ウロボロスの波動


宇宙とは広大な未知の世界だ。

その広さの尺度は人類の認識の範囲をゆうに超えている。
宇宙科学や天文学が日進月歩で成果を挙げている今でさえ、すべては観測のデータから推測したものに過ぎない。

ビックバンや、ブラックホール。それらはいまだに理論上の推測でしかない。また、宇宙のかなりの部分を占めると言われるダークマターについても、その素性や作用、物理法則についても全く未知のままだ。

未知であるからロマンがある。未知であるから想像力を働かせる余地がある。
とは言え、科学がある程度進歩し、情報が行き渡った世界において、ロマンも想像力も既存の科学の知見に基づいていなければ売り物にならない。それは当たり前のことだ。

SF作家は想像力だけで物語を作れる職業。そんな訳はない。
物語を作るには、裏付けとなる科学知識が求められる。単純にホラ話だけ書いていればいい、という時代はとうの昔に終わっている。

そこで本書だ。
本書はハードSFとして区分けされている。ハードSFを定義するなら、高質な科学的記事をちりばめ、世界観をきっちり構築した上で、読者に科学的な知見を求めるSFとすればよいだろうか。

本書において著者が構築した世界観とはこうだ。

地球から数十天文単位の距離、つまり太陽系の傍に小さいながらブラックホールが発見された。
そのカーリーと名付けられたブラックホールが太陽に迫ると太陽系や地球は危機に陥る。そのため、ブラックホールをエネルギー源として使い、なおかつ太陽に近づけさせまいとするための人工降着円盤が発明された。人工降着円盤を管理する組織として人工降着円盤開発事業団(AADD)が設立された。
カーリーが発見されたのが西暦2100年。すでに人類は火星へ入植し、人類は宇宙へ飛び出していた。
ところが、AADDは地球の社会システムとは一線を画したシステムを考案し、実践に移していた。それによって、地球とAADDとの間で考え方の違いや感性の違いが顕わになり始め、人類に不穏な分裂が見られ始めていた。

そうした世界観の下、人々の思惑はさまざまな事件を起こす。
ガンダム・サーガを思わせる設定だが、本書の方は単なる二番煎じではない。科学的な裏付けを随所にちりばめている。
本書はそうした人々の思惑や未知の宇宙が起こす事件の数々を、連作短編の形で描く。本書に収められた各編を総じると、70年にわたる時間軸がある。

それぞれの短編にはテーマがある。また、各編の冒頭には短い前書きが載せられており、読者が各編の前提を理解しやすくなるための配慮がされている。

「ウロボロスの波動」
「偶然とは、認知されない必然である」という前書きで始まる本編。
ウロボロスとは、カーリーの周りを円状に囲んだ巨大な構造物。人が居住できるスペースも複数用意されている。それらの間を移動するにはトロッコを使う必要がある。
ある日、グレアム博士が乗ったトロッコが暴走し、グレアム博士の命を奪った。それはグレアム博士のミスか、それともAIの暴走か。または別の理由があるのか。
その謎を追求する一編だ。
AIの認識の限界と、人類がAIを制御できるのか、をテーマとしている。

「小惑星ラプシヌプルクルの謎」
小惑星ラプシヌプルクルが謎の電波を受信し、さらに異常な回転を始めた。それは何が原因か。
過去の宇宙開発の、または未知の何かが原因なのか。クルーたちは追求する。
人類が宇宙に旅立つには無限の障害と謎を乗り越えていく必要がある。その苦闘の跡を描こうとした一編だ。

「ヒドラ氷穴」
人間の意識は集合したとき、カオスな振る舞いをする。前書きにも書かれたその仮説から書かれた本編は、AADDを巡る暗殺や戦いが描かれている。本書の中では最も読みやすいかもしれない。
AADDの目指す新たな社会と、既存の人類の間で差異が生じつつあるのはなぜなのか。それは環境によるものなのか。それとも意識のレベルが環境の違いによってたやすく変わったためなのか。

「エウロパの龍」
異なる生命体の間に意思の疎通は可能か。これが本編のテーマだ。
いわゆるファースト・コンタクトの際に、人類は未知の生命体の生態や意思を理解し、相手に適した振る舞いができるのか。
それには、人類自身が己の行動を根源から理解していることが前提だ。果たして今の人類はそこまで己の肉体や意識を生命体のレベルで感知できているのか。
そうした問いも含めて考えさせられる一編だ。

「エインガナの声」
エインガナとは矮小銀河のこと。
それを観測するシャンタク二世号の通信が突然途絶し、乗組員がAADDと地球の二派にわかれ、それぞれに疑念と反目が生じる。
通信が途絶した理由は何かの干渉があったためか。果たして両者の反目は解決するのか。
文明の進展が人類の意識を根本から変えることは難しい。本編はそのテーマに沿っている。

「キャリバンの翼」
恒星間有人航行。今の人類にはまだ不可能なミッションだ。だが、SFの世界ではなんでも実現が可能だ。
ただし、そこに至るまでには人類の中の反目や意識の違いを解消する必要がある。
さらに、未知のミッションを達成するためには、技術と知能をより高めていかねばならない。

本書を読んでいると、今の人類がこの後の80年強の年月でそこまで到達できるのか不安に思う。
だが、希望を持ちたいと思う。
SFは絵空事の世界。とはいえ、今の人類に希望がなければ、100年先の人類など書けないはずだから。

‘2019/12/22-2019/12/30


明日の子供たち


著者は、執筆スタイルが面白い作家だと思う。

高知県庁の観光政策を描いた『県庁おもてなし課』や、航空自衛隊の広報の一日を描いた『空飛ぶ広報室』などは、小説でありながら特定の組織を紹介し、広く報じることに成功している。
そのアプローチはとても面白いし、読んでいるだけで該当する組織に対して親しみが湧く。そのため、自らを紹介したい組織、出版社、作家にとっての三方良しが実現できている。

本書もその流れを踏まえているはずだ。
ある先見の明を持つ現場の方が、広報を兼ねた小説が書ける著者の異能を知り、著者に現場の問題点を広く知らしめて欲しいと依頼を出した。
私が想像する本書の成り立ちはこのような感じだ。

というのも、本書で扱っているのは児童養護施設だ。
児童養護施設のことを私たちはあまりにも知らない。
そこに入所している子供たちを孤児と思ってしまったり、親が仕事でいない間、子供を預かる学童保育と間違ったり、人によってさまざまな誤解を感じる人もいるはずだ。
その誤解を解き、より人々に理解を深めてもらう。本書はそうしたいきさつから書かれたのではないかと思う。

私は、娘たちを学童保育に預けていたし、保護者会の役員にもなったことがある。そのため、学童保育についてはある程度のことはわかるつもりだ。
だが、親が育児放棄し、暴力を振るうような家族が私の身の回りにおらず、孤児院と児童養護施設の違いがわかっていなかった。本書からはさまざまなことを教わった。

甘木市と言う架空の市にある施設「あしたの家」には、さまざまな事情で親と一緒に住めない子供たちが一つ屋根の下で暮らしている。

本書の主人公は一般企業の営業から転職してきた三田村だ。彼より少し先輩の和泉、ベテランの猪俣を中心とし、副施設長の梨田、施設長の福原とともに「あしたの家」の運営を担っている。

「あしたの家」の子供たちは、普段は学校に通う。そして学校から帰ってきた後は、夕食や宿泊を含めた日々の生活を全て「あしたの家」で過ごす。
職員は施設を運営し、子供たちの面倒を見る。

ところが、子供たちの年齢層は小学生から高校生まで幅広い。そうした子供たちが集団で生活する以上、問題は発生する。
職員ができることにも限界があるので、高校生が年少者の面倒を見るなどしてお互いに助け合う体制ができている。

五章に分かれた本書のそれぞれでは、子供たちと職員の苦労と施設の実態が描かれる。

「1、明日の子供たち」

施設に行ったことのない私たちは、無意識に思ってしまわないだろうか。施設の子供のことを「かわいそうな子供」と。
親に見捨てられた子とみなして同情するのは、言う側にとっては全く悪気がない。むしろ善意からの思いであることがほとんどだ。
だが、その言葉は言われた側からすると、とても傷つく。
施設を知らず、施設にいる子供たちのことを本気で考えたことのない私たちは、考えなしにそうした言葉を口にしてしまう。

三田村もまた、そうした言葉を口にしたことで谷村奏子に避けられてしまう。
高校二年生で、施設歴も長い奏子は、世の中についての知識も少しずつ学んでいるとはいえ、そうした同情にとても敏感だ。

「2、迷い道の季節」

施設の子供達が通っているのは普通の公立の小中高だ。
私も公立の小中高に通っていた。もっとも、私はボーッとしていた子供だったので、そうした問題には鈍感だったと思う。だから、周りの友達や他のクラスメイトで親がいなくて施設に通って子のことなど、あまり意識していなかった。

ところが、本書を読んでいると、そうした事情を級友に言いたくない子供たちの気持ちも理解できる。
ひょっとすると、私の友人の中にも言わないだけで施設から通っている子もいたのかもしれない。

本書に登場する奏子の親友の杏里は、かたくなに施設のことを誰にも告げようとしない。
施設の子供が自らの事情を恥じ、施設から通っていることに口を閉ざさせる偏見。私はそうした偏見を持っていないつもりだし、娘たちに偏見を助長するようなことは教えてこなかったと思う。
だが、本当に思い込みを持っていないか、今一度自分に問うてみなければと思った。

「3、昨日を悔やむ」

高校を出た後すぐに大学に進んだ私。両親に感謝するのはもちろんだ。
だが、進学を考えることすら許されない施設の子供たちを慮る視点は今まで持っていなかった。
そもそも、育児放棄された子供たちの学費はどこから出ているのか。
高校までは公的機関からの支援がある。とはいえ、大学以降の進学には多額の学費がいる。奨学金が受給できなければ大学への進学など不可能のはずだ。

だから、「あしたの家」の職員も施設の子供達を進学させることに消極的だ。
進学しても学費が尽きれば、中退する以外の選択肢はなくなる。それが中退という挫折となり、かえって子供を傷つける。だから、高校を卒業した後すぐに就職させようとする。
猪俣がまさにそうした考えの持ち主だ。

でも、生徒たちにとってみれば、それはせっかく芽生えた向学心の芽が摘まれることに等しい。和泉はなんとか進学をさせたいと願うが、仕事を教えてくれた猪俣との間にある意見の相違が埋まりそうにない。

「4、帰れる場所」

施設にいられるのは高校生までだ。その後は施設を出なければならない。高校生までは生活ができるが、施設を出たら自立が求められる。世の中をたった一人で。
それがどれだけ大変なのかは、自分の若い頃を思い出してみてもよくわかる。

サロン・ド・日だまりは、そうした子供の居場所として設立された。卒業した子供たちだけでなく、今施設にいる子供たちも大人もボーッとできる場所。
ここを運営している真山は、そうした場所を作りたくて日だまりを作った。仕事や地位を投げ打って。

その思いは崇高だが、実際の運営は資金的にも大変であるはずだ。
こうした施設を運営しようとする人柄や思いには尊敬の念しかない。本書に登場する真山は無私の心を持った人物として描かれる。

ところが、その施設への公的資金の支出が打ち切られるかもしれない事態が生じる。
その原因が、「あしたの家」の副施設長の梨田によるから穏やかではない。梨田は公聴会で不要論をぶちあげ、施設の子供達にも行くなと禁じている。

子供達の理想と大人の思惑がぶつかる。理想と現実が角を突き合わせる。

そこに三田村が思いを寄せる和泉がかつて思いを寄せていた度会がからんでくる。
著者が得意とする恋愛模様も混ぜながら、本書は最終章へと。

「5、明日の大人たち」

こどもフェスティバルは、施設のことを地域の人たちや行政、または政治家へ訴える格好の場だ。

そこで施設の入所者を代表して奏子が話す。本書のクライマックスだ。
さらに本書の最後には奏子から著者へ、私たちのことを小説に書いて欲しいと訴える手紙の内容が掲載されている。

最後になって本書は急にメタ構造を備え始める。小説の登場人物が作者へ手紙を書く。面白い。
本稿の冒頭にも書いたとおり、著者がそうした広報を請け負って小説にしていること。そのあり方を逆手にとって、このような仕掛けを登場させるのも本書の面白さだ。

本書の末尾には、本書の取材協力として
社会福祉法人 神戸婦人同情会 子供の家
そして、本文に登場する手紙の文面協力として、
笹谷実咲さんの名前が出てくる。

人々の無理解や偏見と対し、施設の実情や運営の大変さを人々に伝えるなど、本書の果たす役割は大きい。
通常のジャーナリズムでは伝えられないことを著者はこれからもわかりやすく伝え続けて欲しいと思う。

‘2019/12/20-2019/12/20


十二人の死にたい子どもたち


意外なことに、本書は著者にとって初めてのミステリーらしい。

考えてみれば、今までに読んだ著者の本は、SFか歴史小説だった。
つまり、現代を描いた小説はまだ著していなかったのだ。

だが、それを忘れさせるほど本書は素晴らしかった。
まず、ネット上で呼びかけられた自殺志願の若者が集まる、という設定が今の世相をじかに示している。

今も、若者への自殺を教唆する事件がたまにニュースを賑わす。

今の世に絶望して死を選ぶ若者のいかに多いことか。
私たちが自殺を望む若者にしてやれることは何なのか。
おためごかしに人生を肯定してみせても何も変わらない。何の救いにもならない。

人はいつか、必ず死ぬ。
その時期を少しだけ早めることの何が悪いのか。
死に急ぐ若者たちの切実な問いに対し、真剣に答えようとする時、その人の人生への考えや死生観はあらわになる。

死に至る動機は人の数だけあり、それを止めることは本人だけができる。
周りができるのは、本人に気づいてもらうための働きかけぐらい。根本からの気づきは本人に委ねられる。

私があえて言うとするなら、生とは主体的に生きる喜びだろうか。
自分で自分の生き方をコントロールできると思えた時、死は誘惑にすらならない。
死の空虚さこそは、自分の人生を無に委ねることであり、耐えがたい。

だが、私がそのように思えるようになったのも、ようやく40を超えてから。
それまでは幾度も死の誘惑が脳裏にちらついた。鬱も経験したし、仕事にがんじがらめに縛られるつらさも経験してきた。怒鳴られ、詰められ、追い込まれ。出口もなく、光も見えない毎日。
だから、安楽死を求める若者たちの意思もわかる。そして、死ぬ以上は後の憂いをなくしてから死にたいと言う彼らの気持ちも理解できる。
そこまで死を決意した人に対して、できることは、あなたがいなくなると寂しいから死なないでくれ、と呼びかけるぐらいだ。
だが、それとて生者の側からの都合にすぎない。

本書は、死を望む十二人の若い男女がとある廃病院に集まる。それぞれがネット上での管理者の呼びかけに応じて集まったが、お互いに面識はない。
それぞれの若者が真剣にこの世から去りたいという切実な思いを抱えている。
ルールは一つ。実行にあたっては全員の意思が一致すること。

ところが、十二人が集まった時、そこには十二人に先んじて横たわる少年がいた。

彼は誰なのか。果たして誰によって手をかけられたのか。
謎が憶測を呼び、憶測が疑心につながる。
死ぬという全員の意思がゆらぎ、少しずつ事態が混迷へと向かってゆく。
初対面の者同士。ある者は反目し、ある者は協力し合う。

本書が面白いのは、全員が死を恐れないことだ。
死を前提として集まっているので、恐れはない。だが、死に当たってはきれいさっぱり、何の憂いもなく死にたい。
だから、ミステリーにありがちな防衛本能から来る思惑のさぐり合いは本書にない。私欲や物欲も。
それがとても新鮮だ。

人間とは死を恐れなくなった悟りの境地に達してもなお、自らの置かれた現実を自らの心で納得したい生き物なのかもしれない。
だから、仮想現実が用意されればそこに逃げ込む。
現実が自分の力でも他人の力を借りてもどうしようもなくなると、死を選ぶ。死をもって矛盾にピリオドを打とうとする。

それぞれが抱える思惑や奉じた理想でぶつかる様子を、著者は十二人のそれぞれを書き分けることで鮮やかに描き出す。

死を選ぶ理由はさまざまだ。
若い身空で死を望む若者の理由の深刻さを考えたことはあるだろうか。
私も本書を読んで、なるほど、こう言う理由でも死にたがるのか、と蒙を啓かれた思いだ。

本書の後半で、若者たちがそれぞれの素性を明かし、なぜ死にたいのか、お互いに告白し合うシーンがある。

そこで気づくのが、普段の慌ただしい日々で、そうした会話を交わす機会がどれほどあるのかについての疑問だ。
若い頃には思い通りにならない人生に悲観し、中年に差し掛かれば日々の責任の重さとそれをこなす忙しさに苦しむ。
老いてからは、いずれ訪れる死を悟ろうとジタバタする。
人生を通して死を考えずに過ごす人もいるだろう。だが、それでも晩年になれば死の現実は否が応でも死の現実は迫ってくる。
なのに人は死を語らない。死を考えない。それは日本の宗教的な欠点なのだろうか、とすら思う。

もっとそういう腹を割った議論が日常で行われれば、死を選ぶ人は減るだろうし、世の中から軋轢や諍いはもっと減るのではないだろうか。
そう思いたくなるほど、死をめぐる会話は世の中から排除されている。
それは、考える習慣が貧しいからなのだろうか。
考える機会の少なさは、本書を読んでいると明らかだ。

本書はその考える機会を与えてくれる本だ。
十二人の誰がみなを欺いているのか。それぞれの視点から事細かに行動が描写されてゆく。そのどこに矛盾が潜んでいるのか。
本書には考えるべき内容が含まれている。
本書は読者の洞察力を養い、それとともに死への思索を深めさせてくれる。

結局、生きていくとはどういうことか。
何が人生なのか、どこがゴールなのか。死ぬまでの時間、生の意味を考えさせるゲームにすぎないともいえる。

もちろん、本書にはミステリーとしての王道も踏まえている。
いくつもの伏線が敷かれ、最後には思わぬ謎が明かされる。
そうした楽しみも含みつつ、考える習慣へと読者を誘っている。
そこが素晴らしい。

‘2019/12/17-2019/12/19


海の上のピアニスト


本作が映画化されているのは知っていた。だが、原作が戯曲だったとは本書を読むまで知らなかった。
妻が舞台で見て気に入ったらしく、私もそれに合わせて本書を読んだ。
なお、私は映画も舞台も本稿を書く時点でもまだ見たことがない。

本書はその戯曲である原作だ。

戯曲であるため、ト書きも含まれている。だが、全体的にはト書きが括弧でくくられ、せりふの部分が地の文となっている。そのため、読むには支障はないと思う。
むしろ、シナリオ全体の展開も含め、全般的にはとても読みやすい一冊だ。

また、せりふの多くの部分は劇を進めるせりふ回しも兼ねている。そのため、主人公であるピアニスト、ダニー・ブードマン・T・D・レモン・ノヴェチェント自身が語るせりふは少ない。

海の上で生まれ、生涯ついに陸地を踏まなかったというノヴェチェント。
私は本書を読むまで、ノヴェチェントとは現実にいた人物をモデルにしていたと思っていた。だが、解説によると著者の創造の産物らしい。

親も知らず、船の中で捨て子として育ったノヴェチェント。本名はなく、ノヴェチェントを育てた船乗りのダニー・ブードマンがその場で考え付いた名前という設定だ。
ダニー・ブードマンが船乗りである以上、毎日の暮らしは常に船の上。
船が陸についたとしても、親のダニーが陸に降りようとしないので、ノヴェチェントも陸にあがらない。
ダニーがなくなった後、ノヴェチェントは陸の孤児施設に送られようとする。
だが、ノヴェチェントは人の目を逃れることに成功する。そして、いつの間にか出港したヴァージニアン号に姿を現す。しかもいつの間に習ったのか、船のピアノを完璧に弾けるようになって。

そのピアノの技量たるや超絶。
なまじ型にはまった教育を受けずにいたものだから、当時の流行に乗った音楽の型にはまらないノヴェチェント。とっぴなアイデアが次から次へと音色となって流れ、それが伝説を呼ぶ。
アメリカで並ぶものはなしと自他ともに認めるジェリー・ロール・モートンが船に乗り込んできて、ピアノの競奏を挑まれる。だが、高度なジェリーの演奏に引けを取るどころか、まったく新しい音色で生み出したノヴェチェント。ジェリーに何も言わせず、船から去らせてしまう。
その様子はジャズの即興演奏をもっとすさまじくしたような感じだろうか。

本書では、数奇なノヴェチェントの人生と彼をめぐるあれこれの出来事が語られていく。
これは戯曲。だが、舞台にかけられれば、きらびやかな演奏と舞台上に設えられた船内のセットが観客を楽しませてくれることは間違いないだろう。

だが、本書が優れているのは、そうした部分ではない。それよりも、本書は人生の意味について考えさせてくれる。

世界の誰りも世界をめぐり、乗客を通して世界を知っているノヴェチェント。
なのに、世界を知るために船を降りようとしたその瞬間、怖気づいて船に戻ってしまう。
その一歩の距離よりも短い最後の一段の階段を乗り越える。それこそが、本書のキーとなるテーマだ。

船の上にいる限り、世界とは船と等しい。その中ではすべてを手中にできる。行くべきところも限られているため、すべてがみずからの意志でコントロールできる。
鍵盤に広がる八十八個のキー。その有限性に対して、弾く人、つまりノヴェチェントの想像力は無限だ。そこから生み出される音楽もまた無限に広がる。
だが、広大な陸にあがったとたん、それが通じなくなる。全能ではなくなり、すべては自分の選択に責任がのしかかる。行く手は無限で、会う人も無限。起こるはずの出来事も予期不能の起伏に満ちている。

普通の人にはたやすいことも、船の上しか知らないノヴェチェントにとっては恐るべきこと。
それは、人生とは本来、恐ろしいもの、という私たちへの教訓となる。
オオカミに育てられた少女の話や、親の愛情に見放されたまま育児を放棄された人が、その後の社会に溶け込むための苦難の大きさ。それを思い起こさせる。
生まれてすぐに親の手によって育まれ、育てられること。長じると学校や世間の中で生きることを強いられる。それは、窮屈だし苦しい。だが、徐々に人は世の中の広がりに慣れてゆく。
世の中にはさまざまな物事が起きていて、おおぜいのそれぞれの個性を備えた人々が生きている事実。

陸にあがることをあきらめたノヴェチェントは、ヴァージニアン号で生きることを選ぶ。
だが、ヴァージニアン号にもやがて廃船となる日がやってきた。待つのは爆破され沈められる運命。
そこでノヴェチェントは、船とともに人生を沈める決断をする。

伝説となるほどのピアノの技量を備えていても、人生を生きることはいかに難しいものか。その悲しい事実が余韻を残す。
船を沈める爆弾の上で、最後の時を待つノヴェチェントの姿。それは、私たちにも死の本質に迫る何かを教えてくれる。

本来、死とは誰にとっても等しくやってくるイベントであるはず。
生まれてから死ぬまでの経路は人によって無限に違う。だが、人は生まれることによって人生の幕があがり、死をもって人生の幕を下ろす。それは誰にも同じく訪れる。

子供のころは大切に育てられたとしても、大人になったら難しい世の中を渡る芸当を強いられる。
そして死の時期に前後はあるにせよ、誰もが人生を降りなければならない。
それまでにどれほどの金を貯めようと、どれほどの名声を浴びようと、それは変わらない。

船上の限られた世界で、誰よりも世界を知り、誰よりも世界を旅したノヴェチェント。船の上で彼なりの濃密な人生を過ごしたのだろう。
その感じ方は人によってそれぞれだ。誰にもそれは否定できない。

おそらく、舞台上で本作を見ると、より違う印象を受けるはずだ。
そのセットが豪華であればあるほど。その演奏に魅了されればされるほど。
華やかな舞台の世界が、一転して人生の深い意味を深く考えさせられる空間へと変わる。
それが舞台のよさだろう。

‘2019/12/16-2019/12/16


A


著者の長編は何冊か読んできた。だが、短編は初めて読む。
本書に収められた十三篇のそれぞれは、新たな著者の作風の一面を表していてとても面白く読めた。

十三編の全てに共通するテーマとは何だろう。

それは個々の人の生と社会の断絶ではないか。人が生きる上で思索する流れが、社会の流れとどれほど違っているか。
本書に収められた全ての短編の登場人物が、自らが抱える思いが世間の通念とほんの少しずれていることに気づいている。
気づきながら、その差を埋める術を知らず、ただ思考を垂れ流しながら日々を生きている。

それらのズレを著者はうまく言葉に表し、文章に紡いでゆく。

「糸杉」

ゴッホの「糸杉」の妙な禍々しさは、印象に残る。
渦巻き模様で描かれた糸杉や畑や三日月や雲や空。
本編はその糸杉に取りつかれてしまった男の、妄想に支配されそうになる思考の流れを追っている。

糸杉に惹かれるあまり、同じように美術館で糸杉に見入る女性に執着する男。執着のままに女性の後をつける。
その女性は風俗嬢。店に入って風俗嬢のサービスに己の性欲をうまく適合させようとする。だが、そうはならない。行き場をしなった欲望を苛立ちのあまり暴力として発現させてしまう。

欲望のリビドーが暴発するさまを現代の孤独なあり方と結びつけた、印象に残る一編だ。

「嘔吐」

コンビニの、おそらくはスーパーバイザーの仕事に従事している主人公。
結婚している。穏やかな外見をまとったまま、日々を送っている。
けれども、何か違和感を抱えながら生き続けている。

そんな日々を描き、社会の中、組織の中で生きる。だが、仕事の目的やあり方が自分の生き方とずれてしまっており、それが何かを追い求めている。
それは、生きるための実存と言う意味で良いだろう。ジャン=ポール・サルトルも同じ名前の小説をものにし、そこでも人間の実存とは何かについて追い求めている。
本編もまた、繰り返しの毎日の暮らしに人が何を求めようとしているのかを根本から考えている。著者の姿勢もそこにあるのだろう。

「三つの車両」

本編は、通勤に題材をとっている。通勤といえば日々の繰り返しの代表的な場面だ。その当たり前の日常が突如として変転し、異常に走っていく様子を描いている。
裸の男が横たわったまま少しずつ巨大化し、車内を満たしていく。そして電車は目的の駅にいつまでたっても着かない。
人々が通勤のすました仮面の下、隠していた欲求が、行動や言葉に漏れだす。そして現実を侵食する。

それを観察しながら、自らも良からぬ妄想に浸る作家。
その作家とはもちろん、著者自身でもあるはずだ。
著者自身の作家としての妄想を断片に表すとこのような作品になる、ということを表した短編だ。

「セールス・マン」

本編も、日々の雑多な出来事の断片を、妄想にからめている。作家の想像力を日常の中におけば、どういう作品ができるかを表している。

生活申請を待ち続ける列は無限に伸びていき、人々は、無意味な妄想に余念がない。
セールスの仕事にも実は全く意味がないのだ。そのことを言いたいかのように、人々は何かと何かを交換し続ける。
世界が終わりへと向かっているその瞬間にも。

「体操座り」

作家としての自分の実存がナンセンスであること。
著者自身も現実の生活に違和感を覚えながら生きているのだろう。
日常の愉快な出来事も真面目な仕事も、全てが現実に流れていく感覚。

そうした全ての違和感を、著者はナンセンスな言葉の流れでつないでいく。
何を目的にしているのか、一体われわれは何を目指しているのか。
つまるところ、そこに答えはない。著者はそう言いたいかのようだ。

「妖怪の村」

ヒッチコックの鳥のように、鳥に襲われた街。
住民は周囲から身を守りながら、奇妙に仕事のルーチンを守ろうとする。
合間には優美な行為に時間をつぶしながら、鳥の襲撃に対策を打つふりをする人々が描かれる。

そもそも、予定調和の世界はどこまでが予定なのか。何が何と調和しているのか。
見た目は平穏で安定しているように見える世界。その不安定な可能性を著者は鋭く短編として表している。

「三つのボール」

生きること。社会というもの。その法則はどこにあるのか。それを物理の法則に置き換えて単純にモデル化する。
妄想の一つとして誰もが考えることだと思う。
本編はそれを短編に表したものだ。

三つのボールの動きが作用し合う。お互いに対応し合う。
そこに思惑などという高尚なものはない。ただ反応の繰り返しに過ぎない。
著者の乾いた世界観の一端が見えているようだ。

「蛇」

画家の老人が、裸のモデルを描く。裸体を描きながら、言葉でモデルを責めようとする。
蛇は性的なモチーフとしてはよく使われる。そのイメージを登場させながら、言葉やイメージを援用することでしか女性を責められない老人の衰えと苛立ち。その苛立ちを、さまざまな言葉で表したのが本編だ。

これもまた、現実の認識と自分の中の認識に差異を自覚したものの末路を見越した一編だと言える。

「信者たち」

教会の壇上でセックスする男女。その背徳の行為を神の不在や宗教の空虚さに結びつけた一編だ。
信心は個人の問題であり、宗教の本質が組織による集団の同調圧力であることは確かだろう。
それを性のイメージで表し、統合しようとした冒険作だ。

「晩餐は続く」

本書の中では、もっとも分かりやすい。
政治家の二世の夫に嫁いだ女の視点から、無能で甲斐性のない夫の浮気への復讐を兼ねた晩餐。

追い詰める女の怖さが本編の中で鮮やかに描かれている。
本書の中でもっとも人に薦めやすい一編かもしれない。

「A」

第二次大戦中の日本軍。中国人の捕虜を首だけ残して生き埋めにし、斬首を強制する上官。その理不尽な命令に抗おうとするが、抗いきれない男が自我を崩壊させる様子を描く。

そもそも戦争とは、己が認識する世界と現実の世界の認識がもっとも乖離する場と言える。その中で人は残虐になり、われを忘れる。
戦争は人を殺させるとはよく言う言葉だが、それを短編として描き、イデオロギーの壁も乗り越えて描ききった著者に敬意を表したい。

「B」

本編もまた、第二次大戦中の日本軍が舞台だ。
軍医として従軍した主人公の視点から描かれる本編。慰安の名において連行された女性を正当化された名分のもと、性の慰み者として消費してゆく様子。その中で主人公が自己弁護する醜さを描いている。

「A」と「B」はナショナリズムなど、何するものぞという著者の政治的立場の一端を見せた問題作だろう。

「二年前のこと」
志賀直哉の名前が登場する本編。はるか昔に文壇を席巻した私小説の現代版と言えるかもしれない。
縁のあった女性との思い出を書きながら、その女性が亡くなったことを悼む。そして悼みつつも小説の題材として描ききってしまう作家としてのサガを書く。
志賀直哉を登場させるあたり、本編が私小説であることを著者は明確に意識しているに違いない。

‘2019/12/13-2019/12/16


介護入門


本書のタイトルの硬さに騙されてはいけない。タイトルと違い、本書はとても”パンク”な内容になっている。

29歳独身の男性が、祖母の介護に携わりながら、音楽に自らの人生を賭ける。音楽の夢に自らを委ね、”パンキッシュ”な文体を操りながら、介護のあり方を饒舌に語る。本書を要約するならこんな感じだろうか。

パンクと介護。この二つの言葉はすぐに結びつきにくい。無理に結び付けようとしても何か引っ掛かりを覚える関係だ。
だが、パンクを世の中の既成の体制に対する反抗とみなせば、この二つの概念にはつながりが見つかる。
介護はしんどい、介護はきつい、介護が汚いという常識に公然と反旗を翻すことも、またパンクなのだ。なるほど、と思う。

そもそも、かつての若者たちがパンク・ロックに熱狂したのはどういうきっかけだったのだろう。
体制への反抗とは、長じた者がえらく、若者はそれに従わねばならない、という若者からは無意味に思えるしきたりへの苛立ちから来ていたように思う。
年齢が上の者が支配し、統制し、運営する体制において、若者が反抗しない方がおかしい。

パンクが生まれたのは、イギリス。その当時のイギリスの社会体制は、貴族制が形式的にでも存続し、王室が君臨すれども統治せずの伝統を持ち続けていた。
また、そうした伝統にしがみつきながら、世界のリーダーとしての大英帝国の栄華を引きずっていた。伝統のしばりがある上に、経済も奮わず、社会が停滞していた。その影響を多く受けていたのが若者であり、若者がその状態にいらだっていたことがパンクを発生させた。

だが、そうした社会的な状況は直接のきっかけでしかなかったように思う。停滞した社会は、人のつながりを希薄にさせていた。人の関係が感じられない無力感。それがいっそう若者の苛立ちを募らせたはずだ。
「London Calling」「Anarchy in the UK」のようなパンク・アンセムには、そうした若者の苛立ちが現れている。

イギリスは世界的なムーヴメントとなった学生運動がそれほど盛り上がらなかったという。おそらく、そのエネルギーがパンクに向かったことは間違いないだろう。

転じて日本だ。日本はすでに60年代に学生運動の敗北を経験した。さらに、学生運動の挫折を受け、先鋭化した一部の学生がテロに走った。それがさらに若者の間に嫌気と空虚を生み出した。
だからイギリスを起点に広がったパンクは、日本ではそれほど受け入れられなかった。

その一つの理由は、わが国が高度経済成長の渦中にあり、生活の向上が実感できていたことだろう。それが若者の不満をやわらげていたことは十分に考えられる。
だが、もう一つの理由も考えられる。それは当時の日本にはイエの風習が残っていたからとはいえないだろうか。
つまり、古い家の結びつきや地縁社会がぎりぎり機能していたため。若者の暴発を抑えていたといえないだろうか。

でも今や、そうした結びつきの多くが失われてしまった。
では若者は何に寂しさを紛らわせればいいのか。
本書で、俺がおばあちゃんに対して示すのは、介護こそが人の結びつきであり、人間の手触りを感じさせるからだ。

現実が感じられず、あらゆる事物が不確かでつかみどころがなく、手がかりも行き先もないまま、生きている毎日。
ところが、おばあちゃんの介護は、生きている実感をもたらしてくれる。下の世話や、幼児に返ったようなおばあちゃんの姿は、生きる営みの本質を隠さずに見せてくれる。

そして、介護される側となった年上からほ、威厳や抑圧もない。老いて幼児に返る時、若者に対する威厳はどこかへ消えてなくなっている。そこにあるのは一人の生き物としての本質のみ。

その姿は、パンクの怒りの行き場を吸収する。そして、老いた姿は、生きていることへの本質とは何か、という考えに若者を導く。

パンクとは、すなわち生きること。であれば、介護とはすなわちパンク。

介護の世話をする現場においては、あらゆるくだらないしがらみや約束事や秩序やルールは消え去る。ただ生きること。
何という崇高な営みだろうか。

上辺だけの関係は一掃され、取り繕った態度も全く必要がない。

そして、パンク青年がこの後、数十年を生きれば同じような老後に直面する現実。その悟りこそ、パンクの行き着く先。
とりすましたやつ、悟ったやつ、エライセンセイ、統治する連中。皆、死ぬ時は一緒。衰えるだけ。この現実の哀れさ。

この小気味よさこそがパンクなのだ。
現実の哀れさに向けて必死で努力する奴らを嘲笑いながら、必死でパンクを歌い、必死で”パンク”な介護の現実に入門する。

生きていることが何なのか。それが何になるのか。
それを求め若者は暴れる。絶叫する。苦しむ。のたうちまわる。

この世の全てはしょせん暇つぶし。あらゆる営みなど時の流れがきれいに消し去っていく。意味のあることなど何一つない。

だから、若者はその無慈悲な未来に向けて全力で呪い、全霊でパンクを演じる。

そして、身近で突き付けられた老いの現実に、パンクの精神の全てをぶつける。

その現実に向き合い、世の常に全力で反抗し、己の生を証明する営み。これこそが、パンクの本質なのだと思う。

俺はいつも、《オバアチャン、オバアチャン、オバアチャン》で、この家にいて祖母に向き合う時にだけ、辛うじてこの世に存在しているみたいだ。(104p)

それ以外の時間、俺は疲弊した俺の抜け殻を持て余して死んでいる。(104p)

文体とタイトルに惑わされずに読んでほしいと思う一冊。

‘2019/12/12-2019/12/12


夏の約束


本書は、芥川賞を受賞している。図書館に設けられた芥川賞受賞作のコーナーで本書を手に取った。
もちろん、読み始めた頃は著者についても本書の内容についても何も知らなかった。

本書はゲイの話だ。
ゲイとしての生き方と日々の暮らしを何の飾りも誇張もなく描いている。

日中は仕事に精を出し、夜はパートナーと一緒に過ごす。その相手が男から見て女性なのか男性なのか。
それがゲイなのかそうでないかの違いだと思う。

本書は主人公の丸尾くんと光のパートナー関係が軸になっている。
二人で手をつないで歩いていると、小学生からからかわれ、「ホモ」と呼ばれる。

二人の日常は、ごく当たり前の毎日だ。小説にメリハリを加えるような劇的なイベントが起こることもないし、ドラマチックな展開に驚かされることもない。
だから本来、本書は日々の生き方を丁寧に描いた作品に過ぎない。
ところが、描かれているのがゲイのカップルを生態というだけで、本書の内容が新鮮に受け取られる。小説として成り立つ。

それは、ゲイのカップルが普通と異なる関係として見られている証しだと思う。普通のカップルの日常を描くだけであれば、それはドラマにも小説にもなりにくい。
彼らは何も悪いことをしておらず、普通に愛し合って生きているだけなのに、小説として成り立ってしまう。

日常生活に、性的な嗜好など何の関わりもないはず。
そういう私も、性的には異性愛者だ。だから、同性愛の心がどのように作用するのかわからない。
同性愛に関して受け入れられない経験もないし、私が同性愛者に偏見を持つ理由はないと思っている。

だが、丸尾と光のカップルをからかう小学生がいるように、ノーマルではない関係をからかい、愛する者が普通ではないことを貶めようとする偏見は存在する。

光はそうしたからかいに敏感に反応する。だが、丸尾くんはそうしたからかいを右から左に流して受け流し、意に介さない。

もちろん異性愛の関係でもどのように告白するか、どう行動し、どうカミングアウトするかという問題はある。
だが、ゲイの世界にあっては、そのタイミングや告白の時期など、気を遣うことも多いだろう。
一方、芸能界では、ゲイであることをカミングアウトする芸能人も多い。少しずつ世の中は変わりつつある。LGBTの運動は七色の虹のマークとともにおなじみになってきた。

上にも書いた通り、私は異性愛者だ。たぶん、同姓愛の気持ちを理解できることはないだろう。
だが、たとえ私が同性愛者であったとしても、それはあくまでプライベートな世界。誰にも迷惑をかけていないはず。
だから、異性愛者が同性愛者を攻撃するその心根が理解しにくい。単にマイノリティーを、弱い者を攻撃したいだけではないかという思いがある。

だから本書に登場する丸尾と光のカップルを自然に受け入れる人々がとてもまっとうに見える。
本章に登場する二人の応援者は皆女性だ。
それは、丸尾くんの恋愛の対象が男性だからなのか安心できるのか。

例えば、私は結婚して長く立っており、常に指輪をつけっぱなしだ。外したことすらない。だからこそ、女性とも警戒されず飲みにも行けるし、遊びにも行ける。
逆に私が指輪をしていなかったとすれば、女性は私から距離を置くはずだ。それは、性愛の対象となる警戒心が募るからだろう。
それと同様に、丸尾くんから性愛の対象とみなされないことがわかっているから女性は心を開く。

男性であるからこそ、同性愛者は人からの視線にたいして敏感になる。
そうした、生来の警戒心は、異性愛でも同性愛でも変わらない。
そう考えると、指輪のようにさりげなく性的嗜好をアピールするアクセサリーは必要なのかもしれない。

ひょっとすれば、特定の指に指輪をはめていればこの人は同性愛者だとわかるようにする風習。そんな風習がやがて世界的にメジャーになることだって考えられる。
その時われわれは、その個人が異性愛者であろうと同性愛者であろうと一人の人間として関われるような考え方を身につけておかねばならない。
少なくとも本書のような同性愛を描いた小説が、それだけで新規の題材であると評価されるようなことは本来ならばおかしい。

そう考えると、本書はどういう点が評価されたのだろうか。
おそらく、同性愛者の日々を、女性の視点から描いたことにあるのではないだろうか。

男性同士の生態と睦み合う様子を女性の立場から描くことはとても難しいことだと思う。
本書に無理やり解釈したような不自然さはない。それどころか、男性同士の恋愛の姿がとても自然に描かれている。

よく、異性の間に友情は生じないという通説がある。本書は丸尾くんと光のカップルと女性たちの交流を通じ、異性との友情がありえることを訴えている。
結局、性的な嗜好の違いなど、結果として子供ができるかどうかの違いでしかない。
異性のカップルにも子供に恵まれないこともある。

そう考えると、なぜ同性愛者が拒否されるのかは、個人的な問題に過ぎないと思う。
むしろ、それも人間の多様性の一つとして認めてあげるべきだろう。

本書の丸尾くんと光のカップルは気負わずに日々を生きている。
だが、そうした二人を小学生たちはからかう。それは、幼稚な行いに過ぎない。だが、大人からの偏見の影響が多く見られる。

タイトルの『夏の約束』とは丸尾くんと光の二人と、彼らをめぐる女性達のキャンプが実現できるかどうかの約束。
おそらく、遠からずのうちに彼らの約束は果たされるに違いない。

その時、わが国からはようやく一つの縛りが外されたことになる。

‘2019/12/11-2019/12/11


叫びと祈り


本書は毎年末に恒例のミステリーのランキングで上位に推された。
連作の短編集である本作は、著者の処女作。初めての小説で上々の評価を得た著者の実力は確かだと思う。

実際、本書はとても面白い。ミステリーの骨法をきちんと備えている。
語りの中にときおり詩的な描写が挟まれ、それでありながら、簡潔な文体で統一されている。さらに短編なので一つ一つの物語がすいすいと読める。ミステリーが苦手な方にも勧められる。

何よりも面白いのは、本書に登場するそれぞれの物語の舞台が国際色豊かなことだ。本書に収められた五編のうち、日本が舞台の物語は一つもない。

五編の物語はそれぞれ、サハラ砂漠、中部スペインのレエンクエントロの風車、ウクライナに隣接する南ロシアロシア南部の修道院、アマゾン奥地のジャングル、東南アジアのモルッカ諸島の島、といった特殊な環境を舞台としている。

日本人にはなじみのない環境と文化。その中で起こる謎。斉木が解決するのはそのような事件だ。
斉木は、世界の問題を取り上げる雑誌の記者だ。語学に堪能で、海外の暮らしには不自由を覚えることはない。さらに、物事に対する深い洞察力を持っている。

「砂漠を走る船の道」

本編こそが、著者の名を大きく高めた一編だ。

砂漠をゆくキャラバン。
キャラバンが向かうのは塩を算出する場所。ここで岩塩を切り出し街へと運ぶ。
太陽が目を灼き、砂が肌を痛めつける。砂がすぐに覆い隠してしまうため、過酷な道は道の体をなしていない。
その道を間違いなく行き来し、天気や環境を知悉するには長年の経験が欠かせない。
キャラバンの一行は荷駄を預けるラクダとリーダーと二人の助手、そしてリーダーに懐く若いメチャボ。
だが、帰途に砂嵐に遭遇し、リーダーは死ぬ。その帰り道には二人の助手のうち一人がナイフを刺されて死んでいた。

一体、何が動機なのか。その動機の謎と過酷な環境の組み合わせがとても絶妙。その関連が印象に残る。
結末ではもう一つの謎も明かされる。その意外性にも新たなミステリーの地平を見せられた気がする。

「白い巨人」

この一編は、風車をめぐる歴史の謎が絡む。
レコンキスタ。それはかつて、イベリア半島を支配したイスラム勢力を再びアフリカに追いやる運動だ。本編に登場する風車は、レコンキスタの戦いの中で、敵であるイスラム側の戦況を味方に伝えようとした斥候が追われ、逃げ込んだ場所だ。逃げ込んだ斥候は風車の中にうまく隠れ、レコンキスタの成就に決定的な役割を果たしたという。

本編に登場するサクラが、かつて想いを寄せた女性を見失ってしまったのも同じ風車。人を消す風車の謎を軸に本編は進む。

風車の謎以外にも、もう一つの謎が明かされる結末もお見事。

「凍れるルーシー」

生きているように、こんこんと永遠の眠りにつく遺体。それを不朽の体、つまり不朽体という。
西洋にはそうした不朽体がいくつか報告されているそうだ。

十字架の上で死んだメシアが復活する。言うまでもなくキリスト教の教義の中心にある奇跡だ。そうした現象を教義に据えるキリスト教が文化に深く影響を与えている以上、西洋のあちこちで不朽体のような現象への関心が高いことは理解できる。

本編の舞台である南ロシアの修道院にも、不朽のリザヴェータの聖骸がある。今までは世間に知られていなかったリザヴェータを聖人として認定してもらうよう、修道院長がロシア正教会に申請を出したことがきっかけで事件は動く。修道院には聖骸を熱狂的に崇める修道女がいて、聖人申請がうまく行かないのではと不安に苛まれる。

そんな所に修道院長が死体となって発見されたことで、事態は一気に混迷に向かう。

本編も短編ならではの簡潔でキレのある物語だ。効果的な謎の提示と収束が魅力的だ。

「叫び」

本編の舞台はアマゾンの奥地だ。隔絶された部族を取材したクルーが遭遇する殺人事件。
だが、斉木たちクルーが部族の集落を訪れた時点で、集落には正体が不明の伝染病が猖獗を極めていた。殺人が起こる前からすでに絶滅寸前の部族。

そのような絶望的な状況でありながら殺人が起こる。どうせ死んでしまうのに、なぜ殺人を犯す必要があるのか。その動機はどこにあるのか。
そこには部族が持つ独特な世界観が深くかかわっている。

本書を通じて思うのは、著者は動機を考えるのがとてもうまいことだ。
それは世界各国の社会や文化についての深い造詣があるからに違いない。
文化によって守るべき考えはそれぞれだ。ある文化では当たり前の慣習が、ある文化では忌むべき振る舞いとなる。よく聞く話だ。

それを短い物語の中で読者に簡潔に伝え、文化によってはそのような動機もありなのだ、ということを謎解きと並行して読者に納得させる。

その技は簡単ではない。

「祈り」

こちらは今までの四編とは少し趣が違っている。語り手によって語られるのはゴア・ドア──祈りの洞窟についてだ。
語り手は誰に対して物語を語っているのか。そこでは上に紹介した四編の物語が断片的に触れられる。

語りの中から徐々に露になってくるのは、斉木が不慮の事故で記憶を失ったこと。
世界を股にかけ、最も自由な生き方をしていた斉木。日本人の認識の枠を超え、自由な考え方をモノにしていたはずの斉木に何が起こったのか。

文化にはさまざまな形がありうるし、その中ではさまざまな出来事が起こりうる。
文化の違いに慣れ、事故に強かったはずの斉木にも防げなかった衝撃。それだけの衝撃を斉木はどこでどのように受けたのか。

果たして斉木は復活しうるのか、

本編はミステリーよりも、四編の短編を受けた一つの叙情的な物語の色が濃い。
文化はいろいろとあれど、それらを共有するのも伝え合うのも人、ということだろう。

‘2019/12/8-2019/12/11


パニック・裸の王様


本書も、開高健記念館に行った後、著者の作品を読み通そうと思って読んだ一冊だ。
著者に芥川賞を授けた出世作でありながら、私はおそらく本書を読むのは初めてだと思う。

どの作品も、人の営みとその巨大な徒労が書かれていてとても興味深い。

「パニック」

動物の旺盛な繁殖のたくましさとそれによって動揺する人間の浅さを風刺する一編だ。
ネズミの大発生の兆しを笹の大繁殖から予測した俊介は、笹の事前駆除を具申するが、役所仕事の例にもれず、却下される。

笹が120年ぶりに繁茂したことにより、それを餌にしたネズミが大繁殖。それが制御しきれぬほどの大集団となったネズミのエネルギーとして街を被っていく様子。
その不気味な予兆に警鐘を鳴らす俊介だが、すでに、組織の硬直した判断が覆ることはなく、街はネズミだらけになっていく。

そうした役所仕事の硬直性と、突発事に弱いわが国の組織機構の問題を、本書は乾いた筆致で描いてゆく。

責任を回避しようと策を巡らせる上司。事が起こってから俊介の慧眼をあらためて媚びるように褒めようとする上司。組織の中で生きるための手管を駆使する人々。

そうした人間の滑稽さにもかかわらず、ネズミは繁殖する。
人間がいくら駆除の手立てを凝らそうとも、自然の猛威は人間の作り上げたシステムを齧り取っていく。

「やっぱり人間の群れにもどるよりしかたないじゃないか」(78ページ)

これは、ネズミが湖へ集団で飛び込み、ネズミ騒動が終わった後に俊介がつぶやいた一言だ。人間の群れとネズミの群れのどこが違うのか。そんな著者の皮肉が炸裂する逸品だ。

「巨人と玩具」

著者が壽屋(現サントリー)の社員として、トリス・ウヰスキーなどの有名なコピーを手がけたことはよく知られている。

本編はそのサラリーマン時代の経験が十分に生かされている。
キャラメル・メーカーでの仕事が本編ではさまざまに描かれる。販売・製造・宣伝・総務・経理。組織を挙げ、マーケティング手法を駆使し、宣伝のためにあらゆる努力を惜しまない企業活動。どのようにして消費者にアピールするかについての試行錯誤に余念のない毎日。

ライバル会社のキャンペーンと比較しては一喜一憂し、ライバル社を凌駕するためにありとあらゆる策を練る。

その繰り返しは、高度経済成長期にあった当時のわが国にとっては正義だった。
だが、どっちその時期に描かれた本編の中で著者は、その虚しさを早くも予期している。本編は、現代に読むとより実感として迫ってくる。満足を知らない成長の追求が何をもたらすか、何をもたらしてきたかを知っているからだ。
価格競争の末に倒産する企業、消費者は加速するばかりのキャンペーンに飽きている。地球はそうした際限のない拡大の論理によって汚されつつある。

広告や宣伝のもたらす本質的な虚無を、著者は現場にいた人間として見事に描いている。

最後のページでは、主人公の心中が描かれる。そこで彼は、今まで自分で自分の力で成し遂げたことなどなく、自殺しか残されていないかのような心境に陥る。
その心のあり方など、当時の高度経済成長に乗っていた日本人の空虚を描いていて見事だ。

「裸の王様」

本書は芥川賞受賞作品だ。

先の二編と違い、本書はまた違う趣がある。

子供の描く絵の世界を通じ、大人が大人の論理で子供の絵を解釈することの愚かさ。批評が権威や金によって簡単に覆される軽薄さ。

大人の愚かさは、子供の純真さにも影響を与える。大人の顔色を見ることに長け、本来の感受性を失ってしまった太郎。太郎に対し、もっと自由に絵を描くよう、大人の顔を見ずに過ごすことのに力を入れて教える主人公。その取り組みにより、太郎は徐々に子供らしさを取り戻す。

その取り組みが実を結び、太郎の絵と表情が個性を放ち始める。だが、その絵は既存の児童画の概念を逸脱し、コンクールの審査員に酷評される。だが、実はそのコンクールの主催者が太郎の父であることを知った途端、審査員は批評を恥じ、審査員を降りていく。

子供の可能性を真摯に描き、大人の醜さや滑稽さを描いた本編は、芥川賞にふさわしい余韻を感じさせる。

私たち大人は、なんというところまで来てしまったのだろう。
かつての輝かしい子供時代に比べ、打算と計算と見栄と虚栄の今はどうなのか。自分を自省したくなる一編だ。

「流亡記」

中国の奥地にある砂漠の中の街を描いた本編。歴史の流れの中で権力や軍隊に蹂躙され、陵辱されるだけの存在。
大きな時間の流れの中で、人の営みのいかに小さく健気なさまであるか。

人は群れ、組織を作り、何かしら階層を作っていこうとする。
官僚による組織が作られ、それが権力を集め、皇帝の誕生につながる。人々はまるで運命に導かれるように階層や差別を自らの手で作り上げていく。
それが、悲しくも人間の習性であること。
著者の突き放したような筆は、人の営みなどに大した価値を認めないとでもいうように、淡々と時の流れと営みを描く。

本書は、中国の始皇帝を描いている。
焚書坑儒や万里の長城の建築など、世界史上でも有数の業績を残した始皇帝。だが、その始皇帝は自らの治世の結果を見るまでもなく倒され、後継者に取って代わられた。
始皇帝の生涯とは、その強大な権力とは裏腹に、単に人間の営みが作り上げた権力の役割を体現しただけのように見える。

権力や政治、人の作り上げた世界のあり方。それを端的に描いた本編は、著者の考えを反映していてとても興味深い。

‘2019/12/6-2019/12/8


最軽量のマネジメント


「天津飯の謎」が献本していただいた本だとしたら、本書は店頭で著者から手渡しで受け取った本だ。

本書を購入したのはCybozu Days 2019の会場。
二日間にわたった祭典の最終日、閉場時間にぎりぎりのタイミングでサイボウズ商店(サイボウズ社のグッズや本などの特設販売ブース)に本を買いに行ったところ、なんと著者ご自身が店頭で販売員をされていた。
その場で購入し、著者ご本人から手渡しで本書を受け取った。受け取った瞬間の写真も残っている。
著者はサイボウズ社の副社長であり、先日まで取締役としてサイボウズの人事改革を率いてきた方だ。

私はkintoneのエバンジェリストを7年ほど拝命している。また、弊社もサイボウズ社のオフィシャルパートナーとして認定いただいている。
なぜ私がここまでサイボウズ社に肩入れしているかと言うと、何度か別のブログでも書いたとおり、その開かれた社風に惹かれたからだ。
kintoneがまだ産声を上げてすぐの頃のユーザー会で、私の目の前で社員さんと青野社長が目の前でスマホをフリフリし合い、LINEの交換をしていた光景はいまだに記憶に残っている。
副社長が何気なくサイボウズ商店の販売員に化けているのもサイボウズ社のフランクさを表す良い例かもしれない。

それ以来、サイボウズ社は私の期待をはるかに上回る速度で成長し、世の中に意見を申し、人事や働き方など既存の観念を次々と覆してくれている。

サイボウズ社の取り組みは、私にとって救いだった。窮屈で仕方がなかったビジネスの世界に風穴を開けてくれているからだ。
その取り組みは世の中から支持を受けているし、弊社が取り扱うkintoneやCybozu.comの成長を通して、弊社や私自身のビジネスにも恩恵を与えてくれている。

私は今、平日をほぼ私服で過ごし、適当に作業場を転々とし、合間に散歩もはさみつつ、仕事をこなしている。
常駐現場に通っていた頃、毎日終電に間に合うかどうかにキリキリとし、通勤ラッシュの中で顎関節症を患っていたつらさなど過去の話だ。
私が働き方を変えられたのも、サイボウズ社のおかげだと言っても過言ではないと思う。

私が本書を購入した時、今後は弊社でも人を雇わなければ、とおぼろげに考えていた。
今のままではどこかで限界が来る。一人で何でもこなす体制だと、これ以上の成長は見込めない。むしろ、体力や気力や視力の衰えとともに徐々にビジネスを畳んでいくしかないと覚悟していた。
私が人を雇うと決断したのは、本書を読んで約一年後のことだ。
本稿を書いている今、雇用を始めてから五カ月が過ぎようとしている。

体制を作るにあたり、私が心がけてきたこと。それは、私自身が雇われる側で窮屈だったこと、開発現場でしんどい思いをしていた経験を反面教師とすることだ。
そもそも、私が人を雇うと決めた大きな理由は、自分にのしかかる負担を少しでも軽減しようと思ったからだ。だが、人を雇ったことによるマネジメントの職務が新たに負担になったのでは本末が転倒している。

だから、私は統制とは相反する組織を作りたかった。
それには統制と言う名のマネジメントを思い切って捨てること。

本書はタイトルにもあるように「最軽量のマネジメント」を謳っている。
最軽量、つまりマネジメントに重みをかけない。それは、統制の首魁であるマネジメント部門の職務を減らすことに等しい。
人を雇うと決めてから今までに、本書以外にもマネジメントに関する本は何冊も読んだ。
本書やそれらの本に書かれていたが、マネジメントや統制にはキリがない。どこかで限界が来るし、統制されることを嫌う社員はすぐに辞めていく。離職率28%を誇ったサイボウズ社の過去の失敗は私たちに統制の限界を教えてくれる。
弊社のような零細企業にとって、せっかく雇った人が辞めてしまうことはかなりの痛手となる。
私は今、新たに参加したメンバーに毎日コーディングやシステム構築や提案についての技術を教えているが、その労力は並大抵ではない。もし辞められたらその労力は無に帰する。

統制に労力をかけた揚げ句、教育費用も含めて無駄となる愚は避けたい。そのため、弊社は最初から思い切ってマネジメントを捨てた。
求人を出す際、世の中の会社でやっているようなマネジメントはしないと書いた。
その言葉を守り、弊社は世間の会社にありがちな統制はほぼ行っていない。タイムカードもない。リモートワークを原則として動いている。
もちろん、その代わりにSlack、Backlog、Google、kintone、Dropboxをはじめとした各種ツール群を導入した。タスクのスケジュールは週単位で設定し、日単位のタスクまでは統制しない。もちろん、日単位のタスクはニ日に一度は私から状況を尋ねることもあるが、本人が申告してくれるまで原則は催促しない。

そうした統制で縛らないのと引き換えに、それぞれのメンバーには自立の態度で動いてもらわねばならない。
それを促すのに強制であってはならない。そのためにも、内部向けに毎朝Slack上に文を書いている。その中では、どのような会社にしたいか、どのような組織が望ましいかについて、私の思うことや考えを雑談の中に込めているつもりだ。
本書に載っているが、これからあるべき組織とはピラミッド型ではない。私も役割としての代表社員でしかないと思っている。だからメンバーには全員が取締役のような気持ちで、とも伝えている。

経営者としての私が組織を構築する際、本書やその他の本から学んだことは多い。
もちろん今のやり方が正しいかどうかは、やってみなければわからない。だが、サイボウズ社という手本があるのは心強い。そしてその要諦が本書には載っている。

面白いことに、本書で書かれているマネジメントのあり方の一つに、「ホワイト」な職場よりも「透明」な職場とある。
弊社のアクアビットという社名は、私が蒸留酒を好きであることからつけた。だが、この社名には透明でありたいという願いも込めた。
ビットはコンピューター用語であり、それにアクアをつけることで透明なシステム会社でありたいと表明したわけだ。
サイボウズ社は、取締役会の議事録も即座に社員に公開されているそうだ。まさに透明であり公明正大。隠し事がない。「アホはええけどウソはあかん」の標語のもと。
透明でありたい弊社も、サイボウズ社の姿勢を参考にし、先日ついに会社の財務状況もメンバーに開示した。

もちろんそれはメンバーとの信頼関係が醸成出来てきた、と判断したからだ。
そのメンバーとの信頼関係を作るにあたり、著者の取り組みから学ばねば、と思っていたことがある。それはザツダンの力だ。
著者はザツダンを用いて社員の気持ちを把握し、離職率の低下を食い止めたそうだ。それがサイボウズ社の100人100通りの働き方につながっていることは確かだ。

私はまだ人間としても経営者としても未熟だ。そんなことは自分でもわかっている。弊社の財務状況もまだまだぜい弱だ。
そうした弱みも開示し、それでも一緒にやっていこうと伝えたところ、二人とも努力と成長を続けてくれている。
今も週一度は必ず顔を合わせるようにし、ランチのタイミングには雑談に終始している。
私はあまり雑談が得意な方ではない。だが、ザツダンの力は信じている。

それで思いだしたが、いつぞやのサイボウズ社でのイベントでも著者が私の横に座って、さまざまな会話を交わしたことがある。
おそらくその時もザツダンによって私の人となりを把握されたのだろうなと思う。
私が経験したようなザツダンのようなあらゆる社員とのザツダンの繰り返しが、今のサイボウズ社の柔軟な組織を作り上げてきたはずだ。

本書にも載っている通り、カイシャが最終的な組織の完成系とは私も思わない。
そのためにも、私自身も公明正大で透明な組織のありようを模索していきたい。弊社や弊社にかかわる技術者さんにとって理想の集まりとなれるように。

‘2019/12/5-2019/12/5


天津飯の謎


コロナが始まった頃、逼塞を余儀なくされた人々は、さまざまな試みでこの状況をやりすごそうとした。
7日間ブックカバーチャレンジはその一つ。

Facebook上で指名を受け、自分が選んだ七冊の本を紹介するとともに、次の方を指名するというものだ。
私は七冊でそれぞれのジャンルの本を選んだ。その際、最後を飾る一冊に選んだのが本書だ。

その時に書いた内容はこちらのブログに載せている。
そこにも書いたが、著者は私にとって親しい方である。私の周囲にもISBN付きの本を出した方はいるが、最も親しい方かもしれない。
上のリンク先で著者と私の関係には触れているので本稿では詳しくは触れないが、私にとって目標とすべき人であり、実際に幾たびも御恩も受けた方だ。

ブログの中にはこのようなことを書いた。
人生にインプットの努力は当たり前だが、それに見合うアウトプットは必要。多くの人はそのアウトプットを世に出さず、仕事の書類の中だけに終わらせてしまう。どこかで自分の生きた証しを出したいのが人情であり、それを成し遂げた著者はすごい、と。

まさに私にとって導きとなる方であり、それを本書という形で手本としてくださったと思っている。

本ブログは、私が読んだ本の感想を書いている。だから、読者の視点からの文章であることがほとんどだ。
だが、本書は私のよく知る方が書いている。たまには著者の視点で描いてみたいと思う。

著者の視点といってもそう難しいことではない。
要するに面白がることだ。

世の中には無数の情報や事物にあふれている。それをただ眺めて過ごすのか、それともその事物に興味を感じ、より深く調べるのか。二つの態度の間には大きな差がある。

例えば毎日の通勤。電車の中に吊られている広告からその背後にあるつながりに思いを馳せる。
例えば毎日の通学。街の建物の形や姿から、その違いが生じた理由に想像力の翼を広げる。
例えば日々のランチ。メニューに載せられた料理の生い立ちがどこに由来し、なぜ生まれたのかを考える。

本書のテーマである天津飯は、まさにその興味から生まれた題材だろう。

中華料理店は、期限をたどればわが国の発祥の料理ではない。それでいながら、同じ漢字文化圏のよしみで親しみのある中華料理。
叉焼。餃子。焼売。拉麺。搾菜。
この字面だけでもワクワクする。チャーシュー。ギョウザ。シュウマイ。ラーメン。ザーサイ。
どこからこの漢字が当てられ、なぜこのような読み方が定着しているのか。

中華料理といえば誰もが想像するはずの代表的なメニューですら、このような興味が湧く。
本格的な中華料理店にいけば、さらに漢字だけで材料と調理法が字面で並ぶ料理の数々に目が奪われ、興味はつきない。

だいぶ前に読んだ日清食品の創業者である、安藤百福氏の伝記の巻末には、中国の各地で食べ歩いた麺料理の数々が載っていた。
そこには日本にまだ上陸していない麺料理の奥深さがあった。
ラーメン一つだけでもこの奥深さだ。他の料理を考えるとまさに無限の興味が湧いてくる。

ここで天津飯だ。
まず、料理名に地名が含まれる。天津。
北京料理や広東料理、四川料理とは違い、より狭い範囲の地名。
なぜ、天津の名が冠せられているのか。

発祥の地と日本への伝来について、著者は詳細な分析を行う。
発祥の地なのか、発明者の出身地なのか、材料の名産地なのか。
また、いつからわが国の中華料理店のメニューになじみの品となったのか。
天津飯と天津麺はどう違い、味付けにどのような違いがあるのか。

お店のメニューから、無限の可能性が追い求められている。
人の好奇心のあるべき姿を示してくれるよい手本だ。

自分の興味が向いた対象を疎かにせず、そこからより深く調べる。そしてそれを書籍の形で世に問う。
物を書く立場に立ってみると、私たちの誰にも、同じ機会に恵まれているのではないだろうか。

ましてやいまは情報があふれる時代だ。インターネットや大宅文庫、国立国会図書館。調べるための手段に事欠かない。

ところが、その一歩を踏み出す人と踏み出せない人に分かれてしまう。機会も道具も発表媒体も世にはあふれているはずなのに。
なぜだろう。疑問のタネはつきない。
上にも書いた通り、公的なアウトプットを出したいという欲求の有無なのだろうか。

私は、本書を献本して頂いた際、また遠くに置いていかれてしまったと思った。
すごい、と。

私が本書のような書籍を世に問うには何が足りないのか。時間なのか意欲なのか。それともきっかけなのか。
全ては私の怠惰にすぎない。
私には機会も道具も発表媒体もある。
おそらく私は世の中の事物をまだ表面でしか見ていないのだろう。そこを掘り下げると無限の知識と可能性が湧いて出るにもかかわらず。

まずは好奇心の泉を涸らさずにいなければ。
思えば私が大学を卒業した後、初めて仕事をした現場にいたシステム・エンジニアの方がとても強い好奇心の持ち主だった。
私はその方から好奇心の大切さを学んだはず。そろそろこの好奇心を明確なアウトプットとして世に問わねばなるまい。
人生の師匠である早川さんが本書を献本してくださったご厚意にも報いなければ。早川さん、ありがとうございます。

‘2019/12/3-2019/12/3


ジーヴズの事件簿 大胆不敵の巻


二冊続けてジーヴズの事件簿を読む。
そもそも、本文庫に収められたジーヴズものは、前作の才智縦横の巻と、本書からなっている。

だが、訳者による本書のあとがきによれば、ジーヴズものの短編の数は、数え方によってまちまちだが34編から79編まであるそうだ。正確な数が何編かは大した問題ではないが、多くの短編があることは確かだ。
編集者がその中から二冊に収まる短編を選ぶにあたり、どういう基準を設けたのだろう。訳者のあとがきにそれらしい基準は触れられていない。そのため、基準についてはわからない。他の短編の数々を読むべきなのだろう。

だがおそらく、編者が選定した基準とは、今の私たちが読んでもわかりやすいテーマだったのではないだろうか。

前のレビューにも書いたが、ジーヴズものの魅力とは以下の三つがあげられる。それはパーティーとジーヴズの主従関係が憎めないこと。バーティと仲間の巻き起こすドタバタがテンポも良くスマートに描かれていること。何よりもユーモアに満ちていること。
また、同じく前のレビューに書いた通り、ジーヴズものから古さは感じられない。百年近く前に出版されたにもかかわらず。
本書を編むにあたって、古めかしくないことも重視したと思われる。

世界は広く、時代が百年違うと物事の移り変わりは大きい。
だが、恋とは人間にとって古今東西共通の感情。つまり、後世の異国の私たちにも一番わかりやすいテーマだ。
本書には、惚れた腫れた、の恋の物語が多く出てくる。
パーティーの悪友であるビンゴが惚れては振られての繰り返し。本書に収められた短編のテーマは、恋とそれにまつわるドタバタからなっている。
編者が選ぶにあたってのテーマもその点にあったのだろう。

著者はそこを軽快に、嫌みもなく、そしてスマートに書き上げている。

先に、本書には古さが感じられないと書いた。だが、古いからこそ良い点もある。
それは、本書には電話やインターネットなどが登場しないことだ。それらの文明の利器は、時間と空間の差を埋めてしまった。
現代が失ってしまったものとは、時間と空間が離れていることで起こるすれ違いだ。

空間と場所が違うことによるさまざまな思い違いや食い違い。そこから生まれる滑稽さは、落語に例を引くまでもなく、人々を楽しませる源だ。
現代でもコントのネタでもで頻繁にみられるが、時間と空間の差から生じる人々の右往左往の面白さは、人々から笑いを引きだす。
ユーモア小説である本書には時間と空間の差から生じるすれ違いの面白さと、その差を埋めようとする努力が描かれている。それが読者にユーモアの感情を湧き上がらせる。

今の情報機器にあふれた世の中で、人々は便利に慣れてしまった。慣れるだけに飽き足らず、さらなる効率や能率を重視する。
すれ違いや行き違いの無駄を嫌うあまり、日常から喜劇のネタまで失ってしまっている。
実はこれは、私自身が自分の日常として痛感していることだ。
不器用だった若い頃の自分の方が、毎日を面白く過ごせていた気がする。これは年のせいとは言い切れないと思う。
ミスが許されず、効率の追求が価値であるシステム構築の仕事は、私の日々からユーモアを失わせつつある。

実は現代とは、すれ違いの喜劇が失われたかわりに、あいまいな悲劇が私たちを覆っているのではないだろうか。

もちろん、昔が良かったなどと言うつもりはないし、異国の生活を隣家の芝生のように崇め奉るつもりもない。
本書が発表された当時のイギリスの人々だって、実際は日々の暮らしを生きるのに必死だったはず。だからこそ、本書がユーモア小説としてもてはやされたのだろうし。
若さを過ぎ、年を取ってゆく人々が若さを懐かしく思う時、本書に描かれたような若気の至りのじたばたする姿を読むことで、ユーモアを思い出すのではないだろうか。

そう考えると、本書の魅力の本質がよりくっきりと見えてくる。
時代や空間の違いは大したことではない。
人間とは、本質的に楽しく自由に生きたい生き物。
その快楽を得るために人々はジーヴズもののようなユーモア小説を楽しむ。そして、せめて空想の世界だけでもユーモアに憧れるのだと思う。
わが国を覆う笑いの不足。テレビのお笑い番組だけでは満たされないユーモアへの欲求。それこそが本書の魅力につながっていると思う。

そこまで考えたところで、本書の魅力について別の見え方も立ち上ってきた。
それは、ジーヴズとは現代の私たちにとっての人工知能ではないだろうか、という仮説だ。
バーティを私たちになぞらえ、ジーヴズを人工知能に置き換えてみる。完全無欠なジーヴズに頼るバーティの姿は、人工知能と私たちを思わせる。

人工知能について私たちが期待していることは、完全無欠でありながらも裏の人情の機微まできちんと読み取り、適切な対応をしてくれる存在ではないだろうか。ちょうどジーヴズのように。
そう考えると、実は本書の持つユーモア性とは、私たちが人工知能との関係に抱く不安の裏返しのように思えてきた。

無機質な人工知能との関係。人工知能の導く答えが完全であればあるほど、人々はそれを脅威に感じる。
だが、仮に人工知能がジーヴズのようにユーモアを解し、私たちを温かく包み込むような存在であったら。そのような人工知能は私たちにとって敵でも脅威でもなく、真の主従関係が築けるような気がする。

雑務は人工知能に任せ、私たちは神経をすり減らすような生活から逃れ、面白おかしく暮らす。もしそういう未来が訪れるのであれば、私も人工知能の脅威など言わず、未来に希望を託しながら生きていけるはずだ。

本書のユーモア小説としての効能は、ただ今を楽しませるだけでなく、未来への希望をひらいてくれることにもあると思える。

‘2019/12/2-2019/12/2


ジーヴズの事件簿 才知縦横の巻


本書は妻がはまっていた。面白そうなので私も貸してもらった。
実際、とても面白かった。

私は無知なことに、本書の主人公ジーヴズや著者の存在を知らなかった。かつてイギリスの推理小説はいろいろと読んだが、その時もジーヴズのことは知らずにいた。
私の知らない面白い本は無数に世の中にある、ということだろう。

本書は完全無欠の執事ジーヴズが、快刀乱麻を断つがごとく、さまざまな事件の謎を解いていくのがパターンだ。
軽快にしてスマート。すいすいと読めてしまう。
かつて、英語圏の諸国でジーヴズのシリーズは好評を博し、著者やジーヴズも良く知られていたという。
紳士淑女が就寝の前、読む友として最適だったのだろう。
ジーヴズのシリーズはわが国でも国書刊行会から出版されているし、本書のように改めて編まれて文庫に収められている。
一世紀近く前の外国のユーモア小説など、無数に出版物があふれる今、忘れられてもおかしくない。それなのに、本書は今もこうして手に取ることができる。
そうした人気のほども本書を読むとわかる。とにかくわかりやすく、面白く、後味も爽やかなのだ。

本書を読むと、妻が以前にはまっていた漫画『黒執事』を思い出す。とはいえ、『黒執事』と似ているのは執事が完璧ということだけ。
ジーヴズは『黒執事』に出てくるセバスチャンのように超常能力を持つ執事ではない。
ジーヴズはあくまでも普通の人間である。いたって慇懃で、そつなく物事を処理できる。頼りない主のウースター・バーティからの頼みもあっという間にこなしてしまう。
しかも、ただ従順というだけではない。
主のバーティの頼みをすげなく断ったり、無視したりもする。そうしたジーヴズの取った措置が回りまわってバーティにとって有利な結果となる。そんなジーヴズにほれ込んで、バーティはますます頼ってしまう。
そんな執事ジーヴズが、身の回りのあれこれの難事をスマートに処理する様子は読んでいて気持ちが良い。さらにバーティとジーヴズのやりとりもとても洗練されている。そうしたユーモア精神にあふれていることが本書の読みやすさの肝だろう。

また、本書にはむごい描写も残忍な心の持ち主も出てこない。
そのかわりにあふれているのはユーモアだ。本書の語り口やユーモアは本書の魅力として真っ先にあげられる。
著者はそもそもユーモア小説の大家として名高いというが、本書を読んでそれを納得した。

本書は20世紀初頭に出された多くのジーヴズの短編を選りすぐっているという。

時代が時代だけに、本書の舞台や登場する小道具も古めかしいはず。だが、本書からはあまりそうした古さを感じない。
この時代だから当然、現代で慣れ親しんだ事物は登場しない。旅をする際はせいぜい鉄道だ。ジェット機は登場しない。ましてや携帯もスマホも登場しない。
それなのに、本書から古さを感じない。それはなぜだろう。

まず一つは当時の最先端のファッションや道具を強調していないことが理由としてあげられる。当時の最先端は現代では骨董。
だから、当時の最先端の品々を登場させることはかえって後世では逆効果になる。それを著者や編者は承知しているのだろう。

もう一つは、本書がユーモア小説ということだ。つまり人間の弱さや滑稽さを描いている。
そうした人間の心は百年、二百年たとうが変わらない。
本書はそうした人間のユーモアを描いているから古びないのだと思う。

一方で、本書のバーティとジーヴズの関係のように、主と執事という関係自体がすでに時代遅れではないかという懸念もある。
だが、執事という職業になじみのないわが国でも執事のような職業はあまたの作品で見慣れている。
前述した『黒執事』もそうだ。また、第二次大戦前の華族や富豪を描いたわが国の作品にはかならず使用人が登場する。
今でこそ、使用人やお手伝いさんといった職業はあまり見かけない。とはいえ、秘書や運転手など、執事を思わせる職についている方は多い。
そうした職業が今でも健在である以上、本書のバーティとジーヴズの関係もあながち不自然には思えない。それが本書やジーヴズの一連のシリーズに古さが感じられない理由ではないかと思う。

また、バーティとジーヴズの関係も本書をユーモア小説と思わせる魅力を発している。
ジーヴズに家事や身の回りの世話を任せきりのバーティだが、居丈高にならず、ジーヴズへの讃嘆を惜しまない。まず、そのように描かれるバーティの性格に好感が持てる。主なのに威厳などどこかにうっちゃったバーティだからこそ、私たちも共感を覚えやすい。
そのバーティから頼りにされるジーヴズも、完璧な立ち居振る舞いをそつなくこなす。主のバーティにいうべきことはいうが、執事としての節度をわきまえ、慇懃に応対する。
その落差が本書のユーモアの源だろう。

本書は七編の短編からなっている。
どの編も短い。その中でジーヴズとバーティのほほえましい主従関係が簡潔に描かれ、さらにその中では謎や事件が起こり、さらにそれがジーヴズの才知縦横の活躍によって軽やかに解決される。それらが気軽に読めるのは、本書の入門編としての良い点だろう。
編者もそれを狙って本書を編んだものと思われる。

本稿では各編について、あまり詳しいことは書かない。だが、引き続きこの二人の活躍する物語を読みたい、という気にさせられるのは間違いない。

著者の生み出したジーヴズものが英語圏でとても親しまれている様子は、本書の末尾に英国ウッドハウズ協会機関紙『ウースター・ソース』編集長の方が寄稿された内容からも明らかだ。
「ご同輩、あなたはついていらっしゃる」とはその冒頭に掲げられた文だが、ジーヴズの口調を借りたと思われるこの文章からは、著者の作品群にこれから初めて触れることのできる読者へのうらやましさすら感じられる。

ジーヴズものは長編も含めてまだまだあるらしい。私も機会があれば読んでいきたいと思う。

‘2019/12/1-2019/12/2


わたしの名は赤 下


本書のすごさ。それは本書がイスラム文化に押し寄せる西洋文明の脅威、つまり、一つの文化の変動と新旧の世代が入れ替わる痛みを描きながら、それでいてエンターテインメントとしても一級であることだ。

本書は冒頭で細密画師の殺害は誰によるか、という謎を提示する。
通常のミステリーでは、その謎を捜査側から描く。それが常道だ。犯人は誰か、なぜ殺されたのか。ミステリーとは、そうした謎が解かれる過程を楽しむ小説のジャンルだ。
最後に意外な謎が明かされ、読者はそこである種の達成感を味わう。

それとは別に、犯人の側から犯罪を描く倒叙という形式もある。
犯人の視点から犯罪を描くことで、捜査の輪が狭まる様子とそれによって犯人の動きが変化する様子を味わう。

本書が面白いのは、捜査側の視点、犯罪者側の視点に加え、殺された側の殺される瞬間の視点まで描いていることだ。
今まで私は何百冊ものミステリー小説を読んできたが、こうした構成を目にしたのは本書が初めてだと思う。

殺される側の恐怖と理不尽さ。それは、殺人が行われる瞬間の事象をあまねく描くならば、描写の肝となるべきはず。ところが、今までのミステリーは、殺される側の感情の動きを本書ほどに踏み込んで書いていなかったように思う。おそらく、この点こそ、今までのミステリーが踏み込んで描いておくべきだったのかもしれない。
ましてや、本書においては殺される理由が犯行の動機や謎の根幹を占めている。そのため、本書が殺される際の描写もおろそかにせずに書いていることによって、物語の構造がさらに深みを帯びる。そして、本書のテーマがより読者に迫ってくる。

描写が必要なのは、罪を犯す殺人者の側にも当てはまる。
なぜ殺さなければならないのか。犯行を行うには切実な思いがあるはず。
その動機は、本書が掲げる大きなテーマである信仰の本質にも迫っている。
そもそも、イスラムの伝統に即した平面の細密画の視点を、なぜ西洋の遠近法に置き換える必要があるのか、と言う疑問。それは人によっては深刻な、信仰上の信念にも結びつく。そのあたりの動機について、イスラム文化に詳しくない私たちはなかなか理解が難しい。

その動機の深みは、捜査する側にとってはなおさら不可解だ。しょせん、犯罪者の思惑などわからないのだから。
西洋からの絵画技術が流入し、イスラムの伝統が脅かされている時。そのような時期に、信仰上の危機感は誰もが抱いていて不思議ではない。だからこそ、誰が下手人かはわかりにくい。

上巻のレビューに書いたように、本書は殺された側の思い、殺す側の言い分を描写するだけでない。本書は人ではないものの視点からも語られる。そのため、謎は混迷を深めてゆく。だが、本書は混迷する謎を異なる視点で描きながら、章ごとに視点は固定している。また、時間の流れも追いやすい。だから本書は、前衛的な構成や内容になっておらず、読みやすい。読者は複数の視点が目まぐるしく移り変わるが、視点の混乱はないため、理解しながら読み進められるはずだ。
そうした著者による配慮は、本書を純文学の範疇に押し込めず、ミステリーとしても成り立たせながら、扱うテーマの深遠さにおいて本書を現代の第一級の文学作品であらしめている。

ミステリーと純文学の両立は、芸術性の誘惑になびきながら、売り上げを求めなければならない作家にとって常に目標であり続ける。
それが本書においては見事に両方とも成り立っている。それを成し遂げた本書の価値に疑問の余地はない。

本書が取り上げる新旧の文化の相克は、本書の主要なテーマだ。伝統の平面的な細密画と新しい遠近法を駆使した西洋絵画の比較。
その比較において、著者は客観的な視点と主観的な視点を巧みに取り扱うことで、描写に深みを与えている。
上巻の冒頭にはコーランから引用された三つの言葉が掲げられている。そのうちの一つは、こう書かれている。
盲人と正常の目の人とは、同じではない。 コーラン創造者章十九節

コーランが告げるのは、絵描きにとって視点とは何かだ。実に鋭く深い言葉だと思う。画業も極めると目を閉じても描ける。それが細密画師の奥義だ。
本書のあちこちで、コーランの言葉と同じような言葉を人々が語る。それらの言葉が、主観と客観についての違いや、絵を描く営みの本質をついているのは間違いない。

本書はイスラムの伝統である細密画が徐々に廃れ、西洋から来た遠近法の絵画に飲まれていく様子を描いている。21世紀の私たちにとって、どちらの手法が今に残っているのかは明らかだ。遠近法を駆使した絵画が主流になっていることは、もはや歴史的な事実であり動かしようのない事実。
絵画の発展とは、このような新旧の相克によって今に至っている。

上巻の冒頭に引用されたコーランのもう一つの言葉は後一つがある。
東も西も、神のものであり、あなたがたはどこを向こうとも、神の御前にある。 コーラン雌牛章一一五節
これは、モーセやイエス・キリストでさえも預言者とした、イスラム教義の懐の深さを示している。

結局、西洋文明がトルコを席巻しようとも、細密画が忘れ去られようと、すべては神の前にある。そのような大きな視野で物事をとらえるイスラムの器の大きさ。
世俗主義を掲げ、イスラム国でありながら西洋文明を受け入れるトルコ。それはトルコに生きる著者にとっては当たり前に身につけた素養であり、現代のトルコを読み解くにあたっても留意すべき視点なのかもしれない。私たち日本人にとってそのことは押さえておくべきと思われる。
むしろ、その視点は東洋にあって西洋文明を受け入れてきたわが国だから通じるはずだ。
それを理解しているからこそ、トルコは親日国として知られているのかもしれない。異なる文明を受け入れ、取り込んできた文化の在り方が似通っているから。
本書がテーマとする新旧の相克こそ、わが国でも起こっていたのだから。

極東の島国であり、さまざまな文化を受け入れ、消化してきたわが国。鎖国の時代ですら、出島を通して西洋文化は入ってきていた。その背景があったからこそ、明治政府による急激な欧化政策の中でも激烈な拒否が生じなかった原因だと思われる。
だが、わが国でもさまざまな葛藤は当然起こっていたはず。
本書で描かれたような新旧の文化の入れ替わりを、わが国の事例に当てはめてみるのも面白い。

また、もう一つ本書で特筆すべきは、本書が新訳版であることだ。本書は章ごとに語り手が違う。そのため、その口調や文体には細心の注意を払わねばならない。
本書の旧訳版にはあるいはその点で配慮が足りなかったのかもしれない。
実は私は著者の作品を読んだことがある。以前に読んだ『雪』は相当に読み通すのに苦労した記憶がある。それも訳文の固さにてこずって。
本書はとても読みやすいが、もしかしたら旧訳版では読みにくかったのかもしれない。

それも含め、本書はお勧めできる一冊だ。

‘2019/11/24-2019/11/29


わたしの名は赤 上


本書は、著者の名をノーベル文学賞受賞者にまで高めた一作だ。

トルコにルーツを持つ著者の文化的なバックボーン。それはイスラム教であり、イスラム文化である。
今でこそ、世界は長らく西洋のキリスト教が優位に立ってきた。だが、歴史を紐解くと、かつてはイスラムこそが世界を引っ張っていた。強大なオスマン・トルコが西欧と対等な強国として栄えていた時期。さらに、ルネサンス勃興期までは、西洋文化は完全にイスラム文化の影響下に置かれていた。
その一方で、1453年までは東ローマ帝国の首都が今のイスタンブールに置かれていた。つまり、トルコとは、西洋文化をルーツとした土壌と文化的な誇りを持った国なのだ。

蒸留技術、数学に化学。イスラム文化が世界の文明に貢献した業績は多い。

美しいゴブラン織、ペルシャ絨毯、曼荼羅のような幾何学模様のタイル。これらもイスラム文化からうまれた。イスラム文化は間違いなく、世界の文明をリードしていた。

本書は、イスラム文化が、オスマン・トルコによって最盛期を迎えていた時期を舞台にしている。
最盛期を迎えたオスマン・トルコ。だがその時、西洋ではルネサンスがその文化的な先進性によってイスラム文化の脅威となりつつあった。

例えばルネサンスが成した文化的な改革の一つに絵画がある。
それまでの絵画とは、中世の宗教画に見られるような平板な背景が描かれ、奥行きがなかった。
それが、遠近法によって革命と言っても良い変化を遂げた。
それまでの遠近法を知らない絵画は、奥にいる人物は絵の上側に描かれ、手前の事物は絵画の下側に描かれた。本書のカバーを彩っている絵画のように。
本書のカバーを彩るのは『祝祭の書』(1582)から引用された、珈琲店同業者のパレードの様子が描かれている。だが、遠近法になじんでいるわたしたちから見て、絵画としてあか抜けていない。

ルネサンス期で有名な絵画と言えば『ヴィーナスの誕生』だ。サンドロ・ボッティチェッリによるこの作品はあまりにも有名。そこではすでにきちんと奥行きが描かれており、当時のイスラムでは最先端の絵画だったであろう「祝祭の書」とは明らかな差がある。

本書は、細密画師の葛藤を描いている。
敬虔なイスラム信仰が既存の絵画技法への疑問を許さず、偶像崇拝をよしとしないイスラム教の伝統も相まって、イスラム絵画は進歩から真逆の停滞に甘んじている。
にもかかわらず、ルネサンスによって長足の進歩を遂げた異教徒の絵画技法の革新性は、イスラムの細密画師たちを困惑させていた。
そうした中、細密画師の一人が無残に殺される。彼はなぜ殺されたのか。誰が殺したのか。

本書はそうした謎解きの要素もはらむ。それでいながら、本書は読者をつかんで離さない仕掛けに満ちている。

まず、本書のアプローチはとても面白い。
33章に分かれた上巻において、それぞれの語り手は自在に入れ替わる。その語り手に沿って章の題は設定される。最初の十章を挙げてみると、
「わたしは屍」
「わたしの名はカラ」
「わたくしめは犬にござい」
「わたしは人殺しと呼ばれるだろう」
「わたしは諸君のおじ上」
「僕、オルハン」
「わたしの名はカラ」
「あたしはエステル」
「わたしはシェキュレ」
「わたしは一本の木」
といった具合だ。

語り手の視点によって物語が変幻自在に変わる。性や職業、立場の違いに応じて自在に。生きていようが死んでいようが。人であろうがものであろうが悪魔であろうが関係ない。奔放だ。ある章では本書の題名の通り、赤が語り手となる。色の赤だ。
語り手の視点が自在に角度を変えることによって、物語の奥行きは深まる。平面的な絵画から遠近法を駆使した絵画へと進化したように。

語り手を章によって自在に変える手法。それは、丸山健司氏の『千日の瑠璃』で読んだことがある。
本書で著者は、語り手を変化させつつ、着実に物語を進める。そして、誰が〈優美〉と呼ばれる細密画師を殺したのか、の謎で読者を引っ張りつつ、当時のイスラム文化のあり方と、西洋文明が少しずつ浸透するイスラム文化の矛盾や苦悩を描いている。

複数の視点が自在に交錯することが、それらの描写に陰影を与え、抑揚をつけており、それが深みを本書に与えていることは言うまでもない。

本書にはそうした深いテーマだけではなく、読者が物語に入り込むための魅力的なテーマも忘れない。人の生き方や、悩み、そして人類が共通で持つ感情、つまり恋。
シェキュレに対するカラの熱情こそ、本書を貫くもう一つの糸だ。

イスラム文化の伝統とは、女性が自由に恋ができない環境でもある。ましてや封建的な時代。
幼いころからシェキュレに思いこがれていたカラは、シェキュレの父である、おじ上の許可を得ることに失敗する。そこから失意の12年にわたる流浪を余儀なくされていたカラ。その間にシェキュレは結婚し、オルハンとシェヴケトの二人の息子を設けた。だが、夫は対ペルシャの戦いに出たまま、すでに四年も消息が不明。
それを知ったカラはおじ上から結婚の許可を得るため、おじ上が皇帝から命じられた細密画の完成に協力する。

イスラムの因習と戦いながら、恋い焦がれるカラの熱情。その一方で家に縛られ、現実的な判断を優先させるシェキュレの冷静。
もちろん、シェキュレは、カラから想いを寄せられることに悪い気はしない。

この二人の駆け引きに、〈優美〉を殺したのは誰かという謎。そして宗教的な葛藤の中で進められる細密画の変革、そして細密画に求められる需要。
本書はこの三本の筋で綴られていく。

‘2019/11/10-2019/11/24


遠い山なみの光


著者がノーベル賞を受賞したことは実に喜ばしいニュースだった。
それまでにも何冊か著者の作品を読んできた私。
著者の作品に通ずるどことなく薄暗い雰囲気にスコットランドの荒涼とした土地を勝手に思い描いていた。
私にとって憧れの地、スコットランド。その地を日本人である著者が描くとこのように表現されるのかという発見。それが、私を著者の作品に惹きつける。

著者は5歳の時、父の仕事の都合で渡英したという。そして、それ以来、当地に在住している。現地の方と結婚し、イギリスに帰化した。
小説も英語で著し、長年にわたって英国に住んでいることから、著者が英国文化になじんでいることは明らかだ。
だが、著者の両親は日本人だという。だから、日本人の感性はまぎれもなく持っているに違いない。

本書は著者の長編デビューを果たした作品だという。
その作品のモチーフに著者が幼い頃に過ごした長崎を選んだのはどういう理由だろうか。著者が異国で生きていくにあたり、日本を描いておかねば、と思ったのだろうか。それとも、テーマとして最も扱いやすかったのが祖国の暮らしなのだろうか。
本書で描かれたテーマはとても興味深い。

本書は二つの時間軸が並べながら描かれている。
イギリスに住む悦子の内面を描きながら、悦子の回想として日本での暮らしを描く。

イギリスで長い間、暮らしている悦子。彼女は、長女の景子を自殺によって失い、気持ちの沈んだ日々を過ごしている。
英国人の夫との間に生まれたニキは自己を強く主張する娘として、悦子と対等の口を利く。
ニキと景子の何が違うのか。景子が自殺への道を選んでしまった原因は何か。読者はこの疑問を抱きながら読み進めてゆくことだろう。

かつて悦子は長崎に住んでいた。長崎での夫との結婚生活は、お腹に子を宿していたのにもかかわらず、仲が睦まじいとはいい難い。
なぜ悦子が夫と別れ、渡英したのか。その辺の事情は本書ではわずかにほのめかされるだけだ。最後までその詳細が語られることはない。その経験が、景子のメンタルにその経験がどう影響したのかについても。
そもそも、日本での日々が描かれる際、妊娠中の子が景子であることは一度も言及されない。

著者は英国での描写より日本での描写に重きを置いている。
長崎での悦子にとって欠かせない人物として登場するのが、悦子が近所で知り合った佐知子と万里子の母娘だ。自我が強く、見栄と虚勢を張る佐知子と、母に振り回される大人しい万里子。
悦子は、佐知子が語る未来への根拠のない望みに疑問を抱きつつ、万里子に目をかけている。佐知子が語る米国男性との暮らしや、万里子も連れてアメリカに移住するとの身勝手な論理に閉口しながら、万里子のことが放って置けずに付き合いを続けている。

後年、イギリスに住む悦子が万里子を思い起こす描写はない。悦子は景子の自殺をきっかけとした気の塞ぎに手いっぱいのままだ。
だが、本書を読み進めていくにつれ、読者にはある思いが湧き起こるはずだ。ひょっとして、景子とは万里子のことではないか、と。そんな錯覚が徐々に膨れ上がってゆく。
景子は、日本に住んでいた時に悦子が腹に宿していた娘のことであり、万里子とは違うはず。だが、万里子の世を諦めたような頑なな態度は、自殺した景子のイメージに容易に結びつく。もちろん、それが著者のねらいなのだろう。
さらに原作では景子=万里子、悦子=佐知子を同じくするような描写があるという。本作ではそのあたりは意図的にぼやかされているようだ。

著者は後ろ向きの景子と万里子、そして前のめりの佐知子とニキを対比することで、日本と英国の間に横たわる文化の差を描き分けている。
そこには著者の実体験が投影されていると思われる。冒頭にも述べたとおり、著者は幼い頃、景子と同じように渡英した。
著者の場合、英国での生活にうまく溶け込むことができたようだ。だが、著者にしかわからない悩みもあったことだろう。そして、景子のように実際に苦しい経験に苛まれた方もいるはずだ。私は本書を読み、かつて夏目漱石が英国留学で深刻な鬱に陥った故事を思い出した。

著者は、異文化になじむことの難しさと、それによって起こりうる悲劇を景子の運命として描く。
その悲劇は、娘のことを考えずに、ただ未来だけしか見ない佐知子が万里子に強いている運命としてほのめかされる。佐知子の娘への姿に批判的な悦子の思い。その思いは、間接的に景子の運命にも影響を与えた自らへの責めとしてつながっている。

だが、佐知子にも同情すべき点はある。
それは当時の長崎が置かれた現実を考えればたやすく理解できる。戦後もすぐの長崎といえば、原爆を抜きにして考えられない。
本書には、原爆の惨禍や復興など原爆自体について言及されることはない。だが、本書の至るところに空襲や原爆が与えた影響が見え隠れしている。
ようやく原爆の被害が復興へと進みつつある長崎においてもなお、葬式の知らせは届き、暮らし向きは楽にならない。佐知子の目が外国への暮らしに向いてしまうのもわかる。

当時の日本は、戦時中の反動もあり、海外への思いはより強かったことだろう。
だが、もし渡英できたとしても新たな文化を受け入れる必要がある。異国への憧れだけならよいが、それを実際に移住として実行する間には大きな違いがある。
その時に生じるのは異文化になじむことの難しさ。

本書では景子が何に悩んでいたのかは一切描かれない。景子が何に悩んでいたのか。だが、異文化へなじめなかったと想像はできる。
そこには異文化の間に横たわる断絶がある。その断絶を乗り越えなければ苦しむしかない。断絶の幅は広い。それは考えを変えるだけでは済まない痛みを伴うことだろう。

本書には、価値が変わったことによって痛めつけられた人物がもう一人登場する。それは悦子の長崎での義父である緒方さんだ。
戦時中に軍部によって喧伝された八紘一宇の理想を信じ、翼賛体制に協賛した緒方さん。だが、戦後には戦時中の軍国主義は悪とされ、急激に観念の転換を強いられた。緒方さんは古い価値にしがみつき、世間との断絶はますますひどくなっていく。周りからはその古さを笑われ、糾弾される。

緒方さんの姿を通して著者が描きたいのは、染みついた考えをたやすく切り替えることの難しさだ。世代と文化、民族の間で価値は簡単に変わる。そして時間とともに新陳代謝される。だが、本人に染みついた考え方を変えることは簡単ではない。
日本からイギリスへの渡航には隔てられた距離と文化の差を乗り越えなければならない。そして、戦前から戦後の思想の切り替えは時間の差を乗り越えなければ。それらは代償と呼ぶには厳しい運命を当人に課す。景子や緒方さんのように。

そうした代償を引き換えとして得られる未来とは何か。そこに喜ばしい未来はあるのか。
それは誰にもわからない。
それでも、淡くかすかな光を求め、人は生きようともがく。本書の現在である「A Pale View of Hills」とは、まさにその淡い希望を示していると思う。

一方で「A Pale View of Hills」には別の意味も取れる。
かつて東洋の一角に光った原爆の鮮烈な光が、時間によって少しずつ淡くかすかになりつつある様子。それを著者はタイトルに込めたのではないだろうか。
今を生きる人にとって、時間の流れはじれったいほどにゆっくりとしている。しかし、時間と空間がもたらすしきたりや考えの変化は人に苦しみをもたらす。だが、後から過去を振り返ると、苦しかった変化は淡くかすかにしか感じられなくなる。それこそが人生の本質。
本書のタイトルからは、そうした著者の思いが感じられる。

本書の役者を務めた小野寺健氏のあとがきも本書の内容を見事に解説しており、読み応えがある。
さらに、作家の池澤夏樹氏による解説は必読だ。
氏は、日本人が英語で著した会話を日本語に訳するにあたって生じる微妙な表現の差を指摘している。その難しい作業を成し遂げた小野寺氏への称賛も含め、見事な解説だと思う。
原書で本書を読めない私のようなものにとって、氏の解説はありがたかった。

‘2019/11/5-2019/11/9


果しなき流れの果に


本書は、世田谷文学館で開催されていた「小松左京展-D計画」で購入した。
同展の中で本書は著者の膨大な作品群の中でも一つの到達点であると紹介されていた。
それにもかかわらず、私はまだ本書を読んでいなかった。これは読まなければ、とミュージアムショップで購入した。

本書はタイトルからも想像できる通り、時間の壮大な流れをテーマとしている。
普通に生活していては決して感じられない悠久の時間の流れ。
その気の遠くなるような時間の尺度の中で、人間とは刹那の時間、生まれては死んでゆく存在にすぎない。
人間とは果てしない時間の流れの中において何のために存在しているのだろうか。無限に近い時間の流れの中、人の生に意味はあるのか。
人間にとって根源となる問い。著者はその問いの答えを本書に描いている。複数の時代を区切る時間の断層を自在に飛び移る壮大な物語に仕立てて。

21世紀末の太陽フレアの異常で滅亡した人類。
太陽が暴発する直前に宇宙から飛来した異星人の船団によって救われた人類。その中で異星人によって選別され、人類の次の階梯に進むことを許された何人かの人類。
太陽系に人類が住む場所はなくなっても、2473年にまで生き延びた人類。

人類の次の階梯に進むことを許された松浦ことマツウラ、そしてマツラ。彼は時間機を操り、時間軸を狂わせようとたくらむルキッフの一味を追う。
ルキッフの一味は、人類の黎明期から機械文明を持ち込み、人類の歴史を根底から変えてしまおうともくろむ。それによって人類の歴史とあり方を根底から改善してしまおうとするのが狙いだ。
今までに発展してきた文明の中で無数の試行錯誤を重ね、あたら多くの命を散らしてきた人類。その愚かな歴史の初期から高度な科学文明の成果を持ち込むことで根本から改善し、人類の壮大な歴史の無駄を清算し、より良い未来に変える。それが彼らの考えだ。

しかし、人類よりさらに進んだ高次の生命体は、過去を変えることを決して許さない。その指示に従いマツラはルキッフたちの一味を追う。
各時代のあちこちに潜む工作員。そして、人類の歴史を変えるために各時代に拉致された人々。中生代から弥生時代、戦国時代。本書の舞台はあちこちへと飛ぶ。

本書には著者の作品としてあまりにも高名な『日本沈没』のその後を思わせる記述も出てくる(289-290ページ)。そこで日本民族の末裔は、喪われた日本の精神を残したまま、αCⅣ星へと移住することを熱望している。

本書は、人類の意識に次の段階があるのか。それは何かを描こうとしている。
今の段階での人類の意識は、時間や生命の営みの裏側にある意味を理解するには及ばない。
ようやく、民族や地域ごとの紛争を卒業できるかどうか、という段階だ。

その低次元の争いから次へ進むにあたって、人類は何が必要か。そもそも人類はどこに進むべきか。外的な要因がない限り、人類が新たな段階に進めないのでは。
著者の青春時代の敗戦体験や、そこで培った人のあり方への深刻な悩みは、本書のテーマとして結実している。

また、人類の歴史のあちこちに刻まれている謎めいた痕跡や伝説や神話。それらはただの進化の痕跡と考えるにはあまりにも不可解だ。
人類の進化の歴史には、何らかの知的生命体による操作が加わっているのではないかとの疑い。
著者の博識はそうしたエピソードを丹念に拾う。そして本書の中にちりばめる。
実は人類の歴史とは私たちが思っている以上の裏の意味をはらんでいるのかもしれない。
著者は本書にそれらの思いを詰め込んでいる。

人類の歴史や生の意味についての著者の考え。それらは本書の中でも開陳されている。

「モラルというやつは──要するに、配分の公正さ、ということで、その公正、適正は、時代と社会によってケース・バイ・ケースだ。社会を成立させる、最低の条件としてのルールやタブーもあるだろう。だけど、こいつは、大したことじゃない。モラルというやつは、もともと人間主義とは、何の関係もないんだ。おそろしく冷厳で、現実的なものだから、その社会のモラルにしたがって、人間はいくらでも、犠牲にできる。──だが、人間の”認識する能力”というものは、大変なものだな、ホアン。人間の認識能力は、人間の現実的状態の幸不幸に関係なく、とてつもなく、深遠で巨大なことを認識できる。しかし、その到達し得た認識は、その時の人間の状態を、ちっとも変えやしない。かろうじて、現実自体のルールで動いている人間的現実に、一刻休戦を勧告し、その闘争の過酷さを、いくぶんとも緩和させるように、はたらきかけるだけだ。それも、有効範囲は、人間の相互関係の中でうみ出される人間的現実にかぎられていて、人間の、存在状態の方には、指一本ふれられやしないのだ」
「だがその認識によって、人類全体は理想状態に、一歩一歩、ちかづいていくのじゃないのかね?」
「そして、ついに、状態は認識に追いつけない」野々村は、乾いた声で言った。「理想状態って、何だ! ホアン! 幸不幸は、全然別の問題だ。それは実際にその時生きている具体的な、個々の人間の問題だ。飽食していて不幸なやつもいれば、飢えて、幸福な奴もいる。みずから求めて苦痛を追い、その中で恍惚を味わうやつもいる。先史時代から、宇宙時代までの間に、何千億というあわれな連中が、けだものみたいに死んでいったが、そいつらは、後世の連中が考えるほど、不幸じゃなかったかも知らない。けだものには、けだものの充実した生活──飢餓と敵との闘争の日々があるからな。”種”としての人間は、まさに特殊化した哺乳類、二足獣にすぎない。──だが、こいつは、ただ生きるための知恵と工夫を行う獣とは、すこしちがうものをもっている。そいつは……」
「ものを知る力、か……」ホアンは、こめかみをもんだ。「宇宙のひろさと、テコの原理を、そして、人間が頭でっかちのケダモノであることを認識する能力か」(364-365ページ)

この部分だけでも、本書の追い求めている考察の深みが感じられる。
SF作家とは、科学者と哲学者の素質をともに備え、さらにそれを面白く読者に教えられる教師なのかもしれない。
今さらながら、小松左京展で著者のすごさを知った。
著者の作品は、残さずに読むつもりだ。

‘2019/11/1-2019/11/4


ザ・ウイスキーキャット


本書を読んだきっかけは、山登りだ。
本書を読む前日に訪れたのは、奥多摩の御前山。

三人で登ったこの日、数日前に降った猛烈な雨の影響があちこちに残っていた。そのため、奥多摩のあちこちに急造の滝が流れていた。そのことは強く思い出に残っている。
さまざまな話をしながらの帰り道、ウイスキーが話題となった。また、その後に通りがかった氷川漁養魚池で遭ったのが人懐っこい猫。
その流れで本書についても話題に挙がった。
その時、私は気づいた。本書を読んだことがないと。
これはまずい。山登りの翌日、さっそく本書を手に取った。

作家であり、環境保護家としてよく知られた著者。
だが、私は著者の著作はあまり読んでいない。
大学の頃に野尻湖で合宿したことがある。その帰路、黒姫駅で著者らしき人物を見かけたことがある。それにもかかわらず、著者の本はあまり読んでこなかった。

もう一つ。私はウイスキーが好きだ。ウイスキーの知識を学ぶ上でウイスキー・キャットは欠かせない。
ウイスキー・キャットとは、ウイスキーの原料として欠かせない大麦を狙ってくるネズミを駆除するために飼われていた猫を指す。つまり、蒸留に携わる人にとってはウイスキー・キャットは重要な働き手だった。グレンタレット蒸留所の「タウザー」は、24年間の生涯で28,899匹のネズミを駆除したことでギネスブックにも載っている。

そんな私が本書を読んでいなかったことは恥ずかしいと思う。
だが、このきっかけに本書を読めた。それは良かった。そして本書はとても面白かった。

本書の扉の献辞には各蒸留所の猫がずらりと載っている。ウイスキーの造り手にとって欠かせないウイスキー・キャット。本書は、ウイスキー・キャットへの感謝の物語だ。
だが、かつては蒸留所に欠かせない存在だったウイスキー・キャットはすでに失われてしまった。
というのも、衛生面の問題と貯蔵技術の進展によって、ネズミの害が激減したからだ。それは、ウイスキーキャットからネズミを駆除する仕事を取り上げた。
今、各蒸留所にいるウイスキー・キャットは、ネズミを駆除するためではなく、蒸留所の従業員や訪れる観光客を癒やすマスコットになっているのだとか。

本書の語り手は猫の「ヌース」が務めている。「ヌース」が語るのは、自らの若き日からのウイスキー・キャットとしての日々だ。その中で「ヌース」は伝説の存在となったアザー・キャットを語る。アザー・キャットは「ヌース」のウイスキー・キャットとしての師匠だ。
「ヌース」がウイスキー・キャットとしてのスキルを身につけ、徐々にネズミを狩ることに熟達していく姿。
ウイスキー・キャットにもプライドがある。仕事のつらさがある。そして、仕事の喜びがある。
執拗に大麦を狙い、蒸留所のどこかで繁殖するネズミたち。ネズミたちを根絶するまでは終わりのない争いの日々。
メス猫のアザー・キャットは、ウイスキー・キャットの誇りを持ち、それにふさわしい能力の持ち主だ。決して諦めず、責任感を持ってネズミに立ち向かっている。
ネズミを仕留めると人間から褒められ、褒美を与えられる。それによってプライドは満たされ、エサも豊富に与えられる。
ウイスキー・キャットの姿を見ていると、私たちが仕事に慣れていく様子や、そもそもの仕事の原点が何だったかを思わせてくれる。

本書の末尾には、ウイスキーの製造工程がイラストとともに紹介されている。
長年の間、ウイスキーを造る工程にはかなりの人の手が必要であり、蒸留職人による勘が欠かせなかった。
しかし、文明の進展は、ウイスキーの製造工程に多くの機械を送り込んだ。洗練され、清潔を求められる蒸留所にとって機械は最適。だが、機械はウイスキー・キャットの役目を変えてしまった。
文明の恩恵は誰にも否定できない。機械の良し悪しは誰にも判断できない。だが、人の手が機械に置き換えられたことは、ウイスキーの製造工程から物語が奪ってしまった。それは確かだろう。

私たちの仕事もそう。デジタルの進歩は単純作業を駆逐しつつある。
言うまでもなく、単純な作業を機械に任せることは、生産性の面でも私たちの仕事のやりがいにとっても望ましい。それは間違いない。
だが、仕事が高度になったことによって、人は一定以上の能力を求められるようになった。そして、それについていけない人は徐々に振り落とされていく。
そのことに寂しさとやりきれなさを感じる人は多いはずだ。

本書におけるウイスキー・キャットたちの姿は、狩りだけで成り立っている。それはとても単純だ。だからこそ、ウイスキー・キャットの姿は私たちに古き良き時代を思い出させてくれる。単純な仕事だけで成り立ち、それが銘酒として世界中で評価された幸せ。
単純な仕事は、単純なだけに仕事の喜びが分かりやすい。大人になるにつれ、複雑になっていくばかりの人生。子どもの頃は単純で日々が幸せだったはずなのに、どこで私たちの人生は間違ったのか。
それに比べてウイスキー・キャットの世界は単純。それは私たちに子どもの頃の気持ちを思い出させてくれる。
つまり、本書は大人にとっての童話でもあるのだ。

本書には著者の他に写真家の森山徹氏も重要な役割を果たしている。
本書には森山氏が撮影したカラー写真が30点以上載っている。それらの写真の被写体は蒸留所やスコットランドの豊かな自然、そして蒸留所で眼光も鋭く辺りににらみを利かせ、蒸留所の職人とくつろぐ猫の姿だ。

童話には挿絵がつきもの。そして大人の童話である本書には森山氏の写真が合っている。これらの写真は本書にふさわしい。現地への憧れをかき立ててくれるのだから。
私もまだスコットランドに入ったことがない。だが、本書からスコットランドへの憧れが再燃した。なんとしても行かなければ。かつて蒸留所に履歴書を送った時の思いをもう一度。

‘2019/10/28-2019/10/29


マイケル・K


生きることの本質とは何か。人は一人で生きていけるのか。
本書が語っていることは、それに尽きる。
政治が不安定な上、頻繁に内戦のおこる南アフリカ。その過酷な自然は、人に試練を課す。
そうした不条理な現実を、主人公マイケル・Kは生きる。そして内戦で荒廃した国を歩く。

そこに生きる庶民は、毎日を生き抜く目的だけに費やしている。
文化や享楽を楽しむどころではない。娯楽など知らずに生きている。本書には余暇を楽しむ庶民の姿はほぼ見られない。
マイケル・Kもまた、娯楽を知らない。彼はただ日々を生きることに汲々としている。生の目的を、ただ生き抜くことだけにおいた人物として描かれる。

主人公マイケル・Kは組織になじめない。人とものコミュニケーションがうまく取れず、一人で生きる道を選ぶ。彼は孤独を友とし、世界を独力で生きようとする。
娯楽や文化とは、集団と組織にあって育まれるもの。それゆえ、孤独で生きるマイケル・Kが娯楽や文化に触れることはない。
マイケル・Kが主人公である本書に、生きる楽しみや生の謳歌を感じさせる要素は希薄だ。

マイケル・Kが孤独である象徴は名前に現れる。本書のなかで、保護されたマイケルを難民キャンプで見知っていた警官がマイケル・Kをマイケルズと呼ぶ下りがある。その警官は、難民キャンプではマイケル・Kがマイケルズと呼ばれていたこと、なのにここではマイケルと名乗っていることを指摘する。
その挿話は、マイケル・Kが組織ではなく個人で生きる人物であることを示している。
コミュニティのなかでは、娯楽や文化に触れる機会もあるだろう。だが、一人で生きるマイケル・Kが娯楽や文化を見いだすことは難しい。

マイケル・Kは個人で生きる道を選ぶ。そのことによって彼は仲間からの助けを得る機会を失った。
マイケル・Kは自給自足で生き抜くしかなくなる。そこでマイケル・Kは自分の力で道を切り開く。耕作し、収穫し、狩猟する。
その姿は、生の本質そのものだ。
平和を享受し、バーチャルな世界が現実を侵食しつつあるわが国では、生きることの本質がどこにあるのか見えにくい。

本書において、老いた母を手押し車に乗せ、当て所もなくさまようマイケル・Kの姿。彼にとって生きる目的は曖昧だ。それだけに、かえって生きる意味が明確になっている。
迫害からの自由。生存が脅かされているからこそ、生き延びたい。その姿は生の本能に忠実だ。
母を亡くした後、一人で生きていこうとするマイケル・Kの姿からは、生への渇望が強く感じられる。目的はただ生き抜くことのみ。

南アフリカのように内戦が国を覆い、あらゆる人に自由が制限されている場所。そうした場所では何のために生きるのか。
そこでは、生の意味は生き抜くことのみに絞られる。
むしろ、内戦によって生の価値が著しく損なわれたからこそ、当人にとっての生がより切実となる。
戦争や災害時には平時よりも自殺者が少なくなる、との通説はよく知られている。本書を読んでいるとその通説が正しいように思えてくる。

傍観者から見ると、戦争の際には生の価値は低いように思える。死は多くの死者数に埋もれ、統計となるからだ。

彼はまるで石だ。そもそも時というものが始まって以来、黙々と自分のことだけを心にかけてきた小石みたいだ。その小石がいま突然、拾い上げられ、でたらめに手から手へ放られていく。一個の固い小さな石。周囲のことなどほとんど気づかず、そのなかに、内部の生活に閉じこもっている。こんな施設もキャンプも病院も、どんなところも、石のようにやりすごす。戦争の内部を縫って。みずから生むこともなく、まだ生まれてもいない生き物(209P)。

「自分に中身をあたえてみろ、なあ、さもないときみはだれにも知られずにこの世からずり落ちてしまうことになるぞ。戦争が終わり、差を出すために巨大な数の引き算が行われるとき、きみはその数表を構成する数字の一単位にすぎなくなってしまうぞ。ただの死者の一人になりたくないだろ?生きていたいだろ?だったら、話すんだ、自分の声を人に聞かせろ、君の話を語れ!」(218P)

戦争はあまりにも膨大な死者を生み出すため、外から見ると一人一人の死に思いが至らなくなる。ところが戦争に巻き込まれた当人にとっては、死に直面したことで生きる意味が迫ってくる。生き抜く。
死を間近にしてはじめて、人ははじめて生きることに執心する。もしそのような相反する関係が成立するのだとすれば、生とはなんと矛盾に満ちた営みだろうか。

本書が書かれた当時の南アフリカでは、アパルトヘイトがまかり通っていた。
漫然と生きることが許されないばかりか、強制的に分別され、差別と選別が当たり前の現実。
その現実において、一人で生きることを選ぶマイケル・Kのような生き方は異質だ。

戦争は一人の個性を全体に埋もれさせる。または、埋もれることを強いる。兵士は軍隊に同化することを強制され、住民は銃後の名のもとに国への奉仕に組み込まれる。そして死ねば巨大な統計の数字となる。なんという不条理なことだろう。

本書は、マイケル・Kという一人の男に焦点を当てる。独力で生きようとする男に焦点を当てる。彼の内面から、または外からの視点から。
マイケル・Kを通して描かれるのは、戦争という巨大な悲劇で生きることの意味だ。
生きることの本質とは何か。人は一人で生きていけるのか。それを追求した本書は偉大だ。

‘2019/10/24-2019/10/28


地域を豊かにする働き方 被災地復興から見えてきたこと


先日、ソトコトの編集長による地域創生の本『ぼくらは地方で幸せを見つける ソトコト流ローカル再生論』を読んだ。
『ぼくらは地方で幸せを見つける ソトコト流ローカル再生論』で取り上げられた取り組みは、最近の働き方改革の文脈に沿っていたように思う。私が同書から学んだのは、働き方改革を絡め、若い世代を巻き込むことだ。それが地域創生に有効であることも。

本書は、地域創生を被災地の復興の視点から取り上げている。
被災地の復興で何よりも重要なのは、天災で傷ついた地域を元に戻す作業だ。つまり、創生よりもまず復旧が優先される。その過程においては、より地域に根ざした視点が欠かせない。
未曽有の大災害、つまり東日本大震災によって生活基盤を失った人々が地域を復興するにあたり、どのような手法を採ったのか。
本書には成熟社会という言葉が登場する。成熟した社会の中で培われたノウハウを使い、どうやって地域を復興させるか。そうしたケースが紹介されているのが本書の特徴だ。

地域での中小企業経営者、または飲食業に携わる人々。本書に登場するそれらの人々が被災地の復興にあたって採用した手法は、いたってオーソドックスだ。
その手法は『ぼくらは地方で幸せを見つける ソトコト流ローカル再生論』で紹介されていたような、情報技術を駆使し、働き方改革の風潮に沿った方法ではない。
本書では、地縁のつながりを生かす手法が取り上げられている。

例えば飲食業。根こそぎ津波にさらわれ、見渡す限りの更地となった生活の場。再び人々が暮らせる街として蘇らせるにはどうすればよいのか。
更地になった土地であっても、全ての希望が失われたわけではない。
ただ、更地から復興させていく方法については確かな答えはない。
情報技術や最新の手法に頼らず、従来のやり方でどのように復興させるのか。本書にはそうした取り組みの事例が豊富に載っている。
本書に登場する人物はほとんどが年配の方であり、取り組みも洗練されているとはいえない。だが、培われた地縁を生かした復興への取り組みは参考になる。

更地となった同じ場所に店舗を再建するのは簡単ではない。
仮設店舗を設置し、そこに人を集める方法も一つの方法だ。だが、周囲の住宅が根こそぎ更地にされ、住民が激減した場所で客を集めることは簡単ではない。
となると、新たな土地を求め、そこで店を再建し、集客からやりなおす方法が考えられる。本書の中に登場する方は、福島県の二本松市に新たに活路を求め、そこで同じ地域からの避難者を対象に店を開業しているという。

新たな土地に活路を求める方法ももちろん有効だ。だが、被災地の復興の観点で考えると、被災地とは別の場所に店を構えたとしても、復興したとはいえない。
仮設でもよいから元の場所に店舗を構えたい。被災者の心情としては当然のことだろう。

だが、津波によって風景が一変し、そこにかつて住宅や店があった記憶は刻々と失われつつある。そのような中、どのようにして復興させるのか。並大抵のことでは成し遂げられないはずだ。
そこで、本書に登場するある方は、他の残った店舗から機材や資材を融通してもらったという。他にもさまざまな伝とネットワークをたどり、地道な努力を重ねれば活路は拓ける。
工場が被災した場合も同じだ。工場が浸水し、傾いて使えなくなった機械をいかにして復旧させるのか。経営者としてはまず従業員の生計を第一に考えなければならない。そこで、壊れた機械や備品の数々を同業者のネットワークを使い、全国から取り寄せる。その時は、SNSなど、今風の手段も使うが、根本にあるのは縁やネットワークの力だ。

情報技術を駆使し、新たな方法論を活用して果敢にチャレンジする地方創生。それもまた真っ当で、やるべきことだ。
だが、本書では既存の方法論も依然として有効であると説く。特に復興においては。
もちろん、どちらが良いと決めることはない。両方を状況に合わせて使い分けるのが望ましいのだろう。

私は情報技術で生計を立てている。そのため、私の立場としては、情報技術を活用した仕組を大いに推進したい。
だが、データだけでは現実の復興が覚束ないのも事実だ。物を使い、人が動かす。そうした目に見える形の取り組みはまだまだ必要だ。その観点からは、従来の方法論の有効性を強調する本書の論調には賛成する。

また、被災地の場合、そもそもの生活基盤が破壊されている。従来の地域創生とは前提が違うのだ。
しばしばケースに取り上げられる地方創生の場合、徐々に地域の活力が先細りしてゆく。だが、天災は地域の活力を一気に失わせる。
そのため、まず急務とすべきは生活基盤の迅速な復旧と仕事の創出なのだ。

東日本大震災で大きな被害を受けたのは、岩手・宮城・福島・茨城などだ。そのため本書が焦点に当てるのは、それらの地域だ。

まず、岩手県大槌町が取り上げられる。
大槌町役場は浸水し、町長もお亡くなりになった。私のような被災者でない者にも、大槌町が受けた被害の痛ましさは印象に残っている。津波の猛威を最も悲惨な形で被ったのが大槌町だ。
街の多くの産業がどのような被害を受けたのか。全てが更地になった街をいかにして復興させるか。著者は克明に記してゆく。
大槌町でも高台にあった家や会社は無事で、低地にあった建物は全て波にさらわれたという。
低地にあった店舗や工場は、もはや同じ場所での再建が難しい。そのため、違う土地に移るしかなかった。だが、高台にあった工場は平常通りの操業に復すことができた。

生活の基盤を失った住民たちに対して、仕事や生活をすみやかに復旧させる。
高台にあった工場の場合、代わりとなる備品や設備の調達をすみやかに実施し、同業者ネットワークから仕事を回してもらう。そうした多様な取り組みが紹介される。

続いて福島県楢葉町。
ここは、東日本大震災の被害のシンボルとなった福島第一原子力発電所に近い。事故直後、全町民に緊急避難指令が出され、街は放置された。住民が課されたのは過酷な試練だ。
そもそも住民は元の場所に戻ることすら不可能。そのため、生活を再建するには別の場所に活路を求めるしかない。福島県の他の市町村や他の都道府県に新たな暮らしの場を求める。
楢葉町役場は役場ごと、福島県の二本松市に移った。楢葉町の人々も、二本松市を中心に生活を再建していく。その様子が描かれる。
他にも、長く続いた日本酒の醸造蔵が山形県米沢市に移転し、再び醸造を開始する様子も描かれる。
楢葉町の人々が故郷の家に戻る日はいつか。誰にも分からない。故郷を失った人々は郷愁を引きずりつつも、新天地で生活を再建していかなければならない。従来の地域創生とは違うのだ。

続いて茨城県の日立市だ。
日立は顕著な津波の被害を受けなかった。また、近隣にある原発にも被害はなかった。とはいえ、日立市も地震の揺れによって相応の被害を受けたそうだ。
そうした被害からの復興がどうなされたのか。その取り組みが描かれる。

最終章で著者は、これからの地域創生のあり方に触れる。
もちろん、著者は情報技術を駆使した取り組みや、若者を軸にした組織を構築する大切さも理解している。
その上で、著者はそれだけでない、従来のやり方の有効性も忘れてはならないという。
そもそもなぜ著者は地域創生の場として、被災地を選んだのか。それが明かされるのが次の一文だ。

現在、「世界で最も熱い『現場』」は東日本大震災の被災地なのです。そこに身を置き、暮らしとは何か、生きるとは何か、地域とは何かを考え、自らの進むべき道を見定め、そこに向かっていくことです。(157p)

この文には著者の思いが詰まっている。復興とは理論やノウハウだけではない。泥臭い取り組みも必要で、リアルの手触りも必要。目に見える現実を忘れてはならない。それを最も分かりやすく実感できるのが被災地の復興だといいたいのだろう。
情報技術を駆使し、若い感性が主導して復興に取り組むのもいい。だが、血の通った熱も地域創生には必要と訴えたいのだろう。

まずは現場に行け。これはどの地域創生プランナーも強調するはずだ。
それを実感するにはまず被災地。といいながら、私はまだ十年の間に一度も宮城や岩手を訪れられていない。原子力発電所事故による居住制限地域も。
まず、私はそれらの場所に行かねばならないと思っている。

‘2019/10/22-2019/10/23


丹下健三 一本の鉛筆から


石井光太氏の『原爆 広島を復興させた人びと』を読んでから、本書の著者である丹下健三氏と建築家に興味を持ち、建築家が著した本、建築物を紹介する本などを読んできた。

『原爆 広島を復興させた人びと』は、広島の戦後復興を、原爆ドームと平和公園と広島平和記念資料館の建設過程とからめて描いていた。
その中では、著者が平和記念公園の都市設計を手掛けるようになった背景にも触れている。

昭和20年8月6日。
今治の実家の父が死すとの電報を受け取った著者が乗った列車が、突然尾道で止まってしまう。それは広島に新型爆弾が落とされたからだった。
ようやく故郷の今治にたどり着いた著者は、父が既に8/2に亡くなっていたことと、8/6の今治空襲によって母も世を去っていた事実を知る。
戦争が母を奪い、そして原爆が旧制高校時代に著者が学んだ広島を破壊した衝撃。
その衝撃が著者を広島平和公園の都市設計に駆り立てたことは容易に理解できる。
『原爆 広島を復興させた人びと』で紹介された8/6の著者の体験は、本書から引用されていた。

それ以来、一度は本書を読まねばと思っていた。

本書の表紙には著者の晩年の顔写真が掲載されている。とても福々しい容貌だ。上方の落語家、桂米朝師匠に似ている。
失礼ではあるが、建築家には思えない。ましてや世界のタンゲというキーワードは浮かんでこない。
だが、著者の名声は世界中に知れ渡っている。広島以外にも日本や世界のあちこちにシンボリックな建築物の設計を手掛けた実績。

本書の内容は、広島平和公園を手掛ける前半部までは自伝的な要素が強い。だが、それ以降は華麗なる世界の名士にふさわしい遍歴が続く。
某国の王室、某国の政府、さる国の首都の都市計画。会う人、会う人物が各国の首長であり、大統領である。もらう勲章、爵位、勲位。キリがない。とにかく華麗。とにかく豪華。功名を遂げた者にしか許されない高み。本書の後半は私ですら、鼻につくほどの栄誉の連続だ。
表紙に載せられた著者の福々しい風貌が中和していなかったら、本書の余韻は後半の印象に引きずられて悪くなっていたに違いない。

だが、本書は自分の経歴を誇らしげに語っているだけと見なしてよいのだろうか。そんな疑問も湧く。

本書で著者は、自らの活動を振り返っている。
他の本やWikipediaでも触れられていたが、著者は普段、そうした自分の経歴や業績をあまり語らなかったそうだ。Wikipediaの著者の項目にも、過去の業績に対して無頓着だったと書かれている。
それらを信じるならば、著者は普段、自らの実績や自らを誇るようなことは語らないし書かなかったようだ。つまり、本書は、一生に一度のつもりで、普段は振り返らなかった自らを詰め込んだのだろう。

著者をかばうわけではないが、著者がやり遂げたことのレベルは高すぎる。だからこそ、ありのままの姿を書いてもそれが自慢に感じられてしまうのだろう。
ましてや本書は日経新聞に連載された「私の履歴書」が元になっているという。ということは、限られた紙面しか与えられておらず、エッセンスを詰め込んだ。
それが後半の業績や華麗なる交流となって現れているのではないだろうか。

本書には、著者が設計を主導した建築物の写真や完成予想模型が豊富に載せられている。著書はそれらの建物にも言及している。その数たるや膨大。
その多くに私は足を踏み入れている。広島平和記念資料館。フジテレビ本社。代々木体育館。東京都庁。東京ドームホテル。兵庫県立人と自然の博物館。大阪万博お祭り広場。大津プリンスホテル。横浜美術館。
それぞれの建物の外観がすぐに思い出せる。それだけ著者の手掛けた作品が独創的であり印象に残ったのだろう。

建築の分野に限らず、名声を浴びる人は間違いなく何かを表現し、それを発表している。
著者の場合、表現の対象が建築物である。そのため、著者の実績も目立ち、長きにわたって人の目に触れている。批評にさらされ続けながら。

著者は本書の中で自らの建築家としての哲学や仕事のやり方にも触れている。
何度も一位を獲得した各種の設計コンペティションに臨むにあたり、泊まり込みも辞さなかったこと。何人ものチームで徹底的に議論し、少しでもよい提案を行うべく議論したこと。

著者の業績は、そのような不断の努力に裏打ちされていることはいうまでもない。もちろん、私が付け足すこともない。
では、そのような実績と栄誉が書き連ねられた本書から、読者は何を読み取ればよいのだろうか。

私は本書から三つの学びを読み取った。

一つ目は、著者が建築家を志したきっかけだろう。
星が好きで数学を得意とする少年が、多感な時期に芸術に心を動かされたこと。
文系に志望を変えようとしたが、建築は理系の頭脳を生かしながら芸術も表現できると思い至り、志望を建築に変えたこと。
そこからは、文系や理系といった枠にこだわらず、より広い視野で物事に取り組むことの大切さが学べる。

二つ目は、冒頭に書いた通り、父母の死去が原爆投下に重なった悲劇だ。それを著者は創造へのエネルギーに昇華させた。
そのエネルギーは、著者の広島への思いとあいまって平和記念公園の設計への熱意と変わった。

私たちは毎日の暮らしから、著者が体験し、昇華させたような体験をどこに見いだすべきだろうか。そして、その体験をどうとらえ、どのように自らの創造の力に変えればよいのだろうか。
それを見つけ出すのは私たちだ。

三つ目は、著者の仕事への姿勢だ。
本書が書かれたのは著者が70歳を超えた頃だと思う。が、まだ一日ぐらいの徹夜は平気と書かれている。本書の中では一ページほどしか割かれていないが、著者のバイタリティと集中力は、私たちも見習わなければなるまい。

本書に書かれた華麗な交流や栄誉や実績に目を奪われ、こうした著者の努力を見逃してはならない。

本書には、『私の履歴書』の連載に加えて、著者によるこれからの建築論が披歴されている。
著者はその中で、情報技術が進化する将来にあって、建築はどうあるべきかを述べている。建築物それ自体の機能ではなく、建築と建築をつなぐ空間の大切さ。その空間を情報が流れるための媒体として生かすべきだと。
技術が進歩し、建物の機能は充実してきた。だからこそ、建物に利用者や設計者の感情や美を含めるべきだし、そうした感情の情報が流れることを考え、空間設計をしなければならないと主張している。

本書には著者が手掛けた「東京計画――1960」も紹介されている。
「東京計画――1960」とは、川崎と木更津を太い線で結び、その線上に首都機能を配置する構想だ。
周知のとおり現代ではこの構想はアクアラインとして実現している。だが、海ほたるをのぞけばアクアラインの現状はただの連絡道路にすぎない。
また、著者が構想した時期に比べると、首都圏の集中の弊害ははるかに深刻になっている。地震や富士山噴火のリスクも無視できない。

今こそ、東京の都市計画が求められている。
著者のような人物が、遷都を含めた東京のマスタープランを構築しなければならない。
もちろん、そのためには、私たちも努力しなければならない。
著者の受けた無数の名誉や栄誉に嫉妬しているだけではだめなのだ。

‘2019/10/21-2019/10/21


パル判事-インド・ナショナルリズムと東京裁判


靖国神社。
わが国の戦死者の多くを英霊として祀る神社としてあまりにも著名だ。
神社の境内の一角には遊就館と名付けられた建物が設えられている。わが国の礎となって命を散らした戦死者を顕彰する施設である。

遊就館の脇には、いくつもの顕彰碑が建てられている。
その中の一つが、本社で取り上げられているパル判事を顕彰する碑だ。私も首を垂れたことがあるが、立派なものだ。
私は同じ顕彰碑を京都の霊山護国神社の境内でも見かけた。
二つの場所に共通しているのは、日本のために命を捧げた英霊を祀った神社であること。

極東国際軍事裁判において判事に任命されたパル氏は、被告となったすべての戦犯を無罪とする意見書を出したことで知られている。極東国際軍事裁判とは、第二次世界大戦の後、連合国が枢軸国の一員だった日本に対して戦争犯罪を告発し、求刑した裁判を示す。

普通、そうした裁判は勝者が敗者を一方的に裁く。
ところがパル判事の意見書では、戦勝国側の判事の立場でありながら、敗戦国である日本の犯した戦争犯罪の罪をなかったものとした。
平和に関する罪、人道に関する罪とは事後法であり、裁判の開始前に行われた日本の戦争犯罪には適用されないこと。罪刑法定主義の立場からも、戦争犯罪があらかじめ決められた罪刑ではないことなど。
法学の専門家の立場から日本の戦争犯罪がそもそも成立しないという解釈は、日本の多くが否定された極東国際軍事裁判において異質だった。

その異質さは、戦前の日本を良しとする立場からは歓迎されるはず。
だからこそ、靖国神社や遊就館のような極東国際軍事裁判と対立する施設において、パル判事の顕彰碑が建てられているのだ。
私はパル判事についてはいくつかの書物や小林よしのり氏の本で知っていた。

ただ、そうした顕彰碑の存在は、かえって私を身構えさせる。それを鵜呑みにしてはならじ、という戒めとともに。
本書を図書館で見かけ、パル判事のことを知る良い機会だと思い手に取ってみた。

顕彰碑だけを見ていると、パル判事の経歴や人格、そして東京国際軍事裁判の判事としての立場には一点の曇りもないと思える。完全無欠な人物で、なおかつ日本の立場を裁く人物からのお墨付き。
著者は冷静な立場からそうした見方に釘をさすような指摘を行う。

常に思うことだが、こうした歴史問題にはイデオロギーの存在がつきものだ。
イデオロギーの罠から逃れるには、資料を一つだけ読んでそれを盲信するのではなく多角的に見る必要がある。
本書はどちらかといえば、パル判事を賛美する従来の立場からは距離を置いている。そして、パル判事の認識や判断にそもそもの誤りがあったことをいくつも指摘している。
パル判事を本書のような視点で分析し、批判的に描いた書物を読んでおくのは良いと思う。

著者は法学の専門家でもなければ、日本史の専門家でもない。著者はインドの、中でもベンガルの歴史を主に専攻した方だという。
その立場からパル判事の生い立ちや経歴を綿密に調査する。どういう形でパル判事が東京国際軍事裁判の判事に選ばれ、どういう思想から日本の戦争犯罪が成立しないという判断に至ったのか。それを著者は分析していく。

まず本書は、パル判事の生まれた実家の当時の状況と、その当時のベンガル地方の歴史について触れる。
インドといえばカースト制が有名だ。カースト制が今なお幅を利かせるインドでカルカッタ大学の副学長にまで登り詰めたパル判事はどういうカーストの下に生まれたのか。
ラダ・ビノード・パル判事が生まれた一族は、陶器をこね、それを商う陶工をなりわいとしていたようだ。陶工とはいえ商売の手を広げ、商業カーストとして中級の地位にいたそうだ。

そこからパル判事は懸命な努力も行っただろうし、周りに引き立てられた運もあって、学徒として学ぶことに集中できた。まず数学を修め、ついて成績が優秀だったので法学の分野に進んだ。
そうした記述からは、パル判事が持って生まれた素質や向学心が一流のものだったことが理解できる。

次いで著者は、一介の法学士としてパル判事がたどった道のりや、カルカッタ大学の副学長に推挙されたいきさつを分析していく。副学長とは、学長が名誉職だとすれば現場の最高責任者ともみなせるだろう。
だが、著者の調べによると、就任までのいきさつにはやはり一悶着があったという。

だが、ここまでの経歴に関しては、パル判事が提出した意見書にはそれほど関係がない。
ここで著者が指摘するのは、極東国際軍事裁判においてパル判事が提出した意見書には、パル判事が持つ政治的な意図があったことだ。
その意図には、法学の立場を逸脱する要因があったという。
その要因とはインドがイギリスの植民地であった歴史だ。インドが植民地にされていた事実について、パル判事が植民地政策に対する怒りを持っていたということも。

つまり極東国際軍事裁判とは、パル判事の目にはこう映っていた。西洋の勝者が極東の敗者を一方的に裁く、不公平な裁判だと。
その考えは私たちも戦後ずっと抱き続けている。そもそも東京裁判とは何だったのかという問いとして、いまだにしこりを残し続けている。歴史修正主義者であろうとなかろうと。
遊就館や霊山護国神社が、太平洋戦争で日本の事績にも良い点はあったとする施設であることを考えると、パル判事を顕彰するのも当たり前のことだ。

著者は、極東国際軍事裁判でのパル判事の行動にも疑問はあると説く。就任早々に公判を欠席し、いったんカルカッタに帰ったこと。判事の辞任を申し出ていること。
また、着任早々に意見書によって自身の立場を明確にし、早くも極東国際軍事裁判のあり方そのものに一石を投じている。

著者とて、極東国際軍事裁判が全く汚れのない完全な裁判とは考えてはいない。
だが、著者の立場は、極東国際軍事裁判の結果が、そ後の人類の平和にいくばくか貢献するというものだ。
勝者が敗者を一方的に裁くだけでなく、どこかで人類の平和に貢献しているのであれば、裁判にも一定の評価を与えるべきとの立場だ。
その立場が影響しているのか、本書では東京でのパル判事の振る舞いには批判的な描写が多い。

また、最終章として著者は、なぜ。パル判事が戦後のわが国で顕彰されたのか。日本でパル神話と呼ぶべき現象が形成されていったのは、どの人物のどのような意図によるものかということを詳しく描いていく。そこにはやはり戦犯の罪を免じ、戦前の日本に対する復権を1とする一団の存在があった。旧軍人であったり、旧国粋主義者であったりといった人物がパル判事の顕彰を推進したようだ。具体的には平凡社社主の下中氏などが。

本書を読んでなお、私にはパル判事への感謝の念は残っている。
それは、一方的になってしまう裁判に別の見方を示し、それを後世に残してくれたことだ。
その一方で無条件にパル判事を賛美する風潮には背を向けたいと思う。

私は、極東国際軍事裁判を以下の通りにとらえている。
A級戦犯の判決にも、外交官の広田首相の絞首刑だけはどうかと思うが、おおかたの部分では賛成だ。
その一方で、極東国際軍事裁判が勝者による敗者への判決に過ぎない、との主張にも賛成する。結局、日本は負けたことのみにおいて罰せられたのだと思っている。

さらに、共同謀議の問題について、私はなかったと思っている。また、特定の人物が主導した戦争でないとも思っている。
だが、確固たる見込みもないままわが国を戦争に突入させ、破滅へ導いた責任は重いと思う。A級戦犯として裁かれたのも致し方ないと思っている。

つまり、極東国際軍事裁判とは、判決で終わりなのではない。
その裁判自体の正当性も含め、日本人がなぜ戦争に突き進んでしまったのか、戦時中の高揚する精神のあり方も含め、考え続けいかなければならない。
その意味でも、パル判事の示した立場は裁判を考える格好の機会になるはずだ。

‘2019/10/20-2019/10/21


マウンドドレイゴ卿/パーティの前に


私が好きな欧米の作家は何人もいる。著者もその一人だ。
「人間の絆」「月と六ペンス」「お菓子と麦酒」は読んだ。おそらく今、新潮文庫で読める作品は読破したのではないか。

だが、本書は光文社文庫から出されている。著作権が切れたからだろうか。おかげで私の読んでいない作品が読めた。ありがたいことだ。

私の好きな英語圏の作家は、ミステリやSF系の作家が多い。だが、著者はミステリやSFのエンターテインメント作家ではない。
さりとて、純文学の分野の作家とくくるのも違うように思う。

著者の短編が魅力を備えている理由は何だろうか。
それはおそらく、著者がきっちりと物語を締めるからではないだろうか。ある種の純文学にあるように読者をあいまいさの中に置き去りにせず、韜晦させたり、迷わせたりしないこと。
本書に収められているような短編のどれもが、起承転結をしっかりと備えている。
だから、物語がきっちりと読者に届く。大衆作家という言い方は好きではないが、著者がそうしたラベリングをされるのもわかる気がする。
かのスティーブン・キングも、著者の愛読者だそうだ。実際、著者の作品を幾度となく小説の中に登場させている。
おそらく、当代でも有数のホラーの大家であり、ストーリーテラーの巨匠も著者の作品から学んだことは多々あるに違いない。

本書に収められた六編は、どれもきっちりと結末がついている。そして、どれもが短編としての結構を備えている。

「ジェイン」

老年に差し掛かったジェイン。彼女は年若い男性から想いを寄せられ結婚する。その夫はいったいジェインのどこに惹かれたのだろう。
語り手とタワー夫人は、その男性が一時だけ気の迷いを見せたのだろうと見限る。そして、どうせ結婚生活も長くは続かないとたかをくくる。
ところが、夫のコーディネートによって不可解な魅力を身につけたジェインは、社交界の名士となる。そして当代きっての人気者となる。

ジェインの変化を疑問に思う語り手とタワー夫人。ところが、ジェインの振る舞いは二人の予想をさらに覆してゆく、というストーリーだ。
本書が出版されたのが1920年代のイギリスであることから、当時の社交界の様子が想像できる。
ジェインのような女性が人気になる程に無味乾燥だったのだろうな、という著者の皮肉めいた考えもうかがえる一編だ。

「マウントドレイゴ卿」

押しが強く、威厳も備えていた若手政治家のマウントドレイゴ卿。彼が精神科医のオードリン博士の元を訪れる。
彼の悩みとは、夢で見た出来事が現実になること。その夢の中では必ず自分が大恥をかくことになっている。そして、その夢の中では政敵であるウェールズのグリフィス議員が必ず登場している。
卿は夢の意味がわからずに、気が狂いそうだという。
落ち着いた物腰と言葉によって治癒の実績を積み上げてきたオードリン博士は、精神科医としての知見からさまざまな治療を施す。だが、うまくいかない。

オードリン博士はこう考える。マウントドレイゴ卿がグリフィス議員の演説に対し、反論を許さないほどの論破をし、それによって政敵に対する無意識の罪悪感があるのではないかと。
だから夢の中で大恥をかいている。その状況を改めるにはグリフィス議員に謝りなさいと説く。そのようなオードリン博士の見立てに対し、そんなことは無理だと言い張るマウントドレイゴ卿。果たしてその結果は。
本編は、著者の持つ心理学の知見を生かし、見事な短編小説に仕立て上がっている。当時、こうした心理学に基づいたプロットは新鮮だったことだろう。

「パーティーの前に」

長女のミリセントの態度がこのところずっと奇妙だ。
八カ月前、夫のハロルドに先立たれ、ボルネオから1人で戻ってきてからずっと。
家族の皆が奇妙に思い、それはミリセントが味わった悲しみのせいだと遠慮している。
家族でそろって出かけようとするある日、それは起きた。ハロルドの私物を少しずつしまい、ハロルドの喪をやめたいと言葉を切り出したミリセント。そんな家族に家族が問いただす。

ミリセントの口から語られたボルネオで過ごしたハロルドとの日々。その内容に一同は衝撃を受ける。
体面と形式が支配していた当時のイギリス社会の世相が感じられるのではないか。
現代から考えるとそれほど問題にされないであろうこと。だが、本編が語られた当時には立派な理由となっていたのだろう。
ミステリの要素を濃厚にたたえた展開がお見事な一編だ。

「幸せな二人」

ミス・グレイの隣家に引っ越してきた若いクレイグ夫婦。
隣人としてのお付き合いをしたいと、何度もミス・グレイが昼食の誘いをかけ、ようやく実現した会食。
語り手である私とミス・グレイ、そしてランドン判事で会食の場に臨んだところ、会食のお誘いに消極的だったクレイグ夫妻の挙動が急におかしくなる様子が描かれた本編。

お隣の方とお茶を楽しむのが英国流。
そうと知っていても、ミス・グレイがここまでして隣人との会食を整えようとする熱意を目の当たりにすると、当時のイギリス文化を知悉していないと理解しにくい。
それがまた興味を惹かれる部分なのだが。

「雨」

かつて、この一編には強い印象を受けた。
あらためて読んでみると、当時とは違った味わいが感じられる。
それは、人の弱さだ。
デイヴィッドソン宣教師は、神の名の下に峻厳な人物として登場する。
だから、島の風紀を乱すミス・トンプソンに対する反応はきつい。

絶え間なくサモアの島に降る雨。閉ざされた環境の中、キリスト教のストイックな教えと規律を拒む享楽がぶつかる。
不況によって島々をあまねくキリスト教に教化しつつあるが、その謹厳な姿勢は、人にとって果たして自然なのかどうか。
本編は人の心のあり方や信仰について深く考えさせられる。

本書の他の作品は、当時のイギリスの文化を知っていないと理解しにくい部分もある。
だが、本編はそれを超えたところを描いている。だから通用する。やはり名編だ。

「掘り出しもの」

本編は、メイドとしてとにかく有能なプリチャードに尽きる。そんなプリチャードを雇うのはリチャード・ハレンジャー。
本編は、ラッキーなハレンジャーが最後まで幸せだったという話だ。
もちろん、本編には起伏のないままに終わりまで進むつまらない話ではない。そこは著者がストーリーテラーとしての腕を振るい、盛り上がりを用意している。

メイドという職業からは、いささか通俗な印象を受ける。これこそがイギリス文化の特質のはずなのに。
私が今の日本の尺度で見てしまっているからだろうか。

‘2019/10/18-2019/10/20


ぼくらは地方で幸せを見つける ソトコト流ローカル再生論


旅が好きな私にとって、自分の趣味と仕事をどう結び付けるか。これが私の生き方の指針となっているように思える。

仕事を趣味に無理やりくっつけることはしない。仕事だけに没頭し、趣味のない人間にもなりたくない。もちろん、趣味にうつつを抜かして仕事がおろそかになることもない。
趣味と仕事を両立させつつ、その趣味と仕事をどうやって社会貢献に結び付けられるか。

もちろん、こなしている仕事が対お客様の意味では社会貢献になっていることは確かだ。だが、それは狭い意味の社会貢献であり、あくまでも間接的なものだ。
直接的に、かつ広い範囲の社会に貢献していきたい。そのためには、一対多の関係を構築していかなければならない。
理想をいえば、私が趣味として楽しめるものが世間的には仕事としてみなされること。さらにそれで生計が成り立ること。

趣味を楽しみつつ、それをどうやって社会貢献として実践していくのか。私の今までの人生とは、その試行錯誤に費やしてきたと思っている。

ここ数年、地域創生に関する本を何冊か読んできた。

本書もそれらに連なる一冊だ。
著者は雑誌ソトコトの編集長だ。その人脈もあって、本書で取り上げられている人の数は多い。ソトコトの誌面に登場する人々や、取材の中で知り合った人など、著者の人脈の豊かさがうかがえる。

著者のような人こそ、趣味と仕事をうまく結び付け、なおかつそれが立派な社会貢献になっている人だと思う。
自分の培ってきた能力と人脈を生かした仕事。私が著者のような生き方をするためにはどうすればよいのか。それが本書を読み始めた理由だ。

地域創生といっても、私にできることは限られている。
私が提供できるスキルなど、システム提案や構築やプログラミング、さらにはライティングだけだろうと思っている。
木工や大工仕事は苦手だし、おそらく組織を束ねて臨機応変に指示できるタイプでもないと思っている。

そんな私がどうやって地域貢献を行うか。本書はそうしたヒントに満ちている。

自分にスキルがないから地域貢献や社会貢献を諦めてしまう人。そうした方はかなりの数、いらっしゃるのではないだろうか。こう書く私もその一人だった。
だが、スキルがないから無理と思い込むのは早計だと思う。では、どうすればよいのか。何になればいいのか。どう働きかければ、地域に貢献できる仕事につけるのか。

本書は全国の14の例を紹介している。
全国のあちこちで行われているさまざまな取り組み。本書はそれらを多彩な切り口で紹介している。
全国のあちこちで地域に根差した取り組みの様子を知ることもできる。

その前に著者は「ソトコト」についてふれる。
著者が編集者になってから「ソトコト」がどういう誌面に変わってきたか。ソトコトが今後、目指そうとしているのはどこか。

スローフードやロハスといった言葉を日本で広めた先駆者が「ソトコト」。だが、それらのキーワードは今やビジネスで利用され、人口に膾炙している。当初の新味が失われ、理想すら曖昧になった。
そこで著者はソーシャルを今後の「ソトコト」のキーワードとして掲げた。ソーシャルとはつまり、つながりだ。

今、世界の、日本の若者が苦しんでいる。人生をどうやって生きていくのか。そもそも自分は何のために生きているのか。それらがわからずさ迷っている。
「自分探し」という言葉は今や一定の市民権を得ている。
だが著者は提起する。若者が探しているのは自分ではなく居場所ではないのか、と。
確かにその通り。私も挫折と蹉跌の二十代前半を過ごしたから、著者のいうことがよくわかる。
若者が切実に求めているのは、自分が何かということではない。自分が社会のどこならば無理せず生きていけるのか。そして、その入り口が社会のどこにあるのか。若者が探し求めているのはそこだと思う。

若者にとっては生きていける場所が都会だろうが田舎だろうが僻地だろうが関係はない。自らが社会で生きていく足がかりがあればよいのだ。
ソーシャルな環境の中で居場所さえ見つかれば、そこから交流や人脈で生きる道は広がる。
つまり、地方創生とは居場所を作ることなのだ。

結局、なぜ地方が衰退しているのか。
それは若者が都会に出て行ってしまっているからだ。
なぜ若者は都会に出ていくのか。
それは働く場所を含めた居場所がないからだ。
なぜ働く場所がないのか。
地方の豊かな資源が忘れられているからだ。

日本のあちこちで地方を活性化させようと活動する人々は、ITよりもソーシャルの力を利用し、地方創生を実践しているように思う。
まず地域の資源を生かした産業を興し、そこに働く場所を作る。そして若者を呼び込む。
若者を呼び込むには、居場所も兼ねた場を作る。そして居場所の中で人間関係が迷子にならないように配慮する。

要するに、都会の生活が若者から奪ったものを提供すればいい。
都会では人間関係が希薄になり、居場所がない。居場所といえば、生活の糧を得るための仕事場のみ。そしてその居場所は新たな誰かによって簡単にとって変わられる。
それは、マニュアルが整備され、システムとは無縁に暮らせない社会の課題と言えようか。そのやるせなさが都会の若者を疲れさせる。

しかし、地方では効率が追及されていない。マニュアルもなく、分業もなされていない。
だから、そのコミュニティには仕事が豊富にある。人も少ないし、お互いの職務が定まっていないからだ。柔軟に人間関係が移り変わり、しかも居場所はすぐに見つかる。
その柔軟な関係をソーシャルと呼べばいい。

本書はそうした取り組みを豊富に紹介している。
アート集団。食のつなぎびと。街のなにげない日常の写真を毎日アップ。ヒッチハイク。移住促進。暮らし方提案。過疎地の価値の再発見。ローカルビジネス。DIY。鍛冶屋。空き家。着ぐるみ。地域素材。芋煮会。
そうしたさまざまなソーシャルの作り方が紹介されている。
そのやり方は千差万別であり、正解はない。誰もが手探りのままに進めている。
マイルストーンもゴールもノルマもない。手本や正解すらない。ただがむしゃらに。

著者はまず、内を向くことを推奨する。外にどう発信するかより、まず内なのだ、と。
外向けに発信することにこだわらず、まず、内を固める。それが地元の魅力の構築につながる、と言いたいのだろう。
そして、この内を固める行いこそが、仕事につながる。そして、その仕事が趣味とつながっていればなおいい。さらに、それが地方創生に貢献すれば言うことはない。
それが、私の望みでもある。

‘2019/10/13-2019/10/17


MONSOON


実は著者の作品を読むのは初めてかもしれない。
著者の広範なフィールドワークや知識や着眼点など、若い頃はかなり興味を持っていた。
ところが結局、著作は読まずに今まで来てしまっていた。

著者のような人の本を読むと、自らの視野の狭さに愕然とする。
常に視野は広く持ちたい。私も自らの器も広くあろうと努めているつもりだが、仕事の実務・雑務に携わるとそうはいかない。
目の前の文言について一つ一つのチェックを行い、内容や仕様の整合性などを検証している時、狭い範囲に意識が集中してしまう。集中しないとミスが生じるため、大枠への意識がおろそかになる。
長じてからあらゆる実務に手を染めるようになった私の視野は狭まる一方だ。
そんな今だからこそ、著者の本を読んでおいてよかったと思える。

もちろん、著者のスタンスが厳密な科学とは呼び難いことは知っている。
著者の人智を越えた領域に踏み込んだ考えが、学会の主流ではないことも。

とはいえ、著者のさまざまの分野にまたがった興味・関心の持ちようは、今でも通用すると思っている。
むしろ、著者のような興味の持ち方は参考にしたいと思う。
年齢を重ね、自分の認識や心の持ちようが硬くなりつつあることを知る今だからこそ。
行動力は衰え、柔軟さもかつてのようなしなやかさを失いつつある今だからこそ。
好奇心だけは持ち続けたい。好奇心だけが、自らの生命線だと思う。
自らの視野の狭さと伸びしろに気づかせてくれる著者のような人物の著作は読んでおきたい。

本書は友人が貸してくれた十数冊の中の一冊だ。
本書はエッセイで構成されている。
どのエッセイも著者が世界のあちこちで従事したフィールドワークの中で得た気づきに満ちている。

冒頭の「グリーンフラッシュを求めて」では、このような一文からはじまる。
「世界で真に神秘的なのは、見えるものであって、見えないものではない」(9p)
とはじまるこのエッセイ。
旅の本質をついている。
「最良の旅は空間のみならず時間をも超越する」(10p)
「必要なのは好奇心と大きく目を見開くことだけである」(13p)
私もまだまだ旅をして生きていきたい。このような言葉を胸に刻みながら。

続いての「モンスーンの吹く海」。著者はかつての体験を思い起こしながら、海の男たちがモンスーンの風に吹かれて自在に航海を行っていた姿の気高さを追憶する。
著者にとっては、モンスーンのような自然に身を任せ、自然を操る営みが魅力的に映ったのだろう。
今の快適な船旅に対する倦怠感で幕を閉じるあたりも、著者の考えが見て取れる。

続いての「魔性の島」は、セーシェル諸島のアルダブラを襲うサイクロンの猛威について語っている。
自然の力を前にした時の人間の無力さ。著者は謙虚さをわきまえている。
セーシェルとは日本人にとって果てしない楽園のイメージが強い。著者のこのようなエッセイを読むと、なおのこと、訪れたくもなる。

続いての「忘却の盃」は、インドネシアのテルナテ島にある陶磁器の店で出会った、由緒のありそうな古器の物語だ。
かつての大貿易時代に船であちこちから運ばれた由緒のある銘品。この話は、まさに東南アジアの歴史のうねりと大海原の広がりを感じさせて心が躍る。

続いての「旅は道づれ」は、旅につきものの細菌や病原菌、寄生虫に関する話だ。
土地ごとに土着の細菌が住み着いている。そこに数週間を過ごすと汗と垢で汚れた体がその土地の細菌になじむ下り。私はまだ未経験なので何ともいえないが。
そして、著者は自ら寄生虫を飲み込み、旅先の道づれとしたという。藤田紘一郎氏の講演でも同様の話を聞いたことがあるが、こうした方は同じような発想を抱くらしい。

続いての「ドラゴン・サファリ」はコモドオオトカゲについてのエッセイだ。
これもまた著者が体験したエピソード。
コモドオオトカゲの巨大な身体が、人類との共生を全うすることは可能なのだろうか。そんな問いかけで終わっている。

続いての「法王の漁師たち」は、クジラ漁に従事する漁師の話だ。
捕鯨に携わる漁師の間に脈々と受け継がれてきた文化。その粋が描かれている。
そういえば本編にはグリーンピースやシーシェパードといった単語は登場しない。
これらの激烈な活動で知られる反捕鯨団体は、著者の目にはどう映ったのであろうか。
動物行動学者にとって反捕鯨の意味とは。

続いての「レヴァイアサン」もまたクジラの話だ。
イギリスのテムズ川に迷い込んだクジラの話から、それをめぐってのイギリスのクジラへの考え方を紹介しておりとても興味深い。
本編によると著者はインド洋をクジラの保護区にする運動に携わったらしい。

続いての「アイリッシュ・シチューの味」は、アイルランドに住んでいる著者が、アイルランドに暮らすことのぬくもりや居心地について書いている。
著者はウィキペディアによると南アフリカの出身らしい。一体、生涯で何カ所に住んだのであろうか。

続いての「デス・ヴァレー体験」は、アメリカのカリフォルニア州の過酷な場所が描かれている。
著者はこの場所を別の惑星に例えている。それほどの過酷な地、というわけだ。
実際、Google Mapでこのあたりを眺めるだけでなにやら恐ろしい気にさせられる。禍々しい地名や平板な人の絶えた平原など、航空写真で見るとその荒涼ぶりがわかる。
一度は訪れてみたいものだ。

続いての「グリーン・ゴースト」はアマゾンに関する物語だ。アマゾンには森の精霊が住んでいる。
その神秘性は、山根一眞氏の『アマゾン入門』でも触れていた。
その神秘性は著者にとっては守るべきもののようだ。著者はあくまでも自然保護主義者なのだろう。

続いての「心のアフリカ」で著者は、人類の揺籃の地であるアフリカを礼賛している。著者は南アフリカ出身であり、アフリカの魅力について語る資格は持っているはずだ。
人類の文明の先取りをした地であり、本書が書かれた当時は荒れた情勢に振り回されたアフリカ。
それでもなお、アフリカには多くの可能性が眠っていることを著者は熱く説いている。
今のアフリカの発展をあの世から見て、著者は喜んでくれているだろうか。

続いての「グレート・リフト・ヴァレー」。これはいわゆるアフリカの大地溝帯のことだ。
今も分裂を続け、割れ目が広がりつつあるというこの地。
グレート・リフト・ヴァレーを著者はこのように語っている。
「わたしは、人類の歴史がこれほど豊かに蓄積され、いまだに過去との直接の接触をなまなましく感じさせるところをこの地上でほかに知らない」(165p)

続いての「ミッシング・リンク」は、人類の揺籃の地であるアフリカで、人類の進化の鍵を探す学者たちを描いた話だ。
著者はこの分野から学問に入ったそうだ。そのためか、愛情をこめてこの分野の人々を取り上げている。

最後に収められた「彼らとわたしたち」は、ブッシュマンの文化と私たちの近代文明を比較している。
本編で開陳された著者の考えは、著者の哲学の粋ともいえる。
人類が推し進めた文明が、極限まで仕事を効率化し、それがブッシュマンの文明では到底たどり着けない進歩を遂げさせたこと。著者はそのことを認める。
だが、ブッシュマンの文化の豊かさと奥深さにも敬意を表し、憧れを隠さない。もはや文明を巻き戻すことはできるはずもないし、著者もそれを望んではいない。
だが、今の文明がどこへ向かっているのかは、著者も想像できていないようだ。

本書が世に出てから、インターネットやAIが現実のものになっている今、著者は何を泉下で思っているのだろう。

‘2019/10/11-2019/10/13


村上海賊の娘 下


木津川砦をめぐる戦いにおいて、本願寺が門徒たちに示した旗。そこに書かれていたのが「極楽往生を遂げたければ、敵に背を見せるなかれ」。
その旗を見て逆上した”景”。
はるばる大坂本願寺まで信心の篤い信徒たちを送り届ける船旅の中で、漁民たちの一途な思いに触れ、今まで軽んじていた信仰心を見直した”景”。
なのに、その信心を利用し、使い捨てのように使う本願寺のやり方が許せない。

戦いの中で斃れた源爺の亡骸を担ぎ、本願寺の軍を指揮する下間頼龍の元に向かった”景”。そこで”景”は、源爺が確かに極楽浄土に行ったことを証明せよ、下間頼竜に迫る。
そんなことができるはずもなく、けんもほろろに扱われる”景”。
傷ついた”景”は、自らに好意を寄せてくれていたはずの眞鍋海賊の長、七五三兵衛にまでおもろないやつ、と見放されてしまう。

苛烈な戦国の世にあって、何よりも必要なこと。
それは御家を、一族とそれを支える人々を生き延びさせることにある。
一向宗の漁民たちを道具として扱う本願寺への”景”の憤りは、あくまでも私憤でしかない。つまり、小局だ。
己の感情に縛られ、大局を見ずに私憤だけで行動する”景”は、ようやく世の中の動かしがたい現実を知る。

人々の抱く信念と己のそれの決定的な違い。
それを突きつけられた”景”は傷心のまま、能島に戻る。戻ってきた娘を父の村上武吉は何も言わずにただ労わる。
父には最初からお見通しだったのだ。
だからこそ、ひたむきな気持で漁民たちを送るために飛び出していった景をあえて追わなかった。それが”景”に戦国の世の冷徹な現実を悟らせるなら、良い機会と見定めていた。
まさに娘には旅をさせよ、だ。

そんな村上武吉は、村上家を今後どうすべきか思考を巡らせていた。
そもそも、事の発端は、織田家に包囲され兵糧が乏しくなってきた大坂本願寺が毛利家に援助を乞うたことにある。
毛利家も単独では食料を輸送することは難しい立場。能島を本拠にする村上水軍に協力を依頼しなければどうにもならず、苦慮していた。

だが毛利家を支える小早川隆景は、北国の上杉謙信が立たぬ以上、本願寺だけで織田家に向かうのは勝ち目がないと判断していた。
その状態で毛利家が本願寺に援助を行うことは、織田家に敵対する意思を表明するのと同じ。
村上武吉はそんな毛利家の思惑を読み切っていた。だからこそ、時間を稼ぐために”景”の嫁ぎ先を毛利水軍の児玉就英にと条件を吹っ掛けたり、大山祇神社での連歌奉納に悠々と参加したりしていた。

そして、兵糧を積んだ船を大坂に向けて出帆させた後も、村上武吉は上杉謙信の出陣はないことを見切っていた。そして、途中で戦局を見守ったまま、いたずらに戦いを仕掛けず様子を見るように指示していた。
それはすなわち、兵糧攻めを受けている本願寺の人々を見殺しにすることに等しい。

能島に帰ってからというもの、すっかり人が変わり、おしとやかになっていた”景”。ところが、父から出帆した船が本願寺に行くことはない、と打ち明けられる。それに逆上した”景”は、単身大坂へと向かう。

大坂本願寺の人々からは、明石の浦から淡路の岩屋城へ続々と集まる軍船が見えている。淡輪にいる眞鍋水軍にも。
だが、いったん集結した船が動くことはない。いくら待てども。それらの船が動く気配はないことを知った人々に絶望の気運が高まる。

業を煮やした”景”は、単身で織田軍の味方である眞鍋水軍へ乗り込む。そして、兵糧を本願寺に運びたいから包囲を解くよう七五三兵衛に談判する。
だが、毛利軍と村上水軍の多数の軍船が控えている中でも、七五三兵衛は退かない。眞鍋水軍は村上水軍に受けて立つと吼える。
ここで引くことは、大局を見た場合には利があるのだろうが、それを行うことは海賊としての誇りが許さない、と。

交渉が決裂する。
上杉謙信の出陣の報も見込めず、万策が尽きた毛利水軍と村上水軍の連合軍は、再び本拠地へ向かって一戦も交えぬまま撤退する。

だが、”景”はその中の五十隻を率い、単身眞鍋水軍へ戦いを挑む。
大局に唯々諾々と従うのではなく、己が奉ずる信念のために。
そんな”景”を迎え撃つのは、大局よりも海賊としての己の本能に従った、七五三兵衛の率いる眞鍋水軍。
かくして歴史に残る第一次木津川口の戦いは始まった。

今まで私が読んできた多くの歴史小説でも海の上の戦いは初めだ。
著者も海戦に目をつけて本書の構想を練ったのだろう。だから熱の入り方が違う。
下巻の後半のほとんどは、この海戦の描写に費やされている。

最初は五十隻で挑んだため、多勢に無勢の不利があって追い詰められる”景”と村上水軍。
だが、その事実を”景”の弟、景親が大声で自陣に告げる。
村上水軍の軍紀として、女が海戦に参加してはならぬ。この掟は、実は村上水軍にとって鬼手とされる秘策だった。そのような掟に縛られていたからこそ、”景”は無頼を気取って好き放題に生きてきた。
だが、”景”の影に隠れ、弱弱しい弟だった景親が放った大声が、村上水軍の全軍に響きわたる。”景”が自ら鬼手である秘策を実行したのであれば、村上水軍に勝機は見えた。
そこで村上水軍の残りが明石の浦に再び現れ、大坂湾へと戻ってくる。

眞鍋水軍に傾きつつあった戦局は、村上水軍がそろったことで逆転する。そればかりか、村上水軍の秘策である焙烙弾によって壊滅的な被った眞鍋水軍は不利となる。

海賊としての誇りをかけて、それぞれの水軍の将が思うがままに暴れまわる。
ここに大局を見る、といったささいな心は捨てられ、ただ己の奉じる信念と戦いのために磨いてきた能力だけ。それが生き残りの武器となる。

“景”と七五三兵衛の因縁にもケリがつけられる。
己を指しておもろないやつ、と見限った相手に対し、再び価値を認めさせる戦い。
実に読み応えのある海戦のシーンが続く。

戦国の世を描いた物語は、大局を見据えた人物が最後は勝つのが定石だ。
だが、敗れた側が大局を見る目を持っていなかったのではなく、己の信念に殉じただけにすぎないのだろう。
七五三兵衛もそうなら、かろうじて勝利を収めた”景”もそう。

本書の末尾では、主要な登場人物のその後に触れている。が、”景”のその後の消息はわずかにしか伝わっていないと述べる。
“景”もまた、非情の戦国の世に翻弄され、己の信念を全うできずに歴史の中に消えていったのかもしれない。または、彼女なりに己の信念を貫いたのかもしれない。

大局と小局の対比。そのことを考えさせられた小説だった。
それこそ、海賊の言葉が標準語に近いことなどささいなことと思えるぐらいに。

‘2019/10/10-2019/10/10


村上海賊の娘 上


著者の本を読むのは「のぼうの城」「忍びの国」に続いて3冊目だ。
本屋の店頭で話題になっていた本書の記憶が残っていて、いずれ読むべき本として常に脳裏にあった。

瀬戸内海、特に村上水軍の伝説は、さまざまなご縁を通して興味を持っていた。
かつて、大久野島に単身で訪れたことがある。忠海から運搬船に乗って。その旅では尾道も訪れたように記録しています。坂の上から見下ろした狭い海峡が印象に残っている。
つい先年には、島田荘司氏の『星籠の海』を読んだ。その中で取り上げられていた村上水軍の残した秘密に興味を持った。さらにその後、福山でkintone Café広島にお招きいただいた際には鞆の浦を見学することもできた。
そうした経験の数々は、瀬戸内の島々の光景とあいまって、私に豊かな海のイメージを与えてくれた。

私は戦国時代の物語が好きだ。織田信長と大坂本願寺が戦ったことも知っている。
だが、その戦いに村上水軍も参戦していたことは、本書を読むまですっかり忘れていた。

私は村上水軍について十分な知識を持っていない。本書を読む時点でもまだ。
だが、本書は村上水軍についての知識を備えていなくても純粋に楽しめる。
というのも、本書の舞台は瀬戸内よりもむしろ大坂が主だからだ。

大坂、つまり大阪は、私が育った場所だ。つまり本書は、私にとって土地勘のある場所が舞台となっている。
これは私に本書を親しませてくれた。もちろん、当時の大坂の地形は今の大阪と随分違っている。

そもそも大坂本願寺は上町台地に飛び出た岬の突端にあり、今とはレベルが違うほど、天険の地だったこと。また、大坂湾の沿岸には堺の町を除いて目立つ建物がなかったこと。そのため、例えば村上水軍が明石の浦を超えた途端、大坂湾や大坂本願寺の様子が一望に見えること。逆に本願寺からは明石の浦に展開する村上水軍が見えること。今の大阪湾の距離感覚で考えると遠く思えるが、当時は近くに感じられたことは覚えておきたい。

ところが、いくら当時の距離感が今の感覚とはかけ離れていたとしても、軍船すら未発達だった戦国時代において、船の数の違いがどれほどだったかはわかりにくい。また、海賊の重んじる価値や、陸と海の間で違う軍の兵士のあり方など、今の私たちにとって理解しにくいことも多い。

正直に言えば、本書にはそこまで海賊の内面は描かれていないと思う。
そもそも海賊である以上、あらくれ者の集まり。やりとりされる言葉も現代の広島弁の原型より、さらにわかりにくかったはずだ。
ところが、本書に出てくる村上水軍の登場人物が操っている言葉は標準語に近い。いくら交易のため各地の言葉に通じていただろうとはいえ、ささいなことではあっても無視出来ない違和感となって最後まで残る。
大阪の海賊たちが達者な大阪弁を操っていただけに、喋られるべき言葉が期待と違うのは残念だ。
本書について海賊のことが描かれていたかと問われる前に言葉が、と言うしかない。

本書はそうしたささいな点を除けば、読むべき内容も多い。特に、大局を見通す目の大切さだ。戦国の殺伐とした世にあって、その能力がより重んじられていたこと。大局を見通す目の大切さを著者は本書の随所に挟む。
大事の前の小事にはこだわらない。それは本書の全体を通して感じることだ。

本書の主人公”景”は、海賊の心意気を存分に持っている。野放図ななりをする粗野な醜女として、近隣に名を轟かせていた。村上水軍の長、村上武吉の娘として。
本書のタイトル通り、村上水軍で育った強さを持ちながら、まだ世間を知るには経験が足りない。そして未熟な行いをする。

“景”に比べて父の村上武吉や毛利家を支える小早川隆景の大局を見通す目。
大坂本願寺で信長に歯向かい続ける顕如のこだわりが時代の大局とは逆を行っていること。大坂本願寺を中心とした一連の攻防の中で木津川砦や天王寺砦をめぐる小競り合いも、しょせんは大局の前の小局にすぎない。

大局を見るとは、身の回りのことを気にしない、ということとは逆だ。
気にしない、のではなく身の回りのことにこだわらない。そして、本当に必要なものに向かってゆくことなのだと思う。

だが、実際に人が現実を前にした時、局面の大小など気にする余裕もないのも事実。
例えば本書に出てくるような木津川砦の戦いに参加したら、周りの兵たちと同じ動きをしなければならない。一人だけ違う動きをしたら、たちまち仕留められ、命を失うのが落ちだ。
つまり、自らがそれぞれの局面でそれぞれの適性を見極めた上で適した振る舞いをする。その繰り返しによって大局観は養われてゆく。
修羅場が続いても命を存えさせる。ということはすなわち、その場ごとに適した振る舞いをし続けたことになる。ということは、自然と周りからも大局観の持ち主と認められる。

もちろん、ただ生き延びるだけでなく経験も必要だ。だから”景”が向こう見ずに飛び込んでゆくのは決して間違ったことではない。
経験を積まねば、適した振る舞いをしようとしてもやりようがないのだから。

上巻では”景”は大坂本願寺のために駆けつけようとする一向宗の漁民を連れてゆく。そして、本願寺へと送り届ける。
そこで目撃した戦いの血腥さや、陸戦ならではの戦い方。それは”景”に自らの未熟さをつきつけ、経験をつけさせる。

また、大坂の南の方にある淡輪辺りを根城にする眞鍋海賊が”景”の容貌を褒めそやす。そして、実際にその頭目である七五三兵衛から想いをかけられる。その経験は、自らの容貌が劣り、女子に似つかわしくないと言われ続けた”景”に価値観の違いを感じさせる。

‘2019/10/9-2019/10/10


君の働き方に未来はあるか? 労働法の限界と、これからの雇用社会


個人事業主として9年、法人を設立して5年。常に働き方については意識してきたつもりだ。

意識するだけでなく、毎朝夕をラッシュにもまれる消耗に耐え切れず、そこから逃れるためにもがいてきた。それが実を結んだのか、ここ二年ほどは通勤から逃れられている。

そして今、弊社で人を雇い始めた。
その二年以上前から、パートナー企業に仕事を発注している。技術者さんに仕事を依頼する度に、どのように働いてもらうのがいいのか考えてきた。
私にとって、働き方とは自分が働く環境としても、働いてもらう環境としても重要な事柄だ。
これからも私は働き方について考え続けてゆくことだろう。

そもそも労働とは何か。
それは生きるためについて回るものだ。漁民が魚を捕らえ、農民が田畑でクワを振るい、狩猟民が野山を駆け回る。食べ物を得るため、人は働く。
労働の原点とは、生きるための営みだ。そう考えるにつけ、現代のように都市に集って仕事をするあり方が唯一の労働のあり方とはとても思えなくなってきた。
実際、労働の歴史を振り返ると、今のような労働の形は英国の産業革命期に誕生したようだ。
つまり、現代の労働の姿とは、たかだか二、三百年の歴史しか持っていないのだ。

産業革命は、資本主義の勃興とともに、雇用関係が発生してようやく成立した。
以来、二、三百年、産業革命で成立した働き方が当たり前と思われている。もしくは、そう思わされてきた。
私も以前は働くとはどこかの組織に属し、そこに通うのが当たり前だと考えていた。

だが、今こうやって独立して仕事をしていると、朝夕のラッシュが当たり前と思わない。また、決まった場所に毎日通うことが、労働の必須条件とも思わない。

もちろん、独りで仕事が成し遂げられるはずがないのは当たり前だ。
顧客から仕事を受注し、作業して納品し、対価をもらう。つまり、顧客がいてこそ初めて対価が発生し、それで生計が立てられる。また、仕事の種類によっては一人では難しいため、共同で作業することも必要だ。
その意味では、独立しようが雇われていようが、仕事の本質は同じだと思っている。

その観点からすると、私もしょせんは資本主義を動かす労働力の一つでしかない。
これは、私一人がどうこうできる問題ではない。どうしても資本主義を動かす労働力の一つになるのが嫌なら、家族を捨て、山奥で自給自足の生活に乗り出さなければ。

となると、本書のような本を読んで、働き方の本質について考える必要がある。
本書を読んだ一カ月後、鎌倉商工会議所で働き方について登壇する機会があった。
そうした機会をいただく度に、働き方を一つだけに限定せず、もっと多様な働き方について考えなければ、と思う。

本書は、雇用のあり方について本質に踏み込み、かつ実践できる話が展開されている。
著者は神戸大学で労働法を教える教授であり、本来ならば法を掲げる立場にある。
だが、本書では法よりも前に、まず人としてどうあるべきかという教えを強調されている。つまり、教条主義でもなく、人間主義を掲げていることが特徴だ。
もちろん、雇用には束縛といった悪い面だけでなく、生活を保障する良い面もある。本書はそのことにも触れている。
つまり、本書は雇用から脱出して、安易に独立や脱サラを説く本ではない。そのことは強調しておきたい。

本書は以下の八章からなっている。
第1章 雇用の本質
第二章 正社員の解体
第三章 ブラック企業への真の対策
第四章 これからの労働法
第五章 イタリア的な働き方の本質
第六章 プロとして働くとは?
第七章 IT社会における労働
終章 パターナリズムを越えて

そもそも、雇用には非正社員と正社員がある。さらに正社員の中でも名目だけの正社員が存在するという。
そうした名目だけの正社員は、企業にとって使い捨ての正社員でしかない。そして、ブラック企業はこうした正社員を正社員の名のもとに酷使する。かつて私が痛い目をみたように。(私の場合は試用期間で首になったが)。
著者は、ブラック企業に巻き込まれたらすぐに逃げ出すこと。そしてブラック企業に入ってしまう前にしっかりその企業を調べておくことを勧める。全くその通りだと思う。

また、今の日本の経済状況では、企業が正社員を以前のように保持し続けることは難しい。
だからこそ非正社員が増えており、正社員であっても束縛される代償に得られるはずの生活の保障が次第に厳しくなっているのが実情だ。
そうした時流を読まずに正社員の座に甘んじていると、ある日突然、リストラに巻き込まれ、そして途方に暮れる。

今の労働法はわが国が高度経済成長を遂げた時期に整備されている。つまり、終身雇用を前提に作られている。
だから、正社員が飽和するこれからの時代には労働法だけに頼っていてはならない、と著者はいう。労働法の研究者が自分の研究対象を突き放したように語るあたりが、本書の読み応えだ。

本書でとても勉強になったのは、イタリアの働き方を紹介する第五章だ。
イタリアといえば、私たちにとってはラテン気質で享楽的な人々のイメージがある。正直、仕事人のイメージは薄い。
実際、欧州で経済危機がささやかれる際、その火種はギリシャ・イタリア・スペインなどのラテン系諸国だ。
だが、実はイタリアの経済規模は欧州で四番目に位置するという。それでいながら、イタリアのサービスのスタイルは個人主義で、従業員は一切サービス残業をしないという。

それでいて、なぜイタリアの経済が強いのか。それを著者は以下のように分析する。
まず、労働組合が企業別ではなく業種別に分かれているため、転職がしやすいこと。
また、年功序列で給与が上がるのではなく、職能別になっている。そのため、個々人がその職種でプロフェッショナルにならなければ給与が上がらない。だから、人々はその職業に熟達してゆく。
そして、余計な雑務は一切しないため、サービス残業もない。つまり生産性がとても高い。

著者は、わが国ではイタリアのように業種別の労働組合ができることはないだろうと予想する。だが、イタリア人のようにその職種でプロフェッショナルになる道を勧める。
結局、プロになることで、企業にとって欠かせない人材になれる。すると、就業規則や給与テーブルの枠など関係のない優遇契約も勝ち取れる。
もちろん、そうしたプロフェッショナルは正社員が減っていくであろう未来においても企業が手放さない。そして、人員整理の波にすり減らされることもない、と説く。

情報機器を使った仕事は、今後どんどん増えていくだろう。そして、一部の仕事は間違いなく情報技術の進展によって取って代わられるはず。
その際、不要な人材として切り捨てられるか、それともプロフェッショナルとして残るか。
わが国のかつての企業において、OJTの名のもとに、まんべんなく当たり障りもなく、さまざまな現場と職種の経験を積ませる。そうしたキャリアを積んできただけの人は使い道がない。そんな時代が来ている。

「正社員になれば安泰という考え方は、人生80年時代の4分の3を占める部分をどう過ごすかということを考えていくときの戦略としては、もはや危険きわまりないものです。」(235P)
まとめを兼ねた最終章で、著者はこのように述べている。まさにこの言葉こそ至言だ。
本書を通して訴えている論点も、組織に頼るのではなく自分の身は自分で守らなければ、ということに尽きる。

‘2019/10/6-2019/10/9


光待つ場所へ


著者の作品を読むのは本書が初めてだ。
だが、著者の名前は今までもよく目にしていた。

何の予備知識もないままに読んだ本書だが、まず文体に惹かれた。
その理由は、頻繁に改行を繰り返す著者の文体のスタイルが、私とは違っていたからだ。

私には文体の癖がある。パラグラフごとに複数の文を連ねて書く。
その一方で、一文ごとはそう長くならないように、数年前に変えた。
だが、私の文でもまだ長いのだろう。短い文であっても複数の文がまとまっていれば、読者にとっては重く感じられるのかも仕方がない。

著者の文体は改行が一文ごとに行われる。それがテンポを生んでいるように思える。
私も著者のテンポのある文体をまねしてみようと思った。

そのような文体から書き連ねられる物語。
本書は三つの物語からなっている。
どの主人公も、自己の意識が強く、周囲とうまく折り合おうと苦しんでいる。
それゆえ、周りの人たちとの関係に疲れている。自らの思いの強さと周囲のバランスのずれに無意識に苦しんでいる。

自己意識とは、なかなか厄介だ。
自分が正しいと思っているが故に、その行動を改めることは難しい。
感情でも理屈でも自分が正しい思うので、その行動は改めにくい。
人間とは誰しも誤っており、自分も含めて間違っている。そうは分かっていても、振る舞いを変えるまでには踏み切れないものだ。

自らの心をあえて曲げ、周りの人とうまくやっていく術を練り上げてきたのが日本の和の心だ。
ただし、和の心とは、村や社会、会社といった組織の中だからこそ効果を発揮する。

ところが、目指すべき目標が芸術の場合は違う。個人の世界に閉じている場合、和の心はかえって足かせとなる。
芸術を究めようとする中で、いかにして自分の振る舞いを周囲と折り合わせるか。
本書に収められた三編とも、芸術が取り上げられており、自己と周囲の対立をテーマとしている。

「しあわせのこみち」
絵を描く営みは、1人の世界だ。1人でキャンバスに向き合い、自分の心情のイメージを絵筆に伝える。
その一部始終に、他人を寄せ付ける余地はない。

だからこそ、その状態に心地よさを感じる人もいる。
そして、努力して周囲と合わせる努力が不要であれば、それが高じて周りとの心の垣根を自分で張り巡らしてしまうこともある。
本編の主人公、清水あやめはそうした心の持ち主だ。

自らの美的センスに絶対的な自信を持っている。
そんなあやめが、大学の授業で提出した課題で初めて人に負ける。
しかも負けた相手から、自らの芸術に潜む独りよがりな点を的確に指摘される。
ショックのあまり震えるあやめ。自らの負けをわずかな余地もないほどに自覚した瞬間である。
それをきっかけに、あやめが自らの狷介な心の狭さとその限界に気づき、少しずつ周囲との関わりを変えていこうとする。そんな物語だ。

自らの心の持ちようは、他人と比べて違っている。
そうした心の動きは、自らの心と他人の心の間に境目を作る。
境目とは、すなわち壁のこと。心の持ちようによって他人との間に壁まで作ってしまう。
それは自らの心の可能性に枠をはめる。
芸術を目指し、自分の技に没頭しようとすることで、自らの心に枠をはめ、将来の可能性を大きく損ないかねない。

だからあやめは、一度は出展しようとした自らの作品をいちどあきらめ、白紙に戻す。
そして、新たな自分を表現するため、新たなモチーフに挑戦する。
それは異性でもあり、尊敬できる相手でもあり、自らが何年も秘めてきた思いの対象に対し、向き合ってみようとした瞬間でもある。

その対象が見えてきた時、あやめは新たな自分の可能性に向け、大きな一歩を踏み出す。

「チハラトーコの物語」
千原桃子は、幼い頃からステージママに振り回されてきた。
少女の頃から意識を常に急き立てられ、見えを張って自らを飾りつけることに長けて成長してきた。
自らを虚飾で飾り立て、しかも見破られないようなテクニックを駆使する。誰も傷つけず、自分も傷つけない嘘。
そうした嘘を重ね続ける中、誰にも自分の素顔はさらさずに違う自分を演じてきた。

ところがある日、自らの経歴があるファンに見破られそうになってしまう。
その出来事がきっかけでトーコは、嘘にまみれた自らの半生を振り返る。
そもそも、いったい自分は何になりたいのだろうか。

芸能事務所に所属するも、自らの感性に合った作品しか出ようとしない。
嘘に嘘を塗り付けて30歳を目前にした今、俳優としての未来に広がりはあるのか。

千原桃子は路上パフォーマンスで活動する後輩との交わりにも感化され、パフォーマンスとはいったい 何なのかについて深く思いを深める。

俳優とは、嘘と色にまみれた職業だ。演ずる営みこそが、そもそも素の自分とは違う他人に化けることだから。
とはいうものの、そこで自分の本質を見誤ってはならない。自分の芯を持たずして演じたところで、何者にもなれないし、自分自身にすらなれない。
そうした切実な気づきが得られる瞬間。トーコにとってとても大きな気づきだ。
それを大人への入り口と呼ぶ人もいるだろう。
親の束縛から逃れた瞬間だ。

「樹氷の街」
本編は、過剰な自意識が組織の中に飲み込まれて苦しむ物語だ。
クラスの合唱コンクール。そのピアノ伴奏者は、花形の役割だ。
ところが、少ししか演奏スキルがないのに立候補してしまった倉田。
その伴奏は、クラスのみんなから酷評される。そして倉田は立場をなくす。

もともと、クラスに別の伴奏者がいるのに、あえて立候補した倉田への風あたりはきつい。
とうとう、練習にも参加しなくなった倉田。それを見かね、クラスのリーダーの何人かが対策に動く。
彼らのクラスには、音楽大学に進学を考えるほどのピアノの神童がいた。松永。松永の圧倒的な演奏は、伴奏者のレベルをとうに超えていた。
松永が倉田に対して伴奏を教えることにより、クラスで目立たないようにしていた松永も、そのきっかけにクラスに気持ちを開いていく。

本編は、誰もが中高の頃に経験する合唱イベントを通し、自意識の成長する瞬間をたくみに捉えている。
この瞬間こそ、大人への成長と同じ意味だ。まさに青春小説と呼ぶにふさわしい。

‘2019/10/3-2019/10/6


ふしぎな国道


講談社現代新書に収録された多彩なラインアップの中でも、本書はあまり見られない趣味の本だ。
本書は肩の力を抜いて、楽しく読める。

国道とはつまり道路。道路のあり方を楽しみ、その踏破を目標とする。私にとってとても共感できる趣味だ。

かつて、私は自転車であちこちを旅することを楽しんでいた。
旅の途中で通り過ぎる市町村境の看板を自転車とともに写真におさめる。そんなこともしていた。
残念ながら結婚して家族を持った私には趣味に費やす時間がなくなり、道や国道の趣味からは離れてしまった。

ところが、ここ二、三年で少しだけそうした趣味の時間がとれるようになってきた。そして、あちこちへと旅する頻度が増えてきた。
東北・関東・中部・近畿の駅百選を訪れたり、日本の滝百選を訪れたり、日本百名城を訪れたり。
残り少ない人生の中で、私の生きた証しを立てようとする本能が、私を旅へと駆り立てる。
まだ訪れていない場所を踏破する営みの裏には、有限の生しか与えられていない私の切ない感情がある。

だから、本書で書かれているような各地の国道を踏破し、多様な国道を走りぬく営みは私にとって相通ずる趣味といってもよい。
私も可能な限り、残りの余生で日本各地の国道を走破してみたい。
本書はその良きガイドとなるはずだ。

著者はサイエンス・ライターとしての仕事の傍ら、国道マニアとして趣味にまい進している方だ。
実際、本書は国道マニアとして思い浮かぶ全ての項目を押さえているように思える。

第1章 国道の名所を行く
第2章 酷道趣味
第3章 国道の歴史
第4章 国道完走
第5章 レコードホルダーの国道たち
第6章 国道標識に魅せられて
第7章 都道府県道の謎
第8章 旧道を歩く
第9章 深遠なるマニアの世界

第1章の国道の名所とは、各地にある特色のある国道を示す。
例えば、階段国道やエレベーター国道、石畳国道や裏路地国道、歩行者天国国道など。全国には面白い国道が散在している。
そして、私はそのほとんどを訪れたことがない。
こうした名物国道に訪れていないことを考えるにつけ、私が今まで経験した旅の乏しさを痛感する。

第2章の酷道とは、国道に指定されているのが不思議なほど、荒れた路肩や路面を擁した国道のことだ。
私は酷道を特集したムックを所持している。そもそも、あちこちの山や滝を訪れることの多い最近の私にとっては、酷道はより身近で憧れるジャンルでもある。
滝までのアプローチでけもの道を行く際にそうした廃道の遺構に出会うことがある。そのたびにかつては人々が行き交っていたはずの道の成れの果てに思いをいたす。
まさに冒険心とロマン、消えゆく歴史への哀惜など、酷道の世界には私の趣味心をくすぐってくれる要素が満載だ。

第3章の国道の歴史も面白い。
本書の帯にもあるが、国道60号や99号はわが国には存在していない。
それは二級国道を定義しなおした際、あらたに101番から番号が付けられたからだ。
だが、普通の人はそれらの国道の番号が欠番になっていることに不審を感じないはずだ。
だが、国道マニアにとっては、それこそが重大な事実なのだ。歴史や経緯など、調べていくと興味は尽きない。それがマニア。
本書はこのような重箱の隅をほじくるような知識が散らされており、それもまたうれしい。

第4章の国道完走も、私にとっては憧れだ。
鉄道の分野でいう、乗り鉄が全線を乗り尽くすぐらいの難易度だろうか。
私は本書を読むまで国道完走を数えたことはなかったが、いくつかの国道は完走しているはずだと思い、数えてみた。
例えば稚内から旭川までの40号線や本章にも紹介されている網走から稚内までの238号線。あと実家近くを走る43号線(大阪⇔神戸)は何度も完走している。三宅坂から沼津までの246号線も。
こういうのを地図上で埋めていくと、きっと楽しくなるはずだ。

第5章のレコードホルダーの国道たちは、いろいろな切り口で国道を紹介していて面白い。
長さ短さ高さ低さ広さ狭さ速さ多さなど。他にも道の駅が最も多い国道とか、多くの都道府県を通過する国道とか。
そうした目で見てみると、まだまだ国道趣味には多くの楽しみが見いだせそうだ。
誰か国道の沿道にあるコンビニエンスストアやファミリーレストランの数の統計をとってくれるとうれしいのだが。

第6章の国道標識に魅せられても興味深い。
国道マニアは、あの青くて角が丸い逆三角形の標識を「おにぎり」と呼ぶそうだ。重複国道では複数の「おにぎり」が並んでいる姿が見られる。私もいくつか、そうした光景を見たことがある。
それ以外にもいわゆる青い看板の意匠にときめくマニア。昭和前期に設置された昔ながらの国道標識が道端でひっそりと標識の役目を果たしている姿に胸を熱くするマニア。
こうしたモノに惹かれる気持ちはとても分かる。

第7章の都道府県道の謎で取り上げられる都道府県道も奥の深さでは国道にひけをとらない。
たまに私もWikipediaで都道府県道の項目にのめり込んでしまうことがある。
国道のように整備されておらず、地元に密着した道路だけに、それを極めるだけで至福の時間が過ごせるだろう。
都道府県道であれば、私は多くの道を走破しているはずだ。町田街道や行幸道路、鎌倉街道、尼宝線や武庫川右岸、兵庫県道82号や51号など。

第8章の旧道を歩くで取り上げられる旧道もいい。私は旧道にもロマンを感じる。
江戸から明治、大正の頃までは幹線道路として人々の旅を支えていた道。沿道の風景のそこかしこにかつての風情を残している道。
整備された現代の快適な道よりも、私はこうした道に旅情を感じる。

こうした道を歩き、自転車で走っていると、道の側溝や橋やトンネルなどに愛おしさを感じる。
新道ができたことで急速に寂れ、忘れ去られようとする道のはかなさに惹かれる。不便であるがゆえにかえってかつての風情を残す。
上にも挙げた兵庫県道82号は、新しく盤滝トンネルができたことによって旧道は寂れてしまった。だが、私はこの旧道を阪神・淡路大震災の当日の朝、決死の思いで走り抜けた。懐かしい思い出があり、著者のいうノスタルジーがより理解できる。
この章では道路元標にも脚光をあてている。特に大正期の元標はまだまだ発見されていないものもあるらしい。
私も本書を読んでからというもの、旅先で道端を見つめることが増えている。

第9章の深遠なるマニアの世界では、今まで取り上げていなかった国道趣味の他の分野について触れている。例えば国道グッズや歌・映画などに登場する国道など。それはそれでマニアには需要があることだろう。
本章で私が面白いと思ったのは、非国道走行というジャンルだ。国道を通らずにある場所からある場所まで走破できるか、というチャレンジ。例えば十字路で国道をまたぐのは許されるが、それ以外はだめというルールを課し、それにそっていけるところまで行く。
鉄道にも一筆書き乗車というのがあって、私も関東を一日乗りとおしたことがあるが、それに近い面白さを感じる。
本書によると東京から大阪まで、国道を使わずに走りきることが可能らしい。おそるべきマニア。

私が本書を読み、国道の旅に出たくなったことはいうまでもない。
だが、私は著者並みのマニアになれそうもない。残念ながら。

というのも、時間の自由がだいぶ利くようになってきたとはいえ、仕事の都合でまとまった時間がとれない。
また、かつては二台の車を持っていたが、今は一台しか持っていないので車が自由に使えない。
それに加え、私の住んでいる東京の多摩あたりは帰りの渋滞がひどく、それが車旅の意欲を極端になえさせる。

そうした意味でも国道マニアとは本当にうらやましい趣味だと思う。そして、その趣味に生涯を掛けられることが本当にすばらしいと思う。
こういう本を読むたび、人は自分の好きなことをして過ごしていくのが本当に幸せなのだ、と再確認できる。
人に与えられた時間のあまりの少なさにも。

978-4-06-288282-8

‘2019/10/3-2019/10/3