<インターネット>の次に来るもの


本書は、これからのビジネスを考える上で、豊富な示唆を与えてくれる一冊だ。

カバーの折り返しにはこのように書かれている

「人間の歴史の中で、何かを始めるのに今ほど最高の時はない。
今こそが、未来の人々が振り返って、
「あの頃に生きて戻れれば!」と言う時なのだ。

まだ遅くはない。」

なんとも頼もしい言葉ではないか。

タイトルにもあるように、本書は技術が人類を進歩させるとの考えに基づいている。
インターネットが今まさに、世界にもたらしつつある変化。その変化は今後の私たちにどのように影響し、その変化の先にはどのようなビジネスの可能性は眠っているのか。
私たちは未知数のビジネスチャンスに向けてどのようなアプローチをとればよいのか。それを探り、読者に有益なヒントを与えようとするのが本書の主旨だ。

そう、今こそがビジネスを始めるチャンスなのだ。

言うまでもなく、ここ20年の間にインタ-ネットがもたらした変化は誰もが知っている。
だが、後からそれを批評するだけでなく、その渦中にあってそのチャンスをチャンスととらえ、ビジネスの立ち上げまで進められた人はそう多くはない。私のみすみすチャンスを逃したうちの一人だ。

だが、まだ間に合うことも確かだ。今、新たにビジネスを立ち上げれば、ブルーオーシャンが開けている。そのことも理解している。少なくとも頭の中では。

個人としての行動力はある程度は備えているつもりの私。だが、いざビジネスを立ち上げるには実力が不足している。それも自覚している。
そもそも、私はビジネスを始めようという熱意に欠けているのだろう。私に欠けたその資質は、ビジネスとして市場に問う以前の問題だ。

そこで、本書を購入した。
本書には、今のインターネットがもたらした恩恵が、今後のビジネスにどうつながるのかについてのヒントが無数に紹介されている。
著者は、ワイヤードの初代の編集長である。ワイヤードといえば、最近は影が薄くなってしまった。が、ネット創成期には一定の認知度と影響力を有していたメディアだ。まさにかつてのYahoo!のように。

そんな経歴を持つ著者だが、今の趨勢をおさえる目は確かだ。
本書の分析は最新の情報技術の動向を踏まえているし、アメリカで生まれつつある実際のスタートアップ企業の例もふんだんに紹介されている。
本書は全体を通して、相当に実用的な内容が詰まっている。2016年という、ネットの世界の時間軸では昔に出された本だが、まだ日本ではビジネスとして送出されていない話題も触れてくれている。

本書は12の章からなっている。各章には現在進行形の動詞が付けられ、それがまさに今この時にも起こっている変革を表わしている。

1、BECOMING
なっていく。

このキーワードは本書の冒頭を飾るにふさわしい。
個人が何を望もうとも、デジタルを拒否しようとも、世の中の進歩に情報技術が欠かせないことは、誰もが認めているはずだ。この流れを押しとどめることは誰にも出来ない。

とはいえ、つい30年以上前の時点ではインターネットについて知っている人はほぼいなかった。
まだ誰もインターネットの価値に気づいていなかったため、その巨大な可能性についても半信半疑だった。当時はあらゆるドメインが好きなだけ所有できたことも本書には載っている。
その進化が目に見えて世の中を変えてしまった今、この巨大な変化の流れを一体どれだけの人が客観的にみられているだろう。
それは逆に言うと、今から30年後のことについても言える。
現在、まだ誰も考え付いていないサービスが30年後の社会インフラの中核を担っている可能性だってあるのだ。
その変化の激しさを予想できる人も皆無だと思われる。
だからこそ、今が何かを始めるチャンスなのだ。
著者はそのことを強調する。本書が書かれた当時、インターネットが誕生してからまだ8000日しか過ぎていなかった。本稿を書いている現在でも10000日を超えていないはずだ。
当時、インターネットの可能性に気づけなかった人の無知を笑うのではなく、今、生きている私たちが未来の可能性に思いをはせられれば、巨大な名声と富を得ることも不可能ではない。
ビジネスの種は無数に転がっている。

2、COGNIFYING
認知化していく。

本章ではAIの進化について語られる。
著者はどちらかと言うと楽観的に人工知能をとらえているようだ。AIが人類を滅ぼす未来ではなく、人類と共存する未来。
もちろん、AIが人類の仕事を奪い、人の仕事のありかたを根本的に変えていくことは避けられないだろう。そして、AIによって人の仕事の意味が変えられたことは、人の生のあり方にも根本的な変化をもたらすはずだ。
著者は、人間とAIの共存のために考えられるさまざまなパターンを挙げ、その可能性を熱く語る。
ビジネスの種は際限なく転がっている。

3、FLOWING
流れていく。

今までの経済は、実体である物を流すことで回っていた。物々交換から貨幣経済に至るまで。
それが今や、経済を回す主体はデータによるコンテンツにとってかわられつつある。そして今後もその流れは止むことなく加速していくに違いない。

それは、コンテンツを作り出すクリエイターのあり方や働き方にも影響を及ぼす。今も実際、コンテンツの流通経路の変化が、クリエーターにとって新たな発表手段をもたらしている。
世の中の変化は今後も激しく動いていくことだろう。今までの経済のあり方にも根本的な変化が起こることは間違いない。
ここにも、ビジネスの種は膨大に転がっている。

4、SCREENING
画面で見ていく。

あらゆる情報がディスプレイで確認できるようになった今、私たちの視覚に方法を与えるための機械や、媒体の進歩には見違えるものがある。
おそらく、今後も次々と革新的なテクノロジーが生まれ、私たちのために情報を提供してくれるはずだ。現時点で誰一人として考え付いていない方法で。

私たちの五感を満たすあらゆる情報の発信の手段はディスプレイ以外にも生まれつつある。
この先、私たちはいつでもどこからでも情報を得られるようになる。それらの情報機器に囲まれた私たちの毎日が、がらりと様相を変えてゆくのはもはや避けられない。
ここにも、ビジネスの種は数えきれないほど転がっている。

5、ACCESSING
接続していく。

ものによって価値がやりとりされるのではなく、情報が価値となった今、情報へのアクセス手段を提供するプラットフォームが有利なのは明らかだ。
すでに、巨額の利益を上げている企業は、ものを持たずにサービスを主にしている企業が多くを占めている。今後もその流れは変わらない。
データがサービスの核となった今、いつでもどこでも好きな時に情報へのアクセスが可能となり、そのアクセス手段がよりいっそう重要となることだろう。
であるならば、その手段の構築において、あらゆるビジネスのチャンスは眠っているはずだ。
ここにも、ビジネスの種は数限りなく転がっている。

6、SHARING
共有していく。

シェアリング・エコノミーとはここ数年よく聞く言葉だ。
所有と言う概念が薄れつつある今、何か価値のあるものを皆で共有し、享受するライフスタイルが主流となりつつある。

物質は同時に別の場所・時間に存在できない。誰かが占有してしまえば他の人がそれを使用することができない。長らくその常識が人々の間にまかり通っていた。
だが、データは同時に複数の人が同じものを利用することを可能にした。それによってシェアという新たな考えが人々の新たな常識となってゆく。そして生活を潤してくれている。
サービスの消費者である私たちは、いまや所有が時代遅れになりつつあることを認めなければならない。そして、サービスの提供元としても所有ではない新たな常識になじんでいかなければならない。
ここにも、ビジネスの種は星の数ほど転がっている。

7、FILTERING
選別していく。

毎日・毎時・毎分、膨大な数の情報がアップされている。そして、すでにアップされた膨大な数の情報が世の中に流通している。
それらに全て目を通すだけでも人の一生は百万年あっても足りない。
その中で、自分にとって必要な情報をいかに抽出し効率よく取り込めるか。そうした選別の技術が求められている。
Amazonはリコメンド機能としてそれを昔から行っているし、Google検索などもまさに選別の一つだろう。
どうやって情報の選別を行い、それを人々にとって適した情報として届けられるか。

今はまだ情報には雑音が混じっている。これを個人の嗜好や考え方に最適化した形で届けるサービスを今後のビジネスを制するといっても過言ではない。
ここにも、ビジネスの種は多彩に転がっている。

8、REMIXING
リミックスしていく。

これだけ膨大な数の情報が流れている今、全くの無から新たな価値を生み出すことは不可能といってよい。
既存のあらゆる情報をどのようにして相互に効果を生じさせ、新たな価値として生み出していくか。
まさにこのリミックスの技術こそが、これからのコンテンツ制作の中核になることだろう。
すでに、既存のものから新たな価値をビジネスとして創造する企業は多くある。
だが、より本質的な価値の創造の余地はまだ残されているように思う。リミックスできる組み合わせは無限なのだから。
ここにも、ビジネスの種は限界を超えて転がっている。

9、INTERACTING
相互作用していく。

ここではAR/VRの世界が語られる。
すでに、これらの世界の精巧さは、現実とあまり変わらない体験を私たちにもたらすことが可能だ。
今までは現実の世界とデータが作り上げた仮想の世界は、相互に影響を及ぼさないとされてきた。だが、もはやその認識は古くなりつつある。

現実世界でしかビジネスが成り立たない。そんな認識から一歩先んじた企業は、仮想の世界でのビジネスを展開している。そして、人々の暮らしも仮想空間を受け入れたものへと変わっていく。そのことが本章で語られる。
ここにも、ビジネスの種は仮想の数だけ転がっている。

10、TRACKING
追跡していく。

この章ではライフログが語られる。ライフログについては私もブログや読読レビューでもたびたび取り上げてきた。
ライフログについては、私は肯定派である。さらに、本書に取り上げられているような自分の行動を常時記録する人々の域にまでは達していないが、ある程度の行動は記録している。
ライフログの流れは、人々のネットへの拒否感が薄まり、セキュリティ技術が進展するにつれ、広まってゆくに違いない。
ここにも、ビジネスの種は億兆ほどに転がっている。

11、QUESTIONING
質問していく。

なんでも検索すれば答えが出るようになった現在、それが逆に人々の思考の在り方や本質を変えてしまったように思う。
そして、それは知恵の結集としての社会や組織の在り方にまで影響を及ぼしている。

今までの人々が行っていたような一対一の質問については、すでにAIが答えを返してくれるようになった。
そうなった今、私たちは質問の仕方から見つめなおさねばならない。
人にしか出来ない質問、AIには答えることができず、人にしか答えられない質問。これからの人類にはこうした問いを考える素養が必要になってくることだろう。
ここにも、ビジネスの種は考え付く限り転がっている。

12、BEGINNING
始まっていく。

本書のまとめである本章。データがもたらす知識の総量や伝達の速度は、すでに人智の及ばないところへ向かっている。
そんな中、人類とAIのかかわり方にも本質からの違いが生じるはず。その状態を著者はホロス(Holos)と呼ぶ。
シンギュラリティはあるはずと著者は予想するが、一方でそれが人類に与えるインパクトは深刻なものではないと著者は説く。
私は著者の楽観的な見方を支持したい気持ちはあるが、短期的には人類はこれからの変革の中で無数の痛みに耐えていかねばならないはずとみている。

そこでどのような立ち居振る舞いをするべきか。どういう思想を世に問うていくべきか。そもそも市井の一市民に何ができるのか。
ここにも、ビジネスの種はミクロとマクロで転がっている。

‘2019/8/7-2019/9/1


動物農場


『1984』と言えば著者の代表作として知られている。その世界観と風刺の精神は、現代でも色褪せていない。むしろその名声は増すばかりだ。
権力による支配の本質を描いた内容は、人間社会の本質をえぐっており、情報社会の只中に生きる現代の私たちにとってこそ、『1984』の価値は真に実感できるのではないだろうか。
今でも読む価値がある本であることは間違いない。実際に昨今の言論界でも『1984』についてたびたび言及されているようだ。

本書も風刺の鋭さにおいては、『1984』には劣らない。むしろ、本書こそ、著者の代表作だと説く向きもある。
私は今回、本書を初めて読んだ。
本書のサブタイトルに「おとぎばなし」と付されている通り、本書はあくまでもファンタジーの世界の物語として描かれている。

ジョーンズさんの農場でこき使われている動物たちが、言葉を発し、ジョーンズさんに反乱を起こし、農場を経営する。
そう聞かされると、たわいもない話と思うかもしれない。

だが、動物たちのそれぞれのキャラクターや出来事は、現実世界を確実に模している。模しているどころか、あからさまに対象がわかるような書き方になっている。
本書が風刺する対象は、社会主義国ソビエト連邦だ。しかも、本書が書かれたのは第二次世界大戦末期だと言う。
著者はイギリス人だが、第二次世界大戦末期と言えば、ヤルタ会談、カイロ会談など、ソビエトとイギリスは連邦国の一員として戦っていた。
そのため、当時、著者が持ち込んだ原稿は、あちこちの出版社に断られたという。盟友であるはずのソビエトを風刺した本書の出版に出版社が恐れをなしたのだろう。

それを知ってもなお、著者が抱く社会主義への疑いは根強いものがあった。それが本書の執筆動機になったと思われる。
当時はまだ、共産主義の恐ろしさを人々はよくわかっていなかったはずだ。
粛清の嵐が吹き荒れたスターリン体制の内情を知る者もおらず、何よりもファシズムを打倒することが何よりも優先されていた時期なのだから。
だから今の私たちが思う以上に、本書が描かれた時代背景にもかかわらず本書が出版されたことがすごいことなのだ。

もちろん、現代の私たちから見ると、共産主義はもはや歴史に敗北した過去の遺物でしかない。
ソ連はとうに解体され、共産主義を掲げているはずの中国は、世界でも最先端の資本主義国家といってよいほど資本主義を取り入れている。
地球上を見渡しても共産主義を掲げているのは、北朝鮮のほかに数か国ぐらいではないだろうか。

そんな今の視点から見て、本書は古びた過去を風刺しているだけの書物なのだろうか。
いや、とんでもない。
古びているどころか、本書の内容は今も有効に読者に響く。なぜなら、本書が風刺する対象は組織だからだ。
そもそも共産主義とは国家が経済を計画し、万人への平等を目指した理想があった。だからこそ、組織だって狂いもなく経済を運営していかねばならない建前があった。
だからこそ、組織が陥りやすい落とし穴や、組織を運営することの困難さは共産主義国家において鮮明な矛盾として現れたのだと思う。そのことが本書では描かれている。

理想を掲げて立ち上がったはずの組織が次第に硬直し、かえって人民を苦しめるだけの存在に堕ちてゆく。
われわれはそうした例を今まで嫌というほど見てきた。上に挙げた共産主義を標榜した諸国において。
その多くは、共産主義の理想を奉じた革命者が理想を信じて立ち上げたはずだった。だが、理想の実現に燃えていたはずの革命家たちが、いざ統治する側に入った途端、自らが結成した組織に縛られていく。
それを皮肉と言わずして何と呼ぼう。

それにしても、本書に登場する動物達の愚かさよ。
アルファベットを覚えることがやっとで、指導者である豚たちが定めた政策の矛盾に全く気付かない。
何しろ少し前に出された法令の事などまるで覚えちゃいないのだから。
その無知に乗じて、統治する豚たちは次々と自らに都合の良いスローガンを発表していく。朝令暮改どころではない速さで。

柔軟といえば都合はいいが、その変わり身の早さには笑いがこみあげてくるしかない。

だが、本書を読んでいると、私たちも決して動物たちのことを笑えないはずだ。
先に本書が風刺する対象は共産主義国家だと書いた。が、実はあらゆる組織に対して本書の内容は当てはめられる。
ましてや、本書が描かれた当時とは比べ物にならないほどの情報量が飛び交っている今。

組織を担うべき人間の処理能力を上回るほどの判断が求められるため、組織の判断も無難にならざるを得ない。または、朝令暮改に近い形で混乱するしか。
私たちはその実例をコロナウィルスに席巻された世界で、飽きるほど見させられたのではないだろうか。

そして、そんな組織の構成員である私たちも、娯楽がふんだんに与えられているため、本書が描かれた当時よりも衆愚の度が増しているようにも思える。
人々に行き渡る情報量はけた違いに豊かになっているというのに。

私自身、日々の仕事に揉まれ、ろくにニュースすら読めていない。
少なくとも私は本書に出てくる動物たちを笑えない自分を自覚している。もう日々の仕事だけで精いっぱいで、政治や社会のニュースに関心を持つ暇などない状態だ。
そんな情報の弱者に成り下がった自分を自覚しているけど、走らねばこの巨大な世の中の動きに乗りおくれてしまう。私だけでなく、あらゆる人が。

本書の最後は豚と人間がまじりあい、どちらがどちらか分からなくなって終わりを迎える。
もう、そんな慄然とした未来すら来ているのかもしれない。
せめて、自分を保ち、客観的に世の中を見るすべを身に着けたいと思う。

‘2019/8/1-2019/8/6


八日目の蝉


著者の小説は初めて読んだが、本書からは複雑な読後感を感じた。
もちろん、小説自体は面白い。すいすい読める。
だが、本書が取り上げる内容は、考えれば考えるほど重い。

家族。そして、生まれた環境の重要性。
本書のとりあげるテーマは、エンターテインメントだからと軽々に読み飛ばせない重みを持っている。母性が人の心をどこまで狂わせるのか、というテーマ。
子を育てたいという女性の本能は、はたして誘拐を正当化するのか。
誘拐犯である野々宮希和子の視点で語られる第一部は、本来ならば母親として望ましいはずの母性が、人の日常や一生を破壊する様を描く。

そして、禁じられた母性の暴走が行き着く果ては、逃亡でしかない事実。
勝手に「薫」と名付けたわが子を思うゆえ、少しでもこの生活を守りたい。
そんな希和子の望みは、薫の本来の親からすると、唾棄すべき自分勝手な論理でしかない。
だが、切羽詰まった希和子の内面に渦巻く想いは、母性のあるべき姿を描く。それゆえに、読者をグイグイと作品の世界に引きずり込んでゆく。

そして薫。
物心もつかない乳児のうちに誘拐された薫のいたいけな心は、母を頼るしかない。
母が母性を発揮して自分を守ろうとしているからこそ、薫は母を信じてついて行く。たとえそれが自分を誘拐した人であっても。
薫の眼にうつる母は一人しかいないのだから。

環境が劣悪な逃亡生活は、真っ当な成長を遂げるべき子どもにとって何をもたらすのか。
そのような現実に子どもが置かれる事は普通ならまずない。
ところが、無垢な薫の心は、そもそも自らの境遇を他と比較する術がない。自分に与えられた環境の中で素直に成長して行くのみだ。
母性を注いでくれる母。母の周りの大人たち。その土地の子供達。
環境に依存するしかない子どもにとって、善悪はなく、価値観の判断もつけられない。

本書は、母娘の関係が母性と依存によって成立してしまう残酷を描く。
もちろん、本来はそこに父親がいるべきはず。父のいない欠落は、薫も敏感に感じている。それが逆に薫に母に気遣いを見せる思いやりの心を与えているのが、本書の第一部で読者の胸をうつ。
ここで描かれる薫は、単なる無垢で無知な子だけでない。幼いながらに考える人として、薫をまっとうに描いている。薫の仕草や細かい心の動きまで描いているため、作り事でない血の通った子どもとして、薫が読者の心をつかむ。
著者の腕前は確かだ。

ここで考えさせられるのは、子供の成長にとって何が最優先なのか、という問いだ。
読者に突きつけられたこの問いは、がらりと時代をへた第二部では、違う意味をはらんで戻ってくる。

第二部は大人になった恵理菜が登場する。薫から本名である名前を取り戻して。
恵理菜の視点で描かれる第二部は、幼い頃に普通とは違う経験をした恵理菜の内面から描かれる世界の苦しさと可能性を描く。
恵理菜にとって、幼い頃の経験と、長じてからの実の親との折り合いは、まさしく苦難だった。それを乗り越えつつ、どうやって世の中になじんで行くか、という恵理菜の心の動きが丹念に描かれる。

生みの親、秋山夫妻のもとに返された恵理菜は、親と呼ぶには頼りない両親の元、いびつな成長を遂げる。
そんな関係に疲れ、大学進学を口実に一人暮らしを始めた恵理菜。彼女のもとに、希和子との逃亡生活中にエンジェルホームでともに暮らしていた安藤千草が現れる。

エンジェルホームは、現世の社会・経済体制を否定したコミュニティだ。宗教と紙一重の微妙な団体。
そこでの隔絶された生活は、希和子の目を通して第一部で描かれる。
特殊な団体であるため、世間からの風当たりも強い。その団体に入信する若者を取り返そうとした親が現れ、その親をマスコミが取り上げたことから始まる混乱にまぎれ、希和子は薫を連れ脱出した。
同時期に親とともにそこにいた千草は、自分が体験したことの意味を追い求めるため、取材を重ね、本にする。その取材の一環として、千草は恵理菜のもとを訪れる。

千草との出会いは、恵理菜自身にも幼い頃の体験を考えなおすきっかけを与える。
自分が巻き込まれた事件の記事を読み返し、客観的に事件を理解していく恵理菜。
母性をたっぷり注がれたはずの幼い頃の思い出は記憶から霞んでいる。
だが、客観的に見ても母と偽って自分を連れ回した人との日々、自然の豊かな幸せな日々として嫌な思い出のない日々からは嫌な思い出が浮かび上がってこない。

むしろ、実の親との関係に疲れている今では、幼き頃の思い出は逆に美化されている。
三つ子の魂百まで、とはよくいったものだ。
無意識の中に埋もれる、三歳までの記憶。それは、その人の今後を間違いなく左右するのだろう。

実際、恵理菜は自分の父親を投影したと思われる、頼りない男性の思うままに体を許し、妊娠してしまう。
そればかりか、妊娠した子を堕ろさずに自分の手で育てようと決意する。
それは、自分を誘拐した「あの人」がたどった誤った道でもある。
それを自覚してもなお、産もうとする恵理菜の心のうちには、かつての母性に包まれた日々が真実だったのかを確かめたい、という動機が潜んでいるように思える。
自分が母性の当事者となって子を守り、かつての幻になりそうな日々を再現する。

恵理菜にとって美化された幼き頃の思い出が、記事によって悪の犠牲者と決めつけられている。
だからこそ、恵理菜は、自らの中の母性を確かめたくて、子を産もうとする。その動機は切実だ。
なにせ美化された思い出の中の自分は、記事の中ではあわれな犠牲者として片づけられているのだから。

そうした心の底に沈む無意識の矛盾を解決するため、恵理菜はかつての自分に何がおこったのかを調べてゆく。そしてかつて、偽の母に連れまわされた地を巡る。
自らの生まれた環境と、その環境の呪縛から逃れて飛び立つために。
俗説でいう一週間しか生きられない蝉ではなく、その後の人生を求めて。

母性と育児を母の立場と子の立場から描く本書は、かつて育てられた子として、そして子を育てた親としても深く思うところがある小説だ。
とても読みごたえがあるとともに、余韻も深く残った。

‘2019/7/30-2019/7/31


島津は屈せず


本書を読んだときと本稿を書く今では、一年と二カ月の期間を挟んでいる。
その間に、私にとって島津氏に対する興味の度合いが大きく違った。
はじめに本書を読んだとき、私にとっての島津家とは、関ヶ原の戦いで見事な退却戦を遂行したことへの興味が多くを占めていた。
当ブログを始めた当初にもこの本のブログをアップしている。
それ以外には幕末の史跡を除くと、島津家の戦跡には行く機会がないままだった。

だが、それから一年以上の時をへて、私が島津家に興味を抱くきっかけが多々あった。九州に仕事で行く機会が二度あったからだ。
訪問したお客様が歴史がお好きで、立花道雪、高橋紹運、立花宗茂のファンであり、歴史談義に興じる機会があった。
また、出張の合間に大分の島津軍と豊臣・大友軍が激闘を繰り広げた戸次河原の合戦場にも訪れることもできた。

本書は、その戸次河原合戦からさらに数年下った、島津軍が大友・豊臣軍に敗れた根城坂の合戦の後から始まる。

根城坂の敗戦は局地の敗戦に過ぎず、豊臣家に膝を屈することはない、と徹底抗戦をとなえる義珍あらため、義弘。その反対に、藩主の立場から他の家臣の意見を聞き、現実的な判断を下そうとする義久。
当時の島津家を率いる二人の武将の考えには、現実と理想に対する点で違いがある。

ただ義弘は、自らの考えを兄の地位を奪ってまで成し遂げようとはしない。あくまでも兄を立てる。そして、統治は兄に任せ、自らは武において与えられた役割を全うしようとする。
本書は、義久ではなく、義弘を主人公とし、安土桃山から江戸に至るまでの激動の時代を乗り切った島津家の物語である。

豊臣家の傘下に組み込まれ、太閤検地を乗り切った後は、朝鮮への出陣でが始まる。
秀吉の野望に付き合わされた島津家も半島へと渡り、そこで鬼石蔓子と敵兵から呼ばれるほどの戦闘力を発揮し、大戦果を上げる。
大義が見えない戦いであっても、一度膝を屈した主君の命とあらば抗えないのが戦国の世の習い。その辺りの葛藤を抱えながらも、武の本分を発揮する義弘。

日本に戻ってからも領内で内乱が起き、島津家になかなか落ち着きが見えない。
そうしているうちに、秀吉の死後の権力争いは、島津家に次の試練を与える。
日本が東軍と西軍に割れた関ヶ原の戦いだ。
各大名家がさまざまな思惑に沿って行動する中、遠方の島津家は行動する意味もなく、藩主の義久は静観の構えを崩さない。内乱で疲弊した領内をまとめることを優先し。
だが、義弘はわずかな手勢を連れて東上しし、東軍へ馳せ参じようとする。
ところが、時勢は島津家をさらに複雑な立場に追いやる。
東軍に参加しようと訪れた伏見城で、連絡の不行き届きと誤解から、東軍の鳥居本忠から追い出されてしまう。

それによって西軍へと旗色を変えた義弘主従。
ところが、西軍の軍勢は兵の数こそ多いが、その内情はまとまっているとは言いがたく、義弘も本戦では静観に徹する。

関ヶ原の戦いは、布陣だけを見れば西軍が有利であり、西軍が負ける事はあり得ないはずだった。
ところが、西軍の名だたる将のうち、実際に戦った隊はわずか。
島津軍もそう。

私も三回、関ヶ原の古戦場を巡った。そして、武将たちの遺風が残っているようなさまざまな陣を見て回った。
島津軍の陣地は、林の中に隠れたような場所だった。だが、激戦地からはそう離れていない場所であり、当日は騒がしかったことと思う。
そんな中、微妙な立場に置かれた義弘は何を感じていたのか。
島津家が一枚岩で五千の軍勢を引き連れていれば、島津家だけでも西軍を勝利に導けたものを。

本書では、義弘の心中や家臣たちの様子を描く。
夜襲を提案しても、戦に慣れていない大将の石田治部は体面を前に立てられはねつけられる始末。
義弘の心中は本書にも描かれている。

そして、小笠原秀秋の寝返りから一気に変わった戦局と、その中で刻々と変わるあたりの様子の中、徳川家に島津の武威を見せつけようとする。
そして、美濃から薩摩へと戦史に残る遠距離の退却戦に突入する。

義弘主従は、大阪で人質の太守の家族を救い、薩摩に帰り着くことに成功する。
しかも、強硬な意思を貫き、本領の安堵を勝ち取ることに成功する。

関ヶ原の戦いで西軍に与し、本領の安堵を勝ち取った大名は、全国を見渡してもほぼいない。ましてや、関ヶ原の本戦に西軍として参加した大名に限れば、島津氏が唯一と言っても良い。

本書では家康が悔いる様子が描かれる。毛利と島津をそのままにしておくことが将来の徳川家の災いになるのではないかと。

著者は、本書の姉妹編として「毛利は残った」と言う小説を出している。

毛利家と島津家。ともに、関ヶ原の合戦によって敗戦側となった。
そして関ヶ原の合戦から260年の後に、ついに政権から徳川家を追いやった時もこの二家が中心となった。

戦国の過酷な世を勝ち続け、徳川家にも勝てる自信を持ちながら、戦国の世の義理の中でと主家を立て通した義弘。

その無念は、島津家に安穏とは無縁の家風を養わせた。260年の間、平和に慣れて保身に汲々とするのではなく、国を富ませ、鍛錬を怠らない。
そのたゆまぬ努力がついに徳川家に一矢を報いさせた。

本書は、その原動力となった挫折と雌伏を描いている。
本書を読むと、人の人生など短く思える。
私は島津家の尚武の気風を学ぶためにも、また機会を見て薩摩軍の戦跡を訪れたいと思っている。今、九州にご縁ができ、私の中で島津家への興味が増した今だからこそ。

‘2019/7/26-2019/7/29


ビジュアル年表 台湾統治五十年


はじめ、著者の名前と台湾が全く結びつかなかった。
エンターテインメントの小説家として名高い著者が台湾にどのように関係するのか。
そのいきさつについては、あとがきで国立台湾歴史博物館前館長の呂理政氏が書いてくださっている。
それによると、2013年の夏に日本台湾文化経済交流機構が台湾を訪れたが、著者はその一員として来台したという。

著者はその縁で、もともと興味を持っていた台湾の歴史を描こうと思ったそうだ。
本書の前に読んだ「日本統治下の台湾」のレビューにも書いたが、私ははじめて台湾を訪れたとき、人々の温かさに感動した。そして、台湾と日本の関係について関心を持った。
著者もおそらく同じ感慨を抱いたに違いない。

はじめに、で著者はベリーの来航から90年間で、日本がくぐり抜けた歴史の浮き沈みの激しさを描く。
そして著者は、その時期の大部分は、日本が台湾を統治していた時期に重なっていることを指摘する。つまり、当時の台湾にはかつての日本が過ごした歴史が残っている可能性があるのだ。

本書はビジュアル年表と言うだけあって、豊富な図面とイラストが載っている。
それは、国立台湾歴史博物館と秋惠文庫の協力があったからだそうだ。
それに基づき、著者は台湾の統治の歴史を詳細に描く。歴代の台湾総督の事歴や、領有に当たっての苦労や、日本本土との関係など。

本書は、資料としても活用できるほど、その記述は深く詳しい。そして、その視点は中立である。
台湾にもくみしていないし、日本を正当化してもいない。

ただ、一つだけ言えるとすれば、日本は統治した以上は整備に配慮を払っていたことだ。
本書にも詳しく載っているが、図面による台湾の街の様子や地図の線路の進展などは、五十年の間に次々と変わっていった。それはつまり、日本の統治によりインフラが整備されていったことを表している。
特に有名なのは八田氏による烏山頭ダムの整備だ。そうした在野の人物たちによる苦労や努力は否定してはならないと思う。
歴代総督の統治の意識によっても善し悪しがあることは踏まえた上で。

特に児玉源太郎総督とその懐刀だった後藤新平のコンビは、一時期はフランスに売却しようかとすら言われていた台湾を飛躍的に発展させた。
日本による統治のすべてをくくって非難するより、その時期の国際情勢その他によって日本の統治の判断は行われるべきではないだろうか。

そうした統治の歴史は、本書の前に読んだ「日本統治下の台湾」にも描かれていた。が、本書の方が歴史としての記述も資料としての記述も多い。

私はまだ、三回の台湾訪問の中で台湾歴史博物館には訪れたことがない。初めての台湾旅行では故宮博物院を訪れたが、あくまでも中国四千年の歴史を陳列した場所だ。
台湾の歴史を語る上で、私の知識は貧弱で頼りないと自覚している。だから、本書の詳細な資料と記事はとても参考になった。

特に本書に詳しく描かれている当初は蛮族と呼ばれた高砂族の暮らしや、蛮行をなした歴史についてはほとんどを知らなかった。
高砂族を掃討する作戦については、本書に詳しく描かれている。それだけでなく、当時の劣悪な病が蔓延していた様子や、高砂族の人が亡くなった通夜会場の様子なども。本書は台湾の歴史だけではなく、先住民族である高砂族の文化にも詳しく触れていることも素晴らしい。
おそらく私が最初の台湾旅行で訪れた太魯閣も、かつては高砂族が盤踞し、旅行どころか命の危険すらあった地域だったはずだ。
そうした馴化しない高砂族の人々をどうやって鎮圧していったのかといういきさつ。さらには、男女の生活の様子や、差別に満ちた島をデモクラシーの進展がどう変えていったのか。
皇太子時代の昭和天皇の訪問が台湾をどう親日へと変えていったのか。本書の記述は台湾の歴史をかなりカバーしており、参考になる。

また、本書は日本の歴史の進展にも触れている。日本の歴史に起こった出来事が台湾にどのように影響を与えたのかについても、詳しく資料として記していることも本書の長所だ。
皇民化政策は、この時期の台湾を語るには欠かせない。どうやって高砂族をはじめとした台湾の人々に日本語を学ばせ、人々を親日にしていったのか。
八紘一宇を謳った割に、今でも一部の国からは当時のふるまいを非難される日本。
そんなわが国が、唯一成功したといえる植民地が台湾であることは、異論がないと思う。

だからこそ、本書に載っている歴史の数々の出来事は、これからの日本のアジアにおける地位を考える上でとても興味深い。それどころか、日本の来し方とこれからの国際社会でのふるまい方を考える上でも参考になる。

本書はまた、太平洋戦争で日本が敗れた後の台湾についても、少しだけだが触れている。
日本が台湾島から撤退するのと引き換えに国民党から派遣されてやってきた陳儀。台湾の行政担当である彼による拙劣かつ悪辣な統治が、当時の台湾人にどれほどのダメージを与えたのか。
そんな混乱の中、日本人が台湾での資産をあきらめ、無一文で日本に撤退していった様子など。

国民党がどのようにして台湾にやってきて、どのような悲惨な統治を行ったか。本書の国民党に対する記述は辛辣だ。そして、おそらくそれは事実なのだろう。
台北の中正紀念堂で礼賛されているような蒋介石の英雄譚とは逆に、当初の国民党による統治は相当お粗末な結果を生んだようだ。
だからこそ2.28事件が起き、40年あまり台湾で戒厳令が出され続けたのだろうから。
このたびの旅行で私は228歴史記念公園を訪れたが、それだけ、この事件が台湾に与えた傷が深かったことの証だったと感じた。
そして、国民党の統治の失敗があまりにも甚大だったからこそ、その前に台湾を統治した日本への評価を高めたのかもしれない。

本書がそのように政権与党である国民党の評価を冷静に行っていること。それは、すなわち台湾国立歴史博物館の展示にも国民党の影響があまり及んでいない証拠のような気がする。
本書を読み、台湾国立歴史博物館には一度行ってみたくなった。

この旅で、私は中正紀念堂の文物展示室の展示物である、蒋介石が根本博中将に送った花瓶の一対をこの目で見た。
根本博中将と言えば、共産軍に圧倒的に不利な台湾に密航してまで渡り、金門島の戦いを指揮して共産軍から守り抜いた人物である。
だが、中正紀念堂には根本博中将に関する記述はもちろんない。日本統治を正当化する展示ももちろんない。

そんな根本中将への公正な評価も、台湾国立歴史博物館では顕彰されているのかもしれない。
それどころか、日本による統治の良かった点も含め、公正に評価されているとありがたい。
そんな感想を本書から得た。

‘2019/7/24-2019/7/25


風刺漫画で読み解く 日本統治下の台湾


家族で台湾旅行に行く前日から本書を読み始めた。読み終えたのは、桃園国際機場へ向かう飛行機の中だ。
台湾にはこの旅の半年前にも妻と二人で出かけた。その時は妻も初訪問で、しかも慌ただしい旅だったので、通りをかろうじて歩き回った程度。
今回の台湾旅行は娘たちも同行した。娘たちにとっては初めての台湾。なので、今回の旅も観光客としての移動に終始した。

私にとって台湾は三度目だ。妻と二人で旅する前に台湾を訪問したのは、その二十三年前のこと。
その時は、自転車で約十日かけて台湾を一周した。その前後の三、四日間では台北を動き回り、観光に費やした。
夏の台湾を自転車で一周した経験は、私にとって絶大な自信となった。それと同時に、日本に対する台湾の人々の想いの深さが感じられたことでも印象に残っている。
道中、各地で年配の方が流暢な日本語で私たちに声を掛けてくださった。そして、あれこれと世話をしてくれた事が忘れられない。
親日国の台湾。その印象が強く残っている。懐かしさとともに。

ここ最近、わが国とお隣の韓国との関係がとても良くない。戦後でも最悪と言われる日韓関係が続いている。
だが、台湾の人々は、今もなお日本に好意を持ってくれているようだ。
今回の家族旅行でも、何店ものお店を巡った。そうしたお店に並ぶ商品に、日本語で書かれたパッケージのいかに多かったことか。

日本語をしゃべれる人こそ減っているものの、台湾の皆さんの日本に対する感情の悪化は全く感じられなかった。二十三年前の旅行で得た印象が覆される出来事にも遭うこともなく。

そもそも、日本にとっての台湾とは、日清戦争の賠償で清国から割譲された地だ。
それ以来、第二次大戦で敗れた日本が台湾の統治権を失うまでの五十年間、台湾は日本の統治下にあった。

日本統治下の日々は、台湾にとって良いことばかりだったはずはない。時には日本による誤った行いもあったはずだ。
だが、結果的にはかなりの好印象を台湾の人々に与えた事は確かだ。それは私が三回の台湾旅行で体感している。
そうした対日感情を育んだ五十年間の統治の秘密は何か。統治に当たって、台湾の方々にどのように日本への信頼感を醸成したのか。それを知りたいと思っていた。

日本による台湾の統治がどのように行われたのか。それを解き明かすのが本書だ。
そのために著者がとったアプローチはとてもユニークだ。当時の現地の新聞の漫画を取り上げている。新聞の漫画と言えば、一目で世相を表すような工夫が施されている。だから、当時を知る資料としては一級であるはず。本書は新聞の漫画を取り上げ、それらをふんだんに載せることにより、当時の台湾の世相を今に伝えている。

本書には多くの漫画がとり上げられているが、その中でもよく登場するのが国島水馬の風刺漫画だ。私はこの人物については、本書を読むまでは全く知らなかった。
それもそのはずで、国島水馬は台湾の現地紙にしか漫画を連載をしなかった。しかも戦前から戦後にかけて消息を断ち、どのような最期を遂げたのかもわかってない。全くの無名に近い存在なのだ。

だが、国島水馬や他の方の描いた漫画を追っていくと、日本が台湾をどのように統治していったかがわかる。
統治にあたり、日本人が台湾にどのように乗り込んだのか。日本で時代を作った大正デモクラシーは台湾ではどのように波及し、人々はどのように民主化の風になじんでいったのか。
本書は風刺漫画を通して台湾の世相を紹介するが、本島人と日本人の対立や、日本からは蕃族と呼ばれた高砂族への扱いなど、歴史の表には出てこない差別の実相も紹介している。

少しずつ台湾統治が進みつつあり、一方で日本の本土は関東大震災に傷つく。
その時、台湾の人々がどのように本土の復興に協力しようとしたか。また、その翌年には、皇太子時代の昭和天皇が台湾旅行を行うにあたり、台湾の人々がどのように歓迎の儀式を準備したか。そうしたことも紹介される。

台湾が少しずつ日本の一部として同化していくにつれ、スポーツが盛んになり、女性の地位も改善が進み、少しずつ日本と台湾が一つになってゆく様子も描かれている。

ところが、そんな台湾を霧社事件が揺るがす。
霧社事件とは、高砂族の人々が日本の統治に対して激烈な反抗を行った事件だ。日本の統治に誤りがなかったとは言えない理由の一つにこの霧社事件がある。
霧社事件において、高砂族の人々の反抗心はどのように収束したか。その流れも漫画から読み解ける。
不思議なことに、霧社事件を境に反抗は止み、それどころか太平洋戦争までの間、熱烈な日本軍への志願者が生まれたという。
霧社事件の事後処理では高砂族への教化が行われたはずだ。その洗脳の鮮やかさはどのようなものだったのか。それも本書には紹介されている。

その背景には、台湾から見た内地への憧れがある。台湾からは日本が繁栄しているように見えたのだろう。
ところが当時の日本は大正デモクラシーの好景気から一転、昭和大恐慌と呼ばれる猛烈な不景気に突入する。その恐慌が軍部の専横の伏線となったことは周知の事実だ。
そんな中、どうやって台湾の方々に日本への忠誠心を育ませたのか。それは、本書の記述や漫画から推測するしかないが、学校教育が大きな役割を果たしたのだろう。
先日、李登輝元台湾総統が亡くなられたが、単に支配と被支配の関係にとらわれない日本と台湾の未来を見据えた方だったと思う。
おそらくは李登輝氏の考えを育んだ理由の一つでもあるはず。

残念なことに、本書は国民党が台湾にやってきて以降の台湾には触れていない。
時を同じくして国島水馬も消息を絶ち、現地の風刺漫画に日本語が載ることはなくなった。
だが、本書の紹介によって、現地の人々に日本の統治がどのように受け入れられていったのかについて、おおまかなイメージは掴めたように思う。

本書から台湾と日本の関係を振り返った結果、よいことばかりでもなかったことがわかる。
だからこそ、私が初めて台湾を訪れた時、日本の統治が終わってから五十年もたっていたにもかかわらず、台湾の年配の方々が日本語で暖かく接してくれた事が奇跡に思える。
それは、とりもなおさず五十年の統治の日々の成果だと思ってよいはず。
もちろん、先に書いた通り、日本の統治の全てが正しかったとは思わない。
それでも、中国本土、台湾そして日本と言う三つ巴の緊張の釣り合いを取るために、台湾を統治しようとした日本の政治家や官僚の努力には敬意を払いたい。霧社事件のような不幸な事件があったとはいえ、烏山頭ダムを造った八田氏のような方もいたし、日本の統治には認められるべき部分も多いと思っている。
私が初めて台湾を訪れた時に感じた感動は、こうした方々の努力のたまもののはずだから。

私もまた台湾に行く機会があれば、地方を巡り、次は観光客としてではなく、より深く台湾を感じられるようにし、本書から受けた印象を再確認したい。
日韓関係の望ましい未来にも思いを致しつつ。

‘2019/7/22-2019/7/23


心のふるさと


今までも何度かブログで触れたが、私は著者に対して一方的な親しみを持っている。
それは西宮で育ち、町田で脂の乗った時期を過ごした共通点があるからだ。
また、エッセイで見せる著者の力の抜けた人柄は、とかく肩に力の入りがちだった私に貴重な教えをくれた。同士というか先生というか。

タイトル通り、本書で著者は昔を振り返っている。
すでに大家として悠々自適な地位にある著者が、自らの活動を振り返り、思い出をつづる。その内容も力が抜けていて、老いの快適さを読者に教えてくれる。

冒頭から著者は自らのルーツに迫る。
著者のルーツは岡山の竹井氏だそうだ。竹井氏にゆかりのある地を訪ね、自身のルーツに思いを馳せる内容は、まさに紀行文そのものだ。

続いて著者は、若き日の思い出を章に分けて振り返る。
著者がクリスチャンであることはよく知られている。そして、当社が幼い頃に西宮に住んでいたことも。
西宮には夙川と言う地がある。そこの夙川教会は著者が洗礼を浴びた場所であり、著者にとって思い出の深い教会であるようだ。
そこの神父のことを著者は懐かしそうに語る。そして著者が手のつけられない悪童として、教会を舞台にしでかした悪行の数々と、神父を手こずらせたゴンタな日々が懐かしそうに語られる。

また、著者が慶応で学ぶなか、文学に染まっていった頃の事も語られる。同時に、著者が作家見習いとして薫陶を受けてきた先生がたのことも語られていく。
その中には、著者が親交を結んだ作家とのエピソードや、他の分野で一流の人物となった人々との若き日の交流がつぶさに語られていく。

「マドンナ愛子と灘中生・楠本」
本書に登場する人物は、著者も含めてほとんどが物故者である。
だが、唯一存命な方がいる。それは作家の佐藤愛子氏だ。
90歳を過ぎてなお、ベストセラー作家として名高い佐藤愛子氏だが、学生時代の美貌は多くの写真に残されている。
この章では、学生の頃の佐藤愛子氏が電車の中で目を引く存在だったことや、同じ時期に灘中の学生だった著者らから憧れの目で見られていたこと。また佐藤愛子氏が霊感の強い人で、北海道の別荘のポルターガイスト現象に悩んでいたことなど、佐藤愛子氏のエッセイにも登場するエピソードが、著者の視点から語られる。

「消えた文学の原点」と名付けられた章では、著者は西宮の各地を語っている。書かれたのは、阪神・淡路大震災の直後と思われる。
著者のなじみの地である仁川や夙川は、阪神・淡路大震災では甚大な被害を被った。
著者にとって子供の時代を過ごした懐かしい時が、地震によってその様相をがらりと変えてしまったことへの悲しみ。これは、同じ地を故郷とする私にとって強い共感が持てる思いだ。
本編もまた、私に著者を親しみをもって感じさせてくれる。

本書を読んでいて思うのが、著者の交流範囲の広さだ。その華やかな交流には驚かされる。
さらに言えば、著者の師匠から受けた影響の大きさにも見るべき点が多々ある。
私自身、自らの人生を振り返って思い返すに、そうした師匠にあたる人物を持たずにここまで生きてきた。目標とする人はいたし、短期間、技術を盗ませてもらった恩人もいる。だが、手取り足取り教えてもらった師匠を持たずに生きてきた。それは、私にとって悔いとして残っている。

別の章「アルバイトのことなど」では、著者が戦後すぐにアルバイトをしていた経験や、フランスのリヨンで留学し、アルバイトをしていたことなど、懐かしい思い出が生き生きと描かれている。かつて美しかった女性が、送られてきた写真では、おばあさんになってしまったことなど、老境に入った思い出の無残が、さりげなく描かれているのも本書にユーモアと同時に悲しみをもたらしている。

また別の章「幽霊の思い出」では、怪談が好きな著者が体験した怪談話が記されている。好奇心が旺盛なことは著者の代名詞でもある。だから、そんな好奇心のしっぺ返しを食うこともあったようだ。
私に霊感は全くない。ただ、好奇心だけはいまだに持ち続けている。こうした体験を数多くしてきた著者は羨ましいし、うらやましがるだけでなく、私自身も好奇心だけは老境に入っても絶対に失いたくないと強く思う。

他の章には、エッセイが七つほどちりばめられている。

「風立ちぬ」で知られる堀辰雄のエッセイの文体から、「テレーズ・デスケルウ」との共通点を語り、後者が著者にとって生涯の愛読書となったことや、堀辰雄やモウリヤックの作品から、宗教と無意識、無意識による罪のテーマを見いだし、それが著者の生涯の執筆テーマとなったことなど、著者の愛読者にとっては読み流せない記述が続く。

また、本書は著者の創作日記や小説技術についての短いエッセイも載っている。
著者のユーモリストとしての側面を見ているだけでも楽しいが、著者の本分は文学にある。
その著者がどのようにして創作してきたのかについての内容には興味を惹かれる。
特に創作日記をつける営みは、作家の中でどのようにアイデアが生まれ育っていくかを知る上で作家への志望者には参考になるはずだ。

著者は、他の作家の日記を読む事も好んでいたようだ。作家の日々の暮らしや、観察眼がどのように創作物として昇華されたのかなどに興味を惹かれるそうだ。
それは私たち読者が本書に対して感じることと同じ。
本書に収められた著者のエッセイを読んでいると、一人の人間の日常と創作のバランスが伺える。本書を読み、ますます著書に親しみを持った。

‘2019/7/21-2019/7/21


土の中の子供


人はなにから生まれるのか。
もちろん、母の胎内からに決まっている。

だが、生まれる環境をえらぶことはどの子供にも出来ない。
それがどれほど過酷な環境であろうとも。

『土の中の子供』の主人公「私」は、凄絶な虐待を受けた幼少期を抱えながら、社会活動を営んでいる。
なんとなく知り合った白湯子との同棲を続け、不感症の白湯子とセックスし、人の温もりに触れる日々。白湯子もまた、幼い頃に受けた傷を抱え、人の世と闇に怯えている。
二人とも、誰かを傷つけて生きようとは思わず、真っ当に、ただ平穏に生きたいだけ。なのに、それすらも難しいのが世間だ。

タクシードライバーにはしがらみがなく、ある程度は自由だ。そのかわり、理不尽な乗客に襲われるリスクがある。
襲われる危険は、街中を歩くだけでも逃れられない。襲いかかるような連中は、闇を抱えるものを目ざとく見つけ、因縁をつけてくる。生きるとは、理不尽な暴力に満ちた試練だ。

人によっては、たわいなく生きられる日常。それが、ある人にとってはつらい試練の連続となる。
著者はそのような生の有り様を深く見つめて本書に著した。

何かの拍子に過去の体験がフラッシュバックし、パニックにに陥る私。生きることだけで、息をするだけでも平穏とはいかない毎日。
いきらず、気負わず、目立たず。生きるために仕事をする毎日。

本書の読後感が良いのは、虐待を受けた過去を持っている人間を一括りに扱わないところだ。心に傷を受けていても、その全てが救い難い人間ではない。

器用に世渡りも出来ないし、要領よく人と付き合うことも難しい。時折過去のつらい経験から来るパニックにも襲われる。
そんな境遇にありながら、「私」は自分に閉じこもったりせず、ことさら悲劇を嘆かない。
生まれた環境が恵まれていなくても、生きよう、前に進もうとする意思。それが暗くなりがちな本書のテーマの光だ。
そのテーマをしっかりと書いている事が、本書の余韻に清々しさを与えている。

「私」をありきたりな境遇に甘えた人物でなく、生きる意志を見せる人物として設定したこと。
それによって、本書を読んでいる間、澱んだ雰囲気にげんなりせずにすんだ。重いテーマでありながら、そのテーマに絡め取られず、しかも味わいながら軽やかな余韻を感じることができた。

なぜ「私」が悲劇に沈まずに済んだか。それは、「私」が施設で育てられた事も影響がある。
施設の運営者であるヤマネさんの人柄に救われ、社会のぬかるみで溺れずに済んだ「私」。
そこで施設を詳しく書かない事も本書の良さだ。
本書のテーマはあくまでも生きる意思なのだから。そこに施設の存在が大きかったとはいえ、施設を描くとテーマが社会に拡がり、薄まってしまう。

生きる意思は、対極にある体験を通す事で、よりくっきりと意識される。実の親に放置され、いくつもの里親のもとを転々とした経験。中には始終虐待を加えた親もいた。
その挙句、どこかの山中に生きたままで埋められる。
そんな「私」の体験が強烈な印象を与える。
施設に保護された当初は、呆然とし、現実を認識できずにいた「私」。
恐怖を催す対象でしかなかった現実と徐々に向き合おうとする「私」の回復。生まれてから十数年、現実を知らなかった「私」の発見。

「私」が救われたのはヤマネさんの力が大きい。「私」がヤマネさんにあらためたお礼を伝えるシーンは、素直な言葉がつづられ、読んでいて気持ちが良くなる。
言葉を費やし、人に対してお礼を伝える。それは、人が社会に交わるための第一歩だ。

世間には恐怖も待ち受けているが、コミュニケーションを図って自ら歩み寄る人に世間は開かれる。そこに人の生の可能性を感じさせるのが素晴らしい。

ヤマネさんの手引きで実の父に会える機会を得た「私」は、直前で父に背を向ける。「僕は、土の中から生まれたんですよ」と言い、今までは恐怖でしかなかった雑踏に向けて一歩を踏み出す。

生まれた環境は赤ん坊には一方的に与えられ、変えられない。だが、育ってからの環境を選び取れるのは自分。そんなメッセージを込めた見事な終わりだ。

本書にはもう一編、収められている。
『蜘蛛の声』

本編の主人公は徹頭徹尾、現実から逃避し続ける。
仕事から逃げ、暮らしから逃げ、日常から逃げる。
逃げた先は橋の下。

橋の下で暮らしながら、あらゆる苦しみから目を背ける。仕事も家も捨て、名前も捨てる。

ついには現実から逃げた主人公は、空想の世界に遊ぶ。

折しも、現実では通り魔が横行しており、警ら中の警察官に職務質問される主人公。
現実からは逃げきれるものではない。

いや、逃げることは、現実から目を覆うことではない。現実を自分の都合の良いイメージで塗り替えてしまえばよいのだ。主人公はそうやって生きる道を選ぶ。

その、どこまでも後ろ向きなテーマの追求は、表題作には見られないものだ。

蜘蛛の糸は、地獄からカンダタを救うために垂らされるが、本編で主人公に届く蜘蛛の声は、何も救いにはならない。
本編の読後感も救いにはならない。
だが、二編をあわせて比較すると、そこに一つのメッセージが読める。

‘2019/7/21-2019/7/21


本の未来はどうなるか 新しい記憶技術の時代へ


本書が発刊されたのは2000年。ようやくインターネットが社会に認知され始めた頃だ。SNSも黎明期を迎えたばかりで、GAFAMがまだAMでしかなかった頃の話。
ITが日常に不可欠なものになるとは、ごく一部の人しか思っていなかった時代だ。

本書を読んだのは2019年。本書が書かれてから20年近くがたった時期だ。本書を読んでいる今、ITが社会にとって欠かせない存在になっている事は言うまでもない。
情報デトックスという言葉もあるぐらいだ。もしデトックスを行いたい場合、山籠りか無人島で生活するしか手はない。それほど世の中に情報があふれている。
一方で情報があふれすぎているため、情報の発信地だったはずの本屋が次々と潰れている。そして、新刊書籍の発刊も減りつつある。
本を読むには電子書籍を使うことが主流となり、授業はオンラインかタブレットを使うことが当たり前になってきた。

著者はそんな未来を2000年の当時に予測する。そして本という媒体について、本質から考え直そうとする。
それはすなわち、人類の情報処理のあり方に思いをはせる作業でもある。
なので、著者の考察は書籍の本質を考えるところから始まる。書籍が誕生したいきさつと、本来の書籍が備えていた素朴な機能について。
そこから著者はコンピューターの処理と情報処理の本質についての考察を行い、本の将来の姿や、感覚と知覚にデジタルが及ぼす効果まで検討を進める。

本書の記述は広範囲に及び、そのためか少しだけ散漫になっている。
本書の前半は、グーテンベルクによる印刷技術の発明に多くの紙数が割かれている。活版によって同じ内容を刷る技術が発明されたことによって、本が持つ機能は、情報の伝達から消費へと変わっていった。
というのも、グーテンベルクが書物を大量も発行する道を開くまでは、書物とは限られた一部の特権階級の間で伝わるものであり、一般の庶民が本に触れる事はなかったからだ。

それまでの情報とは、人々の五感を通して伝えられるものでしかなかった。わずかに、パピルスや木簡、粘土板、石版に刻まれるメモ程度に使われる情報にすぎなかった。書簡も大量に生み出せないため、人と人の間を行きかう程度で、世にその情報が拡散することはなかった。
その時代、情報とは、人のすぐそばにあるものだった。
情報を欲する人の近くに情報が集まり、人々の脳や感覚に寄り添う。
情報を受ける人間と発信する人間がほぼ一対一の時代。だから、情報が影響を及ぼす範囲とは個人の行動範囲にほぼ等しかった。

ところが、グーテンベルクが発明した活版印刷技術は、発信した本人から空間、時間、時代を超えて情報が独り歩きする道を作った。個人の行動範囲を超えて情報が発信できるようになったこと。それこそがそれまでの情報媒体とは圧倒的に違う点だ。
そして、独り歩きするようになったことで、それまでの一対一でやり取りされた書簡が、一対多で広がっていった。

それによって、当時の人々は知識を大量に取り込むことが可能になった。
当時の有名な書物の印刷部数は、実は現代の一般的な書物の部数と比べて遜色がなく、むしろ多かったという。人々が競って書物を求めたからだろう。
今の私たちの感覚では、現代の書籍の出版部数の方が当時よりも多いと思ってしまう。だが、そうではなかったのだ。これは本書を読んで知った驚きだ。
要するに、今のベストセラーを除いたおびただしい数の書物は、お互いの出版部数を共食いしているのだ。

それはつまり、出版部数には一定の上限があることを意味している。出版業界が好況を呈していた三十年ほど前の状況こそが幻想にすぎなかったのだ。
情報技術が書籍を衰退させたのではなく、もともと書籍の出版部数には限界があった。このことは本書の指摘の中でも特筆すべき点だと思う。

さまざまな本が無数に発行される事は、情報の氾濫に等しい。しかもその氾濫は、真に情報を求める人が必要な時に必要な情報を得られない事態にもつながる。
すでに20世紀中頃、そうした情報の氾濫や埋没を予測していた人物がいる。アメリカの原子力開発で著名なヴァニーヴァー・ブッシュだ。
ブッシュは適切な情報処理の機器としてメメックスを考案した。本書にはメメックスの仕組みが詳細に紹介されている。そのアイディアの多くは、現代のスマホやタブレットPCが実現している。インターネットもブッシュのアイデアの流れを汲んでいる。

情報処理とは、つまりインプットの在り方でもある。この文章を私は今、iPadに対し声で入力している。それと同じアイデアを、当時のブッシュはヴォコーダという概念ですでに挙げていた。まさに先見の明を持った人物だったのだろう。

他にも、ウェブカメラやハイパーリンクの仕組みさえもプッシュの頭の中にアイデアとしてあったようだ。
通説ではインターネットやハイパーリンクのアイディアは、1960年代に生まれたという。ところが、本書によればブッシュはさらに遡ること10数年前にそうしたアイデアを温めていたという。

続いて著者は、ハイパーリンクについて語っていく。
そもそも本とは、ページを最初から最後のページまでを順に読み進めるのがセオリーだ。私自身も、そうした読み方しか出来ない。
だが、ハイパーリンクだと分の途中からリンクによって別のページと情報を参照することができる。Wikipediaがいい例だ。
そうした読み方の場合、順番の概念は不要になる。そこに、情報の考え方の転換が起きると著者はいう。つまり、パラダイムシフトだ。
もっとも私の知る限りだと、アルゼンチンの作家フリオ・コルタサルの『石蹴り遊び』は、各章を順番を問わず行き来するタイプの小説だったと思う。ちょうど、後にはやったゲームブックのように。
その形態がなぜ主流にならなかったのかは考える必要がありそうだ。

情報を断片に分け、その一部だけを得るという考えが、書籍のあり方に一石を投じる。そのような著者の主張にはうなずけるだけの説得力がある。
本を一冊まるまる読む必要もないし、本を最初から順に読む必要もない。
その考えを突き詰めると、本を買うには必要な部分だけでよい、という考えにもつながる。
それは、今の本の流通のあり方そのものに対して変革を促す、と著者は予測する。事実、今はその変革が起こっている最中だろう。まずはWikipediaによって。おそらく著者の分析と予測はあながち間違っていないと思う。

また本書では、タイムマシン・コンピューティングと言う考え方を紹介する。
それは、同じ場所に対して時間による動画や画像の記録を行うことにより、同じ場所にいながら時代を自在に行き来できる概念だ。
私が知る限り、このアイデアは現実の生活では広まっていないと思う。実際の生活で活用できるシーンがないからだろう。
おそらくそうした概念が真に世の中に受け入れられるとすれば、VRが普及した時だろう。だが、今のVRはまだ人間の五感を完全に再現できず、脳内の認識とも調和しきれていないと思っている。私も既に経験済みなだけに。

本書は、監視カメラやオーウェルが描いた監視社会についても触れている。また、別のページでは電子ペーパーや電子書籍の考えを説明し、今後はどのようなハードウエアがそうした情報機器を実現するかという論点でも考察を重ねる。
ところが、電子ペーパー自体は現代でもまだ広まっているとはいえない。それは、電子ペーパーのコストが問題になるからだ。
そもそもアプリやウェブページの技術が進んだ今、電子ペーパーがなくとも、端末1つで次々とページを切り替えられる。
だから、電子ペーパーの意味はないという著者の指摘は的を射ていると思う。
デジタル・サイネージは最近街角でもよく見るようになってきた。だが、そうした媒体も、よく見るとスマホやタブレットの延長に過ぎない。電子ペーパーである意味はあまりないのだ。
電子ペーパーを代替するデバイスは、Kindleやkoboやスマホやタブレットが実現したため、電子ペーパーという考え方はまだ時期尚早なのだろう。
その事を本書は20年近くも前に唱えていた。

本書は、感覚そのものをデジタルに変えられないかという取り組みも紹介している。
そして、そうした先進的な取り組みの成果を私たちは、生活の中で目にしている。ウエアラブル・コンピューターについても本書は紹介を怠っていない。感覚もデジタルとして受発信できる機器が、今後はますます登場することだろう。

本書の後半は、本そのものよりも情報を扱うメディアの考察に費やされている。
おそらく今後、本が情報処理や娯楽の主役に返り咲く事はほぼないだろう。それどころか、紙で書かれた本自体、図書館でしかお目にかかれなくなるに違いない。
ただ、情報を保存する媒体は何かしら残るはずだ。それがタブレットなのかスマホなのか、それとも人体のアタッチメントとして取り付けられる記憶媒体なのか。私にはわからない。

だが、情報媒体は、人の記憶そのものを保管する媒体として、近い将来、さらに革新的な変化を遂げることだろう。そして、私たちを驚かせてくれるに違いない。

20年前に出された本書であるが、鋭い視点は今もまだ古びていない。

‘2019/7/10-2019/7/21


新田義貞 下


上巻は、日野俊基が鎌倉幕府によって処刑される場面で幕を閉じる。
数度の失敗にもくじけず沸き上がる後醍醐天皇による倒幕の動き。それに対抗する幕府の対応。
新田義貞公はその合間に立ち、どちらとも決めかね、事態を静観していた。

そんな義貞公に近づいてきたのが、朝廷からの密使である刀屋三郎四郎。三郎四郎は武器商人としての利益を確保するため双方を焚き付けようと暗躍していた。

双方の思惑が風雲を巻き起こす中、義貞公は朝廷に睨みを利かせるための京都大番役に抜擢される。そして、幕府の役人として京に赴く。
それが義貞公にとっての波乱の人生の幕開けであった。

幕府の朝廷への圧力は強さを増し、ついには後醍醐天皇を隠岐の島へ流すまでに至る。
ところが、その時期に足利尊氏が幕府に反旗を翻す。そして、足利直義や高師直らによる陰謀で、足利家の下に属するような指令を義貞公にだす。
それによって穏やかならぬ義貞公。源氏を率いるべきは新田氏と足利氏のどちらなのか。足利尊氏に属することはすなわち源氏の棟梁が足利氏であることを認めることに等しい。
義貞公は足利尊氏が鎌倉を落とす前に、自分が先に鎌倉を落とさねば、と決意する。そしてついに上野の新田庄を出立する。

上巻では、お互いが鎌倉幕府の有力御家人だった頃からの足利尊氏と義貞公の関係を描いている。義貞公に対してひたすら丁重に接する足利尊氏。刺激を与えまいと配慮する中で、お互いの力を測る用心深さものぞかせている。
北条家の本拠に近く、朝廷の働きかけも盛んでないこの時期、源氏の主流を争うことは得策ではない。それよりまず、北条氏との関係をどうするか。
朝廷からの密書が届くようになってからも、下手に動いては墓穴を掘る。誰に忠君を励むのかはっきりさせるのは利口とはいえない時期だった。
その時期、足利尊氏も義貞公もお互いが敵になるとは毛頭も考えていなかったことは、本書でも何度か強調されている。
両雄が雌雄を決するにはまだ長い日数がある。

義貞公が立ち上がってからの本書は、私にとってなじみのある場面や戦いが続く。私の家の近くも登場する。
小手指ヶ原の戦いから、分倍河原の合戦へと戦場は移る。さらに関戸の戦場へと。
それらの戦いの中では、私の家の近くでも激しい戦闘も行われた事だろう。だが、本書はそうした些事には触れない。
それよりも、どうやって新田軍が足利軍を打ち破ったのか。分倍河原の戦いの全容に興味が向く。個々の先頭よりも高い視野から活写される戦いの数々。義貞公が最も冴えていたのもこの時期だったはず。

敵と味方が頻繁に入れ替わり、戦場も日本全土に及んだ太平記の時代。
鎌倉から南北朝への目まぐるしい時代を描くには、本書のボリュームでは足りない。
義貞公だけをとり上げても語るべきことはまだあるように思える。
例えば鎌倉包囲戦や、稲村ヶ崎の海を干潮時に渡って鎌倉への攻め口を開く戦いなど、北条家と新田家の戦いだけでも語るべき挿話はまだまだあるだろう。
もちろん、太刀を海に投げ入れて稲村ケ崎からの突破を祈願したことや、そもそも稲村ヶ崎を渡るために苦戦したことなどは描かれている。
だが、鎌倉への攻めこそが義貞公の人生を描くうえで最大の見せ場である以上、もう少し紙数を割いても良かった気がする。

とはいえ、義貞公が稲村ケ崎を抜いたことで、鎌倉を落とし、歴史に名を轟かせたことにかわりはない。
ところがそれ以降の義貞公の動きはあまりさえない。

後醍醐天皇に気に入られ、京の守りを申し付けられた義貞公。ところがその隙に、足利直義が鎌倉に入り、実権を握ってしまう。
そんな中、足利尊氏は建武の新政の現状に見切りをつけ、ついに天皇に反旗を翻す。
ここに至っても義貞公の動きは曖昧で、どちらに付くか旗幟を鮮明にしないまま。そのため、ついに足利尊氏との対立が避けられない情勢まで陥ってしまう。

現代に至るまで、新田義貞公の評価は芳しくない。
足利尊氏が戦後になって復権し、楠木正成は今も皇居に像が立てられているほど、尊王の士としての名声をほしいままにしている。ところが義貞公はそうした評価とは無縁だ。
なぜか。
それは時代の流れにうまく立ち回われず、時代を超えた構想を描けなかったからではないか。

例えば足利尊氏を京都から追い出す戦い。
そこでも著者は軍功があったのは楠木正成の方だとしている。
そして足利尊氏は勢力を立て直すため、九州まで兵を引き再び勢力を盛り返そうとする。
尊氏と同じように鎌倉に帰って勢力を立て直したいとする義貞公の意見は、公家によってことごとく握りつぶされる。義貞公を鎌倉に帰らせてしまうと、関東に覇をとなえ、朝廷に反旗を翻すのではないかと疑われてしまう。
北条家の後継としての野心があるのでは、と公家に曲解された義貞公。
それが足利尊氏への戦いに半端な対応を示した理由だろう。

義貞公は、本書を通じて公家に振り回されている。毅然たる態度をとらず、自分の意見を押し通さなかったこと。確固たる態度をとらず、相手の立場を忖度してしまったこと。
だからこそ、新田義貞公は時代の流れに乗れなかったのであろう。
本書で著者は、なるべく新田義貞公の立場に立って書こうとしている。だが、本書を読んでいると、義貞公は負けるべくして負けた人物に思えてくる。おそらく天下を取る器ではなかったのだろうと思うほかない。

九州から大群を率いて上京してきた足利尊氏を打ち破るにも、公家の横車が頻繁に入り、命令系統に支障をきたしてしまう。
その結果、赤松軍に大回りされて包囲された楠木正成は全滅し、義貞公は京都に逃げ帰る。逃げ帰った後で、後醍醐天皇の次に天皇となった光厳天皇を奉じ、越前で再起をかけようとする。

南北朝時代や義貞公に対する知識が疎い私は、なぜ義貞公が越前で再起を図ろうとしたのかよくわかっていなかった。
本書を通し、新田一族は上野だけでなく、越後にも地盤を広げていたことが描かれる。つまり越前の背後は新田一族の所領であった。だからこそ新田義貞公は越前を再挙の地として選んだのだろう。

ところが、燈明寺畷において義貞公は戦死を遂げてしまう。
その最後は、日本史上に名を残した武将にしてはあまりにも残念なものだった。
油断した義貞公は、少年時代の心に帰り、馬で遠掛けしようとした。
その情報が敵に筒抜けとなり、敵軍の待ち伏せに会い、死に至る。

義貞公の死によって、新田幕府が打ち立てられることはついになくなった。新田庄に残した愛妾や妻子に会うこともついに叶わなかった。
結果だけ見れば、義貞公の一生はついに負けておわった。それだけでしかない。

だが、義貞公をそれだけで片付けてよいのだろうか。
そもそも、歴史の上で勝ち続けた人はいない。勝ち続けた人物とはもちろん最終的な勝者として歴史に名を残す。歴史に名を残すことができた最終的な勝者とは、以下のような人物たちがそうだろう。
中大兄皇子、大海人皇子、藤原道長、後白河院、源頼朝、足利尊氏、豊臣秀吉、徳川家康。
だが、彼らの生涯には起伏があった。ここに挙げていない織田信長や平清盛も一時は天下を確かにつかんだ。
徳川家康もようやく晩年にチャンスをつかんだのであって、それまでは苦しい負けを乗り越えた人生だった。
歴史上を生きた数多くの人物は、勝って負けてを繰り返した。それが実情だろう。
ところが、最後に勝利したことで歴史に名を残した。そのほかの歴史を生きた無数の人々は、名を残すことすらなく死んでいった。
それを考えると、歴史に名を残すとは最後に敗れたとはいえ、とても評価されるべき業績とはいえないだろうか。

そして、義貞公の残した業績は、評価が芳しくないにも関わらず、歴史に名を残さずに死んでいったほとんどの人物よりも際立っている。
それを踏まえると、私たちが義貞公の生き方から学ぶべきことは大いにあると思う。

それだけの実績を残した義貞公だからこそ、人生から教訓とすべきこともわかりやすいように思える。
例えば、将たる者として対外的に毅然とした態度を貫くこと。その判断に権威への盲従を含めてはならないこと。刀屋三郎四郎がもたらす情報だけではなく、より自主的な情報を取りに行くべきこと。
そうしたことは、今のせわしない世の中を生きるためにも活かせる教訓だ。

将ともなれば出る杭として打たれ、率いる身としての重圧は大きい。
だからこそ、全てを丸くおさめ、調整しようとした義貞公の試みが破綻したのだろう。
どこかで調整者としての立場を打ち捨て、自分の意志を強く打ち出さねば。新田庄を出立した時のように。

私も小さいながらも組織の上に立つ身だ。本書から学んだ義貞公の生涯から、自らの判断や身の処し方について活かせることは多かった。
だからこそ、義貞公を私たちが参考にできる人物として評価したいと思う。
偉大な勝者ではなく、私たちが参考とすべき歴史上の偉人として。

今度、小手指が原の合戦地、上野の新田庄、そして最期の地となった灯明寺畷にも訪れたいと思っている。

‘2019/7/6-2019/7/10


新田義貞 上


私の家のすぐ近くを鎌倉街道が通っている。
林を抜ける切り通しと井戸の跡がよく残っており、往時の鎌倉街道の姿をしのぶことのできる場所だ。
ここを訪れるたびに、鎌倉と地方を往来した武士たちの姿がたやすく思い浮かべられる。そのため、私も折に触れて散歩で立ち寄っている。

私の家から車で鎌倉街道を少し北に向かえば、多摩川を渡る関戸橋に至る。そこには関戸の史跡が残されている。さらに北へ向かうと、分倍河原の合戦が行われた地があり、石碑も建てられている。分倍河原の駅前には、騎馬にまたがった新田義貞公の勇壮な像が立ち、往時の勇姿を今に伝えている。
逆に私の家から鎌倉街道を少し南に下ると井出の沢の合戦場があり、菅原神社の境内に碑が残されている。どれもが新田義貞公の合戦場として今に残されている。

一方、私の母は福井の出身だが、新田義貞公がなくなったのは母が通っていた藤島高校のすぐ近く。そして、新田義貞公とともに南北朝の時代を駆け抜けた楠木正成公が戦死したのは、神戸の湊川。私の出身地西宮にほど近い。

そんなふうに考えると、私と新田義貞公のご縁はいろいろとつながっているようだ。特に、鎌倉街道に近い今の家に住んでからはそれを強く感じる。一度は新田氏が出た地である新田庄を始め、新田義貞公にまつわる史跡はめぐってみたいと思っていた。

新田義貞公が活躍した南北朝時代。
太平記で知られるこの時代は、戦国時代にも劣らぬほど縦横無尽に兵たちが駆け回り、政局が目まぐるしく動いていた。
むしろ、各大名の群雄割拠と小競り合いの色が強く、時代の終盤になってようやく流れが太くなった戦国時代よりも、平泉、鎌倉、福井、京都、吉野、神戸、隠岐、福岡と日本各地を狭しと舞台としたこの時代の方が、より政局のうねりが太く能動的だったのでは、とさえ思っている。

ところが、私は今まで南北朝時代を取り上げた本はあまり読んでこなかった。太平記もまだ読んでいない。
戦国時代があらかた語りつくされたように思える昨今、南北朝に関する歴史、それも新田義貞公に関する本を読んでみるのも悪くないと思った。

著者のペンネームは名字が同じ新田氏だ。もちろん、著者の文名は広く知られており、著者の筆名の新田は出身地の場所を取っていて、新田義貞公に連なる一族ではないことも知られている。
同族ではなくても、著者も同姓のよしみで新田義貞公を扱ってみたいと思ったのだろう。本書に取り組む著者の意気込みが感じられる。
もともと、著者が描く時代小説には一定の水準が保たれている。私も、それを期待して読み始めた。

そもそも私は、新田義貞公の幼少期について何も知らない。
ある日突然、上野の国から颯爽と現れ、鎌倉を鮮やかに奪い取り、北条一族の支配する鎌倉を滅亡に追いやった。そして後に足利尊氏との戦いに敗れ、福井の灯明寺畷であえなく戦死した。
私が持っていた新田義貞公に関する知識とはそれぐらいだ。

本書を読んで思うこと。
それは南北朝時代とは、まだ朝廷、そして天皇の威光が思いのほか強かったということだ。時代をあらわす言葉に朝廷の一字が使われている事でもそれは明らか。

源頼朝が鎌倉幕府を開いて以降、朝廷は政の表に立たず、あくまでも権威としてのみ存在してきた。そして実際の政事は武士が実権を握ってきた。朝廷に政治の実権を取り戻す試みが、承久の変の結果、後鳥羽上皇などの流罪によって頓挫すると、武士の支配は盤石のものになった。私たちはそう習って来た。
特に、文永・弘安の役で元寇を撃退した鎌倉幕府と、それを束ねる北条家の威光は、朝廷の権威をより貶めたと思っていた。

ところが、鎌倉時代の末期とは、後醍醐天皇や朝廷の意向が、思いのほか強いことがわかる。特に、東国や上野の地にあっては、朝廷の勅旨や勅令、勅許は絶対的な力を持っていた。
いかな北条家といえども、天皇に対しては表立って楯突くこともままならず、それが北条家の支配を揺るがす輩の跳梁を許していた。
建武の新政が一度は成功したのも、朝廷の権威が失われていなかったからと言える。

もう一つ、本書で学んだ事。
それは、源氏の棟梁という地位の重みだ。家の棟梁を尊ぶ風潮。
本書は、そうした当時の武士たちの価値観を理解しなければ、共感しづらい。
新田氏にとっては、源氏の棟梁が足利氏にあるのか、それとも新田氏なのかという問題が何においても重要であること。
そうした事実を知らないと、本書における新田義貞公の行動は、少々間の抜けたものに映ってしまう。それは足利尊氏の行動にも言えることだ。

また、度重なる倒幕運動が露見したにもかかわらず、なぜ北条氏は後醍醐天皇に対し死罪も含めた強い姿勢で望めなかったのかと言う疑問。それも、朝廷の権威が損なわれていなかった時代の流れを知ってはじめて理解できる。
本書において、当時の価値基準は私たちのそれとは違っていたことと、その観念が世にいきわたっていた現実は踏まえておく必要がある。
一所懸命や、いざ鎌倉といった今も残る言葉に込められていた思い。それは現代の私たちからみるとはるかに強く本邦を支配していたはずだ。

また、女性の運命がはかなきものであったことも当時の世相の特徴だ。
本書には、新田義貞公を通りすぎていった幾人もの女性が登場する。初恋の女性は、北条得宗家の側室となり、新田義貞公の最初の縁組相手は、家柄のために正妻となることを許されず、側室として扱われた。後に正妻として迎えられた筑波の小田氏の娘すら、新田義貞公の亡き後の運命は描かれていない。

新田義貞公は鎌倉を落とした後、京都に軍役で呼ばれる。そして、その後の足利尊氏との絶え間ない争いに明け暮れるようになったまま、とうとう上野の新田庄には帰れない。
そして、新田庄に残された人々のその後は描かれずに終わる。

本書で悪しざまに描かれているのは、北条得宗家と公家だ。
建武の新政と称される私たちが日本史の授業で習う政治の改革も、後醍醐天皇の意思のみがすべてであり、公家に矜持はなく、それどころか武士を自分たちにとっての手足となる駒としか考えていなかった。
そんな公家たちに翻弄され、いいように使われた新田義貞公の運命。哀れに感じられる。新田義貞公が変わりゆく時代の犠牲者として今もとらえられているのも順当かもしれない。

本書には特徴がある。それは、各章の終わりに著者自身による取材ノートが挟まれていることだ。
取材した地の様子や史書を著者がどう解釈したかなど、執筆当時に抱いた著者の感想が記されている。
著者の取材は昭和五十年前後に集中しているが、中には著者が戦前に訪れた際の感想も挟まれ、開発によって失われる前の史跡の様子を色濃く残す貴重な証言となっている。
各章ごとにそうしたノートが挟まれることを、話の流れを切る邪魔と感じる向きもあるだろう。
だが、当時の価値観が理解しづらい現代からすると、著者の適切な解説は役に立つ。

‘2019/7/5-2019/7/6


今こそ知っておきたい「災害の日本史」 白鳳地震から東日本大震災まで


新型コロナウィルスの発生は、世界中をパンデミックの渦に巻き込んでいる。
だが、人類にとって恐れるべき存在がコロナウィルスだけでないことは、言うまでもない。たとえば自然界には未知のウィルスが無数に潜み、人類に牙を剥く日を待っている。
人類が築き上げた文明を脅かすものは、人類を育んできた宇宙や地球である可能性もある。
それらが増長した人類に鉄槌を下す可能性は考えておかねば。
本書で取り扱うのは、そうした自然災害の数々だ。

来る、来ると警鐘が鳴らされ続けている大地震。東海地震に南海地震、首都圏直下地震、そして三陸地震。
これらの地震は、長きにわたって危険性が言われ続けている。過去の歴史を紐解くと発生する周期に規則性があり、そこから推測すると、必ずやってくる事は間違いない。
それなのに、少なくとも首都圏において、東日本大震災の教訓は忘れ去られているといっても過言ではない。地震は確実に首都圏を襲うはずなのにもかかわらず。

本書は日本の歴史をひもとき、その時代時代で日本を襲った天変地異をとり上げている。
天変地異といってもあらゆる出来事を網羅するわけではない。飢饉や火事といった人災に属する災害は除き、地震・台風・噴火・洪水などの自然災害に焦点を当てているのが本書の編集方針のようだ。

著者は、そうした天変地異が日本の歴史にどのような影響を与えたのかという視点で編んでいる。
例えば、江戸末期に各地で連動するかのように起こった大地震が、ペリー来航に揺れる江戸幕府に致命的な一撃を与えたこと。また、永仁鎌倉地震によって起こった混乱を契機に、専横を欲しいままにした平頼綱が時の執権北条貞時によって誅殺されたこと。
私たちが思っている以上に、天変地異は日本の歴史に影響を与えてきたのだ。

かつて平安の頃までは、天変地異は政争で敗れた人物の怨霊が引き起こしたたたりだとみなされていた。
太宰府に流された菅原道真の怨霊を鎮めるため、各地に天満宮が建立されたのは有名な話だ。
逆に、神風の故事で知られる弘安の大風は、日本を襲った元軍を一夜にして海中に沈め、日本に幸運をもたらした。
本書にはそういった出来事が人心をざわつかせ、神仏に頼らせた当時の人々の不安となったことも紹介している。
直接でも間接でも日本人の深層に天変地異が与えてきた影響は今の私たちにも確実に及んでいる。

本書は私の知らなかった天変地異についても取り上げてくれている。
例えば永祚元年(989年)に起こったという永祚の風はその一つだ。
台風は私たちにもおなじみの天災だ。だが、あまりにもしょっちゅう来るものだから、伊勢湾台風や室戸台風ぐらいのレベルの台風でないと真に恐れることはない。ここ数年も各地を大雨や台風が蹂躙しているというのに。それもまた、慣れというものなのだろう。
本書は、歴史上の洪水や台風の被害にも触れているため、台風の恐ろしさについても見聞を深めさせてくれる。

本書は七章で構成されている。

第一章は古代(奈良〜平安)
白鳳地震
天平河内大和地震
貞観地震
仁和地震
永祚の風
永長地震

第二章は中世(鎌倉〜室町〜安土桃山)
文治地震
弘安の大風
永仁鎌倉地震
正平地震
明応地震
天正地震
慶長伏見地震

第三章は近世I(江戸前期)
慶長東南海地震
慶長三陸地震津波
元禄関東大地震
宝永地震・富士山大噴火(亥の大変)
寛保江戸洪水

第四章は近世II(江戸後期)
天明浅間山大噴火
島原大変
シーボルト台風
京都地震
善光寺地震

第五章は近代I(幕末〜明治)
安政東南海地震
安政江戸地震
明治元年の暴風雨
磐梯山大噴火
濃尾地震
明治三陸大津波

第六章は近代II(大正〜昭和前期)
桜島大噴火
関東大震災
昭和三陸大津波
室戸台風
昭和東南海地震
三河地震

第七章は現代(戦後〜平成)
昭和南海地震
福井大地震
伊勢湾台風
日本海中部地震
阪神淡路大震災
東日本大震災

本書にはこれだけの天変地異が載っている。
分量も相当に分厚く、636ページというなかなかのボリュームだ。

本書を通して、日本の歴史を襲ってきたあまたの天変地異。
そこから学べるのは、東南海地震や南海地震三陸の大地震の周期が、歴史学者や地震学者のとなえる周期にぴたりと繰り返されていることだ。恐ろしいことに。

日本の歴史とは、天災の歴史だともいえる。
そうした地震や天変地異が奈良・平安・鎌倉・室町・安土桃山・江戸・幕末・明治・大正・昭和・平成の各時代に起きている。
今でこそ、明治以降は一世一元の制度になっている。だが、かつては災害のたびに改元されていたと言う。改元によっては吉事がきっかけだったことも当然あるだろうが、かなりの数の改元が災害をきっかけとして行われた。それはすなわち、日本に災害の数々が頻繁にあったことを示す証拠だ。
そして、天変地異は、時の為政者の権力を弱め、次の時代へと変わる兆しにもなっている。
本書は、各章ごとに災害史と同じぐらい、その時代の世相や出来事を網羅して描いていく。

これだけたくさんの災害に苦しめられてきたわが国。そこに生きる私たちは、本書から何を学ぶべきだろうか。
私は本書から学ぶべきは、理屈だけで災害が来ると考えてはならないという教訓だと思う。理屈ではなく心から災害がやって来るという覚悟。それが大切なのだと思う。
だが、それは本当に難しいことだ。阪神淡路大震災で激烈な揺れに襲われ、家が全壊する瞬間を体験した私ですら。

地震の可能性は、東南海地震、三陸地震、首都圏直下型地震だけでなく、日本全国に等しくあるはずだ。
ところが、私も含めて多くの人は地震の可能性を過小評価しているように思えてならない。
ちょうど阪神淡路大震災の前、関西の人々が地震に対して無警戒だったように。
本書にも、地震頻発地帯ではない場所での地震の被害が紹介されている。地震があまり来ないからといって油断してはならないのだ。

だからこそ、本書の末尾に阪神淡路大地震と東日本大震災が載っている事は本書の価値を高めている。
なぜならその被害の大きさを目にし、身をもって体感したかなりの数の人が存命だからだ。
阪神淡路大地震の被災者である私も同じ。東日本大震災でも震度5強を体験した。
また、福井大地震も、私の母親は実際に被害に遭い、九死に一生を得ており、かなりの数の存命者が要ると思われる。

さらに、阪神淡路大地震と東日本大震災については、鮮明な写真が多く残されている。
東日本大震災においてはおびただしい数の津波の動画がネット上にあげられている。
私たちはその凄まじさを動画の中で追認できる。

私たちはそうした情報と本書を組み合わせ、想像しなければならない。本書に載っているかつての災害のそれぞれが、動画や写真で確認できる程度と同じかそれ以上の激しさでわが国に爪痕を残したということを。
同時に、確実に起こるはずの将来の地震も、同じぐらいかそれ以上の激しさで私たちの命を危機にさらす、ということも。

今までにも三陸海岸は何度も津波の被害に遭ってきた。だが、人の弱さとして、大きな災害にあっても、喉元を過ぎれば熱さを忘れてしまう。そして古人が残した警告を無視して家を建ててしまう。便利さへの誘惑が地震の恐れを上回ってしまうのだ。
かつて津波が来たと言う警告を文明の力が克服すると過信して、今の暮らしの便利さを追求する。そして被害にあって悲しみに暮れる。

そうした悲劇を繰り返さないためにも、本書のような日本の災害史を網羅した本が必要なのだ。
ようやくコロナウィルスによって東京一極集中が減少に転じたというニュースはつい最近のことだ。だが、地震が及ぼすリスクが明らかであるにもかかわらず、コロナウィルスがなければ東京一極集中はなおも進行していたはず。
一極集中があらゆる意味で愚行の極みであることを、少しでも多くの人に知らしめなければならない。

本書は、そうした意味でも、常に手元に携えておいても良い位の書物だと思う。

‘2019/7/3-2019/7/4


天国でまた会おう 下


上巻では、戦争の悲惨さとその後の困難を描いていた。
その混乱の影響をもっとも被った人物こそ、エドゥアールだ。
戦争で負った重い傷は、エドゥアールから言葉と体の動きを奪った。さらに破壊された顔は、社交の機会も失わせた。

そのような境遇に置かれれば、誰でも気が塞ぐだろう。エドゥアールも半ば世捨て人のようにアルベールの家にこもっていた。
ところが、顔を隠すマスクを手に入れたことによって、エドゥアールの生活に変化が生じる。
そしてエドゥアールは良からぬことをたくらみ始める。それに巻き込まれるアルベール。

本作においてアルベールは、気弱でおよそ戦いの似合わない青年である。常に他人の意志に巻き込まれ、振り回され続ける。
そのような人物すらも兵士として徴兵する戦争。
戦争の愚かさが本書のモチーフとなっている事は明らかだ。

上巻のレビューに書いた通り、戦争は大量の戦死者を生む。そして、戦死者を丁重に葬るための墓地も必要となった。戦死した兵士たちの亡骸を前線の仮の墓地から埋葬し直す事業。それらはプラデルのような小悪党によっては利権のおいしい蜜に過ぎない。
プラデルによって安い作業員が雇われ、彼らによっていい加減な作業が横行する。おざなりな調査のまま、遺体と名簿が曖昧になったままに埋葬される。
国のために戦った兵士たちの尊厳はどこへ。

国のために戦った兵士も、小悪党の前には利潤をうむモノでしかない。
そんな混乱の中、国によって兵士の追悼事業を催す計画まで持ち上がる。
そこに目を付けたのがエドゥアールだ。
その企画に乗じ、架空の芸術家をでっち上げ、全国の自治体に追悼記念碑<愛国の記念>なる像を提供すると称し、金を集める。
そんなエドゥアールの意図は、プラデルの悪事と似たり寄ったりだ。

だが、大きく違う事がある。それはエドゥアールには動機があったことだ。
戦争をタネに一儲けしようとするエドゥアールの姿勢は、戦争への復讐でもある。戦争によってふた目とは見られない姿に変えられたエドゥアールには、戦争へ復讐する資格がある。
そして、戦争の愚かさをもっとも声高に非難できるのもエドゥアールのような傷痍軍人だ。
ただし、本書の語り手はエドゥアールではないため、エドゥアールの真意は誰にも分からない。不明瞭な発音はエドゥアールの真意を覆い隠す。

そもそも、おびただしい数の傷痍軍人はどのように戦後を生きたのだろう。
戦後を描いた小説には、しばしば傷痍軍人が登場する。彼らは四肢のどれかをなくしたり、隻眼であったりする。彼らは、戦争の影を引きずった人物として描かれることはあったし、そうした人物が戦争を経験したことによって、性格や行動の動機にも影響はあったことだろう。だが、彼らの行動は戦争そのものを対象とはしない。なぜなら戦争は既に終わった事だからだ。
本書は、エドゥアールのような傷痍軍人に終わった戦争への復讐を行わせる。その設定こそが、本書を成功に導いたといってもよい。
エドゥアールのたくらみとは、まさに痛快な戦争へのしっぺ返しに他ならない。

エドゥアールの意図には金や報復だけではなく、別のもくろみもあった。
それは、エドゥアールの芸術的な欲求を存分に活かすことだ。芸術家として自分のデッサンを羽ばたかせ、それを評価してもらう喜び。
親が富裕な実業家であるエドゥアールにとって、自分の芸術への想いは理解されないままだった。それが戦争によって新たなる自分に生まれ変わるきっかけを得た。

エドゥアールにとって、戦争は単なる憎しみの対象ではない。憎むべき対象であると同時に、恩恵も与えてくれた。それが彼の動機と本書の内容に深みを与えている。

そのようなエドゥアールを引き留めようとしていたはずのアルベールは、いつのまにかエドゥアールのペースに巻き込まれ、後戻りが出来ないところまで加担してしまう。
一方、後戻りができないのはプラデルも同じだ。
戦争中の悪事は露見せずに済み、戦後も軍事物資の横流しによって成り上がることができたプラデル。
だが、彼の馬脚は徐々に現れ、危機に陥る。

エドゥアールとプラデルの悪事の行方はどこへ向かうのか。
そしてエドゥアールの生存を実業家の父が知る時は来るのか。
そうした興味だけで本書は読み進められる。

こうして読んでみると、第一次大戦から第二次大戦への三十年とは、欧州にとって本当に激動の時代だったことが実感できる。

社会の価値観も大きく揺れ動き、新たな対立軸として共産主義も出現した。疲弊した欧州に替わってアメリカが世界の動向を左右する存在として躍り出た。
国の立場や主義が国々を戦争に駆り立てたことは、政府へある自覚を促した。それは、政府に国民の存在を意識させ、国民を国につなぎとめ、団結させる必要を迫った。

政府による国民への働きかけは、それまでの欧州ではあまり見られなかった動きではないだろうか。
だが、働きかけは、かえって国民の間に政府への反発心を生む。
それを見越した政府は、戦争という犠牲を慰撫するために催しを企画し、はしこい国民は政府への対抗心とともに政府を利用する事を考えた。
そのせめぎ合いは、政府と国民の間に新たな緊張を呼び、その不満を逸らすために政府はさらに戦争を利用するようになった。
それこそが二十世紀以降の戦争の本質ではないかと思う。

本書をそうやって読みといてみると、エドゥアールやプラデルの悪巧みにも新たな視点が見えてくる。

そうした世相を描きながら、巧みな語りとしっかりした展開を軸としている本書。さまざまな視点から読み解くことができる。
まさに、称賛されるにふさわしい一冊だ。

‘2019/6/29-2019/7/2


天国でまた会おう 上


本書は評価が高く、ゴンクール賞を受賞したそうだ。

本書は第一次世界大戦の時代が舞台だ。悲惨な戦場と、戦後のパリで必死に生きる若者や元軍人の姿を描いている。

第一次世界大戦とは、人類史上初めて、世界の多くが戦場となった戦いだった。しかも、それまでの戦争にはなかった兵器が多数投入され、人道が失われるほどの残虐さがあらわになったことでも後世に語り継がれることだろう。
ただ、第一次大戦の時は、戦争とはまだ戦場で軍人たちによって戦われる営みだった。市街地が戦場になることは少なく、一般市民にはさほど害が及ばなかった。だから、一般には戦争の悲惨さが知られたとは言い難い。

二十年後に勃発した第二次世界大戦では、空襲、原爆、島を巡る熾烈な戦い、ホロコースト、虐殺の映像が無数に記録されている。それに比べ、第一次世界大戦には映像や動画があまり残っていないことも、私たちの印象を弱めている。
第一次世界大戦の実相を私たちが目にすることは少ないし、大戦中にそれほど大規模な戦闘が行われなかった東洋の果ての私たちにとってはなおさらだ。

だが、第一次大戦とは人類の歴史にとって記録されるべき戦争なのだ。飛行機や戦車、毒ガスなどの兵器は兵士たちの肉体を甚だしく損ない、たくさんの傷痍軍人を生み出した。
それまでの戦争とは違い、人道に反する兵器が多数投入されたこと。それゆえ、第一次世界大戦とは人類の歴史でもエポックに残る出来事であることは間違いない。

人類にとってはじめての大規模な戦いだった第一次世界大戦は、もう一つ、新たな概念を人類にもたらした。それは戦後処理の概念だ。
大規模な戦線が構築されたことは、大量の兵士の徴兵につながった。
彼ら兵士は、戦争が終われば戦場からの帰還者となる。しかも、その中にはひどい傷を負った大勢の兵士がいた。また、戦死者もそれまでの戦争とは段違いに多かったため、葬るための墓も用意しなければならなかった。さらに、徴兵されて職を失った兵士が一斉に復員することになり、失業問題も発生した。

国としてそれまで経験のなかった戦後処理。それをどうさばくのか。国のために戦った兵士に対してどう報いるのか。やることは山積みだ。

兵士たちは兵士たちで、戦後の自らの生活の糧をどうやって得るのか考えなければならない。誰にとっても経験のない大規模な戦争は、国と国民に多大な被害をもたらした。そんな悲惨な戦場の後遺症を人々はどう乗り越えたのか。

本書はそういった時代を生き生きと描いている。

本書の主人公であるアルベール・マイヤールとエドゥアール・ペリクールは、塹壕の中で深い絆を結んだ。
上官の策略によって生き埋めにされてしまったアルベールをエドゥアールが助けたことによって。
だが、エドゥアールが助けてくれたため、アルベールは命を永らえることができたが、砲弾がエドゥアールの下顎を永久に失わせてしまった。

自分の命の恩人であるエドゥアールに恩義を感じ、戦後もともに生活を続ける二人。
エドゥアールは下顎を失ったことから言語がはなはだしく不自由となり、アルベールとしか意思を通ずることが出来ない。
しかも顔の形は生前から大きく損なわれ、その変貌は肉親ですら気づかないと思われるほど。

エドゥアールの父マルセルは富裕な実業家。エドゥアールはその後継ぎとして期待されていた。だが、エドゥアールの芸術家としての心根は、実業家としての道を心の底から嫌っていた。
自分が戦死したことにすれば、後を継ぐ必要はなくなる。
そんなエドゥアールの意思をくんだアルベールは、エドゥアールを戦死した別人として入れ替え、エドゥアールを戦死したものとするように細工をする。

それによってエドゥアールは自分の世界に浸ることができ、アルベールは罪の意識にさいなまれる。

一方、エドゥアールの姉マドレーヌは、父の会社を継ぐはずだった弟の死がいまだに受け入れられない。会社はどうなってしまうのか。父の落胆の深さを知るだけにマドレーヌの心は痛む。
そんなマドレーヌに巧みに近づいたのがプラデル。彼は大戦中、エドゥアールとアルベールの上官だった。
そもそもアルベールが塹壕に生き埋めにされたのも、プラデルの悪事に気づいたからだ。

だが、プラデルの悪事は誰にも気づかれずに済んだ。それどころか、大戦後のプラデルは軍事物資の横流しによって一財産を築くことに成功した。
そして、首尾よくマドレーヌと結婚することによって大物実業家のペリクールの娘婿に収まる。

後ろ盾を得たプラデルは、その勢いを駆って、よりうまみのある利権を漁る。
その利権とは、大戦で亡くなった大勢の兵士のための墓だ。
おびただしい数の兵士がなくなり、彼らの墓を埋める人も土地も足りない。前線の粗末な墓にとりあえず埋められた兵士たちの亡骸を戦没者追悼墓地に埋めなおさねば、国のために命を捧げた兵士と遺族に顔向けが出来ない。
その作業を請け負ったのがプラデルだ。

プラデルはここでも請け負った費用の利潤を少しでも浮かせるため、作業の費用を極端に切り詰める。それは作業員の質の低下につながるがプラデルは意にも介さない。懐が潤えばそれでよいのだ。

大戦によって濡れ手で粟を掴むプラデルのような人物もいれば、エドゥアールとアルベールのように食うや食わずの日々を送る若者もいる。

上巻は、第一次世界大戦の悲惨さと戦後のただれた現実を描く。

‘2019/6/20-2019/6/28


メデューサの嵐 下


下巻では、着陸する空港を求めてあちこちを飛び回るスコットの苦闘が描かれる。
メデューサが野放しになっている事実は、アメリカ中が知ることとなった。ペンタゴンやCIAも、とんでもない兵器が空にある事態を把握する。一方で、アメリカを危機に陥れた犯罪者がすでに亡くなったロジャーズではなくヴィヴィアンによってなされたと考え、捜査するFBIも。
さまざまな思惑を持つ人々がそれぞれの立場で事態を掌握しようとするため、なかなかうまくいかない。

もっともやっかいなのは、メデューサを無傷で確保したいとの軍の一部の思惑だ。
まだどの国も開発に成功していないメデューサウェーブが今、合衆国の上空にある。それは軍にとって願ってもないチャンスだ。この兵器を可能な限り無傷で入手し、内部を解析することによって、アメリカによる世界の覇権はより一層強固なものとなる。
アメリカに無限の力がもたらされるメデューサは、軍が確保しなければならない。
そう確信した一部の軍人は、兵器を遺棄したいと願うスコットを欺き、スコットの飛行機を軍の飛行場に着陸させようと画策する。

ところがスコットのそばには、兵器の実際の開発者であるロジャーズの妻ヴィヴィアンがいる。かつてロジャーズと一緒に研究職に就いていたヴィヴィアンにとって、ロジャーズの能力はよく知っている。この兵器を完成させてもおかしくないことも。
ロジャーズがやると決めたら必ず実行する。軍がいかに知恵をめぐらそうとも、安全に解体することなど不可能。メデューサは軍が生半可に扱えるような代物ではない。そして、処置を誤ったが最後、アメリカ中の電子機器は使い物にならなくなり、アメリカは二度と立ち上がれないほどのダメージを被る。

ヴィヴィアンからそのような事を聞いたスコットは、アメリカを救わねばという使命につき動かされる。そして、策をめぐらせながら機を飛ばし続ける。スコットエアも自分自身もそしてクルーも最後まであきらめることなく、どうやればメデューサを安全に処分するかを考えながら。

そのスコットからみて、軍のおかしな動きは怪しむに十分だった。軍が自らを欺きメデューサを手中に収めようとしているのではないか、と。その疑いが確信に高まり、いったんは着陸した空港から、軍の制止を振り切って再び離陸への道を選ぶ。
物語を盛り上げるため、このような余計な画策をする役割の人物は必要だ。軍人としての動機がもっともなだけに、スコットを再び空へと送り出す展開も無理やりな感じは受けない。

軍の用意した飛行場が頼りにならないとなれば、もうスコットにとれる道はすくない。時間は少ない。そこで彼がどういう決断を下すのか。

超巨大台風とメデューサ。熱核爆弾としての側面も持つメデューサが爆発すれば、電磁波だけでなく、自身も一瞬にして塵と化す。
そのような極限状況にあって、ある人はパニックに陥り、ある人は判断力を失う。だが、ヒーローでなくとも、集中力を高められる人もいる。本書のスコットのように。
もともと航空機のパイロットは高度な知識と集中力を擁する仕事だという。
本書のような事態に巻き込まれたとしても、スコットが毅然と対処できることはある意味理にかなっている。空軍のもと戦闘機載りの経歴ならなおさら。

おそらく著者も自身や仲間のパイロットの姿をみていたはず。その素養は承知していたため、本書のような設定も著者には荒唐無稽とは考えていなかったのだろう。

飛行機とはただでさえ、一瞬の操作ミスが命の危機に直結する。
だから、もともとサスペンスの題材としては適している。
そして著者にパイロットとしての知識があったならば、飛行機を題材とした本書のようなサスペンスは面白いはずだ。

実際、本書を読む間は手に汗を握るような展開が連続する。本書のように極上の緊張感を楽しめるのは、読者としての喜びだ。

ただ、本書には物足りない点もあった。
正直にいうと、本書の登場人物にはもう少し深みがあっても良かったと思う。
たとえばスコットがなぜ一人で貨物便を扱うスコットエアを創業したのか。上巻の冒頭でそのあたりのいきさつには多少は触れられる。だが、あまりスコットが貨物会社を創業した動機には挫折があまり感じられなかった。
さらに、重要な役回りを演じるドクやジェリーの人物ももう少し深く掘り下げてもよかったのではないだろうか。

そしてリンダにも同じ物足りなさがつきまとう。なぜ南極からの観測データを焦って積み込まねばならないのか。そこに環境学者としての彼女が抱いていた地球温暖化の危機感を書き込めば、より彼女の強引な行為の理由が理解できたはず。

結局、本書で一番無茶な企てを仕掛けたロジャーズと、その企みにまんまとはめられたヴィヴィアンの元夫婦が、人物の中でもっとも深みがあったように思うのは私だけだろうか。
彼らの闇の暗さと、たくらみや巻き込まれた事件はもっとも現実に考えにくい役回りだったにもかかわらず。

だが、そうした欠点など取るに足りないと思えるぐらい、本書は航空機とそれを舞台にしたサスペンスの書き方に長けていたと思う。
あえて人物の書き方に注文を付けたのも、それだけ本書のサスペンスとしての構成がしっかりしていたからだ。

このあたりのバランスをどうすればよかったのかは、結果論に過ぎない。
一つだけいえるのは、本書が極上のサスペンスだったこと。それを読めて楽しめたことぐらいだ。

本書は余韻の描き方もとてもよかった。この終わり方によって、沸騰していた物語に締めくくりが付けられたように思える。

‘2019/6/19-2019/6/19


メデューサの嵐 上


本書は、だいぶ長い間、私の部屋で積ん読になっていた一冊だ。
ちょうど読む本が手元になくなったので手に取ってみた。

本書は、今まで積ん読にしていたのが申し訳ないほど面白かった。
何が面白かったかと言うと、飛行機の運転操縦に関する知識が深く、臨場感に満ちていたことだ。それもそのはずで、著者はもともと貨物便のパイロットをしていたそうだ。

本書の主人公であるスコットもまた零細貨物航空会社スコットエアの経営者であり、パイロットだ。そのスコットエアを運営しながら、綱渡りの経営を続け、営業で案件をとってきては収入を運営につぎ込む。その姿は、私と弊社そのもの。だから感情移入ができた。

しかも、本書の主人公の場合、実際の貨物便を所持している。
という事は、維持費がかかる事を意味する。また、それを運行するためのスタッフも雇わねばならない。
スタッフとはスコットエアの場合、副操縦士のジョン・ドク・ハザードと機関士のジェリー・クリスチャンだ。
スコットエアにはスタッフも大きな機器もある。だから、弊社のようにパソコンだけを持っていれば済むはずがない。
スコットの経営は、私よりもさらに過酷であり、綱渡りの連続であるはずだ。

さて、本書のタイトルにもなっているメデューサとは、メデューサウェーブを発する兵器の事だ。もちろん実在しない。著者の造語だ。
メデューサウェーブとは、強力な電磁波。その強力な電磁波によって、電子と磁気の情報で成り立っている情報機器を一撃で無効にできる。つまりデータを破壊できるのだ。
世界中のハードディスクに保存されているあらゆる情報や、ネットワーク上を行き来する電気信号。そうした情報は電子データであり、電子データが安全に保持されることが社会のあらゆる活動の前提となっている。
だが、メデューサウェーブによってそれらが一気に無効になるとすれば、その恐ろしさは計り知れない。実際、複数の国の兵器関係者は今も研究しているはずだ。

もしそのような恐ろしい兵器が、在野の一科学者によって作り上げられたとしたら。そして、その科学者が狂った動機をもとにその兵器を実際に稼働させようとしたら。もしその兵器がスコットの操縦する貨物機に積まれていたとしたら。
本書はそうした物語だ。全編がサスペンスに溢れている。

その科学者ロジャーズ・ヘンリーは、離婚した妻ヴィヴィアンに対して復讐しようとしていた。そして彼の復讐の刃は自分の才能を認めようとしなかった合衆国政府にも向けられていた。
そんなロジャーズの狂った執念を一石二鳥で実現したのがこのメデューサウェーブ。
ガンで自らの余命がいくばくもない事を知ったロジャーズは、ヴィヴィアンに連絡を取る。
その時、ヴィヴィアンは離婚したことによって収入のあてがたたれ、困窮状態にあった。
死の床で寝込んでいたロジャーズからの頼みを断れずに引き受けてしまったことが、本書の発端となる。

メデューサに巧妙な仕掛けを組んでいたそのロジャーズは、自ら命を断つ。
そしてヴィヴィアンは、生計がいよいよ立ち行かなくなり、ロジャーズの頼みを実行する。
ロジャーズの頼みとはヴィヴィアンも同伴したまま、貨物便にその箱に似た兵器を積み込む事。
しかし、積み込まれるべきだったメデューサは、手違いで積み込まれるべき貨物便とは違う便に積み込まれた。その飛行機こそ、スコットの操縦する飛行機だった。そしてスコットがそのまま飛行機を離陸させたことで、メデューサは空に解き放たれてしまう。
巧妙にも、ヴィヴィアンのペースメーカーと兵器を同期させるようにしていたロジャーズは、ワシントンの上空で兵器を作動させる。
兵器の電子コンソールには、ヴィヴィアンが離れると兵器をすぐに稼働させるという脅迫の文字が。

飛行機は着陸もできなければ、兵器を処分することもできない。つまり、燃料の切れるまで飛び続ける羽目に陥る。
しかも間の悪いことにアメリカに最大級の台風が襲来している。つまり、スコットは巨大な台風の中を、いつ爆発するとも知れない兵器とともに飛び続けなければならない。

貨物の積み込みや、空港での手続き。そして実際の操縦や航空機の形に関する知識。
そうした知識がないまま、本書のような物語を書くと、非現実的な設定に上滑りしてしまう。
だが、冒頭に書いた通り著者はもともと飛行機会社を経営していたという。そうしたキャリアから裏付けられた説得力が本書に読みごたえを与えている。

同時に著者は、兵器の情報がどのようにしてマスコミに漏れ、それがどのように世間を騒がせるかについてもきちんとリサーチを行っているようだ。
危険極まりない兵器が空を飛び回っていることを知った世間はパニックに陥る。
そのいきさつもきちんと手順を踏んでおり、無理やりな感じはしない。だから、本書からは説得力が保たれている。

今の社会は電子データに従って動いている。どこにでもありふれているが、ひとたび混乱すれば、世界の仕組みは破滅し、アメリカの覇権は雲散霧消する。
メデューサウェーブのような兵器の着想は、おそらく他の作家にも生まれていることだろう。だが、私にとっては本書で初めて出会った。それだけに、新鮮だった。

スコットの操縦する飛行機には、ドクとジェリー、ヴィヴィアンの他にもまだ乗客がいる。
南極での調査を終え、政府研究機関に至急渡したいからと荷物を運んでほしいと強引に乗り込んできた女性科学者のリンダ・マッコイ。
この5名の間にコミニケーションが取られながら、5人でどのようにして協力し合い、危機を脱するのか、という興味が読者をつかんで離さない。

実際のところ、本書の核心度や描き方、物事の進め方やタイミングなど、あらゆる面で第一級のサスペンスで、まさにプロの描いた小説そのものである。
才能の持ち主が知識を備えていれば、本書のような優れたサスペンスになるのだ。

いったいスコットたちはどのように危機を乗り切るのだろうか。下巻も見逃せない。

‘2019/6/14-2019/6/19


ミステリークロック


「トリックの奇術化とは、まさにそういうことなんですよ。機械トリックは、奇術で言えば種や仕掛けに当たりますが、それだけでは不完全です。言葉や行動によるミスリードなどで、いかに見せるかも重要になります。機械的なトリックは、人間の心理特性を考慮した演出と相まって、初めて人の心の中に幻影を創り出すことができるんです」(202-203ページ)

これは本書の中である人物が発するセリフだ。
機械的なトリックとは、古今東西、あらゆる推理作家が競うように発表してきた。
謎にみちた密室がトリックを暴くことによって、論理的に整合性の取れた形で鮮やかに開示される。その時の読者のカタルシス。それこそが推理小説の醍醐味だといっても良い。
その再現性や論理性が美しいほど、読者の読後感は高まる。機械的なトリックこそは、トリックの中のトリックといえる存在だ。

冒頭に引用したセリフは、まさに著者が目指すトリックの考えを表していると思う。

本編にはそうしたトリックが四編、収められている。

「ゆるやかな自殺」
冒頭の一編は、さっそく面白い密室トリックを堪能できる。
やくざの事務所で起こった事件。やくざの組事務所とは、読者にとっては異空間のはずだ。入ったことのある人はそうそういないはず。私ももちろんない。
その事務所内に残された、一見すると自殺にしか見えない死体。
事務所の性格から、厳重に施錠された組事務所に誰も入れなくなったため、鍵を開けるために呼ばれた榎本。彼は、現場の様子を見るやいなや、自殺の怪しさに気づいてしまう。

本編は登場人物にとっても密室だが、読者の通念にとっても密室である。そこが本編のポイントだ。
なぜなら、組事務所という舞台設定は、読者にとって堅牢な固定観念がある。そのため、読者は勝手に想像が膨らませ、著者の思惑を超えて密室を構成する。
そのミスリーディングの手法がとても面白いと思った一編だ。

「鏡の国の殺人」
美術館「新世紀アート・ミュージアム」で起こった殺人を扱った一編。
新世紀とか現代美術という単語が付くだけで、私たちはなにやら難解そうな印象を抱いてしまう。

本編も野心的な光によるトリックが堪能できる。
「新世紀アート・ミュージアム」という、いかにも凝った仕掛けの美術館。つまり、仕掛けは何でもありということだ。
そして、執拗なまでに監視カメラが厳重に設置される館内において、どのように犯人は移動し、殺人を犯したのか。その謎は、どのような仕掛けによって実現できたのか。
トリックの醍醐味である、変幻自在な視覚トリックが炸裂するのが本編だ。

視覚トリックと言えば、私たちの目が錯視によってたやすく惑わされる事はよく知られている。
今までにもエッシャーのだまし絵や、心理学者によるバラエティに富んだ錯視図がたくさん発表されていることは周知の通りだ。
それらの錯視は、私たちの認知の危うさと不確かさを明らかにしている。

著者にとっては、本編のトリックは挑み甲斐のあるものになったはずだ。
本編は、錯視を使ったトリックもふんだんに使いつつ、他のいろいろなトリックも組み合わせ、全体として上質の密室を構成している。そこが読みどころだ。

「ミステリークロック」
山荘で起こった密室殺人。鉄壁のアリバイの中、どのようにして犯罪は行われたのか。
さも時刻が重要だと強調するように、本編では時刻が太字で記されている。

現代の作家の中でも伝統ある本格トリックに挑む著者。本編はその著者が、渾身の知恵を絞って発表した意欲的なトリックだ。
時計という、紛れもなく確かで、そして絶対的な基準となる機械。その時計を、いくつも使用し、絶対確実な時間が登場人物たちの上を流れていると錯覚させる。

記述される時間は太字で記され、読者自身にも否応なしに時間の経過が伝わる。
その強調は、時間そのものにトリックの種があることを明らかにしている。だが、読者がトリックの秘密に到達することは絶対にないだろう。多分、私も再読しても分からないと思う。

ミステリークロックと言うだけあって、本編は時計に対する記述の豊かさと絶妙なトリックが楽しめる一編だ。
冒頭に挙げたトリックに対するある人物のセリフは、本編の登場人物が発している。

本編は、時間という絶対的な基準ですら、人間の持つ知覚の弱点を突けば容易に騙される事実を示している。
これは同時に、人間の感覚では時間の認識することができず、機械に頼るしかない事実を示している。
機械の刻む時が絶対と言う思い込み。それこそが、犯罪者にとっては絶好のミスディレクションの対象となるのだ。

本編は、その少し古風な舞台設定といい、一つの建物に登場人物たちが集まる設定といい、本格ミステリーの王道の香りも魅力的だ。
工夫次第でまだまだトリックは考えられる。そのことを著者は渾身のプライドをもって示してくれた。
本編はまさに表題を張るだけはあるし、現代のミステリーの最高峰として考えても良いのではないだろうか。

「コロッサスの鉤爪」
深海。強烈な水圧がかかるため、生身の人間は絶対に行くことができない場所だ。
深海に潜る艇こそは、密室の中の密室かもしれない。
潜水服をまとわないと、艇の外に出入りすることは不可能だ。また、潜水服を着て外に出入りできたとしても、何千メートルの深海から命綱なしで海面にたどり着くことは不可能に近い。

そんな深海を体験したことのある読者はほとんどいないはず。なので、読者にとって深海というだけで心理的な密室として認識が固定されてしまう。その時点ですでに読者は著者の罠にはまっている。

そうした非現実的な場所で起こった事件だからこそ、著者はトリックを縦横無尽に仕掛けることができる。そしてその謎を追う榎本探偵の推理についても、読者としては「ほうほう」とうなずくしかない。
それは果たしてフェアなのだろうか、という問いもあるだろう。
だが、密室ミステリとは、犯罪が不可能な閉じられた場所の中で、解を探す頭脳の遊びだ。
だから本来、場所がどこであろうと、周りに何が広がっていようと関係ないはずだ。その場所に誰が行けるか、誰が事件が起こせるか。
その観点で考えた時、トリックの無限の可能性が眠っているはずだ。
それを教えてくれた本編は素晴らしい。

今や、ミステリの分野でトリックのネタは尽きたと言われて久しい。
ところが、人の心理の騙されやすさや、人の知覚の曖昧さにはまだ未知の領域があるはず。
そこに密室トリックが成り立つ余地が眠っていると思う。
本書のように優れたトリックの可能性はまだ残されているのではないだろうか。

本書にはミステリの可能性を示してくれた。そして頭脳を刺激してくれた。

‘2019/6/12-2019/6/13


掏摸


著者の「教団X」は衝撃的な作品だった。私は「教団X」によって著者に興味を持ち、本書を手に取った。

本書は欧米でも翻訳され、著者の文名を大いに高めた一冊だという。
「掏摸」とはスリのこと。いかに相手に気づかれずサイフの中の金品を掏り取るか。数ある罪の中でも手先の器用さが求められる犯罪。それがスリだ。
もし犯罪を芸術になぞらえる事が許されるなら、スリは犯罪の中でも詐欺と並んで芸術の要素が濃厚だと思う。

スリは空き巣に近いと考えることもできるが、空き巣は大抵の場合、場所の条件によって成否が大きく左右される。
さらに、持ち主が被害に気づきやすい。大事になる。

ところが手練れのスリになれば、移動の合間にサイフの中身を抜き取り、持ち主が気づかぬうちに元の場所に戻すこともできる。
相手に盗まれたことすら気づかれぬうちに財布を戻し、しかもサイフの中の全ての金品を奪わずに、少しだけ残しておく。
そうすることで、極端な場合、移動を繰り返す被害者が、移動中のどこかで落としたぐらいにしか思わないことさえある。
被害者に犯罪にあったことさえ気づかせない犯罪こそ、完全犯罪といえるだろう。

そこには、本来、悪が持っている、やむにやまれぬ衝動ではなく、より高尚な何かがある。
それこそが他の犯罪に比べスリを芸術となぞらえた理由だ。
スリ師の一連の手順には、手練れになるまでの本人なりの哲学さえ露になる。
スリを行う上で、何に気をつけ、どういう動機で行うか。それはスリではないとわからないことだ。
むしろ、生き方そのものがスリとなっているのだろう。

だからこそ、著者はスリを取り上げたのだろう。
スリの生態や動機を知らべ、その生きざまを主人公の行動を通して明らかにし、文学として昇華させようとしたのだろう。
本書に描かれたさまざまなスリの生態。それはスリの営みが犯罪である事を踏まえても、犯罪として片付けるだけでは済まない人としての営みの本質が内包されているようにすら思える。
ただし、スリはあくまでも犯罪だ。スリを礼賛することが著者の狙いではない。

スリとはすなわち手口でしかない、いうなれば小手先の芸術。
そこには、何か作家の琴線に触れる職人的な魅力が備わっているのだろう。

本書には主人公の生き方を否定するかのような、さらに本格的な悪が登場する。
その悪の前には主人公の罪など、しょせん生きるためのアリバイに過ぎないとさえ思える。
思うに著者は、悪の本質を描くため、より軽微なスリという犯罪から描きたかったのではないか

著者は本書で悪の本質を追求したかったのだろう。
それを著者は本書に登場する絶対的な悪、つまり木崎の存在として読者に提示される。

絶対的な悪を体現した人物、木崎は、相手に対する一切の忖度をかけない。
そればかりか、主人公を否定すらしない。ただのモノとして、道具として扱う。

木崎の絶対的な悪に対し、主人公には甘さがある。
万引を繰り返す母子に同情をかける主人公。
子供は親の万引の片棒を担がせられている。そして、母はつぎつぎと男を引っ張り込む売春婦だ。
主人公は、彼らの万引の現場に居合わせる。そして彼らの手口が店側にばれていること。次に同じ現場で犯行を行うと、捕まることを母子に忠告する。
そのような主人公の同情を察し、子は主人公のもとに転がり込む。自らの境遇に嫌気がさして。

誰にとっても、人生とはつらく苦しいものだ。
ところが親にとって道具とされる子にとっては、辛い以前に人生とは万引そのものでしかない。何も将来が見えず、何の希望も知らない日々。
主人公のように、スリという犯罪を芸術として楽しむ余裕や視野すらない。より、憐れむべき存在。
だから主人公は子に同情する。そして憐れむ。

ところが絶対的な悪木崎にとっては、主人公が子にかける同情は一片の値打ちすらない。それどころか相手を意のままに操る弱みとして映る。
主人公は母子を人質にされ、木崎の命に従うことを強いられる。

主人公は木崎からスリを要求される。その難易度の高い手口とスリリングな描写は本書のクライマックスでもある。
主人公はどうやって不可能にも思えるスリを成し遂げるのか。
その部分はエンターテインメントに似た読み応えがあって面白い。

だが、本書には別の読みどころもある。それは絶対的な悪、木崎その人が悪の本質を語る場面だ。

「お前がもし悪に染まりたいなら、善を絶対に忘れないことだ。悶え苦しむ女を見ながら、笑うのではつまらない。悶え苦しむ女を見ながら、気の毒に思い、可哀そうに思い、彼女の苦しみや彼女を育てた親などにまで想像力を働かせ、同情の涙を流しながら、もっと苦痛を与えるんだ。」(119ページ)
「俺は人間を無残に殺したすぐ後に、昇ってくる朝日を美しいと思い、その辺の子供の笑顔を見て、なんて可愛いんだと思える。それが孤児なら援助するだろうし、突然殺すこともあるだろう。可哀そうにと思いながら!」(119ページ)

木崎によれば、この世とは「上位にいる人間の些細なことが、下位の人間の致命傷になる。世界の構造だ。」(140ページ)

その考えをつきつめると、最大の悪に行き着く。悪とは人の人生を完全に操ることだと木崎は語る。
木崎は、ある男の一生を例に挙げる。人生のすべての運命や出会いを知らぬ間に操られ続けた男。懸命に生きてきたと本人は信じているのに、すべての幸運も不幸も、出会いや別れさえもすべて上位のある存在にお膳立てされていたことにすぎなかった。それを知った時の男の絶望。

悪とは何をさすのか。
それは他人の人生への介入であり、支配ではないだろうか。
木崎の哲学はそこに行き着く。
自らを上位に立つ人間として位置づけ、絶対的な悪への信念にもとづき、他人を自らを支配する。
木崎の行動の動機はそこにある。その支配がさらに自らを上位に押し上げ、より純粋な悪へと昇華させる。

われわれ小市民が考える悪とは、自分自身を少しでも楽にするための営みに過ぎない。
木崎の考える悪とは、さらに他人の支配も絡める。例えば相手の体を傷つけたり、相手の金品を盗んだり、相手の生命を奪うといった。それこそが悪の一面だが、ただし、それを自覚的に行うのと自分の中の止まない衝動に操られて行うのでは悪の意味が違ってくる。
木崎は自分の信念に基づき、自覚して悪を行使する。だからこそ彼は悪の絶対的な体現者なのだ。

それに比べると、主人公は母子に対し善意の介入を行う。それは善に属する。
そこが主人公が営む悪、すなわちスリと木崎の考える悪の間にある絶対的な差なのだろう。

スリという営みからここまで悪の輪郭を描き出す本書。
私たちの普段の生き方を考える上でも悪は避けては通れない。
味わい深い一冊だ。

‘2019/6/9-2019/6/12


奥のほそ道


本書は重厚かつ、読み応えのある一冊だ。
それと同時に、日本人が読むには痛く、そして苦味に満ちている。

人は他人にどこまでの苦難を与えうるのか。その苦難の極限に、人はどこまで耐えうるのか。そして、苦難を与える人間の心とは、どういう心性から育まれるものなのか。
本書が追求しているのはこのテーマだ。

本書に登場する加害者とは、第二次大戦中の日本軍。
被害者は日本軍の戦争捕虜として使役されるオーストラリア軍の軍人だ。

海外の映画にはありがちだが、日本を取り上げたものには、私たち日本人から見てありえない描写がされているものが多い。特に映画においては。

だが、本書はじっくりと時間をかけて日本を知り、日本を研究した上で書かれているように思えた。本書からは見当違いの日本が描かれていると感じなかったからだ。
本書は、日本人の描き方を含めても、読み応えのある本だと思う。

第二次大戦中、日本軍がやらかした失敗の数々はよく知られている。
軍部の偏狭さや夜郎自大がもたらした弊害は枚挙にいとまがない。それがわが国を壊滅へと追いやったことは誰もが知っている。
フィリピンのバターン死の更新やビルマの奥地の泰緬鉄道の建設など、国際法を無視し、捕虜の取り扱いに全く配慮を欠いた愚行の数々。
敗戦の事実も辛いが、私は当時の日本がこうした悪名を被ったことがつらい。軍の最大の失敗とは、敗戦そのものよりも、軍紀を粛正せず、末端の将校を野放しにしたことにあるとさえ思う。
日露戦争や第一次世界大戦では、日本の行き届いた捕虜への配慮が武士道の発露と世界から称賛を浴びただけになおさら残念だ。

残念ながら、右向きの人がどれだけ否定しようとも、日本軍がなした愚行を否定することはできまい。あったことよりもなかったことの証拠を見つける方が難しいからだ。量の多寡よりも、少しでも行われてしまったことがすでに問題だと思う。
実際に日本軍からの虐待を告発した方は、中国人、朝鮮人だけではない。他にも多くいる。本書のようにオーストラリア、オランダ、イギリスの軍人を中心に世界中に及ぶ。

著者の父は実際に泰緬鉄道の現場で過酷な捕虜の境遇を味わったという。著者はそれを十二年の年月を掛け、本書にまとめたという。
十二年の時間とは、おそらく著者が日本を学ぶために費やした時間だったはずだ。

日本軍が捕虜を扱う際、なぜ過酷な労働を強いたのか。それは、どのような文化、どのような心性のもとで生まれたのか。
世界から一目置かれる文化を擁するはずの日本人が、なぜあれほどの思慮を欠いた所業に手を染めたのか。著者はその探究に心を砕いたに違いない。

著者はその手がかりを俳句に求める。
自然を愛でる日本人の心性。それが簡潔な形で表現されるのが俳句だ。
私も旅先で駄句をひねることが多く、俳句には親しんでいるつもりだ。

「二人は、一茶の句の純朴な知恵、蕪村の偉大さ、芭蕉の見事な俳文『おくのほそ道』のすばらしさを語るうちに、感傷的になっていった。『おくのほそ道』は、日本人の精神の真髄を一冊の書物に集約している、とコウタ大佐が言った。」(131p)
「日本人の精神はいまそれ自体が鉄道であり、鉄道は日本人の精神であり、北の奥地へと続くわれらの細き道は、芭蕉の美と叡智をより広い世界へと届ける一助となるだろう。」(132p)

この二つの文章は、本書の登場人物でもひときわ印象に残る、日本軍のナカムラ少佐とコウタ大佐が会話する場面から引用した。

俳句とは、現実からは距離を置き、恬淡とした境地から自然を描写する芸術だ。
詠み人の立場や心境は反映されるが、そこで描写される人は、あくまでも風景の登場人物にすぎない。描写される人の立場や心境にはあまり踏み込まない。たとえその人が無作為に非情な運命にもてあそばれていたとしても。
日本の文化には相手への丁寧さがあると言われるが、それは言い方を変えれば他人行儀ということだ。表面はにこにこしているが、何を考えているか分からない日本人、というのもよく聞く日本評だ。
著者は俳句を研究した結果、日本人の心性を解く鍵を俳句に見いだしたのではないだろうか。
本書のとびらには一つの文句が書かれている。
「お母さん、彼らは詩を書くのです。
パウル・ツェラン」
この文句でいう詩とは俳句を指すのはもちろんだ。そして、彼らとはかくも残虐な所業をなした日本人を指しているはずだ。
この言葉には、その行動と詩の間にある落差への驚きがある。

不思議の国日本、と諸外国から言われるわが国の心性。
それは台風や噴火、地震や飢饉に苦しみ続けてきた日本人が培ってきた感性だ。

そうした非情な現実から距離を置くことが、日本人が過酷な自然から生き延びるために得た知恵。だとすれば、非情な現実とは、自らが捕虜に対する行いにも適用される。
一方で捕虜を過酷な状況の中で使役し、一方で恬淡とした自然の前にある自分を見つめられる心性。
ナカムラ少佐やコウタ少佐にとって、苦役に就く捕虜とは、目の前の光景でしかない。だから捕虜の待遇を良くしようとも思わない。

皮肉なことに、ビルマで本書の主人公であるドリゴを始めとした、オーストラリア軍の捕虜たちを酷使しつづけたナカムラ少佐やコウタ大佐は寿命を全うし、畳の上で死ぬ。
その運命の不条理さに読者は何とも言えない感覚を抱くはずだ。

もちろん不条理さを体現した登場人物はまだいる。
日本軍に属し、捕虜たちに虐待を与える側にたつ朝鮮人チェ・サンミン。
月あたり50円の給金を貰う以外、何の思想も考えも、そして何の誇りもなく任務に従っていた男。
彼はBC級戦犯の裁判の結果、処刑される。
その処刑の描写は、人間が持ちうる圧倒的な空虚さもあいまって読者に強い衝撃を与える。

他にも、本書には九大医学部で起こった捕虜生体解剖の助手をやっていたという人物や、731部隊の関係者も登場する。
いずれも戦後の世界を戸惑いながら生きる人物として描かれる。

本書の主人公ドリゴもまた、凄惨な捕虜の境遇を生き延び、戦後も長く生きる。
ドリゴが日本軍から受けた扱いは、腐った匂いや泥の感触を感じさせる細部までが過酷なものだった。その境遇から生き延び、戦後を生きたドリゴの生活には、どこかしら空虚な影がついて回る。

そしてドリゴは戦前と戦中と戦後をさまよいながら、生の意味を求める。

ドリゴが何気なく手に取った日本の俳人のエピソード。
「十八世紀の俳人之水は、死の床で辞世の句を詠んでほしいと乞われ、筆をつかみ、句を描いて死んでいった。之水が紙に円を一つ描いたのを見て、門弟たちは驚いた。
之水の句は、ドリゴ・エヴァンスの潜在意識を流れていった。包含された空白、果てしない謎、長さのない幅、巨大な車輪、永劫回帰。円――線と対象をなすもの。」(36ぺージ)

そして死に際してドリゴは之水の描いた円の意味を突如理解する。そして、このような言葉を残して絶命する。
「諸君、前進せよ。風車に突撃せよ。」(442ぺージ)
無鉄砲なドン・キホーテの突撃した風車とは、不条理の象徴である。

挿絵のない本書に二回も登場するのが、之水の描いた円の筆跡。
これこそが、すべてのものは回帰する、という俳句の心境であり、ドリゴが悟った生の意味なのだと思う。

人として外道の所業をなした日本軍。組織の中で戦争犯罪に手を染めた軍人たち。死と紙一重の体験を生き延びたドリゴ。ドリゴの被った悲劇に影響された周りの人々。
善も悪も全ては円の中で閉じ、永劫へと回帰してゆく。

本書は日本軍の犯した組織ぐるみの犯罪をモチーフにしているが、作中には日本人や日本文化を批難する言葉はほぼ登場しない。
それはもちろん、著者や著者の父による許しを意味してはいないはずだ。
著者は許すかわりに、日本軍の行いも人間が織りなす不条理の一つとして受け入れたのではないだろうか。
すべての国や時代を通じ、人の生のあり方とは円に回帰する。著者はその視点にたどり着いたように思う。

訳者によるあとがきによると、本書の最終稿を著者が出版社に送信したその日、著者は存命だった父に面会し、作品の完成を伝えた。そしてその晩、著者の父は98年の生涯を閉じたのだという。

そうした奇跡のようなエピソードさえも、本書が到達した深みを補強する。

本書は五部からなる。
それぞれの部の扉には句が載せられている。

一部
牡丹蘂ふかく分出る蜂の名残哉 芭蕉

二部
女から先へかすむぞ汐干がた  一茶

三部
露の世の露の中にてけんくわ哉 一茶

四部
露の世は露の世ながらさりながら 一茶

五部
世の中は地獄の上の花見かな 一茶

私たちが日本人の在り方やあるべき姿に悩むとき、俳句の持つ意味を踏まえるとより理解が深められるのかもしれない。
外国人の著者から、そうしたことを教えてもらった気分だ。
本書からはとても得難く深い印象を受けた。

‘2019/5/22-2019/6/8


追憶の球団 阪急ブレーブス 光を超えた影法師


西宮で育った私にとって、阪急ブレーブスはなじみ深い球団だ。
私の実家は甲子園球場からすぐ近くだが、当時、阪急戦を見に西宮球場に行く方が多かった。阪神の主催ゲームはなかなかチケットが取れなかったためだろう。
よく父と西宮球場の阪急戦を観に行ったことを覚えている。

西宮球場や西宮北口駅のあたりは、当時も今も西宮市の中心だ。家族と買い物にしょっちゅう訪れていた。
そのため、子供の頃の私の心象には、西宮球場付近の光景がしっかりと刻まれている。
ニチイ界隈の賑わう様子。西宮北口駅のダイアモンド・クロッシングを通り過ぎる電車が叩く音。そして西宮球場で開催される阪急戦の雰囲気。
時期はちょうど1984年ごろだったと思う。

それから35年以上が過ぎた。
いまや西宮北口駅の周辺は阪神・淡路大地震を境にすっかり変わってしまった。ニチイもダイアモンド・クロッシングも西宮球場も姿を消した。
もちろん、本書で取り上げられる阪急ブレーブスも。

すぐ近くの甲子園球場で行われる阪神戦の熱気とは裏腹に、阪急戦の雰囲気は寂しいものだった。
1984年、阪急ブレーブスは球団の歴史上で、最後のパ・リーグ優勝を成し遂げた。
昭和40年代から続いた黄金期の最後の輝き。
本書の著者である福本豊選手。山田久志、簑田浩二、加藤英司、ブーマー・ウェルズと言った球史に残る名選手の数々。上田監督が率いたチームには、今井雄太郎、佐藤義則、山沖之彦という忘れがたい名投手たちもいた。弓岡敬二郎や南牟礼豊蔵といった選手の活躍も忘れてはなるまい。
こうした球史に名を残す選手を擁しながら、西宮球場で行われるナイターの試合には、いつもわずかな観客しかいなかった。
甲子園球場のにぎやかな応援風景とあまりにも違う西宮球場の寂しさ。それは小学生の私にとても強い印象を残した。

今日、阪急ブレーブスの栄華をしのぼうと思ったら、阪急西宮ガーデンズの5階のギャラリーを訪れると良い。
そこに飾られた幾つものトロフィーや銅像、優勝ペナント、著者を初めとした野球殿堂に選ばれた13選手をかたどったレリーフからは、球団の歴史の片鱗が輝いている。

だが、私が実家に帰省し、阪急西宮ガーデンズに訪れるたび、このギャラリー内のブレーブスの記念コーナーが縮小されているように思える。
阪急西宮ガーデンズが出来た当初、記念コーナーはギャラリーのかなりのスペースを占めていたように思う。
スペースの縮小は、阪急グループにとっての阪急ブレーブスの地位が低下していることをそのまま表している。

著者はこの現状も含め、阪急ブレーブスが忘れられることを危惧したのだろう。それが本書を著した動機だったと思われる。
かつてあれほど強かったにもかかわらず、強さと人気が比例しなかった球団。黄金期を迎える前は灰色の球団と言われ続け、黄金期を迎えても阪神タイガースには人気の面ではるかに及ばなかった球団。

本書は著者がブレーブスに入団する時点から始まる。悲運の名将と呼ばれた西本監督の下、黄金期への地固めをするブレーブス。
著者と著者の同期である加藤英司選手が、プロ生活の水に慣れていく様子が書かれる。

著者が入団する前年に、阪急ブレーブスは創立32年目にして初優勝を果たした。
当時は米田哲也投手、足立光宏投手、梶本隆夫投手が健在で、野手もスペンサー、長池選手といった選手がしのぎを削っていた。
そうそうたる選手層に加わったのが著者と加藤選手、そして山田投手。
そこで揉まれながら、著者は走攻守に存在感を発揮して行く。
著者が入った年、ブレーブスはパ・リーグを2連覇し、最初の黄金時代を迎える。
著者の成績に比例してブレーブスは強くなっていく。だが、V9中の巨人にはどうしても勝てない。そんな挫折と充実の日々が描かれる。

ブレーブスの選手層は、大橋選手、大熊選手、島谷選手といった選手の入団によってさらに厚くなる。
それまでパ・リーグといえば、南海ホークスか西鉄ライオンズ、大毎オリオンズの三強だった。そこに、黄金期を迎えたブレーブスが割り込む。
他の強豪チームに引けを取らない力を蓄えたブレーブスは、1967年から1984年までの18シーズンにパ・リーグを10度制し、3度日本一になっている。その間にはパ・リーグ3連覇を二度果たした。2度目の3連覇ではその勢いのまま、セ・リーグのチームを破り、三年連続で日本一の美酒を味わう偉業を成し遂げている。
昭和五十年代に限っていえば、ブレーブスは日本プロ野球でも最強のチームだったと思う。さらにいえば、わが国の野球史を見渡しても屈指のチームだったと言える。

著者はそのチームに欠かせない一番打者として、華々しい野球人生を送った。
二塁打数、安打数、盗塁数など著者の築き上げた成績は、いまも日本プロ野球史に燦然と輝き続けている。通算1065盗塁に至っては、当分の間、迫る選手すら現れないことだろう。

山田投手が日本シリーズで王選手に逆転スリーランを打たれたシーンや、昭和53年の日本シリーズがヤクルトの大杉選手のホームランをファウルだと主張した上田監督によって1時間19分の間、中断したシーン。
阪急ブレーブスが球史に残したエピソードは今もプロ野球の記憶に残り続けている。
それなのに、阪急は身売りされてしまう。

「9月上旬、南海ホークスがダイエーへの球団譲渡を発表した。かねてから噂になっていたので、僕はそれほど驚かなかった。86年以降の阪急ブレーブスは、念願だった年間100万人の観客動員を続けていた。身売りされた南海は、一度たりとも大台へ届かなかった。ブレーブスのナインにとって、南海ホークスの消滅は、対岸の火事にしか見えなかった。」(190ページ)

著者が危惧するように、売却と同時にブレーブスの歴史は記憶の彼方に遠ざかろうとしている。
冒頭に書いた通り、当の阪急グループからも記念コーナーの縮小という仕打ちを受け、ブレーブスの栄光はますます元の灰色に色あせてつつある。
阪急グループについては、宝塚ファミリーランドの跡地の扱いや、宝塚歌劇団の内部運営など、私の中でいいたい事はまだまだある。

著者はあとがきで宝塚歌劇のファンになった事を書いている。ベルばらブームによって宝塚歌劇団が息をふきかえした時期、くしくも阪急ブレーブスも黄金期を迎えた。
だが、その後の両者に訪れた運命はくっきりと分かれた。痛々しいほどに。

宝塚歌劇は東京に進出し、今では公演の千秋楽は宝塚大劇場、続いて有楽町の宝塚劇場の順に行われるという。要は公演のトリを東京に奪われているのだ。
東京という華やかな日本の中心に進出することに成功し、徐々にそちらに軸足を移しつつあるように見える歌劇団。
その一方で日本シリーズで三連覇したにもかかわらず、そして、徐々に観客数の向上が見られたにもかかわらず、身売りされた阪急ブレーブス。
人気のないパ・リーグで存続し続ける限り、日本の中心どころか、関西の人気球団にもなれないと判断した経営サイドに切り捨てられた悲運の球団。

たしかに、同じ西宮市に球団は二つも要らなかったかもしれない。
阪急ブレーブスが阪神タイガースの人気を凌駕することは、未来永劫なかったのかも知れない。
それでも、県庁所在地でもない一都市の西宮市民としては、二つのプロ野球球団を持てる奇跡に満足していた。そして、いつかは今津線シリーズが開かれることを待ち望んでいられた。
私は今もなお、ブレーブスを売却した判断は拙速だったと思う。

阪神間で育った私から見て、小林一三翁の打ち立てた電鉄経営の基本を打ち捨て、中央へとなびく今の阪急グループには魅力を感じない。
東京で仕事をする私から見ると、東京で無理に存在感を出そうとする今の阪急グループからは、ある種の痛々しさすら覚える。

たしかに経営は大切だ。赤字を垂れ流す球団を持ち続け、関西でも奥まった宝塚の地に遊園地と劇団を持っているだけでは、グループに発展の余地はないと考える心情もわかる。
だが、中央への進出に血道を上げる姿は、東京に住むものから見ると痛々しい。
それよりは、関西を地盤とし、球団と歌劇団と遊園地を維持し続けた方がはるかに気品が保てたのではないだろうか。東京一極集中の弊害が言われる今だからこそ。
それでこそ阪急、それでこそ逸翁の薫陶が行き渡った企業だと愛せたものを。
私のように歌劇団の運営の歪みを知る者にとっては、順調に思える歌劇団の経営すら、無理に無理を重ねているようにしか見えない。

著者があとがきに書いた歌劇団への愛着も、阪急ブレーブスという家を喪った痛みの裏返しであるように思う。
著者が本当に言いたいこと。それは、阪急グループに歴史を大切にしてほしい、ということではないだろうか。
タイトルにある影法師がブレーブスだとして、ブレーブスが超えた光とは何か。そのタイトルにこそ、著者の願いが込められているはずだ。

‘2019/5/22-2019/5/22


世界一速く結果を出す人は、なぜ、メールを使わないのか グーグルの個人・チームで成果を上げる方法


メールが世の中にとって欠かせないツールとなって、早くも20数年が過ぎた。
だが、今やメールは時代遅れの連絡手段となりつつある。
メールを使う事が生産性を阻害する。そうした逆説さえ常識となりつつある。
わが国の場合、信じられない事にFAXが現役で使われているという。真偽のほどは定かではないが、コロナウィルスの集計が遅れた理由にFAXの使用が報じられていた。

それにも関わらず、多くの企業では、メールがいまだに主要な連絡手段として活躍中だ。
私ですら、初対面の企業の担当者様とはメールを使っている。
メールが生産性を阻害する理由は、両手の指では足りないほど挙げられる。そのどれもが、生産性にとって悪影響しかない。

だが、メールに代わる連絡手段は今や無数にある。チャットツールも無数に。
メールに比べると、チャットツールは手軽さの点で圧倒的に優位だ。
情報が流れ、埋もれてしまうチャットツールの欠点も、最近のチャットツールでは改善されつつある。

そうしたツールの利点を活かし、さらに働き方を加速させる。
本書にはそうしたエッセンスが詰まっている。

「はじめに」で述べられているが、日本企業の生産性が低い理由として、著者は三つの理由を挙げている。
1 持ち帰って検討しすぎる
2 分析・検討しすぎる
3 打ち合わせ・会議など多くのコミュ二ケーションがコスト・ムダにしかならない

ここに挙げられた三つの生産性悪化の要因は、わが国の企業文化の問題点をそのまま表している。
いわゆる組織の問題だ。

とにかく、本書のエッセンスとは、即決と即断の重要性に尽きる。
1で書かれているような「持ち帰り」。これが、わが国の会議では目立つ。私もそうした現場をたくさん見聞きしてきた。
著者は、メール文化こそが「持ち帰り」文化の象徴だという。

こうした会議に現場で実務を知り、実際に手を動かしている人が出てくることはあまりない。会議に出てくるのはその上長であり、多くの場合、上長は進捗の管理に気を取られ、実際の業務の内容を理解するしていることが多くない。
例えば、私が属する情報処理の仕事を例に挙げると、実際に手を動かすのはプログラマーだ。その上に、詳細の設計を行うシステム・エンジニアがいる。

設計といっても、あまりにも混み入っているため、詳細な設計の内容を理解しているのは設計した当人になりがちだ。
会議に出てくるようなプロジェクトマネージャー、システムの全体を管理するマネージャーでは、現場の詳細はわからない事が多い。

そうした生産性を低下させる例は、情報処理に限らずどの業界にもある。
現場の複雑なオペレーションを理解するのは、一人か二人、といった現場は多いはずだ。
だから、業務内容の詳細を聞かれた際や、それにかかる労力や工数を聞かれると、現場に持ち帰りになってしまう。少しでも込み入った内容を聞かれると、部署の担当に聞いてみます、としか答えられない。

そうした細かい仕様などは、会議を行う前に現場の担当者のレベルで意見交換をしていくのが最もふさわしい。
なのに、かしこまったあいさつ文(いつも大変お世話になっております、など)を付けたメールをやり取りする必要がある。そうしたあいさつ文を省くだけで、迅速なやりとりが可能になるというのに。

著者が進めているようなチャットツールによる、気軽な会話でのやりとり。
これが効率をあげるためには重要なのだ。
つまり、かしこまった会議とは本質的に重要ではなく、セレモニーに過ぎない。私も同感だ。

ところが、わが国では会議の場で正式に決まった内容が権威を持つ。そして責任の所在がそこでようやく明確になる。

これは、なぜ現場の担当者を会議に出さないかという問題にも通じる。
現場の担当者が会議で口出したことに責任が発生する。それを嫌がる上司がいて、及び腰となる担当者もいる。だから、内容を把握していない人が会議に出る。そして持ち帰りは後を絶たない。悪循環だ。

著者は、会議の効率を上げることなど、論議するまでもない大前提として話を進める。

なぜなら、著者が本書で求める基準とは、そもそも10%の改善や向上ではなく、10倍の結果を出すことだからだ。
10倍の結果を出すためには、私たちの働き方も根本的に見直さなければならない。

本書を読む前から、私も著者の推奨するやり方の多くは取り入れていた。だが、今の10倍まで生産性を上げることには考えが及んでいなかった。私もまだまだだ。

著者によれば、今のやり方を墨守することには何の価値もない。
今のやり方よりもっと効率の良いやり方はないか、常に探し求める事が大切だ。
浮いた時間で新たなビジネスを創出する事が大切だと著者は説く。完全に賛成だ。
もっとも私の場合、浮かせた時間をプライベートな時間の充実につぎ込んでいるのだが。

本書には、たくさんの仕事のやり方を変える方法が詰まっている。
例えば、集中して業務に取り組む「スプリント」の効果。コミュニティーから学べるものの大きさや、人付き合いを限定することの大切さ。学び続けることの重要性。SNSにどっぷりハマらない距離感の保ち方。服装やランチのメニューなどに気を取られないための心がけ。

本書に書かれている事は、私が法人設立をきっかけに、普段から励行し、実践し、心掛けていることばかりだ。
そのため、本書に書かれている事はどれも私の意に沿っている。

結局、本書が書いているのは、人工知能によって激変が予想される私たちの仕事にどう対処するのか、という処方箋だ。
今や、コロナウィルスが私たちの毎日を変えようとしている。人工知能の到来よりもさらに早く。それは毎日のニュースを見ていればすぐに気づく。

そんな毎日で私たちがやるべき事は、その変化から取り残されないようにするか、または、自分が最も自分らしくいられる生き方を探すしかない。
今のビジネスの環境は数年を待たずにガラリと変わるのだから。

もし今の働き方に不安を覚えている方がいらっしゃったら、本書はとても良い教科書になると思う。
もちろん、私にとってもだ。私には足りない部分がまだ無数にある。だから、本書は折に触れ読み返したい。
そして、その時々の自分が「習慣」の罠に落ち込んでいないか、点検したいと思う。

‘2019/5/20-2019/5/21


心霊電流 下


二人のなれ初めから、約二十年の間、離ればなれになっていたジェイミーとジェイコブズ師の数奇な縁。
一度は身を持ち崩しかけていたジェイミーは、再会したジェイコブズ師から手を差し伸べられる事で身を持ち直す。そして、それを機に二人の縁は再び離れる。

ジェイミーは、ジェイコブズ師から紹介を受けた音楽業界の重鎮のもとで職を得て、真っ当な生活を歩み始める。そして数年が経過する。
ジェイミーが次にジェイコブズ師の名を目にした時、ジェイコブズ師の肩書は、見せ物師から新興宗教の教祖へと変わっていた。電気を使った奇跡を売り物にした人物として。

かつて信仰に裏切られたジェイコブズ師が、今度は自ら信仰の創造主となる。その動機には何やら不穏なものを感じさせる。
それどころか、ジェイコブス師の弁舌に魅せられたコミュニティまでできている。太陽教団やマンソンが率いた教団のような。
ジェイミーは、ジェイコブズ師との数十年にもわたる因縁に決着をつけるため、再び会いにゆく。

老いたジェイコブズ師は、自らの研究の集大成として、ジェイミーをとある場所へと誘う。
そこは、彼らが最初に出会った街の近くにある、雷を集める自然の避雷針スカイトップ。
ひっきりなしに雷が落ちるこの場所を舞台に、ジェイコブズ師は最後の忌まわしい実験に乗り出す。
それはまさに、神も恐れぬ冒涜。おぞましく不吉な結末が予感できる。

この結末は、著者が今までの傑作の中で描いてきたカタストロフィーと比べても遜色ないっq。

ただ、今までのカタストロフィーは、壮健な人々によって演じられてきた。
それに比べて、本書では老いてゆくジェイコブズ師によって成されてゆく。そのため、演者としての迫力は弱い。
ただ、本書で展開される世界の秘密のおぞましさ。そこにホラーの帝王である著者の本領が発揮されている。

ジェイコブズが呼び出したおぞましき世界。そこでは、神の冒涜を主題とした本書のテーマを如実に体現した、究極の終末とも言える世界だ。
神の救い、神の恩寵、神の御手。それはどこにもない。ひたすらに救いようのない世界。
私たちが信ずる来世のおぞましさ。
今まで、神の名において未来への希望を掲げていた教団は、神の名を借りて、人々をたぶらかしてきた。

われわれは何のために生き、そして何のために死んでいくのか。
本書の結末は、そのような問いをはねつけ、絶望に満ちている。
果たして、ジェイコブズ師が一生をかけて神に背き続けた復讐は、この世界を呼び出す事によって成就したのだろうか。
なぜ、私の妻子は無残に死ななければならなかったのか。なぜ私はそれほどまでの仕打ちをくだされなければならないのか。私が神に何をしたというのか。
絶望と呪いに満ちたジェイコブズ師による実験。
その目的が残酷な現実とは違う、理想の世界を見ることにあったとすれば、神の虚飾の裏にあるおぞましい世界を呼び出した事は、牧師の人生にとって最後のとどめとなったはずだ。

本書は、あくまでも神の不在と神への冒涜が主題となっている。
もちろん、本書で描かれた世界が真実とは限らない。来世は誰にも見えない。
だが、神なき世界の真実とは、案外、このようなものなのかもしれない。

本書のカタストロフィーは、それを主宰するジェイコブ師が老いているため、迫力に欠ける事は否めない。
だが、現れた世界の圧倒的な欠乏感。そこに、今までの著者の作品にはない恐ろしさを感じる。

それは、上巻のレビューにも書いた通り、ホラー作家として突き抜けた極みだ。
神の徹底的な否定。そして、私たちが真実と信じているはずの科学技術、つまり電気が引き起こす奇跡の先に何が待っているのか。
本書は著者による不気味な予言ではないだろうか。

あわれなジェイコブズ師がまだ敬虔な牧師だった頃、ジェイミーたちに示した電気じかけのキリスト。
それはまさに、今の世の中に氾濫する価値観の象徴である。
私たちは一体、何を頼りにこれからの世界を生きていれば良いのだろうか。
宗教もだめ、科学技術もだめ。では何が。

そんな戸惑いを尻目に、時間は私たちを等しく老いへと追いやる。
下巻では、上巻でジェイミーの初体験の相手となったアストリッドが老いて死に瀕した姿で登場する。
その残酷な現実は、まさに本書のテーマそのものだ。
人は誰もが老い、そして誰もが取り返しのつかない人生を悔やむ。誰もその生と時間を取り戻すことは不可能だ。

結局、人間にとって唯一の真理とは、時間が人を死に追いやってゆく事に尽きるのかもしれない。
だが、人はその事実を認めようとせず、欲望や見栄や見かけの栄華を追い求める。ある人は神や宗教を奉じ、自ら信じたものを信じて時間を費やす。

そのような人生観にあっては、死さえも救いとなりうる。本書には何度か、このような文句が登場する。
「永遠に横たわっていられるなら、それは死者ではない。異様に長い時の中では、死でさえも死を迎えうる」(263ページ)

それに比べ、ジェイコブス姿が呼び出した世界の寒々としたあり様。それはまさに無限の生。無限に苦しみの続く生なのだ。死してのちも続く無残な生。

おそらく著者は、老境に入った自らの人生を顧み、本書のような福音のない世界を著したのだろう。
そして、その事実に気づくのはたいていが老年に入ってからだ。
私はまたその年齢に達しておらず、自分の人生を充実したものにしようと、一生懸命、日々をジタバタと生きている。
私の考えが正しいのか、それとも間違っているのか。それは死んでからの裁きによって決まるはずだ。そもそも永遠の無が待っているだけかもしれないし。

本書に唯一の救いがあるとすれば、救われない未来が待っていたとしても、本書によってある程度は免疫が得られる事だろうか。
でも、著者は神の背後に覆い隠されていた言いにくいことをズバリと書いた。本書は、ホラー作家としての著者の畢生の作品だと思う。
著者にとって、もはや思い残すところがない。そう思う。

‘2019/5/19-2019/5/20


心霊電流 上


ミステリに寄った三部作を出していた著者が、再びホラーに戻ってきたことでファンを喜ばせたのが本書だ。
数年ぶりに出された本書は、ホラーの王道を行く作品となった。

本書の凄まじさ。それは、ついに著者が神の問題に真っ向うから取り組んだことだ。
これまでにも著者は、さまざまの怪奇現象や超常現象を作品で登場させてきた。超常現象を体験する人物には牧師もいたし、教会を舞台とした怪奇現象も描かれていた。
そう考えると、惨劇を牧師や教会と結び付けること自体が神への冒涜だったのかもしれない。
だが、それを差し引いても、今までの著者は正面切って神を否定してはいなかったように思う。

神はあまねく世界を統べる。だが、神のみわざと関係なく怪異は起き、悪霊ははびこる。
神は全能だが、その関知しない領域は確かにある。そうした隙間に悪は入り込み、怪奇を起こす。
それが今までの著者のスタンスだったように思う。
もちろん、ホラー自体が敬虔なクリスチャンに受け入れられるかは、別の問題とした上で。

だが、本書において著者は神を真っ向から否定しにかかっている。
私たち日本人にとっては、神を否定することへの心理上の抵抗は西洋ほどはない。
日本が多神教をベースとしている以上、一人の神を否定することに抵抗は感じにくいのだ。それが良くも悪くも絶対的な信仰を持たない日本の特徴だとも言える。

だが、いまだに天動説を信じる人が多いというアメリカでは、宗教についての保守的な風潮がまだ根強いと聞く。
安易に神を否定することへの心情は、日本とは段違いだ。私はそう認識している。

つまり、著者が本書で、これほどまでに神を否定し切って見せたことは、私たちが思う以上にすごいことなのではないだろうか。
神の忠実な僕であるはずの牧師の口から、かくも激烈な神を冒涜したセリフを吐かせる。
それは作家として突き詰めるべき極点だ。と同時に触れてはならないタブーだと思う。だが、ホラーを扱う以上、いつかは越えねばならないリミットなのかもしれない。

初老を迎えたジェイミー・モートンが本書の主人公であり、語り手だ。
ジェイミーが六歳の時、街の牧師として着任してきたチャールズ・ジェイコブズ師。電気が好きで、説教に電気の仕掛けを使った見せ物を扱う風変わりな人物だ。
ジェイコブズ師に気に入られたジェイミーは、キリスト教の手ほどきとともに、電気で動く奇跡の魅力と、ジェイコブズ師の若々しい活力に育まれて少年期を過ごす。

ジェイコブズ師は牧師であり、敬虔なキリスト教徒でもある。美しい妻と聡明で愛される息子。何一つ曇りのない明快な人生。
そんなジェイコブズ師の人生は、自動車事故によって妻子を失う悲劇によって一変する。それは牧師にとって神の不在を意味することに他ならない。
神はなにゆえ、忠実な神の使徒である自らにこのような悲劇を与えるのか。そこに神の試練という安易な解釈を当てはめ、片付けてしまってよいのだろうか。あまりにも無慈悲ではないか。ジェイコブズ師は悩み、煩悶する。
そして復帰した説教壇の上から聴衆に向け、神を否定するにも等しい激烈な説教をする。
そんなジェイコブズ師に背を向け、人々は教会から去ってゆく。そして後日、教区からジェイコブズ師は追放される。

私のように信仰心の薄い日本人には、神を万能で全能な存在とみなす考えは受け入れにくい。
というのも、今までキリスト教の名の下、数えきれないほどの不条理に満ちた死が人々を覆い尽くしてきた。
宗教戦争、教化と言う名の人種殲滅、宗教改革によって起きた虐殺。また、キリスト教国の中で二度の世界大戦の間におきたポグロムやジェノサイド、ホロコーストなど。
それらの出来事は、神の存在を掲げるキリスト教の教義をあざ笑っている。
と同時に私たち異教の者の眼には、神の不在を如実に表わす証拠に映る。

人の心にとって、神は確かに救いとなる存在だ。最善の発明だったとさえ思う。
人間が作り上げた頼れる対象。神とは言ってしまえばそうした存在だ。
むしろ、そうであるからこそ神は必要であり、多くの人々にとって神は存在しなければならない。私はそう考えている。

だが、今までに過ぎ去った広大な時間と空間の中で無数の人が宗教の名のもとに弑されてきたことも事実だ。宗教の名のもとに無限の悲劇が起こってきた事も間違いない。
それらの出来事に神が救いを差し伸べる事はなかった。だから、不運な出来事に遭遇してしまった人は、神の不在を呪うしかない。
ジェイコブズ師も同じだ。ジェイコブズ師が壇上から行う悲痛な説教に対し、聴衆からは非難の声が浴びせられる。神の試練を受け止められる気骨がない、と。
だが、人は弱い存在だ。私に言わせれば最愛の妻子を失いながら、神の試練を理由に平静でいられる方がむしろどうかしていると思う。

運命とは作為がなく、かつ無慈悲なもの。
不運に出会った人とは、神の存在に関係なく、無限に張り巡らされた運命の糸の中で、たまたま悪い糸に絡まってしまったにすぎない。それを運と人は呼ぶ。
私は運命や人生をそうとらえている。

ただし、運命の糸のどれをまとい、どれを避けるかによって人の一生は変わる。悪い結果をはらむ糸をくぐり抜け、より良い人生を生きるための糸を身にまとうことで、私たちの人生は好転する。そのためにこそ、私たちは勉学に励む。そして、スキルと能力を強化し、経験と鍛錬に勤しむのだ。
それでもなお、神の意思を言い募り、人の努力を無視する考えは、人の存在を軽視する事につながると思っている。
ジェイコブズ師が悲痛な説教の中で訴えた主旨もまさにそうだった。

神は無力であり、人間の作り上げた幻想に過ぎない。
そんな冷酷で救いのない事実を、著者はついに本書の形で小説の内容にぶちまけた。
ジェイコブズ師が出て行ったあとの誰もいない教会でジェイミーは叫ぶ。
「「おまえは偽物だ」と僕は叫んだ。「本物じゃない! ぺてんの寄せ集めだ! くだばれ、キリスト! くだばれ、キリスト! くたばれ、くたばれ、くたばれ、キリスト!」」(122ページ)

神の問題は、文筆をなりわいとする者としては見過ごしてはならないテーマだと思う。
そして、それをついに取り上げたことは、ホラー作家の巨匠としての著者の矜持だと思う。

多分、本書によって著者は保守的な層からの非難を受けたことだろう。
だが、今や老境にあり、十分な名声と財産を蓄える著者にとって、そうした非難は無意味なはずだ。失うものは何もない。
今まで著者は神を遠慮がちに描いてきた。
だが、ホラーの本質である、神の不在を書いてこそ、作家人生の締めくくりになる。
著者はそう思ったのではないか。

本書はジェイミーという一人の少年の成長を描いた青春小説でもある。
だが、それだけではない。本書は彼が信心の呪縛から逃れる様子を描く。
むしろ、それが本書の主題と言っても良いかもしれない。
子供の頃は大人に呪縛され、長じてからは宗教やその他の判断基準に染められる。
そこから逃げる術を見つけることはとても難しい。
われわれを取り巻く形の有無を問わないしがらみや同調せよと迫る圧力。
その事実はデジタルが幅を効かせる今も厳然として存在する。私たちの人生を見渡せばすぐにその事実は分かる。

ジェイミーは音楽に活路を求め、生計を立てて行く。それは放浪と無頼に満ちた日々だ。麻薬で死にそうになり、人々の信頼を失う。
そんなジェイミーの姿はは、宗教のくびきがとかれ、さまよう人の姿をまざまざと表している。
そんな廃人寸前のジェイミーが偶然にジェイコブズ師に出会う。電気じかけの見せ物師に身を落とし、宗教から足を洗った元牧師。
ジェイコブズ師に救われるジェイミーは、出会うべくしてジェイコブズ師に会ったのだろう。

もちろん、そうした描写は下巻への布石である。
本書のように複数の人数が交わり、複雑な人生模様をかき分けて行く物語において、著者の手腕に揺るぎはない。
だから、読者としては、著者の紡ぐ流麗な物語にただ乗っかって居れば良い。
ジェイミーとジェイコブズ師の間に織られてゆく数奇な運命はまだまだ続く。
下巻でのカタストロフィまで。

‘2019/5/15-2019/5/19


スコッチウィスキー紀行


私がウイスキーの魅力にはまってから、長い年月が過ぎた。
そのきっかけとなった日の事は今でも覚えている。1995年8月5日から6日にかけてだ。
当時、広島に赴任中だった大学の先輩の自宅で飲ませてもらった響17年。この時に味わった衝撃から私は飲んべえに化けた。

その前日は原爆ドームの前でテントを張った。響に耽溺した翌朝は、原爆投下から50年を迎えた瞬間をダイ・インで体感した。
そうした体験も相まって、ウイスキーの魅力に開眼した思い出は私の中に鮮烈に残っている。
以来、20数年。ウイスキーの魅力に開眼してからの私は、ウイスキーを始めとした酒文化の全般に興味を持つようになった。

ウイスキーを学ぼうとした当時の私のバイブルとなった本がある。
その本こそ、本書の著者である土屋守氏が著した『モルトウイスキー大全』と『シングルモルトウイスキー大全』だ。

著者の土屋氏には、今までに二回お会いしたことがある。
初めてお会いしたのは、妻と訪れた埼玉のウイスキー・フェアだった。ブースには人がまばらで、一緒にツーショット写真を撮っていただく幸運にあずかれた。懐かしい思い出だ。
二度目はWhisky Festival in Tokyoの混雑した会場の中で友人と一緒の写真に入っていただいた。
忙しいさなかに、大変申し訳なかったと思っている。
もちろん土屋氏は私のことなど覚えていないはず。

本書は、世界のウイスキーライターの五人に選ばれた著者がウイスキーの魅力を語っている。
本書はTHE Whisky Worldの連載をベースにしているそうだ。THE Whisky Worldとは、土屋氏が主催するウイスキー文化研究所(古くはスコッチ文化研究所)が発行していた雑誌だ。
その研究所が出版する酒に関する雑誌は、WHISKY Galoreとして名を一新した後も毎号を購入している。さらに書籍も多くを購入してきた。
そのどれもが、情報量の豊富さと酒文化に対する深い愛情と造詣に満ちており、私を魅了してやまない。多分、これからも買い続けるだろう。

本書はスコッチの本場を訪れた記録でもある。
冒頭に各地域や蒸留所の写真がカラーで載っている。
その素朴かつ荒涼とした大地のうねり。その光景は、私の眼にとても魅力的に映る。
荒涼とした景色に魅せられる私。
だからこそ、そこから生まれるウイスキーにハマったのかもしれない。

よく知られているように、スコッチウイスキーという名前だが、複数の地域によって特徴がある。
アイラ、スペイサイド、ハイランド、ローランド、その他ヘブリディーズ諸島やオークニー諸島のアイランズウイスキー。
今のウイスキーの世界的な盛況は、スコッチの本場にも次々と新たな蒸溜所を生んでいる。
そのため、本書に登場する蒸留所の情報は少しだけ古びている。10年前のウイスキーの情報は、目まぐるしく活気のあるウイスキー業界ではすでに情報としては古びている。毎年のように新たな蒸留所が稼働をはじめ、クラフト・ディスティラリーを含めるとその数はもはや数えられない。

だからといって、本書に価値がないと思うのは間違いだ。
本書は世界的なウイスキーブームに沸く少し前の情報が載っているため、むしろ信頼できると思う。
今や、あらゆる蒸留所が近代化に向けて投資を進めている。その一方で、古いやり方を守り続ける蒸留所も本書にはたくさん紹介されている。

先にも書いたとおり、著者はウイスキー文化研究所と言う研究所を主催している。そのため著者が著わす文章や情報からは、スコッチウイスキーに関してだけでなく、スコットランドを包む文化についての知識も得られる。
特に本書の第二部「ウィスキーと人間」では、スコットランドの歴史を語る上で欠かせない人物が何人も取り上げられている。
その一人は長崎のグラバー園でもお馴染みのトーマス・ブレイク・グラバーだ。マッサンこと竹鶴正孝氏の名前も登場する。また、ウイスキーの歴史を語る上で欠かせないイーニアス・コフィーであったり、アンドリュー・アッシャーといった人々も漏れなく載っている。また、意外なところではサー・ウィンストン・チャーチルにも紙数が割かれている。
それぞれがスコットランドもしくはウイスキーの歴史の生き証人である。
ウイスキーとは、時間を重ねるごとにますますうま味を蓄える酒。それはすなわち、歴史の重みを人一倍含む酒だ。その歴史を知る上で、ウイスキーに関する偉人を知っておいたほうがいいことは間違いない。

第三部は「ウィスキーをめぐる物語と謎」と題されている。
例えば、日本人が初めて飲んだウイスキーのこと。また、ウイスキーキャットにまつわる物語について。かと思えば、ポットスチルと蒸留の関係を語る。そうかと思えば、謎に包まれたロッホ・ユー蒸溜所も登場する。また、グレン・モーレンジの瓶に記されている紋章の持ち主、ピクト族も登場する。また、ロード・オブ・ジ・アイルズの島々の歴史や文化にも触れている。

第三部を読んでいると、ウイスキーをめぐる物語の何が私を惹きつけるのかがわかる。
それは、ケルト民族の謎に包まれた歴史だ。
ケルト民族が現代に残したロマンは多い。ウイスキー、ドルイド教、ケルト十字、ストーンヘンジ。
それらはおそらく目に見えない形で、現代の遠く離れた日本にも影響を与えているはずだ。
それらが謎めいていればいるほど、そして私たちを魅了すればするほど、ケルト民族に対する興味が湧いてくる。
スコットランドを訪れ、ウイスキーを愛でることは、すなわちケルト民族の魂を今に受け継ぐことに他ならない。

西洋の歴史を語る上で、ローマ帝国とキリスト教は欠かせない。
だが、その波に飲まれてしまい、歴史から消えた民族たちが独自の輝きを放っていたことを忘れてはならない。
消えてしまった民族の中でも、筆頭に挙げられるのがケルト民族であり、その痕跡を知ることは、自分たちのルーツを探る上で参考になる。
そうした意味でも本書は、ケルト民族を振り返るガイドブックになりうるはずだ。

今の科学は世界を狭くした。
だが、狭くなった世界は、人々を集約された情報と発達した文明で囲み、人々を都市に押し込めている。自由になったはずが、息苦しくなっているように思う人々もいるだろう。
中央へ、集権へ。そんな昨今を過ごす私たちからみれば、辺境の地にあって、かくも豊かな文明を生み出したケルト民族の姿は、同じ辺境に住む日本人からみても、何か相通ずるものを感じる。
両者が日本酒やウイスキーといった銘酒を生み出した民族であることも、なにやら共通の理由がありそうだ。

今の私たちは、世界中の酒文化を楽しめる。それは間違いなく幸運なことだ。
そして、ウイスキーは今も進化し続けている。
進化するウイスキーの豊かな状況はスコッチだけにとどまらない。バーボン、アイリッシュ、カナディアン、ジャパニーズも同様。
だからこそ、著者の活躍する範囲は多い。
折に触れて読んでいる著者のブログからも著者の忙しさが感じられる。
本書の情報だけに満足せず、著者のブログやWHISKY Galoreといった雑誌を読みながら、より知識を深めていきたいと思う。

‘2019/5/8-2019/5/9


世界史を創ったビジネスモデル


本書は年始に書店で購入した。
選書で450ページ弱の厚みは珍しい。見た目からボリュームがある。
分厚い見た目に加え、本書のタイトルも世界史を掲げている。さぞかし、ビジネスの側面から世界史を網羅し、解き明かしてくれているはず。
そう思って読んだが、タイトルから想像した中身は少しだけ違った。

なぜなら、本書が扱う歴史の前半は、大半がローマ帝国史で占められているからだ。
後半では、フロンティアがビジネスと国の発展を加速させた例として、ヴェネツィア、ポルトガル、スペイン、そして大英帝国の例が載っている。
そして、最後の四分の一で現代のビジネスの趨勢が紹介されている。
つまり、本書が取り上げているのは、世界史の中でも一部に過ぎないのだ。

例えば本書には中国やインドは全く登場しない。イスラム世界も。
しかし、中国の各王朝が採った経済政策や鄭和による大航海が中国の歴史を変えた事は周知の事実だ。
さらに、いまの共産党政権が推進する一路一帯政策は、かつてのシルクロードの交易ルートをなぞっているし、モンゴル帝国がそのルートに沿った諸国を蹂躙し、世界史を塗り替えた事は誰もが知っている。
つまり、中華の歴史を語らずに世界史を名乗ることには無理がある。

同様に、イスラムやインドが数々のビジネス上の技術を発明したことも忘れてはならない。ビジネスモデルと世界史を語るにあたって、この両者も欠かすことが出来ない存在だ。

さて、ここまではタイトルと中身の違いをあげつらってきた。
だが、ローマ帝国の存在が世界史の中で圧倒的な地位を占めることもまた事実だ。
その存在感の大きさを示すように、本書は半分以上の紙数を使ってローマ帝国の勃興と繁栄、そして没落を分析している。
その流れにおいてビジネスモデルを確立したことが、ローマ帝国の拡大に大きく寄与した事が間違いない以上、本書の半分以上がローマ帝国の分析に占められていることもうなづける。。

国際政治学者の高坂正堯氏の著書でもローマ帝国については大きく取り上げられていた。
それだけ、ローマ帝国が世界史の上で確立したモデルの存在はあまりにも大きいのだろう。
それは政治、社会発展モデルの金字塔として、永久に人類史の中に残り続けるはず。もちろん、ビジネスモデルと言う側面でも。

ここで言うビジネスモデルとは、国家の成功モデルとほぼ等しい。

国家の運営をビジネスと言う側面で捉えた時、収支のバランスが適切でありながら、持続的な拡大を実現するのが望ましい。
これは私企業でも国家でも変わらない。

ただし、持続的な成長が実現できるのは、まだ未開拓の市場があり、未開拓の地との経済格差が大きい時だ。その条件のもとでは、物がひたすら売れ続け、未開の地からの珍しい産物が入ってくる。つまり経済が回る。
ローマ帝国で言えば、周辺の未開の版図を取り込んだことによって持続的な成長が可能になった。

問題は、ローマ帝国が衰退した理由だ。
著者は、学者の数だけ衰退した理由があると述べている。つまり、歴史的に定説が確立していないと言うことだろう。

著者は、経済学者でもあるからか、衰退の理由を経済に置いている。
良く知られるように、ローマ帝国が滅亡した直接的な原因は、周辺から異民族が侵入したためだ。
だが、異民族の襲来を待つ以前に、ローマは内側から崩壊したと著者は言う。

私もその通りだと思う。

著者はローマ帝国が内側から崩壊していった理由を詳細に分析していく。
その理由の一つとして、政治体制の硬直を挙げている。

結局、考えが守りに入った国家は等しく衰退する。これは歴史的な真理だと思う。もちろん私企業も含めて。

著者は最終的に、ディオクレティアヌス帝が統制経済を導入したことがローマ帝国にとってとどめだったと指摘している。つまり統制による国家の硬直だ。
勃興期のローマが、周辺の民族を次々と取り込み、柔軟に彼らを活かす体制を作り上げながら繁栄の道をひた走ったこととは対照的に。

著者は現代の日本の状況とローマ帝国のそれを比較する。
今の硬直しつつある日本が、海外との関係において新たな関係を構築せざるを得ないこと。それは決して日本の衰退を意味するものではないこと。
硬直が衰退を意味すると言う著者の結論は、私の考えにも全く一致するところだ。
既存のやり方にしがみついていては、衰退するという信念にも完全に同意する。

本書がローマ帝国の後に取り上げるヴェネツィア、ポルトガル、スペイン、大英帝国の勃興も、既存のやり方ではなく、新たなやり方によって富を生んだ。
海洋をわたる技術の発展により、交易から異なる土地へ市場を作り、それが繁栄につながったと見て間違いないだろう。

では、現代のわが国は何をすれば良いのか。
著者は、そのことにも紙数を割いて詳細に分析する。

日本人が海外に出たからず、島の中に閉じこもりたがる理由。
著者はそれを、日本が海洋国家ではなく島国であると言う一文で簡潔に示している。
海洋国家であるための豊富な条件を擁していながら、鎖国が原因の一つと思われる国民性から、守りに入ってしまう。

だからこそ、今こそ日本は真の意味で開国しなければならないと著者は提言している。
そこでヒントとなるのは、次の一文だ。

「この新しい産業社会においては、ローマ帝国から大航海時代までのビジネスモデルは参考になる。しかし、産業革命以降20世紀前半までのビジネスモデルは、参考にならない。むしろ、反面教師として否定すべき点が多いのである。(316ページ)

つまり、第二次大戦以降の高度成長期。もっと言えば明治維新以降の富国強兵政策が取り入れた西洋文明。
これらは全て産業革命以降に確立されたビジネスモデルをもとにしている。著者がいう反面教師であるビジネスモデルだ。
つまり、わが国の発展とは、著者によって反面教師の烙印が押されたビジネスモデルの最後の徒花に過ぎないのだ。

バブル以降の失われた20年とは、明治維新から範としてきた産業革命以降のビジネスモデルを、世界に通じる普遍的な手本と錯覚したことによる誤りがもたらしたものではないだろうか。

著者が本書で記した膨大な分析は、上に引用した一文を導くためのものである。
私たちは誤ったビジネスモデルから脱却しなければならない。そして、この百数十年の発展を、未来にも通用する成功とみなしてはならない。

本書には、ビジネス史でも有名な電話特許を逃した会社や、技術の先進性を見逃して没落した会社がいくつも登場する。
そうした会社の多くは、世の中の変化を拒み、既存のビジネスモデルにしがみ付いたまま沈没していった。末期のローマ帝国のように。

そして今、私たちは明らかな変化の真っ只中にいる。
情報技術が時間と空間の意味を変えつつある時代の中に。
わが国の多くの企業がテレワークの動きをかたくなに拒み、既存の通勤を続けようとしている。
だが、私にとってはそうした姿勢こそが衰退への兆しであるようにみえる。

おそらく五十年後には、いまの会社のあり方はガラリと変わっている事だろう。わが国のあり方も。
その時、参考となるのはまだ見ぬ未来の技術のあり方より、過去に人類が経験してきた歴史のはずだ。

本書の帯にはこう書かれている。
「「歴史」から目を背ける者は、「進歩」から見放される。」
本書を締めくくるのも次の一文だ。
「歴史に対する誠実さを欠く社会は、進歩から見放される社会だ。」(448ページ)

過去の栄光にしがみつくのは良くないが、過去をないがしろにするのはもっと良くない。
過去からは学べることが多い。本書において著者は、溢れるぐらいの熱量と説得力をもってそのことを示している。
歴史には学ぶべき教訓が無限に含まれているのだ。

‘2019/4/27-2019/5/8


魔法のラーメン発明物語―私の履歴書


数年前、横浜にもカップヌードルミュージアムができた。私もそのニュースを聞いてから、家族を連れて何度も行こうと思っているが、いまだに伺えていない。
本書はチキンラーメンを発明し、世界に即席めんを広めた日清食品の創業者、安藤百福氏による自叙伝だ。

チキンラーメンから始まった即席めんのラインアップ。その豊かさは、コンビニエンスストアに行くたびに実感でき。
無数の商品が生み出されてきたし、いまも頻繁に棚の商品が入れ替わる。
おそらく、それらの商品の背景には開発者やマーケティング担当者、製造ラインの方々による努力が刻まれていることだろう。

だが、その裏側に、著者による幾たびも挫折を繰り返した人生があったことを、私はあまりよく知らずにいた。
本書は、日本経済新聞に連載された「私の履歴書」を基にしている。「私の履歴書」といえば功成り名遂げた方の自叙伝としてよく知られたコーナーだ。

本書の「はじめに」では、「私の履歴書」に連載を始めたいきさつが書かれている。
それによると戦後に輩出した著名な創業者のうち、残された大物の一人が著者だったらしい。
担当編集者からの依頼に対し、「特に人に向けて書くようなことはない」と著者が断っていたところ、逆に何か書くとまずい事でもあるのかと問われ、つい筆を取ったのが連載のきっかけだったようだ。

本書には著者の生い立ちから日清食品の躍進までの歴史が記されている。本書を読むと、著者の人生は挫折もあったが、ほとんどが努力と成長の連続だった事がわかる。
チキンラーメンの開発にあたって、著者が一年間自宅にこもりきっていた事はよく知られている。
その裏には、著者が頼まれて理事長に就任した信用組合が破綻し、ほとんどの家財を差し押さえられた実情があったらしい。実際、自宅のみしか残されなかったため、背水の陣を布いて即席めんの開発に当たったというのが真相のようだ。
私は本書を読むまで、その裏側に何か事情があったことなど考えたこともなかった。

差し押さえ。それが大きな挫折であることは確かだ。
だが、挫折する前の著者が信用組合の理事長の地位にまで登り詰めていたことを見逃してはならない。
著者には信用組合の理事長になるまでの人徳と実力があったことを示している。
戦前と戦中に著者は多様な事業に手を出し、それらをことごとくものにしてきたという。著者自身の努力とセンスの賜物だろう
そこを考えず、著者が一か八かを賭けて即席めんに手を出し、幸運にも一発当てたと早とちりすると、著者の生涯から得られる教訓を逃してしまう。

著者は台湾で生まれ、そこで繊維系の仕事に就き、商売を学んだようだ。そして、台北だけでは仕事の広がりに限界を感じ、異国である日本の大阪に出て仕事を起こした。台湾に生まれ、台湾の人でありながら、苦労と工夫を重ねて日本になじんだ事が著者の原点にあるようだ。
著者の人生を概観してみると、あらゆる事物への飽くことのない好奇心が成功に導いた事に気づく。
好奇心に加え、工夫に次ぐ工夫の連続。そこに妥協はない。

好奇心は発想の種を生む。
私は、周りにあるすべてに対する好奇心は、人生を成功させるために不可欠だと思っている。

もう一つ、著者の人生から感じ取れるのは、中年を迎えても人間には成功へのチャンスがあることだ。
そもそも著者が即席めんの発明に手を染めたのが、著者の人生でも後半生に入った後だ。47歳になって自宅で始めたチキンラーメンの開発の苦労は、本書に詳しく書かれている。

その姿はまさに単身の奮闘。この言葉に尽きる。
組織の力は確かに重要だ。だが、最初に努力し、火を起こすまでは一人の力でやるべき仕事なのかもしれない。

この事は、私にとってあらゆる意味で気づきになった。
むしろ、著者が最も言いたい事は、初めは組織だけに頼るなということかもしれない。
著者は、信用組合の理事長での経験を苦い思い出として回顧し、組織を運営のする事の難しさについて触れている。全くその通りだと思う。
一人の力で火を起こし、それを広げるにあたってようやく、組織の力が必要となる。
この事は社会人のほとんどには当てはまらない。だから、結果論だけを取り出せば、一山当てた著者だから説ける教訓だと片付けることもできるだろう。
だが、はじめは組織に頼るなとの教えは、今の新卒での採用が慣習となったわが国のあり方にも一石を投じるものだと思う。

また、カップライスの失敗についても著者は触れている。
開発に着手した当時、古米、古古米が倉庫に眠り、政府からも米の有効活用の要請があり、即席ライスを開発した。だが、見事に失敗したそうだ。

ところが、著者の遺志は没後に実現したことを今の私たちは知っている。そう、日清のカレー飯だ。見事に大ヒットし、今もまだよく見かける商品だ。
おそらくは泉下の著者も喜んでいるに違いない。

本書は、東食の倒産や阪神淡路大震災での社会貢献についてもページを割いている。
それによると、東食は倒産後、即座に日清との取引の再開にこぎ着け、その後の倒産からの復活につながったそうだ。

そうした社会貢献を成し遂げるまでになった日清食品の歴史は、著者が47歳からカップめんを開発して始まった事。
何人もの人生を凝縮したような著者の濃い人生が、まさに人生の後半から始まり、社会貢献にまでつながった事がすごい。

本稿をアップした私は先日、47歳になった。まさに著者がチキンラーメンを開発した年齢だ。
焦りはある。一方で諦めては負けだ、との思いもある。
ひょっとしたら、私自身、全く気づいていない何かをこれから成し遂げるかもしれない。
私自身、今の自分に安住しているつもりも、慢心しているつもりもない。だが、そうした罠はすぐそこに口を開けて待っているはず。間違ってもそうなってはならない。
その事を強く本書から感じた。

本書が面白いのは、私の履歴書の連載の後日談として「麺ロードを行く」と題し、著者が麺の故郷である中国の各地を訪れ、そこで麺を研究した成果を載せていることだ。
それもまた、日本経済新聞の連載だったらしい。
その中で紹介されている中国各地の麺の豊かなことと言ったら!
日本にもかなりの種類の麺が入ってきているが、まだまだ中国には及ばない。私たちの知らない麺の奥深い世界が広がっているようだ。

本書を読むと、そうした麺がもっと日本に入ってきてほしいと思う。
麺こそが、私たちの食生活を豊かにする。そのことに誰も異論はないだろう。
著者は長生きの秘訣を尋ねられたり、カップめんの容器に健康被害の風評が吹き荒れた際、97歳まで生きた自らの長寿を引き合いに出し、カップヌードルの健康性を吹聴していたとか。

私も最近、よく横浜に行く。
冒頭に書いたように、横浜にはカップヌードルミュージアムがある。
早くそこに行って、著者の実践の成果を見てみようと思う。
さらに、実家に帰ったときには、著者が住んでいた池田に建てられたカップヌードルミュージアムにも訪れたいと願っている。
その時、私は何を思うだろう。ひょっとしたら新たな道を見つけられるかもしれない。楽しみだ。

‘2019/4/26-2019/4/26


任務の終わり 下


本書では、上巻で研がれたハーツフィールドの悪の牙が本領を発揮する。
人々を自殺へと追い込む悪の牙が。
ハーツフィールドの狡知は、旧式のポケットゲーム機ザビットのインストール処理を元同僚の女性に依頼する手口にまでたどり着く。

そのインストールが遠隔で実現できたことによって、SNSやブログ、サイトを活用し、ハーツフィールドは自らの催眠処理が埋め込まれたソフトを若いティーンエイジャーに無差別かつ広範囲に配り、自殺願望を煽る手段を手に入れた。

さらに、身動きならないはずのハーツフィールドの肉体から、他の肉体の人格を乗っとる術に磨きをかける。その結果、自らの主治医であったバビノーや、病院の雑用夫の体も完全にのっとることに成功する。
ところが、そんな恐ろしい事態が進んでいることに誰も気がつかない。病院の人々や警察までもが。
何かがおかしいと疑いを抱きつつあるのはホッジズとホリーだけだ。

果たして、ハーツフィールドの狡知をホッジズとホリーは食い止められるのか。
本来ならば、本書にはそうしたスリルが満ちているはずだ。
ところが、著者の筆致は鈍いように思える。
かつての著者であれば、上巻でためにためたエネルギーを下巻で噴出させ、ジェットコースターのように事態を急加速させ、あおりにあおって盛大なカタストロフィーを作中で吹き荒れさせていたはず。
だが、そうはならない。

『ミスター・メルセデス』で描かれていたハーツフィールドは、頭の切れる人物として描かれていた。
ところが、脳の大半を損ねているからか、本書のハーツフィールドにすごみは感じられない。
ハーツフィールドの精神はバビノーの肉体に完全に乗り移ることに成功する。
とはいえ、そこからのハーツフィールドはいささか冴えない。
そればかりか、ハーツフィールドはおかしなちょっかいをかけることでホッジズにあらぬ疑いを持たせるヘマをしでかす。
かつての著者の諸作品を味わっている私からすると、少し拍子抜けがしたことを告白せねばなるまい。

本書は、ハーツフィールドがどうやって人々にソフトウエアを配布し、自殺に追い込むか、という悪巧みの説明に筆を割いている。
そのため、本書にはサスペンスやアクションの色は薄い。著者はスピード感よりもじっくりと物語を進める手法を選んだようだ。

おそらく、著者は最後まで本書をミステリーとホラーの両立した作品にしたかったのだろう。
それを優先するため、ホラー色はあまり出さず、展開もゆっくりにしたと思われる。
老いたホッジズと、精神だけの存在であるハーツフィールドの対決において、ど派手な展開はかえって不自然だ。
本書はミステリー三部作であり、ミステリーの骨法を押さえながら進めている。

上巻のレビューでも少しだけ触れたが、本書には技術的な記載が目立つ。
どうやってSNSに書き込ませるか、どうやってソフトウエアを配布するか。
そうした描写に説得力を持たせるためもあって、本書はほんの少しだが理屈っぽい面が勝っている。

理屈と感情は相反する。
理屈が混ざった分、本書からは感情を揺さぶる描写は控えめだ。
ところが、感情に訴えかける描写こそ、今までの著者の作品の真骨頂だったはず。
感情と理屈を半々にしたことが、本書からホラーのスピード感が失われた原因だと思う。
本書に中途半端な読後感を与えるリスクと引き換えに、著者はミステリーとしての格調を保とうとしたのだと私は考える。
だが、それが三部作の末尾を飾る本書に、カタルシスを失わせたことは否めない。

だが、その点を踏まえても本書は素晴らしいと思う。
本書の主題は、ホッジスという一人の人間が引退後をどう生きるのかに置かれている。

それは本書で描いているのが、ホッジズの衰えであることも関わっているのだろう。
より一層ひどくなっていくホッジスの体の痛み。それに耐えながら、ホッジズはハーツフィールドの魔の手から大切な人を守ろうとする。ホッジズの心の強さが描かれるのが本書だ。

ホッジズの死にざまこそ、本書の読後感にミステリーやホラーを読んだ時と違う味わいを与えている。
そうした観点で読むと、本書のあちこちの描写に光が宿る。

ホッジズの心の持ちようは、ハーツフィールドの罠によっていとも簡単に心を操られるティーンエイジャーの描写とは対照的だ。
ハーツフィールドがゲームを通じて弱い心にささやきかける自殺の誘い。
その描写こそ、著者の作家としてのテクニックの集大成が詰まっている。
だが、巧みな誘惑に打ち勝つ意志の強さ。それこそが本書のテーマだ。

さらに、その点からあらためて本書を読み直してみると、本書のテーマが自殺であることに気づく。
『ミスター・メルセデス』の冒頭は、警察を退職し、生きがいをなくしたホッジズが自殺を図ろうとする場面から始まった。
ところが、三部作を通じ、ホッジズは見事なまでに生きがいを取り戻している。
そして、死ぬ間際まで自らを生き抜く男として描かれている。
それは、あとがきにも著者が書いている通り、生への賛歌に他ならない。

人はどのような苦難に直面し、どのような障害にくじけても、自分の生を全うしなければならない。
それが大切なのだ。
何があろうと人の精神は誇り高くあるべき。
人は、弱気になると簡単に死への誘惑に屈してしまう。
そこにハーツフィールドのような悪人のつけ込む余地がある。
上巻のレビューにも書いたように、電話口で誘い出そうとする詐欺師にとって、人の弱気こそが好物なのだから。

また、本書の中でザビットと呼ばれるポケットゲーム機やゲームの画面が人の心を操るツールとなっているのも著者の意図を感じさせる。
いわゆる技術が人の心に何を影響をもたらすのか。
著者はデジタルを相手にすることで人の心が弱まる恐れや、情報が人の心を操る危険を言外に含めているはずだ。

私も情報を扱う人間ではあるが、情報機器とは、あくまでも生活を便利にするものでしかないと戒めている。
それが人の心の弱さをさらけ出す道具であってよいとは思わない。
ましてや、心の奥底の暗い感情を吐き出し、自分の心のうっぷんを発散する手段に堕してはならないと思っている。

技術やバーチャルに頼らず、どうすれば人は人であり続けられるのか。
本書が描いている核心とは、まさにそうした心の部分だ。

‘2019/4/25-2019/4/26


任務の終わり 上


『ミスター・メルセデス』から始まった三部作も本書をもって終わる。

前作の『ファインダーズ・キーパーズ』のラストは、昏睡し続けるミスター・メルセデスことハーツフィールドの不気味な姿を暗示するかのようにして幕を閉じた。
『ミスター・メルセデス』では、ホリーがハーツフィールドの頭部に叩き込んだ一撃によって大量殺戮の惨劇はすんでのところで食い止められた。
脳のかなりの部分を破壊されたハーツフィールドは、植物状態で昏睡し続けているはずだった。

本書は、意識を取り戻したハーツフィールドの視点で物語が始まる。脳に障害を持ったまま、意識を取り戻したハーツフィールド。脳に負った重大な障害により、ハーツフィールドの肉体は機械によって生かされているに過ぎない。
復讐の念だけが肥大したハーツフィールドの歪んだ想念は、ハーツフィールドの主治医である神経科医師のバビノーが違法に処方した薬によって、特異な能力を覚醒させる。
その結果、ハーツフィールドは人の心を操る術を身に付ける。

古いポケットゲーム機のゲームの画面から、人の脳を催眠状態に導き、人の脳を操る能力。それによって殺人鬼であるハーツフィールドことミスター・メルセデスが再び蘇る。

その設定は、本書を正統なミステリーの枠からはみ出させる。
『ミスター・メルセデス』は、正統なミステリーとして著者にエドガー賞を受賞する栄誉を与えた。
それは、著者の筆力がミステリーの分野でも認められた証であり、もちろん素晴らしいことだ。
だが、著者の本分がホラーにあることは言うまでもない。
人の心を操れる殺人鬼、との非現実的な設定は、著者がホラーの分野に戻ってきた事を意味する。著者のファンにとっては喜ばしい事でもある。

ところがホラーに戻ってきた著者は、本書を荒唐無稽な設定にしない。そこが著者の素晴らしいところだ。
ハーツフィールドの体は自ら動かせられない。だから殺人鬼にとって制約は多い。
人の心に操れるようになったとは言え、体が動かせない以上、手段は限られる。
その手段とは、人の心を催眠状態に導くゲームしかない。
そこをどうやってハーツフィールドが成し遂げていくのか。これが本書の主眼だ。

本書は、ハーツフィールドによって徐々に操られていく人々を描く。ハーツフィールドの意志が徐々に彼らの意思を侵食してゆくにつれ、二つの意思が混じり合ってゆく。
それを書き分けてゆく手腕は、著者の筆力の真骨頂だ。
本書には著者がかつての作品で描いたような、原色のけばけばしさを想起させるような描写はあまり現れない。
あくまでも端正な描写でありながら緊張感を保っている。

その中でどうやっハーツフィールドが人の心を操るのか。どうやって人の脳を催眠状態にもっていくのか。そしてどのようにしてゲーム機の中身を改造し、それを人々に広めていくのか。
そこには、ハーツフィールドの職歴にあったプログラマーとしての知識が欠かせない。
そこの部分を荒唐無稽にせず、あくまでも理路整然としたミステリーの体裁を崩さないところがとてもよい。

一方、ファインダーズ・キーパーズ探偵社のホッジスとホリーの2人は、コンビネーションが板につき、順調に業務をこなしている。
そして、『ミスター・メルセデス』ではホッジスは、定年で退職した刑事との設定だった。
そこから長い年月がたち、ホッジズの肉体はさらに老い、異変が生じる。ホッジズが残された人生の中で何を成し、何を防ぎ、何を残してゆくのか。そして何を引き継いでいくのか。
それが本書の読み応えだ。

本書はホッジズとハーツフィールドが繰り広げる頭脳と頭脳の戦いとして読める。
前作の欠点として、登場人物がベラミーとホッジズとホリー、そしてピートとアンディの限られた人数に絞られており、人物の動きに予定調和が見られ、著者によるご都合主義が見られると書いた。
本書には、そうした欠点はあまり見られない。

ハーツフィールドが脳に障害を負ってから、少しずつその能力を悪事に発揮してゆく様がじっくりと時間を掛けて描かれている。
そこに不自然な印象や著者のご都合主義は感じられない。
人を催眠に掛け、操るスキルがハーツフィールドの中で熟していく様子が気を遣って書かれている。

ホラーの要素も盛り込みつつ、そうした配慮が本書をミステリーとして成立させている。

本書がテーマにしているのは、人の心の強さと弱さだ。
人が自我を保ち続けるためには、何が必要なのか。
そしてその鎧を壊すために最も有効な方法とは何か。
著者は長年の作家生活で得た心理学の知識の全てを本書に詰め込んでいるように思える。

人の心がいかに弱いものか。
それは私たち自身がよく知っている。
例えば催眠状態とは、人が意識する事もなしに、簡単に自らにかけることができる。
暗示とは、自分への罠でもある。
例えばテレビをボケーっと見る。例えば携帯をなんとなく眺める。それだけで人の心はたやすく無防備な状態になる。

心理とは人の心にとって弱みであり、強みでもある。
ハーツフィールドのように超能力を使うことがなくとも、私たちは弱みにつけ込まれやすい。
電話越しに聞く詐欺師の口調、いわゆるオレオレ詐欺の類の手口が一向に減らない事でもそれは明らかだ。
不意をつかれた時、弱みをつかれた時、狼狽した時、人は簡単に自らの弱さをさらけ出す。
それは、ハーツフィールドのような悪意を持つ人物には格好の弱点だ。

本書の設定を荒唐無稽と片付けるのはたやすい。
だが、それを絵空事として片付けていてはもったいない。
本書をせっかく読んでいるのだから、スリルを愉しみながら学ぶべきこともあるはずだ。
どうやって自分の心の弱さをさらけ出さずに済ませるか。
ホッジズのように体に異変を覚えつつも、信じる者のために突き進む意志の保ち方とは何か。
本書からは得る物が多い。

‘2019/4/23-2019/4/24


楽園のカンヴァス


本書は実に素晴らしい。あらゆる意味で端正にまとまっている。
小説としての結構がしっかりしている印象を受けた。

本書の主人公、織絵は、美術館の監視員というどちらかといえば裏方の役割を引き受けている。母と娘と共に暮らし、配偶者は登場しない。

ところがある日、織絵にオファーが届く。
そのオファーとは、アンリ・ルソーの作品を日本に貸し出すにあたり、日本側の交渉担当として織絵を指定していた。
オファーを出してきたのは、ニューヨーク近代美術館のチーフ・キュレーターであるティム・ブラウン。
キュレーターとして花形の地位にあり、地味に描かれている織絵の境遇とは似つかわしくない。

娘の真絵との関係を修復できぬまま、生活に思い悩むように描かれる織絵。
そんな彼女の過去に何があるのだろうか。冒頭から読者の興味を惹いてやまない。
そして、舞台は十六年前へ。

ここから、本書の視点は十六年前のティム・ブラウンに変わる。
ティム・ブラウンは、ニューヨーク近代美術館のアシスタント・キュレーターとして、上司のトム・ブラウンのもとで働いていた。
上司のトム・ブラウンだけでなく、ティムのもとへも何通ものダイレクトメールが届く。
その中に混ざっていた一通こそ、スイス・バーゼルからの招待状だった。招待の主はコンラート・バイラー。伝説の絵画コレクターであり、有名でありながら、誰も顔を見たことのない謎に満ちた人物。
てっきり上司に届くべき招待状の宛名が誤って自分に届いたことをチャンスとみたティムは、誤っていたことを明かさずに招待を受ける。

バーゼルに飛んだティムは、そこでバイラーの膨大なコレクションのうちの一つ、アンリ・ルソーが描いた絵画の真贋の鑑定を依頼される。
アンリ・ルソーの代表作『夢』に瓜二つの『夢をみた』。果たしてこれが真作なのか偽作なのか。
その依頼を受けたのはティムだけではない。もう一人の鑑定人も呼ばれていた。
バイラ―の依頼は、二人の鑑定人がそれぞれ『夢をみた』を鑑定し、より説得力のある鑑定を行った方に『夢をみた』の権利を譲るというもの。
ティムともう一人の鑑定人は早川織絵。新進気鋭のルソー研究家として注目されていた彼女こそ、ティムが競うべき相手だった。

二人は、七日の間、毎日一章ずつ提示される文章を読まされる。
そこにはルソーの慎ましく貧しい日々が活写されていた。
その文章には何が隠されているのか。果たして『夢をみた』は真筆なのか。
さらに、織江とティムの背後に暗躍する人物たちも現れる。その正体は何者なのか。
七日間、緊迫した日々が描かれる。

本書を読むまで、私は恥ずかしいことにアンリ・ルソーという画家を全く知らなかった。
本書の表紙にも代表作『夢』が掲げられている。
そのタッチは平面的でありながら、現代のよくできたイラストレーターの作品を思わせる魅力がある。
色使いや造形がくっきりしていて、写実的ではないけれど、リアルな質感を持って迫ってくる。

ルソーは正規の画家教育を受けず、40歳を過ぎるまで公務員として働いていたという。
独学で趣味の延長として始めた画業だったためか、平面的で遠近感もない画風は、当時の画壇でも少し嘲笑されて受け取られていたらしい。
だが、パブロ・ピカソだけはルソーの真価を見抜いていた。そればかりか、後年のピカソの画風に大きく影響を与えたのがルソーだという。

私は本書を読んだ後、アンリ・ルソーの作品をウェブで観覧した。どれもがとても魅力的だ。
決して私にとって好きなタッチではない。だが、色使いや構図は、私の夢の内容をそのまま見せられているよう。
夢というよりも、自分の無意識をとても生々しく見せられているように思えるのだ。
本書のある登場人物が『夢』について言うセリフがある。「なんか・・生きてる、って感じ」(290p)。まさにその通りだ。

ティムと織江も、正統派の画壇からは軽んじられているルソーを正しく評価し、その魅力を正しく世に伝えようとする人物だ。
だからこそ、バイラーも二人をここに呼んだ。

そんな二人に毎日提示される文章。
そこには、当時の大きく変わろうとする美術界の様子が描かれていた。
素朴で野心もない中、ひたむきに芸術に打ち込むルソー。
美術には全く門外漢だったのに、ルソーの作品に惹かれ、日がな一日、憑かれたように絵を眺め、それが生きがいとなってゆく登場人物たち。

本書には、権威主義にまみれ、利権の匂いが濃厚な美術界も描かれる。
もう一方では、芸術の生まれる現場の純粋な熱量と情熱が描かれる。

本来、芸術とは内なる衝動から生まれるべきもののはず。
そして、芸術を真に愛する人とは、名画の前でひたすら絵を鑑賞し続けられる人の事をいう。本来はそうした人だけが芸術に触れ、芸術を味わうべき人なのだろう。
ところがその間に画商が割って入る。美術館と美術展を主催するメディアが幅を利かせる。ブローカーが暗躍し、芸術とは関係のない場所で札束が積まれて行く。

本書にはそうした芸術を巡る聖と俗の両方が描かれる。
俗な心は人間に欲がある限り、なくならないだろう。
むしろ、純粋な芸術だからこそ、俗な人々の心を打つのかもしれない。

百歩譲って、名画をより多くの目に触れさせるべきという考えもある。美術館は、その名分を基に建てられているはずだ。
そのような美術館の監視員は、コレクターよりもさらに名画に触れられる仕事だ、という本書で言われるセリフがある。まさに真実だと思う。
著者の経歴通り、本書は美術の世界を知った著者による完全なる物語だ。

小説もまた芸術の一つ。
だとしたら、本書はまさに芸術と呼ぶべき完成度に達していると思う。

‘2019/4/21-2019/4/22


魔法の種


ノーベル文学賞を受賞した作家たちは、いつか読破せねばと思っている。
著者はインドにルーツを持つ英文学の世界では有名な作家だ。そして、ノーベル文学賞の受賞作家でもある。
それなのに著者の作品はいまだに読んだことがなかった。本書が初めてだ。

著者の作風を知らずに読み始めたためか、本書は私にとって少々読みにくかった。

読みにくいと感じた理由はそれだけではない。
翻訳文が生硬だったことも理由の一つとして挙げられる。
主人公の独白調の語りが硬く訳された時、読みにくさは増す。

もう一つ、本書が読みにくかった理由がある。それは本書が『ある放浪者の半生』の続編である事だ。
私は、巻末に訳者が付した解説を読むまで、本書が続編である事を知らずにいた。

実際、本書を読み始めると、読者はすぐにある不自然さに気づくはずだ。
その不自然さは、主人公の過去を追憶する場面においてひときわ目立つ。

本書は、ベルリンにいる主人公ウィリーの現況を描写するところから始まる。
インドに生まれ、アフリカで長い期間、結婚生活を送っていたウィリー。18年に及ぶアフリカ生活は、主人公の考え方に明らかな影響を与えたはず。
それなのに、その18年はわずかに追憶されるだけで、実際にアフリカで何が行われたのか、ウィリーはどういう日々を営んでいたのかが一切描かれない。

私は読みながらそのことを訝しく思っていた。そして最後になって大きなどんでん返しがあるのでは、と思っていた。
しかし、あとがきを読んで本書が『ある放浪者の半生』の続編である事を知り、ようやく納得した。
アフリカでの日々は『ある放浪者の半生』で描かれており、本書は、読者がそれを読者が読んでいることを前提に書かれているようだ。
たしかにあとがきで著者がいうように、本書はアフリカのことを知らなくても読めるし、『ある放浪者の半生』を読んでいなくても本書は読み進められる。
だが、私のような不注意な読者にとっては、本書の前段がぽっかり抜けていると感じ、それが読みにくさにつながっているのも事実だ。

だが、そうした点を除けば、ウィリーが理想を求め続ける人間であることは分かる。理想を求めすぎるあまり、アフリカの生活に飽きたらなかったことも。
私は『ある放浪者の半生』を読んでいないので、アフリカの生活がどんなものだったかは分からない。おそらく、ウィリーがアフリカで感じたのは大義の欠如だったのではないか。

大義とは、個人の目標を自分自身の達成におかない事だ。
そして目標とは、自分の信じるより良い社会の実現だ。その目標に向かって努力すること。これが大義。
左右のイデオロギーを問わず、大義に殉じようとした人のいかに多いことか。

ところが、人は大義の大切さはわかっても、何をすれば良いのか、何が課題なのかが分からない。それをわきまえず、ただ闇雲に大義へと突き進む人がいる。
それは空虚な理想主義であり、頭でっかちに考えるとそこに落ち込む。
誰もが陥る若かりしころの過ちであり、私もその轍にはまった一人だ。

社会のいろいろな経験を積み、いろいろな階層の人と交わり、社会の仕組みを存分に知る。
そのような地道な営みの中から知識が少しずつ身についてゆく。そして、地に足のついた改革が志せるようになってようやく、人は大義への現実的な歩みを始める。

ウィリーは深い知恵がないまま、空回りの理想に走る典型的な人物として描かれているようだ。
妹のサロジニが読みかじった、インドの哲人ガンジーの伝記からの受け売りに感化される。そして改革のために運動するカンダパリという人物の組織に加わるよう、サロジニから焚きつけられてその気になる。

ウィリーは不確かな連絡だけを頼りに、インドへと向かう。ゲリラ運動の大義に身を投じるために。
ウィリーは自分の過去と決別し、今や自分は生まれ変わったと確信する。

ところがそれは大きな勘違いであることは、読者には容易に理解できる。
組織の首脳が誰で、どういう大義を掲げており、どういう手順を踏んで事を成そうとするのか。
ありとあらゆるゲリラへの理解があやふやなまま、行動すること自体が大義であるかのように振る舞うウィリー。

そこには何もなく、ただ空虚な大義に踊らされる人間の滑稽があるのみだ。

おそらく、今の発展途上国の多くでは、年端もいかぬ子供達が、銃を手に取り、理解してもいない大義に殉じて日々を送っていることだろう。
あるいは学生運動の盛んだった頃のわが国で、いったいどれだけの学生が大義の目的や大義を実現する具体的な方法や大義が実現する見込みを理解していたか考えてみるといい。
おそらく、オルグしたリーダー格の発する熱気にあてられ、浮わついた気分で運動に邁進していったのではないだろうか。

ウィリーはさまざまなパートナーと組んでゲリラ活動を行う。
連絡員として重宝されたかと思えば、連絡が途切れた上に放置される。
有望な一員として抜擢されたかと思えば、命令した当の組織から見捨てられる。
そうした経験をへても、ウィリーはとうとう理解しない。その組織が何を目指し、何を実現しようとするのかを。

活動の合間にベルリンのサロジニから連絡はポツポツと来る。
だが、サロジニにも無意味なゲリラ活動に兄を追いやった事への反省はない。それどころか、次々と理想を求める活動に身を投じて行く。
もはやそこに正解があるとは読者や著者も期待しないというのに。

ウィリーはベルリンに戻る。そして、かつて書いた詩集が名声を呼び、それによって生活の糧を得る。そして上流に属する人々と交流する。

だが、本書はそこから迷走を始める。いったい、本書がどこに向かっているのかわからなくなるほど、上流階級の交流のダラダラとしたやり取りが続く。
そして、銀行家の不倫の恋の結末が延々と再現される。
どうなってしまうのか、と私は別の意味で心配になったほどだ。

ところが物語の展開は変わり、ウィリーはついに悟りへと至る。ウィリーの悟りは、以下に引用する二つの文面から推し量れる。
まずはサロジニへの書きかけの手紙の文面において。
「親愛なるサロジニ。あまり極端から極端に行ってはいけないよ。病んだ世界、病んだ人間たちに与えるべき唯一の特効薬のようなものはないのだから。お前の悪い癖だ」(267p)

本書は以下のウィリーによる独白で締めくくられる。
「世界に理想的な姿を求めるのは間違っている。そういうことをするから災いが起こるのだ。そこからすべてが崩れていく。だが、それをサロジニに伝えるわけにはいかない」(333p)

最初に引用した文章は、尽きることのないゲリラ運動や大義のない争いの愚かさを言い表している。
そして後に引用した文章。これが実に示唆に富んでいる。

ウィリーが魔法の種としてつかみ取った真理。それをあえて妹に伝えずに済ませる。その行為にはどのような意図が込められているのだろうか。
理想を追うものには何を言っても無駄、という諦めだろうか。または、理想を追うこと自体は素晴らしい試みであり、それに水をさすことは控えよう、という意図なのか。それとも、ウィリーが自分の経験からつかみ取った真理は、それぞれの人が自らあがいて掴み取ることが大切で、人には伝えられないという本質を表しているのだろうか。

この諦念にも似た心境は、名声を得た著者の苦い後悔なのかもしれない。
最後にきて、本書はその真価を現す。

‘2019/4/10-2019/4/20