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無頼のススメ


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私は独り。一人で生まれ、独りで死んでいく。

頭で考えれば、このことは理解できるし受け入れられる。だが、孤独でいることに耐えられる人はそう多くない。
独りでいることを受け入れるのは簡単ではない。

群れなければ。仲間といなければ。
新型コロナウイルスの蔓延は、そうした風潮に待ったをかけた。
独りで家にこもることが良しとされ、群れて酒を飲むことが悪とされた。
コロナウイルスのまん延は、独りで生きる価値観を世に問うた。

孤独とは誰にも頼らないこと。つまり無頼だ。

無頼。その言葉にはあまり良いイメージがない。それは、無頼派という言葉が原因だと思われる。
かつて、無頼派と呼ばれた作家が何人もいた。その代表的な存在として挙げられるのは、太宰治と坂口安吾の二人だろう。

女性関係に奔放で、日常から酒やドラッグにおぼれる。この二人の死因は自殺と脳出血だが、実際は酒とドラッグで命を落としたようなものだ。
既存の価値観に頼らず、自分の生きたいように生きる。これが無頼派の狭い意味だろう。

本書のタイトルは、無頼のススメだ。
著者は、広い意味で無頼派として見なされているそうだ。ただ、私にとって無頼派のイメージは上に挙げた二人が体現している。正直、著者を無頼派の作家としては考えていなかった。

だが、そもそも作家とは、この現代において無頼の職業である事と言える。
ほとんどの人が組織に頼る現在、組織に頼らない生き方と言う意味では作家を無頼派と呼ぶことはありだろう。

今の世の中、組織に頼らなければやっていけない。それが常識だ。だが、本当に組織に頼ってばかりで良いのだろうか。
組織だけではない。
そもそも、既存の価値観や世の中にまかり通る常識に寄りかかって生きているだけでよいのだろうか。
著者は、本書においてそうした常識に一石を投じている。

人生の先達として、あらゆる常識に頼らず、自分の生き方を確立させる。著者が言いたいのはこれだろう。

著者はそもそも出自からしてマイノリティーだ。
在日韓国人として生を受け、厳しい広告業界、しかも新たな価値を創造しながら、売り上げにつなげる広告代理店の中で生き抜いてきた人だ。さらには作家としても大成し、ミュージシャンのプロデュースにまで幅を広げている。著者が既存の価値観に頼っていれば、これだけの実績は作れなかったはず。
そんな著者の語る内容には重みがある。

「正義なんてきちんと通らない。
正しいことの半分も人目にはふれない。
それが世の中というものだろうと私は思います。」(19ページ)

正義を振りかざすには、それが真理であるとの絶対の確信が必要。
価値観がこれほどまでに多様化している中、そして人によってそれぞれの立場や信条、視点がある中、絶対的な正義など掲げられるわけがない。

また、著者は別の章では「情報より情緒を身につけよ」という。
この言葉は、情報がこれほどまでに氾濫し、情報の真贋を見抜きにくくなった今の指針となる。他方で情緒とは、その人が生涯をかけて身に付けていくべきものだ。そして、生きざまの表れでもある。だからこそ、著者は情緒を重視する。私も全く同感だ。

ノウハウもやり方もネットからいくらでも手に入る世の中。であれば、そうした情報に一喜一憂する必要はない。ましてや振り回されるのは馬鹿らしい。
情報の中から自分が必要なものを見極め、それに没頭すること。全く同感だ。

そのためには、自分自身の時間をきちんと持ち、その中で自分が孤独であることを真に知ることだ。

著者は本書の中で無頼の流儀についても語っている。
「「酒場で騒ぐな」と言うのは、酒場で大勢で騒ぐ人は、他人とつるんでヒマつぶしをしているだけだからです。」(64ページ)

「人をびっくりさせるようなことをしてはいけない。」(65ページ)
「人前での土下座、まして号泣するなんて話にもならない。」(65ページ)

「「先頭に立つな」というのも、好んで先頭に立っている時点ですでに誰かとつるんでいるから。他人が後からついてくるかどうかなんて、どうでもいいだろう。」(65ページ)

老後の安定への望みも著者はきっぱりと拒む。年金や投資、貯蓄。それよりも物乞いせず、先に進む事を主張している。

「「私には頼るものなし、自分の正体は駄目な怠け者」」(96ページ)
そう自覚すれば他人からの視線も気にならない。そして、独立独歩の生き方を全うできる。冒頭で著者が言っている事だ。

そもそも著者は、他人に期待しない。自分にも期待しない。
人間は何をするかわからない生き物だと言い切っている。
「実際、「いい人」と呼ばれる人たちのほうが、よっぽど大きな害をなすことがあるのが世の中です。」(107ページ)

著者は死生観についても語っている。
「自分が初めて「孤」であると知った場所へと帰っていくこと。」(130ページ)

「なぜ死なないか。

それは自分はまだ戦っているからです。生きているかぎり、戦いとは「最後まで立っている」ことだから、まだ倒れない。」(131ページ)

本書は一つ一つの章が心に染みる。
若い頃はどうしても人目が気になる。体面も気にかけてしまう。
年月が過ぎ、ようやく私も経営者となった。娘たちは自立していき、自分を守るのは自分であることを知る年齢となった。

これからの人生、「孤」を自分の中で築き上げていかねばならないと思っている。

努力、才能、そして運が左右するのがそれぞれの人生。それを胸に刻み、生きていきたい。

著者は運をつかむ大切さもいう。時代と巡り合うことも運。

私の場合は技術者としてクラウドの進化の時代に巡りあえた。それに職を賭けられた運に巡り合えたと思う。
だが、著者は技術そのものについても疑いを持つ。
「技術とは、人間が信じるほどのものではなくて、実は曖昧で無責任なものではないか。
技術革新と進歩には夢があるように聞こえるけれど、技術を盲信するのは人間として堕落しているということではないか。私は、人類みんなが横並びで進んでいくような技術の追求は、いつか大きな失敗をもたらすような気がしてなりません。」(174ページ)

私もまだまだ。人間としても技術者としても未熟な存在だ。多分、ジタバタしながら一生を生き、そして最後に死ぬ。
そのためにも、何物にも頼らず生きる。その心持だけ常に持ちたいものだ。とても良い一冊だと思う。

2020/9/1-2020/9/1


アクアビット航海記-私の技術とのかかわり方


「アクアビット航海記」では、個人事業主から法人を設立するまでの歩みを振り返っています。
その中では、代表である私がどうやって経営や技術についての知識を身につけてきたかについても語っています。

経営や技術。それらを私は全て独学で身につけました。自己流なので、今までに数えきれないほどの失敗と紆余曲折と挫折を経験して来ました。だからこそ、すべてが血肉となって自分に刻まれています。得難い財産です。

本稿では、その中で学んだ技術の学び方を語りたいと思います。
私自身が試行錯誤の中で培ってきたノウハウなので、これを読んでくだった方の参考になれば幸いです。

ただし先に断っておきますと、私の技術力などそれほど大したものではありません。しょせんは独学ですし。
今までに参画してきた常駐現場では多くの凄腕技術者を見てきました。私が最近棲息しているkintone界隈でも私より技術力の優れた人は無数にいます。
そのため、技術力だけで考えれば、私など手本にする価値はありません。

私が皆さんにお伝えできるのは、最小限の努力で必要な技術を身に付ける嗅覚です。それは備えてきたと思います。本稿ではそれを参考にしてもらえればと思います。

モチベーション

ずばりいうと、私の技術へのモチベーションは、面倒くさがりから来ています。さらに飽きっぽさと。

例えば仕事で何か面倒な作業が必要になったとします。
そう、Excelのブックからブックへの転記のような。

これ、一回や二回ならまだいいのです。でもそれが十回繰り返されてくると、とたんに繰り返しに飽きてしまうのです。そして作業が面倒に思えてしまうのです。これは毎日、同じ場所に通勤する営みについても同じ。

そうなると、この面倒くさい作業をやめるためにどうすればよいか、私の脳内がざわめきだすのです。

多分、新たな仕組みやアルゴリズムを考える労力の方が、繰り返す作業よりも大変なのでしょう。でもそんなことは関係がありません。それ以上同じ作業をしたくない。その思いの方が圧倒的に強いため、私を衝き動かします。アルゴリズムや仕組みを考えることは、繰り返しの作業とは無縁です。飽きないし面倒くささも感じません。本連載第二十五回で書いたように集計作業が面倒でExcelのマクロを作ったのはまさにこの実例です。

選ぶ

今までのキャリアで、私はさまざまな技術や言語に触れてきました。この言語や技術の選び方は、案外大切ではないかと思います。

私はどちらかというと新しいもの好きです。ところが、私のキャリアを振り返ってみると、言語や技術の選択に当たってそこまで冒険をしていません。

例えば、PCはWindowsとMs-Officeを主に使ってきました。サーバーを自分で構築する際も、ファイルサーバーはSamba、LAMP(Linux+Apache+MySQL+PHP)でウェブ環境を構築してきました。CMSはWordPressを主に扱いました。クラウドにしても、βテスターとして関わり始めたころのkintoneは無名でしたが、運営元のサイボウズ社はそのころからすでにグループウエアの雄として業界に地位を確立していました。今やkintoneはわが国でも著名なPaaSに成長しています。

今までに私が携わった技術や言語の中で衰退してしまったものを挙げてみます。ファイルサーバーのSambaやその際にMacをつないだAppleTalk。サービス連携の言語はJSONではなくXMLを学びました。常駐先で触る必要があったLotus NotesやLotus Scriptは衰退の最たるものです。あとはLinuxでサーバーを構築した際、採用したDistributionのRedHat LinuxやMiracle Linuxも今はあまり聞きません。

若い頃に得たVisual Basicの知識やLampの知識が今も生かせることは、私のキャリアにとってとても幸運だったと思います。衰退した言語や技術の習得に使った時間が無駄にならずに済んだので。このことは私のキャリアを考える上でとても重要だと思います。

その際、私がどういう基準で言語や技術を選んだのかは、あまり覚えていません。ただ、その当時からシェアが高いものを選んだように思います。また、安価な環境で使える言語であることも重要でした。例えばスクリプト言語はphpであれば安価なレンタルサーバーでも使えましたが、pythonやgoはサーバーにインストールする必要があったため、学びの対象から外しました。

シェアが高いということは、サポートサイトも多いということ。サポートサイトを必死に読み込めば、たいていのヒントはおのずから公開されていることに気づきます。おそらく私はそれらを踏まえながら、自分の学ぶべき言語を選んでいったように思います。

この時に単に新しいからといって新奇な言語や技術にあまり手を出さなかったことが、私のキャリアをあまり回り道に進ませずに済んだと思います。

調べる

自分が知りたいこと、実装したいことをどう調べると効率的か。

これはとても重要なところです。私が自分でプログラムに関心を持ち始めたのは1999年。まだインターネットが世間に広く使われ始めたばかりのころです。今のように少し検索するだけで技術資料が閲覧できる時代ではありません。つまり、書籍が頼りでした。

書籍は、その分野の全てを語ろうとします。まず、総論から始まり、その後で個別の説明を展開していきます。私はそうした総論の類を読みません。まっすぐ自分が求める機能を探します。書籍の場合は目次や索引が付されていますので、そこから探すと目指す機能を学べます。

その機能の説明を読むと、自分の知らない事が次々に出てきます。メソッドや関数の記述。名前空間や言語体系。細かい文法など。それらを総当たりで調べていきます。その際も、名前空間についての総論は読み飛ばします。直接、該当する名前空間の書き方を探します。そうやって個別の自分の知りたいことだけを拾いながら、その積み重ねで全体を把握していく。それが私のやり方です。
ちなみに私は読書が大好きです。が、本を読む際は全く逆のアプローチをとります。途中の部分を読むなどもってのほか。必ず最初から最後まで通して読みます。ところが不思議なことに技術書を読む際だけはそのやり方だとうまく覚えられないのです。

私が技術の世界に触れ始めたころと違い、今はネット上から情報を得ることができます。ですが、その情報には書籍のような目次・索引がありません。つまり検索エンジンを使うしかないのです。この検索の際にキーワードを入力しますが、そのキーワードにもコツがあります。

技術の言語は国際的に英語が使われています。そのため、日本語だけで検索しても求める検索結果にヒットしないことがほとんどです。まず具体的な文言を英語も含めて検索します。また、エラーメッセージにあたった際はそのメッセージを検索文言に含めます。すると、求める結果が得られると思います。その際、英文が出てきたら大意ぐらいはつかめるぐらいの英文読解力があると楽です。その上でGoogle 翻訳やDeepLのような翻訳サイトを使って日本語で意味をつかみます。

なお、当たり前ですが得た結果をきちんと読解する力は必要です。私は文系学部で学んだ技術者ですが、読解力が私のキャリアを助けてくれたと確信しています。パッと読んで分かったつもりになってしまうと、結局遠回りになります。じっくりと文章を読むように心がけましょう。

実装する

この後の連載で、私がどのように実装の経験を積んでいったかは書いていく予定です。独立するまでにはかなりの回り道と試行錯誤と無数の失敗を繰り返しました。

日中は現場に常駐していた私が、個人の業務で無理せずに実装するにはどうすればよいか。全ては五里霧中の中でした。少しずつ実績を積み上げられ、しかも安価な投資額で実装環境が整えられるような案件を痛い失敗の中で少しずつこなしていったのが私のキャリアです。kintoneに出会うまでは。

私のように個人事業主から法人を設立するまでの歩みは、自分でいうのもなんですが、相当難しいと思います。

私のようにホームページの制作から始め、まずHTMLやCSS、JavaScriptを操るスキルを身に付け、そこからサーバーの選定や調達に進み、さらにphpなどの言語がデフォルトであるWordPressのようなCMSに手を染めていくと、キャリアとしてよいのではないかという気がします。この路線は、今のところまだ衰退の兆しがそれほどなさそうですし。

その際も、自分でサーバーを立ち上げ、LAMPをインストールし、AWSやGCP、Azureといったより高度な環境を選ぶより、まずは小規模な環境から始められる規模の案件をこなすとよいでしょう。要するに安価なレンタルサーバーでも十分要件が満たせるようなものです。

ブレイクスルー

とはいえ、ロジックの構築や予期せぬバグの出現など、実装にあたっては問題が生じます。

それをどのように克服していくかは切実な問題です。それで挫折し、折れた心を抱えながら情報処理業界からも去っていく人もいるでしょう。

そもそも、どれだけ本やウェブサイトを読んでも概念がちっともつかめない場合、どうすればよいのでしょう。正直、私にも概念がつかめずに苦戦したことが何度もありました。本連載第三十二回で書いた、行列のExcelからAccessの三次元を理解したのはまさにその一つ。

そこでも書きましたが、当時チームの部下だった年下のOさんに教えを請いました。そこで教えてもらったことで私は一つ目のブレークスルーを果たしました。この時、妙なプライドや自負があって独学にこだわっていたら、今の私はなかったと思います。

私はキャリアのほとんどを独学で積み上げてきたことに誇りも自負も持っています。ですが、今でもまだまだ分からないことが無数にあります。今の私がそうした事態にぶつかった時、二回り以上も年が離れた部下に教えを請い、頭を下げられると確信できます。しょせんは私のキャリアなど独学であり、正当に大学で情報科学を学んだ方には絶対に勝てないことが分かっていますので。

ブレークスルーを果たすには、自分の中で突き詰めて考えることは必要です。でも、概念を理解するためのちょっとした気づきを自分の中だけで得るのは難しいでしょう。その時、相手が誰であろうとヒントを与えてくれる方には頭を下げ、謙虚でいられるかどうか。それが出来る技術者こそが、年配になっても現役でやれる人だと思います。

加齢による好奇心の枯渇

かつてはプログラマー35才限界説、というものがまことしやかに言われていました。35才を超えるとプログラマーとしては使い物にならない、というやつです。

この説はある部分ではあたっています。ただし、それはアルゴリズムの構築が35才を迎えた途端にできなくなる、という意味ではありません。当たっているのは年齢による体力の問題です。それはどうしようもありません。徹夜でコーディングする作業は40歳を過ぎると難しくなるのではないでしょうか。

むしろ、ロジックの組み立てをきちんと自分の頭で考えた経験を35歳までに積んでいることのほうが大切かと。そうした経験があれば、60歳の半ばであっても第一線で問題なくやれると思います。身近にその生きた例を知っています。私自身、50歳の声が聞こえ始めていますが、まだやれると思っています。

また、今の言語はフレームワークなども充実しています。また、基本的なアルゴリズムについてはライブラリが豊富に用意されています。そのため、それを呼び出すだけでよいのです。加えてkintoneのようなPaaSを使えばデータベースの構築や通知・権限設定も手間をかけずに実装できます。

そうした意味ではプログラマー35才限界説とは、かつて情報処理業界の言語や環境が発展途上だったころの名残だと思っています。ちなみに私は文系学部の出身なので、文系プログラマー限界説にも反対の立場です。女性エンジニアの方も優秀な方が多いので、男性だけが優位というのも間違っています。

ただし、それ以外に限界説が当てはまる人はいます。それは体力の問題ではなく、心の柔軟さの問題です。肉体とともに心は徐々に柔軟さを失っていきます。実年齢が30歳であっても、自分が持っている技術や環境から学ぼうとしないと、35才よりも前に限界を迎えます。上に書いたように、自分より詳しい若手に頭を下げられるかも限界の年齢を決めるでしょうね。

例えば新卒で情報処理業界に入り、会社が用意してくれた既存の業界や言語や環境の中で安定した仕事をこなしていたとします。その状態に甘んじて新たな言語や環境を学ぼうとしなかったとすれば、老いはより早くあなたをむしばむはずです。そして気が付いたときには技術者としての活躍の場がない、という悲劇に遭遇します。

私自身、今からDeep LearningやMachine Learning、ブロックチェーンや3Dプリンターを学ぶには億劫な思いを感じます。概念は大体理解しているつもりですが、それを新たな実装として試してみようとする気概が出てきません。私にも間違いなく老いは忍び寄っています。

それを防ぐには好奇心を持ち続けるしかないと思います。これは私の価値観ですが、仕事だけが毎日ではないと思います。さまざまなプライベートの趣味や出会いや楽しみを持ち、仕事以外に多様な刺激を受けるような環境に身を置く。それが40代50代になって少しずつ効いてきて、あなたの身を助けてくれるはずです。

まとめ

私なりに技術との関り方をまとめてみました。もちろんこれは私の例にすぎません。人によってそれぞれのやり方があるはず。ここに書いた内容を基に、皆さんがそれぞれの立場で取り入れられる点があれば、取り入れていただければと思います。


アクアビット航海記 vol.40〜航海記 その25


あらためまして、合同会社アクアビットの長井です。
弊社の起業までの航海記を書いていきます。以下の文は2018/4/5にアップした当時の文章が喪われたので、一部を修正しています。
今回は正社員として担うことになったさまざまな業務について語ってみます。これらの経験はどれも私の起業に役に立ちました。

正社員としての任務


さて、当時の私がぶち当たっていた壁。それは家の処分だけではありません。
仕事の上でも私にとって乗り越えるべき試練が次々に押しよせていました。
今回はそのことを書いていこうと思います。どれもが”起業”には欠かせない経験でした。

本連載の三十三回でも書いた通り、スカパーカスタマーセンターの運用サポートチームに引き上げられ、パソナソフトバンク社の正社員にも登用してもらった私。
正社員になってしばらくして後、私の現場での肩書は”集計チーム マネージャー”へと変わりました。

正社員になったことによって、私に求められる役割はさらに増えました。集計チームのマネージャーとして現場の集計業務を管理しながら、派遣元であるパソナソフトバンク社の業務にも貢献することが求められていきます。
立場が変わるとやるべきことも増える。そのあたりのいきさつは本連載の三十一回でも少しだけ触れています。

今回はその部分をもう少し突っ込んで書いてみたいと思います。

正社員になったことで私に課せられた新たな任務。それは大きく四つが挙げられます。
そのどれもが私にとって初めての経験でした。
今から思うと、これらの任務を経験したことは、後年の私が”起業”するにあたっての糧となりました
自分の仕事だけしていればよかった立場から、より広い視野へ現場の仕事だけが仕事ではないという気づき。この気づきを初めて得たのはこの時期だったように思います。

一つ目は、日々のオペレーター・スーパーバイザーさんの出退勤管理システムの保守。
二つ目は、お客様(スカパー社)への月次の請求書発行。
三つ目は、カスタマーセンターの外に出て、作業や商談で別のお客様を訪問。
四つ目は、現場のプライバシーマーク取得や、センター移動の担当としての作業。

システム保守の経験


まず一つ目のシステム保守です。
私が「登録チーム」や「集計チーム」で作業するために集計ツールをマクロで作ったことは本連載でも書きました。
とはいえ、それらはあくまでも自分のためだけに使うものでした。バグを検知するのも自分ならば、それを修正するのも自分。「登録チーム」で作った集計ツールは、同僚のスーパーバイザーからの要望やバグの指摘に対応すればよいだけでした。集計チームでも集計結果のずれなどを指摘されれば直しますし、自分で速度を上げるために改善を行っていました。ですが、使うのはあくまでも集計チームの中だけ。

ところが、私が保守の担当に任じられた出退勤管理システムの使用者の数はそれまでと二桁は違います。全てのオペレーターさんとスーパーバイザーさんを合わせると何百人が使うシステム。
皆さんは朝夕に打刻し、その打刻データは集計してスカパー社への月次の請求に使います。パソナソフトバンク社の事務スタッフだったMさんやSさんも使います。もはや、今までのように私だけが使うシステムではなくなりました。バグなどで動かなくなると端末の前にみなさんが並ぶのです。その列は、自分の管理するシステムが業務に影響を与える現実を私に教えてくれました。

その出退勤管理システムはこのような仕組みでした。
まず、それぞれのスタッフが持つ入館証代わりのカードに印刷されたバーコードを、館内の入り口に設置した端末のバーコードリーダーで読み取ります。Microsoft Accessで作られたそのシステムは、読み取られたバーコードを元に対象者と打刻時刻を内部テーブルに保存します。そのデータをパソナソフトバンク社のMさんやSさんがやってきてフロッピーディスクに保存し、別フロアのパソコンにインストールしてある分析用のアクセスに取り込みます。そのデータが月次の請求や支払のデータに加工されます。

私はこの出退勤管理システムの開発には一切携わっていません。私がカスタマーセンターに入る前からこのシステムは動いていました。このシステムの開発者にも会ったことがなく、仕様書もマニュアルもありません。すべては手探りの中、出退勤管理システムの保守を行っていました。

例えば、当時のMicrosoft Access(確か97でした)は、定期的に最適化をしないとデータ容量が肥大する仕組みでした。この出退勤管理システムは自動的に最適化を行うように作られておらず、たまに止まりました。止まると打刻ができないので長蛇の列ができ、私の元にアラートを告げる使者がやってきました。
それだと困るので、後日、最適化作業は自動で行えるように実装しました。

私が出退勤管理システムに対してやるべき保守作業は他にもありました。たとえばアクセス自体のバージョンアップや、リースパソコンの切り替えなどです。
そのたびに、私はMicrosoft Accessの仕様や機能を調べた上で作業していました。

保守担当が担う責任。それは私にとってステップアップでした。人に使ってもらうシステムに携わることは、自分の仕事の結果が人に影響を与える。それを私に教えてくれました。
今でこそ、私はさまざまなシステムの保守を行っています。が、この時が私にとって初めてのシステム保守の経験でした。まさに技術者の原点となる経験だったと思います。
この出退勤管理システムはMicrosoft Accessの仕組みを学ぶ良い教材でした。また、保守業務のコツのようなものを学べたのもこのシステムからでした。
今さら、支障もないと思うので、システムの名前を書いてしまいます。この出退勤管理システムはMareと名付けられていました。ありがとうMare。なんの略かは忘れましたが。

請求業務で金銭の厳しさを


二つ目は、お客様への請求書を作る任務です。
パソナソフトバンク社からは、何百人ものオペレーターさん、数十人のスーパーバイザーさん、十数人のマネージャーさんがスカパーカスタマーセンターに派遣されていました。当然、毎月の労働に対する請求をスカパー社へ提出しなければなりません。私はこの請求書の作成担当に任命されました。
上に書いたMareで集計したオペレーターさん、スーパーバイザーさんの勤務時間を取りまとめ、さらに別報告で集計されたマネージャーさんの勤務時間を加えます。
これらを月末で締めた後、翌月の第何営業日までかは忘れましたが、スカパー社のご担当者に請求書として提出する。それが私に課せられたタスクでした。

この作業が大変でした。多くのスタッフさんの請求額ですから、金額も膨大な額に上りました。作りあげた請求書に記載される額面は、20代の私には遥かな高みでした。
さらに請求書は業務ごとの案分が組み込まれ、特殊な計算式がてんこ盛りでした。毎月のように請求書のレイアウトは変わり、Excelのマクロ(VBA)による省力への試みを拒みます。
関数の位置がずれ、結果に矛盾を生じさせるたびにご担当者さまのお叱りを受ける。そんな毎月でした。私は月末と月初はこの作業に懸かりきりになっていました。

当時の私にとって、この作業はことのほか難しい作業でした。でも私は、この任務によってExcel関数をより効率的につかうすべを身につけたように思います。
そして、請求とはシビアな営みであり、間違うととんでもないことになる緊張感を学びました。請求とは厳密さが求められ、たとえ一円でもゆるがせにできません。商売の基本となる素養をこの時期に培ったことは、私の”起業”にとって大きな糧となり、“起業”した今もなお私の中に生きつづけています。とても得がたい経験をさせてもらいました(もっとも私の値段設定や財務管理にはいまだに反省すべきことが多いのですが。)
あまりにもやりとりが密に行っていたせいか、スカパー社のご担当者の方と年賀状をやりとりするまでになったのは懐かしい思い出です。

商談に臨み、視野を広げる


三つ目は、外部への訪問です。
当時のパソナソフトバンク社にとって、スカパー社は大口のお客様だったはずです。ですが、スカパー社だけがお客様ではありません。
正社員に雇用された私には、他のお客様でも売上を立てることが求められました。その要請に従い、私はスカパー社以外のお客様を訪問するようになりました。例えば集計の仕組みを作るためお客先のもとに赴いたり、商談に同席するために外出したり。

パソナソフトバンク社では社員向け研修の一環として、名刺の交換などのビジネスマナー研修を行っていました。私もその研修でビジネスの初歩のノウハウを吸収しました。
ただ、研修では実際の商談までシミュレーションしてくれません。そして、商談はいつも本番です。商談への同席など、それまでの私の三十年足らずの人生で未経験でした。

パソナソフトバンクにいる間、私が単身で商談に臨むことはありませんでした。そもそも商談の進め方もわからず、何をどう準備すればよいのかも知らない当時の私が商談などできるわけがありません。まず私は、商談への同行から経験を積みました。商談の場に同席し、営業担当者の横でコクコクとうなづくだけのさえない若輩者。それが私でした。何もかもが不慣れで、全てが見習い。どの時間も勉強でした。

でも何度か商談に臨むうちに、言葉も挟むタイミングがおぼろげに理解できるようになりました。横に座っているだけなのも芸がないので、何かしようと口をはさむようになりました。
最初はうなづくだけだった私も、何度か商談に臨むうちに徐々に商談の空気感を体得していったように思います。
この時、商談の経験を踏めたことが”起業”した今では役に立っています。私を商談に臨む機会を与えてくれたパソナソフトバンク社には感謝です。正社員のお誘いを受諾してよかったことの一つだと思っています。

コンプライアンス意識の醸成


四つ目の任務では、コンプライアンスの意識を学びました。
今の私はコンプライアンスなどの横文字言葉を平気で口にします。でも当時の私はそんな言葉など知りませんでした。ましてや当時はY2K問題の記憶もまだ新しい頃。プライバシーを守る風潮もセキュリティを順守する意識もまだ世の中には根付いていませんでした。
そもそも当時はSNSなどごく一部の方のものでした。アンチウイルスやファイアウォールのソフトウエアをインストールし、怪しげなメールの添付ファイルは開かず、Windows Updateをきちんと実施していれば無問題だった古き良き時代です。

ところが、カスタマーセンターとは個人情報の宝庫です。ですから個人情報保護が至上の指針となるのは当然です。
上に書いたような普通の対策で済みません。きちんとした個人情報保護の対策をとっていますよ、と世の中に知らしめる必要がありました。
そこで、スカパーカスタマーセンターはお客様に安心していただくためにセキュリティ認証を取得することにしました。その認証とはプライバシーマーク。
ところがプライバシーマークを取得するのはそう簡単にはいきません。そのため、スカパーカスタマーセンターに参画していた各社ベンダーにも協力を仰ぎ、センターを挙げて取得へまい進する指令がくだりました。パソナソフトバンク社もベンダーの一社です。そしてパソナソフトバンク社の担当者として任命されたのが私でした。

言うまでもなく、当時の私にセキュリティに対する深い知見も現場をリードできる力量もありません。会議では席に座っているだけでした。やることといえばスカパー社の求める調査項目を入力し、各チームに調査を依頼するぐらい。
ただ、この時にプライバシーマーク取得のための実務を経験できたことは、私にとってまたとない財産となりました。なぜなら個人情報を保護する作業がどれほど大変で労力を要することか、身をもって知ることができたからです。
プライバシーマーク取得に向けてやらねばならないタスクはクリアデスクや施錠の励行だけではありません。書類の管理者やごみの捨て方、ごみを廃棄する方法やごみ廃棄業者の管理監督まで事細かく決めねばなりません。それほどまでに大変な作業をへて、ようやくセキュリティやプライバシーが保てるのです。

私はプライバシーマーク取得の担当になったことで、セキュリティ遵守の意識が身につきました。これは大きかった。なぜなら後年、私が独立し、何カ所もの開発センターを渡り歩く上で求められるコンプライアンス意識が事前に身につけられたから。”起業”した今もそうです。
むしろ、通常の業務が多すぎるのに、いちいちセキュリティに意識を払っていては業務に支障を来たします。無意識のうちにコンプライアンスを実践できるぐらいでなければ。機密保持のための行動など呼吸をするかのように無意識にこなせなければとても”起業”など務まりません。そのための「無意識の意識」を私はプライバシーマークの担当者の任務から会得しました。

もう一つ、私がベンダーの担当者として参加したことがあります。それはカスタマーセンターの移転・増床の作業です。この時もわたしはお座り担当で、あまり大したことはできなかったように思います。ただ、この時に大規模なセンターの移転の現場を体感できたことも、後年の私にとっては武器となりました。

今、株式会社スカパー・カスタマーリレーションズ様の会社沿革のページを見ると、この移転のことが年表に記されています。それによるとYBP内のセンターの移転は2001年の5月と書かれています。そして、プライバシーマークの認定取得は2003年6月と書かれています。
その間に行われたのが、日韓共催ワールドカップです。

日韓共催ワールドカップの前、カスタマーセンターは嵐のような日々でした。それはまた次回に。ゆるく永くお願いします。


波形の声


『教場』で文名を高めた著者。

短編のわずかな紙数の中に伏線を張り巡らせ、人の心の機微を描きながら、意外な結末を盛り込む手腕には驚かされた。
本書もまた、それに近い雰囲気を感じる短編集だ。

本書に収められた七つの短編の全てで、著者は人の心の暗い部分の裏を読み、冷静に描く。人の心の暗い部分とは、人の裏をかこう、人よりも優位に立とうとする人のサガだ。
そうした競争心理が寄り集まり、混沌としてしまっているのが今の社会だ。
相手に負けまい、出し抜かれまい。その思いはあちこちで軋轢を生み出す。
そもそも、人は集まればストレスを感じる生き物だ。娯楽や宗教の集まりであれば、ストレスを打ち消すだけの代償があるが、ほとんどの集まりはそうではない。
思いが異なる人々が集まった場合、本能として競争心理が生まれてしまうのかもしれない。

上に挙げた『教場』は、警察学校での閉じられた環境だった。その特殊な環境が物語を面白くしていた。
そして本書だ。本書によって、著者は一般の社会のあらゆる場面でも同じように秀逸な物語が書けることを証明したと思う。

「波形の声」
学校の子供達の関係はまさに悪意の塊。いじめが横行し、弱い子どもには先生の見えない場所でありとあらゆる嫌がらせが襲いかかる。
小学校と『教場』で舞台となった警察学校。ともに同じ「学校」の文字が含まれる。だが、その二つは全く違う。
本編に登場する生徒は、警察官の卵よりも幼い小学生たちだ。そうした小学生たちは無垢であり、高度な悪意は発揮するだけの高度な知能は発展途上だ。だが、教師の意のままにならないことは同じ。子どもたちは自由に振る舞い、大人たちを出し抜こうとする。先生たちは子どもたちを統制するためにあらゆる思惑を働かせる。
そんな中、一つの事件が起こる。先生たちはその問題をどう処理し、先生としての役割をはたすのか。

「宿敵」
高校野球のライバル同士が甲子園出場をかけて争ってから数十年。
今ではすっかり老年になった二人が、近くに住む者同士になる。かつてのライバル関係を引きずってお互いの見栄を張り合う毎日。どちらが先に運転免許証を返上し、どちらが先に車の事故を起こすのか。
家族を巻き込んだ意地の張り合いは、どのような結末にいたるのか。

本編は、ミステリーや謎解きと言うより人が持つ心の弱さを描いている。誰にも共感できるユーモアすら感じられる。
こうした物語が書ける著者の引き出しの多さが感じられる。とても面白い一編だ。

「わけありの街」
都会へ送り出した大切な息子を強盗に殺されてしまった母親。
犯人を探してほしいと何度も警察署に訴えにくるが、警察も持て余すばかり。
子供のことを思うあまり、母親は息子が住んでいた部屋を借りようとする。

一人でビラを撒き、頻繁に警察に相談に行く彼女の努力にもかかわらず、犯人は依然として見つからない。
だが、彼女がある思惑に基づいて行動していたことが、本編の最後になって明かされる。

そういう意外な動機は、盲点となって世の中のあちこちに潜んでいる。それを見つけだし、したたかに利用した彼女への驚きとともに本編は幕を閉じる。
人の心や社会のひだは、私たちの想像以上に複雑で奥が深いことを教えてくれる一編だ。

「暗闇の蚊」
モスキートの音は年齢を経過するごとに聞こえなくなると言う。あえてモスキート音を立てることで、若い人をその場から追い払う手法があるし、実際にそうした対策を打っている繁華街もあるという。
その現象に着目し、それをうまく人々の暮らしの中に悪巧みとして組み込んだのが本編だ。

獣医師の母から折に触れてペットの治療や知識を伝授され、テストされている中学生の息子。
彼が好意を持つ対象が熟女と言うのも気をてらった設定だが、その設定をうまくモスキート音に結びつけたところに本編の面白みがあると思う。

「黒白の暦」
長年の会社でのライバル関係と目されている二人の女性。今やベテランの部長と次長のポジションに就いているが、一人が顧客への対応を間違えてしまう。
会社内の微妙な人間関係の中に起きたささいな出来事が、会社の中のバランスを揺るがす。
だが、そうした中で相手を気遣うちょっとした振る舞いが明らかになり、それと同時に本編の意味合いが一度に変わる。

後味の爽やかな本編もなかなか面白い。

「準備室」
普段から、パワー・ハラスメントにとられかねない言動をまき散らしている県庁職員。
県庁から来たその職員にビクビクしている村役場の職員たち。
その関係性は、大人の中の世界だからこそかろうじて維持される。

だが、職場見学で子どもたちがやってきた時、そのバランスは不安定になる。お互いの体面を悪し様に傷つけずに、どのように大人はバランスを保とうとするのか。
仕事の建前と家庭のはざまに立つ社会人の悲哀。それを感じるのが本編だ。

「ハガニアの霧」
成功した実業家。その息子はニートで閉じこもっている。そんな息子を認めまいと辛辣なことをいう親。
そんなある日、息子が誘拐される。
その身代金として偶然にも見つかった幻の絵。この絵を犯人は誰も取り上げることができないよう、海の底に沈めるように指示する。

果たしてその絵の行方や息子の命はどうなるのか。
本書の中ではもっともミステリーらしい短編が本編だ。

‘2020/08/13-2020/08/13


リモートチームでうまくいく


著者の名前は今までも、さまざまなインタビューやネットニュースなどで拝見してきた。著者が経営するソニックガーデン社の取り組み事例として。
著者の登場する記事の多くはCybozu社に絡んでいることが多い。
そういえば、一時期、私と同じくkintoneのエバンジェリストだった方もソニックガーデン社の社員だった。
それもあって著者やソニックガーデン社のことは前から気になっていた。

著者やソニックガーデン社が唱える理念には、共感する部分が多い。
本書の前に著者が出版した『「納品」をなくせばうまくいく』は、私の心を動かした。
情報処理業界で生計を立てるものにとって、納品という営みはついて回る。それをあっさりとやめようと宣言する著者の言葉は、私を驚かせてくれたし、共感もできた。
システム業界にとって納品という商慣習は常識だった。だが、それはもはや非合理な商慣習ではないのか。そう考えていた人はいたかもしれないが、実際に行動に移す会社がどれだけあるだろう。

本書はそんな著者がリモートワークの要諦を語ってくれるというのだ。書店で手に取り、購入した。

弊社はもともと、リモートワークを実施している。
私自身はほぼリモートワークの体制で仕事を行っている。
だから、本書を買わなくてもリモートワークの本質はつかんでいるつもりだ。ではなぜ、本書を購入したのか。
それは、私の役目がプレーヤーから経営者に変わったからだ。

私はリモートワークの全てを自分の中に言葉として血肉にできていない。
それは私がプレーヤーであり続けてきたからだ。だから、私がいくらリモートワークの効能を人に勧めても説得力に欠ける。
だが、そろそろ外部の協力技術者も含めたリモートワークの体制を作ることを考えなければ。

弊社として、今後もリモートワークでいくことは間違いない。
そのため、経営者としてリモートワークを技術者にお願いする必要に駆られるだろう。その時の裏付けを本書に求めた。本書を読み、より一層の論理武装をしたいと思った。

私がやっているリモートワークとはしょせんプレーヤーのリモートワークだ。私自身が築き上げてきた仕事スタイルでしかない。そう自覚していた。
こんごはリモートワークを管理する側としての経験や知見が求められる。
私がやっているリモートワークの管理とは、しょせんはリモートワーカー同士の連絡に過ぎない。リモートチームになりきれていない。
その構築のヒントを本書から得たかった。

本書を読んだ後、弊社は雇用に踏み切った。そこで私は監督者として立ち振る舞うことを求められた。
ところが、私はどうもリモートワークの監督者として未熟だったようだ。期待する生産性には遠く及ばなかった。

それはもちろん本書や著者の責任ではない。私が未熟だったことに尽きる。それを以下でいくつか本文と私の失敗を並列してみたいと思う。

「セルフマネジメントができる人たちで構成されたチームを作り上げることでリモートチームは成立するのであって、その逆ではありません。多くの企業において、リモートワークの導入を妨げているものは、リモートワークそのものではなく、その背景にあるマネジメントの考え方ではないでしょうか。」(118ページ)

セルフマネジメントができるとはつまり、技術力が一定のレベルに達していることが条件だ。技術があることが前提で、それを案件の内容や進捗度合いと見比べながら、適切にマネジメントしなければならない。残念ながら、その技術力の見極めと案件への振り分けにおいて失敗した。これは経営者として致命的なミスだったと思う。

「私たちの会社もROWE(完全結果志向の職場環境)をベースに考えています。私たちがアレンジしているのは、その成果とは個人の成果ではなく、チームの成果であるとする点です。」(136ページ)

弊社も私を中心としたハブ型ではなく、各メンバーが相互に連携する組織を考え、メンバーにもその意向を伝えていたつもりだった。だが、どうしてもハブ型の状況を抜け出せなかった。
残念ながらメンバーが一定程度の技術に達していないとこのやり方は難しいかもしれない。お互いが教え合えないからだ。いくつかの案件では成功もしかけたのだが。
もう一度チャレンジしたいと思う。

「監視されなければサボる人たち、監視されないと安心しない人たち、そんな人たちでチームを組んだところで、リモートチームは実現することはできませんし、そもそもそんな人たちがオフィスに集まったとしても、大した成果を上げることなどできないのではないでしょうか。」(173ページ)

これも完全に書かれている通りだ。ただ、私としては実際は働き具合がどうだったのか、今となっては確かめる術もないし、そのつもりもない。結果が全てだからだ。

「オンラインでは物理的な近さも遠さもないので、フラットに誰とでも絡むことができるからです。」(206ページ)

私が間違えたことの一つが、本書の中でも紹介されているRemottyのようなお互いの顔が見られるツールを導入しなかったことだ。それによって例えば雑談がオンライン上で産まれることもなかったし、日記や日報を書いて見せ合う環境も作りきれなかった。

「新人のリモートワークは“NG”」(177ページ)

外部の人に弊社の失敗事例を告げた時、真っ先に指摘されるのはこのことだろう。私がしでかした間違いの中でもわかりやすい失敗がこれだ。いきなりリモートワークで走り出してしまった。

私がしでかした失敗によって、本稿をアップする一週間前に一人のメンバーを手離してしまった。お互いが持つ大切にしたい考えやスキルのずれなど、もう少しケアできることがあったのに。とても反省している。

弊社の救いはまだメンバーが残っていることだ。もう一度このメンバーでリモートワークの関係を作っていきたいと思う。
私を含めた弊社のメンバーにリモートワークが時期尚早だったのは確かだ。ただ、まがりなりにも一年近くはリモートワークの体制を続けてこられた。なんといってもCybozu Days 2021は、弊社と弊社に近しいメンバーだけで無事に出展できたのだから。
今後も週二回程度はリアルの場を作りながら、もう一度リモートワークの環境を作っていきたいと思う。

なお、本書に書かれている社長ラジオは、毎朝のスラックでのブログアップとして続けている。これは私の考えを浸透させる意味では貢献してくれているはずだ。そう信じている。
本書に書かれていることで役に立つことは多い。

‘2020/05/29-2020/05/31


虚構金融


私はあまり経済系の小説は読まない。
本書は、淡路島の兵庫県立淡路景観園芸学校のイベントに仕事で参加した際、「お好きにお持ち帰りください」コーナーで手にとったものだ。以来、二、三年積ん読になっていた。

そのため、本書については私の中には何の知識もなかった。著者の作品ももちろん初めて読む。
だが、本書は、とても読み応えのある一冊だった。

大手銀行同士の合併に際し、財務省に対する便宜を図ってもらうために贈収賄があったのではないか。その疑惑が、東京地検特捜部の捜査対象だった。そんな中、財務省の官僚である大貫が謎の死を遂げた。
その大貫を検事として取り調べていた後鳥羽は、贈収賄の実態についてさらなる調査を進める。汚職疑惑から明らかになる謎とは。それが本書の大まかなあらすじだ。

官僚や検事としての生き方、そして身の処し方。外部から見た時、どちらもさほど違いがないように思える。もちろん、当事者にとってみればそれはナンセンスな視点のはず。
私のような技術者でさえ、関わる職種によって職務の内容が大きく違うのは当たり前だ。技術者だからなべて同じと思われては困る。検事と官僚を同じ枠でくくることも同じ誤りに違いない。
ただ、一つだけ言えることがある。それは、誰もが目の前の任務に専念し、目の前の難問を解決しようと仕事に取り組んでいることだ。

後鳥羽には家族もいる。大貫にも家族がいる。
だが、肥大した利権と権力にまみれた世界は、家族の憩いや願いなど一顧だにしない。彼らのささやかな平和を一蹴するかのように、陰険な手が危害を加えてくる。圧力や妨害が当たり前の任務を遂行する彼らを駆り立てるものは何だろうか。

私自身の考えや生き方は、本書に登場する男たちの多くとは少しだけ異なっている。だからこそ、本書の世界観は新鮮だった。もちろん、このような小説は今までに何度も読んだことがある。ただ、それは私が何も分かっていない若い頃。
今の私は経営者である。ある程度自由が効くワークスタイルで働けている。今の私のワークスタイルは、検事や官僚のような生き方とは離れてしまった。

だが、私は本書に出てくる男たちの働き方を全て否定しようとは思わない。
仕事に熱を入れる彼らの姿は美しい。
日本の高度経済成長期に、本書に出てくるような男たちが黙々と仕事をしたからこそ、日本は世界史上でも稀な復興を成し遂げた。それは分かっているし、私が先人の成果の上で暮らしていることも理解している。
著者は彼らの姿を硬質で冷静な筆致で描く。

銀行員は規模を追い求める。銀行を大きくするためなら手段は問わない。
政治家は愛想よく振る舞い、日本を導く大志を語る。その裏で権力抗争に明け暮れる。
官僚は今を生きることに必死の国民や次の選挙に気もそぞろの政治家とは違い、数十年先を見据えた国家の大計のためと建前を振りかざす。
検事は権力の悪を暴く名目の元、疑惑に向けて捜査を怠らない。

誰もがそれぞれの仮面をかぶり、その仮面に宿命づけられた任務を遂行する。そして長年、仮面を被り続けているうちに、それが習性となってはがれなくなった仮面に気づく。
それを自覚しながら、それぞれの信条に殉じて任務に向かう。

著者はこうした人々を客観的に、そしてバランスよく描いていく。

捜査する後鳥羽は、大貫が改革派議員と勉強会を開いていた事実を知る。彼は何かを探していた。それが、大貫と大貫を追うように死んだ改革派議員が殺された原因ではないか。後鳥羽はそう当たりをつけ、調査を進める。
やがて彼の家族や彼自身にも危害が及ぶ中、彼は大貫が追っていた対象とそれが指し示す事実に行き当たる。

その何かはここでは詳細に書かない方が賢明だろう。本書を読む方の興味を殺いでしまう。
だが、それは決して荒唐無稽な陰謀論の産物ではない。
とても説得力があるし、それがなぜ大貫の命を奪ったのかも理解できる。
ちょうど私が初めて新聞を読み始めた頃、当時の新聞の一面には二つの品物が連呼されていた。牛肉とオレンジ。

今の日本をさして、財政の危機を指摘する論は頻繁に見かける。財政の支出に占める国債の利息の割合や、収入を国債に頼っている現状。
体力を顧みない国債の乱発は、やがて日本を破綻させる。そのような悲観的な論を唱える論者は多い。

だが本書を読めば、財務省が国債の乱発に余裕をかましていられるのかに得心が行く。私の勉強不足なのかもしれないが、今までに本書に書かれたような切り口で日本の財政を切り取った論を見かけたことがなかった。

おそらく私は、勉強不足で半可通の代表だろう。大貫が見つけた問題意識を今まで考えたことすらなかった。そうした半可通が官僚や政治家の思い描く未来とは逆の、的を外した論をSNSなどで書き散らしている。
官僚や検事はそうした浮ついた論とは一線を画し、目の前の大義に向けて能力を発揮せんとしている。
本書を読み、官僚や検事を駆り立てるものが何かについておぼろげながら理解できたように思う。

改めて今、インターネットで国債の状態を見てみた。すると、国債は相変わらず同じ状況が続いているようだ。
今、日本の財政が破綻したら果たしてどうなるのだろうか。いや、そもそも破綻することはないような気がする。

このような重要なことを知らずに、失われた30年などとドヤ顔で語っていたとすれば笑止千万だ。私は自らの無知に心から反省するとともに、本書を読んで襟を正す思いになった。

‘2020/04/18-2020/04/20


破れた繭 耳の物語 *


耳の物語と言うサブタイトルは何を意味しているのか。

それは耳から聞こえた世界。日々成長する自分の周りで染みて、流れて、つんざいて、ひびいて、きしむ音。
耳からの知覚を頼りに自らの成長を語ってみる。つまり本書は音で語る自伝だ。
本書は著者の生まれた時から大学を卒業するまでの出来事を耳で描いている。

冒頭にも著者が書いている。過去を描くには何から取り出せばよいのか。香水瓶か、お茶碗か、酒瓶か、タバコか、アヘンか、または性器か。
今までに耳から過去を取り出してみようとした自伝はなかったのではないか。
それが著者の言葉である。

とは言え音だけで自伝を構成するのは不可能だ。本書の最初の文章は、このように視覚に頼っている。
一つの光景がある。
と。

著者は大阪の下町のあちこちを描く。例えば寺町だ。今でも上本町と四天王寺の間にはたくさんの寺が軒を占めている一角がある。そのあたりを寺町と呼ぶ。
幼い頃に著者は、そのあたりで遊んでいたようだ。その記憶を五十一歳の著者は、記憶と戦いながら書き出している。視覚や嗅覚、触覚を駆使した描写の中、徐々に大凧の唸りや子供の叫び声といった聴覚が登場する。

本書で描かれる音で最初に印象に残るのは、ハスの花が弾ける音だ。寺町のどこかの寺の境内で端正に育てられていた蓮の花の音。著者はこれに恐怖を覚えたと語っている。
後年、大阪を訪れた著者は、この寺を探す。だが幼き頃に聞いた音とともに、このハスは消えてしまったようだ。
音はそれほどにも印象に残るが、一方で、その瞬間に消えてしまう。ここまで来ると、著者の意図はなんとなく感じられる。
著者は本書において、かつての光景を蘇らせることを意図していない。むしろ、過去が消えてしまったことを再度確認しようとしているのだ。
著者は、日光の中で感じた泥のつぶやき、草の補給、乙行、魚の探索、虫の羽音など、外で遊んで聞いた音を寝床にまで持ち運ぶ。もちろん、それらの音は二度と聞けない。

昭和初期ののどかな大阪郊外の光景が、描写されていく。それとともに著者の身の回りに起こった出来事も記される。著者の父が亡くなったのは著者が小学校から中学校に進んだ歳だそうだ。
しばらく後に著者は、父の声を誰もいない部屋で聞く。

時代はやがて戦争の音が近づき、あたりは萎縮する。そして配色は濃厚になり、空襲警報や焼夷弾の落下する音や機銃掃射の音や町内の空襲を恐れる声が著者の耳をいたぶる。

ところが本書は、聴覚だけでなく視覚の情報も豊富に描かれている。さらには、著者の心の内にあった思いも描かれている。本書はれっきとした自伝なのだ。

終戦の玉音放送が流れた日の様子は、本書の中でも詳しく描かれている。人々の一挙手一投足や敵機の来ない空の快晴など。著者もその日の記憶は明晰に残っていると書いている。それだけ当時の人々にとって特別な一日だったに違いない。

やがて戦後の混乱が始まり、飢えに翻弄される。聴覚よりも空腹が優先される日々。
そのような中で焼け跡から聞こえるシンバルやトランペットの音。印象的な描写だ。
にぎやかになってからの大阪しか知らない私としては、焼け跡の大阪を音で感じさせてくれるこのシーンは印象に残る。
かつての大阪に、焼けただれた廃虚の時代があったこと。それを、著者は教えてくれる。

この頃の著者の描写は、パン屋で働いていたことや怪しげな酒を出す屋台で働いていたことなど、時代を反映してか、味覚・嗅覚にまつわる記述が目立つ。面白いのは漢方薬の倉庫で働いたエピソードだ。この当時に漢方薬にどれほどの需要があるのかわからないが、著者の物に対する感性の鋭さが感じられる。

学ぶことの目的がつかめず、働くことが優先される時代。学んでいるのか生きているのかよくわからない日々。著者は多様な職に就いた職歴を書いている。本書に取り上げられているだけで20個に迫る職が紹介されている。
著者の世代は昭和の激動と時期を同一にしている。感覚で時代を伝える著者の試みが読み進めるほどに読者にしみてゆく。五感で語る自伝とは、上質な歴史書でもあるのだ。

では、私が著者と同じように自分の時代を描けるだろうか。きっと無理だと思う。
音に対して私たちは鈍感になっていないだろうか。特に印象に残る音だったり、しょっちゅう聞かされた音だったり、メロディーが付属していたりすれば覚えている。だが、本書が描くのはそれ以外の生活音だ。

では、私自身が自らの生活史を振り返り、生活音をどれだけ思い出せるだろう。試してみた。
幼い頃に住んでいた市営住宅に来る牛乳売りのミニトラックが鳴らす歌。豆腐売りの鳴らす鐘の響き。武庫川の鉄橋を渡る国鉄の電車のくぐもった音。
または、特別な出来事の音でよければいくつかの音が思い出せる。阪神・淡路大震災の揺れが落ち着いた後の奇妙な静寂と、それを破る赤ちゃんの鳴き声。または余震の揺れのきしみ。自分の足の骨を削る電気メスの甲高い音など。

普段の忙しさに紛れ、こうした幼い頃に感じたはずの五感を思い出す機会は乏しくなる一方だ。
著者が本書で意図したように、私たちは過去が消えてしまったことを確認することも出来ないのだろうか。それとも無理やり再構築するしかないのだろうか。
五感を総動員して描かれた著者の人生を振り返ってみると、私たちが忘れ去ろうとしているものの豊かさに気づく。

それを読者に気づかせてくれるのが作家だ。

‘2020/04/09-2020/04/12


一番やさしい簿記


今、クラウド会計システムはどれくらいの種類があるのだろうか。私もよく把握していないが、私の脳裏に即座に浮かぶのは会計freeeだ。

2019年の12月、freee社において開催されたfreee Open Guild #07で登壇を依頼された。そのタイトルは「kintone エバンジェリストがfreee APIを触ってみた」。
登壇の資料を作るにあたり、会計freeeのAPIリファレンスを念入りに読み込んだ。その作業を通して、私はfreee APIのリファレンスにかなりの好印象を持った。わかりやすく見やすいリファレンスを作り上げようという配慮が随所になされている。それはfreee社の掲げるオープンプラットホームを体現していた。
さらにその登壇をご縁として、私はfreee Open Guildの運営スタッフにもお誘いいただいた。
そうした関わりが続いたことで、私の中ではfreee社に対する親しみが増している。
おそらく今後も、私がfreeeとkintoneの連携イベントで登壇する機会はあるに違いない。実際、2020年には両社が共催したfreee & kintone BizTech Hackというイベントで二回ハンズオン講師を勤めた。さらに、freee社よりご依頼を受けて動画コンテンツも作成した。
今後もfreee社から案件を受注する機会は増えていくことだろう。

そんな訳で、私は久しぶりに簿記を勉強しようという気になった。
私は大学の商学部に在籍した頃に簿記三級を取得している。授業の単位取得の条件が簿記三級の合格だったからだ。
私にとって簿記の資格とは、単位のために受けるだけで、当時はなんの思い入れもなかった。それ以来、簿記からは完全に遠ざかっていた。

それは個人事業主として独立した後も変わらずだった。青色申告事業者として事業主登録を行ったにもかかわらず。青色申告者である以上、正式な簿記による経理処理が求められる。だが、私はお世辞にも褒められた簿記はやっていなかった。さらに法人として登記してからは、経理の実務は税理士の先生に完全にお願いしており、私自身が簿記の仕訳に携わる機会はますます減った。
ところが今回、freee社とのご縁ができたことで、最低限の知識を得ておく必要に迫られた。できるだけ簡単で、手軽に読める簿記の本を読まねば。そこで、手に取ったのが本書だ。

本書の見開き折り返しには、
本書は
超初心者の基礎学習
3級受験前の復習に役立つ内容です!
と書かれてある。
既に三級を持っていた私には本書の内容はとてもわかりやすかった。
そして仕訳とは何かを徐々に思い出すことができた。

左が借方、右が貸方。単純な内容だ。取引を必ず対となる借方と貸方に記載する。その時、借方と貸方の勘定科目に書いた金額の合計は一致しなければならない。
それが複式簿記のたった一つの要点だと思う。

もちろん税理士の先生になりたければそれでは足りない。複雑な簿記を流暢に使いこなすことが求められる。
だが、仕訳と決算さえこなせればよいぐらいのレベルであれば、本書ぐらいがちょうどいい。

冒頭のプロローグでは、著者がいかにして簿記一級に満点で合格できるまでになったかと言う経歴がわかりやすい文章で書かれている。

歯科診療所の受付をやりながら、出入りしていた税理士さんに憧れ、簿記を勉強して始めたこと。何度もあきらめそうになりながらこつこつと勉強を続け、簿記一級を満点で合格したこと。今では公認会計士として働いているそうだ。

超初心者向けと言うだけあり、本書は簡単な仕訳の処理方法が何度も何度も繰り返し登場する。それは懐かしい宿題のドリルのようだ。
資産、負債、資本、そして費用と収入。この5つが簿記の中では基本の枠となる。取引の属する勘定科目によって、その5つのどこに入るかを当てはめていく。そして結果として左右が合計金額で等しくなるように振り分けてゆく。

ただ、借方と貸方の左右に振り分ける当て込みの方法は案外と難しい。右と左が収益と費用で変わることも理解を難しくする。

勘定科目の金額が正の値である場合、適した勘定科目が属する枠に転記する。逆に負の値である場合、反対側に転記すればいい。
そしてそれが対となる勘定科目では逆の位置になる。それさえ覚えれば、仕訳については何とか理解できる。
本書を読んでいるうち、大学時代に受けた簿記の知識がよみがえってきた。

本書はまさに一番やさしい簿記とうたうだけあって、かなりの説明を仕訳に割いている。
私の印象では全体の6割が仕訳の説明に当てられている。次々と仕訳の事例が登場し、それに取り組むうちに読者は自然と仕訳に慣れていく。そういう仕掛けだ。

本書は、伝票についても説明が割かれている。伝票は受発注のシステムを作る上で不可欠の知識だ。私の仕事でも頻繁に登場する。
ただし私は今まで伝票のことをデータ管理の観点からとらえていて、簿記や経理の観点からは考えてこなかった。だが、実は伝票とは簿記の必要から生れた仕組みなのだ。私は本書を読んでそれを理解した。仕訳帳に記帳するかわりに伝票に記帳するようになったいきさつなど、学びからはいつになっても新たな発見をもたらしてくれる。
三伝票制、五伝票制があることも本書によってもう一度教えられたことだ。三伝票制は入金伝票、出金伝票、振替伝票で管理する。五伝票制はそれに売上伝票と仕入伝票が加わる。
売上伝票の勘定科目は売掛金しかなく、仕入伝票の勘定科目は買掛金しかないこと。
こうした知識も本書を読んで再び学びなおせた。仕事で使っている知識の歪みが補正されるのは学ぶ者の喜びだ。

また、決算書の作り方についても本書は丁寧に説明してくれている。
私も決算書は最低限の見方だけは知っている。だが、その作り方となるとさっぱりだった。
本書の説明を聞いていると、その仕組みが理解できる。そして、会計システムのありがたみが実感できる。
その進化系であるクラウド会計のこれからも楽しみだ。

‘2020/02/05-2020/02/09


アクアビット航海記 vol.33〜航海記 その19


あらためまして、合同会社アクアビットの長井です。
弊社の起業までの航海記を書いていきます。以下の文は2018/2/22にアップした当時の文章が喪われたので、一部を修正しています。

社員になること


正社員になった私。
今までずっと派遣される側だった立場から派遣する立場へ。

正社員の話をいただき、それを受け入れる決断。そこにどのような葛藤があったのか。正直なところ、自分自身のことなのにあまり覚えていません。
正社員のお話が来たことで、これ幸いと満面の喜びを必死に隠し、内心で快哉を叫びながら受け入れたのか。はたまた、かつて尼崎市役所の外郭団体のお話を蹴った時のような気概を持ちながら、妥協の結果として正社員の話を受け入れたのか。
うーん、どちらでもないような。そんな記憶は残っていません。
ただ、本連載の第三十一回(https://www.akvabit.jp/voyager-vol-31/)で、オペレーターさんとの絆がなくなったことにショックを受けたと書きました。
私が正社員に取り立てられたことは、オペレーターさんとの断絶をさらに広げたはずです。

当時の私の心境を慮るに、ただお話をいただくままに受け入れた、という程度だと思います。
差し出された水を、さほど疑わずに飲むように。もちろん、水の匂いぐらいは嗅いだはず。つまり、正社員の話が自分にとって損か得か、は考えたはずです。

過去の私に質問


では、得とはなんでしょう。身分の安定。対外的な信用。収入の安定。挙げてみればそんな感じでしょうか。
逆に、損とはなんでしょう。収入の減少。束縛の発生。将来の固定。そんな要因が思い浮かびます。
当時の私が何をどう考えていたのか、今の私からQ&A形式で問うてみたところ、関西弁で返事が返ってきました。

まず損の観点から。
Q. 収入の減少についてどう思っていましたか?
A. スーパーバイザーの収入はなんやかんやと手取りで30万はもろてました。残業したらその分も精算してもらえたっちゅうのも大きいです。いやぁ、ぎょうさんもらえましたわ。今まで勤めていたアルバイト、派遣社員、ブラック企業のどこよりもお金もらえてありがたかったです。当時、ぼんやりと思とったのは、実年齢よりも手取りが上回っとったらええんちゃう?ということ。20代なかばで30万以上はもらえとったから、ええんと違うかなあと。
正社員になったら、給与は固定性になるし、残業代も減らされるし。うーん。どないしょ、と思ったのは事実。そやけど、ま、正社員の提示額を計算したらせいぜい数万円ぐらいの減で済みそうやし、まあ損にはならんかぁ、と思ってました。
Q. 束縛が発生することは考えませんでしたか? 正社員になれば社員としての身分に縛られるし、対外活動にも制約が課せられます。
A. うん、考えたよ。束縛についてはぼんやりとね。そらぁ確かに正社員の立場は損になるかもしらん。でも、社員になったからといって公私までは束縛されへんやろ?少なくとも大成社よりブラックちゃうやろ?って思ってたぐらい。そもそも対外活動っちゅうても、当時はSNSとかないし、書いたり喋ったりしようにもどこにも場所がなかったし。そやからそもそも損とか全く思わへんかったわ。
Q. 将来が固定されてしまう、とかは思いましたか?
A. 正社員になったら、将来の自分の道が狭なってしまうってか?たしかに関西におった頃は、クリエイティブな職を考えとったけどね。そやから正社員になってもうたら、将来勤め人で固まってまうがな、っていう心配もちぃとだけありました。でも、今までも何回も転職繰り返しとったからね。まぁ次の道が決まれば辞めてもええかなぁ、くらいに思ってました。そやから将来が固まってまうこともあんまり損とか考えてへんかった。

続いて、得とは何かについて考えてみます。
Q. 身分の安定は得ではありませんか?
A. たしかにアルバイトとか派遣社員を転々としてばっかりやったからねぇ。でもあんまり正社員には憧れてへんかったなぁ。自分が人からどう見られるかも興味ないし。無頓着ってやつ?身分がどうとかも興味なかったし、だから正社員になりたいとかもなかった。なので、得とはあまり思わんかったなぁ。
Q. 対外的な信用は得られたのではありませんか?
A. 確かにね。相方が歯医者やし、結婚する時も相方の親族からは結構冷たい視線を浴びたからなぁ。たしかに正社員になって見返したろ、っちゅう気持ちはちょっとあったかも。歯医者の夫やし、せめて正社員の肩書ぐらいは持っとかんとなぁ。という気持ちもちょっとはね。
でもな、もうすでに乗り越えて結婚した後に来たんや、正社員の話って。これが結婚前やったら釣り合いとるために正社員にもう少し前向きやったかもしらんけど、すでに結婚してたから、今さら対外的な信用、っていわれてもピンと来ぉへんやん?そやから、対外的な信用のことはあまり重要とは考えへんかったなぁ。
Q. 収入の安定はどうなんでしょう?
A. これは……一番大きな理由やったかもしれへん。所帯も持ったし、奥さんも派遣社員の不安定よりは正社員を、っていうことは思ってたはずやしね。でもね、一年ちょっとスーパーバイザーやってたけど、毎月結構なお金もろててんよ。定期的に30万と少しは。そやし、その頃はうちの相方も大学病院に勤めてたし、お金に不足は感じひんかったんとちゃうかなぁ。
ただね、ちょうど正社員の話が来た頃って、相方がお仕事休まんならん事情ができたんよね。え?なんでかって? 子ども。子どもがでけてん。まぁ子どもができるまでもいろいろあってなぁ。話せば長くなるから、今日は堪忍して。ただ、それでいろいろあったから、正社員の話にふらっと流れてしもたのかもしらんなぁ。
Q. 忘れかけの怪しげな関西弁でお答えしてくださり、ありがとうございます。

正社員になったことで得たもの


結局、私が正社員の話を受け入れたのは、将来的な視点からというより、その時の事情、とくに子どもを授かったことが理由でした。
その時の私が変なプライドを発揮して正社員の話を断らなかったことに感謝です。当時の私といえば、さりとて正社員に過大な幻想を抱くこともせず、自然に正社員の話を受けたのでした。

正社員になったことで、私はより多くの仕事を任されるようになりました。
今までは派遣社員だったので、現場で滞りなく集計業務を進めていくだけでよかったのです。でも正社員である以上、違う仕事も担っていかねばなりません。

正社員になったことで、私はより上のスキルや広い視野を得られました。
たとえば、当時手掛けていたオペレーターさんやスーパーバイザーさんの出退勤管理システムのメンテナンスもその一つ。
パソナソフトバンクに所属する皆さんは、出退勤の際に社員証に印字されたバーコードを読み取ります。Microsoft Accessによって作られたそのシステムは、現場と事務所の二カ所に設置されていました。現場の打刻用と、横浜ビジネスパーク(YBP)の別フロアにあるパソナソフトバンクが分析システムための二つです。
ところがこのAccessはカスタムメイドで、しかも作った方がすでに離任していました。そのため、私はこの勤怠管理システムのメンテナンスを任されました。
また、これは少し後の話ですが、パソナソフトバンクからスカパーさんへ毎月提出する請負業務の請求書の作成も私に任されました。そしてこれも少し後ですが、外のお客様の案件も手掛ける機会をいただきました。スカパーの現場だけでなく、違う現場も経験させないと、という上司の判断だったのでしょう。
そんな私の下には、常勤のオペレーターさんが配属され、私は上司になりました。人に指示する立場。それは社会人になって初の経験でした。

次回は、当時の私が抱えていた仕事からいったん離れ、子どものことについて書こうと思います。
初めて子を持つにあたり、いろんなことがありました。
それらの出来事も、私の起業を語る上では外せません。
ゆるく長くお願いいたします。


アクアビット航海記 vol.25〜航海記 その12


あらためまして、合同会社アクアビットの長井です。
弊社の起業までの航海記を書いていきます。以下の文は2018/1/11にアップした当時の文章が喪われたので、一部を修正しています。

横浜ビジネスパークでの日々が始まる


私の記憶では、スカパーのカスタマーセンターに初めて出勤したのは1999年の5月連休明けからだったと思います。
当時、スカパーのカスタマーセンターは横浜の天王町にありました。横浜ビジネスパーク(YBP)という場所です。マリオ・ベリーニという建築家が手掛けたおしゃれで憩える池があり、よくプロモーションビデオにも登場しています。私も一度ロケの現場に遭遇したことがありますし、今思い出してもとても素晴らしい職場の環境だったと思います。

ところが私の記憶には、YBPの洗練された環境があまり焼き付いていません。
それは、仕事が激務だったからではありません。それよりも、東京に出て仕事をすることへの高揚感と緊張感に胸をふさがれていたからだと思っています。
当初は一人暮らしの気楽さと孤独を満喫していた私にも、いざ就職となるとやるべき雑務は重なっていきます。
さらに仕事上で覚えるべきことがあまりにも多かった。つまり余裕がなかったのです。

スカパーのカスタマーセンター。そこはスカパーの加入者様との窓口全般を行う場でした。
私が配属されたのは種々の申込書の新規登録を行う「登録チーム」でした。当時はまだ郵送経由による申込書がほとんどで、その申込書を何人ものオペレーターさんが一斉に端末に入力していました。
私はそのオペレーターさんを統括するスーパーバイザー(SV)として採用されたのです。SVという仕事が具体的に何をするかといえば、オペレーターさんが入力するにあたり、申込書に記載してある内容が不明瞭で判断に迷った場合に適切に指示することです。あと、作業の割り振りやペース配分、作業の指示なども臨機応変に行います。
カスタマーセンターにあるのは、登録チームだけではありません。
例えば届いた郵送物を仕分ける「受付チーム」もあれば、実際に申込書の内容が正しくない場合にお客様に不備として指摘する「不備チーム」もあります。他にも契約内容の変更を受け付ける「変更チーム」もありました。お客様の利用料金を管理する「料金チーム」も。それと実際の外部配送業者とやりとりする「物流チーム」も忘れてはいけません。そして、最後にそれらのチームをまとめる「運用サポートチーム」がありました。
スーパーバイザーの仕事には、そうしたチームとの連携も求められたのです。

もちろんカスタマーセンターの機能はそれだけではありません。
たとえば加入者様からの電話を受けつけるコールセンターの機能が要りますよね。他にも機器の設置に関するトラブルを管轄する部署や、電気屋さんなどスカパー契約を取り次いでくださる加盟店との連携を行う部署だって必要です。
要するにカスタマーセンターに求められるあらゆる機能が集まっていたのが私の職場でした。
あまりにも業務が多岐にわたるため、それを請け負う派遣会社も3,4社に分かれるほど。私が派遣登録したパソナソフトバンクという会社はその中の一社でした。
名前の通り、その会社は人材派遣大手のパソナと孫さんのソフトバンクが資本を大きく分け合っていました。
そして、パソナソフトバンクがスカパーのカスタマーセンターで請け負っていたのが「受付」「登録」「不備」「変更」「物流」「運用サポート」の各業務だったのです。

そんな大規模な現場で、SVとして覚えるべきことは多く、新たな環境をゆっくり楽しむ暇もありません。
そして、私がようやく仕事に慣れた頃にはYBPの景色自体を見飽きていました。そんな理由でせっかくの素晴らしい環境も、今に至るまで私の記憶に残っていません。今でも数年に一度はYBPの近くに行きますが、今度、近くを通った際はじっくりと訪れてみようとおもいます。

楽しかった日々


さて、事務仕事の要所を知り尽くしていた訳でもなければ、衛星放送の仕組みや業界も知らない私。当然ながら新規登録にあたっての入力ルールも現場に入ってから覚えていきました。だから、当初はとても危なっかしいSVだったことでしょう。入って2カ月は同僚の女性SVのSさんによく怒鳴られましたし。

その他にも、私が職場に溶け込むにあたっての苦労はいろいろとあったはず。それでも私はこの仕事をやめずに続けました。辞めるどころか、登録チームでの日々にはとても楽しかった思い出だけが残っているのです。

当時この文章を書いた私は既に四十を過ぎていました。今も四十台半ばを過ぎ、イタく絶賛老化中です。
なので、自分でこんな事を書くのは面映ゆいし、若い頃の武勇伝を語るイタいオヤジのようで避けたい。避けたいのですが書きます。なぜスーパーバイザーの仕事が楽しかったのかを。
それは、登録チームでの私はこれまでの生涯でもモテ期のピークだった、ということです。

登録チームのオペレーターさんはシフト制でした。毎日40人くらいのオペレーターさんが作業に従事していて、そのうち7割は女性だったように思います。オペレーターさんの中には主婦もいましたし、大学生や短大生の女の子もたくさん在籍していました。
見知らぬ土地に飛び込み、見知らぬ方ばかりの中で仕事をこなし、関西弁で指示を飛ばす。そんな私の姿は、オペレーターさんたちにも新鮮だったようです。
当時の私は25、6才の若手SV。しかも既に婚約していたため薬指には指輪をはめています。そのため、女性からも気軽に声を掛けやすかったのでしょう。
オペレーターさんとはよく飲みに行きました。ほとんどは男性オペレーターさんとばかりでしたが、中には女性オペレーターの飲み会に私だけ一人男、ということもありました。
でも、過ちは起こしませんでした。ここで調子に乗っていたら、今の私はないはずです。
私の人生は失敗の方が多いのですが、それらの失敗が人生を台無しにしなかったのは、この時のような肝心な時に分相応をわきまえてきたためだと思っています。
どれだけ羽目を外しても、期待を裏切っても、信頼を裏切らない時点で踏みとどまること。これはとても大切なことだと思います。
“起業”しても人は傷つけませんが、浮気は人を傷つけます

念のためにいうと、こんなことを書いている私は聖人君子からは程遠い人物です。
この頃の私は若さゆえ、しょっちゅう羽目を外していました。
たとえばオペレーターの皆さんとはよく横浜西口で飲んでましたが、その界隈では何度も人事不省に陥りました。
オペレーターさんたちの前でSVらしからぬ醜態をさらすことなどしょっちゅう。植え込みへとダイブしたり、あれやこれや。

なにせ失うものは何もない独り暮らし。しがらみもなければ体裁を取り繕う必要もない日々だったので。それもこれも含めて登録チームでの半年はとても幸せな日々でした。今も懐かしく思い出します。

Excelで名乗りを上げる


そんな登録チームでの日々の仕事で、私は技術者となるための最初の足がかりをつかみます。それは集計の作業がきっかけでした。
SVの仕事の一つにチームの状況を把握し報告する作業がありました。件数の集計は状況の把握に欠かせません。例えばその日登録された申込書は何枚あり、それがどの種類の申し込みかを数えて集計する作業です。
具体的には、各SVが手分けしてその日に作業した申込書の枚数を数え、それをエクセルのシートに入力する。そして入力した内容を印刷し、翌朝までに運用サポートチームの集計担当に提出する。
これらの作業は絶対に必要で、しかも面倒でした。

エクセルに誤った数字を入れては運用サポートチームの集計担当に怒られる。そんな事が続いたある日、私は登録チームのSVのミーティングの場か何かで提案しました。もしくは直接シニアSVのMさんに提案したか。
きっかけはどちらだったかは忘れましたが、私がした提案とはエクセルへの入力の仕組みを省力化してはどうかというものでした。その仕組みは私が作るから、と。

その仕組みとは、今から思うとたわいのないものでした。月の各日ごとに行が連なる横罫の表。例えば1月の集計表ならば、見だしに1行、各日ごとに31行、そして合計行に1行といった感じです。どこにでもある月単位の集計表です。
その表へ直接入力していた作業が間違いのもとだったので、私が施したのは表に直接入力するのではなく入力用のシートを別に作ることでした。
SVは業務後に入力シートにそれぞれごとの件数を入れ、ボタンを押します。そのボタンにはマクロを仕込まれていて、マクロが横罫の表に正確な値を放り込んでくれます。

この仕組みこそ、私が芦屋市役所の人事課で覚えたマクロを思い出しながら作ったものです。
芦屋市役所を1997年に離れてから約1年半以上。その間、私はマクロを全く触っていませんでした。以前にも書いた通り、その頃の私はプログラミングに全く興味がなかったからです。
ところがかつてSEの方から盗んだ技術を思い出しながら造った集計表が、登録チームの業後の作業時間と手間を短縮し、ミスも劇的に減ったのです。
そして、この実績が私に道を開きます。その道は統括部門である運用サポートチームに続いていました

次回は、運用サポートチームに行ってからの私と、結婚について少しだけ触れたいと思います。ゆるく永くお願いします。


アクアビット航海記-営業チャネルの構築について


「アクアビット航海記」では、個人事業主から法人を設立するまでの歩みを振り返っています。
その中では、代表である私がどうやって経営や技術についての知識を身につけてきたかについても語っています。

経営や技術。それらを私は全て独学で身につけました。自己流なので、今までに数えきれないほどの失敗と紆余曲折と挫折を経験して来ました。だからこそ、すべてが血肉となって自分に刻まれています。得難い財産です。

本稿では、その中で学んだ営業チャネルの築き方を語りたいと思います。
私自身が試行錯誤の中で培ってきたノウハウなので、これを読んでくだった方の参考になれば幸いです。

起業する上で切実な問題。それは、お客様の確保だと思います。
お客様が確保出来なければ売り上げが立たず、経営も破綻します。
破綻すると分かっているのに起業に踏み切る人はいないでしょう。

私もエイヤっと起業したとはいえ、顧客の確保は心のどこかに不安の種として持っていました。
しかも私の場合、貯金がほぼない状態での独立でした(その理由は本編でいずれ描くと思います。)
ですから、最初は安全な方法を採りました。

それは、常駐の技術者としての道です。
まず、技術者の独立について検索しました。そして、いくつかのエージェントサイトに登録し、エージェントに連絡を取りました。
その動きがすぐに功を奏し、常駐の開発現場に職を得られました。そこから、十年以上にわたる、常駐開発現場を渡り歩く日々が始まりました。
毎日、決まった場所へ出勤し、与えられた業務をこなし、毎月、決まった額を営業収入として得る。
実際、個人事業を営む技術者のほとんどはこのようにして生計を立てているはずです。

ところが、この方法は自分自身で営業チャネルを構築したとはいえません。なぜなら、エージェントに営業を依存しているからです。あくまでもお仕事を取ってくるのはエージェントです。
複数のエージェントに自らを売り込めば、頼りになる技術者として営業にはなります。エージェントも実際の顧客に対して有能な技術者だと熱意をもって推薦してもらえるはずです。
ですが、あくまでも直接の顧客と相対するのはエージェントであり、あなた自身の営業チャネルが確立できたわけではありません。
あなた自身の技術力が仕事につながったことは確かですが、その結果を営業力や営業チャネルによるものだと勘違いしないほうが良いです。
そこを間違え、技術力だけで案件がずっと潤沢にもらい続けると考えてしまうと、後々にリスクとなって返ってきます。

そのリスクは、社会が不安になったり、年齢を重ねることによってあらわになります。
実際、私はエージェントに頼った年配の技術者さんが、リーマン・ショックによって仕事を失い、苦しむ様子をそばで見ています。
見るだけでなく、私自身がかわりに営業を代行していたので、なおさらそのリスクを私自身のこととして痛感しています。
なので、私はエージェントさんには頼らないと決めています。
そう、営業チャネルは自分自身で構築しなければならないのです。

では、自社で営業チャネルを確保するにはどうすれば良いでしょうか。
本稿ではそれを語ってみようと思います。
ただし、本稿で語れるのはあくまで私の実践例だけです。
これが普遍的に使えるノウハウで、あらゆる会社や個人に当てはまるとは全く考えていません。
一人一人、一社一社の業態やワークスタイルによって答えはまちまちのはずです。そもそも業種によって営業チャネルの構築方法はさまざまのはずです。だから、本稿が参考にならないこともあるでしょう。そのことはご了承くださいませ。
本稿では私の携わっている情報業界を例にあげたいと思います。
情報業界と言っても幅広く、コンサルタントやウェブデザイナも含めて良いと思います。

まず、身内、肉親、親族は除外します。
もし、そうした身近な存在を営業チャネルとしてお考えなら、やめた方が良いです。むしろ親族は、初めから営業チャネルと見なさないことをお勧めします。

営業チャネルとなってくださるよう働きかける対象は、まだお会いしたことがない方です。
まだ見ぬ方にどうすれば自社のサービスを採用してもらえるか。そして、その中であなた自身の魅力に気づいてもらえるか。

一つの方法はメディアの活用です。
ここでいうメディアは、TVCMももちろんですし、新聞や雑誌などもそうです。ウェブ広告やSNSも含みます。

ただし、私は実はこうしたメディアを使うことには消極的です。
これらのメディアを使って効果を出すには、ある程度の規模がないと難しいと思っています。

なぜかというと、こうした媒体ではこちらのメッセージを受け取ってほしい相手に届く確率が少ないからです。
弊社の場合だと、システムを必要とする方でしょうか。今、切実にシステムを導入したい、または、ホームページを今すぐ作りたいという会社様。または下請けとなってシステムを構築している技術者を求める会社様や、協業する技術者を欲する会社様が対象です。
そうした相手に弊社のメッセージが届かないと、いくら広告費を掛けても無駄になります。
ただし、自社の名前がある程度知られている場合は、見知らぬ相手にもあなたのメッセージは届くことでしょう。

もし、知名度がない場合、広告の予算を潤沢に投入しないと、受け取ってほしい相手にこちらのメッセージが届かない可能性が高いのです。
今はまだ、アカウントに紐づいた検索履歴などの情報や端末に保存されたCookieでピンポイントに広告を届けられるほど、ウェブマーケティングの精度は上がっていません。
そもそも、そうした情報の二次利用を嫌がる方も多く、それがウェブマーケティングの精度の妨げとなっています。

そうした現状を省みるに、Google AdWordsに費用をかけても、コンテンツによっては無駄に終わる可能性が高いです。
ウェブ広告に携わっている方には申し訳ないですが。
(弊社も上限額の設定を間違え、20万円以上もGoogleに支払ってしまった苦い経験があります。もちろん反応はゼロで、ムダ金に終わりました。もちろん何も対策をせずにいた私が悪いのですが。)
メールマガジンやTVCMや雑誌、タウン誌なども同じです。これらの媒体では営業チャネルの構築は難しいと思っています。

仮にユニークな広告によってこうしたメディアでバズらせることが出来たとしても、そこで得た効果を生かせるかどうかはまた別の話。バズッたことはフロックだと考えておいた方がよさそうです。
起業直後で人的リソースに限りがある場合に、まぐれ当たりで大量に問合せが来ても、対応ができず、品質や納期に問題を生じさせたのでは意味がありません。

だからこそ、まずは身の丈にあったリアルな場での営業チャネルの構築が必要と思うのです。

ただし、ウェブでも使える味方があります。それは、マッチングサイトです。CloudworksやLancersなどが有名ですね。

これらのサービスを利用することによって案件につながることは間違いありません。私も他のマッチングサイトなども含め、さまざまに利用していました。また、そこから多くの案件をいただくことができました。

ですが、マッチングサイトには一つ問題ががあります。
それは商談を含めた未来のやりとりをマッチングサイトに通すことを求められることです。つまり、マッチングサイトを通さない直取引に制約がかかるのです。
利用者にとっては不便ですが、マッチングサイトの運営者の立場を考えれば当然です。せっかくプラットホームを作ってビジネスの縁組をしたのにお金が入って来ないからです。
それもあって私は、マッチングサイトを使ったご縁は営業チャネルになりにくいとの印象を持っています。これは私の未熟さも影響していることでしょう。
もちろん、この課題はマッチングサイト側でも当然認識しているはずで、私が盛んに利用していたころに比べると徐々に改善されているようです。今後の取り組みに期待したいところです。

もう一つ、ウェブで使える営業チャネルを挙げるとすれば、YouTubeなどの動画配信サービスが真っ先に思い浮かびます。
これらのサービスを私は営業チャネルとして使っていません。なので語る資格はありませんが、動画配信サイトは良い営業チャネルの手段となると見ています。

もう一つ、ウェブで使える手段として、SNSやオウンドメディアを忘れるわけにはいきません。これらは、動画配信サービスの利用と同じく利点があると思っています。そのことは後で触れます。

私にとって、営業チャネルの構築でもっとも経営に役立った手段。それはリアルの場です。

私は起業の前後、どこかの交流会から声がかかるたび、とにかく可能な限り顔を出すようにしました。

そうした交流会によっては運営のためのルールを設けています。例えば、皆の前で一分間のスピーチをしたり、四、五人でグループセッションを行ったり。かといえば、完全に自由にしゃべるだけの会もありました。
そうした集まりに参加する中で経験を積み、どうすれば自分を売り込み、営業チャネルが構築できるかを私なりに体得してきました。

本稿では、私なりに得たいくつかのノウハウを挙げてみます。
・話上手より聞き上手。
・知り合いは一人だけでも飛び込む。
・名刺コレクターにはならない。
・全員と語るより、少数の方とじっくり語る。
・お会いした方には数日以内に御礼のメールを送る。
・あれこれ欲張らず、一つに絞ってアピールする。

交流会に出たことのある方はご存じでしょうが、交流会には多くの方が来られます。
例えば、三十人の方が集まる交流会に初めて出た場合を考えてみましょう。
三十人の全ての方の顔と名前、趣味や得意とする仕事。これを一週間後に思い出せ、と言われてどこまで覚えていられるでしょうか。まず無理だと思います。
だからこそ、あなたを相手に印象付けなければなりません。印象付けられなければ、渡した名刺はただの紙切れです。

交流会に出ると、人々の中を回遊しながら、話すことより名刺を集めることを目的とするかのような方をよく見かけます。ですが、そうした方と商談に結びついたことはほとんどありません。それどころか、一週間もたてば名前すら忘れてしまいます。
それよりも、じっくりと会話が成立した方とのご縁は商談につながります。
私の場合、三十人が出席する交流会で10枚ほど名刺を配らないこともあります。残りの二十人とは話しすらしません。
ですが、浅いご縁を二十人と作るよりも、十人の方とじっくりと語り、深いご縁を作ったほうが商談につながります。

さらに、じっくり語る際は、唾を飛ばして自らを語るよりも、相手の語る事をじっくりと聞きます。そして相槌を打ちながら、自分がビジネスとして貢献できる事を返します。相手の目を見つめながら。
話をよく聞いてくれる人は、語る側にとって心地よい相手として記憶に残ります。それが、ビジネスの相談もきっちりと聞いてくれるに違いないとの安心感にもつながり、商談へと結びつくと私は思っています。

ことさら自らの仕事をアピールしなくてもよいのです。相手の話を伺いながら、相手の中で自分が貢献できる事を返答するだけで、十分なほどの営業効果が見込めます。
こちらから一生懸命アピールするよりも、相手が抱えている課題に対してこちらのビジネスで貢献できることを真摯に返しましょう。それだけでよいのです。
それが相手にとって課題の解決に役に立つと思ってもらえればしめたものです。
相手に対して真剣に関心を持ち、自分が貢献できることを考える。それは相手を尊重しているからこそです。単にビジネスの相手だと思ってくる相手は話していてすぐにわかります。相手にも見透かされます。
まずは相手を尊重し、受け入れ、関心を持ち、貢献しようと思えばよいのです。

もし自分の得意分野では貢献できないと思っても、周りの友人関係の中で、相手のビジネスにとって有益なご縁を探すのもよいです。
それを聞き出すため、相手により深く質問することも効果的です。
人は、質問してくれる相手に対して、自分に興味と好意を持ってくれていると考えます。するとますます会話が進み、相手はあなたにますます好印象を抱いてくれるはずです。

また、交流会には単身で飛び込むぐらいの気持ちが必要です。
たとえ交流会の中で知っている方が、紹介してくださった方のみだとしても、一人で飛び込むべきです。
よく、顔見知りとつるんで交流会に参加する方がいらっしゃいます。ですが、つるんでしまうと人との交流ができません。その中に逃げてしまうからです。
私もはじめの頃は臆病で、誰かを誘っていました。ですが、途中から単身で飛び込むことも平気になりました。
ただし、逆もいえます。誰も知らない交流会に単身で飛び込むのはやめた方が良いです。誰との縁もないのに飛び込むと、手練れの勧誘者と思われ、逆に警戒させてしまうからです。
そして、お会いした方にはできれば翌日に、最低でも先方があなたのことを覚えている数日以内にメールを送ることをお勧めします。

一旦、交流会で絆が出来たら後日、相手からきっと何かのお誘いが来ることでしょう。
そうしたら、万難を排して参加しましょう。それによってますます絆は強くなります。そうなればもう営業チャネルは築けたも同然です。

ここで挙げたノウハウは、私が自分で築き上げました。ですが、最初は逆でした。
名刺を配ることに腐心し、自分の持っている得意分野や趣味のアピールに必死で、御礼メールの送信を怠り、仲良しを誘って参加しては、身内だけで話していました。
だから、交流会に参加し始めたころは、全く商談につながりませんでした。それどころかお金と時間だけを支払い続けていました。
私はそれを改善しなければ人生が無駄になると考えました。
そして、今までの自分を全て反面教師としました。そうすることで、商談につながる割合が劇的に増えました。
今では何かの懇親会に出ると、必ず一件は商談につながります。

さて、絆が作れました。
そこからはあなたの人間を知ってもらえるとよりよい絆が結べます。
そこで初めてSNSの登場です。
よく、交流会の当日や翌日に交流会で知り合ったからからFacebookのお友達申請をいただきます。
ただ、私はあえて最初からフランクなSNSは使わず、最初はフォーマルなメールを使うようにしています。
そこでフォーマルなあいさつを行ったのちに、SNSを使ったやりとりに進みます。その方が後々の商談につながるように思います。
最初からフランクな感じで始まった方が、ビジネスにつながらない。不思議なものです。

SNSの活用については本稿では深く踏み込みません。
ですが、一つだけ言えるのは、いいねやコメントをいただく数と、営業チャネルの成果は比例しないということです。

私の場合、SNSの投稿がバズったり、大量のいいねをもらうことに重きは置いていません。
むしろ、私のSNSの使い方はいいねをもらうためのノウハウとは逆行しています。だから、SNSでいいねをもらいたい方にとっては私のやり方は逆効果です。
私は他人の投稿に反応するのはやめました。それどころか、一日の中でSNSに滞在する時間は20分もないでしょう。
ただ、他人の投稿に反応しないよりした方が良いのは確かです。そして、なるべくSNSの滞在時間を増やした方が、いいねにつながることは間違いありません。それは、SNSのアルゴリズム上、優先的に投稿が表示されなくなるからです。また、いいねは相手への承認ですから、いいねが返ってくる割合も増えることは間違いありません。
私の場合、限られた時間を活用するにはSNSの巡回時間を減らさねばならないと考え、ある時期からSNSでいいねを押すことをやめてしまいました。
ですが、もし時間があるのであれば、なるべくSNSの滞在時間や反応はしたほうがいいです。

ただ、いいねが少なく、コメントがもらえていないからといって、投稿が見られていないと考えない方が良いです。いいねやコメントがなくても、継続することであなたの投稿は必ず誰かの目に触れています。その繰り返しがあなたの印象となるはずです。

要はSNSを通して、あなたという人間を知ってもらうことです。
何かを勧誘してきそうな人ではないか。書き込みにうそや誇張や見えが感じられないか。日々の投稿でそれを知ってもらえれば良いのです。
それが達成できれば、いいねやコメントの数などささいな問題に過ぎません。気にしなくて良いです。

それよりも、日々の投稿は必ずや日常を豊かにし、しかも仕事にも結び付きます。
まずは投稿を継続することが肝心だと思います。ぜひやってみてください。

結局、営業チャネルの構築とは、サービスの営業窓口があなた個人である限り、あなた自身の人間で勝負するしかないのです。
私はそう思っています。
動画配信であなたの人間が伝えられればなお良いですし、そこまでは難しくても、リアルな場でも仕事をお願いするに足る信頼をもっていただくことは可能なはずです。それは、業績となって必ず戻ってくるはずです。

本稿が皆さんのご参考になればと思います。


75年目に社会活動に思いをいたす


原爆が落ちて75年目の今日。

切りの良い数字だと思い出したところで、被爆者の方の無念は晴れません。
それは分かっているのですが、切りの良い数字は、自らの人生を振り返るきっかけにもなります。

25年前の今朝は、私は原爆ドームの前にいました。そして、世界中の人たちとダイ・インに参加していました。
(ちなみにその前日は原爆ドームの前にテントを立て、友人達と野宿していました。)

当時、私は大学の政治学研究部の部長を退任した直後だったので、国際関係や政治には深い関心を持っていました。
ですが、今や疎くなってしまいました。会社を経営しながら自分でも商談や設計やコーディングに携わっていると、そんな時間はなかなか取れません。
私の中の関心も当時に比べて隔世の感があります。

ですが、それでは駄目なんですね。経営者の立場としても、そして年齢の上でも、こうした問題にもっとコミットしなければ、と反省しています。
なぜなら、今の複雑に絡み合った動きの速い社会に対して、官僚や政治家が有効な政策を迅速に立案できるとは、とても思えなくなっているからです。
つまり、私たち民間の人間がもっと自覚し、民間で世の中を回すようにしなければなりません。
小さい政府を想定し、それに備えた動きをしなければならない。そう思うようになってきました。

忙しい毎日。
そんな中でも、どこかで理想を追う自分を維持し、どこかで社会のために役立つ自分を持っておく。
そうでないと、日々の売上や支出や進捗に自分が引き裂かれてしまいそうです。

ですが、私は今、そうした政治や国際関係を語るだけの知識や見識が失われています。
少なくとも大学時代に比べると。

だから、今の私は、自分にできることをしようと考えを変えています。
それは地道な方法で社会貢献することしかないです。

昨日は生まれて初めてクラウドファンディングに寄付しました。
町田市地域活動サポートセンターさんが今、実施されているものです。
https://camp-fire.jp/projects/view/305818

また今夜、行われるfreee & kintone Biztech Hackも活動自体は無償です。
https://page.cybozu.co.jp/-/fk-biztech/
私には一銭も入りません。
これも技術を社会に広める意味では、社会貢献の一つだと感じています。

そもそも、日々の仕事を正直に公正に行うことも、立派な社会貢献だと思います。
それが社会を回し、人々の役に立っている限り。
だから、ことさら社会貢献にとらわれなる必要はないと思います。

ですが、せっかくの仕事も、組織のためだけで完結してしまうとなると、社会に及ぼす効果は薄いです。
管理のための管理、時間をつぶすための仕事になっていないか。そこは気を付けたいですね。
日々の行動を外部に直接的な影響を及ぼす。それが結果として社会貢献につながればよい、と思っています。

75年前に非業の死を遂げた方々のためにも。


名古屋出張・桑名・養老・大垣の旅 2019/6/4-5


一日目、6/4
家を9時過ぎに出て、新横浜経由で名古屋へ。名古屋には11:45分頃につきました。
今までにも何度か名古屋は訪れていますが、仕事で行くのはおそらく初めてのはず。
この日は名古屋のお客様との打ち合わせやシステムの説明会などがあり、午後から夜まで息をつく暇もないほど。

ホテルは妻に予約してもらいました。場所は伏見の手前、錦橋のたもとです。なので、名駅から歩いていけると判断し、久々の名古屋駅前を味わいつつ歩きます。
転送してもらった案内メールに書かれていた住所まで歩き、着いたホテルはなぜか工事中。おかしいと思いながら、エレベーターを上下してみました。それなのに、どの階も工事しているのです。
思い余って地下の事務所まで乗り込んでみたら、実はビル全体がまだ開業前だったという落ちでした。どうもメールの住所が間違っていたみたい。
わたしが泊まる名古屋ビーズホテルはそこから50メートル離れた場所にありました。ああ、びっくりした。

結局そうしたバタバタがあったので、宿を出たのは12:25分過ぎ。さらに、伏見駅で迷ってしまい、お客様のもとについたのは13時ギリギリでした。
そのため、楽しみにしていたきし麺を食べる暇はなく、ファミリーマートのおにぎりを急いで胃に収めました。旅情ゼロ。

午後のお客様のもとでの詳細は書きません。仕事は無事に終了しましたし、いくつかの打ち合わせもつつがなく終えることができました。(ちなみに一年たった今でもこのお客様とのやりとりは頻繁です。)

夜はお客様の四名の方が酒席に誘ってくださいまして、「世界の山ちゃん 千種駅前店」で。
実は私、初めての山ちゃん体験です。うれしい。
きし麺、あんかけスパゲッティ、手羽先など、名古屋グルメと銘酒を思うがままに味わい尽くしました。

かなりの量のお酒を飲み、酩酊してしまった私。なんとか宿に帰りつくことはできました。でも、バタンキューです。すぐに寝入ってしまいました。
栄のバーを訪問しようと思っていたのですが。おじゃんです。

二日目、6/5
この日は、せっかく名古屋に来たのだから、と観光にあてる予定でした。
朝一で作業をこなし、ホテルを出たのは9時過ぎ。
ホテルに荷物を預かってもらい、名駅まで歩いて向かいます。そこから近鉄に乗って桑名へ。10時過ぎに着いた桑名は、ほぼ4年ぶりの訪問です。
前回の訪問では実家に帰る途中に車で訪れ、川べりで車中泊をしました。桑名城や六華苑や焼き蛤が懐かしい。
今回は桑名はただ立ち寄るだけの場所です。駅前の観光案内所でマンホールカードを入手しただけでした。

この日、私が目指したのは養老の滝です。そこに行くには養老鉄道に乗りかえねばなりません。
この養老鉄道、昔は近鉄の一支線でした。今は近鉄グループに属しているとはいえ、独立した地方鉄道として運行されています。
こうしたローカルな電車の旅は久しぶりで、停車している電車を見るだけで旅の臨場感はいや増していきます。

電車は、桑名から養老駅までの十駅を一駅一駅、丁寧に停車してゆきます。のどかな旅です。
電化されているとはいえ、単線ですから速度も控えめ。車窓からの景色を存分に味わうことができます。旅情を満喫するには十分。
沿線には栗の花が咲き、目に飛び込む風景は、山際に沿った鉄道の風趣が感じられます。

栗の花 今も鉄路の時 刻み
養老鉄道車内にて

養老駅を訪れるのは二十数年ぶりのこと。
当時の記憶はありませんが、久しぶりに訪れた駅には個性がそこらに見られます。中部の駅百選に選ばれただけのことはあります。
ここは酒の愛好家にとっても著名な地。滝近くの水をひょうたんに汲んだところ、酒に変化して父を喜ばせたという孝行伝説でも知られています。
駅名もひょうたん文字で描かれており、おびただしい数のひょうたんが天井からぶら下がる姿は個性そのものです。

駅舎内には地元のNPO法人が観光案内所のような施設を運営しているようです。ただ、私がが訪れたタイミングでは閉まっていました。残念です。
そればかりか、養老駅には事前にレンタサイクルがあると調べていたのですが、駅員さんがどこかに行ってしまったため自転車を借りられませんでした。

なので、駅から養老の滝までを歩くことに決めました。なに、ほんの2、3キロのことです。私にとってはさほどの距離ではありません。
その分、養老の街並みを味わいながら歩くことができました。通りがかった養老ランドという「パラダイス」を思わせる遊園地がとても魅力的です。さらに、公園の中は木々が緑をたたえており、視界の全てが目に優しいです。

養老公園を歩いていると、平日の午前でありながら、開いている店があります。食指が伸びます。
さらに歩くと、菊水泉に着きました。
ここがあの孝行伝説の泉です。名水百選にも選ばれています。

泉の底に影の映る様子は透明そのもの。名水とは何かを教えてくれるようです。
菊水泉のような澄んだ泉をみると、私の心はとても穏やかになるのです。

クモの巣や 霊泉さらに磨きけり
菊水霊泉にて

菊水泉の横には養老神社も建立されています。もちろんお参りしました。そして旅のご加護と仕事の無事を祈願しました。

そこから養老の滝までの道も、見事な渓谷美が続きます。木々と周りの空気の全てが私を癒やします。その喜び。渓流には小さな滝が続き、徐々に期待を膨らませてくれます。

たどり着いた養老の滝は、20数年ぶりに訪問した私を見事な滝姿で待っていてくれました。20数年前は、雨の中でした。滝壺にでかいガマガエルを見つけたことはよく覚えています。
雨の中の訪問だったことに加え、当時は今ほど滝の魅力に惹かれておらず、滝の様子は覚えていませんでした。
だから今回が初訪問とみなしても良いのかもしれません。

養老の滝は直瀑です。30メートル強を一直線に落ちる水量が豪壮で、それが周囲の木々に潤いを与えています。
見事な晴れ空の中、落ちる滝飛沫を見ているだけで、すべての雑事が洗い流されていきます。

白布や 巌透かして 涼やかに
養老の滝にて

一時間近くは滝の姿をあらゆる視覚から眺めていたでしょうか。
養老の滝の前には広場が設えられています。そこには威厳を備えた二基の岩が屹立しています。その合間からのぞく滝も風情があります。
時の天皇からお褒めを賜り、元号にまでなったこの地。それを象徴するのが養老の滝です。
全国に名瀑は多々あれど、元号になった滝はここのみ。
そうした歴史と滝の美しさは、私を滝の前にしばりつけ、全力で引き留めようとします。
この地には私を惹きつける何かがあります。
ですが、きりがありません。後ろ髪を引かれるようにして滝を後にしました。

老い先に あらがう 滝の姿かな
養老の滝にて

養老公園には、滝以外にも私の興味を惹く場所がほかにもまだあります。
ひょうたんランプの館というお店は、名の通りひょうたんで作ったランプを販売しており、外から中を想像するだけで30分は私をとどめることは間違いなかったので、中に入りませんでした。
また、かつてこの地で製造されていた養老サイダーも、瓶があちこちのお店に飾られていて目を惹きます。この養老サイダーは、明治の頃から有名なサイダーとして知られていたものの、二十一世紀に入って操業が中止されていた幻の品。それがブランド名と原料水とレシピを基に復活したそうです。まさにその銘品である養老サイダーをいただいた私。美味しい。旅のうるおいです。

さらに、親孝行のふるさと会館を訪問しました。
養老の滝訪問の証を書いてくださるというのでお願いしたら、途中で墨が出なくなってしまい、サインペンになったのはご愛嬌。

帰りは行きと違う道を通り、養老寺なども詣でながら駅に向かいました。
行きに見かけた養老天命反転地という、錯覚をテーマとした屋外の芸術作品を展示する公園があり、ここには惹かれました。が、この後の行動の都合もあってパスしました。
その代わり、養老の街並みを目に焼き付けながら帰りました。
次回の訪問では養老の街をじっくりと観ることを誓って。

養老の駅に着き、次の電車までの間、しばらく駅前や駅舎を撮影していました。そして、桑名からやってきた電車に乗って大垣方面へ移動します。
せっかくなので、桑名から養老までは乗らなかったサイクルトレインの車両に乗りました。
サイクルトレインとは、車両内に自転車を持ち込める制度です。
でも、こういう試みって、実際に使われている現場に遭遇することはあまりないですよね?
ところが、次の駅ぐらいから自転車を持ち込んできたお客さんがいました。しかも私のすぐ横で。実際に利用されている様子をみて感動する私。
電車内に自転車など、都会では絶対見られない光景です。
また、サイクルトレインを実施している地方のローカル鉄道はあるでしょうが、そうした場所には車で訪れることがほとんどです。
この電車の旅にふさわしい体験ができました。

大垣に近づくにつれ、地元の高校生の姿が目立ってきます。
養老まで乗って来た時の寂とした車内とは様子が一変。学生の乗客と自転車がある車内。なかなかの盛況です。
そして窓の外には美しい車窓が広がり、旅の思い出にアクセントを加えてくれています。
こうした資産を多数持っている養老鉄道には、今後も頑張ってほしいです。うれしくなりました。

電車は大垣の駅に着きました。私は下車します。養老鉄道はさらに北の揖斐まで延びているそうです。機会があれば全線を乗車したいですね。それだけの魅力はありました。

さて、大垣の街です。私は大垣の駅は何度か乗り降りした経験があります。
大阪と東京を青春18きっぷで行き来する時、大垣駅は大垣行き夜行やムーンライトながらの終発着駅です。なので私は何度もお世話になりました。
ところが、大垣をきちんと観光したことは一度しかありません。

今回は短い時間ですが、レンタサイクルを借りて大垣の街を巡るつもりでした。
特に訪れたいのは奥の細道むすびの地記念館です。
松尾芭蕉が奥の細道の旅を完結したのがここ大垣なのです。
私も旅人の端くれとして、また、素人俳句詠みとして、一度は訪れてみたいと思っていました。

駅前のマルイサイクルというお店で自転車を借り、颯爽と大垣の街に繰り出しました。
自転車で旅に出るこの瞬間。これも旅の醍醐味の一つです。

商店街を抜け、しばらく行くと公園の横を通りました。ここは大垣公園です。大垣城をその一角に擁しています。
このあたりから芭蕉翁の時代の面影を宿す街並みが見えてきます。
水都の異名に恥じない美しい水路が流れ、そこに沿ってなおも走ると、住吉燈台という灯台が見えてきました。海沿いの灯台はよく見ますが、川沿いの灯台とは珍しい。しかもそれが往時の姿をとどめていることにも心が動きます。

水路にはかつて船着場だったと思われる階段があちこちに残されており、かつての水都の面影が偲ばれます。
芭蕉翁が奥の細道を終えたとされる実在の船着場の姿は、当時から何も変わっていないのでは、と思わせる風格を漂わせていました。
その船着き場のそばの川べりに建てられたのが、奥の細道むすびの地記念館です。

わが生も 締めは若葉で 飾りたし
おくのほそ道むすびの地にて

奥の細道といえば、日本史に燦然と輝く紀行文学の最高峰です。
あれほどの旅を江戸時代に成し遂げた芭蕉翁のすごさ。さらに俳句を文学的な高みまで研ぎ澄ませて作中に盛り込んだ構成。私も旅人の一人として、常々その内容には敬意を抱いていました。

旅の師を 若葉の下で 仰ぎ見る
おくのほそ道むすびの地にて

ただ、私は何も食べていません。おなかが空いています。さらに道中にも仕事上のご連絡を多くいただいていました。なのでまずは売店に直行し、食べられそうなお菓子を買い込みました。さらに併設のカフェスペースに電源があったので、お店の方に断りを入れて使わせてもらいながら、空腹を満たし、作業に勤しんでいました。
ここで購入した烏骨鶏の卵で作ったバウムクーヘンがとても美味しかった。

さて、腹がくちくなったところで、店の人に再度お断りをいれ、机にパソコンを置かせてもらい、資料館の中へ。

ここ、期待以上の展示内容でした。
芭蕉翁の奥の細道の全編を現代文に読み下した解説がパネルになって展示されています。その解説たるや、国語の教科書よりも詳しいのでは、と思わされます。これはすごい。感動しました。
私も何年か前、古文と読み下し文が併載された奥の遅道は読破しました。が、本では学べなかった詳しい内容や構成がこの資料館では学べます。
俳句を好む私のような人だけでなく、日本史や日本文学の愛好家にとってもここはお勧めできます。もちろん旅が好きな人にも気に入ってもらえることでしょう。
私もまた来ようと思いました。

あまりにも資料館に長居しており、カフェが先に閉まったことに気づかずじまい。せっかく許可をくださったスタッフの方にご迷惑をかけてしまったのは申し訳なかったです。
その分、またお伺いしたり宣伝しようと思いました。

記念館に併設された水場では美味しい水を飲めます。それを飲んで活力を得た後は、再び自転車で駅のほうへと。
大垣城の天守閣に寄ったのですが、天守はすでに閉館時刻のため、入れませんでした。
天守を背景に従えた戸田氏鉄公の騎馬姿の銅像が美しく、逆の角度からは夕日にとても映えていました。大垣城は「おあむ物語」の舞台でもあり、次回は城の見学も含めて訪れたいと思いました。

さて、時間は17時を過ぎました。マルイサイクルさんに自転車を返す時刻まではまだ余裕があります。
そうなると宿主の脳を操ってどこぞへ向かわせようとするのが私の中の悪い虫です。そやつに操られるがままに、私は次の目的地へとハンドルを切りました。
向かうは墨俣一夜城跡。後で確認したところ、大垣駅から7.3キロ離れています。
それでも行ってしまうのが私のサガ。そして持ち味。

ところがなかなか遠いのです。
一生懸命、自転車を漕いだのですが、揖斐川を超える揖斐大橋を渡り、安八町に入ったところで、引き返す潮時だと判断しました。無念です。あとで確認したら墨俣城まではちょうど真ん中でした。
そこから大垣駅へと戻り、自転車を無事に返却しました。大垣を堪能するには時間が足りなかったようです。いずれまた再訪したいと思います。
大垣駅から電車に乗り、豊橋行の新快速で名古屋へ。

名古屋に着き、せっかくなのでナナちゃん像を探しました。ですが、見つけることができません。
錦橋の名古屋ビーズホテルへと荷物を取りに戻った帰り、諦めきれずにナナちゃんを探しました。あった!ようやく見つけることができました。
インパクトのある姿を脳裏と写真に収めたところで、山本屋本店で味噌カツうどんを。
お土産は昨日お客様にお土産でいただいた名古屋名物のお菓子セットがあるので、家族にはあと一品買った程度でした。


世界一速く結果を出す人は、なぜ、メールを使わないのか グーグルの個人・チームで成果を上げる方法


メールが世の中にとって欠かせないツールとなって、早くも20数年が過ぎた。
だが、今やメールは時代遅れの連絡手段となりつつある。
メールを使う事が生産性を阻害する。そうした逆説さえ常識となりつつある。
わが国の場合、信じられない事にFAXが現役で使われているという。真偽のほどは定かではないが、コロナウィルスの集計が遅れた理由にFAXの使用が報じられていた。

それにも関わらず、多くの企業では、メールがいまだに主要な連絡手段として活躍中だ。
私ですら、初対面の企業の担当者様とはメールを使っている。
メールが生産性を阻害する理由は、両手の指では足りないほど挙げられる。そのどれもが、生産性にとって悪影響しかない。

だが、メールに代わる連絡手段は今や無数にある。チャットツールも無数に。
メールに比べると、チャットツールは手軽さの点で圧倒的に優位だ。
情報が流れ、埋もれてしまうチャットツールの欠点も、最近のチャットツールでは改善されつつある。

そうしたツールの利点を活かし、さらに働き方を加速させる。
本書にはそうしたエッセンスが詰まっている。

「はじめに」で述べられているが、日本企業の生産性が低い理由として、著者は三つの理由を挙げている。
1 持ち帰って検討しすぎる
2 分析・検討しすぎる
3 打ち合わせ・会議など多くのコミュ二ケーションがコスト・ムダにしかならない

ここに挙げられた三つの生産性悪化の要因は、わが国の企業文化の問題点をそのまま表している。
いわゆる組織の問題だ。

とにかく、本書のエッセンスとは、即決と即断の重要性に尽きる。
1で書かれているような「持ち帰り」。これが、わが国の会議では目立つ。私もそうした現場をたくさん見聞きしてきた。
著者は、メール文化こそが「持ち帰り」文化の象徴だという。

こうした会議に現場で実務を知り、実際に手を動かしている人が出てくることはあまりない。会議に出てくるのはその上長であり、多くの場合、上長は進捗の管理に気を取られ、実際の業務の内容を理解するしていることが多くない。
例えば、私が属する情報処理の仕事を例に挙げると、実際に手を動かすのはプログラマーだ。その上に、詳細の設計を行うシステム・エンジニアがいる。

設計といっても、あまりにも混み入っているため、詳細な設計の内容を理解しているのは設計した当人になりがちだ。
会議に出てくるようなプロジェクトマネージャー、システムの全体を管理するマネージャーでは、現場の詳細はわからない事が多い。

そうした生産性を低下させる例は、情報処理に限らずどの業界にもある。
現場の複雑なオペレーションを理解するのは、一人か二人、といった現場は多いはずだ。
だから、業務内容の詳細を聞かれた際や、それにかかる労力や工数を聞かれると、現場に持ち帰りになってしまう。少しでも込み入った内容を聞かれると、部署の担当に聞いてみます、としか答えられない。

そうした細かい仕様などは、会議を行う前に現場の担当者のレベルで意見交換をしていくのが最もふさわしい。
なのに、かしこまったあいさつ文(いつも大変お世話になっております、など)を付けたメールをやり取りする必要がある。そうしたあいさつ文を省くだけで、迅速なやりとりが可能になるというのに。

著者が進めているようなチャットツールによる、気軽な会話でのやりとり。
これが効率をあげるためには重要なのだ。
つまり、かしこまった会議とは本質的に重要ではなく、セレモニーに過ぎない。私も同感だ。

ところが、わが国では会議の場で正式に決まった内容が権威を持つ。そして責任の所在がそこでようやく明確になる。

これは、なぜ現場の担当者を会議に出さないかという問題にも通じる。
現場の担当者が会議で口出したことに責任が発生する。それを嫌がる上司がいて、及び腰となる担当者もいる。だから、内容を把握していない人が会議に出る。そして持ち帰りは後を絶たない。悪循環だ。

著者は、会議の効率を上げることなど、論議するまでもない大前提として話を進める。

なぜなら、著者が本書で求める基準とは、そもそも10%の改善や向上ではなく、10倍の結果を出すことだからだ。
10倍の結果を出すためには、私たちの働き方も根本的に見直さなければならない。

本書を読む前から、私も著者の推奨するやり方の多くは取り入れていた。だが、今の10倍まで生産性を上げることには考えが及んでいなかった。私もまだまだだ。

著者によれば、今のやり方を墨守することには何の価値もない。
今のやり方よりもっと効率の良いやり方はないか、常に探し求める事が大切だ。
浮いた時間で新たなビジネスを創出する事が大切だと著者は説く。完全に賛成だ。
もっとも私の場合、浮かせた時間をプライベートな時間の充実につぎ込んでいるのだが。

本書には、たくさんの仕事のやり方を変える方法が詰まっている。
例えば、集中して業務に取り組む「スプリント」の効果。コミュニティーから学べるものの大きさや、人付き合いを限定することの大切さ。学び続けることの重要性。SNSにどっぷりハマらない距離感の保ち方。服装やランチのメニューなどに気を取られないための心がけ。

本書に書かれている事は、私が法人設立をきっかけに、普段から励行し、実践し、心掛けていることばかりだ。
そのため、本書に書かれている事はどれも私の意に沿っている。

結局、本書が書いているのは、人工知能によって激変が予想される私たちの仕事にどう対処するのか、という処方箋だ。
今や、コロナウィルスが私たちの毎日を変えようとしている。人工知能の到来よりもさらに早く。それは毎日のニュースを見ていればすぐに気づく。

そんな毎日で私たちがやるべき事は、その変化から取り残されないようにするか、または、自分が最も自分らしくいられる生き方を探すしかない。
今のビジネスの環境は数年を待たずにガラリと変わるのだから。

もし今の働き方に不安を覚えている方がいらっしゃったら、本書はとても良い教科書になると思う。
もちろん、私にとってもだ。私には足りない部分がまだ無数にある。だから、本書は折に触れ読み返したい。
そして、その時々の自分が「習慣」の罠に落ち込んでいないか、点検したいと思う。

‘2019/5/20-2019/5/21


労働基準法と就業規則


平成三十一年を迎えた新年、令和の時代を間近に控え、私は自分の経営する会社に社員を雇う事を真剣に検討していた。

人を雇うといっても簡単なことではない。ましてや、十数年の間を一人でやっていく事に慣れてしまった私にとって、雇用にまつわる諸々の責任を引き受ける決断を下す事は、とても大きなハードルとなっていた。

ただ単に人に仕事を教え、ともに案件をこなしていく。それだけなら話は簡単だ。
だがそうはいかない。
人を雇う事によってさまざまに組織としての縛りが発生する。給与の定期的な支払いも欠かせない。だから営業上の努力も一層必要となる。そして会社として法律を全体で守っていかねばならない。そのために社員を統括し、不正が起きないよう管理する責任もある。
そうした会社として活動の基準として、就業規則の策定が求められる。

雇用とそれにまつわる諸作業の準備が必要なことは分かっていた。
そのため、前年の秋ごろから税理士の先生や社労士の先生に相談し、少しずつ雇用に向けた準備を始めていた。

本書は、その作業の一環として書店で購入した。

先に十数年にわたって一人での作業に慣れていた、と書いた。
一人で作業するのは楽だ。
何しろ、就業ルールについては自分が守っていればいいのだから。だから長きにわたって一人の楽な作業から抜け出す決断もくださずにいた。

もちろん、就業ルールは自分の勝手なルールで良いはずがない。
私の場合、常駐の現場で働く期間が比較的長かった。そのため、参画した現場に応じたルールは守るようにしていた。
例えば、労働時間は定められていた。遅刻や早退があっても、そこには契約上の勤務時間が定められていた。休日や休暇についても同じ。

ところが、私は二年半まえに常駐先から独立した。
完全に自由な立場になってからは、労働時間や休日ルールからは完全に自由な身となった。好きなときに働き、好きなときに休む。
その自由はもちろん心地よく、その自由を求めて独立したような私にとっては願ったものだった。それ以来、私はその特権を大いに享受している。

ところが人を雇用する立場になると、完全に自由と言うわけにはいかない。私がようやく手に入れた働き方の自由を再び手放さなければならないのだ。
なぜなら、仕事を確実にこなすためには完全な放任はあり得ないからだ。
私は自分自身が統制や管理を好まないため、人に働いてもらうにあたっても自由にやってもらいたいと思っている。もちろんリモートワークで。

業務を回すため、かなりの管理を省けるはずだ。だが、たとえわずかでも統制や管理は発生する。
だが、それだけではない。
就業規則の策定は企業として必要になってくる。
もし弊社が自由な働き方を標榜する場合も、その旨を就業規則に明記しなければならない。
リモートワークやフレックスタイムを採用するのなら、その枠組みを設けている事を就業規則として宣言しなければならない。

たとえ私と雇用した従業員の間に完璧な信頼関係が成り立っていたとしても。紳士協定に甘えた暗黙の雇用関係は許されない。ましてや自由な放任主義などは。

仮に社員の数が少ない間、すべての社員を管理できていたとする。でも、将来はそんなわけにはいかなくなるはずだ。もし人を雇用し、会社を成長させていくのであれば、一人で全ての社員の勤務を管理することなど不可能になってくるに違いない。
将来、弊社が多くの社員を雇用できたとする。その時、私がすべての社員の勤務状況を把握できているだろうか。多分無理だろう。
つまり、いつかは人に管理を任せなければならない。その時、私の考えを口頭だけでその管理者に伝えられると考えるのは論外だと思う。
だからこそ、管理者の人がきちんと部下を統括できるよう、就業規則は必要となるのだ。

だからこそ、本書に書かれた内容は把握しておかねば。多様な労働と、それを支える法律をきちんと押さえた本は。それは経営者としての務めだ。

本書は8つの章からなっている。

第1章 労働基準法の基礎知識
第2章 雇用のルール
第3章 賃金のルール
第4章 労働時間のルール
第5章 休日・休暇のルール
第6章 安全衛生と災害補償のルール
第7章 解雇・退職のルール
第8章 就業規則の作成

本書がありがたいのは、CD-ROMもついており、書類のテンプレートも豊富に使えることだ。

もう一つ、本書を読んでいくと感じるのは、労働者の権利擁護がなされている事だ。
労働者の権利とは、会社という形態が生まれた17世紀から、長い時間をかけて整備されてきた
年端もいかない子供を遅くまで劣悪な環境で働かせていた産業革命の勃興期。
だが、劣悪な状況は17世紀に限った話ではない。つい最近の日本でもまかり通っていた。

私自身、若い頃にブラック企業で過酷な状況に置かれていた。

働く現場は、労働者側が声を上げないかぎり、働かせる側にとってはしたいようにできる空間だ。
容易に上下関係は成立し、ノルマや規則という名の統制も、経営側の意志一つで労働者側は奴隷状態におかれてしまう。

私はそういう目にあってきたからこそ、雇う人にはきちんとした待遇を与えたいと思っている。
だからこそ、今のような脆弱な財務状況は早く脱しないと。

結局、弊社が人を雇う話は一年以上たった今もまとまっていない。業務委託や外注先を使い、これからもやっていく選択肢もあるだろう。だが、雇用することで一つ大きな成長が見込めることも確かだ。そのことは忘れないでおきたい。

本書を読んだことが無駄にならぬよう、引き続きご縁を求めたいと思う。

‘2019/01/13-2019/01/17


アクアビット航海記-リモートワークの効用


「アクアビット航海記」の冒頭では十回分の連載を使い、起業の長所と短所を述べました。
本稿ではその長所となる自由な働き方を実現する上で欠かせない基盤となるリモートワークについて語りたいと思います。

そもそも、私自身の「起業」に最大のモチベーションとなったのは、ラッシュアワーが嫌だったためです。
ラッシュアワーに巻き込まれたくない。巻き込まれないためにはどうするか。嫌なことから逃れる方法だけを考え続けて今のスタイルに落ち着いた、というのが実際です。

では、ラッシュアワーはなぜ起きるのでしょう。
それは周辺都市に住んでいる労働者が、首都に集まった職場に通うためです。
リモートワークやテレワークなどという言葉がなかった時期、人々は一つ所に通い、そこで顔を突き合わせながら働くしかありませんでした。
そうしなければ仕事の資料もありません。指示すら受けられません。そして雇う側も管理するすべがないのです。
そのため、一カ所に集まって仕事をするのが通念となっていました。

今、情報技術の進化によって、リモートワークが当たり前になりつつあります。リモートワークによって、ラッシュアワーからはおさらばできるのです!

ただし、それには条件があります。その条件とは、置かれた立場の違いによって変わります。
大きく分けて、雇われているか、そうでないか、の違いです。

まず、あなたが雇われているか、契約によってどこかに通う条件に縛られているとします。
雇用契約を結んでいる場合は、雇い主の人事発令に応じた部署で働くことが前提です。
その企業の人事制度が自由な働き方を認めている場合は、喜び勇んでその制度の恩恵にあずかればよいでしょう。
そうでない場合は、まずリモートワークを認めてもらうための運動を始めなければなりません。

おそらく、その企業にはそれまでの慣習があるでしょうから、リモートワークを見越した業務の設計がなされていません。
リモートワークを申請しようにも、体制が整っていないから無理、と却下されるの関の山でしょう。
その体制を上司や別の部署を巻き込んで変えてもらう必要が生じます。おそらくは大変で面倒な作業となることでしょう。
それをやりぬくには、あなたの日ごろの業務への姿勢と、あなたが扱う情報の性質にかかっています。
上司の理解と信頼、という二つの味方が支えてくれていれば、決して不可能ではないはずです。

もう一つの立場とは、個人事業主か経営者の場合です。この場合、上司はいません。あなたの意思が組織の意思です。リモートワークまでの障壁は低いはずです。
ただし、顧客先との契約によってはリモートワークが無理なこともあります。契約に特定の場所で作業することが定められている場合、リモートワークはできません。
そうしたケースは情報処理業界の場合によく見られます。
常駐でなければならない理由は、情報漏洩のリスクです。ハッキングのリスクもさることながら、監視がゆるいため、モラルがない故意に情報をさせてしまうのです。
また、情報処理業界といってもまだまだ対面による打ち合わせが主流です。そして、進捗管理や仕様の伝達に手間がかかります。そうした手間がリモートワークの普及を妨げています。

しかし、それらもリモートワークのためのツールは多く存在しています。実際は、組織や企業の考え方次第で、リモートワークの導入は進むはずです。
また、労働者の側でも意識を変える必要があることは、言うまでもありません。

ここでは、労働者として、私自身がどういうことに心がけてきたかを述べたいと思います。

・連絡をこまめに。
リモートワークは、相手の顔が見えません。だから発注側はお願いした仕事がきちんと納品されるのか不安です。だからこそ、こまめな連絡は必須です。
初めて出会った方は、こちらの人物をまだよく知りません。私の場合、さまざまなイベントで出会った方にはメールで丁寧なメールを返すことを心がけています。
最初はメールで、そのうちに徐々にチャットツールでの連絡に導きます。その方がメールよりも簡略に連絡ができるからです。電話もよいのですが、やりとりが後に残りません。また、電話は相手に準備の時間を与えないため、チャットツールをお薦めします。
ただし、連絡をもらったら返信は即座に。原則として受け取ったボールは相手に預けるようにしましょう。

・コンプライアンス意識
リモートワークは信頼がなければ成り立ちません。
情報を意図して漏洩させることは論外ですし、ミスも起こさないように気をつけたいものです。
その意味でもメールではなくチャットツールは有用です。添付ファイルは後でも取り消せますし、暗号化通信が基本です。堅牢な防御体制をクラウド事業者に任せてしまうのです。もし、印刷して紙の情報に頼ってしまう癖があるのなら、あらためた方が良いです。

・リモート端末の操作に通じる
リモートワークである以上、ノートパソコンは欠かせません。タブレットやスマートフォンは連絡程度であれば可能ですが、業務や作業にはまだまだ不向きです。
また、最近は有線LANが張りめぐらされている光景もあまり見なくなりました。ほとんどがWi-Fi接続による無線LANです。だから、お使いの端末にWi-Fiアダプタがあるか、また、出先でもWi-Fiのアクセスポイントをうまく拾う方法をチェックしておきましょう。
キャリアや鉄道会社、コワーキングスペースが提供しているWi-Fiが安全です。コンビニのものも連絡程度ならよいでしょう。
また、電源の確保も重要なので、どう言った場所に電源があるのか、チェーン別に把握しておくことは大事です。モバイルバッテリーの準備も検討してよいですね。
また、ブラインドタッチに慣れてしまうと、タブレットやスマホで文字入力がやりにくく能率が落ちます。フリック入力などもマスターしておくべきでしょうね。

・移動中はスマホやタブレットの操作に十分注意する。
これは最近、鉄道会社のマナー啓発キャンペーンでも良く登場します。実際に操作しながら移動するあなたは動く凶器です。
なので操作と移動はきっちりメリハリをつけた方が良いです。
そもそも、せっかくリモートワークを行なっているのですから、もっと外の景色を楽しみましょうよ。外の景色から刺激を受けることは、あなたの生産性の向上にもきっと寄与してくれるはずです。


2020年上半期個人の抱負(実践版)


 ウイスキー検定二級の取得、唎酒師に向けて勉強開始

昨年、二級に向けて勉強するはずが、仕事が忙しくて全く手が回りませんでした。
昨年は仕事で複数の資格を取得したので、個人的な資格にも再度チャレンジしたいと思います。

 トランクルームの棚設置

こちらも仕事の忙しさの中ですっかり後手に回っていました。
本が大量にたまっているので、読んだ本から順次移せるよう、棚を作成したいと思います。

 東京オリンピック・パラリンピック

今のところチケットは取れていません。
ですが、パラリンピックも見たい試合が多々あります。
チケット取得へあきらめずに努力したいと思います。

 海外1国、国内12都道府県の旅行

ここでいう旅行とは、その地を足で歩くことです。
日本の滝百選の滝は8カ所を目指します。
近畿/中部/関東/東北の駅百選は20カ所を目指します。
日本の城百選、続日本の城百選の城は10カ所を目指します。
酒蔵は3カ所、ウイスキー蒸留所は3カ所訪問します。
日本百名山、続日本百名山の登頂は三座は目指したいです。
去年はほとんど未達だったので、今年は時間の配分を考えて。

 毎月一度の一人のみの実施

これは昨年、実現できました。
酒の種類、場所は問いません。毎月一度は一人で反省する時間を作ります。

 毎月一度の一人旅の実施

上に書いた12都道府県の旅は、この一人旅で実現していきたいです。
仕事で地方を訪問する機会を増やすことで実現できるはずだと思っています。
ワーケーションが実現できる自信もつきましたし。
三泊は車中泊をしながらの遠距離の旅がしたいですね。

 SNS

SNSは毎日のFacebookへの投稿は続けます。人生360度を表現するため、投稿内容をなるべく雑多にする方針は変えるつもりはありません。
また、Twitterも同様に不定期で続けます。俳句や雑感や仕事も交えながら。
さらにInstagramも同様に不定期で続けます。よく撮れた写真の公開場所として。

ここ二年、私自身の投稿へのいいねやメンションが減ることは承知で、あえて他人様のSNSには無反応でした。昨年後半から、仕事をこなしながらの余裕が出てきたので、今年はまた他人様の投稿に反応する時間を増やすつもりです。ただし自分からフレンドリクエスト申請をしないポリシーは変えませんが。

 レビュー執筆にあたっての音声入力の勉強

読書量が少し減ってきているのが昨年の反省です。
また、読書レビューをアップするスピードも落ちてきています。
これを両立するために引き続き音声入力の可能性を追求します。

 娘たちのフォロー

家族との融和を大切に、締めるところはきっちりと。

 両親と関西の友人への感謝

昨年は関西の友人に数度しか会えていません。
今年はその機会を増やします。
また、両親に会いに帰る機会も増やします。
今年は私の人生に強烈なインパクトを残した阪神・淡路大震災から25年たった年なので。

 体のケア

いくつか、私の肉体に衰えが出てきています。
早いタイミングで基本健診を受けに行きます。
仕事と個人と地域の三方よしの両立はまず体から。

 人に会って感謝する

SNSでできないこと。それは、対面で会っての感謝です。
忙しい毎日で、すべての人にお会いすることが次第に難しくなってきています。
が、折を見て伺ったりしながら、交流と感謝の基礎は対面にあり、を実践したいと思います。

 家計をきっちり

だいぶ家計には統制が効いてきたように思います。
ですが、まだまだです。引き続き長女と協力していきたいと思います。

 当抱負のアラート表示

昨年は下半期の抱負をアップし忘れたので、この抱負が書きっぱなしにならぬようにします。
毎月末に通知やアラートで自分にリマインドを投げます。
なおかつ、毎月末に書くまとめでは、計画の進捗も含めて書きます。
また、下半期に入る前に、下半期用の抱負(実践版)を書きます。


2020年上半期弊社の抱負(実践版)


 弊社サイトのSSL対応

現レンタルサーバーは引き続き最低限のプランで継続する予定です。
継続した上でレンタルサーバー内のプランでSSL化に対応するサーバーに移管する作業を行います。
WordPressの移転作業はすでに経験済みなので大丈夫でしょう。
1月中に必達でやってしまいます。
3月には非SSLサイトが軒並み遮断される見込みが高いので。

 売上額

2019年度の1.25倍を目指します。粗利は今年度の実績を維持します。

 事業計画

すでに正月の三が日に4月以降の第6期の経営計画は作成しました。(公開はしない予定です)
あとは五年後の中期計画を4月までに立てます。

 新規のkintone案件

新たに10本の受注・検収を目指します。
それによってサイボウズ社とのオフィシャルパートナー契約をさらに継続します。
あわせてkintone エバンジェリストとしても来期につなげる成果を示します。

 モバイルアプリ

MONACAを使った案件を一本受注・検収します。

 自治会・町内会・PTAなど地縁団体のIT化へ尽力する

昨年の冬になって成果が出始めました。
今年はさらに深くかかわっていきます。
年間で5団体の案件を納品したいと思っています。

 交流会への参加とそこでの受注率向上

昨年は技術系のイベントで生まれた交流からはほぼ受注がつながりました。
一方で他業種や経営者の交流会では全く受注につながりませんでした。
その原因もほぼ分かっているので、今年は他業種や経営者の交流会での受注を目指します

 そのほかのお客様案件

ここには詳しくは書きませんが、納期を守るよう最大限の努力を払います。

 技術者の雇用

3月までに4月以降の雇用を行うかを判断したいと思います。
昨年、サテライトオフィスを開設したことから、今年はパートナー企業との協業に向けてかなりの力を割こうと思っています。
なので、雇用については行わない可能性が高いです。

 kintone Café の実施

昨年は神奈川ではなくkintone Café 東京を二回主催しました。
今年もkintone Café 東京は多摩地区を拠点に開催しようと思っています。町田、府中あたりを念頭においています。
町田ではすでに候補をいくつか挙げていて、あとは実行するだけです。
kintone Café 神奈川は去年、準備を進めていましたが、とうとう実施できませんでした。
ですが、昨年、武蔵小杉、鎌倉で開催場所につながるご縁ができました。
人数は最低限でもよく、体裁は問いません。まずは実績を作ります。

 freee Open Guildの運営

今年から運営側で関わることになりました。
freee Open Guildは地方開催も含め、6回は行われると思います。
そのすべてに運営で関わることを目指します。
また、そこで生まれたご縁を生かし、freee案件を二本は納品にまでもっていきたいと考えています。

 英語の睡眠学習開始

昨年、早々に挫折してしまった英語学習に再チャレンジしようと思います。
まず、Devrel Conference Tokyoで英語漬けの一日を送る予定です。
そこでモチベーションを満たして勉強に振り向けようと思います。
海外のカンファレンスにいつ行くことになってもよいように。

 LinkedIn、Eightの活用

仕事関係のSNSはFacebook、Twitterの二本を軸とします。
Twitterについては、代表が書くこともあれば、中の人が書くこともあります。
Facebookは今と同じ頻度にし、主に自社、他社の記事をシェアするのに使います。
その他、LinkedInとEightにも弊社および代表の仕事上の活動報告をアップします。

 AWSの資格試験の合格

まずはクラウドプラクティショナーとソリューションアーキテクトアソシエイトの合格を目指します。

 関西大学東京経済人倶楽部の参加率を増やす

昨年早々に加入したこちらの倶楽部ですが、イベント参加は1度にとどまりました。
こちらへの参加頻度を増やします。具体的には年間で3回。

 当抱負のアラート表示

昨年は下半期の抱負をアップし忘れたので、この抱負が書きっぱなしにならぬようにします。
毎月末に通知やアラートで自分にリマインドを投げます。
なおかつ、毎月末に書くまとめでは、計画の進捗も含めて書きます。
また、下半期に入る前に、下半期用の抱負(実践版)を書きます。


古道具 中野商店


最近、めっきり古本屋を見かけなくなった。
私にも関西や関東でいくつか思い浮かぶ古本屋がある。おそらくそうしたお店のほとんどは閉店してしまっただろうけど。最近も町田で高原書店という本好きには知られたお店が閉じてしまった。

古本屋には特有の雰囲気がある。お店に入ったとたん身を包むのは、世間とは明らかに切り離された滞った時間。その独特の時間に身を委ねつつ、本を選ぶ幸せ。
ここ20年、日本各地に出店したブックオフのような新古書店のこうこうと照らされた店内では味わえない雰囲気が古本屋にはある。並べられた本の色が時間の進み方に影響されてくすんでいる店内。
最近では街場のこぢんまりとした古本屋におもむきたければ、神保町まで足を伸ばす手間を惜しまないと。

本書に登場する中野商店は、そのような時代から切り離されたような古本屋とは違う魅力がある。
まず、時間の流れに起伏がある。少なくとも小説を構成する程度には。誰も来ない時間帯の中野商店には持て余す時間もあるだろう。ただ、持ち込まれる商品が本に比べて多種多様なので買取査定の時間は慌ただしくなる。常連客や一見客が出入りし、値段交渉や質問が飛ぶ。
ひょっとしたら、古本屋にも私の知らない時間の起伏があるのかもしれないが。

なによりも違うのが、本書で描かれる中野商店には店主のほかに二人のスタッフがいることだ。
奥座敷にちんまり店主だか店番だかが座っている古本屋のたたずまいと違うのはその点だ。
スタッフがいるとお店にも動きが出てくる。会話も生まれる。そして店主の中野さんの飾らない人柄に引き寄せられ、出入りする関係者がお店の日常にアクセントを加える。

本書は「わたし」の視点から描かれる。
スタッフのわたしから見た中野商店には店主の中野さんの他に、同じスタッフのタケオがいる。そして中野さんの姉のマサヨさんも出入りする。さらに、中野さんの交際女性であるサキ子さんも。
そうした人々がさらにつながりを呼び、人々が中野商店をハブとして集散する。モノを通して人々が思いを通わせてゆく。

古道具屋とは、ひとびとの思いのこもった品が集まる場だ。
古本にも同じことは言えるが、より生活に密着している点では、古道具の方が人の思いが通いやすいのかもしれない。
だから、「わたし」もタケオも、コミュニケーションの能力が足りなくてもモノを通して人々と交われる。働く経験を積み重ね、人間として成長できる。

そんな「わたし」はタケオに思いを寄せる。だがタケオの反応がつかめないでいる。
店番の仕事が多い私と、買い付けに出かけることの多いタケオ。二人の時間が交わることはないけれど、たまに出歩き、セックスし、かといえばささいなことでケンカする。
不器用で人付き合いの苦手な二人が中野商店での日々を通して、人との付き合い方や、世の中で生きて行く道をつかんで行く。本書はそんな話だ。

頼りなくだらしないようでいながら、店を切り盛りする中野さん。たまにしか店に来ないけど、しっかり者で「わたし」を見守り、時には導いてくれるマサヨさん。美人でやり手の同業者なのに、なぜか中野さんと付き合い、そして別れを繰り返すサキ子さん。「わたし」はこうした大人たちとの交わりを通して、少しずつコミュニケーションのコツをつかんでゆく。
こうした大人の存在って大切だと思う。なぜなら私もそうだったから。

昨今、新卒で採用された若者の離職する率が高いという。
ただあくまでもわたしの感覚だが、いきなり企業のビジネスの現場に放り込まれて、如才なくやっていける人の方が少数派ではないだろうか。
だからこそ上意下達の精神が養われた体育会系の人材の内定も決まりやすいのだろうし。

如才なくいきるための訓練を与えられずビジネスの現場に放り込まれた人は、不器用さを嘆きながらも世の中に揉まれてゆくしかない。
本書はそうした人のための一つのケースとしてオススメできる。また、読んだ人によっては勇気付けられる作品だと思う。
本書の結末は、コミュニケーション能力の欠如に苦しむ人にとって一つの回答とすらいえる。

中野商店は、ネットに特化するため、という名目で店を閉じる。
だが「わたし」は派遣社員としてあちこちを渡り歩きながらも社会に参加している。
そして数年後、ひょんな偶然で再会したタケオはウェブデザイナーとして自活の道を歩んでいる。その姿はまさに、私自身が世に出てゆく過程を見ているよう。

中野商店が「わたし」とタケオに与えてくれたものとは月々の給与ではない。スマホやタブレットなしでも人はコミュニケーションを交わしていける実感だ。そして、たどたどしくとも一生懸命に素直に生きていれば、大人になるにつれコミュニケーションに長けてゆける基礎を作ってくれたことだ。
立て板に水を流すようにトークの達人にならなくてもいい。弁舌もさわやかに商談で相手を論破しなくてもいい。社会の片隅で気の合うもの同士で顔を突き合わせて暮らす幸せはあるはず。

本書は、世の中の複雑さと恋愛の煩わしさに尻込みしているコミュ障の若者に読んでほしい一冊だと思う。
私も自分のかつてを思い出し、自分の原点でもあるそういう古本屋に訪れたくなった。

‘2018/11/08-2018/11/08


甲子園 歴史を変えた9試合


そろそろ夏の甲子園が始まる。本稿は百回記念大会が始まる前日に書き始め、百一回大会が始まる前日にアップした。

私の実家は甲子園球場に近い。なので、甲子園球場には幼い頃からなじみがある。長い夏休みを持て余す小学生には、高校野球の開催中の外野スタンド席は絶好の暇つぶしの場だった。最近でこそ有料になったと聞くが、私が子供の頃の外野席は無料だった。私の場合、外野スタンド席だけでなく、アルプススタンドにも無料で入ったことがある。長野高校の応援団にスカウトされ、応援団の頭数に入れられたのだ。全く縁のない選手たちに声援を送った経験はいまだに得難い経験だったと思っている。

また、私は甲子園球場のグラウンドにも入った。西宮市の小・中学生は、もれなく甲子園球場のグラウンドに入る機会が与えられるのだ。西宮市小学校連合体育大会、西宮市中学校連合体育大会は毎年行われ、グラウンドで体操やリレーを披露する。いや応なしに。私は都合四回、グラウンドで体操を披露したはずだ。

実際の選手たちが試合を行うグラウンド。そこに入り、広大な甲子園球場を見回す経験は格別だ。西宮市民の特権。私は初めて甲子園球場の中に入った時、高校野球の試合は何試合も見た経験があった。数え切れないほど。その中には球史でたびたび言及される有名な試合もある。

そうした経験は、私に甲子園に対する人一倍強い思いを持たせた。西宮市立図書館には野球史に関する本がたくさん並んでおり、子供の私は球史についての大人向けの本を何冊も読んだ。プロ野球史、高校野球史。だから、大正時代の名選手や昭和初期の名勝負。甲子園の歴史を彩る試合の数々は、私にとって子供の頃からの憧れの対象だ。

本書は、そんな私にとって久々の甲子園に関する本だ。内容はいわゆるスポーツ・ノンフィクション。雑誌の「Sports Graphice Number」で知られるような硬派な筆致で占められている。本書の発行元は小学館。Numberのようなスポーツ・ノンフィクションを出している印象はなかった。だから、こういう書籍が小学館から出されていることに少し意外な思いがあった。

だが、本書の内容はとてもしっかりしている。むしろ素晴らしいと言っても良い。本書は全部で9章からなっている。それぞれの章はそれぞれ違う執筆者によって書かれている。各章の末尾には執筆者の経歴が載っているが、私は誰も知らなかった。だが、誰が執筆しようと、内容が良ければ全く気にしない。

本書の各章で取り上げられる試合は、どれもが球史に残っている。

まず冒頭に取り上げられているのが、ハンカチ王子こと斉藤投手とマー君こと田中投手が決勝でぶつかった名試合。平成18年の夏、決勝。早稲田実業vs駒大苫小牧の試合だ。決勝再試合が行われたことでも知られている。この両試合をハンカチ王子は一人で投げぬいた。マー君は両試合ともリリーフの助けを借りたが、ハンカチ王子は一人でマウンドを守り、優勝を果たした。本編はハンカチ王子の力の源泉があるのかを解き明かしている。

本編にはハンカチ王子が鍼治療を受けていたことが描かれる。私はそのことを本書を読むまで知らなかった。プロに入った後、斎藤投手は今も鍼治療を受けているのだろうか。甲子園で名声を高めた斎藤投手のその後を知っているだけに、そのことが気になる。

本書は2007年に初版が出ている。当然、その後の両投手については何も書かれていない。マー君がニューヨーク・ヤンキースでローテーションの一員として活躍していること、ハンカチ王子が日本ハムに入団するも、芽が出ずに苦しんでいることも。

続いて描かれるのは、平成10年夏の決勝だ。横浜vs京都成章の試合。横浜の松坂投手が決勝でノーヒットノーランを59年ぶりに成し遂げたことで知られる。

本書が出版された後の松坂投手も浮き沈みのある野球人生を歩んでいる。西武ライオンズからレッドソックスに移籍し、ワールドシリーズでも優勝を果たした。ところが、日本に戻ってからはソフトバンクで三年間、一度も一軍で勝ち星を挙げられず、その翌年に拾われた中日ドラゴンズで復活を遂げた。本書ではレッドソックスに入団したところまでが書かれている。松坂投手の選手生活の成功を誰もが疑わなかった時期に描かれているからこそ、今、本編を読むと感慨が増す。

ところが本編の主役は京都成章の選手たちだ。決勝でノーヒットノーランを許してしまった男たちのその後の人生模様。これがまた面白い。それぞれが松坂投手のような有名人はない。だが、有名でなくても、人にはそれぞれドラマがある。どんな人の一生も一冊の小説になり得る。本編はそれをまさに思わせる内容だ。社会人野球、整体師、スポーツ関係のビジネスマン。高校時代の努力と思い出を糧に人生を生き抜く人々の実録。私がついに無縁のまま大人になり、今となっては永遠に得られない高校時代の死に物狂いの努力。だからこそ今、京都成章の選手たちに限らず、全ての球児がうらやましく思える。

続いては昭和59年夏の決勝。取手二vsPL学園。
わたしはこの試合、球場に観に行ったのか、それとも家で観戦したのか覚えていない。記憶はあいまいだ。わたしが最も甲子園観戦に熱中した時期は、この試合も含めたKKコンビの活躍した三年間に重なるというのに。PLがこの試合で負けた事は覚えている。この年の選抜も岩倉高校に負けたPL学園。だが、わたしの中ではこの時期のPL学園こそが歴代の最強チームだ。

それは、自分が最も高校野球にはまっていた時期に強さを見せつけたチームだから、ということもある。私がPL学園の打棒を目の当たりにしたのは、この翌年。昭和60年夏の二回戦の事だ。東海大山形を相手に29-7で打ちまくった試合だ。この試合、私は弟と外野スタンドで観ていた。そしてあまりの暑さに体調を崩しかけ、最後まで観ずに帰った。だが、打ちまくるPL学園の強さは今も私の印象に強く残っている。

その試合から30年ほどたったある日、私は桑田選手の講演を聞く機会があった。娘たちの小学校に桑田投手が講演に来てくれたのだ。巨人と西武に別れたKKコンビ。かたや巨人でケガに苦しんだ後、復活を遂げ、大リーグ挑戦まで果たした。かたや引退後、覚醒剤に手を出し、苦しい日々を送っている。清原選手については以前、ブログにも書いた。29-7で勝った試合では清原選手がマウンドに立つ姿まで見た。PL学園とはそれほどのチームだった。ところが今や野球部は廃部になっている。過ぎ去った月日を感じさせる思いだ。

昭和57年夏の準々決勝。池田vs早稲田実業。
私の中でPL学園がヒーローになった瞬間。それは池田高校を昭和58年夏の準決勝で破った時からだ。その大会でPLが打ち負かした池田高校は、私の中で大いなる悪役だった。なぜ池田高校が悪役になったか。それは、本章に書かれた通り。大ちゃんこと荒木投手を無慈悲なまでに滅多打ちにした打棒。それは、幼い私の心に池田高校=悪役と刻印を押すに十分だった。

アイドルとして甲子園を騒がした荒木投手のことは、幼い私もすでに知っていた。荒木投手のファンではなかったが、あれだけ騒がれれば意識しないほうが変だ。ちなみに私が初めて甲子園を意識したのはその前年のこと。地元の西宮から金村投手を擁して夏を制した報徳学園の活躍だ。この時、すでに荒木投手は二年生。この頃の甲子園は。毎年のように話題となる選手が私を惹きつけた。良き時代だ。

本編では早実と池田の数名の選手のその後も描いている。あの当時の早稲田実業、池田、PLの選手は、九人の皆が有名人だったといえる。だからこそ、その後の人生で良いことも悪いこともあったに違いない。著者は有名だからこそ被ったそれぞれの人生の変転を描く。当時のメンバーが年月をへて、調布で再び縁を結ぶくだりなど、人生の妙味そのものだ。

昭和49年夏の二回戦。東海大相模vs土浦日大。
この試合は私が生まれた翌年に行われた。この試合で対決した両チームの中心選手は、プロ野球の世界でも甲子園を舞台に戦う。原選手と工藤選手のことだ。工藤選手は1980年代の阪神タイガースの主戦投手としておなじみ。原選手はいうまでもなく甲子園でやじられる対象であり、今はジャイアンツの監督だ。

本章は原貢監督を抜きには語れない。この数年前に三池工を率いて夏を制した原監督。その性根には炭鉱町の厳しさが根付いている。この試合でサヨナラのホームを踏んだ村中選手もまた、炭鉱町を転々とした少年期を過ごした方で、今は東海大甲府の監督をされているという。土浦日大の村田選手の人生も野球とは縁が切れない。厳しさが敬遠される昨今、当時は普通に行われていたであろうスパルタ指導は顧みられない。だが、本編を読むとスパルタ指導があっての制覇であることは間違いない。その判断は人によってそれぞれだが、その精神までは否定したくないものだ。

平成8年夏の決勝。松山商業vs熊本工。
この試合が今の世代にとってのレジェンドの試合になるだろうか。ここで戦った二校は大会創成期から古豪の名を確かにしている。そんな二校が60年以上の時をへて決勝で戦う。しかもともに公立校。興奮しない方がおかしい。ところがこの頃の私は、甲子園から関心が離れていた。球児どころか自分の人生の面倒を見られずにさまよっていた時期。

当時の私には今と比べて圧倒的に時間の余裕があり、まだ甲子園の実家に住んでいた。なので、タイミングが許せば生でバックホームを見られたかもしれない。今さらいっても仕方がないが、私の人生自体が、本編で描かれた奇跡のバックホームのようなドラマを求めていた雌伏の時期だったこともあり、この試合は見ておきたかった。

直前のライト守備交代。そして直後の大飛球とバックホームによる捕殺。まさにドラマチック。バックホームの主役である人物は本編ではテレビ業界の営業マン。当時、両校を率いた名監督も既に他界、もしくは引退している。もう本稿を書いている今から数えても22年もの時がたっている。それは伝説にもなるはずだ。

昭和36年夏の準決勝。浪商vs法政二。
そう考えると、本編が取り上げたこの試合は、もはやレジェンドどころか歴史に属するのだろう。長い高校野球の歴史でも速球の速さでは五本の指に入ったと称される尾崎行雄氏。そして私が野球をみ始めた頃には、既に現役を引退する寸前だった柴田選手。両校が三期連続でぶつかり、どの大会も勝った側のチームがその大会を制したというから、並みのライバル関係ではない。

オールドファンにとっては今も高校野球で最強チームというと、この二チームが挙がるという。時代を重ねるにつれ、より強いチームは現れた。だが、屈指の実力を持つ二チームが同時に並び立ち、しのぎを削った時期はこの頃の他にない。この時期を知る人は幸運だと思う。宿命のライバルという言葉は、この二チームにこそふさわしい。二チームに所属するメンバーを見ると、私が名前を知るプロ野球選手が何人もいる。それほどに実力が抜きんでいたのだろう。それにしても、一度は尾崎投手の投げる球を生で見たかったと思う。

平成12年夏の三回戦。智辯和歌山vsPL学園。
これまた有名な対決だ。この時、私は既に東京に出て結婚していた。私が人生で高校野球から最も離れていた頃。だから本編で書かれる試合の内容にはほとんど覚えがない。この試合に出場していた選手たちすら、今や30代後半。この試合の出ていた選手の中でも、後年プロに進んだ選手が数名いるとか。だが、残念なことに彼らの活躍も私の記憶にはほとんどない。

当時の私は一生懸命、東京で社会人になろうとしていた。それを差し引いても、この頃の私が野球観戦から遠ざかっていたことは残念でならない。甲子園歴史館にはよくいくが、展示を見ていても、この頃の高校野球が一番あやふやだ。

昭和44年夏の決勝。松山商vs三沢。
冒頭に書いた通り、子供の頃の私は高校野球史を取り上げた本はよく読んでいた。その中で上の浪商vs法政二と並び、この決勝再試合は必ず取り上げられていたように思う。三沢のエースだった太田幸司氏は、プロ入り後、近鉄で活躍されており、プロを引退した後もよく実家の関西地区のラジオでお声は耳にしていた。無欲でありながらしぶとく勝ち進んだ背景に、基地の街三沢の性格があることを著者は指摘する。今の三沢高校には復活の兆しが芽生えているとか。

この試合は本書の冒頭に描かれたハンカチ王子とマー君による決勝再試合によって、伝説の度合いが薄れた。とはいえ、この試合もやはり伝説であることには変わりない。

本書が取り上げているのはこの9試合のみだ。だが、中等野球から始まる長い大会の歴史には他にもあまたの名勝負があった。春の選抜大会にも。そうした試合は本書には取り上げられていない。たとえば昭和54年の箕島vs星稜。江川投手が涙を飲んだ銚子商との試合。奇跡的な逆転勝利で知られる昭和36年の報徳学園と倉敷商の試合。そうした試合が取り上げられていない理由は分からない。取材がうまくいかなかったのか、その後の人生模様を描くうえで差しさわりがあったのか。ひょっとすると他の書籍でノンフィクションの題材になったからなのか。延長25回の激闘で知られる、昭和8年の中京商vs明石中の試合も本書には登場しない。私の父が明石高の出身なのでなおさら読みたかったと思う。

100回記念大会の開幕日。私は実家に帰った。観戦はできなかったものの、第四試合のどよめきを球場の外から見届けた。そのかわり、甲子園歴史館に入って大会の歴史の重みを再び感じ取った。明日、百一回目の甲子園の夏が始まる。

百回大会は金足農業の快進撃が大会を盛り上げ、今年も地方大会からさまざまなドラマが繰り広げられた。また、素晴らしいドラマが見られればと思う。私も合間をみて観戦したいと思う。

‘2018/07/23-2018/07/24


アクアビット航海記 vol.7〜起業のデメリットを考える その1


あらためまして、合同会社アクアビットの長井です。前回にも書きましたが、弊社の起業物語をこちらに転載させて頂くことになりました。第二回~第六回までは起業をポジティブにとらえた視点での利点を述べました。今回からは、起業のデメリットを語りたいと思います。なお、以下の文は2017/9/21にアップした当時の文章そのままです。

起業のデメリットを考えてみましょう

第一回でも触れましたが、“起業”しようと意気込む人は、あまり悪い方向には考えません。考えるとしても、せいぜいシミュレーションや想定上のこと。いわゆるマイナス思考やネガティブ思考にとらわれることを恐れるあまり、悪い感情にひたらずに起業に踏み切るものです。そのため、後ろ向きのイメージを抱かずに起業に踏み切っていく。論理やデータでは起業についてまわる悪いことを想定していても、起業のダークサイドを感情で味わった上で“起業”する人は少ないと思います。

私もこのような偉そうなことを書いていますが、成行きで“起業”したため、悪いイメージはまったくもたず、逆に前向きなバラ色起業生活のワクワクもないままの起業でした。どちらの方向にも先走りせず、感情面のシミュレーションが希薄なままの起業だったので、こんなはずでは、という失望にはあまり陥っていません。それが私が10年以上も独立していられる理由なのかもしれません。とはいえ本連載では起業の良い面だけを語るのではなく、悪い面も伝えておくのが使命だと思っています。

この連載をお読みいただいた方の中には、起業の欠点も知り、起業を取りやめる方もいらっしゃるでしょう。または起業のメリットを知り、“起業”したいとの大志を抱いたにもかかわらず、自分に起業は向かない、と組織にとどまる方もいることでしょう。それでいいのです。“起業”したから偉いとか、組織の中で現役を全うしたから偉くないとか、関係ありません。あくまでも人生はその本人のものなのですから。

ただ、起業のデメリットを知ったうえで、なおかつ起業に踏み切る人を私は応援したい。そして、“起業”した方には、社会的にも道徳的にも道を外さず、それでいて私の稼ぎなどあっという間に抜き去っていくぐらいの気概で頑張ってほしいと思います。自分の夢と健やかな家族と会社の利益を両立し、なおかつ起業からはじめて、徐々に会社を大きくしていった方のことは心から応援したいと思っています。

む、また話が堅苦しくなりつつありますね。いけません。ゆるく永く、でしたね。

まずは肩の力を抜き、ありがちな嫌なこと、から語っていきましょう。

生活が不規則になるでしょう

本連載の第二回で、起業の利点としてラッシュから解放され、毎日違った過ごし方ができると書きました。これは逆をいえば、毎日が不規則になることを意味します。なぜ不規則になるかというと、一人で背負い込まねばならない仕事が増えるからです。いったん、ここでいう起業は個人事業を指すとお考えください。個人ですから、一人で営業に向かいます。一人で製品を作り、一人で請求書をおこし、一人でトラブルや問い合わせ対応にあたります。独りで責任を負うわけですし、最初は資金もありません。人を雇えない以上、すべてが自分にかかってきます。 時には納期が急な案件が同時に来てしまうこともあります。複数案件のご依頼をいただくこともあります。そこをコントロールすべきなのはもちろんです。でもそこが、安定した会社勤めと違う起業の宿命。将来のことを考えると受けられる案件は断らずに受けてしまうのです。そして、トラブルや問い合わせ対応は個人でコントロールができにくい種類の作業です。それをこなそうとすれば、定常業務と重なります。そして定常業務が遅れていきます。それを挽回しようと思えば不定期作業に踏み込むしかなくなっていきます。つまり悪循環に陥るのです。

なぜ生活が不規則になるのか

そんな状況で、毎日を規則正しく送れる人がいたらその方は超人です。毎日23時には就寝して、7時に起きるという生活は、ほぼ無理と思ったほうがよいでしょう。もちろん、健康あっての“起業”ですから、健やかな睡眠は重要です。ですが、実際はなかなか理想通りにはいきにくい。難しいのです。もちろん、“起業”した職種によってその点は違います。例えば店舗を構え、来店するお客様からお代をいただくような職種の場合は、営業時間を前もって決めておくことで、規則正しい生活は維持できるでしょう。しかも作業が開店中に完結してしまうような職種の場合は、なおさらです。

でも、“起業”した当初は人もおらず、不規則な日々を逃れられないと思います。たとえばレジを締め、ジャーナルを出力し、会計を合わせ、夜間金庫に入れるためのお金を数える。これは営業時間後にやる作業です。きちんとした方は日報を書いて日々のおさらいをし、翌日の予定を立てて準備を怠らないでしょう。その時間は営業時間後に行なうため、時間も伸びます。さらにそれは、その業態で何十年後も安定したお客様が来てもらえればの話。実際は新たな商圏や商材を仕入れ、勉強する時間も必要です。起業とは常に勉強が求められるのですから。

また、曜日の感覚もあいまいになるでしょう。週休二日制が維持できるかどうかはあなた次第です。日曜日は安息日、といった能書きも“起業”すればどこかに飛んでいくかもしれません。それこそ、起業前には毎週日曜日に感染できていたサザエさん症候群が懐かしく思えるほどに。起業後はちびまる子ちゃん症候群という言葉も忘れてしまうことでしょう。“起業”すると、先に済ませられることは済ませておかねば、という思いに駆られます。なぜなら、いざ作業が重なるとどうにもならなくなるから。そのため、少し暇ができればテレビよりも目の前の作業に向かいたくなります。曜日が不規則になるということは、さまざまなことができなくなります。例えば、“起業”する前に勤しんでいた地元の少年野球のコーチ。見たいテレビ番組、生のスポーツ観戦、子供たちの習いごと送迎、その他その他。起業前に確保できていた余暇や家族との時間すら奪われかねません。

“起業”して最終的な責任者になるということは、部下や下請け業者からの相談ものべつ幕なしにやってきます。お客様からの連絡だって時間を問わずやってくるはず。家族の時間に、容赦なく仕事は入り込んできます。家族との時間は、家族を持つ方にとっては切実な問題のはずです。自由な時間を求めて“起業”したのに家族との時間が奪われる。これは、家族との時間も大切にするという本連載の意図からも外れます。実際、私もこの罠にはまりました。いまだに子供たちには悪いことをしたと思っています。

生活が不規則になる。そのことは“起業”する前は頭では想像できていても、実感としては分からないものです。我が国の場合、在宅作業はまだ根付いていません。仕事は会社でやるもの、という意識が強いです。そんな風潮にあっては、プライベートに仕事が入り込むことは、あまり歓迎されません。いくら工夫によってプライベートとパブリックが分けられるとはいえ、実際は公私混同になってしまいがちです。

それを防ぐには、前もって、ご自身のライフスタイルを見極めておくとよいでしょう。私のようにテレビ番組に興味がなかったり、定期的な課外活動に興味がない場合は、“起業”してもストレスを感じません。そして、あまり不規則な生活も苦にならないかもしれません。家族がいるか、親族の介護などは不要か、についても想定しておいたほうがよいでしょう。特に、家族とは事前にじっくり相談しておいたほうがいいと思います。私の場合は妻が個人事業を生業としていたので、理解は得られましたが。

次回も、起業の欠点について取り上げていこうと思います。


憂鬱でなければ、仕事じゃない


本好きにとって幻冬舎は気になる出版社だ。後発でありながら、右肩下がりの出版業界で唯一気を吐いている印象がある。その幻冬舎を設立し、今も率いる社長の見城氏は気になる人物の一人だ。また、サイバーエージェントといえば、ITバブルの弾ける前から確かな存在感を発揮していた会社。同じ業界の端くれで中途半端な立ち位置に居続けた私にとっては仰ぎ見る存在だった。しかも、本作を読んで気づいたのだが、サイバーエージェントを創立し、今も率いる藤田氏は私と同い年。今の私と藤田氏を比べると実績や名声、財産にはかなりの開きがある。もとより私がそういう類いの物に価値を見いださないのは承知の通り。だが、それをさておいても、私と藤田氏の経験の差は歴然としている。本書を読んだ私が思うことはたくさんある。

その二人によって編まれた本作は、とても刺激的だ。タイトルからしてただならぬ雰囲気を漂わせている。

だが本書を読む前の数日間、関西でリフレッシュした私にとっては、本書でどう厳しいことを言われようとも糧にできる。そんな私の期待に本書は応えてくれた。そして、本書は私の甘えにガツンと来る手応えがある。

本書をカテゴリーにくくるとすればビジネス書の類いだ。だが、ビジネス書として片付けるには本書はもったいない。本書は人生論でもあり、分かりやすい哲学書でもある。いかに生き、いかに死を迎えるか。それが二人の話者によって縦横に語られる。

二人の語りを収めるにあたり、本書には工夫が成されている。その工夫とは、あえて対談形式を捨て、二人のそれぞれがエッセイ形式で書き上げていることだ。本書が世に出るまでに、二人は何度も対談を重ねたのだろう。前書きで藤田氏が語っているように、2010年後半から2011/3/11まで二人で何度も会ったそうだ。何度も話し合ったあった結果、本書のような形に落ち着いたのだろう。それが肯ける。

ただ、対談形式にしただけではライブ感は出ても論点がぼやけやすい。そこで二人の対談の結果をいくつかの論点に分けたのだと思う。論点を分けた上でそれぞれの論点に合わせて二人がエッセイのような文章を書く。それを章ごとのフォーマットとして一貫させる。そのフォーマットとは以下の感じだ。まずは見城氏がラジカルな挑発で読者の感性やプライドをかき回す。それで読者の血圧を少し上げたところで、藤田氏の冷静な筆致がそれを補強する。

各章のタイトルは、見城氏の文章のフレーズが当てられている。そのフレーズはさすが編集者と言うべき。キャッチーなコピーが見城氏の文からは飛び出してくる。本書のタイトルもその一つ。だが他にも、魅力的なタイトルがずらりと並んでいる。

たとえば
・自己顕示と自己嫌悪は「双子の兄弟」
・努力は自分、評価は他人
・スムーズに進んだ仕事は疑え
・パーティには出るな
・「極端」こそわが命
・これほどの努力を、人は運という
・ふもとの太った豚になるな。頂上で凍え死ぬ豹になれ
・良薬になるな。劇薬になれ
・顰蹙は金を出してでも買え
などなど。

私の場合は、「自己顕示と自己嫌悪は「双子の兄弟」」がもっともピンと来た。私自身、おのれの能力の足りなさ加減に時々いらつくことがある。特に記憶力。識りたいことがたくさんあるのに一度では覚えられない記憶力の悪さ。しかもそれが近ごろ低下していることを自覚する。私の中にもある自己顕示は、私の中にある自己嫌悪を備えてようやく両立するのだと。

また、私が一番耳が痛かったのは「 スムーズに進んだ仕事は疑え 」だ。弊社のような原価がすなわち人件費となる業界は、工数が少なく済めばその分、利益率の増加につながる。しかし見城氏の文をよく読むと、「大事なのは、費やした時間ではない。仕事の質である。(49P)」が主旨であることがわかる。つまりこれは困難に立ち向かいつつ、ただ時間を掛ければ評価される風潮へのアンチテーゼなのだ。であるならば見城氏の言葉は、スムーズに進んだ仕事は質に見落としがないか疑い、問題なければ間髪入れずに次の仕事に取り掛かれ、と読み取れる。

あと「パーティには出るな」の下りもそう。ここ半年ほど、交流会やSNSなど広く浅くの付き合いを見直そうとしている私を後押ししてくれる章だった。

「これほどの努力を、人は運という」の章もそう。努力のアピールが全く無駄なことはよく分かっている。経営者の立場では結果でしか評価されないことも。

あと「ふもとの太った豚になるな。頂上で凍え死ぬ豹になれ」の章もそう。独立にあたって私が自分に何度も言い聞かせたのが、「鶏口となるも牛後となるなかれ」の言葉。史記に原典のあるこの言葉を何回私は念じたことか。見城氏がいう凍え死んだ豹とはヘミングウェイの短編に登場する一文のようだ。私もまさに凍え死んだ豹でありたいものだ。

本書には他にも刺激的な言葉が並ぶ。だが、見城氏ほどの実績を残した方の口が語ると説得力がある。そしてこれらの言葉からは、私もまだまだ人付き合いにおいて甘いな、と思える。本書は私が関西への旅から戻って読み始めた。関西の旅では何回も飲み会や面会を持ち、旧交を温めた。この旅は私がSNSに費やす時間を減らし、表面だけでなく深い関係を持ちたい。それも少人数の会合で、という意図で行った旅だった。その旅から帰ってきてすぐ、本書を読み始めた。そして、付き合いの質を変えようとする私の決断が本書によって後押しされたと同時に、まだまだ私の仕事の仕方や商談に臨む場の覚悟に足りない点があったと反省した。

そして、どんな小さなことでも頼まれごとは忘れないという見城氏の言葉にも、私もわが身を省みて汗顔の至りだ。この関西の旅で、私は一つの約束事をした。それは「アクアビット航海記」のブログを印刷し、郵送することだ。戻って一年近くたつが、まだできていない。早くやらねば。

なお、本稿のように本書を紹介することで、本書が根性論や精神論に満ちた一冊と思われるかもしれない。でも本書はモーレツ社員の養成書ではないのだ。きちんと余暇やスポーツの効用も謳っている。見城氏は週六日ジムに通うそうだ。それに刺激を受けた藤田氏もジムに通う日数を増やしたとか。私は本音ではジムで機械的に体を鍛えるより、山や地方を歩き回って体を鍛えたい。だが、仕事だけが人生でないことを本書が語っていることは言い添えておかないと。もちろん、本書に充ちている気づきのヒントは生かさねばならないのだが。

あと、それに対する藤田氏のコメントで、寝ないと能率が落ちるというのがあった。それは同い年代として安心した。結局、寝不足の自慢も結果が伴わなければなんの意味もないのだから。

本書を読んでいると、熱い見城氏のコメントに対する一見、冷静に思える藤田氏のコメントがじわじわ効いてくる。実は私は藤田氏が述べていることのほとんどに頷けた。それはもちろん、見城氏の刺激的な言葉を読み、私の心の風通しが良くなったからなのだが。

もう一つ、書いておかねばならない。それは本書が講談社から出されたことだ。見城氏は自社の幻冬舎で本書を企画してもよかったはず。なのに、ライバル社の企画にも全力で取り組んだ。そしてこうして素晴らしい本を作った。本書の冒頭の章のタイトルは「小さなことにくよくよしろよ」だが、おそらく出版社の垣根などということは、見城氏にとっては小さなことですらなく、本質的なことでもないのだろう。そこに見城氏のスケールを感じる。

本書によって私はお二人にとても興味を抱いた。もし私が今のまま頑張ったとして、遥か先を歩くお二人は遠い。早く追いつけるよう精進したい。

‘2018/03/08-2018/03/09


2019年上半期弊社の抱負(実践版)


仕事

* まとめの書き方を変更
   今までは一年まとめて一気に膨大なまとめを書いていました。
   これを月ごとにまとめを書きます。
   また、まとめを書く際、個人としてのまとめと仕事上のまとめを分けます。
   これによってより細かく月々の状況を把握することが狙いです。
   水筆で月名を書き、その画像をアップします。

* 弊社サイトのAWS +kusanagi移行(SSL対応)
   現レンタルサーバーは引き続き最低限のプランで継続する予定です。
   ですがSSL化が今のプランではできません。
   また、他プランへの変更の際にサーバーの移管作業が必要です。
   なので、この機会にウェブサイトのみAWS + Kusanagiへの乗せ換えを行います。
   これは4月を予定しています。

* 技術者の雇用
   昨年末に面談を済ませた方と、どういう方式で契約を結ぶか。
   1月~2月中旬までに双方の条件をすり合わせ、
   4月から何らかの形で稼働していただきます。
   仮にその方が折り合い付かない場合も4月からの増員増に変わりはありません。

* 事務所の設置
   3月までに契約面のすり合わせを行い、4月中にレイアウト策定。
   5月の連休明けからの使用を考えています。ただし本拠地は現在と同じです。

* 英語の睡眠学習開始
   すでに機器は入手しましたが、その機器に修理が必要です。
   先日修理に出しましたので、その結果次第です。1月末から勉強を始めます。

* kintone Café 神奈川の実施
   1/19にkintone Café 埼玉に参加します。
   これを機に、kintone Café 神奈川も春と秋に一回ずつ始めます。
   人数は最低限でもよく、体裁は問いません。まずは実績を作ります。
   その他にも何かしらの勉強会を一回は開催します。内容は問いません。
   また、お呼ばれすれば他所のイベントでも登壇します。まず3月のkintone Café 広島。

* 元号、消費税率に合わせ棚卸し
   今までに弊社が手掛けたシステム開発案件で、
   元号計算や元号表示を行っているロジックを棚卸します。3月末までに行います。
   それに合わせ、秋に予定されている消費税率変更にも備え、
   消費税率の棚卸も行います。これも3月末とします。

* LinkedIn、Eightの活用
   仕事関係のSNSはFacebook、Twitterの二本を軸とします。
   Twitterについては、代表が書くこともあれば、中の人が書くこともあります。
   Facebookは今と同じ頻度にし、主に自社、他社の記事をシェアするのに使います。
   その他、LinkedInとEightにも弊社および代表の仕事上の活動報告をアップします。

* 売上額
   2018年度の1.25倍を目指します。そして粗利は今年並みの金額を。

* 事業計画
   自己流であってもよいので、3月までに今年と五年後の計画を。

* 新規のkintone案件
   8本の受注・検収を目指します。

* モバイルアプリ
   MONACAを使った案件を一本受注・検収します。

* 出身大学の東京での経済会加入
   ずいぶん前から検討していましたが、こちらは1月中に入会を行います。

* 自治会・町内会IT化への道筋を描く
   SNSでの発信はもちろんですが、きちんとした形で世に問います。
   そのため、コツコツと文章を書きためます。
   今年9月末までに草稿を書き終えたいと考えています。

* 当抱負のアラート表示
   この抱負が書きっぱなしにならぬようにします。
   毎月末に通知やアラートで自分にリマインドを投げます。
   なおかつ、毎月末に書くまとめでは、計画の進捗も含めて書きます。
   また、下半期に入る前に、下半期用の抱負(実践版)を書きます。

* そのほかのお客様案件
   ここには詳しくは書きませんが、納期を守るよう最大限の努力を払います。


2019年上半期個人の抱負(実践版)


個人

* ウイスキー検定二級の取得、唎酒師に向けて勉強開始
   二年前にとったきりのウイスキー検定三級から二級の取得を目指します。
   年二回の実施なので、初秋での合格を目指します。
   また、唎酒師についても取得に向けて情報収集を開始します。可能ならばビアテイスターも。

* トランクルームの棚設置
   4月末に棚を買い、トランクルームに入れている書籍の整理を行います。
   5月の連休中に行うつもりです。

* ラグビーワールドカップ(一試合は観戦)
   秋に予定されているラグビーワールドカップですが、最低一試合は生で観戦します。
   まだチケットが取れるかもわかりませんし、これから予定を立てる必要もありますが。

* 海外1国、国内12都道府県の旅行
   ここでいう旅行とは、その地を足で歩くことです。
   日本の滝百選の滝は8カ所を目指します。
   近畿/中部/関東/東北の駅百選は20カ所を目指します。
   日本の城百選、続日本の城百選の城は10カ所を目指します。
   酒蔵は3カ所、ウイスキー蒸留所は3カ所訪問します。

* 毎月一度の一人のみの実施
   酒の種類、場所は問いません。毎月一度は一人で反省する時間を作ります。

* 毎月一度の一人旅の実施
   12都道府県の旅行は、この一人旅で稼いでいきます。
   その中で三回は車中泊による遠距離の旅をしたいですね。

* 読書は100冊。読む読むブログも100冊。
   ジャンルは問いません。引き続き読書を続けます。

* SNS
   SNSは毎日のFacebookへの投稿は続けます。
   また、Twitterも同様に不定期で続けます。
   さらにInstagramも同様に不定期で続けます。
   要は昨年と同じような使い方です。
   ただ、Twitterはもう少し影響力を増やす方法を模索します。

* 音声入力の勉強
   これらの読書量とブログ執筆を両立するには、音声入力に頼るしかありません。
   引き続きより最適な方法を検討します。
   また、喋りすぎて充電が減ってしまうことが考えられるので、
   車内充電の手段を確保します。

* 娘たちのフォロー。
   二人とも進学するため、きちんとフォローを行います。

* 腰痛の治癒。
   これは、1月中には一度きちんと訪問します。

* 感謝
   これは、SNSではやりようがないので、
   なるべく今までお世話になったさまざまな人に会うようにします。
   会わないと感謝は届けられないので。


仕事の技法


あまりビジネス書籍を読まずに生きてきた私。だがそうもやってられなくなってきた。特に平成29年度は取りたいkintoneの案件をことごとく取りこぼし、スランプといっても良い状態に。

しかし、これをスランプの一言で片付けて良いはずはない。しかもkintoneではない案件では比較的順調に受注できていたのだからなおさら。それは弊社の作業分とkintone保守料の二重保守料を払ってもなお、お客様にメリットが出るだけの提案ができなかった私の提案ミスだと思っている。

だが、それで終わらせてはならない。私に、そして弊社に足りないところは他にもたくさんあるはず。なんといっても私は技術からビジネスマナーにいたるまでほぼ独学でやってきたのだから。

今まではそれでもなんとかやって来られた。だが、私の追い求めるライフスタイルを実現するためには、商談の取りこぼしで失う時間がもったいない。もう私には時間が余り残されていないのだから。そこでビジネス本だ。まず、本書を手に取ってみた。

本書が私のビジネスの蒙を啓いてくれた点はいくつもあった。やはり独学では取りこぼしがあること、そして俺流の限界を痛感させられる。

中でも本書をよんで一番自分に足りないと感じたこと。それは集団でチームワークで臨む商談のノウハウだ。そのノウハウが私にはほとんどない。勤め人時代を含めても、私がチームで商談に臨んだ経験は、両手の指に余る程しかない。個人で事業を営んでいた時期が長く、法人化した今でもほぼ一人でやりくりしている私。当然、商談は独りで客先に赴く。もちろん、常駐先での定例会議には数えきれないほど出た。その意味ではチームで臨む商談の経験は積んでいる。だが、そういった会議において、私が主役になることはあまりなかった。

私が主役であるべき商談の場で頼れるのはおのれだけ。そこには本書で著者の説く「小さなエゴ」を補正するパートナーがいない。小さなエゴとは、誰の心にも潜み、自分の心を正当化し、甘えを許す心の動きだ。私にももちろんそのエゴがある。そのエゴは私の心が健康な時は自分で意識し制御できるが、疲れていると途端に暴れだす。そして私の心を悪しき方向へと惑わせる。

本書では、小さなエゴは無理に制御するのではなく、そのエコの動きを見極めることを薦める。私心を捨てたと過信し、悦に入ったところで、私心を捨てた自分は偉いという心の動きもまたエゴ。徹底的に自分を客観化し、エゴを客観的に見ることを著者は薦める。客観化すること。それは自分を外から見つめるだけではない。他者からの視点も考慮し、なおかつ己でも見つめることだ。

打ち合わせや商談。それは言葉のやりとりで構成される。それは音、そして聴覚。だが、著者はその他の部分、すなわち非言語コミュニケーションの部分にこそ仕事の要点があるという。実際、意思決定に関する判断基準の八割は非言語コミュニケーションに拠っているという。その大切さを読者にこれでもかと説く本書は、出だしから中盤までは、非言語コミュニケーションを意識し反省する大切さを述べることで費やされている。その中で表層対話と深層対話の二つの言葉が頻繁に出てくる。それはつまり、言葉に出ないしぐさや視線、表情によって伝わるメッセージ、つまり非言語コミュニケーションが全てのコミュニケーションの八割を占めるという論点に通じる。

だいぶ以前、私はNLP(神経言語プログラミング)の講座を受けたことがある。もっともNLPの手法自体はすでに主流ではなくなりつつあるようだ。だが、NLPも煎じ詰めれば非言語のコミュニケーションの一種だろう。そして私は非言語コミュニケーションの大切さは、本作を読む前から無意識に感じていたように思う。そして自分なりに商談の場で意識するように励んでいた。本書によって非言語コミュニケーションの重要性が語られることによって、私が経験則として持っていたノウハウが裏付られたように思う。さらに日々の非言語コミュニケーションで相手の反応がどうだったかを反省する必要を説かれると、さらに意識して実践しようという気になる。

冒頭に書いた、昨年の失注の数々。それは、私が商談の途中でお客様の発する無意識の反応を見逃していたからに他ならない。その反応から柔軟に提案内容を変えるだけの観察も反省も足りなかったのが私の失敗だったと思う。

本稿の冒頭でも書いた通り、私だけで臨む商談ともなると小さなエゴを見張る第三者はいない。小さなエゴが希望に満ちた観測で私の目を曇らせるのであればなおさら危ない。多分、集団で商談に臨めば、さらに受注率は上がったのだろう。

そしてさらに思うことがある。それは、本作が強く推奨する商談後の反省が思ったより難しいことだ。これを習慣づけることの重要性を本書は何度も繰り返す。それは、この習慣づけが本を読んだだけでは難しいからに違いない。商談後の反省が受注率の上昇に与える効果は、自分の具体的な経験に重ね合わせるとさらに強まると著者は説く。

NLPの表面的な狙いとは、相手の反応を操作することにある。同じように、著者も深層対話によって相手の思考を掴み取り、うまくこちらに有利なように持ちこむための方法を紹介する。ただし著者は、相手を操作することが目的に陥ってしまうことを厳しく戒める。

「操作主義に流される人間は、それが見抜かれていることに気がつかない」と147ページで述べている通りだ。著者は本書で一度もNLPという言葉を使わない。そのかわり心理学という言葉を使う。ところが心理学を学ぶだけでは深層対話の技法は身につかないとも言う。

著者は操作主義の感性に陥らないようにするための処方箋として、相手への敬意を挙げる。

「相手に、深い「敬意」を持って接する。」(211P)。
「人間であるかぎり、誰もが、未熟な自分を抱え、人生と仕事の問題に直面し、他人との関係に苦しみ、自分の中の「小さなエゴ」に悩まされながら、生きている。それでも、誰もが、懸命に生きている。一度かぎりの人生を、かけがえの無い人生を、良き人生にしたいと願い、誰もが、懸命に生きている。

その姿を「尊い姿」と思えること。
それが「敬意」ということの、真の意味であろう。」(211P)

ここは本書の勘所であると思う。
本書は深層対話によるコミュニケーションを薦める。それは商売を、ビジネスを有利にすることだろう。だが、その際に相手への敬意を忘れてはいけないのだ。

それは、ビジネスだけを、金もうけだけを考えて人は生きるべきではないということだ。心を豊かにもち、人間力を養いつつ生きる。それをおろそかにして得た金は、いくら金額が大きかろうが中身が空っぽなのだ。その真実を著者はきっちりと指摘する。

すばらしい。

‘2018/03/03-2018/03/08


消えた少年たち<下>


上巻のレビューで本書はSFではないと書いたた。では本書はどういう小説なのか。それは一言では言えない。それほどに本書にはさまざまな要素が複雑に積み重ねられている。しかもそれぞれが深い。あえて言うなら本書はノンジャンルの小説だ。

フレッチャー家の日々が事細かに書かれていることで、本書は1980年代のアメリカを描いた大河小説と読むこともできる。家族の絆が色濃く描かれているから、ハートウォーミングな人情小説と呼ぶこともできる。ゲーム業界やコンピューター業界で自らの信ずる道を進もうと努力するステップの姿に焦点を合わせればビジネス小説として楽しむことだってできる。そして、本書はサスペンス・ミステリー小説と読むこともできる。おそらくどれも正解だ。なぜなら本書はどの要素をも含んでいるから。

サスペンスの要素もそう。上巻の冒頭で犯罪者と思しき男の独白がプロローグとして登場する。その時点で、ほとんどの読者は本書をサスペンス、またはミステリー小説だと受け取ることだろう。その後に描かれるフレッチャー家の日常や家族の絆にどれほどほだされようとも、冒頭に登場する怪しげな男の独白は読者に強烈な印象を残すはず。

そして上巻ではあまり取り上げられなかった子供の連続失踪事件が下巻ではフレッチャー家の話題に上る。その不気味な兆しは、ステップがゲームデザイナーとしての再起の足掛かりをつかもうとする合間に、ディアンヌが隣人のジェニーと交流を結ぶのと並行して、スティーヴィーが学校での生活に苦痛を感じる隙間に、スティーヴィ―が他の人には見えない友人と遊ぶ頻度が高くなるのと時期を合わせ、徐々に見えない霧となって生活に侵食してゆく。

上巻でもそうだが、フレッチャー夫妻には好感が持てる。その奮闘ぶりには感動すら覚える。愛情も交わしつつ、いさかいもする。相手の気持ちを思いやることもあれば、互いが意固地になることもある。そして、家族のために努力をいとわずに仕事をしながら自らの目指す道を信じて進む。フレッチャー夫妻に感じられるのは物語の中の登場人物と思えないリアルさだ。夫妻の会話がとても練り上げられているからこそ、読者は本書に、そしてフレッチャー家に感情移入できる。本書が心温まるストーリーとして成功できている理由もここにあると思う。

私は本書ほど夫婦の会話を徹底的に書いた小説をあまり知らない。会話量が多いだけではない。夫婦のどちらの側の立場にも平等に立っている。フレッチャー夫妻はお互いが考えの基盤を持っている。ディアンヌは神を信じる立場から人はこう生きるべきという考え。ステップは神の教えも敬い、コミュニティにも意義を感じているが、何よりも自らが人生で達成すべき目標が自分自身の中にあることを信じている。そして夫妻に共通しているのは、その生き方を正しいと信じ、それを貫くためには家族が欠かせないとの考えに立っていることだ。

この二つの生き方と考え方はおおかたの日本人になじみの薄いものだ。組織よりも個人を前に据える生き方と、信仰に積極的に携わり神を常に意識しながらの生き方。それは集団の規律を重んじ、宗教を文化や哲学的に受け止めるくせの強い日本人にはピンとこないと思う。少なくとも私にはそうだった。今でこそ組織に属することを潔しとせず個人の生き方を追求しているが、20代の頃の私は組織の中で生きることが当たり前との意識が強かった。

本書の底に流れる人生観は、日本人には違和感を与えることだろう。だからこそ私は本書に対して傑作であることには同意しても、解釈することがなかなかできなかった。多分その思いは日本人の多くに共通すると思う。だからこそ本書は読む価値がある。これが学術的な比較文化論であれば、はなから違う国を取り上げた内容と一歩引いた目線で読み手は読んでいたはず。ところが本書は小説だ。しかも要のコミュニケーションの部分がしっかりと書かれている。ニュースに出るような有名人の演ずるアメリカではなく、一般的な人々が描かれている本書を読み、読者は違和感を感じながらも感情を移入できるのだ。本書から読者が得るものはとても多いはず。

下巻が中盤を過ぎても、本書が何のジャンルに属するのか、おそらく読者には判然としないはずだ。そして著者もおそらく本書のジャンルを特定されることは望んでいないはず。自らがSF作家として認知されているからといって本書をSFの中に区分けされる事は特に嫌がるのではないか。

本書がなぜSFのジャンルに収められているのか。それはSFが未知を読者に提供するジャンルだから。未知とは本書に描かれる文化や人生観が、実感の部分で未知だから。だから本書はSFのジャンルに登録された。私はそう思う。早川文庫はミステリとSFしかなく、著者がSF作家として名高いために、安直に本書をSF文庫に収めたとは思いたくない。

本書の結末は、読者を惑わせ、そして感動させる。著者の仕掛けは周到に周到を重ねている。お見事と言うほかはない。本書は間違いなく傑作だ。このカタルシスだけを取り上げるとするなら、本書をミステリーの分野においてもよいぐらいに。それぐらい、本書から得られるカタルシスは優れたミステリから得られるそれを感じさせた。

本書はSFというジャンルでくくられるには、あまりにもスケールが大きい。だから、もし本書をSFだからと言う理由で読まない方がいればそれは惜しい。ぜひ読んでもらいたいと思える一冊だ。

‘2017/05/19-2017/05/24


消えた少年たち〈上〉


本書は早川SF文庫に収められている。そして著者はSF作家として、特に「エンダーのゲーム」の著者として名が知られている。ここまで条件が整えば本書をSF小説と思いたくもなる。だが、そうではない。

そもそもSFとは何か。一言でいえば「未知」こそがSFの焦点だ。SFに登場するのは登場人物や読者にとって未知の世界、未知の技術、未知の生物。未知の世界に投げこまれた主人公たちがどう考え、どう行動するかがSFの面白さだといってもよい。ところが本書には未知の出来事は登場しない。未知の出来事どころか、フレッチャー家とその周りの人物しか出てこない。

だから著者はフレッチャー家のことをとても丁寧に描く。フレッチャー家は、五人家族だ。家長のステップ、妻のディアンヌ、長男のスティーヴィー、次男のロビー、長女で生まれたばかりのベッツィ。ステップはゲームデザイナーとして生計を立てていたが、手掛けたゲームの売り上げが落ち込む。そして家族を養うために枯葉コンピューターのマニュアル作成の仕事にありつく。そのため、家族総出でノースカロライナに引っ越す。その引っ越しは小学校二年生のスティーヴィーにストレスを与える。スティーヴィーは転校した学校になじめず、他の人には見えない友人を作って遊び始める。ステップも定時勤務になじめず、ゲームデザイナーとしての再起をかける。時代は1980年代初めのアメリカ。

著者はそんな不安定なフレッチャー家の日々を細やかに丁寧に描く。読者は1980年代のアメリカをフレッチャー家の日常からうかがい知ることになる。本書が描く1980年代のアメリカとは、単なる表向きの暮らしや文化で表現できるアメリカではない。本書はよりリアルに、より細やかに1980年代のアメリカを描く。それも平凡な一家を通して。著者はフレッチャー家を通して当時の幸せで強いアメリカを描き出そうと試み、見事それに成功している。私は今までにたくさんの小説を読んできた。本書はその中でも、ずば抜けて異国の生活や文化を活写している。

例えば近所づきあい。フレッチャー家が近隣の住民とどうやって関係を築いて行くのか。その様子を著者は隣人たちとの会話を詳しく、そして適切に切り取る。そして読者に提示する。そこには読者にはわからない設定の飛躍もない。そして、登場人物たちが読者に内緒で話を進めることもない。全ては読者にわかりやすく展開されて行く。なので読者にはその会話が生き生きと感じられる。フレッチャー家と隣人の日々が容易に想像できるのだ。

また学校生活もそう。スティーヴィーがなじめない学校生活と、親に付いて回る学校関連の雑事。それらを丁寧に描くことで、読者にアメリカの学校生活をうまく伝えることに成功し。ている。読者は本書を読み、アメリカの小学校生活とその親が担う雑事が日本のそれと大差ないことを知る。そこから知ることができるのは、人が生きていく上で直面する悩みだ。そこには国や文化の差は関係ない。本書に登場する悩みとは全て自分の身の上に起こり得ることなのだ。読者はそれを実感しながらフレッチャー家の日々に感情を委ね、フレッチャー家の人々の行動に心を揺さぶられる。

さらには宗教をきっちり描いていることも本書の特徴だ。フレッチャー夫妻はモルモン教の敬虔な信者だ。引っ越す前に所属していた協会では役目を持ち、地域活動も行ってきた。ノースカロライナでも、モルモン教会での活動を通して地域に溶け込む。モルモン教の布教活動は日本でもよく見かける。私も自転車に乗った二人組に何度も話しかけられた。ところがモルモン教の信徒の生活となると全く想像がつかない。そもそもおおかたの日本人にとって、定例行事と宗教を結びつけることが難しい。もちろん日本でも宗教は日常に登場する。仏教や神道には慶弔のたびにお世話になる。だが、その程度だ。僧侶や神官でもない限り、毎週毎週、定例の宗教行事に携わる人は少数派だろう。私もそう。ところがフレッチャー夫妻の日常には毎週の教会での活動がきっちりと組み込まれている。そしてそれを本書はきっちりと描いている。先に本書には未知の出来事は出てこないと書いた。だが、この点は違う。日々の中に宗教がどう関わってくるか。それが日本人のわれわれにとっては未知の点だ。そして本書で一番とっつきにくい点でもある。

ところが、そこを理解しないとフレッチャー夫妻の濃密な会話の意味が理解できない。本書はフレッチャー家を通して1980年代のアメリカを描いている。そしてフレッチャー家を切り盛りするのはステップとディアンヌだ。夫妻の考え方と会話こそが本書を押し進める。そして肝として機能する。いうならば、彼らの会話の内容こそが1980年代のアメリカを体現していると言えるのだ。彼らが仲睦まじく、時にはいさかいながら家族を経営していく様子。そして、それが実にリアルに生き生きと描かれているからこそ、読者は本書にのめり込める。

また、本書から感じ取れる1980年代のアメリカとは、ステップのゲームデザイナーとしての望みや、コンピューターのマニュアル製作者としての業務の中からも感じられる。この当時のアメリカのゲームやコンピューター業界が活気にあふれていたことは良く知られている。今でもインターネットがあまねく行き渡り、情報処理に関する言語は英語が支配的だ。それは1980年代のアメリカに遡るとよく理解できる。任天堂やソニーがゲーム業界を席巻する前のアタリがアメリカのゲーム業界を支配していた時代。コモドール64やIBMの時代。IBMがDOS-V機でオープンなパソコンを世に広める時代。本書はその辺りの事情が描かれる。それらの描写が本書にかろうじてSFっぽい味付けをあたえている。

では、本書には娯楽的な要素はないのだろうか。読者の気を惹くような所はないのだろうか。大丈夫、それも用意されている。家族の日々の中に生じるわずかなほころびから。読者はそこに興を持ちつつ、下巻へと進んでいけることだろう。

‘2017/05/13-2017/05/18


仕事が9割うまくいく雑談の技術-人見知りでも上手になれる会話のルール


本書には雑談のスキルアップのためのノウハウが記されている。雑談のスキルは私のように営業をこなすものには欠かせない。

私がサラリーマンだったのは2006年の1月まで。それから10年以上が過ぎた。その間、おおかたの期間は個人でシステムエンジニアリングを営む事業主として生計を立てていた。私には事業主としての特定の師匠はいない。個人で独立するきっかけを作ってくださった方や、その時々の現場でお世話になった方は何人もいる。そういった方々には今もなお感謝の念を忘れない。でも、個人で事業主として生きていくための具体的な世過ぎ身過ぎを教えてくれた人はいない。私のほぼ全ては独学だ。自己流ではあるが、何とかやってこれた。なぜなら情報系の個人事業者には開発現場の常駐をこなす道が開けているからだ。常駐先への参画は仲介となるエージェント会社を通すのが情報処理業界の慣習だ。そして、常駐先への営業はエージェント会社が行ってくれる。つまり、個人の事業主に求められるのは現場のシステム要件に合う設計・開発スキルと、最低限のコミュニケーション能力。そして営業スキルは不要なのだ。ということは、雑談スキルを意識する必要もない。

とは言いながら、私は事業主になって早い時期から営業をエージェントに頼り切ることのリスクを感じていた。なので個人的にお客様を探し、じか請で案件を取る努力をしていた。それに加えて私にリスクをより強く感じさせた出来事がある。それはリーマン・ショック。私には知り合いの年配技術者がいる。その方と知り合ったのは、エージェント経由で入った初めての常駐現場だ。その方が現場を抜けてしばらくしてからお会いした時、年齢を理由に次の現場が決まらず困っていたので営業代行を買って出たことがある。当時は、リーマン・ショックの影響で技術者需要が極端に冷え込んだ時期。スキルもコミュニケーション能力もある技術者が、年齢だけで書類選考ではねられてしまう現実。それは私に営業スキルを備えねばと危機感を抱かせるには充分だった。

それ以前にも雑談の重要性について全く知らなかったわけではない。私が事業主に成り立ての頃、某案件でお世話になった方から雑談のスキルを身につけるように、とアドバイスをいただいたことがある。その時は、具体的な雑談のノウハウを伺うことはなかった。少なくとも本書に記されているようには。

そしてその時点でも私は雑談スキルを意識して学ぼうとしていなかった。上にも書いたように、一つ目の常駐現場にいた頃からホームページ作成を何件か頼まれていた。なので個人としてお客様のもとに伺わせていただく機会は増えた。私なりにお話を伺い、そのあとにちょっとした会話を交わす。その中には雑談もあったことだろう。だが、雑談を体系立てたスキルとして意識することはなかったように思う。

そして今や経営者だ。個人事業主を9年勤め上げた後、法人化に踏み切った。法人化して経営者になったとはいえ、個人事業主とやっていることに変わりはない。経営をしながら、お金の出入りを管理し、開発をこなし、そして営業を兼ねる。だが、そろそろ私のリソースには限界が来始めている。後々を考えると技術者としての実装作業を減らし、営業へのシフトを考えねばなるまい。そう思い、本書を読む一年ほど前から後継となる技術者の育成も含めた道を模索している。

営業へのシフトに当たり、長らくうっちゃっておいた雑談スキルもあらためて意識せねば。それが本書を手に取った理由だ。

基本的には聞き役に徹すれば、雑談はうまくいく。それは私の経験から実感している。問題は相手も聞き役に徹している場合だ。その場合、どうやって話の接ぎ穂を作るか。話のタネをまき、話を盛り上げていかなければ話は尻すぼみになる。お互いにとって気詰まりな時間は、双方に良い印象を与えない。年上ばかりと付き合うことの多かった私のビジネスキャリアだが、そろそろ年下との付き合いを意識しなければならない。というより、いまや年下の方と話すことの方が多い。すでに平均寿命から逆算すると、私も半分を折り返したのだから。ましてや経営者としては、配下についてもらう人のためにも身につけなければならない。

まずは話し相手の心持ちを慮ること。それが雑談の肝要ということだ。雑談のスキルとはそれに尽きる。それが、本書から学んだことだ。それは雑談にとどまらず、世を渡るに必要なことだと思う。

相手の事を考える。それは相手にどう思われるかを意識する事ではない。それは相手の事を考えているようで、実は相手から見た自分のことしか考えていないのに等しい。そうではなく、相手にとって話しやすい話の空間を作ること。それが雑談で大切なことなのだ。逆に仕事の話は簡単だ。相手も当然、聞く姿勢で身構えるから。そこには冷静な打算も入るし、批判も入る。論点が明確なだけに、話の方向性も見えるし、話は滞りにくい。だが案外、ビジネスの成否とは、それ以外の部分も無視できないと思う。なぜなら、この人と組もうと思わせる要因とは、スキル以外に人間性の相性もあるからだ。

ビジネスに人間性の相性を生かすため、私が自分なりに工夫したことがある。それはFacebookに個人的な事を書くことだ。必ずしも読まれる必要はない。私という人間を知ろうと思ったお客様が、私のFacebookの書き込みを流し読んで私の人となりを理解していただければ、という意図で始めた。これを読んだお客様が私の人となりを理解する助けになれば本望だと思って。実際、商談の場でも私の書き込みが話題に上がった例は枚挙にいとまがない。これは、私から話題を提供するという意味では無駄ではなかったと思う。

とはいえ、そこには問題もある。先に書いたように「相手の事を考えるとは、相手にどう思われるかを意識することではない」に従えば、私の書き込みが「相手にどう思われるか」という意図だと誤解されている可能性がある。もしそう受け取られたとすれば、私のFacebook上の書き込みとは私の土俵に相手を誘っている過ぎない。そして、本書の説く雑談の流儀からは外れている。本書を読み終えてからしばらくてい、私はSNSの付き合い方を試行錯誤しはじめた。そこには私の中で、SNS上でなされる雑談が面を合わせての雑談に勝ることはあるのか、という問題意識がある。

もともと私のSNS上の付き合い方は、相手の土俵にあまり立ち入らないもの。そうしているうちに私の仕事が忙しくなってしまい、仕事や勉強の時間を確保する必要に迫られた。そのための苦肉の策として、SNS上で他の人の書き込みを読む時間を減らすしかない、と決断した。SNS上で雑談しないかわりに、顔を合わせる場で雑談や交流を充実させようと思ったのだ。今もなお、私の中で確保すべき時間をどこからねん出するべきか、オンライン上での雑談はどうあるべきなのか、についての結論は出ていない。もちろん、本書の中にもそこまでは指南されていない。

元来の私は、相手の土俵に飛び込み、相手の興味分野の中に入り込んで行う雑談が好きだ。本当にすごい人の話を聞くことは好きだから。それはもともと好奇心が強い私の性格にも合っている。

そういう意味でも、本書を読んで学んだ内容は私の方法論の補強になった。そして、どういう場合にでも相手の気持ちを考えること。それはオンラインでもオフラインでも関係ない。それは忘れないようにしなければ、と思った。ビジネスの場であればなおさら。

‘2017/02/16-2017/02/17


柳田國男全集〈2〉


本書は読むのに時間が掛かった。仕事が忙しかった事もあるが、理由はそれだけではない。ブログを書いていたからだ。それも本書に無関係ではないブログを。本書を読んでいる間に、私は著者に関する二つのブログをアップした。

一つ目は著者の作品を読んでの(レビュー)。これは著者の民俗学研究の成果を読んでの感想だ。そしてもう一つのブログエントリーは、本書を読み始めるすぐ前に本書の著者の生まれ故郷福崎を訪れた際の紀行文だ(ブログ記事)。つまり著者の民俗学究としての基盤の地を私なりに訪問した感想となる。それらブログを書くにあたって著者の生涯や業績の解釈は欠かせない。また、解釈の過程は本書を読む助けとなるはず。そう思って本書を読む作業を劣後させ、著者に関するブログを優先した。それが本書を読む時間をかけた理由だ。

今さら云うまでもないが、民俗学と著者は切っても切れない関係だ。民俗学に触れずに著者を語るのは至難の業だ。逆もまた同じ。著者の全体像を把握するには、単一の切り口では足りない。さまざまな切り口、多様な視点から見なければ柳田國男という巨人の全貌は語れないはずだ。もちろん、著者を理解する上でもっとも大きな切り口が民俗学なのは間違いない。ただ、民俗学だけでは柳田國男という人物を語れないのも確かだ。本書を読むと、民俗学だけでない別の切り口から見た著者の姿がほの見える。それは、旅人という切り口だ。民俗学者としての著者を語るにはまず旅人としての著者を見つめる必要がある。それが私が本書から得た感想だ。

もとより民俗学と旅には密接な関係がある。文献だけでは拾いきれない伝承や口承や碑文を実地に現地を訪れ収集するのが民俗学。であるならば、旅なくして民俗学は成り立たないことになる。

だが、本書で描かれる幾つもの旅からは、民俗学者としての職責以前に旅を愛してやまない著者の趣味嗜好が伺える。著者の旅先での立ち居振舞いから感じられるのは、旅先の習俗を集める学究的な義務感よりも異なる風土風俗の珍しさに好奇心を隠せない高揚感である。

つまり、著者の民俗学者としての業績は、愛する旅の趣味と糧を得るための仕事を一致させるために編み出した渡世の結果ではないか。いささか不謹慎のような気もするが、本書を読んでいるとそう思えてしまうのだ。

趣味と仕事の一致は、現代人の多くにとって生涯のテーマだと思う。仕事の他に持つから趣味は楽しめるのだ、という意見もある。趣味に締切や義務を持ち込むのは避けたいとの意見もある。いやいや、そうやない、一生を義務に費やす人生なんか真っ平御免や、との反論もある。その人が持つ人生観や価値観によって意見は色々あるだろう。私は最後の選択肢を選ぶ。仕事は楽しくあるべきだと思うしそれを目指している。どうせやるなら仕事は楽しくやりたい。義務でやる仕事はゴメンだ。趣味と同じだけの熱意を賭けられる仕事がいい。

だが、そんなことは誰にだって言える。趣味だけで過ごせる一生を選べるのなら多くの人がそちらを選ぶだろう。そもそも、仕事と趣味の両立ですら難儀なのだから。義務や責任を担ってこそ人生を全うしたと言えるのではないか。その価値観もまたアリだと思う。

どのように生きようと、人生の終わりではプラスもマイナスも相殺される。これが私の人生観だ。楽なことが続いても、それは過去に果たした苦労のご褒美。逆に、たとえ苦難が続いてもそれは将来に必ず報われる。猛練習の結果試合に勝てなくても、それは遠い先のどこかで成果としてかえってくる。また、幼い日に怠けたツケは、大人になって払わされる。もちろんその水準点は人それぞれだ。また、良い時と悪い時の振幅の幅も人それぞれ。

著者を含めた四兄弟を「松岡四兄弟」という。四人が四人とも別々の分野に進み、それぞれに成功を収めた。著者が産まれたのはそのような英明な家系だ。だが、幼少期から親元を離れさせられ郷愁を人一倍味わっている。また、英明な四兄弟の母による厳しい教育にも耐えている。また、著者は40歳すぎまで不自由な官僚世界に身をおいている。こうした若い頃に味わった苦難は、著者に民俗学者としての名声をもたらした。全ての幼少期の苦労は、著者の晩年に相殺されたのだ。そこには、苦難の中でも生活そのものへの好奇心を絶やさなかった著者の努力もある。苦労の代償があってこその趣味と仕事の両立となのだ。

著者が成した努力には読書も含まれる。著者は播州北条の三木家が所蔵する膨大な書籍を読破したとも伝えられている。それも著者の博覧強記の仕事の糧となっていることは間違いない。それに加えて、官僚としての職務の合間にもメモで記録することを欠かさなかった。著者は官僚としての仕事の傍らで、自らの知識の研鑽を怠らない。

本書は、官僚の職務で訪れた地について書かれた紀行文が多い。著者が職務を全うしつつもそれで終わらせることなく、個人としての興味をまとめた努力の成果だ。多分、旅人としての素質に衝き動かされたのだろうが、職務の疲れにかまけて休んでいたら到底これらの文は書けなかったに違いない。旅人としての興味だけにとどまることなく文に残した著者の努力が後年の大民俗学者としての礎となったことは言うまでもない。

本書の行間からは、著者の官僚としての職責の前に、旅人として精一杯旅人でありたいという努力が見えるのである。

本書で追っていける著者の旅路は実に多彩だ。羽前、羽後の両羽。奥三河。白川郷から越中高岡。蝦夷から樺太へ。北に向かうかと思えば、近畿を気ままに中央構造線に沿って西へと行く。

鉄道が日本を今以上に網羅していた時期とはいえ、いまと比べると速度の遅さは歴然としている。ましてや当時の著者は官僚であった。そんな立場でありながら本書に記された旅程の多彩さは何なのだろう。しかも世帯を持ちながら、旅の日々をこなしているのだから恐れ入る。

そのことに私は強烈な羨ましさを感じる。そして著者の旅した当時よりも便利な現代に生きているのに、不便で身動きの取りにくい自分の状態にもどかしさを感じる。

ただし、本書の紀行文は完全ではない。たとえば著者の旅に味気なさを感じる読者もいるはずだ。それは名所旧跡へ立ち寄らないから。読者によっては著者の道中に艶やかさも潤いもない乾いた印象を持ってもおかしくない。それは土地の酒や料理への描写に乏しいから。読む人によっては道中のゆとりや遊びの記述のなさに違和感を感じることもあるだろう。それは本書に移動についての苦労があまり見られないから。私もそうした点に物足りなさを感じた。

でもそんな記述でありながらも、なぜか著者の旅程からは喜びが感じられる。そればかりか果てしない充実すら感じられるから不思議なものだ。

やはりそれは冒頭に書いた通り、著者の本質が旅人だからに違いない。本書の記述からは心底旅を愛する著者の思いが伝わってくるかのようだ。旅に付き物の不便さ。そして素朴な風景。目的もなく気ままにさすらう著者の姿すら感じられる。

ここに至って私は気づいた。著者の旅とわれわれの旅との違いを。それは目的の有る無しだ。いわば旅と観光の違いとも言える。

時間のないわれわれは目的地を決め、効率的に回ろうとする。目的地とはすなわち観光地。時間の有り余る学生でもない限り、目的地を定めず風の吹くままに移動し続ける旅はもはや高望みだ。即ち、旅ではなく目的地を効率的に消化する観光になってしまっている。それが今のわれわれ。

それに反し、本書では著者による旅の真髄が記される。名所や観光地には目もくれず、その地の風土や風俗を取材する。そんな著者の旅路は旅の中の旅と言えよう。

‘2016/05/09-2016/05/28


鉄の骨


一世を風靡した半沢直樹による台詞「倍返しだ!」。文字通り倍返しに比例するように著者の名前は知られるようになった。著者の本が書店で平積みになっている光景は今や珍しいものではない。自他ともに認める流行作家といえよう。とはいえ、私の意見では著者は単なる流行作家ではない。むしろ、経済小説と呼ばれるジャンルを再び活性化させた立役者ではないか。そう思っている。

かつて、城山三郎氏や高杉良氏、清水一行氏による経済小説がよく読まれていた。経済的に上り調子だったころ、つまり高度経済成長期のことだ。それら経済小説には、戦後日本を背負って立つ企業戦士たちが登場する。読者はその熾烈な生き様をなぞるかのように経済小説を読み、自らもまた日本の国運上昇のために貢献せん、と頑張る気を養った。しかし、今はそうではない。かつて吹いていた上昇の風は、今の日本の上空では凝り固まっているように思われる。いわゆる失われた二十年というやつだ。長きに亘った停滞期は、人々の心に自国の未来に対する悲観的な視点を育てた。これからも日本の未来に自信を失う人々は増えていくことだろう。あるものは右傾化することで自国の存在意義を問い、あるものは左傾化して団結を謳う。そんな時代にあって、著者は新たな経済小説の道を切り開こうとする。

著者の凄いところは、経済や資本、組織の冷徹なシステムを描いて、それでいて面白いエンターテイメント性を残しているところである。先に描いた先人たちの経済小説は、経済活動や競争の事実それ自体の面白さをもって小説を成り立たせていたように思う。しかし、これだけ情報や娯楽が溢れる今、経済活動を描いただけでは目の肥えた読者を振り向かせることは難しいのかもしれない。著者はその点、江戸川乱歩賞受賞者として娯楽小説の骨法にも通じている。元銀行員としての知識に加え、娯楽小説の作法を会得したのだから売れないはずがない。

本書は、建設業界を描いている。「鉄の骨」とは建設業界を表すに簡潔で的を射た比喩だといえる。建設業界の中で一人の青年が揉まれ、成長する様が書かれるのが本書だ。

現場で建設に携わる事が何よりも好きな主人公平太。ある日、辞令が出され、本社業務課へ異動となる。そこは別名談合課とも言われる、建設業界の凄まじい価格競争の最前線。公共プロジェクトを入札で落とさねば業績は悪化するため、現場の空気は常に厳しい。

業界では、入札競争が過熱しないよう、業者間で入札の価格や落札者を順番に割り当てる商慣行が横行している。これを談合という。調整者・フィクサーが手配し、族議員が背後で糸を引くそれは、云うまでもなく経済犯罪。露見すれば司法の手で裁かれる。

平太の働く一松組も例外なく談合のシステムに組み込まれている。凄まじい暗闘が繰り広げられる中、一松組は少しでも利益を確保しつつ安価で入札し受注につなげようとする。他方ではフィクサーに対して受注を陳情し、フィクサーは他の工事案件との釣り合いを見て、各業者に受注量を割り振る。きちんと機能した談合では、入札の回数や各回の全ての談合参加業者の入札額まで決められているのだとか。本書にはそういった業界の裏が赤裸々に描かれている。銀行出身者である著者の面目躍如といったところか。

談合の中には、傍観者を決め込み、冷徹にリスクを見極め回避しようとする銀行の存在も垣間見える。そして、談合の正体を暴き、法に従って裁きを下そうとする検察特捜部も暗躍する。

談合につぐ談合で思惑が入り乱れる建設業界とは無縁に、平太の彼女である萌は大学を卒業して銀行に勤めている。建設業界の闇慣習に染まりつつある平太の価値観と、冷徹な銀行論理に馴染みつつある萌の思いはすれ違い始める。悩める萌に行員の園田が接近し、萌の思いを平太から引き離そうとする。園田は一松組の融資担当者であり、仕事柄入手した一松組の将来性の危うさを萌に吹き込み二人の仲を裂こうとする。このように、著者は経済や資本の論理の中に人間の感情の曖昧さを持ち込む。そのさじ加減が実にうまい。

談合という非人間的な戦場にあっても、平太の業務課の仲間も人間味豊かに描き分けられている。先輩。同僚、課長。そして専務。談合と一言で切って捨てることは誰にでもできる。問題はその渦中に巻き込まれた時に、どういった態度を取るか。このことは、現場のリアリティを知る者にしか語れない葛藤である。本書で描かれる登場人物は、端役に至るまで活き活きとしている。平太や業務課先輩の西田。課長の兼松。専務の尾形。フィクサーの三橋やライバル社の長岡。それぞれがそれぞれの役柄に忠実に、著者の作り上げるドラマの配役を演じている。中でも機縁から平太が何度も相対することになるフィクサーの三橋が一際目立つ。三橋が語る台詞の端々からは、談合に関わる人々の宿命や弱さを見ることができる。善悪二元論では語れない、経済活動が内包する宿業を淡々と語る三橋は、本書を理解する上で見逃せない人物である。

著者はおそらくは銀行員時代の人脈から談合の実録を綿密に取材し、本書に活かしたのだろう。おそらくはモデルとなった人物もいるのかもしれない。そう思わせるほど、本書で立ち振る舞う人物達の活き活きした人物描写は本書の魅力だ。談合という経済論理に対する人間臭さこそが本書の肝と言っても良い。経済活動の制約や非人間的な論理の中でなお生きようとする人々の群像劇。本書をそう定義しても的外れではないだろう。

本書の結末は、ここでは明かさない。が、本書を読み終えた時、そこには優れた小説に出会った時に感じるカタルシスがある。一つの達成感といってもよいだろうか。確かに一つの物語の完結を見届けたという感慨。このような読後感を鮮やかに読者の前に提示する著者とは、まだまだこれからも付き合っていきたいと願っている。著者のこれからの著作からは日本の経済小説の未来、ひいては日本の未来すら読めるかもしれないのだから。

‘2015/6/23-2015/6/24