スターウォーズのドロイドたち


昨日、「スターウォーズ フォースの覚醒」を観に行ってきました。映画自体のレビューについては、ネタバレにならない範囲でこちらに書きました。結論としては、完璧な続編振りに一ファンとして満足しています。

さて、そのレビューの中であえて書かなかったことがあります。それは、私たち観客がドロイド達を見る視線の変化です。ドロイドとは、スターウォーズシリーズのアイコンでもあるC-3POやR2-D2のことです。今回のフォースの覚醒では、BB-8というドロイドも新たに登場しました。サッカーボールに乗っかったようなあれです。

これらドロイド達は、見た目はロボットそのものです。しかし彼らは言語を聞き取り、話します。話すだけでなく、自らの意思を持っています。

スターウォーズにおけるドロイド達の役割は四十年前に公開されたエピソードⅣから変わっていません。砂漠の惑星タトゥーインに不時着したC-3POとR2-D2は我々観客の前に自意識をもって登場しました。しかし、当時の我々はかれらをロボットとしてしか見ていなかったように思います。スターウォーズサーガ、つまり作り話の中の登場ロボットの一つとして。それは酒場にいた異星人達と一緒の扱いです。人類と異なる容姿の彼らもまた、サーガの中に登場する異星人にしかすぎません。つまりは空想の中の世界の住人というわけです。我々はC-3POとR2-D2をそれら異星のクリーチャーたちと同列に空想の産物として扱っていたように思います。

しかし、今回のフォースの覚醒では、我々観客がドロイド達に向ける視線は変わりつつあります。少なくとも私にとってはそうです。

もはやドロイドは、遠い遠い遥か彼方の銀河、遥か昔に住む存在ではありません。ドロイドは、我々の住む地球上に現に産まれつつあるのです。この瞬間、どこかの研究室でR2-D2が産声を挙げていたとしても、私は驚きません。遠からず、我々はC-3POやR2-D2と話をすることになるでしょう。

2015年は自動運転カーやドローン、人工知能が一気に我々の日常に登場した年として後世に記憶されるはずです。さらに言うとSF(サイエンス・フィクション)というジャンル名が返上された年としても記録に残るかもしれません。今やスターウォーズのドロイド達は、フィクション世界の住人ではなく、実話世界の住民として認識されようとしているのですから。

もはや、アナログ至上主義を掲げて安穏としている場合ではなさそうです。実話の世界に住む先輩として、我ら人間はドロイド達を仲間に迎えるべく準備を進めなければなりません。取り扱い、対処法、暴走防止、仕事のシェア。ドロイド達と考えるべきことは多そうです。

今回スターウォーズを観て、おとぎ話として楽しんでいる場合ではない。そのような思いに駆られました。


夫婦別姓についてのモヤモヤ


夫婦別姓の是非と、離婚後6ヶ月間の再婚禁止規定の是非について。本日、15時に最高裁でこの二つの民法の条文が違憲かどうかの判決が下されるそうです。

再婚禁止規定は、もはやDNA鑑定の信頼性が揺るぎそうもない今、無意味な規定といえるでしょう。

問題は夫婦別姓です。正直いって、この件については私自身揺れています。

理屈で考えれば夫婦別姓に反対する理由はありません。マイナンバー制度の運用が始まれば、夫婦が別姓であっても法的な婚姻関係の証明は容易になるでしょう。世の流れも夫婦別姓へと向かっています。その流れを止めることは、もはや誰にもできません。

しかし、夫婦別姓への流れについては、私の中で割りきれない思いがあります。果たしてこれで良いのだろうか、と。

ただでさえ希薄になっている父権にしがみついているだけなのでしょうか?無意識に家の名のもとに妻を所有しているつもりなのでしょうか?長男として家長として連綿と続いてきた家名を存続させねば、と思っているのでしょうか?

私自身にもわかりません。別に保守派を気取るわけでもないのに。

ただ思うのは、夫婦別姓は、世間が思う以上に大きな影響があることです。その影響は、第二次世界大戦の敗戦後、GHQによって進められた民法改変よりも大きいかもしれません。

15時の最高裁の判決を見守ろうと思います。


紙媒体の未来


十日ほど前、山手線の王子駅近くにある紙の博物館に行ってきました。

王子と紙、といえば王子製紙が思い浮かびます。王子は日本の製紙業、それも洋紙業の発祥の地です。今もなお、洋紙会社の本社や工場が集まり、国立印刷局の王子工場も健在です。

今回私が紙の博物館を訪問した理由は二つあります。一つは、紙の歴史やリサイクルの仕組みに興味があったこと。一つは、情報表示媒体として、ディスプレイに対抗する紙の将来性を知りたかったことです。

紙の歴史やリサイクルの仕組みについては、非常に勉強となりました。日本の古紙利用率が六割にもなること。また、紙を発明したのは漢の蔡倫ではないこと。蔡倫よりも二三百年前に紙が使用されていた事が発掘物より証明されていること。また、PCなどのIT機器に欠かせない基盤も、実は紙の一種であることを知りました。このように、紙の歴史やリサイクルの仕組みについては、得るところが多かったです。特に蔡倫が紙の発明者でないことは知らずにおり、定説に寄りかかっていた自分の怠慢を反省しました。

ただ、情報表示媒体として、ディスプレイに対抗する紙の将来性については、残念ながらそれに関する展示には巡り会えませんでした。

そもそもなぜ私がこのような事に興味を持っているか。それは情報媒体としての紙の価値を再発見したからです。IT業界の端くれで飯を食っていながら、なぜディスプレイではなく紙なのか。

そもそも私は、本を読むのが好きです。電子書籍よりも紙の本の愛好家です。もちろん、電子書籍も使いますよ。Kindle端末こそもっていませんが、タブレットにはKindleアプリも入っています。しかし、私にとっての情報媒体とは、相変わらず紙なのです。本のページを繰ることに至福の時間を感じます。Kindleアプリで本を読むことはほとんどありません。

なぜ私が紙の本を好むのか。最初はそれを、本好きの執着心だと思っていました。IT業界にいながら保守的な自分を怪訝に思うこともありました。私の収集癖を満たすには本を貯めこむことが一番だからと思ったこともありました。

でもどうやらそうではなさそうです。この数年、参画しているプロジェクトで毎週議事録を書いています。経営層にまで閲覧される議事録ですから、チェックは欠かせません。チェックを行う上で、紙を節約しようとディスプレイをにらみ付けます。眼球が充血するまで読み込んだ後、印刷して紙面で読むと、誤字が湧くのです。まるで隠れていたかのように。

これはなんでしょうか?

何度も印刷した紙から誤字が湧き出すのを見るにつけ、私には一つの妄想から逃れられなくなりました。液晶ディスプレイには、何かしら人間の視神経を阻害し、集中力を減退させる仕掛けがあるのでは?と。

紙の博物館では、ディスプレイに対する紙の優位性についての答えは得られませんでした。ですが、同様の研究はあちこちで行われているようです。森林保護は共通の課題なのでしょう。私もネット上で様々な考察や研究論文に目を通しました。

それら論文や考察によれば、液晶ディスプレイは、ディスプレイの表面と図像を表示する層にわずかな距離があるようです。今の技術では数ミリ単位よりも少ないほどの。そして、そう意識して液晶ディスプレイを凝視してみると、焦点がぼやけていることに気付きます。一方、紙の文字を見るとくっきりと焦点を結びます。それは反射や透過や発行する液晶の性質によるのかもしれません。おそらくはこのわずかなずれが網膜に映った文字と脳内の認識のずれに繋がっているように思います。

では、ディスプレイのボケた焦点は、ディスプレイの解像度をあげれば解消するのでしょうか。私はそれだけではないように思いました。

紙とディスプレイ。表に出ているのは、共に文字や画像です。しかし、ディスプレイの背後には我々の気を散らすアプリが盛りだくさんです。例えパスワードロックを掛けて集中モードにしても、鉄の意思で画面に集中しても、ディスプレイの背後に隠れているモノが脳に何らかの連想を与えるのでしょう。では紙はどうか。紙は紙でしかありません。印刷されている情報はインクの集まりでしかなく、その背後には何も潜んでいません。

この事は、我々IT屋がアプリにいろんな機能を盛り込んでしまうことへの警告かもしれません。もはや、ディスプレイとその背後に控える情報量は人間の頭脳に余る。そう思います。ITの普及は人間の処理能力を遥か後ろに置き去りにしました。

多分このことは、電子ペーパーが普及し、解像度や触感が紙そっくりに再現されたとしても変わらないでしょう。紙はそこに印刷された情報以外のものを含まず、我々に余計な連想をさせないから集中できる。そう結論付けて構わないと思います。

紙の博物館でも、ディスプレイに対する紙が優位なのは何かをどんどん研究して頂きたいと思います。無駄な紙の使用はやめるべきですが、人間の脳を焼き切らせないためにも、紙に活躍の場は残されているはずです。

そしてその研究成果は、最近ホットな「人工知能は労働者の職を奪うか」の問いに対するヒントになるかもしれません。大容量の情報の受け渡しは、人工知能に任せましょう。人間は人間の脳が許容できる情報を発信し、それを受け取る。IT嵐の後も生き残る仕事とは、そのような仕事である気がします。


Facebookのフランス国旗騒動について


Facebookのプロフィール画像のフランス国旗化の話。案の定騒ぎになっていますね。

とはいえ、変える変えないは個人の自由です。言うまでもなく。なので、変えたからと言って引け目を感じる必要もなく、変えなかったことを誇る話でもありません。

ただ、皆さんのプロフィール画像が一斉に三色に染められて行く様は、興味深いものがありました。で、しばらくするとある記事がシェアされ始めました。プロフィール画像を設定すると個人情報が抜かれるというあれです。すると、みるみるうちに皆さんの画像が元へ戻っていきました。

その様子をみていて、思う事があったので、記事を書いてみます。

思う事とは、情報の受け止め方とその反応についてです。時代に合わせて、新聞、テレビ、ネットとメディアの主役は移り変わりました。それに伴い情報を受け取った我々の反応も変わりつつあります。

新聞が情報源だった頃、我々は時間をおいてニュースを知り、時間をおいて義援金を送るなどして現地に反応していました。その際も我々にはニュースに対して考える時間が与えられていたように思います。テレビが情報源だった頃は、リアルタイムで情報は届きました。しかし、それに対する反応の時間はまだ与えられていたように思います。

今、ネットの時代の真っ只中です。ニュースは発生から間髪入れずに我々の元へと届けられます。国民総ジャーナリストですから。また、我々にも現場に対する反応が即座に返せる環境が整いました。

ただ、その便利さを享受する替わりに、我々には無言無形の圧力が課せられるようになったのかもしれません。それは、ニュースを受け取ったら反応しなければならない、という圧力です。今のニュースに対する反応を見ると、そのような圧力が生まれ、それに流されてはいないか、と思うのです。

勿論、ニュースにたいし、無反応でいることは自由です。また、ニュースにたいしてじっくりと考え、考えを表明する自由もあると思います。

しかし、今生まれつつある圧力はそれを許さない方向へと向かっているように思います。ニュースを吟味し考える余裕も与えられぬまま、情報に対して即座にレスを返すことが求められているように思えるのです。
情報に対する判断力、決断力は無論重要でしょう。特にビジネスの世界においては。でも、今回のフランスでのテロに関しては、なにかそういう圧力が働いていたかのようでした。

情報に対して無反応であったり、時期を逸して意見を発したりすると情報弱者と見なされる風潮。そういう風潮にはなってほしくないですね。そう思いません?


おそ松さん


おそ松さん。

このようなタイトルのアニメが始まったらしい。数日前、娘に教えてもらいました。

おそ松くん、ではありません。でも、あの独特な世界観は健在。違うのは、皆さん大人になっていること。六兄弟はもちろん。ちび太もハタ坊もおとな。イヤミは初老。デカパンも初老。

はじめに娘から聞いた時は、ただのパロディーと高をくくっていました。どうせどこかの誰かがおそ松くんの名を借りて作っただけの代物だろうと。ところが、ニコニコ動画で観たおそ松さんは実に面白かった。赤塚不二夫さんの唯一無二のハチャメチャ世界が再現されているし。しかも、エンドクレジットでは赤塚不二夫Cのマークと、おそ松さん製作委員会の名が。それを見れば充分です。

内容はといえば、これがまたなんとも、シュール。かつ、ブラックな味付け。自主規制などどこへやら、てな感じの。面白い。

で、観て思いました。これはテレビ界の逆襲や。反撃の狼煙や。と。

かつて、おそ松くんは、テレビの勢いそのものでした。テレビが天真爛漫だった頃の象徴として。街角で、茶の間でテレビは大勢に視られていました。しかし、おそ松くんはある日、テレビ界を去りました。そして丁度その頃から、テレビ界は自主規制病を発病します。それからというもの、病状の進行に合わせ、テレビはつまらなくなる一方。街頭でも茶の間でも、元気を無くしつつあります。病は進行しているのに、誰にも見舞われず、ひっそりと埃を被る姿は哀れです。

おそ松さんは、そんなテレビ界を憂えた委員会の皆様によって、復活、いや新生したのだと思います。

毒の感じはなんとなくアメリカのアニメ番組のサウスパークを思わせます。そういえば、あの手のアニメって、日本では見掛けなかったなあ、と。多分、自主規制病にあえぐテレビ界には、サウスパークのような薬は強すぎるあまりに毒となり、用いられなかったのでしょう。

しかし、若い人々にテレビをアピールするには今しかない。そう委員会の皆様は思ったのでしょう。かつてメディアの主役を張っていたテレビ。その存在感を見せるには今こそ、と。そこで満を持して劇薬投入という訳です。でも、面白いですわ、これ。私のようなおじさんには懐かしく、面白いし、中学生の娘の世代にも受けてる。ただ、中学生が観るにはちょっと大人過ぎ。娘から教えてもらうにはパパドキドキし過ぎの内容です。

少し苦言をいうなら、おじさんに媚びているような気がしないでもない。おじさん世代にヒットするパロディーを繰り出すあたりなどはそう。妖怪ウォッチもその辺の狙いがあからさまでした。でも、おそ松さんにはそのおもねりは不要です。今さら70年代、80年代のコンテンツを出さなくてもおじさん達にはおそ松くんだけで充分。

テレビは見ない私です。でもコンテンツ作りの匠の技の幾つかは、テレビから編み出されたことは知っています。それらノウハウが日本から失われるのは忍びない。そう思うのです。なのでテレビコンテンツ文化を維持するためにも、今回のおそ松さんは支持したい。その上で、委員会の皆様には、パロディーに頼らぬようお願いしたいです。パロディー無しで、おそ松くんを産み出した赤塚不二夫さんの創作力に負けぬだけの質。これをお願いしたい。

私もまた、来週娘に見せてもらおうと思います。ニコニコ動画で。え、テレビで観てよ、、という声がどこからか。。


生誕140年 柳田國男展 日本人を戦慄せしめよを観て


昨日、神奈川県立近代文学館で催されていた「生誕140年 柳田國男展 日本人を戦慄せしめよ -「遠野物語」から「海上の道」まで」を観に行きました。残念なことに朝から山手洋館めぐりをしていた関係で、ここでの観覧時間は1時間しか取れませんでした。そのため駆け足の観覧しかできなかったのが惜しいところです。

しかし、そんな中でも少しでも日本の民俗学の巨人の足跡を追い、その業績の一部に触れることができたのではないかと思っています。この展示会は柳田國男の学問的な業績を云々することよりも、生涯を概観することが主眼に置かれていたような印象を受けました。

なぜ柳田國男の生涯に主題を置いたのか。それは本展編集委員の山折哲雄氏の意図するところでもあったのでしょう。宗教学の泰斗として知られる山折氏の考えは分かりません。ただ、私が思うに、柳田國男の生涯がすなわち日本の近代化の過程に等しいからではないかと思います。近代化の過程で都心部と農村の生活の差が激しくなり、農村に残っていた民俗的なモノ、例えば風習や民話、妖怪のようなモノが失われつつ時代に柳田國男は生きました。そして近代化によって失われつつあるものの膨大なことを、誰よりも憂えたのが柳田國男だったと云えます。そしてそのことは、柳田國男が農商務省の官吏であったからこそ、大所高所で農村の現状を観ることができたからこそ気づき、民俗学の体系を築きあげることが出来たのではないかと思います。本展からは、山折氏の意図をそのように見て取ることができました。

実際のところ、柳田國男の民俗学研究には独断や恣意的な部分も少なくないと聞きます。なので、本展ではそれら妖怪研究の詳しいところまでは立ち行っていません。でも、それでよいと思うのです。今の民俗学研究は、柳田國男の研究成果から、独断や恣意部分を取り除けるレベルに到達しつつあるとの著述も別の書籍で読みました。ならば、現代の我々は柳田國男が膨大なフィールドワークで集めた素材を尊重し、そこから料理された成果については批判する必要はないと思うのです。なので、本展でそういった研究成果を云々しなかった編集委員の判断も支持したいと思います。

むしろ、情報が貧弱な柳田國男の時代に出来て、現代の我々に出来ないことは何かを考えた方が良いのではないでしょうか。現代の我々はインターネットで瞬時に世界中の情報を集められる時代に生きています。そのため、地方と都会の情報格差も取っ払われていると思います。が、一方では都心への一極集中は収まる兆しを見せません。地方が都会のコピーと化し、地方の文化はどんどん薄まり衰えつつあるのが現代と言えます。

私は地方が都会に同化されること自体はもう避けようがないと思っています。しかし、それによって地方に残された貴重な文化を軽視するような風潮は、柳田國男が存命であったとしたならば許さなかったと思うのです。先年起きた東日本大震災の津波で、遠く江戸時代初期の石碑が、津波の最大到達範囲を示していたことが明らかになりました。また、同じく先年起きた広島の山津波の被害では、地名がその土地の被害を今に伝えていたことが明らかとなりました。しかし、それら古人の知恵を、今の現代人が活かせなかったことはそれらの被害が如実に示しています。

文字や碑に残せない言葉や文化が地方から消えつつあることは避けえないとしても、文字で伝えられるものは現代の感覚で安易に変えることなかれ。柳田國男の民俗学が懐古趣味ではなく、実学として世の中に役立てられるとすれば、その教訓にあるのでは、と本展を観て感じました。

先日、縁を頂いて奈良県の某自治体の街おこしについて、知恵を貸してくれと頼まれました。なかなかに難しく、私の拙い知識には荷が重い課題です。古来、伝えられてきたその地の土着地名のかなりが○○ヶ丘といった現代的な地名に変えられ、景観すらも新興住宅地やショッピングセンターに姿を変えた今となっては、かなりの難題と言っても良いでしょう。しかし、その地にはまだ古代から連綿と伝えられてきた独特な祭りや古墳の数々が残っています。これらを活用し、本当の街おこしに繋がるヒントが、実は柳田國男が現代に残した業績から得られるのではないか、そう期待しています。

私も浅学ではありますが、柳田國男の本は今後も読み込み、街づくりの課題を与えられた際には役立てるようにしたいと思っています。街づくりだけではなく、日本人として得られる知見もまだまだ埋もれているはずです。それぐらい、偉大な知の巨人だったと思います。今回は素晴らしい展示会を見られたことに、同行の友人たちに感謝したいと思います。


組体操をやるリスク・やらないリスク


日頃、私はほとんどテレビを見ません。が、たまたま昨夜は早めに帰宅したので、組体操の10段ピラミッドが崩れる瞬間をテレビで見ることができました。

10段は、見た感じ確かに高いですし、崩れた瞬間の衝撃も半端な強さではなかったことでしょう。怪我をされた方が苦痛から早く回復されることを願います。

今回の崩壊映像を見て思ったのが、あ、自主規制が入るな、ということでした。実際に10段ピラミッドをナンセンスとして退け、廃止を求める意見が多いようです。また、実際に大阪市教育委員会からは高さ制限をかけるとの指針が出されました。案の定です。

ただ、私の意見はそのような論調には与しません。むしろ反対意見に近いです。
「参加の判断は各家庭に委ねるべき」
これです。

10段はたしかに高いし危険です。今回のような事故リスクはついてまわるでしょう。私も小中学生の頃に運動会で組体操を経験しましたが、こんな高さに挑んだ記憶はありません。今回の騒動で、一番負荷がかかる生徒には大人3,4人分の荷重が掛かっているとの分析も目にしました。もしこれがきちんとした分析や試行なしに挑まれたのであれば、非難もやむなしです。

今のままでは、おそらく10段ピラミッドの廃止は避けられないでしょう。しかし、本当にそれでよいのでしょうか。子を持つ親として、リスク回避の論調にちょっと待てよ、との想いが沸き上がります。その想いがどこから来るのか考えたとき、教育現場や生徒の意見が全く顧みられていないことに思い至ります。

廃止や高さ制限といった縮小は、本当に教師や生徒の総意なのでしょうか。そこに現場無視の事なかれ主義は入り込んでいないでしょうか。もちろん、やりたくない生徒や、保護者の意見をないがしろにするわけではありません。強制や同調圧力は私の最も忌み嫌うものです。生徒と保護者が相談して、不参加を決めたのであれば、教師も学校も参加を強制させることはできません。当たり前の話です。しかし、一部の生徒にとっては10段ピラミッドの達成がかけがえのない財産になっていたかもしれません。また、教師にとっても普段の授業の百倍の教育効果が見込めていたかもしれません。もし10段ピラミッドが過去に実績のある種目であれば、喝采を浴びた経験は、一番負荷のかかる生徒にとっても上に立つ生徒にとっても貴重な成功体験となっていたかもしれません。

臨海学校の遠泳や、長距離ウォークなど、同じような危険を伴う行事は他にもあります。むしろその行事が長年の学校名物となっていることもあるようです。今回の件を機に、そういった行事が事大主義のもとに中止される可能性は否定できません。競技の違いこそあれ、教育現場にとって10段ピラミッドと他の競技は挑戦という意味において本質は同じはずです。拙速な中止が全ての生徒にとって最善の選択肢なのか、というと疑問です。

せめて、生徒と家庭の意向を聞く形にはできないのでしょうか。生徒自身はかったりぃからエスケープしてえ、と思っていたとしても、保護者の教育方針として、リスク回避をよしとしない場合、子育ての一環として参加させる選択肢は残せないものでしょうか。もちろん、その際は不慮のトラブルに対する責任の所在の念書は保護者からとっておくべきでしょう。また、生徒と保護者の下した決断が不参加であれば、引け目を感じさせずに見学させるべきです。

私自身、小中学生の頃であれば、10段ピラミッドなどは、かったりぃからやんぴ、と決め込んでいたでしょう。しかし、保護者となり、社会に出た今となっては、違います。10段ピラミッドなど屁のカッパに思えるほどの試練が人生には多数待ち構えていることを知っています。それは肉体的にも精神的にもつらい試練です。そんな試練を乗り越えてきた目からみると、小中学生の運動会で10段ピラミッドを回避させることが我が子の人生にとって何をもたらすか。逆に不安に思えます。なので、リスクや負荷を避ける論調が、現場の教師や生徒、保護者の意向を顧みないまま主流となることに待ったをかけたいと思うのです。

もちろん、親の意向で参加させた結果、我が子を喪う可能性はあります。あるいは激しい後悔に苛まされることもあるかもしれません。子育ては所詮結果でしか成否がわからないものです。あらゆるリスクを回避させた結果、それでも我が子の人生は平穏無事に終わることもありえます。また、リスクを覚悟で本番に送り出した結果、ピラミッドから落ちて半身不随となった我が子を介護する未来もありえます。逆の場合もまたあり得ます。リスクに打ち勝ち、大成する子供もいれば、リスク回避の考えから、思うようにいかない人生を歩む子供も出てきます。いづれの場合も、親は当然自らの決断の責任を取らねばなりません。全ては保護者の教育方針であり、子にたいする愛情や考え方によると思うのです。そこに善悪や優劣はありません。子どもの人生は子どもが死ぬまで評価出来ないし、当然、親の教育方針を問うことも無意味です。だからこそ、10段ピラミッドの実施を、親や子供の意向を顧みずに中止することに違和感を覚えるのです。

うちの娘たちは、幼時よりチアを習っています。とくに長女はどちらかといえば内向的で、チアをやる印象からは遠いです。しかし、そんな長女はチア・コンペティションという大会で2回もグランプリをとっています。上に投げあげた仲間をキャッチする役割なので、手足に痣がたえません。顔にも痣ができることもあり、一歩間違えば命の危険もあります。しかし、内向的な長女はチアを続けています。グランプリを獲った時の感動も折に触れて話してくれます。おそらくかけがえのない成功体験として心の糧として持ち続けてくれていることでしょう。外向的な次女にとっても、身近な憧れや目標として、姉の偉業を感じてくれているようです。娘たちのこれからの人生で、リスクに直面し、打ち勝とうとした経験は、貴重な糧となるに違いありません。私たち親がチアは危険だからと辞めさせていれば、それらの得難い経験は想像することすらできぬままに、娘たちの人生に当初からなかったものになっていたことでしょう。

今回、怪我された方々も、言い方は語弊があるかもしれませんが、他では得られない経験を得られたと思います。禍福は糾える縄のごとし、という言葉もあります。また、人生の終末に当たっては、良いことと悪いことが釣り合う、というのが私の人生観です。怪我された方々には、必ずや今回の経験が活きるはず、と言いたいです。そして今後の人生が豊かなものになることを願ってやみません。

これからの我が国には、地震や津波、火山の噴火や台風、隣国の暴発、といった不慮の事故リスクが多数訪れるでしょう。10段ピラミッドの崩壊などとは比べ物にならないくらいの力に翻弄される目に遭うかもしれません。今のうちにリスクを避けたところで、人生に痛みはつきものです。小中学生の多感な時期に痛みと向き合い、それに耐え抜く経験は、きっと自分を守ってくれるはずです。

教育現場も、一時の感情的な理由ではなく、長期的に考えて、それでも中止のほうがよいということであれば、それはそれでよいでしょう。ただ、リスクを恐れて中止といった腰砕けの結論には落ち着いてほしくないと思い、あえて書いてみました。


安保法案成立後の無関心について


先日、安保法案が可決されましたね。

安倍政権にとっては重要な一歩だったと思います。また、国会議事堂の周りでシュプレヒコールを上げていた方々にとっては残念な結果となりました。

のっけから結論を言います。
「安保反対するのなら、可決後もその思いを貫き、安倍政権を牽制するだけの気概をもって頂きたい」
これです。

とはいっても、私、別にデモ隊の方々の主張に賛成するわけではありません。むしろ反対です。また、私は安保法案、特に集団的自衛権にも反対の立場です。安保法案の可決前夜には、国会議事堂まで行って野次馬として高みの見物をしました。見物して、そして失望しました。

1960年の安保反対運動のうねりは、安倍首相の祖父を退陣に追い込みました。そればかりか、時のアイゼンハワー米大統領の訪日をも阻んだと聞きます。私が生まれる前のことですが、さぞや熱気に満ちていたことでしょう。国会周辺を幾重にも取り囲むデモ隊。女子学生の死去。そこには確かに時代の潮流が渦巻いていたと思います。不謹慎なようですが、私もその現場に立ち会い、時代の潮目が変わる瞬間に立ち会いたかったと思います。

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その思いから、今回は野次馬との批判も甘んじて受けるつもりでデモ現場に行ったのですが・・・そこはただの祭りの場でした。単調なフレーズの連呼と鉦や太鼓のリズムで飾られた場。そこらの路上に神輿が鎮座していたとしても、全く違和感のない雰囲気。国会議事堂を囲んで訴えるというよりは、国会議事堂という御神体を祭り上げる祭祀の場となっていました。

あの1960年もこんな騒がしく賑わう祭りのような雰囲気だったのでしょうか。そうは思いたくありません。それとも私が抱いたこの思いは、平和な時代の申し子のとるに足らぬ感傷に過ぎないのでしょうか。

あのころの日本は、確固とした方針を持っていませんでした。朝鮮戦争の軍需景気にわき、GHQの軛から解かれたとはいえ、もはや戦後ではない、と白書で啖呵を切らねばならぬくらい、敗戦後を引きずっていました。まだ日本の進む道を選べるだけの国力もなく、未来はあいまいなままでした。このまま、ソ連を仮想敵として、アメリカの庇護に甘んじるのか、それとも、敗戦の事実を噛み締め、アジアの中流国家として傷が癒されるのを待つのか。

結果は岸首相がデモと刺し違える形で首相を辞任し、新安保条約は成立しました。跡を継いだ池田首相は所得倍増計画をぶちあげ、経済立国日本としての名乗りを挙げました。今の我々の繁栄は、間違いなくその結果でしょう。デモに破れたとはいえ、人々は必死に働き、奇跡とも言われる高度経済成長へと我が国を導きました。私がこんなことを書けるのも、私の祖父母や親の世代の努力あってのものです。

IMG_1902IMG_1903可決から10日ほど経った今夜、祭りのあとを見物に行きました。そこは、見事なまでにがらんどうでした。熱気どころか、秋の夜風が気ままに吹くだけの。この空虚な感じこそが、あのデモで騒々しく鳴らされていた鉦やコールや太鼓の残響なのでしょう。メッセージの軽さを象徴するかのように、そこには余韻すら感じられませんでした。

寒々しさすら覚える空っぽの路上から、55年前のデモが起こしたような我が国の未来は占えるのでしょうか。大いに不安です。今回のデモはそもそも、背後に何もありませんでした。闇雲に戦争反対を唱えたところで、55年前と違い、全く説得力はありません。近所のエキセントリックな独裁者は核開発ごっこに夢中で、さらに、巨大な人口と国土を持つ中華思想の国は、覇業への野心を隠そうともしません。その上、かつては強大な力と意思を持っていたGHQの親玉は、世界の警察ごっこに疲れ、その警ら業務の一部を我が国に肩代わりさせようとしています。そして我が国は勢いが衰えたとはいえ、世界第三位の経済大国となっており、米国の替わりに警らが出来るほどの経済力を持っています。

今は、1960年とはあまりにも違ってしまいました。当時デモに参加した人々は、戦禍の悲惨さを夜毎の悪夢で繰り返し体験していました。そういった人々が唱える安保反対と、今のデモ隊が単調に唱える安保反対は、重みが全く違います。しかも、戦争反対の呪文をいくら唱えても、裏側に具体的な戦争反対のための対案がない以上、結果は見えています。残念ながら、我が国の隣人は、お花畑の住人でも聖人でもありません。

誰だって戦争には反対です。だからこそ、戦争に巻き込まれないような手立てを講じるしかないのです。憲法は改正し、自衛隊を「国を守る軍隊」として定義する。いざ、事有らば、即座に対応できるだけの制度を整える。国防を放棄し、隣人の善意を信じるなど絵空事でしかありません。

一方、かつての我が国は他国を侵略する過ちを犯しました。これは残念ながら認めねばならないでしょう。なので、憲法で自衛隊を軍隊として認めたのであれば、その軍隊が再び外国を侵略することのないようにしなければなりません。今の自衛隊の装備は専守防衛にカスタマイズされていると聞きます。しかし、魔が差す指導者が将来現れないともかぎりません。そのため、国外での武力行使を厳禁するような憲法の規定は欠かせません。日本は地勢的に外に打って出られない宿命を背負っています。それは歴史上からも明らかです。明らかであっても日本が再び侵略国としての汚名を着ないように憲法で宣言することは必要でしょう。

その意志を体現し、睨みを利かせる重石として、今回のデモに参加された方々にはシラケることなく活躍して頂きたい。無意味な戦争反対の呪文を唱えるだけでは軽すぎて重石たりえません。

今の我が国は、アメリカが辛うじて睨みを効かせてくれているからなんとか外交が持っているように思えます。しかしその庇護はいつ外れてもおかしくありません。特にアメリカのイエローストーン国立公園地下にあるとされるスーパーボルケーノ。ここの破滅的噴火はいつ起きても不思議ではないといいます。万が一の際は、アメリカの国土の大半は灰に埋もれるとも聞きます。そうなった場合、アメリカには最早日本を助けるだけの余裕はないでしょう。

その時に日本が日本自身の決断で防衛出来なかったら、どうなるでしょう。竹島や尖閣諸島を奪われるだけでは済まないかもしれません。再び他国を侵略しないと謳った崇高な憲法も、無意味な紙切れに化けてしまいます。

そうはなりたくないですよね。

少なくとも、ネット越しではなく、実際に足を運ぶだけの思いがあったのであれば、安保法案が可決されたからといって一気に無関心になるのではなく、引き続き政権を牽制するだけの極になって欲しいと思います。たとえ理は政権側にあろうとも、一度パワーバランスが偏ったらそれを平衡に戻すために、どれほどの苦労を強いられるか。古来からの我が国の歴史がそれを証明しています。


70年目の終戦記念日を考える


日本的な年齢で呼び表すと、古稀。古くから稀にしか生きた人がいない。七十年とはそれだけの年数を意味します。

戦争が終わり、七十年。もう、そろそろいいじゃないか。終わりにしませんか。そう思います。七十年を区切りとして、第二次大戦を史実として歴史家に委ねてもよいのではないかと思います。歴史は歴史として尊重し、未来に目を向けるべきではないでしょうか。

勿論、当時を知り、まだ存命の方が多数いらっしゃることは承知の上です。南京、ドレスデン、ワルシャワ、沖縄、廣島、長崎、東京、その他第二次大戦で戦火に炙られた戦場の数々。それらの場所で、戦争の惨禍と人間の残酷な面をまざまざと目にした方々の体験を水に流すわけではありません。そんな失礼な仕打ちは論外です。私の父からして、明石空襲で命からがらの目に遭っています。第二次大戦の全ての被災者の方々とその体験への哀悼やねぎらい、苦しみや悲しみに対して十分に尊重することは当然です。

その事を前提として、国や民族の単位で、謝罪や誠意の多寡を言い争うのはもうやめにしませんか、と提案したい。未来に目を向け、これからのアジアについて建設的な関係を築きませんか、と意見を投げ掛けたい。

かつての大日本帝国は過ちをおかした。これは認めます。中国側の主張する南京の犠牲者数は白髪三千丈の一種として、認めるわけにはいきません。しかし、例え僅かであれ、日本軍による虐殺行為もあったでしょう。慰安婦にしても、ほとんどが朝鮮人の仲介業者による運営だったかも知れず、日本軍による組織だった関与は皆無だったかもしれません。しかし、軍として何らかの関与がなかったと強弁するのも難しいでしょう。一方で、アメリカによる東京大空襲や、廣島・長崎への原爆投下は間違いなく戦争犯罪です。ナチスによるホロコーストもまた同じ。日本はそれらを今さら告発することはしないし、東京大空襲を指揮したカーチス・ルメイ将軍には戦後勲一等旭日大綬章といった勲章まで授与しています。

一方で、杉原千畝氏や樋口中将のようなユダヤ民族に対して救いの手を伸ばした人の話もあれば、諸国民の中の正義の人に連なる人々のような、人類の良心が示された話もあります。戦中アメリカに対して果敢に戦った軍人が、戦後アメリカに招かれて勇気をたたえられた話もあります。

戦争とは国の名によって行われました。しかし、その行動は個人の意思です。たとえ時代の空気や巧妙な宣伝工作によって惑わされていたとしても。日本、朝鮮、中国、アメリカ、ドイツに至るまで、愚劣な人による愚かな行為があり、高潔な人による賞賛される行為がありました。そこには民族や国の優劣などないと思っています。全ては不幸な時代の不幸な諍いの結果であり、犠牲者の方々には申し訳ないのですが、今更そのことをあげつらったり、非難を応酬することはやめにしませんか、と重ねて言いたいのです。無論、それらの事実に蓋をするわけではありません。ただ、それらの事実は特定の国や民族を非難するための外交カードとして使うのではなく、人類の愚かさの教訓として後世に残すべきもの、そう思うのです。

なので、元首相が跪いて謝罪しようが、現役閣僚がかつての韓国統治を正当化しようが、もはやそれは個人の歴史観の問題として扱えないだろうか、と云いたいのです。昨日の安部首相による戦後70年の談話や鳩山元首相による韓国での謝罪など、それぞれがそれぞれの個人的な信念で行ったこと。それを尊重しようではありませんか。戦後70年の区切りとして、安部首相の談話には日本が示せる最大限の誠意が込められていたと思います。

昨日、日本のいちばん長い日を観劇してきました。観劇の感想は別にアップしたのでそれを読んで頂くとして、私は今の日本人が当時の人々を断罪する資格はないと思っています。当時の人々には当時の価値観や時局があり、それらに殉じて精いっぱいの日常を生きた。そう思っています。残虐な所業や卑怯な振る舞い、あるいは高潔な対応や勇気ある行動など、それぞれの国や民族でそれぞれの個人が行ったことについては人間の愚かさと気高さとして、あるがままに受け止めればよいと思います。

これからは過去の出来事に捉われず、前向きに生きて行きたい。そう提言したいと思います。古稀とは、中国の生んだ偉大な詩人杜甫の曲江の一節にある言葉です。日本は中国から多大な影響を受けてきました。中国にも愚かな歴史もありましたが、そろそろ中国も度量を示し、拡張ではなく融和の精神を示してほしいと思っています。


70年目のナガサキを考える


今日は、長崎への原爆投下から70年の日。

丁度11時2分の時間は仕事をしていたので、黙とうはできませんでした。

この様に、残念ながらナガサキは、ヒロシマに比べて少し扱いが下に置かれているように思われてなりません。しかし同じぐらいナガサキへの投下は我が国にとって重要な出来事です。やはり考えない訳には行きません。

ナガサキへの原爆投下は2つの意味で、ヒロシマのそれとは違っています。一つは、当日になって残酷な運命を浴びせられてしまったことです。当日の第一目標は小倉市であり、本来はナガサキは免れるはずだったことです。もう一つは、ナガサキが日本のキリスト教や西洋文化の玄関口として栄えた街だったことです。

よりによって大村天主堂や浦上天主堂といった東洋のキリスト教の拠点に、天候という運命のいたずらで原爆を落とされることになったのは、考えさせられるところです。日本二十六聖人の殉教など、長崎にはキリスト教と日本の関わりを問う上で、重要な史跡が多数残されていますが、西洋文明の一つの成果である原爆が、ここで運命の導きによって落とされたことは、もっと考えられてよいかもしれません。

20年前の8/6に広島の原爆ドーム前でダイ・インを経験したことは先に書きました。実はその後、私と同行した大学の友人達とで九州にも移動し、8/9には長崎も訪れました。ところが、その時期、長崎原爆資料館は建替えが予定されており、一部展示を縮小しての展示となってしまいました。

その後、一度妻と長崎には訪れたのですが、長崎原爆資料館はその時には訪れずじまい。私にとって心残りが続いています。また、妻の大叔父は、広島と長崎の二重被爆者だったそうです。数年前にお亡くなりになられ、残念ながら当時のお話を聞くことはできませんでした。

そのような心のこりを払しょくするためにも、今年後半か来年には長崎を訪れ、改めて長崎の原爆関連の史跡を巡ってみたいと思っています。日本においてのキリスト教の複雑な根付き方を感じるためにはじっくりと巡ってみることが必要です。

丁度今日、ディズニー社が誤解を著しく招きかねないツイートを流し、物議をかもしたばかり。ナガサキは不当な扱いを受けていると思います。


70年目のヒロシマを考える


ここ8日ほど、連日東京は熱暑の中にゆだっています。丁度70年前もそうだったように。今朝は、廣島に原爆が投下されてから70回目の朝。その時間、電車の中で黙とうを行いました。

20年前の今日、8:15に原爆ドームの前でダイ・インに参加しました。以来20年。それだけの時間が経ってもまだ原爆が風化していないことに胸をなでおろす気持ちがあります。

周辺国が日本に向ける視線は、70年近く守ってきた憲法をそのままにしておけないところまで来ています。とはいえ、日本は何があろうと平和を礎として行かねばなりません。自衛隊はあくまで自衛のための軍隊です。かつてのように武力をもって日本の国威を外に向ける、そのような過ちはもう繰り返してほしくありません。

安らかに眠って下さい 過ちは 繰返しませぬから
との有名な碑文も、賛否はあれど、真理と云えましょう。

原爆ドームも広島平和記念資料館も、日本が身を以て体験した戦争の愚かさを後世に永久に残すための施設です。少しでも多くの人々に、これらの施設を訪れて欲しいと思います。原爆の引き起こしたむごたらしい被害の前では、主義の右も左も沈黙するはずです。これからの日本の外交がどうあれ、二度も原爆を落とされた国として、平和を礎とした思いは忘れないで頂きたいものです。

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我が家も、妻や娘達を連れて一昨年のゴールデンウィークに訪問しました。写真に写した本のうち数冊はその際に広島平和記念資料館で買い求めたものです。また機会を見て再訪し、意識を新たにしたいと思います。


駅を街のランドマークとする発想に物申す


のっけから、私の故郷の話で恐縮です。今年になって相次いで甲子園近隣の駅のリニューアル工事が話題に上がっています。

JR甲子園口駅は7/7から新駅ビルが供用開始となったそうです。
西宮経済新聞より
阪神甲子園駅は工事完了が来年末予定ですが、5月の連休に訪れた時は、すでに屋根が出来上がっていました。
西宮経済新聞より
これは2014/12月に実家に帰った際に撮影した建設途中の駅です。
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今年は夏の甲子園がはじまって百年目の記念すべき年。甲子園球場を擁するわが故郷として、これを機に一新したい気持ちも分かります。分かりますが、私にとってこのニュースから感じるのは寂しさのみです。

その寂しさとは、駅を街のランドマークとする発想に対してです。その発想は、今の日本を覆う安直で軽薄なそれと同じです。日本のランドマークとして君臨するのはイケイケな東京です。そして、ランドマークの地位におさまったまま、私のような地方人を集めてますます肥え太り、その安直な発想の下、麻痺しつつあります。東京は麻痺する日本の象徴とも言える場所になっています。今回の駅の建て替えニュースからは、それと同じ匂いが漂ってきました。東京に住む私は、甲子園がよりによって東京の悪しき発想をまねたことに寂しさを感じます。故郷が遠くなっていく無力感すら覚えます。

私の故郷西宮は、大阪神戸の中間に位置しています。ベッドタウンとして日本有数の規模を持ちながら、静かな住環境が保たれていました。ここ100年の時間軸で眺めると、球場は二つ、競輪場は二つ、競馬場も二つ。日本酒の醸造所は多数、アサヒビールやニッカウヰスキーの工場も立ち並んでいました。いわば、「飲む」「打つ」の男のロマンを備えた街が西宮です。そんな環境にありながら、西宮七園を代表として閑静な住環境が整っていることは、凄いことです。しかも、山あり川あり海あり池ありと自然さえも豊かに揃っています。こんな街、日本を見渡してもそうそうありません。たぶんどこに住もうとも死ぬまで西宮が一番だと云い続けるでしょう。l

かつて、落語家の露乃五郎さんは西宮を称してこう言いました。「ヘソのない街」と。ヘソとは街のランドマーク、自他共に認める中心地を指します。西宮の場合、それがありませんでした。もっとも、そう書くと誤解を受けそうです。甲子園球場、阪神パークを中心とした甲子園駅付近、阪急西宮球場を擁する西宮北口駅付近、西宮戎神社の門前町である阪神西宮駅付近。ランドマークぎょうさんあるやないかい、と。しかし、これらは西宮にとって唯一無二のランドマークとはいえません。これらは三ヶ所に分散しています。しかも通年営業の商業施設ではないため、特定の時期しか人を集めません。ランドマークとは、年中人が集まる場であり、その地域のオンリーワンの場所を指します。これら三ヶ所をヘソと呼ぶことはできないのです。

このバランスが崩れたのが阪神・淡路大震災です。震災復興の名の下に、西宮北口駅付近が一新されました。西宮球場は解体されて阪急西宮ガーデンズとなり、買い物客で賑わいを見せています。また、甲子園球場こそ健在ですが、阪神パークはららぽーと甲子園となり、キッザニア甲子園という目玉施設を中心に、多彩な店舗が集うショッピングモールとして賑わっています。阪神西宮駅は、高架化に伴いエビスタ西宮という駅ビルに生まれ変わりました。

これら三施設に共通するのは、通年集客の考えです。つまりはそれぞれの地が、わてこそ西宮のヘソにふさわしいねん、と名乗りを挙げたわけです。しかし、三施設とも一言で云えばショッピングモールに過ぎません。ショッピングモール三つできた所で、三すくみとなりかねません。いや、事実そうなっているように思えるのは私だけでしょうか。結果、西宮のヘソを作るどころか、ヘソのない街西宮の良さが却ってボヤけたように思えてなりません。しかもJR西宮駅前にも、臨港線沿いにも商業施設があちこちその図体を晒しています。東京から故郷に帰る度、西宮が平凡な街に変わりつつある、そんな寂しさに駆られていました。そこに来てこのニュースです。JR甲子園口駅は、私の幼少期より変わらぬ佇まいの駅でした。それが数年前から徐々に変わり、ついにはこの度の駅ビル完成と相成りました。阪神甲子園駅も、球場の大鉄傘をモチーフとした屋根付き駅に変わりつつあります。私が帰省する度、故郷に帰ってきたと実感させてくれる駅はもうありません。我が故郷の駅よいずこ。

これが故郷を出ていった者の身勝手な郷愁であることは理解しています。私が文句を言う筋合いもなければ資格もないことは承知の上です。

でも寂しいんです。悔しいんです。誇るべき故郷がよりによって東京の悪しき構図を真似たことが。

確かに阪神甲子園駅は通路も狭く、老朽化が進み、施設キャパオーバーになっていたことは認めます。春夏の高校野球ファンや、六甲おろしをガナる愛すべきトラキチ達をこれからも運び続けるためには必要な改修なのでしょう。でもこの改修によって、甲子園駅の下を潜る甲子園線のガード下に残っていた、私が二歳の時まで走っていた阪神電車の路面電車の遺構も消え去ることでしょう。JR甲子園口駅の北側駅舎は1934年の開業当時の風格を残していました。でも、先年のバリアフリー対応の通路付け替え工事は駅ビル建て替えまで進み、あえなく解体されてしまいました。これら駅の記憶も今や、時代の中に消え去ろうとしています。新しい駅ビルは阪神間モダニズムを体現したデザインになっているとか。とはいえ、私が故郷の駅と認識するにはまだまだ時間がかかりそうです。

両駅の建て替えは夏の甲子園百年記念という理由だけで建て替えられたように思えてしまいます。日本にあまねく知られた、西宮が誇る甲子園球場。類まれなランドマークを持ちながら、さらに駅を建て替えてランドマーク化することに寂しさが募る一方です。そう思うのは、故郷を離れた私だけなのでしょうか。

駅をランドマークに見立て、集客を期待する。この構図は、日本にとっての東京と同じです。日本の代表的な都会東京に投資、人口を集中させ、東京を日本のランドマークとする。最近では、ランドマークの中に駄目押すかのように新国立競技場というランドマークを建てようとしています。

ただでさえ一極集中が進み、地震リスクの高まる一方の東京。かつてはさみしい寒村だったこの地は、日本の繁栄を誇示するかのように飾られ、デコられ、ハコモノ展示場のランドマークと化しています。それらを縫って、定時運行すら危うくなってきた寿司詰め電車がひっきりなしに行き来します。

もう、これ以上日本のランドマークとして東京に重荷を背負わせるのはやめようよ、と言いたい。江戸開府以来400年。その歴史は尊重します。でも、今の東京には、私のような地方出身者が集まりすぎています。江戸っ子はどこに消えた?と思う事しきりです。東京はすでに疲れているのです。そんな疲れた東京に、首都直下型地震が来たらどうなるか? 枯れつつある地脈は息絶え、日本自体にも取り返しのつかない傷跡を残すことは間違いないでしょう。安政や大正の昔と比べても、今の東京が地震の直撃に耐えうるとはとても思えません。そして日本が東京に依存する割合も桁違いとなっています。東京の重荷を少し降ろして身軽にしてあげようよ、と云いたい。出来うるならば、オリンピックも名古屋や大阪、福岡に譲ってあげたいぐらいです。

そして同じように、西宮に言いたい。せっかく甲子園やえべっさんちゅう、日本一の球場や神社があるんやさかい、もおええがな、と。住み良い西宮のままで居てえな。駅は閑静なままに、乗降客が不便でないようにすればええだけやないの、と。

各地方にも云いたい。東京を真似るな、と。その地の文化や風土を大事に。限定キャラメルやラー油、プリッツやポッキー、B級グルメもいいけど、昔からの地元の産物を育て、誇れる地元でいて頂きたい。東京は遠からず地震でかなりの被害をうけるか、飽和しきって崩壊します。その受け皿として健在な地方でいて頂きたい、と。

そして政府や各自治体にもいいたい。これ以上東京にお金を使うより、その地域の歴史や文化を尊重した振興策にお金を使うべき、と。具体的には地域を思う議員への助成、真っ当な地域コンサルの招聘。地域芸能への甘えに堕さない補助。自治会へのアイデア公募。シャッター通りへの格安入居の援助。思い付くだけでも出てきますが、国や自治体が本気で振興に取り組めば、民間からまだまだ珠玉のアイデアが出てくると思います。集中の利点という名の下、東京への投資を行ってよい状態ではもはやありません。

今までも私自身、東京一極集中については色々言ったり書いたりしてきました。また、私自身が東京に住み、都心に通う現状に埋もれている中で、一極集中の弊害を書いたところで説得力がないことも痛く感じていました。近々、仕事上でとある提案を頂きます。その提案を私が受けるかどうかもまだ分かりません。が、家族が宝塚好きということもあり、あるいは家族からの理解ももらえるかもしれません。私自身、いつまでも痛勤電車で通うことに意味があるとは思っていません。ましてやITがこれだけ普及している今は。

そのぐらい、今の東京の混み具合には鬱屈が溜まっていますし、それに対して迎合的な姿勢を見せる地方の現状にも苛立ってもいます。日本を住みやすくするためにやるべき処方箋は多々あります。その中の一つとして、東京への一極集中を食い止めるための手は打たないと、と真剣に思います。


70年目の沖縄を考える


先日、6/23は沖縄戦が公式に終結して70年目の日でした。

沖縄といえば、普天間基地の移設問題が議論されています。民主党が政権を担う前から決着がつかぬまま、時間だけが経っています。正直に言って、この議論には本土に住む者として違和感を覚えざるを得ません。何か取り残されたような気持ちというか、明らかに沖縄に基地負担を押し付けている本土の人間としての罪悪感というか。例えば翁長沖縄県知事の発言についても、批判されることも多いようですが、私には批判はできません。むしろ、中国や米国、与党や防衛庁などの思惑を外し、翁長知事自身の過去の発言や翼の右や左、沖縄県人の世代間認識の違いも越えた視点から見てみると、それほど仰っていることは間違っていないとさえ思います。

のっけから結論を述べます。
沖縄の基地負担を分散するために、沖縄の方々が蒙っている実害を基地ツーリズムなどで本土の人間が共有できる仕組みを。
これです。

云うまでもなく、基地問題についての沖縄の皆様の民意は、昨年の翁長知事の当選で示されていると思います。私ごときが沖縄の基地問題を論評するなどおこがましいことは十分に自覚しています。しかし一つだけ、基地について私が語れる実害があります。それは、騒音です。

知っての通り、米軍基地は、沖縄だけでなく本土にも点在しています。岩国、厚木、横田、三沢など。これら基地周辺に住む人々にとっては、沖縄の人々の気持ちが少しは共感できるのではないでしょうか。沖縄の方々が蒙っている迷惑の実態を。私もつい先年まで町田市の中心部に住んでいました。町田市は、横田基地と厚木基地を結ぶ線上にあります。頻繁に北から南へと飛行機が通り過ぎ、そのたびに爆音が町田の繁華街を縦断します。その高度は機体番号が見えるのではないかというほど低く、特にNLP(夜間連続離発着訓練)の際は、夜中の25時過ぎでもお構いなしの轟音が響き、寝るどころの話ではありません。町田市のホームページにもそのことは頻繁に触れられています。陳情も周辺自治体と合同で行っているとか。

とくに町田市は1964年に起きた繁華街への米軍機墜落事故の現場でもあります。また、1977年に横浜市荏田に墜落した米軍機も、墜落直前には町田市上空を通過しています。町田市に接するこどもの国から撮影された画像が残っています。ここでは私の住む町田市を例に挙げましたが、町田市以外にも、米軍基地近隣の住民は今でも墜落事故の悪夢に怯えなければなりません。

とはいえ、今の日本の置かれた状況から考えると、米軍基地が必要なことは明白です。問題は、それが沖縄に集中していることなのです。そして、私を始め、本土の基地周辺に住む人々にとってみれば、これ以上本土に基地が増やされることを迷惑と思っていることも事実です。基地の負担を沖縄に押し付けて、自己の安全を図る。残念ながらこれが私を含めた本土の方々の偽らざる本音といえます。なので、翁長知事の発言についても、その理は理解しつつも罪悪感から反発を覚える。そんな構図に私は思います。

ではどうしたらいいのでしょう。普天間から辺野古へ移したところで、沖縄の負担が減らないことは変わりません。逆にいえば、誰も理想的な解決策が思いつかないから、これだけ基地移転問題が長引いていると云えます。そして解決策が思いつかない理由の一つには、本土の誰もが沖縄の人々の置かれた現状を実感できていないこともあるのではないでしょうか。沖縄の人々が具体的に何に困り、何に怒り、何に迷惑を受けているのか。そこには沖縄の方々が抱いているだろう琉球の歴史や本土との扱いの差といった観念的なことではなく、上に挙げた騒音のような具体的な事例が必要だと思います。

私は20年ほど前に沖縄を訪れ、ひめゆりの塔や名護市街、那覇市内、首里城などを旅しました。が、その際も基地の中に入ることはもちろん、鉄条網の外からしか基地を見ることができませんでした。そして今もなお、私自身、沖縄の人々が具体的な騒音の他に、何に困っているのか、正直つかみ切れていないところがあります。

そこには政府の沖縄の基地問題についての、性急に事を進めようとする姿勢が透けて見えます。普天間基地移転の話が持ち上がってから、すでに充分な時間が経っています。その間、じっくりと国民に沖縄の基地の必要性を理解させるだけの努力はなされていたのでしょうか。初めから沖縄への基地ありきの結論で物事を進めてはいなかったでしょうか。

今からでも遅くはないので、政府は国民に対し、沖縄の基地問題を理解してもらい、本土への基地移設についての理解を求められるだけの伏線も貼っておくべきと思います。私が思うに、沖縄の人々の怒りとは、具体的に困っていることに対するものではなく、本土の人々の無関心に対するものではないかと思います。例えば政府が予算を出して、沖縄への旅行費を助成し、その際は必ず沖縄の基地見学を含めるとか。沖縄の基地側も基地ツーリズムに対する受け入れ態勢を整え、なぜ沖縄に基地が必要なのか、どういう脅威が今の日本、沖縄を覆っているのか、といった広報をきっちり行うべきではないか。私はそう思いました。

以前にも書きましたが、自衛隊は明らかな軍隊ですし、憲法の9条も書き換えられるべきだと思います。ただし、かつての日本は過ちを犯しました。そのことを考えると、国外では一切の軍事活動はしない覚悟は周辺国に示す。それだけの縛りが必要です。その替わり、日本は断固として国防を全うするのです。それだけのきっちりした自衛の体制を整えるべきだと思います。沖縄の重要性はもちろんですが、既存の岩国、厚木、横田、三沢などの基地だけでなく、自衛隊の基地も合わせて拡充が必要だと思います。極端にいえば、米軍が日本から撤退しても日本単独だけで自衛が出来る体制すら考えたほうがよいと思います。そのためには、沖縄に基地の負担を押し付けるだけの考えでは到底足りないでしょう。沖縄から基地を撤去するのではなく、それと同じだけの負担を本土側にも担ってもらう。そうすれば沖縄の人々の苛立ちも少しは和らぐのではないでしょうか。

そのためには、もっと本土側の人々が沖縄の現状を知る必要があります。安保法案や憲法改正、基地移転への道筋をがむしゃらに付けようと現政権は突き進んでいるようですが、それだけでは到底人々の理解は得られない。そんなことを思いました。


都心には皇居という緑があるのに、自然には冷たい


梅雨入りとなり、湿度の高い日々が続きます。そんな湿っぽい日常をもっと湿らせる光景を目撃しました。 それは、燕の巣に対するこの仕打ち。 IMG_5934

毎日通っている客先近くのビル。このビルの一階部分は、立体駐車場の入口も兼ねています。この入口の天井には警告用のパトランプが備え付けられていて、毎年、燕が営巣します。今年も五月の連休が明けた頃、巣作りに励むつがいを見かけました。野生でありつつ、たくましく人間の施設を利用する子育てに共感し、毎日の通りすがりに応援していました。 IMG_5053

やがて雛たちも数羽姿を見せ、ますます賑わいを見せる天井の巣。私も毎日巣を横目に見ながらその家庭的な営みに癒されていました。ところがある日、巣を残して忽然とツバメ達は姿を消してしまいました。私も相当落胆しました。 ところが、数日後、何気なく通りがかったところ、パトランプの反対側に巣が出来ているではありませんか!不屈のツバメがめげずに営巣の準備に勤しむ様子を確認できました。或いは別のツバメがよい場所を見つけたとやってきたのかもしれませんが、やった!頑張れ~と私は内心で喝采を叫びました。

ところが翌日、わくわくしながら、雛の誕生を見に行ったのですが、そこで見たのは冒頭に載せた写真のような衝撃的な仕打ちでした。燕の営みは破壊され、二度と復活出来ないようにされていました。

毎朝この場所を通うようになって、三度目の春です。実は巣が壊される光景を見るのは今回が初めてではありません。この場所で巣作りをしたツバメは、毎年何者かに巣作りを中断させられているのです。壊されたり撤去されたり。それにも関わらず、今年も果敢にチャレンジしたつばめの行為は無惨な結末を迎えました。それも今まで見た中で一番救いのないやり方によって!

おそらく巣を撤去した何者かは、このビルの関係者かもしれません。その何者かが巣を撤去するに当たっては、私などのうかがい知れぬ深い事情があったのかも知れません。店子の車の天井に粗相をしたり、あるいは店子が頭にウンを授けられたりしたのかも。店子の怒髪が天を衝き、巣は刺されたのでしょう。撤去した何者かの気持ちも分からないでもありません。私としても、家の玄関の頭上に営巣されたら温かく見守りますが、妻の歯科診療室の入口頭上に営巣されたら、何らかの策は考えざるを得ません。巣の撤去人の事情が分からない以上は安易な断罪は控えるべきなのかもしれません。ええ、そうですとも。

しかし、あの口をピーチク開けていた雛たちの行く末を思うと、心の片隅がじめじめし、カビが繁殖していくかのようです。梅雨だというのに、誕生日を迎えたばかりというのに。せめて、巣の処刑人が、巣をまるごと安全な場所に移設し、そこで無事に雛を旅立たせてくれていれば、私の心も晴れ渡るのですが。

一方で、そんな私の気持ちを晴れやかにさせる出来事もありました。

我が家の四女であるヨークシャーテリアの野々花。このやんちゃなレディが野生に呼ばれ、行方不明になってしまいました。夜間のことだったので、闇に紛れてしまい、探しても見つからず。しかも悪いことには、今梅雨史上最高の土砂降りが我が家の周辺を襲いました。気温が上がったとはいえ、これだけの雨に叩かれたら、せめて雨の凌げる場所に逃げていてくれたら・・・そんな夜を過ごしました。

翌朝、野々花の行方は、町田警察署からの連絡で判明しました。しかも、保護されたのが雨の降る前だったらしく、つやつやした毛並みのままに。届けて下さった方には感謝の言葉しかありません。その方に直接お礼の言葉を掛けられればどんなに良かったか。(個人情報保護を盾に警察署では教えてくれませんでした。この件については云いたいこともあるので、また書きます)

実は我が家にはチワワのお姉さんも居て、名を風花といいます。この風花も飼い主に似てか、しょっちゅう脱走し、放浪するのです。特に引越日当日にいなくなった際は、全く行方がつかめず、町田市中のペットショップに貼り紙をしてもらい、近所のスーパーにも貼り紙をさせてもらいました。その結果、2週間後に我が家に戻ってきたのですが、その際にも親切なお宅の家で保護されていました。しかも前よりも肥太って悠々と。

私の住む町田は、駅前の繁華街こそ西の渋谷という異名をとるほどに俗っぽくなってしまいました。しかし、私の住む家の近所はまだまだ自然に恵まれ、住宅地と農地が共存できています。そして、犬を愛する親切な人々が住まって下さっている場所でもあります。貴志祐介氏による小説「悪の経典」の舞台でもあるのですが、小説に出てくる「ハスミン」とは違って人情の感じられる場所です。

都会だから酷薄で、田舎だから人情。そういった紋切り型の判断をするのは禁物です。それはよく分かっています。分かってはいるのですが、今回のツバメの一件を思い返すに、どうしてもそういう思いが湧いてしまうのです。一度そう思ってしまうと、このあたりの瀟洒な邸宅街に対して、少し距離を置いた感想を抱いてしまいかねません。住まわれている方々はツバメを排除する人々ではなく、むしろ素晴らしい人々なのでしょう。なのに、ツバメの一件だけでそう思わせてしまうほど、今回の一件からは強烈な印象を植え付けられました。靖国神社や東郷元帥記念公園、清水谷公園、千鳥ヶ淵公園といった素晴らしい公園を擁し、大使館や学校といった上品な建物が多いこのあたり。私もその雰囲気に好意を持っているこの地。

そういえば、この界隈、普段昼食で歩き回っていて、犬や猫にほとんど会うことがありません。ツバメが営巣に来るくらいだから、近隣の自然も相当豊かなのに違いありません。あるいは皇居の森は相当数のツバメの一大繁殖地となっているのかもしれません。このあたり、本来は自然にあふれた素晴らしい場所のはずなのです。私のような町田の農村地に住む者にとっても、このあたりの緑の豊かさは一頭群を抜いています。これは私の故郷大阪の都心部の緑の乏しさと比べれば断然の違いです。例えば大阪環状線の内側で思いつく緑といえば、大阪城公園と靱公園、天王寺公園、御堂筋の並木くらいでしょうか。それに比べ、東京の都心部の豊かさはくらべものになりません。

それなのに街からはツバメを排除し、人間の営みを優先する。何かがズレテイル。

この辺りは、かつて入江でした。入り江であるがゆえに、地盤は脆弱です。そしていずれは来るといわれている首都圏直下型地震もこのあたりに甚大な被害をもたらすとされています。自然を目の前にしながら、自然を忘れた人々。存在を遠ざけ、忘れていた自然から、いつか手痛いしっぺ返しを食らわないとも限りません。

皇居ではよく自然観察会が開かれているといいます。私もまだ一度も参加したことがありません。もし、ツバメの巣を××された方が、ツバメに対して愛着がゼロなのであれば、こちらの拙文を読む機会があったら、一度は皇居の見学会に行かれてみてはいかがでしょうか。普段どれだけの宝物に囲まれ、どれだけの不安定な場所に住んでいるのか、思いを致すとよいです。


娘にスマホを持たせないために


アメリカのニューヨークタイムズが、本社ビルから自社サイトへのPC経由のアクセスをブロックし、スマホかタブレットからのみ接続を許可する実験を始めたそうです。
島田さんのブログ 島田範正のIT徒然より

デジタル時代の戦場はすでにPCではなくモバイルにある。このことを意識させるための意図を含んでいるとかいないとか。

日本でも、ながらスマホによる事故や、スマホを取り上げられた生徒が教師に襲いかかるといった、虚構新聞も真っ青のニュースが報じられています。

我が家でもご多分に漏れず、スマホを巡ってのせめぎ愛が絶えないこの頃です。
今回は、娘達へのメッセージも込めつつ、私のスマホに対する考え方を一席ぶちたいと思います。

のっけから結論を述べます。
子を愛する故になみだを呑んで、スマホさん、また今度ね。
これです。

我が家の娘たちから初めてケータイ欲しい、という希望が出されたのは八年前です。当時某所に書いた文章を当ブログに転載し、リンクを貼り付けておきます。
幼児にパソコンって必要か? 2008/4/16
娘にケータイもたせたないねん 2007/7/7

以来、我が家の娘の念願は常に一つ。自由にスマホで連絡を取り合い、自由にスマホで写真をアップする。願いは単純明快、けれども大人の世界はフクザツ。

一昔前だと汝身の程を弁えよ、の一言で一蹴できたこの願い。年を追う毎に反論に工夫が必要になりつつあります。みんな持ってるもん!という定番セリフには、みんなって誰よ?10人挙げてみなさい!と伝家の宝刀を抜くだけで効果てきめん、途端に娘の言葉も尻つぼみでした。しかし、今は宝刀を抜いたが最後、その刃は振り上げた親を切りつけます。まあ携帯持ってる友達の名が出てくること出てくること。ことケータイ、スマホに関しては、みんなの定義を生半可な数字で設定してはいけません。せめて100人以上にセットしてようやく逃げ切れるぐらいの勢いでしょうか。次々出てくる名前の羅列にうろたえた経験のある親は、私だけではありますまい。

今や、スマホを持っていない児童は少数派になりつつあります。いくつか、最近の調査結果を見た感じでも、その感覚は裏付けられます。
スマートフォンを持っている小学生は、クラスに1人か2人 ライブドアニュースより
中高生対象「ICT利用実態調査」 ベネッセホールディングスより
上の記事は控えめな数字ですが、それでも小学生全体で3割。ということは高学年だともっと割合は高いということでしょう。下の資料でも中高生の利用実態が示されており、大変興味深い内容です。

我が家とて、決して娘にケータイを持たせていない訳ではありません。昨春より、娘達にキッズケータイを持たせました。それすらも、鉄砲玉のような次女を現世につなぎ止めて置くためのやむを得ぬ措置。決して世間の流れに逆らえなかったわけではありません。

しかし、その時から確信していました。キッズケータイの最低限の機能に甘んじるほど、娘たちは内向的でない、と。案の定でした。娘たちの要求は次々とステージを登り詰めようと試みます。しかも、3DS+Wi-Fi経由でのネット接続を許したのが失敗でした。3DSのブラウズ機能を舐めていたとしかいいようがありません。もう、勝手にYouTubeなど朝飯前です。本当に早起きして朝飯前に繋いでいるのだから始末に負えません。家屋内のルーターからしか認めていないため、まだしも通信内容をある程度管理はできているとはいえ、少しはネット接続を制限しなければ、と葛藤に逡巡を重ねる最近です。

もっとも私も娘のことは言えません。ファミコンを隠す親とそれを探し求める息子という構図は当事者として臨場感ありありで語れます。特に、家庭の医学のカバー裏に潜んだそれ、ゴミ箱の二重底に潜ったそれを見つけた時のカタルシスは、少年時代の歓喜の一瞬としてしっかり覚えています。我が家でも同じことをして2年以上隠した挙句、DSが一つ行方不明となったままです。おそらく我が家がある限り、家のどこかでスポットライトを浴びる日を待ち続けていることでしょう。隠す親と隠される子どもというゲーム感覚に溢れた駆け引きも面白いことは面白いですが、あえて建設的なやり方でネットとの触れ合いをさせたいなと思う最近です。子を持って初めて知る親心を会得した私。オホン。

我が家の長女の場合は、ネット上にイラストをアップするにあたってデジカメ経由だと面倒だから、という理由です。3DSだとイラストを撮影しても画質が悪く、アップしたイラストに物言いがついたのだとか。次女の場合は、友達と遊んでも、走り回る時間以外は、みんなスマホとにらめっこ。話題もスマホのことばかりでつまらない。ということです。

二人の言い分はよくわかります。かつて心配していたような懸念-対人コミュニケーション能力が未熟な大人となる-については二人には杞憂だと思います。今の二人にスマホを与えたところで、コミュ障の引きこもりに堕ちることはないでしょう。だから親である我々夫婦が世間の流れに巻かれ、スマホを与えてしまうことは決して敗北ではないのかもしれません。むしろ、今まで世間の流れによくぞ抗い続けたと拍手で迎えられるかもしれません。

しかし、あえてここで私は最後の抵抗を試みたい。親の意地ではありません。世間に対して駄々をこねる訳でもありません。私なりの理由があって、スマホを与えることを今一度見送ろうと思います。その替わりに、ノートPCを与えようと思います。個人毎にアカウントを作り、時間制限やインストール制限などのペアレンタルロックをかけた上で。

何故か。

まず、長女の言い分は、イラスト書きを生業とするのであれば、明らかに間違っていると云えます。イラストレーターが自作のイラストを撮影して納品?そんな納品形態が許される職業はイラストレーターではなく、画家でしょう。近い将来、いや今でもすでにイラストレーターの納品する媒体は、紙ではなく電子データが主流です。現時点でも100パーセント近いのではないでしょうか。百歩譲って看板に直接書いて納品物としたり、紙の直筆が求められたり、といった場合は電子データ以外の媒体もありです。しかしその他の用途で電子データが不要なイラストは私のアナログ脳では思い浮かびません。つまり、ファイル操作に慣れる必要があるということです。ファイルを保存し、メールに添付またはオンラインストレージに保存といったファイル操作です。そしてファイル操作は、今のウィンドウズやマックのファイルシステムが廃れたあとも当分ついて回るはずです。少なくとも長女が120歳まで現役イラストレーターであったとしても。スマホで撮って即投稿、確かに便利で手軽です。しかし、長女にはそういうスマホ依存症のような利用だけでなく、まずはPCの操作を学んで欲しいと思います。本当に人から望まれ、自分がアップしたい内容なら、デジカメ経由で何が悪い?

次に次女です。次女の社交能力はピカ一で、友人もすぐ作れます。それゆえに、スマホを持っておらず、友達との話に加われないのは可哀想だと思います。その点は理解してあげないと。そこで少し妥協点を探りたいと思います。与えたノートPC上での連絡手段を作ることを認めようと思います。例えばLINEやメールといった連絡手段をもちろん親の監視付きで。おそらく次女は不満に思うでしょう。実際数日前に話し合った際にも主張していました。外でネット出来なければ意味がない、と。次女の云う通りなのでしょう。残念ながら、友達みんながスマホとにらめっこしてしまうのは、どうしようもありません。私にもその状況を打開するいい案は思い浮かびません。しかし、これだけは云えます。スマホを与えても、友達と遊んでいる最中にスマホとにらめっこするくらいなら持たない方がまし、と。むしろ、スマホに夢中のみんなを振り向かせるくらい、もっともっと社交性に磨きをかけてもらいたい。スマホ不所持の減点を埋めるのではなく、持ち前の明るさに加点する。次女にはそうあって欲しいと願います。

これから娘たちが世の中を渡っていく上で、ITを使いこなすことは当たり前の必須項目となるでしょう。むしろ必要なのは、より進んだ知能にとって代わられるプログラミング能力よりも、実世界の営みとITを結びつける能力でしょう。しかしそれには実世界の営みについての深い洞察力が必要となります。高吸収材よりも知識吸収力の優れた今の時期に、スマホの扱い方を覚えることが、実世界の営みを理解することより優先されるとは到底思えません。スマホの使い方など大人になってからもすぐに覚えられます。だって今の我々もそうなんだし。


Emailの限界と次世代のコミュニケーション手段


日本年金機構の漏洩問題ですが、この件によって今までに表面化していなかった問題がクローズアップされました。

それは、メール経由のウィルスをウィルス除去ソフトが検知できなかった件です。以下のURLにもその旨が報道されています。
https://www.yomiuri.co.jp/national/20150603-OYT1T50036.html

実は数年前から、大手ウィルスソフト会社のスポークスマンの口から弱音が吐かれていました。「全てのウィルス検知はもう無理」と。
https://gigazine.net/news/20140507-antivirus-software-is-dead/

怪しいメールからの添付ファイルは開かないのは常識です(今回はその常識も通じなかったようですが・・・・)。ところが、もし知り合いがメールアカウントを乗っ取られた場合、我々はそのメールを安易に知り合いからのものと認識し、添付ファイルを開けてしまいます。そしてその添付ファイルが既知のウィルスソフトで検知できないものだったならば・・・我々にとっても今回の漏洩事案については、他人ごとではありません。ただでさえ真に迫ったメールが飛んでくる昨今ではなおさら。

もはやEmailのインフラとしての信頼性は揺らいでいるといっても過言ではないでしょう。先見の明を持つ企業は、だいぶ前からEmailの限界に気付いています。例えばサイボウズさんのNO-Emailワークスタイルなど。https://no-email.cybozu.co.jp/
実は私とサイボウズさんのご縁もこのキャンペーンから始まりました。当時もEmail排除の思いに強く共鳴した私ですが、残念ながら私の仕事からまだEmailは駆逐できていません。

今回の件で、日本年金機構の体制の緩みをあれこれ云う事は簡単です。が、そもそもウィルス検知が機能しなかったことにもっと論点が当たるべきと思います。そしてEmailというインフラから、次の世代のインフラへ。そのような議論が熱くならねば嘘です。

プライベートの会話市場はLINEが席巻しているわけですが、ビジネス向けのやりとりをセキュアに、しかも簡単にできる仕組みはまだ寡聞にして知りません。Emailの次を担うコミュニケーション手段はグループウェアに相当するのでしょうが、One Stepで繋がりまで行けないのが難しいところです。

例えばですが、ログインやつながりの仕組みはLINEのようにし、やりとりの部分をメールソフトのインターフェースと同様にしたらどうでしょう。メールソフトのように時系列やスレッド単位、あとは相対する方とのやりとりのみ、グループのみのやりとりのみ、といった複数の表示が切り替えられるソフト。この要件であれば充分ビジネスユースにも耐えうるものが出来る気がするのですが・・・

メールの信頼性が揺らいでいる今、日本年金機構だけに限らずメール代替手段への機運が盛り上がるべきでしょう。

というエントリーを昨夜アップしようとしたらPCが固まってしまい、アップが遅れてしまいました。その間、日本年金機構はメールの使用を当分辞めるという発表を行い、それを受けて虚構新聞が狼煙という秀逸な記事をアップしました。が、未だウィルスの正体や突破されたウィルス検知ソフトは明かされずじまいです。


大阪都構想について


明日に迫った大阪都構想についての住民投票。
賛成、反対の両論共に白熱しているようです。

のっけから結論を述べます。
橋下さんは、どちらの結果になっても政治から離れないでほしい。
これです。

私は、今でこそ東京に住んで15年になりますが、乳児の頃から兵庫県西宮市で育った阪神男児です。阪神・淡路大震災後は家が全壊し、通っていた関西大学に程近い吹田市に引っ越し、大阪府民としても一年半ほど実績を積みました。また、ほんのいっときですが、某社で飛び込み営業を経験し、大阪市城東区、寝屋川市、大東市、岸和田市、藤井寺市の住宅を訪問しまくったこともあります。

だいぶ関西弁が抜けてきた私ですが、故郷愛を失ったことは1日たりともありません。大阪が好きです。頑張って欲しいです。かつて天下の台所として繁栄した大阪がこれ以上衰退する姿は見たくありません。昼に夜にラッシュの中都心に通い、東京一極集中の現実に身をもって浸っているとなおさらそう思います。日本のためにも、大阪には東京に引けをとらないだけの活気を持ち続けて欲しい。そう思っている阪神男児、浪花男児、摂州男児はいっぱいいるはずです。

とはいえ、維新の会の都構想を遂行しても大阪に活気がよみがえる確証はありません。同様に、都構想反対派の主張からは今後の大阪の活性化ビジョンが全く見えません。どちらの案に票を投じても、今後の大阪に光が見えないのは一緒のように思えます。

私としては、どちらが勝とうが、大阪に活気がよみがえればそれでええねん、という想いです。
都構想には、無駄を削減することによる効果と、利権の澱む市政へのショック療法の意義はあると思います。が、そのあとに、大阪をどう発展させるかが見えにくいです。橋下さんの著書にも目を通しましたが、まずは無駄を省く、この点に集中しているように思えます。当然ですわな。無駄をなくさずに改革などできっこないです。住民サービスの総量は、現在の大阪府・大阪市体制と大阪都・特別自治区体制で違いはありません、と謳っていますが、それ以上のことは現段階では言えないところがつらい。即効性のある大阪の浮揚策があれば、すでに誰かが試しているはずですし。

一方、橋下さんへの敵愾心の一徹だけで都構想に反対するような主張には賛成できません。もし、都構想に反対するのなら、都構想のデメリットをあげつらうだけでなく、説得力のある案をみせてくれないと。行政組織の無駄を削るという主張に反対するのであれば、ただでさえ無駄に見える行政組織の維持費を上回る改革案を示さないと所詮はアンチ橋下の衆としてみなされるだけです。

いずれにせよ、投票は明日です。しかも私には投票権はありません。地震リスク満載の混み混みの東京から、指を加えて結果を見守る他ありません。

ただ、これだけは言いたい。

どちらの結果になっても、橋下さんが言明しているように、政界からの引退はしてほしくありません。たとえ都構想が否決されたとしても、その後の市政が旧態依然の体たらくであれば、橋下さんには政界に留まってがみがみとプレッシャーをかけて欲しい。行政を組み換えず、今のままのやり方で大阪に活気がでる妙案がでない限りは。


「人と防災未来センター」を東京にもつくるべき


先週、4/26日に帰省した折、HAT神戸にある「人と防災未来センター」を訪問してきました。

のっけから結論をいうと、
「人と防災未来センター」を東京にもつくるべき。
これです。

さらに言えば、
特別企画展として催されていた「1.17 阪神・淡路大震災20年 伝えよう 未来へ 世界へ」も含めて東京での展示をお願いしたい。
これです。

このセンターの目的は、再び阪神・淡路大震災の被害を繰り返さぬため、後世に、未来に向けてメッセージを発信することにあると思います。確かに、阪神・淡路大震災の被災者にとり、遠い未来の阪神・淡路地域の防災を願うのは当然のことです。

しかし、それだけでよいのでしょうか。

私は、当センターの展示物の持つメッセージは、今の首都圏に住む人々にとってこそ切実に発信されるべきだと思うのです。江戸の昔から、東京には地震がつきもの。これは云うまでもありません。ここ150年に限っても安政江戸地震、関東大震災が発生しました。間隔から算出すると首都圏が大地震に襲われることは必至と言われています。

先日の東日本大震災では、首都圏も大きな揺れに襲われました。とはいえ、震源地は宮城県沖です。地震による直接の被害といってもお台場のビルが燃え、京葉工業地帯で爆発が起こったぐらいでした。首都圏に住まわれるほとんどの方にとって、地震の被害として記憶に残っているとすればなんでしょう。計画停電や電車遅延による心労、放射能汚染に対する恐れがせいぜいではないでしょうか。いづれも直接の地震被害ではありません。二次被害です。

しかし、このセンターの展示で阪神・淡路大震災の被害を見ると、東日本大震災で首都圏が被った地震による直接被害は、まったく過小なものであったと思わされます。そして、憂うべきなのは、そのことによって首都圏に住む方々が、地震への畏れを過小に認識し、それを定着させてしまったことでしょう。地震と言ってもたいしたことではない、という無意識の油断。このような油断が地震災害を広げることは云うまでもありません。当センターの目的は、そういった油断を諌め、将来の教訓とするためにこそあります。

なぜこのようなことを書くかというと、私自身、1.17と3.11の揺れをともに体験しているからです。といっても、1.17と3.11の揺れや建物被害の程度は比較にもなりません。町田で体験した3.11の震度五強の揺れは、1.17で体験した震度六強の揺れに比べても僅かなものでした。では、阪神・淡路大震災と同じ程度の揺れが首都圏を襲ったら何が起こるか。その被害の程度については私にも想像がつきません。相当な被害になる事は間違いないでしょう。私自身、あるいは命を落とすこともあるでしょう。

今回、初めて当センターを訪問し、そのことを強く感じたからこそ、自分への戒めとして本文を書くこととしました。

以下に、センターを訪問しての感想を述べていますが、結論は冒頭に書いた通りです。首都圏が阪神・淡路大震災と同じ揺れが起きたらどうなるか。そのことについて、首都圏の人はあまりに無関心です。首都移転の議論もすっかり下火となり、2020の東京オリンピックだけが先走っているように思えてなりません。私はそのことを強く危惧しています。少しでも多くの首都圏の方に、このセンターと同じような展示を見て頂きたい。

承知のとおり、今年は兵庫県南部地震、いわゆる阪神・淡路大震災が発生して20年の節目の年です。1/17には追悼行事の報道で、当時の記憶を新たにした方も多いのではないでしょうか。わたし自身、薄れる一方の記憶を呼び起こし、当日にこのような一文をしたためました。

人と防災未来センターでは、20年を総括する特別展が催されています。今回の帰省は高校時代の友人達に招かれたのですが、良い機会と捉え、まだ未訪問だった当センターに足を運びました。IMG_3532

ガラスで覆われた印象的な外観のセンターは、西館と東館に別れています。西館一階から入場した私は、エレベーターで四階に案内されました。四階から二階へと下り、一度降りると上階へは戻れないようになっています。

四階は震災追体験フロアと銘打たれています。案内されたのは、立ち席のシアター。シアターの入り口には震災追体験を望まれない方は三階へお進みくださいと看板が立てられています。この看板の意味するところは、シアターを体験すればすぐに分かります。

当センターの目的は、防災の精神を未来に伝える事と受け止めました。防災の精神は、単に写真や遺物や文章を眺めるだけでは養われません。揺れの凄まじさに堅牢な建造物がいとも簡単に破壊される都市直下型地震の恐怖。この恐怖が刷り込まれてこそ、防災の必要性に目覚める。私はこのシアターの意味をそう体験し、心に刻みました。

shockと名付けられたシアターは、不規則で大きな凹凸が覆われたスクリーンが立体的に設置されています。直角三角形の長辺を想像すると分かりやすいです。観客は、震動を体感できる台のような場所に立ちます。前面のシアターには地震の揺れの凄まじさが映り、フラッシュが幾度も鋭く明滅し、サラウンド音響がシアター内に轟き、足元は揺れます。揺れるといっても、震度七の揺れではありません。それでは観客は映像を体験するところではなくなってしまうでしょう。揺れは抑えられているとはいえ、凸凹スクリーンに映る揺れの映像は凄まじい出来です。正直言って、これCGですよね?現実の映像ではないですよね?と聞こうかと思った程です。野島断層が断裂する瞬間を、阪急伊丹駅が崩壊する刹那を、長田区の住宅が粉々になる過程を、センター街のアーケードか原型を失う一瞬を、阪神高速神戸線が倒壊する数秒を、明石の天文科学館が揺れに翻弄される様子を、走行中の阪神電車が脱線する衝撃を、これら揺れの瞬間を偶然納めたアマチュアカメラマンの映像が残っており、それが上映されたかのよう。そのくらいリアルな映像でした。 

起震車という車があります。機械の力で震度七が体験できるというものです。私も体験したことがあります。その揺れに比べたらこのシアターの揺れはそれほどのことはありません。あの日の朝、両手で家を捕まれてめちゃくちゃに振り回されたような感覚を知る私にすればシアターの揺れは遠く及びません。でも、映像のリアルさがあまりにも真に迫っているため、20年前の恐怖が呼び起こされたようです。小学生以下のお子さんだと泣くかもしれません。

揺れの衝撃を味わった我ら観客は、シアターの外へ誘われます。そして、そこで目にするのは、病院の待合室。強烈な揺れに翻弄され、様々なものが散乱した病院に迷いこみます。20年前の朝に引き戻されたような空間です。病院の一方の壁は大破し、5時46分の明け方の暗い空が見えます。外に出ると、崩落した家の瓦礫が道路を塞ぎ、傾いた電柱から垂れ下がった電線が頭上に迫ります。高架からは路盤が崩れ、ずり落ちた線路が。これらのリアルな等身大ジオラマが、あの朝の、辺りを満たす奇妙な静寂を思い起こさせます。

ずり落ちた線路を潜ると、大震災ホールへと続きます。このシアターには、光も揺れも音響もありません。語り手は地震当時15歳の女性。激震により家は大破し、瓦礫の中に生き埋めとなるも、火の迫るなか、近隣の住民に助けられた経験を語ります。隣の部屋にいた姉は、「いいから、早よ行き!」という言葉を残し、焼死します。彼女がそのあと体験した、不安と寒さ、避難所生活のストレス、救急物資のありがたみが語られます。町は徐々に復興していきますが、土地を離れた人、賑わいを取り戻せない商店街の寂れなどをへて、彼女は震災体験を活かし、看護師になります。

ブログにも書いたように、私自身、地震当日からしばらくの時期は生きるのに必死で、復興の様子や街並みの様子はあまり覚えていません。しかし、こうやってシアターの彼女の体験を追ううちに、20年経って忘れてしまったこと、20年の時間の中に封じ込めてしまったものが思い出されます。感動しました。小学生の姉妹を連れた家族連れも来ていましたが、最初のshockでは平気だったのに、こちらのシアターではずっとすすり泣きの声を上げていました。

最初のshockの入り口に、震災追体験を望まれない方は三階へお進みくださいとの看板のことを書きました。その意味がよくわかりました。人によってはこれらの展示は余りにも強く当時を思い出させます。PTSDの症状に襲われる可能性も否定できません。常連客が再度の追体験を省くためだけといった理由もあるのでしょうが、シアターの内容にショックを受ける人への配慮もありそうです。この二つの映像と等身大ジオラマにはそうさせるだけの力があります。

続いて下りのみのエスカレーターで三階に降ります。震災の記憶フロアと名付けられたここは被害と互助、復興についての場です。かなり濃密な空間となっています。正直すべての展示を見るには体力と気力がいります。一字一句くまなく追うことは断念しました。でも、鷹取商店街の高熱でぐにゃぐにゃに溶けたアーケードの残骸や、揺れによってひどく歪んだ側溝の蓋など、印象に残る展示物も多かったです。様々な方の震災体験が豊富に展示され、行政の動きやNPOの活動など、実に濃い空間です。NPOには私も関心を持っており、ことさらじっくりと拝見しました。阪神・淡路大震災の起きた平成七年が日本のNPO元年とも言われるぐらい、地震後のNPO活動には特筆すべきものがありました。こういった専門的なことも学べるのがこちらのフロアです。IMG_3534

続いて二階へと下りました。一度二階に下ると三階のフロアには戻れないため、三階は生半可な気持ちでは見て回れません。しかし、防災・減災体験フロアという名の二階フロアは、比較的子供向けのワークショップや体験的な展示物が多く、少し拍子抜けしました。とはいえ、日本各地のハザードマップを集めたコーナーや多数用意されたPCによる災害ページの閲覧コーナーなど、じっくり腰を据えると学ぶべき点は多いです。家庭に備蓄すべき防災グッズも数多く展示されており、首都圏の人にこそ見てもらいたいフロアといえるでしょう。

こちらのセンターは西館と東館に別れていると書きました。二階には渡り廊下が設けられていて、東館に渡ることができます。東館の展示は、根本の限られた地球の資源や環境の大切さを学べる展示となっています。そして特別展示の場所としても。常設展はどちらかというと子供向けの内容が多く、帰京の時間が迫っていた私は、じっくりと見て回りませんでした。でも、特別展示は別です。

「1.17 阪神・淡路大震災20年 伝えよう 未来へ 世界へ」と題された特別展はじっくりと見て回りました。手作り感あふれるボードに書かれた当日の被害やその後の復興が分かりやすくまとめられています。被災地の全ての家屋が白地図で貼りだされ、被害度に応じて色分けされています。被災して全壊認定を受けた私の実家も白地図でくっきりと示されており、色も塗られていました。しかしこうやって全体で見ると、我が家よりも重度の被害に遭った家屋の多さに言葉を失います。IMG_3550

こちらの特別展で首都圏の人々に特に見て欲しいのは、南海トラフ巨大地震や首都直下地震など将来発生する大規模災害についての展示です。首都圏に住む人々にはお馴染みの景色が手書きイラストで30枚近く展示されています。戸越銀座や三軒茶屋、押上やお台場、新宿や多摩センターといった景色の。あえてキャプションは付されていませんが、首都圏に住む人にとってはどこを描いたか想像の付くイラストです。これらのイラストは全てあるテーマを基に描かれています。それは、地震発生後の人々が避難する様子です。あえて建物は想像し易くするため原型のまま描かれていますが、そこに登場する人々の様子は切迫しています。普段住んでいる街が被災したとき、何が起こるか想像してみて欲しいというのがこの展示の主旨なのです。

しかし、私は展示を観ながら素朴な疑問を抱くに至りました。それは、阪神間に住む人々はこれらのイラストをみてどこか想像つくのだろうかというものです。さらには、果たしてこの展示を首都圏の方々が見ることはあるのだろうか、という展示自体への疑問にもつながります。

ここにきて、冒頭にもあげた結論に繋がる訳です。「特別企画展として催されていた「1.17 阪神・淡路大震災20年 伝えよう 未来へ 世界へ」も含めて東京での展示をお願いしたい。」という結論に。今のままではこの展示は首都圏のほとんどの人の眼に触れることなく、特別展示の期間が終われば破棄されてしまうでしょう。それはあまりにも惜しい。防災がいま日本でもっとも必要な都市はどこかといえば、東京を中心とした首都圏に他なりません。当センターの展示物をもっとも見るべき人々が住まう場所も同じです。なのに、それが首都圏の人々に届いていないもどかしさ。私が本文を書こうと思い立ったきっかけもまさにそこにあります。

 叶うならば、東京に地震が来ないで欲しい。でも、科学的見地から、東京が地震に襲われることは免れない。であれば、少しでも被害が減らせるような方策を取るしかない。そのためには、首都圏に住まう人々に少しでも当センターのことを知らせるような運動を起こさねば。そのような動機から、本文を書きました。願わくはこの文をきっかけとし、首都圏の方々が当センターの展示に関心を持って下さるように。

 そうでなければ、20年前に亡くなられた6434人の犠牲が活かされなくなってしまいます。


Groovesharkの終了について


本日、Groovesharkがサービスを停止しました。

今、Groovesharkのページに行くと、謝罪文が掲載されているのみです。

このニュースは今日のニュースサイトでも多数取り上げられました。

ITmedia
ALL DIGITAL MUSIC

 先日、当ページでは、Groovesharkのユーザーインターフェース一新のお知らせを受け、Groovesharkのサービスについて紹介しました(該当記事)。そして、その中で当サービスを持ち上げる書き込みを行いました。そのことについて、お詫びしたいと思います。

Groovesharkのサービスについては、利用していた当初から、法廷闘争が繰り広げられていることも知っていました。が、Grooveshark側の言い分であるこの記事を信じ、サービスを利用し続けてきました。しかし、この度、法律的な合意が出来ず、サービス停止という事態に直面しました。記事をアップした当時、Groovesharkが法律に違反していた明白な事実は立証されていませんでした。とはいえ結果として訴訟を起こされるようなサービスを推奨していたことは否定できません。

このことについて、謝りたいと思います。そして私自身の戒めとして、該当記事と当記事は消去せずに残しておくつもりです。実に残念ですが、本件については真摯に反省したいと思います。


日本の音楽ビジネスの転換期がきている


Groovesharkという音楽ストリーミングサービスがあります。オンライン上のストリーミングをフリーで提供し、様々なジャンルのオンラインラジオを運営しています。

こちらが、先週、インターフェースの装いを一新しました。曲やアーチストがタイムラインに表示され、それらをフェイバリットした人々のリストが脇にならんだデザインに変わりました。よりソーシャルメディアへの接近を図ったかのように思えます。

今までのGroovesharkは、無料で音楽聞き放題のサービスとして、個人的にかなり重宝していました。一時は千枚以上買い溜めたCDを処分しようかと迷ったくらい、Groovesharkの登場には衝撃をうけました。

Groovesharkの利点は、壁一面を埋めるCDスペースを失くせるだけではありません。視聴履歴から割り出した好みのジャンルのお薦めアーチストも表示してくれるので、私を潤す音楽の幅も拡げてくれます。こういった優れたサービスが無料かつ合法で手に入る時代に感謝です。

Groovesharkには好きな曲を並べてリスト化する機能もあります。カセットテープにお世話になった方は、自分のオリジナルベストをCDやLPからカセットに録音した経験がおありでしょう。それがブラウザ上で簡単にできることに、私はただただ感動しました。

感動しただけでなく、勢いに任せてすきな60~00年代の洋楽百曲をリストにしてしまいました。10曲ずつのリストを10個のリストに。それを作ったのは今から一年半前になります。

今回のインターフェース一新を受け、早速リストを聴きながら仕事しようとしたところ、残念なことに気づきました。10曲入っているはずのリストに5曲しかありません。リストによっては6曲残っているものもありますが、ほとんどが5曲に減らされています。

以前にもジョン・レノンのwomanがいきなり消えたことがありました。が、今回の消去量は半端ではなくサービスの根幹にも関わりかねない部分です。もちろん利用規約 https://www.grooveshark.com/terms の Storage and Limitsの章で運営会社の単独の裁量で特定の機能やサービスに制限を課すことを認めると記載されています。推測するに、レコード会社との契約上で問題がある曲やアーチストは今回のインターフェース一新のタイミングで軒並消されたということでしょう。こちらも無料で利用させてもらっている以上は、どうこういう筋合いはありません。が、なんらかの通知をリスト呼び出し時に出来ないものかと思います。これは要望としてあげてみようかと思います。

さて、要望はさておき、Groovesharkには邦楽の音源がほとんど収められていません。よく知られているとおり日本の音楽流通の商慣習はかなり特殊であるといわれ、ガラパゴス業界の好例としてよく槍玉に挙げられます。海外ではストリーミングサービスによる売り上げがCDのそれを上回ったとのニュースも配信されています。が、日本にはほとんどのストリーミングサービスが上陸を目前にして何かに阻まれています。有名どころではGoogleやAmazon、Spotify、Apple、Deezer、Beats Musicなどが挙げられます。

日本の音楽市場はパイが大きいです。それだけに云い方は悪いですが、既得権益を守るための抵抗も強いのでしょう。ビジネスである以上それは当然の判断です。とはいえ、メディア販売による音楽の売上はとっくに飽和しています。先日もオリコンの集計対象からチケット付CDが除外されるとのニュースが流れたばかりです。握手券付CDについても除外は時間の問題でしょう。問題はそうでもしなければ売れないメディアになってきているのです。CDは。

アーチストにとってみれば、デジタルの力に頼らないライブなどの場に活動の場を広げるほかないでしょう。先日も娘がOne Directionのコンサートに行きましたが、会場内では音源や映像の録音は全てし放題だったようです。もはや海外のアーチストにとって、データの二次利用、三次利用は当たり前になってきており、それを制限しようとする行為が無駄な事も熟知していると思われます。上に描いたGroovesharkへの音源供給の中止も、単なる拒絶ではなく、他の媒体への提供などマーケティング効果を考えてのことではないかと思います。昨年、U2の新譜がiTunesに一方的に無料配信され、音楽業界に衝撃を与えたことは記憶に新しいです。私もすぐに入手し、内容にも衝撃を受けたことを思い出します。

海外流のやり方が全て正しいとは思いませんが、そろそろ日本の音楽シーンも演奏技術、歌のうまさMCや演出の素晴らしさといった、ライブでこそ集客できるアーチストの時代が来るような気がしてなりません。海外ではGrateful Deadがマーケティングに長けたバンドとして有名です。日本でも永ちゃんこと矢沢永吉が先駆者といえるでしょうが、他のアーチストの意識も変わっていくのではないかと思います。

まずはストリーミングの扱いをどうするか。日本の音楽業界の転換点が、この点に対する対応を注視することで目撃できるのではないかと思っています。


未成年の実名報道について


痛ましい川崎の事件。こういった事件が起きる度に俎上に載せられるのが、少年法です。

私が少年法について常々思っていたこと、抱いていた迷い。それらを長谷川さんが文章に著して下さいました。

長谷川さんのブログはよく拝見しています。ほとんどのブログについて、書かれている主旨の大枠に共感できます。ただ、細かい表現の切れ味や深さが私の思いと一致しない時がありました。

しかし、今回書かれていた内容は私の思いにぴたりとはまりました。少年法への期待と諦めに揺れる心境も的確に表現されておりさすがです。思うに、私の親としての視点が一致したのかもしれません。

とくに、ネットを介した発言がこれだけ溢れている今、少年法による保護は無意味との論旨は、我が意を得た思いです。同様の論旨は木走さんのブログでも取り上げられていて、この点について法曹界の方々はどう思うのか、気になります。さっそく日弁連が遺憾の意を表明したようですが、遺憾の意ではなく行動にでなければ世に溢れる情報はせき止められません。

私見ですが、少年法をあくまで遵法させるのであれば、少年法を改正する必要があるでしょう。今の少年法の第六十一条は以下のようになっています。

   第四章 雑則

(記事等の掲載の禁止)
第六十一条  家庭裁判所の審判に付された少年又は少年のとき犯した罪により公訴を提起された者については、氏名、年齢、職業、住居、容ぼう等によりその者が当該事件の本人であることを推知することができるような記事又は写真を新聞紙その他の出版物に掲載してはならない。

 書かれているとおり、定義されている処罰対象はマスコミだけです。今の時代、マスコミだけでは不足なことは云うまでもありません。中でもアマチュアジャーナリスト。ツイッターやブログを駆使し、社会に対するゲリラ報道を繰り返すプロのマスコミでない人々。その膨大な書き込みを徹底的に監視するしかないでしょうね。もちろん刑事罰付きで。それが果たしてやりきれるかどうか。

あと、もう一つ思ったことがあります。それは、子を持つ親の覚悟が問われる、ということです。今回の川崎の事件、主犯とされる本人だけでなく、家や両親、祖父母の情報まで、ネット上に流され、晒されているとか。

子を持つ身として、我が子が仮に重大犯罪を犯したとすればどうなるか。今の少年法に謳われる情報保護の壁が取っ払われれば、親の生活も晒され、あげつらわれ、築いてきた人生も炎上すること間違いなしです。焼かれるのは火葬場で一度きりで充分。大多数の親はそう思っているのではないでしょうか。

私も含め、親である皆さんが子に対し普段どれだけ注意を払い、親として子に向き合えているか。これからはその成果が、今以上に問われます。

仕事にかまけて夜の子どもとの会話を怠ることなかれ。
給油と称して毎晩酩酊状態で帰宅することなかれ。
付き合いの名の下に、毎週末フェアウェイで芝刈ることなかれ。

子どもは親が思う以上に、親を見て育っていきます。親が自分を向いていないと感じたが最後、子どもの関心は外に向かいます。外では夜な夜な悪いスリルに身を任せる仲間達とつるむこともあるでしょう。そこからさらに取り返しの付かない末路へ進まないとも限りません。忙しさを理由に構えなかった子どもの不始末が、まっとうな社会生活や生業を親から奪う。今までにそんなニュースを何度見たことか。

少年法が改正された暁には、子どもを持つ親は上に挙げたようなリスクにさらされます。そんなことも、頭の片隅におくべきでしょう。

私自身、今の生活を鑑み、肝に銘じ襟を正して子どもたちと向き合いたいと思います。少年法改正に賛成する以上は。


労働問題について


安部内閣が、ホワイトカラーエグゼンプション導入を再び打ちだしてからというもの、労働問題があちこちで再燃しているように思えます。日々、労働問題に関する記事をどこかで見かけます。

今日もBLOGOSにて以下のような記事がアップされていました。
https://blogos.com/outline/106995/

内容は退職強要とも取れる内容です。日本IBM社から退職を強要された方が上司の方とのやりとりを録音し、その一部を文章化したものです。やりとりとしては強要と受け取られても仕方ないと思います。が、おそらくはこのご時世、もっとひどい形の解雇通告も行われていることでしょう。ここに出されているのは、別室に呼ばれて個別に言われるだけまだましと思います。

ホワイトカラーエグゼンプションなど、経営側の理論であることはいうまでもありません。おそらくはこの導入を契機として、次々に労働者への束縛、あるいは低賃金化が進んでいくのではないかと思います。

私も雇われる側としての立場、雇う側としての立場も経験があります。どちらの意見も立場があるのは分かります。社保の負担、福利厚生負担も相当な額が必要で、簡単に賃上げに踏み切れない気持ちも分かります。最初から社員の労力を絞り上げることを前提として収支計画を立てる場合は別ですが。

とはいえ、労働者の立場としては、折角の人生、気持ち良い労働をして過ごしたいですよね。家族のために誇りを持って働く。これはすごく大事なことだと思います。

そんなふうに思っていても、冒頭に紹介したような事例の通り、いつ何時、馘首の憂き目にあうか分かりません。私も20代前半の頃、朝礼の場で馘首宣告を受けたことがあります。あれはやはりショックなものです。人よりものんきな私でもそうだったのですから、大抵の方にとっては世界が音を立てて崩れる、そんな思いもすることでしょう。

しかし、まだ我が国の求人状況が改善する兆しは見えません。景気は好転の兆しも見え始めているようですが、企業が雇用に積極的でないことに変わりはありません。海外のほうが人件費が安く、IT化の進展で人件費の切り詰めはまだまだ可能です。おそらくは今後、首切りも普通に行われていくことになるでしょう。我が国でも。

そのためには、いつ馘首宣告を受けても、動じない心と経済の準備をしておいたほうがよいのかもしれません。また、普段から身を立てる技術は身に付けておいたほうがよいでしょうね。料理や運転など、事務仕事や営業仕事の合間にも、目の前には世界が広がっています。

スマホでゲームをやる時間があれば、やれることは沢山あると思います。再就職が厳しく心が折れそうなときでも、色んな方と普段から接する癖をつけておくだけで、思わぬご縁から次の人生が開けないともかぎりません。

要はいつ首になっても自分と家族の生活は守る。その覚悟だけは身にまとっておくことです。これからは労働者にとっても安泰な時代ではありません。

私にとっても同じです。これから経営者となるにあたって、この労働状況は逆にチャンスです。長時間勤務ではなく、短時間集中型で、やりがいも得られるような会社作りを目指していきたいと思います。


中東国家と日本の関係をエネルギーの観点から考える


ISISの残虐な所業から時間が経ち、議論が百出しています。 後藤さんの行動に対する失礼極まりない誹謗中傷から、ジャーナリズムの有り方についての意見まで。安部首相の行動から、外交の問題や自己責任論に踏み込む意見まで。

読むに耐えない意見も多い中、参考になる意見や、唸らされる卓見にも出会いました。でも、皆さんの議論にあまり出てこなかった観点があります。

それはエネルギー、資源からの観点です。

ISISは国際社会では無視されているとはいえ、国を名乗っています。国を名乗る以上、内部で経済が機能しているはずです。彼らの外貨獲得の手段として産油があります。しかし昨年、産油施設が奪回されました。そして産油施設をISISから奪回する試みは今も続き、効果を上げているとのことです。記事

産油施設を失ったことで経済的に困窮したISISが誘拐ビジネスを再び活発化させ、その刃が湯川さん後藤さんに及んだという憶測も成り立ちます。

また、お二人の殺害は、安部首相の中東での演説がトリガーとなったとの批判を目にします。1月16日からの安部首相によるエジプト、ヨルダン、イスラエル、パレスチナ自治政府への歴訪の目的は何だったのでしょうか。私は、産油国との関係強化を目指したものではなかったかと思っています。歴訪国は主要な産油国ではありません。また、演説でも石油について言及した訳でもありません。それでも、中東各国と日本のパイプを深め、産油国との関係強化に結び付ける。そのような目的があったのではないかと思います。演説の中でISISと戦う諸国へ資金を提供する意思を示したのも、中東での日本の存在感を明らかにするため、旗幟を鮮明にする意図があったのではないでしょうか。

先の東日本大震災で、我が国の原子力発電は致命的なダメージを蒙りました。もはや原発推進派の挽回の努力は実ることはないでしょう。そのぐらい、深刻なダメージでした。その一方、地震直後に計画停電が実施された際は節電の機運が高まりましたが、それもいつしか喉元を過ぎ、街中では煌々と明かりが照っています。そして日本の燃料輸入費は高騰を続け、ただでさえ赤字の日本経済に大きな影響を与えています。記事

依然として原子力・火力に変わる大規模な効率的な発電方法の実用化の目途は立っていません。次世代の有力なエネルギー源として脚光を浴びたシェールガスも年初にアメリカの大手企業が倒産(記事)するなど安定しません。そのような現状を考えると、我が国としては中東との関係を太くせねばなりません。安部首相の中東歴訪と演説にはこのような意図が込められていたのではないかと思います。そしてISISとの関係もエネルギー資源の状況によって揺れ動きます。資源貧国である我が国にとって、中東の国家との関係はいまや無視できないものとなっています。

中東との関係に関して、政治や外交、貿易の現場を知らない我々が出来ることはあまりありません。しかし2つほど挙げることはできます。1つ目は中東諸国の文化を理解することです。先日、イスラム教に対する理解を深めなければという意見を書きました。2つ目は、エネルギー依存を抑えるために、東日本大震災直後のように一過性のものでなく、長期的な節電の意識を高めることです。日本の夜は明るすぎます。街中の煌めく明りを何とかするだけで、我々が国に対して貢献できることは多いのではないかと思います。もうちょっと光量を抑えてもなんとかなる。そのことを東日本大震災後の日々で学んだはずです。今の街を照らす光は明らかに過剰です。

安部首相の行動を批判する前に、ISISに対して批難を行う前に、後藤さんのご遺族に対して中傷を加える前に、こういった少しの努力が必要ではないかと思いました。もちろんそれはITで生活の糧を得る私自身にも言えることです。


イスラム教に対する理解を深めなければ


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 これは、一昨年の秋口に、代々木上原にある東京ジャーミイで頂いたものです。合間をみて少しずつ目を通していましたが、今はこの本をもう少し読み込む必要を感じています。

 今回のISISによる一連の蛮行を非難します。非難すべきだし、宗教や文化の違いを考えた上でもなお、理解も同情の余地もありません。

 安部首相の演説がISISの凶行の引き金になったことは否めませんが、安部首相は悪くないです。今後も事態収拾に向けた最善を尽くして頂きたいと思っています。

 同様に悪くないと思うのが、イスラム教及び敬虔なイスラム教の信者の皆さんです。ISISの行為は、宗教に関係なく、蛮行だと思います。イスラム教の教えに関係なく。しかし、イスラム教に対する我が国の眼が偏らないか、心配です。日本とは風土・文化の違う地で生まれた宗教は、頭での理解すら難しいところがあります。軽はずみな判断で蔑視したり排斥することのないよう、イスラム教についての理解を深めなければならないと思いました。今までは遠く離れた砂漠地帯の出来事で済ませることができましたが、今後はそうは言ってられないでしょう。

 東京ジャーミイさんにお邪魔した際も、心の底からの理解には至りませんでしたが、宗教施設としての静謐な世界観は感じ取ることができました。私の宗教観は、アニミズムに近い、森羅万象すべてに神が宿るというものです。大多数の日本人と同じ、神仏が混在した、日常の文化面での伝統的な宗教観に影響されたものです。特定の宗教には入信していませんし、今後もするつもりはありません。オウム真理教のように一般人の生命を危機にさらさないかぎりは、その教えを否定も肯定もしません。しかし、イスラム教については、理解がほとんど及んでいないことを告白せざるをえません。今までは、学術的な側面から、神道や仏教、キリスト教には興味を持っていました。それと同じレベルで、日本の風土や文化から遠く隔たったイスラム教についても最低限の理解は持っておかねば、という思いを抱きました。

 今回のお二方は、日本人でした。お二方以外にもISISに拉致された方は多数いらっしゃるとか。ISISに関係なく、アフリカでも東欧でも、沢山の悲劇が今この瞬間に繰り返されています。情報がこれだけ大量に流れ込む時代、勤勉多忙な国民の一員としては、全ての悲劇に対して関心を抱く時間もないのが現状です。

 しかし、これからの日本と日本を取り巻く環境を考える上で、イスラム教について、今までのように無知なままで済ませるのはまずい。後藤さんの殺害写真を見て、そのように思いました。日本において過去現在未来に起こった猟奇事件の数々。ああいった惨劇と同じ違和感を、今回のISISの凶行から感じ取りました。個人の凶行についてはまだ司法の対策で何とかなるかもしれません。しかし相手は少なくとも自称で国を名乗り、ある程度の占領地域を持っている集団です。

 重ねて言いますが、イスラム教に対する無知はまずいと思わざるをえません。甘言に乗ってISISに旅立つ若者を増やさぬためにも。


あの日から20年


 午前5時46分。巨大な両手で家を捕まれ、前後左右に強く振り回されました。以来20年が経ちましたが、あの朝味わった揺れの強烈さは感覚の底に未だにこびりついています。その揺れは、何千人もの人々の命を奪い、私の家族をはじめ、何十万もの人々から家や想い出を奪いました。兵庫県南部地震、いわゆる阪神・淡路大震災です。1/17が来るたび、この日の思い出が蘇ります。

 幸いなことに私は怪我もなく、阪神間に住んでいた親族も無事でした。しかし、野島断層に生じたずれと、そこから弾けた衝撃波は、私の家と、その後の人生をも大きく揺さぶりました。私にとって生涯忘れることのできない揺れです。とはいえ、20年とは赤子が成人に育つだけの年月です。当時を振り返ろうにも、私の脳裏からはかなりの記憶が失われてしまいました。しかし、記憶に積もった埃を払うには、今が最後の機会かもしれません。大学3回生の、挫折を知らぬ太平楽な青年も、20年の年月が経てば、上京し結婚し2児の父となり、それなりに生きる苦みと素晴らしさを思い知ります。今年に入り、本ブログを本格的に活用しようと決めました。決めた以上は、20年の節目を指をくわえて見過ごすわけにはいきません。払った埃がまだ空中に舞っている間に、思い出せる限り当時のことを書いてみようと思います。私が経験したこと、思ったこと。地震が日本に与えた影響について。両親から当時の写真をデータで頂いたので、写真付で綴ってみようと思います。

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 まずは前日。平成7年1月16日に記憶を巻き戻してみます。

 その日、私は明石に住む友人と会っていました。高校、大学と窓を同じくし、共に過ごした気の置けない友人です。その日何をしていたかは、もはや記憶の藪の中です。彼とは大学は同じでも学部が違っていたので、1月17日から始まる予定の期末試験の相談をしていたとも思えません。おそらくは二人でよくスキー旅行に出かけていたので、季節柄スキーの計画を立てていたのでしょう。

 夕方、明石の彼の家を出た私は、車で西宮の実家に戻りました。その時、何を思ったか、直線コースの2号線、43号線を使わず、長田辺りから山手幹線を通って帰りました。長田といえば翌朝の震度7の揺れとその後の火災旋風でかなりの被害が出た場所です。翌朝にそこが焼野原になることなど知る由もなく、ましてや再び明石に救援に戻ることなど思いのほかでした。予知能力などといった高尚な能力は持ち合わせませんが、偶然の暗合として、未だに思いだすエピソードです。

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 そして当日。平成7年1月17日。午前5時46分。

 当時も今も、私の実家は甲子園の某所にあります。今の家は、地震で全壊した旧宅を更地化し、そこから両親の力で建て直したものです。その朝、2階建て木造一軒家の我が家は震度6の揺れに激しく震えました。築30年の風雪に耐え、あちこちで古びつつあった我が家は、私が幼稚園生の頃に前の持ち主から買い受けた家です。前の持ち主の調度や壁紙、扉などかなり凝っており、建売住宅とは一線を画した造作になっていました。その家の2階の1室が私の部屋でした。部屋の押し入れを寝室として使っており、凄まじい揺れも押し入れで体感しました。気楽な大学生にとって朝の5時46分は深夜も深夜。熟睡中でした。そんな中、ものすごい揺さ振りです。それを夢うつつの中で感じ、起きたのは揺れが収まってからです。でも、巨大な手によって掴まれた家が、強烈に揺さぶられる感覚は、未だに拭い去ることができません。

 襖で隔てられた隣の部屋は家族がクローゼットとして使っていました。丁度その瞬間、早朝からのゴルフの支度に余念のない父に、強烈な揺れで崩れたタンスが襲いかかりました。危うくタンスに命を奪われかけた父ですが、なんとか急所を外し、私の安否を尋ねてくれました。それで私もはっきりと覚醒しました。しかし私の部屋は、多数の本が散らばり、床は一面本の海。しかも、眼鏡が地震の揺れで行方不明となり、探すのに難儀しました。揺れが収まった直後の奇妙な静寂と、やがて近所から聞こえてくる泣き声。何か大変なことが起こったことを、その静寂が教えてくれました。

 1階に寝ていた母と2階の別の部屋で寝ていた弟は無事でした。1階に集合し、まずラジオを点けました。ラジオが伝える報道では、震源地は明石海峡付近であるとのこと。明石には父の両親が住んでいます。しかも住まっている家は戦前から変わらぬ佇まい。リフォーム知らずの老朽度は、かなりの年季入りです。震源地を間近にし、80代の老夫婦がそのような家に住んでいたら、何が起こるか。

 混乱覚めやらぬ中、確か私から父に申し出たように覚えています。「明石に行ってくる」と。父からは瞬時の逡巡の後、「よし、行ってきてくれ」との返事がありました。かくて、震災の朝、私の明石への救出行は始まりました。車を駆って震災の混乱の中、西宮から明石へ。もちろん、何の準備も情報もありません。あるのはただただ無鉄砲な祖父母を案ずる思いだけでした。私が家を出たのは、確か朝の6時半頃だったように思います。

 家の近くを走る国道2号線。まずここまで出ました。車の量は少ないとはいえ、信号が全く作動していません。作動していない信号を、注意深く何度も横切ります。行き交う車がお互い注意し合えれば、何とか通行できる程度の交通量でした。私は車を西へ西へと運転します。しかしその運転も長くは続きませんでした。2号線と171号線が交差する札場辻交差点。ここから車が動かなくなり、進む様子を見せません。私はここで車の向きを変える決断を下しました。すなわち、北へ。171号線から、市立体育館の横を抜け、廣田神社の参道を通ります。道すがら見た街の様子は一変していました。一方通行を逆走した記憶もあります。崩れた土砂の上を渡ったような記憶もあります、が、そのほかの風景はあまり覚えていません。それだけ運転に必死だったのでしょう。目指すは盤滝トンネル。西宮の北部から山道を越え、有馬温泉から六甲の北を回って明石に抜けるルートです。高校時代の友人の家が岡場にあり、当時よく遊びに行っていたので地理勘もあります。

 ところが、この道が大変な難所でした。西宮市街地から船坂地区へは盤滝トンネルをくぐります。震災の数年前に開通した盤滝トンネルへの道は、甲山の脇を抜け、六甲山最高峰への道に重なります。ところがその朝、盤滝トンネルは地震の影響で閉鎖されていました。ここで私は再度決断を下します。盤滝トンネルが開通するまで、船坂地区と西宮市街地を結ぶ唯一の道だった、小笠峠を越えるルートに車を進めました。やむを得ない決断とはいえ、真冬の早朝、道は凍結しています。さほど広くない道には地割れや落石が頻発し、道路のあちこちを塞いでいます。落石と言っても小さい物から、軽トラックほどの大きさの岩まで様々な障害物が転がっています。万が一、上から落ち掛かられたら命はありません。凍結と地割れと落石をどうやってやり過ごしたのか、全く記憶にありませんが、なんとか峠を越えて船坂地区へ。そこからは比較的被害が少ないように見える道を、順調に明石へと向かいます。船坂からは金仙寺湖、流通センター、岡場と過ぎ、押部谷へと至ります。この間、北側の八多、淡河を通るルートと、南側の神戸電鉄有馬線沿いのルートがありますが、どちらを通ったのか、全く覚えていません。思いはただ、西へ、明石へ。

 押部谷に着きさえすれば、あとは明石までは南下するだけです。明石までどのようなルートを辿ったのか覚えがありませんが、側溝に横転してはまり込んだ軽自動車や、神戸方面の空が妙に赤かったことは記憶にあります。よく、戦災体験の手記を読むと、彼方の空が赤く底光りしていた、といった記述を見かけます。まさにそのような空の色だったように思います。といっても視覚イメージは私の脳裏から失われてしまい、その時にそう思った思考の残滓だけがいつまでも焼き付いているだけですが。20年の月日が記憶を風化させてしまいました。

 明石の祖父母の家は、到着前に抱いていた暗い予想を裏切り、祖父母とともに無事でした。室内の物が雪崩れたとはいえ、拍子抜けするほどに被害がありませんでした。これは後学ですが、野島断層からの亀裂は真っ直ぐ東の神戸方向に伸びました。そのため、天文科学館のすぐ裏手だった祖父母の家はさほど揺れず、被害が最小限に抑えられたのかもしれません。片づけを手伝おうにも切迫した危機も、近隣の住宅が崩れたといったこともありませんでした。すると今度は西宮の家が心配になります。なので、あまり明石の祖父母宅に長居せず、再び来た道を戻ることにしました。電話はもちろん不通で、携帯電話もない時代です。全ては自分の判断が頼りでした。

 途中、腹ごしらえに神戸学院大近くのローソンに寄りました。店内の商品はきれいになくなっていました。道中、何を食べたのか覚えていません。ローソンでわずかに売れ残っていた食料を買ったのか、お菓子を買ったのか。時刻は昼ごろだったと思いますが、災害時の買い占めといった事態に初めて出会いました。その前に通りがかった明舞団地あたりでは、ガス漏れの匂いがあたりに立ち込めていたことも思い出されます。でも、総じて、明石近辺の被害は、第一報の印象よりもはるかに僅少でした。そしてその頃には、大震災の被害状況が少しずつ私の耳に入ってきていました。

 その朝、私が運転中にずっと聞いていたのはラジオ関西でした。普段はAMラジオなどめったに聞くことのなかった私ですが、道中、ひたすらラジオ関西の報道だけが頼りでした。後日、ラジオ関西は震災当日とその後の一連の報道によって、賞を受けたとか。それも然りと思わせるほど、冷静で感情を抑えたCM抜きの報道にどれだけ救われたことか。感謝の気持ちただそれだけです。

 ラジオ関西からの情報により、一番ひどい被害が須磨区から長田区、兵庫区、中央区と東に向かって帯状の地帯に集中していることを知りました。であれば、昨夕通った2号線と43号線ルートは使えません。行きと同じく、六甲の北を回るルートで帰りました。行きのルートもあまり記憶にありませんが、帰りのルートもほとんど記憶に残っていません。ただ、早朝に命からがら峠越えした小笠峠のルートは通らず、176号線を宝塚まで出て、そこから武庫川沿いに南下したことは覚えています。

 家に帰ると、すでに辺りは夕闇でした。電気・ガス・水道はもちろん通じません。ガラス窓も大方割れてしまい、床も散々な有様でしたが、私が明石へと往復している間に、家族が応急処置をしてくれたのでしょう。家族4人、無事に夜を迎えることができました。といっても、帰宅してからの記憶は殆どありません。どこで寝たのかも、家族4人が一緒の部屋で寝たのかも忘却の中です。ただ、この日は期末試験で、どうせ試験も中止、と決めつけたような記憶はあります。電話も使えず、せっかく明石に行ってきたのに、その前日に会ったばかりの友人の安否も知らず、我が家の安否すら誰にも教えられぬまま、不安の夜を過ごしました。

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 1月18日から、2月初めの吹田への引っ越しまでの間。

 震災翌日から、私は色々と動きました。西宮市役所へ被災届を出しに行ったのも私。西宮市役所の職員の方が充血した目と無精ひげのまま応対して下さったこと、未だによく覚えています。顔すらぼんやりと思いだせるほどに。父が公務員であったにもかかわらず、偏った世間知らずの学生知識で、公務員は楽な仕事といった少しの偏見を持っていました。が、この職員の姿を見てから、そのような誤った考えは私から消えました。直接に助けられる機会はありませんでしたが、自衛隊に対する考えが一変したのもこの時からです。国防は脇に置くとしても、災害時の救助活動で自衛隊の活躍に及ぶ物はない、という考えに。また、これを書いている震災20年を迎えた今、仕事の法人化準備を進めているのですが、その中でNPOについても勉強しています。NPOの意義が世間に遍く行き渡ったのも、阪神・淡路大震災であること。これも学んだことの一つです。

 もう一つ忘れられないのが、先輩からの届け物です。これは確か震災翌日だったように思います。隣の尼崎に住んでいた大学の先輩が、自転車で食料を届けにきて下さいました。後日、様々な方から沢山の助けを頂きましたが、一番最初に手を差し伸べて下さったのがこの先輩です。震災の翌年には、職に就かずにいた私に芦屋市役所でのデータ入力の仕事を紹介し、私をITへの道に導いて下さりました。私にとって終生の恩人です。残念なことに、東日本大震災の数日前、逝去されました。2つの大地震の発生日に近づくと、この先輩のことを偲ばずにはいられません。

 混乱の中、市は僅かずつ、機能を取り戻しつつありました。ご担当者が早めに動いて下さり、我が家は全壊認定を受けました。赤紙です。強い余震でぺしゃんこになってしまう恐れがあります。なので、私以外の家族3人は、家から徒歩5分の自治会館で寝泊まりすることになりました。夜の留守番は私独りです。おのずと感覚も鋭敏になります。なんと、地震の揺れがくる数秒前に、地震を予知できるようになりました。1階の部屋で寝ていると地震が来るのがわかるのです。ゴゴゴゴゴ・・・と遠くから徐々に音が大きくなり、近づいてきたその音が寝床の真下に来ると、グラグラっと家が揺れます。この戦慄の感覚は今でも明確に脳裏にあります。しかし、地震が頻発する東京に住んで15年になりますが、この時に会得した地震予知能力は喪われてしまいました。残念です。地震直後の異常な状況が、私の感覚を研ぎ澄ましていたのでしょう。

一見するとあまり被害を受けていないように見えるが、全壊認定を受けた我が家。img034
門柱には亀裂が走り、塀は今にも倒れそうな状態。img035
一番被害が甚大だった浴室と洗面所。足を踏み入れることすらできない状態に。img036
水場は地震の被害に特に弱いことを痛感しました。img057
洗面所は、鏡が残って居なければ、何だったかすら定かではありません。img046
私の当時の部屋。大分片付けたのですが、地震直後は床が本で埋まりました。ゲルググやドダイのプラモデルが懐かしい。部屋の真ん中につるしていたハリセンボンが懐かしい。ペリー・ローダンの文庫本が懐かしい。KENWOODのミニコンポが懐かしい。各地で買い集めた通行手形が懐かしい。20年前の自分よ、私はこんなおじさんになりました。
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 家は全壊認定を受け、もはや壊すほかなくなりました。地震のため、大学の期末試験は代替レポート提出で免除されることになり、私は日々買い出しで尼崎や大阪まで出る日々が続きました。家のすぐそばを武庫川が流れているのですが、武庫川を渡ると、そこは全くの別世界。被害状況たるや西宮と尼崎では天地の開きがあります。阪急伊丹駅こそ全壊しましたが、西宮以西の惨状とは違う光景に戸惑いの日々でした。風呂に入れなかったので、高槻の親戚の家まで風呂を浴びさせにもらいにいったり、吹田の大学に行ったり。そんな中、家探しも並行して行っていました。それは専ら私の役目。私がお願いしたのは大学の友人達。大学が吹田にあり、私の友人たちが大阪府や奈良県に散らばっていたので、彼らに助けを乞い、めぼしい物件を探してもらいました。そしてはやくも2月の初めには、吹田市のめぼしい物件を契約できました。阪急千里線の南千里駅からすぐ、高級住宅地の一角にある家でした。この家を見つけてもらった友人とは、大学時代はよく会っていたにも関わらず、大学卒業後に連絡が途絶えてしまいました。以来20年、彼の消息は常に気に掛かっています。一度改めてお礼したいと願っているのですが。

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 家は地震から3か月半後、5月2日に、取り壊し始めました。昭和54年から住み始め、16年弱。この解体は父が見届けました。

手前にみえる部屋の壁は私の部屋の壁です。img060
手前にみえる部屋の壁は、地震の日の朝、父がタンスに襲われた部屋です。img078
近隣の家屋はほとんど全壊となり、時期を同じくして解体されました。
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 地震は、私の人生観を一変させました。人がいかに不安定な現実の上に依っているか。腹が据わったとも云えましょうか。冒頭にも書いたとおり、家族・親族こそ無事でしたが、私の知人で亡くなった方は何人もいます。九死に一生を得た知人もいます。恥ずかしい話ですが、この地震から初めて、自分の人生を生きねば、という自覚を持ったように思います。それまで順風満帆な21年間を生きてきた私が、初めて遭遇した異常時。それがこの地震でした。

 東日本大震災の際、世間が自粛モードに染まりつつある中、私は自粛の態度を取りませんでした。それはこの地震で被災者となった経験によるものです。災害に巻き込まれた当事者にとって、身の回りの世界の外に住む人が自粛していようがいまいが全く関わりのないことです。そんなことに気を回す間もないほど、身の回りのことだけで忙殺される。それが被災者です。自粛に意味があるとすれば、地震当日、私が聴き続けたラジオ関西のように、CMよりも役に立つ安否情報や被害情報を流す必要に迫られた場合です。こういう自粛は意味ある自粛です。

 写真というメディアの有効性は、地震から年を追うごとに私の中で高まりました。地震当日の貴重な記憶が、上にも書いたようにほとんどすっ飛んでしまっています。非常時、心に目の前の光景を焼きつけるだけの余裕は与えられません。撮っている余裕があったかどうかはさておき、当日の朝にこの目で見た状況を記録するカメラを持たなかったことは痛恨の極みです。後年、旅行先でカメラを手放さず、風景を撮りまくるようになったのも、この経験を心象イメージとして記憶できなかった自分への戒めから来ています。Facebookに日々写真をアップするのもその一環です。その当時、写真の重要性に気付かなかった私は、我が家周辺の被害状況を写真に収めることすらしませんでした。下に挙げる写真は弟が撮ってきたものです。

有名な高速道路の落下現場。甲子園球場のすぐ傍、久寿川に掛かる橋です。img064
阪急電車の高架崩落現場。西宮北口⇔夙川間。img066
西宮市役所前に並べられた支援物資。img083

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 2月より吹田に引っ越した我が家。地震により期末試験の代替レポート提出を課せられた私ですが、地震後の片づけやら手続きやら引越やらをしていて、すっかりレポート提出を忘れる始末。大学で独り反省文を書かされたのは苦い思い出です。オウム真理教が日本を震撼させる中、大学の部室に入り浸る日々。4回生になり、就職活動が始まるも、高揚した気分のまま、勢いで就職活動をこなし、就職氷河期の中、するっと最終試験へ。そこで調子にのって就職活動を辞めた所、それらの最終試験が全滅。しかし私の舞い上がった気持ちは、その夏のほとんどを西日本、九州、沖縄、台湾への旅へと駆り立てました。

 そんな無軌道な4回生のキャンパスライフを過ごした私。翌年3月に大学は卒業したものの、内定無しという現実が待っていました。とはいえ、地震の経験から吹っ切れた就職浪人の私は、吹田の家で自由な時間を謳歌する日々。やがて地震の翌年、平成8年の10月に更地から家を建て直し、西宮に戻ることになります。そのタイミングで、先にも紹介した先輩が私の身を案じ、芦屋市役所のアルバイトを紹介して下さいました。ここでITの道に開眼する私ですが、舞い上がった気持ちは反動でどん底へ。生涯で一番きつい鬱の日々が続きます。この時に読みまくった本達。その後の新たな出会いを求めての活動。さらにはインターネットを通じて今の妻との出会い。ブラック企業での理不尽で不条理な日々。その悔しさからの一念発起の上京。結婚や家土地売却の試練、娘達の誕生、個人事業主への独立。歯科医院の開業。そして今、法人化に向けてようやく踏み出そうとする私があります。

 阪神・淡路大震災。戦後の日本が遭遇した有数の出来事です。ここに書いたことはあくまで私の、私自身の体験でしかありません。しかし、その体験は、私自身の人生を確実に変えました。そして人生に対する、世の中に対する考え方をも変えました。20年の月日が経ち、改めて地震の日を振り返る機会を持てたこと、それによって積もった埃を振り払い、こうやって一文をモノすることもできました。自分の今後の行く末を占ううえで、有意義な振り返りだったと思います。挫折を知らぬ青年が、20年を経て世間に揉まれ、とうとう法人化を企てるまでになりました。法人化を為そうとするに当り、一体自分はどういう人間で、どういう信条を語り、自分の来し方にどう落とし前をつけるのか。本文を著す経過の中、そういった一つのけじめが出来たように思います。


改憲について


 先日、第三次安部内閣が成立しました。

 賛否はありますが、今の日本の現状を考えると、他に選択肢がなかったということでしょう。

 早速、安部首相も記者会見を行い、第三次内閣の抱負を語りました。ここで語られていたのが、経済対策、そして憲法改正です。前者はともかく、後者をここで持ち出すことに、安部首相の悲願ともいうべき改憲への強い思いが見えます。

 私も自分の中で改憲についてどう思っているか整理するために、本稿を書いてみます。

 結論としては、私も改憲すべき、と思っています。

 理由を以下に書きます。 

 日本国憲法は公布されてから68年という年月が流れました。他国を侵略した結果、敗戦の憂き目を見た我が国。その後の驚異的な復興は世界史上でも例がないものです。その復興に当たり、日本国憲法が我が国に与えた恩恵は否定されるものではありません。制定の過程こそ、GHQに押し付けられた憲法です。が、誇るべき憲法といってもいいでしょう。

 しかし、いくら内容が誇るべきものであっても、人間の社会を前提に作られているものに不磨の大典というものはありません。いくらか今の日本の現状と合わない点も出てきていることも否めません。

 例えば9条の第2項。
 「前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。 」
 とあります。自衛隊が、戦力であることは誰も否定できません。私は96条はもっと精緻な内容に書き換えられるべきと思います。今の状態では、日本が攻められた際、憲法解釈で時間を空費し時機を逸するのが眼にみえています。

 自衛に関しては戦力の行使を許し、その指揮権や手続まで記載すべきだと思います。日本の領土を侵略した相手に対しては一歩も引かないという覚悟を示す必要があります。ただし自衛というのは国土および日本の主張する排他的経済水域に限り、それ以外には、一歩も自衛隊を出さない、ということ。これが重要です。たとえ攻められた際に絶好の反撃機会があっても、たとえ同盟国に要請された場合でも。文字通り自衛隊は領土の外に一歩も出さないこと。それは自衛隊の海外派遣任務も含みます。

 しかし、領土に一歩足を踏み込んだ他国の軍隊、ミサイルは直ちに撃墜される。本来は国防とはそうあるべきですし、憲法に自衛に対する対処も書かれているべきではないでしょうか。自衛は徹底的に迅速に、しかし国外には一歩も武力を行使しない。

 自衛隊に対するシビリアンコントロールは重要だと思いますが、行使の範囲が国内に厳格に指定されていれば、戦前に起きたような暴走は防げるのではないでしょうか。

 続いて96条
 改憲に必要な手続きの厳格さは、日本の憲法が長きにわたって変わらなかった大きな理由の一つでしょう。安部首相もまずここから変更したいという意思をもっていると思います。
 私もここはもう少し要件を緩めてもよいのではないかと思います。3分の2ではなく半数ぐらいでも。

 ただし、改憲要件を許すべき条文を限定するのです。具体的には9条の専守防衛に関する部分。国外に一歩も自衛隊を出さないという部分が、簡単に過半数の賛成で変えられたら、あとはなし崩しです。ここを守るため、改憲要件の適用範囲を決める必要があると思います。変更すべき条文は柔軟に変更でき、堅持するべき骨格は堅持する。

 日本の国土が置かれた地理的条件。これは憲法が何であれ、他国がどうあれ、変えようがありません。日本は外に打って出られるような地形にはない。これは飛鳥時代からの歴史を見ると分かるのではないでしょうか。白村江、朝鮮出兵、シベリア出兵、満州事変。いずれも失敗です。日清・日露戦争ですら、戦闘では勝利したとはいえ、戦争によって確保したはずの領地確保に失敗しています。日本が大陸に橋頭保を築くのは、もう無理なのだと思います。であれば、国外への戦力行使は一切諦め、自衛には徹底的に対処する。これは尖閣や竹島、北方四島も含めて良いと思います。あるいは徴兵しても良いぐらいです。

 日本は素晴らしい国だと思います。世界に誇れる国だと思います。が、長らく日本国憲法の下での繁栄に慣れすぎました。危機感も目標も失いつつあります。そこから目を覚ますためにやるべきは、国外への侵略ではありません。まずは自衛への自覚だと思います。日本人が国外に打って出るには、武力など必要ありません。日本人の持つ勤勉さと能力だけで十分です。そのことに、そろそろ日本人は気づいてもいいのではないでしょうか。


宝塚歌劇百周年によせて


 数日前、「宝塚歌劇100年展 夢、かがやき続けて」を観てきました。本展は宝塚歌劇100周年記念と銘打たれたものです。今夏に兵庫県立美術館で開催されていたのですが、行かれずじまいでした。それが東京でも催されるというので、妻子と有楽町まで足を延ばしました。

 今年は宝塚歌劇が生まれて100年。各メディアでも大きく取り上げられました。宝塚に縁のない方でもあちらこちらで関連イベントを目にしたことと思います。

 宝塚。まだ観たことのない方にとって、その世界は奇異なものに映るかもしれません。女性だけの劇団で、男性も女性が演じ、洋物も和物もなんでもござれ。同じスカーフを巻いたヅカファンが目を輝かせて出待ち入待ちと称して劇場前で列をなし、目当てのスターに嬌声を浴びせる。劇場内外で繰り広げられる独特の世界観は、宝塚に偏見を持つ人をますます遠ざけさせるものがあります。

 妻が両足どころか腰まで浸かったレベルのヅカファンであることから、私はその世界にはある程度親しんでいます。もっとも私の場合、初めて宝塚を観劇したのは、妻と一緒ではありません。大学時代にお付き合いしていた女性がヅカファンで、その時に連れて行ってもらったのが最初でした。

 それまでは宝塚に対する知識も皆無で、世間のイメージに歪められた少しの偏見も持っていました。さぞやカルチャーショックを受けただろうと思われるかもしれません。しかし、全く宝塚に対する免疫のなかったその時ですら、舞台の素晴らしさに衝撃を受けました。阪神・淡路大地震の記憶も新しい中、宝塚大劇場で、大勢の女性と一緒に早朝から並び、ファンクラブのお世話役さんに席を取って頂いた経験も想い出深いです。

 その時の舞台は天海祐希さんのサヨナラ公演でした。彼女を始め、タカラジェンヌの多くがテレビを始めとした芸能界で活躍されています。今回観た100周年展でも退団された歴代のタカラジェンヌの色紙が飾られていました。宝塚が100年永らえたのも、創設した故小林逸翁の先見の明と、日本に老若男女誰もが楽しめる国民劇をという意識が連綿と受け継がれたことに加え、歴代の生徒、スタッフの努力があったからに他なりません。

 たとえそれが、箕面有馬電気軌道という弱小会社の苦肉の策とはいえ。関西の奥座敷にある温泉場の余興が始まりとはいえ。プールに蓋をして舞台とした発祥は、忘れたい過去であるどころか、むしろ誇るべきものと思います。

 最近、ヅカファンたちに「ムラ」と親しみを込めて呼ばれる宝塚大劇場の近辺が、さびれつつあるような気がしてなりません。宝塚ファミリーランドの跡地は住宅展示場やガーデンフィールズなる施設として放置されています。一基残されたメリーゴーランドが、かつての賑わいを今に伝えています。いや、そうではなく、忘れ去られようとしている創設当時の夢と熱意を体現しているのかもしれません。

 このところ、演目は宝塚大劇場で上演された後、有楽町の東京宝塚劇場で千秋楽を迎えるのが恒例になりつつあるようです。本当にこの順番でよいのでしょうか。演目の千秋楽や、トップスターのさよならショーが宝塚大劇場でなく、東京で行われることが当たり前になりつつある現状。宝塚から有楽町へ、本拠地を気づかぬうちに少しずつ移そうという動きが透けて見えるかの如く。

 東京、有楽町、銀座。日本の繁華街の代表的な存在です。確かにここに劇場を構えることは、一つの到達点と言えると思います。山梨出身の逸翁にとっても、或いは泉下で本懐を遂げた想いでいらっしゃるかもしれません。しかし、私は、宝塚には発祥の地を忘れて欲しくないと思います。

 プールの上でドンブラコを演じた幕開けから、華々しいレビューを花咲かせた昭和初期。戦時下の不条理にも思える戦意称揚演目の数々から、戦後の復興。凄惨な舞台上での死亡事故やブロードウェイミュージカルの導入、ベルバラブーム。先人の築き上げた歴史の上に、今のプラチナチケット化した星組の隆盛があるのではないでしょうか。そこには華やかさだけでなく、苦労と苦難が下積みになってのものだと思います。

 これからも日本発の本格的な劇団として、宝塚は続いていくことと思います。宝塚の名を残すため、登記上の本店は宝塚市に置いているけれど、実質的な本社機能は有楽町に、といった上辺を飾った劇団には堕ちて欲しくないと思います。便利でステータスのある有楽町ではなく、わざわざ奥まった宝塚-ムラに呼び寄せるだけの魅力。これこそが宝塚の原点だと思います。当初しのぎを削った松竹歌劇団が衰退したのも、安易に東京と大阪に分けたことにも一因があるとか。東京で大いにやるのも結構。東京宝塚劇場も結構。経営が安定してこその劇団です。でもそれは宝塚の出先としての東京であってほしい。発祥を忘れて東京に軸を移した途端、東京の喧騒に呑みこまれて存在感を失くす。そんな将来図が目に浮かびます。

東京集中の流れに異を唱えるかのように、大正から昭和にかけ、阪神間モダニズムが栄えました。その頃の阪神間は、日本でも有数の文化ゾーンでした。阪神間モダニズムのエリアは、そのまま今の阪急阪神ホールディングスの路線網に重なります。宝塚歌劇団のバックボーンには、阪神間モダニズムを線路でつなぎ続けた誇りがあるはずです。その流れを汲み、しっかりと本拠を宝塚に置き、東京への誘惑に屈しないで頂きたい。

今回100年展を観覧し、改めてそんな思いに駆られ、本稿を書きました。


2014 FIFA ワールドカップ Brasil


worldcupbrasil

ブラジルワールドカップが終わりました。ブラッターFIFA会長が自賛していたとおり、今回のワールドカップは成功だったと言えるのではないでしょうか。
議論の的となる西村氏の判定から衝撃のスペイン敗退を経て、ネイマールの怪我、茫然のブラジル大敗を経て、緊迫した決勝戦で幕を閉じる、そんな起承転結のある大会。過去のW杯でも幾多の名勝負はありました。けれど、大会全体を通じてドラマを感じさせる大会にはなかなか巡りあえるものではありません。

以下に私が今大会で思ったことをまとめも込めて書き連ねたいと思います。

・チーム
4強の顔ぶれこそ、ある程度予想がつくものでした。とはいえ敗れ去ったチームも好チームが多く、大いに大会を盛り上げてくれました。中でも中南米のチームが出色の出来でした。コスタリカの大躍進は只事ではありません。堅守速攻のカウンターが目立った今大会でしたが、コスタリカはそのスタイルで印象に残りました。
コロンビアは日本も負けて納得と言える強豪チームでした。バルデラマやイギータ、エスコバルの時代の中堅イメージとは決別です。ハメス・ロドリゲスこそが今大会のMVPに相応しいというマラドーナの意見はもっともでしょう。
メキシコのオチョアの超人的セーブの連発も素晴らしかった。また、トータルフットボールを思い起こさせる全員サッカーのチリは日本のサッカーにとって見習うべき姿勢を持ったチームでした。最後に選手時代の記憶も新しいクリンスマン、彼に率いられたアメリカも強豪として名を連ねるに相応しいチームでした。優勝こそドイツに譲りましたが、アメリカ大陸の大会で南米勢が優勝する、というこれまでのジンクスは未だ健在、と思わせる南北両アメリカの各チームの活躍ぶりが印象的です。

・戦術
スペイン衝撃の敗退は、ボール保持率を高く保つポゼッションサッカーの終焉を錯覚させるものでした。変幻自在のパス回しで相手を疲弊させるサッカー。バルサからスペイン代表へ。6年間に及ぶ黄金期はまだまだ続くと思わせただけに、その大敗には目を疑いました。
一見、運動量を必要としないように見えるポゼッションサッカー。それをやり抜く裏には的確なポジショニングと瞬時の状況判断が欠かせません。肉体と頭脳の疲れを知らぬ貢献が必要です。しかしスペイン代表には、それを成し遂げるだけの新陳代謝に衰えが生じました。そしてポゼッションサッカーの申し子として新たに名乗りを上げたのがドイツです。ポゼッションサッカーの新たな展開へ。若さから老練さを含んだ幅広い選手層からなる集団は、スペインのサッカーをよりグレードアップさせた魅力的なサッカーで開催国を大差で破り、優勝しました。
しかし本大会はスペインからドイツへの世代交代だけが見せ場だったわけではありません。球際へ。より球際へ迫るサッカー。走る。より走るサッカー。運動量とチャージこそがポゼッションサッカーを破る秘策とばかりに、当りを強くして運動量豊富にパスコースをふさぐ。パスを自由に出させない姿勢に、スペイン対策の熟慮が見えた大会でした。
また、サッカー大国に対するには速攻から。本大会では昔ながらの堅守速攻を旨とするチームが予想外に健闘しました。分厚い攻めを展開したチームは、その分背後が薄い。そんな隙をついて速攻を掛けることに勝機を見出す。優れた攻撃タレントを擁するチームにもそういったスタイルが見え隠れしていました。ブラジルやオランダ、アルゼンチンなど。堅守速攻を支えるための最後の砦であるGKに人材が輩出したのも今大会の見どころでした。
スペインが育て、ドイツで花開いたサッカー。次のロシア大会までにどのような趨勢がサッカー界を覆うのか。楽しみでなりません。

・分析と審判
スカウティングを始めとして、サッカーを取り巻く環境も変わったのが今大会です。ゴール判定に最新のセンサーが導入され、ゴールと判定された瞬間に主審の腕時計にゴール通知が着信する。とうとうそのような技術支援が前面に出てきました。
一方で、開幕戦から問題となったように審判の判断にブレが見られました。反則かどうかの判断はデータやセンサーではどうにもなりません。ビデオ判定に頼ればゲームの流れを妨げます。
審判については少しかじったので多少わかりますが、実に細かく奥の深い世界です。審判のプロ化の歴史はまだ浅く、今後のサッカー界の課題となるような気がします。今回の大会から使われるようになったスプレーなど、まだまだ審判にも工夫の余地はあるのではないでしょうか。

また、データ分析についても、長足の進歩を遂げました。特に試合中の選手の走行距離やパス数、成功率や守備機会など、データ偏重主義のきらいも出てきています。アメリカのプロスポーツ界の風潮にならったのでしょうか。フットボールのアメリカ化といってもよいでしょう(まさにアメリカンフットボール)。試合中のダイナミズムを失わずに、サッカー観戦の妙味を失わない程度に付き合うのがよいかと思います。

・日本
選手・監督・スタッフ。よく頑張ったと思います。少なくとも私には批判んするつもりも資格もありません。心からお疲れ様と言いたいです。
ただ、予選敗退後に長谷部キャプテンが言っていたことについて、考えねばならないことも事実です。「サッカーは世界の文化。強豪国は文化として根付いているし、負ければ厳しい批判に遭う。 国民の皆さん、メディアの皆さんには、もっと厳しい目でみてもらいたい」
かといって予選敗退後にスポーツ紙が見せたような手のひらを返したような仕打ちは品位を損ないます。予選敗退後に国民の関心が急速に冷めたように思えるのも気になります。本戦ではスリリングな試合が繰り広げられていたというのに。日本が負けた途端のその態度はないでしょう。
要はまだ日本にサッカーが文化として根付いていないということでしょう。世界に誇るキャプテン翼を生み出した国として、これは由々しき事態と言えるのではないでしょうか。
そのためにも、まずは初心に返りたいものです。本大会で日本はチームの平均身長が二番目に低かったとか。一番低かったチリがスペインやブラジルを苦しめたようながむしゃらな運動量。走りにはスランプがないとか野球の世界では言われます。日本のパスが通じなくても走りで力の差を埋めるようなサッカー。そこにパスサッカーを組み合わせることに活路を求められないでしょうか。窮してもロングボールによるパワープレイに頼らずにすむサッカー。

まだまだ発展途上です。日本のサッカーは。だからこそ楽しみがある。伸び代も残されている。そして希望も。ドーハの悲劇もまだ記憶に新しく、国際的に見ても新顔なんですから。日本は。チャレンジ精神を持ち続けて欲しいと思います。


東京から地方へ・・・・


東京に住み始めたのが1999年の4月1日なので、もう12年の月日が経ちます。一世代に相当する年数を東京で過ごしてしまった訳ですが、未だに混雑には慣れることができません。

通勤ラッシュや日常の交通渋滞、繁華街の人混み。こういったものが本当に大嫌いな私ですが、嫌や嫌やとゆうてるだけやと、何も変わらん、と思い、以前から都市交通の問題やら防災に関する本を読むようにしていました。

結論として思ったのが、東京に人が集中しすぎることは、デメリットのほうが大きい、ということです。公平にみて、東京に人の集まることで生まれるメリットも沢山あります。コミュニケーションが円滑にいくことや人の生み出す活気などいくつも挙げられます。にもかかわらず、集中の短所のほうが大きいと思わざるを得ません。今までにも上に述べたようなことを日記やブログやパブリックコメントでことあるごとに書いてきました。

今回の地震で東京の抱える弱点が現実のものとして露呈してしまった気がします。弱点は報道やネット上で真偽混じりに報道されている放射能のことだけではありません。放射能についてはむしろ騒ぎすぎと思えますし、私は町田在住ですが普通に水道水を利用しています。こういったサイトhttps://microsievert.net/をチェックしておけば大丈夫かと思います。ではなにが問題かというと社会インフラです。それは電気でありガスであり水であり、交通網です。また今回の地震で通信網も東北ではかなりのダメージを受けました。おそらく東京近辺で地震が起これば通信網も今回のように無事とはとても思えません。370キロも離れた場所で起こった地震でこうも混乱してしまうわけですから、仮に都市直下型地震が起こったら、その被害や混乱は想像もつきません。ちなみに関東大震災の時は東京から震央まで約100キロぐらいと聞いています。

私が東京に出てきてから幾人もの友人や仕事のパートナーとご縁が出来ましたが、その中にはもともと関西に住んでいた方も多くいらっしゃいます。ここ数日、関西に生活の拠点を戻すという行動を示す方が出てきています。

世論に煽られて移動するというのもいかがなものかと思いますが、今回の混乱で東京の集中ぶりに見切りをつけて地方に戻るというのは悪くない選択だと思います。いづれにせよ東京に人が集まりすぎるという状態をどこかで是正しなければなりません。

東京と同じ活力をもった都市が、札幌近辺、仙台近辺、名古屋近辺、新潟近辺、大阪近辺、広島近辺、福岡近辺に散らばるように発展していけば、もし今回のようなことが起きてもリスク分散できます。東京は規模は縮小したほうがよいですが、それでも活力を維持したまま発展していける方法があればそれに越したことはなく。

そうなるためには、今の与党が首都機能移転という発想にいたるかどうかも重要ですが、今度の都知事選も何かのターニングポイントになるのではないかと思います。首都の首長でありながら分散の発想をもつ方が出てくれば、一層議論が活発になるのに、という思いを持ちつつ筆をおきます。


東北地方太平洋沖地震(3/19-26編)


前回の続きです。

こうやって並べてみると、自分の行動や考えの推移がよくわかります。ツイッターでつぶやく利点を初めて実感できた気がします。

------19日------
2011/03/19 13:31
地震発生前から動き始めていた、我が家の重要な将来設計について、今朝一歩前進の進展がありました。

2011/03/19 21:22
1~3号機、炉心は冷却状態…東電会見 (読売新聞 – 03月19日 19:42) https://mixi.at/a598HJH まだまだ楽観は許さない状況にあるが最悪の状況一歩手前から、針は巻戻った模様。本当に現地で体を張ってくれた方々には敬意を表します。

2011/03/19 21:29
もちろん、あれですよ。あれ。あくまで一歩前進だけですが(^_^) RT @****** どの計画ですか⁇ 気になる…(⌒-⌒; ) RT @*******: 地震発生前から動き始めていた、我が家の重要な将来設計について、今朝一歩前進の進展がありました。

2011/03/19 21:42
まさに!! RT @****** @******* リョーカイしました( ̄^ ̄)ゞで、答えあってますよね。。。

2011/03/19 21:43
あれです。今からゼッケンにロゴ縫い付ける練習 RT @******* あれですね。 RT @*******: もちろん、あれですよ。あれ。あくまで一歩前進だけですが(^_^) RT @****** どの計画ですか⁇ 気になる…(⌒-⌒; ) RT @*******: 我が家の重要

2011/03/19 22:06
<プロ野球>セ・リーグも3月29日に開幕延期 (毎日新聞 – 03月19日 21:23) https://mixi.at/a595T2u 色々と考え方があるのはわかるが・・・・どうしても東日本でやりたいんかね・・・・西日本のファンにまで自粛させるのもどうかと思う。

------20日------
2011/03/20 4:31
なんか仕事用のFacebook、ぽつぽつフレンドが増えてきているのだが・・・Are You Interested? というアプリの招待がきて、知り合いからだったので登録したら、以降一日2~3人からアポイントが・・・調べると機能はあるらしいがはまると課金されるアプリらしく無視状態。

2011/03/20 8:45
名勝・松島、崩落被害=「長命穴」消え、半壊の島も―国宝「瑞巌寺」は壁にひび https://mixi.at/a5av6F3 家族で一昨年の年末に仙台を旅したのですが、この時に牡蠣を食べたお店や土産物屋などことごとく流されたとか・・・五大堂や瑞巌寺は軽微な被害で無事らしいのです…

2011/03/20 9:00
一昨年やなくて、さらにその前年でした

2011/03/20 12:45
朝方ちょっと仮眠した後、再び電話で起こされました。知り合い作成の予約システムで障害が起きたとのこと。ColdFusionは門外漢なので手助けできるかわからないのですが、合間をみて作業してみます。私もFPDI+TCPDFの組み合わせでのPDF生成の完成度を上げないとなりません。

2011/03/20 14:49
朝に記述した予約システムのほうは障害が治ったようです。よかったよかった。今回の震災でもっと壊滅的な状況も考えられましたが、私の聞く限りではかなりのシステムが活きていました(みずほ銀行は除く)。データセンターの耐震対策を見直しました。耐震対策なしでサーバー運営するリスクを見直さねば

2011/03/20 21:34
テレビで尾崎豊の歌が流れている・・・・今聞くと聞きこんでしまいそう。今は聞けない・・・もうすでに頭からシェリーが離れなくなりつつある・・・・・相方がテレビを見ろと呼ぶ・・・・

------21日------
2011/03/21 5:26
いやぁぁぁっと、TCPDF+FPDIでPDF出力ができました。夜8時ごろから入力+確認フォーム作り始めて・・・配置的には思ったところに来ているようだが、POSTした値が反映していないのはこれから気合い入れてなおします。が、その前にちょっと仮眠します。

2011/03/21 18:48
今日の夜の町田地域での停電が回避されたそうです。仕事で切羽詰ってる状況だけに本当に助かりました。ソースの怪しげな風聞が舞う中、私はそれでも現場で努力している方々に対しては勿論、政府や東電関係者に対しても敬意を表したい。平和な地域では早くも地震が喉元をすぎ、好き放題いっていますが。

------22日------
2011/03/22 5:57
あー朝になってしまいました。このまま徹夜で客先いきますか・・・それとも午前中だけ勘弁していただくか、考えます。昨日も朝方まで起きてたし、さすがに疲れました。

2011/03/22 12:42
ちょっと仮眠をいただき、今客先へと向かっています。車内は電気が消灯されたりついたり。暗すぎるのも不便ですが、快晴の日などは消灯を励行すべきかもしれません。電力が完全復旧したあとにも続けていくべき事は多いように思います。

------23日------
2011/03/23 6:32
うーむ・・・・3日連続で朝方までの作業となってしまいました・・・・昨日は3時間ほど仮眠してから出かけましたが・・・今日は客先で午前に打ち合わせがあるため、このままお出かけとなりそうです・・・・まあおかげさまでTCPDFとFPDIの組み合わせでPDFは自由に出せるようになりました。

2011/03/23 16:55
日程はお上が決めることではないかも知らんが巨人が決めることでもない。選手会や他の11球団がどう考えるか。幾多の名選手を産み出した球団がまた汚されてゆく。この間逝去された与那嶺氏は泉下で何を思うか。 Gオーナー 開幕29日強行姿勢 https://mixi.at/a5dT7tH

------24日------
2011/03/24 1:31
やはり3月は年度末ということでばたばたと色々な仕事が舞い込んできます。今回の震災により電力確保ということでより一層クラウド化が進んでいくのでしょうね。社内の片隅にサーバーを置いて運用する事が許されなくなりつつある様に思います。私も外出中は携帯しか仕事がない状況を早く解消しないと。

2011/03/24 13:16
技術メモ。TCPDFの作成時に使用するテンプレートpdfに、PDF Xchange Viewerのテキストボックス機能で描画したものを使うと、内部圧縮形式が違う旨のエラーが発生します。pdfに書かれた記載内容を消したい場合は TCPDFで消した方が速そうです。

2011/03/24 20:52
帰路の駅前で地元の中学校の卒業生有志や町田青年会議所の方々が、寒い中声を高くして募金活動を行っていた。不逞の輩共に失望させられるニュースも出てきている中、救われる思い。ただ、持ち合わせがなく、かなり気まずい思いで帰宅。と、上の娘あてにカブ隊から手紙が。今度の日曜日に募金活動。行く

------25日------
2011/03/25 18:27
町田停電だそうです。炊飯器にかけていたお米がおじゃん。

2011/03/25 18:35
地震発生日の停電から二週間、町田の夜から灯りか消えることがありませんでしたが、先程停電した模様です。休養の機会と前向きに考えることにします。開発案件など、昨日の朝方に山を越えておいて良かった、、、

2011/03/25 19:52
鶴川着。駅前電気ついとる。地元中の卒業生が今日も募金活動。まぶしい。

------26日------
2011/03/26 1:22
ようやく年度末の多忙な状態から先が見え、ちょっと気を抜いてウェブを徘徊してみたところ、私が個人事業主になるにあたり、多大な影響を与えた会社が解散していることに気づきました・・・・・衝撃が体を走っています・・・

2011/03/26 17:56
この2か月、深夜電力消費量が前年比2倍増の私がいうことではないですが、枝野氏がいった生活様式の変更については真剣に考慮せねばならないと思います。アーミッシュのようになれというのではなく、余剰な電力使用を減らすことから始めればよいかと思います。公共施設で今実践しているようなものです

2011/03/26 19:40
東電「貞観地震」の解析生かさず  https://mixi.at/a5gCuKe ようやく欲しかった情報が来た。この情報がないにもかかわらず鬼の首でもとったかのように東電を責める論調にはとても賛成できなかったのだが。これからようやく東電の上層部の責任について、話が進められる…

2011/03/26 20:31
そういわれるとつらい・・・ちょっとまっててください。今ちょっと峠を越えました。その代りうちの相方には車送迎なしとお伝えください @****** @******* まってます…

2011/03/26 20:42
明日終日残りをやりますか・・・・今から年度末のお別れ会に相当遅ればせながら行ってまいります。

2011/03/27 1:34
ありがとう!!!! @******** ありがとう!!!! RT @******: おやすみなさい…

2011/03/27 3:12
おつかれさまですー @******** やっと帰宅中なう。おやすみなさい。