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アクアビット航海記 vol.27〜航海記 その14


あらためまして、合同会社アクアビットの長井です。
弊社の起業までの航海記を書いていきます。以下の文は2018/1/18にアップした当時の文章が喪われたので、一部を修正しています。

暗雲が立ち込める


前回の連載で、私が親から自立した瞬間を書きました。
ところが、人生とはうまくゆかないもの。私の自立への願いは、思わぬ方向からストップを掛けられました。
それは妻からです。

前回の連載では、妻と結婚に向けて準備にまい進していた、と書きました。
その日々は希望と楽しみもありましたが、その中では私の意思だけではどうにもならないこともありました。
結婚とは私一人でするものでなく、妻と一緒にするもの。つまり、妻の意思にも影響されます。
ここで妻の意思が入ることによって、私の自立への願いは危うくなりました。

新婚生活をどの家で迎えるか。
それは私にとって、結婚式の段取りや新婚旅行先などよりもはるかに大切なことでした。
もちろん、妻には妻の価値観があったのでしょう。それはわかります。そして、自立したい私には私なりの切実な理由がありました。
少なくとも私は、妻の実家や実家の財産に寄り掛かった新婚生活を送るつもりは全くありませんでした。ミジンコのヒゲほどにも。

せっかく東京に出てきたからには全てを独力で作り上げたい。家を買えないのは当たり前なので、賃貸で二人だけの部屋を借りて。
それが私にとってあるべき新婚生活だったのです。

ところが、新居という肝心なことで、私と妻の間で意見の相違が発生しました。早くも結婚前から暗雲が。
ちなみにここで出てくる妻とは、本稿を書いている今も、私の妻で居続けてくれていますので念のため。

結婚への障害


さて、その暗雲は、私と妻が結婚への準備を進めるにつれ、晴れ渡っていたはずの私の頭上を覆っていきます。
連載の第二十回でも書いたとおり、妻は歯医者です。妻の祖父母も歯医者なら、妻の父母も歯医者。妻の弟君までも歯医者。どこに出しても恥ずかしくない歯医者一家です。
世間からは資産家と思われても不思議ではない家族。それが妻の実家です。無職の私が情熱のままにアタックした妻の実家はそんな家でした。
ところが、私が妻と出会う数年前に妻の祖父母、そして妻の母は相次いで世を去ってしまいました。
残されたのは祖父母が住んでいた広大な家です。

町田の官公庁が立ち並ぶ一等地。そこにある180坪の敷地。そこは二軒の家が建っていました。
一軒は木造の二階建て民家です。本連載の第十九回で私がH君と町田に旅し、そこで妻と初めて出会ったいきさつは書きました。そのときに泊めてもらった家です。
もう一軒は見るからに堅牢な鉄筋三階建て屋上付の家。歯科診療所も併設されており、歯科医を営んでいた当時の看板もまだ残っていました。
当時、この二軒ともに妻の祖父母がなくなった後、空き家になっていました。
妻の父は、そこから徒歩数分の場所に歯医者兼住居を営んでいました。

妻と妻の父の意見は、新婚生活は広大な空き家で過ごせばいいじゃないか、というものでした。
ところが私にはそれが嫌でした。めちゃくちゃ嫌でした。

多分、何も事情を知らない人にとってみれば、私なんぞ幸運な若造に過ぎないのでしょう。ギャクタマを地で行くような。
実情など、しょせんは当事者にしかわからないものです。
結婚までの半年の間、私はストレスにさらされていました。
いまさら言っても仕方ないことですが。

重荷への予感


たとえば、妻の親族とは法事などで集まる機会がありました。そして、まだ婚約者である私もそこに出席します。すると、私への視線をいやおうなしに感じるわけです。
いろいろと陰で言われていました。籍も入れていないのにどういうつもりかなど。
そうした空気はいかに鈍感な私でも気付くほどでした。
はっきり言ってしまえば、私など、ギャクタマどころか、金目当てで妻をモノにしたどこの馬の骨とも知らぬ関西からの流れ者。そんな程度の人間としてしか思われていなかったと思います。
私が拒否されていたのは、私の人間性に関係なく、私が関西人ということが大きかったようです。それには、私と直接関係のないある理由が関わっています。が、それは私もよく知らないことだし、本連載の本筋からは外れるので割愛します。

ただ、そうした理由に関係なく、私は周りの方からそう思われても無理がなかったのもわかります。
当時の私は歯医者でもなければ、どこかの正社員ですらなかったのですから。東京に出てくるまでは無職の、ようやく派遣社員で働き始めて数カ月の人間。生活基盤などもちろんありません。実力もなければ名声もない。コネも何もない状態。多分、私が妻の父であっても反対するでしょう。妻の親族の皆さんが反対して当然。
逆に考えると、よく妻の父が結婚を許してくれたと思います。

私にはその状況がとてもつらかったです。そして、反発もしました。
私の当時のプライドなどないも同然。実力も伴っていなかったです。でも、妻の実家の財産にはお世話になりたくないという、ちょっぴりの矜持ぐらいは持っていました。

もう一つ、その二軒に住むことが、私にとってゆくゆくの重荷になるのではないかという予感を持っていました。
その二軒の家が建つ180坪の土地に住むこと。その土地の管理人となり責任を背負うこと。それらは私にとって、とてもやばい重荷になるという予感。
その予感こそ、私がこの場所に新居を構えたくないとの拒否感の原因でした。
その予感はやがて的中し、私を数年間、いや十年以上にわたって苦しめます。
ただ、その経験は私を苦しめると同時に私を段違いに鍛えてもくれました。そのあたりはいずれ連載でも触れたいと思います。

次回は結婚のことと、スカパーカスタマーセンターの運用サポートへの異動を描きます。ゆるく永くお願いします。


アクアビット航海記 vol.15〜航海記 その4


あらためまして、合同会社アクアビットの長井です。前回にも書きましたが、弊社の起業物語をこちらに転載させて頂くことになりました。前々回からタイトルにそって弊社の航海記を書いていきます。以下の文は2017/11/16にアップした当時の文章が喪われたので、一部修正しています。

大学は出たけれど

さて、1996年の4月です。大学は出たけれど、という昭和初期に封切られた映画があります。この時の私はまさにその状態でした。この時から約3年。私にとっての低迷期、いや雌伏の時が続きます。この3年間についての私の記憶は曖昧です。日記もつけていなければ、当時はSNSもありませんでしたから。なので、私の3年間をきちんと時系列に沿って書くことはできないでしょう。多分記憶違いもあるはず。ともあれ、なるべく再構築して紹介したいと思っています。

妙に開き直った、それでいてせいせいするほどでもない気持ち。世の中の流れに取り残されたほんの少しの不安、それでいて焦りや諦めとも無縁な境地。あの頃の私の心中をおもんばかるとすればこんな感じでしょうか。新卒というレールから外れた私は具体的な将来への展望もない中、まだどうにかなるわという楽観と、自由さを味わっていました

大学を出たとはいえ、私の心はまだ大学に留まったままでした。なぜかというと家が大学のすぐ近くだったからです。アクアビット航海記 vol.12〜航海記 その1にも書きましたが、わが家は阪神・淡路大地震で全壊しました。そこで家族で住む家を探したのが私でした。家は大学の友人たちに手分けして探してもらいました。そしてほどなく、私の一家は関西大学の近くに引っ越しました。この時家を見つけてくれた友人には20年以上会えていません。N原君、覚えていたら連絡をください。
さて、家の近くに大学があったので、卒業したはずの私は在学生のようにぬけぬけと政治学研究部や大学の図書館に入り浸っていました。

その時の私は多分、光画部における鳥坂先輩のような迷惑至極な先輩だったことでしょう。鳥坂先輩と同じく大義名分として公務員試験を受ける、という御旗を立てて。それは、私自身でも本当に信じていたのか定かではない御旗でした。ちなみに鳥坂先輩が何者かはネットで検索してください。

1996年の10月。西宮に新しい家が完成し、西宮に戻ることになりました。引っ越す前には幾度も西宮に赴き、引っ越し作業に勤しんでいた記憶があります。なにせ、時間はたっぷりありますから。

孤独な日々

そう、時間だけは自由。何にも責任を負わず、親のスネをかじるだけの日々。この半年、逆の意味で時間の貴重さを噛みしめられたように思います。なぜなら、何も覚えていないから。インプットばかりでアウトプットがないと、時間は早く過ぎ去ってゆく。責任がないと、ストレスがないと、何も記憶に残らない。私が得た教訓です。

ですが、1996年の4月から1999年の3月までの3年間はとてもかけがえのない日々でした。なぜならこの3年間も大学の4年間に劣らず私の起業に影響を与えているからです。この3年間に起こったさまざまなこと、例えば読書の習慣の定着、パソコンとの出会い、妻との出会い、ブラック企業での試練は、起業に至るまでの私の人生を語る上で欠かせません。

この三年で、私が得たもの。それは人生の多様性です。小中高大と順調に過ごしてきた私が、会社に入社せず宙ぶらりんになる。それもまた、人生という価値観。その価値観を得たことはとても大きかった。大学を卒業しそのまま社会に出てしまうと宙ぶらりんの状態は味わえません。そして、それが長ければ長いほど、組織から飛び出して“起業“する時のハードルは上がっていきます。人によってそれぞれでしょうが、組織にいる時間が続けば、それだけ組織の中で勤めるという価値観が心の中で重みを増していきます。
誤解のないように何度も言い添えますが、その価値観を否定するつもりは毛頭ありません。なのに私は23の時、すでに宙ぶらりんの気持ちをいやというほど味わってしまいました。そして、宙ぶらりんの状態もまた人生、という免疫を得ることができました。それは後年、私の起業へのハードルを下げてくれました。
起業とは、既存の組織からの脱却です。つまりどこにも属しません。起業とは多様性を認め、孤独を自分のものにし、それを引き受けることでもあります。卒業してからの半年、私の内面はとても孤独でした。表面上はお付き合いの相手がいて、政治学研究部の後輩たちがいて、家族がいました。でも、当時の私は、あっけらかんとした外面とは裏腹に、とても孤独感を抱えていたと思います。

本に救いをもとめる

その孤独感は、私を読書に向かわせました。本に救いを求めたのです。その頃から今に至るまで、読んだ本のリストを記録する習慣をはじめました。
当時の記録によると、私の読む本の傾向がわが国、そして海外の純文学の名作などに変わったことが読み取れます。
それまでの私はそれなりに本を読んでいました。推理小説を主に、時代小説、SF小説など、いわゆるエンタメ系の本をたくさん。ですが、私の孤独感を癒やすにはエンタメでは物足りませんでした。純文学の内面的な描写、人と人の関係の綾が描かれ、人生の酸いも甘いも含まれた小説世界。そこに私は引き寄せられていきました。私はそれらの本から人生とはなんぞや、という問題に折り合いをつけようとし始めました。

もちろん、それを人は現実逃避と呼びます。当時の私が本に逃げていた。それは間違いありません。でも、この時期に読書の習慣を身に着けたことは、その後の私の人生にとても大切な潤いを与えてくれました。おそらく、これからも与えて続けてくれることでしょう。

この時、私が孤独感を競馬、パチンコなどのギャンブル、またはテレビゲームなどで紛らわそうとしていたら、おそらく私がここで連載を持つ機会はなかったはずです。
とはいえ、私はギャンブルやゲームを一概に否定するつもりはありません。きちんと社会で働く方が、レクリエーションの一環で楽しむのなら有益だと思います。ですが、時間を持て余す若者-当時の私のような-がこういった一過性のインプットにハマったら、後に残るものは極めて少ないと言わざるをえません。
私の中の何が一過性の娯楽に流れることを留めたのか、今となっては思い出せません。自分の将来を諦めないため、私なりに本からのインプットに将来を賭けたのでしょうか。いずれにせよ、本から得られたものはとても大きかった。私もこういうクリエイティブな方向に進みたいと思わせるほどに。

次回も、引き続き私の日々を書きます。