弊社は、福島を応援します。(まとめ版)


先日ブログに書いたとおり、9/30~10/2にかけて福島県郡山市に滞在していました。私の生涯で初めての郡山訪問。そして福島県の方々との触れ合い。今回の旅は、私の心にとても強い印象を与えました。

郡山は、私が個人として招待された初めての都市です。組織の名を背負っての訪問ではなく、物見遊山としての一人旅でもありません。仕事として個人の責任で訪問した初めての都市。それが郡山市です。

今回の郡山訪問は、郡山商工会議所でのセミナー講師として、kintone Café 福島 Vol.1の登壇者としての訪問です。それは一期一会で通りすがるだけの旅人としての訪問とは明らかに違います。旅人として受け取るだけではなく、ビジネスとして与えなくてはなりません。そこが、今まで私が経験してきた旅とは明らかに違う点です。

また、私にとって郡山を含む福島県は、特別な意味を持っています。それは福島県が東日本大震災で未曽有の被害にあった県だからです。2011年3月11日の揺れとその後の混乱。それは私に阪神・淡路大震災で味わった経験を思い出させました。しかし、東日本大震災の被害を前に、私は仕事にかまけ何一つ手伝うことができませんでした。せいぜいがPray For Japanのアルバムを購入したり、石巻の酒屋で津波から救い出されたWhiskyを梅田のBarで頂いたりした程度です。それらの行動はチャリティー参加とはいえ、単なる消費でしかありません。また、地震から2年半後に家族でいわき市のスパ・リゾートハワイアンズを訪れもしましたが、それすらも単に気楽な旅人としての訪問にすぎません。

自分が東北の人々に何も貢献できていない引け目は、5年半の間、私の心に巣食っていました。今回、初めて仕事で郡山を訪れ、郡山の皆様の前で何がしかのお話ができたことで、少しは私の中の引け目が軽くなったように思います。もちろん、これが私の個人的な自己満足に過ぎないことは承知の上ですが。

このエントリーに続いて、私が郡山に訪れて感じた印象を、三日間に分けて日記調に記そうと思います。また、三日間に撮りためた数百枚の写真の中から数十枚を選んで載せようと思います。それらの写真には、他の地域となにも変わりない、美しい日本の風景が写っています。郡山、須賀川、そして猪苗代。これら写真に写る光景は、私の心を癒やしてくれました。美しい福島の光景を皆様にもお伝えできたらと思います。そして私が郡山や福島の人々の温かみに触れたことで、何を得、何を感じたか。それが皆様に伝わればよいと願っています。


5月を終えて(1期目の決算完了)


まもなく5月が終わろうとしています。

そして弊社にとって第二期はすでに始まっています。緑がまぶしい5月は、弊社にとっても成長の月。今月は色々と弊社にとってエポックメイキングな月となりました。

まず、この度、第一期の決算も無事完了いたしました。金曜日(5/27)に税理士の先生と打ち合わせ、その結果を受けて先生が電子申告作業を行って下さいました。これでまず税務報告は一旦完了です。さらに本日(5/31)は決算の結果から導出された法人税額の納付も完了しました。また、同時に先生からは申告書類一式も届きました。まずは一期目を無事乗り切ったという安堵感があります。税理士の先生のお力の賜物です。この場をお借りして改めて御礼申し上げます。

5月は弊社にとっては初の主催イベントの実施月としても記録される月です。連休明けの5/9に株式会社テクネコ様と共催の形でkintone Cafe 神奈川 vol.2を催させて頂きました。まずはこういったイベント実施から、弊社の経験値と認知度を少しずつ高めていければと思います。こちらの開催レポートの執筆もまだなので、この後書き始めようかと思っています。

そのkintoneですが、5月は大型案件の受注があり、その開発作業と打ち合わせ作業にも勤しみました。打ち合わせの場で開発ができるというkintoneならではの効率の良さを活かし、なんとか明日(6/1)からのお客様の期首に合わせての運用開始に漕ぎ着けることができました。実質開発期間は3週間。まさにファストシステムの本領発揮といえます。弊社も今までに実践投入したことがないkintoneの機能を多数盛り込み、kintone Cafe神奈川の共催と併せてようやくエバンジェリストとして形になってきたかな、と思います。ほかにもkintoneの案件は複数お請けしているのですが、そちらも順調です。またその中でお客様からのご要望に応えて開発を行った結果、kintoneのアダプト機能としてサービス化できるかもしれない機能の開発に目鼻が立ちました。こちらは近日中にサービス化したいと思っています。

一方で、連休は完全に仕事一色でした。phpとMySQL。いわゆるLAMP+CodeIgniterの案件にかかりきりでした。ここ数年、CodeIgniterからは離れていたため、結構苦しかったのですが、弊社にとっては新たな武器として使えるようになったと思います。ただ、ワークライフバランスの観点からは完全に仕事側に振り切っていたので、そこは反省点です。

また、別の反省点としてはトイロハさんで連載していたkintone初心者用の執筆がストップしてしまっていることです。これは早く復活させねばと思っています。睡眠を確保しながらいかに連載を続けていくか。六月の課題です。

ただ、4月からは常駐先の稼動を半分に減らしたわけですが、今のところ両方が両立できているのではないかと思っています。これを今後も続けていけるようにしたいと思います。

この後も月替わり処理があるわけですが、昔から個人事業主としての弊社をごひいきにしてくださっているお客様も大切に。今後も業務に励みたいと思っています。


福崎の町に日本民俗学の礎を求めて


4月に福崎を訪れました。

福崎と言えば、日本民俗学の泰斗として著名な柳田國男氏の出身地です。

昨秋、友人たちと横浜山手の洋館巡りをした際、神奈川県立文学館で催されていた柳田國男展を訪れました。ただ、入館した時点ですでに閉館時間まで1時間しかなく、駆け足の観覧を余儀なくされました。短い間でしたが、柳田氏の生涯を概観して印象付けられた事があります。それは、氏が官僚を辞し、本格的に民俗学の探求を始めたのが40代半ばという事です。それなのに氏は日本民俗学を創始し、後世に巨大な足跡を遺しました。そのことは私のように中年にさしかかった者にとっては励まされる事です。柳田國男展の観覧記についてはこちらにアップしました。
生誕140年 柳田國男展 日本人を戦慄せしめよを観て

それ以来、福崎には一度行きたいとの思いは募るばかり。今回の関西出張に際し、1日休みを確保して福崎を訪れる事にしました。

なのに、例によって旅先で行きたいところを詰め込む悪癖が発症。福崎に滞在した時間は4時間と少し。そんな短時間では到底福崎を回りきれる訳もなく、次回の再訪に持ち越しとした箇所は両手に余ります。 そんな駆け足の訪問でしたが、柳田民俗学の揺籃の地としての福崎は目に焼き付けてきました。柳田氏自身が「日本一小さい家」と呼んだ生家と柳田國男・松岡家顕彰会記念館をじっくりと観て回れたのが良かったです。

福崎訪問マップ1
福崎インターから福崎駅までのルート
(クリックすると拡大します)

柳田國男生家を訪れる前に、福崎の町を車で流しました。福崎インターで高速を下り、典型的な郊外ロードサイドの風景を眺めつつ駅へ。駅の近くには旧市街の風情を残した道並みにも巡り会えました。駅からは福崎インターの方角へ戻り、インターを通り過ぎて柳田國男生家のある辻川界隈へ。車による移動だったため、街中を隈なく歩いたわけではありません。が、福崎を走って感じた捉えどころのない町という印象は今も拭えません。その印象は後日地図で確認しても同じです。どこが中心なのか分かり難い町。


福崎訪問マップ2
福崎駅から柳田國男生家付近までのルート
(クリックすると拡大します)
その印象は今も変わりありません。 銀行の支店や各種公共施設のある場所が町の中心点。私が今までに趣味の町歩きで得た経験則です。その伝でいけば福崎の中心とはすなわち銀行の支店のある場所と見なしてよいでしょう。福崎の町にある銀行の支店は駅周辺と福崎インター周辺に点在しているようです。福崎インターのすぐ側には町役場もあります。播但線の福崎駅と福崎インターという交通の結節点がすなわち町の中心点。地図から読み取れる福崎の地理はそのような構造になっています。ですが、私が訪れた際、福崎インター周辺に繁華街は見当たりませんでした。福崎駅近辺も同じ。駅付近には旧市街らしき由緒ありげな町並みはありました。が、その街並みも福崎の町のへそではなさそうです。結局、福崎にいる間、町の中心を見出せないままでした。

町の中心がないという事は、福崎の抱える地理的な条件による気がします。まず、町の東西を分断する市川の存在。さらには生野街道から離れた場所に設置された播但線の福崎駅の位置。それらは、福崎の発展に大きな影響を与えたと思われます。さらには播但有料道路が旧生野街道に取って替わるように南北を貫き、東西には中国自動車道が町を太く横切っています。昔よりも福崎の町が交通の結節点としての色を強めていることは間違いないでしょう。なのに、交通の要衝ではなく通過点でしかないのが今の福崎といえます。それらの交通網が町を結束させるどころか分断しているように思えました。

福崎訪問マップ3
柳田國男生家周辺の地図
そのようなとらえどころのない町の佇まいの中、柳田國男生家の周辺は、訪れた人の期待を裏切りませんでした。柳田少年が見たそれとは違い、今の風景が観光地化していることは確かでしょう。でも、現代人にはほっとできる風景であることに違いありません。

ただ、柳田國男生家の周辺が昔の風景を残していたとして、それは風景の中の話。私の目に映る福崎が、柳田國男少年にとってのそれと似通っている事が確認できただけの話です。肝心なのは柳田國男氏の築き上げた民俗学の礎を福崎に見つけられるかどうかです。その為に福崎に来たのですから。

そう考えると、生家周辺が農村風景を維持していようがいまいが、それは柳田國男氏の業績とは関係のない話です。確かに、福崎の町にヘソのない事は、柳田少年の心を旅人へと仕立て上げるには充分だったことでしょう。茫洋とした福崎の町並みにあって、その中に漂う風土のエッセンスを確かめたいという衝動。この衝動が少年を長じて民俗学へと向かわせたと言えなくもないのですから。

もちろん、柳田國男少年を民族学へと駆り立てたのは、そのような衝動だけではなかったはずです。福崎にあって松岡家は裕福ではありませんでした。それは五人兄弟という子沢山だったこともあるでしょう。でも、その五人が五人とも後に名を成したのですからすごいことです。柳田國男・松岡家顕彰会記念館と名づけられているのももっともで、この記念館で展示されているのは柳田國男氏のみではありません。他の四兄弟の業績や、父母のことまで紹介されています。長兄は医師で政治家としてあり、今でいう千葉の我孫子あたりの布佐町の町長まで務めた人物。次兄は眼科医の傍ら歌人としても皇室の御歌所寄人に撰ばれるほどの国文学の研究者。真ん中には柳田家に養子に入った國男氏。その下の弟は海軍軍人として大佐まで進み、病気で退役してからは言語学の学者として名を成しています。末弟は映丘という雅号で美大の教授として大和絵の大家となっています。五人ともがWikipediaに項目が設けられています。松岡五兄弟と称され後世でも顕彰されるだけのことはあります。おそらくは松岡家が貧乏だったのは、教育に金を使ったからでしょう。でもそれが後世に名を残すことになったのですから、そのことは安易に否定すべきではありません。記念館にはご両親の肖像画も飾られていましたが、この兄弟にしてこの親ありという面構えで私を射すくめました。

IMG_6504IMG_6491私が訪れた柳田國男生家は、昔ながらの茅葺の日本家屋。間取りとしては決して狭い家とは思えませんでした。少なくとも私には、柳田國男氏が日本一小さい家と呼んだのが卑下にすら思えました。でも、よく考えるとこの家屋に男五兄弟は狭すぎます。後には長兄が嫁をとり、その奥さんも同居したといいます。であれば、國男少年の記憶に日本一小さい家という記憶が染み付いたのも分からなくもないです。

この生家も随分昔、柳田國男少年が10歳のときに人手にわたり、辻川周辺を二箇所ほど転々とした後に福崎町が柳田國男生家として今の場所に移築した経緯があるようです。松岡五兄弟にとってみれば、福崎という町は終生郷愁を掻き立てられる地であったようです。しかし、身寄りのある親戚がいなかったため気軽に帰れる地ではなくなってしまいました。結局、長じた五兄弟の誰も福崎で暮らすことはありませんでした。でも、それぞれが郷愁を感じたのは確かのようです。柳田國男氏も「故郷七十年」という著書の中でこう述べています。

「村に帰っても、私には伯父も伯母もないので、すぐにお宮に詣って山の上から自分たちの昔住んでいた家の、だんだんと変形して心から遠く離れてゆくのを寂しく思い行く所といえばやはり三木の家であった。ゆっくり村の路を歩いて誰か声をかけてくれるかと期待しても、向うが遠慮して声をかけてくれない。私にとっては、山水と友だちになるとか、村人全体と友だちになるような気持ちで故郷に帰るのであったが、故處子の『帰省』の気持ちとだんだん違ったものになってきた」

この文章に柳田國男氏を民俗学へ向かわせたエネルギーが潜んでいると見るのは私だけでしょうか? もはや身寄りなく寄る辺もない故郷。しかしその故郷の風景や人々の暮らしが懐かしく思えてならない。喪われた故郷を自分の裡に再生するため、日本中を旅し、風俗を研究し、言葉の変遷を調べた。故郷再生こそが柳田氏の民俗学への情熱を支えた。私はこの文を目にしてそんな思いにとらわれました。

上の引用文にあるお宮、とは生家のすぐ脇に鎮座している鈴が森神社を指しているのだと思います。私も参拝しました。また、生家とお宮の間には路が上へと延びています。その先にあるのが上の引用文に出てくる山に違いありません。IMG_6502IMG_6507今回、この山へは時間を惜しんで登りませんでした。今更ながら登っておけば、と思います。登って山の上から辻川や福崎の町並みを一望するべきだったと思います。それぐらいこの付近は柳田國男少年の当時を保っているように思えたからです。かつてのよすがを思い起こさせるような静謐な環境の一方で、家族連れを呼び込むように、生家のすぐ前には辻川山公園が設けられ、その中の池には30分置きに河童の河次郎が現れます。これは私も目撃しました。池のほとりには河童の河太郎と天狗が待ち受けています。子供たちがうれしそうに河童の兄弟の30分おきの出会いを見守っていました。そのすぐ横には逆さ天狗が30分毎に現れるような仕掛けもできています。IMG_6479
辻川山公園からみたもちむぎの館
IMG_6488報道によれば丁度私が訪れる前の週から設置されたそうです。今回はタイミングを逃したのか見られませんでした。また、池のすぐ近くには福崎の物産を集め、食事もできる「もちむぎの館」といった施設も備わっています。きっかけはこういった観光施設でもいいのです。私も含めた観光客がこの地に訪れたことをきっかけに、柳田國男氏が生涯をかけて見つけようとしたものが何かを考えられればいいなと思います。少なくとも私には得られるものがありました。

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私が思う柳田國男氏とは、民俗学者である前に一人の旅人でした。違う土地の暮らしや人々の習俗に興味を持ち、調べて文章に著す。私がやりたいようなことを柳田國男氏は一生の業として歩まれました。氏が旅した当時、まだ日本にはかろうじて旧弊の文化が残されていました。それでいて、文明の利器-汽車-の力を借りて、効率的に各地を訪問できました。云わば、一番良い時期に旅に明け暮れる日々を送った訳です。それはただただ羨ましいばかりです。今回、四時間という時間ではあるものの福崎の地を訪問しました。そして民俗学者、旅人としての柳田氏の故郷を目にしたことで、ますます氏のような人生を歩みたいという思いが強くなりました。冒頭に書いたとおり、柳田氏が本格的に民俗学の探求を始めたのは40台に入ってからのこと。私もまだ間に合うはず。そのためにも今できる仕事をきっちりと仕上げ、自分の望む仕事スタイルを全うできるような基盤を作りたいと思います。IMG_6509


プログレッシブ・ポップの偉大さ


今朝のプリンス死去の報にはやはり驚きました。

このところ、デヴィッド・ボウイにはじまり、グレン・フライ、モーリス・ホワイト、キース・エマーソンと、70-80年代の洋楽好きにとっては残念なお知らせが続いています。

人はいつかは死ぬ。という事がわかっていても、プリンスの死は早すぎた、と言えます。

私のようなプリンスの全盛期を知らぬ者にとってはなおさら。一般的な売上だけでなく、批評家受けもし、マルチプレイヤーであり、俳優であり。発表された作品からも、才能の豊かさに圧倒されます。

洋楽を聴き始めてすぐ、プリンスのbatdanceに衝撃を受けました。洋楽に対する知識もほのかにしかなく、プログレッシブ・ロックも未知の私。そんな私にとって、batdanceの変幻自在な構成はまさに驚愕でした。PVではプリンス自身が様々な楽器を自在にあやつる様が映し出され、音楽の才能とはこういう事を指すのか、と思いました。

私にとってプリンスの好きな曲は、little red corvetteや、when doves cryにとってかわられましたが、batdanceの衝撃は今なお色褪せないですね。プログレッシブ・ポップというジャンルは聞いたことがありませんが、もしそのようなジャンルがあるとしたら、batdanceこそは金字塔の一曲として挙げても良いのではと思います。

私の友人の歌うlet’s get crazyは絶品なのですが、今度洋楽カラオケに行ったら、プリンス祭りでも催して、その偉大な才能に酔い痴れたいと思います。


ウィスキー検定3級合格


昨夜、私の元に第3回ウイスキー検定の合格証が届きました。今年の2/7に妻と一緒に3級を受験した結果です。私は77点しか取れず、妻は52点で不合格。正直言って私にとっては不本意な得点でした。3級と侮り9割は取れると思っていた驕りを自分で戒めなければと思っています。負け惜しみにしか聞こえないのですが、3級の出題レベルは相当上がっていました。
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実はこの検定、昨年の第2回(2015/5/31)の際に受ける予定でした。が、法人設立直後ということもあり断念した経緯があります。元々ウイスキー検定については、麹町のBar LittleLinkさんから御紹介頂いていました。丁度、第1回(2014/12/7)が開催された少し後の事です。その場では、名古屋のウイスキー好きの愛好家ともお知り合いになる機会を頂きました。そこでお互い第2回を合格したらまたこのBarで会いましょうという約束を交わしました。が、私は上に書いた理由で第2回の受験を断念せざるを得なくなりました。以降、Bar LittleLinkさんには顔向けできない状態でしたが、ようやくこれで伺えます。

今回、私だけでなく妻も受験したのには理由があります。昨年10/11に妻と「SAITAMAブリティッシュフェア2015」を訪れました。「SAITAMAブリティッシュフェア2015」にはスコッチ文化研究所(この春からウイスキー文化研究所に名称変更)さんが出展されていたのです。私から感化されたのか、妻もウイスキー好きとなってくれ、老後の夫婦の愉しみがまた一つ増えています。GlenFiddichをこよなく愛する妻に、もっと色んなウイスキーを経験してもらえれば、と思ったのが夫婦で訪れた理由となります。

そして、このブースには土屋守氏も来ておられました。土屋守氏といえば世界のウイスキーライター五人にも選ばれ、かの「マッサン」のウイスキー考証・監修も担当されています。私自身、20年前からウイスキーに親しんでいますが、土屋氏の著作は何冊も持っています。私も土屋氏とツーショット写真を撮らせて頂き、その場でトートバッグにもサインして頂きました。著書を持ってこなかったのが悔やまれます。そして、その場で土屋氏から受験を薦められた妻は、一念発起で受験してみようと思ったのでしょう。私も受験勉強の時間がなかなか取れず、2級合格の自信が持てなかったこともあり、共に3級を受験しました。あまり勉強せずとも3級なら受かるでしょ、との驕りとともに。
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GlenFiddich好きの妻は、ほとんどウイスキーの背景など知らず、私に何度か蒸留所に連れて行かれたくらい。受験直前に付け焼刃で学んだのもいいところでしたが、それでも52点取れたのだから、その努力は大いに褒めても良いと思います。正直、今回の3級のレベルは以前の2級のレベルにも匹敵するのではないかと思います。それほど高度でした。

でも、それは私が77点しか取れなかったことの言い訳にはなりません。勉強すれば2級も難しくないと思っていたし、Bar LittleLinkの方からも、そこで知り合った名古屋の方にも2級受かるでしょう、と言われましたが、これでは到底受からなかったでしょう。まだまだ自分の勉強不足を痛感します。

私自身、今まではこういった資格取得を軽んじていました。本業であるIT系の資格ですら、10数年受けていません。実際、現場でもお客様に対しても資格の有無を問われることはほぼありません。それでも仕事はこなせます。また、最近は色々な資格が乱立しています。「真田三代戦国歴史検定」「ベルサイユのばら検定」「たこ焼き技能検定試験」などなど。それはもはや、資格商法と言われても仕方ないほどの乱立振りです。実際のところ、私もそう思って馬鹿にしていたことを白状しなければなりません。

しかし、ウイスキー検定は少なくとも私にとって歯ごたえのある試験でした。普段仕事を行いながら、趣味で道を究めることは簡単なようでいて実は難しい。客観的なフィルターを経ることがないので、自分の知識に対して夜郎自大になりかねない。今回のウイスキー検定は、そのことを私に教えてくれました。乱立する色んな資格も実は馬鹿にしたものではないとまで思うようになっています。

次回は2017/2に実施されるとか。私は2級を、妻は3級を。再び一緒に受験しようと思っています。夫婦でこうやって何かの道を一緒に勉強できることって、素晴らしいことだと思います。ゆくゆくは夫婦でスコットランドへ。これも目的の一つです。私にとってのウイスキーの師匠とも呼べる方が大阪にいらっしゃるのですが、この方も何度も夫婦でスコットランドに行かれているのだとか。私の今後の目標でもあります。