アウシュヴィッツ・レポート


衝撃の一作だ。
私がアウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所の恐るべき実態を描いた映画を観るのは『シンドラーのリスト』以来だ。
人を能率的に殺すためだけに作られた収容所。労働に耐えうるものと殺されるものがいとも簡単に選別され、殺されるものは即座に処分される。
にわかには信じられないその所業をなしたのはナチス・ドイツ。

私は23歳の頃に『心に刻むアウシュヴィッツ展』の京都会場のボランティアに参加したことがある。昨年の年末には『心に刻むアウシュヴィッツ展』の展示物が常設の博物館となっている白河市のアウシュヴィッツ平和博物館にも訪れた。あと、福山市のホロコースト記念館にも23歳の頃に訪れた。

私はそうした展示物を目撃してきたし、書籍もいろいろと読んできた。無残な写真が多数載せられた写真集も持っている。
だが、そうした記録だけではわからなかったことがある。
それは、残酷な写真がナチスの親衛隊(SS)の目をかすめてどのように撮られたのかということだ。私が持っている写真集の中にはドイツの敗色が濃厚になる前のものもある。また、収容者によっては連合軍に解放されるまでの長期間を生き延びた人物もいたという。
私にはそうした収容所の様子が文章や写真だけではどうしてもリアルに想像しにくかった。
念のために断っておくと、私は決して懐疑論者でも歴史修正主義者でもない。アウシュヴィッツは確実にあった人類の闇歴史だと思っている。

本作は私の想像力の不足を補ってくれた。本作で再現された収容所内の様子や、囚人やSSの感情。それらは、この不条理な現実がかつて確実にあったことだという確信をもたらしてくれた。

不条理な現実を表現するため、本作のカメラは上下が逆になり、左に右とカメラが傾く。不条理な現実を表すかのように。
だが、その不条理はSSの将校たちにとっては任務の一つにすぎなかった。SSの将校が家族を思い、嘆く様子も描かれる。
戦死した息子の写真を囚人たち見せ、八つ当たりする将校。地面に埋められ、頭だけを地面に出した囚人たちに息子の死を嘆いた後、馬に乗って囚人たちの頭を踏み潰す。
一方で家族を思う将校が、その直後に頭を潰して回ることに矛盾を感じない。その姿はまさに不条理そのもの。だが、SSの将校たちにとっては日常は完璧に制御された任務の一つにすぎず、何ら矛盾を感じなかったのだろうか。
本作はそうした矛盾を観客に突き付ける。

戦後の裁判で命令に従っただけと宣言し、世界に組織や官僚主義の行き着く先を衝撃とともに教えたアドルフ・アイヒマン。
無表情に仮面をかぶり、任務のためという口実に自らを機械として振る舞う将校。本作ではそのような逃げすら許さない。将校もいらだちを表す人間。組織の歯車にならざるを得ない将校はあれど、彼らも血の通った人であることを伝えようとする。

本作は、想像を絶する収容所の実態を外部に伝えようと二人の囚人(ヴァルター・ローゼンベルクとアルフレート・ヴェツラー)がアウシュヴィッツから脱出する物語だ。
二人がまとめたレポートはヴルバ=ヴェツラー・レポートとして実在しているらしい。私は今まで、無学にしてこのレポートの存在を知らずにいた。

脱出から十日以上の逃走をへて保護された二人は、そこで赤十字のウォレンに引き合わされる。だが、ウォレンはナチスの宣伝相ゲッベルスの宣伝戦略に完全に惑わされており、当初は二人の言い分を信じない。それどころか、赤十字がアウシュヴィッツ=ビルケナウ収容所のために差し入れている食料や石鹸といった日用品を見せる。さらには収容所から届いた収容所の平穏な日常を伝えた収容された人物からの手紙も。
もちろん二人にとっては、そうしたものは世界からナチスの邪悪な所業を覆い隠すための装った姿にすぎない。

二人が必死で持ち出したアウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所の実情を記したレポートはあまりにも信じがたい内容のため、当初は誰にも信じられず、レポートの出版まで七カ月もかかったという。それほどまでに実態が覆い隠されていたからこそ、解放時に発信されたアウシュヴィッツの凄惨な実態が世界中に衝撃を与えたのだ。

人類が同胞に対して与えた最大級の悪業であるホロコースト。
ところが、この出来事も私が思うほどには常識ではないらしい。古くからホロコースト陰謀論がある。かつて読んだことがあるホロコースト陰謀論の最後には、ヒロシマ・ナガサキすら陰謀論として片付けられているらしい。
人類に民族抹殺など大それたことが出来るわけがない。そんな反論の陰で、私たちを脅かす巨大な悪意が世界を覆う日に備えて牙を研いでいるのかもしれない。

本作の冒頭には、このような箴言が掲げられる。
「過去を忘れる者は必ず同じ過ちを繰り返す」
ジョージ・サンタヤナによるこの言葉を、私たちのすべては肝に銘じておくべきだろう。

本作のエンドクレジットでは今のポピュリストの指導者が発するメッセージの数々が音声で流れる。
それらは多様性を真っ向から否定している。
LGBTQの運動を指して、かつて共産主義がまとった赤色の代わりに虹色の脅威がきていると扇動する。
自国の民族のみを認め、移民を排斥する、など。おなじみのドナルド・トランプ前アメリカ大統領とおぼしき声も聞こえる。

本作のエンドクレジットこそは、まさにアウシュヴィッツ=ビルケナウが再び起こりかねないことを警告している。
このラストの恐ろしさもあわせ、本作から受けた衝撃の余韻は、今もなお消えていない。

なお、唯一私が本作で違和感を感じた箇所がある。それは、赤十字からやってきた人物が英語で話し、アルフレートがそれに英語で返すシーンだ。
当時の赤十字の本部はスイスのジュネーヴにあったはず。二人が脱出してレポートを書いたのはスロバキアなので、スイスから来た人物が英語を話すという設定が腑に落ちなかった。スロバキアの映画のはずなのに。

‘2021/8/7 kino cinema 横浜みなとみらい


この世界に残されて


年末に訪れた白河のアウシュヴィッツ平和博物館。本作品を知ったのはその時だ。
本作品のチラシが受付に置かれていて、持ち帰らせてもらった。
チラシが置かれているからには、本作品がホロコーストを題材にしていることは明らかだ。

では、その悲劇が本作品では一体どのように描かれているのだろう。
ホロコーストの悲惨さとかけ離れたような、チラシの少女の美しさ。そのコントラストにも惹かれた。
ホロコーストの悲惨な写真の並ぶ中、美しい少女の姿と悲劇が結びつかず、それもあって本作品に興味を持った。

ところが、本作品の上映館がどこなのかを調べておらず、半ば忘れかけていた。
そんなある日、ひょんなことで本作品がわが家に近い新百合ヶ丘のアルテリオで上映されていることを知った。
しかし、まもなく上映が終了してしまう。そして他の日は上映時間に打ち合わせが入っている。
となれば、日中に自由な時間がとれる今日しかない。
そんないきさつで観た本作品だが、余韻が残る良い映画だった。

本作品は、ホロコーストの悲劇をテーマとしている。
だが、本書はホロコーストの悲惨さを直接に描写しない。それどころか、登場人物の口からホロコーストのことはほぼ語られない。
収容所という言葉すら、本作品を通しても一、二度しか出てこない。
本作品に出てくるもっとも残酷な描写といえば、主人公の妹を木に縛り付ける兵士たちと、それを助けられなかった主人公の慟哭だ。

それほどまでにホロコーストのことを直接に描かない。それにもかかわらず、本作品からはホロコーストの悲惨さを存分に感じる。
ホロコーストで家族を殺されることが、どれほど人を深く傷つけるのか。
一人きりでこの世界に残されることがどれほどつらいのか。
二人の主人公の演技は、そのつらさを観客に深く刻み付ける。

クララは両親と妹を喪い、この世界に残されてしまった十六歳の少女だ。
年の離れた大叔母のオルギと暮らすが、オルギとの暮らしに息苦しさを感じている。
そして、生理が来ないことでオルギに付き添ってもらい、婦人科を受診する。

そこで診察してくれたのが、医師のアルドだ。
アルドとの診察の中で何かを感じたクララは、わざわざ生理が来た報告のためだけにアルドのもとを訪問する。

そして、抱きしめてほしいとアルドにせがむ。
そっと抱き寄せるアルド。
そして、以後は週の大半をアルドの家で泊まる。

42歳のアルドと16歳のクララ。
親子ほどに年の離れた男女だが、血のつながりはない二人。
こうした設定からは、性的な関係を頭に浮かべないほうがおかしい。

だが、そこで二人は決して一線を越えない。
越えないが、二人は実の父娘よりも近しいように思える。
一緒の布団で寝て、ハグもする。

だが、二人の間はあくまでも一人きりでいられない寂しい者同士の関係に終始する。
医者に背中を診察してもらう間に、クララはアルドに後ろを向いていてほしいという。

つまり本作品で描かれる二人の関係は、性的な関係とは程遠い。でありながら、父娘の関係よりも近しい。
一見すると不健全な二人の関係を補うように、アルドには後半になってエルジというパートナーが登場し、胸を見せて二人の性的な関係を暗示させる。一方、クララにはペペという彼氏も登場する。

だが、二人の間に共通する傷の深さは、関係が変わろうと二人の間に絆を保ち続ける。
そのことがかえって、二人が負った傷の深さと、一人きりで生きていくことのつらさを感じさせてくれる。

二人は決してつらかった時期のことを口に出そうとしない。
クララがアルドの過去を知るのも、アルドが自分のいない間に眺めてほしい、と引き出しのカギに添えておいていった手紙だけだ。
引き出しの中にはアルドがかつて一緒に過ごしていた妻や息子の写真が貼られており、クララは号泣する。
クララの回想には両親と妹が登場するにもかかわらず、アルドの妻や息子たちは一切、本作品に出てこない。そのことも、かえってアルドが受けた傷の深さを思わせる。

クララもすでにいないはずの両親に手紙を書き、埋められぬ不在を埋めようとけなげに過ごすが、その姿には痛々しさがあふれでている。
二人を取り巻く描写の全てが、ホロコーストの時代の悲劇を際立たせている。

本作は全体の色調も静かだ。
冒頭から登場するアルドの診察室はモノトーンに近く、華美な印象はない。
会話も控えめな本作品で、アルドは寡黙な医師であり続ける。
端正なマスクを持ちながら、前頭部は後退している姿が哀しみをさらに醸し出している。そして過去のつらい経験からか、喜怒哀楽を表に出さない。

そのアルドを演じるカーロイ・ハイデュクは、そのわずかな口と眉と目のうごきだけで心の動きを表しているのが素晴らしい。

そして、クララだ。本作品の暗めのトーンは、彼女の美貌と華やかさによって釣り合いがとれている。
可憐な少女の姿で登場し、徐々に成長し大人になってゆくクララの姿。その姿はチラシに登場する姿よりも、劇中のさまざまなシーンでこそ輝いている。
アビゲール・セーケの美しさは、本作の華であることは確かだ。

私がハンガリーの映画を観るのは初めてだが、この主人公の二人の演技と姿には目を奪われた。
その一方で、ハンガリーの映画ゆえに、ハンガリーの歴史を知っていなければ、わからないことも多い。
例えばソ連の影響が増す中、党員や党といった言葉が出てくる。これは明らかに共産党を指しているのだろう。

そして、ラスト近くではスターリン死去のニュースが人々に喜びをもたらす様子も描かれる。
だが、映画には書かれていないハンガリーの歴史では、この後、ハンガリー動乱の悲劇が控えているはずだ。
それを知っているか知っていないのでは、登場人物たちの姿も違ったように映る。

本作が未来に希望を感じるかのような大人びたクララの姿で幕を閉じるとなおさら。

‘2021/1/28 川崎市アートセンター アルテリオ映像館


新解釈 三国志


本作品は、当日の朝になってみることに決めた。

朝、起きてすぐにコロナで逼塞を余儀なくされている現状に心が沈んでいることを自覚した。去年にはなかったことなのに初めてだ。
これはまずいと心の落ち込みを妻に話したところ、前から本作品を観たいと思っていた妻が、本作品を提案してきた。
そこで妻と長女と観に来た。
何も考えずに笑いたくて。

三国志は高校一年生の時に吉川英治版の小説を読み通したし、それ以降にもコーエーのシミュレーションゲームや三國無双はだいぶやり込んだ。
物語も知っている。登場人物もお馴染みだ。
それが本作品で新たな解釈がどれほど施されているのか。私には興味があった。

しかも、聞くところによると本作品の監督は、あの「勇者ヨシヒコ」の監督ではないか。
であるなら、通りいっぺんの三国志とは違う世界に浸れるはず。もちろん笑いも込みで。

結果は、笑った笑った。いやあ楽しめた。
もう何も考えず、何も批評せず。ただ座席と物語に身を委ねて。
何しろ、三国志の物語の大筋は分かっているので、物語の筋を追って理解しなくてはというプレッシャーもない。伏線が隠れているのでは、と画面の隅々に目を光らせる必要もない。リラックスして全編が楽しめた。これは楽だ。

新解釈とあったけれども、本作品は三国志の物語の骨格そのものは壊していなかった。そのため、リラックスしていても楽に流れを理解できた。
むしろ、吉川英治の三国志との違いにニヤニヤしながら観ることができた。
ここをがっつり壊されてしまうと、かえって興ざめしてしまう。
三国志の世界に沿っていることこそ、本作品が挑戦的な内容でありながら、作品として成り立った理由だと思う。

本作品の新解釈とは何か。それは、キャラ設定に尽きる。
小説やゲームの中に登場する三国志の登場人物たち。彼らや彼女たちを本作品の俳優陣がどのように解釈し演じてくれるか。
1800年以上にわたって人々に知られた三国志の登場人物たち。そうした個性の豊かな登場人物を、私たちが持っている俳優の芸風やイメージのままに自然に演じているのがかえって新鮮だ。
むしろ、演じているという言い方は違うかもしれない。
それよりも新解釈で演じるのではなく、俳優のキャラクターで上書きしたらどうなるか、ととると面白い。

例えば劉備玄徳。小説やゲームでは武力や知力の設定値があまり高くないが、人徳の値が異常に高い。つまり、真面目で愚直な人物として知られている。
それを本作品では愚痴とぼやきだらけで、責任感のない人物として解釈している。しかも、酒を飲むと高揚して英雄的な言動を発するあたり、張飛や関羽のキャラを食っている。
そんな風に新しく解釈された劉備が、大泉洋さんのあの飄々とした感じで演じられている。
仮病で虎牢関の戦いをサボるシーンなどそのクライマックスだろう。真に迫る仮病の演技ではなく、芝居感を時々のぞかせながらの演技がまたいい。メタ笑いスレスレだ。

また、神智の持ち主として高名な諸葛亮孔明。それをチャラく、そして安請け合いしてしまう軽薄な人物として描いていることも本作品の新解釈の一つだ。
大言壮語するビッグマウスの持ち主でも、不思議な運によって乗り切ってしまう人は現実にもいる。そんな強運の人物として諸葛亮孔明を描いているのも面白い。
そんな風に斬新に解釈された諸葛亮孔明が、ムロツヨシさんのあの掴みどころのない感じで演じられているのも面白い。
小説で書かれたような神のごとき知力を縦横に操る軍師の面影は本作品にはない。まさに大胆不敵な解釈とは本作品を指すのだろう。

さらに言うと、諸葛亮孔明の知恵の出どころは、実は奥方こと黄夫人からだったという設定も面白い。これは実際にそうした伝承もあるらしい。
だから本作品の設定をあながち荒唐無稽と言い切れないのだ。
とはいえ、神格化されていた孔明像を信奉している方からしてみると、本作品の大胆な解釈からは不快さを感じるかもしれない。

また、董卓を演じる佐藤二朗さんは、まさにテレビで見かけるあの台詞回しそのもの。それが三国志の中でも指折りの悪役を演じているのだから笑えてしまう。
まさに上に書いた通り、小説の董卓を新解釈で演じるのではなく、董卓を佐藤二朗さんのキャラで上書きしている。

本作品でデフォルメが加えられているのは、劉備玄徳や諸葛亮孔明や董卓だけではない。趙雲や貂蝉や周瑜、曹操にも監督と俳優さんの自由な解釈が加わっている。
つまり、本作品では三国志の登場人物を演じたり再現させたりする意図はほぼないと考えられる。
むしろ、時代設定とあらすじだけを借り、キャラクターも上書きし、その上で笑いを生み出しているのが本作品だ。
だから、キャラが小説版と違っていて当然だし、観る側もそれを承知で笑い飛ばすのが正しい。

ただ、笑い飛ばすとはいえ、本作品を軽んじてはならないと思う。
というのも、本作品にはいい加減さが感じられないからだ。真剣に笑いを追求している。
例えば上記の登場人物のキャスティング。これが案外とはまっている。
私には以下の方々のビジュアルが私の中のイメージとしっくり合った。呂布の城田優さん。趙雲の岩田剛典さん。張飛の高橋努さん。周瑜の賀来賢人さん。魯粛の半海一晃さん。

また、いい加減でない部分は他にもある。
例えばアクションシーン。おちゃらけた感じは受けない。ワイヤーアクションを使っているのは分かるが、学芸会と同じレベルのアクションとは違い、映画として成立している。
また、舞台セットについても、手を抜いている感じは受けなかった。
いい加減でないのは当然だ。なぜならキャラ設定を新解釈で笑うには、そのほかの部分がしっかりしていることが条件だからだ。
そうした部分がきちんと描かれていたからこそ、観客は本作品の新解釈に笑えるのだと思う。

あと、エンドロールに流れる福山雅治さんの「革命」もよかった。
歌詞の内容自体は英雄の群雄する当時を取り上げている。だが、革命というタイトル自体は、今までの三国志に縛られた私にとって本作の自由な解釈も許されてよい、という常識の革命と受け取った。

と、書いてきたが、そもそも本作品はこんな風にくだくだしく書く必要すらない。
笑いながら観て、観終わればきれいさっぱりして忘れたっていいのだ。誰も傷つけない作品であり、観終わっていやな気持にもならない。

コロナで暗鬱とした中だからこそ、こうした作品はうれしい。観られたことがありがたかった。
実際、鬱々とした起き抜けの気分はさっぱりと晴れ渡った。

‘2021/1/17 イオンシネマ多摩センター


劇場版「鬼滅の刃」無限列車編


今年、一本も映画館で映画を観ることができなかったが、大晦日になってようやく観られたのが本作だ。

今、鬼滅の刃が社会的なブームになっているのは誰もが知る通り。普段、私はこうしたブームからは距離を置きたいタイプだ。だが、今年の3月ごろにお客様から熱烈にお勧めされ、しかも10月に入院した妻が入院中にはまった。そのため、家族で一緒に行こうというプレッシャーが強烈だった。年内までにはみたいな、と。
そんなわけで、12/29になってアニメの26話まで見終え、30日にコミックスの6巻まで読み終え、何とか大晦日に間に合わせることができた。

正直にいうと、アニメを見始める前までは、鬼滅の刃の面白さは薦められたことで分かっていた。だが、少し疑問を持っていた。なぜ鬼滅の刃が私たちの世代でいう北斗の拳やドラゴンボールよりも熱烈なブームになっているのだろうか、と。

北斗の拳やドラゴンボールやるろうに剣心やキン肉マンと鬼滅の刃のどれも、勧善懲悪のバトル漫画という骨法は同じ。それなのに、なぜここまでの社会的なブームになっているのだろうか。
それは、コロナで外出できない人々の欲求が鬼滅の刃に集中したからなのだろうか。

私が思うに、鬼滅の刃が支持されているのは、人物の造形がきちんと掘り下げられているからだろう。悪役や主人公、脇役の造形の仕方がとてもうまい。モブキャラ以外はキャラ立ちするように誇張して性格付けされている。それなのに、その設定が冗長な描写ではなく、簡潔な描写だけで人物の性格が際立っている。それがとてもうまいと思う。小説でもアニメでも漫画でも、キャラが立っている作品には指示が集まるのだろう。
また、私が読んだ範囲のコミックスに登場する鬼は、鬼になった理由がきちんと描かれている。悪役にも一つの理を与えているのだ。
北斗の拳やキン肉マンやドラゴンボールの敵役にもある程度の背景は描かれていた。が、鬼滅の刃ほど掘り下げられていない気がする。

あと、思うのは、大正時代という時代設定の良さだ。日本人にとって江戸時代とは時代劇で描かれる絵空事の世界となってしまっている。だが、大正時代は活動写真もあれば蒸気機関車も走る近代文明が通用する世界だ。
そうした世界は、私たちにとっても世界観が共有できる。それでありながら、大正という過去の歴史の時代であるがゆえに、鬼という存在がさほど違和感なく受け入れられるのかもしれない。
白虎隊や新選組などの遺風がかろうじて生きていたのも大正時代の良さであり、その時代設定も本作の良さにつながっている気がする。

あと、最近のアニメ作品の絵の精巧な様は、もはや芸術といえるほどだ。
実写映像で描いているのでは、と思えるほどのリアルさは、アニメシーンでありながら、違和感なく世界観を作り上げることに寄与している。
本作の場合、コミックスよりも格段にアニメのほうが美しい。また、コミックスでは描かれていない背景やエピソードをアニメ版で補足することで、物語にも深みが与えられている。
私はもともと原典主義であり、まず原作を読んでから二次創作物に触れたいと思っている。が、本作に限ってはコミックスの世界観をアニメが凌駕しており、しかも原作の良さも殺していないところが素晴らしいと思う。
映画ももちろん、アニメのクォリティを完全に踏襲しており、それが長編として成立している本作は歴代興行収入ナンバー1になっても納得できる出来栄えだ。

本作の内容については、まだ漫画やアニメを見ていない人のために書かないようにする。私自身、上に書いた通り、この先の展開を知らない。そのため、下手なことを書かないように自重したい。

ただ、少しだけ語っておくと、うちの家族は映像を見終わってウルウルしていたし、私もホロリとした。
ここで死にゆく彼の死に様としては男でも惚れるもの。
本作で登場する一番の悪役の語るセリフにも、何かしら納得させられてしまった。80年の人生では足りない、と常々考えている私にとって、滅びゆく肉体だからこそ美しいのが人なのかもしれないが、より長い人生が欲しい。
鬼である以上、昼に活動できないのは難点だが、己の欲望を満たすために鬼になるという理由付けは理解できる気がした。人は喰いたくないけれど。

‘2020/12/31 イオンシネマ新百合ヶ丘


スター・ウォーズ スカイウォーカーの夜明け


1977年に第一作が封切られてから42年。
その期間は、私の年齢にほぼ等しい。

私の場合、旧三部作についてはリアルタイムで体験していない。全てテレビ放送で観た世代だ。
それでも、一つの物語が終わろうとする場面に立ち会う経験は、人を感慨にふけらせる。

一方で42年にわたったシリーズが完結と銘打たれると違和感を感じるのは否めない。
故栗本薫氏の言葉を借りるなら、物語とは本来は永遠に続くものである。であるなら、スター・ウォーズとは本来、永遠に続く物語の一部分に過ぎないはずだ。
だが、本作は幕を閉じた。語られるべき無数のエピソードを残して。
その点については正直にいうと違和感しかない。

それにもかかわらず、9作目である本作をもって、シリーズをいったん完結させると言う決断は評価できると思う。

というのも、スター・ウォーズとは1つの文化でありサーガであり、人類に共通の遺産ともいえるからだ。
エピソードⅦのレビューにも書いたが、スター・ウォーズ・サーガは人々にとってあまりにも普遍的な物語となってしまった。そのため、スター・ウォーズにはいままでの物語を越えた新たな展開や、意表をついた設定の変更が許されない。いわば聖域でもあるし、不可侵の存在に祭り上げられてしまっている。

それは、スター・ウォーズのテンプレートと言っても良いほどだ。
テンプレートとは、言い方は悪いがマンネリズムであり、言い方を変えれば、安定の…である。このテンプレートに乗っかっている限り、これ以上エピソードを連ねても意味はないと思う。
そうした意味で、ここら辺でスカイウォーカーの物語に区切りを打つことには賛成だ。

だが、テンプレートにはテンプレートの良さがあり、それこそがスターウォーズの中毒性の源でもある。
むしろ、これからのスター・ウォーズとは、共通の世界観を下敷きにしたまま、他のメディアで展開した方が良いと思う。その方が深みが増すと思うのだ。

スター・ウォーズに特有の展開は、エピソードⅣ、エピソードⅥの二作ですでに提示されてしまっている。
大勢で敵陣に侵入し、なんらかの手段で敵の致命的な隙をつく。その一方で超人的な能力を持つジェダイが単身、敵陣に乗り込み宿命に立ち向かう。物語の終盤はその両面からストーリーが展開される。

エピソードⅦはその設定を踏襲し、しかもそれを逆手にとってどんでん返しを何度も組み込むことで、新旧の両世代にスター・ウォーズの魅力を知らしめた。

本作もその設定を踏襲している。
スカイウォーカーの物語を完結するためには、意表を衝いたストーリーである必要はないのだろう。
9作の間に敷かれた伏線を回収し、すべての矛盾や疑問を何億人もいる世界中のファンに対して示す。そのプレッシャーたるや大変なものだったはずだ。
だから、本作がどういう風に幕を閉じるのか。気になっていた。

そもそも旧三部作であるエピソードⅣ〜Ⅵが先に製作された理由の一つは、当時の撮影技術が未熟だったためだという説がある。
その説によれば、ジョージ・ルーカスはエピソードⅠ〜Ⅲに取り掛かるまで10数年の時間を待つことに費やし、技術の進化が構想に追いつくのを待ったという。
だが新三部作が公開されるまでには、そこからさらに20年の月日が必要だった。今や特殊効果の描写はほぼ現実と変わらないレベルにまで到達しようとしている。

その証として挙げられるのが、前作の公開後すぐに亡くなったレイア姫ことキャリー・フィッシャーが、エピソードⅦに登場したときの姿とほぼ変わらない容姿で本作でもスクリーンに登場していることだ。
それはつまり、特殊効果やCGが現行の映像形式の中では究極にたどり着いたことを示している。技術の力は俳優の存在意義すら揺るがすようになっている。
かつてジョージ・ルーカスが映像技術の進化を待った段階はとうにすぎているのだ。

であるならば、新三部作では何を語るべきなのか。
旧三部作では、親子の関係を描き、次の三部作では師弟の関係を描いた。
エピソードⅦからの三部作は、血統に頼らない関係を描いていたように思う。

偶然巡りあった個人がチームとして、友達として大義のために団結し、冒険に向かう。そこには何かのメッセージを感じざるを得ない。
情愛よりも肉親愛よりも、友情や絆が優先される。新三部作では、この点に重点が置かれていたように思う。

それは作中の登場人物だけではない。映画に関わったすべてのスタッフにも言えることだと思う。映画を作り上げることは、壮大な数の人々が共同で行う作業だ。
その中のどれが欠けても映画は完成しない。誰が怠けても作品に隙がうまれる。その事は、私のような映画製作の門外漢にとっても容易に理解できる。

上質な映画でありながら、世界中のファンの期待に応える作品を生み出す苦労。それを成し遂げたものこそ、仲間の団結ではないだろうか。

それを示すのが、本作のクライマックスのシーンにこめられている。
レイが宇宙にあまねく存在するフォースを知覚するシーンだ。
今までに登場したジェダイの声がレイにフォースを通してメッセージを送る。
フォースとは宇宙に普遍の力であり、共通意志の集合体であることが理解できる瞬間だ。

フォースに込められた集合意志とは、40数年の間、スターウォーズに関わったあらゆるスタッフの集合意志でもある。
何万人、いや何億人の意志がスター・ウォーズを育て上げ、世界で最も愛されるサーガへと成長させた。
そのスタッフやファンの意思こそが、親子や師弟の絆を凌駕する仲間の意志とは呼べないだろうか。

そうしたものに支えられた本作は、良い意味で9作の末尾を飾るエピローグなのだ。
だからこそ、本作のクレジットの筆頭に登場するのはレイア姫ことキャリー・フィッシャーであり、続いて登場するのがルーク・スカイウォーカーことマーク・ハミルなのだと思う。

なお、クレジットで一瞬見かけたが、ダークサイドに堕ちたアナキン・スカイウォーカーを演じたヘイデン・クリステンセンの名前もあった。
どのシーンで登場したのだろう。役名を見逃してしまった。
それを確認するためにも、全エピソードは観直したい。

そして無限に広がるスター・ウォーズサーガのエピソードの可能性についても思いを馳せたい。製作したスタッフのエピソードについても。

‘2019/12/26 イオンシネマ新百合ヶ丘


少女は夜明けに夢をみる


本作を見てとても心が痛くなった。試写が終わった後、パネリストの方が仰った「この現実は日本でもおきている」事実が、同じ年ごろの娘を持つ身として私の心を刺した。この鋭さこそがドキュメンタリー。映像の持つメッセージの力をあらためて認識させられた。それが本作だ。

私にとってサイボウズさんとのご縁はもう6,7年になる。今までにもさまざまなイベントにお招きいただき、参加する度に多くの勉強をさせていただいた。もともと、働き方改革や柔軟な人事制度など、サイボウズさんの社風には賛同するところが多い。だから展開するサービスにも惹かれる点があり、私もkintoneやチーム応援ライセンスなどでお世話になっている。私のキャリアにとってもサイボウズさんは飛躍へのステップを作ってくださった会社。本当に感謝しているし、これからも続くべき会社だと思っている。

ところが、私が今までに参加したサイボウズさんのイベントは、そのほとんどがITに関係している。それはサイボウズさんがIT企業である以上、当然のことだ。

そんな私が今回、参加させていただいたのは、本作の特別試写会。まったくITには関係がない。なぜ、このような社会的なメッセージの強い作品の試写会を開催したのか。それは、サイボウズさんが児童虐待防止特別プランを展開されていることと密に関係しているはずだ。
子どもの虐待プロジェクト2018
南丹市、児童虐待防止の地域連携にkintoneを導入

この試写会のご担当者様は、サイボウズさんがチーム応援ライセンスを開始するにあたっての記念セミナーでもお世話になった方。私はそのセミナーで登壇させていただき、その時も今も、私が自分にできる社会貢献とは何か、について考え続けていた。そのため、お誘いを受けてすぐに参加を決めた。

本作は、2019/11/2から岩波ホールで公開予定だとか。
岩波ホールの告知サイト
公式サイト
それにしても、私が今回のような純然たる社会派の映画を見るのは久しぶりのことだ。

冒頭にも書いた通り、本作はとても心を痛める映画だ。描かれた現実そのものが発する痛みもそうだが、その痛みの一部は、私自身の無知ゆえの恥からも来ている。

そもそも私はイランのことをほとんど知らない。世界史の教科書から得た知識ぐらいのもの。「風土は?」と聞かれても、吹きすさぶ砂嵐の中に土づくりの家が集まっている、というお粗末な答えしか持っていなかった。日本をハラキリゲイシャのイメージで想像する国外の方を笑えない。

だから、本書の冒頭で一面の雪景色が登場するだけで意表をつかれてしまう。イランにも雪がふる事実。そして、普通に舗装された道路を車が走る描写。それだけで、私の認識は簡単に揺さぶられてしまう。

さらに、その雪をぶつけ合い、はしゃぐ少女たちが、とても楽しそうなのをみて、私の思いはさらに意外な方向に向かう。彼女たちは保護施設に収容された犯罪者ではなかったのか。

だが、少女たちが歌う内容を知ると、私の認識は一変する。字幕には「幸せだからって不幸せな私たちを笑わないで」という文字が。少女たちが悪事を犯した罪人という見え方が変わる瞬間だ。

本作を上映する前振りで本作の宣伝スタッフの方の言葉や、リーフレットを見ていた私は、彼女たちを単なる犯罪者だとくくっていたように思う。だが、彼女たちは犯罪者の前に一人の人間なのだ。彼女たちの多くは私の娘たちと同じ年ごろであり、本来ならば芳紀を謳歌しているはずのかわいらしい少女なのだ、という事実に思い至る。

その事実に気づくと同時に、心から楽しんでいるように見える彼女たちの笑いの裏には、想像を絶するほどの痛みがあることが感じられる。そもそも、楽しげな雪合戦も高くそびえる塀に囲まれなければできない。また、本作のあらゆるシーンには、曇り空しか登場しない。本作を通して、一瞬たりとも晴れ間は見えない。それは本作が12月から新年までの20日しかロケしておらず、季節がたまたまだったことも関係あるだろうが、監督も晴れ渡った空は撮るつもりもなかっただろう。

あえて平板なイントネーションで少女たちにインタビューしているのは本作のメヘルダード・オスコウイ監督だろうか。一切の感情を交えず、施設に入った理由を娘たちのそれぞれに聞く監督。その中立的な声音につられるように、娘たちはそれぞれの境遇を述べる。

18歳の娘は、14歳で結婚し、15歳で子どもを産んだ。だが、クスリの売人になることを強いられ、7カ月も娘には会っていないという。その子の名前がハスティ(存在)というのも、痛々しい。この世に自分がある理由。それは娘が存在しているから。だが、施設に入っている以上、娘と会うことは叶わない。名前と境遇の落差の激しさ。

昔はいい子だったというが、周りの環境に合わせて不良のように振る舞っているという少女。自分を名無しと名乗っている。面会に来るおばあさんに対しては満面の笑みを見せるのに、釈放にあたっておばあさんが来てくれないことに泣き叫ぶ。そして朝方、世間に戻されても生きていけないと絶望にすすり泣く。性的虐待を受けた自分の帰る場所は父でも母でもなくおばあさんだけ。

なりたい職業が弁護士か警官。理由は同じ境遇の子供を助けてあげたいから。と語る直後に今の夢はと聞かれ「死ぬこと」と答える少女。その矛盾した答えを発する顔は、疲れて希望を失っている。彼女は性的虐待を加えた叔父のうそを信じる家族に絶望していた。だが、家族が実は叔父のうそを見抜き、自分を信じ、愛していたことを知った途端、輝きを取り戻す。満面の笑顔で施設を出る顔に憂いはない。

娘が生まれたら「殺す」と即答し、息子は?との問いに息子は母の宝だから、と答える少女。それは母への愛憎の裏返しであることはすぐに理解できる。だが、普段は陽気なムードメーカー役を担っているにもかかわらず、そこには絶望が感じられる。強盗の子は強盗にしかならないとあきらめ、肉親に対して何も差し入れをしてくれないことを電話口で泣きながら訴える。

そんな少女がいる一方で、息子が生まれれば「殺す」と即答する少女もいる。娘の名前はすでに付けているというのに。

釈放を申し渡されても、それに対して「お悔やみを」と返す少女。鎖につながれ、虐待される日々に戻るだけという絶望。決して自分に明るい未来があると信じず、そもそも明るい未来のあることを知らない少女。

651と名乗る少女は、クスリを651グラム所持していたからそう名乗っているという。本作に登場する少女たちにとってクスリは日常。それが正しくないとわかっていても、生活のため、肉親から求められれば扱うしかない。そんな切っても切れないのがクスリ。

実の父を母や姉とはかって殺した少女。「ここは痛みだらけだね」という監督に、四方の壁から染み出すほどだと返す。その少女は物静かに見えるが、実はもっとも矛盾と怒りを抱いている存在かもしれない。イスラム教の導師に対し、世の矛盾を一番熱く語っていたのも彼女。

本作には何人ものインタビューと、釈放されるシーンが挟まれる。BGMなどほとんどない本作において、目立つのは乗り込んだ車が発車するシーンで流れる不協和音のBGMだ。彼女たちの釈放後の生活を暗示するかのような。

彼女たちに共通する認識は、罰とは生きる事そのものであり、その罪は生まれてきた事そのものだという。なんという苦しく胸の痛む人生観だろうか。私は少女たちの全てに私の娘たちの生活を重ね合わせ、その間に存在する闇の深さに胸が痛んだ。いったい、私の娘たちと彼女たちの間には何の差があるのだろう。国や民族、宗教、文化が違うだけでこうなってしまうのだろうか?

施設の職員がAidsの知識を授けようとする。塀に囲まれた庭でバレーボールをする。収容者の乳飲み子のお世話をする機会が与えられる。新しいオーディオ機器で音楽も聴くことができる。人形劇を演じる事だってできる。それだけだと平和な日常だ。少女たちは施設の中にあって、平和に生きているようにも見える。だが、本作にあって、一切塀の外の世界は映し出されない。だからこそ、その矛盾と暴力に満ちた世界の無慈悲さがあぶりだされる。施設の人がとある少女を突き放すように、ここを出たら何が何でも外の世界で生きねばならないこと。たとえ自殺しても知ったこっちゃないと言い放つ。少女たちの笑顔や会話は、施設の中だからこそ許されるかりそめのもの。

女性だけが集まる場だと派閥やグループが陰険な争いを繰り広げる。そんな偏見が頭をもたげる。だが、本作の少女たちにそのようなものは見当たらない。泣く相手には胸を貸し、出ていく者にはもう戻ってくるなと励ましの声をかける。少女たちは下らない派閥争いなどにうつつを抜かす暇はないのだ。ここに収容されているのはみな同じく苦しむ仲間。だからこそ支えない、慰め合う。その事実にさらに胸が締め付けられる。

イスラム教の導師が少女たちに道を説こうとし、逆に少女たちからなぜ男と女の命の重みは違うのか、という切実な問いを投げかけられる。男と女の命の重みに差があるかなんて、少なくとも最近の日本では感じることはない。少女たちの真摯な問いに導師は「社会を平穏にしなければ」という言葉でお茶を濁す。

何が少女たちをこうしてしまったのか。イランにもイスラム教にも詳しくない私にはわからない。少女たちは決して犯罪者になるべくして生まれてきたのではない。それが証拠に、収容者の乳飲み子が登場し、その無垢な姿を観客の私たちに見せる。その表情からは、この子が将来強盗や殺人や誘拐や売春や薬物に手を染める予兆は全く見えない。

少女たちもまた、違う時空に生まれていたら輝かしい毎日を送っていたはず。少女たちの多くは顔立ちも整っており、化粧したら女優にだってなれるのでは、という子もいる。ただ、環境が。肉親との暮らしが少女たちをこのような境遇に追い込んでいるのだ。

彼女たちの境遇は、社会に潤沢な金を流通させればいなくなるのだろうか。それとも文化や宗教の違いは、今後も彼女たちのような存在を生み続けるのだろうか。監督はそこは描かない。あるがものをあるがままに。ただ、これがイランの現実だと監督は現実を提示する。7年の準備期間はダテではなく、本作に監督の私情は不要だとわきまえているのだろう。

心を痛めたまま、エンドクレジットが流れる。続いてトークイベントへ。

虐待被害を受けたお子さんがいるご家庭や里親家庭で養育支援をしているバディチームの代表岡田さん、妊娠相談、漂流妊婦の居場所づくりにとりくむピッコラーレ代表中島さんによるトークは、こうした現実を送る少女が日本にもいることを語ってくださった。最近の自販機は暖かくないという、普段の生活では気づかない事実。そうした経験から受ける視点は新鮮だ。わが国にも野宿し、その揚げ句に売春に走る少女はいるとか。

本作を見た後、日本にも同様の生活を送る少女がいることは衝撃だ。生活の確立に失敗し、放浪に走る少女たち。援助交際とは交際じゃない。ただの性的搾取だ、という言葉ももっともだし、売春を取り締まるとは売る側を取り締まる話であり、そうした行為を強いられている少女たちを救うことにならない、という指摘にもうなずける。春を買った側を取り締まる法律がない現状にも目を向けなければ、という指摘も納得がいく。同じ年ごろの娘を持つ私は、娘たちの将来だけを考えればよいのか。否。そうではないはずだ。

本書をただ観劇しただけなら、文化も宗教も違う場所の悲劇、として片付けてしまっていたかもしれない。だが、こうしてトークイベントが催されたことによって、本作への理解がさらに深みを増した。もちろん、映画館で観ることで、本作が伝えるメッセージの鋭さは痛みをもって伝わるはず。

私たちが何をすればよいのか。私は経営者として何をすればよいのか。その答えはまだ出ていない。ただ、トークイベントの中では、ボランティアの道もご紹介いただいた。あらためて自分の時間を見据えてみたいと思う。とても貴重な時間だった。

今回の催しを企画してくださり、当日も動いてくださったスタッフの皆様、本当にありがとうございました。

‘2019/10/17 サイボウズ社本社


DINER


小説や漫画など、原作がある作品を映像化する時、よく“映像化不可能“という表現が使われる。原作の世界観が特異であればあるほど、映像化が難しくなる。さしずめ本作などそういうキャッチコピーがついていそうだと思い、予告編サイトをみたら案の定そのような表現が使われていた。

原作を読むと“映像化不可能“と思わせる特異な世界観を持っている。映像化されることを全身でこばんでいるかのような世界観。私にとっても、原作を映像で観たいと願うと自体が発想になかった。(原作のレビュー

レビューにも書いたが、原作にはかなりのインパクトを受けた。人体の尊厳などどこ吹く風。イカレた描写にあふれた世界観は、脳内に巣くう常識をことごとくかき乱してくれる。小説である以上、本来は字面だけの世界である。ところが、あまりにもキテレツな世界観と強烈な描写が、勝手に私の中で作品世界のイメージを形作ってくれる。原作を読んだ後の私の脳裏には、店の内装や登場人物たちのイメージがおぼろげながら湧いていた。イメージに起こすのが苦手な私ですらそうなのだから、他の読者にはより多彩なイメージが花開いたはずだ。

原作が読者のイメージを喚起するものだから、逆に映像化が難しい。原作を読んだあらゆる読者が脳内に育てた世界観を裏切ることもいとわず、一つの映像イメージとして提示するほかないからだ。

監督は最近よくメディアでもお見掛けする蜷川実花氏。カメラマンが持つ独特の感性が光っている印象を受けている。本作は、監督なりのイメージの提示には成功したのではないだろうか。原色を基調とした毒々しい色合いの店内に、おいしそうな料理の数々。原色を多用しながらも、色の配置には工夫しているように見受けられた。けばけばしいけれども、店のオーナーであるBOMBEROの美意識に統一された店内。無秩序と秩序がぎりぎりのところで調和をとっている美術。そんな印象を受けた。少なくとも、店内や料理のビジュアルは、私の思っていた以上に違和感なく受け入れられた。そこに大沢伸一さんが手掛ける音楽がいい感じで鳴り響き、耳でも本作の雰囲気を高めてくれる。

一方、原作に登場する強烈なキャラクターたち。あそこまでの強烈さを映像化することはとてもできないのでは、と思っていた。実際、キャラクターのビジュアル面は、私の期待をいい意味で裏切ることはなかった。もともと期待していなかったので、納得といえようか。たとえばSKINのビジュアルは原作だともっとグロテスクで、より人体の禍々しさを外にさらけ出したような描写だったはず。ところが、本作で窪田さんが演じたSKINのビジュアルは、何本もの傷跡が皮膚の上を走るだけ。これは私にとってはいささか残念だった。もっと破滅的で冒涜的なビジュアルであって欲しかった。もっとも、スキンのスフレを完食した事により狂気へ走るSKINを演じる窪田正孝さんはさすがだったが。

原作にはもっと危険で強烈なキャラクターが多数出ていた。だが、その多くは本作では割愛されていた。甘いものしか食わない大男のジェロ。傾城の美女でありながら毒使いの炎眉。そして妊婦を装い、腹に劇物を隠すミコト。特にミコトの奇想天外な人体の使い方は原作者の奇想の真骨頂。だからこそ、本作に登場しなかったのが残念でならない。

ただ、キャラクターが弱くなったことには同情すべき点もある。なにしろ本作には年齢制限が一切ついていない。子供でも見られる内容なのだ。それはプロデューサーの意向だという。だから本作では、かき切られた頸動脈の傷口から血が噴き出ない。人が解体される描写も、肉片と化す描写も省かれている。そうした描写を取り込んだ瞬間、本作にはR20のレッテルが貼られてしまうだろう。そう考えると、むしろ原作の異常な世界観を年齢制限をかけずにここまで映像化し脚本化したことをほめるべきではないか。脚本家を担当した後藤ひろひと氏にとっては、パンフレットで告白していたとおり、やりがいのあるチャレンジだったと思う。

ただ、キャラクターで私のイメージに唯一合致した人物がいる。それはKIDだ。私が原作のKIDに持っていたイメージを、本作のKIDはかなり再現してくれていた。KIDの無邪気さを装った裏に渦巻く救いようのない狂気を巧みに演じており、瞠目した。 本郷奏多さんは本作で初めて演技を見たが、久しぶりに注目すべき役者さんに出会えた気がする。

もう一つ、原作にはあまり重きが置かれなかったデルモニコなどのラスボス達。本作ではジェロや炎眉やミコトを省いたかわりにラスボスを描き、映像化できるレベルに話をまとめたように思う。それは、本作を表舞台に出すため、仕方がなかったと受け入れたい。

原作の持つまがまがしい世界観を忠実に再現するかわり、カナコの成長に重きを置く描写が、本作ではより強調されていたように思う。それは私が原作で感じた重要なテーマでもある。本作は、カナコの幼少期からの不幸や、今のカナコが抱える閉塞感を表現する演出に力を注いでいたように思う。その一つとして、カナコの内面を舞台の上の出来事として映像化した演出が印象に残る。ただ、原作ではBOMBEROとカナコの間に芽生える絆をもう少し細かいエピソードにして描いており、本作がカナコの成長に重きを置くのなら、そうしたエピソードをもう少し混ぜても良かったかもしれない。

それにしても、本作で初めて見た玉城ティナさんは眼の力に印象を受けた。おどおどした無気力な冒頭の演技から、話が進むにつれたくましさを身に付けていくカナコをよく演じていたと思う。

そして、主演の藤原竜也さんだ。そもそも本作を見たきっかけは、藤原竜也さんのファンである妻の希望による。妻の期待に違わず、藤原さんはBOMBEROをよく演じていたと思う。原作のBOMBEROは、狂気に満ちた登場人物たちを統べることができるまともなキャラクターとして描かれている。原作のBOMBEROにもエキセントリックさはあまり与えられていない。本作で藤原さんがBOMBEROに余計な狂気を与えず、むしろ抑えめに演じていたことが良かったのではないだろうか。

本作は、いくつかの原作にないシーンや設定が付け加えられている。その多くはカナコに関する部分だ。私はその多くに賛成する。ただし、本作の結末は良しとしない。原作を読んで感じた余韻。それを本作でも踏襲して欲しかった。

そうしたあれこれの不満もある。だが、それらを打ち消すほど、私が本作を評価する理由が一つある。それは、本作をとても気にいった娘が、本が嫌いであるにもかかわらず原作を読みたいと言ったことだ。実際、本作を観た翌日に原作を文庫本で購入した。完成されたイメージとして提示された映像作品も良いが、読者の想像力を無限に羽ばたかせることのできる小説の妙味をぜひ味わってほしいと思う。グロデスクな表現の好きな娘だからこそ、原作から無限の世界観を受け止め、イラストレーションに投影させてくれるはずだから。

‘2019/08/11 イオンシネマ新百合ヶ丘


アラジン


今年に入ってから一本も映画を見ていなかった。六月も終わろうとする今日、ようやく見たのが本作だ。

本作のアニメ版は何度も見た。娘たちが幼い頃はわが家のビデオでよく流していた。東京ディズニーシーにはアグラバーを模した街があり、娘たちが幼い頃は毎年そこに訪れては写真を撮ったものだ。そんな思い入れのあるアラジンが、最近の実写化の流れに乗って封切られたので家族で映画館に行ってきた。

東京ディズニーシーのアグラバーの一角には「マジックランプシアター」というアトラクションがある。そこでのジーニーは3D眼鏡の向こうではちゃめちゃなショーを展開してくれる。今までにも何度か見たが、なかなか面白い。実際、ジーニーというキャラクターは愛嬌もあって憎めない。魔神という恐ろしい存在であるはずなのに、その雰囲気を微塵も感じさせない。ディズニーの諸作品の中でも異彩を放つキャラクターだと思う。本作のジーニーも同じ。ジーニーを演じるのはあのウィル・スミス。

私はジーニーのはちゃめちゃな感じが本作でどこまで表現されているのか期待しながらみた。ところが、どうにも乗れない。例えば登場シーン。CGではなくVFXの粋を極めたような特殊効果。まさに現時点でVFXの先端を行く特殊効果に満ちた登場シーンなのに乗れない。ウィル・スミスの演技にもわざとらしさや下手さは感じられない。それにもかかわらず、アニメ版のジーニーのシーンと比べると何やら少し冷静になって見ている自分がいる。

なぜだろう。いまや、ちょっとやそっとの特殊効果では動じないのだろうか。荒れ狂う溶岩や真っ暗な洞窟の中、さらに見渡す限りの砂漠を舞台に、ジーニーが願い事のやりかたをアラジンに教えるシーンは特殊効果のオンパレード。アニメ版やマジックランプシアターとはレベルが違う特殊効果がこれでもかと繰り出され、現代に生きる醍醐味を堪能させてくれるシーンだ。リアルでありながらありえない誇張の数々。アニメの世界がそのまま実写になったようなものすごい展開の連続。であるにも関わらず、いまいちのめり込めない自分が意外だった。エンド・クレジットでとても多くのデジタル担当の名前が並んでいたのもわかるほど、ものすごい特殊効果だったのに。

それはひょっとすると、本作で見るべき本質はそこにないと、私が心の底で思っていたからかもしれない。そう、本作で見るべき点はほかにある。それはジーニーの登場シーンでもなければ、アニメ版でもおなじみのアラジンとジャスミンが魔法のじゅうたんで世界を飛び回るシーンでもない。アニメ版であればA Whole New Worldが流れる有名なシーンはクライマックスだが、本作はあくまでも展開の中の一つに過ぎない。

私が本作で面白いと思ったシーンは他にある。例えば冒頭のシーンだ。このシーンについてはあまり書かない。これから本作を見る方にとっては興を削ぐことになるから。だが、そのシーンは本作をアニメ版と隔てる最大の点かもしれない。独自の解釈がとてもいい。また、アラジンが登場するその次のシーンも私の印象に残った。アグラバーの活気ある街並みの中、コソ泥のアラジンが所狭しと駆け回る。アラジンの愛嬌と本質がよく描かれ、本作の全体の伏線にもなっている。みていて見事だった。ガイ・リッチー監督の手腕が光るシーンだ。

そして、見逃せないのは本作の脚本だ。そもそも、アニメとしてあまりにも有名な本作を、ただ単に特殊効果を披露するためだけに実写化しただけで何の意味もない。現代だからこその独自の視点が求められる。監督はそこをよくわかっていたと思う。

例えばジャスミンの自立した女性としての描かれ方は今の独自の視点だ。女性の意志や立場の強まりは、最近の映画でもよく描かれる。男女が真の意味で平等であること。本作にもその風潮が濃厚に反映されている。ジャスミンの女性としての受け身ではない強さがとても印象的だ。

ジャファーもアニメ版ではいかにもな悪役ぶりを発揮していた。だが、本作でのジャファーはとても人間的だ。あくなき権力欲が悪役としての存在感に説得力を与えていたように思えた。アラジンにしても、本来の自分と装った自分の間でジレンマに悩むシーンがある。そうしたシーンも現代の一つの断面として見逃してはならない。

また、本作は、主役の他の人物にも光をあてていたことが素晴らしい。アラジンとは、アラジン・ジャスミン・ジーニー・ジャファーの四人だけが登場する物語ではない。当然ながら四人以外の人物も登場する。それらの人物がきちんと描かれていたのが本作の優れていた点だ。例えばジャスミンの侍女であるダリアの描かれ方や、国王の忠実な部下であるハキームの描かれ方は、間違いなく本作に深みを与えていたと思う。勧善懲悪と自由を求めるだけの物語では、目の肥えた観客の心はつかめない。監督はそのことをよくわかっている。

もちろん、そうした監督の意志を演じる俳優陣の動きも見事だ。ウィル・スミスは、登場シーンこそ豪華絢爛な特殊効果に惑わされて本来の演技力が現れていなかった。(そもそもあのシーンはほぼCGらしいが)。だが、アラジンの忠実な従者として振る舞う姿や、単なる魔人ではなく人間になりたいという切ない願いは、ジニーに単なるトリック・スターではない新たな解釈を与えていたと思う。

本作で良かったのは、ウィル・スミス以外の主要キャストのほとんどが中東にルーツを持つ俳優陣で固められていたことだ。私は常々、ハリウッドが欧米の文化を押し付けることがあまり好きではなかった。どこか舞台であろうとも欧米中心の視点で描かれることが。だからこそ本作の主要なキャストが中東にルーツのある人々によって演じられていたことにとても安心した。

だが、正直に言うと、冒頭のアグラバーの街の描写が見事だっただけに、行き交う人々の発する声が全て英語だったことには毎度のことながら、幻滅を感じた。ただ、ハリウッドの作品である以上、それはもう必要悪と思うしかない。だからせめて、俳優陣の顔立ちが中東の風味を備えていてくれたことに救いがあった。

先日の「Bohemian Rhapsody」の主演のラミ・マレックもエジプトにルーツを持つそうだし、本作でアラジンを演じたメナ・マスードもエジプトにルーツを持つそうだ。これからもそうした俳優がどんどんハリウッドに進出して欲しいと思う。欲をいえば作中でもアラビア語を操ってくれれば言うことなしだ。

そうした国際色の豊かな俳優陣の中でも、ジャスミンを演じるナオミ・スコットの惚れ惚れとするような美貌ぶりは際立っていた。インドにルーツをもつそうだが、アニメ版のジャスミンを彷彿とさせる顔立ちでありながら、本作の重要なモチーフである女性の持つ強さを表現していて、まさに適切なキャスティングだったと思う。

本作は、教訓めいた内容もあるが、あまり深入りしていない。あくまでも華やかできらびやかな魔術の世界、アラビアン・ナイトの世界観を楽しむのが良いと思う。現代の最新技術を堪能するだけでなく、細かい部分でもアニメ版と比べるとよい。とにかく豊かだ。アラジンやジャスミンの歌う新曲もよいし、魔法のじゅうたんやアラジンと行動をともにするアブーの愛らしさといったら!アニメ版を飽きるほど見ていても、本作は見る価値はあると思う。純粋に楽しめる映画だ。

‘2019/06/29 イオンシネマ新百合ヶ丘


ボヘミアン・ラプソディ


涙こそこぼさなかったけど、泣いてしまった。ここまで再現してくるとは。映像と音楽でクイーンとフレディ・マーキュリーが私の中で蘇った今、彼らの曲の歌詞が私の中で真の意味を持って膨らんでいる。ライブ・エイドに遅れて育った私自身の後悔とともに。

ロック少年としては、私はかなり遅咲きの部類だ。中学三年生の時。1989年の春頃だったと思う。友人に貸してもらった映画のサントラ(オーバー・ザ・トップ、ロッキーⅣ、トップ・ガン)から入った私は、一気に洋楽にはまった。高校の入学祝いにケンウッドのミニコンポを買ってもらってからは、バイト代や小遣いのほとんどをCDに費やしていた。それでもなお、私は時代に遅れたロック少年だと思っている。なぜなら私はライブ・エイドをリアルタイムで経験していない。私が音楽にはまった時、FM雑誌に新譜として特集されていたのはクイーンの「The Miracle」。クイーンの歴史の中では晩年に発売されたアルバムだ。フレディ・マーキュリーが存命の間でいうと最後から二つ目にあたる。だから私は、リアルタイムでクイーンを聞いていた、とはとても言えない。

しかし、私が今までの人生で訃報を聞いて一番衝撃を受けたのはフレディ・マーキュリーのそれだ。エイズ感染というニュースにも驚いたが、翌日、畳み掛ける様に死のニュースが届いた時は言葉を失った。洋楽にどっぷりはまり、当時すでに「A Night At The Opera」がお気に入りだった高校二年生にフレディ・マーキュリーの死は十分な衝撃を与えた。さらに数年後、フレディ・マーキュリーの遺作として出された「Made In Heaven」は、ラストの隠しトラックにトリハダが出るほどの衝撃を受けた。「Made In Heaven」を始めて聴いた時の衝撃を超えるアルバムには、昔も今もまだ出会っていない。それ以来、クイーンは私のお気に入りグループの一つであり続けている。

本作が公開されることを知った時、私は半年以上前から絶対見に行くと決めていた。クイーンというバンドの成り立ちから栄光の日々が描かれる本作。だが、より深みを持って描かれるのが、フレディ・マーキュリーの出自や性的嗜好だ。パールシーの両親のもとに生まれ、インドで教育を受けてイギリスに移り住んだ出自。バイ・セクシャルとしての複雑な性欲の発散の日々。それらは、クイーンの大成功の裏側に、複雑で重層的な深みを与えていたはずだ。その点はロック・バンドの成功という表面だけではなく、もっと深く取り上げられるべきだと思う。クイーンはそうした意味でもいまだに特異なグループであり続けている。本作はまさにクイーンの特異さを描いている。本作は、私の様なアルバムとWikipediaと書籍でしかクイーンをしらない者に、より多面的なクイーンの魅力と闇を伴い、心にせまり来る。

正直、私は本作を見るまで、フレディ・マーキュリーが自身の歯の多さを気にし、常に口元を隠す様な癖を持っていたことや、デビューの頃の彼女だったメアリー・オースティンが本作に描かれる様に公私でフレディ・マーキュリーを支えたほどの存在だったことも知らなかった。また、本作でフレディ・マーキュリーを操ろうとする悪役として描かれるポール・プレンターの存在も知らずにいた。こうした情報は私の様な遅れて来たファンにとって貴重だ。

本作はブライアン・メイとロジャー・テイラーが音楽を監修しているという。だから本作に描かれた内容もおおかた事実に即しているはずだ。内容にも明らかな偏りは感じられなかった。ブライアン・メイとロジャー・テイラーがお互いの歌詞をけなし合ってケンカするシーンなども描かれていたし。ジョン・ディーコンが「Another One Bites The Dust」のベースラインを弾いて三人のケンカを仲裁するシーンとかも描かれていた。フレディ・マーキュリーを表に出しつつも、四人の個性の違いがきちんと書き分けられていたのではないか。もっとも、本作はオープニングとエンディングをライブ・エイドで締める構成にするため、事実とは違う時間軸で描いたシーンが多々あるようだ。フレディ・マーキュリーがエイズ感染をメンバーに伝えたのはライブ・エイドの前だったかのように本作では描かれているが、ライブ・エイドの後だったらしい。フレディ・マーキュリーがポール・プレンターに絶縁を言い渡す時期もライブ・エイドの後だったとか。

ただ、本作は映画であり、そうした脚色は当然あっても仕方ないことだと思う。脚色がありながらも、芯の部分を変えずにいてくれたことが本作をリアルにしていたと思う。何よりも、俳優陣の容姿が実物の四人にそっくりだったこと。それが一番、本作に説得力を与えていたと思う。フレディ・マーキュリーを演じたラミ・マレックは、以前友人から勧められて観ていた「Mr.Robot」の主人公としておなじみだった。また、娘たちが好きな「ナイト・ミュージアム」にも登場していた。確かに顔はフレディ・マーキュリーに似ているとは思ったが、本物より目が少し大きいな、とか。でも演技があまりにも迫真なので、次第に本物とそっくりに思えてくるから不思議だ。また、私の感想だが、ブライアン・メイにふんしたグウィリム・リーがあまりにもそっくり。彼がギターを弾くシーンだけで、事実との些細な違いなどどうでもよくなったぐらいに。「Bohemian Rhapsody」の有名な四人の顔の映像や、「 I Want to Break Free 」の女装プロモーションビデオも本作では四人が再現している。そうしたクイーンのアイコンともいえる映像を俳優たちがそっくりに演じているため、時間がたつにつれ、俳優の容姿が本物に近づいていくような錯覚を覚える。エンド・クレジットに本物の「Don’t Stop Me Now」の映像が使われることで、観客は映画が終わり、今までのドラマを演じていたのが俳優だったことにハッと気づかされる。

そして本作の音楽は、映像と違い、あえてフレディ・マーキュリー本人の声を多くのシーンで使っているそうだ。劇中でフレディ・マーキュリーが歌う、音源として残されていない歌声は、私もYouTubeで映像を観たことがあるカナダ人のマーク・マーテルが担当したそうだ。むしろ、それで良かったのではないかと思う。なぜならフレディ・マーキュリーの声はあまりにも唯一無二だから。マーク・マーテルのような手練れのそっくりさんが吹き替えるぐらいでなければ、いくら実際の俳優がうまく再現したとしても、観客の興を削いでしまう可能性が高い。

それよりも本作は、フレディ・マーキュリーという人物の志と成功、そして死に至るまでの濃縮された生の躍動に注目すべきだ。彼の生はまさに濃縮という言葉がふさわしい。たとえ45年しか生きられなかったとしても。おそらく普通の人の数倍も濃い密度をはらんだ人生だったのではないだろうか。本作にも「退屈などまっぴら」という意味のセリフが三度ほど出てくる。「俺が何者かは俺が決める」というセリフも登場する。一度やったことの繰り返しはしない、カテゴリーにくくられることを拒むクイーンの姿勢が本作の全編に行き渡っている。何気なく流され、生かされているのではなく、自分で選択した人生を自分で生きる。そしてその目標に向かい、時には弱音も吐きながら、理想は捨てぬまま、高らかに生の高みを歌い上げる。本作にはそのスピリットが貫かれていた。彼らの曲の歌詞の意味が真に理解できた、と冒頭にも書いたが、それは本作に一貫するテーマ、生の謳歌に通じる。本作が発するメッセージとは生きる事への賛歌だ。

私が訪れた回が満席で、次の回に回してもすぐに席がいっぱいになり、私が座ったのは前から二列目。とても見にくかったが、その分、迫力ある波動が伝わってきた。曲中で流れる実際の唄声の多くは私が好きな曲。私がクイーンで好きな「The Prophet’s Song」 、「39」や 「Innuendo」が流れなかったのは残念だが、最後に流れた「The Show Must Go On」が私の涙腺を緩めてしまった。人生という面白くも厳しく、愉快で苦しいショー。自分のショーは自分の力で演じてゆかねばならない。生きていく限り。表現者としてこれ以上のメッセージが発せられるだろうか。

‘2018/11/17 TOHOシネマズ六本木ヒルズ


ボルグ / マッケンロー 氷の男と炎の男


テニスはするのも観戦も好き。だから本作は映画館でチラシを見た時から絶対に行こうと思っていた。封切り日にも鑑賞に行きたかったぐらいに。ところが仕事が立て込んでいて十日も我慢した。最近はテニスの四大大会の観戦もできていない。大坂なおみ選手の全米オープン優勝も、錦織選手の準決勝の試合も見逃した。かつてのように朝まで観戦する体力も時間もなくなりつつあるからだ。だからこそ、本作とスクリーンで出会うのがとても楽しみだった。そして、本作が期待を裏切らぬ内容だった。うれしい。

本作の内容はとても素晴しかったと思う。例えるなら、上質のスポーツノンフィクションを読んだ時の気分だろうか。『Sports Graphic Number』のような。克明に描かれたアスリートの心の動きが、試合の展開と一致する。スポーツノンフィクションの妙味とはそこにあると思う。

わたしが熱心にテニスを観ていた頃、強かったのはジム・クーリエやピート・サンプラス、アンドレ・アガシだ。ガブリエラ・サバチーニはファンだったし、シュティフィ・グラフや伊達公子の試合はよく観ていた。ベッカーやレンドル、エドベリが晩年を迎えつつあり、ボルグはとうに引退していて、マッケンローは引退するかしないかという時期だったと思う。当時の私にとって、ボルグとは伝説の人物。長髪をヘアバンドで縛った聖人のような風貌だけがインパクトに残り、私の中で固定されていた。固定されたイメージでしか知らなかったといってもよい。一方、私が知るマッケンローは、試合中に吠え猛ける姿もたまに見られたとはいえ、すでに角は取れており、悪童と呼ばれた面影はほぼ消え失せていた。

だが、遅れて来たテニスファンである私も、1980年のウインブルドン決勝がテニス史に残る名勝負であったことは知っていた。ウインブルドン五連覇が掛かったボルグに新生マッケンローが挑む構図。壮絶なタイブレークを耐えたマッケンローがフルセットの勝負に持ち込み、最終セットでボルグが辛くも勝利を手にした白熱の試合内容。後年、『YouTube』でその試合の一部を観たが、名勝負と呼ばれるにふさわしい内容だったと思う。

本作はその名勝負に焦点を当てている。試合そのものだけでなく、試合を戦った二人の人生にも光を当てている。氷の男と呼ばれたボルグと悪童と呼ばれたマッケンロー。彼らがテニス界で最高峰の戦いに臨む際、その胸中にあったものは何か。頂点を争う者にしかわからない葛藤と苦しみ。氷の男、または悪童と呼ばれた男はどのようにして作り上げられたのか。彼らの少年時代を描くことで、勝負の背景にあったドラマを映画として表現したのが本作だ。

絶妙な脚本によって、私たちは思い知る。壮絶な試合の裏側に戦った二人だけが知るそれぞれの人生があったことを。勝利者だけが知る真の孤独。あの試合が語り継がれるべきは、試合内容だけではない。二人のテニス選手の人生も語られるに値するのだ。その二つを純粋な形で抽出したことで、本作は質の高い映画として成功が約束された。

私が今までに読んだことのあるテニスプレーヤーの伝記は、アーサー・アッシュのそれぐらい。それとてだいぶ昔だし、ボルグやマッケンローの評伝は読んだことがない。なので、私には本作の描写の全てが新鮮だった。特に、本作で描かれるボルグの少年時代。それは、私の中に居座っていた聖人=ボルグの印象を全く変えた。

すぐに逆上し、自分から勝負に負けてしまう悪童。それが少年時代のボルグ。その姿は悪童として名を知られていたマッケンローと比べても引けを取らない。本作にも唾を吐き、審判や観客に悪態をつくマッケンローが幾度となく登場する。ボルグの子供時代もまさにそう。審判のジャッジに激昂し、コーチに歯向かう。荒れる二人が交互に描かれる。

そこからどうやってボルグは冷血と呼ばれるまでになったのか。それは、コーチのレナートが辛抱強く教え諭し、それによくボルグが応えたことで作り上げられた。師弟が衝突と叱責を繰り返しながらも、ついにはマシンのようなと称されるルーチンワークを作り上げ、常勝を手にしていく様子がテンポよく描かれる。その中で観客は氷の男と呼ばれたボルグのイメージが実はかりそめのイメージに過ぎず、実はボルグとは触れればやけどするマグマのような熱さを秘めていたことを知るのだ。実は二人の対決とは、氷VS炎どころか、炎VS炎。ボルグがウインブルドン五連覇を達成できたのも、自らの内に燃え盛る炎を完璧に押さえ込んだ強烈な自制があってこそ。

本作にもレナートが「一ポイントごとに集中しろ」とボルグに言い聞かせるシーンがある。それは言うのも聞くのも簡単。だが、これほど難しい実践もない。師の教えを鉄の意志で実践しきったことがボルグの強さの秘密だったのだろう。本作では、ボルグの役を年齢に応じて三人が演じ分けている。どの俳優もボルグの各年代によく似ているのだろう。最も年若のボルグはボルグの実の息子が演じているのだから恐れ入る。念入りにボルグの成長を描きたかった監督の意図が伝わってくるし、それは成功している。

ボルグが自らを懸命に律する姿は痛々しい。ウインブルドンで勝ち上がっていくにつれストレスをため込み、コーチやフィアンセにあたるボルグ。そこには勝負に勝ち続けたあまり、孤独に苦しむ男の苦しみがある。頂点を極めた者だけが知る、決して理解されない痛み。どれだけ華やかな場に呼ばれ、賞賛の声を浴びても、決して癒やされない苦しみ。本作のエピローグで触れられるが、1981年のウインブルドンで再び合間見えた両者は、再び死闘を繰り広げ、マッケンローが雪辱を果たす。そしてボルグは26歳の若さで引退を表明する。(本作のテロップでは同じ年に引退とあったが、ウィキペディアでは引退が1983年と書かれていた。)それはツアー方式の変更という別の理由もあったようだが、ボルグは燃え尽きたと解釈した方がしっくり来る。燃え盛る炎を自制の力で冷やし続けることにうみ果てたと考える方が。

本作で、悪態をつくマッケンローをテレビで見ながら、フィアンセのマリアナ・シミオネスクが「集中力を切らしているみたい」とつぶやき、それに対してボルグが「いや、違う」と返すシーンがある。猛るマッケンローにかつての自分の姿を重ねたボルグ。そこから、追想シーンに入ってゆく流れは鮮やか。コーチのレナートが二人のかつてを思い返すシーンや、マッケンロー自身が子供時代の神童ぶりを振り返るシーンなど、本作のあちこちに追想シーンが挟まれる。それらのシーンが二人の内面を立体的に彫り上げる効果を挙げているのは言うまでもない。

また、本作にはたくさんのテニスのラリーも描かれる。ストーリー描写とテニスシーンのバランスは絶妙。あらゆる角度からサーブ、ストローク、ボレー、そしてスマッシュを描いていて観客を飽きさせない。また、テニスは選手のフォームが癖に出やすい。マッケンローやボルグも特徴的なプレースタイルを持っている。それを再現することは至難の業だったはず。私は実物のフォームとの違和感をそれほど感じなかった。それを編集とアングルの工夫と演技で違和感なく見せていたことは特筆できる。実際、本作を観た後に、『YouTube』で当時の試合を見返してみたが、やはり違和感は感じなかった。

そもそも二人の俳優がボルグとマッケンローを絶妙に演じているのだから、試合シーンがそっくりなのも当然。最初の登場では「あ、顔が違う」と少しの違和感を感じた。が、映画を見ているうちに、どんどん私の記憶の中の2人の容貌がスクリーンの二人の俳優によって塗り変えられていく。それほど、二人の俳優の演技はよく似ていた。マッケンローが登場するときはビリー・スクワイヤやブロンディーがガンガンに流れ、イケイケなマッケンローのイメージが観客の心に刻まれる。気持ちいいほど、監督の意図にはめられた自分がいた。観客冥利とはこのこと。エンドロールでは実際の二人や映画で使われたシーンの元となった写真が映され、観客は実際のボルグとマッケンローの容貌を取り戻す。この演出もまた心憎い。

本作でボルグを演じたスヴェリル・グドナソンと、マッケンローにふんしたシャイア・ラブーフがこれほどまでにハマった理由。それは忠実に言葉を再現していることだ。ボルグは自分のスウェディッシュを操り、マッケンローはアメリカンスラングを交える。そこにハリウッド大作にありがちな英語で押し通す傲慢さは皆無。本作の冒頭で、全仏オープンに出場するボルグが、カフェに入ってフランス語が話せないから、と英語で話すシーンがある。その流れのまま、本作も英語で押し通すのかと思わせておきながら、レナートコーチやマリアナとはスウェディッシュで話させるあたり、監督の確信犯としての洒落っ気を感じた。もしボルグが全編を英語で話したとすれば本作は台無しだ。エージェントとは国際共通語である英語。プライベートとや母国人とは母国の言葉。その辺りの言語の使い分けがとても自然だった。そこが私にとっては評価が高い点だ。冒頭に協力者としてスウェーデン大使館、デンマーク大使館、フィンランド大使館の名が出てくるが、さぞ和訳は大変だったと思う。また、マッケンローの荒れるスラングも、さぞこうだったと思わせるほど役にはまっていた。シャイア・ラブーフの映画ははじめてみたが、マッケンローという行ける伝説を演じるに、まさにはまり役だったと思う。

二人の俳優を固める脇役陣も見事。ボルグの少年時代を演じるレオ・ボルグはジュニア大会で優勝もしているボルグ本人の息子だそうだが、見事に父の子供時代を演じ切っていた。俳優でも食っていけるのではないだろうか。それと若い時期のボルグを演じていたマーカス・モスバーグ。荒れ狂うボルグを演じるだけに、彼の演技こそが本作の鍵を握っていたと言っても言い過ぎではない。もう一人、本作にとって重要な人物がいる。いうまでもなくボルグのコーチ、レナートだ。そのレナートを演じていたのはステラン・スカルスガルド。ハリウッド大作にも出演しており、私もスクリーン上でその存在に気づいた。その円熟の演技は本作に強力な説得力を与えていた。炎から氷へとボルグを変える錬金術師として、なくてはならない存在感を発揮していたと思う。

また、ボルグのフィアンセ、マリアナ・シミオネスクを演じたツヴァ・ノヴォトニーも素晴らしい。スウェーデンでは一流の女優さんだそう。初めてお見かけしたが、とても美しい。決勝戦でレナートコーチと一喜一憂するシーンがある。このシーン、実際の試合の映像も残っているのだが、まさにそっくり。ちなみに、実際の映像で映っているマリアナ・シミオネスクもとても美しい。わたしは実物のマリアナの美しさに心奪われた。女優に引けを取らないほどの容姿。当時、テニスを見ていたらファンになっただろうな。

こうした素晴らしい俳優をスクリーン上に映えさせたスタッフもお見事。本作は、私にとっては久々に観た北欧の映画。ハリウッド大作では味わえない、北欧の映画の魅力が詰まった一作だ。映画とスポーツの粋。それを一度に味わえる作品はそう多くない。そんな作品が北欧から登場したことこそ意味があるのだ。私は本作に巡り合え、とても幸せを感じている。

わたしは本作でテニスがさらに好きになった。そして、テニスの歴史にも興味を持った。そしてボルグとマッケンローの伝記を探してみた。すると、まさにそれにぴったりの本『ボルグとマッケンロー テニスで世界を動かした男たち』を見つけた。その本も読まねばなるまい。勝負や孤独の本質を掴むためにも。

‘2018/09/11 イオンシネマ新百合ヶ丘


ミッション:インポッシブル フォールアウト


イメージがこれほどまでに変わった俳優も珍しい。トム・クルーズのことだ。ハンサムなアイドルとしての若い頃から今まで早くも30年。今なお第一線にたち、相変わらずのアクションを見せている。しかもスタントなしで。ここまで大物俳優でありながら、芸術的な感性を感じる作品にも出演している。それでいて、50歳も半ばを超えているのに、本作のような激しいアクションにスタントなしで挑んでいるのだからすごい。もはや、若かった頃のアイドルのイメージとは対極にいると思う。

正直言うと、本作も半ばあたりぐらいまでは、『ミッション:インポッシブル』や『007』シリーズなどに共通するアクション映画のセオリーのような展開が目についてしまい、ほんの少しだけだが「もうおなかがいっぱい」との感想を抱きかけた。だが、本作の後半は違う。畳みかけるような、手に汗握る展開はシリーズでも一番だと思う。それどころか、今まで私が観てきたアクション映画でも一、二を争うほどの素晴らしさだと思う。

なぜ本書の後半の展開が素晴らしいのか。少し考えてみた。二つ思いついた。一つは、トム・クルーズふんするイーサン・ハントだけを完全無欠なヒーローとして描いていなかったことだ。もちろん、ハントのアクションは驚異的なものだ。それらのアクションのほとんどを50代半ばになるトム・クルーズがスタントなしで演じないことを考えるとなおさら。だが、彼にはIMFのチームがある。ベンジーとルーサー、そしてイルサのチーム。クライマックスに至るまで、ハントとハントのチームは最後の瞬間まで並行して難題に取り組む。普通、こうした映画の展開は、主人公が最後の戦いに挑むまでの間に、露払いのように道を開く仲間の活躍を描く。それは主人公を最後の戦いに、最大の見せ場にいざなうためだけに存在するかのように。だが、本作ではハントが最後の努力を続けるのと同時に、ハントの仲間たちもぎりぎりまで戦う。その演出はとてもよかった。もはや一人のスーパーヒーローがなんでも一人で成し遂げる展開は時代にそぐわないと思う。

また、超人的な活躍を繰り広げるハントの動きも本作のすばらしさに一役買っている。ハントの動きにうそが感じられないのだ。スタントが替わりに演じていたり、ワイヤーアクションによる動きは目の肥えた観客にはばれる。要するにトム・クルーズ自身がスタントなしで演じている様子が感じられるからこそ、本作の後半の展開が緊迫感を保てているのだと思う。

それを是が非でも訴えたいかのように、パンフレットにもスタントなしの撮影の大変さに言及されていることが多かった。トム・クルーズが撮影中に足を骨折したシーンと、全治9カ月と言われたケガからわずか6週間で撮影に復帰したトム・クルーズの努力。トム・クルーズがけがしたシーンは、パンフレットの記述から推測するに、ハントがイギリスで建物の屋根を走って追いかけるシーンで起こったようだ。骨を折っても当然と思えるほど、本書のアクションは派手だ。そして、ここで挙げたシーンの多くは、本作の前半のシーンだ。私が「もうおなかがいっぱい」とほざいたシーンとは、実は他のアクション映画ならそれだけでメインアクションとなりえるシーンなのだ。それらのシーンを差し置いても、終盤のアクションの緊張感が半端ないことが、本作のすごさを表している。

なお、50代半ばというトム・クルーズの年齢を表すように、直接肉体で戦うアクションシーンは本書にはそれほど出てこない。だが、本書にはそのことを感じられないほど、リアルで斬新なアクションシーンが多い。例えば成層圏を飛ぶ飛行機から飛び降りたり、ヘリコプターから吊り下げた荷物へと10数メートル飛び降りるシーン。パリの街並みを逆走してのバイクチェイス。イギリスで建物の屋上を走り抜け、ジャンプするシーン。そもそも、ミッション:インポッシブルのシリーズにはアクション映画におなじみの格闘シーンはさほど登場しない。それよりも独創的なアクションが多数登場するのがミッション:インポッシブルのシリーズなのだ。

ちなみに、本作はIMAXでみた。本当ならば4Dでみたかった。だが、なぜか4Dでは字幕ではなく、吹替になってしまう。それがなぜなのかわからなかったが、おそらく4Dの強烈な座席の揺れの中、観客が字幕を読むのが至難の業だからではないか、という推測が妻から出た。IMAXでもこれだけの素晴らしい音響が楽しめた。ならば、4Dではよりすごい体験が得られるのではないだろうか。

よく、映画は映画館でみたほうがよい、という作品にであう。本作は、映画館どころか、4Dのほうが、少なくともIMAXで観たほうが良い作品、といえるかもしれない。

なお、スタントやアクションのことばかり誉めているが、共演陣が素晴らしいことはもちろんだ。だが、本作の俳優がどれほど素晴らしかろうとも、アクションシーンの迫力がそれを凌駕している。

また、本作は少々ストーリーがややこしい。誰が誰の味方で、誰が誰の敵なのか、かなり観客は混乱させられる。私自身、本作の正確なストーリーや、登場人物の相関図を書けと言われると詰まってしまう。多分、そこは正式に追っかけるところではなく、アクションシーンも含めて大迫力の映画館で何度でも見に来てね、という意図なのかもしれない。私もそれに乗ってみようと思う。

‘2018/08/14 TOHOシネマズ ららぽーと横浜


ハン・ソロ スター・ウォーズ・ストーリー


『エピソード7:フォースの覚醒』、『エピソード8:最後のジェダイ』。そして『ローグ・ワン/スター・ウォーズ・ストーリー』。これらの三作品はスター・ウォーズを蘇らせた。そして蘇らせるだけでなく、新たな魅力までも備えさせた。そのインパクトは、劇場公開当時に『エピソード4〜6』を観ていない私のような観客にもスター・ウォーズ・サーガの魅力を十分に知らしめた。偉大なる作品群だと思う。

サーガとは物語だ。だから終わりがない。未来を語れば選択肢は無限。過ぎ去った物語も無限。だからこそスピンオフ作品は生まれる。しかもそれがスター・ウォーズほどの作品ともなればスピンオフのための題材は山のようにある。だからこそ、スター・ウォーズから派生した相当の数のスピンオフ作品が小説やコミックなどで発表されているのだろう。そして、あまたのスピンオフ作品の中でも正統なスピンオフに位置付けられていたのが『ローグ・ワン』だ。

正統のスピンオフと銘打つだけのことはあり、『ローグ・ワン』は本編に劣らぬ内容だった。魅力的な登場人物たちがデス・スターの設計書を苦心の末奪い取る。そして大勢の犠牲を払った末、データは無事に送信される。本編の『エピソード4:新たなる希望』では『ローグ・ワン』で送信されたデス・スターの設計書データをもとにストーリーが構築されている。長い間、このエピソードは『エピソード4:新たなる希望』のオープニングロールの文章の中だけで触れられていた。あれほどの最新鋭の基地の設計図がなぜ都合よく反乱軍の手に収まったのか、という疑問。それは『エピソード4』の前提が安直との弱点でもあった。『ローグ・ワン』はそのエピソードを描くことで本編を補完した。スピンオフの役割が本編の補完にあるとすれば、『ローグ・ワン』はまさにそれを果たしていた。

そして本作だ。本作もまたスピンオフ作品だ。だが、果たして本作は本編を補完しているのだろうか。そう問われると私は少し言い淀むしかない。たしかにハン・ソロは本編の『エピソード4〜7』における主要なキャラクターだ。それらの中でハン・ソロから発せられたセリフは観客の印象に残っている。例えば『エピソード4』でルークと出会った時、ハン・ソロはミレニアム・ファルコン号を「ケッセル・ランを12パーセクで飛んだ船だ」と紹介していた。また、ミレニアム・ファルコン号にはサイコロのようなお守りが登場する。『エピソード5:帝国の逆襲』ではミレニアム・ファルコン号がランド・カルリシアンからギャンブルで巻き上げた船であることが観客に知らされる。また、チューバッカとハン・ソロの絆の深さは、エピソード4〜6にかけて印象的だ。それらの前提がどこから来たのか。それはスター・ウォーズのファンにとっては気になるはず。そして前提となる情報は今まで描かれないままだった。本作はそれらの観客の渇きを癒やすために作られたのだろう。『エピソード7』でハン・ソロが物語から去った今、なおさらハン・ソロという人物はしのばれなくてはならないのだから。だが、それらは本当に補完されるべき情報なのだろうか。わたしには少し疑問だ。

スター・ウォーズが好きな私としては、本作は当然みるつもりだった。だからこそ封切りした翌々日、私にとってはいつもよりも早いタイミングで映画館に行ったのだ。結果、上に書いたようなハン・ソロにまつわるエピソードの伏線についてはほぼ納得できた。だが、本作をみた後は逆にモヤモヤが残った。どこがどうモヤモヤなのか。それは本作をみていない方にとってネタバレになるのでこれ以上書かない。とにかく本作に登場した主要人物の中で、その後の本編にどう関わるのかわからない人物が二人、登場する。また、その関わりが『エピソード4』につながるのか、それとも『エピソード1〜3』につながるのかもわからない。本作は、過去の作品が広げた風呂敷を確かに畳んだ。だが一方で新たな謎も広げた。それはスピンオフ作品のあるべき姿とは思えない。ある意味、スピンオフのセオリーから外れているとすら言える。もちろん、物語とは終わるはずのないものだ。だから、本来はエピソードを収束させる考え自体が間違っているのだろう。それはスピンオフ作品であっても同じ。だが、スター・ウォーズの本編ありきでスピンオフを考えていた観客には少しモヤモヤが残る。スピンオフがさらなるスピンオフを生む。この手法は賛否両論がありそうに思える。また、もしこの設定が他のスピンオフ、つまり8作の本編と2作のスピンオフの他に多数発表された小説やコミックにつながるのであれば、なおさら非難の声は挙がりそうな気がしてならない。

ストーリーについてはこれぐらいにしておく。後もう一点で言いたい不満はアクションシーンについてだ。たまにハリウッド大作をみていて思うのが、弾幕の中を登場人物が無傷で切り抜けるシーン。あれ、どう考えても都合よすぎでしょ。実は本作にもそのようなシーンが登場する。それはミレニアム・ファルコン号の前で壮絶な打ち合いの末、全員を回収して離陸し、宇宙に飛び去るシーンだ。同様のシーンは『エピソード4』にもあった。本作はもちろんそれを踏まえての演出だと思う。だが、本作の弾幕の厚さはただ事ではない。『エピソード4』の同じシーンの弾数とは段違いの。それなのにL3-37がスクラップになるだけで、その他のほとんどの人物はほぼ無傷で切り抜ける。これは如何なものか。『エピソード8』がいい意味で観客の期待を裏切ることに成功していたので、本作の撃ち合いシーンに工夫がなかったことには苦言を呈したい。

ハリウッド大作にありがちなことは他にもある。英語が標準語である設定だ。舞台がフランスだろうが日本だろうがドイツだろうが英語でグイグイ押し通すやり口。これは私はハリウッドの必要悪として半ば諦めている。スター・ウォーズにしてもそう。全てが英語だ。異星人のオールスターが登場する本作にしてもそう。異星の言語を翻訳するため英語の字幕が出たのは数シーンのみ。特に目についたのは二つのシーンだ。ハン・ソロとチューバッカが出会うシーン。見張りを欺くため、ハン・ソロがウーキー語でチューバッカに話しかける。ここまではまだいい。だが、脱出が全うできそうな場において、英語で普通に喋るハン・ソロの声を事も無げに聞き分けるチューバッカ。無理やり、そしてたまたま銀河共通語が今の英語であるという設定を鵜呑みにすれば解釈できるかもしれない。だが、ハン・ソロの名前の由来が明かされるシーン。そりゃないでしょ、と思った。あれはやりすぎだ。

さて、あまり映画の悪口は書かない私。だが今回はつい書いてしまった。でも、その点を除けば本作は良かったと思う。特に俳優陣についてはいうことがない。ハン・ソロもランド・カルリシアンも、もう少し似た俳優さんを配役に充てても良かったように思う。だが、これはこれで仕方ない。容姿以上に、彼らの演技からは若かった頃のランドやソロはこんな感じやったんやろうなあと思わせる説得力があった。特にランドを演じていたドナルド・グローヴァーさんは、今までさほど表現されてこなかったランドを深掘りすることに成功していたと思う。ハン・ソロを演じたオールデン・エアエンライクさんも老けたハン・ソロが印象に残ってしまいかねない今の観客に、若々しいハン・ソロを思い出させたように思う。また、新たなキャラクターたちもとても良かった。とくにヒロインのキーラを演じたエミリア・クラークさんの可憐さの中にどこか冷たさのある感じ。ハン・ソロの師匠ともいうべきトバイアス・ベケットを演じたウディ・ハレルソンさんの存在感。ヴァルを演じたタンディ・ニュートンさんも以前『クラッシュ』で見かけた時とは印象がガラリと変わっていた。他にもエンドクレジットには旧三部作からお馴染みの方の名前も見つけられた。C-3POやイウォークの中の人とか。

スター・ウォーズは超大作だけにカメオ出演がとても多いと聞く。脇役でも油断すると誰が出演しているかわからないのがスター・ウォーズの楽しさ。細かくみればもっといろいろなことがわかるのだろう。実は私が上で批判したような伏線も、今までの『エピソード1-8』『ローグ・ワン』をよく見れば、本作の設定とつながっているのかもしれない。とくに『エピソード1〜3』は、わたしも映画館で見たきりだ。『エピソード1〜3』を再び見直すのだ、というメッセージが本作なのかもしれない。私も見直してみようと思う。

‘2018/07/01 イオンシネマ新百合ヶ丘


The Greatest Showman


私が、同じ作品を映画館で複数回みることは珍しい。というよりも数十年ぶりのことだ。私が子供の頃は上映が終わった後もしばらく客席にいれば次の回を観ることができた。今のように座席指定ではなかったからだ。だが、いまやそんな事はできない。そして私自身、同じ映画を二度も映画館で観る時間のゆとりも持てなくなってきた。

だが、本作は妻がまた観たいというので一緒に観た。妻子は三度目、私は二度目。

一度目に観た時。それは素晴らしい観劇の体験だった。だが、すべてが初めてだったので私の中で吸収しきれなかった。レビューにもしたため、サウンドトラックもヘビーローテーションで聞きまくった。それだけ本作にどっぷりはまったからこそ、二度目の今回は作品に対し十分な余裕をもって臨むことができた。

二回目であっても本作は十分私を楽しませてくれた。むしろ、フィリップとバーナムがバーのカウンターで丁々発止とやりあう場面、アンとフィリップがロープを操りながら飛びまわるシーンは、前回よりも感動したといってよい。この両シーンは数ある映画の中でも私の記憶に刻まれた。

今回、私は主演のヒュー・ジャックマンの表情に注目した。いったいこの映画のどこに惹かれるのか。それは私にとってはヒュー・ジャックマンが扮したP・T・バーナムの生き方に他ならない。リスクをとってチャレンジする生き方。バーナムの人生観は、上にも触れたフィリップをスカウトしようとバーでグラスアクションを交えながらのシーンで存分に味わえる。ただ、私はバーナムについてよく知らない。私が知るバーナムとはあくまでも本作でヒュー・ジャックマンが演じた主人公の姿だ。つまり、私がバーナムに対して魅力を感じたとすれば、それはヒュー・ジャックマンが表現した人物にすぎない。

ということは、私はこの映画でヒュー・ジャックマンの演技と表情に惹かれたのだ。一回目の鑑賞ではそこまで目を遣る余裕がなかった。が、今回はヒュー・ジャックマンの表情に注視した。

するとどうだろう。ヒュー・ジャックマンの表情が本作に力を漲らせていることに気づく。彼の演技がバーナムに魅力を備えさせているのだ。それこそが俳優というものだ。真の俳優にセリフはいらない。真の俳優とはセリフがなくとも表情だけで雄弁に語るのだ。本作のヒュー・ジャックマンのように。

本作で描かれるP・T・バーナムは、飽くなき挑戦心を持つ人物だ。その背景には自らの生まれに対する反骨心がある。それは彼に上流階級に登り詰めようとする覇気をもたらす。

その心のありようが大きく出るのが、バーナムとバーナムの義父が対峙するシーンだ。本作では都度四回、バーナムと義父が相まみえるシーンがある。最初は子供の頃。屋敷を訪れたバーナムが淑女教育を受けているチャリティを笑わせる。父から叱責されるチャリティを見かねたバーナム少年は、笑わせたのは自分だと罪を被り、義父から張り手をくらわされる。このシーンが後々の伏線になっていることは言うまでもないが、このシーンを演じるのはヒュー・ジャックマンではなく子役だ。

次は、大人になったバーナムがチャリティ家を訪れるシーンだ。この時のバーナムは意気揚々。自信満々にチャリティをもらい受けに訪れる。ヒュー・ジャックマンの表情のどこを探しても臆する気持ちや不安はない。顔全体に希望が輝いている。そんな表情を振りまきながら堂々と正面から義父に対し、その場でチャリティを連れて帰る。

三度目は、パーティーの席上だ。ここでのバーナムはサーカスで名を売っただけに飽き足らず、ジェニー・リンドのアメリカ公演の興行主として大成功を収めたパーティーの席上だ。上流階級の人々に自分を認めさせようとしたバーナムは、当然認めてもらえるものと思いチャリティの両親も招く。バーナムは義父母をリンドに紹介しようとする。ところが義父母の言動がまだ自分を見下していることを悟るや否や、一言「出ていけ」と追い出す。この時のヒュー・ジャックマンの表情が見ものだ。バーナムはおもてでは愛嬌を振りまいているが、裏には複雑な劣等感が潜んでいる。そんな複雑な内面をヒュー・ジャックマンの表情はとてもよく表していた。そしてチャリティの両親をパーティーから追い出した直後、乾杯の発声を頼まれたバーナムは、堅い表情を崩せずにいる。さすがにむりやり微笑んで乾杯の発声を務めるが、その自らの中にある屈託を押し殺そうとするヒュー・ジャックマンの表情がとてもよかった。

なぜ私はこれほどまでに彼の義父との対峙に肩入れするのか。それは、私自身にも覚えのある感情だからだ。自らの境遇に甘んじず、さらに上を目指す向上心。その気持ちは周りから見くだされ、軽んじられると発奮して燃え上がる。だが、燃え上がる内面は押し隠し、愛嬌のある自分を振る舞いつづける。この時のヒュー・ジャックマンの顔つきは、バーナムの内面の無念さと焦りと怒りをよく表していたと思う。そして結婚直前の私の心も。

四度目は、再びバーナムが実家に戻ったチャリティを迎えに行くシーンだ。火事で劇場を失い、ジェニー・リンドとのスキャンダル報道でチャリティも失ったバーナム。彼がFrom Now On、今からやり直そうとチャリティの屋敷に妻子を取り戻しに行くシーンだ。ここで彼は、義父に対して気負わず当たり前のように妻を取り戻しに来たと伝える。その表情は若きバーナムが最初にチャリティをもらい受けに乗り込んだ時のよう。ここで義父に対して媚びずに、そして勝ち誇った顔も見せない。これがよかった。そんな見せかけの虚勢ではなく、心から自らを信じる男が醸し出す不動の構え。

よく、悲しい時は無理やり笑えという。顔の表情筋の動きが脳に信号として伝えられ、悲しい気分であるはずの脳がうれしい気分だとだまされてしまう。その生活の知恵はスクリーンの上であっても同じはず。

本作でヒュー・ジャックマンの表情がもっとも起伏に満ちていたのが義父とのシーン。ということは、本作の肝心のところはそこにあるはずなのだ。反骨と情熱。

だが、一つだけ本作の中でヒュー・ジャックマンの表情に精彩が感じられなかったシーンがある。それはジェニー・リンドとのシーンだ。最初にジェニー・リンドと会う時のヒュー・ジャックマンの表情はよかった。ジェニー・リンドの歌声をはじめて舞台袖で聞き、公演の成功を確信したバーナムの顔が破顔し、安堵に満ちてゆく様子も抜群だ。だが、ジェニー・リンドから女の誘いを受けたバーナムが、逡巡した結果、話をはぐらかしてリンドから離れるシーン。ここの表情がいまいち腑に落ちなかった。もちろんバーナムは妻への操を立てるため、リンドからの誘惑を断ったのだろう。だが、それにしてはヒュー・ジャックマンの表情はあまりにも曖昧だ。ぼやけていたといってもよいほどに。もちろんこのシーンではバーナムは妻への操とリンドとの公演、リンド自身の魅力のはざまに揺れていたはずだ。だから表情はどっちつかずなのかもしれない。だが、彼が迷いを断ち切るまでの表情の移り変わりがはっきりと観客に伝わってこなかったと思う。

それはなぜかといえば、このシーン自体が曖昧だったからだと思う。リンドはせっかく秋波を投げたバーナムに振られる。そのことでプライドを傷つけられ公演から降りると啖呵を切る。そして金のために自分を利用したとバーナムを攻め、スキャンダルの火種となりかねない別れのキスを舞台でバーナムにする。ところが、公演を降りるのはいささか唐突のように思える。果たしてプライドを傷つけられただけですぐに公演を降りるのだろうか。おそらくそこには、もっと前からのいきさつが積み重なった結果ではないだろうか。それは、映画の上の演出に違いない。そもそも限られた時間で、リンドは誘惑し、バーナムがリンドから誘惑に初めて気づき、その場でさりげなく身をかわす。そんなことは起こるはずがない。それは映画としての演出上の都合であって、それだけの時間で演出をしようとするから無理が生じるのだ。Wikipediaのジェニー・リンドの項目を信じれば、リンドが公演を降りたのは、バーナムの強引な興業スケジュールに疲れたリンドからの申し出だとか。それがどこまで真実かはわからない。が、本作ではあえて劇的な方法で二人を別れさせ、リンドとバーナムのスキャンダルにつなげたいという脚本上の意図があったのだろう。だが、その意図が練られておらず、かえってヒュー・ジャックマンからも演技の方向性を隠してしまったのではないか。それがあのような曖昧な表情につながってしまったのではないかと思う。

他のシーンで踊り歌うヒュー・ジャックマンの表情に非難をさしはさむ余地はない。だからこそ、上のシーンのほころびが惜しかった。

‘2018/04/02 イオンシネマ多摩センター


The Greatest Showman


私は劇場で舞台や映画を観る前にあまりパンフレットを読まない。だが、本作は珍しいことに見る前にパンフレットを読んでいた。なぜなら妻と長女が先に観ていて、パンフレットを購入していたからだ。だから軽くストーリーの概要だけは知った上でスクリーンの前に臨んだ。家族四人で観たのだが、妻と長女は二回目の鑑賞となる。妻子にとっては何度も観たいというほど、本作に惚れ込んでいるようだ。

妻子の言う通り、確かに本作は素晴らしい。何がいいって、とにかく曲がいい。本作にはとてもキャッチーで耳に残る楽曲が多い。ミュージカルが好きな妻子にとってはミュージカル映画の王道を行く本作はたまらないと思う。私もミュージカルの舞台や映画はよく見るのだが、本作に流れる曲の水準の高さは他の名作と呼ばれるミュージカル舞台や映画に比べても引けを取らないと思う。かなりお勧めだ。妻が最初の鑑賞でサウンドトラックを買った気持ちもわかる。

妻から事前に聞いていたのは、本作が多彩な切り口から楽しめること。だが、その切り口が何なのかは観るまでは分からなかった。そして観終わった今は分かる。それは例えば家族の愛だったり、ハンディキャップを持って生まれた方への真の意味の配慮だったり、挑戦する人生への賛歌だったり、19世紀には厳然とあった差別の現実だったり、夫と妻の間の視点の違いだったり、身分を超えた愛だったり、演劇史からみたサーカスの役割だったり、米国のエンターテイナーの実力の高さだったり、あまりCGを感じさせない本作の撮影技術だったり、いつのまにか日本のテレビから消えた障がい者だったり、本作の場面展開の鮮やかさだったり、事実を脚色する脚本の効果だったり、SING/シングのシナリオと本作のシナリオが似ていることだったり、YouTubeで流れるメイキングシーンを観たくなるほどの本作の魅力だったり、さまざまだ。

そのすべての切り口から、本作は語れると思う。なぜなら本作は、限られた尺の中で視点のヴァリエーションを持たせることに成功しているからだ。メリハリを持たせているといってもよい。本作の尺は105分とそれほど長くない。そんな短い時間の中であっても構成と映像に工夫を凝らし、これだけたくさんの切り口で語れるような物語を仕上げている。その演出手法は見事だ。

本作はどちらかといえば物語の展開を楽しむ類の作品ではない。19世紀のアメリカで異彩を放ったP・T・バーナムの生涯をモチーフとしているが、彼の生涯は詳細に語らず、端折るところは大胆に端折っている。特に、バーナムと妻のチャリティの出会いから子を持つまでの流れを「A Million Dreams」の曲に合わせて一気に描いているシーンがそうだ。曲の一番を子役の二人に歌わせ、そのあと、ヒュー・ジャックマンがふんする青年バーナムとミシェル・ウィリアムズの演ずるチャリティの声が二番を引き継ぐことで、観客は視覚と聴覚で二人の成長を知る。しかも、この流れの中で挟まれるシーンは、チャリティが身分の違うバーナムに一生をかけて添い遂げようとする意志の強さと、バーナムの上流階級を見返したいとの反骨の心を観客に伝えている。

本作には上に挙げたシーンのように、登場人物の視点や心の揺れを画面の動きだけで表す演出が目立つ。それによって映像の中に多種多様な物語をイメージとして詰め込んでいるのだ。だからこそ、上に挙げたようなさまざまな切り口を本作の中に描写できるのだろう。

私は先に挙げた切り口のうち、三つほどが特に印象に残った。それを書いてみたい。

まずは、障がい者の取り上げ方だ。かつてドリフターズがやっていた「8時だョ!全員集合」では何度か小人のレスラーがでていた。ところが、最近はそういった障がいのある方を笑うような番組は全く見かけなくなった。障がいのある方を笑うなどもってのほか、というわけだ。だが、もともとエンターテインメントとは、本作でもバーナムが語っていたように猥雑で日常には出会えない出来事を楽しめるイベントだったのではないか。障がいのあった方でも、喝采と拍手でたたえられるような場。観客が彼らを笑うのではなく、彼らが観客を笑わせる。それこそがエンターテインメントの存在意義ではないかと思うのだ。だからこそ、彼らが一団となって自分が自分であることを高らかに歌い上げる「This is me」がこれだけの感動を呼ぶのだ。

本作には大勢のフリークスと呼ばれる人々が登場する。体の一部に障がいをもち、普段は日陰に追いやられていた方々だ。本作に登場する障がい者のうち、犬男やヒゲ女、入れ墨男などは、特殊メイクだろう。だが、当時人気を博した親指トム将軍を演ずる方と巨人を演ずる方は、実際に小人症と巨人症を患いつつ俳優として糧を得ている方だと思われる。かつて「ウィロー」という、小人の俳優がたくさん出演する映画を劇場で観た。今の日本に、こういうハンディキャップを持った方々の活躍する場があり、エンターテインメントとして成立っていることを私は寡聞にして知らない。スポンサーに配慮しての、リスクを考えてのことなのかどうかも知らない。もしそうだとすれば、もし日本の一般的な娯楽であるテレビに昔日の勢いが失われているとすれば、そういう見せ物的な要素が今のテレビから失われたからではないだろうか。

もちろん、障がい者もさまざまな人がいる。人によっては表に出たくないと思う人もいるだろう。だが逆に、人前に出て自分を表現し、賞賛を受けたいと思う障がい者だっているはず。障がい者だからといって十把一絡げにあつかうのはどうだろう。本作にも、彼らのようなフリークスたちが、バーナムサーカスに入って初めて本当の家族を得たというセリフがある。とすれば、そういう場をもっと作っても良いと思うのだ。エンターテインメントとはお高くとまった娯楽であっても良いが、同時に猥雑で珍しいものという側面もなくてはならないはず。アンダーグラウンドで後ろ暗い要素は全て排除され、インターネットに逃げてしまった。それが今のテレビがオワコン扱いを受ける原因だと思う。本作は、今の我が国のエンターテインメントに足りないものを思い出させてくれる。

続いては、バーナムがパートナーのフィリップをバーでスカウトするシーンだ。「The Other Side」のナンバーに乗って二人が丁々発止のやりとりを繰り広げる。本作には記憶に残るシーンが数多くあるが、このシーンもその一つ。ミュージカルの楽しさがこれでもかと堪能できる。カクテルバーのフレアショーを思わせるようにグラスとボトルが飛び交う。今の地位を捨てて冒険しようぜと誘うバーナムと、上流階級に属する劇作家の地位を盾に拒むフィリップ。スリリングなグラスのやりとりに対応して、「The Other Side」の歌詞は男の人生観の対決そのものだ。もちろん人によって価値観はさまざま。どう受け取るかも自由だ。私の場合は言うまでもなくバーナムのリスクをとる生き方を選ぶ。バーナムが今もなお名を残す成功者であり、彼の後ろには何百人もの失敗者がいることは承知の上で。それは本作が多面的な視点で楽しむことができるのと同じだ。全ては人生観の問題に帰着する。でも、それを差し置いてもこのバーで二人が掛け合いを演ずるシーンは心が躍る。すてきな場面だと思う。

あと一つは、結婚とは夫婦の感じ方の違いであることだ。バーナムは先に書いたとおり、成功に前のめりになる人物だ。リスクをとらない人生などつまらないと豪語し、フィリップを自らの生き方に巻き込む。だが、奥さんのチャリティはバーナムとは少し違う。彼女にとって成功はどうでもいいのだ。彼女は夫のバーナムが夢を追う姿に惹かれるのだから。そのため、バーナムが成功に浮かれ、夢を忘れた姿は見たくない。フリークスの仲間や家族を置いたまま、欧州から招いたジェニー・リンドとの興行に出かけるバーナムには夢を忘れて成功に溺れる姿しか感じない。そして、リンドとバーナムにスキャンダルの報道がでるに及んでチャリティは家を出てしまう。チャリティにとってみれば成功とはあくまでも結果に過ぎない。結果ではなく、経過。理想を見る男と現実を見る女の違いと言っても良いかもしれない。

つまり、本作はただ無責任にバーナムのような投機的な生き方をよしとする作品ではない。それとは逆のチャリティの価値観を置くことでバランスをとっている。それに応えるかのようにバーナムは最後までジェニー・リンドからの誘惑に揺るがず、妻子に操を立て続ける。彼が娘たちと妻を慈しむ心のなんと尊いことか。本作、そして主演のバーナムに魅力があるとすれば、この点だろう。山師の側面と家族に誠実な側面の釣り合いがとれていること。自らペテン師と大書されたシルクハットをかぶる姿も彼からうさん臭さを払拭している。

不具のフリークスたちをたくさん抱えてはいても、根本的に彼の側の人物で悪く書かれる人は登場しない。外見は中身の醜さに比例しないからだ。むしろ、つまらぬ差別意識で垣根を築こうとする上流階級の心の狭さこそが本作においては醜さの表れなのだ。本作は、一見するといびつな人物が多数登場するキワモノだ。だが、実は本作はあらゆるところでバランスをとっているのだ。それこそが本作を支える本質なのだと思う。

バーナムとチャリティは、身分の差を乗り越えて結ばれる。もう一組、身分の差を乗り越えて結ばれるカップルがいる。フィリップとアンだ。見た目や身分の壁を取っ払おうとする本作の試みがより強調されるのが、ザック・エフロンが演ずるフィリップとサーカスの空中ブランコ乗りアンにふんするゼンデイヤが夜の舞台で掛け合うシーンだ。演目に使うロープを使って二人が演ずるダイナミックな掛け合いは「Rewrite The Stars」のメロディに合わせ、サーカスを扱う本作にふさわしい見せ場を作る。ここも本作で見逃せないシーンの一つ。バーナムがとうとう義父と分かり合えなかったように、フィリップもアンとの恋を成就させるため両親と縁を切ってしまう。このシーンは、私が妻と結婚した頃のさまざまなことを思い出させる。立場は逆の。それもあって本作は私を魅了する。

本作はとにかく歌がよいと冒頭に書いた。それらの歌は、歌い手の姿が映えていればなおさら輝く。挿入歌が良い映画はたくさんある。だが、それらはあくまでも映像の後ろに流れる曲にすぎない。本作は演者がこれらの曲を歌いながら演ずる。曲はBGMではなく、作品そのものなのだ。全ての歌い手が輝いている。(ジェニー・リンドがステージで歌うシーンはさすがに吹き替えだったが。ミッション・インポッシブルであれだけのアクションをこなしていた彼女がこれだけ歌ったとすれば、それこそ感嘆する)。特にタイトルソングと上に書いた「This is me」はフリークスが勢ぞろいして見事なダンスを見せながら歌われるのだからたまらない。

欧米はミュージカルが芸術として欠かせない。我が国も宝塚や劇団四季、その他の劇団が頑張っているとはいえ、まだまだ主流にはなっていない。それは、テレビであまりミュージカルが流れてこないためもあると思う。たぶん、ミュージカルの魅力に気付いていない日本人はまだまだ多いはず。

今の私はジャニーズ事務所に何も含むところはない。秋元康さんにも。なので、ジャニーズ事務所や秋元康さんに逆にお願いしたいのだが、所属のアイドルの皆さんにはミュージカルで遜色なく歌い踊り演じられるぐらいのレベルになってほしいと思う。そうすれば、本作のようなレベルの作品が日本から生まれることだって夢ではなくなるのだから。

それこそ、何度でも本作をリピートしてみて欲しいと思う。

‘2018/03/10 イオンシネマ新百合ヶ丘


スター・ウォーズ/最後のジェダイ


エピソード7に始まる新三部作はスターウォーズサーガを完全に再生させた。それだけでなく新たな魅力まで備えて。

エピソード4-6までの旧三部作はあまりにも偉大だった。そのため、なぜダース・ヴェイダーがうまれたのかを描くエピソード1-3の三部作は、4-6に矛盾なくつなげる使命が課せられてしまった。その使命は、エピソード1-3を監督したジョージ・ルーカスの想像力の足かせになったのだろう。観客の意表をつくストーリーは影をひそめ、最新の撮影技術の披露、もしくは、ジャー・ジャー・ビンクス、または笑えるくらい敏捷なヨーダといったキャラに頼るしかなくなってしまった。

そこでジョージ・ルーカスが下した決断がすばらしい。まず、ルーカスフィルムをディズニーに売却したこと。さらにスターウォーズに関する一切の権利を委ねたこと。これはジョージ・ルーカスのなした素晴らしい英断だったと思う。なぜなら、この決断によってエピソード7以降のストーリーに命が吹き込まれたからだ。権利がルーカスから離れたことによって、必ずしもルーカス自身が監督しなくても良くなった。そのため、監督の人選が自由になった。その成果が、エピソード7はJ.J.エイブラムス、本作はライアン・ジョンソンという若い監督の抜擢につながった。しかも、別々の監督に委ねたことは、それぞれの作品に変化を加えただけでない。スターウォーズサーガに新たな可能性も加えたのだ。優れた外伝の製作として。言うまでもなく「ローグ・ワン/スター・ウォーズ・ストーリー」のことだ。続いて「ハン・ソロ/スター・ウォーズ・ストーリー」まで公開予定というのだからファンにとってはたまらない。

たぶん、ルーカス監督がエピソード1-3ではなくエピソード7-9を監督しても素晴らしい作品に仕上がったことだろう。だが、一人ではスピンオフ作品までは手が回らなかったはずだ。その意味でもルーカスはスターウォーズサーガの今後にとってベストの決断を下したと思う。

ルーカスの決断が優れているのは、ただ続編の製作に繋がったことではない。世代をこえてサーガが伝わるきっかけを作ったことを評価したいのだ。だからこそ、エピソード7のJ.J.エイブラムス監督とエピソード8のライアン・ジョンソン監督が伝統を重んじ、そこにさらに新たな魅力を加えてくれたことがうれしいのだ。二人は師であるルーカスからスターウォーズサーガを受け継ぎ、弟子として申し分のない仕事をした。そして、万人に納得させることに成功した。

師匠から弟子への伝承。それは、本作そのもののテーマでもある。エピソード7はレイとルーク・スカイウォーカーの邂逅で幕を閉じた。本作ではプロローグから間も無く二人の関係が始まる。これ以上はストーリーを明かすことになるので書かないが、旅立って行くレイに対してこのようなセリフが投げかけられる。「師とは弟子に乗り越えられるためにある」と。

弟子であるライアン監督がそのようなセリフを仕込み、公開する。如実に世代交代を感じさせるシーンだ。

ライアン監督がそう自負したくなるのもわかる。本作はとにかく脚本がいい。今までの8作の中で一番といっても良い。何がいいかというと、シリーズにつきものの予定調和を排する姿勢だ。予定調和こそシリーズものの最大の敵。その排除に腐心した跡が本作から感じられる。エピソード7は、世代交代して最初の作品として、世界観の踏襲に慎重に配慮する姿勢が顕著だった。本作では前作がよみがえらせた世界観に乗りながらも、観客の期待を良い意味で外す演出が目立つのだ。しかもことさらに旧三部作を匂わせつつ、絶妙にはぐらかせる。絶妙に。

たとえばエピソード5の「帝国の逆襲」では、ヨーダの元で修行するルークが描かれる。それは主にフォースを体得するための努力だった。しかし、本作にはそういう努力のシーンが少ない。ルークはレイをベン・ソロすなわちカイロ・レンに匹敵するフォースの持ち主と恐れる。つまり、努力よりも素質が重んじられる。その違いは、ルークが修行中に闇へとつながる洞穴に赴くシーンで示される。ルークは洞穴でダース・ヴェイダーの影を憎しみに任せて切ってしまう。あのシーンに対比する本作のシーンは、映像技術の進歩を感じさせながら、よりフォースの本質に迫っている。素晴らしいシーンだ。そこではフォースの力とその根源を示し、なおかつ観客には筋書きに通ずる深い示唆を与えているのだ。

本作において、師に迫るための努力はそれほど重要とされない。グルやメンターはジェダイには不要なのだ。むしろ、フォースの力とそれを操る素質に重きが置かれている。さしずめ、弟子のライアン監督が師ルーカス監督を凌駕する本作を生み出したのは、飛躍的に進歩した撮影技術の力が大きいことの証しだとでもいうように。

ファンにとって新三部作の今後に不安はない。それどころか、スターウォーズサーガ自体が世代をこえて愛されることも本作で約束されたのではないか。新しく生まれ変わったスターウォーズサーガの今後に曇りはない。

かつて私が映画にはまった中学生の頃。旧三部作のノベライズ版も買いそろえ、エピソード7以降のストーリーが発売されているとのうわさを聞き、読みたさに心焦がれたことがある。あれから30年。本作でそれが叶った。こんな幸せなことはない。願わくは、私が死ぬ時までスターウォーズサーガの続きに耽溺させてもらえれば。

もはやその楽しみに預かれないレイア姫。本作のエンドクレジットにも以下の言葉が登場する。

in loving memory of our princess
Carry Fisher

いい演技だった。安らかに。

’2018/02/08 ムービル


DESTINY 鎌倉ものがたり


本作を観終わった私が劇場を出てすぐにしたこと。それは鎌倉市長谷二丁目3-9を検索したことだ。その住所とは作中で一色夫妻の住む家の住所だ。一色夫妻とは、堺雅人さん扮する一色正和と高畑充希さん扮する妻亜紀子のこと。作中、何度も映し出される一色家の門柱にこの住所が記されている。私はその番地を覚えておき、観終わったら実際にその番地があるのか検索しようと思っていたのだ。何が言いたいかというと、本作で登場する二人の家が実際に鎌倉にあるように思えたほど本作が鎌倉を描いていたという事だ。

その住所はおそらく実在しない。二丁目3-6と3-11は地図から地番が確認できるが、二丁目3-9の地番は地図からたどれないからだ。Googleストリートビューで確認すると、3ー9と思しき場所に建物は立っているのだが。ただ、ストリートビューでみる二丁目3-9の周囲の光景は、本作に登場する二丁目3-9とは明らかに違っている。それもそのはず。本作に出てくる鎌倉の街並みは、現代からみればノスタルジックの色に染まっているからだ。パンフレットに書いてあった内容によると、エグゼクティブプロデューサーの阿部氏からは1970-1980年代の鎌倉でイメージを作って欲しいと監督に依頼したようだ。つまり、その頃の鎌倉が本作の舞台となっている。

そのイメージ通り、冒頭で新婚旅行から帰ってきた二人の乗っているクラシックカーは江ノ電と海岸に挟まれた道を走り、江の島をバックにして有名な鎌倉高校前の踏切を折れ、山への道を進む。その光景の中には全く現代風の車は登場しない。走っている江ノ電の正面にある行き先表示は電光掲示板で、あれっ?と思ったが、どうもその車両は1000系のように思えた。調べてみると1000系の車両は1979年にデビューしたようだ。スクリーンで電光掲示を掲げた江ノ電を見た瞬間、本作の時代考証に疑問を抱きそうになったが、その車両ならギリギリ許されるのだろう。

本作はあちこちでVFXを駆使しているはず。ところが、公式サイトの解説によれば冒頭の車のシーンの撮影には苦労したようだ。それはつまりVFXに安易に頼らず、なるべく生のシーンを撮影しようという山崎監督の意識の高さの表われなのだろう。本作は山崎監督の抱く世界観が全編に一貫している。その世界観とは、原作の絵柄を生かしながら、懐かしいと思われるような鎌倉の街並みを再現しつつ、魑魅魍魎が登場してもおかしくない世界でなければならない。そんな難しい世界観の創造に本作は見事に成功している。監督が本作で作り上げた世界観が私にはしっくりとしみた。なお、私は原作は読んだことがないので、本作のイメージがどの程度作風を思わせる仕上がりなのかはわからない。でも、監督がその世界観の再現に相当苦労したであろうことは伺える。

何しろ、本作に登場する鎌倉は現実と幻想のはざまにある鎌倉なのだから。リアルすぎても不思議すぎても駄目。その辺りのさじ加減が絶妙なのが本作のキモなのだ。日本の古都には狐狸、妖鬽の類がふさわしい。京都などその代表といえる。鎌倉は京都と同じく幕府を擁した過去があり、寺社や大仏などあやかしのものを呼び寄せる磁力にも事欠かない。そのため、鎌倉にあやかしがうろついていても違和感がない。ただ、私は本作を観て、鎌倉とあやかしのイメージが親しいことに初めて気付かされた。今までまったくそのことに気づかなかったが、私にそのことに気づかせるほど本作の映像は絶妙だったのだ。

本作でみるべきは、鎌倉を装飾する監督のセンスだと思う。全編にわたって、鎌倉の何気ない路地や、緑地、砂浜が登場する。そこかしこにコマい魔物がうろちょろするのだ。そして現実も幻想もまとめて縫い付けるように走る江ノ電。本作には多くの伏線が敷かれている。その一つが一色正和の鉄道模型趣味なのだが、江ノ電が本作の映像の核になっていて、鉄ちゃんにもお勧めできること請け合いだ。

また、江ノ電が現世と黄泉を1日一度運行しているという設定もいい。海岸の砂浜にある現世駅はとても現実にあり得ない設定のはずなのに、江ノ電ならではの雰囲気をまとっていた。駅が好きな私でも許せるようなたたずまい。運行される車両はタンコロという鉄ちゃんには有名な車両。今も一両が由比ヶ浜で静態保存されている。そして、本作で現世駅が設置されている場所もたぶん由比ヶ浜にあるのだろう。砂浜に海岸と平行に軌道が延び、その先は黄泉へと通ずる渦がまいている。こういう江ノ電の使い方もとても興味深い。

本作は冒頭から一色夫妻の仲の睦まじさが全開だ。それはもちろん、終盤に正和が黄泉へと亜紀子を連れ戻しに行く展開の伏線になっている。伏線は他にもたくさんある。例えば夜店で亜紀子が正和に買ってとねだる鎌倉彫りの盆や、納戸の中で亜紀子が見つける像など、全てが黄泉の国でのクライマックスに向けて進んで行く。

黄泉の国に向けて走る江ノ電のシーンは本作でも印象に残る美しい映像が見どころだ。パンフレットによれば中国にまで赴いてイメージを作って来たそうだ。その甲斐があって、とても特徴的な黄泉の国のイメージに仕上がって居ると思う。死神によると黄泉の国のイメージは見た人が心に抱く黄泉の国のイメージが投影されるらしい。そうやって語り合う正和と死神の背後に映り込む黄泉とは、実は私自身が黄泉に対して抱くイメージなのだろうか。実は一緒に観た妻や娘にはスクリーン上の黄泉が違った風に映っているのだろうか、と思ったり。そう思わされる独創的な黄泉の国だったと思う。昭和30-40年代の家屋が斜面に積み重なったような黄泉のイメージとは、実にステキではないだろうか。

ただ、本作の美術や衣装、小道具をはじめとした世界観は良かったのだが、全体的な構成はアンバランスだったように思えた。もっと言えば前半部分が少し冗長だったかな、と。それは本作が原作のエピソードを複数組み合わせたことによるもので、仕方なかったかもしれない。例えば、一色正和が事件を推理し解決するエピソード。このエピソードが貧乏神への伏線となり、亜紀子の遺体探しのエピソードにしか掛かっておらず、本編全体にかからないなど。

それもあってか、本作の豪華な俳優陣の演技に統一感が感じられなかったのは残念だ。確かに一色夫妻を演じる二人はとてもよかった。でも、どことなく全編につぎはぎのようなぎこちなさが感じられたのだ。でも、それはささいなこと。娘たちはとても本作を気に入ってくれた様子。今までに観た日本映画で二番目に好きといっていたくらいなので。妻も私も本作はよかったと思う。

ここまで鎌倉を妖しく魅力的に描いてくれたからには、行きたくもなるというもの。その際はぜひとも事前に原作をしっかり読んでから散策したいと思う。

’2018/01/03 TOHOシネマ日劇


ブレードランナー 2049


不協和。

本作を一言で表すとするならば、この言葉がふさわしいのではないか。

本作を通して一貫しているのは不協和だ。それは背後で流れているスコアからしてそう。不協和音が全編にわたって流れ続け、観客は嫌が応にも本作のテーマが不協和であることを意識させられる。生物と技術。記憶と体験。人類と未来。自我と記憶。人類とレプリカント。誕生と成長。外界と内界。感情と論理。本作で取り上げられた対比のすべてが不協和に満ちているのだから。

本作の舞台は前作から30年後の2049年に設定されている。あらゆる過去のデータは2022年に起こった大停電によって損傷し、過去と現在の間に不協和が横たわった未来。だが前作と本作の間に断絶はない。特に、日本語が氾濫しオリエンタリズムに満ちた猥雑な未来観。前作で描かれた衝撃的なビジュアルは本作にも生かされている。強力わかもとは見つけられなかったけど、2049年のロサンゼルスには日本語や英語以外にハングルやキリル文字も氾濫し、より言語的に不協和だ。ロサンゼルス市警の掲示には日本語が書かれ、主人公がアクセスするDNAデータベースは日本語の音声でエラーメッセージを発する。

前作を踏襲し、より猥雑で救いようのない不協和がスクリーンを覆う本作の世界観は、前作で受けた新鮮さこそ喪われているものの、シンギュラリティを視野に入れつつ今を生きるわれわれに一層切実に迫ってくる。むしろ1982年に受けた衝撃よりも、今のわれわれのほうがブレードランナーの未来観をよりリアルに受け止められるのではないか。その意味でも、前作を踏襲し、よりリアルで頽廃な未来観として前作を凌駕していることは評価したい。

前作でレプリカントを製造していたタイレル社は倒産し、今はウォレス社が覇権を握っている。遺伝子組み換え作物を開発し、世界の食糧危機を救ったことでメガ企業となったウォレス社。農作物だけでなく新型レプリカントNexus9の製造まで一手に引き受けるまでの企業になっている。本作であえて悪を探すとすればこのウォレス社だ。だが、悪?本当にそうだろうか。もはや子供向けのアニメですら、わかりやすい善悪二元が出てこない今、ウォレス社を悪と名指しできる根拠はどこにあるのだろうか。多分、見つけられないはず。ウォレス社を悪と言い切る根拠はない。たとえば、今のわれわれがGoogleを悪と名指せようか?マイクロソフトを、アップルを、モンサントを、Facebookを? ウォレス社もまた同じなのだ。ウォレス社はただ、企業の「さが」である自己成長にまい進しているだけにすぎない。なおかつ、レプリカント増産や遺伝子組み換え作物で人類の未来に貢献する大義名分まで掲げている以上、何を非難されるいわれがあろうか。つまり、使い古された世界征服願望の視点ではウォレス社は語れないのだ。ウォレス社とは上に挙げた企業のように、ITで世を便利にし、農薬で農作物の増産に貢献する大企業と何も変わらないのだ。ITにも農薬にもデメリットはある。だが、それらの企業活動が大多数のニーズに合っていることも間違いない。メリットだってあるのだ。そうである以上、ウォレス社をどうして悪と名指しできようか。善と悪が水と油のようにきれいに分かれた状態は不協和とはいわない。価値観がまじりあい、絶え間ないノイズとなっている状態こそが不協和と呼べるのだから。

ただ、不協和に覆いつくされた2049年の世界で、ウォレス社内のデザインだけが異彩を放っているのは確かだ。猥雑なオリエンタリズムや広大な廃棄場のイメージとは対極の、不協和を一切排除した洗練されたデザイン。その対称の鮮やかさはとても印象に残る。水面の揺らめきが壁と天井に反射するウォレス社長の応接室、幾何学に整列したデータベースアーカイブのデザイン。全てが洗練され、機能美にあふれている。特にウォレス社長の応接室のセットは、水面の揺らめきのイメージとともに、本作が残す余韻として永きに渡って映画史に残る気がする。ところがそこにも不協和が隠れているのだ。水面の揺らめきは、異なる波長の集合体だ。一見するとやさしくゆらめくそれらは、一つ一つが違う波長が集まっている。つまり不協和。幾何学的な美しさが主流だった従来のSFデザインに猥雑さを持ち込み一石を投じたのが前作だったとすれば、本作が持ち込んだ洗練された不協和のデザインこそは、昇華された次代のデザイン思考だともいえる。洗練された不協和こそが、整列し整頓された機能美になり替わって未来のレイアウトの主流であること。それを本作はさりげなく提唱しているようだ。その証拠に、整えられた機能美のイメージは、本作にはほとんど登場しない。冒頭の太陽光発電施設が描く円の模様は砂塵にかすみ、ウォレス社の擁するデータベースアーカイブは、立ち入るものがほぼおらず、入り口が故障している。そんな些細なエピソードすらも、幾何学のデザインの終焉を語っている。本作が主張する未来が不協和に満ちている事を示して。

本作の主なプロットは、ウォレス社がレプリカントの生殖を目指すため、レプリカントが産んだ奇跡の子を手に入れるために謀略をめぐらせるというものだ。ウォレス社とはレプリカントを大量に生産する会社のはず。では、レプリカントは自動車やロボットと同じく量産すればいいのではないか。ところがウォレスの構想は、レプリカントに生殖機能を求める。レプリカントが生殖することでさらにレプリカントは増殖し、人類にも貢献できるのだ、と理想を掲げる。本作でウォレスは語る。人類の発展の陰には、安価で大量に使える労働力があったことを。それがレプリカントだとすれば、彼の主張はもはや奴隷制への回帰に過ぎない。ここで観客は、レプリカントと人間の違いが何かとの問題を突きつけられることになる。

大量生産とは規格だ。つまり幾何学の公式で説明のつく概念だ。でも、ウォレスの執務室のデザインは、幾何学の機能美ではなく、柔らかな不協和で包まれている。ウォレス社のデザインが幾何学から柔らかな不協和に変化していること。ここからは、大量に作られたレプリカントから、生物の本質であり混沌である生殖へと立ち返ろうとする意思を象徴している。それは矛盾にも通じる。われわれが感じる根本的な違和感も同じ。そもそもレプリカントが生殖能力まで手に入れたとすれば、レプリカントと人間の境目はどこにあるのだろうか。その疑問は不協和へとつながり、われわれを一層混迷に陥れる。

いったい、われわれはどこに向かおうとしているのか。本作が突きつけるテーマは深刻だ。技術革新の恩恵に乗り、繁栄を謳歌してきた我らが人間族。技術は果たして人類を幸せにしてきたのだろうか。そして、今後も繁栄を約束してくれるのだろうか。 技術革新の旗手として、率先して技術革新に邁進してきたアメリカ自身があまりにも速い革新のスピードに恐れを抱いていないだろうか。

デッカードが潜む、廃虚と化したラスベガス。アメリカの繁栄の象徴ともいえる場所。ホログラムで歌うエルビス・プレスリーに、マリリン・モンロー。そしてフランク・シナトラ。その中で殴り合うデッカードとK。新旧の価値観が殴り合いとしてスクリーンで表現される。プレスリーの歌う「Can’t Help Falling In Love」を好きだというデッカード。アメリカが本当に幸せだったのはこの頃だったのではないか、との苦い問いかけが含まれたセリフだ。廃虚のラスベガスで飲み手を待ち続ける何百万本ものジョニー・ウォーカー。生身のデッカードの飼い犬。リアルをリアルで認識すれば事足りた世界の名残がここにある。

いまや、その世界は、記憶を創造できるアナ・ステライン博士の脳内にしかない。アナ・ステライン研究所で博士が現出させる緑の繁る林と、木漏れ陽の光。誕生パーティーでお祝いする子どもたち。降り落ちる雪の美しさ。もはやリアルではなくデータによる再現でしか体験できない過去の美しさ。アナ・ステライン博士も、本作のキーとなる人物。そして過去の豊饒な地球が博士にしか再現できない。そんな設定も何かを示唆しているようだ。

本作にはあまりにも多くの啓示が含まれている。あまりにも多くの警句と、あまりにも多くの哲学が。本作には何度も繰り返し見るだけの価値があると思う。ビジュアル的にもそう。現時点で最新の技術が惜しげもなく投入される。その技術のすばらしさはジョイが体現している。ジョイとは、本作の主人公のKのバーチャルガールフレンド。可動式のプロジェクタで投影されるだけだったが、ウォレス社のコンソールから最新版にバージョンアップすることで、実態をともなって外で持ち運べるようになる存在。あるときは街娼のマリエッティと同期して、Kとベッドをともにする。その同期のシーンがとてもリアルなのだ。

ただ、そのシーンにはCGも多用しているはずだが、実在の俳優の演技がベースになっている。俳優の演技があってこその本作であることを忘れてはならない。例えばジョイを演ずるアナ・デ・アルマスの可憐さは、特筆すべきだ。キリストめいた風貌のウォレスを演じたジャレッド・レトも本作に欠かせない存在感を放っていた。ウォレスに忠誠を誓うレプリカントのラヴを演じたシルヴィア・フークスの強靭かつ冷徹な演技も、その見事なファイティングシーンとともに記憶に残る。また、アナ・ステライン博士に扮したカーラ・ジュリの無垢な容姿は、本作にあって唯一のみずみずしいシーンにとてもマッチしていた。さらに、前作から続けてのハリソン・フォードは、本作の重要なテーマである過去への回顧を表現するに欠かせない。その重厚感と存在感はさすがというほかない。そして最後に主人公Kを演ずるライアン・ゴズリングである。レプリカントにふさわしい無表情を装いつつ、わずかな顔の動きだけでKの内面を表わす演技。抑制の中にレプリカントの悲哀と生存への意志を込めた演技は、素晴らしいと思った。抑制されたからこそ、とあるシーンでKが感情を爆発させるシーンに効果が現れるのだ。

本作がまだ生身の俳優によって演じられていること。それが救いだ。すでに本作でもCGが演じているに等しいシーンは多々ある。例えばジョイのシーンとか。それが今後は遠からず、CGの登場人物、AIの俳優、AIの撮影監督にAIの製作総指揮という日だって来ないとも限らない。その時、人間は彼らの作った娯楽に飼いならされるのだろうか。ここ最近、原爆開発についての本や、人工知能が人類を滅ぼす危険を唱える本など、かなり悲観的な本を読むことが多い。それらの本を読んでいると、上にも書いたような技術の進展が人間を追い越すシンギュラリティについて悲観的な予想しか湧いてこない。その日にわれわれは何を思うのか。本作のような未来は果たして防げるのか。2049年とは、シンギュラリティが起こるとされる4年後だ。私はその時、何をしているのだろう。

’2017/11/24 イオンシネマ新百合ヶ丘


バリー・シール アメリカをはめた男


本作はトム・クルーズが好きな次女が観たいというので来た。でも実は私も観たかったのだ。なんといっても、本作に描かれているのはとても興味深い人物なのだから。何が興味深いって、本作でモデルとなったバリー・シールという人物を私が全く知らなかったことだ。

TWAのパイロットから、CIAの作ったペーパーカンパニーに転籍し、中南米諸国の偵察任務に従事。さらには麻薬組織の密輸にまで手を染め、莫大な富を得る。その破格の儲けを米国の諸機関に目をつけられ、逮捕。ところが米国の中南米政策の思惑から無罪放免となり、麻薬組織とダブルスパイを演ずる羽目になり、最後は麻薬組織から暗殺される。

これが全て実話だというからたいしたものだ。マネーロンダリングが間に合わず、厩舎や地面に金を埋めるあたりなど、思わず疑いたくなるが、どうやら実話らしい。

本作を魅力的にしているのは、現ナマの醸し出すリアルさだ。銀行送金によらず、札束が持つリアルな感触。資金の移動がすなわちデータの書き換えに堕した現在、味わえない金の生々しさ。瞬時にCPUがトランザクション処理で右から左にデータを移す今では、富の実感も薄れるばかり。本書のように札束があちこちに散らばり、置き場所に困るような事態はもはや神話の世界の話だ。

また、70年代末から80年代前半の、今から見ればローテクなインフラを駆使し、膨大な作業を取り仕切るバリー・シールの動きも見どころだ。複数の公衆電話を使って連絡を並行して行うシーンなど、スマホがこれだけ普及した今では、かえって新鮮に思える。スマートなデータが幅を効かせる今だからこそ、バリー・シールの行動に憧れを抱くのかもしれない。IT世代のわれわれは。

そしてもう一ついい点。それはバリー・シールが家族思いなところだ。吠えるほど捨てるほど金があっても、彼はただ家族と共にいることを望む。浮気もせず、ただ日々の仕事に邁進する。仕事で操縦し旅することで自分の欲求を満たし、スリルと報酬を得る。とても理想的ではないか。趣味と仕事が一致していれば、浮気にも走らない。そもそも浮気する必然すらない。日々が充実しているのだから。そんなところも社会に飼いならされた大人にとって魅力的に映るのだろう。

本書は映像も見応えがある。作中、カーター大統領やレーガン大統領が演説する実映像が幾度か挿入される。それがまた、当時の色あせた映像になっている。そればかりか、バリー・シールを映した映像すら、当時のフィルムを使ったのかは分からないが、いい感じに色あせている。それがまた、ITに頼らぬ時代のヒーロー感を演出しているのだ。

また、パンフレットによると、本作の飛行シーンには一切CGを使っていないとか。それどころかスタントさえ使わず、トム・クルーズ自身が操縦し、危険な飛行に臨んでいるという。まさに役者魂の塊である。

本書全体から感じられるのは、時代の断絶だ。人が情報技術に頼るまえ、人はなんと粗野でワイルドで、魅力的だったことか。コンピューターがオフィスの外に飛びだし、人々の生活に入り込んだことで、何かが失われしまったのだ。得るものも大きかっただけに、喪ったものも同じ。それを象徴しているのが、本作のあちこちにはびこる札束なのだろう。札束を見ずに生活できるようになった今、その分、雑然としたエネルギーが街中から消え失せ、人々は小さくスマートにまとまりつつある。

でバリー・シールをヒーローと書いた。だが、本来なら彼はアメリカにとってただのヒールでしかない。でも、薄れゆくエネルギッシュな日々を現代のスクリーンに体現した彼は、やはりまぎれもないヒーローなのだ。トム・クルーズが本作で演じているのは悪役ではない。彼にはやはり、ヒーローが似合う。私はそう思った。

‘2017/11/12 109シネマズ港北


関ケ原


私は、戦国武将の中でも石田三成に自分と近いものを感じている。

今までに関ヶ原は三回訪れた。三回とも笹尾山の石田三成本陣には訪れたが、桃配山には一度も行っていない。桃配山とは徳川家康が最初に本陣とした山だ。また、最後に関ケ原を訪れた際は、妻と二人で石田三成の生誕地を巡ってから戦場に向かった。私は明らかに石田三成に愛着を感じているようだ。

本作は、石田三成を主人公とした関ケ原合戦の物語だ。原作となった司馬遼太郎作の「関ヶ原」でも主人公は石田三成として書かれていたらしい。らしいと書いたのは、原作を読んだかどうか覚えていないからだ。石田三成がどう書かれていたかも記憶が曖昧。だからこそ本作は観たいと思った。

本作は、合戦シーンの派手さだけを魅せて終わる映画ではない。戦国時代を継ぐ時代をどう作ろうとしたのかを描く映画だ。なので、関ヶ原の合戦に至るまでの経緯を丁寧に描いているのが特徴だ。

関ヶ原の合戦とは戦国時代の幾たびも行われた合戦の中でも最大にして、日本の覇権の行く末を決めた最重要の合戦。これに異をとなえる史家はまずいないと思う。大坂の陣も、山崎の合戦も、関ヶ原の合戦に比べれば少し粒が小さい。前者は政権磐石となった徳川家による戦国時代の後始末的な戦いだし、後者は織田家の後継者争いの意味合いが強いからだ。関ヶ原の合戦とは、豊臣家が政権を担うのか、それとも徳川家がとって替わるのか、その後の260年間の帰趨が定まった戦いでもある。260年の未来の重みがあったからこそ、関ヶ原の合戦は重要だったのだ。それが解っていたからこそ、戦う前から武将たちは駆け引きに骨身を削ったのだと思う。

すでに衆目の見るところ、太閤秀吉亡き後、天下を担うのは内府(徳川家康)であるのは明らか。では何をもって石田三成は豊臣家の天下を守ろうとしたのか。それは「義」だ。本作で鍵となるのは、石田三成が島左近を召しかかえるシーンだ。ここで、石田三成は「義」が太閤晩年の豊臣政権から失われてしまっていることを率直に吐露する。武将たちが太閤秀吉に臣従しているのは利益のためのみ。利益だけで維持される政権に義はないといい切る三成。三成は義をもって天下は運営されるべきという。三成の旗印、大一大万大吉に込められた意味だ。「一人が万民のために尽くし、天下が泰平になればみんなが心豊かに暮らせる」

怜悧冷徹な官僚的人物。それが今までの石田三成評だった。本作はそのイメージを覆しにかかる。ただ権威に盲従するのではなく、権威に威を借るのでもない。今の太閤殿下に義はないといい切る三成に旧来のイメージはない。むしろ、豊臣政権の末期は三成にとって忌避すべき政権であり、徳川家康こそが豊臣の利得政権の後継者なのだ。それがゆえに、政権をとらせてはならない。秀吉が天下を取った当時の理念に立ち返らせることに自らの信念を掛ける三成。そこには従来の豊臣政権の後継者としての石田三成の悪評はない。三成と家康が考える豊臣政権は、正義と不義が鮮やかに反転しているのだ。三成にあるのは自分が豊臣政権を担い正道に戻すのだ、という強烈な自負だ。

だからこそ、たかだか19万石の石高しか持たない石田三成に、日和見軍がいたとはいえ、あれだけの人数が馳せ参じたのだろう。

三成が義を語るシーンは他にもいくつか出てくる。例えば初芽に対し、天下が自分の理念に沿って運営されるのを確かめたら諸国を巡りたい、一緒に来てくれないか、というシーン。ここで描かれる三成は覇権や自己保身に汲々としない人物だ。初芽にも観客にも岡田三成が最も魅力的に映るシーンとして、ここを上げてもいいほどに。

また開戦前夜、松尾山の小早川秀秋の元に行き、明日の参戦をかき口説くシーンもそう。ここでも義は持ち出される。小早川秀秋が当初から徳川家康に内通を約していたのであれば、あそこまで迷わなかったはず。本作でも秀秋が三成に悪感情を持ってしかるべき伏線はたくさん引かれている。秀次の側室駒姫の処刑を監督する三成と彼らを不承不承連行する役目を仰せつかった秀秋は、いかな感情を三成に抱いたか。また、朝鮮の役での秀秋の戦いぶりを三成が罵倒するシーンも同じく重要だ。それだけの伏線があってもなお、秀秋に東軍への寝返りを迷わせたものは何か。

周到に関ヶ原の合戦前夜までを描くことで、本作は6時間で大勢が決したとされる関ヶ原の合戦に重層的な重みを与えている。南宮山にこもったきり出てこなかった毛利軍や、大勢が決した後に敵中突破して薩摩に逃げ帰るまで動こうとしなかった島津軍もきっちり書いている。また、前哨戦となった大垣城や杭瀬川の一戦と前夜の駆け引きまでもが、 カット割りと編集によって 疑心暗鬼と駆け引きが深められているところも本作の見どころだ。また、小早川秀秋の寝返りの瞬間に新たな解釈を与えているのも興味深い。

合戦シーンもリアルに感じた。泥臭く、派手さのない戦さ。突いて、組み付いて、叩く。剣が首を跳ね飛ばすシーンなど一、二回しかでてこない。実際の戦闘はそんなものだったのだろう。後の剣豪宮本武蔵が関ケ原の戦いに参戦していたとも伝わっているが、鮮やかな剣術で斬りまくったという話は聞かない。それも本作を観れば納得できる。また、戦陣の描写もリアル。東西がきれいに二分され対峙した分かりやすさはない。整然とした戦場で、戦況の全てを見極めた軍師の采配が鮮やかに全軍を動かすといったこともない。あちこちで旗印を掲げた集団が槍の穂を組み押し合っている。前後に集団が向かい合い、上下に騎馬武者が行き来し、そこここで鬨の声がこだまする。広大な戦場でそれぞれの軍団同士が組み合って、それぞれの持ち場でしのぎを削る。それが戦場の実情なのかもしれない。本書の三次元、いや、時間も含めると四次元に描かれた戦場は混沌としており、それがとてもよい。実際に関ヶ原を訪れつ私にも、在りし日の戦場が思い起こせるようだ。そしてそのすべてを見ているのは村の地蔵。三成によって転がっていた地蔵が元の祠に安置され、それが戦場に迷い込んだ初芽たちと雑兵によって荒らされ、さらにそれを戦後の実検で訪れた家康によって安置しなおされる演出も良かった。

本作を観ると、石田三成には武運拙くという言葉が似合う。実際、あと一息だったのだと思う。秀忠軍三万五千の軍勢が上田城で足止めされたという幸運もあって、戦況は東西どちらに転んでもおかしくなかった。家康の老獪な根回しが毛利軍を南宮山から動かさず、ギリギリで小早川秀秋の寝返りを生んだからこその敗戦。

戦いの前段から処刑場へ運ばれるまでの日々を石田三成は生きる。自らが信ずる大義を見据えて。その眼差しは、本作で石田三成を演じた岡田准一さんがしっかりと再現してくれている。なんといえば良いか、岡田さんは目で三成を演じている。まるで目前に本物の秀吉が床几に肘をついているかのように。家康と丁々発止の、そして無言の対面を果たすかのように。島左近が戦場で疾駆する様子を見るかのように。岡田さんの三成は、本物の石田三成がこうだったと思わせる迫真性がある。今までも色んなドラマでさまざまな役者さんによって三成は演じられて来た。その中でも岡田三成がもっとも血が通っていたように思う。それはもちろん、役者さんだけの力ではない。監督による三成解釈が官吏三成を前面に押し出さず、血の通った理想主義者として描いていたからだろう。でも、その期待に応えて演じきった岡田さんの演技がすごい。毎回唸らされる。

さらに、家康を演じた役所さんも見事というほかはない。家康もあまたの役者によって演じられてきたが、役所家康も屈指の家康像だったと思う。さりげなく爪を噛む癖や老獪さを醸し出すあたり、家康が現世に現れたらあのような、と思わせた。まるで現し身のよう。

また、他の役者さんもお見事。出番は少なかったが、滝藤さん扮する秀吉の老残の感じや哀れさが流ちょうな名古屋弁によってとても現れていたし、キムラ緑子さんによって演じられた北政所は、一説に関ケ原の戦いの黒幕ともいわれる北政所のしたたかさがよく出ていたと思う。また平さん演ずる島左近が、また歴戦の勇者のつわものぶりを全身にまとっていてとても印象に残った。また、石田三成といえば大谷刑部吉継との友情は外せないが、大場さんによって演じられた大谷吉継の達観した感じが、本作に一層の深みを与えていたように思う。他の役者さんも含めて、役者さんたちの演技に不満はない。スタッフと役者のすべてががっちり組み合い、これほどまでの大作を作り上げたことに感謝したい。

パンフレットによれば、監督の構想は二転三転したという。主役は島左近から小早川秀秋、さらに島津義弘と替わり、最後に石田三成に落ち着いたようだ。その年月たるや構想25年。原作をおそらくは何度も読み込み、あらゆる視点で物語を読み直したのだろう。それが本作の重層的で多面的な描写につながっているはず。まさに監督の想いが詰まった渾身の作品を観たという喜びが全身にわいてくる。すばらしい一作だったと思う。

あえていえば、史実に忠実であろうとするあまり、ケレン味に欠けるところが欠点だろうか。人によってはもっと娯楽に徹して欲しかったという意見もあるかもしれない。もっとも私には欠点ではなく、そのケレン味のなさが良かったのだが。おかげで四回目の関ケ原巡りがしたくなった。次は南宮山や桃配山も登り、三成の逃亡ルートや島津の逃亡ルートも歩いてみたい。

2017/9/1 イオンシネマ新百合ヶ丘


モアナと伝説の海


本作を観てから2日が経ったが、本作の映像の美しさはまだ記憶に鮮烈だ。本作で描き出された海や空。これが実写の映像を合成したのか、それとも最初からCGで作ったのか。私には判断がつけられそうにない。それほどまでに本作の空と海の描写は美しい。海の中の映像はCGの魚やサンゴが動き回り、あまり驚きはない。だが、船が大海原を進むシーンや空に雲がたなびくシーンなどは実写と区別がつかない。もしこれらの映像がCGだとすれば感嘆するほかはない。ここ数年のCG技術の進化には驚かされることしきりだが、本作の映像でそれは極まったといえる。

このような美しい映像は、自然を描いてこそ真価を発揮するはずだ。そしてポリネシアの豊かな自然の恵みは本作の中に確かに息づいている。ポリネシアの文化や伝説、神話は、自然の恵みへの感謝とともに受け継がれてきた。ポリネシア文化のあり方を描く本作が自然の美しさを忠実に再現していることは、本作が伝えたい精神を伝える上でとても大事なことだ。自然の恵みを享受するポリネシア文化が、対極となる人工物の極致であるCG技術によって再現されたことは、これからの情報技術のあり方の一つとして興味深い。

我が家の家族は私を除いて皆、フラを習った経験がある。そのため、他の家族に比べればポリネシア文化は多少は理解していると思う。本作は家族で観に行ったのだが、人よりも多く理解できたのではないか。もっとも、妻によれば本作でモアナの祖母タラが踊るフラの振り付けはあまり深い意味がないらしい。波を表しただけで。本来はフラの振りの一つ一つに意味があり、一つの踊りで物語を語るそうだ。本作はハワイを描いていないので、ハワイ生まれのフラと本作で祖母タラが舞う踊りには違うのかもしれない。だが、ポリネシア文化を描くのであれば、もう少し踊りを深掘りして意味を表現しても良かった気がする。そうすればより本作に深みが増したかもしれない。

私もハワイには二回ほど行ったことがある。二回目にハワイを訪れた際はビショップ・ミュージアムでポリネシア文化について学んだ。そこで学んだ知識によると、ハワイへ最初にやって来た人々は、はるばるタヒチやフィジーから舟で渡って来たそうだ。島で暮らす人々の中には、未知の大海原へ乗り出す船乗りの冒険心が眠っている。それは、地球上に散らばっている人類の中でも、ポリネシアの人々が最も色濃く残す気質ではないか。

本作の主人公モアナは、ポリネシアの人々の強さである冒険心に充ちている。海に選ばれた彼女は海に惹かれるあまり、珊瑚礁の外に出たくて仕方がない。そんな彼女の父トゥイは、島長の立場で島を守ることを一番に考える。そのため、モアナの冒険心を固く戒める。トゥイもまた、若いころは冒険心の旺盛な若者だった。だが、外洋への航海に乗り出そうとして友人を亡くしている。失敗が、トゥイの心を頑なに守りに入らせてしまったのだ。とはいえ守りに入った者は、守るべきものがなくなると弱い。彼らの島モトゥヌイから自然の恵みが経たれ、村は危機に陥る。にもかかわらずトゥイの考え付く策は、その場しのぎの改良でしかない。一方でモアナの冒険心は事態をより根本的に変えようとする。おそらくポリネシアの人々も、そうやって世代間で意見を戦わせながら代々島伝いに繁殖していったのだろう。モアナとトゥイの親子の相克は、ポリネシアの人々の伝統そのものを表しているように思う。

だが、航海はそんなに簡単なものではない。おそらくは島へ行き着けず遭難した人々も沢山いたことだろう。そして、運よく成功した船団は、強力なリーダーシップや神の奇跡によって、たどり着けたことに感謝したに違いない。モアナの相棒として航海を共にするマウイは、そんなリーダーシップの権化であり神と目される人。神から与えられた釣り針があれば、マウイが力を発揮する設定がまさにその象徴だ。長い航海の中、飢えに苦しむこともあっただろう、サメに襲われることもあっただろう。そのたび、釣り針をたくみに操ったリーダーが人々を飢えから救い、勇気と力でサメを撃退したリーダーは神格化されてゆく。モアナにとってのマウイがそうであったように。

本作は、溶岩で荒れ狂うテ・カァが心を取り戻して緑豊かなテ・フィティへと落ち着く。それはまさしく島誕生の神話に他ならない。テ・カァは確かに人間にとって恐ろしい存在だ。だが、火山活動で流れた溶岩は大地を作り出し、木や草の芽吹く土へと替わって行く。テ・カァとテ・フィティを表裏同じものとして描いたところが、ポリネシアの神話に即していて興味深い。

本書から示唆されるものは多い。おそらく、製作者も盛り込もうと思えば、今の人類への教訓めいたメッセージをいくらでも盛り込めたことだろう。例えば冒険心の欠如や、地球温暖化、環境汚染など。でも本作は、ポリネシアの文化と自然と神話を描くことに徹している。逆に、ニワトリのヘイヘイや、プアといった動物、ココナッツ姿の海賊カカモラや、マウイの釣り針を持っている巨大ヤシガニのタマトアは本作を子供に親しみやすくしている。中途半端な教訓よりも、まずは自然の恵みに従って過ごす態度や冒険心。それを伝えるのが本作の役割だと思う。

’2017/04/09 イオンシネマみなとみらい


SING シング


吹き替え版を映画館で観ることは滅多にないけれど、本作は家族の意向もあって吹き替え版で観た。それもあってか、劇場内は小さい子供達で沢山。予告編を観た感じでは子供向けの内容だろうなと思っていたけれど、私の予想以上に子供が多かった。

潰れかけた劇場を歌で救う、という内容はそれだけだとありきたりに思える。でも、本作はステージで歌を唄う登場人物たちに細かくキャラ設定されている。それも子供を飽きさせないよう手早く。また、筋書きも登場人物たちの抱える事情をうまく演出に組み合わせ、奥行きのあるストーリー展開を展開している。その辺りの演出上の配慮には好印象を抱いた。

潰れかけた劇場のオーナー、コアラのバスター・ムーン。極度のあがり症だが音楽が歌うのも聞くのも大好きな、ゾウの少女ミーナ。彼氏と組んでパンクロックを演っている、ヤマアラシのアッシュ。父が頭目の盗賊団に行きたがらず音楽の道を目指す、ゴリラのジョニー。陽気な性格でステージデビューを遂げる、ブタのグンター。25人の子育てに奮闘しながら、自分の可能性を追いたい、ブタのロジータ。音大を出たプライドを持ちながらストリートミュージシャンで生計を立てる、ネズミのマイク。彼らは種族も境遇もそれぞれに違う。それぞれが自分の生活に苦労しながら、共通するのは音楽が好きなこと、そして音楽で自分を表現すること。

多分それは、本作で声優に起用された俳優や歌手にとっても同じに違いない。本家も吹き替え版も関係なく。今回は吹き替え版を鑑賞したわけだが、皆さんとてもお歌が上手い。音楽の好きで心の底から楽しんでいる感じがとてもよかった。特にミーナを演じたMISIAはさすがに上手かった。皆、音楽が好きで演じるのが好きで本作に起用されたことが良く分かる。

SINGというタイトル通り、本作には歌があふれている。英語圏の映画だけに、洋楽が好きな人にはおなじみの曲が何曲も登場する。1960年代のGimme Some Lovin’や My Way、そしてVenus。1980年代のWake Me Up Before You Go GoやUnder Pressure。90年代、00年代、10年代もレディー・ガガやテイラー・スイフトとか、曲名が出てこないけど知ってる曲ばかり。欧米の世代を超えて通じる曲の多さには嬉しく、そして羨ましくも感じる。

我が国には本作で取り上げられたような、世代を超えて歌われるような曲はどれぐらいあるのだろう。本作を観ていてそう思った。例え落ちぶれて身ぐるみ剥がされるまでになっても、喉が元気なうちは歌がある。そして、落ち込んだ時に唄える歌が口ずさめることは、どれだけ気が楽になるか。日ごろから忙しい生活を過ごしていると、分かっていてもなかなかそれに気づかないものだ。音楽の力とは言い古されているかもしれないが、確かにある。そしてカラオケボックスの中よりも、不特定多数の人々の前で歌い上げるという経験によると思う。人前で声を上げて自分を主張することは、人生を変える力を確かに持っている。本作は、そんな音楽の力に気づかせてくれる。

そんな余韻を味わいながら映画館を出て、家族で向かったのはパルテノン多摩。Brass Festa多摩 2017を鑑賞した。吹奏楽の祭典。ホールに音楽が響きわたる。演目の中には時代劇の有名テーマ曲があり、日本に伝わる唱歌の吹奏楽アレンジがあり。これがかなり胸に響いた。我が国にもこういった歌があるのだ。そのことにあらためて気づかされた。そしてアンコールでは観客も交えて「ふるさと」を唱和した。これがよかった。ただ聞くだけでなく、自ら歌うことの効能といったら!

本作の登場人物たちも、唄うことで、自分を表現することで自分の人生を変えようと努力している。多分それは、本作をみた観客にとっても言えることだと思う。人生はSINGすることで、良い方向に持っていけるはず!

’2017/03/20 イオンシネマ多摩センター


海賊とよばれた男


原作を読んだ時には泣かなかったのに、スクリーンの本作に泣かされた。

観る前の私の耳にちらほら漏れ聞こえてきた本作の評は、原作に比べてだいぶ端折られている、とか。果たして原作の良さがどこまで再現されているのか、不安を感じながら本作を観た。

そして、冒頭に書いたとおり泣かされた。

たしかに本作では原作から様々な場面がカットされ編集されている。その中にはよくもまあこのシーンをカットしたな、というところがなくもない。だが、私はよくぞここまで編集して素晴らしい作品に仕上げた、と好意的に思っている。

本作のパンフレットはかなり気合の入った作りで、是非読んでほしいと思うのだが、その中で原作者が2ページにわたってインタビューに答えている。もちろん原作や本作についても語っている。それによると、原作者からの評価も上々のようだ。つまり原作者からも本作の演出はありというお墨付きをもらったのだろう。

原作の「海賊とよばれた男」は、数ヶ月前に読み終えた。レビューについてもまだアップしていないだけで、すでに書き終えている。そちらに原作の筋書きや、國岡鐵造の人となりや思想については書いている。なのでこのレビューでは本作の筋書きそのものについては触れない。このレビューでは、本作と原作の違いについて綴ってみようと思う。

まず一つ目。

原作は上下二巻に分かれている。上巻では、最初の半分で戦後の混乱期を書き、残りで創業から戦前までの國岡商店の基盤づくりの時期を描く。下巻では戦後のGHQや石統との闘いを経て日章丸のイラン行き、そしてさまざまな國岡商店の移り変わりと鐵造の老境に至るまでの経緯が書かれている。つまり、過去の流れを挟んでいるが、全体としては時間の流れに沿ったものだ。

一方の本作は、戦後の國岡鐵造の時間軸で動く。その中で鐵造の追想が合間に挟まれ、そこで過去を振り返る構成になっている。この構成を小説で表現しようとすると、著者はとても神経を使い、読者もまた時間軸の変化をとらえながら読まねばならない。しかし文章と違って映像では國岡鐵造の容姿の違いを一目で観客に伝えることが可能だ。スクリーン上の時代が追想なのかそうでないか、観客はすぐ判断できる。つまり本作の構成は映像ならではの利点を生かしている。それによって、観客には本作の流れがとても理解しやすくなるのだ。

続いて二つ目。

本作では大胆なまでに様々なシーンを原作から削っている。例えば國岡鐵造が國岡商店を創業するまでの過程。ここもバッサリ削られている。國岡商店の創業にあたっては、大学の恩師(史実では内池廉吉博士)から示唆された商売人としての道(生産者より消費者への配給理念)が重要になるはずだ。しかしこのあらましは本作では省かれている。また、鐵造が石油に興味を持った経緯も全てカットされている。そういった思想的な背景は、本作のあるシーンでクローズアップされる「士魂商才」の語が書かれた額と、全編を通して岡田准一さんが演ずる國岡鐵造その人の言動から受け止めなくてはならない。この選択は、監督にとって演出上、勇気がいったと思う。

さらに大幅に削られているのが、日章丸事件の前段となるアバダン危機についての情報だ。本作では日承丸という船名になっているが、なぜ日承丸がイランまで行かねばならなかったか。この前提となる情報は本作ではほんのわずかなセリフとアバダンの人々の歓迎シーンだけで表されている。つまり、本作を鑑賞するにあたってセリフを聞き逃すと、背景が理解できない。これも監督の決断でカットされたのだろう。

また、原作下巻の半分を締める「第四章 玄冬」にあたる部分もほとんど削られている。日承丸が帰って来た後、画面にはその後の経緯がテロップとして表示される。テロップに続いてスクリーンに登場する鐵造は車椅子に乗った引退後の姿だ。日田重太郎との別れのシーンや油槽所建設、第一宗像丸遭難など、原作の山場と言えるシーンがかなり削られている。このあたりの監督の決断には目を瞠らされた。本作で木田として登場する日田重太郎との別れは、原作ではグッとくるシーンだ。しかし本作での木田は、戦後すぐの國岡商店の苦闘の中で、すでに写真の中の人物になってしまっている。木田との別れのシーンをカットすることで、上映時間の短縮の効果とあわせ、戦後復興にかける鐵造の想いと恩人木田への想いを掛け合わせる効果を狙っているのだろう。

さらに三つ目。

大胆にあちこちのシーンをカットする一方で、本作には監督の演出上の工夫が随所に施されている。アバダンを出港した日承丸が英国艦隊による拿捕を避けながらマラッカ海峡から太平洋に抜ける途中、英国軍艦と真正面に対峙するシーンがある。実は原作には本作に書かれたような船同士が対峙するシーンはない。原作で描かれていたのはむしろ国際法や政治関係上の闘争の方が主。アバダンからの帰路の描写はアレ?と拍子抜けするほどだった。しかし、それだと映像的に弱い。監督は映像的な弱さを補うため、本作のように船同士を対峙させ、すれすれですれ違わせるような演出にしたのだろう。それはそれで私にも理解できる。ただ、あんな至近距離ですれ違う操舵が実際に可能なのか、というツッコミは入れたいところだが。

もう一つ大きな変更点がある。それは東雲忠司という人物の描かれ方だ。本作で吉岡秀隆さんによって演じられた東雲は、かなり血肉の通った人物として描かれている。日承丸をイランに派遣するにあたって東雲が店主鐵造に大いに反抗し、番頭格の甲賀から頰を張られるシーンがある。このシーンは原作にはなく、監督独自の演出だ。でも、この演出によって戦時中の辛い思い出が思い起こされ、悲劇を乗り越えさらに國岡商店は進んで行かねばならない、という店主鐵造の想いの強さが観客に伝わる。この演出は原作者もパンフレットで認める通り、原作にない映画版の良さだと思う。

もう一つ、大きく違う点は弟正明の不在だ。正明は原作ではかなり主要な人物として登場する。戦時中は満鉄の部長であり、戦後は帰国して鐵造の片腕となった。だが、本作では全く登場しない。どういう演出上の意図があったのだろう。その理由を考えるに、そもそも本作では日承丸以降の出来事がほとんど描かれない。原作では日章丸事件以降も話はまだ終わらず、國岡商店を支える鐵造の後継者たちも交替していく様が書かれる。ところが本作からは後継者という要素が見事に抜け落ちている。國岡鐵造という人物を描くにあたり、監督は鐵造一人に焦点を合わせようとしたのではないか。そのため、後継者という要素を排除したのではないか。そして、後継者を排除した以上、正明を登場させるわけにはいかなかったのだと思う。

あと一つ、原作ではユキの大甥からの手紙が鐵造の元に届く。だが本作では、看護婦に連れられ車椅子に乗った鐵造が大姪の訪問を受ける設定に変わっている。ユキが残したスクラップブックを見、最後に挟まれていた二人で撮った写真を見て号泣する鐵造。観客の涙を誘うシーンだ。私が泣いたのもここ。手紙という伝達方法に比べると、直接映像で観客に届ける演出のほうが効果は高いに違いない。また、原作では子を産めないユキが、鐵造に相対してその旨をつげ、自ら身を引くという描写になっている。しかし、本作ではユキを引き合わせてくれた兄がユキからの手紙を鐵造に託ける設定となっており、ユキは姿を見せない。そしてユキからの手紙には、仕事でのすれ違いが原因で寂しさの余り身を引いたということが書かれている。原作の描写は時代背景を差し引いてもなお、女性にとって複雑な想いを抱かせかねない。監督はその辺りを配慮して、本作では子が産めないから自ら身を引くという描写ではなく、寂しいからという理由に和らげたのではないかと思う。

ここまで観ると、原作に比べて人名や船名が変わっていることも理解できる。日章丸と日承丸。日田重太郎と木田章太郎。新田船長と盛田船長。どれもが監督の演出によって原作と違った言動になった人物だ。その変化を宣言するためにも、登場人物の名前は変わらなければならなかった。そういうことだと私は受け止めている。

原作と映像作品は別物、と考える私は、本作で監督が施した一切の演出上の変更を支持したい。よくぞここまでまとめきったと思う。

そして監督の演出をスクリーン上に表現した俳優陣の頑張りにも拍手を送りたい。実は私は岡田さんを映画のスクリーンで観るのは初めて。同じ原作者による「永遠の0」も岡田さん主演だが、そちらもまだ観ていないのだ。そんな訳で初めて観た岡田さんの、20代から90代までの鐵造を演じ切ったその演技力には唸らされた。もはやジャニーズと言って鼻で笑うような人は私を含めていないのではないだろうか。その演技は一流俳優のそれだ。年齢に合わせて声色が替わり、鐵造の出身地である福岡訛りも私にすんなりと届いた。そもそも、最近のハリウッド作品で嫌なところがある。舞台が英語圏でないのに、役者たちが平気で英語を喋っていることだ。だが、本作ではそのあたりの
配慮がきちんとされていた。鐵造の福岡訛りもそうだし、GHQの将校の英語もそう。これはとてもうれしい。

他の俳優陣のみなさんもいちいち名前はあげないが、若い時分の姿から老けたところまでの、半纏を羽織って海へ乗り出して行く姿と背広を着てビジネスマン然とする姿、オイルタンクに潜って石油を組み上げる姿の喜びようなど素晴らしい演技で本作を支えていた。あと、ユキを演じた綾瀬はるかさんの演技も見逃すわけにはいかないだろう。ユキは、原作と違ってが何も言わず鐵造の元を去る。つまり、それまでのシーンで陰のある表情でその伏線を敷いておかねばならない。そして綾瀬さんの表情には決意を秘める女性のそれが刻まれていたと思う。その印象が観客の印象に残っていたからこそ、車椅子に乗った鐵造が大姪から見せられたスクラップブックと二人で撮った写真を見て慟哭するシーンの説得力が増すのだ。

本作を観たことで、俄然俳優岡田准一に興味がわいた。時間ができたらタオルを用意して「永遠の0」を観ようと思う。

’2017/01/07 イオンシネマ新百合ヶ丘


ローグ・ワン スター・ウォーズ・ストーリー


It is a period of civil war. Rebel spaceships, striking from a hidden base, have won their first victory against the evil Galactic Empire.
During the battle, Rebel spies managed to steal secret plans to the Empire’s ultimate weapon, the DEATH STAR, an armored space station with enough power to destroy an entire planet.
Pursued by the Empire’s sinister agents, Princess Leia races home aboard her starship, custodian of the stolen plans that can save her people and restore freedom to the galaxy….

ここに掲げた文はStar Wars Episode Ⅳの冒頭、あのテーマ音楽の調べとともに奥へと流れていく文章だ。本作は、ここに記されたエピソードが描かれている。

直訳がパンフレットに載っていたので転載させて頂く。

大戦のさなか。
秘密基地を発った反乱軍の複数の宇宙船が、邪悪な銀河帝国に対して初の勝利を収めた。この戦いの中で、反乱軍スパイは帝国の究極兵器の秘密設計図を奪うことに成功する。それはデス・スターと呼ばれる、惑星をも破壊するのに十分な威力を備えた、武装宇宙ステーションだった。
設計図を受け取ったプリンセス・レイアは、人々を救い、銀河に平和を取り戻すべく、自身の宇宙船で故郷へと向かうが、帝国の邪悪な特使に追いつかれてしまったのだった・・・

Star Wars Episode Ⅳは、1977年に封切りとなったシリーズ第一作。第一作にしていきなりエピソードⅣというのも意外だった。しかしエピソードⅣから始めることによって、第一作でありながら練り上げられた世界観を観客に期待させる効果はあった。その広がりが世界の映画ファンによって支持され、空前のヒット作となったことは周知の事実だ。

後年、エピソードⅠ~Ⅲも映画化されたのだが、それはダースベイダーという稀代の悪役の誕生に焦点が当てられていた。それによって、肝心のエピソードⅣの冒頭に流れたプロローグが宙ぶらりんになったままだった。しかも大仰な割にはミサイル一発で木っ端微塵になってしまうなど、最終兵器にしてはデス・スターってもろすぎちゃう? という観客からの突っ込みどころも満載の一作だった。

本作は、そういったエピソードⅣの矛盾や忘れられていた点を全て解消する一作だ。外伝という形にはなっているが、エピソードⅣ~Ⅵのファンにとっては、エピソードⅠ~Ⅲよりも重要な一作かもしれない。

だが、本作にとっては外伝という体にしてよかったのではないだろうか。Star Warsサーガというプラットホームに載りながら、新たな作品世界を作り出すきっかけになったのだから。

私は例によって一切の事前情報無しに観にいった。事前にあれこれ情報を仕入れると、無心に観られない。そして、無心な私が観た本作は、期待に違わぬ思いと、物足りない思いの半々だった。

期待に違わぬ点とは、本作が忠実にエピソード3.5としての役割を果たしていたこと。エピソードⅣに矛盾点が残されたままであったことは上に書いた。その点が本作で払拭されたことはとても大きい。また、エピソードⅣで登場した懐かしい人物が現れたことにも嬉しい思いがある。まさか出てくるとは思っていなかったし、本当にそっくりだったから。

物足りない思いとは、Star Warsの枠組みにあまりにも忠実であったことだ。昨年、エピソードⅦ-フォースの覚醒が公開された。このときに思ったのも同じく、Star Warsの世界観からはみ出ることに臆病になってはいないか、ということだ。せっかく外伝という位置づけを与えられたのだから、もう少し枠組みを外すような冒険があっても良かったように思う。

しかも、フォースの覚醒と同じく、こちらも女性が主人公となっている。正直なところ、本作があまりにもStar Warsの世界観を踏襲していたことで、フォースの覚醒の印象が少し薄らいでしまったようにすら思っている。

ただ、フォースの覚醒の印象が薄らぐぐらいに、本作のキャスティングは良かったと思う。主人公のジン・アーソを演ずるフェリシティ・ジョーンズはとても良かった。フォースの覚醒でレイを演じたデイジー・リドリーの印象を薄めるほどに。さらに共演者たちもいい感じの演技だった。なかでもチアルート・イムウェを演じたドニー・イェンと、ベイズ・マルバスを演じたチアン・ウェンがとても印象的だった。元々Star Warsには日本の侍や武士道、時代劇が影響を与えていることは有名だ。だが、このところ公開されたエピソードⅠ~ⅢやⅦからはその要素が薄れていたのではないだろうか。ところがこの二人の東洋的な容姿、とくに禅にも通ずるジェダイ・マスターの神秘的思索的な雰囲気を纏ったチアルート・イムウェの登場は、東洋的な思想を漂わせていた旧三部作を思い出させる。このキャスティングと彼ら二人の演技によって、本作がエピソードⅣの正統なプロローグであることが証明されたように思う。

あと、本作のラストでは旧三部作でお馴染みのあの方が当時と変わりない様子で登場する。実際には別の俳優が演じたらしいのだが、そのメイク技術には驚くほかはない。その方のお名前はエンド・クレジットのSpecial Thanksに登場していた。おそらく本作にもなんらかの形で協力したのだろう。

それにしても、本作でもっとも印象に残ったのは、デス・スターの攻撃が惑星に与える影響だ。惑星の一点に攻撃が行われただけで、核爆発のようなきのこ雲が沸き立ち、衝撃波が惑星の表面を全て壊滅させてしまう。これは、地球に巨大隕石が落ちたときの地球破滅のCGのようだ。今までのStar Warsに出てくる爆破シーンは、通常の戦闘の爆撃や宇宙空間での爆発、あとはデス・スターによる星の丸ごと爆破だろうか。今回、デス・スターによる惑星表面への攻撃が、星を木っ端微塵にせず、惑星表面を全て覆うような破滅の表現で描かれたのは印象に残った。多分それがリアルな惑星破壊の有様なのだろう。

’2016/12/18 イオンシネマ新百合ヶ丘


マダム・フローレンス! 夢見るふたり


この映画は、観る人のさまざまな感情を揺り動かす映画かもしれない。喜怒哀楽。観終わった観客はいろいろな想いを抱く事だろう。私もそうだった。私の場合は二つの相反する想いが入り混じっていた。

一つは、夫婦愛の崇高さへの感動。もう一つは、表現という行為の本質を理解しようとしない人々への怒りと悲しみ。

一緒に観に行った妻は感動して泣いていた。本作でヒュー・グラントが演じたのは、配偶者の夢を支えようとするシンクレア・ベイフィールド。その献身ぶりは観客の心を動かすだけのものはある。ヒュー・グラントのファンである妻はその姿に心を動かされたのだろう。

一方、メリル・ストリープ扮するマダム・フローレンスは純真そのもの。自分に歌手としての天分があり、自分の歌声が人々の癒しとなることを露ほども疑っていない。だが、彼女の無垢な想いは、NYポスト紙の劇評によって無残に汚されることになる。その劇評は、カーネギーホールで夢叶えた彼女のソロリサイタルについて書かれていた。彼女の無垢な夢は、叶った直後に汚されたことになる。そればかりか、その記事で彼女は現実を突きつけられることになる。人々が自分の歌声を嘲笑っており、自分は歌手に値しない存在という容赦ない現実を。夢を持ち明るく振舞うことで長年患っていた梅毒の進行をも止めていた彼女は、現実を突きつけられたことで気力を損ない、死の床に追いやられる。彼女が長い人生で掴んだものは不条理な虚しさでしかなかったのか。その問いは、観客によっては後味の悪さとして残るかもしれない。

籍は入れてなかったにせよ、最愛の伴侶のために25年もの長きにわたって献身的にサポートしてきたベイフィールドの努力は無に帰すことになる。ベイフィールドの献身的な姿が胸に迫れば迫るほど、救いなく死にゆく彼女の姿に観客の哀しみは掻き立てられるのだ。

だが、彼女の不条理な死は本当に救いのない死、なのだろうか。君の真実の声は美しい、と死に行く妻に語る夫の言葉は無駄になってしまったのだろうか。

ラストシーンがとても印象に残るため、ラストシーンの印象が全体の印象にも影響を与えてしまうかもしれない。だが、ラストシーンだけで本作の印象を決めてしまうのはもったいない。ラストシーンに至るまでの彼女は、ひたむきに前向きに明るく生きようとしている一人の女性だ。たとえ自らが音楽的な才能に恵まれていると勘違いしていようとも、才能をひけらかすことがない。ただ健気に自らをミューズとし、人々に感動を与えたいと願う純真な女性だ。

彼女の天真爛漫な振る舞いの影に何があったのか。時間が経つにつれ、彼女の人生を覆ってきた不運の数々が徐々に明らかになってゆく。そして、彼女を夢の世界にいさせようとする懸命な夫の努力の尊さが観客にも伝わってゆく。

明るく振る舞う彼女の人生をどう考えるか。それは、本作の、そして史実のマダム・フローレンスへの評価にもつながるだろう。彼女が勘違いしたまま世を去ることこそ彼女の人生への冒涜とする見方もある。彼女の脳内に色とりどりの花を咲かせたままにせず、きちんと一人の女性として現実を認めさせる。そして、そんな現実だったけれども自分には愛する夫が居て看取られながら旅立てるという救い。つまり、彼女を虚しいお飾りの中に住む女性ではなく、一人の人間として丁重に見送ったという見方だ。

私には、本作でのメリル・ストリープの演技がそこを目指しているように映った。一人の女性が虚飾と現実の合間に翻弄され、それでも最期に救いを与えられる姿を演じているかのように。

実際、本作におけるメリル・ストリープの演技は、純な彼女の様子を的確に表現していたように思う。リサイタル本番を前にした上ずった様子。ヤジと怒号に舞台上て立ちすくみ、うろたえる姿。幸せにアリアを絶唱する立ち姿。それでいて、その姿を能天気に曇りなく演ずるのではなく、自らを鼓舞するように前向きに生きようとする意志をにじませる。そういった複雑な内面を、メリル・ストリープは登場シーン全てで表現する。まさに大女優としての技巧と人生の重みが感じられる演技だ。本作では髪が命の女優にあるまじき姿も披露している。彼女の演ずる様は、それだけでも本作を観る価値があると言える。

ただ、私にとって彼女の演技力の成否が判断できなかった点がある。それは、マダム・フローレンスが音痴だったことが再現できているのか、ということだ。

そもそも、マダム・フローレンスは音痴だったのだろうか。実在のマダム・フローレンスの音源は、今なおYouTubeで繰り返し再生され、かのコール・ポーターやデヴィッド・ボウイも愛聴盤としていたという。カーネギーホールのアーカイブ音源の中でもリクエスト歴代一位なのだとか。そういった事実から、彼女の歌唱が聞くに耐えないとみなすことには無理がある。

音源を聴く限りでは、確かに正統な声楽の技術から見れば型破りなのだろう。コメディやパロディどころではない嘲笑の対象となったこともわかる。でも、病的な音痴という程には音程は外していないように思える。むしろそれを個性として認めても良い気がするほどだ。コール・ポーターやデヴィッド・ボウイが愛聴していた理由は知らないが、パフォーマーとして何か光るモノを彼女の歌唱から感じ取ったに違いない。

そう考えると、メリル・ストリープの歌唱がどこまでオリジナルを真似ていたのか、彼女の歌唱が音痴だったかはどうでもよいことになる。むしろ、それをあげつらって云々する事は彼女の音楽を浅薄に聴いていること自ら白状していることに他ならない。つまりは野暮の極みということ。

だが、本作を理解するには彼女の歌唱の判断なしには不可能だ。歌唱への判断の迷いは、本作そのものについての判断の迷いにも繋がる。冒頭に、観る人のさまざまな感情を揺り動かす映画かもしれないと書いたのは、その戸惑いによるところが大きいと思う。

その戸惑いは、彼女を支える男性陣の演技にもどことなく影響を与えているかのように思える。配偶者のシンクレア・ベイフィールドに扮するヒュー・グラントの演技もそう。

シンクレア・ベイフィールドは、単に自己を犠牲にしてマダム・フローレンスに尽くすだけの堅物男ではない。俳優の夢を諦めつつ、舞台への関わりを断ち切れない優柔不断さ。彼女が梅毒患者であるため性交渉を持てないために、妻合意の上で愛人を他に持つという俗な部分。また、彼の行いが結果として、伴侶を夢の中に閉じ込めたままにし、彼女の人生を冒涜したと決め付けてしまう事だって可能だ。それこそ体のいい道化役だ。 単なる品行方正な朴念仁ではなく、適度に人生を充実させ、気を紛らわせては二重生活を続けるベイフィールドを演ずるには、ヒュー・グラントは適役だろう。

複雑な彼の内面を説明するには、マダム・フローレンスの歌唱を内縁の夫としてどう評価していたか、という考察が不可欠だ。本作でヒュー・グラントはそれらのシーンを何食わぬ顔で演じようとしていた。だが、彼のポーカーフェイスがベイフィールドの内面を伝え切れたかというといささか心もとない。とくに、彼女の歌唱の上手い下手が判断できなかった私にとってみると、ベイフィールドの反応から、彼がどう感じていたかの感情の機微がうまく受け止められなかった。裏読みすれば、ベイフィールドの何食わぬ顔で妻を褒める態度から25年の重みを慮ることが求められるのだろうか。

また、彼女のレッスンやリサイタルにおいて伴奏を務めるコズメ・マクムーンの役どころも本作においては重要だ。

初めてのレッスンで彼は部屋を出るなり笑いの発作に襲われる。だが、ベイフィールドからの頼みを断れず、恥をかくこと必至なリサイタルに出ることで、ピアニストとしての野心を諦める。カーネギーホールでの演奏経験を引き換えにして。そういった彼の悩みや決断をもう少し描いていればよかったかもしれない。

具体的には、マダム・フローレンスがいきなりマクムーンの家を訪ねてきて、彼女の中の孤独さに気づくシーンだ。あのシーンは本作の中でも転換点となる重要な箇所だと思う。あのシーンで観客とマクムーンは、マダム・フローレンスの無邪気さの中に潜む寂しさと、彼女が歌い続けるモチベーションの本質に気づく。マクムーンがそれに気づいたことを、本作はさらっと描いていた。しかし、もう少しわかりやすいエピソードを含めて書いてもよかったのではないか。そこに、彼女の歌唱が今なお聴き続けられる理由があるように思うのに。

なぜ、マクムーンが彼女に協力する事を決めたのか。なぜ一聴すると聴くに耐えないはずの彼女の歌唱がなぜ今も聴き継がれているのか。なぜ、リサイタルの途中で席を立った記者は辛辣な批評で彼女の気持ちを傷つけ、その他の観客は席を立つ事なく最後まで聴き続けたのか。なぜ、最初のリサイタルでは笑い転げていたアグネス・スタークは、野次る観客に対し彼女の歌を聴け!と声を挙げるまでになったのか。

歌うことは、自己表現そのものだ。彼女の歌には下手なりに彼女の音楽への希望がこめられている。そして苦難続きだった前半生から解放されたいという意志がみなぎっている。その意志を感じた人々が、彼女の歌に愛着を感じたのではないだろうか。彼女の歌がなぜ、愛されているのか。その理由こそが、ここに書いた理由ではないだろうか。

‘2016/12/4 イオンシネマ新百合ヶ丘


グランド・イリュージョン 見破られたトリック


2016年も残り四ヶ月になり、ようやくの初観劇で観たのが本作である。観劇活動が低調な2016年を象徴するかのように、本作は鉄則から外れた形で観てしまった。鉄則というのは、必ずシリーズ物は第一作から観始めること。それは私にとって全てのメディアを通しての鉄則。本も映画も舞台も含めて。なのに、本作の前作となるグランド・イリュージョンを観ることなく、パート2である本作から観てしまった。

これは私にとっては忸怩たるところだ。もちろん、制作側はパート2からでも楽しんでもらえるように作っているはず。それは当然だ。だがそうは言ってもシリーズ物で毎回物語の背景の説明はしない。むしろ省くのが定石だ。前作を観た方にとってみれば、背景説明は冗長でしかない。それは映画そのものへも悪印象を与えかねない。なので、前作を観たという前提で製作者は続編のシナリオを書く。本作にも当然のように前作を観た方にしか分からない描写があった。私としてはもどかしい思いを持ちながら本作を観た。それはもちろん制作側の非ではなく、前作を観ずに本作に臨んだ私の責任なのだが。

だが、前作を観ていない私にとって救われることがたった一つだけある。それは、本作と前作を比較せずに楽しめる事だ。一緒に観た妻は前作を観たという。妻によれば、本作は前作で受けたほどの新鮮味はなかったとか。ただ、前作に比べてアクションシーンが増えた印象があったという。アクションシーンについては、私にも少し猥雑な印象をもった。それは、本作の舞台の多くがマカオだったことも関係しているのかもしれない。

猥雑な都市と洗練されたテクノロジー空間の対比。本作はその点が鮮やかだったように思う。一粒の塵すら存在し得ない計算された空間が、エネルギー溢れるカオスなマカオに潜む。そんな本作の設定は、もちろんジョン・M・チュウ監督が意図したことに違いない。本作はアクションシーンの多くがマカオで繰り広げられる。その一方でフォー・ホースメンによる精妙なカードの手妻捌きはIT空間で繰り広げられる。最後のグランド・イリュージョンすらもマカオではなくロンドンという洗練された都市で行われる。その対比があまりに分かりやすいのが、少しだが本作の欠点なのかもしれない。

また、フォー・ホースメンの5人(なぜ5人なのにフォーなのかは知らない)たちの演技は、スタイリッシュなあまり、まとまりすぎていたキライがあった。なんというか、タメがないというか、遊びがないというのか。それは主人公が五人にばらけてしまったため、私の視点が散ってしまったことにも原因があるのかもしれない。または、トリックにだまされまいとする私の気負いのせいかもしれない。ディランと父の挿話や、敵と味方に別れたマッキニー兄弟の掛け合い、ジャックとルーラの恋の芽生えなど、よく見れば面白いシーンがあるのに、そこにスッと入り込みきれなかったのが惜しい。もう一度本作は観てみなければと思っている。

一方で、敵方の出演者はいずれも個性派揃い。とくにダニエル・ラドクリフはハリー・ポッターを演ずる以外の彼をスクリーンで見るのは初めて。とても興味を持っていたが、残念ながら小粒な印象が拭えなかった。顎鬚を生やしていたとはいえ、彼の童顔がそう思わせたのだとしたら、気の毒だ。でも、演技面では悪役になるにはもっとエキセントリックな感じを出したほうがよいように思える。それぐらい敵役としては少し印象が薄かった。とはいえ、敵役でバックにつく二人が名優中の名優だったからそう思ったのかもしれない。マイケル・ケインにモーガン・フリーマン。この二人の重厚感溢れる演技はさすがと思わされるものがあった。この二人の存在がなければ、派手な展開の続く映画自体の印象も上滑りしてしまい、後に残らなかったのではないかとすら思えたから。でも、ダニエル・ラドクリフには子役出身の役者として是非成功してほしいと思っている。

また、私が気になったのは、主要キャストからは漏れてしまっているが、マカオの世界最高のマジックショップオーナーの老婆。途中まで全く英語が使えず、広東語で話していたのが、実は英語がぺらぺらという役柄。それは
フォー・ホースメンを見極めていたという設定。それがすごく自然で、素晴らしいと思った。調べたところ、ツァイ・チンという中華民国出身の女優さんのようだが、この方を知ったのも本作の収穫だ。お見事。

しかし結局のところ、本作の魅力とはマジック描写のお見事さに尽きる。作中のいたるところで見られる本場のテクニックには魅了された。これらマジックはVFXなどの視覚効果ではなく、実際に我々が体験できるマジックなのだという。つまり人はいかにしてだまされやすいか、という実証でもある。私は手品に騙され易い人と自認しているからそれほどのショックはないが、大方の人もやはり本作に仕掛けられたマジックには騙されるのではないだろうか。「あなたは必ず、爽快にダマされる。」というコピーには偽りはないといえる。

また、本作は結末がいい。本筋のトリックのネタはきれいに明かすが、ストーリーとして最後になぞを残す演出が余韻を残すのだ。本作を観た誰もが、カーテンの後ろには一体何が・・・?という思いを抱くことだろう。聞くところによると、本作は続編の制作が進行中なのだとか。私もそれまで第一作を観、可能なら本作を再度観、備えたいと思う。

‘2016/9/13 イオンシネマ新百合ヶ丘


杉原千畝


2015年。戦後70年を締める一作として観たのは杉原千畝。言うまでもなく日本のシンドラーとして知られる人物だ。とかく日本人が悪者扱いされやすい第二次世界大戦において、日本人の美点を世に知らしめた人物である。私も何年か前に伝記を読んで以来、久しぶりに杉原千畝の事績に触れることができた。

本作は唐沢寿明さんが杉原千畝を演じ切っている。実は私は本作を観るまで唐沢さんが英語を話せるとは知らなかった。日英露独仏各国語を操ったとされる杉原千畝を演ずるには、それらの言葉をしゃべることができる人物でないと演ずる資格がないのはもちろんである。少なくとも日本語以外の言葉で本作を演じていただかないとリアリティは半減だ。しかし、本作で唐沢さんがしゃべる台詞はほとんどが英語。台詞の8割は英語だったのではないだろうか。その点、素晴らしいと感じた。ただ、唐沢さんはおそらくはロシア語は不得手なのだろう。リトアニアを舞台にした本作において、本来ならば台詞のほとんどはロシア語でなければならない。しかも杉原千畝はロシア語の達人として知られている。スタッフやキャストの多くがポーランド人である本作では、日英以外の言葉でしゃべって欲しかった。迫害を受けていた多くの人々がポーランド人であったがゆえに英語でしゃべるポーランド人たちは違和感しか感じなかった。そこが残念である。しかし、唐沢さんにロシア語をしゃべることを求めるのは酷だろう。最低限の妥協として英語を使った。そのことは理解できる。それにしてもラストサムライでの渡辺謙さんの英語も見事だったが、本作の唐沢さんの英語力と演技力には、ハリウッド進出を予感させるものを感じた。

また、他の俳優陣も実に素晴らしい。特にポーランドの俳優陣は、自在に英語を操っており、さらに演技力も良かった。私は失礼なことに、観劇中はそれら俳優の方々の英語に、無名のハリウッド俳優を起用しているのかと思っていた。だが、実はポーランドの一流俳優だったことを知った。私の無知も極まれりだが、そう思うほどに彼らの英語は素晴らしかった。ポーランド映画はほとんど見たことがないが、彼らが出演している作品は見てみたいものだ。かなりの作品が日本未公開らしいし。

だが、それよりも素晴らしいと感じた事がある。本作はほとんどのシーンをポーランドで撮影しているという。ポーランドといえばアウシュヴィッツを初めとしたユダヤ人の強制収容所が存在した国でもある。本作にもアウシュヴィッツが登場する。ユダヤ人の受難を描く本作において、ポーランドの景色こそふさわしいと思う。そして合間には日本の当時の映像を挟む。それもCGではなく当時の映像を使ったことに意義がある。刻々と迫る日本の敗戦の様子と、それに対して異国の地で日本を想い日本のための情報を集めながらも、本国の親独の流れに抗しえなかった千畝の無念がにじみ出るよい編集と思えた。

また、本作においては駐独大使の大島氏を演じた小日向さんの演技も光っていた。白鳥大使こそは日本をドイツに接近させ、国策を大いに誤らせた人物である。A級戦犯として裁かれもしている。しかし本作ではあえてエキセントリックな大使像ではなく、信念をもってドイツに近づいた人物として描いている。この視線はなかなか新鮮だった。単に千畝のことを妨害する悪役として書かなかったことに。千畝の伝記は以前に読んだことがあるが、白鳥氏の伝記も読んでみたいと思った。

だが、本作を語るにはやはり千畝の姿勢に尽きる。なぜ千畝がユダヤ人に大量のビザを発給したのか。そこには現地の空気を知らねばならない。たとえ日本の訓示に反してもユダヤ人を救わずにはいられなかった千畝の苦悩と決断。それには、リトアニア着任前の千畝を知らねばならない。満州において北満鉄道の譲渡交渉に活躍し、ソビエトから好ましからざる人物と烙印を押されたほどの千畝の手腕。そういった背景を描くことで、千畝がユダヤ人を救った行為の背後を描いている。実は北満の件については私もすっかり忘れていた。だが、関東軍に相当痛い目にあわされたことは本作でも書かれている。そしてそういった軍や戦力に対する嫌悪感を事前に描いているからこそ、リトアニアでの千畝の行為は裏付けられるのである。

戦後70年において、原爆や空襲、沖縄戦や硫黄島にスポットライトが当たりがちである。しかし、杉原千畝という人物の行動もまた、当時の日本の側面なのである。千畝以外にも本作では在ウラジオストク総領事や日本交通公社の社員といったユダヤ人たちを逃すにあたって信念に従った人々がいた。それらもまた当時の日本の美徳を表しているのである。日本が甚大な被害を受けたことも事実。日本人が中国で犯した行為もまたほんの一部であれ事実。狭い視野をもとに国策を誤らせた軍人たちがいたのも事実。しかし、加害者や被害者としての日本の姿以外に、千畝のような行為で人間としての良心に殉じた人がいたのもまた事実なのである。軽薄なナショナリズムはいらない。自虐史観も不要。今の日本には集団としての日本人の行動よりも、個人単位での行動を見つめる必要があるのではないか。そう思った。

‘2015/12/31 TOHOシネマズ西宮OS


スター・ウォーズ フォースの覚醒


本作を一言でいうとファンによるファンのための完璧な続編である。

実は本作を観る前、この数日を掛けて旧三部作を全て観てからスクリーンに臨んだ。観るのは16年以上ぶりにだろうか。かつてはそれぞれを10回以上見るほど好きだったにも関わらず、今回見直してみると演出のテンポが遅いところや妙にわざとらしい箇所があったり、そもそもロボットの動きがコマ送りのように不自然だったりと、かつての記憶も若干美化されていたらしい。

J.J.エイブラムス監督による本作の内容については、指摘すべき点もない。あえていうなら、あまりに続編として出来過ぎていて、ストーリーに新たな驚きがないことだろうか。エピソード4や6を彷彿とさせるシーンが随所に見られる。旧三部作のファンとしてはぐいぐいと画面に引き込まれ、嬉しくなるばかりだ。本作は映像の美しさや演出のテンポなど文句もない。旧三部作に敬意を払いつつ、その不自然な点も修正されているとなれば猶更である。しかし敬意のあまり、旧三部作を踏襲してしまっており、それが新たなる三部作の始まりにあたって新味が薄いという批判にもつながるかもしれない。

本作の中で旧三部作との違いを書くとすれば、BB-8の動きだろう。これは旧三部作にも新三部作にもなかった技術の進化の賜物だ。このところの映画にSF的な最新技術の描写がほとんどないことは、先日の007 SPECTREのレビューでも書いた。本作でもそれは同じである。同じどころか、逆に古びたレトロ感を大きく出している。使いこまれたヘルメットや戦闘機など、これでもかと古い道具が出されてくる。しかしBB-8は新たな動きとともにR2-D2を彷彿とさせる。

また、本作で登場したフィンは帝国の雑魚キャラストームトルーパーから逃亡した人物である。今まで新旧三部作を含め、雑魚キャラであったストームトルーパーが描かれたことはほぼない。しかし本作ではストームトルーパーからの視点が新しい視点として物語に効果を与えている。

さらに、旧三部作に日本の要素が強いことは良く知られている。ジェダイとは日本語の「時代」が語源という話も有名だし、ダース・ベイダーのマスクのモデルとされる伊達正宗公の鎧も見たことがある。しかし本作からは日本的な要素は殆ど失われている。むしろ本作からはケルト民族やドルイド教の要素が感じられた。

しかし結局のところ、スター・ウォーズサーガとはストーリーが肝のシリーズだ。旧6作をはじめ、スピンオフも多数作られたシリーズは、その全てのストーリーに最大限の魅力がある。壮大なサーガの正当な続編として描かれた本作は、新旧6作にない新たな対立軸が打ち出されている。それが何かはここでは書かないほうがよいだろう。だが、旧三部作のファンであれば是非見ておくことをお勧めしたい。

骨太のストーリーを活かすのは俳優たちの演技あってこそである。それがまた実に良かった。特に新たに本作でヒーロー・ヒロインとなった二人は実に素晴らしいと云える。新たなる三部作に相応しい。これからも楽しみとしたい。特にラストシーンでは不覚にも涙がでそうになった。次作へとつながる素晴らしくも重要なシーンといえる。

最後に一つだけネタばらしする。本作に登場するレイア姫は実に美しかった。実は昨年、レイア姫を演じたキャリー・フィッシャーが本作出演に当ってダイエットを命ぜられたという記事を読んだ。そういう事前知識があっただけに、一体どんな風に変貌を遂げてしまったのか、心配だった。しかし本作のレイア姫は実に美しかった。

’2015/12/23 イオンシネマ新百合ヶ丘


007 SPECTRE


東西冷戦、宇宙開発、冷戦後の情勢、最新技術。007は、常に時代を取り入れ、スクリーンに映し出す。ダニエル・クレイグのボンドになってからの007も最初の2作は、最新の技術を惜しげもなく展開していた。例えば、スタイリッシュなオープニングシーン。クレイグ版のボンドは、オープニングシーンだけで素晴らしい映像美が楽しめる。ここだけで映像技術の最先端が味わえること間違いないほどの。ボンドがスマホを自在に扱う姿や巨大なタッチパネルを自在に操る様子からはIT技術の最先端が読み取れた。それこそ、どんなSF映画よりも未来の技術を先取りしている、それが007だった。

が、前作のスカイフォールからは、意図してか、時代に007を合わせていない。仕掛けもストーリーも内省的なボンドに合わせて原点回帰している気がする。仕掛けについてはあまりにITの技術発展が早すぎて、作中でどう活かすか決め切れていないのではないか。前作スカイフォールからQ役がベン・ウィショーへと替わっている。IT技術が全盛の今は年輩のQよりも若々しいQのほうが、リアリティがあってよい。ベン・ウィショー扮するQはIT技術を活かすのにふさわしい外見で、はまり役といえる。それにも関わらず、映画の仕掛けからはIT技術が遠ざかっているように思えるのは皮肉だ。本作でもCがMにドローンを使えば007など不要と言い放つ台詞がある。つまり、007はもはやITの進展には追い付けない。そのことを自覚し、方向転換を宣言した台詞ではなかったか。

007の製作陣もそういった時代の空気の変化を敏感に察知し、007の中におけるITの役割を控えめにしたと思われる。IT技術の替わりにここ2作で目立つのはボンドの内面描写である。ボンド自身の過去に潜む秘密を抱えながら、ボンドがどう振る舞い、どうスパイとしての自分を律してゆくのか。本作でも寡黙でありかつ僅かに揺れるボンドの内面が見事に描かれている。先ほど、CがMに対して語る台詞を紹介した。それに対してMがCに対して返答する台詞がある。ドローンもその他IT技術をいかに使おうとも、結局殺すか殺さないかを決めるのはボンド自身だと。この台詞に製作者たちの想いの一つは凝縮されているといえるだろう。

ITのような小道具に頼らないと決めたのであれば、どうすべきか。それは、アクション映画の本分に力を入れることである。本作のアクションシーンは、007の50年間のエッセンスを詰め込んだごとく素晴らしい。特にオープニングアクトの「死者の日」のソカロ広場上空でのシーン。死者に扮した多数のエキストラがソカロ広場を逃げ惑い、広場上空では不安定に錐もみするヘリコプターの中で壮絶なアクションが繰り広げられる。このシーンだけでも観客は手を握り締め、固唾を呑むに違いない。万が一失敗したらエキストラもただでは済まないはずだが、縦に横に360度旋回するヘリコプターの映像はCGが使われている気配は感じさせないほどリアルだった。見事である。

また、ローマの街中でのカーチェイスも良かったし、オーストリアの雪山のランドローバーと飛行機の追跡シーンも良かった。それらシーンに登場するのは、ミスター・ヒンクス。元総合格闘技家の迫力をフルに活かしての立ち回りは歴代のボンド悪役でも随一ではないか。最後にボンドが勝つと思いながらも、「ボンド危うし」と思わせたのはさすがである。デイヴ・バウティスタというこの役者には注目したい。

だが、もちろん本作の黒幕はミスター・ヒンクスではない。スペクターの首領であるあの方である。血を汚す仕事は部下に任せ、首領たるものあくまでスマートにスタイリッシュに、という意図は分かる。分かるのだが、少し演技を抑制しすぎのように思えた。クリストフ・ヴァルツは私が興味を持っている役者で、本作でも「イングロリアス・バスターズ」で魅せたあのナチス将校の冷静と狂気を揺れる絶妙な演技を期待していただけに、そこは少し消化不良。まあ007の黒幕に共通するのは知的で冷静な振る舞いである。その役作りに縛られてしまったと云ってしまえばそれまでだが。

さて、007といえば、Qの新技術や悪役以外にも楽しめる要素がいろいろある。まずは冒頭。かつての007には必ずあったシーン。左からは銃口が、右からは歩いてくるボンド。重なった瞬間左に振り向き観客へ発砲する。このシーン、ダニエル・クレイグ版では初めて使われたのではないか。これは正直いって嬉しい。50周年の節目ということもあったのだろうか。

さらにオープニングシーン。映像美の見事さは上に書いたが、今回のサム・スミス歌う主題歌がなかなか良かった。007の主題歌は、歴代あまりキャッチーさは求められておらず、007の世界観を壊さないものが多かったように思う。(とはいえ、私が一番好きな007の主題歌は、キャッチーなa-haのThe Living Daylightsやデュラン・デュランのA View To A Killなのだが)。が、本作のサム・スミスの主題歌は久々になんか来た気がする。本作のオープニングシーンが、ここ3作とは違い、煌びやかな演出ではなかったためかもしれない。ここ3作は映像美だけでぐっとスクリーンに引き込まれてしまい、音楽に意識が行かなかった。しかし、本作は映像とともに主題歌も脳内に入ってきた。

続いてボンド・ガール。今回はモニカ・ベルッチという意表をついたところで来た。すでに大分年齢を重ねられているようだが、妖艶さはさすがというところか。とはいえ、最近のご本人の出演作はほとんど観ていない。時間があれば観たいと思うのだが。そして入れ替わるように後半のボンド・ガールを務めるのはレア・セドゥ。最近よくスクリーンでお見かけする。確かミッション・インポッシブルにも出ていなかったっけ?007とミッション・インポッシブルの両シリーズでヒロインを張るって凄いことだと思う。上にも書いたがここ2作の007は技術を追うのではなく、内面描写に重点が充てられている。ヒロインが超格闘技のような活躍をすれば興ざめになってしまうが、今回もその辺りの演技は自然体のようで素晴らしいと思った。

最後に、ジェームズ・ボンド。今までの007と違い、ダニエル・クレイグのボンド作は全て劇場で観ている。切れのある動きや抑制された内面など、私は凄く素敵だと思っている。本作の終わり方は、ダニエル・クレイグ勇退を思わせるような感じなのだが、報道で観る限りではまだ続投するとか。どっちなのだろう?いずれにせよ、次回もまた彼がジェームズ・ボンドに扮するのであれば是非観に行きたいと思う。

’2015/12/19 イオンシネマ新百合ヶ丘


PAN ネバーランド、夢のはじまり


最近の映画には、有名な物語を題材にした内容が多い。それも単純なリメイクではない。その物語があまりにも世間に広まっていることを逆手に取っていることが多い。例えば内容を解釈しなおしたり、製作秘話を紹介したり、さらには前日譚を披露したり、といった趣向だ。映画製作者にとっては金鉱を掘り当てたに等しい題材なのだろう。

今日観た「PAN ネバーランド、夢のはじまり」ピーターパンもそう。有名なピーターパンの内容の前日譚、いわばプロローグを創造したのが本作だ。ピーターパンの製作秘話については、すでに映画化されている。ジョニー・デップが戯曲の原作者ジェームス・マシュー・バリーに扮した「ネバーランド」がそうだ。内容のレベルが高く、感動させられた一作だった。私も泣かされたものだ。だが、その内容は大人向けであり、子どもには若干伝わりにくかったと思われる。

だが、本作は子供に伝えることを第一に考えた内容となっている。なぜピーターパンは、フック船長と始終争っているのに、笑っているのか。なぜ彼らの戦いはどことなくのどかで、トムとジェリーみたいなのか。ピーターパンはいつからネバーランドにいるのか。どうやって空を飛べるようになったのか。本作ではそれらの秘密が明かされる。ピーターパン好きにとってはたまらない一作だろう。

母親によって孤児院に預けられたピーターは、子供時代を孤児院で過ごす。母が恋しくて仕方ないピーターは、ある日、ドイツ軍によるロンドン空襲の最中、孤児院の地下で母が自分宛に送った手紙を見つける。親友のニブルとシスターからのいじめに耐えるピーター。ここら辺りまでは暗い色調の落ち着いた雰囲気で話が進む。

そしてその空襲の後、話は一気にファンタジー溢れる場と化す。空飛ぶ海賊船が孤児院上空にやってきて、孤児院は子さらいの場と化す。ニブルは連れ去られる間際に孤児院へ飛び降りたが、ピーターはそのまま空飛ぶ海賊船に乗って黒ひげの下へと連れ去られる。黒ひげは、大規模に奴隷を使って妖精の石ピクサムの採掘をさせつつ、妖精の粉の不老効果を浴び続けている。そこでピーターと知り合ったのが、フックと名乗る男。作業監督のスミとともに、採掘所からの脱出に成功し、部族の集落へと向かう。そこで自らが部族の伝説の少年であることを知らされるピーターは、母もまた部族に所縁をもつ人であることをしり、部族で母と合うことを求める。そこへ黒ひげが襲来し、妖精の王国までもが黒ひげによって蹂躙されてゆき・・・・という話。

つまり、ここにはフック船長vsピーターという図式は出てこない。悪役はヒュー・ジャックマン扮する黒ひげなのである。フック船長はギャレット・ヘトランドが爽やかに演じている。そこには手鉤もなければヒゲもない。フック船長のイメージを全く新しい物として提示したのが本作の演出で一番工夫した点かもしれない。ピーター・パンとフック船長は、本作においては仲間であり戦友なのである。なぜピーターパンは、フック船長と始終争っているのに、笑っているのか。なぜ彼らの戦いはどことなくのどかで、トムとジェリーみたいなのか。その2つの疑問は、本作を観ていると解消されることになる。

ピーター・パンの物語の登場人物への思い入れが強ければ強いほど、スクリーンの登場人物が生き生きとして見える。なので、俳優陣にはかなり高いハードルが課せられる。その点、残念ながら私にとって、本作の俳優陣の演技はそれほど役のイメージと合わなかったといわねばなるまい。いや、イメージというよりか、俳優間の掛け合いの間合いがしっくりこなかった。そこが残念であった。特にミスター・スミはフックに協力するかと思えば、黒ひげの手先となって妖精の王国のありかを教えるなど忙しい役である。ドジでのろまな愛敬ある悪役の手下のイメージを作り上げたといえばミスター・スミ。これには同意いただける方も多いのではないか。しかし本作でのミスター・スミの繰り出す様々なボケが少し間を逸していたのだ。黒ひげとの掛け合いでもフックやピーターとの掛け合いでも。そこが残念であった。また、掛け合いの間がずれているように思えたのは、フック船長とピーター、タイガー・リリ-の間での掛け合いもそう。私の求める間合いと劇中の彼らの間合いのずれは最後までとうとう解消されないままだった。

それはフック船長のイメージが異なり過ぎていたといったことでもない。タイガー・リリーがイメージ的に妖艶過ぎたためでもない。なぜだろう。

黒ひげのヒュー・ジャックマンの演技は格別で、抑揚とアクセントの効いた悪役っ振りは素晴らしかった。また、リーヴァイ・ミラー扮するピーターは、その瞳の美しさやスクリーンでの立ち居振る舞いすべてがピーター・パンのイメージそのままで、素晴らしいものがあった。それだけにこのずれが私の中で惜しいと思わされた。

このずれの原因は分からないが、あるいはこういうことかもしれない。本作の中で、全てのピーター・パンの話は明かされる訳ではない。たとえばフック船長の手鉤。様々なミュージカルやアニメによって右腕にもなったり左腕にもなったりしているという手鉤の由来は本作では出てこない。また、フック船長とピーター・パンが争うようになった理由。これも本作では提示されていない。伏線的なものすらない。この違和感が余韻となって、本作内での俳優たちの掛け合いの違和感を強調させたのかもしれない。

とはいえ、本作の美術効果や音楽効果は素晴らしい物があった。特に第二次大戦中のロンドンの様子や孤児院、ネバーランドや妖精の王国など、見事というしかない色彩の使い方で、美術の素晴らしさは見るべきものがあった。また、音楽面でも見逃せない。特に、NIRVANAの「Smells Like Teen Spirit」に独創的なアレンジを施して黒ひげの登場シーンに流したセンスは唸らされた。まさか第二次大戦やファンタジーの王国の話で、NIRVANAが流れるとは。他にもラモーンズも使われていた。

ひょっとしたら第二弾が作成され、その中で先に書いた手鉤や争いの理由が書かれるのかもしれない。そうしたら、また娘たちと観てみようと思う。本作でリーヴァイ・ミラー少年が演じたピーター・パンの瞳は、そのぐらい魅力的だった。

’2015/11/1 イオンシネマ新百合ヶ丘


ミッション:インポッシブル ローグ・ネイション


小学生が観る映画じゃない。小6の娘は友達にこう言われたらしい。本作のことである。しかし、それでもミッションインポッシブルが観たいという娘。噂のスタントを観たいと思った私の希望が一致し、二人で観に行ってきた。

小学生が観る映画じゃない、という声のとおり、夕方の回だったにも関わらず、7割がた埋まった劇場の中で子供は娘一人だけ。しかし、本作は小学生の子どもにも見せられる作品と言ってよいと思う。このシリーズの良いところは、スタイリッシュなところである。スリリングだし、手に汗握る展開の連続なのだが、残虐な死体は転がらず、拷問シーンも皆無。お色気シーンも全くない。そもそも激しいアクションシーンの連続のはずなのに、トム・クルーズの顔には殆ど血も痣も現れない。ヒロインのレベッカ・ファーガソンにしてもそう。ラストで少し痣が見える程度。

本作の売りは俳優自らが体を張ったスタントシーンにあるはず。窓ガラスに飛び込むシーンが何度もあるにも関わらず、顔がきれいなままなのはいかがなものだろうかと疑問を抱いた。

とはいえ、本作はもともとアクション映画ではなくスパイ映画である。スタイリッシュに諜報し、相手の情報を盗む。スパイの本分はアクションにあらず。そう思えばよいと思う。だが、本作のアクションシーンが凡庸でないのは周知の通り。本作で出てくるカーチェイスや離陸する飛行機に飛び乗るシーンは、アクション映画も真っ青。上空を飛ぶ飛行機の扉の枠に手を掛けて飛ぶシーン、6分ほど息を止めて水中を潜るシーン、ウィーンのオペラハウスから飛び降りるシーンなど、トム・クルーズとレベッカ・ファーガソンのお二人のスタントなしの体当たり演技にはただただお見事というしかない。そして相当高度であろうそれらのシーンを撮影する技術の凄さも忘れてはならない。

観た所、エンドクレジットに出ていたスタントの方は10名ほど。あれだけのアクションシーンでこれだけの数のスタントマンしか使っていないということは、スタントなしの看板に偽りなしと言える。

実は私は、本シリーズを映画館で見るのは初めて。だが、本作は、劇場の大スクリーンで見てこそ、俳優の命がけの演技が堪能できるというもの。今までの4作をレンタルでしか観ていなかったことが悔やまれる。

観終わった後、ミッションインポッシブル凄いという娘の言葉を10度以上聞いただろうか。実は本作が、娘にとって映画館で観た初めての大人向け映画となった。だが、大人の世界の入り口として、決して悪くない選択だったと思っている。

’2015/9/13 109シネマズグランベリーモール