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賊将


『人斬り半次郎』に書かれた桐野利秋の生涯。本書はその前身となった短編『賊将』が収められた短編集だ。

本書は著者が直木賞をとる直前に出され、まさに脂ののった時期の一冊だ。

多作で知られる著者だが、著者のキャリアの早期に出された本書にも流麗な筆さばきが感じられる。
とはいうものの、速筆で知られていた著者も本書を書くにはかなりの苦労があったらしい。

私たち一般人にとっては、時代小説が書けるだけでも大したものだ。おそらく私たちは書くだけで難儀するだろう。今を書くことすら大変なのに、価値や文化の異なる当時を描きつつ、小説としての面白さを実現しなければならないからだ。特に、時代小説は、登場人物をその時代の人物として描かねばならない。その違いを描きながら、読者には時代小説を読む楽しみを提供しなければならない。時代小説作家とは、実はすごい人たちだと思う。
読者は時代小説を読むことで、現代に生きる上で当たり前だと思っていた常識が、実は時代によって変わることを知る。現代の価値とは、現代に沿うものでしかない。それを読者に教えることこそが時代小説の役割ではないだろうか。

「応仁の乱」

本編は応仁の乱を描いている。
応仁の乱を一言で語るのは難しい。
もし応仁の乱を一言で済ませろと言われれば、山名宗全と細川勝元の争いとなるのだろう。だが、応仁の乱を語るにはそれでは足りない。
応仁の乱によってわが国は乱世の気運がみなぎり、下克上を良しとする戦国時代の幕を開けた。

その責任を当時の足利幕府八代将軍である足利義政にだけ負わせるのは気の毒だ。
後世に悪妻と伝えられる日野富子との夫婦関係や、二人の間に生まれた義尚が、還俗させ義視と名乗らせた弟の立場を変えてしまったこと。日野富子の出自である公家や朝廷との関係も複雑だったこと。加えて、有力な守護大名が各地で政略を蓄えており、気の休まる暇もなかったこと。どれも義政にとって難題だったはずだ。

後世の印象では無能と見られがちの義政。だが、本人にはやる気もあった。愚鈍でもなかった。だが、受け継いだ幕府の仕組みが盤石ではなかったことが不運だった。

そもそも、足利幕府の始まりが盤石でなかった。初代将軍の足利尊氏は圧倒的な力を背景に征夷大将軍に就いたわけではなかった。建武の乱から観応の擾乱に至るまで戦乱は絶えず、天皇家すら南北朝に分かれて争っていた。
ようやく三代将軍の義満によって権力を集中させることができたが、義政の父である六代将軍義教が嘉吉の乱で白昼に殺されてからは、将軍の権威は弱まってしまった。義政の代は、各守護大名の協力のもとでないと幕府の権力の維持は難しくなっていた。

複雑な守護大名間の勢力争いや、夫婦間の関係などを細やかに描いた本書は、義政の葛藤と苦悩を描くとともに、応仁の乱へ歴史が導かれていった事情を詳らかにしていてとてもわかりやすい。
応仁の乱の背景を知るには本編は適していると思う。

「刺客」

こちらは、江戸時代の松代藩における権力争いを描いている。
松代藩といえば、真田家だ。著者の代表作の一つに「真田太平記」がある。

著書の著作リストを見る限り、松代藩を舞台とした作品は多そうだ。

本編は、松代藩の権力争いの中、翻弄されていく娘の無念と、刺客として任務を果たす男の運命を描いている。
現代に比べると、当時は相手の生を尊重することはあまりなかった。本編にもその習慣の低さが描かれている。
ただし、本編のような人と人の争いは今の世でもありえる。実は、今の世にも同じような悲劇が隠れているのではないか。

「黒雲峠」

仇討ちも現代の私たちにはなじみのない習慣だ。
だが、当時は幕府や藩に届けを出せば肉親の敵を成敗することは認められていた。忠義を奨励することになるため、幕府の統治にも都合がよかったからだ。

仇討ちとは個人的な思いの強い行いだ。そして、それは命にも関わる。
だからこそ、真剣にもなる。濃密な関係の中、人の本章が顕わになる。

現代の私たちは、当時の人々が仇討ちにかける思いと同じだけの何かを持っているだろうか。そう思わせてくれる一編だ。

「秘図」

人は謹厳なだけでは生きていかれないものだ。
本編は、そのような人間の本性を描いており、本書の中でも印象深い一編だ。

若い頃に放蕩の道に迷いかけ、名を変えて生まれ変わった徳山五兵衛。
今では藩の火付盗賊改として、厳格な捜査と取り調べによって人々に一目置かれていた。

だが毎夜、妻子が寝静まった後、自室で五兵衛が精根を傾けるのは、絵描き。それも男と女の交わる姿を描いた秘図。つまり春画だ。

やめようにもやめられぬまま、死を自覚した五兵衛。自分の数十年にわたるこのような別の姿を人々にさらすわけにはいかない。
妻にも自分の亡き後は絶対に手文庫を処分するようにと言い残す。

自負に満ち、誇りの高い武士も楽ではなかったのだろう。

今の世も終活と称し、ハードディスクの中身をいかにして処分するか、という問題がある。またはSNSにアップした内容の取扱いなど。まったく、江戸時代も今の世も、人の心のあり方はそう変わらない。これもまた時代小説から得られる面白さだ。

「賊将」

本書の表題になっている本編は、人斬り半次郎が、陸軍少将桐野利秋になってからの物語だ。

西郷どんを慕うあまり、征韓論で不利になったことに悲憤し、西郷隆盛と共に薩摩に下野する桐野利秋。
薩摩を立ち上がらせよう、西郷どんの意見を政府に認めさせようと奔走したのも桐野利秋。西南戦争に向けてもっとも急進論を唱えた一人が桐野利秋だった。

幕末には名うての志士として活動した人斬り半次郎は、結果的に官軍の側の人として栄達した。だが、すぐに運命に操られるままに逆賊の汚名を被る。
その結果、西南戦争では賊将として突き進み、戦死する。その様子を描いた本編は、人間の運命の数奇さとはかなさだ。
後日、著者が桐野利秋の志士の時代を長編にしたて直したくなったのもよくわかる。

「将軍」

明治に生き、明治に準じた乃木希典将軍も、自分に与えられた天運と時代の流れに翻弄された人物だ。

西南戦争で軍旗を奪われた事を恥と感じ、軍人と生きてきた乃木将軍。
さらに日露戦争における旅順攻略戦でも莫大な戦費を使い、あまたの兵士の命を散らした。自分の恥をすすぐためには息子たちを戦地で失ってもまだ足りないかというように。

明治天皇の死に殉じて死を選んだ乃木将軍の姿は、明治がまだ近代ではなく歴史の中にあったことを教えてくれる。

2020/10/6-2020/10/10


蜩ノ記



人はいつか死ぬ。それは真理だ。

大人になるにつれ、誰もがその事実を理屈では理解する。そして、死への恐れを心に抱えたまま日々を過ごす。
だが、死への向き合い方は人それぞれだ。
ある人は、死の現実を気づかぬふりをする。ある人は死の決定に思いが至らない。ある人は死に意識が及ばぬよう、目の前の仕事に邁進する。

では、死の到来があらかじめ日時まで定められているとしたら?

本書は、あらためて人の死を読者に突きつける。
死ぬ日が定められた人は、いかに端座し、その日を迎えるべきなのか。

本書は江戸時代の豊後の羽根藩が舞台だ。まず、江戸時代という時代の設定がいい。
戦国の世の刹那的な生と死の観念を色濃く残す時代。
それでいながら、合戦がなく平穏な時代。
死ぬ覚悟を常に懐に抱えているはずの武士も、気を緩めると保身への誘惑に屈してしまう。江戸時代とは、武士にとって自らの存在意義が試される時代でもあった。

そんな時代を生きながら、自らに下された死を受け入れ、決められた死までの日々を屹然と受け入れる男がいる。
その男の名は戸田秋谷。
秋谷が死を下された理由。そこに秋谷の咎はない。
にも関わらず、秋谷は決然として生きる。死を嘆いたり、運命にあらがったりしない。
藩から命じられた家譜編纂の仕事を粛々とこなしながら、妻子を養っている。
その凛とした姿は、近隣の民からは尊敬の念を向けられている。

秋谷の家譜編纂の手伝いを命じられたのが壇野庄三郎。
彼は、藩内で誤解から生じた刃傷沙汰を起こし、藩から謹慎を命じられる身だ。
庄三郎は戸田秋谷の家に住み込み、生活をともにしながら仕事を手伝う。手伝いを名目に掲げているが、庄三郎が言外に受けた命とは、実際には秋谷の監視役を兼ねていることは明らか。
藩からの命には、編纂する家譜の内容を監視する役目もあった。
秋谷が死罪を命ぜられるに至った事件のあらましを、秋谷自身が自分に有利なように改ざんせぬよう監視する役目。そこには、藩の思惑を感じさせる。

秋谷の一家は、秋谷の病弱の妻織江や、娘の薫、息子の郁太郎からなる。秋谷の一家と暮らすうち、庄三郎は秋谷の人物に惹かれてゆく。
秋谷が死に値する軽挙を犯すような人物にはとても思えない。秋谷の人物の深みからは、そうした軽々しさが微塵も感じられない。
藩から命に何かの思惑が潜んでいるのではないか。それは藩の歴史に関する何かの秘密に関するのでは。藩への忠誠が薄らぎだすとともに、藩からの任務と戸田家への思いの間で庄三郎が板挟みになる。

他の諸藩と同じく、羽根藩にも問題がある。それは代官による収奪や、それに抗する百姓の反抗として現れていた。
ところが、秋谷の治めた地ではそうした騒ぎが起きない。それは秋谷の人物に民が畏敬の念を持っていたからだ。
秋谷の薫陶を受けて育った郁太郎も村の少年と分け隔てなく交わる。秋谷自身に身分で人を判断せず、公平に接する考えがあり、それが一層、民の心を惹きつけていたのだろう。

ところが藩から民に対する圧力は増し、藩の暗躍も盛んになるばかり。
民と藩の緊張が高まる中、秋谷はどう身を処するのか。
秋谷と庄三郎の共同による編纂作業は進み、藩の過去に潜む事情も明らかとなる。そして、その作業は、秋谷の死罪が無実である確証も明らかにした。
だが、調査が進むにつれ、秋谷の死の期日も刻一刻と近づいてゆく。

本書で描かれるのは、もののふの姿だ。秋谷という一人の男の。
合戦はなくなり、武士が統治する立場を利して薄汚れた利権を漁るようになって長い。
そのような風潮の世にあって、秋谷が自分を律する態度の気高さ。

冒頭で本書の舞台は江戸時代であり、生と死の観念が戦国の余韻を残すと書いた。
ところが、本書の舞台となる時期は、十九世紀に入ってすぐの頃だ。大坂の役からは百八十年、島原の乱から数えても百六十年は経過している。
実は本書の登場人物たちが生きる時代は、現代の私たちが最後の戦い(太平洋戦争)を体験した時間より百年ほど長く太平の時代に生きている。
私たちが最後に戦争の廃虚を目にしたのは七十年前に過ぎないというのに。

その事実に思い至った時、死を達観しているように見える秋谷の態度を時代が違うからと片付けるのは乱暴に思える。
秋谷の生き方と対立する、利権と保身に凝り固まった藩の重鎮たちも、私たちは心から軽蔑できるのだろうか。
著者はそうした問いかけも含めて本書を記していることだろう。
現代人の死生観が急速に変質してしまった事。今の日本人が失ってしまった厳しい生と死の観念。
それらを秋谷の生きざまを通して描いているのが本書だ。

もう一つ、本書が描くのは親から子への生きざまの伝え方だ。
本書が最も感動を与えるのがこの部分だ。
親の責任。それは時代が違っても変わらない。
親として子に何をか伝え、何をか教えるべきか。それはどういう方法が適切なのか。
現代の親もぶち当たる悩みだ。もちろん私も親として試行錯誤した。親としての振る舞いは難しい。

親としてのあり方を秋谷は示す。
本書も終盤に差し掛かる中、秋谷の親としての本領は発揮される。息子に、そして娘に。最も心を動かされる場面だ。
そこから読み取れるのは、たとえ時代が違っても、親と子の関係は普遍である事だ。
将来、社会のあり方がどう変わろうとも、親と子の生物としての関係は維持されるはず。
その時も親と子の中で受け継がれるべき本質は変わらないはず。その本質を本書は教えてくれる。

私も娘二人の子育てが終盤に近づきつつある。
ひょっとしたら娘たちはそれぞれの伴侶を得、私にとって義理の息子ができるかもしれない。そうなった時、息子を育てたことがない私にとっては、新たな試行錯誤の日々が始まることだろう。
本書から得られるものは多い。

名作として心に刻んでおきたい一冊だ。

‘2019/3/9-2019/3/10


忍びの国


本書を読み終えて一年たったが、全くレビューが書けていなかった。そうこうしているうちに、本書が映画化され封切りされた。本書のレビューもアップしなければならない。そんなわけであわててレビューに取り掛かった。

私が本書のレビューを書かなかったのは、面白くなかったからではない。むしろ逆だ。面白いからこそ、いつでもレビューが書けるとの油断があった。

なんといっても忍者だ。そして本書で扱われているのは天正伊賀の乱だ。つまり織田信長と伊賀者の国をかけた戦いが描かれるのだ。面白くないわけがない。痛快無比な忍術小説というのは、本書のような小説を指すのだろう。実際、さまざまな時代小説を読んできた中で、本書ほど忍術が魅力的に書かれた本は読んだことがない。

火遁や土遁、水遁の術は有名だ。ほかにも本書には多彩な忍びの術が描かれる。たとえば水面に土器を浮かせ、それを足場に水をわたる術。密かな会話を行うための葉擦れの術。人の通らぬ道を選んで這い進むため土の塩味を察する鶉隠れの術。縄抜けのため、全身の骨を変形させる術。ほかにも身代わりの術や手裏剣など、忍術の魅力的な部分がこれでもかと登場する。とても面白い。本書の忍術に関する記載の前後には「正忍記」「万川集海」から参照された旨が載っている。これらは江戸時代に書かれた忍術をまとめた本だ。本書はこれらの忍術本を縦横に活用して描かれている。忍術だけではない。本書が引用する書籍はそれ以外にも多数ある。天正伊賀の乱を描いた「伊乱記」「信長公記」「甲子夜話」など多数の書籍が引用されている。本書巻末には参考文献のリストが載っているのだが、感心するのはそれらがすべて一次資料であることだ。孫引きではなく、一次資料をあたって書かれた本書は、当時の伊賀者が生き抜いた非情な世界と、そこで生き抜くために鍛錬を重ねた伊賀者を生き生きと描く。

伊賀とは古来から土壌が農業に向かず、山あいという地勢もあって複数の小領主に治められていた地。それでいて周辺諸国からは自衛する必要に迫られていた。そんな土地柄は、伊賀者の独特の文化や死生観を育んできた。伊賀者が宿命として背負った戦の世に生きる背景を、本書はきっちりと書いている。それでいて、本書はステレオタイプな伊賀忍者を描くのではなく、魅力的に忍びの者を描いているのがいい。

主人公の無門は伊賀一を自負する忍びの達人だ。だが、安芸からさらってきたお国には全く頭が上がらない。稼ぎが少ないと詰られては、家を乗っ取られる始末。夫婦の契りすら結ばせてもらえない状態だ。めっぽう強い忍びの達人が、家では妻に尻に敷かれているという設定がとてもいい。組織に頼らない一匹狼で、自分の技には自信を持っていて、金稼ぎには興味がない、それでいて妻を思う気持ちが強いところ。人物が深く彫りこまれ、魅力的に描かれているのだ。

門の尻をひっぱたくお国もまたいい。武家の娘でありながら金にがめつい性格として描かれている。が、本書の肝心なところでは、肝の据わったところを見せ、金よりも男の誇りを選ぶよう無門を導く。金と美貌だけで結びついていたように見えるこの夫婦が、戦乱の中で互いの魅力に気づきあうのも本書の魅力といえよう。

本書には猿飛佐助のモデルともいわれる下柘植の木猿、後年石川五右衛門として名を世に知らしめる文吾、武の大義を信じそれに従う日置大膳、伊賀に生まれながら、人を人と思わぬ伊賀の酷薄さに嫌気が差す下山平兵衛、伊賀棟梁として信雄軍に対峙する百地三太夫、本書の敵役であり、伊賀者の反撃に敗戦の責を受ける織田信雄などが登場する。それぞれの人物がとても魅力的に描かれている。

史実では天正伊賀の乱は一次と二次があったという。一次では伊賀が勝ち、二次は織田信長自らの軍勢に伊賀は殲滅される。一次の戦いはなぜ起こり、いかにして伊賀軍は信雄軍を退けたのか。二次ではなぜあっさりと負けてしまったのか。一次の戦いで無双の戦いぶりを魅せた無門は、二次の戦いでは何をしていたのか。

そういった込み入った事情が、著者の鮮やかな筆さばきによって明らかにされる。もちろんそれは史実そのものではなく、著者の脚色や解釈が加えられたものだ。だが、歴史とは、史実に表れていない人々が織りあげる微妙な綾が作り上げていくものではないか。多分、無門は史実には残っていない著者の創造した人物だろう。だからこそ、説得力があるのだ。なぜなら忍びとは世を忍んでこそなんぼ。棟梁でもない限り、後世に名を遺す忍びとは、真の忍びではないからだ。

今のところ、映画版を見に行く予定はない。嵐の大野君が主演するというから、多分無門役を演ずるのは大野君なのだろう。このような無門が映画版ではどう演じられるのか。それはそれで興味はある。

‘2016/07/04-2016/07/06