盤上の夜


本書は、友人に貸してもらった一冊だ。
友人宅に遊びに行った際、本書をお勧めとして貸してくれた。
お勧めされただけあって、本書はとても素晴らしい内容だった。

本書が取り上げているのは、有名なボードゲームだ。将棋、囲碁、チェッカー、インドの古代将棋、マージャン。それぞれの短編の中で、対象となるボードゲームを題材に物語が編まれている。
ボードゲームは一見すると単純に思える。だが、奥は深い。盤上のルールだけで世界を構築することだってできる。
そのとっつきやすさと奥の深さが人々を長きにわたって魅了し続けているのだろう。

ところが今や、人工知能の進化は人間の囲碁チャンピオンを破るまでになった。
その事実から、すでにボードゲームには限界が生じているのではないかという嘆きすら聞こえてくる。

本書に収められた「人間の王」は、チェッカーが取り上げられている。
チェッカーはチェスよりも早く、人工知能の前に人間のチャンピオンが屈したゲームだ。
チャンピオンとはマリオン・ティンズリー。実在の人物であり、42年の間、チェッカーで無敗だった。
そして、チェッカーのコンピュータープログラム「チヌーク」こそ、初めて人間を破った存在だ。

ティンズリーは一体、何を思い何を考えながらチェッカーのプロでありつづけたのだろう。
そして、自らの生命を賭して、人間に相手がいない人工知能との対戦を望み、ほぼ互角の戦績を残す。
マリオン・ティンズリーは「チヌーク」と六戦連続で引き分け、そして最後は体調がすぐれずに途中で棄権した。敗れたことは事実だとしても、生身の肉体で負けた、というのがまさに肝だ。

語り手は、ティンズリーの戦いの軌跡をたどりながら、人間が人工知能に負けた理由を考察する。
そして語り手は「チヌーク」に問いを投げ、対話することで答えを導き出そうとする。
著者が「人間の王」の中で描いているのは、チェッカーというゲームが、人工知能と人間によって葬られる瞬間だ。

後年、「チヌーク」を開発したプログラマーであるシェーファーによって、お互いが最善手を指し続けると必ず引き分けに終わることが証明されたという。
ゲームを創り出した人間の手によって、すべての指し手が解明されてしまった初めてのボードゲームこそ、チェッカーなのだ。

囲碁や将棋も、人工知能が人間のチャンピオンを凌駕してしまったことでは同じだ。だが、それらのボードゲームでは全ての解がまだ明らかになっていない。
つまり、まだ囲碁や将棋にはひらめきや可能性が残されている。
一方、すべての解が人工知能によって導かれ、ゲームとしての限界も暴かれた。それがチェッカーの悲劇。
語り手は、その事実を基に、人と機械の決定的な違いを明らかにしようと試みる。「人間の王」というタイトルは、その違いの本質を鋭く突いている。

本書に収められた他の短編も、ボードゲームの世界を再構築しようと試みている。それが本書のタイトルにもなっている。
ボードゲームの世界には、人間の論理が入り込む余地がある。そして、人の感情と感覚を色濃く投影できる。
ボードゲームといえ、完全に論理の世界だけでは場の魅力は構築できない。そこに人間の感情や感覚が入り込むからこそ、それらの競技がゲームとして成り立ってきたのではないだろうか。

そのことが特に顕著に表れているのが、表題作である「盤上の夜」だ。
「盤上の夜」は、盤上の局面のすべてを感覚として体にとらえることのできる女性棋士の話だ。
その能力は、中国を旅した際に騙され、すべての四肢を奪われたことによって得られた。それもまた運命。
その境遇から脱出するため、その女性は囲碁のスキルを身につけた。そして、庇護者を見つけることにも成功した。
四肢が失われた替わりに感覚を身につける。その設定はあながち荒唐無稽ではない。幻肢痛という症状もあるぐらいだから。
局面ごとに盤上の全ての駒の可能性を皮ふで感じる。それこそ、棋士が没入する究極の到達地といえるだろう。そればかりは人工知能の論理だけではない、人としての生の感覚に違いない。

「千年の虚空」は将棋の話だ。
そこで著者は、奨学金が頼りの若手の棋士たちの生活を描きながら、将棋の何たるかを語っていく。
二人の兄弟、そして一人の女性。三人は幼いころから性に溺れ、自堕落な生活を続けていく。そんな暮らしは、将棋に救いを求めたことで終わりを迎える。
だが、三人の爛れた育ちは、長じてからも彼らの人生に陰を与える。
兄弟のうち、兄の一郎は政治家になり、弟の恭二は棋士の道を進む。綾はその二人を翻弄し、その揚げ句に自殺する。
綾の死をきっかけに精神病院に入った兄弟。彼らの人生は、綾に翻弄される。そして、ゲームを殺すためのゲームの駒として、将棋の世界をさながら現実の世界でも指しきるように生きてゆく。
ここには、将棋というゲームの持つ自由さに焦点が当てられている。まるで棋士が指す棋譜が駒の動きだけにあきたらず、人生のあらゆる可能性を表す年譜だというように。
そこに、将棋の奥深さを見いだすことは可能だ。そして、駒の動きを人生の可能性に投影できる想像力こそ、決して人工知能の棋士が演じきれない個性なのだろう。

「清められた卓」は麻雀を取り上げている。
麻雀は私も遊んだ経験がある。技量と運の両立が必要なゲームであり、奥深さでは囲碁や将棋に引けを取らないと思う。技量と運が絶妙に両立しており、それを卓を囲んだ空間で完璧に出し切ることが求められる。
手練れになると、それぞれの手牌だけで、ある程度の局面を読み切ることも可能だという。
もちろん、いかさまでもしない限り、一人が局面の全てを支配することなど、普通は無理だ。

ところが優澄は、神業のような確率で麻雀に勝つ。なぜか。
著者は運を味方につけることと技量のバランスがどこにあるのかを本編で表現しようとしている。
優澄が行き詰まる局面。その中で果たして優澄は神業をなし得るのか。
本編を読むと、ボードゲームの仲間として麻雀を含めていなかった自らの不明も気づかされる。
そして、しばらく遠ざかっていた麻雀がやりたくなった。実際にオンラインで麻雀に手を染めてしまったほどだ。

「象を飛ばした王子」は、将棋やチェスの源流となったとされるチャトランガを創始した人物が主人公だ。
その人物とは、かのブッダこと、釈迦の息子と言う設定だ。
父は、悟りを開いたまま、国の統治を放り出して修業と悟りの旅に去ってしまった。
残された王子は、国を統治しながら、自分の中に独自の想念を育てあげていく。
その想念とは、ゲームに政治家や王族を没頭させることによって、国同士の戦争をやめさせるというものだ。

そのような発想の下、ゲームを取り上げた小説を私は今まで読んだことがない。
そして、囲碁や将棋、チェスの源流がチャトランガであったことも、本編を読んで初めて知った。このような天才によってチャトランガは創始されたとしても驚かない。
まさに、クリエイターとはこういう人のことを指すのだろう。

最後の一編「原爆の局」は、盤上の夜の続編にあたる。
広島の原爆が投下された時、ちょうど囲碁の対局が行われていた事はよく知られている。
本編はこの局面を取り上げている。
原爆によって石がバラバラに飛び散り、会場が破壊されたあと、二人の棋士は石を元どおりに戻し、対局を続けたという。
棋士たちは何を思い、どのように囲碁に向き合っていたのか。
現実の凄惨な状況よりも囲碁の盤上こそが大切だった。それは職業の性や偏執といった言葉では片づけられない。
おそらく、二人の棋士には盤上に広がる可能性が見えていたのではないか。そこにこそ、人の生きる本質が広がっているとでもいうかのように。

はじめての原爆実験が行われたアラモゴード砂漠。この砂漠の爆心地に碁盤を置き、ちょうど原爆が落ちたときの棋譜を並べ、時空を超えた再現を試みる。実に面白い。
確かに、知能で比べると人間は人工知能にかなわない。だが、この時の棋譜は今に記憶されている。それは、人間による思考の跡だ。
棋士が頭脳を絞り、しのぎを削った証。それが棋譜となり、当時の人間の活動となって残る。
ところが人工知能にとって、過去の棋譜とは判断の基盤となるデータに過ぎない。
その違いこそが、人工知能と生の人間の違いを示しているようで面白い。

‘2019/4/1-2019/4/5


チームのことだけ、考えた。


令和二年五月の中旬に7日間ブックカバーチャレンジで本書を取り上げました。
あらためて書き直してもよいのですが、その時に書いた内容が私の言うべき事を言い尽くしているので、ほぼ流用してアップします。

これをアップした5/10の前日は、kintone Café Online Vol.1でした。
そのタイミングで本書をご紹介できることをうれしく思います。

7日間ブックカバーチャレンジのDay5では、私の技術者としてのキャリアのきっかけになった「Excel VBA」の入門書をご紹介しました。
その中で私が、ここ5年近くkintoneのエバンジェリストとして活動していると書きました。

kintoneも、私にとっては独学で学んだ思い出の深いサービスです。
もともと、個人事業に進む前までは某社にて雇われ、一人情シスとして試行錯誤しながら、システムの知識をモリモリコツコツとためていた私。
社内システム用にファイルサーバーやウェブサーバーを立て、phpやMySQL、SAMBA、Apacheといったサービスをスクラップ&ビルドしながら、試行錯誤の日々を送っていました。
その時、思っていたのが「こうした作業をもっと汎用化できたら」ということでした。

後年、某銀行の本店でSalesForceの試用を任されたとき、衝撃を受けました。
私がかつて願った世界はここに存在した、とまで思いました。
その体験が鮮烈だったため、kintoneのβテスターを募集しているとのツイートを見た時、私はすぐに申し込みました。

私とサイボウズさんの出会いはさらにさかのぼります。大塚商会さんが主催するセミナーでNo Emailのセッションを聞いたのがきっかけです。そこで登壇されていたのは青野社長。
セッションの最後にCybozu Liveを紹介されておられたので、セッション後に私がガラケーでも使えるんやろか、とつぶやいたところ、青野社長ご本人からメンションが来て度肝を抜かれたのがきっかけです。

そのスピード感はそれまでの開発現場や企業では経験したことがないものです。まさにkintoneが掲げるファストシステムの体現でした。

それをきっかけとして、サイボウズという会社に興味を持った私の目に映ったのが、βテスターのお誘いでした。
そこからkintoneに関わり、kintoneのユーザー会にも参加した私。
そこで触れたサイボウズさんの社風には驚かされることばかりでした。
それまで知っていたいくつもの会社の社風とは、明らかに違っています。一癖も二癖も。

私がkintoneをなぜ推し続けているのか。
それは運営者であるサイボウズ社の社風にあります。
ユーザー会に参加した外部の私の目の前で、社長自らが社員の方とスマホをフリフリしてlineで友達になるような社風。

ユーザー会では二度ほど青野社長の横でお酒をご一緒したこともあります。
そこでお話した経験から感じたのは、サイボウズ社の社風とは、取り繕ったものではないという確信でした。
それまで属していた日本の企業や開発現場に息苦しさを感じていた私は、サイボウズ社とのかかわりに活路を見いだしていきます。

当時のkintoneはSalesForceと違ってまだまだ機能が足りず、お客様への導入もためらわれました。
ところが、当時、折よくシステム構築のご相談をいただきましてリリースされたばかりのkintoneを提案したところ、無事に受注ができました。2011年の暮れです。そのシステムは2012年の4月から稼働し、今もまだ運用中です。

kintoneはそれ以来、今に至るまでに機能を拡充し、素晴らしいシステムとして存在感を増しています。
システムを知らない現場の方でもドラッグアンドドロップで簡単にシステムが構築できる。SQLもスキーマもスクリプトも知らなくても手軽にシステムが運用できる。
もちろん、それも私がひいきにしている理由です。

ですが、私はそれ以上にサイボウズ社の社風に惹かれました。
だからこそ、これだけの長きにわたって応援しているのだと思います。自信を持って。

この本には、サイボウズ社の歴史が語られています。
そしてその中では、無数の試行錯誤から生まれたチームのあり方のヒントが詰まっています。

この本には失敗の歴史も豊富に載っています。システム開発会社にありがちなブラックな勤務体系。離職率の増加に歯止めが利かない中、拙速に人事システムを導入したことによる人離れの加速。M&Aの連続による赤字への泥沼。
そうした自社の黒歴史をオープンに語れる社風こそ、まさに私の惹かれた部分です。

そして、7日間ブックカバーチャレンジのDay4の「ワーク・シフト」にも書いた通り、ゼネラリストからエキスパートへ、という気づきを得ました。そこでkintoneのエキスパートになろうとしたからこそ、今の私があります。

ところが、エキスパートとは私の人生から多様性を奪いかねない決断でした。
エキスパートであることは、視野を狭くし、多様性を軽視してしまう。
ですが、サイボウズ社が多様性を重視していることは、本書にも例がふんだんに記されています。
そうした多様性を重視する会社の提供するkitnoneであれば、エキスパートでありながら多様性も実践できる。そう私は確信しています。

実際のところ、私はまだエキスパートではありません。技術者としても経営者としても人間としても。
そしてチームプレイでも。
私は独立してからずっと、独力で独学でやってきました。だから、チームの力を活かす術を知りません。
それを学ばない限り、私がエキスパートになることは金輪際、ないかもしれません。
その都度、いらだったり、自分の無力に涙することでしょう。そして、なんとか自分の人生を活かそうと、これからもあがき続けることでしょう。
その度に、チームのことだけ考えられるように努力します。

‘2019/3/29-2019/3/30


時生


たまに、著者はSFの設定に乗っかった作品を書く。本書もそのうちの一冊だ。
本書が面白いのは、SFの設定を支える技術をくだくだしく説明せずに、台詞だけで虚構の設定を読者に納得させていることだ。

その設定とは、タイムワープ。

自分の息子が過去の若い自分を助けに来る。
その設定を私たちはどこかで聞いたことがあるはずだ。ドラえもんで。そう、第一話でセワシが高曽祖父ののび太を助けに来たエピソードが頭に浮かぶ。

もちろん、本書は一筋縄のひねりでおしまいにしない。幾重にも設定や伏線を敷き、物語の世界がほころびないよう工夫を加えている。

本書を結構のある物語に仕立て上げ、著者が語ろうとしたメッセージとは何か。
私はそれを若さの無知と愚かさ、そして若さが持つ自由の可能性だと受け取った。

多くの人は若さの謳歌し、楽しんで過ごす。
その一方で、多くの若者はその自由を存分に味わうあまり、後に残そうとはしない。一瞬一瞬を衝動で生き、刹那の快楽として消費してしまう。
それは傍からみると、無知で愚かな行いにも思える。
だが、自由のただ中にいる当人にとっては、自らに与えられた一瞬こそが正義なのだ。
他人からしたり顔でどうこう言われたところで耳には入らないし、入れるつもりもない。

ところが普通の人は、年老いてもなお、若い気持ちを抱き続けることは出来ない。
どれほどハツラツとしたチョイワルオヤジであろうと、どこかが若い頃とは違うものだ。
体の張り、立ち居振る舞い、言葉に至るまで若い頃とは変わりつつある。経験を積み、老成し、体のどこかは確実に衰えてゆく。それが老いる宿命の残酷さなのだから。

この事実は、若き日にどれだけ悟っていようと、老けてからどれだけ若々しく心がけようとも変わらない。
若い日の自分と老いた自分は絶対に違う。
ところが、自分が将来どうなって行くかなんて決して誰にもわからない。
未来から来た人以外には。

本書は、宮本拓実の成長の物語だ。
本書の冒頭は、拓実が妻の玲子と語る場面で始まる。
二人の間に授かった一人息子である時生が、遺伝性の病で死の床に伏し、余命もわずかしかない。
その時、拓実は、若い頃に経験した不思議な縁を麗子に語り始める。

コネも学歴も能力もない若い日の拓実。1970年代が終わろうとする頃だ。その日ぐらしの拓実の毎日に希望は見えない。
若い頃はやる気と無鉄砲な前のめりだけを武器として突き進む。拓実もそうだ。傲岸にもとれる言動と根拠のない自信だけで突っ走ってゆく。
そんな拓実の日々は根無し草のようで、展望はない。

そんな日々に現れたのが、トキオと名乗る少年。
少しだけ拓実より年下のトキオの不思議な言動は、拓実を苛立たせる。だが、トキオに導かれるように、拓実の人生は転機を迎える。
トキオのすべてを見通したような言動に拓実は振り回されつつ、徐々に導かれながら成長を遂げてゆく。

未熟と言う言葉がそのまま当てはまる拓実の言動に苛立ちながら、恋人を追う拓実と行動をともにするトキオ。
若い頃の実の父の体たらくに幻滅しながら。

子が時間をさかのぼって未熟な頃の親の様子を見る。普通はまずありえない。
逆に親としても、自分の若い頃の姿を子に見られることはまずない。
私自身、ジタバタともがいている若き日の姿を娘たちに見られたら、さぞや赤面するに違いない。

自分の可能性だけを信じて生きるのに必死の拓実には、自分の将来などわかるはずがない。
その時の衝動に任せ、生きたいように生きていくしかないのだ。
それこそが生きる営みの本質なのだから。

子が親の若い頃に介入する本書の設定は、生の営みの本質をあぶり出す。
拓実とトキオの親子は世代として連続している。
そして、世代が連綿と受け継がれているからこそ人という種は続く。

だが、同じ血を分けた肉親であっても、種が同じであっても、心を共有することは不可能だ。
たとえ顔やしぐさが似通っていたとしても、人は自分の内面しか見通せない。それが個人の本質だ。
他人からいくら助言されようと、生きるのはしょせん自分。

拓実は、東京から名古屋、大阪と恋人を求めて奔走する中、トキオの助言もあって成長してゆく。
そして、未来に関するヒントをトキオから少しだけ示され、それをもとに将来の足がかりをつかむ。

それは確かにトキオのおかげだ。
だが、そこに著者のメッセージが含まれている。
私たちは、生きている上で将来に活かせるヒントを毎日誰かからもらっている。
それを生かすも殺すも無視するも受け入れるも自分次第。
その積み重ねを大切にした人は、成功を手にする。その事は、今までの成功者たちが無数の文章として書き伝えてくれている。

そしてもう一つ、本書で見落としてはならないのは、拓実たちを助けてくれる数多くの協力者の存在だ。
タケミやジェシーといった、一期一会の縁だけで恋人を探す拓実たちに手を差し伸べる人たち。
それは、私たちが生きていく上で大切な、人と結ぶ無数の縁の重みを教えてくれる。
学校やバイト先、職場や地域で知り合った人々との出会い。そうした人々との触れ合いが私たちを次第に大人へと成長させてくれる。
常に生活をともにするパートナー程ではないにせよ、こうした一瞬一瞬を共有する人々からの助けに気づき、それに感謝できる人生と、そうでない人生の違いの大きさよ。

拓実は、トキオや仲間との経験を通して、やさぐれて投げやりだった自分を反省する。そして、成長のきっかけをつかんでゆく。

その姿は、私自身にとっても、自分の成長のいきさつを見ているようで恥ずかしくなる。
拓実ほど尖っていた訳ではないが、私の若い頃の行いも相当に馬鹿げていたと思う。
それが今や40代も半ばを過ぎ。経営者であり家長に収まっている。
でも、それはあくまで結果論でしかない。
私も若い頃は若い頃なりに一生懸命に生きようとしていた。

今もなお、私は自分の人生を後悔しないように生きているつもりだ。
本書はそうした私の姿勢を後押ししてくれる本だ。
生きることとは、自分自身を全力で生きること。
それを雄弁に語っている。

その真理を、SF風の設定に仕立て、エンターテインメントとしても楽しめるように仕上げている。

本書はところどころに、1980年代を迎えようとする頃の世相を表す工夫が施されている。細かい所を探すと面白いかもしれない。
本書の舞台は私が6歳の頃であり、私にとっても何か懐かしい匂いがする。

1979年に実際に起こった日本坂トンネルの事故は本書の重要なモチーフとなっているが、おそらくこれからも東名道を車で通るたび、本書のことを思い出すに違いない。

‘2019/3/29-2019/3/29


さくら


最近の私が注目している作家の一人が著者だ。
著者の「サラバ!」を読み、その内容に心を動かされてから、他の作品も読みたくて仕方がない。
著者の作品は全てを読むつもりでいるが、本書でようやく三冊を読んだにすぎない。

本書は著者が上梓した二冊目の作品らしい。
本書を読んでみて思ったのが、二冊目にして、すでに後年の「サラバ!」を思わせる構成が出来上がりつつあることだ。
基本的な構成は、ある奇矯な家族の歴史を描きながら、人生の浮き沈みと喜怒哀楽を描くことにある。
個性的な家族のそれぞれが人生を奔放に歩む。そして、それぞれの個人をつなぐ唯一の糸こそが家族であり、共同体の最小単位として家族を配している。
「サラバ!」も家族が絆として描かれていた。本書もまた、家族に同じ意味合いを持たせている。

本書でいう家族とは長谷川家のことだ。
主人公の薫が久しぶりに帰京する場面。本書はそこから始まる。
薫が帰ってきた理由は、広告の裏に書かれた父からの手紙がきっかけだった。
薫が帰った実家に待っていたのは、太った母親と年老いた犬さくらの気だるいお迎えだ。その傍らで妹のミキが相変わらずお洒落に気を使っている。

なにやらいわくがありそうな長谷川家。
著者は長谷川家の今までのいきさつを語ってゆく。
美男と美女だった父と母。二人が出会い、結婚して最初に生まれたのが薫の兄、一だ。
さらに薫が生まれ、しばらくしてミキが生まれる。美しく貴いと書いてミキ。
その名前は、はじめての女の子の誕生に感動した父が、こんなに美しく貴い瞬間をいつまでもとどめておきたいと付けた。

この時、長谷川家は幸せだった。幸せを家族のだれもが疑うことがなかった。
誰にでもモテて人気者の兄。それなりに要領よく、目立たぬようにそつなくこなす薫。そして誰の目をも惹く美貌を持ちながら、癇の虫の強いミキ。三人が三様の個性を持ちながら、幸せな父と母のもと、長谷川家の将来は晴れわたっているはずだった。

そんな家族のもとにやってきたのが、雑種の大型犬であるさくら。
その時期、両親は広い庭のついた家を買い、さくらはその庭を駆け回る。
何もかもが満たされ、一点の曇りもない日々。
なんの屈託もない三人兄妹と両親にはユニークな知り合いが集まってくる。
父の昔からの友人はオカマであり、ミニには同性愛の傾向がある。兄の一の彼女は美貌をもちながら家庭に問題を持つ矢嶋さん。

長谷川家をめぐる人々に共通するのは、マイノリティという属性だ。
同性愛もそうだし、性同一性障害も。
周りがマイノリティであり、そのマイノリティの境遇は長谷川家にも影響を及ぼす。それは本書の展開に大きく関わるため、これ以上は書かない。

とにかくいえるのは、本書がマイノリティを始めとしたタブーに果敢に挑んだ作品ということだ。
尾籠な話と敬遠されがちなうんこやおしっこに関する話題、子作りのセックスに関する話題、そしてマイノリティに関する話題。
どれもこれも書くことに若干のためらいを覚えるテーマだ。ところが著者はそのタブーをやすやすと突破する。さり気なく取り上げるのではなく、正面切って描いているため、読む人によっては抵抗感もあることだろう。

だが、ここまでタブーを堂々と取り上げていると、逆に読者としても向かい合わずにはいられなくなる。本書の突き抜けた書き方は、タブーをタブーとして蓋をする風潮に間違いなく一石を投じてくれた。

何よりもわが国の場合、文学の伝統が長く続いている割には、そうしたタブーが文学の中から注意深く取り除かれている。もちろんそれは文学の責任ではない。
今までの日本文学もその時代の日本の世相の中では冒険してきたはずだと思う。
だが、その時代ごとの日本社会にはびこるタブーが強すぎた。そのため、今から考えるとさほど刺激が強くないように思えても、当時の世論からはタブーを取り扱ったことで糾弾されてきた。
そして、今までに文学で取り上げられてきたタブーの中でも、障害者の問題や性的マイノリティの問題はまだまだ正面から描いた作品は少ないように思える。

そんなマイノリティを描いた本書であるが、マイノリティであるからこそ、それをつなぐ絆が求められる。
それこそが家族だ。本書では、マイノリティをつなぐ紐帯として家族の存在を中心に置いている。
あまりにも残酷な運命の神は、長谷川家をバラバラにしようと向かい風をひっきりなしに吹き付けてくる。
本書の表現でいうと、「ああ神様はまた、僕らに悪送球をしかけてきた。」という感じで。

そうした逆境の中、薫と父の帰還を機に家族が一つになる。
そして、一つになろうとする家族にとって欠かせないのがさくらの存在だ。
さくらは言葉がしゃべれない。それゆえに、自己主張が少ない。だからこそ奇天烈な家族の中でさくらは全員をつなぐ要であり得た。
著者はさくらの心の声を描くことで、さくらにも人格を与えてる。むろんその声は作中の人物には聞えない。だが、さくらの心の声をさりげなく混ぜることで、さくらこそが家族をつなぎとめる存在であると伝えているのだろう。

実は人間社会にとって、ペットも立派なマイノリティだ。
そして、ペットとはマイノリティでありながら、要の存在にもなりうる。そのようなペットの役割を雄弁に語っているのが本書だ。
実際、著者はあとがきにもそのことを書いている。そのあとがきによると著者の飼っていたサニーという雑種がさくらのモデルらしい。著者はいかなる時も尻尾を振って意志を表わすサニーにどれだけ慰められたかを語る。その経験がさくらとなって本書に結実したのだと思う。

私もペットを二匹飼っている。彼女たちには仕事の邪魔もされることが多いが、慰安となってくれる時もある。
ワンちゃんを飼うとその存在を重荷に感じることがある。だが、本書を読んでペットもマイノリティであることを感じ、もう少し大切にしないとな、と思った。

また、私の中に確実にあるはずのマイノリティへの無意識のタブー視も、本書は意識させてくれた。勇気をもってタブーに目を向けていかないと。そして克服していかないと。
そもそも誰しもマイノリティだ。
自我は突き詰めると世界から閉ざされている。その限りにおいて、人は本質では確実に孤独で少数派の存在なのだ。
だからこそ、最小の信頼しあえるコミュニティ、家族の重要さが際立つ。

そして、人生にはマイノリティにもマジョリティにも等しく、山や谷が待ち構えている。
そうした試練に出会う時、本心から心を許せる家族を持っていると強い。
本質的にマイノリティな人間であるからだ。
マイノリティが自らの核を家族に預けられた時、マイノリティではなくなる。たとえ社会の中ではマイノリティであっても、孤独からは離れられるのだ。
その確信をくれたのが本書だ。

‘2019/3/24-2019/3/28


ジンの歴史


ジンが熱い。
ジンが今、旬であることは、酒に興味がある人、特に蒸留酒の世界に興味を持つ人にとっては周知の事実だ。
昨今のジン界隈の盛況は、ウイスキーの盛り上がりにも引けを取らない。

去年の秋、Whisky Festival 2019 in TOKYOに参加した。
このイベント、タイトルはウイスキーと名乗っているが、ジンのブースも結構目立っていた。特に国内のクラフトジンはかなり数の蒸溜所が出店しており、ジンの盛り上がりを如実に感じた。

実際、会場のジンをいくつか試飲させてもらったが、それぞれに個性が認められる。
ジンだけを巡っていても決して飽きがこない。
実際、Whisky Festival 2019 in TOKYOの半年ほど前に天王洲で開かれたGIN FESTIVAL Tokyo 2019にも参加したが、GINだけで埋められた空間は、食傷どころか食指が伸びる一方だった。
Whisky Festival 2019 in TOKYOから四カ月ほど後、今度はWHISKY galoreでクラフトジンの特集が組まれていた。
WHISKYを専門とする雑誌でジンの特集が組まれるなど、異例だといえる。
そうした流れの目の当たりにし、ますます私の中でジンの興味が増す中で本書を手に取った。

本書が出版されたタイミングは、世界的なジンの復興が起こり始めた時期に等しい。
産業革命を目前にしたイギリス、ロンドンでは、ジンが社会風紀の乱れの象徴として槍玉に挙がっていた。
その事実は当時のロンドンを描いた文章を読んでいるとよく見かける。酒の歴史を扱った本では必ずと言ってよいほど。
つまり、ジンとは悪徳を体現したふしだらな酒、という印象がついて回っていたのだ。

そんな悪いイメージがついて回ったジンが、ここに来てなぜ大復活を遂げたのか。なぜ、今になってGINに脚光が当たっているのか。
それが気になって私は本書を手に取った。その理由を知るために、もう一度ジンを学び直すことも悪くない、と。

本書が扱うのはジンの歴史だ。同時にジンの歴史とは蒸留酒の歴史にもかぶる。
なぜならウイスキーをはじめ、蒸留酒の歴史はまだよく解明されていない。そして、ジンの製法がウイスキーの製法に影響を与えた可能性も大いにあり得るからだ。

今までにも私は、ウイスキーの歴史を取り上げた本を数多く読んできた。
そうした本を読んだ後の余韻には、なんとなくの収まりの悪さを感じていた。
その中途半端な感じは、ウイスキーの歴史には長らくの空白があることから生じていたようだ。本書は、そんな私のウイスキーに関する知識の欠落をいくつかの点で補ってくれた。

特に、中世のヨーロッパに決定的な影響を与えたペスト禍において、ジンに欠かせないジュニパーベリーの薬効が信じられ、人々がジュニパーベリーにすがった事実はジンの歴史において重要だ。
そもそも蒸留酒の起源を調べると、医薬品として用いられていた事実に行き当たる。
そうなると、続いて湧き上がる疑問は、数ある蒸留酒の中で最初に人々をとりこにしたのがなぜジンだったのかの理由だ。なぜブランデーやウイスキーではなく、ジンだったのか。
その理由は、ペストに苦しむ人々がジンのジュニパーベリーの薬効にすがっていた事実を知ると納得がいく。ペストに効くと人々が信じたジュニパーベリー。それを主要成分として用いたジン。

もう一つの興味深い事実は、ブランデーの存在だ。
もともとヨーロッパで広く飲まれていたのはビールでありワインだった。
特にキリスト教文化にとって、ワインは欠かせぬ飲みものであり、それを蒸留したブランデーは、他の蒸留酒と比べても先んじた地位を確立していた。

実際、本書によるとジュニパーベリーを蒸留酒に漬け込みはじめた当初、その蒸留酒とはブランデーだった。
ところが、ヨーロッパを覆った寒気と国際情勢は、北の国からぶどうを奪い去っていった。
そこで、人々は穀物を使った蒸留酒を作るようになり、ジンやウォッカ、ウイスキー、アクアビットがブランデーにとって変わっていったという。

ジンも当初は、ジュネヴァというネーデルランドの酒として生まれたという。そして、その味は今のジンとは似ても似つかぬものだったという。より濃厚でより芳醇な。私も前述のGIN FESTIVAL TOKYO 2019でジュネヴァを飲ませてもらったが、ジンの持つ清涼感がなく、個性に満ちた味だったように記憶している。

著者によれば現代のジンは味のついたウォッカだという。
そしてオランダ語でイエネーフェルと呼ばれたジュネヴァはジンの原点だという。また機会があれば飲んでみたいと思う。

続いて本書は、ジュネヴァがイギリスへと伝わり、粗悪な酒としてはびこる様子が描かれる。その様を称してジン・クレイズと呼ぶ。
著者はこうした表現によってジンを陥れようとしているわけではない。
むしろ、当時のロンドンの世相を陰惨なものにしていたのは貧困だった。貧困に至る社会制度。
それこそが当時のロンドンを支配していた悪だった。
そのため、民は粗悪で安いジンに群がった。当時重税が掛けられたビールの代わりとして。
それがジンの悪名の元となり、今に至るまで影響を与え続けている。

ところがロンドン・ドライ・ジンが生まれたことによって状況が変わった。
ジンといえばイギリスというイメージがつき始める。
それはイギリスの海軍が強大になり、それが各地、各国の産物を集結させたため、品質の向上に拍車がかかった。
さらにコフィ式連続蒸溜器の発明がジンの品質を劇的に向上させた。
次いで、さまざまな果実とジンを混ぜる飲み物が流行し、それはアメリカの自由な雰囲気の中でカクテルとして開花し、世を風靡する。

そればかりか、ジンはアメリカでギムレットのベーススピリッツとして好まれ、その他のさまざまなカクテルのベースにもなる。そうやって、ジンの活躍の場は増大していった。
時代は1920年代。後々にまで語り継がれる華美に輝いた時代。そして、アメリカがつかの間の繁栄を謳歌した時代。
カクテルはあちこちで飲まれ、ジンはあまりにもメジャーな存在となった。
ところが、それがメジャーになりすぎ、さらに禁酒法がジンにさらなる逆境となり、いつのまにかジンは時代から取り残された存在となった。匂いのないウォッカにその座を奪われて。

すっかり主役の座から降ろされたジン。長い間、時代遅れの酒の代名詞であったジン。
それが変わったのがボンベイ・サファイアの登場だ。水色の清々しい瓶は鮮烈で、それまでのジンが門外不出を旨としていたのと違い、レシピを公開した。
ボンベイ・サファイアの登場によってジンの歴史に新時代が到来した。

そしてそこからヘンドリックスジンをはじめとしたあまたのジンが追随し、今の世界的なクラフトジンの繁栄へと至る。

こうしてジンの歴史を概観すると、ジンのベースがプレーンだったことが、ジンに大いなる可能性を与えたことは間違いない。
プレーンであるが故、ボタニカルを無限の組み合わせることもできる。それは既存の蒸留酒にないあらゆる伸びしろをジンに与えたのかもしれない。

私も本書を読み、またジンの専門バーやGIN FESTIVALに行ってみたくなった。今年はコロナの影響で中止だとか。それが残念だ。

‘2019/3/10-2019/3/24


七日間ブックカバーチャレンジ-天津飯の謎


【7日間ブックカバーチャレンジ】

Day7 「天津飯の謎」

Day7が終わろうとしています。

Day1~Day7の中では、挙げるべき作品はまだまだありました。
歴史・時代小説や純文学でも挙げるべき作品はたくさんあります。ラテンアメリカの小説をはじめとした世界の諸文学も。
SFでも名作はいくつもあります。小松左京、筒井康隆の両氏の作品を挙げられなかったのは無念です。
私が当チャレンジでお渡ししたバトンのどれかが、こうした本を紹介してくれることを願っています。
私のブログでも今後、読んだ本のレビューは続けていくつもりです。

さて、それらの本を差し置いて、ブックカバーチャレンジの最終日にこちらの本を取り上げるのには理由があります。

今までのDay1~Day6で、私は本の紹介をしながら、人生観についても触れてきました。
その人生観は今までに読んできた5000冊ほどの本から培ってきたものです。
思い込みを排し、データを重視する(Day1)。
史実を尊重しつつ、歴史のロマンを大切にする(Day2)。
人生の中で現れる謎に感謝し、それを解く前向きな心を持つ(Day3)。
ゼネラリストではなくエキスパートであろうとする(Day4)。
入門書を読み込み、スキルを磨く(Day5)。
多様性を重んじ、自らの想いを体現するサービスに奉仕する(Day6)。
どれもが、私の人生にとってかけがえのないインプットを与えてくれました。

人生とは、システムと同じくインプットに対してアウトプットを行ってこそ完結すると思っています。
私が読んできたあらゆる本からインプットし、自らの中に育ててきた人生観。
あとは、それをどうやってアウトプットするかです。
私はそろそろ、アウトプットも視野に入れなければならない年齢に差し掛かっています。

ここでいうアウトプットとは、ビジネスの現場からすれば成果物です。
そうした意味でいえば、私は小学生のころから数えきれないほどのアウトプットを生み出してきました。
夏休みの絵日記、読書感想文、自由研究、テストの答案、年賀状、発表会、大学の卒論、Excelの帳票、Wordの文書、ホームページ、メール、提案書、プレゼン資料、プログラム、仕様書、テストエビデンス、学会発表、セミナー、エトセトラエトセトラ。

もちろん、それらはアウトプットです。
ですが、それらを人生のアウトプットとして、集大成とみなしてよいかと問われるとどこか違う気がするのです。

私には妻も娘もいます。家も持ち家です。
そのように、家族や家庭の基盤を残すことも人生のアウトプットと呼べるかもしれません。
そして、家族はいなくとも、後輩にスキルを伝授したり、次の世代に知恵や技術を託すことも立派なアウトプットの一つでしょう。

ですが、スキルや技術や思いはしょせん、形のないものです。
それがどう伝えられるかは、次の世代に渡した時点で自らの手から離れてしまいます。

子にしても同じです。確かに、幼い頃に家庭でほどこした教育は子どもが成長した後も人生に大きく影響を与えます。
ですが、成人してから後の子どもの人生は、子ども自身のものです。親のアウトプットとみなすことには抵抗があります。

何か、確固としたアウトプットを残したい。
仕様書のどこかに記した名前ではなく、セッション資料の冒頭に記した名前ではなく、会社の創立者として登記簿に載せる名前でもない。
ある時点の自分の一部をくっきりとした形として残せるような、人生のアウトプットが欲しい。

様々なブログやツイートやウォールをアップし、ExcelやWordやPowerpointでドキュメントをせっせと作っても、そうしたアウトプットは、すぐにファイルサーバーやオンラインストレージの片隅でアーカイブされていきます。誰からも顧みられずに。
それは寂しい。
もっと確固としたアウトプットの手段はないものか。

例えば、本書のように自らの名が冠された著作として。
それもISBNが付与され、国立国会図書館に収められるような著作として。

まさに本書はそうやって生み出された一冊です。

本書は、皆さんが中華料理店で注文する天津飯を取り上げています。
その名前の由来は何なのか。作り方の変遷、起源、材料、伝来のルートはどういう歴史をたどってきたのか。
そうした点まで含めて調べ上げた労作です。
本書を読むと、中華料理店のメニューを見る目が変わります。

私たちが普段過ごしている生活の中に、こうした謎は無数に埋もれています。
そうした謎を見つけだし、興味を向け、調査に没頭する。
なんと豊かな人生なのだろう、と思います。

著者は、天津飯という興味の対象を自らの職業とは関係のないところから見つけています。
そうした対象を見つけるには、普段から広く興味と関心を抱いていないと難しいはずです。

仕事に没頭するのも良いですが、日々の忙しさの中に、そうした視野を持つ努力を怠ってはなりません。
さもないと、引退した途端、やりがいを失って一気に老け込むということになりかねません。

私にとって本書は、常に私の先をゆく、人生の師匠が示してくれた、文字通りの手本です。

ということで、五つ目のバトンを渡させていただきます。本書の著者である 早川 貴正 さんです。
23歳の頃、強烈な鬱から脱出しようとあがく私が、Bacchus MLというメーリングリストのオフ会で早川さんに出会ってから24年がたちました。
風来坊で何をやりたいのかもわからずにいた若い頃の私は、早川さんのような生き方をしようと思って一念発起し、今に至っています。
妻との結婚式の二次会では乾杯の発声もお願いしましたし、長女が乳児のころから何度もお世話になっています。
私がかつて、広大かつ膨大な家賃のかかる家を苦労して売却するにあたって、わざわざ大阪からやってきて、親身に相談に乗ってくださいました。

20代前半の私が大変お世話になり、一生頭が上がらない恩人は何人かいます。
ですが20数年の年月は、そうした人たちとの連絡を途絶えさせてしまいました。
ですから、早川さんが今もこうやって、つながってくださっていることにとても感謝しています。

私もはやく、ISBN付きの本を出版し、師匠に追いつけるように努力したいと思います。
世の中の面白さにきづき、その謎を掘り進めてゆけるように。
そして、一度は一緒にスコットランドを旅したいです。

「天津飯の謎」
新書:207ページ
早川貴正(著)、ブイツーソリューション(2018/10/26出版)
ISBN978-4-86476-639-5

Day1 「FACTFULLNESS」
Day2 「成吉思汗の秘密」
Day3 「占星術殺人事件」
Day4 「ワーク・シフト」
Day5 「かんたんプログラミング Excel VBA 基礎編」
Day6 「チームのことだけ、考えた。」
Day7 「天津飯の謎」

★ ★ ★ ★ ★ ★ ★
7日間ブックカバーチャレンジ
【目的とルール】
●読書文化の普及に貢献するためのチャレンジで、参加方法は好きな本を1日1冊、7日間投稿する
●本についての説明はナシで表紙画像だけアップ
●都度1人のFB友達を招待し、このチャレンジへの参加をお願いする
#7日間ブックカバーチャレンジ #天津飯の謎


七日間ブックカバーチャレンジ-チームのことだけ、考えた。


【7日間ブックカバーチャレンジ】

Day6 「チームのことだけ、考えた。」

Day6として取り上げるのはこちらの本です。

昨日はkintone Café Online Vol.1でした。
そのタイミングで本書をご紹介できることをうれしく思います。

Day5では、私の技術者としてのキャリアのきっかけになった「Excel VBA」の入門書をご紹介しました。
その中で私が、ここ5年近くkintoneのエバンジェリストとして活動していると書きました。

kintoneも、私にとっては独学の連続でした。
もともと、個人事業に進む前までは某社にて雇われ、一人情シスとして試行錯誤しながら、システムの知識をモリモリコツコツと貯めていた私。
社内システム用にファイルサーバーやウェブサーバーを立て、phpやMySQL、SAMBA、Apacheといったサービスをスクラップ&ビルドしながら、試行錯誤の日々を送っていました。
その時、思っていたのが「こうした作業をもっと汎用化できたら」ということでした。

後年、某銀行の本店でSalesForceの試用を任されたとき、衝撃を受けました。
私がかつて願った世界はここに存在した、とまで思いました。
その体験が鮮烈だったため、kintoneのβテスターを募集しているとのツイートを見た時、私はすぐに申し込みました。

私とサイボウズさんの出会いはさらにさかのぼります。大塚商会さんが主催するセミナーでNo Emailのセッションを聞いたのがきっかけです。そこで登壇されていたのは青野社長。
セッションの最後にCybozu Liveを紹介されておられたので、セッション後に私がガラケーでも使えるんやろか、とつぶやいたところ、青野社長ご本人からメンションが来て度肝を抜かれたのがきっかけです。

そのスピード感はそれまでの開発現場や企業では経験したことがないものです。まさにkintoneが掲げるファストシステムの体現でした。

それをきっかけとして、サイボウズという会社に興味を持った私の目に映ったのが、βテスターのお誘いでした。
そこからkintoneに関わり、kintoneのユーザー会にも参加した私。
そこで触れたサイボウズさんの社風には驚かされることばかりでした。
それまで知っていたいくつもの会社の社風とは、明らかに違っています。一癖も二癖も。

私がkintoneをなぜ推し続けているのか。
それは運営者であるサイボウズ社の社風にあります。
ユーザー会に参加した外部の私の目の前で、社長自らが社員の方とスマホをフリフリしてlineで友達になるような社風。

ユーザー会では二度ほど青野社長の横でお酒をご一緒したこともあります。
そこでお話した経験から感じたのは、サイボウズ社の社風とは、取り繕ったものではないという確信でした。
それまで属していた日本の企業や開発現場に息苦しさを感じていた私は、サイボウズ社とのかかわりに活路を見いだしていきます。

当時のkintoneはSalesForceと違ってまだまだ機能が足りず、お客様への導入もためらわれました。
ところが、当時、折よくシステム構築のご相談を頂きましてリリースされたばかりのkintoneを提案したところ、無事に受注ができました。2011年の暮れです。そのシステムは2012年の4月から稼働し、今もまだ運用中です。

kintoneはそれ以来、今に至るまでに機能を拡充し、素晴らしいシステムとして存在感を増しています。
システムを知らない現場の方でもドラッグアンドドロップで簡単にシステムが構築できる。SQLもスキーマもスクリプトも知らなくても手軽にシステムが運用できる。
もちろん、それも私がひいきにしている理由です。

ですが、私はそれ以上にサイボウズ社の社風に惹かれました。
だからこそ、これだけの長きにわたって応援しているのだと思います。自信を持って。

この本には、サイボウズ社の歴史が語られています。
そしてその中では、無数の試行錯誤から生まれたチームのあり方のヒントが詰まっています。

この本には失敗の歴史もたくさん載っています。システム開発会社にありがちなブラックな勤務体系。離職率の増加に歯止めが利かない中、拙速に人事システムを導入したことによる人離れの加速。M&Aの連続による赤字への泥沼。
そうした自社の黒歴史をオープンに語れる社風こそ、まさに私の惹かれた部分です。

そして、Day4の「ワーク・シフト」にも書いた通り、ゼネラリストからエキスパートへ、という気づきを得ました。そこでkintoneのエキスパートになろうとしたからこそ、今の私があります。

ところが、エキスパートとは私の人生から多様性を奪いかねない決断でした。
エキスパートであることは、視野を狭くし、多様性を軽視してしまう。
ですが、サイボウズ社が多様性を重視していることは、本書にも例がふんだんに記されています。
そうした多様性を重視する会社の提供するkitnoneであれば、エキスパートでありながら多様性も実践できる。そう私は確信しています。

実際のところ、私はまだエキスパートではありません。技術者としても経営者としても人間としても。
そしてチームプレイでも。
私は独立してからずっと、独力で独学でやってきました。だから、チームの力を活かす術を知らずにいます。
それを学ばない限り、私がエキスパートになることは一生ないかもしれません。
その都度、いらだったり、自分の無力に涙することでしょう。そして、なんとか自分の人生を活かそうと、これからもあがき続けることでしょう。
その度に、チームのことだけ考えられるように努力します。

ということで、四つ目のバトンを渡させていただきます。freee社のニックさんこと 長内 毅志 さんです。
kintoneのエバンジェリストの活動から、昨年からfreee社のイベントにも参加・運営するようになった私。
freee社もオープンプラットホームの理念を掲げ、開かれたシステムを目指している会社です。
私にとって応援したいと思わせてくれます。まだまだご一緒する機会が多くなりそうです。

それでは皆さんまた明日!
※毎日バトンを渡すこともあるようですが、私は適当に渡すつもりです。事前に了解を取ったうえで。
なお、私は今までこうしたチャレンジには距離を置いていました。ですが、このチャレンジは参加する意義があると感じたので、参加させていただいております。
もしご興味がある方はDMをもらえればバトンをお渡しします。

「チームのことだけ、考えた。」
単行本 ソフトカバー:254ページ
青野慶久(著)、ダイアモンド社(2015/12/17出版)
ISBN978-4-478-06841-0

Day1 「FACTFULLNESS」
Day2 「成吉思汗の秘密」
Day3 「占星術殺人事件」
Day4 「ワーク・シフト」
Day5 「かんたんプログラミング Excel VBA 基礎編」
Day6 「チームのことだけ、考えた。」
Day7 「?」

★ ★ ★ ★ ★ ★ ★
7日間ブックカバーチャレンジ
【目的とルール】
●読書文化の普及に貢献するためのチャレンジで、参加方法は好きな本を1日1冊、7日間投稿する
●本についての説明はナシで表紙画像だけアップ
●都度1人のFB友達を招待し、このチャレンジへの参加をお願いする
#7日間ブックカバーチャレンジ #チームのことだけ、考えた。


七日間ブックカバーチャレンジ-かんたんプログラミング Excel VBA 基礎編


【7日間ブックカバーチャレンジ】

Day5 「かんたんプログラミング Excel VBA 基礎編」

Day5として取り上げるのはこちらの本です。

私は、もう20年ほど技術者としてお仕事をしています。
開発センターでシステムの開発やテストに従事していた時期も長いです。銀行の本店でも数年間、常駐していました。
ここ数年は、5年近くkintoneのエバンジェリストとして任命をいただいております。
個人事業の主として9年、法人を設立してからは6期目に入りました。
その間、システム・エンジニアを名乗って仕事を得、妻子を養ってきました。

そんな私ですが、システムは誰からも教わっていません。
全て独学です。
高校は普通科でしたから、パソコンはありません。大学は商学部で、パソコンルームはあった気がしますが、私は無関心でした。一度だけ5インチのフロッピーディスクに一太郎で作った文章を保存する課外授業をうけたぐらい。
大学の一回生の頃に、ダブルスクールに通っていましたが、そこで学んだ事で今に活かせているのはブラインドタッチ。Basicの初歩も学んだ記憶はありますがほとんど覚えていません。
大学を出た後、一年近く芦屋市役所でアルバイトをしていた頃、出入りしていた大手IT企業のSEの方から盗み取ったマクロからここまでやってきました。

そして私は新卒で採用された経験も、真っ当な転職活動の経験もありません。ですから、企業で研修を受けた経験もほとんどないのです。

システム・エンジニアとして働く常住現場で、悠長にプログラミングを教えてくれる人などいません。誰もが忙しくコーディングや設計に追われている中、そんな間抜けな質問をしたら退場させられてしまいます。

そんな私がどうやってプログラムを学んだのか。
本書のような入門書からです。

私の場合、キャリアの初期に開発現場ではなく、オペレーションセンターで働き、某企業でシステムの全権を任してもらえるという幸運もありました。

試行錯誤しながらExcelの複雑なワークブックやシートやセルを操り、毎朝のタイトなスケジュールを縫って資料を作る。
Excelのマクロを駆使しなければ、とてもやり遂げられなかったでしょう。

本書は基礎編ですが、応用編とコントロール編も含めて何度も当時読み返したものです。私にとってプログラミングを学ぶ上でこのシリーズには大変お世話になりました。

特に、行列の二次元だけでしかExcelを理解していなかった私を、本書は三次元、四次元といった高次のレベルに引き上げてくれました。スカパーのカスタマーセンターで当時の部下だった元SEの女性にもヒントもらったのが懐かしい。
あれこそまさにブレークスルーの瞬間でした。

かつて、システムを扱うにはプログラミングやデータベース、ネットワークの知識が必須でした。
ですが、昨今のシステムにはそうした知識が不要になりつつあります。クラウドシステムやノンコードプログラミングの普及によって。
そして、ビジネスの現場で働く人にこそ、プログラミングの初歩的な理解が必要になる。そんな時代はすでに始まっています。

Excelマクロは、処理を自動的にマクロとして記述する仕組みがあります。それと本書を組み合わせると、システムの初歩の概念を学んでいただけるのではないでしょうか。
本書はプログラミングに不得手なビジネス現場のオペレーターの皆様にこそ読んでほしいと思います。

それでは皆さんまた明日!
※毎日バトンを渡すこともあるようですが、私は適当に渡すつもりです。事前に了解を取ったうえで。
なお、私は今までこうしたチャレンジには距離を置いていました。ですが、このチャレンジは参加する意義があると感じたので、参加させていただいております。
もしご興味がある方はDMをもらえればバトンをお渡しします。

「かんたんプログラミング Excel VBA 基礎編」
単行本 ソフトカバー:351ページ
大村あつし(著)、技術評論社(2004/3出版)
ISBN978-4-7741-1966-3

Day1 「FACTFULLNESS」
Day2 「成吉思汗の秘密」
Day3 「占星術殺人事件」
Day4 「ワーク・シフト」
Day5 「かんたんプログラミング Excel VBA 基礎編」
Day6 「?」
Day7 「?」

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7日間ブックカバーチャレンジ
【目的とルール】
●読書文化の普及に貢献するためのチャレンジで、参加方法は好きな本を1日1冊、7日間投稿する
●本についての説明はナシで表紙画像だけアップ
●都度1人のFB友達を招待し、このチャレンジへの参加をお願いする
#7日間ブックカバーチャレンジ ##かんたんプログラミング


七日間ブックカバーチャレンジ-ワーク・シフト


【7日間ブックカバーチャレンジ】

Day4 「ワーク・シフト」

Day4として取り上げるのはこちらの本です。

今、新型コロナウィルスによって、人々のライフ・ワークスタイルは変化を強いられています。
ウィズ・コロナ、アフター・コロナといった言葉のもと、通勤・通学といった習慣さえ、廃れようとしています。
先日の連休も、風物詩だったはずの大渋滞が一掃され、らしさなど全く感じられませんでした。

多くの方が、この変化の速さについていけない、と感じていることでしょう。
新たな暮らし方に無理やり適応させられ、うんざりしている方も多いことでしょう。

実は、こうした変化はすでに予測されていました。複数の識者、複数の書籍によって。
本書もその一つです。

通勤の必要はなくなり、人々はテレワークやリモートワークに勤しむ。外出はするけれども、オンラインで友人と会話を楽しむ。
そんな未来です。
本書にはそのような世界が、2025年の姿として描かれています。

情報技術の進化が暮らし方・働き方に劇的な変化をもたらす。
そうした予測は、私は今までに読んだいくつもの書籍ですでに知っていました。
それらに共通していた論調では、暮らし方・働き方の変化とは、来るか来ないかの問題ではなく、変化の速度が緩やかなのか急なのかの違いだけ、ということでした。

本書はそうした変化がもたらす負の側面も描いています。
孤独に苦しんだり、距離の制約がなくなったことで、のべつまくなしにやって来る仕事の連絡に追い立てられる人。人口や環境問題の問題など。
本書は世界が変わる事は前提とした上で、その中で生きるための処方箋を書いてくれています。
今、コロナが席巻する世界で、今後の生き方について途方に暮れている方は、ぜひ読まれたほうがよいでしょう。

いくら複数の予測が変わりゆく未来を予測していたとはいえ、これだけの速度で働き方や暮らし方が変わってしまった以上、コロナが収束したとしても元に戻ることはないはずです。
先日もロサンゼルス・タイムズにLow-Tech Japanと揶揄されていた古いやり方には。

もはや古い働き方を懐かしむのではなく、新たな時代に適合していかなければ生き抜いていけません。
少なくともビジネスの世界では。

本書で豊富に挙げられている処方箋の中で、私の心に最も刺さったことがあります。
それはゼネラリストでなく、エキスパートとして生きることの勧めです。

私が本書を読んだのは2015/6/28のことでした。
当時、私は4/1に法人化を果たしたばかりで、次のステップに進もうとしていました。
それなのに、弊社と私の生き方をどうすればよいか考えあぐねていました。

思えば、それまでの私は、乱読に明け暮れ、ゼネラリストを目指していました。
博覧強記を誇り、世界の秘密を解き明かさんと読書に没頭するような。

そのため、当時の私は法人化を果たしたとはいえ、武器となるものを持っていませんでした。
あえて武器を探すとすれば、前年の7月にkintoneエバンジェリストに任命されていたことぐらいでしょうか。
ところが、当時の私は某プロジェクトの常駐現場にフルで入っており、kintoneのイベントにもほとんど参加できずにいました。
常駐現場の他にも、いくつかの案件を並行して請けていたとはいえ、今後の展望が持てないままでした。

そのタイミングで本書を読んだことで、私はゼネラリストからエキスパートにならねば、と思いました。
そして、その時から徐々に常駐現場を縮小し、2年半後に常駐現場を抜けることができました。
同時にkintone案件の受注を増やし、少しずつkintoneのエキスパートとしての認知度を増すように努めました。

私のキャリアの中でも、本書は思い出に残る一冊です。

そもそも、本書を読んだきっかけは、ハマドクというビジネス書の読書会で課題図書に取り上げられたことでした。
私が初めて参加した読書会で出会った本書。そうした意味でも記憶に残る一冊です。

ということで、三つ目のバトンを渡させていただきます。横浜で行政書士として活躍されているハマドク主催者の清水直( Sunao Shimizu )先生です。
弊社の設立時には大変お世話になりました。
また、オンラインでハマドクをやりたいですね。

それでは皆さんまた明日!
※毎日バトンを渡すこともあるようですが、私は適当に渡すつもりです。事前に了解を取ったうえで。
なお、私は今までこうしたチャレンジには距離を置いていました。ですが、このチャレンジは参加する意義があると感じたので、参加させていただいております。
もしご興味がある方はDMをもらえればバトンをお渡しします。

「ワーク・シフト」
単行本 ハードカバー:412ページ
リンダ・グラットン(著)、池村千秋(訳)、プレジデント社(2012/8/5出版)
ISBN978-4-8334-2016-7

Day1 「FACTFULLNESS」
Day2 「成吉思汗の秘密」
Day3 「占星術殺人事件」
Day4 「ワーク・シフト」
Day5 「?」
Day6 「?」
Day7 「?」

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【目的とルール】
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#7日間ブックカバーチャレンジ #WORKSHIFT


七日間ブックカバーチャレンジ-占星術殺人事件


【7日間ブックカバーチャレンジ】

Day3 「占星術殺人事件」

Day3として取り上げるのはこちらの本です。

Day2で書いた、私が生涯でもっと多く読み返した二冊の本。
その一冊がDay2で取り上げた「成吉思汗の秘密」で、もう一冊が本書です。ともに十回は読み返しているはずです。

Day2で私が読書の習慣にハマったのは9歳の頃、と書きました。
いたいけな私を読書の道に引きずり込んだのは、江戸川乱歩の少年探偵団シリーズでした。
ポプラ社から出されており、怪人二十面相や明智小五郎、小林少年でおなじみですね。

解決すると胸の支えがスッと取れる複雑怪奇な謎。そしてどことなく怪しげな、推理小説の放つ魅惑の世界。幼い頃の私はそうした推理小説の魅力に一気にハマりました。ルパン、ホームズはもとより、子供向けに書かれた世界の名作と呼ばれた本にまで手を出し。
友だちに本キチガイと呼ばれ、足しげく西宮市立図書館に通っていたのはこの頃です。

もっとも、私がハマっていたのは推理小説だけではなく、野球史や歴史小説、動物小説も読んでいました。ですが、ベースは推理小説でした。トラベルミステリーや三毛猫ホームズにもハマっていましたし。
そして、そんな私を最もガッチリと捕らえたのが本書でした。

本書は江戸川乱歩賞の応募作でしたが落選しました。
当時の推理小説はまだ社会派と称された推理小説(松本清張氏の一連の作品が有名です)の分野が主流で、謎解きに特化した本書の作風が選考委員の先生方に受けなかったのかもしれません。
ところが、本書の登場によって、謎解きに焦点を当てた本格派と呼ばれる推理小説が復権したのですから面白い。
私はそうした本格物と呼ばれる作品も読み漁りました。ですが、やはりルーツとなるのは本書です。

本書のトリックがどれだけ独創性に溢れていたか。そして意外な真相につながる驚きを秘めていたか。
それは後年に「金田一少年の事件簿」で本書のメイントリックが流用されたことからもわかります。
当時、少年マガジンで連載を読んだ時、すぐに本書のトリックのパクリや!と気づいたぐらいですから。

本書はまさに推理小説の魅力的な謎、そして謎が解き明かされる時の快感と驚きに満ちています。

そればかりか、世の中には不思議な事が確かに存在する事を教えてくれました。そうしたことは普通、学校では学べません。
また、不思議の背後には論理的なタネがあり、それはヒラメキと知識によって理解できることも。

後年、SEになった私が、アルゴリズムを解き明かした時の快感。
またはビジネスの流れをロジックで再現できた時の喜び。
本書を始めとした推理小説は、そうした喜びを私の無意識に教えてくれていたのかもしれません。

本書は推理小説のジャンルで何がおすすめか聞かれた際、自信を持って挙げられる一冊です。
推理小説に限らず、読書の喜びを知らない人にも。
実際のところ、本書をまだ読んでいない方はうらやましい。謎が解かれた時の喜びを新鮮に味わえるのですから。

もちろん、本書の他にも推理小説の名作は数え切れないほどあります。多分、百冊は挙げられると思います。
ここでは割愛しますが、皆さんがさまざまな作品に触れられますように。

ということで、二つ目のバトンを渡させていただきます。
本を愛する友人の 野田 収一 さんです。
野田さんはマーケターでありディレクターでありながら純文学にも造詣が深く、私にとっては文学談義を交わせる数少ない方の一人です。

それでは皆さんまた明日!
※毎日バトンを渡すこともあるようですが、私は適当に渡すつもりです。事前に了解を取ったうえで。
なお、私は今までこうしたチャレンジには距離を置いていました。ですが、このチャレンジは参加する意義があると感じたので、参加させていただいております。
もしご興味がある方はDMをもらえればバトンをお渡しします。

「占星術殺人事件」
文庫本:544ページ
島田荘司(著)、講談社(2013/8/9出版)
ISBN978-4-06-277503-8

Day1 「FACTFULLNESS」
Day2 「成吉思汗の秘密」
Day3 「占星術殺人事件」
Day4 「?」
Day5 「?」
Day6 「?」
Day7 「?」

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7日間ブックカバーチャレンジ
【目的とルール】
●読書文化の普及に貢献するためのチャレンジで、参加方法は好きな本を1日1冊、7日間投稿する
●本についての説明はナシで表紙画像だけアップ
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七日間ブックカバーチャレンジ-成吉思汗の秘密


【7日間ブックカバーチャレンジ】

Day2 「成吉思汗の秘密」

昨日に続いて、Day2として取り上げるのはこちらの本です。

私が読書の習慣にハマったのは9歳の頃。そして、私が読書リストをつけ始めたのが1995年の9月です。今日現在、延べ3604冊がリストアップされています。
そこから考えると、私が生涯に読んできた本はおそらく5000冊ぐらいでしょうか。
それらの本の中で私が生涯で最も読み返した本が二冊あります。本書はそのうちの一冊です。おそらく十回は読み返したはず。
これは私の祖父の蔵書にありました。カッパ・ノベルスでした。

著者の高木彬光氏のことは知らない方もいることでしょう。昭和20ー30年代に名声を博した推理小説作家です。
神津恭介という名探偵を創造し、戦後の推理小説界ではかなりの知名度を誇りました。

本書の内容はタイトルの通り、成吉思汗(ジンギスカン、チンギス・ハーン)の前半生の秘密に迫っています。
その秘密とはずばり、成吉思汗の前半生は源義経だった。奥州平泉で死んだはずの義経は死んでおらず、蝦夷、つまり北海道へと落ち延び、そこから大陸に渡ってジンギスカンとなった。というものです。

この説は著者の独創ではありません。すでに大正時代に小谷部全一郎という方が発表しています。さらにさかのぼれば江戸時代から信奉者がいると言います。
ところがその説は、いまだに歴史学の分野では定説とは認められていません。それどころか、荒唐無稽なトンデモ説だとレッテルが張られています。
いまの史家で、真面目に追求している方はいないのでは、と思われます。

あれ?
Days1で取り上げた「FACTFULLNESS」では陰謀説に惑わされたらあかんで〜とか言っておきながら、こんな本を紹介するんかいな。とお思いのあなた。すみません。

それでもこの本は、私を歴史や旅の愛好家にさせてくれた一冊なのです。

著者は手術後の病床で暇を持て余す神津恭介にこの謎を用意します。
ところがみるみるうちに神津探偵はこの謎を解くことに没頭してしまうのです。
それと言うのも、義経の死には謎が多すぎる一方、平泉から北に向けては、義経伝説が残された土地が散在しているからです。

私は23歳の頃、北海道を一人で旅しました。そして平取町の義経神社に詣でました。そして、そこの宮司さんと親しくなって本殿へ上げてもらいました。
神社に飾られていた武者の鎧。そして宮司さんから聞いた源氏紋の瓦が出土したと言う話。
それらは私に歴史のロマンをかき立ててくれました。

Day1で取り上げた「FACTFULLNESS」は現実に対処するための処方箋です。データこそは現実を裏切らないという考えに基づいています。
ですが、データを重視するあまり、想像力が圧殺されるとしたらやりすぎでしょう。
もちろん、自説をさも歴史的な事実であるかのように語ることはもってのほか。史実とロマンは全く違うものであり、現実と想像をきちんと分別できることが前提です。

その前提で、小説として歴史を解釈する自由はあっても良いと思います。それすら許されないとすれば、想像力は枯渇し、硬直した歴史解釈がまかり通ってしまいかねません。
邪馬台国がどこにあるのか。卑弥呼は神功皇后なのか。源為朝は初代琉球王なのか。上杉謙信や織田信長は女だったのか。天海僧正の前身は明智光秀なのか。豊臣秀頼は果たして薩摩に逃れられたのか。
そうした伝説が史実として認められることはまずないでしょう。
ですが、ロマンとして想像する自由はあっていい、というのが私の思いです。
さすがにFate/Grand Orderのように奔放に解釈されると、もうついていけませんが。

私はこの本によって歴史を旅先で感じ、そこにロマンを感じる喜びを知りました。もしこうした説がある事を知らなかった方がいれば読んでみてください。
くれぐれも使用上の注意をよく読み、用法・用量を守った上で。

ということで、一つ目のバトンを渡させて頂きます。
旅と歴史と湯と城と鉄を愛する友人の 水谷 学 さんです。
今、歴史を題材にした小説を書いていらっしゃるとのこと。
楽しみにしたいと思います!

それでは皆さんまた明日!
※毎日バトンを渡すこともあるようですが、私は適当に渡すつもりです。事前に了解を取ったうえで。
なお、私は今までこうしたチャレンジには距離を置いていました。ですが、このチャレンジは参加する意義があると感じたので、参加させていただいております。
もしご興味がある方はDMをもらえればバトンをお渡しします。

「成吉思汗の秘密」
文庫本:334ページ
高木彬光(著)、角川春樹事務所(2000/7/15出版)
ISBN978-4-89456-719-1

Day1 「FACTFULLNESS」
Day2 「成吉思汗の秘密」
Day3 「?」
Day4 「?」
Day5 「?」
Day6 「?」
Day7 「?」

★ ★ ★ ★ ★ ★ ★
7日間ブックカバーチャレンジ
【目的とルール】
●読書文化の普及に貢献するためのチャレンジで、参加方法は好きな本を1日1冊、7日間投稿する
●本についての説明はナシで表紙画像だけアップ
●都度1人のFB友達を招待し、このチャレンジへの参加をお願いする
#7日間ブックカバーチャレンジ #成吉思汗の秘密


七日間ブックカバーチャレンジ-FACTFULLNESS


【7日間ブックカバーチャレンジ】

Day1 「FACTFULLNESS」

情報親方こと、PolarisInfotech社の東野誠( @hmakkoh )さんからバトンを預かり、本日から「7日間ブックカバーチャレンジ」に参加させていただきます。
よろしくお願いします。 ※Facebookに記載した投稿をこちらに転載しています。

情報親方が最終日に挙げてくださった「kintone導入ガイドブック」は、表現の妙味が詰まった素晴らしい一冊です。
私はkintoneエバンジェリストを5年近く拝命しております。どの案件でも最初の打ち合わせで、kintoneの概要を説明する際には力を入れています。ここがずれていると、そのプロジェクトは頓挫するからです。
この導入ガイドブックはお互いの認識を一致させる上で助けになる一冊です。

私もゆくゆくは、こうした紙の出版物で自分の生きた証を世に問わねばならないと考えています。
そもそも、私は外出時に必ず一冊以上の本を携えないと、落ち着かない人です。書痴という言葉がふさわしいぐらいに。
弊社ブログに本のレビューをアップしていることも、私の生きた証を残さんとする活動の一環です。
そんなわけで、好きな本は七冊ではとても収まりません。なので、ジャンルごとに一冊ずつあげていこうと思っています。

Day1で取り上げるのは「FACTFULLNESS」です。昨年、ベストセラーになりましたよね。

今、コロナを巡っては連日、さまざまな投稿が花を咲かせています。
その中には怪しげな療法も含まれていましたし、私利私欲がモロ見えな転売屋による投稿もありました。
また、陰謀論のたぐいが盛んにさえずられているのは皆様もご存じの通りです。

私はFacebookでもTwitterでも、そうした情報を安易にシェアしたりリツイートすることを厳に謹んでいます。なぜなら、自分がその道に疎いからです。
それにもかかわらず、四十も半ばになった今、自分には知識がある、と思い込んでしまう誘惑に負けそうになります。
それは、私のように会社を経営し、上司がいない身であればなおさらです。
独りよがりになり、チェックもされないままの誤った情報を発信してしまう愚は避けたいものです。

本書は、私に自分の無知を教えてくれました。私が世界の何物をも知らない事を。

著者は冒頭で読者に向けて13問の三択クイズを出します。私はこのうち12問を間違えました。
著者は世界各地で開かれる著名な会議でも、出席者に対して同様の問いを出しているそうです。いずれも、正答率は低いそうです。

本書の問いが教えてくれる重要なこと。それは、経歴や学歴に関係なく、思い込みで誤った答えを出してしまうことです。
著者によれば、全ては思い込みの産物であり、小中高で学んだ知識をその後の人生でアップデートしていないからだそうです。
つまり学校で真面目に学んだ人ほど、間違いを起こしやすい、ということを意味しています。(私が真面目だったかはさておき😅)

また著者は、人の思考には思い込ませる癖があり、その本能を拭い去るのは難しいとも説いています。

本書で説いているのは、本能によって誤りに陥りやすい癖を知り、元となるデータに当たることの重要性です。
同時に著者の主張からは、考えが誤りやすいからといって、世の中に対して無関心になるなかれ、という点も読み取れます。

本書はとても学びになる本です。少しでも多くの人に本書を読んでほしいと思います。
コロナで逼塞を余儀なくされている今だからこそ。
陰謀論を始め、怪しげな言説に惑わされないためにも。

それでは皆さんまた明日!
※毎日バトンを渡すこともあるようですが、私は適当に渡すつもりです。事前に了解を取ったうえで。
なお、私は今までこうしたチャレンジには距離を置いていました。ですが、このチャレンジは参加する意義があると感じたので、参加させていただいております。
もしご興味がある方はDMをもらえればバトンをお渡しします。

「FACTFULLNESS」
単行本
日本語版(ソフトカバー): 400ページ
ハンス・ロスリング、オーラ・ロスリング、アンナ・ロスリング・ロンランド (著)、上杉周作、関美和 (訳)、日経BP社 (2019/1/15出版)
ISBN978-4-8222-8960-7

Day1 「FACTFULLNESS」
Day2 「?」
Day3 「?」
Day4 「?」
Day5 「?」
Day6 「?」
Day7 「?」

★ ★ ★ ★ ★ ★ ★
7日間ブックカバーチャレンジ
【目的とルール】
●読書文化の普及に貢献するためのチャレンジで、参加方法は好きな本を1日1冊、7日間投稿する
●本についての説明はナシで表紙画像だけアップ
●都度1人のFB友達を招待し、このチャレンジへの参加をお願いする
#7日間ブックカバーチャレンジ #FACTFULLNESS


蜩ノ記



人はいつか死ぬ。それは真理だ。

大人になるにつれ、誰もがその事実を理屈では理解する。そして、死への恐れを心に抱えたまま日々を過ごす。
だが、死への向き合い方は人それぞれだ。
ある人は、死の現実を気づかぬふりをする。ある人は死の決定に思いが至らない。ある人は死に意識が及ばぬよう、目の前の仕事に邁進する。

では、死の到来があらかじめ日時まで定められているとしたら?

本書は、あらためて人の死を読者に突きつける。
死ぬ日が定められた人は、いかに端座し、その日を迎えるべきなのか。

本書は江戸時代の豊後の羽根藩が舞台だ。まず、江戸時代という時代の設定がいい。
戦国の世の刹那的な生と死の観念を色濃く残す時代。
それでいながら、合戦がなく平穏な時代。
死ぬ覚悟を常に懐に抱えているはずの武士も、気を緩めると保身への誘惑に屈してしまう。江戸時代とは、武士にとって自らの存在意義が試される時代でもあった。

そんな時代を生きながら、自らに下された死を受け入れ、決められた死までの日々を屹然と受け入れる男がいる。
その男の名は戸田秋谷。
秋谷が死を下された理由。そこに秋谷の咎はない。
にも関わらず、秋谷は決然として生きる。死を嘆いたり、運命にあらがったりしない。
藩から命じられた家譜編纂の仕事を粛々とこなしながら、妻子を養っている。
その凛とした姿は、近隣の民からは尊敬の念を向けられている。

秋谷の家譜編纂の手伝いを命じられたのが壇野庄三郎。
彼は、藩内で誤解から生じた刃傷沙汰を起こし、藩から謹慎を命じられる身だ。
庄三郎は戸田秋谷の家に住み込み、生活をともにしながら仕事を手伝う。手伝いを名目に掲げているが、庄三郎が言外に受けた命とは、実際には秋谷の監視役を兼ねていることは明らか。
藩からの命には、編纂する家譜の内容を監視する役目もあった。
秋谷が死罪を命ぜられるに至った事件のあらましを、秋谷自身が自分に有利なように改ざんせぬよう監視する役目。そこには、藩の思惑を感じさせる。

秋谷の一家は、秋谷の病弱の妻織江や、娘の薫、息子の郁太郎からなる。秋谷の一家と暮らすうち、庄三郎は秋谷の人物に惹かれてゆく。
秋谷が死に値する軽挙を犯すような人物にはとても思えない。秋谷の人物の深みからは、そうした軽々しさが微塵も感じられない。
藩から命に何かの思惑が潜んでいるのではないか。それは藩の歴史に関する何かの秘密に関するのでは。藩への忠誠が薄らぎだすとともに、藩からの任務と戸田家への思いの間で庄三郎が板挟みになる。

他の諸藩と同じく、羽根藩にも問題がある。それは代官による収奪や、それに抗する百姓の反抗として現れていた。
ところが、秋谷の治めた地ではそうした騒ぎが起きない。それは秋谷の人物に民が畏敬の念を持っていたからだ。
秋谷の薫陶を受けて育った郁太郎も村の少年と分け隔てなく交わる。秋谷自身に身分で人を判断せず、公平に接する考えがあり、それが一層、民の心を惹きつけていたのだろう。

ところが藩から民に対する圧力は増し、藩の暗躍も盛んになるばかり。
民と藩の緊張が高まる中、秋谷はどう身を処するのか。
秋谷と庄三郎の共同による編纂作業は進み、藩の過去に潜む事情も明らかとなる。そして、その作業は、秋谷の死罪が無実である確証も明らかにした。
だが、調査が進むにつれ、秋谷の死の期日も刻一刻と近づいてゆく。

本書で描かれるのは、もののふの姿だ。秋谷という一人の男の。
合戦はなくなり、武士が統治する立場を利して薄汚れた利権を漁るようになって長い。
そのような風潮の世にあって、秋谷が自分を律する態度の気高さ。

冒頭で本書の舞台は江戸時代であり、生と死の観念が戦国の余韻を残すと書いた。
ところが、本書の舞台となる時期は、十九世紀に入ってすぐの頃だ。大坂の役からは百八十年、島原の乱から数えても百六十年は経過している。
実は本書の登場人物たちが生きる時代は、現代の私たちが最後の戦い(太平洋戦争)を体験した時間より百年ほど長く太平の時代に生きている。
私たちが最後に戦争の廃虚を目にしたのは七十年前に過ぎないというのに。

その事実に思い至った時、死を達観しているように見える秋谷の態度を時代が違うからと片付けるのは乱暴に思える。
秋谷の生き方と対立する、利権と保身に凝り固まった藩の重鎮たちも、私たちは心から軽蔑できるのだろうか。
著者はそうした問いかけも含めて本書を記していることだろう。
現代人の死生観が急速に変質してしまった事。今の日本人が失ってしまった厳しい生と死の観念。
それらを秋谷の生きざまを通して描いているのが本書だ。

もう一つ、本書が描くのは親から子への生きざまの伝え方だ。
本書が最も感動を与えるのがこの部分だ。
親の責任。それは時代が違っても変わらない。
親として子に何をか伝え、何をか教えるべきか。それはどういう方法が適切なのか。
現代の親もぶち当たる悩みだ。もちろん私も親として試行錯誤した。親としての振る舞いは難しい。

親としてのあり方を秋谷は示す。
本書も終盤に差し掛かる中、秋谷の親としての本領は発揮される。息子に、そして娘に。最も心を動かされる場面だ。
そこから読み取れるのは、たとえ時代が違っても、親と子の関係は普遍である事だ。
将来、社会のあり方がどう変わろうとも、親と子の生物としての関係は維持されるはず。
その時も親と子の中で受け継がれるべき本質は変わらないはず。その本質を本書は教えてくれる。

私も娘二人の子育てが終盤に近づきつつある。
ひょっとしたら娘たちはそれぞれの伴侶を得、私にとって義理の息子ができるかもしれない。そうなった時、息子を育てたことがない私にとっては、新たな試行錯誤の日々が始まることだろう。
本書から得られるものは多い。

名作として心に刻んでおきたい一冊だ。

‘2019/3/9-2019/3/10


夏の名残りの薔薇


「去年マリエンバートで」という映画がある。私はまだ見たことがない。
本書はその世界観に影響を受けて書かれたそうだ。著者があとがきで書いている。

本書は、あるホテルに集う人々が次々に殺されてゆく話だ。
もちろん、そうした設定だけでは何も目新しさはない。だから、本書は新しい趣向を凝らしている。
その趣向は、本書に不思議な感覚をもたらしている。

それは死んだ人が生き返る、という設定だ。
といっても、何も作中で超常現象が起こることはない。あくまでも生と死のルールは厳密に守られている。
ただし、本書の各章では一人ずつ殺される場面が描写される。そして、次の章ではそのシーンが再現される。ただ、再現されたシーンでは、人は死なない。替わりに物が落ちたり壊れたりする。
その章が終わりを迎えるころ、別の人間が違うシチュエーションで殺される。
ところがその次の章では前の章で人が死んだはずのシーンが再現されるが、再現シーンでは人は死なず、替わりに物が落ちたり壊れたりする。
そんな入れ子のような構成が各章で繰り返されることが本書の特色だ。

何食わぬ顔で死んだはずの人が動き回る。
それは読者に奇異な印象を与える。
死んだ人が動き回っている状況の不可解さについて、作中の人物は誰もが何も問いただすことはない。
だから読者は、何事もなかったかのように話が進むことに、どこか引っ掛かりを覚えながら本書を読み進める。
そんな奇妙な構成を持つ本書は、推理小説のルールを逸脱することはない。読者の興を削がず、それでいながら奇妙な構成が読者の興味を惹くところが本書の面白さだ。

「去年マリエンバートで」の作中に交わされるセリフが、本作の至るところに引用される。
引用された台詞は本書の内容に全く影響がないように思える。
だが、引用されたセリフ自体は、少なくとも「去年マリエンバートで」をみていない私のような読者には全く意味が解らない。そのため、読者はセリフによってさらに不思議な感覚に満たされていく。

「去年マリエンバートで」は、過去の出来事を思い出せない人物が、過去の出来事を知る人物から延々と自分との思い出を語られる。
その内容は難解で、それぞれに時間軸の違う四つの話が並行して進められる。その並行した挿話を意図して編集することで、どの時間軸の話が語られているのか、一見すると分からなくなるような趣向が仕掛けてあるらしい。
つまり、話者をあえて切り替えることで、それが事実なのか記憶の中の出来事なのかを意図して混乱させることが狙いなのだろう。

本書もまさに、そうした狙いに沿って書かれているように思える。
第一変奏から第六変奏まである本書の構成の中で、六通りの記憶と六通りの現実が組み合わさる。
合わせ鏡に映った複雑な組み合わせの中から、何が真実の出来事なのかを突き止めなければならない。
読者にとっても複雑であり、最後まで読まないと全体像が見えないことが、読者のページを次々と繰らせる。

そもそも推理小説とは虚構の出来事だ。そうである以上、記憶の中の出来事を描くことは、アンフェアには当たらないはず。
だから閉ざされたホテルという空間で起こった本書も、記憶の中の出来事が重層的に並行して語られることで、一風違った色合いを見せる。
閉ざされた空間を逆手に取った著者の工夫が際立っている。

本書には高齢の三姉妹が登場する。彼女たちの生い立ちにも、本書の謎を解くカギが隠されている。
そして、冒頭から三姉妹が語り合う無意味に思えるとりとめもない会話こそが、謎そのものになっている。
それは、本書の構成の謎自体にも影響を与えている。

あとがきで著者が本書の解説をしているが。
まさに本書は、著者が「去年マリエンバートで」から受けた感動を小説という形で昇華した作品である。
本書を読み、私は「去年マリエンバートで」を観なければならない、と強く感じた。
そうした時間と空間とレトリックが歪んだ小説は私の好むところだからだ。
そして、それが推理小説の形で提示されたところに本書の妙味があると感じた。

推理小説は、かなりの形式で出版され、あらゆる可能性が出尽くしてきたころだと思う。
今後は、より前衛的な設定とアバンギャルドな展開を持った推理小説が出てくるだろう。
その中には、ラテンアメリカ文学でよく知られるようなマジック・リアリズムにのっとった作品も登場するに違いない。
時間と空間と視点を歪め、混乱させた作品。それは推理小説のルールを破壊していると非難されるかもしれない。
だが、推理小説とはそうしたフェーズも含めて展開していくべき時期にきていると思われる。本書はその試みの一つとして覚えておきたい。

「心地よく秘密めいた恩田陸」と「恩田陸スペシャル・インタビュー」は末尾に収められた杉江松恋氏による文章だ。
この二つの文章からは、杉江松恋氏がとてもよく著者の作品を読み込んでいることが分かる。綿密に分析された構成は、この二つの文章だけで一つの作家論として成立しているほどだ。
この二つの文章を読むと、私が著者の作品はまだまだ読めていないことを痛感する。まだまだ読むべき著者の作品は多いのだ。「去年マリエンバートで」のような映画も含めて。

‘2019/3/2-2019/3/8


パソコン入門


この本を読んだのは3/1にkintone Café広島が開催される前日だ。
なぜ、本書を読もうと思ったのか。
それは、kintone Café広島で私が話す内容が、自治会向けにkintoneは導入できるのかというテーマだったからだ。
このように書くと失礼にあたるかもしれないが、自治会の方は情報技術には詳しくないと考えておいたほうがいい。

今の私は、情報技術で飯を食っている。しかも、クラウドを主に扱っている。
汎用機や、メインフレーム、マイコンといった言葉とは縁がない。
また、情報業界で長くにいると、ユーザーの気持ちを理解しているつもりが、ユーザーの知識と立場から乖離してしまいがちだ。
それはまずい。だから、初心に戻る必要があると思った。

本書は1988年に出版されている。
1988年といえば、昭和の最後の年とみなして良い。
まだWindowsすらこの世に産まれていない頃だ。スマホもなければSNSもなく、GoogleどころかYahoo!すら生まれていなかった。ExcelやWordは生まれていたが、今の機能や見た目とは比べものにならない。
インターネットのホームページを見るためのブラウザーもInternet ExplorerどころかNetscape Navigatorすら生まれていなかった頃だ。

本書はその時期の視点で描いている。
そのため、まずパソコンとは何か、という地点から論を始める。その上でコンピューターがどのように発展してきたかを振り返る。
また、本書の視点は、パソコンがどうやって使えるのか、何に役立つのか、という視点まで立ち戻っている。本書が出版されて30年後の私たちから見ると、時代の流れを感じる部分だろう。

ところが、本書で言及されているパソコンの構成や仕組みは、実は30年をへた今でも全く変わっていないのだ。
CPUがあり、メモリがある。ディスプレイがあって、プリンターがある、スキャナがある。通信のコードがあり、マウスとキーボードがある。実は、ハードウエアの構成、つまりアーキテクチャーは、当時と今を比べてもほぼ変わっていない。

こうした点を考えると、当時、こうした処理の原則を考えた人々の慧眼には驚かせられる。
なぜなら、これほどまでに情報社会になった今も、私たちは、この頃の人々が考えた構成をそのまま踏襲しているだけに過ぎないからだ。

もちろん、当時と今では変わっている点は多い。
例えば、無線技術が進展した結果、有線ケーブルが姿を消した事。例えば、集積技術が発展した結果、容量や処理速度や画素数や密度が大幅に増強された事。
それらが意味するのは、メモリの処理速度であったり、ハードディスクの容量であったり、CPUのクロック数、つまり性能がアップしていることだ。ハードウエアの能力が飛躍的に向上した結果、私たちはクラウドだA.I.だと言っているが、実はそうした概念を支えているのは、古人の遺産に乗っかっているだけに過ぎないのだ。
本書を読み、かつてのパソコンの周辺構成に触れるにつけ、その事実が実感できる。
当時の人々は決して笑ってはならない。

本書は、パソコンが動く仕組みについての説明に多くの紙数が割かれている。
その説明とは例えば、アドレスの仕組みであり、恒常的に記憶するメモリと作業の上で一時的に記憶するメモリの違いについてだ。さらに、二進数や八進数を相互で変換することによって記憶や処理をどのように分岐するかについての説明だ。

私はシステム・エンジニアの端くれだ。普段からプログラミングを行っている。
ところが、こうしたパソコンが動く根本の仕組みについての知識はないに等しい。なぜなら、そうした知識は、日々のシステム構築の中ではめったに必要がないからだ。
すべては知らない間に用意され、裏側で構築されたアーキテクチャーの上に乗っかっている。それが私の実体だと思っている。
そうした原則に目を配らなくてもクラウドは動く。それはもはや信仰に近いものかもしれない。

そう。今のシステムとは実はそうした信仰を基盤として動いている。
実は、パソコンの性能の発展が成し遂げた最も大きな成果とは、コンピューターの基礎に関する知識がなくてもシステムが作れる環境を用意したことではないだろうか。
それはもはや信仰に近いものがある。

だから、本書が語っているパソコンの未来の予想図は、それほど間違ってはいないと思う。
これは日進月歩の技術の世界の通念から考えてみるとすごいことではないだろうか。
今のようにSNSで誰もが自由にコミニケーションし、ウェブのシステムを通して世界中でさまざまなビジネスが行われる。動画で自分を発信し、表現する。SNSに写真を載せ、言語の違いを乗り越えて交流を持つ。
そのような未来の原型は、全て本書の中に描かれ、予言されている。

逆に言うと、今の私たちが到達した地点は、本書で書かれているようなレベルの範疇に収まっているとも考えられる。
私たちはまだ、技術的なビックバンに遭遇していないだけで、すぐそこに大変革が待っているのかもしれない。2045年のシンギュラリティの実現を待たずして。
その大変革の波にうまく乗れた人は、これからの社会を文字通り変革していけるのかもしれない。

本書にはスティーブ・ジョブズや、ビル・ゲイツといった今の情報技術にとって欠かせない人々も登場する。
とはいえ、彼らの出番は、AppleⅡやビジカルクやマルチプランといったOSやソフトウエアが紹介されるなかで登場するだけだ。ソフトウエアがハードウエアやビジネスの在り方を決定的に変えてしまう未来は、著者の想定の範囲外だったにちがいない。
何しろ、本書にはWindowsという言葉すら出てこない。ExcelもiPodも登場しないからだ。
だが、そうした一握りの先駆者がどれほど世の中を変えたかについて、今の私たちはよく知っているはずだ。
アイディアだけで巨万の富を築いた人は多い。そうやってパソコンに未来を見いだした先見の明は、今の私たちにも役立つと思われる。

本書は、過去を語っているが、過去をきっちりと基盤にしないと未来に向けた道筋は作れないことは、皆が周知のことだ。
そもそも、情報社会といっても、たかだか30年程度の歴史しか持っていない。
それを思うと、世の中のあらゆる組織にITが行き渡っていると考える方がおかしいのかもしれない。
そのような謙虚な思いにさせてくれる。それも本書の良いところだ。

自治会の改革も、拙速にならぬよう、それでいて時代の流れに応じた提案を行っていくべきだと思う。
まずはその両立を心掛けたいと思う。

‘2019/02/28-2019/02/28


球体の蛇


17歳と言えば、男にとってはいろいろな悩み多き年だ。
性の問題もそう。これからの人生をどう生きるかということもそう。

本書は、17歳の迷いに満ちた友彦の物語だ。
友彦は、若さゆえの過ちと勘違いからさまざまな人々に取り返しのつかない事をしてしまう。
その過ちとは、人の密やかな営みを覗き見る衝動である。その勘違いとは、人の心を傷つける言動のことだ。
軽率な思い込みが、どのような運命を人々に与えるのか。そしてその勘違いと苦しみに人はどれぐらいの期間、引きずられていくのか。
過去の過ちをその後の人生に活かす人もいれば、一生を棒に振ってしまう人もいる。

本書はそのような友彦の過ちと勘違いを描いている。

本書には、家族に対する歪んだ前提がある。
友彦の母は、父が極度に家庭に対して無関心な態度に嫌気が差し、家を出る。
しかも父は主人公に対しても愛情を注がない。
父は東京に転勤になったことをきっかけに、友彦にも東京に来ないかと誘う。だが、父の誘いが上辺だけに過ぎないと見切った友彦はその誘いを拒む。
その結果、友彦が居候することになったのが、シロアリ防除をなりわいとする乙太郎の家だ。その家には乙太郎と娘のナオが住んでいた。

その乙太郎の一家はかつての過ちである、とある事件が原因となって母の逸子さんと姉のサヨをなくしている。
姉のサヨは幼い頃から友彦にとって憧れの対象だった。そして、心の底で何を考えているか伺い知れない人物だった。
幼い頃からサヨのずる賢い心根を知ってしまった友彦には、サヨの裏の顔もまた、怖さであり魅力でもあった。
そんな乙太郎の家族の悲劇の出来事に、友彦は深く関わっている。ただし、姉のサヨが抱えていた秘密は友彦しか知らない。

友彦は居候のまま、乙太郎のシロアリ防除の仕事をアルバイトで手伝っている。
シロアリ防蟻の仕事はシロアリを見つけ、訪問して駆除する作業が主だ。街でもひときわ目立つ大きな家に訪問した際、友彦は亡くなったはずのサヨにそっくりの女性を見かける。

その女性は、その家に住んでいないようだ。おそらく、その家の主人に囲われた、人目を忍ぶ立場にあるらしい。
それを知った友彦は、あろうことかシロアリ防除の営業で訪れた際に知った床下のルートをたどり、夜中に忍び込む。そして、床下から二人の秘め事を息をひそめて聴き入る悪癖に手を染めてしまう。
17歳の性の好奇心は、友彦から理性を奪ってしまう。

友彦の耳に飛び込んで来るのは、行為の終わった後に女性から漏れてくる忍び泣き。
好奇心が募り、女性にも並々ならぬ関心を抱く友彦。
ところがある日、友彦が床下に忍んでいるタイミングでその家から不審火がおこり、家が全焼する。そして主人が焼死体で見つかる。
その火事は女性にとっても友彦にとっても晴天のへきれきだったはず。

火事からしばらく後、友彦はその女性智子と街の中で出会う。
その出会いからさらに運命の糸がもつれ合ってゆく。
体の関係はないにもかかわらず、智子の家に通う友彦。ところがその智子はほかにも秘密を持っているらしい。
そもそも火事の原因は何なのか。そうした秘密が二人の間に無言で横たわっている。その事を智子に問いただせないまま、友彦は疑いを抱き続ける。

そうした友彦のただれたように見える関係がナオにとっては許せない。
乙太郎の家でも緊張が徐々に高まりを見せていく。
さらに、母の逸子さんと姉のサヨさんが亡くなった過去が蘇ってくる。
友彦は煩悶し、結局、高校を卒業したことを機会に上京し、乙太郎の家を離れる。そして大学の近くで下宿生活を始める。
上京によって友彦は新たな環境になじみ、それなりの生活を始める。
ところが過去の思い出は友彦を運命へと導いていく。過去に苦しみ、それがさらなる運命へと友彦を追いやる。

過去の謎と火事の謎。それらは全て勘違いとすれ違いの産物だった。
一体、何が起こったのか。乙太郎の家と友彦の家。
あらゆる過去の出来事がしがらみとなって友彦を縛る。

人は神ではない。すべての事情を知ることは不可能だ。相手の心を推し量ることも出来ない。
しかし、刹那の衝動から起こった人の行動は、取り返しの付かない結果を巻き起こす。
相手の心がわからない。それがすれ違いを生み、そのすれ違いが事態をますます混乱させてゆく。人の生死を左右するまで。
人の振る舞いはその時の状態とタイミングによって、取り返しのつかない傷を相手に与えることができる。

過去の誤りにも関わらず、人生は続く。
その過ちを時間がどうやって癒やすのか。そもそも、人は過去の過ちをいつまで引きずらねばならないのか。
若さゆえの罪が、将来の人生において足かせでなくなるのはいつか。

これを書く私自身、取り返しのつかないミスを今までに何度もしでかした。
多分、敏感な心の持ち主にとっては、日夜苛まれるレベルのミスだろう。
主人公と同じような苦しみに染まってしまったこともあった。鬱に落ちたこともあった。
だからこそ本書で描かれる世界は、私にとって切実だった。

それは私だけでない。すべての青年期を潜り抜けた人にとって、本書で描かれるテーマは切実な問題だったはずだ。
だから、本書を読むと重苦しい思いにとらわれる。
だが、ある程度の人生をへた人にとっては、そうした苦さこそが人生に濃淡や深みを与えることも理解しているだろう。
さらに若い人にとっては、今の自分がまきこまれている人生の難しさが、将来には糧となるはず、と本書を読むことで救いなるかもしれない。
喜怒哀楽がすべてない交ぜになった人生が球であり、抗いきれない衝動が時折、蛇となって人生を操ってしまう。生きることとは、そうした営みなのだ。

本書の結末は、それまでの嵐のような展開が落ち着くべきところに落ち着いておわる。
だがそれは、ある意味では怖い結末でもある。
この結末をハッピーエンドと見るか、それとも人生という救い難い苦行の象徴とみるか。
人生とは希望にも満ちたものである一方、苦悩の連続でもある。

‘2019/02/26-2019/02/27


教団X


この作品には衝撃を受けた。

文学史上、名作と語り継がれる作品には語り継がれる名場面がある。
読者の感情を揺さぶり、読者が抱いている世界と人生の概念を大きく書き換える場面が。

本書で名場面を挙げるとすれば、教祖が世界の様相と人生の意味を語りかける場面だ。本書の中では前半に登場する。
この場面は圧倒的だ。

私たちはどういう存在なのか。生を享け、意思を持ち、欲に駆り立てられるのはなにゆえか。
私たちの自我と世界の間にある見えない壁は絶対に破れないのか。
そもそも私たちの思惟とは、死んだら”無”に消えゆくしかない定めなのか。死ねば世界は消えてしまうのか。
時間と空間に限りはあるのか。その無限の範囲の中で私たちの生は何ほどの意味を与えられているのか。

古来、こうした話題は哲学者が考え抜いてきた。そして幾多の優れた文学作品の中で登場人物の悩みの対象となってきた。
例えば「カラマーゾフの兄弟」の大審問官の章でイワンとアリョーシャが論を戦わせたように。

だが、大半の人にとって、世界の中で自分がどのような意味があるのか、と言った問いは高尚にすぎた。人がそのような高邁な意思を語るなど恐れ多いと、考えること自体を避けてきた。
その方が悩まずに済むからだ。
人生の意味に答えなどたやすく見当たらない。だから、神の意思に預けてしまう。
人類の存在する意義とは、神の意思によるものでしかない。だから 気楽に生き、自然に苦しめられたらそれまで、というのが大衆の処世術だった。

神が預言者に託した生き方の意味。それを伝える場。それこそが宗教の役割だ。
そして、教祖が説いた生き方の意味を人々にあまねく広め、皆で考えるための装置として教団が結成された。
信者は信教の名の下に集い、神の代弁者に従う。教祖が語った生きる意味をありがたく崇めながら。

ところが、時代が経過するとともに、教祖が語った生き方が時代に合わなくなってきた。
それは科学技術が進展した事が大きい。
例えば天動説から地動説へと天体の動きは変わり、例えば生命の起源は神による創造から果てしなき淘汰の連続の結果である進化論へ。

ありとあらゆる科学的な事実が、教義に書かれた内容と次第に乖離してゆく。
信者の間に疑念が湧く中、教団はひたすらに抗ってきた。
ルネサンスがイタリアを中心に科学の発展を進めてきたが、そのお膝元であるカトリックが科学の事実に最も抗ってきたのは皮肉な話だ。
教皇が科学の事実の正しさを認めたのはようやくここ数十年のこと。
今や、教義に科学の知見を取り入れなければ、信者をつなぎ止められない。そんな時代がすでにやってきている。

ニーチェが神に死を宣告したように、神の絶対が科学技術の前に薄らぎつつある。果たして神と科学はともに並び立つものだろうか。
いや、今の時代こそ、宗教が科学の最新の成果を取り入れつつ、人としての生き方を示すべき時期だと思う。

科学を啓蒙する書は数多く出版されている。だが、そうした書の多くは、科学の知識の紹介に終始しがちだ。
科学が日々の暮らしにどう絡んでくるのか、人としてどう生きるべきかを考える際に科学がどう役に立つのか。そうした深い論点にまで立ち入り、分かりやすく説いてくれる書にはなかなか出会えない。

だが、本書の価値はそこにこそある。

教祖が穏やかな語り口で語る思索。意識や生の根源にまで迫らんとする思索の切っ先は鋭い。それでいながら難解に陥らず、とても分かりやすい。
最新の科学技術の成果も惜しげなく盛り込みながら生命の実存とその進化の成果である人間の意志のあり方に迫っている。

本書の前半で著される教義の深さと広がりは、わたしが今まで読んできたわずかな宗教書や哲学書、啓蒙書の中では群を抜いていると思う。
最新の科学の知見を吸収し、本書のような形で著すまでには、並大抵でない著者の苦労があったことと察せられる。

だが往々にして宗教が組織になると、教義そのものよりも組織の維持が目的と化してしまう。それが組織の宿命だ。
そして宗教とは、人の弱さを救うことに重きが置かれている。
つまり、人の弱さと宗教は不可分なのだ。だからこそ、人々の切実な思いが渦巻く教団にはそうした弱さやそこから生まれた醜さが沈殿してゆく。

本書には、そうした教団の宿命である醜さがことさらに描かれる。
欲にまみれ、欲に耽溺しながら、欲から逃れようとあがく人々。
むしろ、欲とは抑圧することが救いではなく、解放することが救いにつながるのだろうか。

本書で描かれる性の狂宴は、ポルノよりも赤裸々ではるかにどぎつい。
欲が人間にとって避けられず、人間の存在の影となって分かり難いことは必定。
それ故、著者は欲をベールに一切包まず、斟酌もしない。たださらけ出す。煽情的に挑むようにありのままを描く。
欲をありのままに描くには性欲を描くことが最も伝わりやすい。
欲に身を任せ、欲に溺れる自分を認めてこそ、弱い人間であり、宗教こそがそのような弱い存在を救いうる。

自らの醜さに気づけば気付くほど、教祖が語る教義の説得力は増す。

著者が力を入れたのは、本書で描いた教義をどれだけ真に迫った内容に研ぎ澄ませるか、だったと思う。
そのため、本書の筋運びに意外性を持たせる必要はなかったはずだ。

本書で描かれるカルト教団。その姿から思い起こせるのはオウム真理教だ。まだ、記憶に新しい一連の事件と教祖の逮捕劇。
果たしてあの凶行によって、カルト教団がはびこる芽は全て摘まれたのだろうか。
私はそうは思わない。

人が生きる意味や目的はどこにあるのか。人は何を目指せば良いのか。
おそらくその真理はどこにもなく、誰にも教えられないはずだ。
結局、その意味は一人一人が探し求めるしかない。
その道は一生を賭けてもどこにも見当たらない可能性が濃い。道を探すことに疲れ諦めた人々が宗教に救いを求める。その図式が存在する限り、宗教はこれからもあり続けるだろう。そしてカルト教団も跳梁することだろう。

もし文学が、少しでも宗教のかわりになる存在であるとすれば、本書もその中の一つに加えられるべきだと思う。

‘2019/02/21-2019/02/26


怒り(下)


上巻で著者がまき、そして丹念に育てた疑いの種。
その疑いは、藤田優馬からは同居する大西直人へ向けられ、洋平からは娘の同棲相手の田代へと向けられ、泉からは無人島で出会った田中へと向けられる。はらむ闇を濃くしながら。

下巻では、登場人物たちの心に巣食い始めた相手への疑いが、当の本人を翻弄してゆく様子が描かれる。疑いが心に巣くい、行動は乱れる。その結果、疑いの対象となる人物との関係もぎくしゃくする。

疑いによって壊されるもの。それは、安心できる関係だ。
安心できる関係は、人が社会を営む上で欠かせない。
日本の文化では特に安心が重んじられる。安心とは同じ組織の中で長い時間をともに過ごすことで醸成されてゆく。
欧米のように契約に裏付けられ、個人単位で身につける信頼に基づいた関係とは違う。

本書の三つの物語に登場し、周囲の人々を不安に陥れる人物。彼らは何かの屈託を抱え、容易に素性を明かそうとしない。信頼はもちろん、安心の属性すら備えていない。
社会や組織にとって安心しにくいのは、外部からやってきて日が浅い人物だ。
いくら気を許したようでも、安心が根本にない関係はもろい。
一度、心に疑いが生じた時、まっさきに疑いの対象となるのは、安心が醸成できていない人物だ。

日本人の気質とでも呼べそうな、安心の上に乗ったもろさを著者は三つの物語の中で丹念に書いてきた。
ひょんなことから生じた一期一会の縁。その縁が安心の域に達する前にニュースに流れた疑いのタネ。その疑いが登場人物の関係をかき乱してゆく。

果たして山神一也は誰なのか。徐々に捜査の網が狭まり、読者に山神の身体の特徴が開示されてゆく。それは三人の怪しげな男たちにも少しずつ備わっている。
そうやって情報を小出しにしながら、著者は読者の興味を逃がさない。繊細かつ絶妙に著者は物語を進める。

そもそも、本書のタイトルである「怒り」とは何か。
それは、山神一也が逃亡する前に殺した夫婦の家の壁に大きく書きなぐった文字だ。
怒りとは、何に対して向かった感情か。他人の振る舞いへ向けられた怒りなのか。それとも自分の置かれた境遇への怒りなのか。あるいは自分の不甲斐なさに憤る怒りなのか。そもそも社会の仕組みへの怒りなのか。

山神は、匿名掲示板に罵倒と呪詛に満ちた書き込みを繰り返していたという。それらの書き込みで山神は他人の振る舞いをあざ笑っている。
そこから感じられるのは山神の視野の狭さだ。自分を客観視できず、他人の振る舞いの欠点をあげつらい、攻撃することに終始する。
山神の視野には自分の振る舞いが今の境遇を招いたという反省はないはずだ。それどころか、山神には社会の仕組みも見えていないはずだ。
そうした山神の怒りの根源には、他者への共感の欠如があると言える。

では、他者への共感は簡単に身につけられるものだろうか。それは正直、難しい。生まれてから保護者に養育され、地域や学校で対人関係の機微を学んでいればよいが、その機会が与えられなかった場合、共感を欠いたまま成長してしまう。
仮に生まれてからの環境によって相手の気持ちを理解できたとする。それでも、相手の気持ちを慮るには、まず相手の気持ちを読み取る能力が求められる。
それだけならよいが、世の中を生きていくにはさらに複雑な思惑としがらみがからんでくる。ましてや、本書で描かれるように疑心が紛れ込むと、相手を理解することはますます容易ではなくなる。

私が思うに、山神の抱く怒りとは、自分や他人や社会に向けられたものというよりも、もっと根源的なもの。つまり、自分の自我と周りの社会が意識で分断されていることへの怒りではないだろうか。
それは自我と世界のあり方にまで影響する完全な断絶だ。そこにはどうしようもない隔たりがある。
いくら自我を解放しようが、守りを固めようが、世界はただそこにある。他者も世界も含めて。

生まれてきた以上、全ての自我には世界は広がっている。自我と世界の間には、絶対に破れない壁がある。
そのどうしようもない無力さの中で生きていかねばならない不条理。それを山神は怒りとして表したのではないだろうか。
彼がネットの掲示板に匿名で書き込む呪い。
その対象は一見すると他者に向いているように見えるが、実は違う。
他者の行動をいくらあげつらっても何も変わらない外の世界への絶望があるのだと思う。

その怒りは夫婦を惨殺し、死の現実を味わおうとしても簡単には消え去らない。
他者を殺すことによって、自我と世界の間の壁を壊そうとする衝動。死を自らのうちに取り込む試み。それらはしょせん叶わぬ願いだ。
死とは自分が死ぬことによってしか経験できない。
そして、死ぬことによって自我と世界が融和できるのかは、誰にも分らない。
それを証言できた人間は古来から誰一人としていないのだから。

絶対的な矛盾におかれながら、なおも生存本能のおもむくままにどこかに生きている山神。
本書の三つの物語のどこかに山神はいる。普通に会話もできるし、思いやりもできる人間として。
著者の筆は少しずつ山神の正体を暴きたててゆく。
そして本書の結末は予想もつかない方向へと向かう。

果たして山神の自我は世界と融和できたのだろうか。
そのことを著者は明かさない。それどころか山神の内なる心理を描くこともしない。
彼の心の闇はただ、壁に書き殴られた怒りという言葉でしかわからない。
そして世の中の大半の人は、そうした子供じみた暴言を発することもなく、ひたすら社会生活を営みつつ、内面で疑惑の種を育て続けている。
社会とは、人間の関係とはなんと難解で、罪作りなのだろう。

そのような宿痾ともいうべき人と社会のかかわり。それを行方不明の犯人を配置することであぶりだした本書は傑作だと思う。

‘2019/02/19-2019/02/20


怒り(上)


著者の本は折に触れ、読んでいる。
社会の中で不器用に生きることの難しさと、その中で生き抜く人間への共感。
著者の作風から感じられるのは、そうしたテーマだ。
ここに来て、著者の作品から感じるのは、人の悪を描く試みだ。
なぜ人は悪に染まってしまうのか。この社会の何が人を悪に走らせるのか。

理想だけで生きて行かれれば幸せだ。だが、理想の生活を実践するには、社会を生き抜く能力が求められる。
ところが、ほとんどの人には理想の生活を送るための飛び抜けた能力が備わっていない。もしくは備わっているのに気づかない。
私をはじめとした多くの人は、社会の中で自分の居場所を確保しようと躍起になっているのが実情だ。自分の能力に適した仕事を探しながら。

本書はそういう人々が必死に社会で生きる姿を描く。
複雑で利害がこみいった世の中。
人によっては正体を隠し、影の中に生きる事を余儀なくされた方もいるだろう。
それは何も、本人のせいではない。

例えば、生まれ持った性的志向が異性ではなく同性へと向いている場合。
わが国ではまだ同性愛には非寛容だ。そのため、大っぴらに発展場に通う姿を見られることに抵抗感があるかもしれない。
例えば、親が私生活で作る失敗によって住む地を転々とさせられる場合。
何度も転校を余儀なくされ、ついには沖縄の離島のペンションにまで。若さゆえの適応力で対応できても、どこかに影は生じる。
例えば、ほんの少しだけ、自分の娘が他より社会での適応力に欠けている場合。
娘が幸せに生きていけるのだろうか、娘が付き合う男の全てが娘をいいように持て遊ぼうとしているだけでは、という親心からの疑いが拭い去れない。
娘には幸せになって欲しいという親心があるゆえに。

誰もが皆、社会に何らかの負い目を感じながら生きている。
そうした世間に、あからさまな怒りを抱え、世に害をなす人物がまぎれこむ。そして善良な市民のふりをして正体を隠す。その時、人々の不安は増幅される。
その不安は、疑心暗鬼へとつながり、さまざまな誤解を生み出す。誤解は誤解を巻き込み、日常が不穏な色に染められる。

著者は、場所も環境も異なる三つの舞台を同時並行に描く。
その三つの舞台の間に直接の関係はない。
あるのは日本国内で起こっている事と、ある夫婦を無残に殺害した山神一也が逃亡し、行方をくらませている、というニュースのみ。
どこにいるかわからない犯人の存在が、三つの物語の登場人物たちそれぞれに薄暗い影を落とす。

著者の紡ぎだす物語は、共通の一つの疑いが、徐々に人々をむしばむいきさつを浮き彫りにする。
何も引け目を感じていない時、そうしたニュースは聞いたそばからすぐに忘れ去られる。取るに足りないからだ。
だが、免疫力が落ちた人が簡単にウィルスにやられてしまうように、心に引け目を感じている人は、精神的な免疫が損なわれている。そうした人の心に少しでも疑いが侵入すると、それがじわじわとした病となって巣食っていく。

上に書いた同性愛の嗜好を持つ藤田優馬は、パートナーを求めて男たちが集まるサウナの隅で、うずくまるように孤独に身を包む大西直人に出会う。
家に直人を連れ帰り、一夜の関係を持った二人。身寄りも職もない直人に家で住むように誘った優馬は、日中は大手IT企業で働いている。
充実した日々を送りつつ、仲間たちとパーティーや飲み会に明け暮れた日を過ごしていた優馬は、直人との出会いを機に今までの付き合いから距離を置く。
余命もわずかな母との日々に重きを感じた優馬に、直人は積極的に関わり、母や仲間との信頼を築き上げてゆく。

九十九里浜に近い浜崎で漁業関係の仕事を営む洋平には、少しだけ知恵の足りない娘の愛子がいる。
本書は、歌舞伎町のソープランドに連れていかれ、働いていた愛子を洋平が連れ帰るシーンで幕が開く。
その頃、浜崎には田代哲也という若者がふらっと現れ、漁協で仕事を手伝いはじめた。自分を語りたがらず、寡黙で真面目な田代。
やがて愛子と田代は惹かれあい、同棲を始める。
だが、田代の過去に疑いを抱いた洋平の心に疑いが湧く。果たして田代は娘を幸せにしてくれる男なのか。それとも、娘はまた騙されてしまうのか。

泉は母と二人で暮らしている。母は意図せずして住民トラブルを起こしてしまう性格の持ち主。
高校生の泉は、母に生活を依存するしかない。だから、母が引き起こしたトラブルによって転居を強いられても拒めない。名古屋、福岡、そして沖縄へ。
沖縄の本島からさらに離島のペンションで住み込む母娘。泉はそんな現状にもめげず、明るく振る舞っている。
だが、どこかに抑えられた鬱屈がある。泉は同じクラスの辰也の船で無人の島へ渡り、そこで島で野宿をする田中と名乗る男に出会う。
彼をペンションのオーナーに手伝いとして紹介した泉。田中は果たして何者なのか。

山神を追い求める捜査の進み具合を合間に挟みつつ、著者は三つの物語に謎めいた人物を登場させる。
果たして誰が山神の化けた姿なのか。そして、三つの物語に登場する人々はどうなってゆくのかという興味を引きつつ、話を進めてゆく。
その絶妙な話の進め方と、日々を精いっぱい生きる登場人物たちの心に兆す疑心が芽生え、育ってゆく様子の描写はお見事というほかない。
そして、なぜ彼らは窮屈に生きねばならないのか、という社会の淀みを描いていく手腕も。

‘2019/02/17-2019/02/18


40代を後悔しない50のリスト 1万人の失敗談からわかった人生の教訓


本書を読んだのは私が46歳になろうという直前だった。つまり、40も半ばを過ぎた頃だ。

論語の有名な一節に
四十而不惑
とある。

しかし、私の四十代は惑いの中にある。今の情報があふれる時代にあって、惑わずにいることは難しい。

論語のその前の文は
三十而立
だ。

私の場合、三十では立てなかった。いや、立ってはいたものの、足取りが定まらず、よろめいていたというべきか。
たしかに世間的には独り立ちしていたと見られていたかもしれない。だが、今から思えば全て周りの環境に引きずられていただけだ。

私なりに今までの人生を振り返る機会は持ってきたつもりだ。
ブログという形で何度も振りかえってきたし、アクアビット航海記として起業の経緯を連載している。
それら文章では、自分が人生の中で選択してきた決断の数々を記録してきた。

そうした選択のいくつかについては、悔いがある。逆に満足のいく今につながるような、過去の自分を褒めたい決断もある。
悔いについては、思い出す度、汗が噴き出るような恥も含まれている。他にも家族が瓦解しかねない危うい瞬間もあった。仕事を会社にするまでにも綱渡りを何度も超えてきた。

そうした振り返りは何のために行うのか。
それは、過去にとらわれ、現在に踏みとどまるためではない。未来へ、これから自分がどう生きるべきかについて考えるためだ。

そもそも私の場合、まだ何も成し遂げていない。成功にはほど遠く、目指す場所すら定かではないと自覚している。
家庭や経営、私自身についての課題は山積みになったままだ。
そもそも人生が成功に終わったかどうかなど、死ぬまで分からない。死んだらなおさら分からない。
私の場合、勲章を得たわけでもなく、ノーベル賞を得たわけでもない。
ましてや老後、自らの生き方を懐かしく振り返ると年齢にも達していない。
むしろ、今までの生き方を振り返り、これからの半生に活かさねばならない若輩者が私だ。

だから今、本書のような本を読むことも無駄ではない。

序章で著者は「一生の中で40代が重要な理由」を語っている。
その通りだと思う。
私にとっての39歳から40代前半にかけては転機となった出来事が多かった。
2012年の6月に私は39歳になった。その4月から、私にとって最後の奉公となった常駐業務が始まり、同時に自治会の総務部長になった。初めてのkintone案件が運用を開始したのもその頃。妻がココデンタルクリニックを開業したのは6月だ。

私がそれまで営んでいた個人事業を法人として登記したのが42歳の時。
当時、常駐システムエンジニアという自らの仕事のあり方にとても悩んでいた私は、そこから逃れる方法をいろいろ模索していた。
しかし30代の頃にしでかした選択のミスが尾を引いており、私は身動きが出来なかった。
結局、貯金もほぼゼロの状態で法人を設立する暴挙に踏み切り、それが私の道を開いた。
とはいえ、30代については悔いが多い。

著者は、40代に行動を起こさなかったことで、定年退職後に後悔している人が多いと説く。40代の10年をどう過ごすかによって、その後の人生がからりと変わる、とも。

仕事と家庭。そして自分。どれもが人生を全うするために欠かせない要素だ。私もそれはわかっていた。
なので、30代の終わりごろからはじめたSNSを、仕事と家庭、そして自分のバランスを取るために活用してきた。
仕事だけに偏らず、遊びも家族も含めた内容として世に公言することで、自分にそのバランスを意識させるSNS。私にとってうってつけのツールだと思う。

ただし、そうした自分の振る舞いについては、何かの明確なメソッドに基づいた訳ではない。
その時々の私が良かれと思って選択した結果に過ぎない。

本書は、そうしたメソッドを50のリストにして教えてくれる。

本書の工夫は、50のリストの全てをある人物の悔いとして表していることだ。
例えば、
「01 「自分にとって大切なこと」を優先できなかった」
「25 「付き合いのいい人」である必要などなかった」
「50 「もっと「地域社会」と付き合えばよかった」
のような感じだ。
ある人物とは、著者が今までの経験で関わった人物から仮定した、40代を無為無策のままに過ごしてしまった人物だ。
その人物の悔いとして表すことで、より危機感を持ってもらおうとの試みだろう。

誰もが今を生きることで一生懸命になっている。
なかなか将来を見据えた行動などできるものではない。
私もそうだった。
そして今も、これからの自分や世の中がどうなるかなど全く分からない。

私の世代は著者の世代よりもさらに10歳若い。そして第二次ベビーブーム世代だ。
私たちの世代が老境に入った頃、福祉に潤沢な予算が回されるのだろうか。他の世代に比べて人口比が突出している私たちの世代を国や若年層は養ってくれるのだろうか。
そうした将来に目を向けた時、今やっておくべき事の多さにおののく。
今を生きるだけでなく、これから先を見据えた行動が求められる。

四十代になると、人から叱られたり、指摘されることが減ってくる。これから先はさらに減っていくことだろう。
誤った方向に向かってしまった時、自分を正してくれるのは、誰だろう。
親友、妻、子、家族、恋人、親、同僚、上司、部下などが思い浮かぶ。
だが、そうした人々の助言も、最後は自分の次第だ。決断をどう下すかによって、助言は生きもすれば死にもする。
最後は自分なのだ。

本書は折に触れて読み返したいと思う。
将来、四十代の自分を後悔したくないから。
今の私が三十代の頃、決断出来なかった事を後悔しているようには。

‘2019/02/14-2019/02/17


お金に愛されるお金持ちの考え方大全


当ブログでは、本書が取り上げるような欲得そのものを目的とした本はなかなか登場しない。
なぜなら、私がそうした本をあまり読まないからだ。私はビジネス本すら、あまり読まない。

ただ、こうした本が何の足しにもならない、とは思わない。むしろ逆だ。
私の場合、本書のような類の本と付き合うパターンはだいたい定まっている。そのパターンとは、商談で都心を移動する間、時間ができたときに本屋に入り、店頭に並んでいる本をさっと斜め読みする事だ。
そうやって本屋の店頭で並ぶ本を立ち読みし、ごく一部の情報を頭にたたきこむ。さらに、その学びを直後の商談で実践することもある。
それで十分だと思っている。
私はそうやって生きてきた。そして少しずつ学んできた。

ではなぜ立ち読みするだけでなく、買ってしまわないのか、と問われるはずだ。店頭での斜め読みなど、読んだうちに入らない、と。
確かに買って読んだほうが、吸収できる知識量は違う。
だが、私はあえてそうした付き合い方をしている。

なぜなら、本書のような本は、読んだ内容が普段の行動につながっている。
ということは、立ち読みで得た知識を即座に活かせるのだ。つまり、本の中で得た気づきを本屋を出た後の行動に反映できる。改善もできるし、実践もたやすい。
加えて、本書のような内容は短い断章が含まれているため、つまんで読んでも内容が把握できる。
つまり、じっくりと読まなくても、本屋の店頭でも知識を吸収できる。

さらに、目的がお金や人生を豊かにする、と明確であるため、余計なことを考える必要もない。
そうした経験から、本書のようなお金に関する本は無駄にはならないと思っている。
もちろん、場合によっては本屋で買い求めることもある。本書もその一つだ。

私の人生で学んできた事の一つは、占いや風水や運やツキといったものは決して軽んじてはならない、という教訓だ。
それは何も、どこそこの方角に水晶をおけば金回りが良くなるとか、壺を買えば運気がうんぬんという意味ではない。
私は、占いや風水や運やツキとは、心理的効果の積み重ねだと思っている。
私たちは日頃の言動で相手になにがしかの影響を及ぼし、相手からも及ぼされている。それこそが心理的効果だ。

政治、経済、教育など、社会のあらゆる営みは、人と人との関係から編み上げられている。
人付き合い、ビジネス、友人関係。そうした結果の積み重ねの結果が、今この瞬間の私たち自身の姿だ。
お金持ちという属性が、ビジネスでの成功の結果、を指すと仮定すれば、それもまた積み重ねの結果だ。
人付き合い、ビジネス、友人関係の成果を金儲けにつなげるのはあまりにも寂しい人生観だ。確かにそう思う。
ただ、その一方で、それらが豊かな方がいろいろな意味で有利になることも否めない。

そして、商談をしたことがある人なら分かると思うが、相手のしぐさや顔つき、視線や話し方は重要だ。そうした所作には、相手の考えることが往々にして現れる。
この提案は見当違いだったなとか、この金額は高いかな、といったことも、商談相手を注意深く見ていれば、なんとなく感じられる。
優れた占い師は、相手のちょっとした仕草から内面を読み取り、相手の内容をズバリと言い当てると言う。
それと同様に、商談の場でも、無意識であっても内面は滲み出てしまう。つまり、自分自身の言動を相手にきちんとした印象として伝われば受注につながってゆく。

背広をパリッと着こなして、凛とした格好で商談に臨むよりも、商談中の顔つきやしぐさによって心理的な安心感を与えることができた時の方が、ご発注いただく確率は大きくなるのではないか。個人的にはそう思っている。

その証拠に私はこの数年、ほとんどの商談でネクタイを着用せずに臨んでいる。
そのかわり、商談の際には集中力を研ぎ澄まし、相手の目を見つめながら一挙手一投足に注意を払っている。
だから、集中力が乱れたときは失注するし、相手の感情に同調できれば受注につながる。

私はあらゆる分野の成功者とは、そうした自らの挙措が相手にもたらす効果を知り尽くした人だと思っている。

そして人前に出た時、自らの振る舞いを相手に印象付けるには、普段からの心掛けが大切だ。
いくら商談の場で集中し、相手に自らの存在を印象付けようとしても、普段の行動があらわれることは避けられない。
要は普段から、どれだけ凛とした印象を与える行動をとっているかだ。つまり習慣づけ。

本書は、商談などで成功した金持ちの振る舞いを紹介する。そうした振る舞いが、結果として人を引きつけ、ビジネスも盛んにすることを説いている。

いざ商談の場でも取り繕わずに済ませるには、普段の振る舞いから良い点を取り入れてゆくのがお勧め、というわけだ。

本書は全7章からなっている。それぞれの章には、15~20ほどの項が含まれている。

今の私は、本書に書かれたおすすめのうち、いくつかをすでに実践していた。

だからこそ、本書は30代前半の私に読ませたかったと思う。そうしていれば30代の頃にあれほどの苦労をすることもなかったのに。

だが、そういう時期に限って、本書に書かれたような内容は心に響かない。皮肉なことに。
そして、自分が実践してから読むと、内容に共感できることが多い。今の私の実感だ。

‘2019/02/09-2019/02/14


宝塚ファンの社会学―スターは劇場の外で作られる


本書は見つけるべくして見つけ、読むべくして読んだ本だ。
妻とともに家の断捨離の一環として訪れたブックオフ。そこの書棚で本書は手まねきしていた。

本書が扱うのは宝塚歌劇団が魅せる華やかな世界ではない。嫉妬に満ちた内幕の暗闘でもない。ましてや、ファンの憧れである舞台の上のキラキラを賛美する本でもない。
本書が取り上げるのは社会学だ。その対象は、宝塚を愛するファンの活動。
著者は、宝塚歌劇団のファンの活動を社会学的に観察し、分析を加える。

宝塚を愛するファンと社会学。意外な取り合わせかもしれない。
そもそも、宝塚ファンと社会学という言葉が並ぶこと自体、みたことがない。
歌劇団という単語から連想されるのは、華やかな芸術の分野だ。
それなのに社会学?
百歩譲って、劇団の興行を経営の観点から見る経営学ならともかく、社会学?

だが、知っている人は知っている。宝塚ファンの組織力を。
知らない人でも、ひょっとしたら宝塚大劇場前や有楽町の東京宝塚劇場前に集う異様な集団を見たことがないだろうか?
同じ服装に身を包んだ彼女たちの多くは、宝塚歌劇団の私設ファンクラブに属する方々なのだ。

彼女たちは劇場の前で何をしているのか。それは、出待ち入り待ちとされる営みだ。
ごひいきのタカラジェンヌが劇場に出入りするたびに出迎え、見送る。
それは私設ファンクラブの皆さんにとっては日常の行動である。

当然ながらその行動に金銭的な報酬はない。
報酬はジェンヌさんを見送り、華やかな世界に参加できる満足感のみ。
舞台と観客席に区切られた劇場の距離よりも、さらにジェンヌさんに近い距離で顔を見て、声をかけ、手紙を渡せる喜び。
観劇をしないのに、わざわざ遠方から出待ち入り待ちのためだけにやってくる熱心なファンも多いという。

それぞれのファンの行動は自ら発している。
だからこそ、ファンの行動に統制がとれていないと劇場周辺は混乱するのだ。
そのため、ファンに対して統制をとることが求められる。それを担うのが、私設ファンクラブと呼ばれる組織だ。

それぞれの私設ファンクラブは、お互いできちんとしたルールを定め、宝塚歌劇団やその周囲に迷惑をかけぬよう、全体でも統制をとっている。
その統制が及ぶ範囲は、出待ち入り待ちだけではない。客席でも統制の効力は発揮されている。
たとえば、劇中の盛り上がる場面で拍手する。それの口火を切っているのはファン歴の長い人だ。

ファンクラブの活動とは、そうした目に見える行動だけではない。
ファンクラブの活動の裏側にはもっと大変な任務や作業がまだまだある。
例えばファンクラブのスタッフはチケットの割り当てや配席まで行っている。他にもお茶会と呼ぶ、ジェンヌさんとファンクラブの交流イベントの企画も行っている。グッズの作成も手配し、イベントでプレミアム感を盛り上げるのだ。さらに、ファンの行動がジェンヌさんや劇団に迷惑を及ぼさないよう統制する。エトセトラ、エトセトラ。

一ファンでいるうちならまだいい。ファンクラブのイベントに出て、楽しむだけでよいから。だが、ファンクラブの運営側に携わった途端、ファンとしての立場で楽しむだけでは済まなくなる。ましてや、ファンクラブの代表ともなると、あれこれと代表ならではの雑務が押し寄せてくる。

私はそうした一連の作業を内から見ている。
なぜなら、妻がファンクラブの代表を務めているからだ。
確か2017年の春先からなので、そろそろ3年になる。

私はそうしたファンクラブの行事について、表の部分はよく知らない。せいぜい何度か観劇した程度だから。だが、華やかな表に見せる面ではなく、裏方として代表が担う雑務や事務の作業についてはある程度わかるつもりだ。

そうした作業には、どれもがパソコンを使った作業が付き物だ。
ところが、妻はそうした作業が大の苦手。だから私にそうした作業の手助けが回ってくる。
もちろん、それらの代表の作業に報酬が払われることはない。
当然、手伝っている私にも。
だから途中から突き放し、妻が自分で文書を作れるように促した。
その甲斐があって三年目にして妻はようやくWordやExcelで自分で文書を作れるようになってきた。

さらに代表ともなると、華やかな世界では済まない裏の事情も見えてくる。もちろんそれらは合法だ。とはいえ、そうした作業をファンが無償で行っていることに、私はどうしても納得出来ない。

妻はまだ、宝塚のファンであるからいい。それらを公演がつつがなく行われるための必要な作業と受け入れられるのだろう。
そうした雑務や裏方の作業が無償で行われる。何の見返りもなく。
それらはファンとして劇団に関わっていられる喜びがなければ、とてもやっていられないはずだ。スタッフや代表は普通のファンよりもジェンヌさんとの距離が近い。だから無償であっても見返りがある。ということなのだろう。

だが、私は違う。私はそうした裏側を見てあ然とした。
見返りどころか家庭すら犠牲を払わねばならないことに絶望した。ファンの熱意を巧妙に利用するその運営のあり方に怒った。
だから私は、当分宝塚歌劇は観ない、と妻に言い渡した。もちろん、代表の仕事も手伝わない、と。

私は、関西、それも阪神間で育った。阪神間モダニズムを語る上で宝塚歌劇団は絶対に外せない。だから、私にとって宝塚歌劇とはかげがえのない郷土の誇りだった。
ところが運営の裏側を知ってしまったことで、私にとっての郷土の誇りが一転して忌避すべき存在に堕ちてしまった。
私は、それが悲しい。残念でならない。だからいずれ、何かしらの問題提起をしなければ、と思っていた。
妻は悪くない。そしてファンも悪くない。おそらくタカラジェンヌさんも運営の指示に従っているだけで、責めるべきではないはず。

私が怒りに満ちた告発を行うことで、純粋にタカラヅカを愛する人たちに迷惑をかけることは避けたい。私はその一念で我慢してきた。
我慢する一方で私は、いずれなんらかの形で世に問おうと思い、ネットに散らばるヅカ関連の情報や出版されている書籍をつまみ読みしている。本書もその一冊だ。

本書を先に読んだのは妻の方だ。
数日後、妻は私に本書を差し出しながらこういった。「書いてあることがそのままだから」と。
つまり代表をやっている妻にとって本書の内容は先刻承知だったのだ。それはつまり、本書の内容が正確ということでもある。

ただし、著者は宝塚のファンクラブ活動から離れてすでに10年ほどになるそうだ。序章で「一九九〇年代初めから二〇〇八年くらいまで」(11P)と書いている。
そのため、ひょっとしたら今の代表の活動とは、ずれがあるのかもしれない。
そもそも、花月星雪宙の五組にもそれぞれのやり方があるだろうから、正確な意味では少しずつ違っているのだろう。
だが、妻には本書で描かれるファンの活動に違和感はなかったようだ。

序章で著者が断っているように、本書は宝塚の魅了を語る書籍ではない。演劇論を語ることもないし、劇団経営を語ることもない。ファンクラブの行動から、社会学的分析を加えるのが趣旨だ。
著者は社会学の研究者でもあり、博士号も持っているとか。だから本書の内容は相当に学術的だ。
それでいて実際のファンクラブの活動についても事細かに紹介している。

「序章 宝塚歌劇団の転換―一九九〇年代から二〇〇〇年代へ」
「第1章 宝塚スターシステムとファンクラブ」
「第2章 ファンクラブの活動内容ーファンクラブ側から見て」
「第3章 ファンクラブ会員の役割―ファン側の視点」
「第4章 舞台と客席をつなぐファンクラブ」
「第5章 ファンクラブの意味」

これらの章では、詳細にファンクラブの行動や組織、代表の仕事が書かれている。たぶん、宝塚に興味のない人にとっては、意味の分からない情報が多いと思う。
それでも、随所に挟まる社会学的な視点と、なぜファンクラブが組織として成り立っているのか、という事情については十分に参考になるはずだ。
本書から組織論として学ぶべき点は多い。特に、私のようにファンクラブや代表の活動を知らねばならない者には、ファンクラブ活動が詳しく紹介されていることはありがたい。

こうしたファンクラブの組織や運営は、宝塚歌劇団が立ち上げたものではない。それぞれのファンが自発的に作り上げていった。それは特筆すべきことだ。
ファンクラブの発生を著者は一九八〇年代からと書いている。だが、私は別の宝塚を取り上げた本で、一九七〇年代にはファンの活動は始まっていたとの記述を読んだことがある。その本ではベルばらブームが過熱する様子が紹介されていた。そして、チケットを並ぶ列やトップスターをガードするファンたちが自然に集いつつあると書かれていた。
おそらくその頃から、今のようなファンクラブが産声をあげ、ファンが独自の工夫を重ね、今の姿に育ってきたのだろう。そうした組織の成り立ちを考える上で、本書は興味深い。

本書を読んでいると、ファンクラブとはあくまでもそのスターを応援したいファン心理から生まれたもの、と思いたくなる。
だが、実際はそうでもないらしい。私の妻は頼まれて代表になったぐらいだし。代表になる前はトップスターとして退団した別のジェンヌさんのファンだった。
ファンクラブによっては代表さんのなり手がいなかったり、そもそもファンクラブが結成されていなかったりと、事情はまちまちのようだ。
ファンクラブとは、清く正しく無垢な存在であるだけではなく、さまざまな思惑を抱いたファンが集う生々しい場でもある。内情は決して麗しきファン心理だけでなる一枚岩ではないようだ。

本書にはそうした事情は載っていない。
著者が関わったファンクラブは順風満帆だったのか、それともあえて書いていないのか。それはわからない。
ただ、著者はそうした個別の事情は考慮せず、一般的なファンクラブの組織論として本書を描いていると思われる。

今も表向きはファンクラブは私設であり、宝塚歌劇団による公認ファンクラブは「宝塚友の会」だけということになっている。宝塚歌劇団は、ファンクラブ活動を公認していないのだ。そして、支援も助成もしていない。
ところが、宝塚歌劇団から私設ファンクラブに対して通知や告知や指示や認可が流れてくるという。
それも公式な文書ではなく、非公式な伝達というからタチが悪い。裏で干渉し、利用すべき部分は利用するということなのだろう。

ファンクラブがあることで、ジェンヌさんの負担は減る。つまり、ファンクラブとは劇団に替わり、ジェンヌさんにとっての福利厚生の担当を兼ねている。また、本来は劇団が行うべきマネジメントもファンクラブが一部を担っている。
そうした奉仕によって劇団の運営が回っていることは、劇団もわかっているはず。
かつて、宝塚歌劇の公演回数は今よりも少なかったという。だが、いまやファンクラブのおかげで公演回数も増やせる。ジェンヌさんの負担がファンクラブによって軽減されているからだ。

私は、宝塚歌劇団からジェンヌさんの一人一人にファンクラブ手当を支給すべきだと思う。常々、妻にはそう提案している。
百余年にわたるジェンヌさんや演出家やスタッフたちの努力によって、無償で奉仕してくれるファンが集う。それはそれで素晴らしいことだ。
だが、劇団がファンの奉仕に甘え、それを黙認し、ファンに寄り掛かった運営に慣れ、依存しているのならば問題だ。
そうした運営体制は、何かのきっかけでファンが離れると全体が崩れるのも早い。
今のうちにきちんと劇団運営の上で贖われている見えない労力を、きちんと費用として支出の対象にしなければ、経営的にもまずいと思う。

ファンクラブのような、金銭に頼らない報酬体系で成り立つ組織。そのような研究対象は、確かに社会学の題材としては貴重だと思う。
そこに着目し、本書に著した著者も素晴らしい。
だからこそ、宝塚歌劇団は、著者のようなファンに感謝こそすれ、それに甘えてはならないと思う。
本書を参考に、ファンと家族に優しい劇団運営を行ってくれれば、私も納得できるのだが。
なんといっても私の郷土の誇りなのだから。

‘2019/02/05-2019/02/08


府中三億円事件を計画・実行したのは私です。


メルカリというサービスがある。いわゆるフリマアプリだ。
私が初めてメルカリを利用した時、購入したのが本書だ。

本書はもともと、小説投稿サイト「小説家になろう」で800万PVを記録したという。そこで圧倒的な支持を得たからこそ、本書として出版されたに違いない。
あらゆる意味で本書が発表されたタイミングは時宜にかなっていた。
発刊されたのが事件から50年という節目だったことも、本書にとっては追い風になったことだろう。本書を原作とした漫画まで発表され、ジャンプコミックスのラインアップにも名を連ねた。
私も本書には注目していた。なのでメルカリで数百円のチケットを得、本書の購入に使った。

本書は、犯人の告白という体裁をとっている。
事件から50年の月日がたち、真相を埋れさせるべきではないと考えた老境の犯人。彼は妻が亡くなった事をきっかけに、息子に自らの罪を告白した。
親の告白を真摯に受け止めた息子は、これは世に公開すべき、と助言した。
助言するだけでなく、息子は親の告白をより効果的に公開できるように知恵を絞った。身分が暴露されないように、なおかつ告白の内容が第三者に改変されないように。
その熟慮の結果、息子がえらんだ手段とは、小説投稿サイトに投稿し、世間に真実を問うことだった。実に巧妙だ。
その手段は、本書の発表の時期、媒体、内容を選んだ理由に説得力を与えている。さらに、その説得力は本書に書かれた事件の内容が三億円事件の真実かもしれない、と読者を揺るがす。
本書の文章や文体はいかにも小説の書き方に慣れていない人物が書いたようだ。この素人感がまた絶妙なのだ。なぜなら著者は小説家になりたいわけではなく、自らの罪を小説の体裁で世に出したかっただけなのだから。
文中でしきりと読者に語りかけるスタイル。それも、今の小説にはあまり見られない形式であり、この点も著者の年齢を高く見せることに成功している。

だが、そうした記述の数々が不自然という指摘もある。
そうした疑問の数々に答えてもらおうと、BLOGOS編集部が著者にメールでインタビューし、コメントをもらうことに成功したらしい。
こちらがその記事だ。
それによると、著者が手書きで書いた手記を、息子がデータに打ち直し、なおかつ表現も適切に改めているらしい。そうした改変が、70才の著者が書いたにしては不自然な点がある、という指摘を巧妙にかわしている。実に見事だ。

何しろ、三億円事件と言えば日本でもっとも有名な未解決事件と言っても過言ではない。
有名なモンタージュ写真とともに、日本の戦後を語る際には欠かせない事件だといえる。

それほどまでに有名な事件だけあって、三億円事件について書かれた小説やノンフィクションは数多く出版されている。
私にとっても関心が深く、今まで何冊もの関連本を読んできた。

なぜそれほどまでに、三億円事件が話題に上るのか。
それは、事件において人が陰惨に殺されなかったからだろう。
さらに、グリコ・森永事件のように一般市民が標的にならなかったこともあるかもしれない。
ましてや、保険金が降りた結果、日本国内では損をした人間がほぼいなかったというから大したものだ。
あえて非難できるとすれば、長年の捜査によって費やされた税金の無駄を叫ぶぐらいだろうか。

三億円事件は公訴時効も民事時効もとっくに過ぎている。今さら犯人が名乗り出たところで、犯人が逃亡期間を海外で過ごしていない限り、逮捕される恐れもない。
つまり、三億円事件とは、犯罪者の誰もがうらやむ完全犯罪なのだ。
その鮮やかさも、三億円事件に対する人々の関心が続いている理由の一つだろう。

そんな完全無欠の犯罪を成し遂げた犯人だと自称する著者。その筆致は、あくまでも謙虚である。
そこには、勝ち誇った者の傲慢もなければ、上り詰めた人間が見下す冷酷もない。逃げ切った犯罪者の虚栄すらもない。
本書の著者から感じられるのは、妻を失い、後は老いるだけの人生に寄る辺を失わんとする哀れな姿のみだ。

あれほどの犯罪を成し遂げた人でも、老いるとこのように衰える事実。
老いてはじめて、人は若き日の輝きを眩しく思い返すという。だが、本書から感じられるのは輝かしさではない。哀切だ。誰も成し遂げられなかった犯罪をやり遂げた快挙すら、著者には過ぎ去った哀切に過ぎないのだろう。

1968年といえば学生運動が盛んだった時期だ。当時の若者は人生の可能性の広大さに戸惑い、何かに発散せずにはいられなかった。現代から見ると不可解な事件が散発し、無軌道な衝動に導かれた若者たちが暴れていた。中核派が起こしたあさま山荘事件や、日本赤軍がテルアビブ空港で起こした乱射事件。東大安田講堂の攻防戦など、現代の私たちには到底理解できない衝動。その衝動は本書の著者いわく、犯行のきっかけにもなっているという。
若さを縦横にかけまわり、何かに対してむやみに吠え立てていた時期。そうした可能性の時期を経験したにもかかわらず、老いると人はしぼむ。
本書の内容が歴史的な事実がどうかはさておき、本書から得られる一番の収穫とは、無鉄砲な若さと老いの無残の対比だろう。
それが、手練れの文章ではなく、素人が描いた素朴な文章からつむぎだされるところに、本書の良さがあると思う。

著者から感じられる哀切。それは、著者がいうように、犯罪を遂行する過程で人を裏切ったことからきているのだろうか。
そもそも、本書に書かれていることは果たして真実なのだろうか。
そうした疑問も含め、本書はあらゆる角度から評価する価値があると思う。
文章に書かれた筋書きや事件の真相を眺め、それだけで本書を評価するのは拙速な気がする。
発表した媒体の選定から、読者の反応も含め、本書はメディアミックスの新たな事例として評価できるのではないだろうか。

さきに挙げたBLOGOSのインタビューによると、著者は本書の後日談も用意しているという。
たとえば犯罪後、関西で暮らしたという日々。そこでどうやって盗んだ紙幣を世に流通させずに過ごせたのか。そもそも強奪した紙幣のありかは。
そうした事実の数々が後日談では描かれるという。
他にも本書で解決されなかった謎はある。
たとえば、本書に登場する三神千晶という人物。この人物は果たして実在する人物なのか、というのも謎の一つだ。これほどまでにできる人間が、その後、社会で無名のまま終わったとは考えにくい。本書はその謎を解決させないまま終わらせている。
だが、当該のインタビュー記事から1年半がたとうとする今、いまだに続編とされる作品は出版されていない。
そもそもの発表の場となった小説家になろうにも続編は発表されていないようだ。

NEWSポストセブンの(記事)の中で、本書の内容に対して当時捜査本部が置かれた府中署の関係者にコメントを求めたそうだ。だが、「申し上げることはありません」と語ったそうだ。

願わくは、後日談が読みたい。
続編がこうまで待ち遠しい小説もなかなかあるまい。

‘2019/02/03-2019/02/04


本屋さんのダイアナ


本屋大賞にノミネートされた本書。図書館の本屋大賞の関連本コーナーに置いてあった。
それで手に取った。
本書はまた、直木賞の候補作でもある。それも納得できるほど、本書は面白かった。

本書で重要なモチーフになっているのは『赤毛のアン』だ。あまりにも有名な作品として知らない人のほうが少ないだろう。
ところが、私は『赤毛のアン』を読んでいない。だから内容もよく知らない。おそらく、少女の成長を描いた作品なのだろう、という事しか。

本書にも少女の成長が描かれている。それも二人の。
本書の主人公はタイトルにもなっているダイアナだ。けれども、もう一人の少女彩子も主人公と言ってよいだろう。

彼女たちがお互いに惹かれあったのは九歳のころ。
ダイアナと読むが「大穴」と書く自分の名が嫌だったダイアナは、新学期の自己紹介の時間が嫌でたまらない。
母のティアラに金に染められた髪もあいまって、ダイアナの美しい容姿は人の目を惹く。
目立つのが嫌いなのに、目立ってしまう容姿。それは、ダイアナにとっては逆にいい迷惑でしかなかった。
自己紹介の後、その名前を早速からかわれたダイアナ。そんな彼女に助けを入れたのが、同じクラスの彩子。二人は親友となり、仲良く小学生の日々を過ごす。

本書は九歳の時の出会いから、二十二歳までの二人の日々を描く。
その年月は女性にとって起伏に富み、ドラマに満ちた日々であるはずだ。
たとえ日々が単調に思えたとしても、受験やテスト、部活動、入学卒業、進学、就職が続く。家族との日々とともに。
女性の場合、生理も始まる。そして体の変化も男の子より重大なはずだ。
そうした日々の中で、ダイアナと彩子は行き違いや勘違い、周囲の人々の関係に翻弄されながら、それぞれの人生を歩んでゆく。

本書は、少女の成長を描いている。
少女の成長にあたって、家族、中でも母親の存在が大きく描かれる。

ダイアナの母、ティアラはキャバクラに勤めている。
娘にDQNネームを名付け、金髪に飾り立てるなど、キテレツな個性の持ち主だ。
だが、一人できちんと娘を育て上げている。単なる思慮の足りない人物ではない事は、本書を読み進めると明らかとなる。
一方、彩子の母は絵に描いたような良妻賢母。娘の友達のダイアナにも優しく接し、お菓子やお茶を振る舞ってくれる。

ダイアナと彩子の母は対照的に描かれる。わかり易すぎるほどに。
そして、母がそのように分かり易く描かれていることは、対となる父の存在を浮き彫りにする。

本書の隠れたテーマは、娘にとっての父の存在の大切だ。
ダイアナは本書を通して父を探し続ける。父は誰なのか。かつて、母と父の間には何があったのか。
幼い頃に失踪したまま、父を知らずにティアラに育てられてきたダイアナは、彩子の父から本を勧められ、文学の素養を深めてゆく。
その関係は、小学校の高学年の時にダイアナと彩子の関係が引き裂かれる事件があっても変わらない。

だが、その事件があってからダイアナと彩子は疎遠になる。
同じ町内でありながら学校が別になると疎遠になる。よくある話だ。
二人の関係が不通と違うのは、そんな日々にあってもダイアナと彩子の両親の間には交流が続く事だ。

読んだことのない本を教えてくれる彩子の父。その存在は、ダイアナにとってみれば、父のいない寂しさを補ってくれる存在だった。

中学・高校と2人が成長するにつれ、接点のないまま、彩子は優等生を通す。そして名門大学に入学する。だが彩子は大学の新歓コンパの場で先輩の部員から半ばレイプに近い扱いを受け、そのままズルズルと自堕落な生活に堕ちてしまう。

変わってしまった娘の彩子を嘆く両親。それを補うかのように、薦めた本を素直に読み、吸収するダイアナ。

本書の展開は、親を探す、という表向きのテーマに沿って進む。
そして、その裏に流れるのは、人生にとっての教師の大切だ。

学校の先生を除けば、子供にとって誰が人生を導いてくれる存在になるのか。
普通は、親が子を導く。ダイアナにとっては、それが元親友の両親だったということだろう。

『秘密の森のダイアナ』と言う物語が、ダイアナの名に込められた秘密でもあり、本書を導くキーとなる。
そのタイトルからは、本のページをめくると広がる豊かな世界の可能性が感じられる。

本。それは言うまでもなく、人々にとって有益な学びの場である。
だからこそ、古くから古典の名作が語り継がれ、人々はそれを教師として人生を生きてきた。
私たちが読むべき本はあまりにも多い。
だが、今やあまりにも多い出版点数があだとなり、本から存在価値が急速に失われつつある。

その結果、私たちは読むべき本のほとんどを見逃し続けている。
私にとっては、本書に登場する『赤毛のアン』シリーズがそうだ。
森茉莉『枯葉の寝床』も本書に登場するが、私はまだ読んでいない。
向田邦子や安井かずみの名前も本書には登場するが、私はお二人の著した本をほぼ読んでいない。

私は普段から、読むべき本の多さに焦りを募らせている。
本書を読んだ事で、その思いが一層募った。

私の人生は今まで読んできた本によって導かれてきたと言っても良い。

その一方で、今の子供たちはインターネットという便利なものがある。
インターネットは便利だが、断片的なつぶやきやブログがバラバラの時間軸の中で好き勝手に展開する場に堕している。
便利だが混沌とした場。今の子供たちはそんなインターネットに絡めとられてしまっているようだ。

一方の小説は、作者によってきちんと秩序立てられた世界観の中で展開する。作者の意志に沿って時間軸が編まれている。だから、小説や物語は読者の脳内に整理され、人生の糧として吸収されやすい。

本にはそうした長所が多くある。
だが、あまりにもないがしろにされている。そう思うのは私だけだろうか。

本書のタイトルに”本屋”を含めた著者の意図もそこにあると思う。
本屋の中に詰め込まれた豊かな知識。本書はそのことを思い出ださせてくれる。

‘2019/02/01-2019/02/02


2分間ミステリ


私は子供の頃から、ミステリーを読んでいる。
小学生の頃は、少年探偵団モノや、ルパンシリーズ、ホームズシリーズなどの他にも名作とされた世界の推理小説を読んだ。
中学生になってからは赤川次郎氏の一連の作品や、西村京太郎氏の著作にもかなりお世話になった。

子どもの頃の私は、それらの鉄板のシリーズの他にもさまざまな本に食指を延ばしていたように思う。私が覚えているのはマガーク少年探偵団などだ。
だが、当時もよく知られていたという「少年たんていブラウン」のシリーズについては読んだ記憶がない。そもそも当時はシリーズ自体を知らなかったように思う。
「少年たんていブラウン」のシリーズを知ったのは、本書のレビューを書くにあたり、著者のことを調べてからだ。著者は「少年たんていブラウン」の生みの親として知られていたようだ。

私は「少年たんていブラウン」は読まぬまま、大人になってしまった。
だが、前述のマガーク少年探偵団や、コロタン文庫シリーズなどの子供向けに書かれた推理関連の本をさまざまに読んだことは覚えている。
そうした本の中には、もっぱら、推理クイズを収めていたものがあった。
なぞなぞよりは一段高尚な雰囲気。子供の頃はそうした本も随分と楽しんだ覚えがある。

本書を読み、そうした子どもの頃の読書の思い出が蘇った。

本書に収められている2分間ミステリの数は七十一編にもなる。
その一編ごとに、ほぼ見開き二ページにわたって状況が描かれ、謎が読者に提示される。
その謎はもちろん明かされるが、ご丁寧なことに答えはすぐには分からないように工夫されている。
次の編の末尾に上下が逆さまに印字されていれば、うっかり答えを知ってしまうこともない、という配慮だ。

冒頭に「読者の皆さんへ
クイズの答えは、うっかり目に入ってしまわぬよう、
万全を期して天地逆に刷ってあります(印刷ミスで
はありませんので念のため)。
と言う注意書きがあるのが良い。

各編の内容は、二ページのほとんどで事件が描かれる。そして状況をみてとったハレジアン博士が、最後に放つセリフで、裏の秘密を見抜いていることを示す。
その直後になぜ博士がそう思ったのか、という問いが読者に対して提示される。

七十一編のほぼ全てがそのように構成されている。
だが、それだけだと単調になってしまう。
そこで著者は、二ページの短い中で単調にならぬよう、筋立てと人物と事件と謎を作り込む。
その職人芸のような技が本書の読みどころだ。

著者の技の一つは、登場人物を多様にする工夫を凝らしていることだ。
もちろん、どの編にもハレジアン博士が登場し、博学を示し、読者よりも先に謎を解く構成には変わりない。
それにも関わらず、事件が起きるタイミングや時期、場所、ハレジアン博士の関わり方に工夫を凝らすことで、各編に変化を生じさせている。

登場人物は複数回登場する人物は以下の通りだ。ウィンターズ警視や資産家のシドニー夫人、ハレジアン博士のデートのお相手であるオクタヴィア、儲け話に騙されやすいバーティ・ティルフォード、たれ込み屋ニック。
そうした人物が登場する筋書きは、よくある殺人事件の展開も多い。一方でそれ以外の趣向を凝らした話も多く収められている。
おそらく『名探偵コナン』も『金田一探偵の事件簿』も、本書で示された単調にならないための工夫の影響は大きく受けているはずだ。

本書にはイラストがない。すべて文字だけだ。
つまり、読者がやれることとは、文字に記された地の文とセリフから矛盾を見つけることだけなのだ。
これが案外と難しい。解けるようで、まんまと著者の仕込んだ謎を見落としていることがある。私も半分以上は答えを頼ってしまった。
それはすなわち、読解能力の問題だ。

読解能力とは、単に文の意味を理解するだけではない。そこに書かれた事物の背後に横たわる関係にまで想像力を膨らませる必要がある。論理的な思考力が求められる。

それは当たり前のことだが、探偵や刑事には必須の能力だ。
だが、探偵や刑事だけではない。論理的な思考とは、普通の仕事にも必要な能力ではないだろうか。

文章に記された各単語の背景に隠された関係を結びつけ、その関係の整合性を判断する。矛盾があれば、状況とセリフのどこかに間違いかウソがある。
実は私たちは、ビジネス文章を読む際、そうした作業を無意識の内に行っている。そうみるべきだ。
ビジネス文書にかぎらず、日常生活で目にする景色のすべてからそうした論理を無意識に理解し、日常生活に役立てているのが私たちだ。

いわゆるロジカル・シンキングとも言われるこの能力は、日本ではそれほど要求されない。が、仕事の中ではとても重要な要素であることは間違いない。
そしてわが国において、論理的な思考を訓練する機会が義務教育の間に与えられることはほぼない。
そのことは、以前から識者によって唱えられている通りだ。

上にも挙げた通り、子供向けには本書やその類書のような推理クイズが出されている。今もたくさんのジュニア向けの推理ものが出版されている。
それなのに、もっともそうした能力が求められる大人向けには、本書のような書物があまりない。

本書は大人になった読者にとっても論理的な思考、つまりロジカル・シンキングを養える良い本だと思う。
むしろ、惰性で文章を読む癖がついてしまっている大人こそに本書を薦めたい。

‘2019/01/30-2019/01/31


夢を売る男


著者がこれまたすごい本を出した。出版界をぶった切りまくっている。
その迫力は凄まじいの一言に尽きる。

本書は、筒井康隆氏の「大いなる助走」を思い出させる。
「大いなる助走」は、文学賞をめぐる内幕を暴露して読書人に衝撃を与えた。
選考委員を殺しまわる筋書き、殺される選考委員のモデルが誰かを想像させる描きかた。どれもが記憶に残る一冊だ。
ただし「大いなる助走」は、まだ出版業界が元気だった頃の作品だ。
その頃は、これほどまでに出版業界が衰退するとは、誰にも想像さえしなかったはず。というのも当時、インターネットとは軍や研究者によってほそぼそと使われるに過ぎない存在だったからだ。インターネットがここまで出版業界を脅かす存在になるなど、どこの誰が予想できただろう。

本書は今の不況にあえぐ出版業界に鋭くメスを入れている。
著者も出版業界には利害関係を持っているはず。だが、そこに遠慮の色は全くない。
ネット上には消費者の欲求を満たすコンテンツがあふれ、人々の中で読書の趣味は少数派になりつつある。
さしずめ、読んだ本のレビューを記す当ブログなど、絶滅危惧種の代表だろう。
再販制度に保護というぬるま湯に浸ったまま、抜本的な改革を怠り今に至った出版業界。
売り上げの減少を多種多様な出版点数で補おうとした結果、おおかたの本はすぐに売り場から撤去され、年をまたいで売れ続ける本はいまやごく一部になってしまった。

売れぬ作家の体たらくといったらどうだろう。作家専業で稼げる作家など、見渡しても今やほんの一握り。
原稿を集めるため、出版社は文芸雑誌を出し続けているが、その売れ行きは散々たるもの。赤字を積み上げるために出していると言っても過言ではない状態だ。
なにせ、私のような本好きの好事家ですら、文芸雑誌を読む暇がない。
読みたい本、読むべき本が多すぎて、とても雑誌まで手が回らないから。

本書に書かれていたが、世界に発信されるブログの中で日本語で書かれたものが最も多いそうだ。
それはつまり、日本人は誰もが発信したがり、自己表現をしたがる民族である事を意味する。なまじ豊かさがあり、発信する環境が整っている国、日本。
衣食住が満たされた民族が次に目を向けるのは、承認欲求なのだろう。
当ブログなど、まさに承認欲求の成れの果てなのかもしれない。
それを分かっていながら、読書ブログを一生懸命に書く私も、著者には自己表現をしたがる輩と同列に見られているに違いない。
著者の振りかざす刃、つまり本書の切っ先におびえるべきは私。いや、今の私ではない。著者の舌鋒に打ちのめされるべきは、若い頃の私であるに違いない。

本書の帯にはこう書かれている。「注意!作家志望者は読んではいけない!」と。
本書を読み、それでもなお印税生活への憧れを保ち続けられる人は果たしてどれほどいるだろう。
それほどまでに、本書が描く出版業界の夢や希望の底は闇に塗りつぶされている。
その闇は本屋の店頭に並ぶ平積みの本と印税生活という甘い言葉に覆われ、隠されている。
本書を出版した太田出版は、これまでも問題となる書籍を出版してきたことでよく知られている。その太田出版がこうした本を出した事こそ、切迫した危機感の表れだと思う。

本書の主人公は牛河原。元夏波書店の敏腕編集者だ。今は自費出版を請け負う丸栄社の部長として辣腕をふるっている。
丸栄者のビジネスモデルは、読者ではなく、作家志望者から出版費用を徴収することで成り立っている。自分を表現したい志望者の夢を叶えます、というわけだ。
印税生活への憧れと、自らの言説こそが認められるべき、という強烈なプライド。その自我を牛河原は絶妙にくすぐり、作家の卵に金を出させる。
その口八丁手八丁のやり口が本書にはこれでもか、と描かれる。そして牛河原が前職の夏波書店を辞めた理由こそ、作家や取次、出版者、書店がひしめき合う出版業界への絶望だ。

上に書いた出版業界の状況は、牛河原が本書の中で発するセリフの中で言い尽くしている。
文学賞の現状、文庫のビジネスモデル、出版の広告、わがままな作家たちの末路。
それほどまでに牛河原は絶望している。出版業界に。おそらくそれは著者も同じであるはずだ。
「「出版社にいる連中は、口では文化的な仕事などと偉そうなことを言っているが、所詮はその程度の世界だ。結局は─金なんだ」」(186p)

本書はしかし、一方的に出版業界をこき下ろすだけの作品ではない。
このセリフをはいた牛河原を著者はこう描写する。「牛河原は初めて少し寂しそうな顔をした。」(186p)

牛河原がここまで出版業界に冷笑的になったのには理由がある。
そこに至るまでは、多くの作家の上にあぐらをかき続けた出版業界と、それにも関わらず次々に生まれ出づる作家の群れに閉口した牛河原の絶望がある。
ただし、この絶望は、希望や理想の裏返しでもある。牛河原にも文学や出版業界への希望や理想があった事は見逃してはならない。むしろ、抱いていた希望や理想が裏切られたからこそ、牛河原はシニカルな態度を取るようになったのだといえる。
そして、牛河原の怒りとは、当然、著者の怒りでもあるはずだ。

もっとも、著者は本書の中で自らをも客観視してみせる。
「元テレビ屋の百田何某みたいに」(206p)
「まあ、直に消える作家だ」(206p)

著者は自身もだらしない出版界に身を置いている現状をわきまえつつ、なんとかしてこの業界を変えたいと願っているのだろう。
そのためには何をすべきか。
本書の後半は、牛河原の属する丸栄社のビジネスモデルをよりアコギにした商法を駆使した狼煙舎が攻勢をかける。
対する牛河原は、それを詐欺だと世に告発する。そこには牛河原なりの正義感が顔をのぞかせる。
もちろんそれは著者の思いでもあるはずだ。
そして著者は、本書のラストで出版界も捨てたものじゃないというエピソードまで登場させる。

このエピソードを読むと、著者が嫌いなのは本書で散々罵倒してきた出版業界であり、本や文芸そのものはむしろ愛しているのだと確信できる。
著者のその思いが本書の余韻を清々しくしている。そして、本好きにとっては救いのある結末となっている。

‘2019/01/29-2019/01/29


MとΣ


本書の表題作は芥川賞にノミネートされたそうだ。
私は著者のことは知らなかったが、本書のタイトルに興味を持ち、手に取った。

本書には三編が収められている。
三編のどれも、着想が面白く、なおかつ使われている文章が巧みなことに惹かれる。

私がラテンアメリカ文学を好むこと。それは今までに何度かこのブログで書いた。
時間や空間を意図的に混在させ、物語の筋を混線させる手法。そうした実験と挑戦の精神にあふれた内容は、小説とはかくあるべき、といったセオリーを痛快に蹴飛ばす。
それら小説のリズムや展開の狂った内容は、予定調和なリズムや展開に飽き足らない私に刺激を与えてくれる。

本書もまた、時間と空間を意図して混線させている。
ただし、その混線のさせ方は分かりやすい。
ラテンアメリカ文学の著名な作品を読むと、読み手が付いていくのが精一杯になる時がある。だが、本書は時間と空間の混線する境目がくっきりとしており、読者もやすやすと付いていけるはずだ。

冒頭に収められた「2とZ」は、その区切りが分かりやすく、読みやすい一編だ。
第二次大戦中のスペイン、冷戦の真っ只中のハンガリー、バブルに浮かれる東京の渋谷、そして最近の東京の某所。この四つの時間と空間が話の中で展開として交わる事は決してない。
だが、それぞれの物語は区切りとなる一文を境に自在に切り替わる。
一つの文のなかで出来事の主体が切り替わり、対象の属する時間と空間が入れ替わる。

その鮮やかな切り替わりは読者にとって分かりやすい。そして入れ替わりが鮮やかなため、それは読者にある種の爽快感を与えるはずだ。なぜなら。時間と空間が切り替わった瞬間が、文章の中で鮮やかに認識できるから。
その爽快感はどこからやってくるのだろう。少しだけ考えてみた。
それは、文章から映像が想起しやすいため、文章を読む思考の動きと映像がシンクロするからではないかと思う。そのシンクロが新鮮さをもたらすのではないだろうか。

映像の手法とは、場面の切り替わり(トランジション)のことだ。
さまざまな映像作品をみてみるといい。多様な手法を駆使して場面の転換を行っている。
例えば場面の切り替えがあったとする。その時、前後の二つの場面を共通するイメージで繋ぐことによって、時間も場所も異なる二つの場面が切れ目を感じさせずに転換される。

本編の表題作である「2とZ」は、まさにそうした手法が見て取れる。
二つの場面をつなぐオブジェクトのフォルムは似通っている。だが、それが属する時間も空間も、次元すらも異なっている。
本編はその場面を転換させる手法を多用することによって、異なる時間と空間の物語を自在に動き回っている。
異なる時間と空間が読者の脳内でつながり、変容を遂げる時、読者の認識に刺激が与えられる。その変容とはメタモルフォーゼ。つまり変態だ。
鳥の糞に見えた物体が実は蝶の幼虫の擬態であり、それもやがて葉の色と同化し、そして成長して蝶となる。
私たちの周りには、普段そうした現象が起きているのに。なのに、私たちの認識は時間と空間を小分けにしたがる。だが、本編のように時間と空間の区切りが継ぎ目もなくつなげられる時、私たちの認識は刺激を受ける。その刺激こそが新鮮さの正体ではないか。

続いての「パレード」は、主体が次々と入れ替わる物語だ。
ある日、何の前触れもなしに兵士に占拠された町。人々は理由もわからず連れ出され、理由も知らされずに殺される。そして、他人が殺される様を目撃し、自分の殺される瞬間を体験する。
目撃し、殺されてゆく主体の意志は次々と切り替わりる。そこで主体となる意思は不条理な展開に翻弄され、命を散らしてゆく。

本編は、主体の違いを超越しようとした試みだと思われる。
思い、考える自分。それはあくまでも自分の思惟の枠に閉じ込められている。
その枠を飛び越えるには、他者の思惟に突入するしかない。
その試みの一つとして本編があるのではないだろうか。

兵士が言うセリフ「私たちはおまえたちだ」は、すなわち、認識する主体とは、本来はあやふやな枠組みを超えて存在する。このセリフはそのことを端的に示しているように思える。
生まれてから育つ間に植え付けらえた認識の型や枠組み。それらは私たちの認識を閉じ込めている。

本編は、結末に差し掛かると急に兵士に襲撃される前の日々に戻る。
それは本編の物語がループしていることを示す。と同時に、あらゆる未来などしょせんは何が起こるかわからない不確かなものだ、という著者から読者への大胆な挑発でもある。

最後の表題作「MとΣ」もまた、「2とZ」のように読者の認識を軽々と飛び越える様が描かれる。

会社の先輩の死に直面する内村。そして先輩が残した日記には、内村が過去に遭遇した出来事が描かれている。
発売当日に並んで買ったドラクエをかつ上げされそうになった思い出。そして内村からドラクエを取り上げようとした連中の一人が若い頃の先輩だった事実。
そこに、マイク・タイソンがまさかのノック・アウトされた試合と、南アフリカで27年間投獄されていたネルソン・マンデラの出獄が無関係な断片として描かれる。

本編を読んで思ったのが、カール・ユングの提唱した「シンクロニシティ」の概念だ。
その概念はバタフライ効果のような分かりやすい連鎖ではない。
それは時空を超越した因果の関係を仮定した深い概念だ。共時性とも訳される。

本編に描かれた出来事には、ある一つの共通点がある。それは1990年2月11日。
その日に地球の各地で、全く関係のない出来事が無数に起こり、そして行われた。
それらの出来事がお互いに因果を重ねているはずはない。だが、同じ日付という一点において、それらの出来事は集約される。
著者はその日付という共通項に着目し、誰にも因果を立証できず、本来は同立で語るべきではない出来事を一編の物語として読者に提示する。

かつて人間は神を信じていた。そして今、科学技術がそれに置き換わった。
科学技術が進歩するにつれ、何か見えない超越者の意志が人々の無意識に現れはじめているように思える。
それは決して怪しげでスピリチュアルな存在ではない。ただ、今の科学では解明の不可能な事象となって現れる。
その意志が何か。それがわかることは近未来の将来にはないだろう。
だが、誰もが漠然と持っている畏れと疑問をシンクロニシティとして取り上げたのが本編だと思う。

‘2019/01/28-2019/01/29


中小企業の人材コストは国の助成金で払いなさい


弊社でも人を雇う。2019年の年始に決めた目標だった。
その目標を成就させるため、数冊の本を読んだ。本書もそのうちの一冊だ。

人材コストは、中小企業の経営者にとっては切実な問題だ。
純粋な人件費だけでも負担になるのに、その上に社会保険の負担までもが発生する。
そのため、採用に二の足を踏む経営者は多いはずだ。

弊社もご多分にもれず、採用には二の足を踏み続けている。そして、普段は必要な時だけ外注費を支払ってお茶を濁しつつ、業務をこなしている。
だが、いずれは採用を経験しなければなるまい。それがどれほどの難関であっても。

実は、弊社にとって助成金は、それほど縁の遠いものではない。
創業した時にも不採択になったとはいえ、助成金を申請したことがある。その後も数度、助成金の申請が採択されたお客様の予算で案件を請け負ったことがある。

だが、私の中では、助成金に頼るべきではない、との思いがずっとくすぶっている。

その理由は二点ある。

一つ目は、助成金に採択してもらうための申請書類の準備が、かなりの負担になるからだ。

例えば500,000円が支給される助成金があったとする。
当然、その助成金を得るためには、申請のための書類を準備しなければならない。
その準備だけで、500,000円の案件をこなしたのと同じ、もしくはそれ以上の労力を費やす。
確実に採択され、労力に見合った代償として助成金が受け取れるならまだいい。しかし、採択されるかどうかも不確かな申請にかける労力はバカにならない。
その労力を、実際に依頼を受けている案件に向けたいと思うのは筋違いなのだろうか。

また、助成金の募集要項は、お役所が出している。
公的資金からの支出である以上、国民に対して説明責任が求められるため、募集要項に書かれた条件には例外事項も網羅されている。
当然、内容は冗長であり、読み込むにも時間がかかる。
私はその読み込む時間がもったいないと感じてしまう。

二つ目は、助成金とは本業で稼いだお金ではない、という事だ。
本業の能力とは関係がなく収入を得られる。
これは果たして社業にとって本質なのだろうか、という疑問が消えない。
そして、心のブロックが掛かってしまう。

さらには、助成金がもらえる様になったとしても、それによって経営上の判断に狂いが出ないか、との懸念がある。
仮に、申請書類の作成に熟達し、順調に助成金を支給されるようになったとしよう。
支給された金額は、勘定科目では雑収入として計上される。
決算時に総収入で見てしまうと、助成金と通常の業務収入を区別できない。そして後日、経営判断を誤りかねない。
助成金による収入を、会社の実力と勘違いする過ちを犯す。私の脳裏からその懸念が去らない。

弊社の属するシステム業界にSESという言葉がある。System Engineering Serviceの略だ。速い話が派遣である。
技術者を上位の顧客に派遣し、月額いくらで対価を受け取る。
私はこのSESを麻薬と呼んでいる。
一度手を染めると、紹介するだけで毎月の定期収入が得られる。それは確かにありがたい。
だが一方で、SESとは自社の技術者を顧客の要望に応じて自在に派遣する形態であり、自社の真の力が養われているか、と問われると弱い。
そして、SESに依存してしまうと、上位の顧客によって経営基盤が簡単に覆されてしまう。

私は助成金もSESと同じような依存の懸念があるととらえている。

要するに、助成金とはあくまでも社業にとっては副であるべきであり、主としてはならない、という事だ。

そのような認識の一方で、本書を読む前から懇意にしている社労士の先生から、雇用の際は助成金の活用を勧められていた。
また、助成金を活用しようとしまいと、社業の拡大には、就業規則の作成などのさらなる整備の拡充が必要だ。

助成金の申請によって、そうした後回しにしていた作業を着手するきっかけが生まれる。その利点はわかっていた。

また、助成金に依存することは論外としても、スタートアップ時の社業を飛躍させるには資金が必要なことも自明の理だ。

そうした思惑の中、本書を書店で購入した。

本書には、まさに私が望んでいた情報が載っている。
中小企業の宿痾ともいえる資金の不足が、優秀な人材を雇い入れる機会を逸していること。雇用した社員の育成にも、助成金は有用であること。

本書は社労士の方が書かれている。
だからさまざまな導入のモデルケースが取り上げられている。
そこには著者が業務の中で感じたであろう生の声が盛り込まれているに違いない。
また、クライアントと著者のやりとりが多く載せられているのも本書の特色だ。

そうした会話の進み具合が、クライアントの社業の発展として描かれていることもよい。助成金が少しずつの社業の発展に貢献している様子を感じることができるからだ。

本書を読む中で、少なくとも助成金の利点はより理解することができた。

もう一つ、本書には重要な指摘がなされている。それは社労士だけでは助成金の獲得を目指すには十分ではないということだ。
本書には以下のようあこのような項のタイトルが振られている。
・社労士は助成金提案の場にいない
・税理士は助成金の情報を知らない
・士業の分断に振り回される中小企業経営者
つまり、社労士は財務・経営面ではあまり関与できず、本来、それを担うべき税理士は助成金の情報を知らない、という矛盾した現実だ。
両者が別である事によって、助成金はうまく活用されていない、と著者は言う。なお、著者はその両方の資格を持っている。

さて、先日のブログにも書いたとおり、弊社は2019年度の雇用は断念した。
断念した理由は複数ある。だが、一番の理由は家計上での問題だ。
その問題を解消しない事には、雇用も難しいだろう。

だが、本書を読んで一年がたち、コロナウィルスによるリモートワークの促進の助成金が発表された。
こうして本稿をアップする今も、お客様からは、その助成金を使いたいと案件のお引き合いをいただいている。

では、弊社自体も助成金を再び活用できないのだろうか。
今回のコロナ関連の助成金の要綱は既に調べた。
その結果、いくつかの条件が合わず、弊社では採択が見込めないようだ。残念だ。

だが、助成金を偏見をもって遠ざけるのではなく、なんとかうまく取り入れたいとの思いに変わりはない。むしろ本書で考えを改められたと思っている。もう一度調べてみたいと思う。

‘2019/01/21-2019/01/28


生きるぼくら


著者の名前は最近よく目にする。
おそらく今、乗りに乗っている作家の一人だからだろう。
私は著者の作品を今まで読んだことがなく、知識がなかったので図書館で並ぶ著者の作品の中からタイトルだけで本書を手に取った。

本書の内容は地方創生ものだ。
都会で生活を見失った若者が田舎で生きがいを見いだす。内容は一言で書くとそうなる。
2017年に読んだ「地方創生株式会社」「続地方創生株式会社」とテーマはかぶっている。

だが、上に挙げた二冊と本書の間には、違いがある。
それは上に挙げた二冊が具体的な地方創生の施策にまで踏み込んでかかれていたが、本書にはそれがないことだ。
本書はマクロの地方創生ではなく、より地に足のついた農作業そのものに焦点をあてている。だから本書には都会と田舎を対比する切り口は登場しない。そして、田舎が蘇るため実効性のある処方も書いていない。そもそも、本書はそうした視点には立っていない。

本書は、田舎で置き去りにされる年配者の現実と、その介護の現実を描いている。そこには生きることの実感が溢れている。
生きる実感。本書の主人公である麻生人生の日常からは、それが全く失われてしまっている。
小学生の時に父が出て行ってしまい、母子家庭に。その頃からひどいいじめにさらされ、ついには不登校になってしまう。高校を中退し、働き始めても人との距離感をうまくつかめずに苦しむ日々。そしてついには引きこもってしまう。

生計を維持するため、夜も昼も働く母とは生活リズムも違う。だから顔を合わせることもない。母が買いだめたカップラーメンやおにぎりを食べ、スマホに没頭する。そんな「人生」の毎日。
だがある日、全てを投げ出した母は、置き手紙を残して失踪してしまう。

一人で放りだされた「人生」。
「人生」は、母の置き手紙に書かれていたわずかな年賀状の束から、蓼科に住む失踪した父の母、つまり真麻おばあちゃんから届いた達筆で書かれた年賀状を見つける。
マーサおばあちゃんからの年賀状には「人生」のことを案じる文章とともに、自らの余命のことが書かれていた。
蓼科で過ごした少年の頃の楽しかった思い出。それを思い出した「人生」は、なけなしの金を持って蓼科へと向かう。
蓼科で「人生」はさまざまな人に出会う。例えばつぼみ。
マーサおばあちゃんの孫だと名乗るつぼみは、「人生」よりも少し年下に見える。それなのにつぼみは、「人生」に敵意を持って接してくる。

つぼみもまた社会で生きるのに疲れた少女だ。しかもつぼみは、立て続けに両親を亡くしている。
「人生」の父が家を出て行った後、再婚した相手の実子だったつぼみは、「人生」の父が亡くなり、それに動転した母が事故で死んだことで、身寄りを失って蓼科にやってきたという。

「人生」とつぼみが蓼科で過ごす時間。それはマーサおばあちゃんの田んぼで米作りに励みながら、人々と交流する日々でもある。
その日々は、人として自立できている感触と、生きることの実感を与えてくれる。そうした毎日の中で人生の意味を掴み取ってゆく「人生」とつぼみ。

本書にはスマホが重要な小道具として登場する。
先に本書は田舎と都会を比べていない、と書いた。確かに本書に都会は描かれないが、著者がスマホに投影するのは都会の貧しさだ。
生活の実感を軸にして、蓼科の豊かな生活とスマホに象徴される都会の貧しさが比較されている。
都会が悪いのではない。スマホに没頭しさえすれば、毎日が過ごせてしまう状況こそが悪い。
一見すると人間関係の煩わしさから自由になったと錯覚できるスマホ。ところがそれこそが若者の閉塞感を加速させている事を著者はほのめかしている。

「人生」がかつて手放せなかったスマホ。それは、毎日の畑仕事の中で次第に使われなくなってゆく。
そしてある日、おばあちゃんが誤ってスマホを池に水没させてしまう。当初、「人生」は自らの生きるよすがであるスマホが失われたことに激しいショックを受ける。
だが、それをきっかけに「人生」はスマホと決別する。そして、「人生」は自らの人生と初めて向き合う。

田舎とは人が生きる意味を生の感覚で感じられる場所だ。
本書に登場する蓼科の人々はとにかく人が良い。
ただし、田舎の人はすべて好人物として登場することが多い。実際は、それほど単純ではない。実際、田舎の閉鎖性が都会からやってきた若者を拒絶する事例も耳にする。すべての田舎が本書に描かれたような温かみに満ちた場所とは考えない方がよい。
本書で描かれる例はあくまで小説としての一例でしかない。そう受け取った方がよいだろう。
結局、都会にも良い人と悪い人がいるように、田舎にだって良い人や悪い人はいるのだから。
そして、都会で疲れた若者も同じく十把一絡げで扱うべきではない。田舎に合う人、合わない人は人によってそれぞれであり、田舎に住んでいる人もそれぞれ。

「人生」とつぼみはマーサおばあちゃんという共通の係累がいた事で、受け入れられた。彼らのおかれた条件は、ある意味で恵まれており、それが全ての若者に当てはまるわけではない。その事を忘れてはならない。
そうした条件を無視していきなり田舎に向かい、そこで受け入れられようとする甘い考えは慎んだ方がよいし、受け入れられないからと言って諦めたり、不満をSNSで発信するような軽挙は戒めた方が良いだろう。

私は旅が大好きだ。
だが私は、今のところ田舎に引っ越す予定はない。
なぜなら生来の不器用さが妨げとなり、私が農業で食っていく事は難しいからだ。多分、本書で描かれたようなケースは私には当てはまらないだろう。
一方で、今の技術の進化はリモートワークやテレワークを可能にしており、田舎に住みながら都会の仕事をこなす事が可能になりつつある。私でも田舎で暮らせる状況が整っているのだ。

そうした状況を踏まえた上で、田舎であろうと都会であろうと無関係に老いて呆けた時、都会に比べて田舎は不便である事も想定しておくべきだ。
本書で描かれる田舎が理想的であればあるほど、私はそのような感想を持った。

間違いなく、これからも都会は若者を魅了し続けることだろう。そして傷ついた若者を消耗させてゆくだろう。
そんな都会で傷ついた「人生」やつぼみのような若者を受け入れ、癒やしてくれる場所でありうるのが田舎だ。
田舎の全てが楽園ではない。だが、都会にない良さがある事もまた確か。
私はそうした魅力にとらわれて田舎を旅している。おそらくこれからも旅することだろう。

都会が適正な人口密度に落ち着く日はまだ遠い先だろう。
しばらくは田舎が都会に住む人々にとって、癒やしの場所であり続けるだろう。だが、私は少しずつでもよいから都市から田舎への移動を促していきたいと思う。
そうした事を踏まえて本書は都会に疲れた人にこそお勧めしたい。

‘2019/01/20-2019/01/20


ノックス・マシン


本書のように、読み手の認識の上手を行く小説に出会うと興奮させられる。脳の使っていない領域が刺激されるからだろう。
芥川賞作家の円城塔氏の作品を読んだ時にも似た感覚。
本書は、推理小説の枠組みの中で読み手の認識を試しにかかることがなおさら興味深い。

推理小説とは、言うまでもなく小説の一ジャンルだ。その本質は謎を解く経緯を楽しむことにあると言っても間違いではあるまい。
だから推理小説にはある種のルールが存在する。そのルールの制約にのっとり、作家から読者ヘと謎が届けられ、読者は謎に導かれながらページを繰る。そして最後には謎が解かれるカタルシスを得る。それこそが推理小説の魅力だ。
謎という縛りがあるため、推理小説には純文学とは違うたががはめられている。
先に名前を挙げた円城塔氏は、純文学の世界の作家と目されている。一方、著者は推理小説の世界で著名な作家である。そのため、本書は推理小説のジャンルとして書かれている。
ところが著者は、推理小説の枠組みを生かしながら、それを逆手にとった内容に仕立て上げている。

上に推理小説のルールと書いた。ルールといってもいろいろある。
その中で、1920年代に英国の推理作家ロナルド・ノックスが発表したいわゆる「ノックスの十戒」はよく知られたルールだ。
私もかつて、推理小説の概観を紹介する本で「ノックスの十戒」は目にしたことがある。
それ以来、長い間、十戒のことは忘れていたが、本書を読んで久々に思い出した。

「探偵小説には、中国人を登場させてはならない」という第五戒の奇妙な記載。この唐突な一節は、あらためて考えてみると妙な文章だ。
多分、私が初めて「ノックスの十戒」を目にした当時も、かすかに違和感を覚えたはず。だが、もう覚えていない。
本書で取り上げられたことで、あらためて第五戒の特異さに目がいった。

本書は全部で四編から成っている。それぞれ独立した短編だが、最初の一編は最後の一編へとつながっている。
「ノックス・マシン」
「引き立て役倶楽部の陰謀」
「バベルの牢獄」
「論理蒸発-ノックス・マシン2」

「ノックス・マシン」は、まさにノックスの十戒のうち、第五戒がなぜできたのかを取り上げている。中国人を槍玉にあげた唐突にも思える一戒はなぜ生まれたのか。
その謎に着目した本編は、ミステリでありながらSFの要素を兼ね備えている。なぜなら、本編の舞台は2050年代末だから。いわゆる近未来だ。

人工知能による小説の自動生成が当たり前になり、人類が自ら小説を作り出す必要がなくなった未来。
人工知能が小説を生み出すには小説の学習が欠かせない。学習の範囲は語彙や文法、筋、表現など幅広い。
あらゆる文章を読み込み、埋もれた文章まで含めて発掘し尽くすのがパラ人文学。
ところが、あらゆる文章が発掘された事で、学問が成熟を迎え、新たな成果物が生まれにくくなっていた。

パラ人文学部でかつて隆盛を極めた数理文学解析を専攻し、二十世紀の黄金期の推理小説を研究するユアン・チンルウにとっては、そうした事態は望ましくない。自らの捧げた学問分野の衰退につながるからだ。
そこでユアンは研究にあたり、分析にノックスの十戒を用いたモデルを作ってみた。
ところがシミュレーション結果がうまくいかない。それは第五戒の中国人の部分が結果を乱しているからだ。
そんな風にパラ人文学部で研究を重ねるユアンのもとに、国家科学技術局から呼び出しが来る。
国家科学技術局では、タイムトラベル理論を検証する取り組みの中で、時間線上の特異点が発見された。
その特異点の日付とは、ノックスの十戒が書き留められた日。その謎を解き明かすため、ノックスの十戒を研究していたユアンが呼び出された。
ユアンは第五戒の生まれた謎こそが、特異点に関係していると突き止め、その謎を解くため一方向しか行けない時間旅行に志願し、ノックスに会いにいく。

本編はSF的な趣向に満ちているが、その中でノックスの十戒の謎となるくだりがなぜ生まれたかを鮮やかに解釈してみせている。
かつて、歴史ミステリが一ジャンルを築き上げたが、本書もまた、その系譜に載せるべき一編かもしれない。

本書の末に載っている「論理蒸発」は、そこから15年後の世界を描く。あらゆるテキストがデータに置き換えられた世界。紙の書物はほぼ絶滅し、あらゆる文脈がデータの中で密接に絡み合う世界。ところが、その保存されたデータが小説から順に蒸発してゆく事件が起きた。
どうもそれは紙原理主義ともいうべき過激派による犯行の節がある。
小説が人工知能に握られ、人類からテキストの創造が喪われた現状を破壊し、過去の紙による文芸の世界に戻ろうとする。それこそが紙原理主義の掲げる主張だ。

主人公のプラティバは、原典の文章の正統性を管理する部署にいる。そして父は数理解析の分野の泰斗と目される人物である。
世界から小説のデータが失われつつある現状。それを調査するよう命じられたプラティバは、調査の中でユアン・チンルウのことを知る。
そこで二人は協力し、世界からテキストが喪われる事態を防ごうと奔走する。

本編もまた、SF的なギミックに満ちている。
それでいて、小説の中のコンテキストの意味を考えさせられるように書かれている。このメタな発想はとても面白い。

メタと言えば、二番目に収められた「引き立て役倶楽部の陰謀」も面白い。
引き立て役といえば、シャーロック・ホームズを支えるワトソン博士の名前が真っ先に挙げられるだろう。
黄金期の推理小説にはこうした探偵役と助手の組み合わせが多く生み出された。
今般出版される推理小説のシリーズにも同様の引き立て役は存在する。
本書はその引き立て役が集まった会合の存在を仮定する。そして、彼らが巡らせる原理主義の色の濃い策謀を描いている。その発想がとても面白い。

アガサ・クリスティーの「アクロイド殺し」は名作中の名作として知られる一品だ。その犯人の正体をめぐる真相は、発表された当時、大変な反響を呼んだという。
そして、引き立て役の面々にとっては「アクロイド殺しの謎」の革命的な内容が自らが属する古典の推理小説の世界を壊しかねないと危惧する。
そして作者であるアガサ・クリスティーをかどわかし、作品を亡き者にしようと大それた陰謀を実行する。
実際、アガサ・クリスティーは史実でも謎の失踪を遂げた時期がある。それはミステリが好きな向きにはよく知られた話だ。失踪の真相は今もって謎だという。
本編はその謎を引き立て役の陰謀にからめている。その着想の見事さは、うなるしかない。

本書全体から感じられるのは、著者の推理小説全体に対する深い知見だ。ただただ見事。
私自身、かつて読んだはずの「アクロイド殺し」の筋書きをだいぶ忘れてしまっている。本編を読んで、再読してみなければ、という思いを新たにした。

残りの一つ「バベルの牢獄」は、SF的な趣向に溢れている。
推理小説のような要素は一読すると皆無だ。
鏡文字に印刷された文字が、主人公の思惟の対ではなく、わずかな差異=キラリティであるとの設定で進められる。その鏡文字を発する思惟と主人公がどうやって会話を成り立たせるか。本編もまたテキストの本質を高次の視点から描いた一編だ。

こうした物理的な概念を持ち込んで小説を表わす著者の異能には驚くほかない。推理小説の大家である著者だが、まだまだアイデアには枯渇していないようだ。
私も著者の他の作品を読まなければ、と思った。

‘2019/01/19-2019/01/19