バリー・シール アメリカをはめた男


本作はトム・クルーズが好きな次女が観たいというので来た。でも実は私も観たかったのだ。なんといっても、本作に描かれているのはとても興味深い人物なのだから。何が興味深いって、本作でモデルとなったバリー・シールという人物を私が全く知らなかったことだ。

TWAのパイロットから、CIAの作ったペーパーカンパニーに転籍し、中南米諸国の偵察任務に従事。さらには麻薬組織の密輸にまで手を染め、莫大な富を得る。その破格の儲けを米国の諸機関に目をつけられ、逮捕。ところが米国の中南米政策の思惑から無罪放免となり、麻薬組織とダブルスパイを演ずる羽目になり、最後は麻薬組織から暗殺される。

これが全て実話だというからたいしたものだ。マネーロンダリングが間に合わず、厩舎や地面に金を埋めるあたりなど、思わず疑いたくなるが、どうやら実話らしい。

本作を魅力的にしているのは、現ナマの醸し出すリアルさだ。銀行送金によらず、札束が持つリアルな感触。資金の移動がすなわちデータの書き換えに堕した現在、味わえない金の生々しさ。瞬時にCPUがトランザクション処理で右から左にデータを移す今では、富の実感も薄れるばかり。本書のように札束があちこちに散らばり、置き場所に困るような事態はもはや神話の世界の話だ。

また、70年代末から80年代前半の、今から見ればローテクなインフラを駆使し、膨大な作業を取り仕切るバリー・シールの動きも見どころだ。複数の公衆電話を使って連絡を並行して行うシーンなど、スマホがこれだけ普及した今では、かえって新鮮に思える。スマートなデータが幅を効かせる今だからこそ、バリー・シールの行動に憧れを抱くのかもしれない。IT世代のわれわれは。

そしてもう一ついい点。それはバリー・シールが家族思いなところだ。吠えるほど捨てるほど金があっても、彼はただ家族と共にいることを望む。浮気もせず、ただ日々の仕事に邁進する。仕事で操縦し旅することで自分の欲求を満たし、スリルと報酬を得る。とても理想的ではないか。趣味と仕事が一致していれば、浮気にも走らない。そもそも浮気する必然すらない。日々が充実しているのだから。そんなところも社会に飼いならされた大人にとって魅力的に映るのだろう。

本書は映像も見応えがある。作中、カーター大統領やレーガン大統領が演説する実映像が幾度か挿入される。それがまた、当時の色あせた映像になっている。そればかりか、バリー・シールを映した映像すら、当時のフィルムを使ったのかは分からないが、いい感じに色あせている。それがまた、ITに頼らぬ時代のヒーロー感を演出しているのだ。

また、パンフレットによると、本作の飛行シーンには一切CGを使っていないとか。それどころかスタントさえ使わず、トム・クルーズ自身が操縦し、危険な飛行に臨んでいるという。まさに役者魂の塊である。

本書全体から感じられるのは、時代の断絶だ。人が情報技術に頼るまえ、人はなんと粗野でワイルドで、魅力的だったことか。コンピューターがオフィスの外に飛びだし、人々の生活に入り込んだことで、何かが失われしまったのだ。得るものも大きかっただけに、喪ったものも同じ。それを象徴しているのが、本作のあちこちにはびこる札束なのだろう。札束を見ずに生活できるようになった今、その分、雑然としたエネルギーが街中から消え失せ、人々は小さくスマートにまとまりつつある。

でバリー・シールをヒーローと書いた。だが、本来なら彼はアメリカにとってただのヒールでしかない。でも、薄れゆくエネルギッシュな日々を現代のスクリーンに体現した彼は、やはりまぎれもないヒーローなのだ。トム・クルーズが本作で演じているのは悪役ではない。彼にはやはり、ヒーローが似合う。私はそう思った。

‘2017/11/12 109シネマズ港北


関ケ原


私は、戦国武将の中でも石田三成に自分と近いものを感じている。

今までに関ヶ原は三回訪れた。三回とも笹尾山の石田三成本陣には訪れたが、桃配山には一度も行っていない。桃配山とは徳川家康が最初に本陣とした山だ。また、最後に関ケ原を訪れた際は、妻と二人で石田三成の生誕地を巡ってから戦場に向かった。私は明らかに石田三成に愛着を感じているようだ。

本作は、石田三成を主人公とした関ケ原合戦の物語だ。原作となった司馬遼太郎作の「関ヶ原」でも主人公は石田三成として書かれていたらしい。らしいと書いたのは、原作を読んだかどうか覚えていないからだ。石田三成がどう書かれていたかも記憶が曖昧。だからこそ本作は観たいと思った。

本作は、合戦シーンの派手さだけを魅せて終わる映画ではない。戦国時代を継ぐ時代をどう作ろうとしたのかを描く映画だ。なので、関ヶ原の合戦に至るまでの経緯を丁寧に描いているのが特徴だ。

関ヶ原の合戦とは戦国時代の幾たびも行われた合戦の中でも最大にして、日本の覇権の行く末を決めた最重要の合戦。これに異をとなえる史家はまずいないと思う。大坂の陣も、山崎の合戦も、関ヶ原の合戦に比べれば少し粒が小さい。前者は政権磐石となった徳川家による戦国時代の後始末的な戦いだし、後者は織田家の後継者争いの意味合いが強いからだ。関ヶ原の合戦とは、豊臣家が政権を担うのか、それとも徳川家がとって替わるのか、その後の260年間の帰趨が定まった戦いでもある。260年の未来の重みがあったからこそ、関ヶ原の合戦は重要だったのだ。それが解っていたからこそ、戦う前から武将たちは駆け引きに骨身を削ったのだと思う。

すでに衆目の見るところ、太閤秀吉亡き後、天下を担うのは内府(徳川家康)であるのは明らか。では何をもって石田三成は豊臣家の天下を守ろうとしたのか。それは「義」だ。本作で鍵となるのは、石田三成が島左近を召しかかえるシーンだ。ここで、石田三成は「義」が太閤晩年の豊臣政権から失われてしまっていることを率直に吐露する。武将たちが太閤秀吉に臣従しているのは利益のためのみ。利益だけで維持される政権に義はないといい切る三成。三成は義をもって天下は運営されるべきという。三成の旗印、大一大万大吉に込められた意味だ。「一人が万民のために尽くし、天下が泰平になればみんなが心豊かに暮らせる」

怜悧冷徹な官僚的人物。それが今までの石田三成評だった。本作はそのイメージを覆しにかかる。ただ権威に盲従するのではなく、権威に威を借るのでもない。今の太閤殿下に義はないといい切る三成に旧来のイメージはない。むしろ、豊臣政権の末期は三成にとって忌避すべき政権であり、徳川家康こそが豊臣の利得政権の後継者なのだ。それがゆえに、政権をとらせてはならない。秀吉が天下を取った当時の理念に立ち返らせることに自らの信念を掛ける三成。そこには従来の豊臣政権の後継者としての石田三成の悪評はない。三成と家康が考える豊臣政権は、正義と不義が鮮やかに反転しているのだ。三成にあるのは自分が豊臣政権を担い正道に戻すのだ、という強烈な自負だ。

だからこそ、たかだか19万石の石高しか持たない石田三成に、日和見軍がいたとはいえ、あれだけの人数が馳せ参じたのだろう。

三成が義を語るシーンは他にもいくつか出てくる。例えば初芽に対し、天下が自分の理念に沿って運営されるのを確かめたら諸国を巡りたい、一緒に来てくれないか、というシーン。ここで描かれる三成は覇権や自己保身に汲々としない人物だ。初芽にも観客にも岡田三成が最も魅力的に映るシーンとして、ここを上げてもいいほどに。

また開戦前夜、松尾山の小早川秀秋の元に行き、明日の参戦をかき口説くシーンもそう。ここでも義は持ち出される。小早川秀秋が当初から徳川家康に内通を約していたのであれば、あそこまで迷わなかったはず。本作でも秀秋が三成に悪感情を持ってしかるべき伏線はたくさん引かれている。秀次の側室駒姫の処刑を監督する三成と彼らを不承不承連行する役目を仰せつかった秀秋は、いかな感情を三成に抱いたか。また、朝鮮の役での秀秋の戦いぶりを三成が罵倒するシーンも同じく重要だ。それだけの伏線があってもなお、秀秋に東軍への寝返りを迷わせたものは何か。

周到に関ヶ原の合戦前夜までを描くことで、本作は6時間で大勢が決したとされる関ヶ原の合戦に重層的な重みを与えている。南宮山にこもったきり出てこなかった毛利軍や、大勢が決した後に敵中突破して薩摩に逃げ帰るまで動こうとしなかった島津軍もきっちり書いている。また、前哨戦となった大垣城や杭瀬川の一戦と前夜の駆け引きまでもが、 カット割りと編集によって 疑心暗鬼と駆け引きが深められているところも本作の見どころだ。また、小早川秀秋の寝返りの瞬間に新たな解釈を与えているのも興味深い。

合戦シーンもリアルに感じた。泥臭く、派手さのない戦さ。突いて、組み付いて、叩く。剣が首を跳ね飛ばすシーンなど一、二回しかでてこない。実際の戦闘はそんなものだったのだろう。後の剣豪宮本武蔵が関ケ原の戦いに参戦していたとも伝わっているが、鮮やかな剣術で斬りまくったという話は聞かない。それも本作を観れば納得できる。また、戦陣の描写もリアル。東西がきれいに二分され対峙した分かりやすさはない。整然とした戦場で、戦況の全てを見極めた軍師の采配が鮮やかに全軍を動かすといったこともない。あちこちで旗印を掲げた集団が槍の穂を組み押し合っている。前後に集団が向かい合い、上下に騎馬武者が行き来し、そこここで鬨の声がこだまする。広大な戦場でそれぞれの軍団同士が組み合って、それぞれの持ち場でしのぎを削る。それが戦場の実情なのかもしれない。本書の三次元、いや、時間も含めると四次元に描かれた戦場は混沌としており、それがとてもよい。実際に関ヶ原を訪れつ私にも、在りし日の戦場が思い起こせるようだ。そしてそのすべてを見ているのは村の地蔵。三成によって転がっていた地蔵が元の祠に安置され、それが戦場に迷い込んだ初芽たちと雑兵によって荒らされ、さらにそれを戦後の実検で訪れた家康によって安置しなおされる演出も良かった。

本作を観ると、石田三成には武運拙くという言葉が似合う。実際、あと一息だったのだと思う。秀忠軍三万五千の軍勢が上田城で足止めされたという幸運もあって、戦況は東西どちらに転んでもおかしくなかった。家康の老獪な根回しが毛利軍を南宮山から動かさず、ギリギリで小早川秀秋の寝返りを生んだからこその敗戦。

戦いの前段から処刑場へ運ばれるまでの日々を石田三成は生きる。自らが信ずる大義を見据えて。その眼差しは、本作で石田三成を演じた岡田准一さんがしっかりと再現してくれている。なんといえば良いか、岡田さんは目で三成を演じている。まるで目前に本物の秀吉が床几に肘をついているかのように。家康と丁々発止の、そして無言の対面を果たすかのように。島左近が戦場で疾駆する様子を見るかのように。岡田さんの三成は、本物の石田三成がこうだったと思わせる迫真性がある。今までも色んなドラマでさまざまな役者さんによって三成は演じられて来た。その中でも岡田三成がもっとも血が通っていたように思う。それはもちろん、役者さんだけの力ではない。監督による三成解釈が官吏三成を前面に押し出さず、血の通った理想主義者として描いていたからだろう。でも、その期待に応えて演じきった岡田さんの演技がすごい。毎回唸らされる。

さらに、家康を演じた役所さんも見事というほかはない。家康もあまたの役者によって演じられてきたが、役所家康も屈指の家康像だったと思う。さりげなく爪を噛む癖や老獪さを醸し出すあたり、家康が現世に現れたらあのような、と思わせた。まるで現し身のよう。

また、他の役者さんもお見事。出番は少なかったが、滝藤さん扮する秀吉の老残の感じや哀れさが流ちょうな名古屋弁によってとても現れていたし、キムラ緑子さんによって演じられた北政所は、一説に関ケ原の戦いの黒幕ともいわれる北政所のしたたかさがよく出ていたと思う。また平さん演ずる島左近が、また歴戦の勇者のつわものぶりを全身にまとっていてとても印象に残った。また、石田三成といえば大谷刑部吉継との友情は外せないが、大場さんによって演じられた大谷吉継の達観した感じが、本作に一層の深みを与えていたように思う。他の役者さんも含めて、役者さんたちの演技に不満はない。スタッフと役者のすべてががっちり組み合い、これほどまでの大作を作り上げたことに感謝したい。

パンフレットによれば、監督の構想は二転三転したという。主役は島左近から小早川秀秋、さらに島津義弘と替わり、最後に石田三成に落ち着いたようだ。その年月たるや構想25年。原作をおそらくは何度も読み込み、あらゆる視点で物語を読み直したのだろう。それが本作の重層的で多面的な描写につながっているはず。まさに監督の想いが詰まった渾身の作品を観たという喜びが全身にわいてくる。すばらしい一作だったと思う。

あえていえば、史実に忠実であろうとするあまり、ケレン味に欠けるところが欠点だろうか。人によってはもっと娯楽に徹して欲しかったという意見もあるかもしれない。もっとも私には欠点ではなく、そのケレン味のなさが良かったのだが。おかげで四回目の関ケ原巡りがしたくなった。次は南宮山や桃配山も登り、三成の逃亡ルートや島津の逃亡ルートも歩いてみたい。

2017/9/1 イオンシネマ新百合ヶ丘


モアナと伝説の海


本作を観てから2日が経ったが、本作の映像の美しさはまだ記憶に鮮烈だ。本作で描き出された海や空。これが実写の映像を合成したのか、それとも最初からCGで作ったのか。私には判断がつけられそうにない。それほどまでに本作の空と海の描写は美しい。海の中の映像はCGの魚やサンゴが動き回り、あまり驚きはない。だが、船が大海原を進むシーンや空に雲がたなびくシーンなどは実写と区別がつかない。もしこれらの映像がCGだとすれば感嘆するほかはない。ここ数年のCG技術の進化には驚かされることしきりだが、本作の映像でそれは極まったといえる。

このような美しい映像は、自然を描いてこそ真価を発揮するはずだ。そしてポリネシアの豊かな自然の恵みは本作の中に確かに息づいている。ポリネシアの文化や伝説、神話は、自然の恵みへの感謝とともに受け継がれてきた。ポリネシア文化のあり方を描く本作が自然の美しさを忠実に再現していることは、本作が伝えたい精神を伝える上でとても大事なことだ。自然の恵みを享受するポリネシア文化が、対極となる人工物の極致であるCG技術によって再現されたことは、これからの情報技術のあり方の一つとして興味深い。

我が家の家族は私を除いて皆、フラを習った経験がある。そのため、他の家族に比べればポリネシア文化は多少は理解していると思う。本作は家族で観に行ったのだが、人よりも多く理解できたのではないか。もっとも、妻によれば本作でモアナの祖母タラが踊るフラの振り付けはあまり深い意味がないらしい。波を表しただけで。本来はフラの振りの一つ一つに意味があり、一つの踊りで物語を語るそうだ。本作はハワイを描いていないので、ハワイ生まれのフラと本作で祖母タラが舞う踊りには違うのかもしれない。だが、ポリネシア文化を描くのであれば、もう少し踊りを深掘りして意味を表現しても良かった気がする。そうすればより本作に深みが増したかもしれない。

私もハワイには二回ほど行ったことがある。二回目にハワイを訪れた際はビショップ・ミュージアムでポリネシア文化について学んだ。そこで学んだ知識によると、ハワイへ最初にやって来た人々は、はるばるタヒチやフィジーから舟で渡って来たそうだ。島で暮らす人々の中には、未知の大海原へ乗り出す船乗りの冒険心が眠っている。それは、地球上に散らばっている人類の中でも、ポリネシアの人々が最も色濃く残す気質ではないか。

本作の主人公モアナは、ポリネシアの人々の強さである冒険心に充ちている。海に選ばれた彼女は海に惹かれるあまり、珊瑚礁の外に出たくて仕方がない。そんな彼女の父トゥイは、島長の立場で島を守ることを一番に考える。そのため、モアナの冒険心を固く戒める。トゥイもまた、若いころは冒険心の旺盛な若者だった。だが、外洋への航海に乗り出そうとして友人を亡くしている。失敗が、トゥイの心を頑なに守りに入らせてしまったのだ。とはいえ守りに入った者は、守るべきものがなくなると弱い。彼らの島モトゥヌイから自然の恵みが経たれ、村は危機に陥る。にもかかわらずトゥイの考え付く策は、その場しのぎの改良でしかない。一方でモアナの冒険心は事態をより根本的に変えようとする。おそらくポリネシアの人々も、そうやって世代間で意見を戦わせながら代々島伝いに繁殖していったのだろう。モアナとトゥイの親子の相克は、ポリネシアの人々の伝統そのものを表しているように思う。

だが、航海はそんなに簡単なものではない。おそらくは島へ行き着けず遭難した人々も沢山いたことだろう。そして、運よく成功した船団は、強力なリーダーシップや神の奇跡によって、たどり着けたことに感謝したに違いない。モアナの相棒として航海を共にするマウイは、そんなリーダーシップの権化であり神と目される人。神から与えられた釣り針があれば、マウイが力を発揮する設定がまさにその象徴だ。長い航海の中、飢えに苦しむこともあっただろう、サメに襲われることもあっただろう。そのたび、釣り針をたくみに操ったリーダーが人々を飢えから救い、勇気と力でサメを撃退したリーダーは神格化されてゆく。モアナにとってのマウイがそうであったように。

本作は、溶岩で荒れ狂うテ・カァが心を取り戻して緑豊かなテ・フィティへと落ち着く。それはまさしく島誕生の神話に他ならない。テ・カァは確かに人間にとって恐ろしい存在だ。だが、火山活動で流れた溶岩は大地を作り出し、木や草の芽吹く土へと替わって行く。テ・カァとテ・フィティを表裏同じものとして描いたところが、ポリネシアの神話に即していて興味深い。

本書から示唆されるものは多い。おそらく、製作者も盛り込もうと思えば、今の人類への教訓めいたメッセージをいくらでも盛り込めたことだろう。例えば冒険心の欠如や、地球温暖化、環境汚染など。でも本作は、ポリネシアの文化と自然と神話を描くことに徹している。逆に、ニワトリのヘイヘイや、プアといった動物、ココナッツ姿の海賊カカモラや、マウイの釣り針を持っている巨大ヤシガニのタマトアは本作を子供に親しみやすくしている。中途半端な教訓よりも、まずは自然の恵みに従って過ごす態度や冒険心。それを伝えるのが本作の役割だと思う。

’2017/04/09 イオンシネマみなとみらい


SING シング


吹き替え版を映画館で観ることは滅多にないけれど、本作は家族の意向もあって吹き替え版で観た。それもあってか、劇場内は小さい子供達で沢山。予告編を観た感じでは子供向けの内容だろうなと思っていたけれど、私の予想以上に子供が多かった。

潰れかけた劇場を歌で救う、という内容はそれだけだとありきたりに思える。でも、本作はステージで歌を唄う登場人物たちに細かくキャラ設定されている。それも子供を飽きさせないよう手早く。また、筋書きも登場人物たちの抱える事情をうまく演出に組み合わせ、奥行きのあるストーリー展開を展開している。その辺りの演出上の配慮には好印象を抱いた。

潰れかけた劇場のオーナー、コアラのバスター・ムーン。極度のあがり症だが音楽が歌うのも聞くのも大好きな、ゾウの少女ミーナ。彼氏と組んでパンクロックを演っている、ヤマアラシのアッシュ。父が頭目の盗賊団に行きたがらず音楽の道を目指す、ゴリラのジョニー。陽気な性格でステージデビューを遂げる、ブタのグンター。25人の子育てに奮闘しながら、自分の可能性を追いたい、ブタのロジータ。音大を出たプライドを持ちながらストリートミュージシャンで生計を立てる、ネズミのマイク。彼らは種族も境遇もそれぞれに違う。それぞれが自分の生活に苦労しながら、共通するのは音楽が好きなこと、そして音楽で自分を表現すること。

多分それは、本作で声優に起用された俳優や歌手にとっても同じに違いない。本家も吹き替え版も関係なく。今回は吹き替え版を鑑賞したわけだが、皆さんとてもお歌が上手い。音楽の好きで心の底から楽しんでいる感じがとてもよかった。特にミーナを演じたMISIAはさすがに上手かった。皆、音楽が好きで演じるのが好きで本作に起用されたことが良く分かる。

SINGというタイトル通り、本作には歌があふれている。英語圏の映画だけに、洋楽が好きな人にはおなじみの曲が何曲も登場する。1960年代のGimme Some Lovin’や My Way、そしてVenus。1980年代のWake Me Up Before You Go GoやUnder Pressure。90年代、00年代、10年代もレディー・ガガやテイラー・スイフトとか、曲名が出てこないけど知ってる曲ばかり。欧米の世代を超えて通じる曲の多さには嬉しく、そして羨ましくも感じる。

我が国には本作で取り上げられたような、世代を超えて歌われるような曲はどれぐらいあるのだろう。本作を観ていてそう思った。例え落ちぶれて身ぐるみ剥がされるまでになっても、喉が元気なうちは歌がある。そして、落ち込んだ時に唄える歌が口ずさめることは、どれだけ気が楽になるか。日ごろから忙しい生活を過ごしていると、分かっていてもなかなかそれに気づかないものだ。音楽の力とは言い古されているかもしれないが、確かにある。そしてカラオケボックスの中よりも、不特定多数の人々の前で歌い上げるという経験によると思う。人前で声を上げて自分を主張することは、人生を変える力を確かに持っている。本作は、そんな音楽の力に気づかせてくれる。

そんな余韻を味わいながら映画館を出て、家族で向かったのはパルテノン多摩。Brass Festa多摩 2017を鑑賞した。吹奏楽の祭典。ホールに音楽が響きわたる。演目の中には時代劇の有名テーマ曲があり、日本に伝わる唱歌の吹奏楽アレンジがあり。これがかなり胸に響いた。我が国にもこういった歌があるのだ。そのことにあらためて気づかされた。そしてアンコールでは観客も交えて「ふるさと」を唱和した。これがよかった。ただ聞くだけでなく、自ら歌うことの効能といったら!

本作の登場人物たちも、唄うことで、自分を表現することで自分の人生を変えようと努力している。多分それは、本作をみた観客にとっても言えることだと思う。人生はSINGすることで、良い方向に持っていけるはず!

’2017/03/20 イオンシネマ多摩センター


海賊とよばれた男


原作を読んだ時には泣かなかったのに、スクリーンの本作に泣かされた。

観る前の私の耳にちらほら漏れ聞こえてきた本作の評は、原作に比べてだいぶ端折られている、とか。果たして原作の良さがどこまで再現されているのか、不安を感じながら本作を観た。

そして、冒頭に書いたとおり泣かされた。

たしかに本作では原作から様々な場面がカットされ編集されている。その中にはよくもまあこのシーンをカットしたな、というところがなくもない。だが、私はよくぞここまで編集して素晴らしい作品に仕上げた、と好意的に思っている。

本作のパンフレットはかなり気合の入った作りで、是非読んでほしいと思うのだが、その中で原作者が2ページにわたってインタビューに答えている。もちろん原作や本作についても語っている。それによると、原作者からの評価も上々のようだ。つまり原作者からも本作の演出はありというお墨付きをもらったのだろう。

原作の「海賊とよばれた男」は、数ヶ月前に読み終えた。レビューについてもまだアップしていないだけで、すでに書き終えている。そちらに原作の筋書きや、國岡鐵造の人となりや思想については書いている。なのでこのレビューでは本作の筋書きそのものについては触れない。このレビューでは、本作と原作の違いについて綴ってみようと思う。

まず一つ目。

原作は上下二巻に分かれている。上巻では、最初の半分で戦後の混乱期を書き、残りで創業から戦前までの國岡商店の基盤づくりの時期を描く。下巻では戦後のGHQや石統との闘いを経て日章丸のイラン行き、そしてさまざまな國岡商店の移り変わりと鐵造の老境に至るまでの経緯が書かれている。つまり、過去の流れを挟んでいるが、全体としては時間の流れに沿ったものだ。

一方の本作は、戦後の國岡鐵造の時間軸で動く。その中で鐵造の追想が合間に挟まれ、そこで過去を振り返る構成になっている。この構成を小説で表現しようとすると、著者はとても神経を使い、読者もまた時間軸の変化をとらえながら読まねばならない。しかし文章と違って映像では國岡鐵造の容姿の違いを一目で観客に伝えることが可能だ。スクリーン上の時代が追想なのかそうでないか、観客はすぐ判断できる。つまり本作の構成は映像ならではの利点を生かしている。それによって、観客には本作の流れがとても理解しやすくなるのだ。

続いて二つ目。

本作では大胆なまでに様々なシーンを原作から削っている。例えば國岡鐵造が國岡商店を創業するまでの過程。ここもバッサリ削られている。國岡商店の創業にあたっては、大学の恩師(史実では内池廉吉博士)から示唆された商売人としての道(生産者より消費者への配給理念)が重要になるはずだ。しかしこのあらましは本作では省かれている。また、鐵造が石油に興味を持った経緯も全てカットされている。そういった思想的な背景は、本作のあるシーンでクローズアップされる「士魂商才」の語が書かれた額と、全編を通して岡田准一さんが演ずる國岡鐵造その人の言動から受け止めなくてはならない。この選択は、監督にとって演出上、勇気がいったと思う。

さらに大幅に削られているのが、日章丸事件の前段となるアバダン危機についての情報だ。本作では日承丸という船名になっているが、なぜ日承丸がイランまで行かねばならなかったか。この前提となる情報は本作ではほんのわずかなセリフとアバダンの人々の歓迎シーンだけで表されている。つまり、本作を鑑賞するにあたってセリフを聞き逃すと、背景が理解できない。これも監督の決断でカットされたのだろう。

また、原作下巻の半分を締める「第四章 玄冬」にあたる部分もほとんど削られている。日承丸が帰って来た後、画面にはその後の経緯がテロップとして表示される。テロップに続いてスクリーンに登場する鐵造は車椅子に乗った引退後の姿だ。日田重太郎との別れのシーンや油槽所建設、第一宗像丸遭難など、原作の山場と言えるシーンがかなり削られている。このあたりの監督の決断には目を瞠らされた。本作で木田として登場する日田重太郎との別れは、原作ではグッとくるシーンだ。しかし本作での木田は、戦後すぐの國岡商店の苦闘の中で、すでに写真の中の人物になってしまっている。木田との別れのシーンをカットすることで、上映時間の短縮の効果とあわせ、戦後復興にかける鐵造の想いと恩人木田への想いを掛け合わせる効果を狙っているのだろう。

さらに三つ目。

大胆にあちこちのシーンをカットする一方で、本作には監督の演出上の工夫が随所に施されている。アバダンを出港した日承丸が英国艦隊による拿捕を避けながらマラッカ海峡から太平洋に抜ける途中、英国軍艦と真正面に対峙するシーンがある。実は原作には本作に書かれたような船同士が対峙するシーンはない。原作で描かれていたのはむしろ国際法や政治関係上の闘争の方が主。アバダンからの帰路の描写はアレ?と拍子抜けするほどだった。しかし、それだと映像的に弱い。監督は映像的な弱さを補うため、本作のように船同士を対峙させ、すれすれですれ違わせるような演出にしたのだろう。それはそれで私にも理解できる。ただ、あんな至近距離ですれ違う操舵が実際に可能なのか、というツッコミは入れたいところだが。

もう一つ大きな変更点がある。それは東雲忠司という人物の描かれ方だ。本作で吉岡秀隆さんによって演じられた東雲は、かなり血肉の通った人物として描かれている。日承丸をイランに派遣するにあたって東雲が店主鐵造に大いに反抗し、番頭格の甲賀から頰を張られるシーンがある。このシーンは原作にはなく、監督独自の演出だ。でも、この演出によって戦時中の辛い思い出が思い起こされ、悲劇を乗り越えさらに國岡商店は進んで行かねばならない、という店主鐵造の想いの強さが観客に伝わる。この演出は原作者もパンフレットで認める通り、原作にない映画版の良さだと思う。

もう一つ、大きく違う点は弟正明の不在だ。正明は原作ではかなり主要な人物として登場する。戦時中は満鉄の部長であり、戦後は帰国して鐵造の片腕となった。だが、本作では全く登場しない。どういう演出上の意図があったのだろう。その理由を考えるに、そもそも本作では日承丸以降の出来事がほとんど描かれない。原作では日章丸事件以降も話はまだ終わらず、國岡商店を支える鐵造の後継者たちも交替していく様が書かれる。ところが本作からは後継者という要素が見事に抜け落ちている。國岡鐵造という人物を描くにあたり、監督は鐵造一人に焦点を合わせようとしたのではないか。そのため、後継者という要素を排除したのではないか。そして、後継者を排除した以上、正明を登場させるわけにはいかなかったのだと思う。

あと一つ、原作ではユキの大甥からの手紙が鐵造の元に届く。だが本作では、看護婦に連れられ車椅子に乗った鐵造が大姪の訪問を受ける設定に変わっている。ユキが残したスクラップブックを見、最後に挟まれていた二人で撮った写真を見て号泣する鐵造。観客の涙を誘うシーンだ。私が泣いたのもここ。手紙という伝達方法に比べると、直接映像で観客に届ける演出のほうが効果は高いに違いない。また、原作では子を産めないユキが、鐵造に相対してその旨をつげ、自ら身を引くという描写になっている。しかし、本作ではユキを引き合わせてくれた兄がユキからの手紙を鐵造に託ける設定となっており、ユキは姿を見せない。そしてユキからの手紙には、仕事でのすれ違いが原因で寂しさの余り身を引いたということが書かれている。原作の描写は時代背景を差し引いてもなお、女性にとって複雑な想いを抱かせかねない。監督はその辺りを配慮して、本作では子が産めないから自ら身を引くという描写ではなく、寂しいからという理由に和らげたのではないかと思う。

ここまで観ると、原作に比べて人名や船名が変わっていることも理解できる。日章丸と日承丸。日田重太郎と木田章太郎。新田船長と盛田船長。どれもが監督の演出によって原作と違った言動になった人物だ。その変化を宣言するためにも、登場人物の名前は変わらなければならなかった。そういうことだと私は受け止めている。

原作と映像作品は別物、と考える私は、本作で監督が施した一切の演出上の変更を支持したい。よくぞここまでまとめきったと思う。

そして監督の演出をスクリーン上に表現した俳優陣の頑張りにも拍手を送りたい。実は私は岡田さんを映画のスクリーンで観るのは初めて。同じ原作者による「永遠の0」も岡田さん主演だが、そちらもまだ観ていないのだ。そんな訳で初めて観た岡田さんの、20代から90代までの鐵造を演じ切ったその演技力には唸らされた。もはやジャニーズと言って鼻で笑うような人は私を含めていないのではないだろうか。その演技は一流俳優のそれだ。年齢に合わせて声色が替わり、鐵造の出身地である福岡訛りも私にすんなりと届いた。そもそも、最近のハリウッド作品で嫌なところがある。舞台が英語圏でないのに、役者たちが平気で英語を喋っていることだ。だが、本作ではそのあたりの
配慮がきちんとされていた。鐵造の福岡訛りもそうだし、GHQの将校の英語もそう。これはとてもうれしい。

他の俳優陣のみなさんもいちいち名前はあげないが、若い時分の姿から老けたところまでの、半纏を羽織って海へ乗り出して行く姿と背広を着てビジネスマン然とする姿、オイルタンクに潜って石油を組み上げる姿の喜びようなど素晴らしい演技で本作を支えていた。あと、ユキを演じた綾瀬はるかさんの演技も見逃すわけにはいかないだろう。ユキは、原作と違ってが何も言わず鐵造の元を去る。つまり、それまでのシーンで陰のある表情でその伏線を敷いておかねばならない。そして綾瀬さんの表情には決意を秘める女性のそれが刻まれていたと思う。その印象が観客の印象に残っていたからこそ、車椅子に乗った鐵造が大姪から見せられたスクラップブックと二人で撮った写真を見て慟哭するシーンの説得力が増すのだ。

本作を観たことで、俄然俳優岡田准一に興味がわいた。時間ができたらタオルを用意して「永遠の0」を観ようと思う。

’2017/01/07 イオンシネマ新百合ヶ丘


ローグ・ワン スター・ウォーズ・ストーリー


It is a period of civil war. Rebel spaceships, striking from a hidden base, have won their first victory against the evil Galactic Empire.
During the battle, Rebel spies managed to steal secret plans to the Empire’s ultimate weapon, the DEATH STAR, an armored space station with enough power to destroy an entire planet.
Pursued by the Empire’s sinister agents, Princess Leia races home aboard her starship, custodian of the stolen plans that can save her people and restore freedom to the galaxy….

ここに掲げた文はStar Wars Episode Ⅳの冒頭、あのテーマ音楽の調べとともに奥へと流れていく文章だ。本作は、ここに記されたエピソードが描かれている。

直訳がパンフレットに載っていたので転載させて頂く。

大戦のさなか。
秘密基地を発った反乱軍の複数の宇宙船が、邪悪な銀河帝国に対して初の勝利を収めた。この戦いの中で、反乱軍スパイは帝国の究極兵器の秘密設計図を奪うことに成功する。それはデス・スターと呼ばれる、惑星をも破壊するのに十分な威力を備えた、武装宇宙ステーションだった。
設計図を受け取ったプリンセス・レイアは、人々を救い、銀河に平和を取り戻すべく、自身の宇宙船で故郷へと向かうが、帝国の邪悪な特使に追いつかれてしまったのだった・・・

Star Wars Episode Ⅳは、1977年に封切りとなったシリーズ第一作。第一作にしていきなりエピソードⅣというのも意外だった。しかしエピソードⅣから始めることによって、第一作でありながら練り上げられた世界観を観客に期待させる効果はあった。その広がりが世界の映画ファンによって支持され、空前のヒット作となったことは周知の事実だ。

後年、エピソードⅠ~Ⅲも映画化されたのだが、それはダースベイダーという稀代の悪役の誕生に焦点が当てられていた。それによって、肝心のエピソードⅣの冒頭に流れたプロローグが宙ぶらりんになったままだった。しかも大仰な割にはミサイル一発で木っ端微塵になってしまうなど、最終兵器にしてはデス・スターってもろすぎちゃう? という観客からの突っ込みどころも満載の一作だった。

本作は、そういったエピソードⅣの矛盾や忘れられていた点を全て解消する一作だ。外伝という形にはなっているが、エピソードⅣ~Ⅵのファンにとっては、エピソードⅠ~Ⅲよりも重要な一作かもしれない。

だが、本作にとっては外伝という体にしてよかったのではないだろうか。Star Warsサーガというプラットホームに載りながら、新たな作品世界を作り出すきっかけになったのだから。

私は例によって一切の事前情報無しに観にいった。事前にあれこれ情報を仕入れると、無心に観られない。そして、無心な私が観た本作は、期待に違わぬ思いと、物足りない思いの半々だった。

期待に違わぬ点とは、本作が忠実にエピソード3.5としての役割を果たしていたこと。エピソードⅣに矛盾点が残されたままであったことは上に書いた。その点が本作で払拭されたことはとても大きい。また、エピソードⅣで登場した懐かしい人物が現れたことにも嬉しい思いがある。まさか出てくるとは思っていなかったし、本当にそっくりだったから。

物足りない思いとは、Star Warsの枠組みにあまりにも忠実であったことだ。昨年、エピソードⅦ-フォースの覚醒が公開された。このときに思ったのも同じく、Star Warsの世界観からはみ出ることに臆病になってはいないか、ということだ。せっかく外伝という位置づけを与えられたのだから、もう少し枠組みを外すような冒険があっても良かったように思う。

しかも、フォースの覚醒と同じく、こちらも女性が主人公となっている。正直なところ、本作があまりにもStar Warsの世界観を踏襲していたことで、フォースの覚醒の印象が少し薄らいでしまったようにすら思っている。

ただ、フォースの覚醒の印象が薄らぐぐらいに、本作のキャスティングは良かったと思う。主人公のジン・アーソを演ずるフェリシティ・ジョーンズはとても良かった。フォースの覚醒でレイを演じたデイジー・リドリーの印象を薄めるほどに。さらに共演者たちもいい感じの演技だった。なかでもチアルート・イムウェを演じたドニー・イェンと、ベイズ・マルバスを演じたチアン・ウェンがとても印象的だった。元々Star Warsには日本の侍や武士道、時代劇が影響を与えていることは有名だ。だが、このところ公開されたエピソードⅠ~ⅢやⅦからはその要素が薄れていたのではないだろうか。ところがこの二人の東洋的な容姿、とくに禅にも通ずるジェダイ・マスターの神秘的思索的な雰囲気を纏ったチアルート・イムウェの登場は、東洋的な思想を漂わせていた旧三部作を思い出させる。このキャスティングと彼ら二人の演技によって、本作がエピソードⅣの正統なプロローグであることが証明されたように思う。

あと、本作のラストでは旧三部作でお馴染みのあの方が当時と変わりない様子で登場する。実際には別の俳優が演じたらしいのだが、そのメイク技術には驚くほかはない。その方のお名前はエンド・クレジットのSpecial Thanksに登場していた。おそらく本作にもなんらかの形で協力したのだろう。

それにしても、本作でもっとも印象に残ったのは、デス・スターの攻撃が惑星に与える影響だ。惑星の一点に攻撃が行われただけで、核爆発のようなきのこ雲が沸き立ち、衝撃波が惑星の表面を全て壊滅させてしまう。これは、地球に巨大隕石が落ちたときの地球破滅のCGのようだ。今までのStar Warsに出てくる爆破シーンは、通常の戦闘の爆撃や宇宙空間での爆発、あとはデス・スターによる星の丸ごと爆破だろうか。今回、デス・スターによる惑星表面への攻撃が、星を木っ端微塵にせず、惑星表面を全て覆うような破滅の表現で描かれたのは印象に残った。多分それがリアルな惑星破壊の有様なのだろう。

’2016/12/18 イオンシネマ新百合ヶ丘


マダム・フローレンス! 夢見るふたり


この映画は、観る人のさまざまな感情を揺り動かす映画かもしれない。喜怒哀楽。観終わった観客はいろいろな想いを抱く事だろう。私もそうだった。私の場合は二つの相反する想いが入り混じっていた。

一つは、夫婦愛の崇高さへの感動。もう一つは、表現という行為の本質を理解しようとしない人々への怒りと悲しみ。

一緒に観に行った妻は感動して泣いていた。本作でヒュー・グラントが演じたのは、配偶者の夢を支えようとするシンクレア・ベイフィールド。その献身ぶりは観客の心を動かすだけのものはある。ヒュー・グラントのファンである妻はその姿に心を動かされたのだろう。

一方、メリル・ストリープ扮するマダム・フローレンスは純真そのもの。自分に歌手としての天分があり、自分の歌声が人々の癒しとなることを露ほども疑っていない。だが、彼女の無垢な想いは、NYポスト紙の劇評によって無残に汚されることになる。その劇評は、カーネギーホールで夢叶えた彼女のソロリサイタルについて書かれていた。彼女の無垢な夢は、叶った直後に汚されたことになる。そればかりか、その記事で彼女は現実を突きつけられることになる。人々が自分の歌声を嘲笑っており、自分は歌手に値しない存在という容赦ない現実を。夢を持ち明るく振舞うことで長年患っていた梅毒の進行をも止めていた彼女は、現実を突きつけられたことで気力を損ない、死の床に追いやられる。彼女が長い人生で掴んだものは不条理な虚しさでしかなかったのか。その問いは、観客によっては後味の悪さとして残るかもしれない。

籍は入れてなかったにせよ、最愛の伴侶のために25年もの長きにわたって献身的にサポートしてきたベイフィールドの努力は無に帰すことになる。ベイフィールドの献身的な姿が胸に迫れば迫るほど、救いなく死にゆく彼女の姿に観客の哀しみは掻き立てられるのだ。

だが、彼女の不条理な死は本当に救いのない死、なのだろうか。君の真実の声は美しい、と死に行く妻に語る夫の言葉は無駄になってしまったのだろうか。

ラストシーンがとても印象に残るため、ラストシーンの印象が全体の印象にも影響を与えてしまうかもしれない。だが、ラストシーンだけで本作の印象を決めてしまうのはもったいない。ラストシーンに至るまでの彼女は、ひたむきに前向きに明るく生きようとしている一人の女性だ。たとえ自らが音楽的な才能に恵まれていると勘違いしていようとも、才能をひけらかすことがない。ただ健気に自らをミューズとし、人々に感動を与えたいと願う純真な女性だ。

彼女の天真爛漫な振る舞いの影に何があったのか。時間が経つにつれ、彼女の人生を覆ってきた不運の数々が徐々に明らかになってゆく。そして、彼女を夢の世界にいさせようとする懸命な夫の努力の尊さが観客にも伝わってゆく。

明るく振る舞う彼女の人生をどう考えるか。それは、本作の、そして史実のマダム・フローレンスへの評価にもつながるだろう。彼女が勘違いしたまま世を去ることこそ彼女の人生への冒涜とする見方もある。彼女の脳内に色とりどりの花を咲かせたままにせず、きちんと一人の女性として現実を認めさせる。そして、そんな現実だったけれども自分には愛する夫が居て看取られながら旅立てるという救い。つまり、彼女を虚しいお飾りの中に住む女性ではなく、一人の人間として丁重に見送ったという見方だ。

私には、本作でのメリル・ストリープの演技がそこを目指しているように映った。一人の女性が虚飾と現実の合間に翻弄され、それでも最期に救いを与えられる姿を演じているかのように。

実際、本作におけるメリル・ストリープの演技は、純な彼女の様子を的確に表現していたように思う。リサイタル本番を前にした上ずった様子。ヤジと怒号に舞台上て立ちすくみ、うろたえる姿。幸せにアリアを絶唱する立ち姿。それでいて、その姿を能天気に曇りなく演ずるのではなく、自らを鼓舞するように前向きに生きようとする意志をにじませる。そういった複雑な内面を、メリル・ストリープは登場シーン全てで表現する。まさに大女優としての技巧と人生の重みが感じられる演技だ。本作では髪が命の女優にあるまじき姿も披露している。彼女の演ずる様は、それだけでも本作を観る価値があると言える。

ただ、私にとって彼女の演技力の成否が判断できなかった点がある。それは、マダム・フローレンスが音痴だったことが再現できているのか、ということだ。

そもそも、マダム・フローレンスは音痴だったのだろうか。実在のマダム・フローレンスの音源は、今なおYouTubeで繰り返し再生され、かのコール・ポーターやデヴィッド・ボウイも愛聴盤としていたという。カーネギーホールのアーカイブ音源の中でもリクエスト歴代一位なのだとか。そういった事実から、彼女の歌唱が聞くに耐えないとみなすことには無理がある。

音源を聴く限りでは、確かに正統な声楽の技術から見れば型破りなのだろう。コメディやパロディどころではない嘲笑の対象となったこともわかる。でも、病的な音痴という程には音程は外していないように思える。むしろそれを個性として認めても良い気がするほどだ。コール・ポーターやデヴィッド・ボウイが愛聴していた理由は知らないが、パフォーマーとして何か光るモノを彼女の歌唱から感じ取ったに違いない。

そう考えると、メリル・ストリープの歌唱がどこまでオリジナルを真似ていたのか、彼女の歌唱が音痴だったかはどうでもよいことになる。むしろ、それをあげつらって云々する事は彼女の音楽を浅薄に聴いていること自ら白状していることに他ならない。つまりは野暮の極みということ。

だが、本作を理解するには彼女の歌唱の判断なしには不可能だ。歌唱への判断の迷いは、本作そのものについての判断の迷いにも繋がる。冒頭に、観る人のさまざまな感情を揺り動かす映画かもしれないと書いたのは、その戸惑いによるところが大きいと思う。

その戸惑いは、彼女を支える男性陣の演技にもどことなく影響を与えているかのように思える。配偶者のシンクレア・ベイフィールドに扮するヒュー・グラントの演技もそう。

シンクレア・ベイフィールドは、単に自己を犠牲にしてマダム・フローレンスに尽くすだけの堅物男ではない。俳優の夢を諦めつつ、舞台への関わりを断ち切れない優柔不断さ。彼女が梅毒患者であるため性交渉を持てないために、妻合意の上で愛人を他に持つという俗な部分。また、彼の行いが結果として、伴侶を夢の中に閉じ込めたままにし、彼女の人生を冒涜したと決め付けてしまう事だって可能だ。それこそ体のいい道化役だ。 単なる品行方正な朴念仁ではなく、適度に人生を充実させ、気を紛らわせては二重生活を続けるベイフィールドを演ずるには、ヒュー・グラントは適役だろう。

複雑な彼の内面を説明するには、マダム・フローレンスの歌唱を内縁の夫としてどう評価していたか、という考察が不可欠だ。本作でヒュー・グラントはそれらのシーンを何食わぬ顔で演じようとしていた。だが、彼のポーカーフェイスがベイフィールドの内面を伝え切れたかというといささか心もとない。とくに、彼女の歌唱の上手い下手が判断できなかった私にとってみると、ベイフィールドの反応から、彼がどう感じていたかの感情の機微がうまく受け止められなかった。裏読みすれば、ベイフィールドの何食わぬ顔で妻を褒める態度から25年の重みを慮ることが求められるのだろうか。

また、彼女のレッスンやリサイタルにおいて伴奏を務めるコズメ・マクムーンの役どころも本作においては重要だ。

初めてのレッスンで彼は部屋を出るなり笑いの発作に襲われる。だが、ベイフィールドからの頼みを断れず、恥をかくこと必至なリサイタルに出ることで、ピアニストとしての野心を諦める。カーネギーホールでの演奏経験を引き換えにして。そういった彼の悩みや決断をもう少し描いていればよかったかもしれない。

具体的には、マダム・フローレンスがいきなりマクムーンの家を訪ねてきて、彼女の中の孤独さに気づくシーンだ。あのシーンは本作の中でも転換点となる重要な箇所だと思う。あのシーンで観客とマクムーンは、マダム・フローレンスの無邪気さの中に潜む寂しさと、彼女が歌い続けるモチベーションの本質に気づく。マクムーンがそれに気づいたことを、本作はさらっと描いていた。しかし、もう少しわかりやすいエピソードを含めて書いてもよかったのではないか。そこに、彼女の歌唱が今なお聴き続けられる理由があるように思うのに。

なぜ、マクムーンが彼女に協力する事を決めたのか。なぜ一聴すると聴くに耐えないはずの彼女の歌唱がなぜ今も聴き継がれているのか。なぜ、リサイタルの途中で席を立った記者は辛辣な批評で彼女の気持ちを傷つけ、その他の観客は席を立つ事なく最後まで聴き続けたのか。なぜ、最初のリサイタルでは笑い転げていたアグネス・スタークは、野次る観客に対し彼女の歌を聴け!と声を挙げるまでになったのか。

歌うことは、自己表現そのものだ。彼女の歌には下手なりに彼女の音楽への希望がこめられている。そして苦難続きだった前半生から解放されたいという意志がみなぎっている。その意志を感じた人々が、彼女の歌に愛着を感じたのではないだろうか。彼女の歌がなぜ、愛されているのか。その理由こそが、ここに書いた理由ではないだろうか。

‘2016/12/4 イオンシネマ新百合ヶ丘


グランド・イリュージョン 見破られたトリック


2016年も残り四ヶ月になり、ようやくの初観劇で観たのが本作である。観劇活動が低調な2016年を象徴するかのように、本作は鉄則から外れた形で観てしまった。鉄則というのは、必ずシリーズ物は第一作から観始めること。それは私にとって全てのメディアを通しての鉄則。本も映画も舞台も含めて。なのに、本作の前作となるグランド・イリュージョンを観ることなく、パート2である本作から観てしまった。

これは私にとっては忸怩たるところだ。もちろん、制作側はパート2からでも楽しんでもらえるように作っているはず。それは当然だ。だがそうは言ってもシリーズ物で毎回物語の背景の説明はしない。むしろ省くのが定石だ。前作を観た方にとってみれば、背景説明は冗長でしかない。それは映画そのものへも悪印象を与えかねない。なので、前作を観たという前提で製作者は続編のシナリオを書く。本作にも当然のように前作を観た方にしか分からない描写があった。私としてはもどかしい思いを持ちながら本作を観た。それはもちろん制作側の非ではなく、前作を観ずに本作に臨んだ私の責任なのだが。

だが、前作を観ていない私にとって救われることがたった一つだけある。それは、本作と前作を比較せずに楽しめる事だ。一緒に観た妻は前作を観たという。妻によれば、本作は前作で受けたほどの新鮮味はなかったとか。ただ、前作に比べてアクションシーンが増えた印象があったという。アクションシーンについては、私にも少し猥雑な印象をもった。それは、本作の舞台の多くがマカオだったことも関係しているのかもしれない。

猥雑な都市と洗練されたテクノロジー空間の対比。本作はその点が鮮やかだったように思う。一粒の塵すら存在し得ない計算された空間が、エネルギー溢れるカオスなマカオに潜む。そんな本作の設定は、もちろんジョン・M・チュウ監督が意図したことに違いない。本作はアクションシーンの多くがマカオで繰り広げられる。その一方でフォー・ホースメンによる精妙なカードの手妻捌きはIT空間で繰り広げられる。最後のグランド・イリュージョンすらもマカオではなくロンドンという洗練された都市で行われる。その対比があまりに分かりやすいのが、少しだが本作の欠点なのかもしれない。

また、フォー・ホースメンの5人(なぜ5人なのにフォーなのかは知らない)たちの演技は、スタイリッシュなあまり、まとまりすぎていたキライがあった。なんというか、タメがないというか、遊びがないというのか。それは主人公が五人にばらけてしまったため、私の視点が散ってしまったことにも原因があるのかもしれない。または、トリックにだまされまいとする私の気負いのせいかもしれない。ディランと父の挿話や、敵と味方に別れたマッキニー兄弟の掛け合い、ジャックとルーラの恋の芽生えなど、よく見れば面白いシーンがあるのに、そこにスッと入り込みきれなかったのが惜しい。もう一度本作は観てみなければと思っている。

一方で、敵方の出演者はいずれも個性派揃い。とくにダニエル・ラドクリフはハリー・ポッターを演ずる以外の彼をスクリーンで見るのは初めて。とても興味を持っていたが、残念ながら小粒な印象が拭えなかった。顎鬚を生やしていたとはいえ、彼の童顔がそう思わせたのだとしたら、気の毒だ。でも、演技面では悪役になるにはもっとエキセントリックな感じを出したほうがよいように思える。それぐらい敵役としては少し印象が薄かった。とはいえ、敵役でバックにつく二人が名優中の名優だったからそう思ったのかもしれない。マイケル・ケインにモーガン・フリーマン。この二人の重厚感溢れる演技はさすがと思わされるものがあった。この二人の存在がなければ、派手な展開の続く映画自体の印象も上滑りしてしまい、後に残らなかったのではないかとすら思えたから。でも、ダニエル・ラドクリフには子役出身の役者として是非成功してほしいと思っている。

また、私が気になったのは、主要キャストからは漏れてしまっているが、マカオの世界最高のマジックショップオーナーの老婆。途中まで全く英語が使えず、広東語で話していたのが、実は英語がぺらぺらという役柄。それは
フォー・ホースメンを見極めていたという設定。それがすごく自然で、素晴らしいと思った。調べたところ、ツァイ・チンという中華民国出身の女優さんのようだが、この方を知ったのも本作の収穫だ。お見事。

しかし結局のところ、本作の魅力とはマジック描写のお見事さに尽きる。作中のいたるところで見られる本場のテクニックには魅了された。これらマジックはVFXなどの視覚効果ではなく、実際に我々が体験できるマジックなのだという。つまり人はいかにしてだまされやすいか、という実証でもある。私は手品に騙され易い人と自認しているからそれほどのショックはないが、大方の人もやはり本作に仕掛けられたマジックには騙されるのではないだろうか。「あなたは必ず、爽快にダマされる。」というコピーには偽りはないといえる。

また、本作は結末がいい。本筋のトリックのネタはきれいに明かすが、ストーリーとして最後になぞを残す演出が余韻を残すのだ。本作を観た誰もが、カーテンの後ろには一体何が・・・?という思いを抱くことだろう。聞くところによると、本作は続編の制作が進行中なのだとか。私もそれまで第一作を観、可能なら本作を再度観、備えたいと思う。

‘2016/9/13 イオンシネマ新百合ヶ丘


杉原千畝


2015年。戦後70年を締める一作として観たのは杉原千畝。言うまでもなく日本のシンドラーとして知られる人物だ。とかく日本人が悪者扱いされやすい第二次世界大戦において、日本人の美点を世に知らしめた人物である。私も何年か前に伝記を読んで以来、久しぶりに杉原千畝の事績に触れることができた。

本作は唐沢寿明さんが杉原千畝を演じ切っている。実は私は本作を観るまで唐沢さんが英語を話せるとは知らなかった。日英露独仏各国語を操ったとされる杉原千畝を演ずるには、それらの言葉をしゃべることができる人物でないと演ずる資格がないのはもちろんである。少なくとも日本語以外の言葉で本作を演じていただかないとリアリティは半減だ。しかし、本作で唐沢さんがしゃべる台詞はほとんどが英語。台詞の8割は英語だったのではないだろうか。その点、素晴らしいと感じた。ただ、唐沢さんはおそらくはロシア語は不得手なのだろう。リトアニアを舞台にした本作において、本来ならば台詞のほとんどはロシア語でなければならない。しかも杉原千畝はロシア語の達人として知られている。スタッフやキャストの多くがポーランド人である本作では、日英以外の言葉でしゃべって欲しかった。迫害を受けていた多くの人々がポーランド人であったがゆえに英語でしゃべるポーランド人たちは違和感しか感じなかった。そこが残念である。しかし、唐沢さんにロシア語をしゃべることを求めるのは酷だろう。最低限の妥協として英語を使った。そのことは理解できる。それにしてもラストサムライでの渡辺謙さんの英語も見事だったが、本作の唐沢さんの英語力と演技力には、ハリウッド進出を予感させるものを感じた。

また、他の俳優陣も実に素晴らしい。特にポーランドの俳優陣は、自在に英語を操っており、さらに演技力も良かった。私は失礼なことに、観劇中はそれら俳優の方々の英語に、無名のハリウッド俳優を起用しているのかと思っていた。だが、実はポーランドの一流俳優だったことを知った。私の無知も極まれりだが、そう思うほどに彼らの英語は素晴らしかった。ポーランド映画はほとんど見たことがないが、彼らが出演している作品は見てみたいものだ。かなりの作品が日本未公開らしいし。

だが、それよりも素晴らしいと感じた事がある。本作はほとんどのシーンをポーランドで撮影しているという。ポーランドといえばアウシュヴィッツを初めとしたユダヤ人の強制収容所が存在した国でもある。本作にもアウシュヴィッツが登場する。ユダヤ人の受難を描く本作において、ポーランドの景色こそふさわしいと思う。そして合間には日本の当時の映像を挟む。それもCGではなく当時の映像を使ったことに意義がある。刻々と迫る日本の敗戦の様子と、それに対して異国の地で日本を想い日本のための情報を集めながらも、本国の親独の流れに抗しえなかった千畝の無念がにじみ出るよい編集と思えた。

また、本作においては駐独大使の大島氏を演じた小日向さんの演技も光っていた。白鳥大使こそは日本をドイツに接近させ、国策を大いに誤らせた人物である。A級戦犯として裁かれもしている。しかし本作ではあえてエキセントリックな大使像ではなく、信念をもってドイツに近づいた人物として描いている。この視線はなかなか新鮮だった。単に千畝のことを妨害する悪役として書かなかったことに。千畝の伝記は以前に読んだことがあるが、白鳥氏の伝記も読んでみたいと思った。

だが、本作を語るにはやはり千畝の姿勢に尽きる。なぜ千畝がユダヤ人に大量のビザを発給したのか。そこには現地の空気を知らねばならない。たとえ日本の訓示に反してもユダヤ人を救わずにはいられなかった千畝の苦悩と決断。それには、リトアニア着任前の千畝を知らねばならない。満州において北満鉄道の譲渡交渉に活躍し、ソビエトから好ましからざる人物と烙印を押されたほどの千畝の手腕。そういった背景を描くことで、千畝がユダヤ人を救った行為の背後を描いている。実は北満の件については私もすっかり忘れていた。だが、関東軍に相当痛い目にあわされたことは本作でも書かれている。そしてそういった軍や戦力に対する嫌悪感を事前に描いているからこそ、リトアニアでの千畝の行為は裏付けられるのである。

戦後70年において、原爆や空襲、沖縄戦や硫黄島にスポットライトが当たりがちである。しかし、杉原千畝という人物の行動もまた、当時の日本の側面なのである。千畝以外にも本作では在ウラジオストク総領事や日本交通公社の社員といったユダヤ人たちを逃すにあたって信念に従った人々がいた。それらもまた当時の日本の美徳を表しているのである。日本が甚大な被害を受けたことも事実。日本人が中国で犯した行為もまたほんの一部であれ事実。狭い視野をもとに国策を誤らせた軍人たちがいたのも事実。しかし、加害者や被害者としての日本の姿以外に、千畝のような行為で人間としての良心に殉じた人がいたのもまた事実なのである。軽薄なナショナリズムはいらない。自虐史観も不要。今の日本には集団としての日本人の行動よりも、個人単位での行動を見つめる必要があるのではないか。そう思った。

‘2015/12/31 TOHOシネマズ西宮OS


スター・ウォーズ フォースの覚醒


本作を一言でいうとファンによるファンのための完璧な続編である。

実は本作を観る前、この数日を掛けて旧三部作を全て観てからスクリーンに臨んだ。観るのは16年以上ぶりにだろうか。かつてはそれぞれを10回以上見るほど好きだったにも関わらず、今回見直してみると演出のテンポが遅いところや妙にわざとらしい箇所があったり、そもそもロボットの動きがコマ送りのように不自然だったりと、かつての記憶も若干美化されていたらしい。

J.J.エイブラムス監督による本作の内容については、指摘すべき点もない。あえていうなら、あまりに続編として出来過ぎていて、ストーリーに新たな驚きがないことだろうか。エピソード4や6を彷彿とさせるシーンが随所に見られる。旧三部作のファンとしてはぐいぐいと画面に引き込まれ、嬉しくなるばかりだ。本作は映像の美しさや演出のテンポなど文句もない。旧三部作に敬意を払いつつ、その不自然な点も修正されているとなれば猶更である。しかし敬意のあまり、旧三部作を踏襲してしまっており、それが新たなる三部作の始まりにあたって新味が薄いという批判にもつながるかもしれない。

本作の中で旧三部作との違いを書くとすれば、BB-8の動きだろう。これは旧三部作にも新三部作にもなかった技術の進化の賜物だ。このところの映画にSF的な最新技術の描写がほとんどないことは、先日の007 SPECTREのレビューでも書いた。本作でもそれは同じである。同じどころか、逆に古びたレトロ感を大きく出している。使いこまれたヘルメットや戦闘機など、これでもかと古い道具が出されてくる。しかしBB-8は新たな動きとともにR2-D2を彷彿とさせる。

また、本作で登場したフィンは帝国の雑魚キャラストームトルーパーから逃亡した人物である。今まで新旧三部作を含め、雑魚キャラであったストームトルーパーが描かれたことはほぼない。しかし本作ではストームトルーパーからの視点が新しい視点として物語に効果を与えている。

さらに、旧三部作に日本の要素が強いことは良く知られている。ジェダイとは日本語の「時代」が語源という話も有名だし、ダース・ベイダーのマスクのモデルとされる伊達正宗公の鎧も見たことがある。しかし本作からは日本的な要素は殆ど失われている。むしろ本作からはケルト民族やドルイド教の要素が感じられた。

しかし結局のところ、スター・ウォーズサーガとはストーリーが肝のシリーズだ。旧6作をはじめ、スピンオフも多数作られたシリーズは、その全てのストーリーに最大限の魅力がある。壮大なサーガの正当な続編として描かれた本作は、新旧6作にない新たな対立軸が打ち出されている。それが何かはここでは書かないほうがよいだろう。だが、旧三部作のファンであれば是非見ておくことをお勧めしたい。

骨太のストーリーを活かすのは俳優たちの演技あってこそである。それがまた実に良かった。特に新たに本作でヒーロー・ヒロインとなった二人は実に素晴らしいと云える。新たなる三部作に相応しい。これからも楽しみとしたい。特にラストシーンでは不覚にも涙がでそうになった。次作へとつながる素晴らしくも重要なシーンといえる。

最後に一つだけネタばらしする。本作に登場するレイア姫は実に美しかった。実は昨年、レイア姫を演じたキャリー・フィッシャーが本作出演に当ってダイエットを命ぜられたという記事を読んだ。そういう事前知識があっただけに、一体どんな風に変貌を遂げてしまったのか、心配だった。しかし本作のレイア姫は実に美しかった。

’2015/12/23 イオンシネマ新百合ヶ丘


007 SPECTRE


東西冷戦、宇宙開発、冷戦後の情勢、最新技術。007は、常に時代を取り入れ、スクリーンに映し出す。ダニエル・クレイグのボンドになってからの007も最初の2作は、最新の技術を惜しげもなく展開していた。例えば、スタイリッシュなオープニングシーン。クレイグ版のボンドは、オープニングシーンだけで素晴らしい映像美が楽しめる。ここだけで映像技術の最先端が味わえること間違いないほどの。ボンドがスマホを自在に扱う姿や巨大なタッチパネルを自在に操る様子からはIT技術の最先端が読み取れた。それこそ、どんなSF映画よりも未来の技術を先取りしている、それが007だった。

が、前作のスカイフォールからは、意図してか、時代に007を合わせていない。仕掛けもストーリーも内省的なボンドに合わせて原点回帰している気がする。仕掛けについてはあまりにITの技術発展が早すぎて、作中でどう活かすか決め切れていないのではないか。前作スカイフォールからQ役がベン・ウィショーへと替わっている。IT技術が全盛の今は年輩のQよりも若々しいQのほうが、リアリティがあってよい。ベン・ウィショー扮するQはIT技術を活かすのにふさわしい外見で、はまり役といえる。それにも関わらず、映画の仕掛けからはIT技術が遠ざかっているように思えるのは皮肉だ。本作でもCがMにドローンを使えば007など不要と言い放つ台詞がある。つまり、007はもはやITの進展には追い付けない。そのことを自覚し、方向転換を宣言した台詞ではなかったか。

007の製作陣もそういった時代の空気の変化を敏感に察知し、007の中におけるITの役割を控えめにしたと思われる。IT技術の替わりにここ2作で目立つのはボンドの内面描写である。ボンド自身の過去に潜む秘密を抱えながら、ボンドがどう振る舞い、どうスパイとしての自分を律してゆくのか。本作でも寡黙でありかつ僅かに揺れるボンドの内面が見事に描かれている。先ほど、CがMに対して語る台詞を紹介した。それに対してMがCに対して返答する台詞がある。ドローンもその他IT技術をいかに使おうとも、結局殺すか殺さないかを決めるのはボンド自身だと。この台詞に製作者たちの想いの一つは凝縮されているといえるだろう。

ITのような小道具に頼らないと決めたのであれば、どうすべきか。それは、アクション映画の本分に力を入れることである。本作のアクションシーンは、007の50年間のエッセンスを詰め込んだごとく素晴らしい。特にオープニングアクトの「死者の日」のソカロ広場上空でのシーン。死者に扮した多数のエキストラがソカロ広場を逃げ惑い、広場上空では不安定に錐もみするヘリコプターの中で壮絶なアクションが繰り広げられる。このシーンだけでも観客は手を握り締め、固唾を呑むに違いない。万が一失敗したらエキストラもただでは済まないはずだが、縦に横に360度旋回するヘリコプターの映像はCGが使われている気配は感じさせないほどリアルだった。見事である。

また、ローマの街中でのカーチェイスも良かったし、オーストリアの雪山のランドローバーと飛行機の追跡シーンも良かった。それらシーンに登場するのは、ミスター・ヒンクス。元総合格闘技家の迫力をフルに活かしての立ち回りは歴代のボンド悪役でも随一ではないか。最後にボンドが勝つと思いながらも、「ボンド危うし」と思わせたのはさすがである。デイヴ・バウティスタというこの役者には注目したい。

だが、もちろん本作の黒幕はミスター・ヒンクスではない。スペクターの首領であるあの方である。血を汚す仕事は部下に任せ、首領たるものあくまでスマートにスタイリッシュに、という意図は分かる。分かるのだが、少し演技を抑制しすぎのように思えた。クリストフ・ヴァルツは私が興味を持っている役者で、本作でも「イングロリアス・バスターズ」で魅せたあのナチス将校の冷静と狂気を揺れる絶妙な演技を期待していただけに、そこは少し消化不良。まあ007の黒幕に共通するのは知的で冷静な振る舞いである。その役作りに縛られてしまったと云ってしまえばそれまでだが。

さて、007といえば、Qの新技術や悪役以外にも楽しめる要素がいろいろある。まずは冒頭。かつての007には必ずあったシーン。左からは銃口が、右からは歩いてくるボンド。重なった瞬間左に振り向き観客へ発砲する。このシーン、ダニエル・クレイグ版では初めて使われたのではないか。これは正直いって嬉しい。50周年の節目ということもあったのだろうか。

さらにオープニングシーン。映像美の見事さは上に書いたが、今回のサム・スミス歌う主題歌がなかなか良かった。007の主題歌は、歴代あまりキャッチーさは求められておらず、007の世界観を壊さないものが多かったように思う。(とはいえ、私が一番好きな007の主題歌は、キャッチーなa-haのThe Living Daylightsやデュラン・デュランのA View To A Killなのだが)。が、本作のサム・スミスの主題歌は久々になんか来た気がする。本作のオープニングシーンが、ここ3作とは違い、煌びやかな演出ではなかったためかもしれない。ここ3作は映像美だけでぐっとスクリーンに引き込まれてしまい、音楽に意識が行かなかった。しかし、本作は映像とともに主題歌も脳内に入ってきた。

続いてボンド・ガール。今回はモニカ・ベルッチという意表をついたところで来た。すでに大分年齢を重ねられているようだが、妖艶さはさすがというところか。とはいえ、最近のご本人の出演作はほとんど観ていない。時間があれば観たいと思うのだが。そして入れ替わるように後半のボンド・ガールを務めるのはレア・セドゥ。最近よくスクリーンでお見かけする。確かミッション・インポッシブルにも出ていなかったっけ?007とミッション・インポッシブルの両シリーズでヒロインを張るって凄いことだと思う。上にも書いたがここ2作の007は技術を追うのではなく、内面描写に重点が充てられている。ヒロインが超格闘技のような活躍をすれば興ざめになってしまうが、今回もその辺りの演技は自然体のようで素晴らしいと思った。

最後に、ジェームズ・ボンド。今までの007と違い、ダニエル・クレイグのボンド作は全て劇場で観ている。切れのある動きや抑制された内面など、私は凄く素敵だと思っている。本作の終わり方は、ダニエル・クレイグ勇退を思わせるような感じなのだが、報道で観る限りではまだ続投するとか。どっちなのだろう?いずれにせよ、次回もまた彼がジェームズ・ボンドに扮するのであれば是非観に行きたいと思う。

’2015/12/19 イオンシネマ新百合ヶ丘


PAN ネバーランド、夢のはじまり


最近の映画には、有名な物語を題材にした内容が多い。それも単純なリメイクではない。その物語があまりにも世間に広まっていることを逆手に取っていることが多い。例えば内容を解釈しなおしたり、製作秘話を紹介したり、さらには前日譚を披露したり、といった趣向だ。映画製作者にとっては金鉱を掘り当てたに等しい題材なのだろう。

今日観た「PAN ネバーランド、夢のはじまり」ピーターパンもそう。有名なピーターパンの内容の前日譚、いわばプロローグを創造したのが本作だ。ピーターパンの製作秘話については、すでに映画化されている。ジョニー・デップが戯曲の原作者ジェームス・マシュー・バリーに扮した「ネバーランド」がそうだ。内容のレベルが高く、感動させられた一作だった。私も泣かされたものだ。だが、その内容は大人向けであり、子どもには若干伝わりにくかったと思われる。

だが、本作は子供に伝えることを第一に考えた内容となっている。なぜピーターパンは、フック船長と始終争っているのに、笑っているのか。なぜ彼らの戦いはどことなくのどかで、トムとジェリーみたいなのか。ピーターパンはいつからネバーランドにいるのか。どうやって空を飛べるようになったのか。本作ではそれらの秘密が明かされる。ピーターパン好きにとってはたまらない一作だろう。

母親によって孤児院に預けられたピーターは、子供時代を孤児院で過ごす。母が恋しくて仕方ないピーターは、ある日、ドイツ軍によるロンドン空襲の最中、孤児院の地下で母が自分宛に送った手紙を見つける。親友のニブルとシスターからのいじめに耐えるピーター。ここら辺りまでは暗い色調の落ち着いた雰囲気で話が進む。

そしてその空襲の後、話は一気にファンタジー溢れる場と化す。空飛ぶ海賊船が孤児院上空にやってきて、孤児院は子さらいの場と化す。ニブルは連れ去られる間際に孤児院へ飛び降りたが、ピーターはそのまま空飛ぶ海賊船に乗って黒ひげの下へと連れ去られる。黒ひげは、大規模に奴隷を使って妖精の石ピクサムの採掘をさせつつ、妖精の粉の不老効果を浴び続けている。そこでピーターと知り合ったのが、フックと名乗る男。作業監督のスミとともに、採掘所からの脱出に成功し、部族の集落へと向かう。そこで自らが部族の伝説の少年であることを知らされるピーターは、母もまた部族に所縁をもつ人であることをしり、部族で母と合うことを求める。そこへ黒ひげが襲来し、妖精の王国までもが黒ひげによって蹂躙されてゆき・・・・という話。

つまり、ここにはフック船長vsピーターという図式は出てこない。悪役はヒュー・ジャックマン扮する黒ひげなのである。フック船長はギャレット・ヘトランドが爽やかに演じている。そこには手鉤もなければヒゲもない。フック船長のイメージを全く新しい物として提示したのが本作の演出で一番工夫した点かもしれない。ピーター・パンとフック船長は、本作においては仲間であり戦友なのである。なぜピーターパンは、フック船長と始終争っているのに、笑っているのか。なぜ彼らの戦いはどことなくのどかで、トムとジェリーみたいなのか。その2つの疑問は、本作を観ていると解消されることになる。

ピーター・パンの物語の登場人物への思い入れが強ければ強いほど、スクリーンの登場人物が生き生きとして見える。なので、俳優陣にはかなり高いハードルが課せられる。その点、残念ながら私にとって、本作の俳優陣の演技はそれほど役のイメージと合わなかったといわねばなるまい。いや、イメージというよりか、俳優間の掛け合いの間合いがしっくりこなかった。そこが残念であった。特にミスター・スミはフックに協力するかと思えば、黒ひげの手先となって妖精の王国のありかを教えるなど忙しい役である。ドジでのろまな愛敬ある悪役の手下のイメージを作り上げたといえばミスター・スミ。これには同意いただける方も多いのではないか。しかし本作でのミスター・スミの繰り出す様々なボケが少し間を逸していたのだ。黒ひげとの掛け合いでもフックやピーターとの掛け合いでも。そこが残念であった。また、掛け合いの間がずれているように思えたのは、フック船長とピーター、タイガー・リリ-の間での掛け合いもそう。私の求める間合いと劇中の彼らの間合いのずれは最後までとうとう解消されないままだった。

それはフック船長のイメージが異なり過ぎていたといったことでもない。タイガー・リリーがイメージ的に妖艶過ぎたためでもない。なぜだろう。

黒ひげのヒュー・ジャックマンの演技は格別で、抑揚とアクセントの効いた悪役っ振りは素晴らしかった。また、リーヴァイ・ミラー扮するピーターは、その瞳の美しさやスクリーンでの立ち居振る舞いすべてがピーター・パンのイメージそのままで、素晴らしいものがあった。それだけにこのずれが私の中で惜しいと思わされた。

このずれの原因は分からないが、あるいはこういうことかもしれない。本作の中で、全てのピーター・パンの話は明かされる訳ではない。たとえばフック船長の手鉤。様々なミュージカルやアニメによって右腕にもなったり左腕にもなったりしているという手鉤の由来は本作では出てこない。また、フック船長とピーター・パンが争うようになった理由。これも本作では提示されていない。伏線的なものすらない。この違和感が余韻となって、本作内での俳優たちの掛け合いの違和感を強調させたのかもしれない。

とはいえ、本作の美術効果や音楽効果は素晴らしい物があった。特に第二次大戦中のロンドンの様子や孤児院、ネバーランドや妖精の王国など、見事というしかない色彩の使い方で、美術の素晴らしさは見るべきものがあった。また、音楽面でも見逃せない。特に、NIRVANAの「Smells Like Teen Spirit」に独創的なアレンジを施して黒ひげの登場シーンに流したセンスは唸らされた。まさか第二次大戦やファンタジーの王国の話で、NIRVANAが流れるとは。他にもラモーンズも使われていた。

ひょっとしたら第二弾が作成され、その中で先に書いた手鉤や争いの理由が書かれるのかもしれない。そうしたら、また娘たちと観てみようと思う。本作でリーヴァイ・ミラー少年が演じたピーター・パンの瞳は、そのぐらい魅力的だった。

’2015/11/1 イオンシネマ新百合ヶ丘


ミッション:インポッシブル ローグ・ネイション


小学生が観る映画じゃない。小6の娘は友達にこう言われたらしい。本作のことである。しかし、それでもミッションインポッシブルが観たいという娘。噂のスタントを観たいと思った私の希望が一致し、二人で観に行ってきた。

小学生が観る映画じゃない、という声のとおり、夕方の回だったにも関わらず、7割がた埋まった劇場の中で子供は娘一人だけ。しかし、本作は小学生の子どもにも見せられる作品と言ってよいと思う。このシリーズの良いところは、スタイリッシュなところである。スリリングだし、手に汗握る展開の連続なのだが、残虐な死体は転がらず、拷問シーンも皆無。お色気シーンも全くない。そもそも激しいアクションシーンの連続のはずなのに、トム・クルーズの顔には殆ど血も痣も現れない。ヒロインのレベッカ・ファーガソンにしてもそう。ラストで少し痣が見える程度。

本作の売りは俳優自らが体を張ったスタントシーンにあるはず。窓ガラスに飛び込むシーンが何度もあるにも関わらず、顔がきれいなままなのはいかがなものだろうかと疑問を抱いた。

とはいえ、本作はもともとアクション映画ではなくスパイ映画である。スタイリッシュに諜報し、相手の情報を盗む。スパイの本分はアクションにあらず。そう思えばよいと思う。だが、本作のアクションシーンが凡庸でないのは周知の通り。本作で出てくるカーチェイスや離陸する飛行機に飛び乗るシーンは、アクション映画も真っ青。上空を飛ぶ飛行機の扉の枠に手を掛けて飛ぶシーン、6分ほど息を止めて水中を潜るシーン、ウィーンのオペラハウスから飛び降りるシーンなど、トム・クルーズとレベッカ・ファーガソンのお二人のスタントなしの体当たり演技にはただただお見事というしかない。そして相当高度であろうそれらのシーンを撮影する技術の凄さも忘れてはならない。

観た所、エンドクレジットに出ていたスタントの方は10名ほど。あれだけのアクションシーンでこれだけの数のスタントマンしか使っていないということは、スタントなしの看板に偽りなしと言える。

実は私は、本シリーズを映画館で見るのは初めて。だが、本作は、劇場の大スクリーンで見てこそ、俳優の命がけの演技が堪能できるというもの。今までの4作をレンタルでしか観ていなかったことが悔やまれる。

観終わった後、ミッションインポッシブル凄いという娘の言葉を10度以上聞いただろうか。実は本作が、娘にとって映画館で観た初めての大人向け映画となった。だが、大人の世界の入り口として、決して悪くない選択だったと思っている。

’2015/9/13 109シネマズグランベリーモール


日本のいちばん長い日


70年前、日本のいちばん長い日に日本の将来を憂い、かつ、戦後の日本のために命をかけて動いた人々がいた。そして、丁度70年後の8/14から15日にかけて、私はスクリーンを通し、それら人々の動きを食い入るように見ていた。

「阿南さんのお気持ちは最初からわかっていました。それもこれも、みんな国を思う情熱から出てきたことです。しかし阿南さん、私はこの国と皇室の未来に対し、それほどの悲観はしておりません。わが国は復興し、皇室はきっと護持されます。陛下は常に神をお祭りしていますからね。日本はかならず再建に成功します」

これは、原作から抜粋した鈴木首相の台詞である。手元に原作がなく、Webソースからコピーしたが、本作ではこの台詞やそれに対する阿南陸相の返答はほぼ同じ内容で再現されていた。70年前、日本の復興を信じた人々の思いを噛みしめるように、再建成った日本の安全な映画館で本作を見られる幸せを実感した。

本作は、戦後70年を掛けて成し遂げた日本映画の最高峰といえるのではないか。俳優陣の演技は圧巻だし、美術や時代考証、衣装など文句のつけようもない。本作のパンフレットには、ロケ地や衣装、美術、音楽、時代考証などの解説が載っている。そこから読み取れるのは、監督やスタッフの凄まじい熱意である。熱意と、モデルになった人々に対する敬意あってこその本作と云える。

本木雅弘さん演ずる昭和天皇は、その容姿や所作など今まで様々な俳優によって演じられた昭和天皇の中でも、後世の基準となるかもしれない素晴らしさである。今まで昭和天皇が日本人監督によってこれほど真正面から撮られたことは無かったのではなかろうか。そこには畏れ多さもあったことだろう。しかしもう70年である。昭和天皇が崩御されてからもすでに四半世紀以上の時が過ぎた。これからは歴史上の人物として取り上げられていってよいと思う。
本作で本木さん演ずる昭和天皇は、超越したような孤高の雰囲気が劇中一貫して保たれていた。また、昭和天皇が戦前、統帥権と立憲君主としての立場の狭間にあって、意思表示すらも自制していたことはよく言われる。意思表示をぎりぎりまで抑えながらも毅然とした決断を述べる部分など、当時の昭和天皇が抱える制約や苦悩を良く演じ切っていたと思う。鈴木総理との以心伝心で終戦の聖断を下したシーンなど、当時の実際を垣間見ているようにすら思える。実は私はもっくんの演技を観るのは、ドラマも含めて初めてなのだが、素晴らしい俳優であると思った。
東条元首相への謁見で、サザエの貝殻を軍隊に例えた東条元首相の比喩を一蹴するシーンやナポレオンを引き合いに出して、東条元首相を窘めるシーンがあった。原作を読んだ記憶ではそのようなシーンは無かったように思えるが、パンフレットによればサザエのシーンは原田監督の演出だとか。そこまで突っ込んで東条元首相を諌めた史実はなかったように記憶しているが、監督の解釈として興味あるところだ。

阿南陸相を演じた役所広司さんも、また素晴らしい演技であった。阿南陸相と役所さんの容貌は、個人的には本作に登場する人物の中で一番ギャップがあったように思う。しかし、それすらも気にならなくなるほどに役所さん演ずる阿南陸相は素晴らしかった。阿南陸相は子煩悩な家庭第一の人としてよく知られている。そういった家庭的な温かみと、陸軍にあって人望を備える厳しさとの両立が演じる側には必要となる。阿南陸相は、陸軍の暴発を抑えるために和戦両様の腹芸を打つといった、本作にあって一番難しい「やくどころ」だと思うが、さすがに芸名に相応しく見事に本作を引き締めていた。ちなみに私にとっての阿南陸相は、命を懸けて和戦の釣り合いをぎりぎりまで見極めた、日本史に残る軍人であり役者だと思っている。日本史の中でもっともっと評価されてよい方だと思っている。機会があれば墓前にも参拝したいとも思っている。それゆえに、自刃直前に言ったとされる「米内を斬れ!」が本作では割愛されていたことが少しひっかかった。本作中でも米内海相との丁々発止のやりとりもあり、原作ではたしかその台詞はあったように思うのだが・・・勘違いかな。

鈴木貫太郎首相は、私にとってまた思い入れ深い方である。昨年の秋、一人で旧関宿町の鈴木貫太郎資料館を訪問した。墓前にも参拝し、その人間的な広い器の一端に触れさせて頂こうと思っていた。その際に得た鈴木首相の印象と、山崎努さん演ずる姿は見事に一致していた。まさに俳優の芸の深さに頭が下がる想いである。鈴木首相もまた、和戦両様の構えで新聞や軍を煙に巻き、聖断へと持ちこんだ人である。戦前の華々しい軍果の数々もそうだが、敗戦後の日本にとっても欠かす事のできない方である。しかし、私が昨秋に資料館を訪問した際は、私以外2人しか訪問者がおらず、実相寺の墓地には私以外誰もいなかった。今では全く世の中から忘れられてしまった方なのだが、本作を通じて再び見直されることを強く願う。故鈴木首相が在任中の失敗として述懐していることとして、ポツダム宣言への「黙殺」報道がある。本意として「黙殺」ではなかったのに、そのように海外には報道されたことで、ヒロシマ・ナガサキの悲劇が起きた。本作の中では「黙殺」との台詞が出ているが、そのあたりの経緯も描かれている。原作ではどのように描写されていたのか覚えていないが、気になるところである。

松坂桃李さん演ずる 畑中健二少佐もまた見事であった。早口な台詞など、追い詰められ、触れれば切れる刃のような状態にあった彼らの様子は、このような感じだったろうと思わせる。宮城事件を起こした将校たちの狂気紙一重の純粋さがなければ、陸軍の暴発を恐れるがゆえに腹芸を打った昭和天皇、鈴木首相、阿南陸相の行動にリアリティが生まれない。得てして後世の平和な我々にとって、あの時、原爆を落とされ、ソ連が参戦するぎりぎりの状況にあってもなお国体護持に拘る姿勢、陸軍の暴発を極度に恐れる姿勢は、非現実的に思える。陸軍将校たちが唱える本土決戦の非現実さを笑うのは、後世の平和な我々には簡単である。しかし、当時の純粋育成された軍将校にとっては、開戦以来、島嶼部の戦闘以外で負けていないのに戦争を放棄することなどありえない。そのような事情は鑑みるべきだろう。ましてや満州や中国に数百万の将兵を温存出来ていたとするならば。そのあたりの狂気紙一重の純粋さを演じ切っていた松坂桃李さんは私にとってほとんど初見の俳優さんなのだが、今後興味を持って観て行きたいと思う。

堤真一さんの迫水久常書記官長役もまたよかった。昭和天皇とはまた違う、現場の空気に染まらず、冷静に客観的に見るその演技は、なんとなく私自身の仕事上のそれに通ずるところがあり、共感できた。会議の仕切りなど事務方の取りまとめ役の所作を、見事に演じていたと思う。ただ、どこか私にとって腹に落ち切れていない部分があり、それが何か考えていたのだが、ようやく分かった。上に挙げた歴史上の人物は、大抵他の著作や伝記などで触れた経験があるのだが、迫水氏については、全く読んだことがないのだ。終戦時の日本を取り上げた文章にあって、迫水氏はほぼ登場するにも関わらず、人物像に焦点を当てた文章にはまだお目にかかったことがない。他の方々の演技は私の腹に完全に落ち、そのイメージとの一致に膝を叩く思いだったのに、迫水氏だけは現実の氏のことをほとんど知っておらず、これは一度関連書籍を探して見なければ、と思った。

本作は、70年後の日本人が当時の日本を描写している。そのため、日本を描写したハリウッド作品とは、時代考証に求められるレベルが違う。各段の厳密さが求められるのは当然である。私のような素人の現代史好きにとって、ロケ地や衣装、美術、音楽、時代考証などで本作におかしな点は見られなかった。本作は、東京を舞台としたシーンが多いが、関西のロケ地が多いという。だが、観ていて違和感は抱かなかった。
関西のロケ地の中でも私に縁のあるロケ地が二か所あった。一つは、天皇の居室や吹上御所として登場した甲子園会館。ここは私の実家から徒歩数分の場所にあり、普段は武庫川女子大のキャンパスとして使われている。幼少時から外観はよく見ているのに、まだ中に入ったことは一度もない。数年前の帰省の際に外観はじっくりと観たが、本作を観て強く館内を見学したくなった。もう一つは、滋賀の五箇荘にある藤井彦四郎邸である。ここは4年前、一人で訪れ、邸内にも入った。本作では阿南陸相の三鷹の邸宅として使われており、観劇中は全く気付かなかった。あとでパンフレットを観て藤井彦四郎邸であることに気付いた次第。これは悔しかった。そのほか、京都御所や舞鶴の旧東郷邸や神戸税関など、関西人としては嬉しい場所が多数ロケ地で使われていたことがパンフレットに載っていた。本作は間違いなくDVDが発売されるだろうし、私も買い求めると思うが、劇場で観られない方もパンフレットだけでもお買い求めることをお勧めしたい。

また、本作の様な内容は、云い方は悪いが簡単に観客を泣かせることが可能といえる。しかし、あえてそういう演出を採らなかったことに逆に監督の真摯な想いが伝わってきたように思える。もちろん昭和天皇の胸を打つ言葉、鈴木首相の達観したような凄味、阿南陸相の温かみと国を思う想いなど、胸が熱くなるシーンは沢山ある。阿南陸相の妻が三鷹から空襲下の東京を陸相官邸まで駆けつけ、最期に間に合わなかったものの、戦死した子息の最期の様子を物言わぬ遺体に切々と語りかける場面など、観る方によっては号泣必至かもしれない。しかし、彼らが命を懸けて得た日本の繁栄に安住している私のような観客からみると、ただただ感謝の気持ちが胸を満たすのである。

’15/8/14 イオンシネマ 新百合ヶ丘


ベイマックス


原作は日本人6人が主人公という設定の「ビッグ・ヒーロー・シックス」。本作はヒーローを5人とし、主人公のヒロ・ハマダ以外は各国人という設定にリメイクしたものである。

5人のヒーローものといえば、40~50代の日本人にとってはお馴染みである。それはガッチャマンであり、ゴレンジャーであり、デンジマンとして記憶に沁みついている。本作はその路線を踏襲し、近未来の世界に舞台を移している。近未来といっても荒唐無稽なものではなく、現代の技術を拡張させた世界観に沿っている。

ストーリー自体はそれほど凝った設定ではない。兄の死というトラウマを抱えた主人公が、ロボットと仲間の助けを借りて、兄を死に至らしめた陰謀へと立ち向かっていく筋である。昔の戦隊モノでは、のっけから当たり前のように悪役が存在していた。ギャラクターしかり、黒十字軍しかり、ベーダー一族しかり。しかし本作ではきちんと悪役が存在するための理由づけがされている。昨今の複雑な背景設定に慣れている観客を意識した改変といってよいだろう。

ある程度背景設定されているとはいえ、単純に快活に楽しめるのが、本作である。本来ならば余計なことは考えず、ただ楽しむのが本作のもっとも幸せな鑑賞方法だろう。現に中2の娘も、今までに見たディズニーの作品で一番面白く、感動したといっていた。だが、それだけだと私も本作を見た記憶を忘れてしまうので、もう少し穿ってみるとする。

本作の主人公ヒロ・ハマダは日本人で13歳にして大学を飛び級入学できるだけの頭脳の持ち主。従来のヒーローは自らをバージョンアップさせない。大抵は007ことジェームズ・ボンド・シリーズにおけるQのような他人の助けを借り、衣装やメカや武器の開発は他人任せ。が、本作の主人公ヒロは、その頭脳でもって自らをチューンナップさせ、バージョンアップさせることができる。本作の主要製作陣の中には日本人はいないようだが、家電・電子分野で落ち目と言われて久しい日本人の過去のイメージが、本作でのヒロのように保たれているのは嬉しい限りである。3Dプリンターの進化系と思しき装置を13歳の少年が自在に操作する姿に、日本人として面映ゆく思ったのは私だけだろうか。海外から持たれている頭脳・技術立国としての我が国のイメージ。それを将来の日本が守り続けて欲しいと思うばかりである。

ただ、サンフランソウキョウという、サンフランシスコの日本人街をベースとした都市のイメージには違和感が残った。日本を舞台にしなかっただけまだましなのだが、近未来のイメージとはいえ、欧米の日本を舞台にした作品によくある勘違い日本観でなければよいのだが。五重塔や日本語の看板が林立するサンフランシスコのイメージがどうにもしっくりこない。仮に近未来のサンフランシスコをそういう設定にしたとすれば、そこまで日本文化を受け入れてもらってよいのか、逆にこそばゆく感じる。まあ、そこは素直に日本の技術とアニメ文化にオマージュを捧げた作品として、本作を楽しんでも良いのではないかと思う。エンドロールにはAIのStoriesも採用されているし。

原作をまだ読んでみたことがないのだが、一度どのようなものか、読んでみたいと思った。なんでもアイヌ民族出身者もいるとか。ケイシチョーという名字の登場人物もいるとか。興味が増す一方である。

’15/2/8 イオンシネマ新百合ヶ丘


ドラキュラ Zero


冒頭から白状すると、今まで記憶にある限り、ドラキュラに関する映画は一本も見たことがない。映画のみならず、舞台や小説ですら記憶にあまりない。精々、トマトジュースを好み、「~ざます」「坊ちゃま」が口癖のドラキュラが記憶に残る程度である。つまり、本作が私にとってドラキュラ開眼第一作となる。

もっとも、見たことがないとはいえ、ドラキュラに関する最低限の知識は持ち合わせていた。トランシルバニアの領主としてヴラド・ドラキュラという人物がいて、後世伝えられる怪物的なイメージとは違い、英明な人物だったとか。その一方で戦争時には敵兵を串刺しにするといった行為を行ったとか。いわゆる悪魔的なドラキュラは、史実をもとに誇張し脚色された架空の人物であり、史実のヴラド公は別の存在であると分けて考えていた。

本作では、ヴラド公がどのようにしてドラキュラとして後世に恐怖される存在になったのか。キャラクター誕生のプロローグを一本の長編として描いている。マレフィセントもそうだが、最近こういった設定の作品が目立つ気がする。が、私は実はこのような趣向は好みである。

人が悪に身を染める時、何を理由とするのか。今までの伝説や童話の類では、それは単純な理由で片づけられていた。その人物に、持って生まれた悪としての本分が備わっていたとでもいうように。このあたりを突っ込んでいくと、まだまだ面白い泉が隠れており、本作は見事は源泉を掘り当てたともいえる。

本作では、悪に身を染める理由を家族愛として取り上げている。強大なオスマン帝国からの侵略から家族と国民を守るため、悪の力を借りる、というのが主なテーマとなっている。テーマを全編で貫くため、悪の力を借りるに至っての設定に様々な工夫を凝らしており、全編として脚本的に矛盾なく見事なドラマ作品として完成している。その設定の工夫において、俗に知られるドラキュラ像の弱点やイメージも崩さずに、矛盾なく仕上げているのが素晴らしい。もちろん、脚本を一貫するためには、史実にも手を加えており、本作でも敵役となるメフメト2世の最期は、史実ともっとも食い違っている描写だろう。しかし、家族愛というテーマを貫くには、その選択で良かったのではないかと思う。

本作を彩る俳優陣の演技も良かったのだが、存在感で一頭群を抜いていたのは、やはり主役であるヴラド・ドラキュラ公を演じたルーク・エヴァンス。たぶん初めてスクリーンでお目にかかったのだが、私の思うドラキュラ公に近いイメージである。

話は少しそれるが、故栗本薫さんの代表作として、グイン。・サーガという大河小説がある。その中にアルゴスの黒太子スカールという人物が登場する。文庫本の中で加藤直之画伯によるスカールの肖像画の挿絵が何度か登場するが、その容貌が、本作のルーク・エヴァンスの顔とよく似ているのである。そういえば、グイン・サーガには、ヴラド・モンゴールという大公も登場するし、史実のヴラド公が収めていたワラキアに似たヴァラキアという地名も登場する。本作を観ている間、グイン・サーガの世界観が脳内にちらつくのを止められなかった。

閑話休題。

ルーク・エヴァンスの家族を想う演技とアクションシーンのコントラストも良かったが、愛する妻のミレナの美しさ、そして夫と息子を愛する彼女の演技は見事なものがある。また、息子を演ずるアート・パーキンソンの父を想う演技も見事であった。この二人の演技がなければ、ヴラド公の家族を想う心が空回りしてしまうところであった。そして、出演者ではないが、特殊効果も見事なものであった。もはや映画には当たり前のものとなった特殊効果で、本作も目を惹いた新機軸が披露されていた訳ではない。それでも、全体的に暗めのトーンが続く本作で、特殊効果の貢献は多大なものがあると思う。

一つだけ、苦言を描くとすれば、エピローグである。人によっては意見が分かれるところだと思うが、まさか続編のドラキュラ Oneでも作るのでなければ、あれは無くても良いかも。出したい気持ちもよくわかるのだが。しかし、ドラキュラ初心者の私にしてみれば、エピローグはなくとも、本編は入門として、他のドラキュラ作品を観てみたいと思わせるに十分なものであった。映画史の中で、どれが一番よくできたドラキュラ Oneなのか、非常に興味あるところである。

’14/11/2 イオンシネマ新百合ヶ丘


STAND BY ME ドラえもん


誰もが知るドラえもん。日本を代表する漫画を一つ選べと言われれば、多くの人がドラえもんを選ぶのではないだろうか。私にとっても、幼少時から親しんできた漫画であり、金曜日に放映されていたアニメとともに、しっかりと刷り込まれている。確かてんとう虫コミックの1巻も持っており、冒頭部の妙に太り気味のドラえもんも覚えている。

このところあまりテレビも見ないし、ドラえもんの長編映画からも遠ざかって30年ほどになる私だが、トヨタのCMで実写版のドラえもんやのび太が登場しているのは知っていた。そこに来て、本作で3D化されると映画館の予告で知り、なんだかとても観に行きたくなった。今回は次女の希望で観に来たのだが、私自身も子供の頃に親しんだドラえもんの世界に浸れるのを楽しみにしていた。

本作は、私のような大人にこそ捧げられた映画である。大人というよりも、大人になった今、封じ込めようとしている内なる子供に向けた内容である。本作のストーリーには特に新しい点は見られない。冒頭の登場シーンを含め、有名なシーンが随所に出てくる。それら有名な短編のエピソードをつなぎ合わせたのが本作である。なので、まだドラえもんを知らない子供にこそ、入門編としてお勧めできるが、大人にとってはストーリー面で物足りないと感じるかもしれない。

だからといって、本作が有名キャラクターを用いた’70年代礼賛の単なる焼き直し映画かというとそうでもない。本作にはドラえもんを始め、主要キャラも野比家も3D化されて出てくる。そういった最新技術を用いて焼き直されたものかというとそれも違う。

本作は、大人の記憶の奥深くに眠る記憶を掘り起こすこと。これに専念しているように思える。それもあってのストーリー展開であり、映像技術ではないだろうか。のび太の部屋は3D化でより現実の感覚に近い形で登場し、ジャイアンが愛のリサイタルを開く空き地も土管付きで懐かしい風景として登場する。また、随所に多摩川の河川敷と小田急と思われるシーンが登場する。街並みのシーンもまた、実写合成しているのではと思えるほどリアルで、現実感覚に同期されるようだ。つまり、今の大人が日々の現実の風景と、子供時代に観ていた風景とテレビの前で観ていたドラえもんの画像が本作の中で結びつくのである。街並みの描写も70年代を思い出させる建物の作りであり、道行く車や郵便配達など、随所に懐かしく思える風景が精緻な3Dで登場する。本作を観ていると、忘れかけていた懐かしい想い出があふれ出るのを止められない。

ストーリーも有名な場面をつなぎ合わせていると書いたが、それゆえにのび太の駄目さ加減も改めて思い起こされる。が、大人になってみると、子供の頃に観ていた時には気付かなかったことに気付く仕掛けになっている。実はのび太が凄いやつだったのではないか。ジャイアンに殴られ、スネ夫に馬鹿にされ、出木杉に劣等感を抱く日常。テストでは毎回0点で、廊下に立たされる日々。そんな毎日でも、のび太は遅刻寸前でも家を飛び出して学校に向かって走る。殴られながらもジャイアンやスネ夫たちと空き地で遊び、しずかちゃんからは呆れられつつも、健全な仲良い友達である。そこには陰湿ないじめも、IT機器に逃げ込む孤独な人間関係からも無縁である。周りからいじめられても馬鹿にされてもへこたれない強い心。道具の力を借りながらであったとしても、実はのび太とはすごいやつではなかったか、と日々の仕事や家事で疲れ果てた大人は気づくのである。

本作ではしずかちゃんとのび太の結婚式前日のエピソードも挿入されている。しずかちゃんのパパがしずかちゃんに語りかける場面が、本作の一番の泣き所なのだが(私もホロリとした)、「特に取柄がなくても、人を思いやる優しい心こそが人間として一番大事、彼を選んだ選択は間違っていない」という部分。仕事で人間関係に疲れ、長所を伸ばすことよりもミスを隠すことに汲々とし、出世競争を強いられる大人には一番心に来るメッセージではないだろうか。子供の頃の純な気持ちを取り戻そうよ、ということである。

なお、最後に本作の見せ場であり、同時に欠点である描写について一つ。しずかちゃんとのび太の結婚式前日に未来に行ったのび太とドラえもん。ここで展開される未来描写は素晴らしい。首都高と思われる緑看板にチューブ物流システムなど、今の我々にとっても未来予想図であり、決して荒唐無稽でない未来風景が展開されている。随所に大企業のビルと思われる建物や新交通システムが登場し、笑いを誘う。このシーンはもう一度スクリーンで見てみたいと思った。が、70年代ののび太生活風景から19年後にこの未来風景では、あまりにも描写がかけ離れてはしまいか。西暦2000年頃の、今の我々から見ると過去の時点を未来と提示されても興ざめだし、多分監督さんも悩んだだろうと思われる。野暮な指摘は言いたくないが、その事情も承知でやはり気になったので書いておく。

だが、そんな事は本作の本質とは無縁である。本作を観ると、実家の押し入れ深くに眠っているかもしれないドラえもんをもう一度読みたくなる。そういえば、向ヶ丘遊園の藤子不二雄ミュージアムにはまだ一度も行ったことがないなぁ。行って全巻読破したいなあ。子供の頃のように寝そべって。

’14/9/13 イオンシネマ多摩センター


魂のリアリズム 画家 野田弘志


写実画。現実と寸分たがわぬ姿を再現する表現法である。目を中心に五感を最大限に働かせ、最新の手先の技術を駆使し、現実を別の次元であるキャンバスに写し取る。素晴らしい作品ともなると、その場の様子ばかりか、時間や匂いまで再現されており、ただ魅入るばかりである。私も抽象画よりはどちらかというと写実画の方が好みである。

だが、最近のIT技術の進展は、素人でも簡単に現実の一瞬を写し取ることを可能にした。デジカメの力を借りて。ディスプレイの画素を通し、プリンタから印字した紙の上で、人々はいとも簡単に現実の断面を鑑賞する。一見すると、画家が精魂込めた作品を、素人が労せずに再現しているようにも思える。写実画とはなんのために存在するのか、と疑問を持つ向きも多いだろう。写実画が好きな私にしても、心の片隅でそのような疑問を持たなかったと言えばうそになる。

本作は、現代日本にあって写実画の第一人者とされる野田弘志氏に焦点を当てたドキュメンタリー映画である。野田氏の製作過程や芸術・美に対する考え方などが、71分という短めの尺に凝縮されている。前にも書いた写真と写実画の違いについては、本作が雄弁に語っている。

雄弁に語ると書いたが、本作は解説のセリフをだらだら流すだけの、教則ビデオのようなものではない。むしろ逆である。台詞は極限までそぎ落とされ、静謐と思えるほどの間が全編を通して流れる。ギターやチェロによる効果音楽も合間に流れるが、野田氏の製作過程の場面では、静寂、または時計のチクタク音のみが流れる。真摯な眼差しと手先の筆さばきがアップで映され、観客は、スクリーン全体で雄弁に語られる写真と写実画の違いを受け止める。そのあたり、本作では音響の使い方が実に適切である。監督を始めとするスタッフの真摯な仕事ぶりが本作で取り上げられている内容に反映されているのが感じられる。

本作冒頭で、野田氏の代表作の数々が映し出される。本作の中心に据えられるのは『聖なるもの THE-IV』という鳥の巣をモチーフとした作品である。野田氏のアトリエ近くに設えられていた野生の鳥の巣を巨大キャンバスに再現した一枚。本作ではその製作過程を中心として進行する。当初見つけた時は巣の中に1個の卵だったのが、2個になり、5個になり、5羽の雛が孵る。が、ある日野田氏が見てみると巣ごと忽然と消えていたという。おそらくは他の動物に雛ごとさらわれたのであろうと野田氏は語る。生と死をテーマに据える野田氏は、その誕生の尊さと、その儚さについて、生き永らえることのなかった雛たちの生が、キャンバスに永遠に残ることを願う。

製作過程はこうである。まず、デジカメで精緻な写真を撮影する。そしてキャンバスを自らの手で貼りつける。次にデジカメ写真を2m×2mほどのキャンバス大まで拡大する。拡大の際は、下書き用の写真なので複数の用紙に分割して印刷し、それをテープで貼り合わせる。キャンバスにカーボン紙を貼り付け、その上に先ほど貼り合わせた写真を載せる。あとはそこから輪郭などを線描ですべて書き込んでいく。毛布やタオルやクッションを駆使しての重労働である。終われば、書き込んだ内容がカーボン紙を通してキャンバスにうっすらと写し取られている。キャンバスを今度は可動式の台に垂直に立て、撮影した写真を観ながら、正確に写しつつ描いていく。

野田氏は語る。ただ写すだけでなく、デフォルメなどは自身の解釈も含めると。眼前にある美を目に映ったままに再現するのではなく、その奥に隠れている口には言えない美の本質を再現したいと。それは現実の単なる模倣ではなく、作品として魂を入れる作業である。製作過程を観ていると、本当にこれが精密な作品に仕上がるのか、と不安になるような出だしである。写真の輪郭をカーボン紙で模写した直後も、油絵具を塗り始めてからも、完成品に比べると遠く及ばない。それを野田氏は何度も粘り強く油絵具で重ね塗りを加えていく。すると絵に命が吹き込まれていく。見る見るうちに現実的なフォルムになる。色合いが写真に近づき、それを上回る。質感さえもが写真を凌駕する。

製作過程の合間に、北海道伊達市のアトリエ周辺の景色の季節の移り変わりが挟まれる。有珠山は色づき、太陽が山を鮮やかに染め、落ち葉が舞い、雪が白く覆う。野田氏はその合間にも奥様と雪かき道具を持参でゴミ捨てに行き、広島で整体師による整体治療を受け、講演を行い、絵画塾の主催者として弟子に絵の心を伝達する。画商の訪問を受け、愛弟子をアトリエに招いて絵の道を教え諭す。

野田氏はいう。一枚の絵に一年はかかると。本作もまた、一年の季節の移り変わりと、『聖なるもの THE-IV』製作過程の進展を同調させる。一年の間に野田氏がこなす様々な仕事の姿を通し、野田氏の肉声を通して、その芸術観や美に対する考え方が紹介される。

最後に入念なチェックと、署名を終えたときの、野田氏の満足げな顔が実によい。自らに向き合う魂の仕事を終えた男の顔である。この顔を観るために、もう一度本作を観ても良いぐらいである。作中で野田氏が語る一節で、イラストレーターの仕事を辞め、画家として一人立ちする決意を述べる下りと、何をどのように書きたいとかではなく、ただ絵が描きたいと思ったという下り。そして愛弟子に絵の道を諭す時の下り。仕事とはこうありたいものである。

’14/8/30 テアトル新宿


マレフィセント


眠れる森の美女。ペローやグリムによる紹介により、かなり知られている童話である。ディズニーアニメよりも前に子供用の絵本で本作に触れた方も多いことであろう。

本作は、その童話の悪役マレフィセントに焦点を当てた作品である。なぜマレフィセントはオーロラ姫に呪いを掛けたのか。一般的にはオーロラの誕生パーティーに招かれなかったから。という理由になっている。だが、本作ではマレフィセントの幼少期にまで遡り、全く違う視点からの物語を描くことで、有名な物語を根底から覆すものとなっている。

角を生やし、紫色のローブに身を包んだマレフィセント。その姿は、悪魔的なイメージそのものである。だが、本作では、冒頭から幼少期の妖精としてのマレフィセントを登場させ、意表を突く。劇場でさんざん流された予告編で、本作は、アンジェリーナ・ジョリー扮するマレフィセントの妖艶な冷笑が採り上げられている。しかし、それは製作側の仕掛けたトリックであり、予告編で植え付けられた想像は、見事にひっくり返されることになる。天真爛漫でのびやかで愛らしい妖精のマレフィセント。空を自由に疾駆し、生きとし生けるものを愛するマレフィセント。

そんな愛らしいマレフィセントがなぜオーロラに呪いを掛けるまでになったのか。予告編を観る限りではその謎解きこそが本編の大きな筋と思い込んでしまう。しかし、その見せ場は前半部分までに実現してしまう。マレフィセントが呪いを掛ける理由が筋書きとして紡がれ、呪いはあっさりと掛けられる。

本作の見どころはその後にある。マレフィセントがどうやってオーロラに関わっていくか。そして呪いは実現されてしまうのか。呪いはその後どのような結末を招くのか。

アンジェリーナ・ジョリーの表情の移り変わりから、目が離せない。ディズニーキャラクターでマレフィセントが一番好きだったと語るアンジー。製作も兼ねた彼女の渾身の役作りが圧巻である。言動以外に表情で観客に語りかけるアンジー。アクション女優のイメージが未だに抜けきらなかった私には、新たな一面を見せられた思いである。

このところ童話の翻案作が目立つハリウッドであるが、同じように目立つのが男性の卑下化である。本作もそれは例外ではなく、いたるところにそのような描写が目立つ。

だが、それはそれとしても、本作に込められた女性の情念の複雑さ。そして、アンジーの作り上げたキャラクター、マレフィセントが数百年に亘るイメージを破り、全く新たな視点からの悪役像を提供した本作。その衝撃は、一見の価値がある。

本作を機に、著名な脇役キャラを別の側面から描いた作品が出てくることを予言したい。

それにしても、ここまで西洋の物語をイメージ化した作品に出会ったことがない。西洋の持つ童話世界、アーサー王物語に始まるファンタジーの世界が見事に映像化されている。今の映像技術が西洋発祥の物が多いとすれば、それは西洋人が心に持つファンタジー世界を映像化するためだったのではないかと思う程である。

’14/7/20 イオンシネマ 多摩センター


グランド・ブダペスト・ホテル


前々からウェス・アンダーソン監督の作品は観たいと思っていた。本作が初めての鑑賞となる。

ブダペストと名のつくものの、存在しない東欧の小国にあるホテル。その栄枯盛衰を通して、古き良き時代への感傷を描く本作。全編を通して、美しきヨーロッパの栄光と退廃を味わえる映像美が印象的である。そのカメラワークは変幻自在の技を見せる。ある時はわざと書割調にして。ある時はわざとくすんだ風に。またある時はモノカラーで。それも、これ見よがしというのでない。CGを駆使した技術の押し売りでもない。あえて映画は作り物ですよ。と見せつけておいて、それでもなお見る者の心を懐かしき過去へと誘う。これはなかなか出来ないことかもしれない。この相反する感覚こそが、本作を印象付ける点である。

映像だけではない。本作の舞台は東欧の国と見せかけておいて、実は架空の国。微妙に史実と食い違うエピソードの数々が本編を覆う。そのずれが何とも言えないおかしみを本作に与える。描かれているストーリーや映像はかなりブラックなものも含まれる。それにも関わらず、くすりとした笑いが随所に挟まれている。登場人物に奇矯な行動を取るものはいない。真っ当な人々がそれぞれの人生の一片を披露する。それなのに登場人物たちをみているとなんとも言えない可笑しさが心に満ちてくる。

本作の構造は4重構造である。ステファン・ツヴァイクをモチーフとした作家の墓を訪れる若い女性。これが現代。続いて1985年。老いた老作家が自分の創作の秘密を語る。そのうちの一つのエピソードを披露する。それが1968年。壮年の作家はグランド・ブダペスト・ホテルで謎めいた老人と知り合い、その人生を聞く。その老人がホテルで働き始めたのが1932年。物語の殆どは1932年に語られる。なぜ4重構造という持って回った構成なのだろう。そもそもこの点からして一見真面目そうに見えて可笑しさがある。これもまた、監督の仕掛けた隠れた笑いの一つ。

この一風変わった物語を彩る俳優陣がまた凄い。いちいち名をあげないが、主役級の人々がずらり。その中には私が好きな俳優もいる。でも何といっても、主役のレイフ・ファインズの演技に、真面目な中に一匙のユーモアという本作のエッセンスが込められているといえるだろう。

是非とも他の監督作も観てみたいと思った。もっとも一緒に観た次女はそうは思わないかもしれない。これはあくまで大人の映画である。アナと雪の女王をもう一度見たいと言っていた次女には悪いことをしたかもしれない。「こわかった」と感想を漏らしていたし。

’14/6/8 イオンシネマ 多摩センター


アナと雪の女王


2日連続で劇場で映画鑑賞するのは久しぶりである。今日は本作を家族とともに鑑賞した。

昨日がディズニーの映画製作の裏側を描いた実写なら、今日は、ディズニー映画の王道である、アニメーションによるファンタジーである。

映画館での予告編を何度かみていて、圧倒的な氷と雪の映像、そして素晴らしい歌唱を見聞きしていただけに、期待できそうだ、という思いを持ってスクリーンに臨んだ。

果たして、映像と歌唱については、実にすばらしいものがあった。この2つを劇場で体験するだけで映画代の価値はあると思える。氷や雪の質感がCGだけであれほどまでにリアルに表現できる時代に生きていることを素直に喜びたい。IT技術の端くれで生計を立てているものとして、これ以上のCG技術の進化はありえるのだろうか、と思わせるほどであった。

歌唱についても、耳に残るだけでなく、過去のディズニー主題歌と比べてもオペラチックな盛り上がりは一頭群を抜くものがある。パンフレットに載っていたが、ミュージカル仕立ての本作にふさわしく、声優の多くがミュージカル経験者のようである。今回観たのは日本語吹き替え版だったが、松たか子さん、神田沙也加さんともにミュージカルでも活躍されていることもあり、日本語の歌も素晴らしかった。鑑賞前は、本家に比べて歌のパートが劣るのでは、と若干の不安があったがそんな失礼な心配は杞憂であり、伸び伸びとした歌いっぷりは見事なほどであった。

ただ、ストーリー面では、一連のディズニー大作に比べると、新鮮味が落ちることは否めない。アンデルセンの「雪の女王」を原案としているため、街と城、そして遠く離れた地に建てられた城とを登場人物たちが往復する、といった構成に既視感を覚えてしまうのである。ただし、それも含めて、大胆な脚色や翻案があちらこちらでくわえられており、鑑賞後の感想としては新たな物語の創出がなされた、と思える。特に結末については、見事な肩透かしを食わされた。と同時に膝を打って納得したい想いである。時代は今、家族や肉親のきずなを見直す方向に舵切っているのかもしれない。

なお、映画冒頭では「ミッキーのミニー救出大作戦」という短編アニメが上映される。ディズニーの原点であるスチームボートウィリーの世界観を活かしつつ、現代風に大幅にアレンジした本作、必見である。丁度昨日、ディズニーの基礎について学んだばかりであり、非常に嬉しい。本作だけでもDVDを購入したいぐらいである。

’14/3/22 イオンシネマ 新百合ヶ丘


ウォルト・ディズニーの約束


映画館で泣いたのはいつ以来であろう。これほどまでに泣かされてしまうとは・・・・

本作は、ウォルト・ディズニーをメインキャストとし、ディズニー社が製作する映画である。なので、劇中がウォルト礼賛、ディズニー万歳のトーンで統一されていてもおかしくない。実際その覚悟をもってスクリーンに臨んだ。

しかし、私の予想は見事に裏切られた。少しでも白けた気分にさせられていたら、これほどまでに感動しなかったであろう。

本作では、メリー・ポピンズの映画化にあたり、どうしても映画化を実現したいウォルト・ディズニーと、それを激しく拒む原作者とのやりとりを通して、原作者がメリー・ポピンズに込めた思いが解き明かされていく。

頑固女として、ディズニー側の提案のことごとくをはねつける原作者。彼女が言い募る難癖は、音楽、キャスト、色使いなど、映画全般に及ぶ。それに対して苦悩する脚本家、音楽監督、そしてウォルト・ディズニーと秘書のドリー。原作者の心をとかして、映画化を実現するにはどうすればいいのか・・・。

本作の予告編やコピーでは、その謎はウォルト・ディズニーが解き明かすかのように受け止められる。しかし、本作はそんなミステリー仕立ての安易な構成には流れない。むしろ、映画の冒頭からその謎の答えは我々観客に提示されている。それはつまり、原作者の過去である。本作にとってキーとなる原作者の過去を辿るにあたって。回想シーンはほんのちょっぴりどころではない。頻繁に挿入される。現在の映画化作業の意見の応酬がが全体の6割とすれば、過去の映像が4割ぐらいにはなろうか。

過去と現在の映像がひっきりなしにシンクロしあう中、圧巻なのは過去、原作者の父が演説をする下りである。そのシーンと、現在の映画化作業の中で、バンクス氏の銀行のシーンを作曲する過程が混ざり合う。メリー・ポピンズに込めた原作者の想いが見事に表現された演出は素晴らしいの一言である。

トム・ハンクス演ずるウォルト・ディズニーの演技も円熟の見事なものだし、エマ・トンプソン扮する原作者トラヴァース夫人は心の動きには涙をそそられた。しかし、演技力ではそれほど印象には残らなかったとはいえ、コリン・ファレルの見せた父親像こそが、メリー・ポピンズ誕生にとって不可欠なピースだと思われる。

娘の中に占める父親への思慕。これこそがメリー・ポピンズに込めた原作者の想いであり、本作が発するメッセージである。劇中、ウォルトが語る。「たとえ何年かかろうとも、娘に対する父の約束はなされなければならない」。これこそがメリー・ポピンズ映画化へのウォルトの執念の源である。自らが抱えるその想いがメリー・ポピンズに対する原作者の想いと一致することに気付いた時、謎は解かれ、物語は大団円へと進む。

本作が発するメッセージは、父と娘の関係だけではない。それは「人はみな、それぞれの事情を抱え、生きている」ということである。そんな当たり前の事実を、人はつい忘れがちである。仕事の失敗に怒り、性格の不一致をその人のせいにする。でも、人はそんなに浅い存在ではない。栄華を極めているかに見えるウォルト自身にも身の上話はあり、実直なリムジン運転手のラルフにも障害を患う娘がいる。そして愛する父を亡くした原作者の過去にも。それを理解し合い、思いあえることの大切さ。リムジン運転手のラルフも、本作のキーマンといっても過言ではない。

ウォルトに「金でハリウッドに君臨する王者」と言わせたり、冒頭で原作者がアヒルや犬、クマやネズミをクローゼットに押し込むシーンがあったりと、ウォルト礼賛で白けさせないような配慮も随所にこめられている。アナハイムのディズニーランドを登場させたり、ディズニーに思いを語らせる箇所など、斜めに構えてみれば、批判はできよう。ウォルトとて色んな噂や誹謗のネタが多数あることは承知の上。でも、それは本作の価値とは無関係である。むしろ好悪が混ざり合ってこその、夢と魔法の王国ではないか。

その意味では、「夢と魔法だけでは作れない映画がある」という本作のコピーは秀逸である。

’14/3/21 イオンシネマ 新百合ヶ丘


土竜の唄 潜入捜査官 REIJI


本作にエキストラとして出演しているのが、私の近しい人だったこともあり、妻と観に行った。

ポスターが貼ってあるのを見た程度で、本作や原作の漫画についての事前知識はほとんどない。正直、あまり期待していた訳ではない。が、予想に反して面白かった。

演出はコミカルで馬鹿馬鹿しいものが多く、大いに笑わせてもらった。笑いがシリアスな場面と絶妙にミックスされているところは、さすが三池監督である。

原作を読んでいないので分からないが、本作ではコミカル路線を打ち出しつつ、しっかりと任侠道に対する敬意が示されている。それは例えばヤクを忌避するという精神や、盃を交わす場面の重要性に示されている。

演出の愉快さだけではなく、本作に出ている俳優も一癖も二癖もある陣容であり、見逃せない。こんな人が、という人も端役で出ている。主演の生田斗真さん、名前は知っていたけれど、映画やテレビで見るのはほぼ初めて。しかも妻に聞いたらジャニーズ事務所の人だとか。ジャニーズ事務所というと私も偏見を持って観ているかもしれないが、凄まじいシーンの連続であり、役者魂を感じた。また、ナイナイの岡村さんも、そのコミカルなキャラに、かつて読んでいた静かなるドンの適役の数々が思いだされた。新境地ではないか。そしてカッコよさとしては堤真一さんである。古き良き任侠の体現者として本作では描かれている。それを、嫌味にならずさらっと演じきっている辺り、同じ同性でも憧れてしまう。本作の最後のほうの場面はご愛嬌ということで。

でもやはり私の注目は、敵役の山田孝之さん。見事に敵役を演じきってくれている。ラスト近くでアングルを逆さに、主人公をにらむシーンがある。そのアングルですら敵意が見事に伝わってくる。今の日本人俳優の中で、私が最も注目する方である。役柄毎に別人としか思えない雰囲気を身にまとうあたり、関心するばかりである。

2014/3/1 イオンシネマ新百合ヶ丘


ルパン三世VS名探偵コナン THE MOVIE


子供のころは頻繁に再放送を見ていたルパンⅢ世だが、普段テレビを観ない私の中では、名探偵コナンの前にすっかり影が薄くなってしまっていた。ところが、CS放送に活躍の場を移して新シリーズが放映され続けているそうである。喜ばしい。

ともに魅力的なキャラクター設定が売りといっていい両者。かろうじてとはいえ、現実に則った設定のコナンシリーズ。一方、現実度外視のコミック路線が持ち味のルパンⅢ世シリーズ。観る前からどちらの世界観で描かれるのか興味を持っていた。観終わった感想としてはルパンⅢ世側の世界観が勝っているように思えた。

本作では、コナンの推理が働くことはほとんどない。ルパン一味のアクション路線に、コナンとその仲間達が振り回される展開が主である。それはそれで楽しめたので問題はない。むしろ、個性ある登場人物達に見せ場を与え、ストーリーを破綻させないため、脚本にはさぞ苦労したことと察する。

そのためだろうか、コナンとルパンが最初に共演したテレビシリーズが、本作の前提として濃厚に設定されている。それなのに、前作への説明描写が省略されているのはいかがなものか。前知識なしでスクリーンの前に臨んだ私が悪いのだが、これはかなりつらい。前作の追憶シーンをエンドクレジットで流されても・・。

コナンシリーズでは必ず出てくる、子供の姿に変えられたエピソード紹介のように、前作の粗筋が冒頭で流して欲しかった。ただ、前作の内容が本編の謎解きに影響を与えているため、それが難しかったことは理解している。脚本家の難しいところである。

少し苦言を呈したが、前作への説明が省かれた点を除けば、楽しく見終わることができた。コナンだけでなく、我がアニメ大国は、ルパンⅢ世という魅力的なシリーズを持っていることを再確認できたことは大きい。2012年に放映されたという峰不二子を主役としたシリーズも見てみたいものである。

2014/1/11 109シネマズグランベリーモール


風立ちぬ


映画の内容について、ほとんど予備知識のないままに見に行ったが、素晴らしい映画であると感じた。

宮崎監督の信念と、今の日本に伝えたいメッセージはしっかりと受け止めることは出来たのではないかと思う。日本の一番暗く重い時代を、腐りもせず、自傷にも批判にも走らず、自らの仕事を全うする青年の姿に、監督が本作に込めた、今の日本へのメッセージを感じない訳にはいかない。

その時代を断罪することができるのは、同時代に生きた者にのみ許された特権である。監督もそのあたりのことは重々承知のはず。

本作の中で非難らしい非難を受けたのはナチス党であり、作中人物を通して、ならず者の集まり、とまで言わせている。それ以外は日本の軍部、会社組織、上流階級、来日中の枢軸国人、そのいずれに対しても監督の描写はあくまで中立を貫いている。その辺りに監督の配慮、そして良心を感じた。

堀越氏の生い立ちにしろ、零戦の設計者としての知識ぐらいしかもっておらず、堀辰雄の「風立ちぬ」もだいぶ前に読んで以来、ほぼ内容を忘れかけていた。

なので、本作が史実に合致しているか、については私自身それほど重要視していない。むしろ、日本が一生懸命に輝こうと悪戦苦闘していた時代の美しさを、監督が愛好する、紅の豚の世界にも似た飛行機乗りのロマンに絡めた着眼に拍手を送りたい。

どうすれば、今の日本はかつてのように輝けるのか、どうすれば少子化を克服できるのか。そして、人は何ゆえに生き抜くのか。ラスト近くで菜穂子が語りかける言葉に、全てが集約されている。

2013/8/24 イオン・シネマつきみ野


モンスターズ・ユニバーシティ


モンスターズインクの主役、マイクとサリーの出会いと修行時代を描く本作は、本編に対する外伝としての印象が強い。それは、本作がモンスターズインク3と銘打たなかった事からも分かる。

だが、物語の基本設定は変わらず、本編に出てくるキャラクターがその後どう関わってくるか、というキャラクター設定も興味深いものがある。本編が好きな人は見ても楽しめると思う。

また、仮に本編をみていないとしても、そこはピクサー。面白さは確保できている。CGも見事なもので、水辺で二人が佇むシーンの美しさといったら、CGとは思えないほど。

ただ、本作は本編に比べると、設定が小粒で、弱い者たちが団結と友情で強き者たちをくじく、といった単純なストーリーである。また、本編の世界観を忠実になぞっているために、本編を観た際に受けた新鮮な印象が薄れてしまっている。

なお、毎回、ピクサー作の短編が同時に上映されるが、今回、本編前に放映された短編「ブルー・アンブレラ」は素晴らしいものであった。

2013/8/4 イオン・シネマ新百合ヶ丘


爆心 長崎の空


「長崎」という名を聞くと、日本史に興味を持つ者の心には、様々な想いが湧く。それは、荒ぶる戦国の中に宗教に救いを求めた衆生に対してであり、世界の宗教史でも特筆される真摯な殉教者たちへの共感であり、国論が揺れた幕末に海外に雄飛を企んだ英傑についてであり、一発の原爆に生を断ち切られた被爆者達が被った運命への憤りであり。

長崎が被ってきた歴史の波は、重層的で、かつ荒いように思える。

本作では、現代の長崎に生きる人々を描く。彼らは、何を心の裡に抱え、過去の出来事にどう苛まされ、どこへ行こうと望み、誰と将来を歩もうするのか。それらの思いを淡々と、丹念に描く。

冒頭、主人公の母が心臓発作でなくなる。その悲しみに心を乱されつつ、過ぎてゆく毎日を生きてゆく北乃きいさん演ずる主人公。そして、5歳の娘を亡くして1年、悲しみから立ち直れないままの稲盛いずみさん演ずる高森砂織。本作はこの二人の女性の受難と再生がテーマである。が、そのテーマを補強するようなエピソードも複数流れている。それは、辛い被爆体験を殻に閉じ込めたままの高森砂織の両親の告白であり、柳楽優弥演ずる主人公の幼馴染の、離島の貧窮の現実からの脱出である。

登場人物たちの再生が、8月9日に起こった複数の出来事によって、どのように成し遂げられていくか。彼らの再生は、長崎の歴史とどうやって折り合いをつけるのか。

本作では複雑なテーマを扱うに当たり、御涙頂戴的な演出や、原爆投下後の酸鼻な衝撃写真も極力避け、淡々とした描写の中で感動と余韻をもたらす。

原作は未読である。が、パンフからの情報によれば、原作では6話の連作短編であり、それらを本作にまとめ、しかも主人公は映画独自の登場人物という。もはや小説とは別の、新たな作品の創造といっても過言ではないかもしれない。

今回は、友人の高校時代の同級生が日向寺監督ということで、本日、初日の舞台挨拶にお招き頂いた。監督並びに俳優の皆様、音楽担当の小曽根さん、小柳ゆきさんと、同じ空気を共有させてもらった。素晴らしい時間を共有させてもらったことに感謝。お招き頂いた友人にも感謝。

追記・・・1ヶ月ほど前、NHKの取材班の手による「原爆投下 黙殺された極秘情報」を読んだ。その中で明かされたのだが、九州方面にボックスカーが飛行していることは、事前に日本の情報班ではキャッチしていたとか。それを読んでいただけに、なおさら本作の淡々とした描写が心に沁みた。

舞台挨拶付 2013/7/20 東劇


天使の分け前


スコッチウィスキーや、スコットランドの荒涼とした景色に憧れのある私にとって、本作でスクリーンに映される本場の蒸留所内部やハイランドの景色は、それだけで及第点を与えられる。

本作を見るにあたり、労働者階級の若者が這い上がっていく姿が描かれていると知ったときは、「トレインスポッティング」「リトル・ダンサー」で作品背景として取り上げられたような、現代イギリスの矛盾についての描かれ方にも興味を持って臨んだ。

底辺からの脱出を貴重な銘酒を盗むことで果たすという、大筋とその結末は賛否あると思う。だが、それは国情も文化も違う国の事。私にどうこう云う話ではないと思う。

むしろ、本作で面白いのはウィスキーの描かれ方である。テイスティングのフレーズをコケにする。飲み残しや痰壺かわりのウィスキーを飲ませる。中身を入れ替えたウィスキーをオークション落札者に賞賛させる。オークションの前日に怪しげな相談を持ちかけられるのは、実在の蒸留所のマネージャー(その方は俳優が演じているのか、本人役なのかはわからないが)である。貴重な銘酒をまんまと盗まれるのは実在の蒸留所からである。

その一方で、テイスティングの権威として登場するのは、本物のウィスキーの権威であり、本物の蒸留所が実名で登場する。

普通に考えれば、コケにされる蒸留所は仮名だろう。スコッチの描かれ方も、名声を壊さない程度に採り上げるところだろう。だが、そうしないところが面白い。歴史の荒波を潜り抜けてきたスコットランドとスコッチウィスキーの、したたかでユーモアを大切にする精神が見え隠れする。ブームの陰で、スコッチウィスキーーの味を知らないスコットランド人の若者が増えていることを、本作を見て初めて知った。本作でスコッチウィスキーの若者離れが食い止められたとすれば、見事というほかはない。

観終わった後の後味もすっきりしていて、私も本作を観た後、無性にスコッチが呑みたくなった。(呑んだのは余市蒸留所の原酒だが・・・)

2013/6/23 川崎市アートセンター アルテリオ映像館


華麗なるギャツビー


原作を読んだのが10数年前で、かなりストーリーも忘れつつあり、ラストの哀しみだけが印象に残っていた。

本作はあのムーラン・ルージュを撮った監督が手掛けると聞き、20年代の浮かれたアメリカの豪華絢爛さが画面にこれでもかと再現されるのかと、期待と不安の相交じった気持ちで鑑賞した。あの演出は斬新だったが、あまりに多用されると、狂乱の20年代がひたすらに強調される、古き良きアメリカ礼賛の映像を見せられるだけではないかと。

結論としては杞憂であったばかりか、その演出が3D技術と相まって、実に見事な効果をあげていた。

パーティーの乱痴気騒ぎが、様々な角度と遠近感で表現され、観客がその場にいるように錯覚させるような効果。ギャツビーが対岸のデイジー宅を眺める、デイジー宅の霧に浮かぶ緑の灯台を映し出すシーンの、自分を見失った、20年代のロスト・ゼネレ-ションを体現したともいえる効果。

是非本作は3D版で観て頂きたいと思う。

映像効果だけでなく、衣装も20年代の今思えば奥床しくも、当時としては大胆極まりないモード再現しているし、一聴して、ジャズ・エイジの先鋭ぶりを表すには、当世のHipHopに偏りすぎと思える作中音楽も、現代のわれわれから聞くと、レトロ風情に聞こえてしまいがちな、当時の音楽を再現するのではなく、当世のJay-Zを起用することで、当時のジャズ・エイジのとがった感じが耳に流れ込んでくる。

俳優陣も見事である。

とくに、本作の肝である、ギャツビーの激昂場面は必見である。謎の富豪振り余裕の笑みで演じるディカプリオも素晴らしいのだが、激昂場面では、ナレーションでも殺人犯のようと述べられるほどの豹変した顔が見られる。面目躍如であり、ギャツビーとしてこれ以上望めないほどの配役である。

無論、脇を固める俳優陣も素晴らしい。ニック役のトビー・マグワイヤの抑えた演技は、一見、浮かれっぱなしに見える、この時代の背後に潜む虚しさや、ギャツビーの内面の空虚さを映し出しているし、デイジー役のキャリー・ミリガンも、体面を尊ぶ、か弱くもしたたかな当時の女性像にぴったりの演技である。

2013/6/15 ワーナー・マイカルシネマ新百合ヶ丘


藁の楯 わらのたて


とにかく俳優陣の演技が素晴らしい。とくに主人公演ずる大沢たかおさんは、プロ意識と個人的な思いの狭間で葛藤する様が見事である。

護送する側の5人のそれぞれに抱えた職務への責任と、内に隠した事情を隠してのせめぎ合いは、不自然さを少しも感じさせないし、護送される側の藤原竜也さんの、自分本位な犯罪者、くずっぷり演技は見惚れるばかり。それ以外の脇役陣についても、役柄に溶け込んでいて、演出について手抜きはない。

以前、東京国際映画祭に招待されてからというもの、日本映画を見る機会が増えたが、テレビでは見られない演技力の確かさには毎回驚かされる。

それまであまり日本映画を観てこなかったことに後悔するばかりである。

ストーリーについては、原作は未読であり、そちらを読まない限り、プロットに対する評価はアンフェアと思う。

ただ、原作では、もう少し護送する5人の側の背景が描かれていたのではないだろうか。映画化にあたっての尺の都合は理解するものの、もう少し背景が描かれていれば、と思う。

また、ラストの場面では場を盛り上げるためとはいえ、あれほどの大舞台を作り上げるのはどう考えてもおかしい。それまで積み上げてきた諸設定が台無しになってしまった気がする。せめて蜷川が顕れるのが、賞金を取り消してからなら、説得力があったのに・・・・惜しい。

でも、ラストの藤原さんのセリフは、あのセリフに本作の深みがあると思うだけに、素晴らしい。

本作があの「ビー・バップ・ハイスクール」によって描かれていたことも驚いた。いつの間にか小説家としても活躍されていたとは。本作を観て、原作も読んでみたいと思う。

最後に、、、メインスタッフの一人と以前、名刺交換をさせて頂いたことに気づいた。おそらくはあの方のはず・・・びっくり。

2013/5/18 ワーナー・マイカルシネマ新百合ヶ丘