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アクアビット航海記 vol.24〜航海記 その11


あらためまして、合同会社アクアビットの長井です。
弊社の起業までの航海記を書いていきます。以下の文は2018/1/4にアップした当時の文章が喪われたので、一部を修正しています。

上京したてのなにもない私


1999年4月。かばん一つだけで東京に出てきた私。
最低限の服と洗面道具、そして数冊の本。これから住むとはとても思えない格好で、それこそ数日間の小旅行のような軽装備。

当時の私はあらゆるものから身軽でした。持ち物もなく、頼りがいもなく、肩書もしがらみもありません。
移動手段すら、自分の足と公共の機関だけ。それどころか、ノートパソコンや携帯電話はおろか、固定電話を持っていなかったため、インターネットにつなぐすべさえありませんでした。
私と世の中をつなぐのは郵便と公衆電話のみ
妻がいなければ私は完全に東京でひとりぼっちでした。

今思い出しても、私が当時住んだ相武台前のマンションの部屋には何もありませんでした。東京生活の足掛かりとするにはあまりにも頼りなく、大宇宙の中の砂粒のようにはかない住みか。
それでも、当時の私にとっては初めて構えた自分だけの城です。

当時の私がどういう風にして生活基盤を整えていったのか。
当時、私はメモを残しています。以下の記述はそこに書かれていた内容に沿って思いだしてみたいと思います。
まず、住民票の手続きを済ませ、家の周りを探険しました。
次いで、自転車を買いに、行幸道路を町田まで歩きました。さらに、国道16号沿いに沿って相模原南署で免許の住所移転をし、淵野辺まで歩き、中古の自転車を購入しました。これで移動手段を確保しました。
それから、通信手段については、住んで二、三カ月ほどたってポケベルを契約したような記憶があります。
近くに図書館を見つけたことによって、読書の飢えは早いうちから癒やすことができました。

それだけです。
あとは妻と会うだけの日々。本当に、どうやって毎日を過ごしていたのかほぼ覚えていません。

完全なる孤独と自由の日々


この頃の私はどうやって世間と渡りをつけようとしていたのでしょう。恵まれたコミュニケーション手段に慣れきった今の環境から思い返すと、信じられない思いです。
でも、何もないスタートだったからこそ、かえって新生活の出だしには良かったのかもしれません。
妻以外の知り合いはほぼ居らず、徹底した孤独。それでいて完全なる自由
この頃の私が享受していた自由は、今や20年近くの年月が過ぎた今、かけらもありません。

この連載を始めた当時(2017年)の数カ月、私はFacebookをあえてシャットアウトしていました。毎日、投稿こそしていましたが、他の方の投稿はほとんど目を通さず。
仕事が忙しくFacebookを見ている時間が惜しかったことも理由ですが、それだけではありません。私は、上京したばかりの当時の私に可能な限り近づこうと試みていたのです。自由な孤独の中に自分を置こうとして。
もちろん、今は家族も養っているし、仕事も抱えているし、パートナー企業や技術者にも指示を出しています。孤独になることなどハナから無理なのです。それは分かっています。
ですが、上京当初の私が置かれていた、しがらみの全くない孤独な環境。それを忘れてはならないと思っています。
多分、この頃の私が味わっていた寄る辺のない浮遊感を再び味わうには、老境の果てまで待たねばならないはず。

職探し


足の確保に続いて、私が取りかかったのは職探しです。
そもそも、私が上京に踏み切ったのは、住所を東京に移さないと東京の出版社に就職もままならなかったからでした。
住民票を東京に移したことで、退路は断ちました。もはや私を阻むものはないはずと、勇躍してほうぼうの出版社に履歴書を送ります。
ところが、出版経験のない私の弱点は、東京に居を移したからといって補えるはずがなかったのです。
そして、東京に出たからといって、出版社の求人に巡り合えるほど、現実は甘くはなかったのです。出版社への門は狭かった。
焦り始めた私は、出版社以外にも履歴書を送り始めます。そうすることで、いくつかの企業からは内定ももらいました。
覚えているのは品川にあった健康ドリンクの会社の営業職と、研修を企画する会社でした。が、あれこれ惑った末、私から断りました。

私は、生活の基盤を整える合間にも、あり余る時間を利用してあちこちを動き回っていました。
例えば土地勘を養うため、自転車であれこれと街を見て回っていました。
町田から江の島まで自転車で往復したことはよく覚えています。
江の島からの帰り、通りすがりの公衆電話から内定を辞退したことは覚えています。上にも書いた研修を企画する会社でした。

私が内定を迷った末に辞退したのも、大成社に入ってしまった時と同じ轍を踏むことは避けたいと思ったからでしょう。
そして、思い切って上京したことで就職活動には手応えを感じられるようになりました。少なくとも内定をいただけるようになったのですから。
かといって、いつまでも会社をえり好みしていると生活費が尽きます。もはや出版社の編集職にこだわっている場合ではないのです。
ここで、私は思い込みを一度捨てました。出版社で仕事をしなければならない、という思い込みを。

この時の私は職探しにあたって、妻や妻の家族には一切頼りませんでした。
将来、結婚しようとプロポーズを了承してもらっていたにも関わらず、職がなかった私。
そんな状況にも関わらず、私は妻に職のあっせんは頼みませんでしたし、妻もお節介を焼こうとしませんでした。
そもそも、当時の妻が勤めていたのが大学病院の矯正科で、私に職をあっせんしようにも、不可能だったことでしょう。

今から思うと、結果的にそういう安易な道に頼らなかったことは、今の私につながっています。多分、ここで私が妻に頼っていたとすれば、今の私はないはずです。
ただ、一つだけ妻が紹介してくれた用事があります。
それは、大田区の雑色にある某歯医者さんを舞台に、経営コンサルタントの先生が歯科のビデオ教材を録画するというので、私が患者役として出演したことです。
たしか、私が上京して数日もしない頃だったように思います。

当時の私に才がほとばしっていれば、この時のご縁を活かし、次の明るい未来を手繰り寄せられたはずです。ひょっとしたら俳優になっていたかも。
少なくとも、今の私であればこうした経験があれば、次のご縁なり仕事なりにつなげる自信があります。
ですが、当時の私にはそういう発想がありません。能力や度胸さえも。
愚直に面接を受け、どこかの組織に属して社会に溶け込むこと。当時の私にはそれしか頭にありませんでした。つまり正攻法です。

このころの私の脳裏には、まだ自営や起業の心はありませんでした。
自分が社会に出て独自の道を開く欲よりも、大都会東京に溶け込もうとすることに必死だったのでしょう。そうしなければ結婚など不可能ですから。

この時、私がいきなり起業などに手を出していたら、すぐさま東京からはじき出され、関西にしっぽを巻いて帰っていたことは間違いありません。
もちろん、妻との結婚もご破算となっていたことでしょう。
無鉄砲な独り身の上京ではありましたが、そういう肝心なところでは道を外さなかったことは、今の私からも誉めてあげてもよいと思います。

妻の住む町田に足しげく通い、結婚式の計画を立てていた私。浮付いていたであろう私にも、わずかながらにも現実的な考えを持っていたことが、今につながっているはずです。

結局、私が選んだのは派遣社員への道でした。職種は出版社やマスコミではありません。スカイパーフェクTV、つまり、スカパーのカスタマーセンターです。
そのスーパーバイザーの仕事が就職情報誌に載っており、私はそれに応募し、採用されました。
考えようによっては、せっかく東京くんだりまで出てきたのに、当時の私は派遣社員の座しかつかめなかった訳です。

しかし、この決断が私に情報処理業界への道を開きました。
次回はこのあたりのことを語りたいと思います。ゆるく永くお願いします。


アクアビット航海記 vol.15〜航海記 その4


あらためまして、合同会社アクアビットの長井です。前回にも書きましたが、弊社の起業物語をこちらに転載させて頂くことになりました。前々回からタイトルにそって弊社の航海記を書いていきます。以下の文は2017/11/16にアップした当時の文章が喪われたので、一部修正しています。

大学は出たけれど

さて、1996年の4月です。大学は出たけれど、という昭和初期に封切られた映画があります。この時の私はまさにその状態でした。この時から約3年。私にとっての低迷期、いや雌伏の時が続きます。この3年間についての私の記憶は曖昧です。日記もつけていなければ、当時はSNSもありませんでしたから。なので、私の3年間をきちんと時系列に沿って書くことはできないでしょう。多分記憶違いもあるはず。ともあれ、なるべく再構築して紹介したいと思っています。

妙に開き直った、それでいてせいせいするほどでもない気持ち。世の中の流れに取り残されたほんの少しの不安、それでいて焦りや諦めとも無縁な境地。あの頃の私の心中をおもんばかるとすればこんな感じでしょうか。新卒というレールから外れた私は具体的な将来への展望もない中、まだどうにかなるわという楽観と、自由さを味わっていました

大学を出たとはいえ、私の心はまだ大学に留まったままでした。なぜかというと家が大学のすぐ近くだったからです。アクアビット航海記 vol.12〜航海記 その1にも書きましたが、わが家は阪神・淡路大地震で全壊しました。そこで家族で住む家を探したのが私でした。家は大学の友人たちに手分けして探してもらいました。そしてほどなく、私の一家は関西大学の近くに引っ越しました。この時家を見つけてくれた友人には20年以上会えていません。N原君、覚えていたら連絡をください。
さて、家の近くに大学があったので、卒業したはずの私は在学生のようにぬけぬけと政治学研究部や大学の図書館に入り浸っていました。

その時の私は多分、光画部における鳥坂先輩のような迷惑至極な先輩だったことでしょう。鳥坂先輩と同じく大義名分として公務員試験を受ける、という御旗を立てて。それは、私自身でも本当に信じていたのか定かではない御旗でした。ちなみに鳥坂先輩が何者かはネットで検索してください。

1996年の10月。西宮に新しい家が完成し、西宮に戻ることになりました。引っ越す前には幾度も西宮に赴き、引っ越し作業に勤しんでいた記憶があります。なにせ、時間はたっぷりありますから。

孤独な日々

そう、時間だけは自由。何にも責任を負わず、親のスネをかじるだけの日々。この半年、逆の意味で時間の貴重さを噛みしめられたように思います。なぜなら、何も覚えていないから。インプットばかりでアウトプットがないと、時間は早く過ぎ去ってゆく。責任がないと、ストレスがないと、何も記憶に残らない。私が得た教訓です。

ですが、1996年の4月から1999年の3月までの3年間はとてもかけがえのない日々でした。なぜならこの3年間も大学の4年間に劣らず私の起業に影響を与えているからです。この3年間に起こったさまざまなこと、例えば読書の習慣の定着、パソコンとの出会い、妻との出会い、ブラック企業での試練は、起業に至るまでの私の人生を語る上で欠かせません。

この三年で、私が得たもの。それは人生の多様性です。小中高大と順調に過ごしてきた私が、会社に入社せず宙ぶらりんになる。それもまた、人生という価値観。その価値観を得たことはとても大きかった。大学を卒業しそのまま社会に出てしまうと宙ぶらりんの状態は味わえません。そして、それが長ければ長いほど、組織から飛び出して“起業“する時のハードルは上がっていきます。人によってそれぞれでしょうが、組織にいる時間が続けば、それだけ組織の中で勤めるという価値観が心の中で重みを増していきます。
誤解のないように何度も言い添えますが、その価値観を否定するつもりは毛頭ありません。なのに私は23の時、すでに宙ぶらりんの気持ちをいやというほど味わってしまいました。そして、宙ぶらりんの状態もまた人生、という免疫を得ることができました。それは後年、私の起業へのハードルを下げてくれました。
起業とは、既存の組織からの脱却です。つまりどこにも属しません。起業とは多様性を認め、孤独を自分のものにし、それを引き受けることでもあります。卒業してからの半年、私の内面はとても孤独でした。表面上はお付き合いの相手がいて、政治学研究部の後輩たちがいて、家族がいました。でも、当時の私は、あっけらかんとした外面とは裏腹に、とても孤独感を抱えていたと思います。

本に救いをもとめる

その孤独感は、私を読書に向かわせました。本に救いを求めたのです。その頃から今に至るまで、読んだ本のリストを記録する習慣をはじめました。
当時の記録によると、私の読む本の傾向がわが国、そして海外の純文学の名作などに変わったことが読み取れます。
それまでの私はそれなりに本を読んでいました。推理小説を主に、時代小説、SF小説など、いわゆるエンタメ系の本をたくさん。ですが、私の孤独感を癒やすにはエンタメでは物足りませんでした。純文学の内面的な描写、人と人の関係の綾が描かれ、人生の酸いも甘いも含まれた小説世界。そこに私は引き寄せられていきました。私はそれらの本から人生とはなんぞや、という問題に折り合いをつけようとし始めました。

もちろん、それを人は現実逃避と呼びます。当時の私が本に逃げていた。それは間違いありません。でも、この時期に読書の習慣を身に着けたことは、その後の私の人生にとても大切な潤いを与えてくれました。おそらく、これからも与えて続けてくれることでしょう。

この時、私が孤独感を競馬、パチンコなどのギャンブル、またはテレビゲームなどで紛らわそうとしていたら、おそらく私がここで連載を持つ機会はなかったはずです。
とはいえ、私はギャンブルやゲームを一概に否定するつもりはありません。きちんと社会で働く方が、レクリエーションの一環で楽しむのなら有益だと思います。ですが、時間を持て余す若者-当時の私のような-がこういった一過性のインプットにハマったら、後に残るものは極めて少ないと言わざるをえません。
私の中の何が一過性の娯楽に流れることを留めたのか、今となっては思い出せません。自分の将来を諦めないため、私なりに本からのインプットに将来を賭けたのでしょうか。いずれにせよ、本から得られたものはとても大きかった。私もこういうクリエイティブな方向に進みたいと思わせるほどに。

次回も、引き続き私の日々を書きます。