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本格小説 下


上巻からの続きで、下巻は本編から始まる。長い長い前書きではない。

冨美子からハイ・ティーに誘われた祐介は今にも崩れそうな古い別荘に招かれる。重光と三枝、宇多川という表札のかかった古びた洋館。かつて軽井沢が別荘地として旧家を集めていた時期の名残だ。
その洋館で祐介は、冨美子からタローにまつわる長い話を聞かされる。

冨美子の語りに引き込まれていく祐介。
重光家と三枝家、宇多川家は、小田急の千歳船橋駅付近で戦前から裕福な暮らしを送っていた。成城学園に子女を通わせるなど、優雅な毎日。冨美子もそこに家政婦のような立場で雇われた。

では、タローこと東太郎はどのような立場だったのか。

宇多川家がかつて雇っていた車夫は、敷地の一角に居宅を与えられていた。その車夫から、甥の一家が大陸から引き上げてくるから一緒に住まわせてほしと懇願され、同居する事になったのが東家。

大陸からの引き上げ者の息子として、居候のような立場だった太郎。その経済の差は歴然としており、同じ敷地内でも生活や文化などあらゆる違いがあった。
三枝家の娘として何不自由なく育っていたよう子にとっては家格など関係ない。同じ年頃の友達として、太郎とよう子は一緒に遊ぶようになっていた。

幼い頃より、よう子と遊んで過ごす日々の中で、少しずつ太郎はよう子に思慕を抱くようになる。
だが、東家にとって三枝家ははるか上の家格。周りから見ても、当人たちにとっても不釣り合いなことは明らか。

昭和の高度成長の真っただ中とはいえ、摂津藩の家老だった重光家や大正期に商売で成り上がった三枝家は、まだ古い価値観に引きずられている。
有形無形の壁を前にした太郎はよう子との結婚を諦める。そして、単身アメリカへ飛ぶ。

やがて富を重ね、大金持ちになって日本に戻ってきた太郎。そこにはもはや自分の居場所はない。よう子は重光家の御曹司雅之と結婚し、三枝家と重光家は隣の家同士の関係から、親戚になる。

太郎は日本で過ごすことを諦める。が、つかず離れずこの両家の周辺に姿を見せる。冨美子がさまざまな人生の経験をへてもなお、この両家とつながっているように。

やがて、この両家も時代の荒波をかぶり、その栄華の日々に少しずつ影が生じる。
少しずつ衰退に向かっていく三枝家と重光家の周囲に太郎の気配がちらつく。つかず離れずよう子を見守るかのように。

家の格によって恋を引き離された二人の運命。それが描かれるのが本書だ。日本は経済で成長し、古い価値観は置き去られていく。この両家のように。
わが国の歴史が何度も繰り返してきた盛者必衰のことわり。それに振り回される男女の関係のはかなさ。

上巻ては特異な構成に面食らった読者は、下巻では冨美子の語る本編に引き込まれているはずだ。「嵐が丘」を昭和の日本に置き換えた本書の結末がどうなるかと固唾を飲みながら。

ここまで読むと、本書が著者の創作なのか、それとも序や長い長い前書きで著者が何度も強調するようにほんとうの話なのかはどうでも良くなる。
本書の本編は、祐介が冨美子か聞いた太郎とよう子の物語だ。だが、そこで語られた言葉が全ての一語一句を再現したはずはない。そこかしこに著者の筆は入っている。
だから本当のことをベースにした物語と言う考え方が正しいだろう。

本書の終わりはとても物悲しい。
私が『嵐が丘』を読んだのは20代の前半の頃なので、あまり筋書きも余韻も覚えていない。
が、本書の終わり方はおそらく『嵐が丘』のそれを思わせるものなのだろう。

本書の舞台となる時代は、戦後のわが国だ。
一方の『嵐が丘』は18世紀の終わりから19世紀初頭のイングランドが舞台だ。
その二つの時代と国だけでも大きな隔たりがあるが、戦後日本の移り変わりは、まだ旧家の価値観を留めており、物語としての本書の設定を成り立たせている。

たが今はどうだろう。世の中の動きはグローバルとなり、仕組みもさらに複雑になっている。つまり、本書や『嵐が丘』のテーマとなった価値や信条の大きな断絶が成り立たなくなりつつある。
いや、断絶がなくなったわけではない。むしろ、世の中が複雑になった分、断絶の数は増えているはずだ。
だが、読者の大多数が等しく感じるほどの巨大な断絶はだんだんとなくなっていくように思う。

もちろん、人間と人間の間にある断絶は細かく残り続けるだろう。だが、それを大きなテーマとしてあらゆる読者の心に訴求することにはもはや無理が生じている気がする。
本格小説に限らず、これからの小説に大きなテーマを設定することは難しくなるのではないか。
あるとすれば人間と人間ではなく、人間と別のものではないか。例えば人工知能とか異星人とか。

だが、そのテーマを設定した小説は、SF小説の範疇に含まれてしまう。
人と人の織りなすさまざまなドラマを本格小説と定義するなら、これからの世の中にあって、本格小説とは何を目指すべきなのだろう。

本書のテーマや展開に感銘を受ければ受けるほど、本格小説、ひいては小説の行く末を考えてしまう。

著者の立てたテーマは、本書を飛び越えてこれから人類が直面する課題を教えてくれる。

2020/11/5-2020/11/7


本格小説 上


本書のタイトルは簡潔なようでいて奥が深い。
小説とは何か。そうした定義に思いが至ってしまう。むしろ、何も考えない人はどういう心づもりで本書を読むのかを聞いてみたい位だ。
そんな偉そうなことをいう私も、そのようなことを普段は一切考えないが。

小説だけでも多様なジャンルがある。私小説や、童話、SF小説、ミステリー、純文学。
そのジャンルの垣根を飛び越えた普遍的なものが本格なのだろうか。

それともジャンルに関わらず、プロットや構成こそが本格を名乗るのにふさわしい条件なのだろうか。
または、『戦争と平和』や、『レ・ミゼラブル』のような長い歴史をつづった大河小説こそが本格の名に値するのだろうか。

書き手と読み手の二手にテーマを設定するとさらに解釈は広がる。
「本格」とはその語感から連想される枠の窮屈さではないように思う。むしろ逆だ。受け取り手の解釈によってあらゆる意味を許される。つまり「本格」とは曖昧な言葉ではないだろうか。

読者は本書を手に取る前に、まずタイトルに興味を持つはずだ。
そして、上に書いたような小説とは何か、という疑問をかすかに脳内で浮かべることだろう。それとともに、本書の内容に深い興味を持つはずだ。
いったい、本格小説と自らを名付ける本書はどのような小説なのか。この中にはどのような内容が書かれているのか、と。

本来、小説とは読者にある種の覚悟を求める娯楽なのかもしれない。今のように無数の本が出版され、ありとあらゆる小説がすぐに手に入る現代にあって、その覚悟を求められることがまれであることは事実だが。
時間の流れのまま、好きなだけ視覚と思考に没入できるぜいたくな営み。それが読書だ。読者は時間を費やすだけの見返りを書物に期待し、胸を躍らせながらページをめくる。
例えばエミリー・ブロンテによる『嵐が丘』が世界中の読者の感情をかき乱したように。
本書のタイトルは、そうした名作小説の持つ喜びを読者に期待させる。まさに挑戦的なタイトルだと言えるだろう。

ところが、本書は読者の期待をはぐらかす。
著者による「序」があり、続いて「本格小説の始まる前の長い長い話」が続く。
前者は5ページほど、本書の成り立ちに関わる挿話が描かれている。そして後者は230ページ以上にわたって続く。そこで描かれるのは著者を一人称にした本編のプロローグだ。
読者はこの時点でなに?と思うことだろう。私もそう思った。

本書の主人公は東太郎だ。アメリカに単身で流れ着き、そこから努力によって成り上がった男。

著者は長い長い話の中で東太郎と自らの関係を述べていく。
親の仕事の関係で12歳の頃からアメリカで住む著者。そこにやってきたのがアメリカ人実業家の家に住み込んでお抱え運転手をすることになった東太郎。
そこから著者と東太郎の縁が始まる。
やがてアメリカで成功をつかみ、富を重ねていく東太郎。ところがその成功のさなかに、東太郎はアメリカから忽然とその姿を消してしまう。
成功から一転、その不可解な消え方についてのうわさが著者の耳にも届く。

ところがその後、著者の元に東太郎の消息が伝えられる。
伝えたのは祐介という一読者。東太郎に偶然会った祐介は会話を交わす。そこで祐介は東太郎から著者の名前を聞く。かつてアメリカで知り合いだったことを教わる。
そのご縁を著者に伝えるため、祐介は著者のもとにやってきたのだ。

著者は東太郎とのアメリカでの日々から祐介に出会うまでの一連の流れを「本格小説の始まる前の長い長い話」に記す。
そしてこの長い前書きの最後に、著者が考える「本格小説」とは何かについてを記す。

「「本格小説」といえば何はともあれ作り話を指すものなのに、私の書こうとしている小説は、まさに「ほんとうにあった話」だからである」(228ページ)

「日本語で「私小説」的なものから遠く距たったものを書こうとしていることによって、日本語で「本格小説」を書く困難に直面することになったのであった」(229ページ)

「なぜ、日本語では、そのような意味での「私小説」的なものがより確実に「真実の力」をもちうるのであろうか。逆にいえば、なぜ「私小説」的なものから距だれば距たるほど、小説がもちうる「真実の力」がかくも困難になるのであろうか」(231ページ)

「日本語の小説では、小説家の「私」を賭けた真実はあっても、「書く人間」としての「主体」を賭けた真実があるとはみなされにくかったのではないか。」(232ページ)

続いて始まる本編(235ページから始まる)は、祐介の目線から語られる。
軽井沢で迷ってしまい、道を尋ねた民家。そこで出会ったのがアズマという動物のように精悍な顔をした男。冨美子という老女とともに住むその男のただならぬ様子に興味を持った祐介。
後日、軽井沢の街中で冨美子と出会ったことをきっかけに、祐介は老いた三姉妹に別の別荘に招待される。そこで冨美子や老いた三姉妹と会話するうちに、彼女たちにタローとよばれるアズマの事が徐々に明かされていく。

本編に入ると、ところどころに崩れかけた家や小海線、軽井沢の景色が写真として掲げられる。
それらの写真は、本編が現実にあったことという印象を読者に与え、読者を下巻へといざなう。

2020/11/1-2020/11/5


府中三億円事件を計画・実行したのは私です。


メルカリというサービスがある。いわゆるフリマアプリだ。
私が初めてメルカリを利用した時、購入したのが本書だ。

本書はもともと、小説投稿サイト「小説家になろう」で800万PVを記録したという。そこで圧倒的な支持を得たからこそ、本書として出版されたに違いない。
あらゆる意味で本書が発表されたタイミングは時宜にかなっていた。
発刊されたのが事件から50年という節目だったことも、本書にとっては追い風になったことだろう。本書を原作とした漫画まで発表され、ジャンプコミックスのラインアップにも名を連ねた。
私も本書には注目していた。なのでメルカリで数百円のチケットを得、本書の購入に使った。

本書は、犯人の告白という体裁をとっている。
事件から50年の月日がたち、真相を埋れさせるべきではないと考えた老境の犯人。彼は妻が亡くなった事をきっかけに、息子に自らの罪を告白した。
親の告白を真摯に受け止めた息子は、これは世に公開すべき、と助言した。
助言するだけでなく、息子は親の告白をより効果的に公開できるように知恵を絞った。身分が暴露されないように、なおかつ告白の内容が第三者に改変されないように。
その熟慮の結果、息子がえらんだ手段とは、小説投稿サイトに投稿し、世間に真実を問うことだった。実に巧妙だ。
その手段は、本書の発表の時期、媒体、内容を選んだ理由に説得力を与えている。さらに、その説得力は本書に書かれた事件の内容が三億円事件の真実かもしれない、と読者を揺るがす。
本書の文章や文体はいかにも小説の書き方に慣れていない人物が書いたようだ。この素人感がまた絶妙なのだ。なぜなら著者は小説家になりたいわけではなく、自らの罪を小説の体裁で世に出したかっただけなのだから。
文中でしきりと読者に語りかけるスタイル。それも、今の小説にはあまり見られない形式であり、この点も著者の年齢を高く見せることに成功している。

だが、そうした記述の数々が不自然という指摘もある。
そうした疑問の数々に答えてもらおうと、BLOGOS編集部が著者にメールでインタビューし、コメントをもらうことに成功したらしい。
こちらがその記事だ。
それによると、著者が手書きで書いた手記を、息子がデータに打ち直し、なおかつ表現も適切に改めているらしい。そうした改変が、70才の著者が書いたにしては不自然な点がある、という指摘を巧妙にかわしている。実に見事だ。

何しろ、三億円事件と言えば日本でもっとも有名な未解決事件と言っても過言ではない。
有名なモンタージュ写真とともに、日本の戦後を語る際には欠かせない事件だといえる。

それほどまでに有名な事件だけあって、三億円事件について書かれた小説やノンフィクションは数多く出版されている。
私にとっても関心が深く、今まで何冊もの関連本を読んできた。

なぜそれほどまでに、三億円事件が話題に上るのか。
それは、事件において人が陰惨に殺されなかったからだろう。
さらに、グリコ・森永事件のように一般市民が標的にならなかったこともあるかもしれない。
ましてや、保険金が降りた結果、日本国内では損をした人間がほぼいなかったというから大したものだ。
あえて非難できるとすれば、長年の捜査によって費やされた税金の無駄を叫ぶぐらいだろうか。

三億円事件は公訴時効も民事時効もとっくに過ぎている。今さら犯人が名乗り出たところで、犯人が逃亡期間を海外で過ごしていない限り、逮捕される恐れもない。
つまり、三億円事件とは、犯罪者の誰もがうらやむ完全犯罪なのだ。
その鮮やかさも、三億円事件に対する人々の関心が続いている理由の一つだろう。

そんな完全無欠の犯罪を成し遂げた犯人だと自称する著者。その筆致は、あくまでも謙虚である。
そこには、勝ち誇った者の傲慢もなければ、上り詰めた人間が見下す冷酷もない。逃げ切った犯罪者の虚栄すらもない。
本書の著者から感じられるのは、妻を失い、後は老いるだけの人生に寄る辺を失わんとする哀れな姿のみだ。

あれほどの犯罪を成し遂げた人でも、老いるとこのように衰える事実。
老いてはじめて、人は若き日の輝きを眩しく思い返すという。だが、本書から感じられるのは輝かしさではない。哀切だ。誰も成し遂げられなかった犯罪をやり遂げた快挙すら、著者には過ぎ去った哀切に過ぎないのだろう。

1968年といえば学生運動が盛んだった時期だ。当時の若者は人生の可能性の広大さに戸惑い、何かに発散せずにはいられなかった。現代から見ると不可解な事件が散発し、無軌道な衝動に導かれた若者たちが暴れていた。中核派が起こしたあさま山荘事件や、日本赤軍がテルアビブ空港で起こした乱射事件。東大安田講堂の攻防戦など、現代の私たちには到底理解できない衝動。その衝動は本書の著者いわく、犯行のきっかけにもなっているという。
若さを縦横にかけまわり、何かに対してむやみに吠え立てていた時期。そうした可能性の時期を経験したにもかかわらず、老いると人はしぼむ。
本書の内容が歴史的な事実がどうかはさておき、本書から得られる一番の収穫とは、無鉄砲な若さと老いの無残の対比だろう。
それが、手練れの文章ではなく、素人が描いた素朴な文章からつむぎだされるところに、本書の良さがあると思う。

著者から感じられる哀切。それは、著者がいうように、犯罪を遂行する過程で人を裏切ったことからきているのだろうか。
そもそも、本書に書かれていることは果たして真実なのだろうか。
そうした疑問も含め、本書はあらゆる角度から評価する価値があると思う。
文章に書かれた筋書きや事件の真相を眺め、それだけで本書を評価するのは拙速な気がする。
発表した媒体の選定から、読者の反応も含め、本書はメディアミックスの新たな事例として評価できるのではないだろうか。

さきに挙げたBLOGOSのインタビューによると、著者は本書の後日談も用意しているという。
たとえば犯罪後、関西で暮らしたという日々。そこでどうやって盗んだ紙幣を世に流通させずに過ごせたのか。そもそも強奪した紙幣のありかは。
そうした事実の数々が後日談では描かれるという。
他にも本書で解決されなかった謎はある。
たとえば、本書に登場する三神千晶という人物。この人物は果たして実在する人物なのか、というのも謎の一つだ。これほどまでにできる人間が、その後、社会で無名のまま終わったとは考えにくい。本書はその謎を解決させないまま終わらせている。
だが、当該のインタビュー記事から1年半がたとうとする今、いまだに続編とされる作品は出版されていない。
そもそもの発表の場となった小説家になろうにも続編は発表されていないようだ。

NEWSポストセブンの(記事)の中で、本書の内容に対して当時捜査本部が置かれた府中署の関係者にコメントを求めたそうだ。だが、「申し上げることはありません」と語ったそうだ。

願わくは、後日談が読みたい。
続編がこうまで待ち遠しい小説もなかなかあるまい。

‘2019/02/03-2019/02/04


イノック・アーデン


本書は見慣れない形式で記されている。
小説のような散文形式でもなく、詩のような断片的な断章でもない。
詩のようでありながら、物語としての展開を備えている。
つまり、物語性を備えた長編の詩。つまりは叙事詩とでも言うべきなのが本書である。

よく、詩を朗読すると言う。ここでいう詩とは、カラオケのディスプレイに流れる歌詞のことではない。
詩人が書き連ねる詩を指している。

詩人によって研ぎ澄まされ、選ばれた言葉の連なり。
その美しく、時には韻を踏む言葉をいつくしみ、声に出して朗読する。
黙読して本を読む私には、なじみのない習慣だ。

少し前に、「声に出して読みたい日本語」と言う本がベストセラーになった。声に出して読むことで、内容が頭に入る。なおかつ、日本語の語感に対する感性が養われる。
今もYouTubeには詩の朗読の様子がアップロードされている。
実は私が知らないだけで、朗読の習慣はまだ廃れていないのだろう。

実は、一昔前の人々は、朗読や朗誦の習慣を普段の暮らしで持っていたのではないか。
今や私たちが詩を朗読する機会など、学校の国語の授業ぐらいだというのに。
ところが、人々は本書のような詩を朗読することで、読解力を鍛えた節がある。俳句や短歌もその一つだろう。

本書のような形をとる文学は、まさに朗読にふさわしい。本書を実際に読んでみると、格調も高くつづられた日本語が頭にしみ込むような気がする。

もちろん、本書はもともとイギリスの詩人テニスンによって生み出された。つまり、原文は言うまでもなく英語で書かれている。

それを美しい日本語に翻訳してくれたのが、訳者の入江直祐氏だ。
入江氏の訳した文も格調が高く、もともとの作品を思い描かせてくれる。
だが、翻訳の見事さを差し置いても、本書は本来は英語で読むべきなのだろう。その方が味わいが深まる気がする。

なぜなら、本書は過去を舞台としているからだ。そして、遠い国へと向かう船乗りの物語だからだ。
日本語で読むと、どうしても読み手の心の奥底に、日本の情景が浮かんできてしまう。

昔の日本では、ここまで長期間、故郷へ帰って来られない航海はなされていなかったはずだ。遣唐使や遣隋使ならまだしも。せいぜいが近海に漁に出てそのまま流されたような中濱万次郎か大黒屋光太夫の事例がある程度。
つまり、最初から困難が予想される遠洋への航海は、日本の歴史ではあまりイメージしにくい。

だから、本書には長期にわたる航海が行われていた19世紀イギリスの感覚が深く根を下ろしており、その感覚を描写するには英語が似つかわしいと思える。

19世紀のイギリスといえば、世界の七つの海を支配すると言われた大国である。世界中に植民地を持ち、イギリス人にとっては航海がそれほど珍しい営みではなかったはずだ。

だからこそ、本書でイノック・アーデンが、妻アニイや子供を置いて、家族のために航海で一稼ぎしようとする動機は理解できる。
また、難破し、はての島で長年を過ごした事も、苦労して故国に戻ろうとした執念にも、空想やおとぎ話の世界と片付けられない現実味がある。

本書は叙事詩とはいえ、荒唐無稽ではなく現実に即した物語なのだ。
さらに、地に足がついていながら、当日の人々がかろうじて想像ができる長大な旅路が描かれており、それがある種のロマンをかき立ててくれる。

本書で描かれているのは、愛にもさまざまな種類があることだ。
本書は三人の幼なじみ、イノック・アーデンとアニイ、そしてフィリップの物語だ。

アニイは二人から思いを寄せられる。だが、ストレートに思いを打ち明けるイノック・アーデンを好ましく思っており、イノック・アーデンの思いを受け入れて二人は結婚する。
だが、生活に苦しみ、イノック・アーデンは家族を養うため、一か八かを目指して航海に出る。そして遭難し、家族のもとへ戻れなくなる。
悲しみに暮れるアニイ。
フィリップは、アニイを慰め、そして秘めていたアニイへの思いを打ち明ける。数年ののち、二人は結婚する。
ここでは、若気のストレートな愛と、じっくりと見守る愛が描かれる。ともに美しい。

一方で、遭難の凄絶な苦労によってすっかり面貌が変わってしまったイノック・アーデンは、苦労して故国へと戻ってくる。そして彼が目にしたのは、幸せに暮らすアニイとフィリップと子供たち。
彼はそれを見て、自ら名乗り出ることをやめ、孤独のうちに生涯を終える。
彼の凛とした姿勢もまた美しい。

もう一つ、本書がテーマとしているのは、人にとって普遍的な問題である、冒険か安定かの選択が描かれていることだ。
イノック・アーデンのとった行動は冒険的な生き方の典型であり、安定の幸せを求めたアニイとフィリップとの生き方が対比されている。
どちらに優劣があるというのではない。それはどちらも人生のありうる姿であり、どちらも可能性として受け入れてこそ、人生を謳歌する姿勢であると思う。
本書を浅く読み、冒険を否定してはならないし、安定の家庭を築いた2人を非難してもならない。

本書のそうしたテーマから学びとれるのは、19世紀のイギリス社会が、人間に多様な生き方を許容できるように変わりつつあったことだ。
縛られ、固定された一生ではなく、冒険もできるし、安定もえらべる。そのどちらも人としての一生であり、どちらを選択するかを個人の意思に委ねられるようになったこと。

この時代の変化をテニスンは敏感に感じ取り、本書にしたためたのに違いない。

そうした自由な生き方をえらべるようになったとはいえ、冒険の果てにはイノック・アーデンが被ったような悲劇の可能性もある。
その時、イノック・アーデンのように自らの選択にきちんとけじめをつけ、見苦しいまねはしないでいられるだろうか。
本書からはそのような覚悟のあり方が示されていると思う。

その覚悟こそは、世界に冠たる国家になるつつある、イギリスの男子のあり方なのだ、とテニスンはほのめかしているように思える。

そんなテニスンの思いが伝わったからこそ、一旗をあげようと決めた人々が自らを鼓舞し、奮い立たせるために本書を朗唱したのではないだろうか。

‘2019/01/03-2019/01/03


この国の空


戦争を知らない私の世代は、わが国の空が敵機に蹂躙されていたことを実感できない。

もちろん、その事実は知っている。
上空を悠然と行きすぎるB29のことは文章で読んだことも写真で見たこともある。B29の編隊が発する禍々しい音すら録音で聞いたことがある。
だが、実際にその場にいなかった以上、その刹那の差し迫った気配は想像で補うしかない。

戦中の世相についても同じだ。
戦中の暮らしをつづった日記は何冊か読んだことがある。小説も。映画でも。
ところが、そこから実際の空気感を掴むことは難しい。
全ては情報をもとに脳内で想像するしかないのだ。

空襲警報が発令された際の切迫感。非国民と糾弾されないための緊張感。日本が負けるかもしれない危機感。そして日本は神国だから負けないと信ずる陶酔感。そのどれもが当時の空気を吸っていないと、味わえない。語ることもできない。

そうした雰囲気を知るには、むしろ戦地の切迫した危機感の方が分かりやすいのかもしれない。
飛び交う銃弾や破裂する地面。四散する戦友の肉体。映像の迫力は戦場の恐怖を再現する。たとえそれが表面的な視覚だけであっても。痛みも強烈なストレスもない架空の映像であっても。
もちろん、そうした戦争の悲惨さは、実際に体験するのと映画で安全な場所で傍観するのとは根本的に違う。それはわかっているつもりだ。
『プライベート・ライアン』の描写がどれだけ真に迫っていようとも、それは聴覚と視覚だけの問題。
私は戦場のことなど何も分かっていない。

だが、視覚だけでも曲がりなり分かったような気になれる戦場よりもさらに難しいのが銃後の生活の雰囲気の実感だ。

生活の雰囲気とは、実感するのが意外と難しい。今の現実ですら、文章や映像で表現しようとすると、とたんに曖昧な霧となってつかみ所が消える。
人々が生活しながら、さまざまな思惑を醸し出す。無数のそれが重なり合って時間が流れによってさまざまに移ろいゆく。そうしたものが重なり合って雰囲気は作り上げられてゆく。それは現場を生きていなければ、後から絶対に追体験できないものだ。

当時を生きた人々の日記に目を通すと、人々が案外自由に生きていたことに気づく。
国家総動員法や治安維持法、度重なる戦意亢進の標語で窮屈だっただろうし、市民の生活は統制され、重い空気が立ち込めていたことは事実だろう。だが、人々はささやかではあるが生活の合間に息抜きを見つけていた。
要領の良い人は物資を溜め込み、ひそかなぜいたくにふけることもできたようだ。本書にも婚礼のシーンが登場し、時節に似つかわしくない献立の豪華さに登場人物が鼻白む下りがある。

雰囲気を再現することは難しい。だが、事実は細部に宿る。
小説家はそうした当時の空気感を再現するため、作品を著す際は細かい描写を連ねてゆく。
本書もそうした難しい作業の積み重ねの上に築かれた作品だ。

普段の登場人物たちが生活する上での立ち居振る舞い。交わされる会話。そうした細かい部分が当時の空気感をどれだけ再現できるか。時代に配慮された文章が連なることで、小説の世界観に現実感が備わり、迫真度が増してゆく。

軍の言うがままの機関に成り下がった政府がとなえるスローガンも、庶民の家の中まで監視することはできない。大本営発表も、この国の空を飛びすぎる敵機を欺くことはできない。
市井に生きる人々は暗く窮屈な世相の中、家庭の中では本音や苦しさを出していた。

著者はそうした市井の会話を丹念に拾い集め、歴史の流れに消えていった戦時中の世相を明らかにしてゆく。
元より、本書に登場するのは時代を同じく生きた人々のうち、ほんの一部でしかない。
だが、配給や出征、空襲や窮乏生活は、当時の人々が等しく認識していた事実。あり、そうした事実をつなぎ合わせるだけで、当時の空気感の一端は窺える。

見落としてはならないのは、日々の生活が全く失われた訳ではなく、日常は続いていることだ。
日は上り、夜を迎え。ご近所付き合いはあり、いさかいも起きる。そして男女の間に情が交わる。
戦争中、そうした余裕がなくなるのは空襲や機銃掃射や艦砲射撃、または原爆投下に遭遇した場合だろう。だが、それ以外の時間は辛うじて日常が送れていたといってもよいだろう。

ただし、その日々にはどことなく高揚感のようなものも紛れ込んでいて、
それこそが銃後の生活の特徴と呼べるものかもしれない。その高揚感は、平和な時代の住人には理解しにくい。

本書でも19歳の里子と隣人の市毛は、惹かれ合う。市毛は、たまたま妻子を疎開させているだけの中年だというのに。
それは戦時中の高揚した雰囲気がそうさせるのだろう。
赤紙一枚で容易に人が銃後から戦地へと送られる現実。そうした危ういみらいも、人を普段とは違う選択に踏み切らせる。

だからこそ、戦争が終わり、空虚な安心感の中で、里子は現実に目覚めたかのように市毛に見切りをつける。平和になれば市毛の家族は疎開から戻ってくる。高揚感の失われた現実の生活とともに。

そうした雰囲気を著者はうまく描写している。著者は終戦を15歳で迎え、最も多感な時期を戦中に過ごしたわけだ。道理で本書の描写が説得力に満ちているわけだ。

’2018/11/17-2018/11/19

978-4-10-137413-0