感じられる。そもそも、楽しげな雪合戦も高くそびえる塀に囲まれなければできない。また、本作のあらゆるシーンには、曇り空しか登場しない。本作を通して、一瞬たりとも晴れ間は見えない。それは本作が12月から新年までの20日しかロケしておらず、季節がたまたまだったことも関係あるだろうが、監督も晴れ渡った空は撮るつもりもなかっただろう。

あえて平板なイントネーションで少女たちにインタビューしているのは本作のメヘルダード・オスコウイ監督だろうか。一切の感情を交えず、施設に入った理由を娘たちのそれぞれに聞く監督。その中立的な声音につられるように、娘たちはそれぞれの境遇を述べる。

18歳の娘は、14歳で結婚し、15歳で子どもを産んだ。だが、クスリの売人になることを強いられ、7カ月も娘には会っていないという。その子の名前がハスティ(存在)というのも、痛々しい。この世に自分がある理由。それは娘が存在しているから。だが、施設に入っている以上、娘と会うことは叶わない。名前と境遇の落差の激しさ。

昔はいい子だったというが、周りの環境に合わせて不良のように振る舞っているという少女。自分を名無しと名乗っている。面会に来るおばあさんに対しては満面の笑みを見せるのに、釈放にあたっておばあさんが来てくれないことに泣き叫ぶ。そして朝方、世間に戻されても生きていけないと絶望にすすり泣く。性的虐待を受けた自分の帰る場所は父でも母でもなくおばあさんだけ。

なりたい職業が弁護士か警官。理由は同じ境遇の子供を助けてあげたいから。と語る直後に今の夢はと聞かれ「死ぬこと」と答える少女。その矛盾した答えを発する顔は、疲れて希望を失っている。彼女は性的虐待を加えた叔父のうそを信じる家族に絶望していた。だが、家族が実は叔父のうそを見抜き、自分を信じ、愛していたことを知った途端、輝きを取り戻す。満面の笑顔で施設を出る顔に憂いはない。

娘が生まれたら「殺す」と即答し、息子は?との問いに息子は母の宝だから、と答える少女。それは母への愛憎の裏返しであることはすぐに理解できる。だが、普段は陽気なムードメーカー役を担っているにもかかわらず、そこには絶望が感じられる。強盗の子は強盗にしかならないとあきらめ、肉親に対して何も差し入れをしてくれないことを電話口で泣きながら訴える。

そんな少女がいる一方で、息子が生まれれば「殺す」と即答する少女もいる。娘の名前はすでに付けているというのに。

釈放を申し渡されても、それに対して「お悔やみを」と返す少女。鎖につながれ、虐待される日々に戻るだけという絶望。決して自分に明るい未来があると信じず、そもそも明るい未来のあることを知らない少女。

651と名乗る少女は、クスリを651グラム所持していたからそう名乗っているという。本作に登場する少女たちにとってクスリは日常。それが正しくないとわかっていても、生活のため、肉親から求められれば扱うしかない。そんな切っても切れないのがクスリ。

実の父を母や姉とはかって殺した少女。「ここは痛みだらけだね」という監督に、四方の壁から染み出すほどだと返す。その少女は物静かに見えるが、実はもっとも矛盾と怒りを抱いている存在かもしれない。イスラム教の導師に対し、世の矛盾を一番熱く語っていたのも彼女。

本作には何人ものインタビューと、釈放されるシーンが挟まれる。BGMなどほとんどない本作において、目立つのは乗り込んだ車が発車するシーンで流れる不協和音のBGMだ。彼女たちの釈放後の生活を暗示するかのような。

彼女たちに共通する認識は、罰とは生きる事そのものであり、その罪は生まれてきた事そのものだという。なんという苦しく胸の痛む人生観だろうか。私は少女たちの全てに私の娘たちの生活を重ね合わせ、その間に存在する闇の深さに胸が痛んだ。いったい、私の娘たちと彼女たちの間には何の差があるのだろう。国や民族、宗教、文化が違うだけでこうなってしまうのだろうか?

施設の職員がAidsの知識を授けようとする。塀に囲まれた庭でバレーボールをする。収容者の乳飲み子のお世話をする機会が与えられる。新しいオーディオ機器で音楽も聴くことができる。人形劇を演じる事だってできる。それだけだと平和な日常だ。少女たちは施設の中にあって、平和に生きているようにも見える。だが、本作にあって、一切塀の外の世界は映し出されない。だからこそ、その矛盾と暴力に満ちた世界の無慈悲さがあぶりだされる。施設の人がとある少女を突き放すように、ここを出たら何が何でも外の世界で生きねばならないこと。たとえ自殺しても知ったこっちゃないと言い放つ。少女たちの笑顔や会話は、施設の中だからこそ許されるかりそめのもの。

女性だけが集まる場だと派閥やグループが陰険な争いを繰り広げる。そんな偏見が頭をもたげる。だが、本作の少女たちにそのようなものは見当たらない。泣く相手には胸を貸し、出ていく者にはもう戻ってくるなと励ましの声をかける。少女たちは下らない派閥争いなどにうつつを抜かす暇はないのだ。ここに収容されているのはみな同じく苦しむ仲間。だからこそ支えない、慰め合う。その事実にさらに胸が締め付けられる。

イスラム教の導師が少女たちに道を説こうとし、逆に少女たちからなぜ男と女の命の重みは違うのか、という切実な問いを投げかけられる。男と女の命の重みに差があるかなんて、少なくとも最近の日本では感じることはない。少女たちの真摯な問いに導師は「社会を平穏にしなければ」という言葉でお茶を濁す。

何が少女たちをこうしてしまったのか。イランにもイスラム教にも詳しくない私にはわからない。少女たちは決して犯罪者になるべくして生まれてきたのではない。それが証拠に、収容者の乳飲み子が登場し、その無垢な姿を観客の私たちに見せる。その表情からは、この子が将来強盗や殺人や誘拐や売春や薬物に手を染める予兆は全く見えない。

少女たちもまた、違う時空に生まれていたら輝かしい毎日を送っていたはず。少女たちの多くは顔立ちも整っており、化粧したら女優にだってなれるのでは、という子もいる。ただ、環境が。肉親との暮らしが少女たちをこのような境遇に追い込んでいるのだ。

彼女たちの境遇は、社会に潤沢な金を流通させればいなくなるのだろうか。それとも文化や宗教の違いは、今後も彼女たちのような存在を生み続けるのだろうか。監督はそこは描かない。あるがものをあるがままに。ただ、これがイランの現実だと監督は現実を提示する。7年の準備期間はダテではなく、本作に監督の私情は不要だとわきまえているのだろう。

心を痛めたまま、エンドクレジットが流れる。続いてトークイベントへ。

虐待被害を受けたお子さんがいるご家庭や里親家庭で養育支援をしているバディチームの代表岡田さん、妊娠相談、漂流妊婦の居場所づくりにとりくむピッコラーレ代表中島さんによるトークは、こうした現実を送る少女が日本にもいることを語ってくださった。最近の自販機は暖かくないという、普段の生活では気づかない事実。そうした経験から受ける視点は新鮮だ。わが国にも野宿し、その揚げ句に売春に走る少女はいるとか。

本作を見た後、日本にも同様の生活を送る少女がいることは衝撃だ。生活の確立に失敗し、放浪に走る少女たち。援助交際とは交際じゃない。ただの性的搾取だ、という言葉ももっともだし、売春を取り締まるとは売る側を取り締まる話であり、そうした行為を強いられている少女たちを救うことにならない、という指摘にもうなずける。春を買った側を取り締まる法律がない現状にも目を向けなければ、という指摘も納得がいく。同じ年ごろの娘を持つ私は、娘たちの将来だけを考えればよいのか。否。そうではないはずだ。

本書をただ観劇しただけなら、文化も宗教も違う場所の悲劇、として片付けてしまっていたかもしれない。だが、こうしてトークイベントが催されたことによって、本作への理解がさらに深みを増した。もちろん、映画館で観ることで、本作が伝えるメッセージの鋭さは痛みをもって伝わるはず。

私たちが何をすればよいのか。私は経営者として何をすればよいのか。その答えはまだ出ていない。ただ、トークイベントの中では、ボランティアの道もご紹介いただいた。あらためて自分の時間を見据えてみたいと思う。とても貴重な時間だった。

今回の催しを企画してくださり、当日も動いてくださったスタッフの皆様、本当にありがとうございました。

‘2019/10/17 サイボウズ社本社


命を守る東京都立川市の自治会


数年前に、地元自治会の総務部長を務めたことがある。総務部長の仕事はなかなかに面白く、やり甲斐があったことを思い出す。とはいえ大変な仕事でもあった。日が替わってから仕事を終えて帰宅した後、深夜に一人で四十数軒をポスティングして回ったこともあった。職場の状況がきつきつで連日帰宅が深夜になっていた中、よくも一年自治会の仕事をやり遂げたと今更ながらに思う。貴重な経験をさせて頂いたし、自分の人生にとって非常に大きな経験だったと思っている。当時の役員の皆様や支えて頂いた自治会員の方々にはとても感謝している。

一年間の活動を通じて得たことは他にもあった。それは、自治会の存在意義が単なる住民互助会ではない、との知見だ。それは、一住民として自治会に加入しているだけでは決して理解できなかったと思う。自治体によって温度差はあるが、今の日本の自治会は良くも悪くも行政の末端組織として機能している。小さな政府の必要性が叫ばれ行政のスリム化が一層求められている今、自治体の重要性は無視できない。行政の末端組織として実質機能しながら建前上では行政の管轄外である自治会は、却ってそれ故に行政にとっても住民にとっても不可欠との知見。この視点を疎かにしたまま、時代の流れに任せて自治会を衰退させていくことは、今後の日本にとって良くないと思うに至った。

むろん上に書いたような知見は、私が一年の任期を終えた後に考えたことである。任期中は無我夢中のまま、あっという間に過ぎ去ったというのが正直なところだ。一年間、私なりに出来うる範囲で全力を出して自治会活動にあたり、悔いはない。悔いは無いが、本書を読むとまだまだやるべきことや次代に引き継ぐべきことが多々あったことに気付かされ、忸怩たる思いでいる。

本書の著者は、東京都立川市の大山団地にある大山自治会の会長である。その活動において、大山自治会または著者は様々な表彰を受けている。そればかりか、本書という形で書籍出版まで成し遂げている。

大山自治会の何がそんなに凄いのか。その答えは本書の中で縷々に述べられている。それは、総務を経験した私から見ても感心するレベルだ。

例えば加入率。本書によると大山団地は1300世帯が入居しているが、大山自治会への加入率は百%なのだとか。これは信じられない数字である。もっともこれには理由がある。大山団地への入居時に自治会加入を義務化しているからだそうだ。しかし、加入率だけでなく、会費納入率も百%なのだとか。私が総務を担当していた自治会は、大山自治会の半分ほどの世帯数である。しかし、私の在任時でも未加入世帯が3~4%はあったように記憶している。

さらに凄いのは役員会の出席率。これも百%だという。私の在任中、月一回の役員定例会を催していた。私の記憶では、百%の出席率を達成した役員会は1回あったかなかったか。そもそも私自身が毎月の定例会に出席することすら、家族からの不平不満にさらされていた。なので、大山自治会の役員全員が皆勤であることの凄さがなおさら実感できる。

また、大山自治会は孤独死がゼロだという。孤独死は痛ましいことだが、今の日本では起こりうることだ。実際、私の在任中にもお一人孤独死された方がいらっしゃった。お亡くなりになられてから十日余り寂しい想いをさせてしまったのだ。役員会でもお年を召された方に対し、責任感を持った民生委員さんと協力体制を取っていたが、それでも孤独死は防げなかった。大山自治会が孤独死ゼロということが本当であれば、様々な表彰も納得であり、活動内容が本書として書籍化されるだけのことはあると思う。

もちろん、上に挙げた数字は自治会の加入世帯の構成によって変動する。そのことは承知の上だ。役員出席率が百%の件にしても、役員が全員子育てを済ませた引退世代であれば、それもたやすいだろう。また、本書の著者は平日の日中に自治会の活動にかなりの時間を掛けても、支障のない境遇にあるようだ。それだからこそ、これだけの成果を挙げられたともいえる。私自身、総務部長としての在任中は平日の日中の対応は精々メールの返信がいいところだった。その点を含めて、最も精力的に動くことの出来る人々が自治会に時間を割けない自治会の在り方は、深く考えねばならないだろう。

また、大山自治会が成果を上げた理由として大きいと思うのがもう一つある。それは著者を会長として、同一体制の下、長期にわたって同一方針で運営できたことである。私が総務を担当して思ったのが、一年で成果を出し尽すのは困難ということ。本来ならば私も引き続き総務部長の任務を遂行し、定着させるべきだったのだろう。しかし連日帰宅が深夜に及ぶ状態で2年連続の総務部長に就くのは体力的にも時間的にも限界だったし、家族の不満も限界まで溜まっていた。また、そもそも私の自治会は、私が就任する数年前にとある事情があって長期政権がタブーになった経緯があった。そのために一年毎に全役員交替の慣習が続いていた。しかしそれらの事情を差し置いても、一年交代ではなかなか自治会の活動を継続的に発展させ続けることは難しいだろう。

ただ、私の場合は幸いにして私の次々代の総務部長がIT化を促進して頂き、その縁もあって私も再び自治会にIT業者として関わらせて頂くことになった。私は職業柄、自治会の運営改善の即効薬として、IT化による効率化を推進した。しかし本書で取り上げられる大山自治会ではほとんどIT化は進めていないらしい。では、どうやって日々の運用を行っているのか。それは専属の常勤事務職員の雇用を行っているからだという。

結局のところ、善意のボランティアだけで自治会活動を継続させることは、かなりの労力がかかる。それは私の経験からも深く実感している。大山自治会のように常勤事務員を雇うか、IT化の推進以外の道を見つけない限り、自治会の役割は蔑ろにされていく一方だと危惧している。

しかし今の日本に元気がないとすれば、それは地域の衰退も理由の一つにあると思う。地域の交流が衰えるとひいては日本も衰える。それを挽回するには地域の、自治会の力は必要ではないだろうか。

私はまだ、自治会をIT化で活性化せるという事業目標は捨ててはいない。クラウドが普及し、IT化が安価になりつつある今はチャンスである。自治会をITで元気にする。これは私の当面の課題でもある。

‘2015/3/28-2015/3/28