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戦いすんで 日が暮れて


『血脈』を読んで以来、今さらながらに著者に注目している。『血脈』に描かれた佐藤一族の放蕩に満ちた逸話はとても面白い。一気に読んでしまった。もともとは甲子園にある私の実家と著者が幼少期を過ごした家がすぐ近く。そんな縁から『血脈』を読み始めたのだが、期待を遥かに超える面白さを発見したのは読書人として幸せなことだと思っている。

『血脈』には印象的な人物が多く登場する。著者の二度目の結婚相手である田畑麦彦氏もその一人。田畑氏は、著者が文藝首都という文学の同人誌で知り合った人物だ。『血脈』に登場する田畑氏は誠二という仮名で登場する(文庫版の下巻、348p、349p、399pでは意図的か、うっかりか分からないが「田畑」と「麦彦」の表記が見られるが)。そこでの彼はペダンティックな態度で世間を高みから見下ろし、超越した境地から言説を述べる人物として描かれている。それでいながら生活力のなさと人の良さで会社をつぶし、著者に多大な迷惑をかけた人物としても。著者がその時の体験をもとに小説にし、直木賞を受賞したのが本書だ。

『血脈』は佐藤一族の奔放な血を描き切った大河小説だ。そのため、著者と田畑氏のいざこざの他にも筆を割くべき事は多い。『血脈』では田畑氏との別れや田畑氏の死まで描いている。だが、それらは膨大な大河の中の一部でしかない。そのため著者は、田畑氏との因縁はまだ書き切れていないと思ったのだろう。『血脈』の後、著者は最後の長編と銘打って『晩鐘』を上梓する。『晩鐘』は著者と田畑氏の出来事だけに焦点を当てた小説で、二人は仮名で登場する。そこで著者は「田畑氏とは何だったのか」をつかみ取ろうと苦闘する。その結果、著者がたどりついた結論。それは「田畑氏はわかりようもない」ということだ。『晩鐘』のあとがきにおいて、著者はこう書いている。
「畑中辰彦というこの非現実的な不可解な男は、書いても書いても、いや、書けば書くほどわからない男なのでした。刀折れ矢尽きた思いの中で、漸く「わからなくてもいい」「不可能だ」という思いに到達しました。」(475p)
レビュー(http://www.akvabit.jp/%E6%99%A9%E9%90%98/)。

それほどまでに著者の人生に影響を与えた田畑氏との一件。なので、田畑氏との日々が生々しい時期に書かれた本書は一度読みたいと思っていた。『血脈』や『晩鐘』は田畑氏との結婚生活から30年ほどたって描かれた。『晩鐘』に至っては田畑氏がなくなった後に書かれた。しかし本書が書かれたのは、田畑氏の倒産や夫妻の離婚からほんの1、2年後のことだ。面白いに決まっている。そんな期待を持って読み始めたが思った通りだった。

「戦いすんで日が暮れて」は表題作。倒産の知らせを受け、その現実に対して獅子吼する著者の面目が弾けている。少女向けユーモア小説を書き、座談会に出演し、人を笑わせ、愛娘を笑わせる。その一方ではふがいない夫に吠え、無情な借金取りに激高し、同業の作家に激情もあらわな捨てぜりふをはく。そんな著者の八面六臂の活躍にも関わらず、夫は観念の高みから論をぶつ。著者に「あなたは人間じゃないわね。観念の紙魚だわ。」(55P)という言葉を吐かせるほどの。ところが著者は悪態をつきつつも夫のそうしたところに密かな安堵を覚えるのだ。本編はそうした静と動、俗と超俗、喜怒哀楽がメリハリを持って、しかも読者には傍観者の笑いを与えるように書かれている。

同業作家の川田俊吉とは作家の川上宗薫氏のことらしいし、著者の名はアキ子だし、娘は響子ではなく桃子で登場し、夫の名は麦彦ではなく作三と書かれる。それにしても、関係者の間に生々しい記憶が残る中、よくここまで書けるな、と感心する。文庫版のあとがきによると、本編が発表される半年前に田畑氏の会社は倒産したらしい。『血脈』であれほど赤裸々に書いたのも、本編を読めばなるほどと思える。

「ひとりぼっちの女史」もおなじ時期を描いた一編。女史とはもちろん著者自身がモデルだ。カリカリイライラしている日々の中、孤立感を深めつつ、激情をほとばしらせることに余念のない女史。しかし夫に背負わされた借金の債権者は家に来る。そして夫はいない。そんな女史のお金をめぐる戦いは孤独だ。それなのに、頭を下げて泣かれる債権者を前にすると女史の心はもろい。他に影響があると知りつつ、投げつけるように金を返す。もろいだけかと思えば、あやしげな張型のセールス電話など、女史を怒らせる出来事にも出くわす。電話越しのセールスマンと女史のやりとりは笑えること間違いなし。セールスマンから慰められてふと涙する女史の姿に、著者の正直な気持ちの揺れが描かれていて、笑える中にも心が動く一編だ。

「敗残の春」も同じ時期を題材にしている。著者をモデルとした宮本勝世は男性評論家の肩書で紹介される人物だ。目前の金のためなら仕事を選ばず、会社をつぶした夫の宮本達三から身を守るため、日々憤怒する人だ。お人よしで他人から金を巻き上げられるためにいるような夫。自分はそうではないとわが身を語りつつ、不動明王のような炎を噴き上げ日々奔走する。債権者の対応をしながらやけになって叫ぶ。別の男性から好意を寄せられ戸惑う。そんな45歳の女。複雑な日々と感情の揺れを描いているのが本書だ。

「佐倉夫人の憂鬱」もまた、頼りない夫をもった夫人の憂いの物語だ。著者の体験を再現していないようにも読めるが、著者に言い寄る童貞男子の存在に、まんざらでもない期待を寄せてしまう夫人。だが、全ては幻と消え去る。そんな女としての無常を感じさせる一編だ。

「結婚夜曲」はかなり色合いの異なる一編だ。証券会社に勤める夫を持つ主人公。だが、夫の営業成績は振るわず、家庭でも顔色が冴えない。そんな中、主人公は旧友に再会する。その旧友はかつてのくすんだ印象とは一変して裕福な暮らしに身を置いている。その旧友を夫に紹介したところ、夫は営業をかけ、それが基で信頼される。証券を売りまくり、お互いが成功に浮かれ、夫は輝く。ところが、ある日それがはじけ、全ては無にもどる。旧友から金を返して欲しいとの懇願と夫の情けない姿に、どうにか夫を奮起させようとする主人公。だが、夫は再び死んだように無気力となる。そこに息子の結婚だけは考えたほうがよいなぁとのつぶやきが重なる。その言葉が、著者の心のうちを反映するような一編。

「マメ勝ち信吉」は、著者の無頼の兄貴たちの生態を参考にしたと思える一編。『血脈』でも著者の四人の兄貴がそろいもそろって不良揃いであることが書かれている。詩人として成功したサトーハチローの他は皆、非業の死を遂げる。そんな兄貴たちを間近で見てきた著者の観察が本編に表れている。風采は悪くとも、女を口説くことは得意の信吉。映画のプロデューサーの地位を利用し、新進女優とも浮名を流す。が、ある日彼が心から惹かれる女性が現れる。その女をモノにしようと信吉は奮闘するが、軽くいなされてしまう。その一方で、信吉は華のない女とくっつき、結婚することになってしまう。まじめに生きれば外れくじを引く。無頼に生きれば身をもち崩す。そんな矛盾した著者の人生観が垣間見える一編だ。

「ああ 男!」は脚本家の剛平の付き人でもあり監視役でもある忠治が主人公だ。無頼な剛平にくっついて方々に顔を出すうち、忠治も場数を踏んだ男だと勘違いされる。だが実はウブで童貞。そんな忠治が剛平に忠義を尽くし、慕ってついていく様子が描かれる。そんな無頼な日々は、狙っていた女優にあっけらかんとした裏表を見せられ、意気消沈する。本編もまた、著者の兄貴たちの生態が下敷きになっていることだろう。

「田所女史の悲恋」は著者自身を描いている。男勝りのファッションデザイナーで、周囲からはやり手と思われている独身。45歳でありながら恋には見向きもせず仕事に猛進する強い女性。だが、そんな彼女はある会社の若い男に恋をする。しかし素直になれない。それがゆえ、打った手は全て裏目に出る。勇気をふり絞って生涯唯一の告白を敢行するも、相手に伝わらず空回り。それをドタバタ調に書かず、世間では強き女とみられる女性の内面の弱さとして描く。著者がまさにそうであるかのように。

本書の最後には文庫版あとがきと新装版のあとがきが付されている。後者では93歳になった著者が自分の旧作を振り返っている。そこでは五十年近く前に書かれた旧作など今さら見たくもない、と言うかのような複雑な思いが表れている。二つのあとがきに共通するのは、表題作に対してしっかりした長編に仕上げたかったという事だ。それが生活の都合で中編になってしまった無念とともに。著者のその願いは『血脈』と『晩鐘』によって果たして叶えられたのだろうか。気になる。

‘2018/04/18-2018/04/21


鈴木ごっこ


本書は、お客様が入居するオフィスビルの共用スペースに置いてあった。ちょうどその時、帰りに読む本を持ち合わせていなかったのでお借りした。そんなわけで、本書についても著者についても全く知識がなかった。なんとなくタイトルに惹かれたのと、読むのにちょうどよい分量に思えたから選んだだけのこと。ノーマークだし期待もしていなかった。ところが本書がとても面白かったのだ。まさに読書人冥利に尽きるとはこのこと。

膨大な借金を抱えた見知らぬ四人が一軒家に集められ、鈴木なにがしを名乗って暮らすよう強制される。一年間、同居生活をやりとげ、偽装家族であることがばれなければ借金はチャラにする。それが謎の黒幕からの指令だった。

それぞれの事情を抱えた四人は、借金を完済する同居生活に突入する。タケシ、ダン、小梅、カツオ。四人のうち、小梅とカツオが偽夫婦、ダンが偽息子、タケシは偽爺さんという設定だ。彼らの日々は平穏に済むはずがない。たとえば隣人に住む一家の美人の奥さんに恋をして、なおかつ落とせ、などという無謀な指令がカツオにくだされる。そんな指令に従いながらも、四人は何とか生活を送る。小梅は小梅でかつて磨いたレストラン経営の腕をいかし、自炊して四人を食わせる。

本書は四章に分かれている。それぞれの章は一年間の四季があてられている。ちょうど彼らの同居生活に合わせて。それぞれの章は、四人のそれぞれの視点で語られる。四人の生活は指令を乗り越えつつ、無事に季節は過ぎてゆく。そして、物語はハッピーエンドへ向かうように感じられる。なにしろ一年間の同居生活は毎日が規則正しい。そして小梅のつくる料理は栄養価もよいので、四人は健康体になってゆく。ところが最後にどんでん返しが待っているのだ。

本書のような設定は、不動産競売のための先住要件を満たすための手段としてよく知られている。宮部みゆきさんの『理由』でも似たような状況設定が描かれていた。いわゆるヤクザによって集められた者たちが仮面家族を演じる設定だ。ところが、そう思って読んでいると思わぬ落とし穴にはまる。本書の裏側を流れるカラクリに一回目ですべて気づくことのできる読者はいるのだろうか。私はほんの一部しか気づかなかった。本書の分量はさほど長くなく、むしろ短い。それなのにきちんと布石が打たれ、きれいにオチがつけられていることに驚く。しかも見事などんでん返しまで用意して。実は著者ってすごい人やないの。

後に著者のことを調べてみた。それによると著者は劇団を主催しているそうだ。そういわれてみると、本書には地の文による状況説明が少ない。物語のほとんどはセリフと登場人物の行動だけで進んでゆく。それは舞台芸術の流れそのものだ。また、ちょっと見ただけではそれぞれのセリフには大した意味は含まれていないように思える。実際、本書を読み終えてみてもそれらのセリフに深い意味はなかったことに気づかされる。これも聞いてすぐに観客の記憶から流れていってしまう舞台のセリフの感覚そのものだ。本書を構築しているのはシンプルな骨格とどんでん返しのためのわずかなギミック。

そして著者はあまりセリフに意味を与えず、短いストーリーの中で見事にどんでん返しをやってのける。これぞ舞台で鍛えられた腕なのだろう。または舞台のだいご味といってよいかもしれない。それは研ぎ澄まされたライブ感覚が求められる舞台上で鍛えられてきたのだろう。本書からは小説のすごさだけでなく、舞台芸術の持つ実力すらも教えられたように思う。

与えられた時間軸の中で効果的な印象を与える。それは舞台やテレビ関係者が書く小説で時折感じることだ。百田尚樹さんの短編集からも同じ感覚を感じた。おそらく、これは映像的な感覚をもっている作家に特有のスキルなのだろう。二つの芸術に共通するのは時間軸だ。時間の進み、そして時間の区切り。彼らはその制約をものともせず、舞台やテレビの仕事をやってのけている。時間をわがものとし、それを小説の中にうまく取り入れている。この気づきは私にとって新鮮だった。

本書の帯にはこういう文句が書かれている。
「ラスト7行の恐怖に、あなたは耐えられるか?」
この文句は少々大げさだ。恐怖は感じない。だが、ラスト7行のうち、初めの3行については、3回ほど読み直すことをお勧めしたい。別の意味の恐怖を感じるはずだ。それまでそのようなからくりに全く気付かずに読んでいたことに。そして、著者の筆力が自らの読解力を上回っていた事実に。私は最初、3行の意味を深くとらえておらず、恐怖は感じなかった。だが、本稿を書くにあたってもう一度本書を読んでみた。そして、ラスト7行のうち、最初の3行が抱く真の意味に気づきおののいた。

本書を読み、著者の他の作品を読んでみなければ、と思わされた。まったく、こういう出会いがあるから読書はやめられないのだ。

‘2017/06/21-2017/06/21


消えた少年たち<下>


上巻のレビューで本書はSFではないと書いたた。では本書はどういう小説なのか。それは一言では言えない。それほどに本書にはさまざまな要素が複雑に積み重ねられている。しかもそれぞれが深い。あえて言うなら本書はノンジャンルの小説だ。

フレッチャー家の日々が事細かに書かれていることで、本書は1980年代のアメリカを描いた大河小説と読むこともできる。家族の絆が色濃く描かれているから、ハートウォーミングな人情小説と呼ぶこともできる。ゲーム業界やコンピューター業界で自らの信ずる道を進もうと努力するステップの姿に焦点を合わせればビジネス小説として楽しむことだってできる。そして、本書はサスペンス・ミステリー小説と読むこともできる。おそらくどれも正解だ。なぜなら本書はどの要素をも含んでいるから。

サスペンスの要素もそう。上巻の冒頭で犯罪者と思しき男の独白がプロローグとして登場する。その時点で、ほとんどの読者は本書をサスペンス、またはミステリー小説だと受け取ることだろう。その後に描かれるフレッチャー家の日常や家族の絆にどれほどほだされようとも、冒頭に登場する怪しげな男の独白は読者に強烈な印象を残すはず。

そして上巻ではあまり取り上げられなかった子供の連続失踪事件が下巻ではフレッチャー家の話題に上る。その不気味な兆しは、ステップがゲームデザイナーとしての再起の足掛かりをつかもうとする合間に、ディアンヌが隣人のジェニーと交流を結ぶのと並行して、スティーヴィーが学校での生活に苦痛を感じる隙間に、スティーヴィ―が他の人には見えない友人と遊ぶ頻度が高くなるのと時期を合わせ、徐々に見えない霧となって生活に侵食してゆく。

上巻でもそうだが、フレッチャー夫妻には好感が持てる。その奮闘ぶりには感動すら覚える。愛情も交わしつつ、いさかいもする。相手の気持ちを思いやることもあれば、互いが意固地になることもある。そして、家族のために努力をいとわずに仕事をしながら自らの目指す道を信じて進む。フレッチャー夫妻に感じられるのは物語の中の登場人物と思えないリアルさだ。夫妻の会話がとても練り上げられているからこそ、読者は本書に、そしてフレッチャー家に感情移入できる。本書が心温まるストーリーとして成功できている理由もここにあると思う。

私は本書ほど夫婦の会話を徹底的に書いた小説をあまり知らない。会話量が多いだけではない。夫婦のどちらの側の立場にも平等に立っている。フレッチャー夫妻はお互いが考えの基盤を持っている。ディアンヌは神を信じる立場から人はこう生きるべきという考え。ステップは神の教えも敬い、コミュニティにも意義を感じているが、何よりも自らが人生で達成すべき目標が自分自身の中にあることを信じている。そして夫妻に共通しているのは、その生き方を正しいと信じ、それを貫くためには家族が欠かせないとの考えに立っていることだ。

この二つの生き方と考え方はおおかたの日本人になじみの薄いものだ。組織よりも個人を前に据える生き方と、信仰に積極的に携わり神を常に意識しながらの生き方。それは集団の規律を重んじ、宗教を文化や哲学的に受け止めるくせの強い日本人にはピンとこないと思う。少なくとも私にはそうだった。今でこそ組織に属することを潔しとせず個人の生き方を追求しているが、20代の頃の私は組織の中で生きることが当たり前との意識が強かった。

本書の底に流れる人生観は、日本人には違和感を与えることだろう。だからこそ私は本書に対して傑作であることには同意しても、解釈することがなかなかできなかった。多分その思いは日本人の多くに共通すると思う。だからこそ本書は読む価値がある。これが学術的な比較文化論であれば、はなから違う国を取り上げた内容と一歩引いた目線で読み手は読んでいたはず。ところが本書は小説だ。しかも要のコミュニケーションの部分がしっかりと書かれている。ニュースに出るような有名人の演ずるアメリカではなく、一般的な人々が描かれている本書を読み、読者は違和感を感じながらも感情を移入できるのだ。本書から読者が得るものはとても多いはず。

下巻が中盤を過ぎても、本書が何のジャンルに属するのか、おそらく読者には判然としないはずだ。そして著者もおそらく本書のジャンルを特定されることは望んでいないはず。自らがSF作家として認知されているからといって本書をSFの中に区分けされる事は特に嫌がるのではないか。

本書がなぜSFのジャンルに収められているのか。それはSFが未知を読者に提供するジャンルだから。未知とは本書に描かれる文化や人生観が、実感の部分で未知だから。だから本書はSFのジャンルに登録された。私はそう思う。早川文庫はミステリとSFしかなく、著者がSF作家として名高いために、安直に本書をSF文庫に収めたとは思いたくない。

本書の結末は、読者を惑わせ、そして感動させる。著者の仕掛けは周到に周到を重ねている。お見事と言うほかはない。本書は間違いなく傑作だ。このカタルシスだけを取り上げるとするなら、本書をミステリーの分野においてもよいぐらいに。それぐらい、本書から得られるカタルシスは優れたミステリから得られるそれを感じさせた。

本書はSFというジャンルでくくられるには、あまりにもスケールが大きい。だから、もし本書をSFだからと言う理由で読まない方がいればそれは惜しい。ぜひ読んでもらいたいと思える一冊だ。

‘2017/05/19-2017/05/24


消えた少年たち〈上〉


本書は早川SF文庫に収められている。そして著者はSF作家として、特に「エンダーのゲーム」の著者として名が知られている。ここまで条件が整えば本書をSF小説と思いたくもなる。だが、そうではない。

そもそもSFとは何か。一言でいえば「未知」こそがSFの焦点だ。SFに登場するのは登場人物や読者にとって未知の世界、未知の技術、未知の生物。未知の世界に投げこまれた主人公たちがどう考え、どう行動するかがSFの面白さだといってもよい。ところが本書には未知の出来事は登場しない。未知の出来事どころか、フレッチャー家とその周りの人物しか出てこない。

だから著者はフレッチャー家のことをとても丁寧に描く。フレッチャー家は、五人家族だ。家長のステップ、妻のディアンヌ、長男のスティーヴィー、次男のロビー、長女で生まれたばかりのベッツィ。ステップはゲームデザイナーとして生計を立てていたが、手掛けたゲームの売り上げが落ち込む。そして家族を養うために枯葉コンピューターのマニュアル作成の仕事にありつく。そのため、家族総出でノースカロライナに引っ越す。その引っ越しは小学校二年生のスティーヴィーにストレスを与える。スティーヴィーは転校した学校になじめず、他の人には見えない友人を作って遊び始める。ステップも定時勤務になじめず、ゲームデザイナーとしての再起をかける。時代は1980年代初めのアメリカ。

著者はそんな不安定なフレッチャー家の日々を細やかに丁寧に描く。読者は1980年代のアメリカをフレッチャー家の日常からうかがい知ることになる。本書が描く1980年代のアメリカとは、単なる表向きの暮らしや文化で表現できるアメリカではない。本書はよりリアルに、より細やかに1980年代のアメリカを描く。それも平凡な一家を通して。著者はフレッチャー家を通して当時の幸せで強いアメリカを描き出そうと試み、見事それに成功している。私は今までにたくさんの小説を読んできた。本書はその中でも、ずば抜けて異国の生活や文化を活写している。

例えば近所づきあい。フレッチャー家が近隣の住民とどうやって関係を築いて行くのか。その様子を著者は隣人たちとの会話を詳しく、そして適切に切り取る。そして読者に提示する。そこには読者にはわからない設定の飛躍もない。そして、登場人物たちが読者に内緒で話を進めることもない。全ては読者にわかりやすく展開されて行く。なので読者にはその会話が生き生きと感じられる。フレッチャー家と隣人の日々が容易に想像できるのだ。

また学校生活もそう。スティーヴィーがなじめない学校生活と、親に付いて回る学校関連の雑事。それらを丁寧に描くことで、読者にアメリカの学校生活をうまく伝えることに成功し。ている。読者は本書を読み、アメリカの小学校生活とその親が担う雑事が日本のそれと大差ないことを知る。そこから知ることができるのは、人が生きていく上で直面する悩みだ。そこには国や文化の差は関係ない。本書に登場する悩みとは全て自分の身の上に起こり得ることなのだ。読者はそれを実感しながらフレッチャー家の日々に感情を委ね、フレッチャー家の人々の行動に心を揺さぶられる。

さらには宗教をきっちり描いていることも本書の特徴だ。フレッチャー夫妻はモルモン教の敬虔な信者だ。引っ越す前に所属していた協会では役目を持ち、地域活動も行ってきた。ノースカロライナでも、モルモン教会での活動を通して地域に溶け込む。モルモン教の布教活動は日本でもよく見かける。私も自転車に乗った二人組に何度も話しかけられた。ところがモルモン教の信徒の生活となると全く想像がつかない。そもそもおおかたの日本人にとって、定例行事と宗教を結びつけることが難しい。もちろん日本でも宗教は日常に登場する。仏教や神道には慶弔のたびにお世話になる。だが、その程度だ。僧侶や神官でもない限り、毎週毎週、定例の宗教行事に携わる人は少数派だろう。私もそう。ところがフレッチャー夫妻の日常には毎週の教会での活動がきっちりと組み込まれている。そしてそれを本書はきっちりと描いている。先に本書には未知の出来事は出てこないと書いた。だが、この点は違う。日々の中に宗教がどう関わってくるか。それが日本人のわれわれにとっては未知の点だ。そして本書で一番とっつきにくい点でもある。

ところが、そこを理解しないとフレッチャー夫妻の濃密な会話の意味が理解できない。本書はフレッチャー家を通して1980年代のアメリカを描いている。そしてフレッチャー家を切り盛りするのはステップとディアンヌだ。夫妻の考え方と会話こそが本書を押し進める。そして肝として機能する。いうならば、彼らの会話の内容こそが1980年代のアメリカを体現していると言えるのだ。彼らが仲睦まじく、時にはいさかいながら家族を経営していく様子。そして、それが実にリアルに生き生きと描かれているからこそ、読者は本書にのめり込める。

また、本書から感じ取れる1980年代のアメリカとは、ステップのゲームデザイナーとしての望みや、コンピューターのマニュアル製作者としての業務の中からも感じられる。この当時のアメリカのゲームやコンピューター業界が活気にあふれていたことは良く知られている。今でもインターネットがあまねく行き渡り、情報処理に関する言語は英語が支配的だ。それは1980年代のアメリカに遡るとよく理解できる。任天堂やソニーがゲーム業界を席巻する前のアタリがアメリカのゲーム業界を支配していた時代。コモドール64やIBMの時代。IBMがDOS-V機でオープンなパソコンを世に広める時代。本書はその辺りの事情が描かれる。それらの描写が本書にかろうじてSFっぽい味付けをあたえている。

では、本書には娯楽的な要素はないのだろうか。読者の気を惹くような所はないのだろうか。大丈夫、それも用意されている。家族の日々の中に生じるわずかなほころびから。読者はそこに興を持ちつつ、下巻へと進んでいけることだろう。

‘2017/05/13-2017/05/18


クォンタム・ファミリーズ


最近、SFに関心がある。二、三年前までは技術の爆発的な進化に追いつけず、SFというジャンルは終わったようにすら思っていた。だが、どうもそうではないらしい。あまりにも技術が私たちの生活に入り込んできているため、一昔前だとSFとして位置づけられる作品が純文学作品として認められるのだ。本書などまさにそう。三島由紀夫賞を受賞している。三島由紀夫賞は純文学以外の作品も選考対象にしているとはいえ、本書のようにSF的な小説が受賞することは驚きだ。本書が受賞できたことは、SFと純文学に境目がなくなっていることの証ではないだろうか。

本書は相当難解だ。正直いって読み終えた今もまだ、構造を理解しきれていない。本書はいわゆるタイムトラベルものに分類してよいと思う。よくあるタイムトラベルものは、過去と現在、または現在と未来の二つの象限を理解していればストーリーを追うことは可能だ。だが、本書は四つの象限を追わなければ理解できない。これがとても難しい。

私たちが今扱っているコンピューターのデータ。それは0か1かの二者択一からなっている。ビットのon/offによってデータが成り立ち、それが集ってバイトやキロバイトやペタバイトのデータへと育ってゆく。巨大な容量のデータも元をたどればビットのon/offに還元できる。ところが、量子コンピューターの概念はそうではない。データは0と1の間に無限にある値のどれかを取りうる。

本書のアイデア自体は量子論の概念を理解していればなんとなくわかる気もする。物事が0か1かの二者択一ではなく、どのような値も取りうる世界。0の世界と1の世界と0.75の世界は別。0.31415の世界と0.333333……の世界も別。そこにSF的な想像力のつけいる余地がある。今の世界には並行する位相をわずかに変えた世界があり、違う私やあなたがいる。そんな本書の発想。それは、並行する時間軸をパラレルワールドとしていた従来の発想の上を行く。

0と1の間に数理の上で別の世界がありえるのなら、別世界を行き来するのに数列とプログラミングを使う本書の発想もまた斬新。その発想は、別世界への干渉を可能にする本書のコアなアイデアにもつながる。そして、本書の登場人物が別世界への干渉方法やアクセスの糸口をつかんだ時、別世界とのタイムラグが27年8カ月生じる設定。その設定が本書をタイムトラベルものとして成立させている。その設定は無理なくSF的であるが、本書を複雑にしていることは否めない。

本書には都合で四つの世界が存在する。それぞれが量子的揺らぎによるアクセスや干渉によって影響しあっている。ある世界にが存在する人物が別の世界には存在していなかったり。その逆もまたしかり。しかもそれぞれの世界は27年8カ月の差がある。その複雑な構成は一読するだけでは理解できない。二つの象限を理解すれば事足りていた従来のタイムトラベルものとはここが大きく一線を画している。

違うパラレルワールドの量子の位相の違いで、同じひと組の夫婦が全く違う夫婦関係を構築する。そしてその位相に応じて家族のあり方の違いがあぶり出されてゆく。その辺りを突っ込んで描くあたりは純文学といえるかもしれない。本社は家族のあり方についても深い考察が行われており考えさせられる。だからこそタイトルに「ファミリー」が含まれるのだ。

村上春樹氏の「世界のおわりとハードボイルドワンダーランド」が批判的に幾度も引用されたり、四国の某所にある文学者記念館が廃虚と化している様子が描写されたり、かといえばフィリップ・K・ディックの某作品(ネタばれになるので書かない)で書かれた世界観が仄見えたり。それら諸文学を引用することで、文学の終わりを予感しているあたり、文学者による悲観的な将来が示唆された例として興味深い。

特に主人公は同じ人物が別世界の同一人物と入れ替わったり、性的嗜好が歪んでいたり、テロリズムに染まったりとかなりエキセントリックに分裂している。それほどまでに複雑な人物を書き分けるには、本書のようなパラレルワールドの設定はうってつけだ。むしろそうでも分けないことには、四つの象限に遍在する登場人物を区別できないだろう。

理想と現実。虚構と妄想。電子データで物事が構成される世界の危うさ。本書で示されるネット世界のあり方は、恐ろしく、そして寂しげ。このような世界だからこそ、人はコミュニティに頼ってしまうのかもしれない。

今、世界はシンギュラリティ(技術的到達点)の話題で持ちきりだ。しかし本書は2045年に到来するというシンギュラリティよりも前に、熟しきって腐乱しつつある世界を予言している。

本書を終末論として読むのか、それとも未来への警鐘として受け止めるのか。または単なるSFとして読むのか。本書は難解ではあるが、読者に無限の可能性を拓く点で、SFの今後と純文学の今後を具現した小説だといえる。

‘2017/04/04-2017/04/08


DESTINY 鎌倉ものがたり


本作を観終わった私が劇場を出てすぐにしたこと。それは鎌倉市長谷二丁目3-9を検索したことだ。その住所とは作中で一色夫妻の住む家の住所だ。一色夫妻とは、堺雅人さん扮する一色正和と高畑充希さん扮する妻亜紀子のこと。作中、何度も映し出される一色家の門柱にこの住所が記されている。私はその番地を覚えておき、観終わったら実際にその番地があるのか検索しようと思っていたのだ。何が言いたいかというと、本作で登場する二人の家が実際に鎌倉にあるように思えたほど本作が鎌倉を描いていたという事だ。

その住所はおそらく実在しない。二丁目3-6と3-11は地図から地番が確認できるが、二丁目3-9の地番は地図からたどれないからだ。Googleストリートビューで確認すると、3ー9と思しき場所に建物は立っているのだが。ただ、ストリートビューでみる二丁目3-9の周囲の光景は、本作に登場する二丁目3-9とは明らかに違っている。それもそのはず。本作に出てくる鎌倉の街並みは、現代からみればノスタルジックの色に染まっているからだ。パンフレットに書いてあった内容によると、エグゼクティブプロデューサーの阿部氏からは1970-1980年代の鎌倉でイメージを作って欲しいと監督に依頼したようだ。つまり、その頃の鎌倉が本作の舞台となっている。

そのイメージ通り、冒頭で新婚旅行から帰ってきた二人の乗っているクラシックカーは江ノ電と海岸に挟まれた道を走り、江の島をバックにして有名な鎌倉高校前の踏切を折れ、山への道を進む。その光景の中には全く現代風の車は登場しない。走っている江ノ電の正面にある行き先表示は電光掲示板で、あれっ?と思ったが、どうもその車両は1000系のように思えた。調べてみると1000系の車両は1979年にデビューしたようだ。スクリーンで電光掲示を掲げた江ノ電を見た瞬間、本作の時代考証に疑問を抱きそうになったが、その車両ならギリギリ許されるのだろう。

本作はあちこちでVFXを駆使しているはず。ところが、公式サイトの解説によれば冒頭の車のシーンの撮影には苦労したようだ。それはつまりVFXに安易に頼らず、なるべく生のシーンを撮影しようという山崎監督の意識の高さの表われなのだろう。本作は山崎監督の抱く世界観が全編に一貫している。その世界観とは、原作の絵柄を生かしながら、懐かしいと思われるような鎌倉の街並みを再現しつつ、魑魅魍魎が登場してもおかしくない世界でなければならない。そんな難しい世界観の創造に本作は見事に成功している。監督が本作で作り上げた世界観が私にはしっくりとしみた。なお、私は原作は読んだことがないので、本作のイメージがどの程度作風を思わせる仕上がりなのかはわからない。でも、監督がその世界観の再現に相当苦労したであろうことは伺える。

何しろ、本作に登場する鎌倉は現実と幻想のはざまにある鎌倉なのだから。リアルすぎても不思議すぎても駄目。その辺りのさじ加減が絶妙なのが本作のキモなのだ。日本の古都には狐狸、妖鬽の類がふさわしい。京都などその代表といえる。鎌倉は京都と同じく幕府を擁した過去があり、寺社や大仏などあやかしのものを呼び寄せる磁力にも事欠かない。そのため、鎌倉にあやかしがうろついていても違和感がない。ただ、私は本作を観て、鎌倉とあやかしのイメージが親しいことに初めて気付かされた。今までまったくそのことに気づかなかったが、私にそのことに気づかせるほど本作の映像は絶妙だったのだ。

本作でみるべきは、鎌倉を装飾する監督のセンスだと思う。全編にわたって、鎌倉の何気ない路地や、緑地、砂浜が登場する。そこかしこにコマい魔物がうろちょろするのだ。そして現実も幻想もまとめて縫い付けるように走る江ノ電。本作には多くの伏線が敷かれている。その一つが一色正和の鉄道模型趣味なのだが、江ノ電が本作の映像の核になっていて、鉄ちゃんにもお勧めできること請け合いだ。

また、江ノ電が現世と黄泉を1日一度運行しているという設定もいい。海岸の砂浜にある現世駅はとても現実にあり得ない設定のはずなのに、江ノ電ならではの雰囲気をまとっていた。駅が好きな私でも許せるようなたたずまい。運行される車両はタンコロという鉄ちゃんには有名な車両。今も一両が由比ヶ浜で静態保存されている。そして、本作で現世駅が設置されている場所もたぶん由比ヶ浜にあるのだろう。砂浜に海岸と平行に軌道が延び、その先は黄泉へと通ずる渦がまいている。こういう江ノ電の使い方もとても興味深い。

本作は冒頭から一色夫妻の仲の睦まじさが全開だ。それはもちろん、終盤に正和が黄泉へと亜紀子を連れ戻しに行く展開の伏線になっている。伏線は他にもたくさんある。例えば夜店で亜紀子が正和に買ってとねだる鎌倉彫りの盆や、納戸の中で亜紀子が見つける像など、全てが黄泉の国でのクライマックスに向けて進んで行く。

黄泉の国に向けて走る江ノ電のシーンは本作でも印象に残る美しい映像が見どころだ。パンフレットによれば中国にまで赴いてイメージを作って来たそうだ。その甲斐があって、とても特徴的な黄泉の国のイメージに仕上がって居ると思う。死神によると黄泉の国のイメージは見た人が心に抱く黄泉の国のイメージが投影されるらしい。そうやって語り合う正和と死神の背後に映り込む黄泉とは、実は私自身が黄泉に対して抱くイメージなのだろうか。実は一緒に観た妻や娘にはスクリーン上の黄泉が違った風に映っているのだろうか、と思ったり。そう思わされる独創的な黄泉の国だったと思う。昭和30-40年代の家屋が斜面に積み重なったような黄泉のイメージとは、実にステキではないだろうか。

ただ、本作の美術や衣装、小道具をはじめとした世界観は良かったのだが、全体的な構成はアンバランスだったように思えた。もっと言えば前半部分が少し冗長だったかな、と。それは本作が原作のエピソードを複数組み合わせたことによるもので、仕方なかったかもしれない。例えば、一色正和が事件を推理し解決するエピソード。このエピソードが貧乏神への伏線となり、亜紀子の遺体探しのエピソードにしか掛かっておらず、本編全体にかからないなど。

それもあってか、本作の豪華な俳優陣の演技に統一感が感じられなかったのは残念だ。確かに一色夫妻を演じる二人はとてもよかった。でも、どことなく全編につぎはぎのようなぎこちなさが感じられたのだ。でも、それはささいなこと。娘たちはとても本作を気に入ってくれた様子。今までに観た日本映画で二番目に好きといっていたくらいなので。妻も私も本作はよかったと思う。

ここまで鎌倉を妖しく魅力的に描いてくれたからには、行きたくもなるというもの。その際はぜひとも事前に原作をしっかり読んでから散策したいと思う。

’2018/01/03 TOHOシネマ日劇


武田家滅亡


武田家滅亡。そのものズバリの題名だ。だが、私にとってこの題名はそれだけではなく、何か響くものを感じる。

それは、私にとって武田家とは滅亡した一族ではないからだ。

確かに戦国大名としての武田家は、最後の当主勝頼公が勝沼近くの天目山で自害して滅んだ。と、されている。が、滅亡の際、武田家に縁のある人々が八王子辺りに逃れたことは戦国史に詳しい方なら既知の話だと思う。私の妻が昔から親戚同然でお付き合いしている方は、まさしく八王子の武田さんという。私も以前、自宅にご招待頂いたことがある。詳しい系図を伺ったことはないが、おそらくは直系でないにせよ、武田家初代義光公のご縁に連なる一族なのではないか。

我が家は「週末は山梨にいます」と銘打たれた観光ポスターのコピーがはまるほど、頻繁に山梨を訪れている。また、ここ数年は友人と連れ立って武田家関連の史跡の訪問も重ねている。ただ、私にとって心残りなのは、未だに天目山の景徳院に訪問できていないことだ。それもあって武田家滅亡については一度きっちり勉強したいと思っていた。そんなところに本書を見かけ、手に取った。

だが、本書を手に取ったのは題名もあるが、著者の存在も大きい。というのも本書を読む8ヶ月ほど前、先に書いた友人と共に著者の講演を拝聴させてもらっているからだ。それは小田原市で行われた嚶鳴フォーラムでのこと。著者は北条氏五代を題材にとり、小田原の城郭都市としての成り立ちについて話されていた。その講演の際、私の印象に残っているのは、自己紹介でIT系の会社から作家への転身を成し遂げたとのくだりだ。IT系の会社から歴史作家への転進というのは、なかなか興味深い。私が飯を食っているITの世界の激務の合間を縫い、歴史を紐解きそれを物語りとして世に問うことは早々出来ることではない。それで著者にはなおさら興味を持った。それ以来8か月、本書が私にとってようやくの著者デビューとなる。

本書の舞台は戦国時代の甲斐国。長篠の戦いで織田・徳川連合軍に敗れてすぐの武田家の本拠が舞台だ。武田家は信玄公亡き後、勝頼公が後を継ぐ。が、武運拙く長篠の戦いで一敗地に塗れることになる。本書では長篠合戦大敗の後、再起を果たさんとする勝頼公を中心に、それぞれの思惑を抱えた武田家の人々が描かれる。

複数の人々の思惑を描くにあたり、本書は複数の視点を語り手として物語を進める。その視点とは勝頼公、勝頼公の継室で北条夫人として知られる桂、そして長坂釣閑斎、などの人々のそれだ。

戦国時代といえば下克上の世として知られている。しかし、主従の縛り以上に軽視されたのは契約と女性だ。とくに武田家が治める甲斐は、相模の北条、駿河の今川、のちに徳川、そして越後の上杉などの強国に囲まれる地勢にあった。外交が固まらないことには国の経営も難しい複雑な国情。そんな山国が戦国の世を乗り切るには、犠牲にしなければならないものも多々あったはず。それは契約に左右される人々の運命であり、政略結婚という名の輿入れを強いられた女性たちだったろう。そして、信玄公の治下、一枚岩だった人々の思いは、その重石が取れたことによって千々に乱れ、それが武田家を滅亡へと導いて行く。

著者の筆さばきは、このあたりの人々の思惑を丹念に描いていく。それぞれの時局でなぜそのような判断、決定が成されたかをおざなりにせず、きっちり書き込む。そのあたりの論理の構築と、プロセスの進展は見事というほかない。著者がIT業界で培ったスキルの賜物だろう。

山に囲まれた武田家がなぜあれほどの軍勢を養えたか。その財源が黒川金山と湯之奥金山から算出される金にあったことは、武田家に関心がある方にとってはよく知られる事実のようだ。私も以前、湯之奥金山に訪れたことがあるが、往時はかなりの金産出量を誇っていたと聞く。それが信玄公存命中から枯渇の兆しを見せたことが、武田家の政策を誤らせたと著者は見る。

教科書的知識では、武田家の衰滅の因は長篠の戦いで騎馬軍団が信長軍の鉄砲隊に全滅させられたことにある。しかし、著者はそこに決定的な原因を置いていない。武田家の軍勢は長篠の大敗後もまだ戦国大名としての体裁を保っていた。しかし、著者の解釈では、長篠の戦いで信玄公の薫陶を受けた宿老たちが戦死し、そこに乗じて権勢を手にしたのが長坂釣閑斎で、彼が国策を誤らせた元凶としている。

釣閑斎は、信玄公直々の薫淘を受けた宿将ではない。どちらかといえば信玄公の父信虎公に属していた。そのため、信玄公の治下にあっては不遇を囲っていた。また、信玄公の嫡男義信公が、父への謀反を疑われて自害を命じられた事件に連座して我が子源五郎を殺されている。本書は、釣閑斎がその処遇に関する私怨を宿老たちに抱いているとの設定だ。そのような暗さを視線に含む釣閑斎が、枯渇した金山の替わりとなる財源を求めているところに、上杉景勝公の名代として訪れた直江兼続の見せ金に目がくらみ、伊豆の土肥金山を狙って北条との絆を断ったのが武田家衰亡のはじまり。そう著者は分析する。このあたりは甲陽軍鑑にも書かれている話らしく、真偽は不明ながらも一定の評価を得た史観を題材に筋が組み立てられていることがわかる。ただ、それだけでは足りないので、釣閑斎に宿老への暗い私怨を抱かせ、それが信玄公の遺した国策と違った方向へ武田家を導いたというのが著者の描いた構図である。

本書の幕開けは、北条家から勝頼公の正夫人として政略結婚で輿入れしてきた桂の描写で始まる。だが、桂と勝頼公の蜜月は、北条家と武田家を土肥金山欲しさに離間させようとする釣閑斎の謀りの前に、あっけなく崩される。しかし、勝頼公に遠ざけられてもなお勝頼公を信じ、武田家のために生きようとする桂のけなげさが、政略ロジックが縦横する本書にあって、彩を放っている。

一方、甲斐武田家最後の当主である勝頼公。ともすれば暗君として見られがちな勝頼公は、最近の研究ではむしろ武に優れ、英明な君主だったとの見方をされている。だが、自身が諏訪氏を継ぎ、信玄公の治下にあっては世継ぎではなく義信公の下に置かれていた立場から一点、義信公の謀反死によって後継ぎの座を得られた。そんな経緯が勝頼公に遠慮を抱かせ、それが君主としての隙を産み、ひいては釣閑斎に乗じられる悲劇を生んだというのが著者が勝頼公に投げるまなざしだ。なので、本書が勝頼公を書く筆致には愚かさというよりは哀しみを感じさせる。釣閑斎の奸計で遠ざけられた後、桂が勝頼公の誤解を解き、再び夫婦として愛を育む。その時すでに二人には残された時間は限られており、事態は急流のように二人を死へと追いやる。そのあたりの悲哀が武田家滅亡を弔う調子となって効果的に響く。

本書で二人の夫婦の周辺を固める人物達の造型も実に豊かだ。

釣閑斎が権勢を築くなか、釣閑斎の政策への反対派として追放した武士が何人か登場する。そのうち小宮山内膳は修験者や旅の僧に身をやつし、武田家に恩返しする日を待っている。また、同じく追放された辻弥兵衛は徳川に仕官するために間者に身を落とし、武田方の高天神城の落城に暗躍し徳川方に恩を売ろうとする。

その高天神城では伊那の地侍の片切監物と宮下帯刀と四郎佐の親子三代が徴兵され、守りについている。高天神城の落城後、城内にいた武田家の姫君を甲斐へ落ち延びさせる役割を担い、勝頼公の敗走ルートを辿ることになる。

こういった人々が、武田家の最期に向かって天目山に集ってゆく。そして武田家の最期を飾るに相応しい舞台の登場人物としてそれぞれの役割を果たす。最期の最期まで辻弥兵衛の策に踊らされ、勝頼公と桂が一縷の望みを掛けた亡命策まで奪われてしまう筋の組み立てには隙がない。小山田信茂公も土壇場で主君を見限った不忠者として後世に汚名を残しているが、案外真相は本書で書かれたような徳川方の離間策に嵌ったためではないだろうか。そして小宮山内膳は最後に盟友辻弥兵衛を武田家の家臣として名誉のうちに葬り去り、片切四郎佐は四郎佐は勝頼公の最期まで共に戦い、命を落とす。共に武士道を体現したかのような鑑のような最期を遂げる。そしてその父帯刀は姫君を八王子まで落とすという役割を全うする。

あの武田軍団が最期は十数騎を数えるほどまで残骸をさらし、勝頼公と桂は、そして嫡男である信勝は武田家の最後に恥じぬ自死を遂げる。そして全てが終わった後に姫君を送り届けた帯刀が彼らの遺骸を懇ろに葬り、故郷の伊那に帰ったところで物語は終わる。

武田家の家臣達の多くは徳川家に丁重に迎えられ、江戸時代を全うした家も多いと聞く。あまりにあっけなく滅亡した武田家だが、早晩山国の甲斐では衰退は避けられなかったのかもしれない。しかし「人は城 人は石垣 人は堀」という言葉を残した信玄公は未だに甲州各地で偲ばれている。それは伊那に帰った帯刀のような人物がその威徳を伝え残したためだろう。国破山河在で知られる杜甫の春望を例に引くとすれば、国破人声在と400年以上も人々の声を残し続けたのが武田家だったのではないか。

見事な滅亡の謎解きと、ロジックを越えた所にある人の心情や友情を書き尽くした著者はただただ見事。IT系の企業出身であることは嚶鳴フォーラムの自己紹介で知っていた。が、本書の奥付の記載で著者が日本IBM出身であることを知った。猛烈に働く人々の多いかの会社から著者のような作家が登場したことに例えようもないほどの励みをもらった。行きたいところがありすぎる私だが、なるべく早く天目山には訪れたいと思っている。おそらくは著者も立って、武田家に思いを馳せた場所で。

‘2015/9/24-2015/9/28


ウィスキー検定3級合格


昨夜、私の元に第3回ウイスキー検定の合格証が届きました。今年の2/7に妻と一緒に3級を受験した結果です。私は77点しか取れず、妻は52点で不合格。正直言って私にとっては不本意な得点でした。3級と侮り9割は取れると思っていた驕りを自分で戒めなければと思っています。負け惜しみにしか聞こえないのですが、3級の出題レベルは相当上がっていました。
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実はこの検定、昨年の第2回(2015/5/31)の際に受ける予定でした。が、法人設立直後ということもあり断念した経緯があります。元々ウイスキー検定については、麹町のBar LittleLinkさんから御紹介頂いていました。丁度、第1回(2014/12/7)が開催された少し後の事です。その場では、名古屋のウイスキー好きの愛好家ともお知り合いになる機会を頂きました。そこでお互い第2回を合格したらまたこのBarで会いましょうという約束を交わしました。が、私は上に書いた理由で第2回の受験を断念せざるを得なくなりました。以降、Bar LittleLinkさんには顔向けできない状態でしたが、ようやくこれで伺えます。

今回、私だけでなく妻も受験したのには理由があります。昨年10/11に妻と「SAITAMAブリティッシュフェア2015」を訪れました。「SAITAMAブリティッシュフェア2015」にはスコッチ文化研究所(この春からウイスキー文化研究所に名称変更)さんが出展されていたのです。私から感化されたのか、妻もウイスキー好きとなってくれ、老後の夫婦の愉しみがまた一つ増えています。GlenFiddichをこよなく愛する妻に、もっと色んなウイスキーを経験してもらえれば、と思ったのが夫婦で訪れた理由となります。

そして、このブースには土屋守氏も来ておられました。土屋守氏といえば世界のウイスキーライター五人にも選ばれ、かの「マッサン」のウイスキー考証・監修も担当されています。私自身、20年前からウイスキーに親しんでいますが、土屋氏の著作は何冊も持っています。私も土屋氏とツーショット写真を撮らせて頂き、その場でトートバッグにもサインして頂きました。著書を持ってこなかったのが悔やまれます。そして、その場で土屋氏から受験を薦められた妻は、一念発起で受験してみようと思ったのでしょう。私も受験勉強の時間がなかなか取れず、2級合格の自信が持てなかったこともあり、共に3級を受験しました。あまり勉強せずとも3級なら受かるでしょ、との驕りとともに。
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GlenFiddich好きの妻は、ほとんどウイスキーの背景など知らず、私に何度か蒸留所に連れて行かれたくらい。受験直前に付け焼刃で学んだのもいいところでしたが、それでも52点取れたのだから、その努力は大いに褒めても良いと思います。正直、今回の3級のレベルは以前の2級のレベルにも匹敵するのではないかと思います。それほど高度でした。

でも、それは私が77点しか取れなかったことの言い訳にはなりません。勉強すれば2級も難しくないと思っていたし、Bar LittleLinkの方からも、そこで知り合った名古屋の方にも2級受かるでしょう、と言われましたが、これでは到底受からなかったでしょう。まだまだ自分の勉強不足を痛感します。

私自身、今まではこういった資格取得を軽んじていました。本業であるIT系の資格ですら、10数年受けていません。実際、現場でもお客様に対しても資格の有無を問われることはほぼありません。それでも仕事はこなせます。また、最近は色々な資格が乱立しています。「真田三代戦国歴史検定」「ベルサイユのばら検定」「たこ焼き技能検定試験」などなど。それはもはや、資格商法と言われても仕方ないほどの乱立振りです。実際のところ、私もそう思って馬鹿にしていたことを白状しなければなりません。

しかし、ウイスキー検定は少なくとも私にとって歯ごたえのある試験でした。普段仕事を行いながら、趣味で道を究めることは簡単なようでいて実は難しい。客観的なフィルターを経ることがないので、自分の知識に対して夜郎自大になりかねない。今回のウイスキー検定は、そのことを私に教えてくれました。乱立する色んな資格も実は馬鹿にしたものではないとまで思うようになっています。

次回は2017/2に実施されるとか。私は2級を、妻は3級を。再び一緒に受験しようと思っています。夫婦でこうやって何かの道を一緒に勉強できることって、素晴らしいことだと思います。ゆくゆくは夫婦でスコットランドへ。これも目的の一つです。私にとってのウイスキーの師匠とも呼べる方が大阪にいらっしゃるのですが、この方も何度も夫婦でスコットランドに行かれているのだとか。私の今後の目標でもあります。


ビッグ・ドライバー


先日紹介した1922のレビューで、本書は、4つの中編を編んだ「Full Dark, No Stars」のうち、「1922」と「公正な取引」の2編を文庫化したものである、と書いた。残りの2編が納められているのが本書である。

1922のレビューにも書いたが、著者がその類い希なる力量を注いだ表題作「1922」は、間違いなく傑作である。「Full Dark, No Stars」と題した原題からは光を拒絶した、暗く塗り潰された物語を想像する。確かにダークではあるし、表題作こそその様な作風だが、もう一編の「公正な取引」はギャグ的なブラックユーモアに満ちた一品である。では、本書に収められた残りの二編はどのような内容だろうか。

表題作でもある「ビック・ドライバー」は復讐譚である。作家である主人公は、講演の帰り道、車がパンクするというトラブルに見舞われる。さらには、通りがかりに助けを求めた巨漢に廃屋でレイプされ、あわや殺されそうになる。彼女の味わった恐怖と絶望、そして命からがら逃げ帰った後の激烈な怒り。キング一流の心理描写が主人公の感情の流れを鮮やかに写しだす。自分の名声を擲ってまでも主人公は復讐を遂げるのだが、復讐過程にも一捻り加える。つまりは鬱憤を晴らし、溜飲を下げるような筋書きには持って行かない。あえて謎解きの要素も若干散りばめ、通りのよい復讐劇に不可解な謎を散りばめ、混乱の色を加える。そうすることで物語から救いを消し去る。そして残るのは重苦しい読後感だけ。

もう一編の「素晴らしき結婚生活」は、長年の幸福な結婚生活を楽しむ主婦が、夫の連続殺人犯としての素顔に気付き、戦慄する話。

夫の正体に気付いた後、どのような筋運びがよいか。私のような素人でも何通りかの筋は考え付くことができる。しかし、著者が選んだ筋は意表を突いたもの。ありきたりな結末に終わらせることなくまとめるあたり、さすが巨匠である。明るく平穏な親しい人の裡に潜む、他人にはうかがい知れぬ闇。一読すると明るい彩りで物語は進むが、ガレージのわずかな隙間から、闇は夫婦の間に忍び込む。闇の射し込み加減を効果的に活写する技巧には、ほれぼれする他はない。

「ビッグ・ドライバー」が、ある日突然襲い来る暴力の不条理をギラギラと攻撃的に尖った漆黒の暗色だとすれば、「素晴らしき結婚生活」の暗さとは、光の眩しさの対極にある影の作り出す陰影の色だろうか。「1922」は、あらゆる光を吸収し、底しれぬ闇の色で塗り潰し、「公正な取引」は読者の心をくすぐり、賑やかで楽しげな構図を、グレイと黒の二色で塗り分ける。

4編のダークな中編を、単一で平板な黒ではなく、多彩な濃淡で書き分けるところに、著者の巨匠たる所以がある。

‘2014/9/13-‘2014/9/16