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アクアビット航海記-打たれてもへこたれない


今までの連載を通じ、私の人生を振り返ってきました。
私の人生は決して平坦なものではありません。
何度も凹まされ、傷ついてきました。鼻をへし折られるぐらいならまだしも、やくざさんの家に飛び込み営業で殴られたり、営業成績の不調でその場で丸刈りにされたり。本連載のvol.20〜航海記 その8で書いた通りです。

この後の連載でも触れますが、この後の私はもっと強烈なトラブルにも巻きこまれます。

今、自分で思い出してみてもよくやって来れたと思います。正直、その時々の自分がぶち当たった過酷なストレスをどうやってやり過ごしてこられたのか。自分でもよくわかっていません。

おそらく、持って生まれた性格もあったはずです。のんきでマイペースで、のんびりしていた性格が私を救ってくれたのでしょう。
私は中学生の頃にはいじめにも遭いました。そのたびに、心の中で何回も人を殴りました。数えきれないほどです。実際、中学の時に一度だけ切れて目の前が真っ赤になり、気が付いたらグーで相手を殴っていたこともありました。

切れる自分も知っています。今でも自分を聖人君子だとは思っていません。悪業にも手を染めたこともあります。欲望にも負けやすい性格です。自分は今でも人様に誇れるほどの人間ではないと考えています。

本稿は8月10日に書いていますが、8月6日に小田急線で傷害事件がありました。車内で切れて何人もの人を刃物で刺した事件です。私も影響を受け、二駅を歩いて帰りました。
報道によると、犯人は思い通りにならないことが重なった揚げ句に切れて凶行に及んだようです。

もし私が今までの人生で今回の犯人のように切れていたら、私の今はありません。もしくは、人に切れる前に自分の中が切れて精神に失調をきたしていたかもしれません。

そこで今回は、メンタルについて書いてみたいと思います。

なぜメンタルか。それは、独立や起業を行う上で、メンタルのセルフケアは必須だからです。場合によっては会社勤めの方がよかった、と思うような目にも何度も遭うはずです。そのあたりについては、本連載の最初の頃にメリットとデメリットとして書かせていただきました。

ですが、そのたびにお客様やパートナーとケンカを繰り返していたのでは成長はありません。
もちろん、私もそうしたケンカをしてきました。多くの失敗の果てに今の私があります。そうした失敗の中には、この方には足を向けて寝られないといまだに後悔する失敗も含まれています(この後の連載で書くつもりです)。

どうやれば、メンタルを平常に保てるのか。

まず、過去を忘れないことです。むしろ、過去は何度も思い返すべきです。失敗を何度も何回でも。その時も反省する必要はありません。反省を義務にするぐらいならむしろ居直って開き直った方がよいぐらいです。自分は決して間違っていないという思いを強くしたってよいのです。
悔しい思いや屈辱を何度も自分の中で思い起こすことは耐性となって自らを鍛えます。どれほどの苦しい思いも、当事者だったその瞬間に比べると痛みは比較にならないほど楽に感じるからです。
私はそのことをvol.20〜航海記 その8に書いた当時に学びました。
当事者であるその瞬間が一番しんどい。その時に味わった屈辱は、その瞬間をやり過ごせば過去の記憶に変わります。やくざに監禁されそうになる恐怖や、衆人環視の中で頭を刈られる屈辱ですら。

私はこうした記憶や他にも無数にある記憶を何度も何度も脳内にフラッシュバックさせました。大成社にいた当時の辛さは上京して結婚し、子供が大きくなった6,7年の後も夢で私を苦しめました。ですが、ときぐすりとはよく言ったものです。今では完全に克服しました。
むしろ、そうした振り返りを幾度となく行うことで、自分が客観的に見えてきます。すると今の立場からの批評も行えるのです。批評は、あの時はああすればよかったという改善へとつながります。

私の場合、何度も何度も脳内で耐え抜いたためか、同様の出来事にあっても前の経験と比較できる余裕まで生まれるようになりました。
私はそのため、当時を忘れるよりも、むしろ薄れる記憶を呼び起こそうとします。数年前に大阪を訪れた際、わざわざ大成社のあった大国町のビルにも訪れました。この後の連載で触れる昭島市の某倉庫には近くを通るたびに訪れるようにしています。

ストレスをやり過ごすもう一つのコツは、過去の嫌な出来事を思い起こすのと同じぐらい、自分の人生でよかった瞬間を思い起こすことです。
例えば小学校の球技大会で決めたシュートや、先生や親に褒められた体験。旅行でやり遂げた達成感や何かのイベントを無事に過ごせた陶酔感など。

私の人生に劇的な瞬間はそう多くありません。ですが、思い出してみるとそうした成功体験のようなものが見つかりました。たとえささいな経験であっても、誰にもこうした幸せな経験の一つや二つはあるのではないでしょうか。

苦しかったことや楽しかったことを思い出す習慣。それは、両方をひっくるめての人生という考えに導いてくれます。
私が持っている人生観は、人生の谷と山を均すと平らになるというものです。禍福は糾える縄の如しにも似ているかもしれません。
結局、苦楽が繰り返されての人生です。今のストレスは未来のハピネスの前触れでしょうし、今回の幸いは、次回の辛いによってあがなわれます。そう考えておけば、何が来ても恐れることはありません。

もう一つのストレスから逃れるコツは、さまざまな人生を知っておくことです。さまざまな人の話を聞くのもよいでしょう。小説を読んで登場人物の運命に心を痛めるのもよいでしょう。自伝や伝記から偉人の蹉跌やそこからの這い上がりを参考にするのもよいでしょう。映画や漫画やアニメから心を揺さぶられるのもよいでしょう。
自分に人生があるのなら、今まで生きてきたあらゆる人にもそれぞれの人生があったはずです。あらゆる人生の姿やあり方をストックとして持っておけば、自分だけが特別と感じる罠から逃れられます。
小説や映画の効用は、あらゆる人々の感情の動きに自分を委ねられることです。しかもそれを自分自身の痛みとして感じるのではなく、あくまでも作中の人の被った痛みとして苦しまずに追体験できます。小説や映画に若いうちから多く触れておくことは人生のさまざまな形を教えてくれるのでお勧めです。
結局、人は等しく最後には死ぬのです。それまでの道のりがどうであろうとも、最後には前へ前へと押し出され、死が安らかな眠りをもたらしてくれます。そう思えば、人生の出来事に一喜一憂せず、日々を少しでも楽しく生きようと思えませんか。

繰り返しますが、私は大した人ではありません。今でも何かのイベントに登壇する際は緊張します。
ですが、それは必ず乗り切れると思えるようになりました。
私はイベントに臨む前、こう考えるようにしています。
「当事者である瞬間はやがて必ず終わる。」
「時間は止まらず、必ず前に進む」
自分が失敗して恥をかこうと、人に迷惑をかけてしまおうと、自分も含めて前へ前へと押し流してゆく。それが時間です。全ての人や物事に止まることを許さない。それが時間のありがたみです。

明日プレゼンが控えていようが、大きな商談が控えていようが、その瞬間はやってきて、そして去っていきます。人生とはその繰り返しにすぎません。失敗してもそれを取り返す努力さえすれば、次のチャンスはいつの日か巡ってきます。
そのためにも、辛かった経験や楽しい経験を何度でも思い返してみましょう。その繰り返しが自分の中に改善案やひらめきを必ず与えてくれます。すると苦しかったことも楽しかったことに変わるのです。

いかがでしょう。打たれてもへこたれない私のコツを感じていただけたでしょうか。もちろん、本稿が全ての人に当てはまるとは思いません。ですが、皆さんにとって少しでも参考になれば幸いです。


アクアビット航海記 vol.20〜航海記 その8


あらためまして、合同会社アクアビットの長井です。
弊社の起業までの航海記を書いていきます。以下の文は2017/12/14にアップした当時の文章が喪われたので、一部を修正しています。

お付き合いのために就職活動

妻とは、1998年の初夏ごろからお付き合いすることになりました。
妻はすでに歯科医免許を持っている歯医者さん。大学病院に勤めつつ実家の歯医者でも手伝っていました。
かたや私は、持っている免許といえば自動車運転免許だけ。要するに一介のアルバイトです。あまりにも差がありすぎる境遇。
たぶん、普通の人ならここで高嶺を仰ぎ見るだけで終わるのでしょう。
ですが、鬱から抜け出し、昇り竜のような私にとってそんな立場の差など無関係。仰ぎ見る高嶺が富士山だろうがチョモランマだろうが意に介しません。ましてや、世間体など当時も今も眼中の外です。
どれもこれも、私の恋情を止めるには取るに足りないことばかり。
そんな訳で私のアタックは寄り切り寄り切り、そして金星につながりました。

お付き合いしてもらえることになったとはいえ、収入の差は歴然です。
私も相手にふさわしくならねば。
いつまでもアルバイトに甘んじとったらあかんわな。いかに能天気な私でもそう考えます。このままでええわけあらへんわな、と。
そこで私は、それまで一切興味の湧かなかった就職へと舵を切ります。

私が目指そうとしたのは編集者です。
なぜ編集者なのか。
その理由はこの二年間の私の日々にあります。悩める日々、私は本を読みまくっていました。読書に耽溺していたと言ってよいほどに。
私を鬱に陥れ、そして回復させてくれた本たち。本はまた、私に人生の意味を教えてくれました。
そのような経験を積ませてくれた本を生み出す仕事に携わりたい。そう思うのは自然な流れではないでしょうか。
編集者として生きる中で、私自身がクリエイティブな職種に就ければ望むところです。例えば作家や物書きのような。

ただ、私の中では、文学の熱に浮かされているだけでは生計が成り立たず、結婚もおぼつかないとの冷静な理性も残っていました。
生計を立てるなら、まずは編集の仕事をしてみよう。

そんな訳で、1995年の夏、就職活動を放り出してから3年にして、ようやく私は就職活動に復帰します。
私のターゲット業種は出版社。職種は編集。

当時の私に向かって「自分、将来、情報処理業界で会社を作るんやで」と伝えたら、どういう反応を返したでしょう。
多分、「は?なにゆうてんの自分?」という反応が返ってきたはずです。
なぜなら、当時の私の人生設計に情報処理業界は全く入っていなかったからです。

芦屋市役所で身につけたExcelのマクロは、本稿を書いている今の私がみても初歩の初歩です。ましてやデータ登録のスキルだけで生きていけないことは、派遣社員での経験でも明らか。
そもそもデータ登録と情報処理業界は私の中では別物でした。
もっとも始末が悪いのは、情報技術やプログラミングに当時の私が全く興味を持っていなかったことです。
私がプログラミングの面白さに気づくのはまだ先の話

後先を考えずに、出版社に履歴書を送り始めた私。
ところが編集経験が全くない人間を雇ってくれる奇特な出版社などあるわけがないのです。
そもそも、出版社はほとんど東京に集中しています。兵庫に住む私が、東京に何通履歴書を送ったところで、返ってくるのは丁重なお断りの文章だけ。
ところが、一社だけ私を面談してくれる出版社がありました。
そんな奇特な出版社こそが中央出版さんです。

ブラック企業でしごかれ消耗する

無知でウブな当時の私は、中央出版さんに面接に出向き、編集の仕事を希望しました。
正確に言えば私が面談を受けた会社とは、中央出版さんのグループ子会社にあたる大成社さんです。
面接の会場には、Blurの「Tracy Jacks」が流れていました。
この曲のサビの部分「Tracy~Jacks♪」は「たい~せい~しゃ~♪」と聞こえるのですよ。
おお、何と遊びごごろのある会社、と間抜けな私は喜びました。
数日もたたずに採用のご連絡をもらった際も、私はまだ、夢見る気分で漂っていました。

それまでお世話になった社会保険労務士さんには、出版社に勤めることになったので、とお暇を告げました。

そんなウブで無知な私は、初出社の日から猛烈な嵐に巻き込まれます
大成社での日々については以下のレビューの後半で書いています。

なお、上のレビュー内では名を伏せましたが、本連載では大成社と実名を出します。
中央出版さんはグループ会社をオトナノジジョウでスクラップ&ビルドすることで知られています。
もちろん、大成社はすでに廃業済み。影も形もありません。
もっともウェブで検索すると、大成社の伝説の数々はそこかしこに登場するのですが。

大成社での日々を上のリンク先から引用してみたいと思います。

その会社は出版社の看板を掲げていた。しかしその実態は教材販売。しかも個人宅への飛び込みである。出社するなり壁に貼り付けられている電通鬼十則をコピッた十則を大声でがなり立てる。挨拶もそこそこにして。

朝礼は体育会系も真っ青の内容で、絶え間ない大声と気合の応酬が続く。しかし、そこに単調さはない。きちんと抑揚が付けられている。おそらくは営業所のリーダーの裁量にもよるのだろう。前日に成果を上げた者には惜しみない賞賛の声が掛けられるが、一本も成果を上げられなかった(ボウズと呼ぶ)者には、罵声が浴びせられる。私は数日ボウズが続いた際、外のベランダに連れ出され、髪型のせいにされてその場で丸刈りにされた。これホント。私がクビを告げられたのも朝礼の場。

朝礼が終わった後は、ロールプレイングと称する果てしないやりとりの復習。詳細な住宅地図から描き出す訪問ルートの策定を中心とした行動計画。担当毎にエリアが割り振られ、その地域を一定の期間訪問し尽すまで、そのエリアへの訪問は続く。

朝こそ12時出社だが、成績が悪いと10時出社の扱いになる。無論朝からロールプレイングの時間が待っている。派遣地域から営業所に帰ってくるのが22時前後。それから明日の営業資料の整理やら反省会やらがあり、終電は当たり前。そんな中、朝10時出社は厳しい。

・・・このレビューに書いたことは事実です。例えば、知らずにヤクザさんのところを訪問し、しつこくねばった結果、掌底で殴られ監禁されそうになったくだり。本当です。ベランダで丸刈りにされたのも同じく。

離職することを前提とした採用。
ふるい落とし、選ばれなかった者に待っているのは退職のみ。
厳しい職場で勝ち残り、成果を挙げた者だけが希望の業務に就ける。そんな容赦ない弱肉強食の社風。
成績優秀者は皆の前で100万円以上の厚みのある札束が渡されます。現ナマです。
振り込みなどという生ぬるい給与の渡し方はしません。徹底的なアメとムチの世界。
ボウズが続けば、固定給しかもらえません。かわりにもらえるのは数限りない罵声と叱咤の嵐。
その圧倒的な格差を前に、奮い立つ人もいます。這い上がる人もいます

それまでの人生、私の人生は浮き沈みこそあれ、平穏でした。
もちろん中学の頃はイジメにも遭ったことはあります。理不尽な目にも遭いました。
でも、それは同じ級友の間のいわゆるなれ合いの中のイジメです。
ところが私が入ってしまった大成社とは、なれ合いすらも許さぬ会社でした。平穏こそは悪と言わんばかりの。
ネットで検索すれば、今もブラック企業のレジェンドとして名を残す大成社。
私が社会の厳しい現実を嫌というほど教えられたのが大成社での日々です。
1998年の11月からの約3カ月間。

1999年の2月始め、私は皆がそろう朝礼の場でクビを宣告されました。
この時に受けた強烈な屈辱は、丸刈りにされた時の記憶と相まって私を打ちのめしました。
私が東京に出て結婚した6、7年後になっても、この時の経験は夢に出てきたほどです。
私と同時に大成社に入社した10人ほどの同期は、私がクビにされた時点ですでに3,4人しか残っていませんでした。もちろん、皆さんクビです。

ただし、大成社で過ごした3カ月の全てが無駄であり、苦痛でしかなかったと書くのはフェアではありません。良いことだってわずかですがありました。
例えば契約を獲得すると、ホワイトボードの名前の下にピンクのバラが飾られます。よく選挙当選者の名前の下に貼られるような感じの。
私は3カ月の間に1,2度しか達成できませんでしたが、1日に2件の契約を獲得したこともあります。それは「ダブル」と呼ばれ、帰社すると拍手で迎えられます。翌日の朝礼でも称賛は惜しみなく与えられます。

私は、自分が売り込む商材である3000円のテストにも、テストを受けた家庭に売り込まれるゴールウィンという教材にも愛着が持てませんでした。
そんな心持でありながら、当時の私はノルマや売上に追われていました。そして、訪問の間に一軒でも多くのお宅にテストを受けてもらおうと脳内をたぎらせ、目を血走らせていたのです。
ところが、そんな充血の毎日にも救いはありました。
数多くのご家庭を訪問していると、中には心温まる家庭にも出会えたからです。
もちろん、ほとんどのお宅ではケンもホロロに門前払いを食らいます。
でも、中には、頑張ってるわね~と私をねぎらってくださるご家庭だってあったのです。
心身ともに追い詰められた気持ちで、訪問したお宅のお子さんとその保護者様を相手にトークを展開しながら、親身にお子さんの将来を案じる保護者様の気持に胸が熱くなったことも1,2度ではありません。
私に門だけでなく、心も開いてくださったご家庭に対しては、たとえ契約に結び付かなかったとしても温かい気持ちを抱いて辞去することができました。

また、大成社の大阪支店には諸先輩方がいました。
私についてくださった先輩はHさんといい、一生懸命に指導してくださいました。
理不尽で不条理な日々であっても、全ての経験が暗黒ではなかったことは書き添えておきたいのです。

ブラック企業で培ったもの

”起業”した今、私はいろんな会社を訪問する機会があります。
一度も伺ったことのない会社へ単身で訪問することも多いです。
ですが、気後れすることはありません。
これは大成社での過ごした3カ月、毎日、果てしない数のお宅へ飛び込み訪問した経験のなせる業です。
今でも、飛び込み営業をやれ、と言われれば契約がとれるかどうかは別にして、やれる自信はあります。
当時、何百軒も飛び込み訪問した経験はダテではありません。

また、”起業”すれば深夜や土日に働くことなど普通です。
お客様に怒られることだってあります。
でも、大成社での日々に比べれば、どれも大したことではありません。それ以上に苦しかったからです。
負けて打ちのめされればそれまで。
ところが、結果として生きながら得たことで(私の場合は乗り越えたわけではありませんが)、その後の試練に耐性がつきました。
私が打たれ強くなったのは、この時の経験からです。

また、つらい時期も過ぎてみればそれまで、という人生訓を得たのもこの時期です。
大成社での日々は、私が”起業”する上で欠かせないイニシエーション(通過儀礼)だったと思います。

ただし、”起業”するためには、あえてこうしたブラック企業に飛び込むのがよいか、と問われれば迷います。
今の私は、大成社の夢にうなされることはありません。
ですが、もし私の娘や友人や知り合いがブラック企業に就職すると聞けば、間違いなく反対するでしょう。
それはそうです。私自身が二度とやりたくないのに、人に勧めるわけがありません
休みには、どこにも出歩く気力がないほど疲れ果て、当時、付き合っていた妻と電話で話すことが精一杯。周囲から追い詰められ、夜も昼も追い込められる日々。
人にはおのおの、耐えられる閾値があります。
私はたまたま、精神を病む前にクビになって解放されました。
それ以上いたら、再び鬱に陥り、本稿を書く機会もなかったかもしれません。

大成社よりも過酷な、そして人権をないがしろにするような職場は他にも多く存在することでしょう。
そのような職場に耐えられるかどうかはその人次第です。
クビになったからといって気に病むことはありません。逃げられる気力が残っているうちにさっさと逃げたほうがよいです。
”起業”した今、私はパートナー技術者や部下に対し、絶対にブラック企業が行うような使い捨てをしないと決めています。
それも、大成社での経験を反面教師としているからです。
本稿に書いたのは、あくまでも私の個人的な経験、そして結果論でしかありません。

ただ、それを踏まえても、ブラック企業での経験は得難いものでした。今となって振り返れば。
そこでの日々は、私を強く鍛えてくれました。
私の人生を振り返っていえるのは、この試練をくぐったことで、人生の次のステージに進めた
、ということです。
大学四回生の夏から始まった3年半のぬるま湯につかった日常。それらは一掃されました。

朝礼の場で皆の前でクビを言い渡された屈辱。
それは、私をさらなる行動へと駆り立てます。
次回はそのあたりをお話ししたいと思います。ゆるく永くお願いします。