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アクアビット航海記 vol.15〜航海記 その4


あらためまして、合同会社アクアビットの長井です。前回にも書きましたが、弊社の起業物語をこちらに転載させて頂くことになりました。前々回からタイトルにそって弊社の航海記を書いていきます。以下の文は2017/11/16にアップした当時の文章が喪われたので、一部修正しています。

大学は出たけれど

さて、1996年の4月です。大学は出たけれど、という昭和初期に封切られた映画があります。この時の私はまさにその状態でした。この時から約3年。私にとっての低迷期、いや雌伏の時が続きます。この3年間についての私の記憶は曖昧です。日記もつけていなければ、当時はSNSもありませんでしたから。なので、私の3年間をきちんと時系列に沿って書くことはできないでしょう。多分記憶違いもあるはず。ともあれ、なるべく再構築して紹介したいと思っています。

妙に開き直った、それでいてせいせいするほどでもない気持ち。世の中の流れに取り残されたほんの少しの不安、それでいて焦りや諦めとも無縁な境地。あの頃の私の心中をおもんばかるとすればこんな感じでしょうか。新卒というレールから外れた私は具体的な将来への展望もない中、まだどうにかなるわという楽観と、自由さを味わっていました

大学を出たとはいえ、私の心はまだ大学に留まったままでした。なぜかというと家が大学のすぐ近くだったからです。アクアビット航海記 vol.12〜航海記 その1にも書きましたが、わが家は阪神・淡路大地震で全壊しました。そこで家族で住む家を探したのが私でした。家は大学の友人たちに手分けして探してもらいました。そしてほどなく、私の一家は関西大学の近くに引っ越しました。この時家を見つけてくれた友人には20年以上会えていません。N原君、覚えていたら連絡をください。
さて、家の近くに大学があったので、卒業したはずの私は在学生のようにぬけぬけと政治学研究部や大学の図書館に入り浸っていました。

その時の私は多分、光画部における鳥坂先輩のような迷惑至極な先輩だったことでしょう。鳥坂先輩と同じく大義名分として公務員試験を受ける、という御旗を立てて。それは、私自身でも本当に信じていたのか定かではない御旗でした。ちなみに鳥坂先輩が何者かはネットで検索してください。

1996年の10月。西宮に新しい家が完成し、西宮に戻ることになりました。引っ越す前には幾度も西宮に赴き、引っ越し作業に勤しんでいた記憶があります。なにせ、時間はたっぷりありますから。

孤独な日々

そう、時間だけは自由。何にも責任を負わず、親のスネをかじるだけの日々。この半年、逆の意味で時間の貴重さを噛みしめられたように思います。なぜなら、何も覚えていないから。インプットばかりでアウトプットがないと、時間は早く過ぎ去ってゆく。責任がないと、ストレスがないと、何も記憶に残らない。私が得た教訓です。

ですが、1996年の4月から1999年の3月までの3年間はとてもかけがえのない日々でした。なぜならこの3年間も大学の4年間に劣らず私の起業に影響を与えているからです。この3年間に起こったさまざまなこと、例えば読書の習慣の定着、パソコンとの出会い、妻との出会い、ブラック企業での試練は、起業に至るまでの私の人生を語る上で欠かせません。

この三年で、私が得たもの。それは人生の多様性です。小中高大と順調に過ごしてきた私が、会社に入社せず宙ぶらりんになる。それもまた、人生という価値観。その価値観を得たことはとても大きかった。大学を卒業しそのまま社会に出てしまうと宙ぶらりんの状態は味わえません。そして、それが長ければ長いほど、組織から飛び出して“起業“する時のハードルは上がっていきます。人によってそれぞれでしょうが、組織にいる時間が続けば、それだけ組織の中で勤めるという価値観が心の中で重みを増していきます。
誤解のないように何度も言い添えますが、その価値観を否定するつもりは毛頭ありません。なのに私は23の時、すでに宙ぶらりんの気持ちをいやというほど味わってしまいました。そして、宙ぶらりんの状態もまた人生、という免疫を得ることができました。それは後年、私の起業へのハードルを下げてくれました。
起業とは、既存の組織からの脱却です。つまりどこにも属しません。起業とは多様性を認め、孤独を自分のものにし、それを引き受けることでもあります。卒業してからの半年、私の内面はとても孤独でした。表面上はお付き合いの相手がいて、政治学研究部の後輩たちがいて、家族がいました。でも、当時の私は、あっけらかんとした外面とは裏腹に、とても孤独感を抱えていたと思います。

本に救いをもとめる

その孤独感は、私を読書に向かわせました。本に救いを求めたのです。その頃から今に至るまで、読んだ本のリストを記録する習慣をはじめました。
当時の記録によると、私の読む本の傾向がわが国、そして海外の純文学の名作などに変わったことが読み取れます。
それまでの私はそれなりに本を読んでいました。推理小説を主に、時代小説、SF小説など、いわゆるエンタメ系の本をたくさん。ですが、私の孤独感を癒やすにはエンタメでは物足りませんでした。純文学の内面的な描写、人と人の関係の綾が描かれ、人生の酸いも甘いも含まれた小説世界。そこに私は引き寄せられていきました。私はそれらの本から人生とはなんぞや、という問題に折り合いをつけようとし始めました。

もちろん、それを人は現実逃避と呼びます。当時の私が本に逃げていた。それは間違いありません。でも、この時期に読書の習慣を身に着けたことは、その後の私の人生にとても大切な潤いを与えてくれました。おそらく、これからも与えて続けてくれることでしょう。

この時、私が孤独感を競馬、パチンコなどのギャンブル、またはテレビゲームなどで紛らわそうとしていたら、おそらく私がここで連載を持つ機会はなかったはずです。
とはいえ、私はギャンブルやゲームを一概に否定するつもりはありません。きちんと社会で働く方が、レクリエーションの一環で楽しむのなら有益だと思います。ですが、時間を持て余す若者-当時の私のような-がこういった一過性のインプットにハマったら、後に残るものは極めて少ないと言わざるをえません。
私の中の何が一過性の娯楽に流れることを留めたのか、今となっては思い出せません。自分の将来を諦めないため、私なりに本からのインプットに将来を賭けたのでしょうか。いずれにせよ、本から得られたものはとても大きかった。私もこういうクリエイティブな方向に進みたいと思わせるほどに。

次回も、引き続き私の日々を書きます。


東京大地震は必ず起きる


確信に満ちた力強いタイトル。地震が取り上げられた文章において、確信は避けられる傾向にある。なぜなら、地震予知は難しいから。急が迫っている場合ならまだしも、何年単位のスパンで確率が何パーセントと言われても、受け取る側に危機感はない。それどころか、下手に煽って経済活動が止まれば経済の損失がかさむ。特に日本のように交通機関のダイヤグラムにうるさい国の場合はなおさらだ。だから地震学者は地震の予知には慎重になる。慎重どころか及び腰になる。そこに来て本書だ。著者は防災科学技術研究所理事長の肩書を持つ方。地震予知が専門でない分、本書のように一歩踏み出したタイトルをつけられるのだろう。そして、本書のようなタイトルの本を著したことに、首都圏に迫る直下型地震の現実味と焦りを感じる。

著者は率直に述べる。阪神・淡路大震災が予想外だったと。1995年1月17日、著者は地震防災に関するシンポジウムのため大阪のホテルに泊まっていて早朝の地震に遭遇したそうだ。関西では大地震は起きない。そんな定説に安住していたのは何も私たちのような一般市民だけではない。防災学者にとって、関西で地震が起こるなど、ましてやあれほどの被害が発生するとは想像できなかったらしい。

著者は防災の専門家として、阪神・淡路大震災のちょうど一年前にアメリカ西海岸で起きたノースリッジ地震を例に挙げ、そこで高速道路が倒壊したようなことは日本では起きないと大見得を切っていたという。しかし、阪神高速は脆くも倒壊した。わたしの実家のすぐ近くで。著者はその事を率直に記し、反省の弁を述べる。その態度は好意的に受け止めたい。著者の態度は、同時に地震の予知や防災がいかに難しいかを思い知らされる。

たとえ確率が数パーセントであっても、それはゼロではない。そして地震は起こってしまうのだから。事実、阪神・淡路大震災が起こったとき、日本政府も関わっていた地震予知計画は成果があったとして第七次計画中だったが、阪神・淡路大震災を予知できなかったことにより、第七次で打ち切られたという。防災計画も、著者らは火災の延焼による被害が都市にダメージを与えると考えていたらしい。ところが都市直下型地震ではなく、日本の誇る堅牢な構造物すらあえなく崩れる。学者の無知を著者は悔やむ。

著者はその教訓をもとに、首都圏に迫る直下型地震に警鐘を鳴らす。それが本書だ。著者は震災が都市に与える影響を四つに分けていた。火災、情報、ライフライン、経済の四つだ。そして著者は阪神・淡路大震災によって、構造物の問題にも目を向けた。だから今は五つの要素が年に影響を与える。

東海地震や南海地震、それらが複合する東南海地震。これらの地震の発生が差し迫っていることは、ずいぶん前から言われて来た。しかし、この10数年は、それに加えて首都圏の地下を走る断層が引き起こす首都圏直下型地震についてもとり沙汰されるようになった。もし朝夕のラッシュ時に強烈な揺れが都心を襲えば、被害は阪神・淡路大震災の比ではない。私も死ぬことは覚悟しているし、そのリスクを避け、都心での常駐作業をやめた今でも、商談で都心に赴いた際に多い。だから地震で命を落とす可能性も高いと妻子には伝えている。

著者は防災の観点で、首都圏で震度6強の地震が起きたらどうなるかを詳細に書く。兵庫県と比べると東京の抱える人口や経済規模はレベルが違う。路地の狭さや公園の人口あたりの面積も。交通量の多さも。どれもが被害を膨大に増やすことだろう。「東京における直下地震の被害想定に関する調査報告書」は二編で千百ページにも達するという。著者はこの報告書の言いたいことは最初の20ページで良いという。その上で残りの部分を著者が要約し、被害の想定を述べる。

面白いのは著者がこの報告書に批判的なことだ。はっきりと「過小評価」と言っているし、そもそも想定自体が専門家による仮定に過ぎないという。おそらくこの報告書は建築物の分布や、電柱、地盤、道路などさまざまな条件をもとに作られている。だが、当日の気候や風、発生時間、震源地は仮定で考えるしかない。著者が言いたいのは、報告書を鵜呑みにしない、ということだろう。

著者はそれを踏まえ、液状化や火災発生、延焼、停電、断水など報告書で詳しく載せられている23区のそれぞれについて、データの読み方を述べている。この章は、都心に住んでいたり、仕事をしている方には参考になるはずだ。

続いて著者はライフラインとは何か、について述べる。上下水道、ガス、電気、道路、鉄道、電話などだ。本書は東日本大震災の前に出版されているため、福島の原発事故やそれが東京の電力需給に大きな影響をもたらした事には触れていない。そのかわり、阪神・淡路大震災でライフラインが広範囲に断絶した状況について、かなり触れている。

私の経験を語ると、東日本大震災で経験した不便など、阪神・淡路大震災で味わった不便に比べるとわずかなものだ。3.11の当日の停電では、妻は錦糸町から帰れず、私も娘たち二人とロウソクで過ごした。その後の計画停電では、仕事にも支障をきたした。私は当時、毎日日本橋まで通っていたので、交通網の混乱も知っている。だが、阪神・淡路大震災の時はそもそも電気もガスも水道も来ない状態が続いたのだ。わが家は大きな被害を受けた地域の東の端。すぐ近くの武庫川を渡れば、その向こうはまだ生活が成り立っていたので、買い出しや風呂はそこにいけば大丈夫だった。だから当時神戸市内に住んでいた方の苦労など、私に比べたらもっと大変だったはず。
阪神・淡路大地震での体験はこちら
人と防災未来センターの訪問記はこちら
地震に対する私の気構えはこちら

3.11で味わった地震の不便をもとに、首都圏の人が地震の被害を考えているとすれば大きな間違いだと思う。

本書は地震が起こってしまった場合のさまざまなシミュレーションもしてくれている。立川に官邸機能が移ることも。そして、私たちが何をすれば良く、普段から何を準備しておくべきかを記してくれている。本章に書かれた内容は読んでおくべきだろう。また、東京都民であれば、都から配られた『東京防災』も読んでおくことをお勧めしたい。私も本稿を書いたことで、あらためて『東京防災』を読んでおかねば、と思った。

不幸にして揺れで亡くなった場合は、その後のことは考えようがない。だが幸運にも生き残った時、そこには想像以上の不便が待っているはずだから。

末尾には著者が防災専門家の目黒公郎氏と対談した内容が載っている。そこに書かれていることで印象に残ったことが一つある。それは亡くなった方が思うことは、ライフラインの充実ではない。それよりも家の耐震をきっちりやっておけばよかった、と思うはず、とのくだりだ。地震の被災者になった事で、次への備えを語れるのは生き延びた人だけなのだ。私もそう。幸運にも生き延びた一人だ。だからこそ、このような文章も書けるし、日々の仕事や遊びもできる。このことは肝に命じておきたい。

また、村尾修氏との対談では、WTCのテロの現場を視察しに行った村尾氏の経験と、そこからテロに備える防災について意見を交換する。東京は地震だけでなく、テロにも無防備だとはよく言われることだ。だが、テロはどちらかといえば点の被害。震災は面の被害が生じる。また、アメリカは戦争の延長で防災や事後対応が考えられている事が、日本との違い、という指摘は印象に残る。

最後は著者が国会の委員会に参考人として呼ばれた際の内容をおさめている。その内容はまさに本書のまとめというべき。

私も常時都心にいることはなくなったとはいえ、まだまだ都心に赴くことは多い。本書を読みつつ、引き続き備えを怠らぬようにしたい。そして、生き残った者として、何かを誰かに還元する事が務めだと思っている。

‘2017/09/29-2017/10/01


地震に備える仕事と生活


熊本で大きな地震がありました。

奇しくも兵庫県南部地震(阪神・淡路大震災)と同じマグニチュードだったそうですね。
断層を震源とした都市直下型としても同じ構造のように思えます。

当時、兵庫県南部地震で被災した者としては、今回の地震には思うところが多々あります。

その思いは、どうしても目前に迫っているといわれる首都圏直下型地震にたどり着きます。2020年のオリンピックも近づいている東京ですが、耐震対策については依然として改善の兆しが見えません。

私はこの4月からワークスタイルを変えました。3月までは月~金は都心で客先に常駐するスタイル。4月からは週の半分を弊社事務所や町田近辺で仕事するスタイル。ワークスタイル切り替えの理由の一つは、地震に対するリスク回避です。

2011/3/11。東日本大震災が起きた日の私はたまたま家で仕事をしていました。当時、私は日本橋の某金融機関本店で勤務していました。しかし、この日は個人で請けていたお仕事を進めたくて、家で仕事をしていたのです。一方、妻は地震発生の瞬間、仕事で錦糸町にいました。結局妻が帰って来たのは翌朝のこと。小学校に通っていた娘たちを迎えに行ったのは私でした。

もしそのとき、私が普段どおり日本橋に向かっていたら、娘たちは父や母の迎えもないまま、心細い思いを抱えて学校で一夜を過ごすことになったことでしょう。

その経験は、私に都心常駐の仕事が抱えるリスクを否応なしに意識させました。個人事業主となってから5年。ゆくゆくは常駐に頼らぬ仕事を目指そうと漠然とは思っていました。でも、都心常駐から町田近辺での仕事へ、という切り替えを真剣に模索するようになったのは3.11の後です。そして昨年は1.17の阪神・淡路大震災が発生して20年の節目でした。自分の被災者としての思い出を振り返るにつれ、ワークスタイル切り替えの思いはさらに強まりました。

私が個人事業を法人化したのはその余韻もさめない4/1のことです。法人化にあたって、どこにビジネスの基盤を置けばよいか、かなり考えました。個人事業主であれば身軽です。仮に首都圏直下型地震が起き、都心で受託していた仕事が継続できなくなったとしても、別の場所で仕事を頂くことができたかもしれません。でも法人化を成した後ではそうも身軽ではいられません。いざ都心が地震で甚大な被害を蒙ったとして、ビジネスの重心が都心に偏っていると、経営基盤にも深刻なダメージが及ぶでしょう。弊社のような創立間もない零細会社としてはなおさらです。そのようなリスクを軽視することはできませんでした。

法人化当初から描いていたワークスタイルの変更は、1年を経てこの4月から一部ではありますが成し遂げることができました。しかしまだまだです。私の目標は日本全国にあります。人を雇って支店を置くのもよいですが、できれば私自身が日本を巡り、巡った各地域の人々と交流できるような仕事がしたいと思っています。いわば旅の趣味と仕事を両立できるようなワークスタイル。

実際、私が大阪で非常にお世話になり、東京でも度々お世話になった方は、堅実な士業に従事しながらも、全国から引き合いを受けては地方を度々訪れているそうです。この方のワークスタイルやライフスタイルは、昔から私の目標とするところです。

私がそういったワークスタイルを実現できたあかつきには、各地を訪れてみたいと思います。地震の被害から復興され、ますます名城としての風格を備えた熊本城を見つつ、地域振興の仕事をお手伝いできているかもしれません。東北の沿岸部では活発な市場の掛け声の中、IT化のお手伝いができるかもしれません。雪深い新潟の山里では、うまい日本酒を頂きながら地元の人々と日本酒文化を世界に発信するための戦略を肴に歓談しているかもしれません。実家に帰った際には、30年前の阪神・淡路大震災からの歴史をかみ締めながら、地元の友人たちと飲んでいるかもしれません。

でも、まずは足元です。足元を固めないと。そのためにはワークスタイルの変革をぜひとも成功させるために努力することが必要です。町田にビジネスの拠点を置いたとして、首都圏直下型地震のリスクは少しは軽減されますが、立川断層を震源とした地震が起きた場合は甚大な被害を受けるでしょう。富士山が仮に噴火した場合もそうです。火山灰による被害は都心よりもさらにひどいものになるでしょう。結局、問題とすべきでは場所ではなく、一箇所に長く留まるようなライフスタイルといえるのかもしれません。

また、どこにいても災害が起こりうるのであれば、いつも災害に関して備えておく必要があります。昨年の秋、東京都民には充実した防災手帳が配布されました。内容はすばらしいの一言です。これを再び読むことを怠ってはならないでしょうね。また、普段から「いつも」地震に備えるためには、以前にも読ん読ブログでも紹介しました以下の本が参考になります。
地震イツモノート―阪神・淡路大震災の被災者167人にきいたキモチの防災マニュアル

なお、こちらの内容はWebでも無料で公開されています。是非お読み頂くことをお勧めします。

最後になりますが、熊本で被災された方々に平穏の日々がなるべくはやく訪れますように。私個人の体験から、被災された方にとって外部でどういった報道がされようが、どういったブログが書かれようが、何のイベントが自粛されようが、全く関係ないことはよくわかっているつもりです。私が書いたこのブログにしても、ほとんどの被災者の方には届かないことでしょう。

でも、私自身にとって熊本の地震には何かのご縁を感じるのです。それは冒頭に挙げたような阪神・淡路大震災の類似もあるでしょう。さらには、ここ2週間私が開発で使っているCodeIgniterというフレームワークを介したご縁もあります。3.11が起きた日、私が自宅で作業していたのが、まさにCodeIgniterを使った開発でした。それ以来数年ぶりに使っていたら今回の地震に遭遇しました。

そんな訳で、熊本の地震には何かの縁を感じます。その縁を私がどういう行動で太くするか、それはこの後考えてみようと思います。まずは先に紹介した地震イツモノートを紹介して、これからの地震への備えについて注意喚起しようと思います。


被災地の本当の話をしよう 陸前高田市長が綴るあの日とこれから


最初に断っておくと、私には東日本大震災について語れる何物もない。知識も資格も。あれから4年の歳月が経とうとしているが、発生後、東北には一度も行けていない。いや、一度だけ行ったことがある。それは一昨年の夏、地震発生から二年半後のこと。家族でいわき市のスパリゾートハワイアンズに行ったのだが、気楽な観光客としての訪問であり被災地の皆様に貢献した訳ではない。

阪神・淡路大震災の被災者として何も出来なかった。そんな自分に未だに収まりの悪い想いを抱いている。仕事の忙しさや恩人である先輩の逝去による精神状態の悪化などはもちろん言い訳にならない。

私が貢献したことがあったとしても微々たるものである。幾ばくかのチャリティー品を買うのが精々。本書も実は、チャリティー品として売られていたものである。

著者は、東日本大震災発生当時の陸前高田市長である。そして、今もその任務を遂行されておられる。加えて、私の娘が通う中学の大先輩にも当たる。そのご縁から、毎年行われる学校見学会に陸前高田市の応援ブースが設けられている。ブースには被害状況や、復興状況のパネルが展示されており、私も見学させて頂いた。また、ブースでは陸前高田市の物産も販売されている。前年に訪問した際は食品しかなく、昆布やサイダーを購入したのだが、今回の学校見学会で訪れてみると、物産の横に本書が並んでいた。迷うことなく購入した。

私の本購入の流儀は積ん読である。購入してしばらく経ってから読み始めることが多い。しかし、本書は別である。積ん読扱いを私の中の何かが許さなかった。

本書は、地震に遭遇した著者の綴った記録である。被災自治体の長として、夫として、父として、家長としての行動が率直に綴られている。己に与えられたこれらの役割のどれも疎かにせず全霊で災害に当り、奮闘にも関わらず想像を絶する津波の猛威になすすべもなく呑み込まれて行く様が記されている。奥様が津波に呑まれ行方不明になる中、自治体の長としての職務を放棄せず、母を亡くした我が子に対する父としての接し方に自己矛盾と葛藤を抱える。本書の記述は、現場の惨状を見、それに率先して立ち向かわなければならない著者にしか書けない血の通った内容である。

涙が出た。著者の直面した重い日々に。それを堪え平静に綴られる文章に。そして何も出来なかった自分に。

本書を前にすると、数多のブログ、数ある新聞や雑誌、何度も行われた永田町での記者会見が霞んで消える。ジャーナリズムすら無力に思える。

家族とは、仕事とは、責任とは。頭で理解した振りをすれば、そう振る舞えるのが大人。東京電力や当時の首相の対応に苦言を発信するのも簡単なIT社会。しかし、そのどれもが本書の前ではカゲロウのように薄い。ほとんどの意見は紙のように軽い。本書のレビューを書いている私も同様で、著者の痛みや苦しみを理解したとはとても言えない。

しかし、この本が私に与えた影響は小さくはない。それは、地域のコミュニティについての気付きを与えてくれたから。法人化という目標を立てた私にとって、本書が与えてくれた何かは確かに伝わった。そしてそれは、私の中で着実に育ち始めている。

本書を読み終えて、数ヶ月経った今、私が被災地に行ける目処は立っていない。しかし、社会起業としての生き方に向け、舵を切りつつある自分がいる。いつか、何かのご縁で、被災地の力になれれば本望である。

著者は業務多忙の中、娘の中学に大先輩として、話しに来て頂いたと聞く。先ほど娘に聞いたところ、「よく、『被災地に何が必要ですか』と支援者から聞かれる。でもそれは実際に被災地に来て、その目で被災地の状況を見た上で、御自身で考えて頂きたい」という部分が印象に残ったようである。どういう話をされたのか、我が娘に何が託されたのか、それは知らない。しかし、著者の言葉は私の娘へ確かに伝わったようである。私が本書から受け取った想いのように。

2014/9/6-2014-9/6


あの日から20年


 午前5時46分。巨大な両手で家を捕まれ、前後左右に強く振り回されました。以来20年が経ちましたが、あの朝味わった揺れの強烈さは感覚の底に未だにこびりついています。その揺れは、何千人もの人々の命を奪い、私の家族をはじめ、何十万もの人々から家や想い出を奪いました。兵庫県南部地震、いわゆる阪神・淡路大震災です。1/17が来るたび、この日の思い出が蘇ります。

 幸いなことに私は怪我もなく、阪神間に住んでいた親族も無事でした。しかし、野島断層に生じたずれと、そこから弾けた衝撃波は、私の家と、その後の人生をも大きく揺さぶりました。私にとって生涯忘れることのできない揺れです。とはいえ、20年とは赤子が成人に育つだけの年月です。当時を振り返ろうにも、私の脳裏からはかなりの記憶が失われてしまいました。しかし、記憶に積もった埃を払うには、今が最後の機会かもしれません。大学3回生の、挫折を知らぬ太平楽な青年も、20年の年月が経てば、上京し結婚し2児の父となり、それなりに生きる苦みと素晴らしさを思い知ります。今年に入り、本ブログを本格的に活用しようと決めました。決めた以上は、20年の節目を指をくわえて見過ごすわけにはいきません。払った埃がまだ空中に舞っている間に、思い出せる限り当時のことを書いてみようと思います。私が経験したこと、思ったこと。地震が日本に与えた影響について。両親から当時の写真をデータで頂いたので、写真付で綴ってみようと思います。

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 まずは前日。平成7年1月16日に記憶を巻き戻してみます。

 その日、私は明石に住む友人と会っていました。高校、大学と窓を同じくし、共に過ごした気の置けない友人です。その日何をしていたかは、もはや記憶の藪の中です。彼とは大学は同じでも学部が違っていたので、1月17日から始まる予定の期末試験の相談をしていたとも思えません。おそらくは二人でよくスキー旅行に出かけていたので、季節柄スキーの計画を立てていたのでしょう。

 夕方、明石の彼の家を出た私は、車で西宮の実家に戻りました。その時、何を思ったか、直線コースの2号線、43号線を使わず、長田辺りから山手幹線を通って帰りました。長田といえば翌朝の震度7の揺れとその後の火災旋風でかなりの被害が出た場所です。翌朝にそこが焼野原になることなど知る由もなく、ましてや再び明石に救援に戻ることなど思いのほかでした。予知能力などといった高尚な能力は持ち合わせませんが、偶然の暗合として、未だに思いだすエピソードです。

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 そして当日。平成7年1月17日。午前5時46分。

 当時も今も、私の実家は甲子園の某所にあります。今の家は、地震で全壊した旧宅を更地化し、そこから両親の力で建て直したものです。その朝、2階建て木造一軒家の我が家は震度6の揺れに激しく震えました。築30年の風雪に耐え、あちこちで古びつつあった我が家は、私が幼稚園生の頃に前の持ち主から買い受けた家です。前の持ち主の調度や壁紙、扉などかなり凝っており、建売住宅とは一線を画した造作になっていました。その家の2階の1室が私の部屋でした。部屋の押し入れを寝室として使っており、凄まじい揺れも押し入れで体感しました。気楽な大学生にとって朝の5時46分は深夜も深夜。熟睡中でした。そんな中、ものすごい揺さ振りです。それを夢うつつの中で感じ、起きたのは揺れが収まってからです。でも、巨大な手によって掴まれた家が、強烈に揺さぶられる感覚は、未だに拭い去ることができません。

 襖で隔てられた隣の部屋は家族がクローゼットとして使っていました。丁度その瞬間、早朝からのゴルフの支度に余念のない父に、強烈な揺れで崩れたタンスが襲いかかりました。危うくタンスに命を奪われかけた父ですが、なんとか急所を外し、私の安否を尋ねてくれました。それで私もはっきりと覚醒しました。しかし私の部屋は、多数の本が散らばり、床は一面本の海。しかも、眼鏡が地震の揺れで行方不明となり、探すのに難儀しました。揺れが収まった直後の奇妙な静寂と、やがて近所から聞こえてくる泣き声。何か大変なことが起こったことを、その静寂が教えてくれました。

 1階に寝ていた母と2階の別の部屋で寝ていた弟は無事でした。1階に集合し、まずラジオを点けました。ラジオが伝える報道では、震源地は明石海峡付近であるとのこと。明石には父の両親が住んでいます。しかも住まっている家は戦前から変わらぬ佇まい。リフォーム知らずの老朽度は、かなりの年季入りです。震源地を間近にし、80代の老夫婦がそのような家に住んでいたら、何が起こるか。

 混乱覚めやらぬ中、確か私から父に申し出たように覚えています。「明石に行ってくる」と。父からは瞬時の逡巡の後、「よし、行ってきてくれ」との返事がありました。かくて、震災の朝、私の明石への救出行は始まりました。車を駆って震災の混乱の中、西宮から明石へ。もちろん、何の準備も情報もありません。あるのはただただ無鉄砲な祖父母を案ずる思いだけでした。私が家を出たのは、確か朝の6時半頃だったように思います。

 家の近くを走る国道2号線。まずここまで出ました。車の量は少ないとはいえ、信号が全く作動していません。作動していない信号を、注意深く何度も横切ります。行き交う車がお互い注意し合えれば、何とか通行できる程度の交通量でした。私は車を西へ西へと運転します。しかしその運転も長くは続きませんでした。2号線と171号線が交差する札場辻交差点。ここから車が動かなくなり、進む様子を見せません。私はここで車の向きを変える決断を下しました。すなわち、北へ。171号線から、市立体育館の横を抜け、廣田神社の参道を通ります。道すがら見た街の様子は一変していました。一方通行を逆走した記憶もあります。崩れた土砂の上を渡ったような記憶もあります、が、そのほかの風景はあまり覚えていません。それだけ運転に必死だったのでしょう。目指すは盤滝トンネル。西宮の北部から山道を越え、有馬温泉から六甲の北を回って明石に抜けるルートです。高校時代の友人の家が岡場にあり、当時よく遊びに行っていたので地理勘もあります。

 ところが、この道が大変な難所でした。西宮市街地から船坂地区へは盤滝トンネルをくぐります。震災の数年前に開通した盤滝トンネルへの道は、甲山の脇を抜け、六甲山最高峰への道に重なります。ところがその朝、盤滝トンネルは地震の影響で閉鎖されていました。ここで私は再度決断を下します。盤滝トンネルが開通するまで、船坂地区と西宮市街地を結ぶ唯一の道だった、小笠峠を越えるルートに車を進めました。やむを得ない決断とはいえ、真冬の早朝、道は凍結しています。さほど広くない道には地割れや落石が頻発し、道路のあちこちを塞いでいます。落石と言っても小さい物から、軽トラックほどの大きさの岩まで様々な障害物が転がっています。万が一、上から落ち掛かられたら命はありません。凍結と地割れと落石をどうやってやり過ごしたのか、全く記憶にありませんが、なんとか峠を越えて船坂地区へ。そこからは比較的被害が少ないように見える道を、順調に明石へと向かいます。船坂からは金仙寺湖、流通センター、岡場と過ぎ、押部谷へと至ります。この間、北側の八多、淡河を通るルートと、南側の神戸電鉄有馬線沿いのルートがありますが、どちらを通ったのか、全く覚えていません。思いはただ、西へ、明石へ。

 押部谷に着きさえすれば、あとは明石までは南下するだけです。明石までどのようなルートを辿ったのか覚えがありませんが、側溝に横転してはまり込んだ軽自動車や、神戸方面の空が妙に赤かったことは記憶にあります。よく、戦災体験の手記を読むと、彼方の空が赤く底光りしていた、といった記述を見かけます。まさにそのような空の色だったように思います。といっても視覚イメージは私の脳裏から失われてしまい、その時にそう思った思考の残滓だけがいつまでも焼き付いているだけですが。20年の月日が記憶を風化させてしまいました。

 明石の祖父母の家は、到着前に抱いていた暗い予想を裏切り、祖父母とともに無事でした。室内の物が雪崩れたとはいえ、拍子抜けするほどに被害がありませんでした。これは後学ですが、野島断層からの亀裂は真っ直ぐ東の神戸方向に伸びました。そのため、天文科学館のすぐ裏手だった祖父母の家はさほど揺れず、被害が最小限に抑えられたのかもしれません。片づけを手伝おうにも切迫した危機も、近隣の住宅が崩れたといったこともありませんでした。すると今度は西宮の家が心配になります。なので、あまり明石の祖父母宅に長居せず、再び来た道を戻ることにしました。電話はもちろん不通で、携帯電話もない時代です。全ては自分の判断が頼りでした。

 途中、腹ごしらえに神戸学院大近くのローソンに寄りました。店内の商品はきれいになくなっていました。道中、何を食べたのか覚えていません。ローソンでわずかに売れ残っていた食料を買ったのか、お菓子を買ったのか。時刻は昼ごろだったと思いますが、災害時の買い占めといった事態に初めて出会いました。その前に通りがかった明舞団地あたりでは、ガス漏れの匂いがあたりに立ち込めていたことも思い出されます。でも、総じて、明石近辺の被害は、第一報の印象よりもはるかに僅少でした。そしてその頃には、大震災の被害状況が少しずつ私の耳に入ってきていました。

 その朝、私が運転中にずっと聞いていたのはラジオ関西でした。普段はAMラジオなどめったに聞くことのなかった私ですが、道中、ひたすらラジオ関西の報道だけが頼りでした。後日、ラジオ関西は震災当日とその後の一連の報道によって、賞を受けたとか。それも然りと思わせるほど、冷静で感情を抑えたCM抜きの報道にどれだけ救われたことか。感謝の気持ちただそれだけです。

 ラジオ関西からの情報により、一番ひどい被害が須磨区から長田区、兵庫区、中央区と東に向かって帯状の地帯に集中していることを知りました。であれば、昨夕通った2号線と43号線ルートは使えません。行きと同じく、六甲の北を回るルートで帰りました。行きのルートもあまり記憶にありませんが、帰りのルートもほとんど記憶に残っていません。ただ、早朝に命からがら峠越えした小笠峠のルートは通らず、176号線を宝塚まで出て、そこから武庫川沿いに南下したことは覚えています。

 家に帰ると、すでに辺りは夕闇でした。電気・ガス・水道はもちろん通じません。ガラス窓も大方割れてしまい、床も散々な有様でしたが、私が明石へと往復している間に、家族が応急処置をしてくれたのでしょう。家族4人、無事に夜を迎えることができました。といっても、帰宅してからの記憶は殆どありません。どこで寝たのかも、家族4人が一緒の部屋で寝たのかも忘却の中です。ただ、この日は期末試験で、どうせ試験も中止、と決めつけたような記憶はあります。電話も使えず、せっかく明石に行ってきたのに、その前日に会ったばかりの友人の安否も知らず、我が家の安否すら誰にも教えられぬまま、不安の夜を過ごしました。

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 1月18日から、2月初めの吹田への引っ越しまでの間。

 震災翌日から、私は色々と動きました。西宮市役所へ被災届を出しに行ったのも私。西宮市役所の職員の方が充血した目と無精ひげのまま応対して下さったこと、未だによく覚えています。顔すらぼんやりと思いだせるほどに。父が公務員であったにもかかわらず、偏った世間知らずの学生知識で、公務員は楽な仕事といった少しの偏見を持っていました。が、この職員の姿を見てから、そのような誤った考えは私から消えました。直接に助けられる機会はありませんでしたが、自衛隊に対する考えが一変したのもこの時からです。国防は脇に置くとしても、災害時の救助活動で自衛隊の活躍に及ぶ物はない、という考えに。また、これを書いている震災20年を迎えた今、仕事の法人化準備を進めているのですが、その中でNPOについても勉強しています。NPOの意義が世間に遍く行き渡ったのも、阪神・淡路大震災であること。これも学んだことの一つです。

 もう一つ忘れられないのが、先輩からの届け物です。これは確か震災翌日だったように思います。隣の尼崎に住んでいた大学の先輩が、自転車で食料を届けにきて下さいました。後日、様々な方から沢山の助けを頂きましたが、一番最初に手を差し伸べて下さったのがこの先輩です。震災の翌年には、職に就かずにいた私に芦屋市役所でのデータ入力の仕事を紹介し、私をITへの道に導いて下さりました。私にとって終生の恩人です。残念なことに、東日本大震災の数日前、逝去されました。2つの大地震の発生日に近づくと、この先輩のことを偲ばずにはいられません。

 混乱の中、市は僅かずつ、機能を取り戻しつつありました。ご担当者が早めに動いて下さり、我が家は全壊認定を受けました。赤紙です。強い余震でぺしゃんこになってしまう恐れがあります。なので、私以外の家族3人は、家から徒歩5分の自治会館で寝泊まりすることになりました。夜の留守番は私独りです。おのずと感覚も鋭敏になります。なんと、地震の揺れがくる数秒前に、地震を予知できるようになりました。1階の部屋で寝ていると地震が来るのがわかるのです。ゴゴゴゴゴ・・・と遠くから徐々に音が大きくなり、近づいてきたその音が寝床の真下に来ると、グラグラっと家が揺れます。この戦慄の感覚は今でも明確に脳裏にあります。しかし、地震が頻発する東京に住んで15年になりますが、この時に会得した地震予知能力は喪われてしまいました。残念です。地震直後の異常な状況が、私の感覚を研ぎ澄ましていたのでしょう。

一見するとあまり被害を受けていないように見えるが、全壊認定を受けた我が家。img034
門柱には亀裂が走り、塀は今にも倒れそうな状態。img035
一番被害が甚大だった浴室と洗面所。足を踏み入れることすらできない状態に。img036
水場は地震の被害に特に弱いことを痛感しました。img057
洗面所は、鏡が残って居なければ、何だったかすら定かではありません。img046
私の当時の部屋。大分片付けたのですが、地震直後は床が本で埋まりました。ゲルググやドダイのプラモデルが懐かしい。部屋の真ん中につるしていたハリセンボンが懐かしい。ペリー・ローダンの文庫本が懐かしい。KENWOODのミニコンポが懐かしい。各地で買い集めた通行手形が懐かしい。20年前の自分よ、私はこんなおじさんになりました。
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 家は全壊認定を受け、もはや壊すほかなくなりました。地震のため、大学の期末試験は代替レポート提出で免除されることになり、私は日々買い出しで尼崎や大阪まで出る日々が続きました。家のすぐそばを武庫川が流れているのですが、武庫川を渡ると、そこは全くの別世界。被害状況たるや西宮と尼崎では天地の開きがあります。阪急伊丹駅こそ全壊しましたが、西宮以西の惨状とは違う光景に戸惑いの日々でした。風呂に入れなかったので、高槻の親戚の家まで風呂を浴びさせにもらいにいったり、吹田の大学に行ったり。そんな中、家探しも並行して行っていました。それは専ら私の役目。私がお願いしたのは大学の友人達。大学が吹田にあり、私の友人たちが大阪府や奈良県に散らばっていたので、彼らに助けを乞い、めぼしい物件を探してもらいました。そしてはやくも2月の初めには、吹田市のめぼしい物件を契約できました。阪急千里線の南千里駅からすぐ、高級住宅地の一角にある家でした。この家を見つけてもらった友人とは、大学時代はよく会っていたにも関わらず、大学卒業後に連絡が途絶えてしまいました。以来20年、彼の消息は常に気に掛かっています。一度改めてお礼したいと願っているのですが。

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 家は地震から3か月半後、5月2日に、取り壊し始めました。昭和54年から住み始め、16年弱。この解体は父が見届けました。

手前にみえる部屋の壁は私の部屋の壁です。img060
手前にみえる部屋の壁は、地震の日の朝、父がタンスに襲われた部屋です。img078
近隣の家屋はほとんど全壊となり、時期を同じくして解体されました。
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 地震は、私の人生観を一変させました。人がいかに不安定な現実の上に依っているか。腹が据わったとも云えましょうか。冒頭にも書いたとおり、家族・親族こそ無事でしたが、私の知人で亡くなった方は何人もいます。九死に一生を得た知人もいます。恥ずかしい話ですが、この地震から初めて、自分の人生を生きねば、という自覚を持ったように思います。それまで順風満帆な21年間を生きてきた私が、初めて遭遇した異常時。それがこの地震でした。

 東日本大震災の際、世間が自粛モードに染まりつつある中、私は自粛の態度を取りませんでした。それはこの地震で被災者となった経験によるものです。災害に巻き込まれた当事者にとって、身の回りの世界の外に住む人が自粛していようがいまいが全く関わりのないことです。そんなことに気を回す間もないほど、身の回りのことだけで忙殺される。それが被災者です。自粛に意味があるとすれば、地震当日、私が聴き続けたラジオ関西のように、CMよりも役に立つ安否情報や被害情報を流す必要に迫られた場合です。こういう自粛は意味ある自粛です。

 写真というメディアの有効性は、地震から年を追うごとに私の中で高まりました。地震当日の貴重な記憶が、上にも書いたようにほとんどすっ飛んでしまっています。非常時、心に目の前の光景を焼きつけるだけの余裕は与えられません。撮っている余裕があったかどうかはさておき、当日の朝にこの目で見た状況を記録するカメラを持たなかったことは痛恨の極みです。後年、旅行先でカメラを手放さず、風景を撮りまくるようになったのも、この経験を心象イメージとして記憶できなかった自分への戒めから来ています。Facebookに日々写真をアップするのもその一環です。その当時、写真の重要性に気付かなかった私は、我が家周辺の被害状況を写真に収めることすらしませんでした。下に挙げる写真は弟が撮ってきたものです。

有名な高速道路の落下現場。甲子園球場のすぐ傍、久寿川に掛かる橋です。img064
阪急電車の高架崩落現場。西宮北口⇔夙川間。img066
西宮市役所前に並べられた支援物資。img083

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 2月より吹田に引っ越した我が家。地震により期末試験の代替レポート提出を課せられた私ですが、地震後の片づけやら手続きやら引越やらをしていて、すっかりレポート提出を忘れる始末。大学で独り反省文を書かされたのは苦い思い出です。オウム真理教が日本を震撼させる中、大学の部室に入り浸る日々。4回生になり、就職活動が始まるも、高揚した気分のまま、勢いで就職活動をこなし、就職氷河期の中、するっと最終試験へ。そこで調子にのって就職活動を辞めた所、それらの最終試験が全滅。しかし私の舞い上がった気持ちは、その夏のほとんどを西日本、九州、沖縄、台湾への旅へと駆り立てました。

 そんな無軌道な4回生のキャンパスライフを過ごした私。翌年3月に大学は卒業したものの、内定無しという現実が待っていました。とはいえ、地震の経験から吹っ切れた就職浪人の私は、吹田の家で自由な時間を謳歌する日々。やがて地震の翌年、平成8年の10月に更地から家を建て直し、西宮に戻ることになります。そのタイミングで、先にも紹介した先輩が私の身を案じ、芦屋市役所のアルバイトを紹介して下さいました。ここでITの道に開眼する私ですが、舞い上がった気持ちは反動でどん底へ。生涯で一番きつい鬱の日々が続きます。この時に読みまくった本達。その後の新たな出会いを求めての活動。さらにはインターネットを通じて今の妻との出会い。ブラック企業での理不尽で不条理な日々。その悔しさからの一念発起の上京。結婚や家土地売却の試練、娘達の誕生、個人事業主への独立。歯科医院の開業。そして今、法人化に向けてようやく踏み出そうとする私があります。

 阪神・淡路大震災。戦後の日本が遭遇した有数の出来事です。ここに書いたことはあくまで私の、私自身の体験でしかありません。しかし、その体験は、私自身の人生を確実に変えました。そして人生に対する、世の中に対する考え方をも変えました。20年の月日が経ち、改めて地震の日を振り返る機会を持てたこと、それによって積もった埃を振り払い、こうやって一文をモノすることもできました。自分の今後の行く末を占ううえで、有意義な振り返りだったと思います。挫折を知らぬ青年が、20年を経て世間に揉まれ、とうとう法人化を企てるまでになりました。法人化を為そうとするに当り、一体自分はどういう人間で、どういう信条を語り、自分の来し方にどう落とし前をつけるのか。本文を著す経過の中、そういった一つのけじめが出来たように思います。


東北地方太平洋沖地震(発生日編)


 今日で地震が発生し、一週間が経ちました。

 犠牲者は阪神淡路大震災の死者を超え、まだまだ増えていくとのこと。全ての被災者に心から手を合わせ、冥福を祈りたいと思います。

 1週間という区切りがついたことと、個人的にも地震により深くかかわる契機となる出来事がこの1,2日にあり、一度自分の中で整理してみようと思い立ちました。

 まずは1週間の記録ということで、ざっと追ってみたいと思います。

------11日------
 前日客先に対し、明日は自宅で仕事をしたい旨を告げていたので、朝方まで仕事をしてから11時ごろに起床。家で仕事をした理由は、15日に締め切りの確定申告が迫っていること、データ入力案件で本日依頼される予定のデータ入力数が多いであろうこと、前回受け取った入力データの納期が本日の午後で、一部終了していなかったこと、25日納期の開発案件の進捗を進めたかったこと、の4つ。

 寝間着で作業していた私は、14時ごろ、風花(チワワ)と小春(ヨーキー)がワンワンと吠え盛るので人が来たのかと思っていましたが、外を見ることがありませんでした。その時に外を見ることが出来ていたら実は誰もおらず、いわゆる宏観現象を体験したのかもしれませんが、今となっては分かりません。

 本日〆の入力分を終え、お客様に完了メールをお送りしたのが14時36分。落ち着く間もなく、開発案件の作業を進めているときに地震はおきました(14時46分)。最初のP波は首都圏でよく遭遇するありきたりな地震であろうと高をくくっていました。2日前にも客先で大きな揺れを体験したことも影響したのかもしれません。
 ところがこの揺れは収まるどころかますます激しくなる一方。どーんという強烈な一撃ではなくじわじわと震度が増していく揺れです。風花と小春は吠え盛り、色々な家具が揺れ動きます。パソコンの電源が落ち、停電が発生したことに気付いた私はここに至ってただ事ではないことを悟り、書斎を出て、ホールの本棚をを抑えながら、扉を閉めます。カップボードの上の義母の絵が下におち、揺れは収まる様子もありません。一人の力では本棚を抑えているのが精いっぱいで、為す術もなく色々なものが動き騒ぐのを見ているだけでした。天井のファンが落ちてこないかだけを心配して上を見たりしたのを覚えています。
 やがて揺れは収まり、どこかでかなり大きな地震があったのではないかと思いを巡らせます。
続いて家族の安否。相方がフラのインストラクターとして朝から錦糸町に出かけており、揺れが収まりかけた時点でメールを2通送っています。「大丈夫かあ」(14時50分)「停電した」(14時51分)。これに対して「大丈夫」(14時51分) というメールがあり、まずは安心。この時点ではまだ携帯の送受信制限もなく、円滑に連絡がとれました。
 家の中をさっと点検し、何も割れておらず、義母の絵をもとに戻し、寝室の前の廊下の鏡が反対側の壁にもたれているのを直し、寝室の大きな鏡が支えのトランクを押しやりながら横になっているのを直します。これといった被害がなかったのが幸いです。
 
 直後にドコモからiコンシェルの地震速報が届き、東北地方が震源の地震であることを知りましたが、それ以外の情報は一切わかりません。携帯は連絡手段として使えなくなり始め、家の電源はブレーカーを何度操作してもまったく回復する様子をみせません。それでもかろうじて相方に停電していることと家の被害は軽微であることをメール送信することはできました(15時4分)
 余震が起こるたび、風花と小春が怯えてぶるぶると震えがとまりません。二匹を膝の上に乗せて、携帯の状態を見ながら、読書をすることにした直後に、関西の父から電話がありました(15時20分)。こちらの無事を聞く間も惜しく、興奮してしゃべる父。東北でかなり強い地震が発生し、すさまじい津波が町を襲っていることや、お台場で火事が起こっていることなどを教えられます。大方の状況は呑み込みつつも、お台場が火事ということに違和感を感じました。東北を震源とする地震にかかわらず、お台場がすごいことになっているということは、都心はかなり大変なことになっているのではないだろうか、と。ここで初めて相方が帰宅できないという可能性を頭に浮かべたのを覚えています。
 父とは10分程度話をし、相方に「帰れそうか?お台場とか凄いことになってるらしい。うちの親と電話で話してきいた。こっちはまだ停電。町田震度5らしい。市の屋外放送でゆうてた」というメールを送ります(15時34分)つまりこの時点ですでに町田市からは緊急災害放送が流れたことになります。
 
 以後、なかなかつながらない携帯で相方と何度かやり取りをして、娘たちのことやこれからのお互いの身の振り方を決めます。迷ったのが娘たち二人をどうするか。特に上の娘は放課後に友達の家に遊びに行く約束をしていたので、下手に動くと娘を路頭に迷わせることにもなり、また、給電が復活しない以上はセコムも回復せず、今の状態で外出するよりも電気の復活を待ってから娘たちのところに向かおうと夫婦で合意しました。

 ところがなかなか電気は復旧せず、情報からも隔絶された状態で、本当に娘たちを迎えに行かなくてもよいのだろうか・・・という疑問が膨らみます。こういう緊急時に学校がどういう対応をとってくれるのかがよくわからず、思い余って二匹を連れて散歩がてら周辺を回ってみます。ところが待ちに待った散歩と勘違いして喜ぶ風花、おずおずついてくる小春を連れているとなかなか前に進めず、しかも外はセーターだけだと寒いことに気づき、一旦二匹を連れて帰りました。
 防寒着を着て自転車を漕いで小学校の学童保育に着いたのが16時49分。ここで学童の保護者会会長をやっている相方が、学童の保護者向けSNSに状況を案ずる書き込みをしていることを知り、私が代理で状況を保護者向けに発信します。
 指導員の先生から、4年生は学校内で待機していることを聞き、防災頭巾をかぶる着ぐるみ次女を連れて学校内に入り、上の娘も確保したのが17時0分。
 親の想いと相違して、娘たちは私が早く迎えに来てくれないものだからむくれていた様子。とくに友達と遊ぶ予定が地震で狂わされた上の娘は不満が高じていて、さんざん文句を言われました。

 娘たちと家に帰ると、すでに外は日が沈み始め、灯りのない夜を過ごさねばならないことに気づかされます。娘たちには部屋を掃除させ、懐中電灯やろうそく・マッチなどを探します。夕食は昼飯の残りがあったので、それを3人で食べましたが、食料も用意しなければなりません。15年前の経験からすでに店頭から食品が消えていることを想像しましたが、一応行ってみました。すると店内にすら入れません。停電しているのだから当然です。それでも店頭で電池とろうそくを販売してくれていました。真っ暗の中営業していた店員さんに感謝の言葉をかけ、ろうそくだけ購入して帰りました。地震後初めての夜をろうそくの灯りのみで過ごします。街灯も家々の電気もなく、たまに通り過ぎる車のライトだけの世界。否応なしに異常事態であることがわかります。下の娘は電気のない生活が初めてで、かなり怯えた様子です。

 実家の両親や相方と連絡を取りつつ、mixiや学童のsnsを使ってごくわずかな外の世界との絆をつなぎます。いかに電気のある生活に慣らされきっていて、情報が入るありがたみに気づかないでいたかがわかりました。
 娘たちも9時過ぎには上のベッドに入り、私は引き続き連絡を取り合いながら、相方がフラの生徒さんのご自宅に泊めてもらうことや、学童保育の今後のことなどを連絡し合います。

 そうやって連絡の合間にろうそくの明かりで読書している間に、いきなり電気が復活しました。23時8分でした。復活するなり通電したセコムのコントローラーが誤作動をおこし、侵入者発生と大声で触れ回ります。5分近くどうしても音が消せませんでしたが、ようやく鳴り止ませることができました。家の電気関係をチェックし、異状のないことを確認し終わったので、地震発生後、全く仕事にならなかった一日を挽回するため、パソコンを再起動させます。が、ネットでさまざまな被害状況から目が離せません。私が情報から隔絶されている間にも、ネットの世界では膨大な情報が刻一刻と集められ、配信されていることに驚きます。また、被害の実態がかくも大きなものであり、ここに至って初めて事態が深刻なものであることを理解しました。

 1時過ぎに就寝しました。