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アクアビット航海記 vol.15〜航海記 その4


あらためまして、合同会社アクアビットの長井です。前回にも書きましたが、弊社の起業物語をこちらに転載させて頂くことになりました。前々回からタイトルにそって弊社の航海記を書いていきます。以下の文は2017/11/16にアップした当時の文章が喪われたので、一部修正しています。

大学は出たけれど

さて、1996年の4月です。大学は出たけれど、という昭和初期に封切られた映画があります。この時の私はまさにその状態でした。この時から約3年。私にとっての低迷期、いや雌伏の時が続きます。この3年間についての私の記憶は曖昧です。日記もつけていなければ、当時はSNSもありませんでしたから。なので、私の3年間をきちんと時系列に沿って書くことはできないでしょう。多分記憶違いもあるはず。ともあれ、なるべく再構築して紹介したいと思っています。

妙に開き直った、それでいてせいせいするほどでもない気持ち。世の中の流れに取り残されたほんの少しの不安、それでいて焦りや諦めとも無縁な境地。あの頃の私の心中をおもんばかるとすればこんな感じでしょうか。新卒というレールから外れた私は具体的な将来への展望もない中、まだどうにかなるわという楽観と、自由さを味わっていました

大学を出たとはいえ、私の心はまだ大学に留まったままでした。なぜかというと家が大学のすぐ近くだったからです。アクアビット航海記 vol.12〜航海記 その1にも書きましたが、わが家は阪神・淡路大地震で全壊しました。そこで家族で住む家を探したのが私でした。家は大学の友人たちに手分けして探してもらいました。そしてほどなく、私の一家は関西大学の近くに引っ越しました。この時家を見つけてくれた友人には20年以上会えていません。N原君、覚えていたら連絡をください。
さて、家の近くに大学があったので、卒業したはずの私は在学生のようにぬけぬけと政治学研究部や大学の図書館に入り浸っていました。

その時の私は多分、光画部における鳥坂先輩のような迷惑至極な先輩だったことでしょう。鳥坂先輩と同じく大義名分として公務員試験を受ける、という御旗を立てて。それは、私自身でも本当に信じていたのか定かではない御旗でした。ちなみに鳥坂先輩が何者かはネットで検索してください。

1996年の10月。西宮に新しい家が完成し、西宮に戻ることになりました。引っ越す前には幾度も西宮に赴き、引っ越し作業に勤しんでいた記憶があります。なにせ、時間はたっぷりありますから。

孤独な日々

そう、時間だけは自由。何にも責任を負わず、親のスネをかじるだけの日々。この半年、逆の意味で時間の貴重さを噛みしめられたように思います。なぜなら、何も覚えていないから。インプットばかりでアウトプットがないと、時間は早く過ぎ去ってゆく。責任がないと、ストレスがないと、何も記憶に残らない。私が得た教訓です。

ですが、1996年の4月から1999年の3月までの3年間はとてもかけがえのない日々でした。なぜならこの3年間も大学の4年間に劣らず私の起業に影響を与えているからです。この3年間に起こったさまざまなこと、例えば読書の習慣の定着、パソコンとの出会い、妻との出会い、ブラック企業での試練は、起業に至るまでの私の人生を語る上で欠かせません。

この三年で、私が得たもの。それは人生の多様性です。小中高大と順調に過ごしてきた私が、会社に入社せず宙ぶらりんになる。それもまた、人生という価値観。その価値観を得たことはとても大きかった。大学を卒業しそのまま社会に出てしまうと宙ぶらりんの状態は味わえません。そして、それが長ければ長いほど、組織から飛び出して“起業“する時のハードルは上がっていきます。人によってそれぞれでしょうが、組織にいる時間が続けば、それだけ組織の中で勤めるという価値観が心の中で重みを増していきます。
誤解のないように何度も言い添えますが、その価値観を否定するつもりは毛頭ありません。なのに私は23の時、すでに宙ぶらりんの気持ちをいやというほど味わってしまいました。そして、宙ぶらりんの状態もまた人生、という免疫を得ることができました。それは後年、私の起業へのハードルを下げてくれました。
起業とは、既存の組織からの脱却です。つまりどこにも属しません。起業とは多様性を認め、孤独を自分のものにし、それを引き受けることでもあります。卒業してからの半年、私の内面はとても孤独でした。表面上はお付き合いの相手がいて、政治学研究部の後輩たちがいて、家族がいました。でも、当時の私は、あっけらかんとした外面とは裏腹に、とても孤独感を抱えていたと思います。

本に救いをもとめる

その孤独感は、私を読書に向かわせました。本に救いを求めたのです。その頃から今に至るまで、読んだ本のリストを記録する習慣をはじめました。
当時の記録によると、私の読む本の傾向がわが国、そして海外の純文学の名作などに変わったことが読み取れます。
それまでの私はそれなりに本を読んでいました。推理小説を主に、時代小説、SF小説など、いわゆるエンタメ系の本をたくさん。ですが、私の孤独感を癒やすにはエンタメでは物足りませんでした。純文学の内面的な描写、人と人の関係の綾が描かれ、人生の酸いも甘いも含まれた小説世界。そこに私は引き寄せられていきました。私はそれらの本から人生とはなんぞや、という問題に折り合いをつけようとし始めました。

もちろん、それを人は現実逃避と呼びます。当時の私が本に逃げていた。それは間違いありません。でも、この時期に読書の習慣を身に着けたことは、その後の私の人生にとても大切な潤いを与えてくれました。おそらく、これからも与えて続けてくれることでしょう。

この時、私が孤独感を競馬、パチンコなどのギャンブル、またはテレビゲームなどで紛らわそうとしていたら、おそらく私がここで連載を持つ機会はなかったはずです。
とはいえ、私はギャンブルやゲームを一概に否定するつもりはありません。きちんと社会で働く方が、レクリエーションの一環で楽しむのなら有益だと思います。ですが、時間を持て余す若者-当時の私のような-がこういった一過性のインプットにハマったら、後に残るものは極めて少ないと言わざるをえません。
私の中の何が一過性の娯楽に流れることを留めたのか、今となっては思い出せません。自分の将来を諦めないため、私なりに本からのインプットに将来を賭けたのでしょうか。いずれにせよ、本から得られたものはとても大きかった。私もこういうクリエイティブな方向に進みたいと思わせるほどに。

次回も、引き続き私の日々を書きます。


アクアビット航海記 vol.13〜航海記 その2


あらためまして、合同会社アクアビットの長井です。前回にも書きましたが、弊社の起業物語をこちらに転載させて頂くことになりました。前回からタイトルにそって弊社の航海記を書いていきます。以下の文は2017/11/2にアップした当時の文章そのままです。

大学に入るまで

1996年の3月。私は大学を卒業します。4年制の大学を無事に4年間で。単位も取得し、卒論も提出した上で。その時の私に唯一足りなかったこと。それが4月からの就職先です。

なぜ、そういう事態になったのか。それは本連載の第12回で書いた通りです。私の自業自得。身から出た錆。それ以外の何ものでもありません。私自身に社会に出るだけの準備が整っていなかっただけの話です。モラトリアム(猶予期間)への願望もあったけれど、それは理由にはなりません。誰の責任でもなく、私自身の甘えが招いただけの話です。

では私は大学の4年間、何をしていたのでしょう。単に親のすねをかじって遊び惚けていただけなのか。それとも何かを目指していたのか。たとえば起業を志すとか、学問の世界で身を立てるとか。内定もとれず、大学を過ごした私に志はなかったのでしょうか。いえいえ、そんなことはありません。

高校卒業後、私は関西大学の商学部に現役で入学しました。他にも甲南大学にも受かったのですが、そちらは辞退しました。では当初から商学部に入学したい強烈な動機があったのか。そう聞かれると答えに窮します。正直なところ、商学部にしか受からなかったから商学部に入った。それだけの話です。浪人も面倒だったし。

高校生の私は環境問題に関心がありました。未熟で世間知らずであっても社会のために役に立ちたいと志す気概は持っていたのです。ところが、環境問題を専攻するには理系の学部に入るしかなかったのです。そして私の成績は完全に文高理低に偏っていました。国語と社会は上位、ところが数学や理科は落ちこぼれ。とても将来プログラミングで身を立てるとは思えない体たらく。高校時代の私にはPCやプログラミングの気配など全くなく、スーパーファミコンやPCエンジンでゲームしていたのがせいぜいでした。そんなわけで、私の志とは違って文系の学部にしか進学できませんでした。

商学部で学んだ起業への素地

でも、商学部で学んだ経験は無駄にはなりませんでした。入った当初はまったく興味がなく、必修の語学については苦痛でしかありませんでした。ところが商学部の専門コースに進んでから、少しずつ興味を惹かれ始めたのです。特に、マーケティング論。興味をもって勉強もしたし、優良可の優をとるぐらいには理解していました。いまでも、地方に旅行すると地元のコンビニやスーパー、道の駅巡りは欠かせません。いろんな商品を見て歩き、パッケージに感動する。それはこの時にマーケティング論を学んだ影響が尾を引いています。簿記の初歩も大学の授業で学び、簿記三級の合格が単位取得条件だったのでそれも取りました。こうやって振り返ってみると、勉強も結構していたのですよね。連載の第12回では、私の大学時代は遊びまくっていたように書きましたが。多分、興味を持った授業はそれなりに出ていたということでしょう。ただ、当時の私を振り返ると、将来起業に役立つと考えて授業に臨んだことは一瞬たりともありませんでした。当時はそこでの授業が自分の人生にどう役立つのかまったくわからないまま。でも、商学部での学びは起業の糧となっているのです。

もし本連載を読んでいる学生の方がいらっしゃったら、大学の授業はおろそかにするなかれ、と忠告しておきたいです。

部活動を率いて学んだ起業への素地

あと3つ、大学生活で得た起業の糧があります。一つは部活動です。商学部の私が、なぜか政治学研究部に所属することになりまして。理由は、高校の同級生が関大の法学部に入り、その彼に誘われただけのことです。3回生になった私は政治学研究部の部長を務めます。いまから考えると部活動内容も学生の戯れに過ぎませんでした。が、なんであれ組織を率いるという経験は貴重です。私は高校時代にもホームルーム長(級長)を2回務めたことがあります。ですが、高校のホームルーム長は担任の先生の指導の下、高校の枠の中の役職でしかありません。ところが、大学の部活動における部長にはとても強い自治権が与えられます。その経験は、後年、私が“起業”する上で良い経験となりました。大学時代の私は今よりも人見知りの気質が強かったと思います。今のように積極的にいろんな集まりに飛び込んでいく度胸もありません。そんな未熟な私でしたが、政治学研究部で培った交流関係や、一緒に実行した数々の無謀なイベントはとても得難いものでした。そういうへんな度胸を発揮したり、枠をはみ出たりする楽しさ。私に大学のキャンバスライフを楽しませてくれたのが、この部での体験でした。政治学を専攻する部なのに。生まれて初めて検便を提出したのも学祭のやきとり屋。生まれて初めて貧血で倒れたのも学祭のプロレス観戦中。生まれて初めて胴上げされたのも学祭の後。学祭も政治学研究部で参加しました。いまだにこの部の仲間とは交流が続いていますし、この時に過ごした皆には感謝しかありません。あと、私が社会に出るにあたり大変お世話になった先輩と出会ったのもこの部でした。この方については私の起業人生に関わってくるのでまた触れたいと思います。

話はそれますが、大学の入学時には馬術部にも勧誘されました。新歓コンパまで出ながら、結局入部することはありませんでした。この時、私が馬術部に入っていたらいったいどういう人生を歩んでいただろう、と思うことがたまにあります。内定なしで卒業したことも含め、私は自分の大学時代に後悔は何一つありません。が、この時、馬術部に入らなかったことはいまだに心残りです。朝早いのがいや、という理由で断ったことなど特に。

もし本連載を読んでいる学生の方がいらっしゃったら、どんな仲間でもいいから、とにかく楽しめ、そしてどんな形でもいいから上にたて、と忠告しておきたいです。

次回は、私のキャンバスライフで得た残り2つの起業への糧を述べてみます。


アクアビット航海記 vol.12〜航海記 その1


あらためまして、合同会社アクアビットの長井です。前回にも書きましたが、弊社の起業物語をこちらに転載させて頂くことになりました。第二回~第十一回までは起業のメリット/デメリットを述べました。今回からタイトルにそって航海記を書いていきます。以下の文は2017/10/26にアップした当時の文章そのままです。ただ、今回参照しようとしたところ、すでに元サイトはキャッシュにしか残っていない模様です。それも踏まえ、今回の連載再開にあたっては、5回に一度ほど、起業についてのコラムを書いていこうと思います。

私の起業への歩みは、ノウハウでもコツでもありません

なぜ、私が“起業”したか。なぜノウハウも人脈もない中、起業に踏み切れたのか。それを説明するのは困難です。なぜならなりゆきだったからです。なりゆきに導かれるように起業にたどり着いた。それが私の起業の経緯でした。よくあるように、たった一度の機会を生かし、清水の舞台からえいやと飛び降りた起業ではないのです。もちろん、強固な目的意識もなければ、明確なスケジュールに沿った起業でもありませんでした。ですから、本連載では起業のノウハウは記しません。起業へのわかりやすいステップも示しません。また、皆様に独立のコツやタイミングの指南もしません。いや、“しない”のではなく“できない”のです。私は起業コンサルタントではなく、今後なるつもりもありませんので。

そうなると、本連載って何やねん。というツッコミが入りそうです。こういう場をいただいている以上、何かしらの気づきや手応えをつかんでもらわなくては連載の意味がありません。たぶん、私が本連載で伝えるべきは起業のコツやノウハウなのでしょう。成り行き任せで“起業”したのに10年以上も事業を続けられているのもどこかで起業のコツを実践していたのでしょうし、適したタイミングで手を打ったのもノウハウと言えるかもしれません。私自身が、決して起業の奥義やツボを会得しているわけではないのですが、書き連ねた内容の中からヒントをつかみ取っていただければうれしいです。

大学時代の就職活動で挫折を味わいました。

私には三親等以内の親族が30名強います(妻側の親族は除く)。その中で私の知る限り、自営業や経営者はいなかったように思います。みなさん、公務員や教師や会社員、主婦など堅実な道を歩む方がほとんどです。つまり私は一族の異端児。そういう一族に生まれた私は、世が世なら“起業”せずに勤め人として平穏に過ごしていたと思います。しかも、東京に出ることなく関西にずっと住んでいたはずです。では、何が私を起業に向かわせたのか。それを解くには大学時代にまでさかのぼる必要があります。

浪人もせず現役で大学に入るまでの私は、親の保護下で順調に成長して来ました。が、大学の自由な風は私のリズムを崩したようです。今思えば無軌道なキャンバスライフだったと思います。いや、楽しみました。それに悔いはありません。無軌道で無鉄砲な学生時代でしたが、それでも留年もせず四年で大学も卒業できたのです。ですが、卒業した時の私は、一つも内定を持っていませんでした。これが私の転機でした。小中高大と浪人も留年もなく過ごしてきた私にとって初めての蹉跌。それが就職活動だったと思っています。いまさら振り返っても仕方ないのですが、もしここで普通に就職していたら私の人生行路もずいぶん違っていたことでしょう。

なぜ内定がとれなかったのか。それは私の実力が不足していたことに尽きます。が、それ以前に就職活動をナメていたのですね。いま思えばずいぶんと横紙破りな就職活動だったと思います。リクルートスーツこそかろうじて着ていました。ですが、自転車や車で面接会場まで行ったり、営業ではなく商品企画を希望したり。就職氷河期と呼ばれた真っ只中にありながら、よくぞ甘えていたものです。現在の私が当時の私を面接しても多分落としていたと思います。それでも、いくつかは最終面接まで行きました。そして、最終面接で内定をもらったと勘違いし、それ以降の就職活動をやめてしまうほどに私は若かった。

一つだけ当時の私を擁護させてください。それは、阪神・淡路大震災です。就職活動の年の一月に起きた地震。この地震は私の家を全壊させました。その経緯はブログにも書いたのでここでは繰り返しません。そして、この経験は私の人生観に多大な影響を与えました。人の命のはかなさ。人生は一回きりであるとの達観。そこに、地震を体験したことによる高揚感が加わりました。そんな精神状態で私は就職活動に臨んだのです。そして、あまり断られず順調に最終面接まで行ったのです。そこで就職をナメてしまった。若かったですね〜。

就職活動を辞めた私は、その夏休みを遊び倒します。若狭、広島、福岡、長崎、柳川、厚狭、台湾一周、沖縄。無論後悔はありません。いまでもこの夏の思い出は鮮烈です。そして、この夏の充実は今にいたるまで私の理想の日々です。それ以降、どうすればこの夏のような生活が送れるか、を模索する基準にもなりました。昔はよかったな~、ではなく、この時のような生活を送るために前向きな気持ちで。

1995年は奇しくもITにとってエポックな年でもありました。

この年に起こった出来事は阪神・淡路大震災だけではありません。オウム真理教による地下鉄サリン事件も起きました。当時の私は、大学や駅で宗教に勧誘された経験があったので、宗教からは距離を置いていました。これは現在もかわりません。あと一つ、この年はWindows95が発売された年でもあります。当時の私はパソコンを職業にするなどまったく視野の外。それどころかWindowsにもほとんど興味がありませんでした。先輩から譲ってもらったX68000というパソコンでネット通信を楽しみ、ゲームを楽しむ程度にはパソコンを使っていましたが、仕事でパソコンを使うなど、想像すらしていませんでした。

そんな1995年。新卒で採用される大学生の進路ルートからそれた日々。この年、私の人生に就職活動の失敗という一つの転機が生じたのです。