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沖縄 だれにも書かれたくなかった戦後史 〈下〉


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下巻では、多士済々の沖縄の人物たちが取り上げられる。

瀬長亀次郎と言う人物は私もかねてから存在を知っていた。かつて琉球独立論を掲げた人々が沖縄にはいた。瀬長氏もその一人だ。
独立論を掲げた人々は、今でも独立論を堅持し、県政に主張を通そうとしているそうだ。瀬長氏以外にもそうした人々がいる事は知っておきたい。
そもそも、沖縄は独立できるのかとの問いがある。ただ、それは私たちが本土の人間が考える問題ではない。沖縄の人々が主体で考えるべきことだ。
私は日本に属していた方が得ではないかと考える。だが、それは沖縄にとって部外者の私がいっても無意味な話だと思う。

部外者としての私の無知は、模合を知らなかったことでも明らかだ。模合とは、頼母子講や無尽と同じ、民間の参加者同士が掛け金を出し合うシステムだ。
日本の本土では講や無尽は衰えた。だが、沖縄ではまだまだ模合が民間に強く根付いているそうだ。
日本の本土と沖縄で経済活動に違いが生じたのは言うまでもなく、米軍軍政下の時代の影響だ。それによってアメリカの自由主義が沖縄に蔓延し、経済の体質が変わってしまった。それが今に至るまで日本本土とは異なる経済体制を作った原因となった。だが、私たち本土から来た人間がリゾートの沖縄を歩いている間はそういうことには気づかない。私も気づかなかった。それに気づかせてくれるのも本書の優れたところだと思う。

また、本書からとても学びになったのが、軍用地主を扱っていることだ。
沖縄と言えば必ず基地問題がセットでついてくる。私たち本土の人間は沖縄の基地問題と聞けば、民を蔑ろにした国と国との折衝の中で勝手に沖縄の土地が奪われているとの文脈で考えてしまう。
その補助金が沖縄を潤している現実は理解していても、それはあくまで国有地をアメリカに使わせている補償として眺めてしまう。
だから、日米安保の大義名分の中で沖縄を犠牲にする考えが幅を利かせてきた。そして、中国や北朝鮮などの大陸からの圧迫を感じる今になっては、米軍基地の存在に対して考える事すら難しい状況が出てきている。
だから、その米軍に基地を貸し出している地主が33,000人もいると知った時は驚いたし、そこに沖縄の複雑な現実の姿を感じ取った。

私が国のからむ土地の地主と聞いて想像するのは、三里塚闘争で知られたような反戦地主だ。だが、軍用地主はそうした地主とは性質を異にしているという。
むしろ、軍用地は不動産物件としては利回りが大きく、とても地主にとっても利潤をもたらすのだと言う。実際、それは不労所得の真骨頂ともいえる優雅な暮らしを生み出す収入だ。
著者は地元の不動産会社や軍用地主連合会に取材することで、そうした裏事情を私たちに明かしてくれている。著者がいう「軍用地求む」という広告ビラをとうとう私は見たことがない。米軍基地反対運動へのお誘いビラは多く見かけたが。

単純に基地問題といっても、こうした事情を知った上で考えると、また違う見方が生まれる。根深い問題なのだ。

他にも本書には沖縄の知事選を巡る裏事情や、ライブドアの役員が殺害された事件などにも触れている。上巻にも登場したが、沖縄とは剣呑な一面もはらんでいる。特に米兵による少女暴行事件など、民が踏みつけにされた歴史は忘れるわけにはいかない。

その一方で、著者は女性たちが輝く沖縄について筆を進めている。牧志公設市場の異国情緒の中で感じた著者の思い。沖縄とは人の気配が息づく街なのだ。

本書を読んでいると、沖縄の魅力の本質とは人であることに気づく。
平和学習やビーチや水族館の沖縄もいい。だが、長らく中国大陸と日本の影響を受け続け、その間で生き抜いてきた人々が培ってきた風土を知ることも沖縄を知る上では欠かせない。むしろ、その影響がたくましくなって沖縄の人には受け継がれている。それは著者のように人と会ってはじめて気付くことだ。
著者はジャーナリストとしてこのことをよくわかって取材に望んでいることが分かる。沖縄とは人と交流しなければ決して理解できないのだ。

本レビューの上巻では、私が今までの三回、沖縄を旅したことを書いた。そこで私は、何か飽き足らないものがあると書いた。それが何か分かった。人だ。私は旅の中で著者程に人と会っていない。
私が沖縄で会って親しく話した人は、皆さん本土から移住した人だ。観光客の扱いに手慣れた方なら何人かにお会いした。だが、沖縄の情念を濃く伝えた人と親しく話していない。
そのことを私は痛感した。

私が本土にいて沖縄を感じるのは、沖縄のアンテナショップで買う物産や、せいぜい琉球音楽の中だけだ。
著者は、沖縄芸能史も本書で詳しく触れている。
いまや、沖縄出身の芸能人は多い。
琉球音楽の観点や、沖縄の三線運動など、沖縄の民俗芸能はそれだけで奥が深い。私も那覇の国際通りでライブを鑑賞したことがあるが、本土の衰退した民謡とは違う明らかなエネルギーのうねりを感じた。著者は最近の沖縄の若者が日本の本土のようになってきたことを憂えているが。

本書は締めで本土の人間にとって関心毎である国内/国際政治と沖縄の関係や沖縄の歴史に立ち戻る。

本書を読んでいると、基地問題もまた別の観点から考える必要があると思える。確かに基地は沖縄にとって迷惑のもと。
ただし、その一方で国からの補助金や助成金によって、沖縄の産業が守られてきたこともまた事実だ。その矛盾は、沖縄の人々をとても苦しめたことだろう。

それを感じさせるのが冒頭の民主党による沖縄の基地問題への対応である。当時の鳩山首相が日米を混乱させる言動を連発したことは記憶に新しい。
沖縄を守るのも殺すのも日本政府に課せられた責任のはずなのだが。
かつて琉球処分によって尚氏を琉球国王の座から追いやり、統治すると決めたのは日本政府。
本書にはその尚氏がたどった明治維新後の歴史も詳しく紹介されている。
そして今や日中間の紛争のタネとなっている尖閣諸島の所有者である栗原家についてのルポルタージュも。

とても濃密な本書は、また沖縄に行く前にも目を通すべき本だと思う。

‘2020/08/23-2020/08/27


沖縄 だれにも書かれたくなかった戦後史 〈上〉


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二年続けて沖縄に旅した時から早くも四年が過ぎ、コロナの中で逼塞する毎日。
振り返って旅がしたいと思い、本書を手に取った。

沖縄には今まで三回訪れた。

1995年9月は大学の部合宿で20名の同輩や後輩と。那覇港に船から上陸し、名護までタクシー。名護近くのホテルに泊まり、海辺で遊び。翌日はレンタカーで南部へ。おきなわワールドではハブとマングースの戦いを見、ひめゆりの塔の厳粛な雰囲気に衝撃を受けた。国際通りで散々飲み明かした翌日は首里城へ。
若さを謳歌した旅の中、ひめゆりの塔で受けた衝撃の落差がいまだに印象に残っている。

2017年6月のニ度目の訪問は一人旅で訪れた。初日はあいにくの大雨だったが、忠孝酒造で泡盛の製造工程を見学し、沖縄そばの味を求めて数店舗を訪れた。旧海軍司令部壕では太田中将の遺徳をしのび、沖縄県平和祈念資料館では沖縄戦だけでない、戦前の窮乏と戦後の米軍軍政下の沖縄についても学んだ。夜は国際通りの居酒屋で一人で飲んだ。翌日は晴れ渡った知念岬で太平洋の広さに沖縄が島であることを実感し、神域にふさわしい荘厳な斎場御嶽の姿に心から感動した。ひめゆりの塔では資料館をじっくりと鑑賞し、22年前に受けた衝撃を自分の中で消化した。

2018年3月には家族で。知念岬を見せたいと連れて行った後は、アブチラガマへ。完全な暗闇の中、亡くなられた方々の味わった絶望と不条理と無念を追体験した。さらにはひめゆりの塔へ。
翌日は美ら海水族館へ。途中に立ち寄った崎本部緑地公園のビーチの美しさに歓声を上げ、夜は北谷のアメリカンビレッジへ。栃木から沖縄移住した友人のご家族と食事を楽しみ、沖縄への移住についての話を伺った。
最終日は伊計島の大泊ビーチへ。その途中には浜比嘉島のシルミチューとアマミチューの遺跡を。大泊ビーチは素晴らしかった。帰りには伊計島灯台に寄り、さらにキングタコスの味を堪能し、勝連城跡の勇壮な様子に感動した。那覇に戻って国際通りで買い物をして、帰路に就いた。

なぜ本書にじかに関係のなさそうな私の旅を記したか。
それは私の沖縄の旅が、通り一遍の平和とリゾートだけの旅でないことを示したかったからだ。これらの度で私が巡ったコースは、平和とリゾートの二つだけでない、バラエティに富んだ沖縄を知りたいとの望みを表している。

だが、沖縄はまだまだ奥が深い。
沖縄はしればしるほどそこが知れなくなる。とても重層的な島だ。

平和やリゾートを軸にした通り一遍の見方では沖縄は語れないし、語ってはいけないと思う。だが、私ごときが違った沖縄を味わおうとしても、しょせんは旅人。よく知るべきことは多い。
例えば著者のようなプロの手にかかると。
本書は、ノンフィクションライターである著者が表向きのガイドマップ向けに語られる沖縄ではなく、より深く、予想外の切り口から沖縄のさまざまな実相を描いている。

上巻である本書が描くのは、基地の島の実相と、沖縄の経済、そして任侠の世界だ。

Ⅰ 天皇・米軍・おきなわ

これはタイトルからしてすでにタブーに踏み込むような雰囲気が漂っている。
とはいっても、そこまで過激な事は書かれていない。ただ、本章では昭和天皇がとうとう一度も沖縄を訪れなかったことや、沖縄県警が沖縄戦を経て戦後の米軍の軍政下でどのような立場だったか、そうした沖縄が置かれた地位の微妙な部分がなぜ生じたのかに触れている。
本書の冒頭としてはまず触れておくべき点だろう。

Ⅱ 沖縄アンダーグラウンド

これは、本書を読まねば全く知らなかった部分だ。どこの国にもどの地域にもこうしたアンダーグラウンドな部分はある。
沖縄にももちろんそうした勢力はあるのだろう。だが、旅行者としてただ訪れるだけではこうした沖縄の後ろ暗い部分は見えてこない。
こうした部分を取材し、きちんと書物に落とし込めるのが著者のノンフィクション作家としての本領だろう。

むしろ、米軍の軍政下にあったからこそ、そうした光と闇をつなぐ勢力が隙間で棲息することができたのではないだろうか。
戦前から戦後にかけ、沖縄はさまざまな政治と勢力が移り変わった。権力が空白になり、権力が超法規的な状態の中で生き延びるやり方を学び、鍛え上げていった勢力。そこで狡猾な知恵も発達しただろう。これは旅行者やガイドブックにはない本書の肝となる部分だと思う。

沖縄の人々は被害者の地位に決して汲々としていたのではなく、その中でも研げる牙は研いできたのだろう。

Ⅲ 沖縄の怪人・猛女・パワーエリート(その1)

その1とあるのは、下巻でもこのテーマが続くからだ。
沖縄四天王という言葉があるが、戦後の米軍の軍政下でも力を発揮し、成長した経済人が何人もいる。

日本本土にいるとこうした情報は入ってこない。沖縄のアンテナショップに行けば、沖縄の産物は入ってくる。本章にも登場するオリオンビールのように。
だが、その他にも何人もの傑物が戦後の沖縄で力をつけ、日本へ復帰した後もその辣腕をふるった。
立志伝の持ち主は沖縄に何人もいるのだ。

‘2020/08/19-2020/08/23


R帝国


著者による『教団X』は凄まじい作品だった。宗教や科学や哲学までを含めた深い考察に満ちており、読書の喜びと小説の妙味を感じさせてくれた。

本書はタイトルこそ『教団X』に似ているが、中身は大きく違っている。本書は政治や統治や支配の本質に切り込んでいる。

「朝、目が覚めると戦争が始まっていた。」で始まる本書は、近未来の仮想的な某国を舞台にしている。
本書は日本語で書かれており、セリフも日本語。そして登場人物の名前も日本人の名前だ。

それなのに本書の舞台は日本ではない。日本に限りなく近い設定だが、日本とは違う別の国「R帝国」についての小説だ。

本書を読み進めると、R帝国に隣り合う国が登場する。それらの国は、中国らしき国、北朝鮮らしき国、韓国らしき国、ロシアらしき国、アメリカらしき国を思わせる描写だ。
だが本書の中ではR帝国が日本ではないように、それらの国は違う名前に置き換えられている。Y宗国、W国、ヨマ教徒、C帝国といった具合に。

一方、本書内にはある小説が登場する。その小説に登場する国の名前は”日本”と示されているからややこしい。
その小説では、日本の沖縄戦が取り上げられている。

なぜ沖縄戦が起きたのか。それは当時の大本営の作戦指導によって、日本の敗戦を少しでも遅らせるための時間稼ぎとして、沖縄が選ばれたからだ。それによって多くの県民が犠牲となった。
沖縄県庁の機能は戦場での県政へと強いられ、全てが軍の指導の下に進められた。その描写を通し、著者は戦いにおいて民意を一切顧みずに戦争に人々を駆りる政治の本質に非道があることを訴えている。

作中の小説では日本を取り上げながら、本書には日本は登場せず、R帝国と呼ぶ仮の存在でしかない。
おそらく著者は、本書で非難する対象を日本であるとじかに示さないことによって、左右からの煩わしい批判をかわそうとしたのかもしれない。

政治やそれをつかさどる政府への著者の態度は不信に満ちている。もちろんそこに今の日本の政治が念頭にあることは言うまでもない。
著者の歴史観は明らかであり、その考えをR帝国として描いたのが本書であると思う。
本書には政府がたくらむ陰謀が横行している様子が書かれる。民が求める統治ではなく、政府の都合を実現するための陰謀に沿った統治。統治がそもそも民にとっては無意味であり、有害であることを訴えたいのだろう。
その考えの背後には、合法的な政権奪取までのプロセスの背後にジェノサイドの意図を隠し持っていたナチスドイツとそれを率いるヒトラーを想定しているはずだ。

こうした本書の背後の考えは普通、陰謀論と位置付けられるのだろう。
だが、私は歴史については、もはや陰謀があったかどうかを証明することが不可能だと思っている。そのため陰謀論にはあまり関わらず、あくまで想像力の楽しみの中で取り扱うように心がけている。
あると信じれば陰謀はあるのだろう。政府がより深い問題から目をそらさせるためにわざと陰謀論を黙認していると言われれば、そうかもしれないとも思う。

本書は、陰謀論を好む向きには好評だろう。だが、私のように陰謀論から一定の距離を置きたいと考える読者には、物足りなく思える。
少なくとも、私にとって著者の『教団X』に比べると本書は共感できなかった。

批判的に本書を読んだが、本書には良い点もある。全体よりもディテールで著者が語る部分に。

「歴史的に、全ての戦争は自衛のためという理由で行われている。小説『ナチ』のヒトラーですら、一連の侵略を自衛のためと言っている。もしあの戦争でナチが勝利していれば、歴史にはそう書かれただろう。
相手に先に攻撃させる。国民を開戦に納得させるための、現代戦争の鉄則の一つ。
あまりにも大胆なこういう行為は、逆に疑われない。なぜなら、まさか自分達の国が、そんなことをするとは思えないから。それを信じてしまえば、自分達の国が、いや、自分達が住むこの世界が、信じられなくなって不安だから。無意識のうちに、不安を消したい思いが人々の中に湧き上がる。その心理を“党“は利用する。
無意識下で動揺している人ほど、こういう「陰謀論」に感情的に反論する。そうやって自分の中の無意識の思いを抑圧し消そうとする。上から目線で大人風に反論し安心する人達もいる。そもそも歴史上、一点の汚点・悪もない先進国など存在しないから、国の行為全てを信じられること自体奇妙だがそういう人はいる。」(239ページ)

私も、ここに書かれた内容と同じ考えを持っている。
先進国のすべてに歴史上の悪行はあると考えているし、そのことに対して感情的に反応する人を見ると冷めた気分になる。
そもそも国とは本来、定義があいまいなものだ。集団が組織となり、それが集まって国となる。同じ民族・人種・言葉・文化を共通項として。国とはそれだけの存在にすぎない。
そのようなあいまいな国を存続させるには、民に対してもある幻想を与える必要がある。
その幻想を統治する根拠を文化や宗教や民族や経済や福祉といったものに置き、最大多数の最大幸福の原理を持ち出して全体の利益を奉る。

そのため、政府とは個人の自由を制限する装置として作動し、全体の利益を追求する。個人とは本質的に相いれない。

人は生きているだけで、他の人に影響を与える生き物だ。生きている以上、その宿命からは逃れようがない。生きているだけで環境は消費され、人口密度が増すのだから。
そうすると行き着くところは個人的な内面の自由だ。

とはいえ、私は陰謀論の信者になろうとは思わない。国による陰謀を信じようと信じまいと、現状は何も変わらないからだ。
自由意志を信じる私の考えでは、政府による統治や統治の介入をなくし、自分の生を全うするためには自分のスキルや考えを研ぎ澄ませていくしかない。
「僕は自分のままで、……自分の信念のままで、大切な記憶を抱えながら生涯を終えます。それが僕の……プライドです」
私は本書とそのように向き合った。

ところが、宗教は内面の自由までも支配下におこうとする。一人もしくは複数の神の下、崇高な目的との縛りで。

本書にもある教祖が登場する。その教義も列挙される。
おそらく、『教団X』にも書かれた宗教と科学の問題に人の抱える課題は集約されていくはずだ。だが、その日が来るのは永遠に近い日数がかかると思う。

「人間は結局素粒子の集合でできている。生物も結局は化学反応に過ぎないとすれば、この戦争も罰も、ただ人間にはそう見えるだけで、実は物理学的なしかるべき流れ、運動に過ぎないと言う風に。…その運動を俯瞰して眺める時、私はそこに、温度のない冷酷さしか感じない。見た目は激痛を伴う戦争であるのに、ただの無意味な素粒子達の流れ、運動である可能性が高いのだ。この奇妙な感覚に耐えるためかのようにね、私もどんどんと人間でなくなっていくように思うのだよ。もし私が戦争で莫大な数の人間を殺し、R帝国を破産させ、これまでの支配層の国々に飛び火させ、それで得た天文学的な資産で今度は貧国を助けるつもりだとしたらどうだ? 私がというより、何かの意志がそのつもりだったとすれば、結果的にお前は将来の善の実現を阻むことになる。」(362ページ)

あとがきに著者が書いているとおり、私たちが持つべき態度は「希望は捨てないように」に尽きる。

‘2020/08/16-2020/08/17


太陽の子


本書は、関西に移住した沖縄出身者の暮らしを描いている。
本書の主な舞台となる琉球料理屋「てだのふあ・おきなわ亭」は、沖縄にルーツを持つ人々のコミュニティの場になっていた。そのお店の一人娘ふうちゃんは、そのお店の看板娘だ。
本書は、小学六年生のふうちゃんが多感な時期に自らの沖縄のルーツを感じ、人の痛みを感じ、人として成長していく物語だ

お店の場所は本書の記述によると、神戸の新開地から東によって浜の方にくだった川崎造船所の近くという。今でいう西出町、東出町辺りだろう。この辺りも沖縄出身者のコミュニティが成り立っていたようだ。

『兎の眼』を著した人としてあまりにも有名な著者は、かつて教師の職に就いていたという。そして、17年間勤めた教員生活に別れをつげ、沖縄で放浪したことがあるそうだ。

本書は、その著者の経験がモチーフとなっている。教員として何ができるのか。何をしなければならないかという著者の真剣な問い。それは、本書に登場する梶山先生の人格に投影されている。
担任の先生としてふうちゃんに何ができるか。梶山先生はふうちゃんと真剣に向き合おうとする。ふうちゃんのお父さんは、沖縄戦が原因と思われる深い心の傷を負っていて、日常の暮らしにも苦しんでいる。作中にあぶり出される沖縄の犠牲の一つだ。

「知らなくてはならないことを、知らないで過ごしてしまうような勇気のない人間になりたくない」(282ページ)
このセリフは、本書の肝となるセリフだろう。ふうちゃんからの手紙を、梶山先生はその返信の中で引用している。

ここでいう知らなければならないこととは、沖縄戦の事実だ。

私はここ数年、沖縄を二度旅している。本書を読む一昨年と三年前のニ回だ。一度目は一人旅で、二度目は家族で。

一度目の旅では、沖縄県平和祈念資料館を訪れた。そこで私は、沖縄戦だけでなく、その前後の時期にも沖縄が被った傷跡の深さをじっくりと見た。
波間に浮き沈みする死んだ乳児の動画。火炎放射器が壕を炙る動画。手榴弾で自決した壕の避難民の動画。崖から飛び降りる人々の動画。この資料館ではそうした衝撃的な映像が多く見られる。

それらの事実は、まさに知らなくてはならないことである。

沖縄は戦場となった。それは誰もが知っている。
だが、なぜ沖縄が戦場になったのか。その理由について問いを投げかける機会はそう多くない。

沖縄。そこは、ヤマトと中国大陸に挟まれた島。どちらからも下に見られてきた。尚氏王朝は、その地政の宿命を受け入れ、通商国家として必死に生き残ろうとした。だが、明治政府の政策によって琉球処置を受け、沖縄県に組み入れられた琉球王朝は終焉を迎えた。
沖縄の歴史は、戦後の米軍の占領によってさらに複雑となった。
自治政府という名称ながら、米軍の軍政に従う現実。その後日本に復帰した後もいまだに日本全体の米軍基地のほとんどを引き受けさせられている現実。普天間基地から辺野古基地への移転も、沖縄の意思より本土の都合が優先されている。
その歴史は、沖縄県民に今も圧力としてのしかかっている。そして、多くの沖縄人(ウチナーンチュ)人が本土へと移住するきっかけを生んだ。

だが、日本に移住した後も沖縄出身というだけで差別され続けた人々がいる。ヤマト本土に渡ったウチナーンチュにとっては苦難の歴史。
私は、そうした沖縄の人々が差別されてきた歴史を大阪人権博物館や沖縄県平和祈念資料館で学んだ。

大阪人権博物館は、さまざまな人々が人権を迫害されてきた歴史が展示されている。その中には沖縄出身者が受けた差別の実情の展示も含まれていた。関西には沖縄からの出稼ぎの人々や、移民が多く住んでいて、コミュニティが形成されていたからだ。
本書は、沖縄の歴史や沖縄出身者が苦しんできた差別の歴史を抜きにして語れない。

ふうちゃんは、お父さんが子供の頃に体験した惨禍を徐々に知る。沖縄をなぜ疎ましく思うのか。なぜ心を病んでしまったのか。お父さんが見聞きした凄惨な現実。
お店の常連であるロクさんが見せてくれた体の傷跡と、聞かせてくれた凄まじい戦時中の体験を聞くにつけ、ふうちゃんは知らなければならないことを学んでいく。

本書の冒頭では、風ちゃんは自らを神戸っ子であり、沖縄の子ではないと考え、沖縄には否定的だ。
だが、沖縄が被ってきた負の歴史を知るにつれ、自らの中にある沖縄のルーツを深く学ぼうとする。

本書には、山陽電鉄の東二見駅が登場する。江井ヶ島駅も登場する。
ふうちゃんのお父さんが心を病んだのは、ふらりと東二見や江井ヶ島を訪れ、この辺りの海岸線が沖縄の南部の海岸線によく似ていたため。訪れた家族やふうちゃんはその類似に気づく。
どれだけの苦しみをお父さんが味わってきたのか。

父が明石で育ち、祖父母が明石でずっと過ごしていた私にとって、東二見や江井ヶ島の辺りにはなじみがある。
また明石を訪れ、あの付近の光景が沖縄本島南部のそれに似ているのか、確かめてみたいと思った。

そして、もう一度沖縄を訪れたいと思った。リゾート地としての沖縄ではない、過去の歴史を直視しなければならないと思った。沖縄県平和祈念資料館にも再訪して。

私は、国際政治の複雑さを理解した上で、それでもなお沖縄が基地を負担しなければならない現状を深く憂える。
そして、本書が描くように沖縄から来た人々が差別される現状にも。今はそうした差別が減ってきたはず、と願いながら。

‘2020/03/28-2020/03/31


怒り(上)


著者の本は折に触れ、読んでいる。
社会の中で不器用に生きることの難しさと、その中で生き抜く人間への共感。
著者の作風から感じられるのは、そうしたテーマだ。
ここに来て、著者の作品から感じるのは、人の悪を描く試みだ。
なぜ人は悪に染まってしまうのか。この社会の何が人を悪に走らせるのか。

理想だけで生きて行かれれば幸せだ。だが、理想の生活を実践するには、社会を生き抜く能力が求められる。
ところが、ほとんどの人には理想の生活を送るための飛び抜けた能力が備わっていない。もしくは備わっているのに気づかない。
私をはじめとした多くの人は、社会の中で自分の居場所を確保しようと躍起になっているのが実情だ。自分の能力に適した仕事を探しながら。

本書はそういう人々が必死に社会で生きる姿を描く。
複雑で利害がこみいった世の中。
人によっては正体を隠し、影の中に生きる事を余儀なくされた方もいるだろう。
それは何も、本人のせいではない。

例えば、生まれ持った性的志向が異性ではなく同性へと向いている場合。
わが国ではまだ同性愛には非寛容だ。そのため、大っぴらに発展場に通う姿を見られることに抵抗感があるかもしれない。
例えば、親が私生活で作る失敗によって住む地を転々とさせられる場合。
何度も転校を余儀なくされ、ついには沖縄の離島のペンションにまで。若さゆえの適応力で対応できても、どこかに影は生じる。
例えば、ほんの少しだけ、自分の娘が他より社会での適応力に欠けている場合。
娘が幸せに生きていけるのだろうか、娘が付き合う男の全てが娘をいいように持て遊ぼうとしているだけでは、という親心からの疑いが拭い去れない。
娘には幸せになって欲しいという親心があるゆえに。

誰もが皆、社会に何らかの負い目を感じながら生きている。
そうした世間に、あからさまな怒りを抱え、世に害をなす人物がまぎれこむ。そして善良な市民のふりをして正体を隠す。その時、人々の不安は増幅される。
その不安は、疑心暗鬼へとつながり、さまざまな誤解を生み出す。誤解は誤解を巻き込み、日常が不穏な色に染められる。

著者は、場所も環境も異なる三つの舞台を同時並行に描く。
その三つの舞台の間に直接の関係はない。
あるのは日本国内で起こっている事と、ある夫婦を無残に殺害した山神一也が逃亡し、行方をくらませている、というニュースのみ。
どこにいるかわからない犯人の存在が、三つの物語の登場人物たちそれぞれに薄暗い影を落とす。

著者の紡ぎだす物語は、共通の一つの疑いが、徐々に人々をむしばむいきさつを浮き彫りにする。
何も引け目を感じていない時、そうしたニュースは聞いたそばからすぐに忘れ去られる。取るに足りないからだ。
だが、免疫力が落ちた人が簡単にウィルスにやられてしまうように、心に引け目を感じている人は、精神的な免疫が損なわれている。そうした人の心に少しでも疑いが侵入すると、それがじわじわとした病となって巣食っていく。

上に書いた同性愛の嗜好を持つ藤田優馬は、パートナーを求めて男たちが集まるサウナの隅で、うずくまるように孤独に身を包む大西直人に出会う。
家に直人を連れ帰り、一夜の関係を持った二人。身寄りも職もない直人に家で住むように誘った優馬は、日中は大手IT企業で働いている。
充実した日々を送りつつ、仲間たちとパーティーや飲み会に明け暮れた日を過ごしていた優馬は、直人との出会いを機に今までの付き合いから距離を置く。
余命もわずかな母との日々に重きを感じた優馬に、直人は積極的に関わり、母や仲間との信頼を築き上げてゆく。

九十九里浜に近い浜崎で漁業関係の仕事を営む洋平には、少しだけ知恵の足りない娘の愛子がいる。
本書は、歌舞伎町のソープランドに連れていかれ、働いていた愛子を洋平が連れ帰るシーンで幕が開く。
その頃、浜崎には田代哲也という若者がふらっと現れ、漁協で仕事を手伝いはじめた。自分を語りたがらず、寡黙で真面目な田代。
やがて愛子と田代は惹かれあい、同棲を始める。
だが、田代の過去に疑いを抱いた洋平の心に疑いが湧く。果たして田代は娘を幸せにしてくれる男なのか。それとも、娘はまた騙されてしまうのか。

泉は母と二人で暮らしている。母は意図せずして住民トラブルを起こしてしまう性格の持ち主。
高校生の泉は、母に生活を依存するしかない。だから、母が引き起こしたトラブルによって転居を強いられても拒めない。名古屋、福岡、そして沖縄へ。
沖縄の本島からさらに離島のペンションで住み込む母娘。泉はそんな現状にもめげず、明るく振る舞っている。
だが、どこかに抑えられた鬱屈がある。泉は同じクラスの辰也の船で無人の島へ渡り、そこで島で野宿をする田中と名乗る男に出会う。
彼をペンションのオーナーに手伝いとして紹介した泉。田中は果たして何者なのか。

山神を追い求める捜査の進み具合を合間に挟みつつ、著者は三つの物語に謎めいた人物を登場させる。
果たして誰が山神の化けた姿なのか。そして、三つの物語に登場する人々はどうなってゆくのかという興味を引きつつ、話を進めてゆく。
その絶妙な話の進め方と、日々を精いっぱい生きる登場人物たちの心に兆す疑心が芽生え、育ってゆく様子の描写はお見事というほかない。
そして、なぜ彼らは窮屈に生きねばならないのか、という社会の淀みを描いていく手腕も。

‘2019/02/17-2019/02/18


海に生きる人びと


本書は沖縄旅行に持って行った一冊だ。

沖縄といえば海。海を見ずに沖縄へ行くことはできない。切っても切れない関係。それが沖縄と海の関係だ。「うみんちゅ」なる言葉もあるくらいだから。

そんな海の人々を知るには本書の民俗学的なアプローチが有効だと思い、かばんにしのばせた。結局、旅行中に読めなかったが。

ところが今回の沖縄旅行で訪れた海とは、観光としての海だった。民俗学の視点で考え込むより、青く透き通る美しい海で遊ぶこと。妻子の目的はそれだった。私も楽しんだけれど。

ところが一カ所だけ、海を民俗学的に扱っている場所を訪れた。その場所とはうるま市立海の文化資料館。ここは、海中道路の途中にある。沖縄本島から海中道路を渡った先には浜比嘉島、平安名島、宮城島、伊計島がある。これらの島々は沖縄でも造船技術の発達した場所。中国大陸に影響を受けた造船技術が現代もなお受け継がれている。それもある一家に相伝で伝わっているという。

この資料館には船の実物や造船技術のあれこれが展示されていた。私は駆け足ではあるが、展示物を見て回った。

その上で本書を読んだ。本書は、日本各地で海とともに生きた人々を取り上げている。その生活や歴史を。漁をなりわいとする人々はどういう生活圏を作り上げてきたのか。そして時代とともにどう生活圏を変えてきたか。そしてどういう職業をへて、海に寄り添って文化を作り上げてきたか。それらが本書では詳しく描かれている。

それは、著者の該博な知識があってこそだ。そうでなければ、各地の地名、伝承、古文書をこれだけ登場させられないはず。そう思えるほど、本書には日本各地の地名や伝承が次々と出てくる。著者によると、これでもまだ表面だけだという。

それだけ各地に残る古文書には、人々の暮らしの歴史が膨大に含まれているのだろう。そして、海の人々の足跡が刻まれているのだろう。それをたどってゆくだけでわが国の漁民文化の変遷が見えることが本書から読み取れる。

その変遷はなかなか多様だ。各地に残る「あま」の地名。それはまさに漁民の移動と広がりの跡にほかならない。隠岐の海士、兵庫の尼崎、石川の尼御前、阿波の海部、肥後の天草など、各地の「あま」が付く地名にたくさん跡が残されている。今の千葉県の安房が、徳島の阿波の国から来ている可能性など、旅が好きな人には本書から得られる知識がうれしいはず。

現代に生きる私たちが「あま」と海を結びつけるとすれば、鳥羽の海女しか出てこないと思う。それも観光ショーとしての。またはNHKテレビ小説の「あまちゃん」ぐらいか。ところが、かつては各地の海で生計を立てる人々を総じて「あま」と呼んだそうだ。だから日本の各地に「あま」が付く地名が多いのだ。

本書は、各地の地名の成り立ちを追いながら漁民の移動の歴史を概観する。その各章だけでかなり興味深い歴史が手に入ることだろう。

さらに本書は時代を少しずつ下ってゆく。それは漁法の進歩にともなう生活のあり方の変化として描かれる。漁民によってその変化はいろいろだ。潜水の技術をいかし、アワビ取りで糧を得る人もいた。妻だけが海に潜り、夫は沖に出て漁に従事することもあった。漁師から職を替え、船による運搬を職業に選ぶ人もいた。海から陸に上がり、商いで身を立てる人もいた。海は長距離の行動を可能にする。だから、海に生きる人々の生活範囲は広い。

著者は泉州の佐野を例に出す。いまは関空の拠点だが、かつては海に生きる人が多かったという。はるかな対馬まで毎年遠出する人もいたし、日本沿岸を余さず巡る人もいたという。そうした人々が日本各地に痕跡を残し、その地に地名を残す。

本書はあくまでも海の人々に集中している。だから、歴史を語る際に欠かせない中央政府の動向はあまり出てこない。だが、本署の描写からは海の人々が時代に応じて変化していく明白な様子が感じられる。

著書の調査の綿密さ。それは、海と人の交流を克明に描いていることからも明らか。例えばクジラ漁。例えばエビス神の信仰。なぜエビス様は左手に鯛を持っているのか。それは海の神から来ているという。西宮出身の私にはエビス様はおなじみだ。だから、恵比寿信仰のイメージは強く私に刻まれている。

結局、本書から私たちは何を学べばよいか。それは人々の流動性だ。たかだか八〇年の人生で物事を考えると、定職や定住を当たり前と考えてしまう。ところが古来、日本人には海の民族としての絶え間ない行動の歴史があったことが本書から学べる。それなのに私たちには海への文化的視点があまりにも欠けている。

海を舞台に活動した文化の伝統を忘れたこと。それは、日本人の活力を低下させたのではないだろうか。かつての日本人にはフロンティアであり冒険家だった海の人々がいた。そして、今もそうした人々の末裔はいるはず。海の文明を思い出し、日本人が旅心を取り戻した時、日本はまた立ち上るのかもしれない。

本書を読み、そういった知見を養っておくのは決して悪いことではない。

‘2018/04/02-2018/04/18


沖縄にとろける


本書は、沖縄旅行の前に読んでおきたかった。なぜなら、本書には沖縄を楽しむための知識、それも私が大好きな類の知識がたくさん詰まっているからだ。

本書が語る沖縄とは、海や戦跡、水族館や琉球舞踊、音楽についてではない。ありふれた日常の中にある沖縄を語る。

本書が主に扱うのは食文化や酒文化からみた沖縄だ。その観点からみた沖縄は、混じり合った異文化の魅力を放っている。それは観光客として訪れるだけでも存分に楽しめる。実際、私を魅了し続けている。独特の食材を使い、独自の風味で味付けられた料理。お店には泡盛の甕やシーサーが飾られ、飲み食いしながら味わえる旅人の実感は格別だ。

しかし、その装いや味付けはどことなくよそ行きの雰囲気をまとっているように思うのは私だけだろうか。つまりは観光客向けの。それは私がまだ沖縄を観光地でしか知らないからだろう。観光客は決して知らない、沖縄にしかない食文化が、沖縄の日常には隠れているはずなのだ。シーブンのような。旅の楽しみの一つは、その奥深さに触れることにある。普段は観光客の目に触れないが、日常に足を踏み入れると時折その姿をのぞかせる食文化。それらに触れるには、市場やスーパーなど地元民が訪れる場所に行くのが早い。

沖縄は日本屈指の観光地だ。それだけに観光客として訪れるだけでも十分楽しめる。だが、沖縄の日常には、観光客として行くだけでは決して味わえない、さらなる深い麻薬のような魅力を放っているように思う。

その魅力とは、町の大衆食堂の中にメニューとして掲げられている。自動販売機やA&Wの店を訪れ、店内を注意深く見ると気づく。離島のゆっくりした時間に漂っている。うらぶれた裏通りのホテルに染み付いている。地元民しか訪れないビーチで波に洗われている。

私は今回の沖縄が三回目となるが、観光客がよく行くと思われる沖縄本島の有名な観光地はようやく二割近くは訪問できた。となると、次はより沖縄の日常に触れてみたくなる。当然だ。実は二回目も今回も沖縄在住の方にお会いしている。だが、限られたわずかな時間では本書に取り上げられているような深い経験はできない。本書にはいわゆる観光地は登場しない。旅人としてではなく、住んでみて初めて気づく視点。それが紹介されるのが本書だ。

その視点とは、沖縄に住み、地元の方と長い時間を共有してようやく気づく類いのことだ。たとえば本書には住民のビーチパーティーに招かれた著者が、ビーチパーティーとはなんぞや、と考察する章がある。そもそも観光地を訪れ、普通にホテルに泊まっているだけではビーチパーティーには呼ばれるどころか存在にすら気づかないはず。地元の方との親密な関係を築いてはじめてビーチパーティーに呼ばれるのだから。

他の章では、数十メートルの距離を歩かずに車で移動しようとするウチナーンチュを揶揄している。観光客向けのレストランや居酒屋には登場せず、地元住民が足しげく通う店でしか見られないメニューの数々が登場する。法の遵守などまったく見向きもせず、たくましく生きるウチナーンチュの夜型の生活が描かれる。生活のためなら論外と言わんばかりに自販機の夜間販売の制限を無視するふてぶてしさにも触れる。食品衛生法など度外視で造られる島豆腐の製法から、食品の美味しさを賛美する。どの視点も生活をともにせねば書けない内容だ。著者はそうした沖縄のしたたかさとたくましさが、管理と治安が最優先の日本本土で失われつつあることをいいたいのではないか。自主規制が幅を利かせ、画一的な文化しか見られなくなったメインストリームの文化。そのような対比が透けて見えるため、本書はなおさら面白く興味深い。

本書から見えるのは沖縄のたくましさだ。そのたくましさはアジアのそれを思い出させる。たとえば台湾のような。

かつて私は台湾を自転車で一周したことがある。その時に見かけた台湾の人々はとてもエネルギッシュで活力にあふれていた。町中をバイクで五人乗りで走行する少年たちの姿。日本ではまず見られないものだ。その辺で交尾をし、放し飼いで買われている犬たち。私は夜の道を自転車で走っていて何度犬に追っかけられたことか。そのおおらかなアジアの猥雑さは、当時の私に大きく影響を与えた。本書から垣間見える沖縄の姿は、あのときの台湾を思い出させる。

私が台湾で活気むんむんだった庶民を見かけたのも観光地ではなく、日常の中だった。その経験は私に旅の極意を教えてくれた。旅とは観光地ではなく、日常に入り込むことによって得られるものだと。

その経験からいうと、私はまだ沖縄の表しか見ていない。私が沖縄の日常を知るにはあと何度訪れなければならないのだろう。より深く活気にあふれた沖縄。そのエネルギーは少々管理に疲れたように見える日本人に活気を与えてくれるはずだ。活気だけでなく、日本再生のヒントを。

私ももちろん、沖縄からエネルギーを分け与えてもらいたいと思っている。そしてこの整頓と秩序を重んじる日本で生きるためのヒントを。私の残り時間は短い。

‘2018/03/31-2018/04/02


沖縄 琉球王国ぶらぶらぁ散歩


家族で訪れた沖縄はとても素晴らしい体験だった。本書はその旅の間に読み進めた、旅の友という本だ。今回、三日間の行程のほとんどは、戦時下の沖縄と、今の沖縄を見ることに費やした。その中で唯一、中世の沖縄を見る機会があった。それは、勝連城跡においてだ。

実は今回の旅行の計画では、当初は首里城に行く予定だった。ところが、沖縄でお会いした友人の方々から薦められたのは海中道路。そこで、首里城ではなく海中道路に旅先を変えた。海中道路だけでなく、浜比嘉島のシルミチューとアマミチューの遺跡や、伊計島の大泊ビーチを訪れた経験は実に素晴らしかった。だが、首里城への訪問は叶わなかった。それだけはない。前日、今帰仁城に訪れるはずだったが、ここにも寄る時間がなかった。妻が美ら海水族館を訪れたついでに寄りたいと願っていたにもかかわらず。

そこで、大泊ビーチの帰りに見かけた勝連城跡に寄った。何の予備知識もなく立ち寄った勝連城跡だが、思いのほか素晴らしかった。私にとって今回の旅のクライマックスの一つは、間違いなく、ここ勝連城跡だ。

この勝連城は、阿麻和利の居城だった。阿麻和利とは、琉球がまだ三山(南山、中山、北山)に分かれ、群雄が割拠していた十四世紀に活躍した人物だ。

今回の旅の九カ月前、私は沖縄を一人で旅した。そして旅の後、私は何冊かの沖縄関連書を読んだ。その中の一冊<本音で語る沖縄史>は琉球の通史について書かれていた。私はその本によって今まで知らなかった近代以前の沖縄を教わった。阿麻和利。その名前を知ったのもその時だ。それまで、本当に全く知らなかった。阿麻和利の乱はその本では一章を費やして書かれており、私の中に強烈な印象を残した。琉球の歴史で欠かせない人物。それが阿麻和利だ。

ところが肝心の阿麻和利の乱の舞台の名前を忘れていた。その舞台こそ、ここ勝連城。私が場所の名前を忘れていたのは、十五世紀の城ゆえ、居館に毛の生えた程度だろうと勝手に軽んじていたからに違いない。ところがどうだ。勝連城の堂々として雄大な構え。日本本土の城にも引けを取らない威容。私は勝連城によって、琉球のスケールを小さく見積もっていたことを知らされた。それとともに、これほどの城を築いた阿麻和利への認識もあらためなければ、と思った。

勝連城を登り、本丸に相当する広場からみた景色は実に素晴らしかった。南ははるかに知念岬を望み、東は平安座島や浜比嘉島が浮かぶ。西や北は沖縄本島のなだらかな山々が横たわり、琉球の歴史を物語っている。勝連城とは琉球の島々だけでなく、琉球の歴史を一望できる地だったのだ。城跡に立ったことで、私はもう一度琉球の歴史をおさらいしたいと思った。

本書には豊富な写真が載っている。それらの写真の威容とわが目に刻んだ勝連城のスケールを照らし合わせながら、琉球の歴史をおさらいした。本書を読んだのは沖縄の旅の間。旅の頼れる相棒として、るるぶと共に私の役に立ってくれた。

琉球の歴史とは、日本の歴史の縮図だと思う。

狭い島国の中で群雄が相撃った歴史。中国大陸、そして太平洋の彼方からの文化を受け入れ、そこからの圧力に抗う地勢。圧倒的な文化の波をかぶり、文化に侵された宿命。基地を背負わされ、占領の憂き目にもあった経験。そうした特色も含めて日本を小さくしたのが沖縄だといえる。

もう一つ言うならば、沖縄の歴史は日本に先んじていると思う。例えば日本の戦国時代より前に三山の戦乱が起こり、日本よりも前に統一が成し遂げられた。日本よりも前にペリー艦隊が来航し、日本よりも前に軍政下に置かれた。沖縄戦もそう。御前会議の場で終戦の聖断がなければ、日本は沖縄に続いて地上戦に巻き込まれていたかもしれない。 とすれば、私たち本土の日本人が琉球の歴史や文化から学べるものはあるのではないだろうか。

本書で琉球の歴史を学ぶことで、私たちは琉球の歴史が日本に先んじていることを悟る。そして、今の沖縄の現状は日本本土の未来である可能性に思い至る。三山の並立やグスク時代、第一、第二尚氏王朝の統治など、琉球の歴史が日本にとって無視できないことを知り、写真からその栄華を想像する。ただし上に書いた通り、スケールは写真だけではらわからない。実物を見て、なおかつ本書を読むべきだ。すると琉球の歴史が実感と文章の両面から理解できる。

だから、本書は旅のハンドブックとして適している。それも、戦跡や海や沖縄の食文化を味わう旅ではなく、御嶽やグスクといった沖縄の歴史を学ぶ旅において役に立つはずだ。次回、沖縄へ行く機会があれば、本書を持っていきたいと思う。

また、本書は琉球王国の終焉、つまり、明治11年の琉球仕置で幕を閉じている。著者はこの処置について、誰にとっても利のない最悪の処置だったと嘆く。日本編入が果たして沖縄にとってどのような現実をもたらしたか。ソテツ地獄や沖縄戦、米軍政やその後の基地問題だけを見れば、あるいは琉球王国が続いていたほうが沖縄にとってはよかったのかもしれない。だが、その一方で熾烈な国際関係の中では琉球は生き残れず、いずれはどこかの国に併合されていた可能性だってある。過去は過去で、いまさら覆すことはしょせん不可能。

であれば、未来を見るしかない。未来を見るには現在を見据えなければ。沖縄の現在が将来の日本の姿を予言している。その可能性は誰にも否定できない。本書を通して日本の未来を占うためにも、本書は存在価値があるのだと思う。

‘2018/03/26-2018/03/30


週末沖縄でちょっとゆるり


本書を読んだのは沖縄へ向かう機中だ。私にとっては九カ月ぶりの沖縄、前回の旅は沖縄戦と琉球文化を知る旅だった。ただ、二十二年ぶりの沖縄だったため、各訪問先のごとの思い出を作るのに精一杯だった。その時のブログは以下のリンクに書いた通り。今回は家族との旅を楽しむつもり。戦跡も巡るが、美ら海水族館やビーチにもいく。
家族で沖縄 2018/3/26
家族で沖縄 2018/3/27
家族で沖縄 2018/3/28

前回の旅で触れることのできた琉球の文化はほんの一部。沖縄にはもっと奥深いところに旅人の心を揺り動かす何かがあるはず。そう思い、今回は沖縄の文化について事前に予習することにした。

本の内容が現実にリンクした時、読書の醍醐味は実感となる。この実感は、おととしに家族で訪れた長崎で味わった。浦上天主堂が一部の遺構を残して撤去された経緯を描いた本< ナガサキ 消えたもう一つの「原爆ドーム」 >を読んだ翌日、長崎の街を歩いた時に感じた思い。本に描かれた天主堂の遺構や再建された天主堂をこの目で見たときに感じた感動は、読書家としての私自身の生き方に誤りはないと確信させた。

本書は実に面白かった。そして本書の内容が私の沖縄の旅にリンクした。だからこそ思い出に残った。

第一章の「沖縄そば」がすでにそうだった。前回の私の沖縄旅の目的の一つは、沖縄そばの神髄を知ることにあった。そのことは先に紹介したブログに書いたとおり。私が旅の途中で食べたのは豊見城にある「名嘉地そば」さんだ。それはとてもおいしかった。だが、革命的な発見を思わせるほどでもなかった。私が知っている沖縄そばとは、本土で食べるものだった。本土で食べる沖縄そばは、本当に沖縄そば本来の味なのだろうか。その探究心に駆られて訪れた「名嘉地そば」さんは、本土で食べる沖縄そばをおいしくした味だった。だが、それでは私の沖縄そばの本質を知りたい欲求を満たせない。私の知らない沖縄そばがあるのでは、と疑っていた。

東南アジアから台湾をへて沖縄、そして日本。その円弧上に沿って北上するうちに、麺文化は食べる麺からすする麺へと姿を変えて行く。そう書いたのは著者だ。それは確かに瞠目すべき発見に違いない。ところが、著者が発見はした事実とはそれだけにとどまらない。著者は沖縄そばが本土に影響されつつある現状をも発見する。そして著者は、沖縄そばが次第に食べるそばから啜るそばに変わってゆきつつあるのでは、と懸念する。その事実は、ずいぶん前から沖縄に足を運んできた著者だからこそ気づけたのだろう。おそらく著者の発見とは、食文化を語る上でずいぶんと貴重なものだと思う。

著者は沖縄そばを知るため、那覇から食べ歩きを始める。その探求はファミリーマートで売られている沖縄そばにまで及ぶ。本書で紹介されているファミリーマートの沖縄そばは私も目撃した。だが、本書を読んでいたためか食指は動かなかった。

著書の探究は那覇では実を結ばなかった。だから著者は国道58号線を北上しながら食べる沖縄そばを求める。そして、普天間にある三角食堂と、名護の八重食堂で著者は食べる沖縄そばに巡り合う。両者ともに那覇ではなく、郊外で見つかったところが興味深い。著者は、沖縄そばの中に那覇そばというカテゴリーがあるのでは、と結論を出す。それもまた興味深い。なぜならば、Wikipediaからの知識では、沖縄そばは那覇で生まれ、発展したはずだから。
ちなみに今回の沖縄の旅において、私は糖質オフダイエット中だったのであまり沖縄そばを食べなかった。しかし、知念岬の近くにある南城市地域物産交流館で食べた野菜そばはとてもおいしかった。

著者の啜るそばと食べるそばの切り分けは興味深い。おそらく的を射た指摘なのだろう。ただ著者は、啜るそばに変わったからと言って沖縄そばがまずくなったのではなく、むしろ全体のレベルは上がっているという。
私が知りたい沖縄そば。それは食べるそばを指すのだろうか。であれば、多分まだお目にかかったことがないはず。私が本土で食べたことのある、そして前回と今回の旅で食べた沖縄そばとは、本土向けにアレンジされた啜るそばではないか。ということは、私はまだ沖縄そばを知らない。多分、食べる沖縄そばを味わえた時、ようやく私は沖縄そばの世界の入り口に立てるのだろう。それまでは沖縄そばについて蘊蓄を披露するのはよしたい。

なお、本章の補足としてシーブンについての考察も載っており、これも興味深かった。シーブンとは沖縄の定食屋で出されるサイドメニューのことだという。メニューに載っている料理を注文すると、サービスでサイドメニューがドドんと出される。その量の多さは、料理に込められたサービス精神の表れだ。私はまだシーブンを知らない。前回も今回も定食屋には入らなかったから。さらに私は、ホテルや観光地の食事しか沖縄料理をしらない。だから、沖縄料理を語る愚は避けなければ、と自戒した。

第二章「カチャーシー」も、本書を読んですぐ、旅の中で経験したことの一つだ。

カチャーシーとは何か。それは琉球の踊りだ。阿波おどりや盆踊りのようなものと思えばいい。だが、それらの踊りとは明らかに違う、琉球に独自の振りがあるのだという。本書にはこう書かれている。「なお、不慣れな本土の人間が踊ると、たいていは阿波踊りになる。」(71ページ)

著者が栄町市場のカメおばぁにカチャーシーを習う。そして、カチャーシーが何かを悟る。沖縄ではめでたいことがあるとすぐにその場でカチャーシーを皆で踊り狂うという。

本書を読んだ後、私はカチャーシーが何かを体験する。それは国際通りでのことだ。妻が以前の旅で訪れたという波照間https://hateruma.jcc-okinawa.net/という店に入った(実は妻の勘違いで、違う店だったのだが)。このお店で食べた料理はおいしかったが、それ以上に島唄三線のライブがあり、私の中で印象に残っている。島唄三線のライブが終わりに近づくと、座敷で飲み食いしていた客が何人もランダムにステージに上げられ、皆で踊る。私は幸いなのか残念なのか、ステージに連れていかれなかったため、カチャーシーを踊る経験は積めなかった。だが、これがカチャーシーか、と目の前で見聞きできたのは大きい。本書を読んでいた私は、目の前の楽しげな騒ぎがカチャーシーであることを理解できた。

本章は本書の中でも核心ともいえる。なぜなら、沖縄病について考察されているからだ。著者はその中で本土と沖縄の根本の違いについても鋭く触れている。

沖縄病について触れた文章を引用する。
「沖縄病という病は、基本的に片思いだから、その人の沖縄への思いだけが空まわりする。しかしどこか嬉しい。片思いとは、そういうものだ。かつて僕自身、かなり重い沖縄病を患っていたから、そのあたりの感覚はよくわかる。
 沖縄病に罹った人たちの一部は、移住を決意する。沖縄に移り住む・・・それは簡単なことではない。若者が沖縄に仕事を見つけて移るのならまだしも、本土生活の基盤があった人にとっては大変な覚悟である。人生のターニングポイント・・・と考える人もいる。そこまで沖縄への思いが増幅される。」(64P)

著者は自らが経験したカチャーシーを語り、まだ沖縄の人になりきれていない自分を悟る。それは八重山商工が甲子園に出た時のことだ。試合に勝った後、自然とカチャーシーがスタンドで沸き起こる。ところが著者はその場にいながら腰が上がらなかったのだという。それでも著者は悟る。
「カチャーシーとは踊りではなく、嬉しさを示す手段なのだ。」(88P)

著者はカメおばぁからカチャーシーを教えられながら、笑顔がないことを注意される。カチャーシーとは喜びの表現だからだ。そしてうれしさとは自然に出てくるものでないと駄目だ。観察者として傍観するのではなく、主導者として表現しなければならない。そこに沖縄と本土の違いがある。著者は沖縄と本土の違いを考える。ところが核心をつこうとしてつけていない。著者自身が自身の本土から来た者としてのアイデンティティと沖縄に染まる理想を紐づけようとして苦心している様が本章からはよく分かる。だから本章は本書でも核となるのだ。

第三章「LCC」は、沖縄の航空事情について語る。今回の沖縄の旅でも私たちはスカイマークを使った。それだけに、著者の言いたいことが理解できた。東京都心部から成田空港へのアクセス時間や、成田から那覇へのLCCの発着の時間。LCCの誕生が沖縄本島へのアクセスだけでなく石垣島や宮古島への往来を楽にしたこと。沖縄へしょっちゅう行き来するという著者だからこそ書ける考察に満ちていたのが本章だ。

第四章「琉球王国と県庁」は、本書の中でも若干異質だ。少なくとも、本書のタイトルが表わすゆるさとは違う。硬派な内容で埋められている。基地問題と沖縄。地上戦と沖縄。本土の沖縄。米軍と沖縄。どれほど沖縄が観光で栄えようとも、それらの問題を忘れ去るわけにはいかない。そうした矛盾の中で沖縄はどう生きてきたのか。そして、これからどう生きようとするのか。それを著者は探っていく。本章からは、被害者としての沖縄だけではなく、したたかな沖縄の姿も見えてくる。

著者は沖縄を取り上げるライターとして、観光本も手掛けているそうだ。著者は観光地沖縄を扱いながらも、被害者としての沖縄を忘れていいのか、と自らに問う。また、同時に米軍基地の存在が沖縄に利益を与えている現状もきちんと踏まえる。理想と現実の両者を見つめながら、沖縄は生きていかなければならない。基地がいい、悪いといった単純な二元論に陥っていないところが評価できる。

「沖縄は戦争の犠牲になった。しかし、本土の人々が、加害者意識に縁どられた視線をいくら向けてくれても、沖縄の人が豊かになるわけではなかった。沖縄の人々がほしいのは、同情ではなく、島が生きていく方法論だった。」(147P)
この文は、基地の反対運動に奔走する運動家への問題提起になっている。沖縄=善、本土=悪という視点にこだわっていては導き出すのもむずかしいだろう。本書が朝日文庫に収められており、親会社が朝日新聞社である事を考えると興味深い。
今回の沖縄旅行の三日目の朝、私は県庁前あたりをうろついた。その前の夜は北谷のアメリカンビレッジにも訪れた。初日はひめゆりの塔やアブチラガマで戦地に立った。本章は、そうした私の経験にリンクした。この章も本書では見逃せない。

第五章「波照間島」もまた味わい深い章だ。波照間島という日本最南端の島。その地を「離島の離島」という言葉で描き出しつつ、そこを訪れる訪問者の心境を探ってゆく。著者の友人で「ウルトラマン研究序説」を編集した人物がいるという。その人物は結局自死の道を選んだそうだ。そして自死する前に波照間島をいく度も訪れていたとか。そして一人で凧を挙げていたことが紹介される。著者はその友人を感傷的に振り返る。離島の離島は果たして人生の終着駅になりうるのだろうか。

今回の旅では波照間島には行かなかった。が、那覇で訪れた居酒屋の名前が波照間だったこともあり、本書と私の旅のリンクは続く。

第六章「農連市場」は、再開発の波によって姿を消した農連市場の姿をカメラマンの阿部稔哉氏が写真に収めている。再開発された農連市場の横を通ったのは、旅行の二日目、美ら海水族館へと向かう時。外観もすでに新しい姿だったので、本書に収められたような姿はみられなかった。だが、旅の三日目に市場本通りとむつみ橋商店街を少し歩いた。両方ともに昔ながらの庶民的な雰囲気に満ちていた。おそらく在りし日の農連市場もこのような場所だったのでは、と推測できたように思う。

第七章「コザ」は、今や寂れてしまったコザを仲村清司氏が文章に著している。コザは沖縄市にあり、嘉手納基地の足元にある。日本返還前にコザ暴動がおこった場所でもある。そのコザはかつては米兵で大賑わいだったらしいが、今は閑散としているという。その歴史や今の現状をルポルタージュの風味で描いたのが本章だ。

旅の二日目の夜、沖縄在住の友人の一家と北谷のアメリカンビレッジで夕食を一緒に過ごした。アメリカン・ビレッジは繁盛しており、沖縄でも成功したショッピングセンターとして評価が高いようだ。訪れた私も家族もアメリカン・ヴィレッジの活気を楽しんだ。アメリカンのはビレッジはコザからそう離れていない。

私は夕食の場で友人にコザの今がどうなのか聞いた。すると、まだ夜のコザは華やかだと言って夜の様子を写真で見せてくれた。米兵が多数たむろする歓楽街として、コザは今も機能しているようだ。ただし、女性が行く場所ではないとか。

それは仲村氏が取材した後、コザが盛り返したためなのか。それとも仲村氏のルポのタイミングがたまたま寂れていた時間帯だったのか。私には分からない。だが、北谷アメリカンヴィレッジがこれだけにぎわっていることは確かだ。コザの賑わいがそっくり北谷に移っただけなのかもしれないし、そもそもコザを訪れたことのない私には判断できない。どちらにせよ、私は今までの三度の沖縄旅行でコザに行ったことがない。次回、沖縄を訪れたあかつきにはコザを訪れようと思う。友人の一家もコザの近くに住んでいることだし。

第八章「沖縄通い者がすすめる週末沖縄」
第九章「在住者がすすめる週末沖縄」の両章はタイトルそのままの内容だ。それほどページ数は多くない。だが、ガイドマップには載っていない情報なので面白いかもしれない。むしろ、著者の視点ではない沖縄が紹介されており、ためになる情報だ。本書の他の情報と同じく。

‘2018/03/26-2018/03/26


家族で沖縄 2018/3/28


沖縄旅行も三日目。この日、当初の計画では首里城を訪れるつもりでした。ですが、訪問したのは違う場所。私たちが訪れたのは海中道路、浜比嘉島、そして伊計島でした。なぜ急に行き先を変えたのか。それはおとといの夜にパワースポットとしてシルミチューとアマミチューの墓を、そして昨日の夕食会では海中道路を薦められたからです。

薦められて今回訪れた場所はどこも全くの計画外。そもそも情報すらありません。さて、どんな所だろうと思いながら訪れた場所のどこもが素晴らしかった。

高速道路で北上し、途中から一般道へ。市街地を走ってたどり着いたのは海中道路入口。昨日、行きたかったのに行けなかったのは今帰仁城だけではありません。その近くにある古宇利大橋も走りたかったのです。ところが、美ら海水族館で時間を使い切ってしまいました。昨日見られなかった海と道路の織りなす美しい景色を見たいと思い、私は海中道路にやってきました。この海中道路、走っているとそれほどドラマチックな景色には出会えません。なぜなら平坦だから。海中道路の途中にある海の駅あやはし館の二階にあるうるま市立海の文化資料館で知ったのですが、海中道路は住民たちが自らの力で海を埋め立て、作った道路だというから驚きです。その際は米軍のブルドーザーも借りたといいますが、実質の作業は住民によってほとんどが担われたそうです。それだけ平安座島、浜比嘉島、宮城島、伊計島の四島の人々が抱く本土への交通手段への思いが強かったに違いありません。そうした人力で作り上げられた道路だから、高低差がなく、橋の風景がよく見える場所はあまり見当たりません。海の駅あやはし館にも展望台はありますが、そこでも全貌はよく見えませんでした。海中道路を通り過ぎ、いよいよ島へ乗り込んだ私たち。すぐに浜比嘉大橋を渡ります。渡った先は浜比嘉島。何の変哲もない島に見えます。ですが、この島は沖縄の神々が最初に住み着いたところなのです。

おとといに訪れた知念岬の近くの斎場御嶽は琉球で最も聖なる地。斎場御嶽から海の向こうに浮かで見える久高島は、琉球に神々がやってきた地と伝えられています。今に伝わる琉球開闢にまつわる神話。その神話に登場する神々の墓がこの浜比嘉島に残っているのだとか。アマミチューの墓は海辺沿いにある周囲20~30メートルほどの小島に鎮座しているというので、車を停めて訪れてみました。小島との距離は数メートル。なのでコンクリートの小道でつながっています。お墓はなんの飾りも装いもなく、島の中に慎ましやかにありました。コンクリートの歩道の手前に「アマミチューの墓」の看板がなければ、墓であることすら気づかないかも。でも、お墓とはそもそもこうした素朴なものなのかもしれません。ただ、この小島、あまりにも観光地化されていません。以前の台風で打ち上げられたと思われるゴミが撤去されずにたまっています。そこがちょっと残念といえば残念でした。でも、お墓の前に広がる浜辺から見た浜比嘉大橋と根本が波にえぐられた岩のコントラストは美しく、墓とあわせて一見の価値はあります。

私はその後、その周辺の集落を歩き回ってみました。この辺りには沖縄本土を席巻する都市化やアメリカ型の暮らしは及んでいないようです。沖縄に特有の屋根の低い家。そして石組みの塀とそれに挟まれ入り組んだ狭い道路。それらは素朴な風情を残していました。私はそうした光景をじっくりと目に焼きつけ、街並みを歩きました。

ついで車で向かったのはシルミチューの墓。そこは神社のような鳥居があり、そこを潜ると緩やかな階段が参拝者を上へと導きます。その様はまさに本土の神社そのもの。その上を目指して進んでいくと岩屋があります。そこがシルミチューの墓です。柵があって岩屋の奥の洞には入れませんが、上から枝垂れた植物の枝が岩屋と洞を彩り、一層厳かな雰囲気を漂わせています。神秘的な場。ここは娘たちにとってはあまり興味のない場所だったかもしれません。ですが、琉球の文化を語る上では欠かせない場所。私はここに来て良かったと思います。教えてくださった方に感謝です。せっかくなのでその近くの岩場をゆっくりと家族で散策。岩場と砂地が複雑に入り組んだ地形に海水が浸透し、干潟を作り上げています。いろいろな魚や貝も見ました。ここで私たちは、イカの骨と思われる謎の平たい物体を見つけ、大切に持ち帰ります。

さて、浜比嘉島を去る時がきました。この後の行動は全くのノープラン。島々の奥の方にビーチがあると聞いており、そこで時間を過ごそう、とだけ決めていました。平安座島、宮城島の向こう、伊計島へとビーチを求め、車を走らせます。

途中、大規模な石油タンク群が見えます。行きの飛行機からも見えた景色です。ボタンが多数並んだような沖縄にそぐわない光景。その横を車で走りながら、これもまた沖縄の一つの現実だと思いつつ車を走らせます。実はこの日の早朝、私は一人でゆいレールの県庁前駅を訪れました。趣味の駅巡りの一環として。沖縄の行政の中心であり、にぎわいの象徴でもある国際通りを擁する中心。ところがモノレールに沿って下を流れる久茂地川の色はどんよりと濁り、川からはドブのにおいが濃厚に漂ってきます。沖縄でありながら、那覇はすでに都会の汚濁をこれでもかと身にまとっています。そんな沖縄の別の現実を突きつけられた朝。ところが石油タンク群を過ぎ、さらに道を進むと、沖縄ののどかな風景に出会えます。

時々見かけるビーチの看板に導かれながら、私たちがたどり着いたのは大泊ビーチ。その手前にも、別のビーチがありましたが、私の勘が一番奥にあるビーチへと進ませるのです。大泊ビーチは有料でした。でも、勘に従って良かった。有料だけあって、ここはとても素晴らしいビーチでした。入り口からして、離島の風情がみなぎっています。音楽がのんびり流れる小屋と、のどかに寝そべる猫が私たちをお出迎え。そこから浜辺へ下る小道を進むと、そこは誰もいないビーチ。完全に貸し切り。広大なビーチが私たちの思うままに使えます。もう、ただただ感動。妻と娘たちはここで、浜辺に落ちているガラスや貝をひたすら拾い集めます。その種類の豊富さだけでも見飽きません。普通に店で売られていてもおかしくないカラフルで小粒な貝が浜辺に散らばり、陽光にきらめいています。これぞ沖縄。一昨日、昨日とビーチには訪れましたし、そのどこもが本土では出会えない美しさです。ですが、大泊ビーチはその中でも一番でした。

今回、泳ぐための道具は持ってこなかったので、海には入りませんでした。ですが、沖まで行こうと思えば行けます。かなたには沖縄本島も見えます。ここではいっとき、文明から切り離されず、それでいて文明を忘れられます。

しばらくすると他の人々もやって来ましたが、それでも広大なビーチには多くても十人がいるだけ。私たちがほぼ独占する状態に変わりありません。望んでも望めないぜいたくな空間と時間。一人500円の値段も惜しみないと思えるほどの。波打ち際で遊び、ベンチに座り、ぼーっと海を見る。それはまさに南国のリゾートの過ごし方。ここ10年近く、家族を南国やハワイに連れてきていません。今回の旅が、妻にとってハワイのかわりになれば。少なくとも大泊ビーチはホノルルのビーチよりもダントツで美しく、圧倒的にきれい。それほど、ここの海は美しかった。2、3時間このビーチで過ごしたでしょうか、そろそろ行かねばなりません。

帰るにあたり、伊計島をぐるっと回って見ました。まず、伊計島灯台。ビーチからも見えていた灯台にはぜひ行って見たいと思っていました。離島に立つ灯台。人が常駐せず、無人でただ海を見守る存在。それはまさに最果ての旅情そのもの。私はその前でしばしたたずみ、旅の空を見上げました。この辺り、見渡す限りの畑が広がり、それも旅情を一層促します。何の作物が育っているのかはわかりませんが、私の好きな景色です。

海中道路へ戻る途中、ぬちまーす塩の工場に寄ります。ですが、中には入りませんでした。ぬちまーす塩は妻が愛用しています。が、すでに国際通りで買い込んでいました。なので工場には寄らなくて良いと妻が言うので次の場所へと向かいます。そこはキングタコスのお店。おとといの夜、国際通りで出会った妻の患者さんから教えてもらったお店です。私たちが訪れたのはまさに街の食堂と呼ぶに相応しい店でした。そして、出されたキングタコスの武骨な感じと言ったら。それはまさに庶民の味。私は特においしいおいしいと食べました。娘たちにはちょっと量が多く、しかも味が単調だったようでしたが。こういうお店を訪れるのも旅の楽しみです。

刻々と、飛行機の時間が迫りつつあります。まだ沖縄にとどまっていたい。満喫したい。焦りにも似た思いを抱きながら、私は車を駆ります。そんな私の目に映ったのは勝連城跡の標識。ここに寄ってみようじゃないか、と妻を誘います。なぜなら昨日、今帰仁城に寄れなかったから。今回の旅でまだ達成できていない事があるとすれば、それは城の訪問。

そう思って訪れた勝連城でしたが、これがまた素晴らしかった。麓から見上げる城の様子は、勇壮さと威容を兼ね備えています。城の権威がここまで体現された城は本土でもそうは見られません。しかも勝連城には天守がありません。石垣の遺構だけでこれほどの印象を受けるとは思いませんでした。私にとって勝連城の第一印象とは、本土で出会ったどの城より強烈でした。

麓の駐車場に車を停め、娘たちは城に興味がないと言うので私と妻の二人で城を登ります。登って行くと、次々と曲輪が現れます。それらは本土の城と遜色がなく、むしろ勝連城が十五世紀に建てられたことを考えると、本土よりも進んでいると言えましょう。各曲輪は広々としていて、四の曲輪ではなぜか、コスチュームに身を包んだ五人の戦隊が、何やら収録らしきものをしています。近くに寄らなかったので推測ですが、五人の正体はうるま市の観光の戦隊モノ、闘牛戦士ワイドー!だと思われます。私たちはそれを上から見つつ、標高を刻むにつれ変わりゆく城の姿を楽しみました。勝連城は阿摩和利が反乱を起こした際、立て籠った地だと伝わっています。それは十五世紀。日本の戦国時代よりさらに前に、大きな嵐が琉球で起こりました。その嵐は尚氏による琉球の統一を確かにしました。琉球の歴史において、欠かせない舞台になったのがここ勝連城。それだけの重みと、時の流れが石組みの一つ一つにしみこんでいるように思えます。それを感じながら、天守台からの景色を堪能します。ここからの景色がまた素晴らしい。走っているときには感じられなかった海中道路の全体が一望のもとに見えます。南に目を転ずれば、おととい訪れた知念岬が。全てがきらめき、海の恵みの広がりが感じられる。それが勝連城。阿摩和利がここに城を立てた必然が実感できます。

この勝連城、私が今までに訪れた城の中でも鮮烈な印象を残しました。あまりにも。その印象をより確かなものにしたい。まだまだ長い時間ここにいて琉球の風を感じていたい。南国の陽の光を浴びていたい。しかし、そろそろ飛行機の時間を意識しなくてはなりません。城の資料館で勝連城の歴史をざっと見て、琉球の歴史の本を買い、国際通りへと車を飛ばします。国際通りでは、娘たちと家族で最後のお土産を買い回りました。例えば妻はサメの歯でできたアクセサリーを買います。娘たちもお土産を買います。私は、国際通りの近くにある市場本通り、市場中央通り、むつみ橋商店街を冷やかし、那覇の騒がしさとエネルギーを耳になじませます。

いよいよ、車でレンタカーを返しに行きます。今回、この車にはとてもお世話になりました。沖縄観光はレンタカーが一番ですね。レンタカーを返し、来た時と同じ送迎バスで空港へ。空港では、名残を惜しむようにお土産を買い、そして機上の人に。羽田に着いたのは深夜。でも充実した三日間が過ごせました。お世話になった方々に感謝です。


家族で沖縄 2018/3/27


今回、グレイスリーホテル那覇に泊まったのは、妻がここの朝食をおいしいと評価したからです。私が泊まった昨年も素晴らしい朝食をいただきました。娘たちにも朝食は好評でした。そして始動。

この日の目的地は二つ。美ら海水族館と、今帰仁城です。沖縄本島の北部。なので朝食も早々に車を出します。車で高速のインターまで向かい、そこから北に進路を定めます。そして許田インターチェンジで高速を降ります。名護は私が23年前に大学の合宿に来た際、はじめに泊まった地。その時の記憶では人の少ないのどかな場所という印象が強いですが、その頃とはもう全く違っています。そもそも記憶がほとんどなく、どのホテルに泊まったかすら覚えていません。車は名護の市街地を通り過ぎ、本部の方へ向かいます。私にとっては未知の地。そのあたりから海沿いを走ると、海の輝きが否が応でも目に入ってきます。その色の鮮やかさ。あまりの美しさに我慢できず、途中にあった崎本部緑地公園というところに寄りました。そこに広がる砂浜とエメラルドグリーンの海。みんな大はしゃぎ。感嘆の声しかでません。本土にいては知らなかったはずのこのような通りすがりの場所でも美しい海が見られる。それが沖縄の沖縄たるゆえん。ここはゴジラ岩と称されるゴジラに似た岩があり、岩のゴツさが目立ちます。が、美しい海と砂はゴジラに負けずきらめいています。目いっぱい写真を撮りまくりました。

もうここですでに景色の美しさに目がくらみそう。眼福を通り越し、心が洗われます。それほどの美しさでした。ですが、私たちが向かうべきは美ら海水族館。さらに車を走らせます。美ら海水族館は私にとって初めての場所。広い駐車場に停め、ゲートへと歩きます。かつての海洋博覧会の跡地を利用した広大な敷地。期待に心も弾みます。

水族館が好きな私にとって美ら海水族館は1つの憧れ。ようやくそれが今叶おうとしています。言うだけあって水槽が大きく魚の種類も多彩。中でも熱帯魚の美しさは目を奪います。巨大水槽は広く、中で回遊する魚たちにも気のせいか余裕が感じられます。

黒潮の深みのある豊かさ、サンゴに群がる色鮮やかな芳醇さ。小さな水槽には本土の水族館ではあまり見ない魚が姿を覗かせています。タッチプールや上から見下ろせる水槽、そしてさまざまなサメの歯型など、サメの生態を紹介するコーナー。盛りだくさんです。

美ら海水族館の売りは、本館だけでなく屋外の施設が豊富である事です。オキちゃん劇場と名付けられたイルカショーのプールは広大で、かつダイナミック。ここはすぐ背後に美しい海が控えており、視覚的にもイルカが映えます。海の向こうには伊江島が横たわり、伊江島をバックにイルカが飛び跳ねる様はまさにフォトジェニック。オキちゃん劇場の近くにはイルカラグーンという浅めのプールもあります。そしてイルカプールの近くにはウミガメのためのプールや砂浜が設えられたウミガメ館が。そこでは間近でウミガメの歩みも泳ぎも見られます。また、マナティー館というマナティのための施設もあり、そこでは巨大なマナティが人魚よろしく肢体をあらわにして泳いでいます。これらはどれも水族館が好きな人にはたまらない場所でしょう。

美ら海水族館は、確かに素晴らしい。何が素晴らしいって、外の設備の広さやその開放感。それこそが美ら海水族館の素晴らしさに違いない。私たちは飽きることなく水族館の中や外の施設、売店をぐるぐる歩きまわりました。

そしてこの水族館、目の前にビーチが広がっています。マナティ館のすぐ脇からビーチに降りられます。これだけでも日本の本州の水族館では味わえないぜいたくさです。こうした場所は観光客の多さにビーチも薄汚れているのが常態のはず。ところがこのビーチ、驚くばかりに美しい。ここでしばらく体を、心を、足を洗います。ここだけでも美ら海水族館の優れた点が感じられます。十分満足しきった私たち。歩き疲れたので水族館の建物の屋上デッキにあるお店で私はノンアルコールビールを、そして娘たちはアイスを食べます。

続いて私たちが向かったのは、エメラルドビーチ。ここは広く大きな突端があり、やしの木が伊江島をバックに育っています。この広いエメラルドビーチ、まさにビーチという名にふさわしい。これが水族館のすぐ横にあると言うことが信じられぐらい。私と長女はそこでヤドカリを探し、それと遊んでいました。

エメラルドビーチでのんびりと海を見ながら、私たちは2時間近く過ごしたでしょうか。こうした余裕のある時間こそ、沖縄に来た真価だと思います。今回、当初は今帰仁城に行く予定でした。それは妻の希望でした。私も同感。ところが、エメラルドビーチの豪華さとぜいたくさは、今帰仁城へ行く時間を奪ってしまいました。

そろそろ私たちは美ら海水族館を後にしなければなりません。次に行くべき場所があったからです。それは友人との再会。昨年、私が独りで沖縄を旅した際、那覇空港で再会した友人。その時が16、7年ぶりの再会でした。今回はその友人の家族とうちの家族が一緒になって食事をする。そのような提案をいただきました。その場所は美浜アメリカンビレッジ。どのくらいかかるのか全く見当がつきません。なので、エメラルドビーチから本館へと戻り、最後に少しお土産屋を観てから帰ります。そして車へ。帰り、名護市街までは順調でした。ところが許田インターの手前で渋滞にはまり、しかも、降りた沖縄南インターでも渋滞に巻き込まれます。結局友人の家族に会えたのは約束の時間から45分ほど後。本当に申し訳ない。

ご主人には昨年会いましたが、奥さまにお会いするのは17,8年ぶり。お互いその当時は子供がいません。ですが、今はお互いが大きな子供を連れています。時の流れるのは早い。でも、その間もずっと年賀状のやりとりは続けていました。ですから、茨城に住んでいた家族がいきなり沖縄に移住したと聞いた時は驚きました。まさに行動力の権化。私などとても及ばない行動力です。今回、主に話をしたのは沖縄で住むことについてです。このご主人は「幸福度No.1☆「沖縄移住」でワクワク楽園生活」という本を出し、Amazonでランキング一位に輝いています。(https://okinawa-move.jp)。昨年、那覇空港でお会いした際には本を出すことの大変さとその効果についていろいろと教えていただきました。私にとって見習う点をたくさんお持ちの方です。

久々の再会、楽しい時間はあっという間に終わり。その家族は先にお店を去ります。私たちはアメリカンサイズの料理を一生懸命平らげます。そしていざ会計に行ったところ私は驚きます。なんと、先にうちの分のお勘定を済ませていただいているではないですか。本当に申し訳ない。遅れてきたのに。そしてありがたい。こうした友人によって、私は今まで何度助けられてきたことか。どうにかして将来の恩返しにしたいものです。

さて、私たちはせっかくなので美浜アメリカンビレッジを散策します。沖縄といえば米軍が持ち込んだアメリカンな文化が町のあちこちに根付いています。この近く、沖縄市は昔はコザ市といい、沖縄住民の騒動でもよく知られる町です。美浜アメリカンビレッジはそのアメリカンな感じを残したまま観光地として昇華し、賑わっています。本土では味わえない興味深いお店が軒を連ねていて、娘たちもまた来たいと申しております。私ももう一度、今度は昼間に来てみたいと思いました。

さて、美浜アメリカンビレッジを出た私たちはホテルへと戻ります。今日は満足し切っています。なので、居酒屋には行かずに寝ます。いや、飲まない、という選択肢はありません。なので、ローソンで買ったビールそして泡盛で一日を締めます。とても楽しい一日でした。


家族で沖縄 2018/3/26


思い切って家族で沖縄へ、と妻が企画したのが今回の旅。その前触れには、二月に修学旅行で沖縄に行った長女の意向があります。その中で長女はアブチラガマに行き、ボランティアのガイドさんの話にとても感銘を受けたのだとか。そのガイドさんの名前は忘れたけど、お礼が言いたい、という長女の想いを実現させることが今回の目的です。

4月からは娘たちが二人とも受験生に。旅行にはそうそう行けなくなる。それを見越しての今回の旅です。これが家族四人の最後の旅になるかもしれない、との思いで。

Am6:30に羽田を発つSkymark511便に乗るため羽田へ。私は昨年の沖縄ひとり旅の時と同じく、パソコンを持参して来たので、搭乗口の近くでしばし作業。そして睡眠。まだ寒さを感じる羽田の早朝から、9:30に那覇空港へ。とたんに陽気が体を包みます。一気に旅気分。ここは沖縄。家族でそろって飛行機に乗って出かけるのは1年半ぶり。皆が高揚します。那覇に着いたらすぐにレンタカーの送迎バスに乗りました。昨年の一人旅ではレンタカーの手違いで時間を無駄にしました。その時と同じ轍は踏みますまい。

さて、レンタカーを借りたわれわれは一路、アブチラガマへと向かいました。道中、沖縄の空気や雰囲気を存分に味わいながら街を流します。次女はすでに興奮しています。無理もありません。次女がリゾート地に来るのはずいぶん昔にフラの大会に出るためハワイを訪れて以来ですから。道沿いのあらゆるお店に突っ込みと笑いと解説を交えています。こういう時、家族を連れてきて良かったと思います。

車はカーナビに従いアブチラガマへ。ところが事前に予約しておいたアブチラガマの見学時間は午後。なのでカーナビの目的地を変更。知念岬に狙いを定めます。知念岬。そこは昨年、私がひとり訪れた地。近くの斎場御嶽ではいたく感動し、琉球で最も聖なる地の厳粛さが今もまだ息づいていることを全身で受けました。そこは私に命を吹き込んでくれました。

今回、旅の開始を知念岬にしたのは良かった。まず最初に沖縄の海の美しさを家族に見せられたから。折りしもパラグライダーがすぐ上空を飛び回っており、海はどこまでもきらめいて青。海の向こうに久高島が横たわり、凪いだ海は平和そのもの。 昨年、私が訪れた際は台風の翌日でした。そのため空も海も台風がかき回した痕跡を荒々しく残していました。今年は波打ち際まで独り向かい、海の透き通る美しさをじっくりと味わいました。その間、娘たちと妻も知念岬の公園でのんびり。海と空の広がりを全身で感じてくれたはず。

知念岬公園を堪能した後は道の駅に寄りました。まだ沖縄で何も食べておらず、最初の沖縄料理はここでおいしい沖縄そばやロコモコ。ちょうど糖質オフダイエットをしている最中でしたが、沖縄そばとあれば食べないというのが無理です。沖縄の海を見ながらとてもおいしい食事のひとときを過ごしました。本来ならば近くの斎場御嶽にも連れて行ってやりたかったのですが、アブチラガマの時間が迫ってきたため次の場所へと移ります。

娘が修学旅行で訪れたアブチラガマ。そこは沖縄戦で起こった悲劇を今に伝える場の一つ。沖縄戦では多くの兵や住民、そして動員学徒が米軍に追い詰められました。その場所が今もなお、残されています。それもリアルなかたちで。その地の底には光は届かず、生と死のはざまが闇に凝縮されています。押し込められた深い苦しみ。それを発散することもできない漆黒。そんな闇の中で兵隊や看護学生が閉じこもり、出口の見えない絶望を味わっていました。今回、私たちをご案内してくださったガイドの方は石嶺さんといいます。長女が修学旅行で教わったガイドさんとは別の方だったようですが、とても精力的かつ情熱的な語りをされる方で、私たちはその語りから地の底に何があり、地上の歴史からどう隔絶されているのかを学びました。

アブチラガマ。その入り口は観光地にありがちなこと様相とは程遠い。もちろん、チケットの売り場らしき小屋はありますが、壕の入り口自体は何の飾りもありません。

入るとすぐ中は真っ暗です。懐中電灯がないと何も見えません。漆黒の闇。壕の外がどうなっているのか何もわかりません。わずかな湧水、それも岩から浸み出すようなわずかな水だけが全て。この湧水を頼りに人々は生きながらえました。石嶺さんは私たちにこの真っ暗な中の絶望と孤独、そして生きていることの大切さを一生懸命語ってくれます。生きるという営みの実感。今の子供たちが希薄にしか持たず、分かろうにも分かり得ない感覚。

これからどうやって生きていけばいいのか。娘たちが受験を控えた今、漠然と生についての不安を感じていることでしょう。そんな中、石嶺さんの話から何かを感じ取ってくれたのであればうれしい。

アブチラガマの中を歩きつつ、その中で石嶺さんが教えてくれたこと。それは生の厳しさ、死の近さだけではありません。孤独という状態 。それが石嶺さんが何よりも実感させたかったことだと思います。それは周りに誰がいようと生きるのは自分1人である事実。真の孤独は今のSNSや情報に囲まれた社会では味わえません。生と死の境目が曖昧でありながら、誰も頼るもののない孤独。壕に閉じこもった誰もが自分のことで手一杯で、人に頼れない心細さ。アブチラガマの絶対的な闇は、私たちに生の実感を教えてくれます。

アブチラガマを出る前、石嶺さんは私たちをある場所に導きました。そこは出口にほど近い場所。暗闇なのは相変わらずですが、わずかな光が洞窟内にこぼれ出ています。それは外の光です。そしてその光がわずかに洞窟内の一点だけを照らしているのです。それを見た時、壕内の人々の喜びはいかばかりかものだったか。想像ができます。一寸先も見えない中では、その光は希望そのものだったはず。絶望から希望への転換を石嶺さんは熱く語ります。

普段は陽気で快活な次女も、アブチラガマの中では無言でした。彼女なりにその荘厳かつ厳粛な空気を感じていたのでしょうか。二回目の長女はもちろん。彼女たちなりにいろいろな思いを噛み締めてくれたことでしょう。私にとってもここは初めて。平和祈念資料館やひめゆりの塔にもジオラマや保存された壕はありましたが、それらは明かりに照らされ、時の流れにさらされ続けています。ですが、アブチラガマの闇は当時の闇を引きずっていました。だからこそ壕内に響く石嶺さんの話はとてもよく胸に染み入りましたし、私たちにはとても教えられない平和を愛する心命と、そのかけがえのなさを娘たちに伝えてやれたと思います。石嶺さんありがとうございました。

アブチラガマから外に出た時、陽光が私たちの目を射ます。死の闇から生の光へ。そのコントラストこそ、生の実感に他ならないのです。アブチラガマの真上は、通ってもそれと気づかない道路と畑です。そこに咲いていたハイビスカスがとても印象に残りました。

続いて、私たちが向かったのは、ひめゆりの塔です。昨年も私1人で訪れました。が、今回も外すわけにはいきません。こんにちは沖縄の平和学習の一環で娘たちを連れて行こうと思いました。ところが、肝心の次女が車内で寝てしまいました。だからひめゆりの塔へ伺ったのは私と妻と長女だけ。去年、私は一人で訪れじっくりと見ました。なので私自身にとっての新たな発見はありません。ですが、今回はレクイエムホールに備え付けられた体験談のかなりに目を通しました。ここは何度訪れても厳粛な気持ちになってしまいます。前回は私1人でしたが、今回は娘と一緒なので、娘がどう考えているのか、平和の大切さを教えられます。

そしてひめゆりの塔の前にある優美堂でサーターアンダギーをおいしくほおばります。沖縄の料理と食事の豊かさと、そこに込められた平和の大切さを噛み締めながら、ひめゆりの塔を後にしました。もう一カ所、平和祈念公園にも行きたかったのですが、今回は寄る時間がありません。昨年は、私1人が訪れましたが、ここも見せたかった。特に、放映される米兵が撮影した動画は強い印象を残しています。海に浮かぶ幼児の死体。それが波に漂いつつ、当てどなく永久に口を閉ざしうつろな顔をさらしている。それはまさに衝撃でした。他にも無残な集団自決の遺体が動画で映し出されます。そうしたショッキングな動画は、私たちが享受する平和の価値を雄弁に語ります。そして、今の生の大切さも。

私たちは平和の大切さの余韻を感じつつ、那覇へと向かいます。今回、私たちが泊まるのは、ホテルグレイスリー那覇。妻が昨年、泊まって良かったと言い、私も一人で泊まりました。そこは沖縄の国際通りのまさにど真ん中。とても良いロケーション。そこにチェックインした私たちは早速、国際通りへと繰り出します。

あるいは娘たちにとって、沖縄とは陰惨な戦場の過去より、国際通りのエキゾチックな異国情緒の今こそが大事なのかもしれません。それもいいでしょう。あれこれ言うつもりはありません。そう言う私も泡盛の名店には舌なめずりなのですから。

私たちが今回訪れたのは、妻が家族と行きたいと言っていた居酒屋です。ところが場所と名前を忘れたらしく、私たちが入ったのは「波照間」と言うお店でした。ここで後ほどの時間を予約し、続けて国際通りを散策します。去年は大雨の中を歩き回ったので、泡盛のお店を訪れるだけで精一杯でした。今回は国際通りの賑わいと広がりを感じながら歩き回りました。家族で訪れる観光。これはこれで悪くありません。

さて波照間に戻ってきました。この波照間は沖縄民謡のライブがあります。実はここは妻の意中の店ではなかったようですが、私たちは焼酎や泡盛そして沖縄の名物に舌鼓を打ちながら、最後に沖縄民謡のサービスを楽しみました。琉球衣装に身を包んだ男性1人と女性2人による3人のショウ。とても風情があります。特に男性の方の顔は、私の知る大学の後輩にそっくり。女性も琉球風に結った髪が沖縄情緒を体現しており、とても美しかった。(ところがこの翌々日、お店に入ろうとするお二人の姿を国際通りで見かけました。完全に洋装でした。)

さて、食事を堪能した私たちは、さらに国際通りをのんびりと歩き回ります。妻や娘たちは沖縄の産物を。私はもっぱら泡盛巡り。そして存分に国際通りを堪能した後、私たちは宿へと戻りました。しばらく宿の中で旅の疲れを癒やした後、私と妻とで再び街へと出ます。ボートレースアンテナショップ 沖縄・国際通り Double Deckerというお店でお会いしたのは妻のココデンタルクリニックの患者さん。沖縄から町田へと通ってきてくれているありがたい方。そこでしばらく軽いお酒を飲みながらおしゃべり。ついで、私たちは夫婦で「ぱいかじ」へ向かいます。ここも妻が行きたがっていた場所です。「ぱいかじ」でもライブが行われているようですが今回はライブはやっていませんでした。でも、料理はおいしく、酒もうまい。何杯も泡盛をいただきました。こうやって夫婦で沖縄でお酒が飲める幸せをかみしめつつ。

それはとても幸せなひとときでした。すべてのことに感謝。


2018年のまとめ


今年もevernoteで下書きをこしらえ、弊社ページにて一年のまとめを書きます。

総括すると、2018年は公私ともに充実していたと思います。ようやく自分の時間を自在に扱えるようになりつつある。そんな手応えを感じた一年でした。ですが、今の状況に安住する愚は犯してはなりません。そこには痛切な課題も潜んでいます。達成度6割。達成感7割。満足感8割というのが自己採点です。2018年の私および弊社とご縁をいただいたすべての方々に感謝します。ありがとうございました。

公私の「公」

●弊社の業績
§ 総括 目次 今年度は売上だけで考えれば、過去最高の実績を上げられそうです。今期はあと三ヶ月残っていますが、売上見込みも粗利見込みもたっています。何とか黒字も達成できそうです。が、一概に喜ぶわけにはいきません。その売上の中にはSES(システム・エンジニアリング・サービス)契約に属する業務も含んでいるからです。上半期に顧問税理士の先生のもとで今季の収支予測を立てたところ、このままの粗利率と売上では赤字が避けられない、との結果が出ました。そこでSESとは一線を画した営業チャネルを構築しました。その結果、ある程度の成果が得られつつあります。そして弊社リソースでも技術力で複数の案件をこなし、上流工程から関わることで粗利を確保する。今期はそのめどが立ったことが大きいです。ただ、弊社の財務状況が脆弱である事実には変わりありません。今の好況も後もって二年でしょう。そのためには弊社の利益体制も変革することが喫緊です。今、弊社では、来季に向けての体制を構築すべく動いています。

§ 業務パートナー 目次 実は昨年度、業務パートナーを増やし、ある程度の自由と自発に委ねました。それは見事に失敗しました。今年の初頭にもその余波が残っており、弊社に影響を与えました。その反省を痛烈に受け止めました。そして対策を打ちました。
それは、弊社内のリソースで売上を上げつつ、パートナー企業様もごく一部に絞る方策です。ただ、その売上の一部は、上に書いた通り、SES業務によるものです。SESに手を染めると売上は確保できますが粗利は下がります。それはつまり弊社の抱える労力ではなく、外部から調達した労働力を紹介し、仲介料を得る業務だからです。 また、SESは技術者派遣の一種ですからノウハウは技術者にこそたまれど会社のノウハウになりにくい欠点があります。また、SESは一度手に染めると売り上げがたつためそこに頼りがちになります。さらに会社の業務構造がSESに頼ってしまい、抜け出すのが難しくなります。言い方は悪いですがSESとは企業経営にとって麻薬のようなものだと思っています。エンドユーザーが支払う額と、末端の技術者が受け取る差額がどれだけなのか。その差異は暗黙の了解でうやむやになっています。ところが技術者本人の立場からするとそのギャップは大いなる矛盾として身をさいなみます。弊社代表も長らく末端で派遣される側であったため、その矛盾にもがきました。SES業務にそのような矛盾が内包されている以上、将来性も見込めないし、弊社としても粗利は見込めない。ですから弊社としてはSESは最低限に抑えるつもりです。
また、弊社自身が多数の会社から案件の発注先にお選びいただきました。ありがとうございます。その中で開発パートナーとして契約を結んでくださったイノベーション・プラス様とのご縁は来年大きく成果につなげたいと考えております。

§ 開発案件 目次 昨年の反省として、バラエティに富んだ開発案件を請け過ぎました。それを見直すため、携わる作業分野をかなり絞りました。そしてその分、提案にかなり力を注ぎました。それが功を奏し、新規kintone案件が複数受注できました。また、上にも書いたとおり、粗利を増やすため、弊社代表が関わる案件を増やしました。弊社代表の持ち時間は一日24時間しかありません。限られた時間を効率的に使えるような案件に絞る。その取り組みが功を奏した一年でした。
また、人脈作りにも力を入れた事が結果にも返ってきています。今年ご縁のあった方からの大型kintone案件も受けられるようになっています。来年以降の業務にもよいお話をいただけています。弊社代表は今年もkintoneエバンジェリストに継続して任命されており、DevRelJpで教わったTwitter活用で積極的な発信を行わせていただいております。年末にはkintone Advent Calendarに四年続けて参加し、ライフログをkintoneで活かす記事を書きました。
来年、さらにkintoneの案件のニーズは増えるでしょう。それはkintoneのサードパーティ製プラグインの充実を凌駕し、kintone専属エンジニアの仕事を絶やさないはず。引き続きそうした案件の新規受注を増やし、少しでも安定的な案件を増やす。これは必ず達成すべき課題だと思っています。
また、開発案件を絞ったとはいえ、開発に限れば新たな挑戦や勉強にも取り組んでいます。例えばIoT開発の案件。NFCリーダーを活用したプロトタイプアプリを作成してテクニカルショウヨコハマ2018に出展するネタを作りました。MONACA上でビルドし、モバイルアプリとして動かす案件にも二つほど携わりました。他にもnode.jsやPythonも勉強し、PythonフレームワークのDjangoとAWSのEC2やAURORAと組み合わせたソリューションとして結実させています。言語環境や開発環境については日進月歩の業界なので、勉強し続けなければなりません。停滞は許されませんので。

§ 業務基盤の堅牢化 目次 昨年度から取り組んでいるこの課題こそ弊社の一番の悩みです。昨年、個人事業主時代からずるずると続けていた家計と法人の財布の混在を完全に分け、資産表や収支表はきっちり顧問税理士の先生に管理していただいています。が、まだ改善すべき点が多いです。引き続き財務の正常化が弊社の今後を大きく左右すると認識しています。同時に、経営計画や事業計画書の策定にも取り掛かっています。来季は弊社の体制の変革も考えており、より家計と会社の分離を進めて行く予定です。今年はIT導入補助金導入支援事業者にも選定されました。そこで得た信用をより厚くしなければ。

§ 社内体制 目次 弊社の弱点は財務のほかに、私一人が実質的な経営者と作業者を兼ねていることです。ここをどう突破するかが個人事業主と企業経営者の壁でもあります。この壁を破るため、次なる体制構築を秋ごろから構想し始めています。年の瀬からは一部動き始めています。これが来年どう形になり、どう実るか。

§ 2018年度売上見込み 目次 上記の通り、SESの割合が高くなったとはいえ、SES以外の業務でも過去最高の売上のめどは立っています。今のペースを続けられれば、決算でも2017年度の実績より上回れる見込みがつきました。ただ、残り三カ月の努力が重要なのは言うまでもありません。

§ 人脈の構築 目次 今年は登壇も含めて露出および交流を増やそうとしていました。名刺コレクターに堕することなく、有効な人脈の構築に専念する。その結果、重要なステークホルダーの方とのご縁が多々作れました。Facebookを見る時間は一日に5分程度ですが、Twitterでの露出も増やし、焦点を定めた交流を心がけることで有効な営業チャネルがたくさん作れました。それが今年の充実した活動に繋がったと思っています。来年度も今年のノウハウを活かしつつ、引き続き新たなご縁をいただければと思っています。単なる仕事上のつながり、SNS上のみつながりだけでなく双方に良い関係を。ただ、代表個人の時間には限りがあり、お誘いしてもらったイベントの多くに参加できていません。この点は申し訳ないと思っています。

§ 対外活動 目次 2017年度は登壇の機会がほぼありませんでした。それを反省点として、今年は登壇の機会を増やしました。合計4回。まず5月のサイボウズ社にてチーム応援ライセンス開始記念セミナーに。「チーム応援ライセンス開始記念セミナー」「弊社ブログ」「「自治会こそITが必要!!」20種類を比較検討したIT顧問の選択
一番最後のサイボウズ社のブログに掲載のエントリーは、「自治会 IT」で検索すると一番に現れます。実はこのフィールドでも弊社は有利な位置におり、今後もこの有利さを活かした取り組みを考えています。
残り三つの登壇は、全てEBISU Tech Nightというイベントにおいてです。六月、九月、十二月と登壇して参りました。このイベントでは自分の中でも話し方や内容についてよい訓練の機会となりました。機会を与えて下さった運営の方々には感謝しかありません。
もう一つ今年の活動として代表が出身の関西大学の四回生向けに社会人の経験を語るイベント「東京知ル活」にもOBとして参加しました。少々、身もふたもないことを言い過ぎたかもしれませんが。
他にもさまざまなサービスのエバンジェリストの方が集まるDevRelJpに二回参加し、その両方で自己紹介のLTを披露させていただきました。また、cybozu Days 2018の前々日に行われたkintone evaCampでも他社サービスのエバンジェリストの方とご縁をもらい、とてもよい刺激を吸収しました。Cybozu Days 2018に初めて両日とも全て参加したのも今年です。
他にもイベントや勉強会、セミナーなどあれこれと参加させていただきました。「国際ファッションセンター新年会(1/11)」「荒川区ビジネスプランコンテスト(2/16)」「技術者交流会(3/30)」「ワイン&グルメ ジャパン2018(4/11)」「Zoholicsセミナー(4/18)」「IoT分科会(4/20)」「クラウドコンピューティング EXPO(5/10)」「東京知ル活(5/11)」「NPO応援ライセンス開始記念セミナー(5/16)」「AWS Summit Tokyo 2018(6/1)」「BNIバンブーチャプター代理出席(6/5)」「【ハンズオンセミナー】アプリにプッシュ通知を組み込もう!(6/6)」「Prezi Night Tokyo Ⅶ(7/13)」「kintone devCamp (8/2)」「Twilio ビジネスセミナー(8/23)」「kintone Café Tokyo(8/29)」「Smart Communication Award 2018(9/21)」「AWS Loft Tokyo オープニングパーティー(10/1)」「ハロー職1(10/7)」「DevRel Meetup in Tokyo #35 〜ソーシャル〜(10/10)」「墨田区地域クラウド交流会(10/19)」「Cybozu Days 2018(11/7-8)」「kintone Café Japan 2018(11/10)」「プロ向け勉強会 #1「AWSでWordpressを使うときのトラブル回避術<(11/15)」「技術者交流会(11/23)」「徳丸浩のセキュリティセミナー WordPressの運用時に注意するセキュリティについて学ぼう!(11/29)」「定着率・求人応募率アップ!紙芝居で学ぶユニーク会社制度セミナー on Zoom(12/1)」「DevRel Meetup in Tokyo #37 〜忘年自己紹介大会〜(12/5)」
こうした場に参加することは、自分の知見を高めるだけでなく、そこで得たご縁が次の仕事につながるため重要です。あらためて今年はそのことを感じました。ただし、今年の私ができなかったことがあります。それはイベント主催です。幹事すら一度もやっておらず、これはとてもよろしくない。kintone Café 神奈川は何度か開催のご要望ももらっていたのですがタイミングを逸してしまいました。来年は何か主催をせねばならないと思っています。

§ 執筆活動 目次 昨年からCarry Meさんの運用する本音採用でブログ「アクアビット 航海記」の連載がcarry meさんの編集方針と合わず、三月で連載が終わってしまいました。ところがこの連載、思った以上に各方面に読まれております。また、39回で中断した時点で、独立から起業に至る肝心な所は書けていません。これはどこかで発表の場を作りたいと思っています。
本のレビューは104本(相撲の歴史まで)、映画のレビューは8本、観劇のレビューは3本アップできました。また、12月には上に書いた通りkintone Advent Calendarに参加しています。その他の仕事に関したブログは23本。計138本のブログをアップしました。2018年も書くことへの情熱が尽きることなく可能な限り書けた一年となりました。ただし、書いた内容はまとまった形にできていません。来年、何らかの成果として世に問いたいと思っています。

§ 妻のココデンタルクリニック 目次 妻のココデンタルクリニックは、新患さんも増えてはいるようです。が、2018年度は妻自身が別のお仕事に忙殺されてしまい、傍から見ていてもとても診療室経営に専念できているとはいえませんでした。それは、昨年と同じく私の気分を大きく乱しています。残念ながら来年もその状態は続くでしょう。妻には妻の人生があるので、やりたいことはさせてやりたいとは思っているのですが・・・私が患者さんを紹介するなどして、診療所経営に専念させるようにしなければ、と思っています。

§ 年表 目次
 ・1月お仕事
  

自治会のIT化打ち合わせ、両国の国際ファッションセンター入居者の新年会、パートナー企業で作業と打ち合わせ

 ・2月お仕事
  

新宿でサイト作成打ち合わせ、横浜のサテライトオフィスで作業×2、テクニカルショウヨコハマ2018、虎ノ門で商談、半蔵門で打ち合わせ、Yahoo LODGEで仕事、ブロックチェーンの開発打ち合わせ、荒川区ビジネスプランコンテスト、となりのkintoneインタビュー、戸塚で司法書士の先生と打ち合わせ、Stockのサービス提供元へ訪問、SYNQAで作業、パートナー企業で作業と打ち合わせ

 ・3月お仕事
  

税務署訪問、堺筋本町で商談、三宮で飲み、半蔵門で税理士の先生と打ち合わせ、新宿御苑で打ち合わせ、Mass×Massで商談、妻のパソコン購入、横浜西口で商談、横浜で商談、渋谷で商談、成田空港で商談、横浜薬科大学で商談、戸塚で司法書士の先生と打ち合わせ、パートナー企業の皆さんと飲み、技術者交流会、パートナー企業様と飲み、パートナー企業で作業と打ち合わせ

 ・4月お仕事
  

技術者さんと経堂で飲み、太田ふ頭で商談、コワーキングスペース町田で作業×2、中川で商談、ワイン&グルメジャパン2018、旧常駐先で飲み、BitClubセミナー、Zoholicsセミナー、町田法務局訪問、川崎で商談、IoT分科会、四谷三丁目で商談、Yahoo LODGEで作業、日本橋で商談、丸の内で商談、IT導入補助金導入支援事業者採択、パートナー企業で作業と打ち合わせ

 ・5月お仕事
  

Mass×Massで商談、横浜のサテライトオフィスで作業、クラウドコンピューティングEXPO、半蔵門で税理士の先生と打ち合わせ、関西大学東京センターで知る活参加、渋谷で技術者さんたちと飲み、中川で商談、ココデンタルクリニック看板塗り、NPO応援ライセンス開始記念セミナー登壇(サイボウズ社)、西浦和で商談、パートナー企業の皆さんと暑気払い、両国で商談、渋谷で技術者さんと飲み、成田空港で商談、EBISU Tech Nightに参加、明治記念館で脳外科篠浦教授講演会、岩本町でデモ拝見、秋葉原でランチミーティング、SYNQAで作業、丸の内で商談、狛江で商談、パートナー企業で作業と打ち合わせ

 ・6月お仕事
  

月島で商談、月島で打ち合わせ、AWS Summit Tokyo 2018、Mass×Massで商談、大阪府立大学同窓会打ち合わせ、BNIバンブーチャプター代理出席、半蔵門で商談、月島で商談、MONACA×ncmbセミナー、鷺沼で商談、渋谷で商談、太田ふ頭で作業、IT導入補助金導入支援事業者向けセミナー、浜町で商談、EBISU Tech Night登壇、荏原で商談、荏原町で打ち合わせ、半蔵門で税理士の先生と打ち合わせ、町田市役所訪問、町田税務署訪問、町田市立図書館で作業、パートナー企業で作業と打ち合わせ

 ・7月お仕事
  

渋谷で商談、旧常駐先の方と呑み、両国で商談、Mass×Massで商談、お客様と飲み、Prezi Night Tokyo Ⅶ、町田市立中央図書館で作業×2、EBISU Tech Night参加、新羽で商談、両国で商談、和光大学ポプリホール鶴川で作業、センター南で商談、横浜のサテライトオフィスで作業、Mass×Massで商談、井土ヶ谷で訪問、パートナー企業で作業と打ち合わせ

 ・8月お仕事
  

kintone devCamp 2018、四谷三丁目で商談、Yahoo LODGEで作業、丸の内で作業、丸の内で商談、月島で商談、新羽で商談、青山一丁目で商談、鶴川駅前図書館で作業、丸の内で作業、技術者さんと飲み、丸の内で作業、飯田橋で商談、丸の内で作業、八重洲で商談、二子玉川で商談、丸の内で作業、新宿で商談、飯田橋で商談、Twilioビジネスセミナー Vol.53、外苑前で飲み、警視庁遺失物センター、飯田橋で商談、技術の先輩とサシ飲み、丸の内で作業、渋谷で商談、飯田橋で商談、kintone Café Tokyo vol.7、パートナー企業で作業と打ち合わせ

 ・9月お仕事
  

飯田橋で商談、鶴川駅前図書館で作業×2、ときわ台で商談×2、新宿で商談、Mass×Massで商談、東京ガーデンテラス紀尾井町で作業、パスポート申請、立川まんがぱーくで作業、両国で商談、SYNQAで作業×2、Smart Communication Award 2018、EBISU Tech Night、四谷三丁目で商談、丸の内で商談、四谷三丁目で商談、月島へ書類届けに、AWS にてスタートアップフォロー、目黒で商談、上野で商談、パートナー企業で作業と打ち合わせ

 ・10月お仕事
  

AWS Loft Tokyoオープニングセミナー&パーティー、浜町で商談、両国で商談、横須賀で商談、ハロー職1観覧、渋谷でDevRelJp、パスポート受け取り、パートナー企業の皆様で飲み、墨田区地域クラウド交流会、曳舟で飲み、渋谷で商談、AWS Loft Tokyoで作業と商談、旧常駐先の方と池袋で飲み、神田で商談、八丁堀で商談、SYNQAで作業、パートナー企業で作業と打ち合わせ

 ・11月お仕事
  

渋谷で商談、パートナー企業で呑み、飯田橋で商談、SYNQAで作業、八丁堀で商談、日本橋で商談、Cybozu Days 2018×2、お客様と幕張メッセで商談、渋谷で商談、kintone Café Japan 2018、青山一丁目で商談、Yahoo LODGEで作業、新宿で商談、両国で商談、AWS Loft Tokyoで作業、築地でプロ向け勉強会 #1「AWSでWordpressを使うときのトラブル回避術」、日本橋で商談×2、AWS Loft Tokyoで商談と作業、渋谷で商談、技術者交流会、パートナー企業様と飲み、半蔵門で商談、Yahoo LODGEで作業、PaaS研究会、徳丸浩のセキュリティセミナー WordPressの運用時に注意するセキュリティについて学ぼう!」、新宿で作業、パートナー企業で作業と打ち合わせ

 ・12月お仕事
  

定着率・求人応募率アップ!紙芝居で学ぶユニーク会社制度セミナー 、八丁堀で打ち合わせ、銀座で作業、有楽町で作業、田町でDevRelJp、日本橋でランチミーティング、四谷三丁目で商談、Yahoo LODGEで作業、半蔵門で税理士の先生と打ち合わせ、半蔵門で商談、日本橋で商談、町田市役所で商談、日本橋で商談、EBISU Tech Night、中華街でお客様の皆様と飲み、Mass×Massで商談、AWS Loft Tokyoで作業と打ち合わせ、鶴川で商談、日本橋で作業、目黒で作業と打ち合わせ、大宮で作業、上山で作業、パートナー企業で作業と打ち合わせ

公私の「私」

●家族との一年
§ 総括 目次 昨年にもまして、家族で行動する頻度は減りました。それぞれの生活があり、それぞれのタスクがある以上は仕方ありません。ただ、昨年よりはバトルの頻度が減りました。少しずつ大人になってゆく娘たちとの関係に悩みはつきませんが、今年は家族で二度泊りがけの旅行に行きました。それは家族にとってとても大切な時間でした。また、長女も次女も進路を定めなければならない年であり、ともに年内に推薦入学のめどがつきました。また、昨年亡くなった風花に変わり、三月から凛が我が家の家族の一員に加わりました。やんちゃ盛りで日々家族の神経をかき乱しています。

§ 娘たちに何ができたか 目次 今年は二人の娘がともに受験生でした。長女は首尾よくAO推薦をもらい、入試に合格しました。次女も年末に中学校から推薦状をもらうことができました。来年は二人とも専門学校に入学するはずです。娘たちが進路を決めるにあたり、私が意向を押し付けたことはありません。二人とも自分の意志です。具体的に手伝えたことは乏しいですが、新たな道を選ぶにあたっては障害ではなく、助言者としてありたいとの思いは貫けたと思います。これからも娘たちの進む道を示すガイドでありたいと思います。

§ 長女の一年 目次 長女は絵が好きで芸術系の学科に進学しましたが、人間関係など悩みも多く、高校生活に悔いはあるようです。ただ、それでもイラスト系の業界やその仕事への熱意は失いませんでした。イラスト系の専門学校に進むのも本人の意志です。私も新たな学校には見学について行き、娘の意志は確認しました。新たな学校に進学した後、悩み多き高校生活が実は無駄ではなかったことをいつか分かってくれると思います。中学の頃から個人事業主として活動している長女ですが、今も複数の仕事を請けているようです。私ももう少ししたら何かの仕事を振ってやりたいと思っています。長女とサシで出かけることは一、二回しかありませんでした。ただ、妻も含めてのお出かけは何度もしています。その中でも墨田区の職人さんを紹介するネット上の生放送番組「ハロー職1」に連れて行けたことで、メディアや自己表現の何たるかは感じてくれたのではないかと思います。年ごろのため不安定なところもありますが、引き続き長女には期待しています。

§ 次女の一年 目次 チアを諦めてまで中学の吹奏楽部を全うしたかったという次女の思いを尊重した私たち夫婦でしたが、次女は無事に吹奏楽を全うしてくれました。一方で今年は自由に生きたい次女とまだ手元におきたい妻がぶつかった一年でした。そのぶつかりが燃え広がり、何度かバトルに近いいさかいも家族の中に勃発しました。娘を持つことの難しさを感じた一年です。次女には彼氏ができましたが、私はそれを頭ごなしに否定せず、彼氏にも二回会いました。高校に行くには成績が足りない娘が調理師になりたいというので、その意志も尊重しました。そうした進路や生活態度についての話し合いも何度もしました。妥協もしたかもしれません。ただ、愛嬌もあり、人付き合いもうまい次女なので、必ずや道を踏み外さず、人生の旅路で成果を挙げてくれるはずと信じています。もう次女も子供ではないこと。大人になるため巣立とうとしていること。その二つをつくづく思わされた一年です。

§ 家族の一年 目次 そうした不安定な娘たちだった割には、危機感は感じませんでした。むしろ昨年のほうが不穏だった気がします。それは家族そろってお出かけしたことが功を奏したのだと思います。詳しくは書きませんが、それぞれの場所で良い想い出作りができました。特に3月の沖縄旅行と12月の山形旅行。去年は家族で泊まりの旅行に行けなかった分を取り戻すほどの充実した旅でした。今年の3月にわが家に凛が仲間に加わりました。五カ月近くペットショップの住人だったため、七色の癖を持ち、やんちゃでうちの家族を困らせています。可愛いのですが。あと4月の末に二回、私がグレて野宿で一夜を過ごしたことも忘れずに書いておきます。

§ 年表 目次
 ・1月帰省(泊まり)
  白山姫神社初詣神呪寺参拝、香櫨園駅、ホテルヒューイット甲子園ロイヤルホームセンター甲子園バッティングセンター西宮神社
 ・1月お出かけ
  

浅草雷門舟和屋浅草花月堂 馬道店浅草文化観光センター黒田屋本店遊食豚彩 いちにいさん 日比谷店TOHOシネマズ日劇(映画:DESTINY 鎌倉ものがたり)星野珈琲店コーチャンフォー稲城若葉台店、しゃぶ葉町田モディ店、いこいの湯、府中の森芸術劇場伊勢ヶ濱部屋ちゃんこ会伊勢ヶ濱部屋初場所打上式Stella Lounge

 ・2月お出かけ
  

東京宝塚劇場(舞台:ロベスピエール)東京都庁南展望室、籠屋(秋元酒店)、相鉄ムービル(映画:スターウォーズ 最後のジェダイ)、毘沙門天堂、Salad Stop表参道店根津美術館(展覧会:金と墨展)LINKS LondonTokyo Whisky LibraryThe Tokyo Dining 東京ライス、極鶏Bar下北沢、谷中銀座Orso、カポエイラ、八景の棚、相武台下駅、塩川滝、塩川神社、平山橋、とんかつはせ川、青山フラワーマーケット ティーハウス 赤坂Bizタワー店赤坂ACTシアター(舞台:ドクトル・ジバゴ)VILAMOURA 赤坂サカス店ペットフォレスト鶴川店

 ・3月お出かけ
  

はま寿司 町田野津田店、西宮市こうしえん観光案内所、手造り居酒屋 樽八、スーパージャンカラ生田ロード店、どん兵衛、桔梗堂、T先輩宅、汐見橋駅、芦原橋駅、木津川駅、浪速神社、大坂人権博物館(リバティおおさか)、太鼓屋又兵衛屋敷跡、昔勤めたブラック企業跡、個室居酒屋 宴丸 Enmaru 京橋駅前店、金の蔵 京橋北口店、辺川駅、海部駅、宍喰駅、甲浦駅、海の駅東洋町、白浜海水浴場 (白浜海岸)、宍喰海岸、道の駅 宍喰温泉、轟九十九滝、クリアウォーターOSAKA㈱、地鶏と鮮魚 一石二鳥 三宮店、らーめん 熊五郎 三宮西口店、甲子園球場、Bar Harbour Inn、イオンシネマ新百合ヶ丘(映画:グレーテスト・ショーマン)薬師池公園グリーンウォーク多摩シズラー府中店八景島シーパラダイスココリア多摩センター、公津の杜駅、相州春日神社、羽田空港那覇空港知念岬公園南城市地域物産館せーふぁキッチンアブチラガマひめゆりの塔波照間ボートレースアンテナショップ 沖縄・国際通り Double Deckerぱいかじ 国際通り店ホテルグレイスリー那覇中城PA崎本部緑地公園沖縄美ら海水族館エメラルドビーチcafeティーダVONGO & ANCHOR美浜アメリカンビレッジ、県庁前駅、海の駅 あやはし館アマミチューの墓シルミチュー大泊ビーチ伊計島灯台キングタコス与勝店勝連城跡市場本通り商店街海想 松尾店、古酒家本店、Splash Okinawa 2、Sky Rent a Car、那覇空港羽田空港凛お迎えららぽーと横浜

 ・4月お出かけ
  

相模原麻溝公園、八王子駅前ビルステーキのあさくま八王子打越店イオンシネマ多摩センター(映画:グレーテスト・ショーマン)、大森貝塚跡、うどん開都大地沢青少年センター草戸山境川源流町田あいす工房ラッテ小陽生煎饅頭屋 (生煎馒头屋)、アジアンフード バー バグース、井の頭恩賜公園、Bar 羽月、シズラー府中店柏屋LATTE GRAPHIC、BrewDog Roppongi、富士の国 やまなし館、玉川学園ゴスペルカフェ、稲毛神社、川崎堀之内ソープランド街、港町駅、六郷橋、川崎市観光案内所、薬師池公園、民権の森、野津田神社、小樽食堂町田広袴店、喰違見附、T.G.I.Friday’s 町田店、野宿、博多もつ鍋 やまや、野宿、レッドロブスター 多摩境店寄居PA駅前児童公園道の駅 くらぶち小栗の里、織田氏七代の墓、雄川堰、こんにゃくパークハイウェイオアシス ららん藤岡 (道の駅 ららん藤岡)寄居PA (上り・寄居 星の王子さまPA)みはらし広場クリスタルサウンドみつや水晶宝石博物館仙娥滝昇仙峡森カフェ山梨ワイン王国大滝仙娥滝初狩PA (上り)峠の茶屋

 ・5月お出かけ
  

玉ちゃん亭、BAR CROW、赤坂区民ホール天馬 カレー&カレーパン 青山店府中の森芸術劇場シズラー 府中店、等々力陸上競技場、生田緑地、枡形山、枡形城、戸隠不動跡、尾崎咢堂記念館、エビラ沢の滝、薄野 中村屋、江戸城大手門、薬師池公園 蓮園、ららぽーと横浜琴平神社本殿、Craft Beer Moon Light 本店、多摩川五本松、新橋演舞場(舞台:蘭 緒方洪庵 浪華の事件帳)やさいの王様、沼久保駅、富士山本宮浅間大社、湧玉池、神田川、富士高砂酒造、白糸の滝、音止の滝、富士宮やきそば 平石屋、朝霧高原、本栖湖、道の駅 しもべ、甲斐常葉駅、身延駅、横網町公園、第1ターミナル 展望デッキ、大佐倉駅、将門口ノ宮神社、東光寺ビョウ、本佐倉城跡、明治記念館、フレッシュネスバーガー 曙橋店、長女学校見学、新宿御苑、世界堂 新宿本店、富士フォトギャラリー銀座、三省堂書店 有楽町店、KITTE

 ・6月お出かけ
  

東京国際フォーラム(コンサート:The Show Stopper)、上毛高原駅、鳩待峠行バス連絡所、鳩待峠、尾瀬国立公園、つり橋、尾瀬山荘、尾瀬沼、三平峠、ヌル沢奥の滝、上毛高原駅、啓文堂書店 渋谷店、めし屋 奈良間、ブックファースト 新宿店、赤坂 紫月、MARUZEN & ジュンク堂書店 渋谷店、次女の中学校運動会町田東急ツインズ、沢谷戸自然公園、油そばの店 蜻蛉、ここ滋賀、日本橋 長崎館、沖縄物産店 銀座 わしたショップ、小樽食堂 町田広袴店、亜細亜食堂 リバーサイゴン (SAIGON)、成田山 新勝寺成田山 大本堂成田山 咤枳尼天堂 (出世稲荷)成田山 三重塔、二宮尊徳翁開眼の地、成田山 咤枳尼天堂 (出世稲荷)成田山 釈迦堂成田山 額堂成田山 光明堂成田山公園、雄飛の滝、成田山 総門、長命泉、成田参道 房の駅川豊酒々井PA (上り)、多摩川決壊の碑、麺屋 大申、甘酒横丁、薬師池公園、荏原町駅、旗岡八幡神社、shango、麺匠なべすけ 本店、地ビール厨房 COPA 町田店、BACKPACKER’S CAFE 旅人食堂 町田屋台店、まちの駅 ぽっぽ町田、薬師池公園

 ・7月お出かけ
  

イオンシネマ新百合ヶ丘(映画:ハン・ソロ ストーリー)、スエヒロ館 新百合ヶ丘店、薬師池公園、MARUZEN & ジュンク堂書店 渋谷店、とんかつはせ川、薬師池公園 蓮園、雑司ヶ谷 鬼子母神 (鬼子母神堂)、Pasar幕張 幕張PA (下り)、酒々井PA (下り)、大栄PA (下り)、佐原PA (下り)、鹿島神宮大鳥居、鹿島神宮 楼門、カシマサッカースタジアム、ちゃあしゅう屋 鹿嶋店、鹿島神宮駅、剣聖 塚原卜伝生誕之地 プレート、鉾田駅、新鉾田駅、北浦湖畔駅、鹿島灘駅、鹿島大野駅、長者ヶ浜潮騒はまなす公園前駅、大野潮騒はまなす公園、荒野台駅、塚原卜伝の墓、塚原卜伝像、鹿島神宮大鳥居、鹿島神宮 楼門、鹿島神宮 拝殿・本殿・御神木、鹿島神宮奥参道、鹿島神宮 境内鹿園、鹿島神宮 奥宮、鹿島神宮 要石、鎌足神社、根本寺、鹿島城山公園、鹿島アントラーズ クラブハウス、カシマサッカーミュージアム、カシマサッカースタジアム、鹿嶋サッカースタジアム駅、鹿嶋灯台、延方駅、ばんどう太郎 神栖店、大栄PA (上り)、帝国ホテル 東京、谷際屋製麺工場、玉川学園ゴスペルカフェ、まちの駅 ぽっぽ町田、イングリッシュパブ トラファルガー、本間橋、小林商店、鳥居原園地、早戸大滝アタック、東京ミッドタウン日比谷日比谷シャンテラ ブティック ゲラン銀座 三徳堂boulangerie Bonheur、町田市民文学館ことばらんど(展覧会:舘野鴻原画展)、町田市立陸上競技場 ホーム側ゴール裏、NTTドコモ歴史展示スクエア、両国 江戸NOREN、びっくりドンキー 光が丘店、矢まと、雲林坊 秋葉原店、明治記念館、山高神代ザクラ、北精進ヶ滝、一の滝、二の滝、道の駅 はくしゅうサントリー白州蒸溜所BAR白州八ヶ岳PA (上り)石川PA (上り)、北海道らーめん 楓 横浜西口店

 ・8月お出かけ
  

横濱家系ラーメン 大岡家、鯛塩そば 灯花、かのん、府中の森芸術劇場 どりーむホールシズラー府中店武蔵府中郵便局、阪神甲子園球場、甲子園歴史館、六人部PA (下り)、由良川PA、宮村駅、金引の滝、天橋立駅、松和物産、天橋立駅前郵便局、天橋立ビューランド リフト・モノレール、飛龍観回廊、KITTE、伊織 / シン・エヒメ、大阪百貨店、KITTE、豚骨らーめん ぼっけもん、幸楽苑 町田木曽店ゆめみ処 おふろの王様 町田店、古書 高原書店、町田市民ホール、ステーキ宮 町田木曽店、spice bistro、海旬処 魚華青銅の鳥居江の島瑞心門江の島エスカー 2区KUA`AINA 片瀬江ノ島店横浜・八景島シーパラダイスシーフードとカレー料理 パーマーストン Palmestonアメリアショッピングセンターららぽーと横浜TOHOシネマズららぽーと横浜(映画:ミッション・インポッシブル Fall Out)富士屋ホテルピコット ロビー店箱根ガラスの森美術館ラ・カンツォーネ、千条の滝、ららぽーと海老名、有隣堂、ハングリータイガー、鎮魂の碑、京橋エドグラン、麺屋 みちしるべ、EXPASA足柄 下り三島スカイウォークスカイウォークコーヒースカイウォークコーヒー山中城跡伊豆フルーツパーク御殿場プレミアム・アウトレットbodum (ボダム) 御殿場プレミアムアウトレット店、和田倉噴水公園、皇居前広場、二重橋、安具楽、東京ドーム、野球殿堂博物館、オークスブックセンター、スエヒロ館 新百合ヶ丘店、玉川学園ゴスペルカフェ、HUB 外苑前店、東部湯の丸SA (下り)、祢津小学校、袮津城山、草笛 上田店、砥石・米山城址櫓門口登山道、砥石城跡、桝形城跡、米山城跡、千古温泉、千古の滝、ハイウェイオアシス ららん藤岡 (道の駅 ららん藤岡)、高坂SA (上り) レストラン、道なか食堂 げんき、CINAGRO、俺流塩らーめん 神楽坂店、安全寺

 ・9月お出かけ
  

東京ステーションギャラリー東京ステーションホテルカメリアKITTE東京国際フォーラムShake Shack蕎麦 AKEBONOYA東京ミッドタウン日比谷boulangerie Bonheur、上等カレー 飯田橋店、筑土八幡神社、神楽坂、板橋天祖神社、ときわ台駅、ジュンク堂書店 池袋本店、小樽食堂 町田広袴店ヨドバシカメラ マルチメディア町田、中華ダイニング貫 (KAN)、町田パリオ(まさるや2018仲秋 日本酒呑んでる会 in 町田)、BOOKOFF SUPER BAZAAR 町田中央通り (本・ソフト館)、創作和食 あおき、福富町パラダイス、草月、syarumu、Hot Spoon 西新宿店、東京都旅券課 (新宿パスポートセンター)、イオンシネマ新百合ヶ丘(映画:ボルグ&マッケンロー)、らーめん 立川や、立川市子ども未来センター、立川まんがぱーく、東京都パスポートセンター 立川分室、オリオン書房、立川市中央図書館、丸善 多摩センター店、蕎肆 穂乃香、隅田川テラス、蔵前橋、駒形橋、株式会社バンダイ 本社、駒形堂、まるごと北海道 雷門物産本舗、雷門、小樽食堂 町田広袴店、片倉つどいの森公園、長女の高校文化祭、赤城高原SA (下り)、道の駅 白沢、十二坐神社、吹割渓谷遊歩道、吹割の滝 第三観瀑台、吹割の滝 第一観瀑台、浮島橋、浮島観世音、日本の滝百選 25『吹割の滝』、鱒飛の滝、滝の駅、沼田市観光案内所、沼田城天守跡、沼田城、利根英霊殿、真田信之.小松姫像、沼田公園 鐘楼、沼田公園の御殿桜、道の駅 みなかみ水紀行館、土合駅、赤城高原SA (上り)、駒寄PA (上り)、石川PA (上り)、四条富小路 麺屋虎杖、丘のまち美瑛、帝国ホテル 東京、珈琲茶館 集 有楽町アネックス店、東京大神宮、Hop-Scotch Craft Beer & Whiskey、ビッグボーイ 黒川店、Tokyo Rice Wine 新百合ヶ丘店、アリオ橋本、水の苑地(県立津久井湖城山公園)、津久井湖記念館、伏馬田城趾、花の苑地(県立津久井湖城山公園)、道の駅 どうし、三島由紀夫文学館、山中湖 文学の森公園、徳富蘇峰記念館、郷土料理 和十郎、忍野村観光案内所、菖蒲池、湧池、銚子池、お釜池、河口湖駅、金鳥居市民公園、道の駅 富士吉田、鐘山の滝、リカーズハセガワ 北口店、晴海郵便局、晴海埠頭、味噌一 三軒茶屋店、上野恩賜公園、西郷隆盛像、誹風柳多留発祥の地、不忍池、東京ディズニーランド

 ・10月お出かけ
  

ずんどう屋 目黒店、大横川親水公園、世界のビール博物館、KUA`AINA、薬師池、久里浜駅、桂寿味、次女の進路先の見学会The Tokyo Dining 東京ライスニッカ ブレンダーズ・バーラウンジ春秋館東京タワー国際ファッションセンターアゼリア 第一ホテル両国両国江戸NORENの土俵、上河内SA (下り)、道の駅 猪苗代、denen cafe、農業体験、富士の湯、空き家てらす 隠れ家、酒家 盃爛処、空山neo、太郎焼総本舗、鶴ヶ城、道の駅 ばんだい 徳一の里きらり、友部SA (上り)、表参道駅、シャングリ・ラ ホテル東京、昭島市役所、エピソードカフェ東京交通会館いしかわ百万石物語 江戸本店Yellow Korner Photography – Art – Limited editionQ CAFE by Royal Garden Cafe湘南平霧降りの滝アリオ橋本Honolulu Coffee、ACADEMIA くまざわ書店、Bull Pulu、世田谷文学館、蘆花恒春園 (蘆花公園)、祖師谷商店街 (ウルトラマン商店街)、駒寄PA (下り)、津久田駅、棚下不動滝、長井坂城跡、永井箱根神社、奥利根うどん本舗、名胡桃城址、ささ郭、後閑駅、道の駅 よしおか温泉、かもすや酒店、ジュンク堂書店 池袋本店、清龍 南池袋店、くさやバー、Craft Beer Market 神田店、広島ブランドショップ TAU、パルテノン多摩SUBWAY 多摩センター店丸善 多摩センター店、Coeur & Heart、コーチャンフォー 若葉台店、羽田空港国際線ターミナル成田空港 第2ターミナルバニラエア チェックインカウンター台湾桃園国際空港 (TPE) (臺灣桃園國際機場)Immigration (護照?驗)National Theater (國家戲劇院)、凱達大飯店 Caesar Metro Taipei、MRT 龍山寺駅 (捷運龍山寺站)、MRT Taipei Main Station (捷運台北車站)、TRA 台北駅 (臺鐵台北車站)、Keelung City (基隆市 Keelung City)、TRA Keelung Station (臺鐵基隆車站 TRA Keelung Station)、基隆西岸旅客碼頭、基隆海洋廣場 Keelung Maritime Plaza、TRA Keelung Station (臺鐵基隆車站 TRA Keelung Station)、台北市 (臺北市)、THSR 台北駅 (高鐵台北站)Q Square (京站時尚廣場)饗食天堂Eslite Bookstore (誠品書店 台北捷運店)MRT Taipei Main Station (捷運台北車站)MRT 龍山寺駅 (捷運龍山寺站)凱達大飯店 Caesar Metro Taipei龍山寺スターバックス (STARBUCKS)臺北市立大學校本部 University of Taipei Main CampusMRT 中正紀念堂駅 (捷運中正紀念堂站)Liberty Square (自由廣場)National Theater (國家戲劇院)中正紀念堂National Concert Hall (國家音樂廳)TRA Wanhua Station (臺鐵萬華車站)TRA 台北駅 (臺鐵台北車站)Taoyuan Metro Taipei Main Station (A1) (桃園機場捷運台北車站)Taoyuan Airport MRT (A12) Airport Terminal 1 Station (桃園機場捷運 A12 機場第一航廈站)Terminal 1 (臺灣桃園國際機場第一航廈)台湾桃園国際空港 (TPE) (臺灣桃園國際機場)Gate B2成田国際空港 (NRT)成田空港 第3ターミナルCafe&Dining N’s court

 ・11月お出かけ
  

麺の坊 砦、駒場公園、旧前田家本邸、籠屋(秋元酒店)、薬師池公園、リカーポート 蔵家、町田市 大賀藕絲館、町田リサイクル文化センター、小山田神社、舎鈴 飯田橋駅前店、ハタフラワー、梅の花 町田店、せんや、新宿みやざき館 KONNE、餃子会館 磐梯山 両国店、とり家 ゑび寿 両国店、駒八 目黒さんまセンター、六本木ヒルズアリーナ、TOHOシネマズ 六本木ヒルズ(映画:ボヘミアン・ラプソディ)、鎌倉パスタ、鶴ヶ峰駅 (SO09)、鎧橋跡、鎧の渡し緑道、首塚 (畠山重忠公)、畠山重忠古戦場跡、畠山重忠古戦場跡、六ツ塚、すずり石水跡、鶴ヶ峰神社、駕籠塚、得得 横浜鶴ヶ峰店、驚神社、和菓子紀文堂、四季芸術センター、麺屋 一寸星、你好 ニイハオ 渋谷店、オールドヒッコリー 町田境川、やきとり居酒屋 山家 本店、次女の進路先、ベルサール高田馬場、はつ花そば 本店、酒岳堂 井島商店、はこね 和菓子 菜の花酒岳堂 井島商店、箱根観光物産館、鈴廣のかまぼこみつき DELI&CAFé TERRACEベーカリー&デリカテッセン 箱根カフェ箱根の市、麺屋すみす、神宮外苑いちょう並木、多摩丘陵パノラマの丘、防人見返りの峠 展望台、コーチャンフォー 若葉台店、東京都庁 第一本庁舎、ブックファースト 新宿店、技術者友人宅

 ・12月お出かけ
  

自然食バイキング はーべすとヨドバシカメラ マルチメディア町田町田マルイ、薬師池、Cut Let Me、築地本願寺、マルイアネックス イベントスペース、讃岐うどん かいと、野津田神社、民権の森、七国山 鎌倉街道の碑、七国山、野津田薬師堂、よみうりランド、スエヒロ館 新百合ヶ丘店、極鶏Bar 下北沢店、エリックサウス、麺 TOKITA、警察博物館、香川・愛媛せとうち旬彩館、春水堂ラフォーレ原宿FURFUR東郷神社コロンバン原宿本店、麺屋三男坊、中澤酒造株式会社、麺屋 海神、慶華飯店、横浜赤レンガ倉庫、JICA横浜国際センター、信濃屋 目黒店、酒舗 まさるや、すし屋 銀蔵 鶴川店まちの駅 ぽっぽ町田ぐりーんうぉーく多摩、きさらぎ、Classy’s Bar、暖暮 川崎仲見世通店、麺や維新、自転車文化センター、JR 東北新幹線 大宮駅山形新幹線 かみのやま温泉駅かみのやま温泉観光案内所上山十日町郵便局上山城菓子司 十五屋本店上山市役所葉山館、わくわくコマレオ 上山店、春雨庵、葉山館かみのやま温泉観光案内所山形新幹線 かみのやま温泉駅楢下宿 丹野こんにゃく番所HATAKE CafeHATAKE Cafe トマト上山店ファーマーズマーケットトマト 上山店、愛染神社、齋藤茂吉記念館、上山旭町郵便局、ぐっと山形 (山形県観光物産会館)、上山城、菓子司 十五屋本店かみのやま温泉駅JR 東北新幹線 大宮駅、鴨川、六道珍皇寺、京都霊山護國神社、パール博士顕彰碑、桂小五郎・幾松墓所、坂本龍馬の墓、幕末維新ミュージアム霊山歴史館、御陵衛士屯所跡、八坂神社、知恩院 三門、青蓮院門跡、岡崎・市電コンシェルジュ、岡崎別院(親鸞聖人岡崎草庵跡)、光雲寺、哲学の道、法然院、慈照寺 (銀閣寺)、まつばや、哲学の道、京都大学

§ 家族のお出かけ 目次 家族で出かけたのは、上の年表で黄地に太字にしているイベントです。「浅草(1月)」や「沖縄(3月)」「相模原麻溝公園(4月)」「こんにゃくパーク(4月)」「赤坂(5月)」「八景島(8月)」「箱根(8月)」「三島(8月)」「東京ディズニーランド(9月)」「山形(12月)」。満足できる一年になったと思います。来年もどこかに出かけようと考えています。

§ 妻とのお出かけ 目次 妻と出かけたのは、上の年表で桃地に太字にしているイベントです。なんかかんだといって、結構節目節目には二人で過ごせているようです。今年は臺灣を一緒に訪れたのが思い出深いです。いくつかBarにも訪れたり、八景島シーパラダイスにも二人で行きました。あとは音楽と舞台と映画でしょうか。一緒にいくつも観て体験していますね。夫婦ともにこれだけ忙しくても、時間をやりくりしてこれだけ出来ていれば、来年もやれそうな気がします。

§ 娘たちとのお出かけ 目次 娘たちと3人で出かけたのは、上の年表で緑字に太字にしているイベントです。一緒にご飯を食いに行くぐらいしかいけませんでした。娘たちもそれぞれ友達と出かけたり家にこもったり。特に次女は明らかについてこなくなりました。彼氏や友達との時間を優先する年ごろになった。そういうことです。私としてはワンパターンなお出かけよりも、経験でめずらしい経験をさせてやりたい、と思うのですが、私の時間もなくなっており、近所であればもはやそういう経験はさせてあげられません。ですが、来年も断られることを覚悟で、誘ってみようと思います。

§ 妻とどちらか娘とのお出かけ 目次 妻とどちらかの娘の3人で出かけたのは、上の年表で水色地に太字にしているイベントです。長女は比較的よくついてきました。が、逆に次女だけが付いてくることはほとんどありませんでした。

§ 長女とのお出かけ 目次 僅かではありましたが、いくつか訪れています。そのうち一つは長女の高校の文化祭に私一人で出かけることになり、しばらく長女と行動を共にしました。年ごろのためか潔癖感が増していますが、私に対しての棘は峠を越した気がします。私がそう思っているだけかもしれませんが。

§ 次女とのお出かけ 目次 部活に忙しく、なかなか一緒にはいかれませんでしたが、それでもいくつかの場所を父娘二人で訪れています。そのうち一つは二人で回転すしを訪れて大いに語りました。次女は親あしらいがうまいので、時間さえあえば来年もついて来てくれそうです。

●私自身の一年(交友関係)
§ 関西の交流関係 目次 今年は、3月にまとまった日程をとって帰りました。四泊五日の日程でしたが、高校の友人たちと、大学の友人たちと飲み遊び、一昨年からご縁を結んだ方々とも飲み、打ち合わせも挟み。私が苦しんでいた時期に知り合った師匠と梅田のバーで呑み、今までFacebookだけのつながりだった方ともお会いし。かなり濃密な時間を過ごしました。ありがとうございました。
7月には中学の頃からの友人が上京し、共に呑みました。その場でイカ釣りに誘われ、8/6にはそのために帰りました。が、高波でイカ釣りが中止となり、再計画した日も友人が仕事で断念しました。これはぜひ来年やりたいと思っています。年末になって年賀状を書きながら、SNSをやっていない友人たちとのご縁をまた復活させたいと思いました。

§ YKGの交流 目次 今年もまた、鉄道や城巡りといった旅を愛する友人二人と、砥石城を中心に武田氏に関する城巡りを行いました。さらに畠山重忠に関する史跡めぐりも行いました。来年、またともに旅ができればうれしいです。

§ 一年の交流 目次 今年は、前半は3月の関西以外は低調でした。が、ゴールデンウィークのサッカー観戦から、関西大学での知ル活など、徐々に交流を活発にしました。一つ目のピークは6月に10数人のパーティーで訪れた一泊の尾瀬旅行です。仕事でもほうぼうに一人で飛び込んで行き、徐々に外交的な自分を取り戻していきました。下に書く酒関係のイベントでは様々な方と楽しい時間を過ごしました。パクチー三昧の時間を過ごしたこともうれしい。魂友とは三回会い、そのうち一度はご自宅でお母さまともお会いしました。どれもが今年の特筆すべきイベントです。また、会津への旅は今年の5本の指に入る素晴らしい旅でした。見ず知らずの方々と民泊で出会い、話に花を咲かせる。その素晴らしい経験は、人生万歳と言いたくなるほど。また、年末にはいのしし鍋のイベントにもお誘いをいただき、絶品の鍋を囲んで楽しい時間を過ごしました。他にも書いていませんが色々なイベントにお誘い頂きました。ありがとうございました。

§ 地元の交流 目次 一方、今住んでいる地元の友人との時間はほとんどとれませんでした。ですが、昨年末から参加しているゆるいランチの会には二度参加しています。仕事を抜きにした語らいの場としてとても重宝しています。下半期は私が忙しくて伺えなかったのですが、代わりに妻が何度も参加させてもらっています。私も来年は参加したい。あと、自治会には仕事でかなり携わりました。来年もそうしたご縁を活かしていきたいです。最後に、年の瀬になって娘たちが学童でお世話になっていた指導員の先生の訃報が入ってきました。まだ若いのに残念でなりません。いい人ほど早く世を去っていく。

●私自身の一年(文化活動)
§ 読書・観劇レビュー 目次 読んだ本のレビューを記す読ん読ブログの執筆は、主に2017年に読んだ104冊分となりました。レビュー執筆は、私の中では大切なライフワークとして位置付けています。ただ、仕事を優先する関係上、どうしてもアップは後回しになっています。それでも読んでからアップするまでの日数を10カ月に縮めました。この期間を質を落とさずにさらに早めるのが去年に引き続いての課題です。舞台観劇と映画鑑賞のレビューについては、遅れずに書けているのですが。書くという行為への熱意は衰えていませんので、引き続き続けていくつもりです。

§ 今年の読書 目次 読書については、今年は94冊読みました。また、ジャンルを問わずの乱読傾向は相変わらずです。94冊についてそれぞれに思い入れは深く、その中のベストを選ぶといったおこがましいことはしません。ですが、今年は年末になってようやく坂の上の雲全巻を読み通せました。また、今年は三人の文人の展示会を訪問しました。「三島由紀夫博物館」「徳富蘇峰記念館」「世田谷文学館(筒井康隆展)」どれもがとても刺激になりました。

§ 今年の映画 目次 映画鑑賞については、今年は8本観劇しました。
DESTINY 鎌倉ものがたり」「スター・ウォーズ/最後のジェダイ 」「The Greatest Showman」「The Greatest Showman」「ハン・ソロ スター・ウォーズ・ストーリー」「ミッション:インポッシブル フォールアウト」「ボルグ / マッケンロー 氷の男と炎の男」「ボヘミアン・ラプソディー」。
観たかったのに見れなかった映画もたくさんあります。ですが、私の持ち時間の少なさからみて、よく見たほうだと思います。今年は大河ドラマの「西郷どん」を妻が観たいというので一緒に観ていましたが、やはりというか、ほとんどの回を見逃してしまっています。

§ 今年の舞台 目次 舞台については、今年度は3本の鑑賞でした。詳細は当ページの「目下の舞台鑑賞」を観てもらえればと思います。3本いずれも素晴らしい内容でした。ただ、私の中で宝塚歌劇の運営方針に重大な不満があり、妻には「見たくない」と言ったことを実践。下半期は観劇していません。その一方で、劇団四季を創立した浅利慶太氏が亡くなられました。かつて劇団四季に勤めていた友人の山下さんにお誘いいただき、浅利慶太お別れの会に参列しました(9/18)。そこで配布された故人の演劇論や略歴が書かれたパンフレットを読み、改めて浅利慶太氏と劇団四季に興味を持ち、その後すぐに「劇団四季と浅利慶太」も読みました。そして四季と宝塚との運営方針の違いを感じました。私は四季の方を支持したい。とはいえ、来年は観劇や寄席も観たいと思っています。

§ 今年の音楽 目次 昨年は何回もコンサートに行きましたが、今年は6月に東京国際フォーラムで観た「The Show Stopper」だけ。次女が中学で吹奏楽部を全うし、三年間で賞は一度も取れなかったけれど、何かをまっとうしてくれたのは良い思い出です。次女の発表会や演奏会、合唱コンクールは何度か訪れたので音楽体験は得られたと思います。長女が入っている高校の吹奏楽部は全国屈指の実力を持っていることから、長女と次女を連れて府中の芸術の森に定期演奏会を聴きに行きました。カラオケは二回。3月に友人たちと三宮で、11月には秘密基地で大いに歌いました。また、初夏の一日だけ、ウクレレを引っ張り出して爪弾いたりもしました、が続かず。

§ 今年の美術 目次 美術については、昨年と同じく今年もさっぱりでした。でも、長女の学外展や文化祭などデザインや美術には触れる機会が多数ありました。また、娘の進学先が美術デザイン系の専門学校に決まり、その学校見学にも訪れました(5月)。またその学校の校長先生のスコットランドの写真展にも訪れ、旅の乾きを潤しました(10月)。また富士フォトギャラリー銀座での写真展にもお招きされ、山の写真に見ほれました(5月)。舘野鴻の原画展(7月)では昆虫の精密画にも惹かれました。また、2月に妻と訪れた根津美術館の「墨と金展」は良かった。最近書の世界に関心を持っており、新宿の世界堂で水で書道ができるセット一式を買い(5月)、弊社の毎月のまとめの画像を書いた暦で表していました。筆がダメになったので霜月、師走が書けませんでしたが。

§ 今年のスポーツ 目次 スポーツについては、正直なところ全く低調でした。スキーもソフトボールもテニスもマラソンもやらず。それは2月ごろから腰痛に悩まされていたからです。ただ、アウトドアが皆無だったかというとそうでもなく。特に六月に訪れた一泊二日の尾瀬の旅は今年のハイライトの一つです。十数人のパーティーの一員としてみた至仏山と燧ケ岳、尾瀬沼の朝から夜までの景色は素晴らしかった。アウトドアを満喫しました。ただ、見るだけで日本百名山登頂ができなかったのは無念です。妻子と町田市最高峰の草戸山は登頂しました。また、滝はたくさん巡りました。それらはスポーツといえそうです。早戸大滝に行こうとしてあわや遭難しかけたり。
ただ、今年はソチオリンピックがあり、ロシアW杯があり、卓球選手たちの活躍やテニスの大坂、錦織両選手の活躍など、観戦しているだけで満足の一年でした。大リーグの大谷選手の大活躍も忘れられません。イチロー選手がついに選手登録から外れたという残念な出来事もありました。スポーツ観戦は今年は三度。五月に等々力スタジアムで多摩川ダービー「川崎フロンターレ VS 東京FC」を数人で観戦し、八月に町田陸上競技場でFC町田ゼルビアvs京都パープルサンガの試合を観戦しました。三月には甲子園球場で阪神vsDeNaのオープン戦を父と。夏の甲子園も初日の第四試合を場外で聞きました。なお、弊社が町田FCゼルビアのサポーターになったのも今年です。あと、次女がたまに習いにいっているカポエイラのレッスンに一度ついていき、赤坂でのCapoeira Batieque Japaoの興奮を目撃。長女が立派にバレエの発表会を勤め上げたのも良い思い出です。最後に忘れてはならないのは伊勢ヶ濱部屋とのご縁です。後援会会長とご縁があり、ちゃんこ会や初場所打ち上げ式に御呼ばれしました。相撲観戦はしていませんが、これも立派な相撲文化の吸収でしょう。

§ 今年の滝 目次 今年は日本の滝百選の滝を8カ所訪れる目標を立てていました。結果、再訪を含めると7か所を訪れる事ができました。「轟九十九滝」「仙娥滝」「白糸の滝」「北精進ヶ滝」「金引の滝」「吹割の滝」「棚下不動滝」。どれもが百選にふさわしい名瀑です。もちろん、それ以外の滝でも印象に残る滝はたくさんありました。以下は今年訪れた滝です。「塩川滝(2/18)」「轟九十九滝(3/4)」「轟本滝(3/4)」「二重の滝(3/4)」「横見の滝(3/4)」「舟形滝(3/4)」「丸渕滝(3/4)」「鳥返しの滝(3/4)」「鍋割りの滝(3/4)」「仙娥滝(4/30)」「大滝(4/30)」「仙娥滝(4/30)」「エビラ沢の滝(5/6)」「白糸の滝(5/20)」「音止の滝(5/20)」「ヌル沢奥の滝(6/3)」「雄飛の滝(6/17)」「一の滝(魚止めの滝)(7/29)」「二の滝(初見の滝)(7/29)」「北精進ヶ滝(7/29)」「金引の滝(8/6)」「臥龍の滝(8/6)」「白滝(8/6)」「千条の滝(8/15)」「千古の滝(8/25)」「吹割の滝 第一観瀑台(9/16)」「鱒飛の滝(9/16)」「鐘山の滝(9/24)」「霧降りの滝(10/14)」「棚下不動滝(10/21)」。また、今年の滝巡りで忘れてはならないのが、早戸大滝にアタックした時の経験です。路肩の土盛りに車を乗り上げ、横に停まっていた車の方々に里まで送ってもらい、数時間JAFを待ち、JAFの方に復旧していただいた後、夕方近くになってから一人でアタックしたところ、滝を目前にして腰痛でダウンし、帰り道は夕立に遭い、増水した川で帰り路を見失いかけ、あわや遭難するところでした。

§ 今年の旅行 目次 今年は、今までの人生でも納得できる旅行ができました。家族で沖縄(3月)、山形上山(12月)に訪れ、海のきれいさと雪の美しさを味わいました。夫婦で臺灣(10月)に訪れたのは、私にとって十数年ぶりの海外、23年ぶりの臺灣ということがあって思い出も深いです。昨年一人で訪れた沖縄では16,7ぶりにお会いした方と、今回は双方の家族総出でお会いしました。奥様とは17,8年ぶりの再会。また、10数人のパーティーで訪れた尾瀬(6月)は景色が素晴らしく、朝昼夜で多彩な景色を見せてくれる自然のすばらしさに感動しました。あと四人で訪れた会津旅行も会津の方々にたくさん出会え、会津の方々の郷土愛に感動しました。無農薬栽培のお手伝いを通して、どれだけ無農薬が大変で、どれだけ産物が美味しいかについても知見をいただきました。この旅行では島根の方とも知り合えたのが、旅人同士の縁の嬉しさを感じた人時でした。一人でも鹿嶋に車中泊で向かい、鹿嶋神宮やアントラーズ、塚原卜伝関連の地を訪れ、旅を満喫しました。皆様ありがとうございました。

§ 今年の駅鉄 目次 趣味の駅巡りは36駅。昨年の倍以上に行きました。「香櫨園駅(1/1)」「相武台下駅(2/18)」「芦原町駅(3/3)」「木津川駅(3/3)」「辺川駅(3/4)」「海部駅(3/4)」「宍喰駅(3/4)」「甲浦駅(3/4)」「公津の杜駅(3/20)」「県庁前駅(3/28)」「中川駅(4/10)」「沼久保駅(5/20)」「甲斐常葉駅(5/20)」「身延駅(5/20)」「大佐倉駅(5/24)」「荏原町駅(6/27)」「鬼子母神前停留場(7/13)」「鉾田駅(7/15)」「北浦湖畔駅(7/15)」「鹿島灘駅(7/15)」「鹿島大野駅(7/15)」「長者ヶ浜潮騒はまなす公園前駅(7/15)」「荒野台駅(7/15)」「鹿嶋サッカースタジアム駅(7/15)」「延方駅(7/15)」「宮村駅(8/6)」「天橋立駅(8/6)」「ときわ台駅(9/6)」「土合駅(9/16)」「河口湖駅(9/24)」「久里浜駅(10/5)」「津久田駅(10/21)」「後閑駅(10/21)」「基隆駅(10/28)」「新松田駅(12/18)」「かみのやま温泉駅(12/27)」。それぞれに周囲の光景と共に興味深い駅たちでした。ただ、これらの駅で撮った写真をまとめてブログにアップするにはまだ時間がかかりそうです。

§ 今年の酒楽 目次 今年は私の酒履歴に欠かせない一年となりました。
まずは日本酒。今年は日本酒の魅力の深さを知った一年です。それは六月に尾瀬を一緒に旅した小宮さんとのご縁からつながりました。小宮さんのお陰で日本酒の奥深い世界を教えていただきました。「まさるや2018仲秋 日本酒呑んでる会in町田(9月)」「Tokyo Rice Wine 日本酒の会(9月)」「酒家 盃爛処(10月)」「かもすや酒店(10月)新政呑みくらべ」「中澤酒造株式会社(12月)」。感謝です。あとパートナー企業の社長様が日本酒に詳しく、今年は5回ほどご一緒に盃を傾けました。私がちょくちょく日本酒を買って帰るものだから、妻が年末の山形旅行でお酒を買ってくれました。なかなかの美酒のようで楽しみです。今年訪れた酒蔵は二カ所。「富士高砂酒造(5/20)」「中澤酒造(12/18)」。来年もほうぼうを訪れる予感がします。
続いてウイスキー。妻がウイスキー好きになってくれたので、今年は二人+αでいくつかお店を巡りました。「Tokyo Whisky Library(2月)」「ニッカ ブレンダーズ バー(10月)」「スコットランド写真展(10月)」。真ん中のは別のご夫婦とも一緒に伺い、交流を深めました。最後のは娘が来年からお世話になる学校の校長先生が開いた写真展。ここではHighland Parkが40年も含めた3種類、樽でご用意されており、ウイスキー好きには楽園。相当飲みました。また、今年はWhisky Festival in Tokyoに初参戦したことも書かせません。3人で訪れたのですが、何種類呑んだのか覚えていないくらい美酒を飲みまくりました。至福の時でした。Whiskyについては「Bar Harbour Inn(3月)」も欠かせません。ここで飲ませてもらった11年もののBowmoreの美味さ!私にとってこのお店はずっと通う店であり続けるでしょう。また何人かで訪れたお店として「Bar 羽月(4月)」で飲んだ燻酒の美味さはその前の花見でMiltonduffを相当呑んだ後ですが印象に残っています。「Corn Valley澁谷店(5月)」もそう。魂友とふらっと訪れた「草月(9月)」もまた訪れたいバーです。また、一人で訪れた六本木ヒルズアリーナのGlenMorangeイベント(11月)はオレンジに統一された色調や味と共に今でも思い出すとほろ酔いできます。「籠屋(秋元酒店)(2月)」で飲んだイチローズモルトの秩父のIPAカスクには衝撃を受けました。今年訪れた蒸留所は「白州蒸留所(7/29)」。来年こそはクラフトウイスキーや宮城峡を訪れたいものです。できればKAVALANも。
続いて焼酎。沖縄旅行の時に妻と訪れた「ぱいかじ 国際通り店(3月)」では、泡盛を心置きなく飲めました。泡盛はまだまだ深く、極めたいと思っています。魂友と訪れた「玉ちゃん亭(5月)」でも泡盛をたくさんいただきました。池袋の「くさやばー(10月)」で飲んだ情ヶ嶋は麦と芋ともに衝撃の味わいでした。青酎も。情ヶ島の麦はその後ボトルで購入したぐらい惚れ込みました。
続いてビール。今年も各地のクラフトビールを呑み歩きました。CarftBeerを扱うお店が増えてきたのでうれしい限りです。ビールについてはほとんどが一人のみ。私にとっては短時間でさっと飲むときに重宝する酒になりました。
続いてハイボール。これは「極鶏Bar下北沢(8月)(12月)」以外ありません。12月に訪れた際は絶品のイノシシ鍋をつつかせてもらいました。これがハイボールによく合っていて完璧でした。
続いてワイン。今年は「ワイン&グルメ ジャパン2018(4月)」につきます。四名で会場を巡りました。去年からワインのおいしさにも目覚めており、ここで飲んだワインが絶品でした。日本のワインもすごいのです。また、先にも書いた「 Tokyo Rice Wine 日本酒の会(9月) 」では日本酒酵母で醸したワインをいただきました。さらに一人のみですが「富士の国 やまなし館」でも山梨産のワインに喉を潤しました。
最後にカクテル。私がカクテルをBarで頼むことはほとんどないのですが、どれも妻と訪れたバーで飲みました。「Stella Lounge(1月)」「カメリア(9月)」。後者は東京駅内にあるバーで、旅情を思わせるカクテルが印象的です。あと、忘れてはいけないのが「アジアンフード バー バグース(4月)」で飲んだパクチーモヒートです。4名で訪れてパクチーを食べまくりましたが、モヒートも美味しかった。
今年もほうぼうに商談に赴いたこともあって、毎月の独りのみは出来たと思っています。「籠屋(秋元酒店)(2月・狛江)」「BrewDog Roppongi(4月・六本木)」「富士の国 やまなし館(4月・日本橋)」「Craft Beer Moon Light 本店(5月・川崎登戸)」「地ビール厨房 COPA 町田店(6月・町田)」「イングリッシュパブ トラファルガー(7月・町田)」「京橋エドグラン(8月・東京京橋)」「Hop-Scotch Craft Beer & Whiskey(9月・飯田橋)」「世界のビール博物館(10月・押上)」「六本木ヒルズアリーナ(11月・六本木)」「Classy’s Bar(12月・川崎)」。
結局呑みの回数は年間で70回でした。大体5日に1度。呑みは週一度に抑えたいと思っていたので結果的に実現できて良かったです。

§ 今年のその他活動 目次 人生も半分を過ぎ、まだ焦りが募っています。少しでも日々に変化をつけようとする気持ちに衰えは見えません。
・一昨年に二枚、昨年に五枚ゲットしたマンホールカードの収集。今年は九枚入手しました。兵庫県西宮市(3/2)、大阪府大阪市(3/5)、神奈川県川崎市(4/20)、群馬県藤岡市(4/29)、茨城県鹿嶋市(7/15)、東京都立川市(9/12)、群馬県沼田市(9/16)、東京都昭島市(10/11)、山形県上山市(12/27)。来年も折を見て各地でゲットしようと思っています。
・ダムカードも一枚いただきました。城山ダム(9/23)です。
・風景印も三つ。「天橋立駅前郵便局(8/6)」「上山十日町郵便局(12/27)」「上山旭町郵便局(12/28)」。
・灯台も二カ所回っています。「伊計島灯台(3/28)」「鹿嶋灯台(7/15)」。来年は灯台巡りもしたいと思っています。
・旅先で訪れた資料館・博物館・美術館では勉強しました。「根津美術館(2/11)」「大阪人権博物館(リバティおおさか)(3/3)」「尾崎咢堂記念館(5/6)」「NTTドコモ歴史展示スクエア(7/26)」「甲子園歴史館(8/5)」「野球殿堂博物館(8/21)」「三島由紀夫文学館(9/24)」「徳富蘇峰記念館(9/24)」「世田谷文学館(10/16)」「旧前田家本邸(11/2)」「幕末維新ミュージアム霊山歴史館(12/30)」。
・城もあちこち訪れました。「勝連城跡(3/28)」「枡形城(5/5)」「大手門(5/11)」「本佐倉城跡(5/24)」「鹿島城山公園(7/15)」「山中城跡(8/19)」「祢津城山(8/25)」「砥石城跡(8/25)」「桝形城跡(8/25)」「米山城跡(8/25)」「沼田城(9/16)」「伏馬田城趾(9/23)」「鶴ヶ城(10/9)」「長井坂城跡(10/21)」「名胡桃城址(10/21)」「上山城(12/27)」。こうしたデータは上にも書いたkintone Advent Calendarの中で再集計してみました。
・訪れた神社は以下の通り。「白山姫神社(1/1)」「西宮神社(1/2) 」「毘沙門天堂(2/10) 」「塩川神社(2/18) 」「浪速神社(3/3) 」「相州春日神社(3/22) 」「稲毛神社(4/20) 」「野津田神社(4/22) 」「琴平神社(5/14) 」「富士山本宮浅間大社(5/20) 」「将門口ノ宮神社(5/24) 」「成田山 咤枳尼天堂 (出世稲荷)(6/17) 」「旗岡八幡神社(6/27) 」「雑司ヶ谷 鬼子母神 (鬼子母神堂)(7/13) 」「鹿島神宮(7/14)(7/15) 」「鎌足神社(7/15) 」「江の島弁天(8/11) 」「筑土八幡神社(9/5) 」「板橋天祖神社(9/6) 」「十二坐神社(9/16) 」「東京大神宮(9/19) 」「永井箱根神社(10/21) 」「 鶴ヶ峰神社(11/18) 」「驚神社(11/18) 」「野津田神社(12/9) 」「東郷神社(12/16) 」「京都霊山護國神社(12/30) 」「八坂神社(12/30) 」。今年から神社でお参りする度、口で願いを述べ、「努力します」を三回繰り返しています。ただ漠然と願うだけでは自分の思い描く未来は送れないからです。
・訪れた寺は以下の通り。「神呪寺(1/1)」「成田山 新勝寺(6/17)」「根本寺(7/15)」「東陽寺(7/22)」「安全寺(8/31)」「龍山寺(10/29)」「野津田薬師堂(12/9)」「青蓮院門跡(12/30)」「岡崎別院(12/30)」「法然院(12/30)」。お寺も実は本堂の中に入ると面白い。地元の野津田薬師堂には初めて中に入らせてもらいました。臺灣で訪れた龍山寺も地元に密着した様子がたまりませんでした。また、年末に訪れた京都の諸寺では、深く学ばせてもらいました。
・登った山は四つ。「草戸山(4/8)」「桝形山(5/5)」「祢津城山(8/25)」「七国山(12/9)」どれもが低い山です。砥石城も山ですがそちらのほうが急でした。来年は腰を直して百名山に登りたい。
・名木は二カ所。「鬼子母神の公孫樹(7/13)」「山高神代ザクラ(7/29)」。さくらは日本各地に観に行きたいです。
・名水は二カ所。「神田川(5/20)」「益栄の水(12/28)」。前者は平成の名水百選に選ばれています。こうした場所にも訪れていきたい。
・ビーチは二カ所。「エメラルドビーチ(3/27)」「大泊ビーチ(3/28)」。ともに沖縄で訪れた美しすぎる場所。心が洗われるとはこのことです。
私がまだ訪れていない場所の多さにめまいがします。他の活動もまだまだやりたいことがいっぱいあったのですがとても時間がありませんでした。
それぞれの場所で俳句も読みました。数年前から興が乗るたびに読んでいましたが、振り返ってみると今年も結構な数を詠んでいます。そうした訪問記が私にとって何なのかの考察は、年末に「SNSとはライフログツール」として表しました。
ライフログについては上記ブログにも書きましたが、年初から6月ごろまで盛んにGoogle Mapでロケーション情報や口コミを投稿していました。それが評価されたのかランクが次々とあがり、10月にサンフランシスコで行われる世界規模のGoogle Mapイベントに招待されました。英語の動画PRができずに断念したのが心残りです。英語も勉強しなければ。

あらためて「公」「私」を振り返ってみました。今年は冒頭に書いた通り、満足度は高いです。良い一年だったと思います。あとはムラを生じさせる原因を来年どう防いでいくかですね。特にムラ、が重要になりそうです。後1日、今年を無事に締めくくり、来年へと繋げようと思います。


日本の難点


社会学とは、なかなか歯ごたえのある学問。「大人のための社会科」(レビュー)を読んでそう思った。社会学とは、実は他の学問とも密接につながるばかりか、それらを橋渡す学問でもある。

さらに言うと、社会学とは、これからの不透明な社会を解き明かせる学問ではないか。この複雑な社会は、もはや学問の枠を設けていては解き明かせない。そんな気にもなってくる。

そう思った私が次に手を出したのが本書。著者はずいぶん前から著名な論客だ。私がかつてSPAを毎週購読していた時も連載を拝見していた。本書は、著者にとって初の新書書き下ろしの一冊だという。日本の論点をもじって「日本の難点」。スパイスの効いたタイトルだが、中身も刺激的だった。

「どんな社会も「底が抜けて」いること」が本書のキーワードだ。「はじめに」で何度も強調されるこの言葉。底とはつまり、私たちの生きる社会を下支えする基盤のこと。例えば文化だったり、法制度だったり、宗教だったり。そうした私たちの判断の基準となる軸がないことに、学者ではない一般人が気づいてしまった時代が現代だと著者は言う。

私のような高度経済成長の終わりに生まれた者は、少年期から青年期に至るまで、底が何かを自覚せずに生きて来られた。ところが大人になってからは生活の必要に迫られる。そして、何かの制度に頼らずにはいられない。例えばビジネスに携わっていれば経済制度を底に見立て、頼る。訪日外国人から日本の良さを教えられれば、日本的な曖昧な文化を底とみなし、頼る。それに頼り、それを守らねばと決意する。行きすぎて突っ走ればネトウヨになるし、逆に振り切れて全てを否定すればアナーキストになる。

「第一章 人間関係はどうなるのか コミュニケーション論・メディア論」で著者は人の関係が平板となり、短絡になった事を指摘する。つまりは生きるのが楽になったということだ。経済の成長や技術の進化は、誰もが労せずに快楽も得られ、人との関係をやり過ごす手段を与えた。本章はまさに著者の主なフィールドであるはずが、あまり深く踏み込んでいない。多分、他の著作で論じ尽くしたからだろうか。

私としては諸外国の、しかも底の抜けていない社会では人と人との関係がどのようなものかに興味がある。もしそうした社会があるとすればだが。部族の掟が生活全般を支配するような社会であれば、底が抜けていない、と言えるのだろうか。

「第二章 教育をどうするのか 若者論・教育論」は、著者の教育論が垣間見えて興味深い。よく年齢を重ねると、教育を語るようになる、という。だが祖父が教育学者だった私にしてみれば、教育を語らずして国の未来はないと思う。著者も大学教授の立場から学生の質の低下を語る。それだけでなく、子を持つ親の立場で胎教も語る。どれも説得力がある。とても参考になる。

例えばいじめをなくすには、著者は方法論を否定する。そして、形のない「感染」こそが処方箋と指摘する。「スゴイ奴はいじめなんかしない」と「感染」させること。昔ながらの子供の世界が解体されたいま、子供の世界に感染させられる機会も方法も失われた。人が人に感染するためには、「本気」が必要だと著者は強調する。そして感染の機会は大人が「本気」で語り、それを子供が「本気」で聞く機会を作ってやらねばならぬ、と著者は説く。至極、まっとうな意見だと思う。

そして、「本気」で話し、「本気」で聞く関係が薄れてきた背景に社会の底が抜けた事と、それに皆が気づいてしまったことを挙げる。著者がとらえるインターネットの問題とは「オフラインとオンラインとにコミュニケーションが二重化することによる疑心暗鬼」ということだが、私も匿名文化については以前から問題だと思っている。そして、ずいぶん前から実名での発信に変えた。実名で発信しない限り、責任は伴わないし、本気と受け取られない。だから著者の言うことはよくわかる。そして著者は学校の問題にも切り込む。モンスター・ペアレントの問題もそう。先生が生徒を「感染」させる場でなければ、学校の抱える諸問題は解決されないという。そして邪魔されずに感染させられる環境が世の中から薄れていることが問題だと主張する。

もうひとつ、ゆとり教育の推進が失敗に終わった理由も著者は語る。また、胎教から子育てにいたる親の気構えも。子育てを終えようとしている今、その当時に著者の説に触れて起きたかったと思う。この章で著者の語ることに私はほぼ同意する。そして、著者の教育論が世にもっと広まれば良いのにと思う。そして、著者のいう事を鵜呑みにするのではなく、著者の意見をベースに、人々は考えなければならないと思う。私を含めて。

「第三章 「幸福」とは、どういうことなのか 幸福論」は、より深い内容が語られる。「「何が人にとっての幸せなのか」についての回答と、社会システムの存続とが、ちゃんと両立するように、人々の感情や感覚の幅を、社会システムが制御していかなければならない。」(111P)。その上で著者は社会設計は都度更新され続けなければならないと主張する。常に現実は設計を超えていくのだから。

著者はここで諸国のさまざまな例を引っ張る。普通の生活を送る私たちは、視野も行動範囲も狭い。だから経験も乏しい。そこをベースに幸福や人生を考えても、結論の広がりは限られる。著者は現代とは相対主義の限界が訪れた時代だともいう。つまり、相対化する対象が多すぎるため、普通の生活に埋没しているとまずついていけないということなのだろう。もはや、幸福の基準すら曖昧になってしまったのが、底の抜けた現代ということだろう。その基準が社会システムを設計すべき担当者にも見えなくなっているのが「日本の難点」ということなのだろう。

ただし、基準は見えにくくなっても手がかりはある。著者は日本の自殺率の高い地域が、かつてフィールドワークで調べた援助交際が横行する地域に共通していることに整合性を読み取る。それは工場の城下町。経済の停滞が地域の絆を弱めたというのだ。金の切れ目は縁の切れ目という残酷な結論。そして価値の多様化を認めない視野の狭い人が個人の価値観を社会に押し付けてしまう問題。この二つが著者の主張する手がかりだと受け止めた。

「第四章 アメリカはどうなっているのか 米国論」は、アメリカのオバマ大統領の誕生という事実の分析から、日本との政治制度の違いにまで筆を及ぼす。本章で取り上げられるのは、どちらかといえば政治論だ。ここで特に興味深かったのは、大統領選がアメリカにとって南北戦争の「分断」と「再統合」の模擬再演だという指摘だ。私はかつてニューズウィークを毎週必ず買っていて、大統領選の特集も読んでいた。だが、こうした視点は目にした覚えがない。私の当時の理解が浅かったからだろうが、本章で読んで、アメリカは政治家のイメージ戦略が重視される理由に得心した。大統領選とはつまり儀式。そしてそれを勝ち抜くためにも政治家の資質がアメリカでは重視されるということ。そこには日本とは比べものにならぬほど厳しい競争があることも著者は書く。アメリカが古い伝統から解き放たれた新大陸の国であること。だからこそ、選挙による信任手続きが求められる。著者のアメリカの分析は、とても参考になる。私には新鮮に映った。

さらに著者は、日本の対米関係が追従であるべきかと問う。著者の意見は「米国を敵に回す必要はもとよりないが『重武装×対米中立』を 目指せ」(179P)である。私が前々から思っていた考えにも合致する。『軽武装×対米依存』から『重武装×対米中立』への移行。そこに日本の外交の未来が開けているのだと。

著者はそこから日本の政治制度が陥ってしまった袋小路の原因を解き明かしに行く。それによると、アメリカは民意の反映が行政(大統領選)と立法(連邦議員選)の並行で行われる。日本の場合、首相(行政の長)の選挙は議員が行うため民意が間接的にしか反映されない。つまり直列。それでいて、日本の場合は官僚(行政)の意志が立法に反映されてしまうようになった。そのため、ますます民意が反映されづらい。この下りを読んでいて、そういえばアメリカ連邦議員の選挙についてはよく理解できていないことに気づいた。本書にはその部分が自明のように書かれていたので慌ててサイトで調べた次第だ。

アメリカといえば、良くも悪くも日本の資本主義の見本だ。実際は日本には導入される中で変質はしてしまったものの、昨今のアメリカで起きた金融システムに関わる不祥事が日本の将来の金融システムのあり方に影響を与えない、とは考えにくい。アメリカが風邪を引けば日本は肺炎に罹るという事態をくりかえさないためにも。

「第五章 日本をどうするのか 日本論」は、本書のまとめだ。今の日本には課題が積みあがっている。後期高齢者医療制度の問題、裁判員制度、環境問題、日本企業の地位喪失、若者の大量殺傷沙汰。それらに著者はメスを入れていく。どれもが、社会の底が抜け、どこに正統性を求めればよいかわからず右往左往しているというのが著者の診断だ。それらに共通するのはポピュリズムの問題だ。情報があまりにも多く、相対化できる価値観の基準が定められない。だから絶対多数の意見のように勘違いしやすい声の大きな意見に流されてゆく。おそらく私も多かれ少なかれ流されているはず。それはもはや民主主義とはなにか、という疑いが頭をもたげる段階にあるのだという。

著者はここであらためて社会学とは何か、を語る。「「みんなという想像」と「価値コミットメント」についての学問。それが社会学だと」(254P)。そしてここで意外なことに柳田国男が登場する。著者がいうには 「みんなという想像」と「価値コミットメント」 は柳田国男がすでに先行して提唱していたのだと。いまでも私は柳田国男の著作をたまに読むし、数年前は神奈川県立文学館で催されていた柳田国男展を観、その後柳田国男の故郷福崎にも訪れた。だからこそ意外でもあったし、ここまでの本書で著者が論じてきた説が、私にとってとても納得できた理由がわかった気がする。それは地に足がついていることだ。言い換えると日本の国土そのものに根ざした論ということ。著者はこう書く。「我々に可能なのは、国土や風景の回復を通じた<生活世界>の再帰的な再構築だけなのです」(260P)。

ここにきて、それまで著者の作品を読んだことがなく、なんとなくラディカルな左寄りの言論人だと思っていた私の考えは覆された。実は著者こそ日本の伝統を守らんとしている人ではないか、と。先に本書の教育論についても触れたが、著者の教育に関する主張はどれも真っ当でうなづけるものばかり。

そこが理解できると、続いて取り上げられる農協がダメにした日本の農業や、沖縄に関する問題も、主張の核を成すのが「反対することだけ」のようなあまり賛同のしにくい反対運動からも著者が一線も二線も下がった立場なのが理解できる。

それら全てを解消する道筋とは「本当にスゴイ奴に利己的な輩はいない」(280P)と断ずる著者の言葉しかない。それに引き換え私は利他を貫けているのだろうか。そう思うと赤面するしかない。あらゆる意味で精進しなければ。

‘2018/02/06-2018/02/13


カデナ


We haven’t had that spirit here since 1969
一九六九年以来、その精神はここにはありません。

本書冒頭の扉にはイーグルスの「ホテル・カリフォルニア」のあまりにも有名な一節が掲げられている。「ホテル・カリフォルニア」は、音楽ビジネスの退廃と閉塞を歌った曲として有名だ。この中にある1969年とはウッドストック・フェスティバルの開催された年。その年を最後に音楽からスピリットが失われてしまったと切ないメロディで歌われるこの曲は、ミュージシャン自身が歌うだけに説得力がある。酒のスピリットと音楽精神のスピリットを掛け、理想が失われつつある業界を憂う一節は、ロック史上に残る。私も何百回と聞いてきたが、これからも聞き続けることだろう。曲自体、イーグルスのメンバーや私がいなくなった後も残り続けるはずだ。

沖縄旅行から戻った私が続けて読んだ沖縄関係の本も本書で四冊目を重ねる。

本書は1969年を沖縄軍政の実質が終わった年としている。1969年1月にジョンソン大統領の後任となったニクソン大統領は、就任直後からベトナム戦争終結へと動き出したという。1969年に開かれた日米首脳会談でも沖縄返還は規定事項となった。沖縄の軍政の終わりが決まったのが1969年なのだ。沖縄返還は1972年だが、すでに沖縄の人々にとって軍政は終わっていた。そんな中、沖縄ではアメリカ軍政への不満が爆発するように1970年12月にコザ暴動がおこる。本書でもコザ暴動は物語の終わりを告げるエピソードとして登場する。

沖縄を囲む時代の空気と、基地の島の精神の変容。それを著者は冒頭に名曲の一節を掲げることでさりげなく問うている。

1945年の6月23日の沖縄戦の終結から、1972年5月15日に日本に復帰するまでの27年。本書が舞台とするのはその期間の沖縄だ。特に後半の数年は、ベトナム戦争が沖縄に暗い影を落としていた。沖縄返還をもって、日本は沖縄に復帰する。その復帰に尽力した功績で、佐藤栄作元首相はノーベル平和賞を受賞した。だが、その裏には沖縄がベトナム戦争の基地として活用された日々があったことは忘れてはならない。裏を返せば、沖縄返還はベトナム戦争が終結したからこそ実現したのかもしれない。ジョンソン大統領が米国の威信をかけてベトナム戦争の勝利へ突っ走る一方、戦場に赴く兵士には厭戦気分が広がっていた。そんな混乱した思惑がベトナムへの後方基地である沖縄に無縁だと考えるほうがおかしい。日本に返還される数年間、沖縄はかなり雑然としていたようだ。沖縄旅行の初日に訪れた平和祈念資料館には、アメリカの軍政下の日々が詳しく紹介されていた。実物大の街並みが再現され、私にも雑然とした街の雰囲気が感じられた。

本書はそのような背景のもとで展開される。沖縄には米軍基地がある。基地には軍人たちが大勢いて、それぞれの人生を生きている。軍人とはいえ、忠実な機械ではない。ましてやアメリカ本土ではフラワームーブメントが起こり、ヒッピー文化もますます華やかになっている。反戦運動も各地で盛り上がりをみせている。そんな世相の中、米軍基地に属する全ての軍人が職務に忠実と考える方が逆に不自然だ。

フリーダ=ジェインもその一人。有能な事務スタッフとして機密会議の資料や議事録を作っている彼女は、アメリカ人の血が半分入ったフィリピン出身。父の縁で軍に入ったが、彼女の母は自分を捨ててアメリカに帰った夫とアメリカを許せず、反アメリカの組織を束ねている。そして娘であるフリーダ=ジェインにも軍の秘密を漏らすよう、符丁だらけの手紙を送りつけてくる。

フリーダ=ジェーンは、b-52の機長であるパトリック・ビーハンに声を掛けられステディな関係になる。パトリックは機長であるが、ベトナムに爆弾を落とすことにストレスを感じている。毎回、出航の前夜には酒の力に頼っている人物だ。

嘉手苅朝栄は戦前、沖縄からサイパンへと移民した人物だ。サイパンは日米の間で凄惨な戦いの場となった。朝栄はサイパンが戦場になる前に沖縄に引き揚げてきたが、沖縄戦でも九死に一生を得るほどの状況に巻き込まれる。朝栄は戦後、小さな運送会社を経営していたが、結婚した妻が沖縄そばの店舗経営で軌道に乗る。そして朝栄は、事業のトラックが壊れたのを機に会社を畳み、無線の技術をを生かして電機修理のお店を営んでいる。

安南さんは朝栄とサイパンで旧知の人物。戦後は沖縄に腰を据えている。ベトナム出身だが、日本語は流ちょうで物腰も柔らかいため、沖縄に溶け込んでいる。祖国がアメリカに攻撃されている現状を見逃せず、ひそかにB-52の攻撃ルートをベトナムに伝える組織を作り上げた。

タカは朝栄の妻方の親族だ。彼は那覇でロックバンドを組んで活動していたが、地元のマフィアを諍いを起こし、基地でかくまってもらっている。

ここに挙げた主要人物は、沖縄とベトナム、サイパン、そしてフィリピン、アメリカにルーツを持つ。われわれ本土の人間が沖縄を語るとき、どうしても本土と沖縄の関係に目をやってしまう。せいぜい、沖縄と中国の関係を語るくらいだろう。しかし、当時の沖縄はさらに複雑な状況にあった。日本と沖縄と大陸の関係だけでは到底足りない。少なくとも本書に書かれるぐらいの関係は把握せねばならないはずだ。私にはそれが本書から得た気づきであり、とても新鮮に映った。ベトナム戦争が最も激烈な時期にアメリカの軍政の下に置かれ、かつ前線への基地だった沖縄では、本書に描かれるような複雑な思惑が外交の場と同じく繰り広げられていたのだろうから。

沖縄から見た世界とは果たしてどのようなものだったのか。本書の終わりの方で、タカがロックバンドとともに大阪万博の沖縄館に行くシーンがある。日本で開かれる万国博に沖縄館が置かれること自体の違和感。その事実は、沖縄が日本とは別の国であったことを示している。それは歴史的な事実でもある。今回の旅で訪れた平和祈念資料館の展示でも学んだ。27年間、沖縄は日本とは別の国だった。

ところが私が22年前と今回訪れた沖縄は間違いなく日本だった。多少の文化の違いはあるにせよ、パスポートが要らず、日本語を何の違和感なしに話せる島。沖縄県。私は沖縄をなんの疑いもなく日本と受け入れていた。ところが平和祈念資料館の展示と本書から学んだことは、沖縄が別の国だった事実だ。それも琉球王国の時代ではなく、私が生まれる前の年まで。だから本書のように、日本の影がうすい沖縄がとても新鮮に映る。

いまもなお、沖縄には米軍基地がかなりの面積を占めている。まだ、沖縄にとって戦後は続いている。そして沖縄の抱える矛盾が最も激しく姿を現していたのが、ベトナム戦争の後方基地であったこの時期だったと思う。

だからこそ本書には存在意義がある。安南さんとフリーダ=ジェーンの母がそれぞれ作った組織に存在意義があったように。フリーダ=ジェーンが次の攻撃地点など会議で得た情報を外に持ち出すリスク。フリーダ=ジェーンの家に庭師のバイトで来るタカがその情報を朝栄の店に運ぶリスク。朝栄が暗号化して店にある無線装置からベトナムに向けて発信するリスク。彼らがそれだけのリスクを引きうけたのには、沖縄が置かれた状況が矛盾に満ちていたからだろう。ベトナム戦争の大義について本書は触れない。だが、ベトナムの人々が枯葉剤やナパーム弾から逃げ惑う悲劇と、沖縄戦で人々が焼かれた悲劇は本書の中で密につながっている。あらゆる矛盾が混在した沖縄にあって、唯一矛盾しなかったことがベトナムと沖縄の戦場経験であるのは、とても皮肉なことだ。

タカは大学の反戦サークルにも関わりを持つ。反戦サークルは実際に軍からの脱走希望者を海外に逃す活動にも手を染めている。タカは、マーク・ロビンソンをスウェーデンに向けて脱走させ、さらに反戦への動きに巻き込まれてゆく。軍からの脱走希望者は、大義なき戦争の矛盾が戦争をなりわいとする軍人のアイデンティティに破綻として現れた証だ。パトリック・ビーハンもそう。ベトナムへの航行の前夜に酒に溺れ、インポテンツのためフリーダ=ジェーンとの愛の営みもままならない機長。彼も、その矛盾を全身で受け止め、苦しんでいた。

皆が感じる矛盾は、パリ協定の進展によって軽減される。つまりはベトナム戦争の終結に向けたアメリカの譲歩だ。アメリカの譲歩は、パトリック・ビーハンの負担も軽減する。それによってビーハンのインポテンツは治り、フリーダ=ジェーンとの愛情はより深まる。だが、矛盾が根本から解消されるためには残酷な結末が必要だ。著者はパトリック・ビーハンの操縦する機をエンジンの不調で墜落させ、結末をつける。

四人の機密漏えいは結局バレずに済んだ。脱走兵の支援工作も実行者が特定されることはなかった。もちろん、それらとビーハンの死にはなんの因果もない。だが、沖縄をめぐる幾重にも重なった矛盾を物語の中で大団円として解消させるため、著者はビーハンに死んでもらったのだと思う。直前にはフリーダ=ジェーンとビーハンをアブチラガマの戦争遺跡に連れ出し、沖縄戦の遺骨にも対面させる。

本書ではコザ騒動も描かれる。それはもちろん冒頭に書いた通り、アメリカ軍政下でたまった沖縄の人々の不満が爆発した結果だ。それと同じくコザ騒動にはアメリカの立場の弱まりと、ベトナム戦争の基地としての沖縄の意義低下、つまりは沖縄返還の前兆を感じた人々の前祝いの意味もあったのかもしれない。

だからこそ、コザ騒動やビーハンの死、アブチラガマなど重いテーマが続く後半の展開にも関わらず、本書にはすがすがしい読後感が感じられるのだと思う。

本書を読んだ時、私が訪れた沖縄は再び矛盾の噴出する地になろうとしている。私が今回訪れた際も、辺野古への反対行動への参集を呼びかける具体的な看板を見かけた。それらがどれほどのパワーを秘めているのか、誰にもわからない。特に本土の人間にとっては。その上、本稿をアップする前日に、現職の翁長沖縄県知事がなくなられた。基地に対して一貫して反対の立場をとってきた翁長氏の死が何をもたらすのか。本書の二冊前に読んだ佐藤優氏の結論も、外交官の立場でありながら沖縄に基地が集中することには反対で沖縄は日本にとどまっていたほうが得、とのことだった。

現状とこれからが不透明な今だからこそ、返還前の沖縄がどのようなことになっていたのか本書を読んで知ると良い。1969年以降にスピリッツがないと言ってられるのも今のうちだけかもしれないのだから。

‘2017/07/16-2017/07/17


至福の本格焼酎 極楽の泡盛


沖縄旅行から帰って来て、沖縄に関する本を連続して読んでいる。本書は三冊目。歴史、出身者のルーツ、ときて本書。どちらかといえば硬派な本が続く。だが、本書は焼酎と泡盛についての本。少し柔らかい。

今回の沖縄旅行で、車を借りて最初に訪れたのが忠孝酒造だ。今回の旅行では泡盛蔵に絶対行くと決めていた。事前に読んだ旅行ガイドでも忠孝酒造のくぅーすの杜忠孝蔵は紹介されていたし、那覇空港のパンフレットでも紹介されていた。泡盛についての知識がない私は、これといった希望の銘柄もないまま広告に導かれ、くぅーすの杜忠孝蔵を訪れた。

沖縄の旅行記は別の場所でアップし、その中でくぅーすの杜忠孝蔵についての学びや喜びも書いた。
 ・沖縄ひとり旅 2017/6/18
 ・沖縄ひとり旅 2017/6/19
なので本稿では深くは触れない。とにかく、泡盛初心者の私がくぅーすの杜忠孝蔵にとても満足したことは書いておきたい。訪問をきっかけにいろんな泡盛を飲み比べたい、それぞれの蔵に訪れたい、と私を泡盛の世界にいっそう興味を持たせたのがくぅーすの杜忠孝蔵だ。ところが、その日の夜、国際通りで泡盛専門店に何店舗か立ち寄ったが、忠孝酒造のラベルを見かける頻度が低い。

東京の酒屋にも泡盛は並んでいる。おなじみの銘柄はもちろんだが、他にも多数も銘柄が並んでいる。そんな中、忠孝酒造の瓶を見かけることが少なかった。これはどういうことだろう、と常々疑問に思っていた。

そんな疑問を持ちつつ本書を読み始めた。焼酎・泡盛を取り上げる本書は、泡盛よりもむしろ焼酎に力を入れている。でも、焼酎と泡盛は同じ九州・沖縄の酒文化の仲間。だから本書は泡盛と焼酎を同時に知る上で最適だ。最初の章では、「至福の焼酎、極楽の泡盛を造る匠たちーその情熱と誇り」と題し、著者が選んだ蔵が9つ取り上げられる。芋焼酎の村尾酒造、西酒造、高良酒造、万膳酒造、佐藤酒造。球磨焼酎の豊永酒造。黒糖焼酎の朝日酒造。麦焼酎の黒木酒造。最後に文庫化にあたって泡盛の宮里酒造所が加えられている。

私は昔から酒造りに関する文化にとても惹かれている。それがなぜかはわからない。多分、酒造りの中では時間がゆっくり進むからではないか。酒造りがビジネスに比べてあくせくしていない事は、商談や納期に追われる日々を送っていると、折に触れ強く感じる。酒造りの現場に流れる時間には、全てにおいてゆとりがある。すべてを微生物の力に頼っている以上、人間には介入できない領域がある。なまじの知恵ではどうしようもなく、人間がいくらあくせくしても進む時間に変わりはないのだ。化学の技術を駆使して製品ができるまでの時間を短縮したとしても、それは短縮したなりの味でしかない。微生物に任せ、じっくりと時間をかけた製品が技術に負けることは決してない。酒造りに流れる時間のゆとりはビジネスを営む者が真っ先に切り捨てる部分だ。だからこそ私は酒造りに惹かれるのかもしれない。ぜいたくな時間の積み重ねを愛でつつ、香りと味を味わう。酒飲みの特権だ。

もともと、酒類業界には零細業者が多い。泡盛や焼酎のような大量生産に向かない酒を主に扱う限りどうしても零細になる。そのため経営者の個性が蔵に行き渡り、醸造元の社風に現れる。だから経営者にも味のある人が多い。実直な酒。奇をてらった酒。安心できる酒。経営者の個性を感じつつ呑むのも酒呑みの楽しみの一つだ。経営の苦労話。個性ある酒造りの哲学。世界に評価されつつある焼酎・泡盛文化には、面白い取り組みが多数生まれつつある。文化を育成する担い手による酒への愛。絶えず酒を考える想い。それらが、たくさん詰まっているのが本書だ。本書がうれしいのは、いまほど焼酎・泡盛がメジャーになっていなかった時期に取材していることだ。だから本書はブームとは無縁。そこには媚もおもねりもない。

本書にはブームの前から焼酎・泡盛を愛するお店の声を取り上げる章がある。鹿児島が二店舗、東京が八店舗。若干、東京に集中しすぎのような気もする。大阪や名古屋などのお店も登場させて欲しいところだ。本書のために惜しまれる。だが、うれしいこともある。それは、東京で取り上げられたうちの一店が、我が家からほど近い鶴川の酒舗まさる屋さんであることだ。町田の酒屋を三つ挙げろと言われれば、必ず出てくるお店の一つだ。私がしょっちゅう伺っているのは同じ町田にある蔵家さんだが、まさる屋さんにもよくお世話になる。まさる屋さんが載っているだけで私にとっての本書の株はグンと上がる。

本書に登場する人々の語る内容はブームの訪れる前に語られたもの。だからこそ焼酎・泡盛への愛にあふれている。私も本書に登場するようなお店に伺い、カウンター越しに焼酎・泡盛をさかなに談義を交わしてみたいと思う。私は普段、各地のBARをよく訪問する。そして一方では、本書に登場するこういうこぢんまりした店にも惹かれる。焼酎や泡盛を楽しめるお店に行く機会をもっと増やさなければなるまい。泡盛や焼酎で暖かく人との交流を深めたい。そして、このような焼酎・泡盛を愛する店がもっと増えればいいと思う。本書の取材時期に比べると、今は街中でも随分と焼酎や泡盛への認知度も上がってきた。すてきなお店は他にもあるはずだ。だからこそ、本書に登場する店から行ってみたいと思う。

本書の巻末には、焼酎・泡盛のカタログとして酒造がずらりと紹介されている。だが、そこにも忠孝酒造の名前が載っていない。それが気になった。くぅーすの杜忠孝蔵では、マンゴー酵母から作った泡盛(お土産に購入して帰った)のほか、何銘柄かの泡盛やお酢の試飲ができる。展示も東京農業大学で修行して博士号をとった方の紹介があり、自社で甕を作る取り組み(実際に見せていただいた)など、かなり真摯で精力的に泡盛作りに取り組んでいる印象を受けた。一方、積極的に見学ツアーの広告をうち、営業努力を重ねているようだ。忠孝酒造のように広告が前面に出ると、玄人には評価が高くないのだろうか。それとも忠孝酒造はメディアの取材は受けない主義なのだろうか。戦後から酒造りをしているはずだから、本書の取材時期には活動していたはず。忠孝酒造とは果たしてどういう位置付けの蔵なのだろうか。沖縄最古の木造貯蔵庫もあり、もっと評価されて良いと思うのだが。とても気になった。

私としてはうまい泡盛・焼酎が飲めれば何も言うことがない。本書のような焼酎・泡盛文化の発信を通し、ジャパニーズ・ウイスキーのように、日本発の酒文化が世界に受け入れられることを望みたい。焼酎・泡盛文化を盛り立ててくださっている皆様に乾杯!

‘2017/07/15-2017/07/16


母なる海から日本を読み解く


「はじめに」で著者が言っている。本書は極めて内面的な本だと。

実際そのとおりだった。著者の母は沖縄久米島の出身だという。沖縄戦で命からがらの目に遭い、上京して東京出身の方と結婚した。そして生まれたのが著者だ。著者は成長期を通じてさいたま市で育った。沖縄を知らずに。

外交官として長い期間活躍した著者は、北方領土返還交渉の過程で検察に逮捕される。512日にわたった勾留期間。その間の孤独は著者を内側に向かわせた。そして、著者はさまざまな本を取り寄せ、自らを顧みる。そして勉強する。数多く読んだ本の中で、著者は沖縄に伝わる伝承をまとめた『おもろそうし』に揺さぶられる。それは著者が自身のルーツを見つめなおす契機になった。そうして著者は、自らのルーツを探りながら沖縄を考察する。その結果が本書だ。

考察を重ねる中、著者が得た気づき。それは久米島を中心に世界を俯瞰する視点だ。もともと、外交官の職柄として、地球規模で物事を考える習慣は身についていた。その極意とは、地球は球であること。球である以上、本来ならばどこを中心としても地表は見渡せるはず。それは東京でもモスクワでも北方領土でも変わらない。ならば久米島でも同じ。これこそグローバリズム。著者は『おもろそうし』からグローバルな視点を会得する。

自身で分析しているとおり、著者は外交官としての北方領土交渉を通して、自らの内にあるナショナリズムに気づく。自分が日本人という深い自覚。その自覚は獄中生活でより研ぎ澄まされ、『おもろそうし』によって自身のルーツ沖縄への探究心に結びつく。それと著者が会得した久米島を中心とした視点を組み合わせ、の久米島から世界を見るとの着想となったのが本書だ。

本書が描くのは久米島の視点から見た沖縄史だ。ある程度の時間軸に沿いつつ、随所に久米島や琉球の民俗を考察しつつ、本書は進み行く。正直にいうと、沖縄、琉球の文化民俗に興味のない向きには本書はとっつきにくいだろう。なぜなら「はじめに」で著者が言うとおり、本書は著者が己の内面に眠るルーツを探す本だからだ。ルーツ探しとは血脈をたどるだけの話ではない。むしろ、久米島の民俗の歴史を深く掘り下げながら、久米島の視点で文化的なルーツを探る旅だ。そのため、琉球の歴史や文化を知らないと、本書の記述は理解できにくい。私も本書を読み終えるのにかなりの時間をかけてしまった。

ニライカナイやユタ、キジムナーの存在。天命思想による支配者の交代を受け入れる文化。著者によれば琉球をヤマトと分けるのが天命思想の有る無しだという。日本の天皇家は一つの血族でつづいている。断続が疑われた継体天皇への王位継承も、著者は同じ天皇家とみなしている。そしてヤマトは同じ天孫族による皇統が続いて来たとみなしている。

それに比べると、琉球には統一された一族による支配を正当化する考えが薄い。尚氏にしても第一尚氏から第二尚氏の間には断絶がある。第二尚氏の創始者は、尚氏とは全く関係のない離島からやってきて頭角を現した金丸なる人物だという。そればかりか、その王朝交代がさほどの抵抗もなく受け入れられる。天命が第一尚氏から去ったと見るや、人々は素直に支配者を変え、離島からやって来た人物の支配に服する。それが著者の言う天命思想だ。血脈が支配者の条件ではなく、天命こそが支配者の条件。

久米島もそう。久米島は長年、琉球から独立した王国を保っていた。そんな久米島にも本島から按司がやって来て尚氏の支配に組み入れられる。その当時、久米島を統治していたのは「堂のひや」と呼ばれる人物。彼には人望もあったらしい。だが、すんなりと按司に支配権を譲る。だが、また本島から違う按司が攻め立てて来た時、「堂のひや」は、逃げようとする前の按司から託された子をあっさりと殺す。そして攻め立てて来た按司に従う。天命が前の按司から去り、次の按司に移ったと見たからだ。

こういう割り切り方が、ヤマトにはとうとう根付かなかった。琉球は違う。支配者の正当性を割り切って考えられる。第一尚氏から第二尚氏への王朝の交替を受け入れる。さらに、明や清に朝貢しながら薩摩藩にもに朝貢するという、特異な外交関係も許容できる。琉球仕置で明治政府の傘下に組み入れられ、悲惨な沖縄戦の戦場とされ、アメリカ統治の時代を経過し、地域の名前が琉球から沖縄へ変わって行く間に支配者は次々と変わっていった。それらのどれをも、前の支配者の持つ天命が尽き、次の支配者に天命が降ったと受け入れることでやり過ごす。それが天命思想。

本書を読むと、この前に読んだ『本音で語る沖縄史』では取り上げられなかった文化の伝承を知ることができる。また、本書は本島ではなく、久米島からの史観だ。だからより大きな琉球の歴史の流れをとらえられる。「堂のひや」など、久米島についてのエピソードの数々は本島から見た歴史では抜け落ちてしまう。本書は私にとって『本音で語る沖縄史』を補ってくれる本となった。本書と前書の両方に共通していることがある。それは沖縄戦の描写がほとんどないことだ。類似する本が多数発行されており、経験者でもないため語るのを遠慮したということか。

ただし、本書が沖縄戦を描写していないことは、日本軍から米軍に天命が交替した、日本軍から天命が去り、米軍に天命が降ったと誤解してはならない。沖縄の方々にとって沖縄戦の経験を天命思想で片付けられたらたまったものではない。そう消化できるものではないはず。それを諾々と受け入れることもしないだろう。今なお基地が集中することも天命の定めるところと粛々と受け入れてもいないだろう。沖縄の基地の割合は本土に住む私から見てもあまりに不公平だ。厚木横田ライン上に住んでいて、騒音に悩まされる私としては、沖縄の基地問題は、天命思想で片付けて済むものではないと思う。

著者もそうした見方を採っていない。それどころか著者も基地問題については不公平と考えているようだ。外交官として国際政治のバランスを冷徹に見ている著者なら、地政のバランスから沖縄に基地が集中するのは仕方がないとの立場を採ると思い込んでしまう。だが、そうでもないようだ。著者は沖縄独立の可能性も俎上に上げ、冷静に沖縄の独立の可能性を分析する。著者の見立てによれば、国際政治のバランス上、沖縄は中国に接近するほかはない。そして、中国に接近することで、今より過酷な現実に直面するという。だから著者の結論では沖縄は日本に属していた方が現実を乗り切るのに適しているという。そして、基地を沖縄に集中させる事には反対だそうだ。沖縄の米軍基地をグアムや硫黄島、日本本土に移転させる案はどの程度実現性があるのか。本書ではそこまで踏み込んでいないものの、著者の立場は理解した。

久米島を真ん中に置いて地球を見ると、沖縄の地政上の現実がより具体的に迫ってくる。天命思想の下、波乱の数世紀を乗り越えてきた沖縄は、これからもいろいろな出来事に見舞われる事だろう。日本人としてどこまで親身になって考えるか。本書で繰り返し引用される仲村善の説によるなら、琉球民族も元は同じ大和民族に属するという。日本人も当事者として沖縄を考える時期に来ていると思う。

‘2017/06/29-2017/07/14


本音で語る沖縄史


本書を読み始める前日までの2日間、沖縄を旅していた。私が沖縄から得たかったのは海での休息ではない。それよりもむしろ、沖縄の歴史や文化からの学びだ。そのために私が訪れた主な場所は以下のとおり。泡盛酒造所。旧海軍司令部壕。平和祈念資料館。斎場御嶽。ひめゆりの塔。旅行の道中については、以下のブログにまとめている。ご興味のある方は読んでいただければ。
 ・沖縄ひとり旅 2017/6/18
 ・沖縄ひとり旅 2017/6/19
 ・沖縄ひとり旅 2017/6/20

沖縄を訪れるのは22年ぶり2回目のこと。今回訪れた場所はひめゆりの塔の他はほとんど初訪問。だからこそ全ては新鮮だった。そして多くの気づきを私に与えてくれた。これらの場所が私に教えてくれたことはいくつかある。大きく分けるとすれば二つ。それは、日本にありながら違う文化軸を擁する琉球の魅力と、近世の琉球史が絶え間ない波乱の中にあった事だ。

特に後者についての学びは、私に沖縄の歴史とは現代史だけではない、という発見を与えてくれた。その発見は私に、沖縄についての歴史とは、現代史だけに焦点が当たりすぎてはいないか、という次の疑問をもたらした。とはいうものの、私自身が今まで持っていた沖縄への歴史認識とは、沖縄史すなわち現代史だった。それは率直に認めねなければならない。沖縄戦の悲惨な史実は常に私の胸の奥に沈んでいた。22年前に訪れたひめゆりの塔。そのホールに流れるレクイエムの強烈な印象とともに。だが、沖縄戦を考える時、私の中にあったのは、なぜ沖縄戦が行われなければならなかったかという疑問だ。そして沖縄の人が内地に対してもっている感情の落としどころがどこにあるのか、ということだ。それは、現代史よりもさらに遡り、沖縄=琉球の歴史を理解しなければ到底わからないはずだ。

大本営が沖縄をなぜ捨て石としたのか。その理由の大半は、戦局の推移と沖縄が置かれた地理的条件によるだろう。だが、本当にそれだけで片付けてよいのか、というモヤモヤもあった。沖縄戦が行われた背後には、今の平和な本土の人間が思いも寄らない文脈が流れていたのではないか、という疑問。それが私の中に常にあった。そして、沖縄戦に巻き込まれた人々が今、日本にどのような思いを抱いているのか。それは琉球処置、沖縄戦、占領期、本土復帰を含めてどのような変遷をへてきたのか。沖縄が日本に属することで得られるものはあるのか。日本から独立したい願いはあるのか。今もなお、沖縄の人々は複雑な感情を抱いていることだろう。内地の人間として、その感情を無視して日本にある米軍基地の大半を負担してもらう現状を是とするのか。または海外からの影響が沖縄に及ぶ現状を指をくわえてみているのがよいのか。それらの知見は、私が今後、基地問題についてどういう意見を発信するかの判断基準にもなるはずだ。いったい沖縄の人々は沖縄戦をどう受け止め、どう消化しようとしているのか。

私はその疑問を少しでも解消したいと思い、沖縄へ向かった。初日に訪れた旧海軍司令部壕でも平和祈念資料館でもその疑問は私の中で強まるばかりだった。旧海軍司令部壕では大田実中将の電文を読み、軍の責任者がこういう責任を感じていた志を知った。平和祈念資料館で得た知識や気づきは多かったが、祈念館が取り上げていたのは、琉球仕置以降の沖縄史。そのため、琉球文化の根源や、沖縄戦に至った根本的な理由はついにわからずじまいだった。

その疑問が少し形をとったのは、二日目に斎場御嶽を訪れた時だ。斎場御嶽の奥、三庫理から見える久高島。それは一つの啓示だった。それを観て、私の疑問が解消される道筋が少しだけ啓かれたように思う。それは、沖縄が受け入れる島である、ということだ。久高島とは、琉球の創世神アマミキヨが初めに降り立った島という伝説がある。だからこそ、久高島を遥拝できる斎場御嶽が沖縄で最高の聖地とされているのだ。

沖縄が受け入れる島である、という気づきは私の沖縄についての見方に新たな視点を加えた。ところがこの旅の間、琉球の歴史を紹介する博物館を訪れる時間がなかった。それもあって、旅から戻った私は琉球の歴史を学び直したい、との意欲に燃えていた。単に「基地反対」と唱えているだけだと何も変わらない。かといって今の現状がいいとも思えない。いったいどうすればよいのか、という問題意識は、同じく基地問題に困っている町田住民としても常に持っておきたい。だからこそ、本書を手に取った。本書は私の意欲に応えてくれた。私が知りたかったのは、沖縄をイデオロギーで捉えない史観。本書のタイトルはまさに私の思いを代弁していた。

「まえがき」で著者はいう。「琉球・沖縄というと、とかく過酷な歴史がクローズアップされ、「悲劇の島」として描かれるケースが多い。また、その裏を返すように王朝の華やかなロマンティシズムが強調されることも少なくない。が、そのような被害者の視点や耳障りのいい浪漫主義だけでこの島の生い立ちを語ることは意識して避けた。」(2ページ)
この視点こそ、まさに私が求めるもの。

琉球を無邪気に被害者だけの立場で捉えてはならない。琉球は加害者としての一面も備えている。本書はその側面もしっかり描いている。ともすれば、われわれ内地の人間からは、琉球が加害者であるとの視点が抜けてしまう。ところが琉球を被害者としての立場だけでみると、大切なものを見落としかねない。どういうところが加害者なのか。代表的なのは、沖縄本島から宮古島や八重山諸島へ課した苛烈な人頭税。これは歴史に残っている。薩摩藩の支配下に置かれ、年貢を求められた琉球王朝は、米の育たない島の住民を人頭税の代替として、強制的に米の育つ島に移住させるなどの施策をうった。そのいきさつは本書が詳しく触れている通りだ。

もちろん薩摩藩からの重税のため、やむを得ない政策だったのだろう。とはいえ、弱いものがさらに弱い者をたたくかのような政策は琉球の黒歴史といえるはず。為政者による政策だったとはいえ、琉球もまた、加害者の一面を担っていた。それは忘れてはならない。その視点を持ちつつ、本書を読み進めることは重要だ。

そして、被害者と加害者を考える上で、本島と八重山諸島の間にあった格差。それも見逃すわけにはいかない。その格差が生まれた背景も本書には紹介されている。上に書いた人頭税こそ、その顕著な事例だ。そもそも八重山諸島が本島による収奪の対象となったきっかけ。それは本書によれば、オヤケアカハチが石垣島で宮古島と本島に反乱を起こし、敗北したことだという。そのほかにも与那国島を統治し、人々から慕われたサンアイ・イソバの事績もある。八重山諸島には伝承されるべき逸話が数多くあり、そこには琉球と違う統治者がいたのだ。つまり、われわれが沖縄を無意識に離島と見なすように、沖縄本島からみた八重山諸島も離島なのだ。そして、そこには従わせるべき人々が存在した。その上下関係は無視できない。その関係を本書で学んだことは私にとって大きい。本書を読むまで、私はオヤケアカハチのこともサンアイ・イソバのことも知らなかったのだから。

本書を読むと気づくことがある。それは琉球の歴史とは周りを囲む強国との国際関係の中にあったことだ。だから本島の中だけで完結する歴史は、本書の中でさほど紙数が割かれていない。各地の豪族が按司として割拠し、それが三山(北山、中山、南山)の有力豪族に集約されていったこと。尚巴志が戦いと治世に才を発揮して三山に覇業を唱え、尚氏王朝を打ち立てた逸話。第一尚氏から、農民出身の金丸が台頭して第二尚氏の王朝を打ち立てる流れ。沖縄を王国として確固たるものにした尚真王の時代。その頃の琉球の歴史は、まだ琉球の中だけで完結できていた。

ところがその間も、琉球と明や清、薩摩の島津家との関係は常に何らかの影響を琉球に与えていた。それらの影響は具体的には平和的な朝貢関係として処理することができた。ところが平穏な日々は薩摩藩の侵攻によって終わりを迎える。それ以降の本書は、薩摩藩の支配下に組み込まれた琉球を立て直すための羽地朝秀による改革や、蔡温による徹底的な改革など、外地との関係の中にいかにして国を存続させるかの苦心に多くの紙数を割いている。戦国武将による琉球への野望や薩摩藩の侵攻、ペリー来琉、琉球処置、人頭税廃止、沖縄戦。琉球の歴史を語る上で欠かせない出来事は、島の外部との関係を語ることなしに成り立たない。

本書は琉球の周辺国との関係史を詳しく語る。とくに薩摩藩の侵攻に至るまでの経緯は、秀吉の朝鮮侵略の野望を抜きに語れない。戦国が終わり、朝鮮の役で悪化した明との関係修復。それのために琉球を利用しようとした徳川家康の思惑。薩摩藩による侵攻の背後には、そのような事情が絡んでいた。その事情がどう絡んでいるのか。薩摩藩の支配下に組み込まれたことは、琉球の歴史にとって重大な出来事だ。なぜ薩摩は琉球に目をつけ、なぜ琉球は清と江戸幕府の二重朝貢を受け入れたのか。その事情を知っておくことは、琉球の歴史を知る上で重要だ。ペリー来琉から琉球処置に至るまでの流れも本書を読むと理解できる。琉球が背負う宿命とはつまるところ、日本と大陸の間に位置していることにある。その地理的条件は動かしようがない。琉球の地政的な位置に目を付けた日本と中国の板挟みにあい、さらに太平洋に進出した米国からの干渉も受けざるをえない。それが琉球の歴史と運命を左右してきた。その端的な結果こそ、沖縄戦である。そして、アメリカ軍政下に置かれた琉球政府としての日々だ。

それらの出来事だけをみると、琉球は確かに被害者だ。だが、先に書いたとおり、琉球は加害者としての一面を持っていた。そして、加害者としての一面は、周辺諸国との身をすり減らすような関係から生まれたことも考慮しなければなるまい。私は著者が宣言したようにロマンティシズムや被害者の立場だけで語らないとの言葉に賛成だ。その上でなお、沖縄が被害者だったことも忘れてはならないと思う。琉球とは一面的に見て済ませられるほど単純な島ではないのだ。

そこには為政者の立場と民衆の立場によって置くべき価値観も違ってくる。なので、批判されるべきは、当時の緊迫した国際情勢も知らず、首里城でロマンティシズムに溢れた王朝文化を築いていた人々だろうか。国を生かすことに苦心した政治家もいたが、おおかたは、状況を受け入れて初めて対策を打ってきた。受け入れに終始し、打って出なかったといってもよい。あえて批判するとすれば、そこにある気がする。

だが、王朝文化の爛熟があってこそ、琉球文化が生まれたこともまた事実。王朝文化もただ非難して済むものでもあるまい。第二尚氏の早期に久高島への参拝の慣習はすたれたそうだ。だが、アマミキヨがやってきたニライカナイに対する憧憬や伝承は、失われることはなかった。聞得大君の存在、組踊の創始、泡盛や琉球料理の数々。それらはニライカナイやアマミキヨへの畏敬の念なしには成り立たない。そして、これらは間違いなく今の沖縄の魅力にもつながっている。

本書は琉球の文化を語ることが主旨ではない。なので、文化史への言及はほとんどない。だが、文化史を語るには、王朝のロマンティシズムに触れないわけにはいかない。著者は被害者意識やロマンティシズムを排した視点で琉球史を語る、という切り口で琉球史を語った。それもまた、沖縄に対する態度の一つだ。その視点からでしか見えない沖縄は確実にあると思う。だが一方で、王朝文化やロマンティシズム、被害者の立場が今の沖縄を作り上げていることも事実。だからこそ、両方の立場から書かれた本があるべきなのだと思う。本書のような立場で沖縄は描かれるべきだし、逆もまたそうだ。本書は琉球を知るために欠かせない一冊として覚えておきたいと思う。琉球を学ぶとは、かくも奥深いことなのだ。

‘2017/06/21-2017/06/28


パガージマヌパナス


本書を読んだのは、妻からプレゼントされた沖縄旅行を目前に控えた頃だ。私にとって22年ぶりの沖縄。しかも一人旅。本来ならば下調べをみっちり行い、沖縄を知った上でめぐりたかった。だが、仕事が忙しく、沖縄の本を読む暇はない。電車の中ではあまりガイド本を開くわけにもいかない。そもそも細かい情報がランダムに配されるガイドマップ情報を電車内で読むのは好きじゃない。ならば、小説で雰囲気だけでも、と選んだのが本書だ。文庫本だし、かさばらない。

著者の作品を読むのは本書が『テンペスト』『黙示録』に続いて三冊目だ。『テンペスト』『黙示録』で描かれていたのは王朝時代の琉球だ。その二冊では組踊や琉球音楽が豊かな色彩と音程を伴って描かれていた。そこには魔術的リアリズムを思わせるような超現実的な描写がちりばめられおり、琉球がとても魅力的に描かれていた。私は22年ぶりの沖縄旅行にあたり、著者の作品に描き出されたような異国を味わいたかった。そして異国でありながら日本でもある琉球のことを知りたかった。もちろん、沖縄戦のことは忘れてはならない。だが、沖縄はそれだけではくくれない広がりを持つ島であるはず。

本書は現代の沖縄を描いている。年代は分からないが、描写から推し量るに、本書が出版された1994年の少し前の頃だろう。本土に復帰して20年以上たったとはいえ、基地問題への怒りもまだくすぶり続ける時期。ところが本書に怒りはない。逆にユルい。当時の沖縄ですら、本書で描かれるような暮らしが成り立つのだろうかと思えるほどユルい日常。本書の主役は19歳の仲宗根綾乃だ。あくせく勉強にも追われず、バイトにも励まず、もちろん定職にも就かず、日がな一日、親友のお婆オージャーガンマー86歳とガジュマルの樹の下でだべって過ごしている。将来どころか今も気にしない。そして、過去も顧みない。そんなユルい日々が描かれる。

沖縄のイメージを男女のどちらかに例えるとするなら、私は女性を選ぶ。理由は、沖縄に女性のような柔さとしたたかさを感じるからだ。私が沖縄に対して持つイメージは、本書の中の二人に出会ったことでさらに強まった。

本土であくせくしている私のような者から見れば、本書の二人が送る日々は無為の典型だろう。そもそもこんな生活がとうてい許されない。学生であろうと学校や塾、習い事に翻弄される。生きるために、勝ち抜くために、人よりも優れなければならない、人よりも頭一つ抜け出なければならない。生き馬の目を抜く日々。そこに余裕など生まれるはずがない。

ところが、本書の二人にはその気負いがまったくない。「なんくるないさー」とは、一般的に琉球語で「なんとかなるさ」の意味だと思われている。ところが、これはもう少し深い意味がある。こちらの記事によれば、「まくとぅそーけーなんくるないさー」が正しいのだとか。その意味は「正しいことをしていれば、いつか良い日が来る」ということだ。

ところがオージャーガンマーと綾乃はそうした気負いとは無縁だ。正しいことをしようと襟を正し、日々を品行方正に生きるのではなく、日々をまず飾らず生きる。適当な時間にガジュマルの樹の下に訪れる。そこに決まった時間はない。好きな時に会って、アイスを食べ合い、たわいもない話をして時間を過ごす。やりたい事をやり、人を刺激せずに生きる。

そんな日々を送る綾乃の夢にお告げが下る。それはユタ(巫女)になってほしいとのお告げ。ユタとは代々、琉球に受け継がれた年頃の女性にしかなれない巫女のこと。ところが綾乃はそんなものになるのはごめんだ。オージャーガンマーと楽しく過ごせさえすれば十分。ところが綾乃には祖母の能力が受け継がれ、ユタとしての素質は明らか。ユタとして力を持つカニメガは、そんな綾乃にライバル心を抱く。そして力を誇示し、綾乃を妨害する。だが、綾乃はそんなカニメガをおちょくるように逆にいたずらをしかける。

ここでオージャーガンマーの存在感が増す。オージャーガンマーはただの女性ではない。だてに綾乃と日々を過ごしていたわけではないのだ。オージャーガンマーもかつてはユタとになれとお告げを受けたが、処女じゃなければユタになれないとの掟を逆手に取り、相手を構わず男漁りして自らユタとしての資格を放棄した。でも、オージャーガンマーは自分の過去の行いとは逆に、綾乃にユタになる事を勧める。ここにきてオージャーガンマーの年の功が生かされるのだ。遊んでばかりいて、何も考えていないように見えながら、オージャーガンマーは深い知恵を備えている。それこそが女性が持つ柔軟さとしたたかさだ。それは琉球にも共通する特徴だ。

ユタの営みに徐々に綾乃を触れさせ、ユタとしての伝統に綾乃を誘う。ぶつかりあっていたカニメガも、何気なく綾乃を見守る。こういった緩やかな、そして強いつながりこそが、したたかで強い琉球を、列強の中で生き延びさせて来たのだと思う。本書にはウチナーグチがしきりに出て来る。そこには強いだけでなく、ユーモアとゆとりで歴史を作ってきた琉球の歴史が表れている。本土に負けない琉球の芯の強さが感じられる点だ。

そして綾乃がユタの営みに慣れつつあるころ、役目を果たしたかのように親友オージャーガンマーは死ぬ。人は別れ、そして別れから人は成長する。その繰り返しは、国際政治や国力に関係なく人が世にある限り欠かせない。琉球の真の強さとしたたかさはこの基本的な営みの中にある。そんな日々から「なんくるないさ〜」の真理は伝えられていくのではないだろうか。

私は本書を読んだことで、ユタ、そして御嶽に対して決定的な関心を抱いた。そして本書を読んですぐに訪れた沖縄で斎場御嶽を訪れた。斎場御嶽には琉球文化の中で女性が果たしてきた役割が息づいていた。それは本書の中でオージャーガンマーからカニメガ、そして綾乃へ伝えられた役割でもある。それがよくわかったことが本書の良かったところだ。

‘2017/06/01-2017/06/02


沖縄ひとり旅 2017/6/20



ぐっすりと眠った私。すがすがしく目を覚まします。妻からホテルグレイスリー那覇を勧められた理由。それは朝食にあります。とても充実していて種類もたくさんよ、と言われていたのです。寝ぼけ眼で訪れた私は、妻の言葉の意味を理解します。とても良いです。朝食バイキングの品ぞろえはわたしをとても満足させてくれました。海ブドウが食べ放題なのもよいです。


満腹した私は、チェックアウトを済ませ、国際通りへ。昨日の大荒れの天気が一転、晴れ間がのぞいています。今日の旅路やよし。元々の天気予報から計画したとおり、今日は屋外をメインとした場所へと向かいます。斎場御嶽へと。再び沖縄本島の南部へと相棒を駆って向かいます。


やがて車は南城市に着き、太平洋に沿って走る国道331号線へ。このあたりも沖縄南部ののどかさが感じられます。私はそこから海岸線をたどって知念岬へ。ここの道の駅の駐車場に車を停め、斎場御嶽への入場券を買い求めます。連絡があって作業の必要があった私は、道の駅の中でパソコンを広げ作業。道の駅には御嶽についての説明書きがあり、事前に知識を仕入れます。


そしてそこから白砂が敷き詰められた道をのぼり、斎場御嶽へ。この道中がすでに南国感を出しています。いやがおうにも期待は高まるばかり。両側に茂る木々も、私の旅情を掻き立ててくれます。やがて御嶽の入り口へつき、受付を済ませて御嶽の本丸へと急ぎます。


御嶽とは6/18分のブログでも書きましたが、琉球の人々にとって重要な祭祀の場。那覇空港についてすぐに訪れた安次嶺御嶽もよかったのですが、つかみどころのない円形の広場に石造の遺構があるだけでした。それが御嶽の一般的な姿なのか。そう思った私の認識は斎場御嶽で一新されました。


本来なら一般の人は入れない場所。聖地なのですから。それなのに、聖なる由来がありそうな遺構が足元に置かれています。香炉が足元に無造作に置かれた通路には、何も考えなければ普通のハイキングコースのよう。ところが奥に進むにつれ、うっそうとした樹木が覆いはじめ、聖地の装いをまといはじめるのです。まず最初にとおるのは大庫理(ウフグーイ)。岩が祭壇のように見立てられ、聖なる場としての威厳を表わしています。続いて寄満(ユインチ)を向かいましたが、そこもまた、聖地としての面影を濃厚に宿していました。
そして大庫理から寄満への道すがら、大きな池があります。これは実は沖縄戦の艦砲射撃で着弾した跡地が池になったところだとか。あたりにはサンショウウオが群がっており、あちこちでたむろしています。池には白い泡のような物体が浮いており、そこにサンショウウオが群がっています。聖地なのにサンショウウオを餌付けしているのか?と疑問がムラムラと湧きます。それにもまして、沖縄最高の聖地でありながら艦砲射撃の被害から逃れることのできなかった現実。これがこの地が沖縄であることをいやおうなく私に伝えてきます。


さらに歩く私の前に広がったのが巨大な岩盤。上に覆いかぶさるように迫る岩からは二点で水が滴り、受ける石造りのツボのようなものがしつらえられています。シキヨダユルアマガヌビーとアマダユルアシカヌビーという名前なのですが、こういう見るからに聖なる遺構が、何ら保護されずにおかれていることに、沖縄の器の大きさを物語るようです。


そしてその岩盤の奥の脇には、通路が直角三角形に切り出されたようになっています。その奥にあるのが三庫理。これこそ斎場御嶽の奥の院。琉球最高の聖地です。そしてもちろん、誰でも入れます。奥へ進むと見るからに聖なる道具と思われる遺構が足元におかれています。看板には金製勾玉が近世出土した旨が書かれているのですが、足元は無造作。掘ろうと思えば掘れてしまいます。しかもその壁の反対側には樹木で切り取ったような向こうに海が広がっています。うすく地平に広がるのは久高島。アマミキヨが琉球に渡ってくる前、久高島からやってきたという伝承があります。つまり三庫理こそは琉球の国生み伝説の地でもあるのです。


それなのに、これほどまでに無防備。かつては男子禁制の場だったというここは、聞得大君の仕切る祭祀の地でした。それなのにこれほどひらかれてことがよいのだろうか、と思えます。こうやって私がブログに書くことで斎場御嶽の観光客増加に寄与してしまうのでは、と思えるほど。すでに私が訪れた時にも十数人の観光客が訪れていました。それでもなお、聖地としての厳かさを失っていなかっただけに、何らかの対策が成されるのではないかと思いました。


なお、オオサンショウウオが群がっていた泡の正体。それはモリアオガエルの卵だそうです。受付にわざわざ戻ってスタッフの方に伺ったところ、そうおっしゃっていました。しかもあれは餌付けしているのではなく、自然に産卵されたものだそう。とても貴重なものが見られました。

ここは、ぜひとも再訪したいと思いました。

帰りの道々にで両側に広がる店々にも立ち寄りたかったのですが、一つのお店だけ寄るにとどめました。でも観光地ずれしていない様子はとても良い印象でした。もっとゆっくりしたいところですが、すでに大幅に時間超過の予感が・・・


と思いながら、知念岬郵便局で風景印を押してもらい、知念岬にも歩いて向かう私です。やはり海を一望にして自分の小ささを見つめないと。そしてこれからの自分の未来がこれだけ広がっていることを心を全開にして受け止めないと。そう思って降り立った知念岬から見た海の凪いでいたこと!

そこから一路、ひめゆりの塔へ。誰もが行く場所とはいえ、22年ご無沙汰にしていたとなると行かねばなりません。22年前に強烈な印象を受けた、レクイエムの流れるホールの印象が変わっていないことと、それ以外の展示物をしっかり胸に刻まないと。


到着したひめゆりの塔は、入り口からして記憶の外でした。そして、記念館の傍に壕の入り口が大きく孔を開けているのですが、そこの印象も全くありませんでした。まったく私は22年前に何を見ていたのか。記念館にはいると展示を凝視します。どうやってひめゆり部隊が結成されたのか。彼女たちの学園生活。沖縄戦が始まってからの経過や、彼女たちが少しずつ追い詰められ、傷つけられてゆく様。そして、私が22年前に訪れたホールは同じでした。ひめゆり部隊の皆さんの顔写真、名前、死にざまとなくなった地。もちろん行方不明の人もたくさん。

さらにすっかり忘れていたのですが、上に口を開けていた壕は、地下でこのホールに繋がっているのです。すっかり忘れていました。ホールには生きながらえることのできた方の体験談が読めるようになっています。ホールの手前では体験談を語る語り部の方の動画が流れており、見入ってしまいました。今は上品な老婦人となっている彼女たちが、これほどの地獄を見たのかと思えば複雑な気分に囚われます。

私はこの旅行の2カ月半前に「ひめゆりの塔」を読みました(レビュー)。その中では生徒たちの赤裸々な感情が描かれていていたのですが、先生の役割は幾分薄めでした。しかしひめゆり部隊を引率した先生が戦後贖罪のために尽くしたことも知られています。今回、特別展として先生に焦点を当てた展示も催されていました。私はとてもその展示に感銘を受けました。なぜなら、今の私の年齢とは、当時の先生方が生徒たちを引率した年齢に近いからなのです。私がこの当時の先生たちと同じ立場に置かれたらどのように行動したでしょうか。時勢に迎合し、軍国主義を唱え押し付けていたのでしょうか。それとも生徒と友達のように接していたのでしょうか。それとも頼りにならず生徒たちを真っ先に戦場に迷わせた教師だったのでしょうか。わかりません。ひめゆり部隊が晒された砲弾の嵐は、普通の人間が経験できる場所ではないので、私には想像すらできません。

だから私は先生方の写真や担当教科、そして人となりを伝えるパネルをじっくり読みました。私が彼らだったらどう対処しただろうと思いながら。それは今の私が親としてどう娘たちに接するかの自問自答にも繋がります。また、教育学の教授だった祖父の影響からか、教育を担う者の目線も含んでいたと思うのです。その印象はあまりにも強く、家でもじっくり読んでみるため図録を駆ってしまうほどに。

ひめゆりの塔を出たのはすでに微妙な時間。ですが、駐車場わきのソフトクリーム屋さんでソフトクリームをいただきつつ、客あしらいに慣れたおじさんと話します。すでに沖縄滞在の時間が残されていないと思いつつ、梯梧の塔にも足を延ばします。ここも別の学校の学徒の慰霊の場所です。

この付近には同様にこのような塔があちこちに立っています。そのすべてに幾人もの人々の想いが込められているのでしょう。

さて、帰りは道の駅に二カ所寄って物産を全速力で冷やかした以外は、全力で那覇空港に近いレンタカー屋に向かいます。レンタカー屋に返した後は、帰りは歩いて帰らず素直に送迎バスで空港へ。なぜこんなに急いだかというと、17年ぶりの再会があったから。17年前、辻堂の護摩焚き会でご夫婦と知り合い、そのすぐ後に結婚式の披露宴にも呼んでくださった方。その方は数年していきなり家族で沖縄に移住したのです。以来、Facebookと年賀状だけのやりとりが続いていたのですが、今回思い切って声をかけてみたところ、帰りの那覇空港でお会いすることになったのです。その方の決断力と行動力には尊敬するしかありません。今回お会いしてお話しした内容は、とても参考になりました。ビジネスの面もそうですが、実際に沖縄移住への経緯を本に執筆し、それでアマゾンのカテゴリー別で一位にもなった経験。編集者とのやりとりや、それが本になっていくまでのいきさつ。この方との話し合いから二カ月がたち、私に本音採用での連載「アクアビット航海記」の話が来ます。もちろん即答で引き受けたことはいうまでもありません。

この方と空港の食堂でお話しできたのは1時間もありませんでした。あまりにも濃いお話であっという間に時間が過ぎてしまいました。17年ぶりという思いも忘れるほどに。最後は搭乗時間ギリギリになってしまい。ダッシュで走ってぎりぎり帰りの便に乗れましたが。

帰りは羽田からバスで町田まで。妻に迎えに来てもらいました。素晴らしい旅でした。


沖縄ひとり旅 2017/6/19


朝四時過ぎにおきて、妻に町田駅まで送ってもらいます。羽田空港行きのバスは04:55発。車か徒歩か自転車以外に自宅から駅へと向かうすべはありません。送ってくれた妻に感謝です。ま、私も妻が沖縄に行く時は町田や羽田まで送っているのですが。

バスの中ではまどろんでいましたが、無事に遅れることなくバスは到着。手続きをさっと済ませ、搭乗口からすぐのパソコン用デスクで作業です。今回はパソコンも持って来て合間に仕事をこなしながらの旅なのです。ここらへんが学生だった22年前とは技術の進展でも私の立場でも違うところです。

22年ぶりではないのですが、一人で飛行機に乗るのも相当久しぶり。多分、2006年に仕事で苫小牧に出張して以来です。今回は搭乗口で醜態を晒すことなく搭乗できました。ところが、荷物の中に本を入れっぱなしにするミスをしてしまい。仕方ないのでふて寝です。もっとも、寝不足が続いている私は本を開く前に落ちていたでしょうが。そんなわけで、スカイマークで配ってくれるコラボキットカットをもらう間も無く、着陸前までずっと寝ていました。願わくはいびきや大口あけた寝姿で人様に迷惑をかけていなければよいのですが。

さて、飛行機は何事もなく那覇空港に到着です。ちょっと蒸し暑いかな。大雨と聞いていましたが、かろうじて雨雲の中で水滴はとどまっていてくれてます。22年前に二等船室から降り立った那覇港では、夏でありながら明らかに内地と違う温度差に南国を感じて舞い上がった記憶があります。が、今回はそれほど温度差を感じません。

前日のブログにも書いた通り、22年前の旅の帰りが空路だったのかどうか忘れています。なので、那覇空港を使うのが初めてなのかどうかもわかりません。それもあってか、数キロ先のレンタカー屋まで歩いて行く羽目に。いや、迷ったわけではないのですよ。

どういう事か。まず、レンタカーで手間取りました。妻から聞いていたのは、搭乗券の裏に記載されている電話番号に連絡すれば割引料金でレンタカーが使えるということ。ところが、ウェブサイトにアクセスし、予約したところ「予約仕舞いのため予約できません」との表示が出て焦る焦る。ウェブサイトに記載のあったあるセンターに電話すると、最寄り店で対応するという返答だったので、最寄店への連絡先を教えてもらいます。ところが、最寄店に連絡しても割引できないいうとつれない返事が。そんなはずあらへんと焦ります。空港のレンタカーカウンターに聞いてみたところ、パンフレットの正規料金でしか扱えないと言われてしまう始末です。1日あたり1500円以上は価格差があるのだとか。救いを求める意味で再び予約センターに電話し、事情を説明します。すると、当日予約はウェブからできないという当たり前のような回答をいただき。ウヘェ。じゃあ車で五分とやらの店舗に行って、そこで直接借りるか、と重たい荷物を担いで歩き出します。

ところが、空港って歩いて脱出することを前提とした作りになっていないのですよね。公共機関か自家用車でしか出られない。22年前にはなかった「ゆいレール」かバスかタクシー、またはレンタカー会社の送迎バスを使わないと。そして、車で五分のレンタカー屋の場所は歩いてどれぐらいなのかがわからない。しかも「ゆいレール」とレンタカー屋も離れている。せっかく日本最西端の駅を利用したくてもこれでは無理。

結局、レンタカーの予約センターとお話ししながら日本最西端の駅のシンボルをカメラに収めただけ。「ゆいレール」の軌道にまたがらず、その下を歩くことにしました。しかも、その下に向かうための通路が全く見つからず、まともに道に沿って軌道の下にたどり着こうとすればとんでもなく遠回りになりそう。なので危険を覚悟で片側数車線の道を横断しました。後で調べたら遠回りと言っても約1キロほどでした。さて、到着早々暗雲が立ち込める旅の始まりですが、暗雲では済まず、ついに雨が降り始めます。そんな中、傘を持って来なかった私はテクテクと重い荷物をもって歩きます。この辺りの無鉄砲な行動は22年前となんら変わりません。

軌道下を歩くこと1キロ近く。安次嶺交差点が見えて来ました。信号を渡って、レンタカー屋へ向かおうとした私の目に飛び込んで来たのは、安次嶺御嶽と書かれた石碑。おお、早くも御嶽が。今回の旅は斎場御嶽が目的でしたが、他にも小さな御嶽も観ておきたかったのです。階段を上がったそこにあったのは、円形の広場とでもいうべき場所。御嶽について何も調べず、イメージも持たずに来た私。祭壇めいたものが野ざらしになっている御嶽の姿を見て納得。これを本土の聖域に例えるならなんでしょう。神社とは明らかに違います。広場や公園とも違う。飾り気のない御嶽ですが、何か侵し難いものを感じさせます。うーむ、これが御嶽か。御嶽とは琉球の民族宗教でいう聖地。祭祀が行われ、神に仕える人々のみが入れる場。そんな場の事です。

空港から雨の中を歩き、出だしから悄然としていましたが、災い転じて何とやら、で御嶽の様子を知ることができました。これもまた旅の幸運。

安次嶺御嶽からさらに1キロほど歩き、レンタカー屋にたどり着きます。レンタカー屋と道を挟んで反対側には陳在しているのはローソン。今回の旅で初の初のコンビニエンスストア。それはローソンとなりました。旅の楽しみは地元物産の物色にあります。さぞやこのローソンでも私の購買欲をくすぐる品が待っているはず。ところが、ほとんどの商品は本土と同じ。前はもう少し独自の品ぞろえだった気がするのですが。このあたり、22年の月日が物流環境を変えたことがわかります。

レンタカー屋さんではトヨタのpremioをお借りしました。白。内装も木目調で、レンタカーでありながらとても高級感のある作り。しかも安い。沖繩は車文化なので、レンタカーも安価なのですね。この辺りも22年前と変わりません。車を借りるついでにご好意で傘もレンタル。レンタカサー。なんだかウチナーングチの響きです。ちなみにレンタカサーというのは旅行から戻った翌日、本稿を書いて思いつきました。傘を借りた時は、そんな余裕はなく、早く沖繩に繰り出すことで頭がいっぱいだったので。

那覇空港でパンフレットを集めた私は、さらに空港から歩きながら、今日の行動を考えていました。だてに歩いていたわけではないのです。そして決めた最初の訪問先は忠孝酒造。泡盛製造所です。那覇空港からすぐという売り文句がパンフレットに載っており、そこに書かれていた小さな蒸留所との文句も私の目を惹きます。

「くぅーすの杜 忠孝蔵」というのが忠孝酒造の観光客用施設の名前です。ここの駐車場に駐めたはいいのですが、ちょっとしたトラブル発生。私が外に出ようとするとpremioが泣くのです。この旅で私と相棒の契りを結んだpremioはスマートキーで起動します。スマートなのです。そして若干気位が高い。であるからには、きっと私の扱いのどこかが気にくわなかったはず。premioをなだめようにもスマートキーの扱いがわからず、駐車場でピーチクパーチクと泣くpremioと十分近く過ごすはめに。すでに周りは大雨。駐車場の周りには誰もいませんでした。これが人だかりのある場所だったらかなり恥ずかしいことになっていたはず。結局、ギアがパーキングに入っていないのに鍵をかけて出ようとしたことがpremioの怒りをかったらしい。でも、これでお互いのことがようやく分かり合えました。二日間、いい相棒になれそう。

しかし「くぅーすの杜 忠孝蔵」に入った途端、相棒のことは私の頭から消し飛びます。足を踏み入れた途端に私を包む甘く芳醇な香り。生まれて初めて入った泡盛蒸溜所というだけで素晴らしいのに、さらに。泡盛の象徴でもある甕が存在感を備えてたくさん並んでいます。はやる気持ちを鎮め、まずは見学ツアーを申し込みます。待ち時間の間、売店をさまよう私。ドライバーゆえ、試飲はあきらめるほかないのがつらい。それでももろみ酢やあまざけなどの試飲が豊富にできます。これがまたうまい!泡盛の種類も多く、瓶と甕とが並ぶさまは壮観。甕売りの商品もあれば、ビン詰め商品も。まさに目移りするとはこのこと。忠孝酒造の名は、実は今回の旅行でガイドブックを読むまで知りませんでした。こちらに並んでいるビンを見ると、よく酒屋にあるカラフルな泡盛のラベルとは違って落ち着いた感じです。

その理由は、見学に先立って観覧した紹介ビデオで理解しました。創業は戦争が終わって間もない頃とのことですが、とても研究に力を入れた熱心な蔵だということがわかります。泡盛業界では初となる自社での甕造りに着手したり、古式泡盛の製法である「シー汁浸漬法」で社員が醸造学博士号を取得したり、沖縄県産マンゴーから採取した酵母での酒造りに取り組んだり。空港に近いという醸造所をうたい、結構、商売っ気のある酒蔵なのかな、という若干の懸念も訪問前に持っていました。ですが、その懸念は杞憂でした。実にしっかりとした泡盛づくりの哲学を持たれている様子。そうやって説明を受けてみると、並んでいる甕の数々がとても神々しく思えてくるから不思議です。

ビデオにつづいて、仕込み工程をガラス越しに見学させてもらいます。清潔な感じの室内では蒸しの工程でしょうか。職人さんが一人、黙々と働いていました。無機的な室内なのに、作業がアナログでそのギャップが面白い。

続いて、甕を作る作業場を案内していただきました。泡盛業界で初となる甕作りを併設しているのですが、私の目の前でロクロを操り、甕ができていきます、素晴らしい。ビデオにもありましたが、全てが試行錯誤の成果だというから大したものです。甕が泡盛の品質や風味に直結するのは樽で熟成させるウイスキーと同じ。さらに熟成が早く進む泡盛では、その重要性は欠かせないはずです。

私のその感想は、次にご案内された木造古酒蔵でますます強まります。シェリーなどの酒精強化ワインで知られるソレラ・システム。泡盛にも仕次ぎという同じような仕組みがあるとか。熟成が進んだ甕から瓶詰めや蒸発で減った分をより若い甕から継ぎ足していく仕組みのことです。これはウイスキーにはない習慣なので、私は興味津々でいろいろと質問しました。ここの蔵は沖縄でも首里城に次ぐ高さがあり、古さでも有数の蔵だそうです。蔵の中も明るく開放感があり、泡盛の香りがふくいくと私の鼻にまとわりつきます。まさに至福の場所。

外は大雨なのに、私はそんなことも忘れるくらい、夢中になって泡盛文化の奥深さに酔いしれ、その文化の粋を吸収しようと夢中になってました。ここはセルフ甕を持て、その説明を聞きながら、よほど申し込もうと思ったくらい。予算面で諦めましたが、代わりにマンゴー酵母で仕込んだ一品を購入。

くぅーすの杜は、おススメです。空港から近いのに、観光客から取ろうとする色気もあまり感じず。名残惜しさを感じながら、車に戻りました。

次の目的地に向かう前に、腹ごしらえ。くぅーすの杜のすぐそばに名嘉地そばの店舗を見かけたので。早速私の目的の一つ、沖縄そばの本場を知る、に臨みます。大雨だというのに私以外に数組のお客様がいました。車も結構止まっていて支持されているお店のようです。肝心の味はといえば、私が内地で食べるそれとあまり変わりなく。ということは、私が内地で食べた味も沖縄そばの正統だったのかも。それをここでは教えてもらいました。これが正統だと知ると、味もおいしく思えます。ラーメンのように味は濃くなく、薄味にも思える味付け。それでいながら、妙に重たいというか野暮ったい食べ応え。おなじみの沖縄そばの味。これが明治以降に広まったという本来の沖縄そばなのかもしれません。まだまだ他にも名店は数あるとは思いますが、これで私の沖縄そばへの好奇心は満たせました。

名嘉地そばの近くには、辺野古基地問題の集会を呼びかける看板もあり、沖縄の現実が垣間見られます。

私はそれを頭に留めつつ、次の目的地、海軍司令部壕跡へ向かいます。相変わらずの猛烈な雨がフロントグラスを叩く中、私の意識も戦場となった沖縄へと向かいます。

高台にある壕には、慰霊碑が。まずそれにお参りし、黙礼してから壕の入り口を兼ねたレストハウスにも似た建物へ、ここの二階には沖縄戦の惨禍を切り取った写真パネルが多く飾られていました。その被写体の多くは軍ではなく民間人です。大戦は日本全土をくまなく戦場と化しましたが、大規模な地上戦の戦場となったのは、サイパン島や沖縄の島々のみ。その現実を忘れてはなりません。

そして、この海軍司令部壕跡は、沖縄戦において、海軍が司令部を置いた場所。一般に、沖縄戦のイメージとは、連合国軍に一矢を報いたい大本営が日本本土での決戦までの時間を稼ぐために沖縄を捨て石としたという印象が強い。沖縄戦を戦った軍人についての印象も、民間人に自決を強要したり、邪魔者扱いするなど、民間人を人とも思わなかったいうといえばステレオタイプな印象が一人歩きしています。そんな軍部のイメージにあって、大田司令官が壕の中から最後に大本営宛に打った電報は軍人の良心を表したものとして名高い。

沖縄県民が沖縄戦で払った犠牲を連綿と書き連ねた電文。そして最後を
「沖縄県民斯ク戦ヘリ
県民ニ対シ後世特別ノ御高配ヲ賜ランコトヲ」
と締めたこの電文を打ってすぐ、大田中将はこの壕の中で自決を遂げました。自決した部屋とされる壁や天井には弾痕のようなものも確認できます。絶望的な戦況の中、このような狭い場所で軍人たちは最後まで諦めまいと戦い続けていたのでしょう。

壕の内部が殺風景なことといったらありません。ここで兵隊や将校が寝起きし、戦っていたとはとても思えないほどの無機質な場。ただ戦場としての最低限の機能しかない場。平和ボケの中にいる私にはとても耐えられないでしょう。なにが耐えられないかといって、文化の匂いが一切排除されていること。私には何よりもそれが辛い。

絶望と殺伐とした壕で書き起こされたのに、電文からは戦陣訓めいた威勢の良い美辞麗句を排されています。それでいながら沖縄県民のことを思いやった文章。その文面から読み取れるのは、軍人である前に人として立派に生きた大田中将の人間性です。極限の場でありながら、最後まで人間で有り続けたその崇高の人格に胸を打たれます。沖縄戦が悲惨で愚劣な戦いなのはもちろん。しかし、その責を負うべきは大本営の面々であり、指導部であるはず。現場で死力を尽くし、努力し続けた軍人を一括りにして責めるのは筋違いだと思います。

君の御はたのもとにししてこそ 人と生まれし甲斐でありけり

これは大田中将の辞世の句ですが、その実物が壁に残されています。その生々しさは私の心を騒めかせます。ここには軍人としての忠誠心、そして軍人ではなく人間として死にたいと願った大田中将の心が現れています。

壕内には沖縄戦の経緯や、電文の写しなどが詳しく展示されています。大田司令官の肖像もあります。とても細かく紹介されているのです。ここは沖縄でも必訪の地だと思います。22年前に来られなかったのが残念です。そして今回来られてよかったです。

そんな思いを抱きつつ壕を出た私。続いて向かったのは高台から市街を一望できる場所です。大雨の中、警備員のおじさんがとても気さくで親切でした。私をあらゆる角度から写真に収めてくださり、壕の現実に暗い気分になっていた私を明るくさせてくれました。この方こそ、今の沖縄の象徴にも思えました。殺伐とした史跡を前にして、なおも明るいハイサイおじさん。

たぶん、このおじさんも「沖縄県民カク生キム」として現実を戦っているのでしょう。それを微塵も感じさせず、明るく振る舞うおじさんがとてもすがすがしかった。おじさんのすがすがしさは私の心が少し晴らしてくれました。そして車に戻ってから次の場所へ向かうにつれ、雨が少しずつやみ始めるのです。私の心を表わすように。続いて私が向かった先は沖縄県平和祈念資料館。道中は猛烈な雨の後遺症があちこちに残っていました。ある場所では道が通行止めになっていて回り道を強いられ、ある場所では池のようになった道路を水しぶきを立てて進む。こういった体験を楽しみ、素朴な風景を愛でる。これが一人旅の醍醐味です。それを存分に味わいました。

沖縄県平和祈念資料館。ここは沖縄戦で亡くなった人たちの氏名が膨大な碑に刻まれる摩文仁の丘で知られます。私にとって22年ぶりの訪問。もちろん前回の訪問の記憶は薄く、展示物もあまり覚えていません。そんな私に資料館の展示物は迫ってきます。沖縄への認識をあらためるようにと。

今の基地問題。そして沖縄戦。沖縄の文化を除けば、今の私たちはこの2つだけで沖縄の現状を判断してしまいがち。ところが、沖縄の抱える問題とは、沖縄戦にいたるまでの歴史を知らねば理解できません。私は平和祈念資料館の展示からそのことを教わりました。19世紀の琉球を取り巻く状況。それは薩摩藩と清に対し、二重に朝貢していた琉球王国の苦労から始まりました。アヘン戦争で清が没落し、アメリカのペリー艦隊の来航を経験し、さらに明治維新によって薩摩藩がなくなる。と、思ったら、明治政府によって琉球王国は廃され、沖縄県として支配下に組み入れられます。薩摩藩が長年にわたって琉球王国から収奪を行っていたことは有名です。ところが明治になって薩摩藩の支配が終わり、沖縄県となっても沖縄をめぐる現実は苦しみの中にありました。それは、八重山諸島に課せられていた人頭税が1893年まで残っていたことでも明らか。さらにはソテツ地獄なる飢饉が沖縄を襲います。つまり、沖縄戦が起こる前から沖縄の人々はとても過酷な状況に置かれていたのです。

この平和祈念資料館では、そのあたりのことがたくさん学べました。もちろん、沖縄戦の過酷な実態も。いまやメディアはおろか、ウェブ上でも見られないようなむごたらしい死体を撮った映像が流れています。それはサイパン戦の悲惨な現実。映像は残酷に戦場の現実を写します。火炎放射器が人々がこもる壕を焼き払います。両手を挙げて投降する住民の姿に、心からの安堵を感じるのは私だけでしょうか。

沖縄戦が終結してから、米軍の軍政下におかれた。米兵による人権蹂躙が横行し、沖縄の人々に安らぎはありません。その時期の政治体制や文化についてのジオラマや資料が私の知識をあらためます。軍政下の沖縄の現実など、内地に住んでいると知りようがありません。日本の統治下に戻るまでの紆余曲折。年表を読むと1972年沖縄の本土復帰の一行で片付けられてしまう事実。内地の私たちからみれば沖縄が日本に戻れてよかったねで済んでしまいます。ところが沖縄の人々にとっては複雑な思惑があったはずです。琉球王国を復活させての独立や、基地の撤去も含めて。

基地問題を考えるためにも、平和祈念資料館は欠かせません。沖縄の今までの歴史を含めて向き合わねば、基地問題は語れないと思います。左傾した活動家が基地問題に乗じて暗躍する。基地問題をめぐる報道を眺めると、日本がおかれた現実を盾に基地移転をごり押しする本土の都合と、そんな日本国にただ歯向かうだけの左派の思惑だけがクローズアップされます。そうではなく、もっと違うアプローチで基地を考えなければならないと思うのです。私は内地に住む人間として、基地を沖縄に押し付けてそれで終わりだとは思いません。地理の関係から沖縄に基地が置かれる理屈もわかります。そして、内地に基地を置くことが今となっては難しい現実も分かります。ましてや私自身が横田基地と厚木基地の間に住み、飛行機の騒音に悩まされていただけになおさら。

私たちにできることは、沖縄に基地を押し付けて終わりではなく、まず今の沖縄を知ることだと思います。それも今の沖縄ではなく過去の経緯を含めて。そして、この問題に関しては軽々しくブログやツイートで意見することは控えなければなりません。単純に右や左のイデオロギーで語るには、沖縄の基地問題は複雑なのです。内地の人間、沖縄の人間といった立場によっても意見は揺れるのですから。理想だけで沖縄のこれからを改善できるはずはなく、現実の地理が仕方ないからといって沖縄の基地問題から目をそらすことも愚策です。22年ぶりに訪れた平和祈念資料館は私にいろいろなことを考えさせてくれました。3時間ほどしかいられませんでしたが。

再び雨脚が強くなってきた中、資料館の近くに立つ韓国人慰霊塔に向かいました。そして摩文仁の丘で慰霊碑に刻まれた膨大な数の名前を目にします。ただ、そこにたたずみます。降りしきる雨が何かを私に訴えます。

すでに閉館時間は過ぎてしまいました。名残惜しいですが那覇への岐路につきます。那覇市街までの道は混雑していましたが、無事に国際通りへ。今回の宿はホテルグレイスリー那覇。ところが駐車場が併設されていません。少し離れた場所にある駐車場の案内され、そこまで戻る羽目になりました。

チェックインを済ませると開放感が私を包みます。久しぶりの一人旅。そして宿泊。羽根を存分に伸ばしている自分を満喫します。持ってきたパソコンでしばし作業を行ってから夜の街へ繰り出します。まずは妻がお勧めしてくれた龍泉へ。ここは龍泉酒造が直営する店だそうです。ところが私はあえてオリオンビールを飲みます。ビールがうまい。そして私が沖縄料理で一番好きなゴーヤチャンプルが感動的。うまい。

そして再び土砂降りになってきた国際通りを歩き回ります。土産物屋を冷やかし、泡盛蔵国際店で圧倒的な品ぞろえの泡盛を。当然忠孝酒造の銘柄をまっさきに探すのは言うまでもありません。歩いているとヘリオスパブを発見。クラフトビールとしてヘリオス酒造は有名な存在になりつつあります。ここではヘリオス酒造の3年古酒の「主(ぬ~し)」をいただきます。昼に訪れた忠孝酒造では飲めなかったのでようやく泡盛を味わえました。やはり訪れた地ではその地の酒を飲むに限ります。

そしてヘリオス酒造のビールを。私が頼んだのは変わり種のシークワーサーホワイトエールを。これまたライトでうまい!

満足した私はさらに古酒屋へ。ここでも膨大な泡盛が私を迎えてくれます。これほどの品ぞろえがある泡盛は、もっと内地でも見直されるべき。沖縄の食文化を広めたい。そんな思いに駆られます。お土産屋では海ブドウが試食でき、その味わいにも癒やされます。

靴をぐちょぐちょにしつつ、ホテルの1階にあるローソンへ立ち寄ります。ここで沖縄限定の缶コーヒーを仕入れました。部屋で靴を乾かし(私の足の香りが強烈でこの靴は家に帰ってから処分しました)、作業に戻ります。パソコンで作業しつつ、明日の予定を立てようと地図を眺めます。ところが、いつの間にか寝入っていました。満ち足りた初日はあっという間に終わりを告げたのです。


沖縄ひとり旅 2017/6/18


6/6は私の誕生日。6/18は父の日。その二つの記念日のお祝いに、と妻から今回の沖縄旅行をプレゼントされたのは3月ごろでした。2月に妻が沖縄旅行に行き、その延長で私へのプレゼントを思いついたのでしょう。

それ以来、沖縄旅行が私をどれだけ支えてくれたか。とても言い表せません。その頃の私が関わっていたプロジェクトやその他の激務。これらを乗り切れたのも目の前に沖縄旅行がぶら下がっていたからでした。3,4,5,6月をしのげたのも沖縄旅行があったからだといっても言い過ぎではありません。

それ以来、折に触れて沖縄のガイドブックを読み、行きたい場所をイメージしていました。沖縄を題材にした池上永一氏の著作も読みました。ですが上に書いたように仕事が落ち着かず、結局まとまって行きたい場所を考えられたのは出発前夜になってから。それまでは沖縄に行くことは決まっていながら、自分の中で旅行のイメージがなかなか焦点を結ばぬままでした。

なにせ、私が沖縄を訪れたのは1995年の秋。22年の時は私からすっかり記憶を奪っています。それも無理はなく、22年前、1995年とは私の人生に多くの思い出が刻まれた年だからです。その年は、阪神・淡路大震災で開け、地下鉄サリン事件とオウム事件で世が殺伐としていました。その時の私の思いは各ブログで記しています。

中でもその年の夏。それは私の人生で最も旅に明け暮れた幸せな時期。1995年の夏は終戦50年の節目でした。若狭での海水浴から始まり、一人列車を乗り継いで豊岡米子三原を経由して広島へ。ヒロシマでは原爆ドーム前にテントを立て、翌朝は世界中の人たちとダイ・インに参加し。さらに福岡や柳川、ハウステンボス。そして平和公園やグラバー園や諫早へ。そして休む間もなく台湾一周の旅へと。 旅に次ぐ旅の夏でしたが、当時の私は全くそれを苦にしませんでした。

私が沖縄へ向かったのは二週間にわたる台湾旅行から戻ってすぐ。大学の政治学研究部の合宿でした。大阪南港のフェリーターミナルに集合し、船で那覇港へ。タクシーで名護のホテルに向かい、そこで一泊。翌日は、海に入ったあとレンタカーを駆って南部へと。おきなわワールドに寄ってひめゆりの塔へ。夜は国際通りで飲み、その近くのホテルに泊まりました。翌朝は首里城を訪れ、そして帰路へと。こういった行動は覚えているし、ところどころの記憶もあるのですが、他はあまり覚えていません。例えば帰りは飛行機だったのか、それとも行きと同じく船だったのか。それも覚えていません。その夏の思い出があまりにも濃かったこと、さらに22年の時は私から沖縄旅行の記憶を薄れさせてしまいました。SNSもない当時ですし、日々の充実にかまけて記録を取る習慣すらありませんでした。この時の沖縄旅行の写真すら残っていない始末。私はずっと、そのことに忸怩たる思いを持っていました。

沖縄旅行の印象が薄れていることをあらためて痛感したこと。それは先日、小説「ひめゆりの塔」のレビューを書いていた時のことです。22年前の旅行でひめゆりの塔には確実に訪れました。にもかかわらず、荘厳なレクイエムが流れるホールで受けた印象が強烈すぎて、ひめゆりの塔がどんな姿だったかなど、ほとんど思い出せないのです。これはまずい。空白になっている記憶に、新たなる経験を埋めなおさないと。

また、22年の日々は、私にさまざまな知識や考えを与えてくれました。その知識とは例えば、大田司令官による「沖縄県民カク戦ヘリ」の電文であり、昨今の沖縄の基地問題です。22年の年月がたち、今の私は町田に家を構えています。町田といえば、厚木基地と横田基地の中間に位置しています。米軍機がかつて中心街に墜落し、死者も出しています。沖縄の基地問題は決して人ごとではないのです。沖縄の払った犠牲を知った上で、基地問題にどう向き合うのか。国際政治と住民の意見のどちらを優先すべきなのか。そもそも沖縄の民意は基地に反対なのが総意なのか。

あと、池永氏の著作「バガージマヌパナス わが島のはなし」を読み、御嶽の存在が沖縄文化に欠かせないことも知りました。それと組踊です。池永氏の他の著作で情緒豊かに、魅力的に描かれていました。組踊とはどんなものか一度は観てみたい。さらに、この22年は私に酒文化の奥深さとその魅力をがっちり教えてくれました。沖縄といえばすなわち泡盛です。これもどんなものか見てみたい。

検討した結果、今回の旅で絶対に行こうと思ったのは以下の三カ所です。斎場御嶽、海軍司令部壕、ひめゆりの塔。そしてどこかの泡盛醸造所。

前の晩、妻がおすすめするお店を一緒にグーグルストリートビューで確認し、旅の雰囲気をつかみながら、あらためて行きたい場所に思いを馳せます。

妻からは国際通りにあるゴーヤチャンプルーのうまい店を妻に勧められました。私もゴーヤチャンプルーは好きで、沖縄料理を食べる際はかならず注文します。あと、沖縄料理といえば、沖縄そばが有名です。ところが、どうもあのシンプルで武骨な味になじめていませんでした。それもあって、今回の度は私を唸らせる沖縄そばを味わいたい、と思いました。

他にも候補はたくさんありました。たとえば妻からは首里城を見ることを勧められていました。首里城は22年前に行ったはずなのですが、上に書いた通り記憶の彼方です。他にも滝巡りや水族館めぐりなど、22年前の私の興味を惹かなくても今の私には魅力的な場所がたくさんあります。ですが日本の滝百選に選ばれたマリュドウの滝は西表島。飛行機で行ってみることも考えましたが、一泊では時間的にも難しく、費用の問題もあって断念。比地大滝も国頭半島の方まで行かねばならず、一泊二日の日程に組み込むと滝だけで終わってしまいかねない。同じ理由で美ら海水族館も断念しました。

さて、翌日の沖縄の天気予報を確認します。すると雨。大雨のため、那覇で催される予定だったAKB48の野外ライブが中止になったというニュースが飛び込んできます。でも、私の行きたい場所に天気など関係ありません。それよりも目的地が絞れたことの方が重要です。ようやく行く場所が定まったことで、2時か3時ごろまで仕事をして就寝。


運命の人(四)


三巻の終わりでは、絶望し世を捨てようとする弓成元記者の姿が描かれた。続いての本書は、命を永らえた彼が沖縄で暮らすシーンで幕を開ける。

彼が向かったのは沖縄。それも本島ではなく、さらに離れた伊良部島だ。福岡生まれの弓成元記者は、何ゆえ沖縄へ渡ったか。

ここで読者は、弓成元記者がこのような境遇にたどり着いた経緯を思い起こすことになる。毎朝新聞記者の時代、彼が暴こうとしたのは沖縄返還に絡んだ密約だ。拙速に密約をリークしようとした勇み足の背景には、沖縄の立場に立っての義憤があった。

ここで、著者は本書の真のテーマを表舞台に出す。それは沖縄の戦後の総括だ。

なぜ著者は本書の一巻、二巻で裁判の様子を克明に描いたか。それは、沖縄返還の裏に交わされた密約の内容や締結された経緯を描くことで、沖縄を軽んじる日本政府の姿勢を明らかにするためではないか。

そこにはもちろん、取材のあり方や報道への敵視を隠そうとしない政府の傲慢さを問う意図もあったことだろう。だが、それは二の次ではなかったか。そうではなく、弓成記者の行為の裏には、沖縄の置かれた現状を問い質すという目的があった。だからこそ著者は、一巻では不自然さを覚悟で三木秘書との肉体関係の事実を書かなかったのではないか。

沖縄返還とは、裏を返せば米軍による占領の歴史そのもの。さらにいえば、沖縄は第二次大戦中に戦場として数え切れない悲劇の舞台となった。弓成記者を一巻で突き動かした義憤は、ヤマトンチューの立場からの半可通の義憤だった。最終巻である本書を通じ、弓成元記者は沖縄に癒されつつ、ウチナンチューとして沖縄になじみ、沖縄が過ごしてきた苦難の歴史を心からの義憤として引き受けるようになる。

著者の傑作群の中でも「不毛地帯」「二つの祖国」「大地の子」の三作は良く知られている。この三作は戦争に大きく運命を左右された人生を描いた大作だ。それぞれ満州軍参謀、日系二世、中国残留孤児の戦中戦後が描かれている。戦争によって大きく運命を狂わされた人の物語は読む者の胸を打つ。だが、ほかにも当時の日本人が受けた悲劇がある。例えば原爆の被爆は忘れるわけにはいかない。だが、著者はすでに「二つの祖国」のエピソードで原爆病を取り上げている。となれば他に日本人の戦争被害を語るとなれば、全国各地の空襲被害と樺太からの引き上げ、そして凄惨な陸上戦と米軍による軍政を経験した沖縄が残る。著者は当然そのことを意識していたはずだ。沖縄を描かねば。著者の中で沖縄を書き残していることは常に意識していたはずだ。その想いが本書に込められていることは、本書の内容が雄弁に語っている。

一巻では、沖縄の密約を巡り、報道の権利とそれに抵抗する政府の対応が描かれた。そこでは本書の主題は報道の自由であるかのように読めた。ところがその時から著者の視線は沖縄問題に注がれていたのだ。四巻に来て改めて沖縄がクローズアップされた形だ。

弓成元記者は沖縄で生きる目的を見いだし、親しくなった女性謝花ミチや他の沖縄戦の悲劇を知る人々と交流しながら、沖縄の戦後を見直そうとする。妻由美子は夫からの手紙がきっかけで文通をはじめ、やがて夫に会いに沖縄に来る。夫との長い別離の時間のわだかまりも、夫が書き続けていた文章を観て氷解する。長きに渡って夫の傷に触れず、籍も抜かずに堪えた由美子の強さは本書の中でも印象的だ。

由美子の姿に女性の強さは現れているが、それ以上に印象的なのが道破れた弓成元記者を受け止めた沖縄の懐の深さだ。沖縄の懐の深さこそが本書で描きたかった女性の強さの源泉ではないか。女性の強さと沖縄の強さ、それは本書において相対した関係である気がしてならない。そんな沖縄を軽んじる日本政府の軽挙を、著者はどうにかして世に知らしめたかったのではないか。それを知らせるための材料として、西山事件に白羽の矢が立ったのではないか。もちろん西山元記者にもミスもあったし、自業自得との非難も受けねばならないだろう。だが、そんな日々を乗り越え、西山元記者は最後は沖縄へたどり着いたのだ。

そして、我楽教授がアメリカ公文書館で見つけた沖縄返還時の密約を示す文書。これによって弓成元記者の発したスクープが事実であることが世に発表された。取材過程に問題があったことは確かだとしても、確かに日本政府によって沖縄は軽んじられたのだ。沖縄からで始まり沖縄で終わる。これぞまさに弓成元記者の運命でなくてなんだろう。運命の人とは弓成記者、いや、西山記者が人生で背負った運命を指すことは言うまでもない。

これを書いている今、西山元記者は存命だと聞く。本書を通して弓成記者として描かれた西山元記者の姿がどの程度実像を反映していたかは知らない。本書の最終ページで弓成記者はこのようなせりふを言う。「沖縄を知れば知るほど、この国の歪みが見えてくる。それにもっと多くの本土の国民が気付き、声をあげねばならないのだ。書いて知らせるという私なりの方法で、その役割の一端を担って行こうと思う」ここに表れた沖縄への想いは、弓成元記者も西山元記者も同じではないか。これこそが、ジャーナリズムの芯を貫く言葉だと思う。沖縄に目覚めたジャーナリストは、知るべきことを知らせるという使命にも目覚めたのだ。ジャーナリズムとはゴシップや権力の腐臭に群がることだけが本分ではない。本当に国民が知るべきことを知らしめるのがジャーナリズムのはず。

私は本書を読み終えてから八カ月ほど後に沖縄を一人訪れた。沖縄のさまざまな場所を訪れるにつれ、沖縄についての本土の意識が低いことを痛感した。せめて弓成元記者が語ったような沖縄の姿は脳裏に刻み付けておきたい。ジャーナリストにはなれなくても、ジャーナリズムの精神は受け継げるはず。本書から私はそのような精神のあり方を教わった。

‘2016/10/05-2016/10/06


運命の人(一)


報道のあり方。それはジャーナリズムにとって常に問われる課題だ。ジャーナリズムには二つの権利がついて回る。それは、大衆が知る権利とニュースを発信する権利。その二つは限りなく近く、表裏の関係だ。だが同じ権利ではない。大衆が知る権利とは受身の権利。一方、ニュースを発信する権利は行動の権利。後者は、報道する者が自ら動き、取材し、発信する行為となる。そして、発信する権利には、内容のチェックの義務が伴う。いい加減な内容を発信したり、発信に当たって特定の人物の立場を損ねたりすることは厳に慎まねばならない。そのため、報道機関自身の内部統制は欠かせない。統制が失われた瞬間、報道のあり方や報道機関としての理念が問われることになる。

発信のための取材活動の中で、ニュースソースの秘匿は統制の範囲外、いわば治外封建となっている。これだけ情報が飽和した今でも、ニュースソースの秘匿は記者にとっては金科玉条のようだ。報道機関が営利企業である限り、質のよい取材源と素早い発信が求められる。そのため、記者は内部情報を知るニュースソース、つまり情報提供者をとても大切にする。ニュースソースが今の立場にあることがニュースソースの価値である以上、ニュースソースが誰かは決して明かさないのが記者の不文律でもある。

戦後、ニュースソースの秘匿が争われた著名な事件が二つある。一つは、読売新聞の立松記者による売春汚職防止法に関する件、もう一つが毎日新聞の西山記者による沖縄密約スクープの件。本書は小説として仕立てるため後者の事件を題材に採っている。

本書は小説なので実名で登場する人物はいない。たとえば西山記者に相当するのは弓成記者だ。敏腕記者として毎朝新聞でも将来を嘱望される存在として描かれている。本書では敏腕記者のイメージにふさわしく、押しもアクも強い人物として書かれる。社内でも自らの裁量で取材を敢行し、向かうところ敵なし。

だが、幼い息子たちには子煩悩な一面も持っている。本書で描かれた弓成記者のイメージが、西山記者の実像をどこまで伝えているかはわからない。だが、ステレオタイプな昭和の新聞記者像にははまっている。

弓成記者以外に登場する人物たちも仮名だ。仮名とはいえ、即座にモデルが想像できる名前が付けられている。なにしろ、佐橋首相に、小平、田淵、二木、福出なのだから。いうまでもなく佐藤首相に、大平、田中、三木、福田といった歴代総理をモデルとしている。いわゆる三角大福そのものだ。情報漏洩の火元の審議官の名前は本書では安西であり、肉体関係を持ち、情報の入手元となった秘書は三木となっている 。また、実際の西山事件で証人として法廷に立った読売新聞のナベツネこと渡邉恒雄御大までもが、ライバル紙記者の好敵手山部として登場する。

飛ぶ鳥を落とす勢いの弓成記者にとっては、そういった顔を合わせる誰もがニュースソースなのだ。本書である一巻は特に、勢いある弓成記者が中心に描かれる。そのためもあってか、登場人物の誰もが著名な人物に思えてしまう。

本書は、沖縄返還交渉の裏にある密約が鍵となる。その密約とは米国の沖縄駐留の撤収により生じる費用、いわゆる復元補償費を日本が負担するもの。 本来はアメリカが担うべき金額であることは間違いない。だが交渉の結果、日本は譲歩した訳だ。そして日本政府としては負担の事実を知られたくない。そこで密約として隠密裏に進めることになる。

外務審議官とのパイプを築く弓成記者はその密約を知ってしまう。秘書の三木と情事の関係を結び、証拠を集めにかかる。ところが、内容が内容だけに密約を明かせばニュースソースも明らかになってしまう。ニュースソースを守る手前、密約の内容は弓成記者から実名でリークすることはできない。そのジレンマとこんな不正が罷り通っていいのか、という私憤が弓成記者に軽率な行動をとらせる。野党議員への情報リークという方法で。それもコピーそのものを渡すという拙劣なやりかたで。野党議員はそれをもとに議会質問に臨むが、軽はずみにも議場でコピーの実物を振りかざしてしまう。かくしてコピーは世に出てしまい、ニュースソースの面目は丸潰れとなる。一方、密約を暴かれた佐橋首相は怒り心頭に発し、司法を動かして弓成記者と審議官の秘書を逮捕させる。

本書では西山事件の前段となる沖縄密約から、事件へと物語が進む。そして任意聴取で警視庁に訪れた弓成記者がその場で逮捕される場面で終わる。後世のわれわれは、敏腕記者と政府の戦いという対立軸に目がいってしまう傾向にある。しかしよく読むと、一巻からすでに男の生きがいや大義について描かれているのがわかる。

先にニュースソース秘匿にかかる戦後の二大事件を紹介した。前者の読売新聞の立松記者は、記者生命を断たれた後、自らの命をも絶ってしまう。果たして、弓成記者がどういう経緯をたどるのか、気になる。

おそらくここで描かれている内容は大枠では事実なのだろうと思う。私は西山事件に詳しい訳ではない。ただ一点、気になる点があった。それは事件の全体像に関わる点を著者が一巻では故意にぼかしているのではないか、ということだ。それは多分、著者による小説的な効果を狙っての事だろう。その内容は続いての二巻で明かされる。だが、私には事件の発端や経緯を描くために用意された本書でそれをぼかした理由がよく分からなかった。

‘2016/10/04-2016/10/05


黙示録


著者の作品を読むのは『テンペスト』以来久しぶりとなる。
テンペスト 上 レビュー
テンペスト 下 レビュー

なぜ4年も遠ざかっていた著者の作品を読もうと思ったか。それは、著者の作品に魔術的リアリズムがあるとの評を見掛けたためだ。先日、寺尾氏の『魔術的リアリズム』を読み、深い感銘を受けた (レビュー)。それを契機に改めて魔術的リアリズムの系譜に連なる我が国の作品を探してみた。すると、著者の作品が引っかかって来た。

そう言われて初めて『テンペスト』にも魔術的リアリズムを思わせる描写があった事を思い出した。 ただ、初めて触れた著者作品 『テンペスト』 の全てに好印象を抱いた訳ではない。沖縄の歴史を細かく、そして大胆に描く構成は良かった。だが、地の文と遊離したせりふのわざとらしいポップさはいささか鼻に付いた。『テンペスト』には今から思うと魔術的リアリズムの魅力が詰まっていたように思う。だが、不自然さを感じさせる文体を欠点として目をやってしまい、そういった作品の魅力的な側面を見逃していた。それもあって、著者の他の作品に食指が動かなかった。

本書は4年ぶりに読む著者作品となる。本書を読むにあたっては、魔術的リアリズムの描写に注目しながら読み進めた。

本書は琉球舞踊の組踊を取り上げている。玉城朝薫によって創始された琉球舞踊。芸術としての琉球舞踊が真に成立したのは、玉城朝薫の才能によるところが多いという。そして朝薫が活躍した時期、琉球王朝には蔡温という名宰相が、琉球国の基盤を作ろうとしていた。18世紀の頃だ。

清の朝貢国でありながら薩摩藩に侵略された琉球国。それによって清と徳川幕府の二重属国の立場に甘んじていた。そんな祖国を真に独立した国として、さらには世界の中心として輝かせたい。蔡温の野望は大きい。蔡温、朝薫の二人とも、目指すのは琉球の存在意義を周辺国に向け打ち立てることだ。それには清にも大和にも負けない琉球国の威厳を豊饒な文化によって示す。豊饒な文化とは、歌舞音曲によって評価されることが多い。つまり、琉球に独自の歌舞音曲である、組踊を創始すればよい。玉城朝薫は、組踊を創始した偉大な才能である。だが、いくら歌と踊りが創作されても、それらは演者がいてこそ。その踊りの体現者こそが、本書の主人公である蘇了泉であり、そのライバル雲胡である。本書では了泉と雲胡が切磋琢磨しながら踊りの粋を極めていく姿が描かれる。

本書にも『テンペスト』で鼻に付いた誇張されたせりふ回しは健在だった。このせりふ回しによって、主人公が発するせりふが地の文の流れから浮いてしまう。その浮き加減をコミカルで漫画的な読みやすさとして評価する方もいるだろう。が、やはり私にとっては気になった。

とはいえ、本書からは『テンペスト』で感じたようなセリフと血の文の浮き沈みが感じられなかった。本書において、蘇了泉の心は静から動へ幾度も浮き沈みを繰り返す。それは躁鬱とすら思わせるほどの起伏だ。確かに、躁状態の蘇了泉が発するせりふは地の文から浮いて走り回っていた。だが、低いテンションの時のせりふ回しは地の文に足が着いていたといえる。その時、物語のテンポと主人公の心の動きは見事に一致していた。テンションが高い時は、主人公の高揚や躁的な気分を表していると思えば納得して読み進められた。

一方、本書にちりばめられた魔術的リアリズムの手法も確かめた。まだ幾分、躁状態のせりふ回しには 落ち着かなさを感じた。とはいえ、 全体的にはとても効果的に魔術的リアリズムの手法が使われていたと思う。了泉の跳躍が少しずつ空へと飛翔するかのような描写。江戸への琉球使節団団長の御歳130歳の妖怪のような姿。彼の部屋はカビが覆い、床は腐って抜け落ち、少年を歪んだ性の欲望として漁る。そして全く気配を悟らせぬ江戸の瓦版屋の銀次。彼はどこでも神出鬼没に現れる特技の持ち主。彼らの描かれ方は、誇張が与える劇的な効果を確実に本書にもたらしていたと思う。そして本書でもっとも魔術的リアリズムが感じられた描写といえば、了泉と雲胡の踊りだ。二人が舞台で演ずる舞踊は人々を観客席から違う世界へといざなってゆく。 彼らの踊りが人に与える様の描写は、魔術的リアリズムの本分を発揮していたといえるだろう。

寺尾隆吉氏の著書によれば、魔術的リアリズムの定義とは「 非日常的視点を基盤に一つの共同体を作り上げ、そこから現実世界を新たな目で捉え直す」ことだという。ここでいう共同体を本書に移し替えれば琉球の人々が該当するはずだ。また、リアリズムとは、江戸幕府と清の間で二重朝貢を余儀なくされる琉球の現実のこととらえてよいだろう。琉球の存在意義を、独自の文化、特に独自の舞踊に託そうとする思い。琉球が背負う地政の宿命と、そこから次の世界へと琉球を導こうとする朝薫や蔡温の生き方は、リアリズムと呼ぶに値する。そんなリアリズムをしっかりと描きながら、真摯な舞踊が与える感動を、現実から逸脱した描写で描き出す手法は、確かに本書に効果を与えていた。

本書の中には人々のつづる漢文詩や、ウチナーンチュ(琉球語)による美しい歌詞が随所に登場する。それらは、大陸文化と大和文化が交わり、独自の進化を遂げた琉球文化の豊かさを存分に意識させる。そんな文化的土壌をしっかりと描きつつ、その成果として、組踊の持つ果てしない可能性をしっかりと語っているのが本書の魅力なのだ。

本書を読み終えて一年後、私は沖縄の地を22年ぶりに訪れた。その際、沖縄第一の聖地として知る人ぞ知る斎場御嶽にも訪れた。なぜ私が斎場御嶽を訪れようと思ったか。その答えの一端は本書の中にある。

踊りの魅力を文章で現す。それは実際のところ、至難の業ではないだろうか。音楽と動きの融合芸術である舞踊は、単に文章に落とし込むだけではその魅力は伝わらない。しかし、本書はそんな難問の答えに限りなく近づいているように思える。本書で描かれた組踊の奥深さや魅力は、私のような踊りの門外漢にもしっかりと伝わった。そればかりか、踊りを描くには魔術的リアリズムの描写こそ最適であることも知った。芸術や芸能を描いた作品として、本書の名前は忘れないだろう。私の中でしっかりと刻み付けられたのだから。

琉球の地理的な位置。華やかな宮廷生活とさげすまれるニンブチャーという身分の人々の現実。そういった琉球の光と影を描き出し、そこに踊りのあでやかな描写で彩った本書は、沖縄を描いた傑作といえる。私は著者が『テンペスト』に描いた沖縄よりも、本書で描かれた沖縄にこそ惹かれる。22年ぶりの沖縄訪問にあたっては、本書で知った組踊にも少しは触れたかった。だが、時間がそれを許さなかった。次回の訪問時にはぜひ組踊を鑑賞してみようと思う。

‘2016/07/11-2016/07/15


ひめゆりの塔


ひめゆりの塔

私がひめゆりの塔を訪れてから、二十年以上が経つ。

その年月は、細かな記憶をだいぶ薄れさせてしまった。どんな外観だったか、どんな入口だったか。もはや覚えていない。けれども、展示ホールに漂っていた雰囲気は今も心に鮮やかだ。鎮魂歌が流れる展示ホールの壁一面にはひめゆり部隊の方々の写真がずらりと。皆が少女の姿でわれわれ来館者を見下ろしていた。私に強い印象を与えたのは、その厳粛で荘厳な雰囲気だ。

他の展示内容はあまり記憶に残っていない。敵から身を潜めたガマ内部のジオラマや負傷者を看護するひめゆり部隊の姿など、悲惨な戦場の様子が再現されていたように思う。だが私の記憶はおぼろげだ。

ひめゆり部隊の皆さんが経験した戦場の悲劇とは、もっと生々しいものだったはずだ。より騒々しくより切迫感に満ち、人の発するあらゆる臭いや兵器の漂わせる金臭さ。そのような生々しさは厳かな展示ホールからは一掃されていた。いつまでも若々しく美しい写真の中の彼女たち。われわれは、彼女たちの御魂安らかなれ、と祈るしかないのだろうか。彼女たちの生涯が惨たらしい状況に閉ざされたことよりも、荘厳で清らかな天界に昇った姿で記憶すべきなのだろうか。

断っておくと、展示のあり方に物申すつもりは毛頭ない。むしろ彼女たちが払った犠牲の尊さに、胸の塞ぐ思いが残っている。二十年たった今も厳粛な雰囲気が記憶に刻まれているということは、それだけ展示に訴える何かがある証だ。展示ホールにはそれだけのインパクトがあった。

だが、それだけで良いのだろうか。彼女たちの経験した悲劇をそうした印象で固定してしまう事は正しいのだろうか。彼女たちは紛れもなく生きていたことを忘れてはならない。壁に掲げられることで、彼女たちは神格化にも近い扱いを受けている。生身の人間だったにもかかわらず。ただ、重く苦い時代に産まれてしまっただけの。壁に掲げられたひめゆり部隊の皆様は、時代の犠牲者として額に固定されている。それで済ましてしまって良いはずはない。

本書はひめゆり部隊についての小説だ。史書でもないしルポルタージュでもない。本書は一貫して当事者からの視点で描かれている。書き手の神の視点から見下ろし、劇の登場人物を操るように彼女たちを書かない。沖縄戦の当事者であるひめゆり部隊の乙女たち。彼女たちの目に映った戦場は理不尽だ。その不条理を描くにあたって著者は完全と言って良いほど自らの姿を隠し通している。本書で著者は戦場の現実をひめゆり部隊の彼女たちに語らせていることに徹する。戦場とは最も似つかわしくない若い女性の視点は戦争の非現実性を際立たせる。ひめゆり部隊と名付けられていても、隊員は十代の乙女たち。彼女たちの目を通して見た戦場は、何が無意味でどこが歪んでいるのか。

あの年頃の女子高生の感情の揺れ。それは娘を持つ私にも心当たりがある。移ろいやすく、何にでも笑い、少しのことに傷つく。大人都合での物言いに反発する。それは時代を遡った当時も同じはずだ。

ひめゆり部隊の皆さんも、沖縄が戦場となる前は、屈託ない女学生の生活を謳歌していたことだろう。美しい献身の心と他人を羨み妬む心を同居させた大人と子供の境目を揺れる女性として。登場するカナ、雅子、時子、ミトは皆、そのように描かれる。

彼女たちは真っ直ぐだ。国体護持も八絋一宇も関係ない。ただ、自分達が置かれた理不尽な現状を真っ直ぐに憤る。

14ページ
「わたしたちは、たくさん見てきたわ。でも、美しい死にかたって一つもなかったわ。みんなむごたらしく、みじめで、みにくかったわ。『天皇陛下ばんざい』をいった者はひとりもいなかったわよ」

81ページ
(沖縄だからがまんできるんで、本土がこんな目にあったらたまらんよ!)ある将校がぬけぬけといい放った一言だった。

134ページ
「国なんか、もうどうでもいいのよ!わたしはただひとりの人間を殺してやりたいと思うだけよ!」

徐々に南へと追い詰められてゆく彼女たち。皇軍のため全てを犠牲とすることを求められる日々。だが、そんな中でも彼女たちは理想を、人間としてのあり方を考える。そして美しい死を死にたいと願う。その一方でカナの従兄真也への恋心を秘めつつ、恋敵として穏やかならぬ感情を競い合う。学校の中での立場や名声を羨み、妬み合う。ここには彼女たちを一切美化せず、生身の乙女として書こうとする著者の意思がある。

兵隊にも色々といる。戦陣訓が顔に大書されたような軍人もいれば、彼女たちに生き延びることを諭す軍人細川のような人もいる。マナ達に戦場での実態や戦局の​推移を語る真也も大局から戦場を時代を見据えようとしている。本書に登場する人物は善悪を一面化せず、複層的に描かれている。それもまた評価できる。

24ページ
「とんでもないことだ!絶対に死を求めてはいけません。求めなくても、死はくるべき時にきます。生きぬけるだけ生きなければならない義務があることを、あなたは知らなければいけません。兵隊の道づれなんて、それこそとんでもないことです」

このように登場人物のセリフを紹介すると、著者の思想傾向をアカだ左だあげつらう人もいるだろう。だが、私はそうは思わない。著者自身のあとがきには、詳しい沖縄戦の概要とその後が解説されている。だが、昭和天皇の戦争責任や、とうとう沖縄訪問が果たせなかったことについては一切触れていない。上に引用したとおり、昭和天皇を揶揄したような悪口は確かに本書で吐かれる。しかしそれら悪口は、昭和天皇個人ではなく、戦争の象徴であり統帥権の総攬者としての昭和天皇に向けられているように思える。

そもそも、本書で著者が問いたいのは国體のあり方や経済制度といったイデオロギーではないと思う。 なぜ我々がこのような弾幕地獄の只中で這いずり回っているのか、なぜ軍人に国の礎となることを強制されるのか、という怒り。沖縄を本土防衛のための捨て石の戦場とした指導者への告発。それほどまでに、唯一の地上戦の戦場となった沖縄が背負わされた現実は深刻だったのだと思う。著者が拠っているのはイデオロギーではなく、沖縄が強いられてきた悲しみの歴史である事は見間違えてはならない。

本書の解説のなかで、岡部伊都子氏が貴重な指摘をしている。本書に出てくる女学生の誰もがウチナーグチを喋らず、ヤマトグチを操っている事に岡部氏は初読で違和感を感じた、と。それは皇国臣民として標準語を強制されたからだ、と指摘している。実は私は本書を読んだ直後、その事に迂闊にも気づかなかった。多分、それは私が本土の人間に染まっているからなのだろう。本土の人間で、なおかつ戦後30年近くたってから生まれた私には、沖縄戦の現実など所詮は理解できそうにないのかもしれない。

私は、日本が十五年戦争に突き進まなければならなかった事情は理解する。でも、それと沖縄県民が払った犠牲は別に考えなければならないと思う。海軍の大田沖縄方面根拠地隊司令官が自決一週間前に海軍次官宛に送った電報の締めくくりの言葉は有名だ。
「沖縄県民カク戦ヘリ。 後世沖縄県民に対し特別な御高配のあらんことを」
大田司令官が遺言として訴えた言葉には、当時の軍人にも本書の細川や真也のような人物がいた事を示している。だが、大田司令官の願いは今もなお叶えられてはいない。それは基地問題で明らかだ。

戦争は悪だ。戦争は悲劇しか産まない。それは言うまでもない。そして、沖縄県民は身に染みて感じているに違いない。なのに中国の領土拡張の野心の矛先は、尖閣諸島を含んだ沖縄に向いている。それは残念だが事実だ。北朝鮮という暴発国家も依然として健在だ。きな臭い国際政治の交点に沖縄が位置している事。これは沖縄に入って如何ともしがた地政学上の宿命だ。だが、それを単に宿命と片付けるのは、沖縄の方々があまりに気の毒だ。

それは、基地に挟まれた地に住む私にとっては、看過してはならないもんだいのはず。だがヤマトグチで喋るひめゆり部隊の彼女たちに違和感を感じなかった私は、まだ他人事として考える部分を持っている。そして20年前の訪問の記憶を薄れさせようとしている。

本稿をアップする少し前に妻がひめゆりの塔を訪れた。そして私は本稿を推敲することで本書の内容を深く思い返した。さらに、来たる六月の私の誕生日祝いに沖縄を独り旅する機会をもらった。当然、沖縄を訪れた際は、20年ぶりにひめゆりの塔を訪れたいと思う。そして本書から得た印象と彼女たちの遺影を重ね合わせてみようと思う。その時、20年間私の中で止まったままだった彼女たちが再び動き出すかもしれない。その時、私は前回の訪問では気づけなかったこと初めて知るはずだ。彼女たちが懸命に生き、悩み、そして未来をに希望を持つ人間だった事、そしてその可能性を活かす機会が永遠に喪われてしまった事を。

その時、私が何を感じ、何を受け取るか、今から楽しみだ。

‘2017/04/27-2017/04/30


70年目の沖縄を考える


先日、6/23は沖縄戦が公式に終結して70年目の日でした。

沖縄といえば、普天間基地の移設問題が議論されています。民主党が政権を担う前から決着がつかぬまま、時間だけが経っています。正直に言って、この議論には本土に住む者として違和感を覚えざるを得ません。何か取り残されたような気持ちというか、明らかに沖縄に基地負担を押し付けている本土の人間としての罪悪感というか。例えば翁長沖縄県知事の発言についても、批判されることも多いようですが、私には批判はできません。むしろ、中国や米国、与党や防衛庁などの思惑を外し、翁長知事自身の過去の発言や翼の右や左、沖縄県人の世代間認識の違いも越えた視点から見てみると、それほど仰っていることは間違っていないとさえ思います。

のっけから結論を述べます。
沖縄の基地負担を分散するために、沖縄の方々が蒙っている実害を基地ツーリズムなどで本土の人間が共有できる仕組みを。
これです。

云うまでもなく、基地問題についての沖縄の皆様の民意は、昨年の翁長知事の当選で示されていると思います。私ごときが沖縄の基地問題を論評するなどおこがましいことは十分に自覚しています。しかし一つだけ、基地について私が語れる実害があります。それは、騒音です。

知っての通り、米軍基地は、沖縄だけでなく本土にも点在しています。岩国、厚木、横田、三沢など。これら基地周辺に住む人々にとっては、沖縄の人々の気持ちが少しは共感できるのではないでしょうか。沖縄の方々が蒙っている迷惑の実態を。私もつい先年まで町田市の中心部に住んでいました。町田市は、横田基地と厚木基地を結ぶ線上にあります。頻繁に北から南へと飛行機が通り過ぎ、そのたびに爆音が町田の繁華街を縦断します。その高度は機体番号が見えるのではないかというほど低く、特にNLP(夜間連続離発着訓練)の際は、夜中の25時過ぎでもお構いなしの轟音が響き、寝るどころの話ではありません。町田市のホームページにもそのことは頻繁に触れられています。陳情も周辺自治体と合同で行っているとか。

とくに町田市は1964年に起きた繁華街への米軍機墜落事故の現場でもあります。また、1977年に横浜市荏田に墜落した米軍機も、墜落直前には町田市上空を通過しています。町田市に接するこどもの国から撮影された画像が残っています。ここでは私の住む町田市を例に挙げましたが、町田市以外にも、米軍基地近隣の住民は今でも墜落事故の悪夢に怯えなければなりません。

とはいえ、今の日本の置かれた状況から考えると、米軍基地が必要なことは明白です。問題は、それが沖縄に集中していることなのです。そして、私を始め、本土の基地周辺に住む人々にとってみれば、これ以上本土に基地が増やされることを迷惑と思っていることも事実です。基地の負担を沖縄に押し付けて、自己の安全を図る。残念ながらこれが私を含めた本土の方々の偽らざる本音といえます。なので、翁長知事の発言についても、その理は理解しつつも罪悪感から反発を覚える。そんな構図に私は思います。

ではどうしたらいいのでしょう。普天間から辺野古へ移したところで、沖縄の負担が減らないことは変わりません。逆にいえば、誰も理想的な解決策が思いつかないから、これだけ基地移転問題が長引いていると云えます。そして解決策が思いつかない理由の一つには、本土の誰もが沖縄の人々の置かれた現状を実感できていないこともあるのではないでしょうか。沖縄の人々が具体的に何に困り、何に怒り、何に迷惑を受けているのか。そこには沖縄の方々が抱いているだろう琉球の歴史や本土との扱いの差といった観念的なことではなく、上に挙げた騒音のような具体的な事例が必要だと思います。

私は20年ほど前に沖縄を訪れ、ひめゆりの塔や名護市街、那覇市内、首里城などを旅しました。が、その際も基地の中に入ることはもちろん、鉄条網の外からしか基地を見ることができませんでした。そして今もなお、私自身、沖縄の人々が具体的な騒音の他に、何に困っているのか、正直つかみ切れていないところがあります。

そこには政府の沖縄の基地問題についての、性急に事を進めようとする姿勢が透けて見えます。普天間基地移転の話が持ち上がってから、すでに充分な時間が経っています。その間、じっくりと国民に沖縄の基地の必要性を理解させるだけの努力はなされていたのでしょうか。初めから沖縄への基地ありきの結論で物事を進めてはいなかったでしょうか。

今からでも遅くはないので、政府は国民に対し、沖縄の基地問題を理解してもらい、本土への基地移設についての理解を求められるだけの伏線も貼っておくべきと思います。私が思うに、沖縄の人々の怒りとは、具体的に困っていることに対するものではなく、本土の人々の無関心に対するものではないかと思います。例えば政府が予算を出して、沖縄への旅行費を助成し、その際は必ず沖縄の基地見学を含めるとか。沖縄の基地側も基地ツーリズムに対する受け入れ態勢を整え、なぜ沖縄に基地が必要なのか、どういう脅威が今の日本、沖縄を覆っているのか、といった広報をきっちり行うべきではないか。私はそう思いました。

以前にも書きましたが、自衛隊は明らかな軍隊ですし、憲法の9条も書き換えられるべきだと思います。ただし、かつての日本は過ちを犯しました。そのことを考えると、国外では一切の軍事活動はしない覚悟は周辺国に示す。それだけの縛りが必要です。その替わり、日本は断固として国防を全うするのです。それだけのきっちりした自衛の体制を整えるべきだと思います。沖縄の重要性はもちろんですが、既存の岩国、厚木、横田、三沢などの基地だけでなく、自衛隊の基地も合わせて拡充が必要だと思います。極端にいえば、米軍が日本から撤退しても日本単独だけで自衛が出来る体制すら考えたほうがよいと思います。そのためには、沖縄に基地の負担を押し付けるだけの考えでは到底足りないでしょう。沖縄から基地を撤去するのではなく、それと同じだけの負担を本土側にも担ってもらう。そうすれば沖縄の人々の苛立ちも少しは和らぐのではないでしょうか。

そのためには、もっと本土側の人々が沖縄の現状を知る必要があります。安保法案や憲法改正、基地移転への道筋をがむしゃらに付けようと現政権は突き進んでいるようですが、それだけでは到底人々の理解は得られない。そんなことを思いました。


テンペスト 下 花風の巻


本書は日本と清国に翻弄された琉球の歴史が舞台だが、琉球の埋もれようとする歴史以外に著者が問うているのは、ジェンダーとしての性についてである。

女であるがゆえに科試を受けることのできない主人公が、宦官として科試に合格し、役人として生きていき、科試に挫折した主人公の兄は女形としての人生を選ぶ。主人公は後に役人でありながら、王に気に入られ後宮に入って王の子をなす別の人生も同時に生きる。

かなり荒唐無稽な設定と筋立てであるが、思い切った設定によって、かえって本書が性の平等をなくすことがどれだけ難しいかについて、問題提起しているように思える。性別による差別をなくすことと、性別を超越して活躍することは別であることを示している。

男女関係なく、能力がある人は登用すべきだし、活躍すべきだが、生物として限界があるのもまた事実。

本書で主人公の波乱万丈な女としての一生に、性というものの不思議さと、社会が被せる不条理な規制を考えてみるのもよいかもしれない。

’12/04/04-12/04/05


テンペスト 上 若夏の巻


本書については、賛否両論あると思う。

会話や地の文、登場人物の言動が戯画化されすぎているという短所についてはもっともかもしれない。主人公の行動についても、あれでばれないのはおかしい、とあまりに現実離れした内容への批判もあると思う。

私はそれらの短所も、本書で訴えたい内容をどうやって活字離れが著しい読者に対して届けるか、という著者の苦心の跡と前向きにとらえたい。

本書は薩摩藩に搾取されていた琉球の、朝貢先である日本の幕末から開国の歴史に翻弄される様が描かれている。そのころの琉球は、日本の情勢だけでなく、アヘン戦争をはじめとした列強からの侵略の渦に巻きこまれる清国の情勢をもにらんだ二重外交を駆使せねばならず、それにも関わらず、時流に抗することはできず、琉球処分を受けて、尚氏王朝とともに日本の支配下に入る。

多くの日本人が沖縄に持つ負い目とは、太平洋戦争時の沖縄戦と、その後の米軍統治、米軍駐留の今に至る歴史についてだろう。だが、それだけではないことを著者は本書で指摘したかったのではないだろうか。つまり、琉球処分で強引に琉球を日本の支配下においた経緯を、今の日本人に対してどうやって目を向けさせるか、を考えた結果、重い内容と釣り合いをとるために軽い言動や文章にしたのでは、と考える。

著者の作品は本書が初めてで、他の著書を読んでいないため、ひょっとしたら的外れな感想かもしれないが、読んでから半年以上経つ今も、琉球外交に苦心する主人公と、琉球王朝の陰湿な人間関係の様が印象に残っているため、あながち著者の狙いも的外れではなかったのかもしれない。

’12/04/01-12/04/03