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経済成長は不可能なのか


本書もまた、弊社で人を雇う直前に読んだ一冊だ。

果たして経済成長は可能なのか。これは経営者にとって、とても悩ましい問いだ。
会社を経営することは、一種の冒険に等しい。その大海原に漕ぎ出すためには、会社が依拠するプラットフォームを信じることが求められる。プラットフォームである資本主義経済が常に成長し続ける信頼が欠かせない。
資本主義経済が結果的にマイナスになることが確かならば、進んで苦行に身を投じる起業家はあまりいないはずだ。

あらゆる会社が属する資本主義経済。それは、成長し続ける幻想のもとに運営されている。
だが、その内実は無尽蔵に消費する資源をもとに組み上げられている。いうまでもなく、資源は有限である。
資源が有限であるため、人類は次の仕組みを作り上げた。仮想の信用だ。今の資本主義を支える金融理論とは、仮想の信用をもとに構築されている。
仮想の信用とは、国家が保有する金を元に成り立っているのではない。貨幣とはそもそも国家が保有する金に兌換可能な前提、つまり国への信用があってこそ成り立っている。
それが、いつの間にか利潤に利潤を乗せることで経済が回る形に変質していった。つまり、利潤とは将来への信頼であり、この信頼とは、経済がこれからも成長するという前提に基づいている。なぜなら、利潤とは将来に対する利息であり、将来の利潤が約束されるからこそ成り立つ。誰も利潤が約束されなければ、お金を貸すことはない。そこには絶対の信用が存在する。

つまり、企業活動といっても、その基盤となるのは仮想の信用だ。または枯渇するはずのない永遠の資源がもとだ。それが成り立たないとなると、誰も経営になど乗り出さない。

では、そういう疑問を抱いている私のような人が会社を経営することは、果たして正しいことなのだろうか。

本書はその疑問に答えてくれるのではないか、という期待のもとに読み始めた。
この疑問とは、私の会社が将来も生き残れるかというミクロな問題だけに限らない。そもそも生活の基盤であるわが国の資本主義経済そのものが問われている。
誰もが知る通り、わが国の成長はずっと止まっている。これは、日本人の特性が、いちど繁栄を極めたことによって、前例主義に倣ってしまったことは明らかだ。

失われた30年どころか、その長期停滞はまだ続くのではないか。おそらくは、私が死ぬまで。
雇われている身であってももちろん、この疑問を抱くだろう。だが、会社を経営し、メンバーの生活に責任を持つねばならない経営者にとっては、なおのこと、切実な問題だ。

私たちは、限られた資源をただ食いつぶしているだけではないのか。資本主義による成長を期待すること自体、もはや無理なゲームになっているのではないか。その疑いがどうしても払拭できない。

もしそうならば、私たちは、到底実現することのない経済成長と言う幻想の中に飼い慣らされているだけではないのか。私たちはただその檻の中で行動しているだけなのではないか。

今の人類が資本主義に代わる新たな社会体制を見つけ出せない限り、これは常について回る恐れだ。それなのに、人間の本能と持続的な生活を満たすより優れた社会体制を、私たち人類はまだ見つけられていない。

本書はタイトルがすでに悲観的な色を帯びている。

プロローグで著者は、日本が抱える四重苦として、以下を挙げている。
デフレ不況問題
財政難問題
国の債務残高問題
少子化問題

この四つの問題がバブル崩壊以降の我が国を縛っている。
これらの問題が難しいのは、一つを改善しようとすると必ず他の問題と競合するからだ。つまり。足並みをそろえて改善することが不可能な状態にある。

デフレを改善するには、財政難が。
財政難を解消するにはデフレ問題が。
債務残高問題には、デフレ問題がネックだ。
少子化問題もデフレの改善が求められる。

失われた二〇年について、ありとあらゆる原因究明が行われている。
著者はその理由を、日本の生産性が悪化したことでもなく、金融政策が失敗したことでもなく、企業の事業展開欲が薄いことにあるという。
事業を展開してももうかる見込みがないため、投資におよび腰である。そこには、円高問題と少子化があるという。

著者は円高問題については、財政難問題を承知で国債発行を推奨する。

また、少子化問題については、財政難を押してでも少子化対策に大幅な財政支出をするべきと唱える。

財政難については、増税しか不可避であることも主張する。

また、未来への投資こそが政府がなしうる最善の対策であり、行政の無駄を削減することなど、全くの愚策であることを声高にいう。

そして、四重苦から逃れるためには、まずデフレ脱却から始めるべきだと、本書は結論づけている。

著者の主張は理解した。
そして、私のような零細事業者こそが、この停滞した状況から次へ進むために貢献しなければならないと感じた。

私は今まで、ミクロな視点でしか物事を考えられていなかった。
お客様のために、という目線で費用を抑えた提案しか。
しかし、それではダメなのだ。
少しずつでも単価を上げ、諸外国に比べて安いと言われる物価や単価を上げるために、まず弊社から単価を上げるようにしようと思う。苦しい中ではあるが、弊社メンバーに十分な報酬を与え、少しでも経済を活性化してもらわねば。
よりマクロな視点で考え、物事やビジネスの流れを次へと進めなければ。

2020/12/7-2020/12/11


ヘンな論文


研究とは本来、何をしても自由な営みのはず。夏休みの自由研究のように。ところが、庶民からみるとそうは思えないフシがある。手続きと形式。前例と引用。それらが積み重なると、おいそれと門外漢が首を突っ込めなくなる世界が出来上がる。そして、本来は自由であるべき研究が権威のベールをまとってゆく。その結果、研究が象牙の塔にこもった者だけに許された高尚な営みになる。それが積み重なり「研究している人=偉い」の図式が完成する。

実際、私もそう思いこんでいた。イグ・ノーベル賞なんてものがあるにも関わらず、私の心は勝手に研究=偉いと権威付けをしていた。それは誰のせいでもなく、私自身の思い込み。だが、本書を読んだ今、私は猛省の必要を感じている。

本書を読むと、研究に対する堅苦しい観念が解けていくようだ。本来、研究とはもっと自由。好奇心の赴くままに、人類の知見の限界をひろげる心の高ぶりに、後ろ向きな要素が紛れ込むはずはない。形式やテーマのに縛りがあってはならないはずなのだ。もちろん、研究の成果を万人に証明するためには綿密な論理に沿うことが求められる。だから形式に縛られることは仕方がない。でも、ユニークで型破りな研究テーマであれ、きちんとした構成に沿った展開がなされていれば研究テーマとして成立することを本書は教えてくれる。それは私のような市井のものが、自分で勝手に研究というものを高みに祭り上げているに過ぎない。

本書に載っている研究を読むと、王道を行く研究や脚光を浴びる研究よりも、私たちの実際の生活に役に立っているのではないか。そう思えてくる。

本書の著者は、漫才コンビ「米粒写経」の一人であり、オフィス北野に所属するサンキュータツオさんだ。そして「珍論文コレクター」でもある。さらには日本語学者として、各大学で講師も担当されているようだ。私はテレビでサンキュータツオさんをみたことがなく、本書ではじめてお会いした次第だ。

本書はサンキュータツオさんのユニークな立場から編まれた一冊。学術の観点から真面目な研究のズレを、笑いのタネとして取り出す。実際、サンキュータツオさんの研究テーマの一つは、笑いの源泉がどこにあるのかを突き止めることにあるそうだ。

以下に、それぞれのタイトルと簡単な紹介を付けてみた。もちろん、本書ではサンキュータツオさんが面白い文章で解説をつけてくれている。私の文章より、サンキュータツオさんのそれの方が面白いことは言うまでもない。

一本目  「世間話」の研究
ヨコハマメリー。河原町のジュリー。かつて横浜の一角で名をはせていたヨコハマメリーの伝説が、どうやって口コミを通して人々に伝わってきたのか。それを追うことで、口伝の伝わり方を社会学の観点から考察する。

二本目  公園の斜面に座る「カップルの観察」
横浜港大さん橋国際客船ターミナル。ここには人工芝の敷き詰められた斜面がある。私も行ったことがあるここは、カップルにとっては格好のデートスポットだ。研究者はこのカップルの姿を観察し、男と女の関係性を考察する。これまた面白い。

三本目  「浮気男」の頭の中
浮気男への真面目な動機と結果の聞き取り。これも奇想天外な研究テーマであり、素人の目にはそもそもどうやってデータを定量化するのか、という疑問が生じるのだが、研究者は情熱を傾けて、浮気男の生態や脳内や考え方を追求する。これも立派な研究テーマと成り得るのだ。

四本目  「あくび」はなぜうつる?
あくび指南、という落語の演目がある。この研究からはそれを思い出した。ところが、読んでみると実に奥が深い。霊長類にみられる共感性が研究結果からはあぶりだされる。あくびとする話を聞くとあくびしたくなるが、その現象がみられるのは6歳からだそうだ。あくびをした映像からあくびが誘発されるのは5歳から。4歳以下はうつらない。霊長類以外の他のほにゅるいにはあくびが移る現象はない。奥が深い。

五本目  「コーヒーカップ」の音の科学
コーヒーカップのインスタントコーヒーの粉末を入れ、スプーンをかき混ぜるとコップとスプーンが当たる音に変化が生じる。何気ない日常の出来事も、観察力のある方がみると立派な研究テーマとなりうるのだ。本編からは物理の奥深さ、かつて寺田寅彦が追い求めた科学の深淵なテーマの継承者の姿が感じられる。

六本目  女子高生と「男子の目」
女子高と共学校で、女子のフルマイの違い。思春期の男子にとってはとても気になるテーマであり、研究者の動機によってはかなりヤバい眼を向けられかねない。研究者は果敢にこのテーマに挑む。でも行動心理学の点からも、人間の性愛の点からすると、絶対に外せないテーマだといえる。

七本目  「猫の癒し」効果
猫Caféに来た方のアンケートから、実際、人が猫にどう癒やされているのかを探る。これもまた、感覚的な現象だと見過ごされがちなテーマだ。が、研究者にとっては興味深いといえる。アニマルセラピーという言葉もある通り。猫が好きな私にとっても興味あるテーマだった。

八本目  「なぞかけ」の法則
なぞかけの種類。その面白さ。面白さへの反応速度。これは著者自身が笑いを追求する観点から、熱の入った内容だ。ところが同じ語彙が持つ二重の意味を追うなぞかけは、言語学の視点からも興味深い営みなのだ。これもまた、立派な研究テーマになりうることに興味は尽きない。

九本目  「元近鉄ファン」の生態を探れ
オリックスと楽天に分かれたプロ野球の再編。近鉄という球団がなくなってかなりの年月がたった今、近鉄ファンは何に心の憂さをぶつけているのか。そもそもどの球団を応援するのか。大阪人の私としてもとても面白く読めた。かつて南海ホークスがあったころ―野球ファンとパ・リーグの文化史
という南海ホークスのファン心理を描いた本に感銘を受けた身としては。

十本目  現役「床山」アンケート
床山とは相撲の関取の髪結いの仕事で生計を立てる方々だ。現役の床山にアンケートをとり、その結果を掲載する。これだけでも研究成果として評価されるその事実が新鮮だ。結局研究とは、ほかの人々が知りえない事実を外部の目から観察することにある、ということなのだろう。

十一本目 「しりとり」はどこまで続く?
しりとりがどこまで続くのかを考察したこちらは、無数にある語彙の先頭の文字と最後の文字を統計的に網羅する研究だ。ただ語彙の文字を網羅するだけなら味気ない研究が、「しりとり」を加えるだけで一気に親しみやすくなる。その着眼点が面白い。

十二本目 「おっぱいの揺れ」とブラのずれ
こちらも色物に思えるかもしれないが、りっぱな研究だ。とくに下着メーカーにとっては欠かせない。というより、下着メーカーは間違いなく内部で研究していたはずのテーマだ。それをこのように外部に公開し、社会の共有財産として発表するところに意義がある。実は企業によっては知られざる研究があるはず。たとえば便器のメーカーとか。

十三本目 「湯たんぽ」異聞
古今東西、あらゆる湯たんぽを収集した伊藤紀之先生がこちらのテーマだ。東芝に就職し、共立女子大学で教職の道につきながら、湯たんぽを集め続けたこの先生のコレクションから、湯たんぽの奥深さを聞き取るのが本編だ。コレクションというものも、それが個人の自己満足ではなく外部に発表されたとたん、りっぱな研究になりうることを示している。

さて、本書はこの十三本の研究が収められているが、合間にも著者によるコラムが挟まれている。

「Column1 論文とはどんなもの?」
紀要。論文誌。そうしたものの違いだ。どれもが研究者ではない一般の人にはなじみのない話だ。だが、無味乾燥の山から、本書に集められたような面白い研究を見いだすことも、りっぱな著者の研究といえるだろう。

「Column2 研究には4種類ある」
この4種類とは、以下の通り。
「人間とはなにか」の「いまどうなのか」
「人間とはなにか」の「いままでどうだったのか」
「この世界とはなにか」の「いまどうなのか」
「この世界とはなにか」の「いままでどうだったのか」
お気づきのとおり、ここには未来が抜け落ちている。本来ならば未来を予想することは実利の面から考えると重要なはず。ただ、未来を予測するには過去と現在を見なければならない、ということなのだろう。そもそも未来には実体がないので、研究の対象にはなりえないのだろう。

「Column3 画像がヘンな論文たち」
ここでは、「力石の画像」という研究例があがっている。ただひたすら、全国の各地にある力石の画像が並べられている。これも先にあった湯たんぽと同じく、個人のコレクションで終わるのではなく、こうして発表されることで研究の成果として成立するのだろう。

「Column4 タイトルの味わい 研究者の矜持」
研究者はタイトル一つにも工夫を重ねる。タイトルが内容を表し、なおかつキャッチーであるべき。読む側も人間なので、無機質なタイトルでは反応も見込めないということだろうか。

こうして一連の研究を読んでいくと、あらためて研究とは本来、自由であるべき営みなのだ。そこに形式というルールを当てはめるのは、不正や読む側への便宜を図っているだけに過ぎない。私が無数の研究論文を読むひまはないだろうが、機会があれば読みたいと思う。研究とは現状維持を嫌い、前向きに何かを探し求める営み。それは私の人生でもあるのだから。