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さくら


最近の私が注目している作家の一人が著者だ。
著者の「サラバ!」を読み、その内容に心を動かされてから、他の作品も読みたくて仕方がない。
著者の作品は全てを読むつもりでいるが、本書でようやく三冊を読んだにすぎない。

本書は著者が上梓した二冊目の作品らしい。
本書を読んでみて思ったのが、二冊目にして、すでに後年の「サラバ!」を思わせる構成が出来上がりつつあることだ。
基本的な構成は、ある奇矯な家族の歴史を描きながら、人生の浮き沈みと喜怒哀楽を描くことにある。
個性的な家族のそれぞれが人生を奔放に歩む。そして、それぞれの個人をつなぐ唯一の糸こそが家族であり、共同体の最小単位として家族を配している。
「サラバ!」も家族が絆として描かれていた。本書もまた、家族に同じ意味合いを持たせている。

本書でいう家族とは長谷川家のことだ。
主人公の薫が久しぶりに帰京する場面。本書はそこから始まる。
薫が帰ってきた理由は、広告の裏に書かれた父からの手紙がきっかけだった。
薫が帰った実家に待っていたのは、太った母親と年老いた犬さくらの気だるいお迎えだ。その傍らで妹のミキが相変わらずお洒落に気を使っている。

なにやらいわくがありそうな長谷川家。
著者は長谷川家の今までのいきさつを語ってゆく。
美男と美女だった父と母。二人が出会い、結婚して最初に生まれたのが薫の兄、一だ。
さらに薫が生まれ、しばらくしてミキが生まれる。美しく貴いと書いてミキ。
その名前は、はじめての女の子の誕生に感動した父が、こんなに美しく貴い瞬間をいつまでもとどめておきたいと付けた。

この時、長谷川家は幸せだった。幸せを家族のだれもが疑うことがなかった。
誰にでもモテて人気者の兄。それなりに要領よく、目立たぬようにそつなくこなす薫。そして誰の目をも惹く美貌を持ちながら、癇の虫の強いミキ。三人が三様の個性を持ちながら、幸せな父と母のもと、長谷川家の将来は晴れわたっているはずだった。

そんな家族のもとにやってきたのが、雑種の大型犬であるさくら。
その時期、両親は広い庭のついた家を買い、さくらはその庭を駆け回る。
何もかもが満たされ、一点の曇りもない日々。
なんの屈託もない三人兄妹と両親にはユニークな知り合いが集まってくる。
父の昔からの友人はオカマであり、ミニには同性愛の傾向がある。兄の一の彼女は美貌をもちながら家庭に問題を持つ矢嶋さん。

長谷川家をめぐる人々に共通するのは、マイノリティという属性だ。
同性愛もそうだし、性同一性障害も。
周りがマイノリティであり、そのマイノリティの境遇は長谷川家にも影響を及ぼす。それは本書の展開に大きく関わるため、これ以上は書かない。

とにかくいえるのは、本書がマイノリティを始めとしたタブーに果敢に挑んだ作品ということだ。
尾籠な話と敬遠されがちなうんこやおしっこに関する話題、子作りのセックスに関する話題、そしてマイノリティに関する話題。
どれもこれも書くことに若干のためらいを覚えるテーマだ。ところが著者はそのタブーをやすやすと突破する。さり気なく取り上げるのではなく、正面切って描いているため、読む人によっては抵抗感もあることだろう。

だが、ここまでタブーを堂々と取り上げていると、逆に読者としても向かい合わずにはいられなくなる。本書の突き抜けた書き方は、タブーをタブーとして蓋をする風潮に間違いなく一石を投じてくれた。

何よりもわが国の場合、文学の伝統が長く続いている割には、そうしたタブーが文学の中から注意深く取り除かれている。もちろんそれは文学の責任ではない。
今までの日本文学もその時代の日本の世相の中では冒険してきたはずだと思う。
だが、その時代ごとの日本社会にはびこるタブーが強すぎた。そのため、今から考えるとさほど刺激が強くないように思えても、当時の世論からはタブーを取り扱ったことで糾弾されてきた。
そして、今までに文学で取り上げられてきたタブーの中でも、障害者の問題や性的マイノリティの問題はまだまだ正面から描いた作品は少ないように思える。

そんなマイノリティを描いた本書であるが、マイノリティであるからこそ、それをつなぐ絆が求められる。
それこそが家族だ。本書では、マイノリティをつなぐ紐帯として家族の存在を中心に置いている。
あまりにも残酷な運命の神は、長谷川家をバラバラにしようと向かい風をひっきりなしに吹き付けてくる。
本書の表現でいうと、「ああ神様はまた、僕らに悪送球をしかけてきた。」という感じで。

そうした逆境の中、薫と父の帰還を機に家族が一つになる。
そして、一つになろうとする家族にとって欠かせないのがさくらの存在だ。
さくらは言葉がしゃべれない。それゆえに、自己主張が少ない。だからこそ奇天烈な家族の中でさくらは全員をつなぐ要であり得た。
著者はさくらの心の声を描くことで、さくらにも人格を与えてる。むろんその声は作中の人物には聞えない。だが、さくらの心の声をさりげなく混ぜることで、さくらこそが家族をつなぎとめる存在であると伝えているのだろう。

実は人間社会にとって、ペットも立派なマイノリティだ。
そして、ペットとはマイノリティでありながら、要の存在にもなりうる。そのようなペットの役割を雄弁に語っているのが本書だ。
実際、著者はあとがきにもそのことを書いている。そのあとがきによると著者の飼っていたサニーという雑種がさくらのモデルらしい。著者はいかなる時も尻尾を振って意志を表わすサニーにどれだけ慰められたかを語る。その経験がさくらとなって本書に結実したのだと思う。

私もペットを二匹飼っている。彼女たちには仕事の邪魔もされることが多いが、慰安となってくれる時もある。
ワンちゃんを飼うとその存在を重荷に感じることがある。だが、本書を読んでペットもマイノリティであることを感じ、もう少し大切にしないとな、と思った。

また、私の中に確実にあるはずのマイノリティへの無意識のタブー視も、本書は意識させてくれた。勇気をもってタブーに目を向けていかないと。そして克服していかないと。
そもそも誰しもマイノリティだ。
自我は突き詰めると世界から閉ざされている。その限りにおいて、人は本質では確実に孤独で少数派の存在なのだ。
だからこそ、最小の信頼しあえるコミュニティ、家族の重要さが際立つ。

そして、人生にはマイノリティにもマジョリティにも等しく、山や谷が待ち構えている。
そうした試練に出会う時、本心から心を許せる家族を持っていると強い。
本質的にマイノリティな人間であるからだ。
マイノリティが自らの核を家族に預けられた時、マイノリティではなくなる。たとえ社会の中ではマイノリティであっても、孤独からは離れられるのだ。
その確信をくれたのが本書だ。

‘2019/3/24-2019/3/28


ふくわらい


『サラバ!』が余りにも面白かったので、著者の本をすぐに借りてきた。サラバ! 上 レビューサラバ! 下 レビュー。本書は『サラバ!』で直木賞を受賞する前に、直木賞候補になった作品だ。

『サラバ!』が私とほぼ同じ世代の大阪を描いていたため、本書も同じようなアプローチを期待した。だが違った。当然だ。そもそも作家であるからには同じテーマで書くわけがないのだ。そのかわり、本書には著者の新たな魅力が詰まっていた。それは赤裸々であり、小説から逃げない姿勢だ。

小説から逃げないとは、どういうことか。つまり、耳当たりのよい小説は書かないということだ。小説の表現から逃げない、と言い換えてもいい。あえて、本書では逃げずにさまざまな問題にぶつかっている。それはたとえば、容姿。たとえば、性に関する放送禁止用語。たとえば障がい者。たとえば人肉食。本書はこの四つのタブーを巧みに取り上げている。

そもそも「ふくわらい」というタイトルが、容姿を対象とした言葉だ。、幼少より異常なまでにふくわらいにはまった主人公は、あるべき位置に顔のパーツがないことに喜びを感じる。そして著名な冒険作家である父とともに世界中を巡り、さまざまな価値観を身につける。父が亡くなった後は、有能な編集者として一癖も二癖もある作家を相手に生計を立てている。鳴木戸定という名前もマルキ・ド・サドから拝借したとの設定だ。マルキ・ド・サドといえば、あらゆるタブーを含めたポルノを描き、晩年は精神病院で生涯を終えたとされる。SMのSの語源だ。サドの名前を体で現すかのように、鳴木戸定は少しずれた感覚の持ち主だ。

ふくわらいに並々ならぬ関心を示した幼少期からして、すでに変わっている。その感性は、父と一緒に世界中を旅行したことによりますます強固になった。現地の風習に従い、亡くなった人の肉を食べたこともある。父を目の前でワニにくわれ、葬儀では父の肉を飲み込んだ経歴も持っている。そんな人生を送ってきた彼女には、あらゆる忖度やタブーに対する観念が抜けている。

だからこそ担当する老作家の懇願により、目の前で一糸もまとわぬ姿になれる。放送禁止用語や尾籠な話を平然と人前でしゃべるエッセイストでありボクサーの守口廃尊の話を全く臆すことなく聞ける。ちなみに放送禁止用語は本書の中では伏字にせず、どうどうと文字にしている。(このブログではその言葉を書いて検索エンジンから葬られるのが嫌なので書かない)。盲目の青年、武智次郎の手助けを行い、彼の度重なる懇願にまけ、処女を捧げる。

本書の最後でも、定は日本のタブーに挑戦する。だが、その結末はここでは書かない。ぜひ読んでほしいと思う。

本書を読むと、私が著者に関心を持つきっかけとなった『サラバ!』とはテイストが全く違うことがわかる。だが、両者に通じるのは、日本社会の閉塞を打ち破るべく、違う価値観を持ち込もうとする意思だ。それがあざといなら逆効果だが、本書にまで吹っ切れると、あざといという批判も無くなることだろう。

日本にはたくさんのタブーがある。もはや身の回りにありふれすぎていて、私たちがタブーと気づかないほどのタブー。そして、そのタブーとは、日本が幕末の開国の後に身につけた西洋の文明に由来するものではない。むしろ、日本が明治以降に学ばなかったその他の文化の視点から眺めた時、日本に残る明確なタブーとして映るのだろう。とくに、著者の目には。

私たちは普段、どれだけ定型的な考えに縛られているのだろう。人間の顔には目が二つ、鼻と口がある。だいたい決まった位置に。男女の性器は口に出してもいけないし、その名を人前でいうのもNGだ。ほとんどの人は目が見えるし、何不自由なく歩いている。親の体を食べるなどもってのほかで、汚らわしい。

だが、目鼻口の位置が違う人だっている。男女は必ず性器を持っている。私たちはそこから生まれたのだから。本来は隠すべきではなく、どうどうと口に出してもいいはず。また、目の見えない人は、実際に生活に困難を抱えながら生きている。地球上には、死んだ親の体を食べることではじめて見送ったことにされる風習を持つ部族がいる。そのどれもが日本人として育った固定観念からは生まれない発想だ。それがつまりタブー。

著者はイランやエジプトでの生活経験もあるようだ。そういう幼少期を過ごした著者には、日本社会を覆うタブーの狭苦しさを余計に感じるのだろう。それを少しでも打ち破ろうとしたのが本書だと思う。本書のような野心に満ちた作品が、純文学を指向して書かれるのなら少しは理解できる。だが、そういうアプローチだと、余計に暑苦しくなってしまっていたはずだ。だが、本書からはそうした息苦しさや気負いは感じられない。なぜなら登場する人物たちが饒舌だからだ。鳴木戸定の発する言葉が簡潔でぶっきらぼうに思えるほど短いのに比べ、彼らはとても多弁だ。そのノリが本書から暗さを一掃していると思う。そして、そのことが、本書のテーマが野心的であるにもかかわらず、芥川賞ではなく直木賞候補になった理由ではないかと思う。

そもそも鳴木戸定の職業を編集者としたこと自体も、なにやら今の文壇を覆う閉塞感へのアンチテーゼではないかと思うのはうがった見方だろうか。本来、編集者とは、作家の想像力を最大限にはばたかせ、世に媚びず、へつらわず、顔色を見ない作品を書かせるべきだ。ところがスポンサーやタブーという言葉に負けると、そういう言葉を排除しにかかる。今のテレビのように。そうしたヤバい言葉を作家に軌道修正させるのも編集者なら、あえてタブーに挑戦させることで新しい文化を創造するのも編集者だと思う。それが今の日本を閉鎖的にしたのだとすれば、著者は鳴木戸定の存在を通して、編集者としての在り方すら問題として問うたのだと思う。

‘2018/09/09-2018/09/09


孤児


本書にはヒトの営みが描かれている。「ヒト」と書いたのは、もちろん動物としてのヒトのこと。

原初の人類を色濃く残す16世紀の南米インディオたち。南米全域がポルトガルとスペインによって征服され、キリスト教による「教化」が及ぶ前の頃。本書はその頃を舞台としている。

孤児として生まれた主人公は、燃える希望を胸に船乗りとなる。そして新大陸インドへと向かう船団の一員となる。船団長は寡黙な人物で、何を考えているのかわからない。何日も何週間も空と太陽のみの景色が続いた後、船団はどこかの陸地に着く。

そこで船団長は感に耐えない様子で、「大地とはこの・・・」と言葉を漏らした直後、矢を射られて絶命する。現地のインディオたちに襲われ、殺される上陸部隊。主人公だけはなぜか殺されない。そして生け捕りにされインディオの集落に連れて行かれる。「デフ・ギー! デフ・ギー! デフ・ギー!」と謎の言葉でインディオたちに呼び掛けられながら。

はインディオの集落に連れて行かれ、インディオたちの大騒ぎを見聞きする。それはいわば祭りの根源にも似た場 。殺した船乗りたちを解体し、うまそうに食べる。そして興奮のまま老若男女を問わず乱交する。自分たちで醸した酒を飲み、ベロベロになるまで酔っ払う。そこで狂乱の中、命を落とす者もいれば前後不覚になって転がる者もいる。あらゆる人間らしさは省みられず、ケモノとしての本能を解き放つ。ただ本能の赴くままに。そこにあるのは全ての文明から最もかけ離れた祭りだ。

インディオたちによる、西洋世界の道徳とはかけ離れた振る舞い。それをただ主人公は傍観している。事態を把握できぬまま、目の前で繰り広げられる狂宴を前にする。そして、記憶に刻む。主人公の観察は、料理人たちがらんちき騒ぎに一切参加せず、粛々と人体をさばき、煮込み、器に盛り、酒を注ぐ姿を見ている。西洋の価値観から対極にあり、あらゆる倫理に反し、あらゆる悪徳の限りを尽くすインディオ達。そしてその騒ぎを冷静に執り行う料理人たち。

捕まってから宴が終わるまで、主人公はずっとインディオたちの好奇心の対象となる。そしてインディオたちはなぜか主人公に声を掛け、存在を覚えてもらおうとする。デフ・ギー! デフ・ギー! デフ・ギー!何の意味かわからないインディオの言葉で呼びかけながら。なぜインディオ達は主人公に向けて自分のことをアピールするのか。

しかも、宴が終わり、落ち着いたインディオたちはこれ以上なく慎みに満ちた人々に一変する。タブーな言葉やしぐさ、話題を徹底して避け、集団の倫理を重んずる人々に。そして冬が過ぎ、日が高くなる季節になるとそわそわし出し、また異国からやってきた船団を狩りに出かけるのだ。

主人公はその繰り返しを十年間見聞きする。自分が何のために囚われているのかわからぬままに。主人公が囚われの身になっている間、一人だけ囚われてきたイベリア半島の出身者がいる。彼はある日、大量の贈り物とともに船に乗せられ海へ送り出されていく。インディオたちの意図はさっぱりわからない。

そしてある日、主人公はインディオ達から解放される。十年間をインディオたちの元で過ごしたのちに。イベリア半島の出身者と同じく、贈り物のどっさり乗った船とともに送り出され、海へと川を下る。そして主人公は同胞の船に拾われ、故国へと帰還する。十年の囚われの日々は、主人公から故国の言葉を奪った。なので、言葉を忘れた生還者として人々の好奇の目にさらされる。故国では親切な神父の元で教会で長年過ごし、読み書きを習う。神父の死をきっかけに街へ出た主人公は、演劇一座に加わる。そこで主人公の経験を脚色した劇で大当たりを引く。そんな主人公は老い、今は悠々自適の身だ。本書は終始、老いた主人公が自らの生涯を振り返る体裁で書かれている。

そしてなお、主人公は自らに問うている。インディオたちの存在とは何だったのか。彼らはどういう生活律のもとで生きていたのか。彼らにとって世界とは何だったのか。西洋の文化を基準にインディオをみると、全てがあまりにもかけ離れている。

しかし、主人公は長年の思索をへて、彼らの世界観がどのような原理から成り立っているかに思い至る。その原理とは
、不確かな世界の輪郭を定めるために、全てのインディオに役割が与えられているということだ。人肉を解体し調理する料理人が終始冷静だったように。そして冷静だった彼らも、翌年は料理人の役割を免ぜられると、狂態を見せる側に回る。主人公もそう。デフ・ギーとは多様な意味を持つ言葉だが、主人公に向けられた役割とは彼らの世界の記録者ではないか。彼らの世界を外界に向けて発信する。それによってインディオ達の世界の輪郭は定まる。なぜなら世界観とは外側からの客観的な視点が必要だからだ。外界からの記憶こそが主人公に課せられた役目であり、さらには本書自体の存在意義なのだ。

インディオたちは毎年決まった周期を生きる。人肉を食べ、乱交を重ね、酒乱になり、慎み深くなる。それも全ては世界を維持するため。世界は同胞たちで成り立つ。だからこそ人肉は食わねばならない。そして性欲は共有し発散されなければならないのだ。それら営みの全ては、外部に向け、表現され発信されてはじめて意味を持つ。それが成されてはじめて、彼らの営みはヒトではなく、人、インディオとして扱われるからだ。もちろんそれは、なぜサルが社会と意識を身につけ、ヒトになれたのかという人類進化の秘密にほかならない。

訳者あとがきによれば、実際に主人公のように10年以上インディオに囚われた人物がいたらしい。だが、その題材をもとに、世界観がどうやって発生するか、というテーマにまで高めた本書は文学として完成している。見事な作品展開だと思った。

‘2017/07/19-2017/07/24