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愚者の夜


本書は芥川賞を受賞している。
ところが図書館の芥川賞受賞作品コーナーで本書を見かけるまで、私は著者と本書の名前を忘れていた。
おそらく受賞作リストの中で本書や著者の名前は見かけていたはずなのに。著者には申し訳ない思いだ。

だからというわけじゃないが、本書は読んだ甲斐があった。
別に芥川賞を受賞したから優れているということはない。
だが、受賞したからには何かしら光るものはある。そして、読者にとって糧となるものがある。私はそう思っている。
私にとって本書から得たものはあった。

本書からは、旅とは何かについて考えさせられた。
旅。それは私にとって人生の目的だ。
毎日が同じ人生などまっぴらごめん。日々を新たに生きる。少しでも多く新たな地を踏む。一つでも多く見知らぬ人々と会話する。異国の文化に触れ、異国の言語に耳を傾け、地形が織りなす風光明媚な姿を愛でる。
それが私の望むあり方だ。

旅とは、私の生涯そのものだといってもよい。
確かに、日常とは心地よいし、安心できるものだろう。
だが、その日々が少しでも澱んだとたん、私の精神はすぐに変化を求めて旅立ちたくなる。
好奇心と変化と刺激を求める心。それはもはや、私が一生、付き合ってゆく性だと思っている。

本書の主人公の犀太は、まさに旅がなければ生きられない人物だ。
日本で海外雑誌の紹介で生計を立てている。
妻はオランダから来たジニー。
その日々は変化に乏しく、ジニーはそんな状況に甘んじる犀太にいらだっている。犀太もまた、不甲斐ない自分と今の八方塞がりの状況に苛立っている。

以前の自分は旅と放浪で輝いていたはずなのに、今の体たらくはどうしたことだろう。
何よりも深刻なのは、旅に行こうという気にならないことだ。
日本にしがみつこうとする心の動き。
それはほんの数年前には考えられなかったことだ。
二人が知り合ったのは犀太が海外を放浪していた間だ。
その時の犀太は溌溂としており、二人はすぐに意気投合し、パリで結婚生活を送る。

ところが、犀太はパリで新婚生活を送るにあたり、定期収入を得るための暮らしに手を染める。
人生で一度ぐらいは体験しておこうと軽い気持ちで始めた暮らし。
犀太は、定期的な収入を稼ぐ生活で調子を崩してしまう。
作家になる夢を目指すため、執筆に手をつけるが全く進まない。
ジニーをオランダに帰らせてまで、執筆に集中しようとしてもうまくいかない。
ついにはパリの生活を切り上げ、ジニーをともなって日本に戻ってしまう。

あんなに憧れていて、自由を満喫していたはずの旅。
なのに所帯をもって母国に帰ると、なぜか旅に惹かれなくなってしまう。冒険心が不全を起こしたのだ。

ジニーはパリでも奔放に生き、別の男と夜をともにし、そのことを隠し立てなく犀太に話す。
すべてに嫌気がさした犀太は、何度もジニーとの離婚をくわだてる。が、ちょっとした加減で二人の関係は元のさやに戻る。
本書は、そんな二人の生々しいやりとりに満ちている。

生活の疲れが旅の記憶にまで影響を及ぼす。そんな人生の残酷な一面。
それが本書にはよく描かれている。
あれほど憧れていた旅。日本で生まれ、一生を日本で過ごす境遇からすれば、例えば定期的に職場に通っていたとしても、フランスでの生活はそれだけで一大冒険のはず。

だが、異国であっても規則的な日常を送るようになると、途端に毎日は旅ではなくなる。パリの日々は確実に犀太から旅の意欲を削り取ってゆく。そこから次の場所に刺激を求めに行こうにも、もう力は残されていない。
そのような旅をめぐる描写は、人生の残酷な現実そのものだ。
本書はそれがとても印象的だ。

つまり旅の本質とは、母国から離れることではない。
そうではなく、決まりきった日常こそが、旅の対極なのだ。
であれば、日本にいたとしても、変化に富んだ毎日であればそれは旅とは呼べないだろうか。

本書は日常と旅をくらべることで、人生の真実を探り当てようとしている。
私にとって、人が旅をしなくなる理由。それがまさに現実の日常の日々の中に隠れている。

それゆえ、人は日常の罠にハマらぬよう、日ごろから気をつけねばならない。
日常であっても、無理やりに変化をつける。日常であっても、強引に刺激を受け入れる。そうした工夫を私は今までしてきた。
それによって、私は最近、ようやく日常の罠から逃れられるようになった。場合によっては日常に絡め取られることもあるが。

そうした意味でも本書は、人生の真実と機微を描いた作品として印象に残る。
実際、作者は犀太が目指していた作家として独立できた。
だが、世の中には作者のように大成できず、日常の中に沈んでいった人間は多いはず。
読者として、本書から受けた学びは自分自身の戒めとして大切にしたい。

私自身、三十代の頃は、日常が仕掛ける罠にほとんど、ハマりかけていた。そのことを思い起こせただけでも本書には価値があった。
本書はほぼ世の中から忘れられているが、今の若者だけでなく、四十代を迎えたかつての青年にも読まれるべき価値があると思う。

ただし、本書に登場するセリフ。これはちょっと受け入れられない。
悲鳴にしても感嘆詞にしても、本書のセリフはとてもリアルな人の発するそれには思えなかった。
これは、本書にとってもったいないと思う。今、本書が敬遠されているとすれば、これが理由のはずだ。
本書の生々しい会話と、旅をした者にしかわからない旅の魅力。その反対の日常の倦怠がよく描かれていると思うだけに残念だ。

‘2019/4/5-2019/4/8


山女日記


10日後にせまった尾瀬旅行。その前に山の気分を味わっておこうと思って手に取ったのが本書だ。

タイトルのとおり、本書は山を訪れる女性が主人公だ。それぞれの短編を連ね、全体で一つの長編として成り立っている。短編の連作であるため、各編の主人公は違う。だが、全くの独立ではない。連作である以上、どこかに関わりが仕掛けられている。本書の場合、それぞれの短編で少しずつ登場人物が重なり合わされている。前の短編の中で描かれたその他の登場人物が、次の話では主人公となり、その話では前の短編で主人公だった人物がチョイ役として登場する。偶然にそんな出会いが続くはずはない。ところが、本書に登場する人々は、皆が山を通してつながっている。山の頂上は狭い。そしてそこへのルートは限られている。狭く限られた空間を共有するから、山を求めて集まった人々に縁が生じる。山へ登る人々。彼らは、山の頂上という集約された一点を目指し、狭い道を行き交い、頂上でたむろする。つまり、わずかな時間で多生の縁が結べる人種なのだ。

リアルな山での交流のほかにも、本書には山ガールが書き込む山女日記というサイトも登場する。こうしたサイトも小道具として登場させつつ、山という共通の対象を軸に据えながら、著者は本書をつむいでいく。著者が描く人々は、自らのうまくいったりいかなかったりする人生を見つめなおすために山へと向かう。その人生のあやが物語となって本書を生み出す。

なぜ皆、山に登ろうとするのか。これは永遠のテーマだろう。なぜマラソンを走るのか。なぜポケモンGoにはまるのか。なぜ仕事に熱中できるのか。なぜ結婚に踏み切れるのか。人生の酸いと甘いを味わって行く中で、人は似たような疑問になんどもぶち当たる。なのに、なぜ山に登るときだけその問いは投げかけられるのだろうか。私は疑問に思う。生の営み自体、問いなくして成り立つのだろうかと。それでも人は問わずにはいられない。「なぜ山に登るのか」と。

それは多分、山には明確な目的があるからだろう。てっぺんに立つという目的。その目的はこれ以上ないほど確かだ。ところが、登った苦労が頂上で報われるのもつかの間。登頂した後の下山の行程は登りに比べて少しむなしい。山登りの魅力を知らぬ者にとって、その行き帰りの徒労は不可解でしかないはず。目的が明らかなのに、その前後は苦しい。しょせん、山登りの喜びは山に行ったものしかわからないのかも。

それだけの大変な思いをして山に行く理由。それは、日常からの解放にほかならない。本書に登場する主人公たちは、日常の悩みを抱えたまま山にきっかけを求める。山では仕事や地位など関係ない。そうした下界のしがらみに関係なく、山に入ればただてっぺんを目指すだけ。道中は黙々と歩こうが、喋りながら歩こうが自由だ。時間と空間はたっぷりとあり、心の重しを吐き出すには理想。山が好きな人たちは、頂上だけでなくその前後の道のりすら、心の重しを除く絶好のチャンスに変える。

結婚を控えたOL律子が、同僚の由美と二人で妙高山を登る。そんな二人は、特に仲が良いわけでもないただの同僚。二人で行こうと誘い合わせたわけではなく、間を取り持つ舞子に誘われただけの話。ところが間を取り持つ舞子が急に来られなくなり、二人で山を登る羽目になる。由美と二人なのを気づまりに感じる律子。なぜなら、律子が結婚の仲人を頼もうとする上司は由美の不倫相手。そんな複雑な思いを抱えて二人で歩く山は疲れる。その気づまりに耐えられない律子は不倫のことや結婚観など、話を由美にぶつけてしまう。でも、誰にも気兼ねせずに済む山だからこそ、腹の中を探りあうことなく直接問いただせるのだ。そんな山の魅力が語られるのが本編だ。「妙高山」

バブル期に上昇する周りに煽られ、婚期を逃したまま今や40歳を過ぎた美津子。もともとは山岳部に属して山に頻繁に行っていたにもかかわらず、就職先の同僚たちが高級志向だったため、つられて自分を装い、人生を見失っていた。焦りもあって参加したお見合いパーティーで知り合ったのが神崎さん。彼に誘われて山に登ったことで虚飾が剥がれ、山の中でかつての自分を取り戻す。うわべではなく、本心を見せはじめる美津子と神崎さん。二人の大人が惹かれあって行く様を描く。山は虚飾や肩書を不要にする。「火打山」

幼少期から父と山を数えきれないほど登り、2〜3000メートル級の山など普通に登っていた私。山に関しては一人でなんでもこなせてしまう。ところが集団行動では一人だけ行動できても団体行動が旨。そんな団体行動で皆に合わせるのが億劫で、団体登山から遠ざかっていた。なにしろ、学生時代に来た槍ヶ岳では登頂直前で仲間の一人が膝を痛め、断念を余儀なくされた。久々に父と登った時ですら、最新の用具に見向きもしない父が膝を痛めて直前で断念。そうした経験が私をかたくなにさせた。山は一人に限る、と。今回、三度目の槍ヶ岳に一人でやってきた私。偶然、同行することになった周りの人たちの登山を助けつつ、自分の山履歴、ひいては人生を振りかえる。彼女が集団の登山に喜びを感じることはないだろう。だが、山は分かち合う相手がいた時にこそ違う表情を見せる。山は自分を見つめ直す機会となるし、人との関係を見直す機会にもなる。「槍ヶ岳」

幼い頃から何かと三歳上の姉に上から目線で接せられてきた主人公の希美。三十五歳になっても父と二人暮らし。不定期に翻訳の仕事をこなすものの生計を立てるまでには至らない。姉はさっさと結婚して不自由ない暮らしをしている。それが何をおもったか、姉から突然、山に行こうと誘われる。これはひょっとして私に説教するつもりだろうか、と身構える希美。山でも姉から指図され、説教を食らい、口喧嘩を始めてしまう。ところが、そんな姉から返ってきたのは驚きの事実。今まで上から目線でさ指示されてきた姉もまた、悩める女性であったことに気づく希美。山とは長幼の差すら埋める。格差に悩める時こそ山に登るべきなのかもしれない。「利尻山」

続いては「利尻山」で登場した姉妹が視点を逆転して描かれる。妹には夫から離婚を切り出されたことを告白したが、娘の七花をつれてこれからどう生きてゆけばよいのか、を悩む主人公。七花にはよい生活を送らせたい。離婚が原因で心に傷を負わせたくない。であれば、小学五年生になったことだし山に登らせてみよう。同行するのはもちろん妹。七花の成長を感じながら、自分のこれまでの人生や結婚生活のどこに落とし穴が待ち受けていたのだろうと思い悩む。そんな思いをよそに、仲良く笑い合ったりしながら先に登ってゆく妹と七花。体力の限界がきてどうしようもなくなった時、妹からまさかの説教を食らう。するとそれに対して母をいじめるなと反発する七花。肘張って生きてきた自分のかたくなさに気づかされる瞬間。山とは自分の限界を気づかさせる機会なのだ。「白馬岳」

最初の「妙高山」で間を取り持つはずが山に行かれなかった舞子。彼女は、劇団員で稼ぎのない彼氏の小野大輔から山の誘いを受ける。向かったのは箱根。舞子は、なりたい自分になるため、社会人になってから一年発起して自分に数々のミッションを課した。そのミッションをこなす中で自分は社会人として世に溶け込み、何者かになれたはず。でも、その自信にはどこか、確かさが伴わない。舞子を置いて妙高山に二人で登った律子と由美は山での縁で仲が良くなり、舞子は自分だけ仲間外れにされた気分に陥る。果たして自分は正しい道を歩んでいるのだろうか。自分が立てたミッションは正しかったのだろうか。そう悩む舞子に届いた大輔からのお誘い。そうして登った先には富士山が見える。そこで初めて舞子は大輔の思いに気づく。なぜ富士山を見せたかったのかという狙いにも。目標をいくつ立てようと、それは数字にしかならない。目標を追う自分を客観的にみなければ、目標をいくら実現しても自信にはならない。なぜなら自らが登る山の全容を、その山に登る登山者は見ることができないのだから。確かにその通りだ。「金時山」

これまでの各編に共通するのは山に導かれた女性たち。彼女たちをつなぐ縁は山を介してのもの。そうした山を愛する女子たちが書き込む「山女日記」というブログの存在も縁をつないでいた。そのブログで評判を呼んでいたのが山用の帽子。その帽子は本書の何編かでも登場し、読者に印象を与えた。その帽子を作った柚月が本編の主人公だ。かつて旅行会社に勤めていたころ、恋人の吉田と「トンガリロ」を旅した。当時、ニューカレドニアに赴任していた柚月と日本の吉田。遠距離恋愛の中、ようやくお互いの予定を工面しあい、旅したのがトンガリロ。ロード・オブ・ザ・リングのロケ地としても有名なこの山で、二人は恋人としての時間を過ごした。ところが、仕事を辞めて途上国で働きたいという吉田の夢は叶わず、そこから二人の間にずれが生じる。その時の思い出と別れから十五年。再び訪れたトンガリロで柚月と同行することになったのは、上の各編で登場した人々のうち数人。時間の経過は柚月を少しは名の知られた帽子職人にした。だが、柚月にはかつての恋人吉田が心に残っている。過去を忘れるためにも山に登りなおす必要があったということだろう。

山は麓からの稜線でつながる。点と線。それは人々の間に通ずる縁でもある。つまり山とは人生の縮図でもある。本編は本書の締めにふさわしい余韻を残す。

私の場合、自分の時間が無限でない苦しさを常に抱いている。その悩みを解き放つために尾瀬に行った。尾瀬ではただ、考えを忘れ、ひたすら美しい景色に見とれるだけだった。山は私を確かに解放してくれた。それもまた山の効用だと思う。

‘2018/05/17-2018/05/22


沖縄ひとり旅 2017/6/20



ぐっすりと眠った私。すがすがしく目を覚まします。妻からホテルグレイスリー那覇を勧められた理由。それは朝食にあります。とても充実していて種類もたくさんよ、と言われていたのです。寝ぼけ眼で訪れた私は、妻の言葉の意味を理解します。とても良いです。朝食バイキングの品ぞろえはわたしをとても満足させてくれました。海ブドウが食べ放題なのもよいです。


満腹した私は、チェックアウトを済ませ、国際通りへ。昨日の大荒れの天気が一転、晴れ間がのぞいています。今日の旅路やよし。元々の天気予報から計画したとおり、今日は屋外をメインとした場所へと向かいます。斎場御嶽へと。再び沖縄本島の南部へと相棒を駆って向かいます。


やがて車は南城市に着き、太平洋に沿って走る国道331号線へ。このあたりも沖縄南部ののどかさが感じられます。私はそこから海岸線をたどって知念岬へ。ここの道の駅の駐車場に車を停め、斎場御嶽への入場券を買い求めます。連絡があって作業の必要があった私は、道の駅の中でパソコンを広げ作業。道の駅には御嶽についての説明書きがあり、事前に知識を仕入れます。


そしてそこから白砂が敷き詰められた道をのぼり、斎場御嶽へ。この道中がすでに南国感を出しています。いやがおうにも期待は高まるばかり。両側に茂る木々も、私の旅情を掻き立ててくれます。やがて御嶽の入り口へつき、受付を済ませて御嶽の本丸へと急ぎます。


御嶽とは6/18分のブログでも書きましたが、琉球の人々にとって重要な祭祀の場。那覇空港についてすぐに訪れた安次嶺御嶽もよかったのですが、つかみどころのない円形の広場に石造の遺構があるだけでした。それが御嶽の一般的な姿なのか。そう思った私の認識は斎場御嶽で一新されました。


本来なら一般の人は入れない場所。聖地なのですから。それなのに、聖なる由来がありそうな遺構が足元に置かれています。香炉が足元に無造作に置かれた通路には、何も考えなければ普通のハイキングコースのよう。ところが奥に進むにつれ、うっそうとした樹木が覆いはじめ、聖地の装いをまといはじめるのです。まず最初にとおるのは大庫理(ウフグーイ)。岩が祭壇のように見立てられ、聖なる場としての威厳を表わしています。続いて寄満(ユインチ)を向かいましたが、そこもまた、聖地としての面影を濃厚に宿していました。
そして大庫理から寄満への道すがら、大きな池があります。これは実は沖縄戦の艦砲射撃で着弾した跡地が池になったところだとか。あたりにはサンショウウオが群がっており、あちこちでたむろしています。池には白い泡のような物体が浮いており、そこにサンショウウオが群がっています。聖地なのにサンショウウオを餌付けしているのか?と疑問がムラムラと湧きます。それにもまして、沖縄最高の聖地でありながら艦砲射撃の被害から逃れることのできなかった現実。これがこの地が沖縄であることをいやおうなく私に伝えてきます。


さらに歩く私の前に広がったのが巨大な岩盤。上に覆いかぶさるように迫る岩からは二点で水が滴り、受ける石造りのツボのようなものがしつらえられています。シキヨダユルアマガヌビーとアマダユルアシカヌビーという名前なのですが、こういう見るからに聖なる遺構が、何ら保護されずにおかれていることに、沖縄の器の大きさを物語るようです。


そしてその岩盤の奥の脇には、通路が直角三角形に切り出されたようになっています。その奥にあるのが三庫理。これこそ斎場御嶽の奥の院。琉球最高の聖地です。そしてもちろん、誰でも入れます。奥へ進むと見るからに聖なる道具と思われる遺構が足元におかれています。看板には金製勾玉が近世出土した旨が書かれているのですが、足元は無造作。掘ろうと思えば掘れてしまいます。しかもその壁の反対側には樹木で切り取ったような向こうに海が広がっています。うすく地平に広がるのは久高島。アマミキヨが琉球に渡ってくる前、久高島からやってきたという伝承があります。つまり三庫理こそは琉球の国生み伝説の地でもあるのです。


それなのに、これほどまでに無防備。かつては男子禁制の場だったというここは、聞得大君の仕切る祭祀の地でした。それなのにこれほどひらかれてことがよいのだろうか、と思えます。こうやって私がブログに書くことで斎場御嶽の観光客増加に寄与してしまうのでは、と思えるほど。すでに私が訪れた時にも十数人の観光客が訪れていました。それでもなお、聖地としての厳かさを失っていなかっただけに、何らかの対策が成されるのではないかと思いました。


なお、オオサンショウウオが群がっていた泡の正体。それはモリアオガエルの卵だそうです。受付にわざわざ戻ってスタッフの方に伺ったところ、そうおっしゃっていました。しかもあれは餌付けしているのではなく、自然に産卵されたものだそう。とても貴重なものが見られました。

ここは、ぜひとも再訪したいと思いました。

帰りの道々にで両側に広がる店々にも立ち寄りたかったのですが、一つのお店だけ寄るにとどめました。でも観光地ずれしていない様子はとても良い印象でした。もっとゆっくりしたいところですが、すでに大幅に時間超過の予感が・・・


と思いながら、知念岬郵便局で風景印を押してもらい、知念岬にも歩いて向かう私です。やはり海を一望にして自分の小ささを見つめないと。そしてこれからの自分の未来がこれだけ広がっていることを心を全開にして受け止めないと。そう思って降り立った知念岬から見た海の凪いでいたこと!

そこから一路、ひめゆりの塔へ。誰もが行く場所とはいえ、22年ご無沙汰にしていたとなると行かねばなりません。22年前に強烈な印象を受けた、レクイエムの流れるホールの印象が変わっていないことと、それ以外の展示物をしっかり胸に刻まないと。


到着したひめゆりの塔は、入り口からして記憶の外でした。そして、記念館の傍に壕の入り口が大きく孔を開けているのですが、そこの印象も全くありませんでした。まったく私は22年前に何を見ていたのか。記念館にはいると展示を凝視します。どうやってひめゆり部隊が結成されたのか。彼女たちの学園生活。沖縄戦が始まってからの経過や、彼女たちが少しずつ追い詰められ、傷つけられてゆく様。そして、私が22年前に訪れたホールは同じでした。ひめゆり部隊の皆さんの顔写真、名前、死にざまとなくなった地。もちろん行方不明の人もたくさん。

さらにすっかり忘れていたのですが、上に口を開けていた壕は、地下でこのホールに繋がっているのです。すっかり忘れていました。ホールには生きながらえることのできた方の体験談が読めるようになっています。ホールの手前では体験談を語る語り部の方の動画が流れており、見入ってしまいました。今は上品な老婦人となっている彼女たちが、これほどの地獄を見たのかと思えば複雑な気分に囚われます。

私はこの旅行の2カ月半前に「ひめゆりの塔」を読みました(レビュー)。その中では生徒たちの赤裸々な感情が描かれていていたのですが、先生の役割は幾分薄めでした。しかしひめゆり部隊を引率した先生が戦後贖罪のために尽くしたことも知られています。今回、特別展として先生に焦点を当てた展示も催されていました。私はとてもその展示に感銘を受けました。なぜなら、今の私の年齢とは、当時の先生方が生徒たちを引率した年齢に近いからなのです。私がこの当時の先生たちと同じ立場に置かれたらどのように行動したでしょうか。時勢に迎合し、軍国主義を唱え押し付けていたのでしょうか。それとも生徒と友達のように接していたのでしょうか。それとも頼りにならず生徒たちを真っ先に戦場に迷わせた教師だったのでしょうか。わかりません。ひめゆり部隊が晒された砲弾の嵐は、普通の人間が経験できる場所ではないので、私には想像すらできません。

だから私は先生方の写真や担当教科、そして人となりを伝えるパネルをじっくり読みました。私が彼らだったらどう対処しただろうと思いながら。それは今の私が親としてどう娘たちに接するかの自問自答にも繋がります。また、教育学の教授だった祖父の影響からか、教育を担う者の目線も含んでいたと思うのです。その印象はあまりにも強く、家でもじっくり読んでみるため図録を駆ってしまうほどに。

ひめゆりの塔を出たのはすでに微妙な時間。ですが、駐車場わきのソフトクリーム屋さんでソフトクリームをいただきつつ、客あしらいに慣れたおじさんと話します。すでに沖縄滞在の時間が残されていないと思いつつ、梯梧の塔にも足を延ばします。ここも別の学校の学徒の慰霊の場所です。

この付近には同様にこのような塔があちこちに立っています。そのすべてに幾人もの人々の想いが込められているのでしょう。

さて、帰りは道の駅に二カ所寄って物産を全速力で冷やかした以外は、全力で那覇空港に近いレンタカー屋に向かいます。レンタカー屋に返した後は、帰りは歩いて帰らず素直に送迎バスで空港へ。なぜこんなに急いだかというと、17年ぶりの再会があったから。17年前、辻堂の護摩焚き会でご夫婦と知り合い、そのすぐ後に結婚式の披露宴にも呼んでくださった方。その方は数年していきなり家族で沖縄に移住したのです。以来、Facebookと年賀状だけのやりとりが続いていたのですが、今回思い切って声をかけてみたところ、帰りの那覇空港でお会いすることになったのです。その方の決断力と行動力には尊敬するしかありません。今回お会いしてお話しした内容は、とても参考になりました。ビジネスの面もそうですが、実際に沖縄移住への経緯を本に執筆し、それでアマゾンのカテゴリー別で一位にもなった経験。編集者とのやりとりや、それが本になっていくまでのいきさつ。この方との話し合いから二カ月がたち、私に本音採用での連載「アクアビット航海記」の話が来ます。もちろん即答で引き受けたことはいうまでもありません。

この方と空港の食堂でお話しできたのは1時間もありませんでした。あまりにも濃いお話であっという間に時間が過ぎてしまいました。17年ぶりという思いも忘れるほどに。最後は搭乗時間ギリギリになってしまい。ダッシュで走ってぎりぎり帰りの便に乗れましたが。

帰りは羽田からバスで町田まで。妻に迎えに来てもらいました。素晴らしい旅でした。


沖縄ひとり旅 2017/6/19


朝四時過ぎにおきて、妻に町田駅まで送ってもらいます。羽田空港行きのバスは04:55発。車か徒歩か自転車以外に自宅から駅へと向かうすべはありません。送ってくれた妻に感謝です。ま、私も妻が沖縄に行く時は町田や羽田まで送っているのですが。

バスの中ではまどろんでいましたが、無事に遅れることなくバスは到着。手続きをさっと済ませ、搭乗口からすぐのパソコン用デスクで作業です。今回はパソコンも持って来て合間に仕事をこなしながらの旅なのです。ここらへんが学生だった22年前とは技術の進展でも私の立場でも違うところです。

22年ぶりではないのですが、一人で飛行機に乗るのも相当久しぶり。多分、2006年に仕事で苫小牧に出張して以来です。今回は搭乗口で醜態を晒すことなく搭乗できました。ところが、荷物の中に本を入れっぱなしにするミスをしてしまい。仕方ないのでふて寝です。もっとも、寝不足が続いている私は本を開く前に落ちていたでしょうが。そんなわけで、スカイマークで配ってくれるコラボキットカットをもらう間も無く、着陸前までずっと寝ていました。願わくはいびきや大口あけた寝姿で人様に迷惑をかけていなければよいのですが。

さて、飛行機は何事もなく那覇空港に到着です。ちょっと蒸し暑いかな。大雨と聞いていましたが、かろうじて雨雲の中で水滴はとどまっていてくれてます。22年前に二等船室から降り立った那覇港では、夏でありながら明らかに内地と違う温度差に南国を感じて舞い上がった記憶があります。が、今回はそれほど温度差を感じません。

前日のブログにも書いた通り、22年前の旅の帰りが空路だったのかどうか忘れています。なので、那覇空港を使うのが初めてなのかどうかもわかりません。それもあってか、数キロ先のレンタカー屋まで歩いて行く羽目に。いや、迷ったわけではないのですよ。

どういう事か。まず、レンタカーで手間取りました。妻から聞いていたのは、搭乗券の裏に記載されている電話番号に連絡すれば割引料金でレンタカーが使えるということ。ところが、ウェブサイトにアクセスし、予約したところ「予約仕舞いのため予約できません」との表示が出て焦る焦る。ウェブサイトに記載のあったあるセンターに電話すると、最寄り店で対応するという返答だったので、最寄店への連絡先を教えてもらいます。ところが、最寄店に連絡しても割引できないいうとつれない返事が。そんなはずあらへんと焦ります。空港のレンタカーカウンターに聞いてみたところ、パンフレットの正規料金でしか扱えないと言われてしまう始末です。1日あたり1500円以上は価格差があるのだとか。救いを求める意味で再び予約センターに電話し、事情を説明します。すると、当日予約はウェブからできないという当たり前のような回答をいただき。ウヘェ。じゃあ車で五分とやらの店舗に行って、そこで直接借りるか、と重たい荷物を担いで歩き出します。

ところが、空港って歩いて脱出することを前提とした作りになっていないのですよね。公共機関か自家用車でしか出られない。22年前にはなかった「ゆいレール」かバスかタクシー、またはレンタカー会社の送迎バスを使わないと。そして、車で五分のレンタカー屋の場所は歩いてどれぐらいなのかがわからない。しかも「ゆいレール」とレンタカー屋も離れている。せっかく日本最西端の駅を利用したくてもこれでは無理。

結局、レンタカーの予約センターとお話ししながら日本最西端の駅のシンボルをカメラに収めただけ。「ゆいレール」の軌道にまたがらず、その下を歩くことにしました。しかも、その下に向かうための通路が全く見つからず、まともに道に沿って軌道の下にたどり着こうとすればとんでもなく遠回りになりそう。なので危険を覚悟で片側数車線の道を横断しました。後で調べたら遠回りと言っても約1キロほどでした。さて、到着早々暗雲が立ち込める旅の始まりですが、暗雲では済まず、ついに雨が降り始めます。そんな中、傘を持って来なかった私はテクテクと重い荷物をもって歩きます。この辺りの無鉄砲な行動は22年前となんら変わりません。

軌道下を歩くこと1キロ近く。安次嶺交差点が見えて来ました。信号を渡って、レンタカー屋へ向かおうとした私の目に飛び込んで来たのは、安次嶺御嶽と書かれた石碑。おお、早くも御嶽が。今回の旅は斎場御嶽が目的でしたが、他にも小さな御嶽も観ておきたかったのです。階段を上がったそこにあったのは、円形の広場とでもいうべき場所。御嶽について何も調べず、イメージも持たずに来た私。祭壇めいたものが野ざらしになっている御嶽の姿を見て納得。これを本土の聖域に例えるならなんでしょう。神社とは明らかに違います。広場や公園とも違う。飾り気のない御嶽ですが、何か侵し難いものを感じさせます。うーむ、これが御嶽か。御嶽とは琉球の民族宗教でいう聖地。祭祀が行われ、神に仕える人々のみが入れる場。そんな場の事です。

空港から雨の中を歩き、出だしから悄然としていましたが、災い転じて何とやら、で御嶽の様子を知ることができました。これもまた旅の幸運。

安次嶺御嶽からさらに1キロほど歩き、レンタカー屋にたどり着きます。レンタカー屋と道を挟んで反対側には陳在しているのはローソン。今回の旅で初の初のコンビニエンスストア。それはローソンとなりました。旅の楽しみは地元物産の物色にあります。さぞやこのローソンでも私の購買欲をくすぐる品が待っているはず。ところが、ほとんどの商品は本土と同じ。前はもう少し独自の品ぞろえだった気がするのですが。このあたり、22年の月日が物流環境を変えたことがわかります。

レンタカー屋さんではトヨタのpremioをお借りしました。白。内装も木目調で、レンタカーでありながらとても高級感のある作り。しかも安い。沖繩は車文化なので、レンタカーも安価なのですね。この辺りも22年前と変わりません。車を借りるついでにご好意で傘もレンタル。レンタカサー。なんだかウチナーングチの響きです。ちなみにレンタカサーというのは旅行から戻った翌日、本稿を書いて思いつきました。傘を借りた時は、そんな余裕はなく、早く沖繩に繰り出すことで頭がいっぱいだったので。

那覇空港でパンフレットを集めた私は、さらに空港から歩きながら、今日の行動を考えていました。だてに歩いていたわけではないのです。そして決めた最初の訪問先は忠孝酒造。泡盛製造所です。那覇空港からすぐという売り文句がパンフレットに載っており、そこに書かれていた小さな蒸留所との文句も私の目を惹きます。

「くぅーすの杜 忠孝蔵」というのが忠孝酒造の観光客用施設の名前です。ここの駐車場に駐めたはいいのですが、ちょっとしたトラブル発生。私が外に出ようとするとpremioが泣くのです。この旅で私と相棒の契りを結んだpremioはスマートキーで起動します。スマートなのです。そして若干気位が高い。であるからには、きっと私の扱いのどこかが気にくわなかったはず。premioをなだめようにもスマートキーの扱いがわからず、駐車場でピーチクパーチクと泣くpremioと十分近く過ごすはめに。すでに周りは大雨。駐車場の周りには誰もいませんでした。これが人だかりのある場所だったらかなり恥ずかしいことになっていたはず。結局、ギアがパーキングに入っていないのに鍵をかけて出ようとしたことがpremioの怒りをかったらしい。でも、これでお互いのことがようやく分かり合えました。二日間、いい相棒になれそう。

しかし「くぅーすの杜 忠孝蔵」に入った途端、相棒のことは私の頭から消し飛びます。足を踏み入れた途端に私を包む甘く芳醇な香り。生まれて初めて入った泡盛蒸溜所というだけで素晴らしいのに、さらに。泡盛の象徴でもある甕が存在感を備えてたくさん並んでいます。はやる気持ちを鎮め、まずは見学ツアーを申し込みます。待ち時間の間、売店をさまよう私。ドライバーゆえ、試飲はあきらめるほかないのがつらい。それでももろみ酢やあまざけなどの試飲が豊富にできます。これがまたうまい!泡盛の種類も多く、瓶と甕とが並ぶさまは壮観。甕売りの商品もあれば、ビン詰め商品も。まさに目移りするとはこのこと。忠孝酒造の名は、実は今回の旅行でガイドブックを読むまで知りませんでした。こちらに並んでいるビンを見ると、よく酒屋にあるカラフルな泡盛のラベルとは違って落ち着いた感じです。

その理由は、見学に先立って観覧した紹介ビデオで理解しました。創業は戦争が終わって間もない頃とのことですが、とても研究に力を入れた熱心な蔵だということがわかります。泡盛業界では初となる自社での甕造りに着手したり、古式泡盛の製法である「シー汁浸漬法」で社員が醸造学博士号を取得したり、沖縄県産マンゴーから採取した酵母での酒造りに取り組んだり。空港に近いという醸造所をうたい、結構、商売っ気のある酒蔵なのかな、という若干の懸念も訪問前に持っていました。ですが、その懸念は杞憂でした。実にしっかりとした泡盛づくりの哲学を持たれている様子。そうやって説明を受けてみると、並んでいる甕の数々がとても神々しく思えてくるから不思議です。

ビデオにつづいて、仕込み工程をガラス越しに見学させてもらいます。清潔な感じの室内では蒸しの工程でしょうか。職人さんが一人、黙々と働いていました。無機的な室内なのに、作業がアナログでそのギャップが面白い。

続いて、甕を作る作業場を案内していただきました。泡盛業界で初となる甕作りを併設しているのですが、私の目の前でロクロを操り、甕ができていきます、素晴らしい。ビデオにもありましたが、全てが試行錯誤の成果だというから大したものです。甕が泡盛の品質や風味に直結するのは樽で熟成させるウイスキーと同じ。さらに熟成が早く進む泡盛では、その重要性は欠かせないはずです。

私のその感想は、次にご案内された木造古酒蔵でますます強まります。シェリーなどの酒精強化ワインで知られるソレラ・システム。泡盛にも仕次ぎという同じような仕組みがあるとか。熟成が進んだ甕から瓶詰めや蒸発で減った分をより若い甕から継ぎ足していく仕組みのことです。これはウイスキーにはない習慣なので、私は興味津々でいろいろと質問しました。ここの蔵は沖縄でも首里城に次ぐ高さがあり、古さでも有数の蔵だそうです。蔵の中も明るく開放感があり、泡盛の香りがふくいくと私の鼻にまとわりつきます。まさに至福の場所。

外は大雨なのに、私はそんなことも忘れるくらい、夢中になって泡盛文化の奥深さに酔いしれ、その文化の粋を吸収しようと夢中になってました。ここはセルフ甕を持て、その説明を聞きながら、よほど申し込もうと思ったくらい。予算面で諦めましたが、代わりにマンゴー酵母で仕込んだ一品を購入。

くぅーすの杜は、おススメです。空港から近いのに、観光客から取ろうとする色気もあまり感じず。名残惜しさを感じながら、車に戻りました。

次の目的地に向かう前に、腹ごしらえ。くぅーすの杜のすぐそばに名嘉地そばの店舗を見かけたので。早速私の目的の一つ、沖縄そばの本場を知る、に臨みます。大雨だというのに私以外に数組のお客様がいました。車も結構止まっていて支持されているお店のようです。肝心の味はといえば、私が内地で食べるそれとあまり変わりなく。ということは、私が内地で食べた味も沖縄そばの正統だったのかも。それをここでは教えてもらいました。これが正統だと知ると、味もおいしく思えます。ラーメンのように味は濃くなく、薄味にも思える味付け。それでいながら、妙に重たいというか野暮ったい食べ応え。おなじみの沖縄そばの味。これが明治以降に広まったという本来の沖縄そばなのかもしれません。まだまだ他にも名店は数あるとは思いますが、これで私の沖縄そばへの好奇心は満たせました。

名嘉地そばの近くには、辺野古基地問題の集会を呼びかける看板もあり、沖縄の現実が垣間見られます。

私はそれを頭に留めつつ、次の目的地、海軍司令部壕跡へ向かいます。相変わらずの猛烈な雨がフロントグラスを叩く中、私の意識も戦場となった沖縄へと向かいます。

高台にある壕には、慰霊碑が。まずそれにお参りし、黙礼してから壕の入り口を兼ねたレストハウスにも似た建物へ、ここの二階には沖縄戦の惨禍を切り取った写真パネルが多く飾られていました。その被写体の多くは軍ではなく民間人です。大戦は日本全土をくまなく戦場と化しましたが、大規模な地上戦の戦場となったのは、サイパン島や沖縄の島々のみ。その現実を忘れてはなりません。

そして、この海軍司令部壕跡は、沖縄戦において、海軍が司令部を置いた場所。一般に、沖縄戦のイメージとは、連合国軍に一矢を報いたい大本営が日本本土での決戦までの時間を稼ぐために沖縄を捨て石としたという印象が強い。沖縄戦を戦った軍人についての印象も、民間人に自決を強要したり、邪魔者扱いするなど、民間人を人とも思わなかったいうといえばステレオタイプな印象が一人歩きしています。そんな軍部のイメージにあって、大田司令官が壕の中から最後に大本営宛に打った電報は軍人の良心を表したものとして名高い。

沖縄県民が沖縄戦で払った犠牲を連綿と書き連ねた電文。そして最後を
「沖縄県民斯ク戦ヘリ
県民ニ対シ後世特別ノ御高配ヲ賜ランコトヲ」
と締めたこの電文を打ってすぐ、大田中将はこの壕の中で自決を遂げました。自決した部屋とされる壁や天井には弾痕のようなものも確認できます。絶望的な戦況の中、このような狭い場所で軍人たちは最後まで諦めまいと戦い続けていたのでしょう。

壕の内部が殺風景なことといったらありません。ここで兵隊や将校が寝起きし、戦っていたとはとても思えないほどの無機質な場。ただ戦場としての最低限の機能しかない場。平和ボケの中にいる私にはとても耐えられないでしょう。なにが耐えられないかといって、文化の匂いが一切排除されていること。私には何よりもそれが辛い。

絶望と殺伐とした壕で書き起こされたのに、電文からは戦陣訓めいた威勢の良い美辞麗句を排されています。それでいながら沖縄県民のことを思いやった文章。その文面から読み取れるのは、軍人である前に人として立派に生きた大田中将の人間性です。極限の場でありながら、最後まで人間で有り続けたその崇高の人格に胸を打たれます。沖縄戦が悲惨で愚劣な戦いなのはもちろん。しかし、その責を負うべきは大本営の面々であり、指導部であるはず。現場で死力を尽くし、努力し続けた軍人を一括りにして責めるのは筋違いだと思います。

君の御はたのもとにししてこそ 人と生まれし甲斐でありけり

これは大田中将の辞世の句ですが、その実物が壁に残されています。その生々しさは私の心を騒めかせます。ここには軍人としての忠誠心、そして軍人ではなく人間として死にたいと願った大田中将の心が現れています。

壕内には沖縄戦の経緯や、電文の写しなどが詳しく展示されています。大田司令官の肖像もあります。とても細かく紹介されているのです。ここは沖縄でも必訪の地だと思います。22年前に来られなかったのが残念です。そして今回来られてよかったです。

そんな思いを抱きつつ壕を出た私。続いて向かったのは高台から市街を一望できる場所です。大雨の中、警備員のおじさんがとても気さくで親切でした。私をあらゆる角度から写真に収めてくださり、壕の現実に暗い気分になっていた私を明るくさせてくれました。この方こそ、今の沖縄の象徴にも思えました。殺伐とした史跡を前にして、なおも明るいハイサイおじさん。

たぶん、このおじさんも「沖縄県民カク生キム」として現実を戦っているのでしょう。それを微塵も感じさせず、明るく振る舞うおじさんがとてもすがすがしかった。おじさんのすがすがしさは私の心が少し晴らしてくれました。そして車に戻ってから次の場所へ向かうにつれ、雨が少しずつやみ始めるのです。私の心を表わすように。続いて私が向かった先は沖縄県平和祈念資料館。道中は猛烈な雨の後遺症があちこちに残っていました。ある場所では道が通行止めになっていて回り道を強いられ、ある場所では池のようになった道路を水しぶきを立てて進む。こういった体験を楽しみ、素朴な風景を愛でる。これが一人旅の醍醐味です。それを存分に味わいました。

沖縄県平和祈念資料館。ここは沖縄戦で亡くなった人たちの氏名が膨大な碑に刻まれる摩文仁の丘で知られます。私にとって22年ぶりの訪問。もちろん前回の訪問の記憶は薄く、展示物もあまり覚えていません。そんな私に資料館の展示物は迫ってきます。沖縄への認識をあらためるようにと。

今の基地問題。そして沖縄戦。沖縄の文化を除けば、今の私たちはこの2つだけで沖縄の現状を判断してしまいがち。ところが、沖縄の抱える問題とは、沖縄戦にいたるまでの歴史を知らねば理解できません。私は平和祈念資料館の展示からそのことを教わりました。19世紀の琉球を取り巻く状況。それは薩摩藩と清に対し、二重に朝貢していた琉球王国の苦労から始まりました。アヘン戦争で清が没落し、アメリカのペリー艦隊の来航を経験し、さらに明治維新によって薩摩藩がなくなる。と、思ったら、明治政府によって琉球王国は廃され、沖縄県として支配下に組み入れられます。薩摩藩が長年にわたって琉球王国から収奪を行っていたことは有名です。ところが明治になって薩摩藩の支配が終わり、沖縄県となっても沖縄をめぐる現実は苦しみの中にありました。それは、八重山諸島に課せられていた人頭税が1893年まで残っていたことでも明らか。さらにはソテツ地獄なる飢饉が沖縄を襲います。つまり、沖縄戦が起こる前から沖縄の人々はとても過酷な状況に置かれていたのです。

この平和祈念資料館では、そのあたりのことがたくさん学べました。もちろん、沖縄戦の過酷な実態も。いまやメディアはおろか、ウェブ上でも見られないようなむごたらしい死体を撮った映像が流れています。それはサイパン戦の悲惨な現実。映像は残酷に戦場の現実を写します。火炎放射器が人々がこもる壕を焼き払います。両手を挙げて投降する住民の姿に、心からの安堵を感じるのは私だけでしょうか。

沖縄戦が終結してから、米軍の軍政下におかれた。米兵による人権蹂躙が横行し、沖縄の人々に安らぎはありません。その時期の政治体制や文化についてのジオラマや資料が私の知識をあらためます。軍政下の沖縄の現実など、内地に住んでいると知りようがありません。日本の統治下に戻るまでの紆余曲折。年表を読むと1972年沖縄の本土復帰の一行で片付けられてしまう事実。内地の私たちからみれば沖縄が日本に戻れてよかったねで済んでしまいます。ところが沖縄の人々にとっては複雑な思惑があったはずです。琉球王国を復活させての独立や、基地の撤去も含めて。

基地問題を考えるためにも、平和祈念資料館は欠かせません。沖縄の今までの歴史を含めて向き合わねば、基地問題は語れないと思います。左傾した活動家が基地問題に乗じて暗躍する。基地問題をめぐる報道を眺めると、日本がおかれた現実を盾に基地移転をごり押しする本土の都合と、そんな日本国にただ歯向かうだけの左派の思惑だけがクローズアップされます。そうではなく、もっと違うアプローチで基地を考えなければならないと思うのです。私は内地に住む人間として、基地を沖縄に押し付けてそれで終わりだとは思いません。地理の関係から沖縄に基地が置かれる理屈もわかります。そして、内地に基地を置くことが今となっては難しい現実も分かります。ましてや私自身が横田基地と厚木基地の間に住み、飛行機の騒音に悩まされていただけになおさら。

私たちにできることは、沖縄に基地を押し付けて終わりではなく、まず今の沖縄を知ることだと思います。それも今の沖縄ではなく過去の経緯を含めて。そして、この問題に関しては軽々しくブログやツイートで意見することは控えなければなりません。単純に右や左のイデオロギーで語るには、沖縄の基地問題は複雑なのです。内地の人間、沖縄の人間といった立場によっても意見は揺れるのですから。理想だけで沖縄のこれからを改善できるはずはなく、現実の地理が仕方ないからといって沖縄の基地問題から目をそらすことも愚策です。22年ぶりに訪れた平和祈念資料館は私にいろいろなことを考えさせてくれました。3時間ほどしかいられませんでしたが。

再び雨脚が強くなってきた中、資料館の近くに立つ韓国人慰霊塔に向かいました。そして摩文仁の丘で慰霊碑に刻まれた膨大な数の名前を目にします。ただ、そこにたたずみます。降りしきる雨が何かを私に訴えます。

すでに閉館時間は過ぎてしまいました。名残惜しいですが那覇への岐路につきます。那覇市街までの道は混雑していましたが、無事に国際通りへ。今回の宿はホテルグレイスリー那覇。ところが駐車場が併設されていません。少し離れた場所にある駐車場の案内され、そこまで戻る羽目になりました。

チェックインを済ませると開放感が私を包みます。久しぶりの一人旅。そして宿泊。羽根を存分に伸ばしている自分を満喫します。持ってきたパソコンでしばし作業を行ってから夜の街へ繰り出します。まずは妻がお勧めしてくれた龍泉へ。ここは龍泉酒造が直営する店だそうです。ところが私はあえてオリオンビールを飲みます。ビールがうまい。そして私が沖縄料理で一番好きなゴーヤチャンプルが感動的。うまい。

そして再び土砂降りになってきた国際通りを歩き回ります。土産物屋を冷やかし、泡盛蔵国際店で圧倒的な品ぞろえの泡盛を。当然忠孝酒造の銘柄をまっさきに探すのは言うまでもありません。歩いているとヘリオスパブを発見。クラフトビールとしてヘリオス酒造は有名な存在になりつつあります。ここではヘリオス酒造の3年古酒の「主(ぬ~し)」をいただきます。昼に訪れた忠孝酒造では飲めなかったのでようやく泡盛を味わえました。やはり訪れた地ではその地の酒を飲むに限ります。

そしてヘリオス酒造のビールを。私が頼んだのは変わり種のシークワーサーホワイトエールを。これまたライトでうまい!

満足した私はさらに古酒屋へ。ここでも膨大な泡盛が私を迎えてくれます。これほどの品ぞろえがある泡盛は、もっと内地でも見直されるべき。沖縄の食文化を広めたい。そんな思いに駆られます。お土産屋では海ブドウが試食でき、その味わいにも癒やされます。

靴をぐちょぐちょにしつつ、ホテルの1階にあるローソンへ立ち寄ります。ここで沖縄限定の缶コーヒーを仕入れました。部屋で靴を乾かし(私の足の香りが強烈でこの靴は家に帰ってから処分しました)、作業に戻ります。パソコンで作業しつつ、明日の予定を立てようと地図を眺めます。ところが、いつの間にか寝入っていました。満ち足りた初日はあっという間に終わりを告げたのです。


沖縄ひとり旅 2017/6/18


6/6は私の誕生日。6/18は父の日。その二つの記念日のお祝いに、と妻から今回の沖縄旅行をプレゼントされたのは3月ごろでした。2月に妻が沖縄旅行に行き、その延長で私へのプレゼントを思いついたのでしょう。

それ以来、沖縄旅行が私をどれだけ支えてくれたか。とても言い表せません。その頃の私が関わっていたプロジェクトやその他の激務。これらを乗り切れたのも目の前に沖縄旅行がぶら下がっていたからでした。3,4,5,6月をしのげたのも沖縄旅行があったからだといっても言い過ぎではありません。

それ以来、折に触れて沖縄のガイドブックを読み、行きたい場所をイメージしていました。沖縄を題材にした池上永一氏の著作も読みました。ですが上に書いたように仕事が落ち着かず、結局まとまって行きたい場所を考えられたのは出発前夜になってから。それまでは沖縄に行くことは決まっていながら、自分の中で旅行のイメージがなかなか焦点を結ばぬままでした。

なにせ、私が沖縄を訪れたのは1995年の秋。22年の時は私からすっかり記憶を奪っています。それも無理はなく、22年前、1995年とは私の人生に多くの思い出が刻まれた年だからです。その年は、阪神・淡路大震災で開け、地下鉄サリン事件とオウム事件で世が殺伐としていました。その時の私の思いは各ブログで記しています。

中でもその年の夏。それは私の人生で最も旅に明け暮れた幸せな時期。1995年の夏は終戦50年の節目でした。若狭での海水浴から始まり、一人列車を乗り継いで豊岡米子三原を経由して広島へ。ヒロシマでは原爆ドーム前にテントを立て、翌朝は世界中の人たちとダイ・インに参加し。さらに福岡や柳川、ハウステンボス。そして平和公園やグラバー園や諫早へ。そして休む間もなく台湾一周の旅へと。 旅に次ぐ旅の夏でしたが、当時の私は全くそれを苦にしませんでした。

私が沖縄へ向かったのは二週間にわたる台湾旅行から戻ってすぐ。大学の政治学研究部の合宿でした。大阪南港のフェリーターミナルに集合し、船で那覇港へ。タクシーで名護のホテルに向かい、そこで一泊。翌日は、海に入ったあとレンタカーを駆って南部へと。おきなわワールドに寄ってひめゆりの塔へ。夜は国際通りで飲み、その近くのホテルに泊まりました。翌朝は首里城を訪れ、そして帰路へと。こういった行動は覚えているし、ところどころの記憶もあるのですが、他はあまり覚えていません。例えば帰りは飛行機だったのか、それとも行きと同じく船だったのか。それも覚えていません。その夏の思い出があまりにも濃かったこと、さらに22年の時は私から沖縄旅行の記憶を薄れさせてしまいました。SNSもない当時ですし、日々の充実にかまけて記録を取る習慣すらありませんでした。この時の沖縄旅行の写真すら残っていない始末。私はずっと、そのことに忸怩たる思いを持っていました。

沖縄旅行の印象が薄れていることをあらためて痛感したこと。それは先日、小説「ひめゆりの塔」のレビューを書いていた時のことです。22年前の旅行でひめゆりの塔には確実に訪れました。にもかかわらず、荘厳なレクイエムが流れるホールで受けた印象が強烈すぎて、ひめゆりの塔がどんな姿だったかなど、ほとんど思い出せないのです。これはまずい。空白になっている記憶に、新たなる経験を埋めなおさないと。

また、22年の日々は、私にさまざまな知識や考えを与えてくれました。その知識とは例えば、大田司令官による「沖縄県民カク戦ヘリ」の電文であり、昨今の沖縄の基地問題です。22年の年月がたち、今の私は町田に家を構えています。町田といえば、厚木基地と横田基地の中間に位置しています。米軍機がかつて中心街に墜落し、死者も出しています。沖縄の基地問題は決して人ごとではないのです。沖縄の払った犠牲を知った上で、基地問題にどう向き合うのか。国際政治と住民の意見のどちらを優先すべきなのか。そもそも沖縄の民意は基地に反対なのが総意なのか。

あと、池永氏の著作「バガージマヌパナス わが島のはなし」を読み、御嶽の存在が沖縄文化に欠かせないことも知りました。それと組踊です。池永氏の他の著作で情緒豊かに、魅力的に描かれていました。組踊とはどんなものか一度は観てみたい。さらに、この22年は私に酒文化の奥深さとその魅力をがっちり教えてくれました。沖縄といえばすなわち泡盛です。これもどんなものか見てみたい。

検討した結果、今回の旅で絶対に行こうと思ったのは以下の三カ所です。斎場御嶽、海軍司令部壕、ひめゆりの塔。そしてどこかの泡盛醸造所。

前の晩、妻がおすすめするお店を一緒にグーグルストリートビューで確認し、旅の雰囲気をつかみながら、あらためて行きたい場所に思いを馳せます。

妻からは国際通りにあるゴーヤチャンプルーのうまい店を妻に勧められました。私もゴーヤチャンプルーは好きで、沖縄料理を食べる際はかならず注文します。あと、沖縄料理といえば、沖縄そばが有名です。ところが、どうもあのシンプルで武骨な味になじめていませんでした。それもあって、今回の度は私を唸らせる沖縄そばを味わいたい、と思いました。

他にも候補はたくさんありました。たとえば妻からは首里城を見ることを勧められていました。首里城は22年前に行ったはずなのですが、上に書いた通り記憶の彼方です。他にも滝巡りや水族館めぐりなど、22年前の私の興味を惹かなくても今の私には魅力的な場所がたくさんあります。ですが日本の滝百選に選ばれたマリュドウの滝は西表島。飛行機で行ってみることも考えましたが、一泊では時間的にも難しく、費用の問題もあって断念。比地大滝も国頭半島の方まで行かねばならず、一泊二日の日程に組み込むと滝だけで終わってしまいかねない。同じ理由で美ら海水族館も断念しました。

さて、翌日の沖縄の天気予報を確認します。すると雨。大雨のため、那覇で催される予定だったAKB48の野外ライブが中止になったというニュースが飛び込んできます。でも、私の行きたい場所に天気など関係ありません。それよりも目的地が絞れたことの方が重要です。ようやく行く場所が定まったことで、2時か3時ごろまで仕事をして就寝。


柳田國男全集〈2〉


本書は読むのに時間が掛かった。仕事が忙しかった事もあるが、理由はそれだけではない。ブログを書いていたからだ。それも本書に無関係ではないブログを。本書を読んでいる間に、私は著者に関する二つのブログをアップした。

一つ目は著者の作品を読んでの(レビュー)。これは著者の民俗学研究の成果を読んでの感想だ。そしてもう一つのブログエントリーは、本書を読み始めるすぐ前に本書の著者の生まれ故郷福崎を訪れた際の紀行文だ(ブログ記事)。つまり著者の民俗学究としての基盤の地を私なりに訪問した感想となる。それらブログを書くにあたって著者の生涯や業績の解釈は欠かせない。また、解釈の過程は本書を読む助けとなるはず。そう思って本書を読む作業を劣後させ、著者に関するブログを優先した。それが本書を読む時間をかけた理由だ。

今さら云うまでもないが、民俗学と著者は切っても切れない関係だ。民俗学に触れずに著者を語るのは至難の業だ。逆もまた同じ。著者の全体像を把握するには、単一の切り口では足りない。さまざまな切り口、多様な視点から見なければ柳田國男という巨人の全貌は語れないはずだ。もちろん、著者を理解する上でもっとも大きな切り口が民俗学なのは間違いない。ただ、民俗学だけでは柳田國男という人物を語れないのも確かだ。本書を読むと、民俗学だけでない別の切り口から見た著者の姿がほの見える。それは、旅人という切り口だ。民俗学者としての著者を語るにはまず旅人としての著者を見つめる必要がある。それが私が本書から得た感想だ。

もとより民俗学と旅には密接な関係がある。文献だけでは拾いきれない伝承や口承や碑文を実地に現地を訪れ収集するのが民俗学。であるならば、旅なくして民俗学は成り立たないことになる。

だが、本書で描かれる幾つもの旅からは、民俗学者としての職責以前に旅を愛してやまない著者の趣味嗜好が伺える。著者の旅先での立ち居振舞いから感じられるのは、旅先の習俗を集める学究的な義務感よりも異なる風土風俗の珍しさに好奇心を隠せない高揚感である。

つまり、著者の民俗学者としての業績は、愛する旅の趣味と糧を得るための仕事を一致させるために編み出した渡世の結果ではないか。いささか不謹慎のような気もするが、本書を読んでいるとそう思えてしまうのだ。

趣味と仕事の一致は、現代人の多くにとって生涯のテーマだと思う。仕事の他に持つから趣味は楽しめるのだ、という意見もある。趣味に締切や義務を持ち込むのは避けたいとの意見もある。いやいや、そうやない、一生を義務に費やす人生なんか真っ平御免や、との反論もある。その人が持つ人生観や価値観によって意見は色々あるだろう。私は最後の選択肢を選ぶ。仕事は楽しくあるべきだと思うしそれを目指している。どうせやるなら仕事は楽しくやりたい。義務でやる仕事はゴメンだ。趣味と同じだけの熱意を賭けられる仕事がいい。

だが、そんなことは誰にだって言える。趣味だけで過ごせる一生を選べるのなら多くの人がそちらを選ぶだろう。そもそも、仕事と趣味の両立ですら難儀なのだから。義務や責任を担ってこそ人生を全うしたと言えるのではないか。その価値観もまたアリだと思う。

どのように生きようと、人生の終わりではプラスもマイナスも相殺される。これが私の人生観だ。楽なことが続いても、それは過去に果たした苦労のご褒美。逆に、たとえ苦難が続いてもそれは将来に必ず報われる。猛練習の結果試合に勝てなくても、それは遠い先のどこかで成果としてかえってくる。また、幼い日に怠けたツケは、大人になって払わされる。もちろんその水準点は人それぞれだ。また、良い時と悪い時の振幅の幅も人それぞれ。

著者を含めた四兄弟を「松岡四兄弟」という。四人が四人とも別々の分野に進み、それぞれに成功を収めた。著者が産まれたのはそのような英明な家系だ。だが、幼少期から親元を離れさせられ郷愁を人一倍味わっている。また、英明な四兄弟の母による厳しい教育にも耐えている。また、著者は40歳すぎまで不自由な官僚世界に身をおいている。こうした若い頃に味わった苦難は、著者に民俗学者としての名声をもたらした。全ての幼少期の苦労は、著者の晩年に相殺されたのだ。そこには、苦難の中でも生活そのものへの好奇心を絶やさなかった著者の努力もある。苦労の代償があってこその趣味と仕事の両立となのだ。

著者が成した努力には読書も含まれる。著者は播州北条の三木家が所蔵する膨大な書籍を読破したとも伝えられている。それも著者の博覧強記の仕事の糧となっていることは間違いない。それに加えて、官僚としての職務の合間にもメモで記録することを欠かさなかった。著者は官僚としての仕事の傍らで、自らの知識の研鑽を怠らない。

本書は、官僚の職務で訪れた地について書かれた紀行文が多い。著者が職務を全うしつつもそれで終わらせることなく、個人としての興味をまとめた努力の成果だ。多分、旅人としての素質に衝き動かされたのだろうが、職務の疲れにかまけて休んでいたら到底これらの文は書けなかったに違いない。旅人としての興味だけにとどまることなく文に残した著者の努力が後年の大民俗学者としての礎となったことは言うまでもない。

本書の行間からは、著者の官僚としての職責の前に、旅人として精一杯旅人でありたいという努力が見えるのである。

本書で追っていける著者の旅路は実に多彩だ。羽前、羽後の両羽。奥三河。白川郷から越中高岡。蝦夷から樺太へ。北に向かうかと思えば、近畿を気ままに中央構造線に沿って西へと行く。

鉄道が日本を今以上に網羅していた時期とはいえ、いまと比べると速度の遅さは歴然としている。ましてや当時の著者は官僚であった。そんな立場でありながら本書に記された旅程の多彩さは何なのだろう。しかも世帯を持ちながら、旅の日々をこなしているのだから恐れ入る。

そのことに私は強烈な羨ましさを感じる。そして著者の旅した当時よりも便利な現代に生きているのに、不便で身動きの取りにくい自分の状態にもどかしさを感じる。

ただし、本書の紀行文は完全ではない。たとえば著者の旅に味気なさを感じる読者もいるはずだ。それは名所旧跡へ立ち寄らないから。読者によっては著者の道中に艶やかさも潤いもない乾いた印象を持ってもおかしくない。それは土地の酒や料理への描写に乏しいから。読む人によっては道中のゆとりや遊びの記述のなさに違和感を感じることもあるだろう。それは本書に移動についての苦労があまり見られないから。私もそうした点に物足りなさを感じた。

でもそんな記述でありながらも、なぜか著者の旅程からは喜びが感じられる。そればかりか果てしない充実すら感じられるから不思議なものだ。

やはりそれは冒頭に書いた通り、著者の本質が旅人だからに違いない。本書の記述からは心底旅を愛する著者の思いが伝わってくるかのようだ。旅に付き物の不便さ。そして素朴な風景。目的もなく気ままにさすらう著者の姿すら感じられる。

ここに至って私は気づいた。著者の旅とわれわれの旅との違いを。それは目的の有る無しだ。いわば旅と観光の違いとも言える。

時間のないわれわれは目的地を決め、効率的に回ろうとする。目的地とはすなわち観光地。時間の有り余る学生でもない限り、目的地を定めず風の吹くままに移動し続ける旅はもはや高望みだ。即ち、旅ではなく目的地を効率的に消化する観光になってしまっている。それが今のわれわれ。

それに反し、本書では著者による旅の真髄が記される。名所や観光地には目もくれず、その地の風土や風俗を取材する。そんな著者の旅路は旅の中の旅と言えよう。

‘2016/05/09-2016/05/28