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オン・ザ・ロード


「おい、おまえの道はなんだい? 聖人の道か、狂人の道か、虹の道か、グッピーの道か、どんな道でもあるぞ。どんなことをしていようがだれにでもどこへでも行ける道はある。さあ、どこでどうする?」(401P)

「こういうスナップ写真をぼくらの子どもたちはいつの日か不思議そうにながめて、親たちはなにごともなくきちんと、写真に収まるような人生を過ごし、朝起きると胸を張って人生の歩道を歩んでいったのだと考えるのだろう、とぼくは思った。ぼくらのじっさいの人生が、じっさいの夜が、その地獄が、意味のない悪夢の道がボロボロの狂気と騒乱でいっぱいだったとは夢にも考えないのだろう。」(406P)

若いときに読んでおかねばならない本があるとすれば、本書はその一冊にあげられるにちがいない。先日ノーベル賞を受賞したボブ・ディランは、本書を自分の人生を変えた本と言ったとか。

多分、中高生の私が本書を読んでいたならば、私にとっても人生を変えた本になっていたことだろう。私ももっと前に本書を読んでおきたかったと思う。

ただ、20代の私が本書を読んでも、どの程度まで影響を受けていたかはわからない。放浪癖に目覚めた頃だったので、同じ嗜好を持ち、同じ方向を向いている本書はかえってすっと受け入れてしまい、なじみすぎて印象に残らなかったかもしれない。親しんだ記憶は残っただろうけど。

今回、40の坂を越えてからはじめて本書を読んだ。そこから感じた読後感も悪くない。二十歳の頃には出逢えなかったが、40代の感性でしか感じられない新鮮さもある。もっとも、40代の今の視点で本書を読むと、自分自身の過ぎ去った日々を懐かしむ思いがどうしても混じってしまうのも事実。ただ、40代が感じた本書の感想も悪くないはず。その視点でつづりたいと思う。

本書は、あてなき放浪の物語だ。アメリカ大陸の東と西をさまよい、北から南へと越境してメキシコまで。時は1947年〜1949年。第二次世界大戦に勝利し、世界の超大国となったアメリカ。まだソ連が原爆を持つ前の、ベルリンが東西に分割される前の、中華人民共和国が建国される前の勝利の幸福に浸れていた頃のアメリカ。そんなアメリカを縦横に旅しまくるのが本書だ。主人公サル・パラダイスの名前のとおりに幸せなアメリカは、また、素朴なアメリカでもあった。

東西冷戦が始まるや、アメリカは西側の同盟国を引き締めにかかる。自国の文化を紐がわりにして。それは文化的な侵略といってよいだろう。だが、本書で描かれるアメリカは、自国の文化を世界中にまき散らす前のアメリカだ。大戦の勝利の余韻が尊大さの色を帯びる前のアメリカでもある。

主人公サルとアメリカ中を駆け巡るディーンは、狂人すれすれの奇行と社交性を持つ人物として描かれる。だが、そんな彼らにも、やがて落ち着きの日がやってくる。いくら乱痴奇騒ぎを繰り広げようが、彼らも叔母の前では汚い言葉を控えるようになる。彼らとつるんで騒いでいた友人たちも、やがて常識的な言動を身に付け始める。

それは、アメリカが建国以来持ち続けいた、素朴な開拓者スピリットを脱ぎ捨て、政治・文化のリーダーとして振る舞い始める様を思わせないか。サルとディーンが見せる躁鬱の繰り返しは、アメリカ自身が19世紀後半から見せて来た内戦と繁栄の焼き直しに思える。

本書で印象を受けたのは、冒頭に掲げたような言葉だ。これらのセリフは、彼らが旅を終えてから次の旅までの間、金を稼ぎ妻子を養ったりしている間にはかれる。旅中のハイテンションな日々を躁とすれば、旅の合間の準備期間は鬱ともいえる。

だが、本書がひときわ輝いているのは、実はその合間とも言える鬱の時期だ。狂騒の時期はひたすら騒がしい描写に終始しているが、静かな時期にこそ、人生の陰影が彫り込まれてる。その深みは、読者に印象を与える。

冒頭に掲げた二つの文はまさに旅の合間のセリフだ。このセリフには、旅というものの本質が見事に表されている。

私自身、旅への衝動に従って生きてきた。今もそれに身を委ねては、気の向くままに放浪したいと思っている。なので、彼らが旅の合間、稼いだり妻子を養っている間に感じる焦燥感や衝動はとても理解できるのだ。

旅にこそ、人生の実感はある。旅にこそ、人々との触れ合いがある。

だが、旅とはリスクの塊だ。離婚と結婚を繰り返すディーンの生きざまは、旅が結婚という定住生活の対極にあることがわかる。

旅と結婚。その二つは相反するものなのかもしれない。

二つの生き方に迷い、引き裂かれてわれわれは生きていく。本書のサルとディーンのように。

サルが著者ケルアックであり、ディーンがニール・キャサディてあることは訳者が後書きで触れている。著者はビート・ジェネレーションの名付け親であり、その代表的な存在としても知られている。キャサディもまた、破天荒な人生を送った事で知られている。結局、二人ともヒッピー文化が華やかなりし時期に相次いで亡くなっている。本書の終盤で、ディーンはサルと離ればなれになってしまう。サルもディーンも本書において、どういう末路をたどったのか本書には書かれていない。多分、定住を拒み続けただろうし、末路も平穏では済まなかっただろう。

でも、人の一生はそれぞれ。彼らは後悔しなかったに違いない。そもそも人生とは旅なのだから。たとえ結末が惨めなものだったとしても。決して後悔しない。安定を求めない。それが旅人というもの。

私もそういう姿勢で生きていこうと思う。

‘2016/11/01-2016/11/13


ロックとは止まらないこと


ボブ・ディランがノーベル文学賞を受賞したとのニュース。何年も前から候補には挙がっていましたが、受賞が現実になるとあらためてうれしいですね。と言っても私は別にボブ・ディランのファンというわけではありません。ただ、一洋楽ファンとしてうれしいのです。

ボブ・ディランはポピュラー音楽の世界で名声を築いた方。文学者でないのに受賞したことで異論もあるようですが、それは的外れな意見といえます。まず、氏は歴とした詩人です。たまたま氏が紡ぎ出す詩にメロディーが載っているだけの話。今までにも多数の詩人がノーベル文学賞を受賞しているのだから、ボブ・ディランが受賞することに何の違和感も感じません。

三年ほど前、無為な作業の待ち時間を有効活用するため、歌詞を暗記する事に励んだ時期があります。その時に真っ先に取り上げたのがBrowin’ in the Wind。1973年生まれの私にとって、ボブ・ディランはWe Are The Worldに登場するぐらいしか接点がなく、曲も超有名曲のほかはピンと来るものがありませんでした。が、氏の詩を暗記することによって、私はようやく 詩人としてのボブ・ディランのすごみの一端を知ることができたように思います。

今、ボブ・ディランは受賞に対し、沈黙を貫いています。その姿勢を称してロックである、という意見もあるようです。そもそもノーベル文学賞という権威に頭を垂れる事は果たしてロックか否か。 それもまた 私には本質ではない議論に思えます。だいたい、今のロックに反抗をイメージする人ってどれぐらいいるのでしょうか。それこそが古臭いイデオロギーではないかと。私にはビートルズが出現した時点ですでにロックに反抗や反逆のレッテルを貼るのは無意味だと思っています。

あえて、私がロックに精神的な意味を与えるとすれば、それは動き続ける、という事。停滞せず、活動し続ける事。それこそがロックではないでしょうか。

ボブ・ディランは70代に入ってもアルバムを発表しています。2009年に発表されたTogether Through Lifeは全米と全英でアルバム初登場一位にも輝きました。今もなお、Never Ending Tourと称したライブを続けているとか。動き続けている氏はまさにロックの権化そのものです。また、ボブ・ディランの文学賞受賞発表から数日後には、かのチャック・ベリーのニューアルバム発表のニュースも飛び込んで来ましたよね。90歳になるチャック・ベリーなど、いわばロックのレジェンド中のレジェンドです。止まらずに今もなお活動し続ける姿はまさにロックそのものです。素晴らしい!

確かにノーベル賞の科学分野賞は功成り名遂げた人への功労賞の性格が強いです。それは、科学分野の実績は、当初の研究発表の時点から他の科学者による検証を経るまでの時間が必要だからです。その時間は、研究者自身を権威に祭り上げるには十分の長さです。だからと言って、ボブ・ディランの今回の受賞は過去のロックスターへの功労賞と見るのはいかがでしょう。現役のロッカーに向かって功労賞と思われるとすれば、ボブ・ディランが沈黙するのもうなづけます。

でも、ボブ・ディランは断じて過去の人ではありません。今もロックを体現し続けている人です。なので今回の文学賞は堂々と受賞してもらって良いのではないでしょうか。

動き続ける。それがロックの精神。Rock Around the Clockそのものです。ただ時計を刻み続け、動き続ける。であれば、私も負けずに動き続けるのみ!