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名古屋出張・桑名・養老・大垣の旅 2019/6/4-5


一日目、6/4
家を9時過ぎに出て、新横浜経由で名古屋へ。名古屋には11:45分頃につきました。
今までにも何度か名古屋は訪れていますが、仕事で行くのはおそらく初めてのはず。
この日は名古屋のお客様との打ち合わせやシステムの説明会などがあり、午後から夜まで息をつく暇もないほど。

ホテルは妻に予約してもらいました。場所は伏見の手前、錦橋のたもとです。なので、名駅から歩いていけると判断し、久々の名古屋駅前を味わいつつ歩きます。
転送してもらった案内メールに書かれていた住所まで歩き、着いたホテルはなぜか工事中。おかしいと思いながら、エレベーターを上下してみました。それなのに、どの階も工事しているのです。
思い余って地下の事務所まで乗り込んでみたら、実はビル全体がまだ開業前だったという落ちでした。どうもメールの住所が間違っていたみたい。
わたしが泊まる名古屋ビーズホテルはそこから50メートル離れた場所にありました。ああ、びっくりした。

結局そうしたバタバタがあったので、宿を出たのは12:25分過ぎ。さらに、伏見駅で迷ってしまい、お客様のもとについたのは13時ギリギリでした。
そのため、楽しみにしていたきし麺を食べる暇はなく、ファミリーマートのおにぎりを急いで胃に収めました。旅情ゼロ。

午後のお客様のもとでの詳細は書きません。仕事は無事に終了しましたし、いくつかの打ち合わせもつつがなく終えることができました。(ちなみに一年たった今でもこのお客様とのやりとりは頻繁です。)

夜はお客様の四名の方が酒席に誘ってくださいまして、「世界の山ちゃん 千種駅前店」で。
実は私、初めての山ちゃん体験です。うれしい。
きし麺、あんかけスパゲッティ、手羽先など、名古屋グルメと銘酒を思うがままに味わい尽くしました。

かなりの量のお酒を飲み、酩酊してしまった私。なんとか宿に帰りつくことはできました。でも、バタンキューです。すぐに寝入ってしまいました。
栄のバーを訪問しようと思っていたのですが。おじゃんです。

二日目、6/5
この日は、せっかく名古屋に来たのだから、と観光にあてる予定でした。
朝一で作業をこなし、ホテルを出たのは9時過ぎ。
ホテルに荷物を預かってもらい、名駅まで歩いて向かいます。そこから近鉄に乗って桑名へ。10時過ぎに着いた桑名は、ほぼ4年ぶりの訪問です。
前回の訪問では実家に帰る途中に車で訪れ、川べりで車中泊をしました。桑名城や六華苑や焼き蛤が懐かしい。
今回は桑名はただ立ち寄るだけの場所です。駅前の観光案内所でマンホールカードを入手しただけでした。

この日、私が目指したのは養老の滝です。そこに行くには養老鉄道に乗りかえねばなりません。
この養老鉄道、昔は近鉄の一支線でした。今は近鉄グループに属しているとはいえ、独立した地方鉄道として運行されています。
こうしたローカルな電車の旅は久しぶりで、停車している電車を見るだけで旅の臨場感はいや増していきます。

電車は、桑名から養老駅までの十駅を一駅一駅、丁寧に停車してゆきます。のどかな旅です。
電化されているとはいえ、単線ですから速度も控えめ。車窓からの景色を存分に味わうことができます。旅情を満喫するには十分。
沿線には栗の花が咲き、目に飛び込む風景は、山際に沿った鉄道の風趣が感じられます。

栗の花 今も鉄路の時 刻み
養老鉄道車内にて

養老駅を訪れるのは二十数年ぶりのこと。
当時の記憶はありませんが、久しぶりに訪れた駅には個性がそこらに見られます。中部の駅百選に選ばれただけのことはあります。
ここは酒の愛好家にとっても著名な地。滝近くの水をひょうたんに汲んだところ、酒に変化して父を喜ばせたという孝行伝説でも知られています。
駅名もひょうたん文字で描かれており、おびただしい数のひょうたんが天井からぶら下がる姿は個性そのものです。

駅舎内には地元のNPO法人が観光案内所のような施設を運営しているようです。ただ、私がが訪れたタイミングでは閉まっていました。残念です。
そればかりか、養老駅には事前にレンタサイクルがあると調べていたのですが、駅員さんがどこかに行ってしまったため自転車を借りられませんでした。

なので、駅から養老の滝までを歩くことに決めました。なに、ほんの2、3キロのことです。私にとってはさほどの距離ではありません。
その分、養老の街並みを味わいながら歩くことができました。通りがかった養老ランドという「パラダイス」を思わせる遊園地がとても魅力的です。さらに、公園の中は木々が緑をたたえており、視界の全てが目に優しいです。

養老公園を歩いていると、平日の午前でありながら、開いている店があります。食指が伸びます。
さらに歩くと、菊水泉に着きました。
ここがあの孝行伝説の泉です。名水百選にも選ばれています。

泉の底に影の映る様子は透明そのもの。名水とは何かを教えてくれるようです。
菊水泉のような澄んだ泉をみると、私の心はとても穏やかになるのです。

クモの巣や 霊泉さらに磨きけり
菊水霊泉にて

菊水泉の横には養老神社も建立されています。もちろんお参りしました。そして旅のご加護と仕事の無事を祈願しました。

そこから養老の滝までの道も、見事な渓谷美が続きます。木々と周りの空気の全てが私を癒やします。その喜び。渓流には小さな滝が続き、徐々に期待を膨らませてくれます。

たどり着いた養老の滝は、20数年ぶりに訪問した私を見事な滝姿で待っていてくれました。20数年前は、雨の中でした。滝壺にでかいガマガエルを見つけたことはよく覚えています。
雨の中の訪問だったことに加え、当時は今ほど滝の魅力に惹かれておらず、滝の様子は覚えていませんでした。
だから今回が初訪問とみなしても良いのかもしれません。

養老の滝は直瀑です。30メートル強を一直線に落ちる水量が豪壮で、それが周囲の木々に潤いを与えています。
見事な晴れ空の中、落ちる滝飛沫を見ているだけで、すべての雑事が洗い流されていきます。

白布や 巌透かして 涼やかに
養老の滝にて

一時間近くは滝の姿をあらゆる視覚から眺めていたでしょうか。
養老の滝の前には広場が設えられています。そこには威厳を備えた二基の岩が屹立しています。その合間からのぞく滝も風情があります。
時の天皇からお褒めを賜り、元号にまでなったこの地。それを象徴するのが養老の滝です。
全国に名瀑は多々あれど、元号になった滝はここのみ。
そうした歴史と滝の美しさは、私を滝の前にしばりつけ、全力で引き留めようとします。
この地には私を惹きつける何かがあります。
ですが、きりがありません。後ろ髪を引かれるようにして滝を後にしました。

老い先に あらがう 滝の姿かな
養老の滝にて

養老公園には、滝以外にも私の興味を惹く場所がほかにもまだあります。
ひょうたんランプの館というお店は、名の通りひょうたんで作ったランプを販売しており、外から中を想像するだけで30分は私をとどめることは間違いなかったので、中に入りませんでした。
また、かつてこの地で製造されていた養老サイダーも、瓶があちこちのお店に飾られていて目を惹きます。この養老サイダーは、明治の頃から有名なサイダーとして知られていたものの、二十一世紀に入って操業が中止されていた幻の品。それがブランド名と原料水とレシピを基に復活したそうです。まさにその銘品である養老サイダーをいただいた私。美味しい。旅のうるおいです。

さらに、親孝行のふるさと会館を訪問しました。
養老の滝訪問の証を書いてくださるというのでお願いしたら、途中で墨が出なくなってしまい、サインペンになったのはご愛嬌。

帰りは行きと違う道を通り、養老寺なども詣でながら駅に向かいました。
行きに見かけた養老天命反転地という、錯覚をテーマとした屋外の芸術作品を展示する公園があり、ここには惹かれました。が、この後の行動の都合もあってパスしました。
その代わり、養老の街並みを目に焼き付けながら帰りました。
次回の訪問では養老の街をじっくりと観ることを誓って。

養老の駅に着き、次の電車までの間、しばらく駅前や駅舎を撮影していました。そして、桑名からやってきた電車に乗って大垣方面へ移動します。
せっかくなので、桑名から養老までは乗らなかったサイクルトレインの車両に乗りました。
サイクルトレインとは、車両内に自転車を持ち込める制度です。
でも、こういう試みって、実際に使われている現場に遭遇することはあまりないですよね?
ところが、次の駅ぐらいから自転車を持ち込んできたお客さんがいました。しかも私のすぐ横で。実際に利用されている様子をみて感動する私。
電車内に自転車など、都会では絶対見られない光景です。
また、サイクルトレインを実施している地方のローカル鉄道はあるでしょうが、そうした場所には車で訪れることがほとんどです。
この電車の旅にふさわしい体験ができました。

大垣に近づくにつれ、地元の高校生の姿が目立ってきます。
養老まで乗って来た時の寂とした車内とは様子が一変。学生の乗客と自転車がある車内。なかなかの盛況です。
そして窓の外には美しい車窓が広がり、旅の思い出にアクセントを加えてくれています。
こうした資産を多数持っている養老鉄道には、今後も頑張ってほしいです。うれしくなりました。

電車は大垣の駅に着きました。私は下車します。養老鉄道はさらに北の揖斐まで延びているそうです。機会があれば全線を乗車したいですね。それだけの魅力はありました。

さて、大垣の街です。私は大垣の駅は何度か乗り降りした経験があります。
大阪と東京を青春18きっぷで行き来する時、大垣駅は大垣行き夜行やムーンライトながらの終発着駅です。なので私は何度もお世話になりました。
ところが、大垣をきちんと観光したことは一度しかありません。

今回は短い時間ですが、レンタサイクルを借りて大垣の街を巡るつもりでした。
特に訪れたいのは奥の細道むすびの地記念館です。
松尾芭蕉が奥の細道の旅を完結したのがここ大垣なのです。
私も旅人の端くれとして、また、素人俳句詠みとして、一度は訪れてみたいと思っていました。

駅前のマルイサイクルというお店で自転車を借り、颯爽と大垣の街に繰り出しました。
自転車で旅に出るこの瞬間。これも旅の醍醐味の一つです。

商店街を抜け、しばらく行くと公園の横を通りました。ここは大垣公園です。大垣城をその一角に擁しています。
このあたりから芭蕉翁の時代の面影を宿す街並みが見えてきます。
水都の異名に恥じない美しい水路が流れ、そこに沿ってなおも走ると、住吉燈台という灯台が見えてきました。海沿いの灯台はよく見ますが、川沿いの灯台とは珍しい。しかもそれが往時の姿をとどめていることにも心が動きます。

水路にはかつて船着場だったと思われる階段があちこちに残されており、かつての水都の面影が偲ばれます。
芭蕉翁が奥の細道を終えたとされる実在の船着場の姿は、当時から何も変わっていないのでは、と思わせる風格を漂わせていました。
その船着き場のそばの川べりに建てられたのが、奥の細道むすびの地記念館です。

わが生も 締めは若葉で 飾りたし
おくのほそ道むすびの地にて

奥の細道といえば、日本史に燦然と輝く紀行文学の最高峰です。
あれほどの旅を江戸時代に成し遂げた芭蕉翁のすごさ。さらに俳句を文学的な高みまで研ぎ澄ませて作中に盛り込んだ構成。私も旅人の一人として、常々その内容には敬意を抱いていました。

旅の師を 若葉の下で 仰ぎ見る
おくのほそ道むすびの地にて

ただ、私は何も食べていません。おなかが空いています。さらに道中にも仕事上のご連絡を多くいただいていました。なのでまずは売店に直行し、食べられそうなお菓子を買い込みました。さらに併設のカフェスペースに電源があったので、お店の方に断りを入れて使わせてもらいながら、空腹を満たし、作業に勤しんでいました。
ここで購入した烏骨鶏の卵で作ったバウムクーヘンがとても美味しかった。

さて、腹がくちくなったところで、店の人に再度お断りをいれ、机にパソコンを置かせてもらい、資料館の中へ。

ここ、期待以上の展示内容でした。
芭蕉翁の奥の細道の全編を現代文に読み下した解説がパネルになって展示されています。その解説たるや、国語の教科書よりも詳しいのでは、と思わされます。これはすごい。感動しました。
私も何年か前、古文と読み下し文が併載された奥の遅道は読破しました。が、本では学べなかった詳しい内容や構成がこの資料館では学べます。
俳句を好む私のような人だけでなく、日本史や日本文学の愛好家にとってもここはお勧めできます。もちろん旅が好きな人にも気に入ってもらえることでしょう。
私もまた来ようと思いました。

あまりにも資料館に長居しており、カフェが先に閉まったことに気づかずじまい。せっかく許可をくださったスタッフの方にご迷惑をかけてしまったのは申し訳なかったです。
その分、またお伺いしたり宣伝しようと思いました。

記念館に併設された水場では美味しい水を飲めます。それを飲んで活力を得た後は、再び自転車で駅のほうへと。
大垣城の天守閣に寄ったのですが、天守はすでに閉館時刻のため、入れませんでした。
天守を背景に従えた戸田氏鉄公の騎馬姿の銅像が美しく、逆の角度からは夕日にとても映えていました。大垣城は「おあむ物語」の舞台でもあり、次回は城の見学も含めて訪れたいと思いました。

さて、時間は17時を過ぎました。マルイサイクルさんに自転車を返す時刻まではまだ余裕があります。
そうなると宿主の脳を操ってどこぞへ向かわせようとするのが私の中の悪い虫です。そやつに操られるがままに、私は次の目的地へとハンドルを切りました。
向かうは墨俣一夜城跡。後で確認したところ、大垣駅から7.3キロ離れています。
それでも行ってしまうのが私のサガ。そして持ち味。

ところがなかなか遠いのです。
一生懸命、自転車を漕いだのですが、揖斐川を超える揖斐大橋を渡り、安八町に入ったところで、引き返す潮時だと判断しました。無念です。あとで確認したら墨俣城まではちょうど真ん中でした。
そこから大垣駅へと戻り、自転車を無事に返却しました。大垣を堪能するには時間が足りなかったようです。いずれまた再訪したいと思います。
大垣駅から電車に乗り、豊橋行の新快速で名古屋へ。

名古屋に着き、せっかくなのでナナちゃん像を探しました。ですが、見つけることができません。
錦橋の名古屋ビーズホテルへと荷物を取りに戻った帰り、諦めきれずにナナちゃんを探しました。あった!ようやく見つけることができました。
インパクトのある姿を脳裏と写真に収めたところで、山本屋本店で味噌カツうどんを。
お土産は昨日お客様にお土産でいただいた名古屋名物のお菓子セットがあるので、家族にはあと一品買った程度でした。


おくのほそ道


旅。大人にとって魅惑的な響きである。旅を愛する私には尚のこと響く。名勝に感嘆し、名物に舌を肥やし、異文化に身を置く。私にとって旅とは、心を養い、精神を癒す大切な営みである。

しかし、この夏休みは、残念なことに旅に出られそうになかった。参画するプロジェクトの状況がそれを許さない事情もあった。また、私も妻も個人の仕事を飛躍させるためにも、この夏頑張らねばとの覚悟もあった。

旅立てないのなら、せめて旅の紀行に浸りたい。先人の道を想像に任せて追い、先人の宿を夢の中で同じくする。からだは仕事の日々に甘んじても、こころは自由に枯野を駆け巡りたい。それが本書を手に取った理由である。

また、私にとって俳諧とは、縁遠い物ではない。かつて一度だけ、100枚ほど出した年賀状全てに違う俳句を詠んで記したことがある。10年ほど前には、旅先で投句した句が本に載ったこともある。昨夏からは、旅先でその情景を一句詠み、旅の楽しみとして再開したこともある。たとえ駄句であっても、句を詠むことで、写真や散文には収めきれない、こころが感じた情景を残すことができたように思う。

そのような嗜好を持つ者にとって、本書は、一度はきちんと読み通さねばならない。ひと夏の読書として、本書は申し分ない伴侶になってくれるはずである。それもあって、本書のページを繰った。

おくのほそ道。云うまでもなく、本書は日本が誇る紀行文学の最高峰である。中学の古文で、必ず本書は取り上げられ、その俳諧の精神を学ばせられる。

しかし、教科書に取り上げられる際、本書の中で取り上げられる箇所はほんの僅かである。せいぜいが「月日は百代の過客にして、、」で始まる一章と、平泉、山寺、最上川下りの部分が紹介されるのが関の山か。つまり、日本人の大半は、教科書で取り上げられた僅かな部分しか、奥の細道を味わっていないといえる。偉そうにこのような文を綴っている私からして、その大半の中の一人である。古文の教科書でつまみ食いのように本書に目を通して以来、本書をじっくり読むのは四半世紀ぶりであり、通読するのは無論初めてである。

徒歩で江戸を立ち、みちのくへと向け北行し、仙台、松島、平泉へ。鳴子から出羽の国へ抜け、山寺によりながら、最上川を下って酒田へ。象潟を鑑賞し、一路南へ。親知らずの難所を超え、越中、越前を過ぎ大垣へ。今の余裕のない社会人には、同じ行程を電車や車で旅するだけでも、贅沢といえる。ましてやじっくりと徒歩で巡ることなど、見果てぬ夢である。当時の旅の辛さを知らぬ私は、ただ羨ましいと思うのみである。

本書は紀行文学であり、俳句がつらつらと並べられた句集ではない。旅先毎に、一章一章が割り当てられ、そこでの行程の苦難や、旅情を親しみ、受けた恩恵を懐かしむ。本書は一章一章の紀行文の積み重ねであり、そこにこそ、素晴らしさがある。いかに名吟名句が並べられていようとも、それらが無味乾燥に並べられている句集であるならば、本書は数世紀に亘って語り継がれることはなかっただろう。本書のかなめは紀行文にあるといってもよく、肝心の俳句は、それぞれの章に1,2句、心象風景を顕す句が添えられて、アクセントとして働いているのみである。章によっては句すら載っていない。あくまで本書は紀行文が主で、俳句は脇である。

本書の中で、人口に膾炙した有名な句として、
 夏草や 兵どもが 夢の跡
が登場する箇所がある。平泉訪問である。しかし平泉の章は、この句だけが載っている訳ではない。その前後を平泉訪問の紀行文が挟む体裁をとっている。要は松尾芭蕉と同行する弟子の河合曽良の平泉観光日記である。他の旅先では、それぞれの紀行文が章を埋める。尿前の関では馬小屋に泊まったり、酒田では地元の名士の歓待を受けたり、親不知では遊女に身をやつした女と同宿になったり、福井では同行の河合曽良と別れたり。名所旧跡をただ回るだけでなく、これぞ旅の醍醐味とも云うべき変化に富んだ紀行の内容が章ごとに展開し、飽きることを知らない。

また、本書は松尾芭蕉が主役かと思いきや、そうではない。同行の河合曽良の句も多数掲載されている。例えば日本三景の一つ、松島を訪問した際は、あまりの風光明媚な様子に、芭蕉翁からは発句できず、河合曽良の一句が替わりに載っている。これも意外な発見であった。

また、他にも私にとっての発見があった。本書はその場の即興で詠んだ句がそのまま載っている訳ではない。おくのほそ道の旅は大垣で終わるのだが、本書が江戸で出版されたのは、旅が終わって数年後のことであり、その間、芭蕉翁は詠んだ句を何度も推敲している。それは紀行文も同じである。あの芭蕉翁にして、その場で詠んだだけでは後世に残る名句を産み出しえなかったということである。これは、新鮮な発見であった。私は本書を読むまで恥ずかしながら、俳句とは即興性に妙味があると勘違いしていた。即興であれだけの句を産み出しえたことに芭蕉翁の偉大さがあると。しかしそうではない。むしろ旅から帰ってきた後の反省と反芻こそが、本書を日本文学史上に遺したのだということを教えられた。

まだ学ばされたことはある。同行する弟子の河合曽良が、曽良旅日記なる書物を出版している。その内容は本書の道程を忠実になぞったものである。その日記と本書の記述を照らし合わせると、行程に矛盾する箇所が幾多もあるとか。つまり、芭蕉翁は、あえて文学的効果を出すために、本書の章立てを入れ替えたことを示している。これも紀行文の書き方として、目から鱗が落ちた点である。ともすれば我々は、紀行文を書く際、律義に時系列で旅程を追ってしまいがちである。しかし、紀行文として、旅程を入れ替えるのもありなのだ、ということを学べたのは、本書を読んだ成果の一つである。

そして、私が旅日記を書く際の悪癖として自覚しているのが、旅程の一々をくどくどと書かねば気が済まないことである。しかし、本書の筆運びは簡潔にして要を得ている。紀行文が簡潔ならば、添えられた句はさらに簡潔である。読者は本書の最小限の記述から、読者それぞれの想像力を羽ばたかせ、芭蕉翁の旅路を追うことになる。無論、そこには読者にもある程度の時代背景や文化を読み解く力が求められる。

そのため、本書は久富哲雄氏の詳細な注釈と現代語訳が各章に亘って付されている。注釈だらけの本は、構成によっては巻末にまとめて並べられていることが多い。そのような本は、毎回ページを繰り戻すことになるので、得てして読書の興を削ぎがちである。しかし本書は章ごとに原文と現代語訳と注釈が添えられ、理解しながら読み進められるようになっている。

また、これは巻末になるが、旅程の地図も詳細なものが付けられている。地図を見るのが好きな私にとり、嬉しい配慮である。ましてや本書をひと夏の旅の替わりとして使いたいといった私の目的に合致しており、読みながら道中のイメージを膨らませることができた。

この夏は、幸いなことに実家の両親を共にし、丹後方面に旅をすることができた。日本三景の一つ、天橋立を自転車で往復することもできた。芭蕉翁は確か天橋立には訪れていないとか。私が本書を読んだ成果を句に残したことは云うまでもない。本書から受け継いだ俳諧の精神を込めたつもりだったが、推敲したからといって、その域には遠く及ばぬものだったのは云うまでもない。芭蕉翁は未だに遠い。

’14/07/24-‘14/08/10