画狂人 北斎


ここ一年、私にとって両国界隈はぐっと身近な場所となった。個人的に訪れるのは、江戸東京博物館や国技館、回向院、横網町公園やクラフトビールパブのpopeyeなど。そしてこの一年で、両国でお仕事のご縁も結ばせていただくことになった。今、私にとって両国は公私ともに熱い場所だ。

本作を観る機会も両国でのお仕事のご縁からいただいた。観劇の一週間前のこと。おかげで素晴らしい舞台経験ができた。きっかけをくださった方にはとても感謝している。

昨年秋にすみだ北斎美術館が開館したことは記憶に新しい。だが、わたしはまだ訪れていないし、積極的に観に行こうとも思っていなかった。両国界隈を歩くと嫌でも葛飾北斎の痕跡が目につくのに。例えば生家跡だったり寓居跡だったり。江戸時代の風情が残されているとはいえない両国界隈だが、北斎が遺した足跡は両国のあちこちに点在している。それなのに、私は両国を何度も訪れながら、ついに北斎自身に興味を持つことがなかった。

でも今は違う。今の私は北斎にとても興味をもっている。なぜなら本作を観たから。本作こそは、私に葛飾北斎の世界を教えてくれた。科学者並みに計算され尽くした構図。枠にはまらず、破天荒な人生観。画に打ち込んだ壮絶な執念の力。北斎の娘お栄との奇妙な生活。齢90を控え、なお長命を欲した活発な意思。北斎を知れば知るほど、北斎は私の生き方の範となるべき人物に思えてくる。中途半端な私の生き方を、よりアグレッシブにしたのが北斎ではなかったか。生涯に93回引っ越し、三万点の作品をのこし、画号を幾度も変え、貪欲に自らの生き方を追求した人物。そう伝えられているのが葛飾北斎。知れば知るほど魅力的に思えてくる。

本作は、葛飾北斎についての朗読劇だ。朗読劇、という芸術形式は私にとっては初めて。朗読会のような感じだろうか。あるいは直立不動、または座像のように動かぬ朗読者たちが、単調に台本を読んでいくような光景。レコーディングスタジオでアテレコする声優さんのような感じ?本作をみるまで、私はそんな想像を抱いていた。

ところがそうではなかった。本作は私の貧困な演劇知識で創造の及ぶような朗読劇ではない。そもそもそんなありきたりな演出を宮本亜門氏がよしとするはずはないのだ。本作は宮本亜門氏が演出と脚本を担当している。朗読劇と銘打たれているとはいえ、舞台のダイナミズムを損なうような演出をするはずがない。

朗読劇であるため、朗読者にはそれぞれのもち場が用意されている。その前には譜面台のような台本置きが設けられている。そこには台本が載せられている。朗読者たちはそれを読み、そしてめくっていた。しかし朗読者は、そこでただ台本を読んでいたのではない。読むのではなく、確かに演じていたのだ。朗読者たちは舞台を動きまわり、それぞれの役を演じる。そもそも、演じているのは名の知れた有名な役者さんであるから、台本など要らないはずなのだ。実際、舞台を動き回る時、役者さんの手元に台本はない。動と静。そこには確かな演劇のダイナミズムが息づいていた。

なぜ、このような形態を宮本亜門氏は採ったのだろう。わたしにはその真意がわからない。ただ、想像はしてみたい。私の想像だが、場面が頻繁に切り替えられるため、それを整理する進行役が必要だったからではないか。本作の舞台は平成29年の東京、そして化政文化華やかなりし江戸の二つだ。二つの時代を本作は幾度も行き来する。そのため、場面の進行役を置くことで場面展開を観客にわかりやすくした。そのため、朗読劇の形態を採ったという考えが一つ。

もう一つは、観客に北斎の魅力をわかりやすく伝えるためではないか。本作の狙いは、観客に北斎の魅力をわかりやすく紹介することにある。それは本作がすみだ北斎美術館のオープニングで上演され、大英博物館の北斎展で上演されたことからも明らかだ。本作は北斎研究家による講演の様子が登場する。背景にプロジェクションマッピングで北斎の絵がふんだんに表示される。朗読劇であれば、このように舞台から北斎研究家が講演する、という演出が観客に受け入れられやすい。また、講演という形態を採ることで、わかりやすく観客に北斎の紹介を済ませてしまえる。実に合理的な演出ではないか。だからこそ、朗読劇という体裁をとったのではないかと思う。

また、本作で工夫があるのが、現代側の場面にもドラマ性を持たせていることだ。現代東京に登場するのは北斎研究家の長谷川南斗とその助手峰岸凜。長谷川南斗は北斎の計算され尽くした構図を称賛し、現代に通じる北斎の先駆性を紹介する。彼の視野には北斎の娘であり、画家としても後世に名を遺すお栄の貢献は入らない。単なる北斎の娘、そして身の回りの世話をする女中としてしか。そんな師の説に助手の凛は違和感を感じる。ことあるごとに論を戦わせる二人。二人にはそれぞれの過去のしがらみがあった。南斗は双子の兄が画壇で天才画家として持てはやされた一方、自分には絵の才能がなかったことを劣等感として持ち続けている。それなのに兄は才能を持ったまま自殺してしまい、自分だけが遺されたことで劣等感を鬱屈している。美術評論家として糧を得ている現状も飽き足りていない。凛は画家としての将来を嘱望された天与のセンスの持ち主。だが、東日本大震災ですべてを失い、以来絵筆を折ったままの状態が続いている。

そういった背景を持たせることで、現代の二人に単なる北斎のキュレーター以上の役割を与えているのだ。それが本作により深みを与えていることは言うまでもない。演出の醍醐味とはこういうことなんだろうと思う。南斗を演じていた菊地創さんと凛を演じていた秋月三佳さんは、本作のポスターには写真付きで登場していなかったが、本作には欠かせない演者だったと思う。

そんな現代から一転して江戸。江戸では北斎と娘のお栄が喧々諤々としながら画業に専念している。白状すると、私は本作を観るまでお栄の存在を知らなかった。長谷川南斗には、単なるお手伝いとしてしか扱われなかったお栄だが、宮本亜門氏の演出ではお栄は単なるお手伝いや娘ではなく共作者として描かれている。

なぜお栄は北斎の陰に隠れ、共作者に甘んじているのか。そこには父北斎に対するお栄の尊敬がある。生活をともにすると絵以外には無頓着でうんざりさせられる父。「親でなければ、絵師でなければとっくに飛びだしていた」」とは、作中のお栄のセリフだ。ところが悪態をつき、伝法な口調で罵倒しながら、お栄は北斎から離れない。なぜならそこには尊敬があるから。あまりに巨大すぎる才能と絵に対する向上心。それがお栄を捕まえて離さない。

そんなお栄の複雑な感情を、演じる中嶋朋子さんは巧みに演じていた。本作の主題は、お栄とは北斎にとってなんだったか、だといっていい。つまり見方を変えれば本作の主役はお栄なのだ。お栄が父北斎に向ける複雑な心境をいかにして観客に伝えるか。ここに本作の肝があるように思う。そんな北斎を演じていたのが志賀廣太郎さん。気性の荒いお栄と同じぐらい奇天烈な北斎。ところが、本作の北斎は少しおとなしい。それもそのはず。本作で描かれる北斎は老境の北斎なのだから。達観しつつ、生には執着。悟りつつ、画業には貪欲。そんな老境の北斎を、志賀さんは見事に演じていた。

画狂人、鬼才、偏屈者。とかく天才画家にはそういうエキセントリックな人間像を当てはめやすい。だが実は、葛飾北斎とは志賀さんが演じた人ではなかったか。飄々とした、絵だけ描いていれば幸せな、その代わりに他のことは何もしないだけの人ではなかっただろうか。

本編が終わった後、宮本亜門氏と隅田北斎美術館館長の菊田氏によるアフタートークがあった。お二人のトークから感じられたのは、世界中で今なお研究され、賞賛される北斎の姿だ。そしてお二人が北斎を敬愛する様子も伺えた。それは、演劇の世界で活躍する宮本亜門氏の生き方にも反映するのだろう。開演前と開演後のロビーで談笑する宮本亜門氏からは、名声に興味をもたず、ただ演出が好きで北斎が好きな思いが伝わってきた。

北斎にしてもそう。他からの視点など気にすることはない。ただ自分の好きな道を一心不乱に生きればいい。人生を悔いなく生きるとは、まさにそういうことなんだなあ、と。

‘2017/09/17 曳舟文化センター 開演 17:30~

http://www.city.sumida.lg.jp/bunka_kanko/katusika_hokusai/hokusai_info/gakyojinhokusai.html


十字架は眩しく笑う


とても面白かった。こういうコメディ作品は大歓迎。

本作はシチュエーション・コメディの王道を歩いている。シチュエーション・コメディといえば、一つの固定された場面の中で、登場人物たちが繰り広げるすれ違いや、行き違いから生まれる笑いを描く喜劇の形式を指す。本作の舞台は、冒頭を除けば一貫してとある喫茶店の店内となっている。つまり、シチュエーション・コメディの要件を満たしている。その喫茶店を舞台に十人の登場人物が入れ代わり立ち代わり現れて、すれ違いを生む。これもシチュエーション・コメディの常道。

すれ違いの面白さを生むためには、観客にしっかりズレを伝えることが求められる。観客は舞台上で演じられる全ての動きを見ている。誰がどういうセリフをいい、そのセリフを誰がどのように受け取ったかをすべて把握している。そのセリフを誰がどう勘違いして受け止め、誰が見当違いの答えを返すか。観客は舞台で演じられる勘違いを笑いで受け止める。だからこそ、脚本がきっちりと計算されていないと役者の勘違いが勘違いでなくなってしまう。それは単なる役者の演技になり、笑いにつながらないのだ。

そのため、役者の勘違いも真に迫っていなければ、笑いにならない。役者の間で間合いが共有できていないと、勘違いは途端に嘘くさくなる。そして笑いは失速してしまう。つまり、シチュエーション・コメディとは、脚本と演技ががっちり噛み合わなければ面白くならないのだ。本作はその二つががっちり噛み合っていた。素晴らしい脚本と演技に感謝したい。

本作は、暗転した舞台から幕を開ける。ベンチに座っているのは一人の男。彼は失業し、求人誌を手に持っている。寄ってくる鳩たちに持っていた最後のパンをあげる。財布には28円。トートバッグにはマジックグッズが見える。マジックに夢を託そうとしたがそれも破れた。ヤケになってハンカチから財布を取り出して見せるが、金や職は都合よくハンカチから現れない。追い詰められ、絶望する主人公。

人生を投げてしまおうか。そう思うが、どうせ投げるなら、と入ったのが喫茶店の中。そこで彼は何をしようとしたのか。レジ荒らし? だが、彼は悪事に手を染めない。その代わりにそこから勘違いとすれ違いの歯車が回り出す。主人公に付いたハトのフン、それにおびき寄せられて来たハエと手に持った求人誌。それが誤解と騒動の引き金となる。出入りの八百屋、店員の三姉妹、おかしな常連客たちに突拍子もない闖入客、マスター。そこにマジシャンくずれの失業者が騒動を引き起こす。

忍び込んで来たはずが、行きがかり上「日本ハエと蚊コーポレーション」という害虫駆除業者になり、喫茶店の求人に応募して来た新人のウェイターにおさまる主人公。さらに誤解から店員の三女のパートナー(フィアンセ)になり、常連客のママからの願いで密かに惹かれ合っている長女と常連客をくっつけるために霊媒師にもなる。そして、次女からのお願いで体調を崩したオーナーに娘たちの嫁ぐ姿を見せようと、三姉妹それぞれに相手がいることをお膳立てしようとする。そんなところに、かつて次女がアイドルをやっていた頃、熱烈すぎてストーキングを働き、お詫びにと手作りケーキを持って来た男がやってくる。一つのウソがとてつもない誤解とすれ違いを引き起こしてゆく。シチュエーション・コメディの本領発揮だ。

なお、舞台後のあいさつで知ったのだが、このストーカー役を演じた多田竜也さんは、本番の二日前に急遽、小林さんが降板され、代役で起用されたとか。二日で合流したとはとても思えないほどオタクな感じが自然に出ていて、さすが役者さん、とうならされた。

ほかの俳優さんも、いずれも芸達者な方ばかり。冒頭に書いた通り、間合いが肝のシチュエーション・コメディ。少しでも演技らしさが混じると失敗しまう。そんなほころびを一切みせず、素晴らしい演技だったと思う。鯛プロジェクトのブログに紹介が載っているが、その順番でご紹介してみる。田井弘子さんは本作の企画と製作もつとめ、さらにおっとり長女役でも舞台に上がるという要の方。死んだ女性に憑依されながら、介護試験の勉強のためお婆さんも演じつつという複雑怪奇な場面は印象的。伊藤美穂さんは、しっかりものの次女役。最初は店に侵入した主人公を怪しく思う。が、オーナーである父を安堵させようと騒動に一役買う元アイドルという複雑な役を演じていたのが印象的。すがおゆうじさんは、本作では一番まともな役柄だが、真面目なあまり騒動に巻き込まれていく様、最後に人情あふれる雰囲気になってからは主役級の存在感を出していたのが印象的。せとたけおさんは、出入りの八百屋兼、地元劇団の素人俳優という役柄。ドラクエⅢの僧侶のいで立ちで現れる後半は、格好だけでも存在感ありありだった。喫茶店の地元の仲間という感じが印象的。田井和彦さんは、三女に思いを寄せる常連客の警官という役回り。これがまたとてもエキセントリックでいい味出しまくっていた。エキセントリックなのに憎めずほほ笑ましいキャラが印象的。中山夢歩さんは主人公。主人公でありながら、トリックスターとしても本作の重要な役どころ。とても端正なマスクでありながら、次々と周りの誤解に応えようとしてさらに舞台を混迷に陥れる様が印象的。堀口ひかるさんは、三女としてご出演。序盤から中盤にかけての本作のコメディ担当の主役でした。メイド喫茶設定と普通の喫茶店設定がごちゃごちゃになる部分はとても面白かった。佑希梨奈さんは、妻の友人であり今回お招きいただいた方。感謝です。母がいない三姉妹の母替わり、そして近所のスナックのママとして常連という役。おおらかな感じでいながら、場面をますますややこしくする様は、本作の雰囲気を温かくしてくれていた。渡邊聡さんは心臓が悪い喫茶店のオーナー。実は本作の要はこの方にあるのでは、と思えた。からだが悪い様を、歩き方だけでなく、顔に血を集めて真っ赤にすることで表わしていたのが印象的。あれどうやって演じるんやろ。

さて、本作はシチュエーション・コメディだと冒頭で書いた。古き良き日本の大衆喜劇に通じる伝統を継承しているかのように。実際、私は本作を観ていて、吉本新喜劇に通じるモノを感じたくらいだ。ところが本作には吉本新喜劇に付きものの定番ギャグがない。喜劇として笑わせる部分はしっかり笑わせながら、定番ギャグに頼らないところが新鮮でとてもよかった。また、笑いも、弱い者をいじったり観客をいじったりせず、すれ違いの面白さに焦点を合わせていたのが良かった。本作はとても万人にお勧めできる喜劇だと思う。また、本作が新喜劇を思わせたのは、しっかりと人情でホロリとさせてくれるところだ。その人情味が本作の余韻として残った。本作はすれ違いを笑いに変えるコメディだが、すれ違いを招くウソの多くは、オーナーのためを思ってのこと。つまり、人のためになることをしようとしてつかれたウソだから嫌みがない。とてもすがすがしい。

さらに、もう一つホロリとさせるため、作中に大きな仕掛けが用いられている。観ている間にいくつかそういう場面には気づいた。だが、それが最後の演出につながるとは予想の外だった。そしてその効果をあげるため、それぞれの場面をリプレイする演出がある。そこでも役者さんたちの演技が光っていた。主人公がマジシャンくずれという冒頭の伏線が見事にきいた大団円。これは、観劇の良い余韻となって残る。あまり舞台は観ていないので、作・演出を手掛けた西永貴文さんのお名前は存じ上げなかったが、素晴らしい手腕だと思った。舞台後に佑希梨奈さんと西永貴文さんにはご挨拶させて頂いたが、また機会があれば観てみたいと思った。

誉めっぱなしだと単調なので、観ていない方にとって不親切を承知でチクリとひとことだけ言う。勇者と魔術師と踊り子と僧侶が魔物と戦う場面。ここをもうちょっと真に迫ったほうがよかったのになあ、と思った。作中は違和感を感じなかったが、リプレイではちょっと違和感を感じた。まあ、余興という設定なので、迫真にするとかえって浮いてしまうのかもしれないが。

それにしてもいい舞台だった。皆さまに感謝。

‘2017/09/16 THEATER BLATS 開演 19:00~

https://taiproject.jimdo.com/%E3%82%B9%E3%82%B1%E3%82%B8%E3%83%A5%E3%83%BC%E3%83%AB/


THE SCARLET PIMPERNEL


タカラヅカのスターシステムはショービジネス界でも特徴的だと思う。トップの男役と娘役を頂点に序列が明確に定められている。聞くところによると、羽の数や衣装の格やスポットライトの色合いや光度まで差別されているとか。

トップの権限がどこまで劇団内に影響を及ぼし得るのか。それは私のような素人にはわからない。だが想像するに、かなり強いのではないか。それは演出家の意向を超えるほどに。本作を観て、そのように思った。

今回観たスカーレット・ピンパーネルは、星組の紅ゆずるさんと綺咲愛里さんがトップに就任して最初の本格的な公演だ。ほぼお披露目公演といってもよい。鮮やかな色を芸名に持つ紅さんだけに、スカーレットの緋色がお披露目公演に選ばれたのは喜ばしい。

紅さんを祝福するように舞台演出も色鮮やかだ。革命期のフランスを描いた本作では、随所で革命のトリコロール、今のフランス国旗でも知られる自由平等博愛のシンボルカラーが舞台を彩る。青白赤が舞台を染め、スカーレット・ピンパーネル、つまり紅はこべの緋色がアクセントとして目を惹く。イギリス貴族達のパーティーでは、フランスからの使節ショーヴランの目を眩ませるため、あえて下品とも言えるド派手な色合いの衣装に身を包む貴族達。ここで下品さを際立たせる事で、他の場面の色合いに洗練された印象を与える。つまり、舞台の演出効果として色使いだけで下品さと上品さを表現しているのだ。

この演出は、本作の主役のあり方を象徴している。イギリスの上流階級に属する貴族パーシーと、フランス革命に暗躍しては重要人物をフランスから亡命させるスカーレット・ピンパーネル、そして大胆にもフランス革命政府内部でベルギーからの顧問として助言するグラパン。これらは同一人物の設定だ。実際、これら三役を演ずるのは紅さん一人。この三役の演じ分けが本作の見所でもある。

ただし、演出と潤色を担当した小池氏の指示が及ぶのはここまでだろう。ここから先の演出はトップの紅さん自らが解釈し、自らの持ち味で演じたように思う。本作は、演出家の意図を超え、トップ自らが持ち味を演出し、表現したことに特徴がある。

トップのお披露目とは、トップのカラーを打ち出すことにある。殻にハマった優等生の演技は不要だ。とはいえ、本作での紅さんの演技はいささかサービス過剰といっても良いほどにコメディ色が奔放に出ていたように思う。紅さんは、タカラヅカ随一のコメディエンヌ(いや、この場合コメディアンと言うべきか?)として知られる。紅さんのシリアスな演技とは一線を画したコメディエンヌの演技は、本作に独特の味を付けている。そして、この点は本作を観る上で好き嫌いの分かれる部分ではないか。

紅さんがおちゃらけた演技を見せる際、どうしても声色が高くなってしまう。地声も少し高めの紅さんの声がさらに高くなると言うことは、女性の声に近くなる。知っての通り、ヅカファンの皆様は男役の皆さんが発する鍛え抜いた低音に魅力を感じている。それは、トップであればあるほど一層求められる素養のはず。男役トップのお披露目公演で、男役トップから女性らしさが感じられるのはいかがなものか。第一幕で感じたその違和感は、男役にのぼせることのない私でさえ、相当な痛々しさを感じたほどだ。幕あいに一緒に観た妻に「批判的な内容書いていい?」確認したぐらいに。私でさえそう感じたのだから、タカラヅカにある種の様式美を求める方にとっては、その感情はより強いものだったと思う。

だが、第二幕を観終えた私は、当初の否定的な想いとは別の感想を持った。

私がそう思ったのは、紅さんのバックボーンに多少触れたことがあるからかもしれない。まだ娘達がタカラヅカの世界に触れ始めた数年前、父娘3人で通天閣を訪れたことがある。紅さんの出身地に行きたいとの娘たちの希望で。当時、二番手男役として頭角を現していた紅さんは、紅ファイブなるユニットを組むほどにコメディに秀でた異色のタカラジェンヌさんだった。

通天閣のたもととは、大衆演劇の聖地。街を歩けば商店街の各店舗がウィットに富んだポスターを出し、そこらにダジャレがあふれている。ツッコミとボケが日常会話に飛び交い、それを芸人でもない普通の住民がやすやすとこなす街。紅さんはこのような街で生まれ育ち、長じてタカラジェンヌとなった。隠そうにも出てしまうコメディエンヌとしての素質。これは紅さんの武器だと思う。

一方で、タカラヅカとは創立者小林逸翁の言葉を引くまでもなく、清く正しい優等生のイメージが付いて回る。随所にアドリブは挟みつつもまだまだ演出に縛られがち。そもそもいくらトップとはいえ、対外的には生徒の位置付けなのだから、演出家の意向は大きいのではないか。自然とトップとしての持ち味も出しにくい。実際、妻の意見でも、最近のジェンヌさんは綺麗な美少年キャラが多くなりすぎ、だそうだ。

そんなタカラヅカに、新風を吹かせるには、紅さんのキャラはうってつけ。お笑いを学んだSMAPがお茶の間の人気者になったことで明らかなように、生き馬の目を抜くショービズ界で生き残るには笑いがこなせなければ厳しい。であれば、本作の紅さんの過剰なコメディ演技に目くじらを立てるのはよそうじゃないか。幕間に私はそんな風に思い直した。

すると、第二幕では、第一幕で感じた痛々しさが一掃されたではないか。視点を変えるだけで舞台から受ける印象は一変するのだ。ただ、その替わりに感じたのは、紅さんの魅力をより際立たせる演出の不足だ。それはメリハリと言い換えても良い。私の意見だが、演出家は、メリハリを男役トップの紅さんのコミカルさと、二番手のショーヴランを演じた礼真琴さんの正統な男役としての迫力の対比に置こうとしたのではないか。確かにこの対比は効果を上げていたし、礼真琴さんの男役としての魅力をより強めていた。私ごときが次期トップをうんぬんするのは差し出がましいことを承知でうがった見方を書くと、次期トップの印象付けととれなくもない。

だが、上に書いた通り、紅さんのトップお披露目は、タカラヅカ歌劇団が笑いもこなせる万能歌劇団として飛躍するまたとないチャンスのはず。であれば、紅さんのコメディエンヌとしての魅力をより引き出すためのメリハリが欲しかった。そのメリハリは、役の演じ分けで演出できていたはず。本作で紅さんは、パーシー 、ピンパーネル、グラパンで等しくおちゃらけを入れていた。だが、それによってキャラクターごとのメリハリが弱まったたように思う。例えばパーシーやピンパーネルでは一切おちゃらけず、替わりにグラパンを演ずる際は徹底的にぶっ壊れるといった具合にすると、メリハリもつき、コメディエンヌとしての紅さんの魅力がアップしたのではないか。特にずんぐりむっくりのグラパンからスラッと爽やかなピンパーネルへの一瞬の早がわりは、本作の有数の見せ場なのだから。この場面を最大限に活かすためにも、コミカルな部分にメリハリをつけていれば、新生星組のトップとして、笑いもオッケーの歌劇団として、またとないお披露目の舞台となったのに。

‘2017/06/06 東京宝塚劇場 開演 13:30~

https://kageki.hankyu.co.jp/revue/2017/scarletpimpernel/index.html


双頭の鷲


ジャン・コクトーが才人である事を示す有名な写真がある。フィリップ・ハルスマン「万能の人」のことだ。腕を六本持ったコクトーが、タバコをすいながらペンを書き、本を読み、はさみを持ち・・・・コラージュカットのその写真は、「ジャン・コクトー 画像」で検索すればすぐに見られる。

この写真が表現しているとおり、彼の才能は様々な分野で発揮された。だが私は、恥ずかしながら ジャン・コクトー の作品のほとんどを観ていないし読んでいない。もちろん戯曲も。本作は、ジャン・コクトーの戯曲「双頭の鷲」を元に、宝塚バージョンとしてアレンジされている。妻から本作の誘いを受けた際は、即座に観ると答えた。

ジャン・コクトーが1946年に発表したというこの戯曲は、ハプスブルク家の暗殺された皇妃エリザベートと暗殺犯ルイジ・ルキーニの関係を取り上げている。皇妃エリザベートといえば、宮廷生活の窮屈さを極度に嫌った女性としてよく知られている。晩年は夫と息子にも先立たれ、世を憚るように生きたことでも有名だ。そんな彼女を暗殺対象に選んだ無政府主義者ルイジ・ルキーニの動機は、王侯貴族なら誰でもよくて、彼女は偶然居合わせたために殺されたとも伝わっている。厭世的なエリザベートが偶然暗殺される運命に遭う巡り合わせに、ジャン・コクトーは人生の皮肉を見出したのかもしれない。そして彼は、戯曲という形式で表現しようとしたのだろう。

「エリザベート」といえば、ミュージカル版が知られている。海外でロングランとなり、わが国でも宝塚やそれ以外の舞台でおなじみだ。ミュージカル版「エリザベート」は、死に惹かれるエリザベートと死神トートの関係を通じ、彼女の欲する自由が生と死のどちらかにあるのか、をテーマとしている。厭世的なエリザベートはこちらでもモチーフとなっているのだ。

つまり、ミュージカル版「エリザベート」の原案とは、ひょっとすると本作「双頭の鷲」にあるのではないだろうか。自由を求め、そしてそれが叶わないことを知ると絶望のあまり厭世的になったエリザベート。彼女の生涯は、文字通り劇的であり、舞台化されることは必然だったのかもしれない。そしてそこに最初に着目した人こそがジャン・コクトー。だとすれば、本作は是非観ておくべきだろう。

本作と「エリザベート」とどちらがミュージカル版として先に初演されたのかは知らない。だが、演出面など似通った箇所に気付いたのは私だけではないはずだ。例えば、ナレーター兼狂言回しの存在。ミュージカル版は、エリザベート裁判の被告となったルイジ・ルキーニの陳述をナレーションとし、観客をエリザベートの生きた時代に導いていた。本作でもナレーターが配され、観客の道案内として重要な役割を担っている。

また、原作の戯曲は6人のみが登場する室内劇として書かれていたという。しかし、本作の出演者は総勢21人だ。ただ、舞台の進行を6人で行うことには変わりない。では、残りの15人(ナレーターを除くと14人)は何をしていたのか。それは、舞台に動きやテンポを生み出す役割ではないかと思う。いわば「動」の動き。

本作の舞台は終始クランツ城内王妃の部屋に固定されている。その壁は巨大なデザイン板ガラスとなっており、ガラスの向こうに人がおぼろげに映るようになっている。14人の演者は、男女パパラッチA~Gとして、ガラスの向こう側に座っている姿を見せている。そうやって常時舞台を囲むことによって、舞台に緊張感をもたらしているのだ。この役割は「静」の動きに他ならない。「静」と「動」の二つの動きを舞台に表現するのがこの14人だといえる。

14人+1人の追加された演者たちが舞台で繰り広げる演出こそが、ジャン・コクトーの戯曲をベースとした見事な芸術作品として本作を成り立たせている。そのことは間違いないと思う。

また、もう一点本作で見逃せない演出がある。それは音だ。舞台の正面奥はバルコニーとなっている。皇妃が暗殺犯スタニスラスと出会うシーンは、バルコニーの向こうで風がうなりをあげ、雷鳴が響き渡る嵐の中だ。その間、自由を求める皇妃は窓を開け放しにしているのだが、皇妃の心中を表すかのように雷鳴が響きわたる。風が吹き込み落ち葉が舞い込む。嵐に紛れて暗殺犯を追う銃声が舞台に響き渡る。

ここまで音響効果が効果的に使われているとなると、音楽にも期待できそうだ。だが正直なところ、本作に死角があるとすれば、それは魅力的なキラーチューンの不在だ。ようするにキャッチーでメロディアスな曲がない。せいぜいが皇妃とスタニスラスが唱和する「双頭の鷲のように」ぐらいだ。そして音響効果が曲の不在を埋めるかのように随所に使われている。

そんな本作であるが、スタニスラスを演じているのは歌劇団理事でもある轟悠さん。普段は専科として各組の脇を締めるために出演している。が、本作では堂々たる主役として魅力的な低音を響かせていた。お年も相当召されているとは思うのだが、そう思わせないほど見事な男役っぷりだった。

その轟さんの相手役を勤める皇妃は、現在宙組の娘役トップである実咲凛音さんが勤めていた。妻いわく、演技よし歌もよしのすばらしい生徒さんだとか。それもうなづけるほど、見事な歌唱と演技だった。そして、厭世観を持っているがゆえに暗殺者に惹かれるという皇妃の矛盾した心中が表現されないことには本作は舞台作品として成り立たない。そこが表現されてはじめて、ジャン・コクトーの戯曲化の意図を舞台に移し変えたといえる。実咲凛音さんはまさに適役といえる。

主役の二人以外の主要な5人についても見事な役者振りで舞台を締めており、宙組の充実振りがうかがえるというものだろう。

それにしても残念に思うのが、本作にキラーチューンがないことだ。それがあれば、本作はもっと世界的な作品となりそうなものを。「エリザベート」とかぶってしまう点は否めないが、本作はオリジナルかつ「エリザベート」の姉妹編として十分に通ずる可能性を秘めている。私も機会があればジャン・コクトーの原作戯曲を読んでみたいと思う。そして、私の考えた本作の意図が戯曲にどの程度込められているのか確かめてみようと思う。

‘2016/12/14 神奈川芸術劇場 開演 13:00~

http://kageki.hankyu.co.jp/revue/2016/laigleadeuxtetes/index.html


噂 ルーマーズ


ニール・サイモンと云えば喜劇作家として知られた存在だ。でも、今まで私は舞台やスクリーンを含めてその作品を観劇する機会がなかった。かねてからアメリカの喜劇に興味を持っている私としては、舞台で一度きちんと観てみたいと思っていた。そんな折、ニール・サイモン作品を初めて観劇する機会を得た。

今回妻と観にいったのは「噂-Rumours」。演ずるのは演劇レウニォン トップガールズと仲間たちである。女性6人、男性4人によるストリート・プレイ。麻布区民センターの区民ホールは座席数175名と小規模だったが、おかげで舞台全体がよく見渡せたし、10人の動きがよく把握できた。これぞ小劇場の醍醐味。小劇場での観劇は久しぶりだが、この距離感こそが演劇の楽しみ方として正当だと思う。

本作はニューヨーク郊外の豪邸の居間を舞台としている。暗転して登場するのはクリス・ゴーマン。取り乱した様子で右往左往している。そんな彼女に指示を出しながら二階から降りてきたのは夫のケン・ゴーマン。二階のチャーリー・ブロックの部屋から降りてきた彼もまた、平静ではない様子。この家の主であるチャーリーはニューヨーク市長代理。ゴーマン夫妻は到着するやいなや、銃声を耳にする。チャーリーが自分で耳たぶを撃ったのだ。そのことで動転しつつ、事態を穏便に済ませるため隠蔽をたくらむ夫妻。しかし、チャーリーが大変なことになっているのに妻であるマイラの姿は見えない。お手伝いさんもいない。チャーリーとマイラの結婚10周年記念パーティーに呼ばれたはずが、ゲストである自分達が事態の収拾を行わねばならなくなる。そうしているうちにパーティーに呼ばれた客たちが時間を空けて次々とやってくる。レニーとクレアのガンツ夫妻。アーニーとクッキーのキューザック夫妻。そしてグレンとキャシーのクーパー夫妻。クリスとケンの隠蔽のたくらみが、ガンツ夫妻を巻き込み、さらにその隠し事はアーニーとクッキーを混乱に落とし込み、グレンとキャシーまでも勘違いと行き違いの中で夫婦仲の悪化をさらけ出すことになる。

次々と登場する8人の人物が居間、チャーリーの部屋、台所と舞台から自在に出入りする。さらに頻繁にかかってくる舞台左脇の電話が彼らの混乱に拍車をかける。ケンはチャーリーの部屋で誤って拳銃を暴発させてしまい耳が一時的に聞こえなくなる。耳の聞こえないケンの行動が彼らの勘違いを一層混迷に突き落とす。このあたり、喜劇の舞台を作ってゆく手腕はさすがの一言。

とうとう隠し果せなくなり、ケンとクリスが意図した隠蔽は破綻する。なぜパーティーなのにホストがいないのか、この家でいったい何が起こっているのか。あとから来た6人にとって違和感が解ける瞬間だ。ところが、そこに警官が二人訪問する。慌てふためく8人。彼らはいずれもニューヨークの名士。スキャンダルは避けたい。警官を相手に演ずる必死の隠蔽工作がさらなる笑いを産み出す。喜劇作品の本領発揮だ。

幕間なしの1時間35分はライブ感覚にあふれていて、とても良かった。多少のとちりかな?という台詞も見え隠れしたけど、すぐに台詞で挽回していたため、進行には全く問題なかった。とくに最後、レニーによる長広舌の部分は見せ場。咄嗟に警官に説明するための嘘をこしらえ、即興で説明する様子の演技はお見事。あれこそが本作の山場だと思う。その臨場感は演劇のライブならでは。小劇場の舞台と客席の近さ故、舞台上の時間と空間を堪能することができた。

演劇は映画と違って、ナマモノだ。編集という作業でどうにかできる映画とは違う。そのあたりの緊迫感は演劇ならでは。また、公演期間内に修整が出来てしまうのも演劇の良さだろう。正直、本作はまだまだ良くなると思う。トップガールズと仲間たちにとって、今日は初日だった。なのでこの後も間合いの修正や台詞回しについて修正を行っていくのではないだろうか。私が観ていても、まだまだ本作の秘める笑いのツボはこんなもんじゃない、と思った。宣伝文によると過去の舞台では700回の爆笑が産まれたという。が、座長の白樹栞さんが最後の挨拶で77回の笑いがありました、といっていた通りあと10倍の笑いが取れる台本だと思う。今回は後からじわじわ来たという妻の言葉通り、観客にストレートに笑いの神が降りてきたわけではなく、一旦脳内で変換されてからその面白さが感じられた。たとえば許されるとすれば台本に忠実に設定情報を持ってくるのではなく、日本の都市に舞台設定を変えるとか。すれ違いの面白さは東京でもニューヨークでも一緒のはず。

次回、同じメンバーで演じた舞台を観る機会があればどう変わっているか。その変化を楽しむのも舞台のよいところだ。落語もそう。一つの噺を口伝で練り上げていくのが落語芸術。喜劇もまた同じに違いない。このように観劇後の劇評に花を咲かせられるのも舞台の良いところ。常に同じい内容が固定の映画とは違い、見るたびに発見があるのも舞台のよいところだ。私も今回の観劇を機会に、映画や演劇の喜劇を観る機会を増やそうと思う。ニール・サイモン作の舞台は他の劇団による公演も含めて観てみたい。もちろん、今回演じた10人の皆様による舞台も。

いずれの役者さんも私にとっては初めてお目にかかる方なのだが、ご一緒に公演後のホールでお写真を撮らせて頂いた佑希梨奈さんは、本作が久々の舞台なのだとか。でも冒頭の右往左往するシーンなど、堂々としていた。他の方も非常にコミカルかつ舞台での存在感を発揮していたように思った。また機会があればどこかの劇場でお目にかかれると思う。私もこういった小劇場の演劇を観られるようにしたいと思っている。

‘2016/9/9 麻布区民センターホール 開演 19:00~

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桜華に舞え/ロマンス!!


今年初の観劇となったのは、宝塚歌劇団星組演ずる本作だ。

本作はまた、星組トップの北翔海莉さん、妃海風さんの退団公演でもある。そんな退団公演の題材として選ばれたのは、意外にも桐野利秋。 桐野利秋とは日本陸軍の初代少将であり、南州翁こと西郷隆盛にとって近しい部下としてよく知られる人物だ。だが、宝塚が取り上げるには少し意外と言わざるを得ない。

なぜ、 北翔さんは退団にあたって桐野利秋を演ずるのか。それは私にとってとても気になることだった。

北翔さんは以前から妻が好きなタカラジェンヌさんである。私も始終その人となりは聞かされていた。舞台人としても苦労して這い上がり今の高みまで達した努力の人でもある。その努力はタカラヅカの活動だけに止まらない。重機の運転やサックス演奏、殺陣の振る舞いをタカラジェンヌとしての活動の合間にマスターしたこともそうだ。人生を前向きに捉える飽くなき向上心は見習うほかはない。また、 北翔さんは技量だけでなくかなりの人徳を備えた方であると伺っている。それは、その人間性が認められ、一旦は専科という役回りに退いたにもかかわらず、星組のトップとして呼び戻されたことでもわかる。いわば異能の経歴の持ち主が北翔さんである。

では桐野利秋はどうなのか。それを理解するため、私は小説に力を借りることにした。 作家の池波正太郎の作品に「人斬り半次郎」というのがある。この作品こそまさに桐野利秋の生涯を描いており、桐野利秋を理解するのに適した一冊といえる。唐芋侍として蔑まされる鹿児島時代。自己流でひたすら剣を振り続けることで剣客として認められ、島津久光公の上洛に付き従う従者の一人として取り立てられる。以降、尊皇攘夷や公武合体など、目まぐるしく情勢が入れ替わる殺伐の世相の合間で剣を振るう日々。それだけでなく、薩摩藩士としての活動の合間に書籍を読み、書を極めて人物を磨いた。女好きでありながらも豪放磊落な利秋は人情の機微を解する人格者としても慕われたという。

つまり、桐野利秋とは北翔海莉さんのキャラクターを思い起こさせる人物なのだろう。殺陣をマスターした北翔さんと剣の達人でもあった桐野利秋。様々な異能を持つ北翔さんと独学で書や儀典をこなすまでになった桐野利秋。人徳の持ち主北翔さんと親分肌の桐野利秋。こう考えると、北翔海莉さんと桐野利秋という取り合わせがさほど奇異に思えなくなってくる。

だが、退団公演に桐野利秋をぶつける理由とはそれだけではない気がする。まだあるのではないか。

先年、宝塚歌劇団は100周年を迎えた。その当時、星組のトップを務めていたのは柚希礼音さん。宝塚の歴史の中でも有数の人気を誇った方として知られる。そんな柚希さんの後を託された人物として 北翔さんが専科から戻されたわけだ。そこには正当な100年の宝塚歌劇の伝統を後代につなげてほしいという宝塚歌劇団の思惑もあるだろう。中継者として北翔さんの人徳や技能が評価されたともいえる。だが、言い方は悪いが、体のいいつなぎ役ともいえる。もっと油の乗った若い時期に正当に評価されるべき方だったのかもしれない。北翔さんは。

本作には、そのあたりを思わせる演出が随所にある。 季節外れに咲いた桜を指してボケ桜と呼ぶシーンがそれを象徴している。生まれてくる時代が早すぎたというセリフもそうだ。北翔さんにとってみれば、もっとはやく評価されたかった。もっとはやくトップに立ちたかった。そんな思いもあったのかもしれない。或いはそれは穿った意見なのだろうか。

だが、北翔さんはトップ就任時の約束どおり、3作でトップを降りることになる。それは潔い決断だ。

本作のみのオリジナルキャラとして衣波隼太郎が桐野利秋の親友として登場する。彼を演ずるのは紅ゆずるさん。北翔さんの次の星組トップとして内定している方だ。衣波隼太郎は桐野利秋と袂を分かって大久保利通、つまり新政府側に付く。そして、本作の最後、城山のシーンでも官軍の軍人として登場し、桐野利秋の最後を看取る。新しい日本の礎となって死んだ桐野を悼み、「義と真心をしっかりと受け継いで」というセリフが衣波隼太郎の口から発せられる。義と真心の持ち主とは、すなわち北翔さんに他ならない。それは次のトップ紅さんによる新時代の宝塚を作っていく決意表明でもあり、伝統への餞とも取れる。

果たして、北翔さんの衣鉢は次代に受け継がれていくのだろうか。本作のサブタイトルはSAMURAI The FINALと銘打たれている。SAMURAI、つまり北翔さんのようなタカラジェンヌは最後になってしまうのだろうか。たたき上げのタカラジェンヌとしての努力の人としてのタカラジェンヌはもう現れないのだろうか。それとも、100周年を経た宝塚は新たな芸術を模索していくのだろうか。とても気になる。

その模索は本作の娘役と男役の関係にすでに顕れているように思える。娘役トップの妃海風さんは、本作で退団する。私が知る限り、本作の娘役と男役と関係は、明らかに今までの関係と違っている。男役に殉じたり従順である娘役像とは一線を画し、独立独歩の姿を見せているのが本作の特徴だ。これは新しい宝塚を占う上で参考としてよい演出なのだろうか。あるいはそうではないのか。とても気になるところである。

本作の並演のロマンチック・レビュー「ロマンス!!」は本編とは違い、伝統的なレビューを見せてくれる。多分、本編のステージ「桜華に舞え」の作風と釣り合いを持たせるためなのだろう。ただひたすらに王道を極めているといえる。ラインダンスありのデュエットダンスありの、そして大階段ありの。個人的にはエルビス・プレスリーのHound DogやDon’t be Cruelの曲が流れた際、指揮者の塩田氏がカラダを揺らしてRock and Rollしていたのがとても印象的であった。

今年初めての観劇となった本作であるが、時代の移り変わりを体験でき、さらには王道のレビューも観られ、とても満足だ。

あ、そうそう。本作は薩摩弁で全編通すなど、とても地域色に演出の気が遣われていた。その一方で、史実ではシカゴですでに髷を断髪しているはずの岩倉卿が、本作で依然として髷を結った姿で西郷の征韓論を一蹴していたのが気になった。折角方言を活かしていたのに、もうちょっと時代考証に気を使ってほしいと思わずにはいられなかった。でも、西郷さんに扮する美城れんさんは本作でもとても印象的だった。この方も本作で退団されるのだとか。残念である。

‘2016/8/26 宝塚大劇場 開演 15:00~
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ガイズ & ドールズ


ガイズ & ドールズ。何とも時代を感じさせる題名だ。ガイズはまだしも、女性は人形扱いされているのだから。もっとも、時代は1948年。第二次大戦の勝利の余韻が鮮明に残るアメリカはニューヨークが舞台。戦争とその勝利によって男たちの意気が上がっていた頃の話である。男性優位のこのような題名が付けられたのも分かる気がする。

今、私の手元には一冊の写真集がある。そこに載っているうちの一枚は、第二次大戦の戦勝日にタイムズスクエアで看護婦にキスする水兵を撮ったものだ。アルフレッド・アイゼンスタットの撮ったその写真は、LIFE誌を語る上で欠かせない一枚として知られている。と同時に、当時のニューヨークの開放的で陽気なGUYS & DOLLSの雰囲気をそのままに映し出した一枚にもなっている。私にとって、当時のニューヨークのイメージは、この写真によって決定づけられている。

本作に登場する舞台美術は、舞台であるニューヨークのタイムズスクエアを模していると思われる。かの写真のように、明るく華やかなGUYS & DOLLSが闊歩したニューヨークが舞台に再現されている。今回は二階からの観劇となった。その分、舞台の奥行きにまで配慮された舞台美術の粋が堪能できた。

例えばニューヨークの大通りを表すため、背後の書き割は中心点に向けて描かれる。観客は遠近法が駆使された舞台にニューヨークの大通りを感じる。ネオンの看板は手前に立体的に配置され、それは夜のニューヨークにたむろするギャンブラー達の猥雑さを表しているようだ。そして床の反射である。背後の中心点に向け絞って書かれたニューヨークの夜景には、街の灯りが灯っている。これが床に反射することで、実に幻想的な効果を舞台に与えている。丁度、人通りの途絶えたニューヨークの夜が、観客の目前に再現されるという仕掛けだ。この反射の効果は、二階席だからこそ味わえた特権なのかもしれない。

本作は舞台の役者たちが立体的に動き回るわけではない。どちらかといえば、平面的な配置が多い。しかし、舞台のセットは立体的に作られている。なので、ギャンブラー達が生息する都会の息吹が舞台から感じられるようになっている。また、左右の花道を効果的に使っている。たとえばネイサンがクラップゲーム(サイコロ賭博)のショバを確保するため、ジョーイと交渉するシーン。ここでは、上手の舞台脇にある電話ボックスと下手の花道にあるジョーイの事務所の間で会話する。オーケストラボックスや銀橋を跨いでの掛け合いは、本作有数のコミカルなシーンである。また、下水道の賭場とストリートを行き来させるのに、上手の花道に設えられたマンホール状の出入り口を使う。主役やギャンブラー達はマンホールに消え、または現れる。その様は、かのマイケル・ジャクソンのBeat Itのビデオクリップのシーンを思い出させた。本作は役者達の配置を平面的にした分、こういった立体的な演出が印象に残った。

本作は平面的な役者配置が多い、と書いた。配置こそ平面的ではあるが、それは舞台を広々と使うためだと思われる。本作は場面展開毎に大勢の役者がストリートプレイを演じるシーンが多い。例えばニューヨークの雑踏。ニューススタンドやボクサー、トレーナー、旅行者、物売り、兵士、警官や浮浪者、ギャンブラーがひっきりなしに行き来する。役者たちの動きは恐らく計算された演出に従っているのだろう。ただ、私のような本作初見の観劇初心者には把握できない程のせわしなさだった。観劇後に妻から教えられたが、あのような雑多な動きこそが、観客をリピーターに仕立てるのだという。確かに、この動きは一度や二度の観劇で把握できるものではない。こういった観客を飽きさせないための仕掛けが、本作の随所に仕込まれている。それがまた、本作をロングラン作品へと変えたのではないだろうか。そして、妻から教えてもらったことがもう一つある。それは、雑踏の中の動きについての役者側の工夫である。役者たちは、演出家の演出意図をさらに展開するかのような工夫を行っているのだという。例えば、雑踏の中で演じられる寸劇。これらの寸劇の一つ一つに、役者同志でドラマの設定を当てはめているのだという。

一幕の終わり近くで、主役のスカイ・マスターソンとサラ・ブラウンがハバナに行くシーンがある。そのシーンでは、キューバンなラテンリズムに乗って舞台狭しとダンサーたちが躍り回る。その人数は、私のような初見者にはわけがわからなくなるほどの数だ。しかし、そのような場面でも役者たちがドラマを設定しているという。つまり、一つ一つの役者はその他大勢ではなく、それぞれの主役を演じているのだ。舞台で輝くのは主役の二人だけではない。周りの役者の一人一人に実は観客には分からないドラマが仕込まれているとすれば、観客のリピーター心はくすぐられること必至のはず。そういった細かい演出の数々によって、舞台にはさらに魂が吹き込まれるに違いない。アデレイドがトップ女優として踊るHOTBOXの場面でもそう。私は今回、ナイスリー・ナイスリー・ジョンソンを演じる美城れんさんの動きのコミカルさが気に入ったのだが、彼女の動きをよく見ていると気付いたことがある。舞台の中央で主役二人がすれ違いを演じている間も、ホール係やギャルソン役の役者と掛け合いをしているのだ。それもおそらく、観客にはドラマの内容が届かないことを承知の上での演技なのだろう。しかし、目の肥えた宝塚ファンには、そういった周辺をも疎かにしない細かい芸こそが喜ばれるのだろう。

私は最近、観劇のたびに、そういった主役だけではない、周囲の役者達の動きを観るようにしている。彼ら彼女らが舞台の壁の花に甘んじるだけで、「何かをしている振り」の演技を見せられると残念に思う。リアルに考えると、我々が一人の客としてお店に入った場合、我々自身が主役として現実のドラマを演じているはずだから。そういったリアリティは大事にしてほしいと思う。

今回、歌は安心して聞けると妻から聞いていた。スカイ演ずる北翔海莉さんの歌のうまさについては、先日のビルボード東京でのライブを鑑賞させて頂き、十分すぎるほど分かっているつもりだ。その上で言うのだが、本作で北翔さんはアドリブを効かせて歌っていたように思う。”こぶし”とでも言おうか。しかし北翔さんは、色を出さずに敢えて素直に歌っても良かったのではないか。こう書くと妻に首を絞められそうだが。なぜなら、サラ演じる妃海風さんの歌がとても綺麗で伸びやかで、北翔さんの声質に似ていたから。主演二人のハーモニーは実に良かった。なので、ここはハーモニーを聞かせることに徹して頂いても良かったのではないかと思う。どことなく、タメのような間合いが挟まっていて、それが一瞬の感覚のずれとして私の耳に残った。

歌については上に書いたような違和感も感じたが、総じて安心して聞けた。そのため、専ら私は演技を見ていた。そして主役二人の演技に関してはすごく良かったと思う。最初にスカイがサラのいる救世軍を訪ね、口説くシーン。ラブコメの定石通り、最初はつんけんし合う二人。だが、このシーンでスカイを拒絶しようとするサラの立ち居振舞いが、その堅苦しい救世軍の衣装に似合っていて実に自然だった。どうせ喧嘩していても、この後くっつくんでしょ的なラブコメ予定調和の匂いを感じさせない演技が気に入った。また、二人のすれ違いから相思相愛に至るまでの二人の見つめ合う顔。これもまた見物だと妻はいう。もっとも、妻がオペラグラス越しに舞台の二人の側から離れなかったので、私には二人の顔が見えなかった訳だが。二階席だし。でも妻曰く、スカイこと北翔さんが顔の表情だけで二人の間の感情の流れを演じきるところが実に良いと褒めちぎっていた。私も次回もし本作を観る機会があれば、望遠鏡を持って行こうと思う。

本作はブロードウェイで演じられた際も、コメディタッチだったと聞く。本作においてコメディ担当なのは、二番手の紅ゆずるさん演じるネイサンである。私にとっては、紅さんは今の星組の生徒さんの中でもっとも馴染みの一人といってもいい。妻から数限りなく見せられた他の星組作品でも、そのコメディエンヌとしての実力は承知の上。今回もトチりを瞬時に笑いに変える切り返しや、随所に挟むアドリブ?と思われるシーンに流石と唸らされた。かつて父娘三人で紅さんの出身地である通天閣の辺りを散歩したことがある。その産まれ育った環境を活かして、次代のトップとして新しい風を吹かせて欲しいものである。ただ、今回のネイサンはホンの少しだけコミカルな演技が空回り気味だったように思う。そもそも主演の北翔さんからして、お笑い系の素養が高い方である。なので、紅さんも少しコメディのトンガリ度を落として、お笑い系二人による相乗効果を狙っても良かったのではないかと思った。あと、アデレイド役の礼真琴さんもコメディエンヌ的な感じがとてもよかった。妻に聞いたところ、普段は男役でも出ているのだとか。そう思わせないほどに14年もネイサンに婚約状態で飼い殺しにされたままの娘役をコミカルに演じていた。ストレス性のクシャミを患っているという設定だが、そのクシャミの音が実にリアルでリアルで。

さて、ここまで演者さんたちの演技について私なりの感想を書かせて頂いた。だが、本作で一か所だけ解せなかった点があった。それは一幕の演出についてである。

ここで本作の筋を少々書く。ネイサンがクラップゲームのショバを開くために千ドルが工面できず四苦八苦していた。そのところにスカイがニューヨークに帰ってくる。さっそくそこで千ドルを巻き上げようとスカイに賭けを持ちかけるネイサン。それはネイサンの指定する女性をハバナに食事に連れて行けるか、というもの。その女性が救世軍で活動しているお堅いサラ・ブラウン。スカイがサラにツレなくされているのを見て、賭けに買ったとほくそ笑むネイサン。しかしその時点ではまだスカイは負けた訳ではないので、スカイからの千ドルは手に入らない。そして、クラップゲームのショバを求めるギャンブラー達の圧力はますますネイサンを追い詰める。そして、ある日、ネイサンたちはスカイが姿を消し、街を行進する救世軍の中にサラの姿がないことに気付く。ハバナに首尾よくサラを連れて行ったスカイは、二人で再びニューヨークに戻り、救世軍前でサラと別れようとするが、そこに救世軍の中からギャンブラー達が沢山飛び出してくる。ショックを受けて傷つくサラ。

ここである。ギャンブラー達は如何にして夜中の救世軍の教会が空いていることを知ったのか。救世軍の教会に夜中に忍び込んで賭場を開帳できることをいつ知ったのか、についての伏線がどこにもなかったように思う。しかも、サラがスカイからのハバナへの申し込みを承諾するシーン。ここも唐突だったように思う。分かる人には分かる台詞でサラはスカイの誘いを承諾する。だが、そこから急に舞台はハバナへと飛ぶ。この部分の流れが少し分かりにくく、私のような本作初見者にはスッと頭に入らなかった。後で幕間に妻に聞いたほどである。

例えばこのシーンは、サラがスカイの誘いに乗ることを観客に伝える工夫ができたのではないだろうか。その上で、その夜は救世軍が夜間空き家になることを、例えば舞台袖でギャンブラーの誰かに聞かせることで、ギャンブラーと観客双方に伝える演出。そういった演出上の工夫で筋を説明的になることなく演出すれば、私のように勘の悪い観客にも上手く伝わるのに、と思った。一幕と違い、二幕が実に分かりやすかっただけにここは残念。是非機会があれば他の組の演目や、ブロードウェイバージョン、またはマーロン・ブランドの映画版でこのシーンの扱い方を見てみたいと思った。

さて、私にとって良いことも悪いことも書いたが、結果としては素晴らしい作品だと思った。観劇の満足感が残る。ブロードウェイの香りのする優れた作品を優れた役者=生徒さんたちによって観させて頂くのは実に素晴らしい。しかも舞台の内容を思い出すと、他の版とも比較して見てみたいという欲求が湧く。おそらくはそうやって思ってくれる観客が何世代にもわたって居続けたことが、再演また再演と宝塚でリバイバル上演され、そしてその積み重ねが101年という年月に繋がったのではないか。本作もまた、どこかの組でいずれは再演されるのだろうか。その時はまた観てみようと思う。

‘2015/11/15 東京宝塚劇場 開演 15:30~
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TOP HAT


ミュージカル「TOP-HAT」

本場のスタッフによる日本語以外で演ぜられるミュージカル。しかもタップダンスを前面に押し出した舞台。それらを生で観るのは、私にとって初めての経験である。開演前から楽しみにしていたが、本作は期待以上の出来だった。ダンスや歌の素晴らしさはもちろんだが、本作の喜劇的な側面を全く期待していなかった私に沢山の笑いを与えてくれた。喜劇として秀逸な「くすぐり」が随所にあり、私の好きな海外の喜劇作家であるメル・ブルックスの作品を思わせる内容に、いやぁ笑った笑った。

本作はフレッド・アステア主演で1935年に封切られた同名映画を演劇化したものである。フレッド・アステアといえば、私でも名を知るダンスの名手であり、かのマイケル・ジャクソンが尊敬していた人物としても知られている。本作を観に行くことが決まってからフレッド・アステア主演のTOP HATの映像を見たが、80年以上前の作品とは思えぬほどのダンスの切れとアンサンブルが素晴らしい。当時のダンスといえば、優雅であるが退屈な社交ダンスの印象が強い。しかし、そのようなスローな踊りとは次元が違うリズムに乗った靴のタップとステッキのリズムは、見事なまでに軽妙である。私のような80年代のMTV、ことにマイケル・ジャクソンのダンスを観て育ったような者にも、充分鑑賞に耐えうるだけのシャープな動きとリズムが揃う群舞。思わず見とれてしまった。

ミュージカルの冒頭、オーケストラボックスから本編の歌曲の抜粋がオーバーチュアとして流される。それに合わせて暗色を主としていた幕の投影色が、段々と色相を替え、黄色から赤へと変わりゆく。舞台の幕が上がり、Puttin’ on the Ritzの曲と共に一糸乱れぬ群舞がタップの音と共に舞われる。ステッキがアクセントとして床を叩き、靴音が鳴らす切れのある音が観客席へと響く。80年前の映像が蘇るかのようなダンスにはただ見とれるばかり。フレッド・アステアの踊りに魅了された私は、本作でも同じような群舞が見られると期待したが、その思いが叶ったのは嬉しい。

先に80年代のマイケル・ジャクソンに原作が与えた影響は書いた。逆に80年代を経て本作に取り入れられた曲もある。オランダのTacoという歌手が1983年にヒットさせたのが、本作の冒頭で唄われるPuttin’ on the Ritzで、80年代の音楽シーンでは比較的知られた曲だ。作曲はアーヴィング・バーリンで、原作では5曲を提供したことが記録に残っている。ただ、本作を舞台化するに当たって5曲ではミュージカルとして足りないため、フレッド・アステアの他作品から曲を借用して本作で使用しているという。Puttin’ on the Ritzもそのうちの一曲であり、1946年にBlue Skiesという映画の中でフレッド・アステアによって唄われている。だが、本作でPuttin’ on the Ritzが冒頭で採用されたのはTacoによるリバイバルヒットの影響もあったのではないか。だが、Tacoのカバーバージョンは80年代風の味付けが濃厚だ。今の我々が聞いてもそのサウンド・エフェクトはフレッド・アステア版よりもさらに古く感じる。Tacoのバージョンはプロモーションビデオも観ることが可能で、その中でタップも少し披露されているが、本作で演じられたタップには到底及ばない。本作のPuttin’ on the Ritzはフレッド・アステアを蘇らせたような見事なステップが繰り広げられる。80年前を蘇らせるばかりか、80年代のダンスをも凌ぐようなキレのあるダンスにはただ見とれるばかり。それを冒頭に持ってきた演出家の意図は十分に効果を上げているといえる。

しかし一点、タップについては云いたいことがある。私がタップを前面に出したミュージカルを生で観るのが初めてなので、或いは的を外した意見かもしれないが・・・マイクがタップ音を感度良く拾うためか、鼓膜にビシビシとタップ音が飛び込んでくる。しかし、そのタップ音が切れのある音としては響いてこないのだ。妻に聞いたところ、タップダンスでは靴の近くにマイクを取り付けるのだとか。そのためか、タップの音が寸分の狂いなく聞こえてこず、わずかなタイミングの違いによってなのか、ほんの少し音がぼやけてしまったのは残念だった。これは演者たちの鳴らすタップ音に僅かにずれがあったからかもしれないし、会場の音響の影響があったのかもしれない。それならば、タップ音については観客が静寂にしていてくれることを信じ、一切のマイクを通さず生音を響かせたほうがよかったのではないか。

本作のストーリー自体は、一言で云ってしまえばすれ違いを元にしたラブコメディーである。ブロードウェイのスターダンサーであるジェリーが、巡業先のホテルで会ったモデルのデイルに一目惚れし、デイルもジェリーに好意を持つが、デイルはジェリーのことを友人マッジの夫ホレスと勘違いしてしまい、妻ある身なのに誘惑してきたことに怒ってベネツィアへと旅立ってしまう。ジェリーとホレス、そしてマッジも遅れてベネツィアへと向かうが、一足先にデイルは自分の服のデザイナーであるアルベルトと結婚してしまい、というのが筋書きである。

パンフレットによれば、映画版もほぼ似たようなストーリーだという。しかし、舞台化するにあたり、筋書きに様々な演出上の工夫が施されたという。そのためか、今の目の肥えた観客を飽きさせないだけの演出上の工夫が随所に見られ、だれることなく大いに楽しませてもらった。

一番の演出上の工夫は、喜劇的要素を強めたことだろう。そしてそれには、二人のトリックスター、ホレスの召使いであるベイツと、ラテン男のアルベルトの役割が大きい。この二人が筋に絡むことで、本作に笑いの味付けを効かせることに成功している。原作ではベイツとアルベルトの役割がほんの少ししかなかったようだが、本作では二人の役割を効果的に用いたことが成功の原因だろう。その点、ベイツことジョン・コンロイとアルベルトことセバスチャン・トルキアの両氏のトリックスター振りは実に見事であった。また、ホレス役のクライヴ・ヘイワード氏とマッジ役のショーナ・リンゼイ氏が演じた狂言回しとしてのすれ違いのきっかけを作る演技がなければ、観客はすれ違いに不自然さを感じ、演出効果も出せなかったであろう。実にお見事であった。

そして主演のお二人。本作がいくら喜劇として成功したとしても、本作を締めるのはやはり歌とダンスである。ここが締まらないと本作は単なる喜劇としてしか観客の記憶に残らない。アラン・バーキット氏演ずるジェリーとシャーロット・グーチ氏演ずるデイルは、踊りも歌も、容姿すらも主演を演ずるために相応しい気品を醸し出していた。フレッド・アステアとジンジャー・ロジャースの二人が演じた諸作品は、それだけで一つのジャンルとして認められるほどの成功を収めたと聞く。おそらくは相当に息が合っていただろうし、私が観た当時の映像でもそのことは感じられた。しかし本作の二人もそれに劣らぬほどの見事な息の合ったダンスを見せてくれた。いや、むしろカット割りやテイクなしで目の前で演じてくれた分、彼らの練習に掛けた努力が伝わってくるほどの素晴らしい歌と踊りだったと思う。華やかなアメリカの当時の雰囲気を80年後の我々に届けてくれるかのようなすらりとした容姿、切れのあるタップとよく響く歌声は、もう一度見たいと思わせるに充分なものだった。

また、すでに没後30年近く経ち、マイケル・ジャクソンも亡くなった今となってはますます歴史の中に埋もれつつあるフレッド・アステア。彼の素晴らしさを現代に蘇らせたことだけでも、主演の二人や振付のビル・ディーマー氏、演出のマシュー・ホワイト氏の他、スタッフやキャストの方々の作り上げた功績は、多大なものといえる。私も改めてフレッド・アステアの遺した諸作品を観て、20世紀の初めを彩った素晴らしいエンターテイナーの演技に見惚れてみたいと思った。

2015/10/11 シアターオーブ 開演 12:00~
http://www.umegei.com/tophat_musical/


ミュージカル エリザベート


昨年10月以来の観劇は、奇しくも同じ演目であるエリザベートとなった。前回は宝塚歌劇団花組の、しかも娘役トップの蘭乃はなさん退団公演を兼ねていた。今回は帝国劇場での一般公演。しかもエリザベート役は宝塚を退団したばかりの蘭乃はなさんが再び演じ、宝塚退団前後の蘭乃はなさんの成長ぶりを目撃することができた。これも縁であろうか。今回は前から3列目という間近で一部始終を観劇することができた。いつも素晴らしいお席を取って頂き、田中先生本当にありがとうございます。

宝塚花組による公演は大変素晴らしく、二幕物の正統派ミュージカルが好きな私は、どっぷりとその世界観に浸ることができた。その際にアップしたレビューにも書いているが、役者の演技もさることながら、舞台装置や演出の工夫が実に美しく、舞台美術の有るべき姿を見せつけられた思いだった。今回の公演も同じ小池氏による演出である。同じ演出家が同じ素材を元にどのような調理を見せてくれるのか。宝塚歌劇団と宝塚以外の公演、しかも男性役者が入ることで演目がどのように変化するのか、非常に楽しみにしていた。

とはいえ、普段観劇の機会も少ない私。失礼ながら蘭乃はなさん以外はキャストの方々に対する予備知識もないまま、舞台に臨んだ。

死神トートは、宝塚版では中性的なキャラクターとして設定されていた。ただでさえ中性的な宝塚男役が演ずるにははまり役といってよい。今回は男性がトートを演ずる訳だが、男性が中性的な雰囲気をいかにして身に纏うか。死神の感情を超越した冷徹さと、エリザベートへの愛をいかに両立して演じ切るのか。客席が暗くなり、固唾を呑んで舞台を見つめる私の関心はそこにあった。

ところが冒頭の裁判シーンからして驚かされることになる。妻からは事前知識として宝塚版とほぼ同一の内容と聞いていた。ところが、このシーンからすでにはっきりとした演出の違いが見られた。エリザベート殺害犯であるルイジ・ルキーニ裁判の流れは同じだが、今回版では裁判の証人として、エリザベートの時代を生きた人々を墓から蘇らせる演出が採られていた。埃にまみれたベール状の衣装はかなり独創的で、子どもから大人からが墓から一斉に蘇るシーンは鮮烈に印象付けられた。宝塚版ではこのあたりの演出が曖昧で、証人も現れないまま、あっさりと次の展開に進んでしまい、印象が残りづらい演出となっていた。さらに今回版では証人が舞台に現れきったところでルキーニが上を指さす。そこに吊られて降りてきたのは死神トート。ここで独唱のソロを響かせる。ここで私の心は一気に井上芳雄さん演ずるトートに魅入られた。それはまさに魅入られたといっても過言ではない。中性的な美声と登場シーンが鮮烈なあまり、私だけでなく観客の多くが井上さん演ずるトートに印象付けられたといってもよい。そこあったのは男性や中性といった性別を超えた美しさ。

ここで先に今回版の難点を指摘しておく。今回版は登場人物の歌声にブレが感じられたことが心残りだった。特に主演である蘭乃はなさんの声がたまにひっくり返ったりしたのは惜しい。いずれも感情を表に出す部分、歌詞になると荒れてしまった。もっともそれは、良くとらえるならば感情表現の一つとして許せる範囲ではある。また、フランツ・ヨーゼフ演じる佐藤隆紀さんも一か所だけだが声がひっくり返ってしまった箇所があった。とはいえ、他の方々の台詞にトチリは見られず、歌声も声量も内容もはっきりと耳に聞こえたため、難点と言えるのは上の二か所ぐらいだろうか。しかしそういった難点は、全てトート演ずる井上さんの圧倒的な歌唱力で帳消しになったといってもよい。まだ30回ぐらいの私の浅い観劇経験の中でしか言えないのが残念だが、今まで聞いた中で一番魅了された声だった。

硬軟取り混ぜ、抑揚や声のトーンも実に感情豊か。中でも「最後のダンス」のシーンはとてもよかった。宝塚版よりも幾分かロック調を増したアレンジにロック調の節回しやシャウトを響かせたそれは、荒々しさが粗暴に陥らず、感情溢れる中にも冷徹さを残す絶妙な歌唱だったといえる。

こういった宝塚版にはないロック調のアレンジ。このような宝塚版との演出の違いは随所に見られた。例えば少女時代のエリザベート(=シシー)が父と過ごすシーン。エリザベートの性格形成に大きな影響を与えた父は、今回版ではフランスの家庭教師と浮気をしていたことを独白する。宝塚版には無かった演出である。また、エリザベートとフランツ・ヨーゼフの結婚初夜のシーン。尾上松也さん演ずるルイジ・ルキーニからは「やることやったら世継ぎが生まれ」という台詞が吐かれ、同時に卑猥なしぐさをクイっと見せる。エリザベートが夫フランツの浮気を知る場面は、自身が夫から移されたと思われる性病の症状によってだし、マダム・ヴォルフの館のシーンでは、出てくる娼婦たちの衣装はかなりぎりぎりで、ある娼婦の貞操帯を開け閉めする音まで舞台に響かせる。いずれもいわゆるスミレコードの枠内では不可能な演出であり、演出家の小池氏にとっては腕の見せどころだったのではないだろうか。また、舞台上でフランツ・ヨーゼフとエリザベート。トートとルドルフといった方々が披露した接吻も、宝塚版では見られないことは無論である。

一方では、私が宝塚版で印象に残った舞台の美しい演出の数々が省かれていたのは残念であった。おそらくは舞台装置の違い(宝塚版は東京宝塚劇場、今回版は帝国劇場)によるものと思われる。そもそも帝国劇場の舞台は少々狭く感じた。舞台上にはセットが所狭しと置かれ、舞台上に潤沢な余裕を感じられなかった。とはいえ、プロセミアム・アーチの装飾は死神の意匠を反映して実に重厚、それでいて東京宝塚劇場のそれよりも数段凝った造りとなっていた。広さの都合で舞台装置の演出が省かれていたことは認めるとしても、フランツ・ヨーゼフとエリザベートが出会うシーンの出演者がタイミングを合わせて行う早回し食事の演出や、絶望にくれるエリザベートが一転して自らの人生の自由へと決意する場面の完全な静寂、窓に浮かぶ月に向かって歌い上げる場面など、舞台装置に関係なく演出に取り入れて欲しい場面までもが削られていたのは惜しいところである。

とはいえ、今回版ではスミレコード以外にも宝塚版ではできなかったと思われる演出の工夫が随所に設けられていた。例えば演者の老け方。本作はエリザベートの生涯を追想していくのが筋である。つまり演者は老けて行かねばならない。宝塚版では辛うじて北翔海莉さん演ずるフランツ・ヨーゼフが3~4段階ほどに老けていく姿が見られた程度であった。しかし本作ではフランツ・ヨーゼフはもちろんのこと、ハプスブルグ帝国の官吏たちや、革命家たちに至るまで、舞台を経るごとに等しく老けさせていた。それも3~4段階ではなく、私の見た所5~6段階に分けて。場面の度に髭が蓄えられ、髪は灰色から順に白くなっていく。この様は見事であった。場面ごとに他の登場人物が老けていく一方、全く変わらない容姿を見せる死神トートとルイジ・ルキーニ。二人の異質性が自然と浮き彫りになる見事な演出と云えよう。そもそもエリザベートの息子ルドルフ。ルドルフの少年時代を演ずるのは小学生(大内天さん)であり、青年となったルドルフは古川雄大さんがきっちりと青年の姿を演じてくれる。メイクや衣装替の都合上、また少年の配役など宝塚版では制限のある演出であり配役が、今回版ではきちんと演出に取り入れられていたのはお見事。

また、今回版のほうが史実の人物であるエリザベートにより密接したアプローチを採っていたように思える。例えば二幕冒頭でルイジ・ルキーニが売り子に扮してエリザベートのグッズを客席に配りまわる。妻の隣の方がマグカップをもらっていたが、配られたそれらのグッズには史実に残されたエリザベートの写真が転写されていた。同時に舞台上のハプスブルク家の紋章が刻まれた石版には、エリザベートの写真が投影されるという演出が施されていた。また、ルドルフが死す場面でも、葬儀の祭壇にひれ伏すエリザベートの実写真が投影され、物語の史実性を高める効果を与えていた。また、舞台によってはセットの背後に画像や画像を投影することで、舞台の作り物の印象をそらすような演出がされていたのも心に残った。

ただ、役者さんについては宝塚のほうが良かったと思える点もあった。例えば宝塚版のフランツ・ヨーゼフはトップ就任前の専科時代の北翔海莉さんが演じていたわけだが、母親ゾフィーとエリザベートの間に板挟みになる苦悩。この苦悩が今回のフランツ役を演じた佐藤隆紀さんの演技には少し見られなかったように思う。前回観たレビューにも書いたが、
 フランツ・ヨーゼフを単なるダメ男として演ずるのではダメなので
 ある。彼が国事に真面目であればあるほど、母に孝行を尽くそうとすれば
 するほど、エリザベートの苦悩は増していく。ここのさじ加減が少しでも
 甘いと、エリザベートの苦悩が嘘になってしまう。

この点で、もう少しフランツの有能さやそれゆえの苦悩が前面に出せていればさらに良かったと思う。

また、狂言回しであるルイジ・ルキーニ。本作の肝ともいえる人物であり、この人物が操作する筋、観客への内容紹介は重要である。ここが揺らぐと本作のねらいが観客に伝わらず、劇自体がブレてしまう。本作の尾上松也さんの演技は無論素晴らしく、ルキーニらしさが出ていてとても良かった。私にとっては甲乙付けがたいのだが、宝塚版で見た望海風斗さん演ずるルイジ・ルキーニのほうが、伝法さ、無頼さにおいて印象に残った。それは女性である望海風斗さんが演じたため私の印象に残ったのかもしれない。

結論として違う観点や演出でエリザベートを観られたことは幸運であった。蘭乃はなさんの歌声は宝塚版のほうが良かったとはいえ、今回版の歌声の荒れも、かろうじて感情表出の範囲として受け入れられる範囲だった。彼女にとって退団前と退団後、同じ役に続けて出られたことは本当に幸せだったといえるだろう。そしてそれは、はからずもその両方の舞台を観ることのできた私にとっても同様である。今回はカーテンコールも3回。最後のカーテンコールではスタンディング・オベーションで送られたわけだが、私もその一人となり、立って拍手で閉幕を見送ることができた。

2015/7/12 帝国劇場 開演 12:30~
http://www.tohostage.com/elisabeth/


エリザベート 愛と死の輪舞


今年100周年を迎え、衰えることを知らない宝塚。100年の長きに亘り劇団が存続してきたことは、実に素晴らしいことである。歴代のスタッフや生徒、OGや観客の貢献はいうまでもない。それに加え、時代の節目でモン・パリやパリ・ゼット、ベルサイユのばらに代表される素晴らしい演目に恵まれてきたことも大きい。

私が初めて宝塚を観劇したのは、今から18~9年ほど前の「ミー・アンド・マイガール」。天海祐希さんが主演の舞台で、かなりの印象を受けた。次に観たのが「ロミオとジュリエット」。3年半前の正月にみたこの作品によって、妻の宝塚熱は再燃し、娘二人も宝塚好きになった。思い出深い一作である。この2作によって、私にとっての宝塚が印象付けられた。ともに2幕物で、起伏に富んだ物語が舞台の上で所狭しと演ぜられる。エリザベートも2幕物であり、海外ミュージカルの輸入翻案というのも同じである。以前から機会があれば観ようと思っていたところ、今回ご招待を頂き、妻と観劇してきた。

結論からいうと、素晴らしい、の一言である。

本作は従来の物語にない構成を採っている。題名にもなっているエリザベートは、ハプスブルグ王朝の末期を生きた、フランツ・ヨーゼフⅠ世の妃でありながら、自由を愛する精神の持ち主として著名な人物である。しかし、トップ演ずる主役は彼女ではない。主役であるのはトート。死神である。エリザベートが見せる奔放な行動の背景に、死への無意識の憧れ、つまり死神トートに魅入られていたのではないか、という発想から成り立つのが本作である。そこに魅入られる=愛という要素を加え、ミュージカルとして成り立つ作品として仕上がっている。

本作は史実にも残るエリザベート暗殺犯のルイジ・ルキーニの裁判から幕を開ける。裁判の審理を進める上で、エリザベートの生涯を追想するというのが全体の構成である。そのため、全編に於いて狂言回しとしてルイジ・ルキーニが登場し、観客と舞台をつなぐ架け橋となる。本作では望海風斗さんが演じていたが、発声が実によく、耳の聞こえにくい私にもよく届いた。ともすれば台詞の聞こえにくいミュージカルで、狂言回しのセリフが聞こえないことは致命傷である。過去にルキーニを演じてきたのも、私でも名を知る錚々たる方々である。妻にそのことを聞いたところ、ルキーニ役はトップへの登竜門である役なのだとか。納得である。

私は、宝塚も好きだし、お声を掛けて頂ければ出来るだけ観させて頂いている。しかし、宝塚のスターシステムにはそれほど興味がない。もちろん、歴代スターの存在感や演技については文句のあるはずもない。ファンがトップの一挙手一投足に目を煌めかせ、青田買いと称して若手に注目するのも良くわかる。が、私の好みはそこにはない。宝塚以外の演劇も含め、私が興味を持って観るのは演出面の工夫である。そして、演出面での工夫にこそ、宝塚の素晴らしさと、100年続いてきた秘密があるのではないかと考えている。

本作は小池修一郎さんの潤色・演出であるが、随所に面白い仕掛けが施されていた。例えばエリザベートをフランツが見初める場面。その瞬間にいたるまでの過程を、映像を早送りするかのように全員の動きを速める。実にコミカルで、かつ流れを壊さない絶妙な演出であると感じた。この動きを舞台で実現するために、出演者たちは何度もリハーサルを繰り返したことだろう。また、舞台背景にガラス張りのセットが配されるシーンでは、セットの背景に宮廷の出席者たちを一瞬で移動させ、宮廷の賑やかさを保持したまま、その宮廷とは一線を画するエリザベートの孤独と、その孤独に付け入ろうとするトートを演出する。姑にあたるゾフィーからつらく当たられ、エリザベートが自死しようとする場面では、ロック調のオーケストラが目立つ本作において、一転して完全なる静寂に舞台を浸す。エリザベートの啜り泣きだけが舞台に響き、本作の転調ともなる抑えが効いた名場面である。そして静寂の後、彼女は人生の自由を求め、その魂を蘇らせる。それとともに、背景の空に自室の窓だけを浮かび上がり、スモークが舞台脇から湧いて舞台を覆う。この場面の美しさは本作のクライマックスとも思えるほど素晴らしく、窓を吊っているはずのピアノ線もうまく隠され、本当に浮いているかのようであった。

本作は愛と死の輪舞という副題が付いている。輪舞とは寄り添うだけでなく、すれ違いの動きに特徴がある。ルキーニが再三台詞を発したように、本作ではエリザベートとフランツの夫婦間のすれ違いが描かれる。しかし本作で描かれるすれ違いはもう一つある。それは、エリザベートとトートの間で交わされるすれ違いである。愛を求める心と死へ誘惑のすれ違い。ある時はエリザベートが持つ生への渇望にトートが退き、ある時は息子の自死の衝撃で死を求めるエリザベートに、「死は逃げ場ではない」とトートが一蹴する。人と交わってこその人生であるが、そこにすれ違いが生ずる。そして人に意識がある限り、その時々によって自分の心の中でさえすれ違いが生ずる。本作では、独りの人間の内と外でのすれ違いによって、苦しむ人間を描いている。

このように、演出上の効果や原作に込められた意図は、それだけで深く考えることも可能なのだが、それも役者あってのこと。演出家の意図を再現する生徒さん(演ずるのは全てプロのタカラジェンヌであり、宝塚音楽学校の生徒さん)たちの演技が見事でなければ、演出の意図など観客には届かない。私のような素人が見ている限りでは、目立つ失敗もなく、見事な演技であった。本作がトップお披露目公演という明日海りおさん演ずるトートの冷徹とニヒルが混ざった様も良かったし、妻子からは歌に難ありと聞いていた、本作が退団公演である蘭乃はなさんの歌も十分素晴らしく、傾聴に値したものであった。そして上にも挙げた狂言回しルキーニを演ずる望海風斗さんもよかった。しかし本作でキーとなったのは、フランツ・ヨーゼフⅠ世を演ずる北翔海莉さんであろう。本作で、エリザベートの抱える苦しみにリアリティを与えるのは、エリザベートを苦しめる姑ゾフィーとともに、その息子でありエリザベートの夫であるフランツ・ヨーゼフの優柔不断さである。一般に、エリザベート贔屓の人々からは、フランツ・ヨーゼフⅠ世は、愚夫にしてダメな国王と思われがちである。しかし実際の彼はそうではなかったと言われている。母に頭が上がらなかったこと以外は、勤勉で真面目な国王として後世に知られている。つまり、フランツ・ヨーゼフを単なるダメ男として演ずるのではダメなのである。彼が国事に真面目であればあるほど、母に孝行を尽くそうとすればするほど、エリザベートの苦悩は増していく。ここのさじ加減が少しでも甘いと、エリザベートの苦悩が嘘になってしまう。そのあたりの難しい役柄を北翔海莉さんは見事に演じており、本作を先に見ていた妻がその演技を絶賛していたのも良くわかる。

愛と死のすれ違い、というテーマ以外にも、本作では自由を求める人の精神、がテーマとして流れている。皇后という立場でありながら、自由を求めずにはいられなかったエリザベートの精神。立場や組織の中で、人はどうやって自由を求める心を失わずに生きるのか。妻に聞いたところでは、北翔海莉さんは実力や人気でトップに立てる人材として衆目一致するところであった。が、トップにはなれないまま、専科として各組の舞台を引き締める役に引き下がったという。それに関しては歌劇団の人事上の都合という憶測が囁かれているとか。北翔海莉さんが抱えている屈託や葛藤を全く感じさせない溌剌とした演技。この姿に、エリザベートが立場を超えて自由を求め続けた精神の気高さを重ね合わせずにいられなかった。

2014/10/25 開演 11:00~
http://kageki.hankyu.co.jp/elisabeth2014/


THE KINGDOM


昨年、家族+2名の友人を連れて観劇したのが、宝塚歌劇 月組の『ルパン -ARSENE LUPIN-』。本作はそのスピンオフ作品であり、ルパンで舞台となった時代をさらに遡り、ルパンの中で重要な脇役である2人の男を主役に据えた物語である。

主役は2人。凪七 瑠美扮するドナルド・ドースンと、美弥 るりか扮するパーシバル・ヘアフォール伯爵である。ルパンではヒロインであるカーラ・ド・レルヌを巡る4銃士のうちの2人として、同じ配役で20年後の時代を演じていた二人。今回はその若かりし日々の二人の出会いと、二人が協力して国際的な陰謀を防ぐための奮闘が描かれる。

もう少し粗筋を書くと、英国王ジョージⅤ世の戴冠のタイミングで、ロシアのボルシェビキが勢力を伸ばし、ロマノフ王朝のニコライⅡ世の亡命が現実の問題として迫る時代が舞台である。兄の急死によってヘアフォール伯爵家を継ぐことになったパーシバルは、ロマノフ家とイギリス王家との橋渡し役としての使命を死の床の兄から託される。また、長じてイギリス情報部員となったドナルド・ドースンは、ロシアからの亡命政治犯が活動を活発化させる中、イギリス王制への陰謀の種を見つける。二人は協力し、英国を陰謀の渦から救うため奔走する。だが、ロシアからの活動家の運動は扇動されたものであり、実は背後には戴冠式に使うダイヤ「カリナン一世」を盗み出すためのルパンの策略があった・・・・。

今回の公演は上にも挙げたとおり二人をトップに立てた公演である。今後の月組を担う二人を競わせ、成長させるために用意されたように思えた。ダブルスター制の公演であり、トップに対してのようなオンリーワンの演出こそないが、二人を表に立たせ、良さを際立たせるような演出が随所に感じられた。或いは本作の反応によっては今後の月組のトップ人事にも影響を及ぼすのかもしれない。

私はそれほどトップ人事に関心はない。が、妻子が宝塚好きであるため、オフィシャルな情報や雑談レベルの憶測をあれこれと吹き込まれている。そんな立場なので、二人のこれからをどうこういう知識も資格もないのは承知で、敢えて本作の感想を込めて書いてみることとする。

宝塚は周知の通り、出演者全員が女で、その約半分が男を演ずるという世界的にも稀有な劇団である。そんな中、男役としてのトップに立つにはダンス・歌・演技はもちろんの事、立ち居振る舞いも男らしさが求められる。トップともなれば、広い劇場の客席に「男」としての魅力を遍く行き渡らせる必要がある。遠い客席の隅からその男っぷりを感じるとすれば、それはどこに対してだろうか。私が思うに、それは声ではないかと思う。遠い客席から舞台上の人物を感じるに、視力やオペラグラスでは心もとない。しかし声ならば隅々まで届く。

凪七 瑠美はパンフレットでもクレジットでもトップに配されている。が、男役としては苦しそうな低声の発声が耳に残った。無理やり男性ボイスを絞り出しているような、「男」を苦しそうに演じているような声からは、男役としての迫力が感じられない。また、舞台上のシルエットにも押し出しの強さが感じられず、トップとしてのオーラに欠けているように思えたのは私だけだろうか。

一方、美弥 るりかは声の低音部にも張りがあり、押し出しも堂々たるものがあるように思えた。もっともこの感想は、私のような素人がたかだか2公演観ただけで判断したものである。上にも書いた通り、私がどうこういう話では無論ない。私は、引き続き妻子からのピーチク情報を頼りとし、今後を見守りたいと思う。

主演の二人以外のメンバーについては、副組長以外は、比較的若手のメンバーで構成されていたように思える。劇中でも4,5回ほど台詞のトチリがあった。千秋楽の前日でこれはどういったことだろう、と苦言を少々申したい。

が、そういった些細な生徒さんのミスは差し引いても、本作のストーリーは良いものがあったと思う。ルパンは今一つ登場人物の関係にメリハリがなく、少々わかりにくいものであったが、今作ではそれが改善されていたように思える。ストーリーが整理されていたため、筋の進み方にも起承転結があったと評価したい。

一方で、スピンオフ作品と銘打ってしまっていたためか、演出上の端々に物語のエピローグであるルパンが意識されていたことも否めない。そのため、ルパンを観ていない観客にとっては少々わかりにくい部分もあったと思われる。ただ、ルパンのストーリーで分かりにくかった部分が本作で説明されたことで、本作を観て改めてルパンを観たいと思ったのは私だけではないだろう。

2014/7/27 開演 15:00~
http://kageki.hankyu.co.jp/revue/388/


Dance Act ニジンスキー


バレエについては門外漢であり、本作が銘打つDance Actなる演劇形態についても、全く予備知識のないまま、劇場に臨んだ。しかしその演劇の粋を集めたような演出の素晴らしさとDanceの不思議な魅力には酔わされた。ゾクゾクする感覚、それを味わえる機会は、芸術鑑賞でもそうそうない。しかし本作ではその感覚に襲われた。

幕が開くと同時に、舞台上には彫像のように静止した4人の男女がそれぞれのポーズを取っている。と、一人一人が順にバレエの踊りを踊りだす。一斉にではなく、間合いをとって順に。その間合いは、4人の踊りの振りのリズムと同期している。流れが融け合っていく。そうして時間軸がつむぎ出され、舞台上の時間が動き出す。本作は時間の流れを意識している。観客も時間の流れに身を委ねることが求められる。しかも複数の時間を。本作の世界観に没入するには、時間を意識することが欠かせない。4人の男女は本作では時の流れを象徴するかのように作中を通じてダンスを幾度も披露する。或る時はゆるやかに。あるときは舞台の上で風を起すかのように。ある時は場面転換の先触れとして。冒頭から、本作における4人のダンサーの位置づけが分かりやすく示される。舞城のどかさん、穴井豪さん、長澤風海さん、加賀谷真聡さん。パンフレットを拝見するとバレエの振りは苦手という方もいらっしゃったのだが、それを感じさせないほど、緩やかに、かつダイナミックに躍動する姿は、実に美しい。

DANCER 舞城 のどか/穴井 豪/長澤 風海/加賀谷 真聡

踊り続ける4人の後ろから、安寿ミラさんが登場する。主人公ニジンスキーの妹ニジンスカという役どころで、本作を通してナレーションを務め上げる。登場早々、その立ち居振る舞いから、舞台上で流れる時間とは別の場所にいるかのごとく振る舞う。反復話法を駆使し、観客に対して本作の背景と登場人物間の関係を説明する。主人公の妹という役柄に加え、元宝塚男役スターの安寿さんの発声が舞台に効果を与えていることは間違いない。彼女の良く通る声を通じ、観客は徐々に本作の世界を理解する。このナレーションなくして、幾重にも重なりあう本作の世界観は理解しえない。

B.NIJINSKA 安寿 ミラ

ナレーションが始まってすぐ、精神を病んだニジンスキーが車いすで舞台上に登場。そして他の人物たちが舞台を去った後、彼の心中を具現したかのごとく、舞踊表現の粋を凝縮したような踊りが舞台上で展開される。バレエの振りについて詳しい訳ではないが、実に独創的である。これはニジンスキーの病んだ精神に閉じ込められた、舞踊家としての本能の迸りなのであろうか。主演の東山義久さんの狂気と快活さをともに表現した演技は鬼気迫るものがあった。

V.NIJINSKY 東山 義久

さらにはもう一人の役回しである、岡幸二郎さん演ずるディアギレフも登場。舞台の裏と表を行き来するその歩みは悠揚迫らぬもので、舞台に別の時間軸を持ち込む。そしてある時はニジンスカのナレーションと重ね、ある時は独白で、ニジンスキーとの愛憎を語り、ニジンスキーという人物の歴史を、その才能を語りつける。合間には見事な歌唱を披露し、芸術と男性の愛好家としてのディアギレフの複雑な内面を存分に示す。岡さんの歌声と声量は、本作の重要なアクセントの一つである。

DIAGHILEV 岡 幸二郎

本作の登場人物は全編を通して10人。それぞれがそれぞれの個性でもって、本作を構成する。その絶妙なバランスは素晴らしいものがある。ダンサーの4人も舞台上で時間軸を示すためには一人ではだめで、4人が4人の独自のステップを全うすることで、場面が場としても時間としても彩られる。

さきほどニジンスキーが車椅子で登場した際、車椅子を押していたのが、ニジンスキーの妻ロモラ。そして担当医師であるフレンケル医師。当初は舞台上の存在感はあえて抑えているが、徐々にこの二人が存在感を増す。ロモラは夫であるニジンスキーの才能や栄光という過去にしがみつく人物として。そしてフレンケル医師はロモラとの越えられない一線を耐えつつ、本作で唯一の常識人として舞台に静の側面をもたらす。つい先年まで宝塚娘役トップを務めていた遠野さんは、さすがというべき歌唱力もさることながら、その立ち居振る舞いが没落貴族でプライドだけに生きているロモラの危うさを見事に表現していた。そしてフレンケル医師に扮した佐野さんの落ち着いた常識人としての抑制の効いた演技は、本作にとって無くてはならないものである。

ROMOLA 遠野 あすか
DR.FRENKEL 佐野 大樹

舞台は、絶妙な演出効果と安寿ミラさんのナレーションにより、時間を一気に遡らずに、徐々に徐々に遡り、ニジンスキー一家の生い立ちを示す。そしてバレエ・リュス入団へと至る。ニジンスキーには兄がいて、先にバレエダンサーとして頭角を現すのだが、精神も先に病む。その兄が精神病院で亡くなったことをきっかけに、ニジンスキー自身も精神に異常を来す。その兄に追いつこうとするニジンスキー自身の狂った心を象徴するかのように、ニジンスキーの兄スタニスラフが登場する。30歳前半でなくなったという兄スタニスラフは、本作では少年のような出で立ちで舞台を所狭しと出現する。おそらくはニジンスキーの心の中に住む兄は少年の姿なのであろう。その姿は観客にしか分からず、ニジンスキー以外の登場人物には見えない存在として、本作の重層性にさらに複雑な層を加える。和田泰右さん演ずるスタニスラフは、本作のニジンスキーの心の闇を映し出す上で、外せない役どころである。その無垢なようでいて狂気を孕んだ登場の度に、観客の心に慄然とした感覚が走る。舞台後に楽屋で和田さんに挨拶させていただいたのだが、実にすばらしい好青年で、舞台とのギャップに改めて舞台人としての凄味を感じさせた。

STANISLAV 和田 泰右

安寿ミラさんのナレーションと岡幸二郎さんによるリードにより、ニジンスキーの栄光は頂点を極める。東山さんによるニジンスキー絶頂期の踊りは実に独創的と思わせるものがある。ニジンスキー本人の踊りも、後継者による踊りも知らない私だが、独創的と思わせる身のこなし、そして跳躍。Dance Actの本領発揮である。ある時は4人のダンサーを従えて。それぞれが素晴らしい舞踊を舞台狭しと表現する。その空間の中を、重厚なディアギレフの存在感を回避し、ロモラのプライドを翻弄し、フレンケル医師の常識をかき乱す。そして、ニジンスカのナレーションの効果はますます冴えわたる。

代表的なニジンスキーの舞踊である『牧神の午後』では全面に幕を張ることで影絵を通して自慰シーンを表現する。『ペトルーシュカ』では、人形を演ずるのが得意という、ニジンスキーの生涯とその狂気を解く鍵となる「操られる」ということについての解釈がなされている。

栄光の中、ロモラとの出会い、ロマンス。そして南米での結婚やつわり故の出演放棄に至り、ディアギレフの怒りが爆発する。栄光からの転落、そして忍従の日々。精神病院でのニジンスキーの追憶と、過去の現実の時間軸はますます錯綜する。この時、観客は何重にも進行する本作の時間軸の中に身を置くことになる。ニジンスカの兄ニジンスキーへの嫉妬を含んだナレーションの時間軸。ニジンスキーの追憶の時間軸。ディアギレフの愛憎交じった時間軸。そしてニジンスキーの兄スタニスラフへの敬慕と兄自身の狂気の時間軸。さらにロモラとフレンケル医師の惹かれあい、拒みあう感情の時間軸。最後に観客自身の時間軸。

幾重にも交錯する時間軸でも、観客は本作の世界観から取り残されることがない。それは冒頭のニジンスカの反復話法によって本作の世界観を叩き込まれているからである。また、10人の登場人物の本作での位置づけがしっかりと説明され、演技されているからでもある。このあたり、見事な演出と、役者の皆さんの卓越した演技による効果のたまものであろう。

ついに狂気の世界に堕ちていくニジンスキー。と、正気であるはずの絶頂期の舞踊においてすら、狂気を孕んだ演技を見せていたニジンスキーが急に快活となる。そしてディアギレフやニジンスカと本作を通して初めてまともな会話を交わす。そこには屈託や確執など微塵も感じさせない。ニジンスカのナレーションにはニジンスキーやディアギレフ没後の歴史が登場する。ここにきて、どうやら観客はニジンスキーは死に、死後の世界に来ていることを理解する。そして、ようやく彼の病んだ心が解放されたかのような錯覚を覚える。このあたりの東山さんの演技たるや素晴らしいものがある。

だが、快活なまま、ニジンスキーは本性をさらけ出す。操られるのが得意とさんざん言っておきながら、俺は神だ!と絶叫するニジンスキー。この時、舞台後方からのスポットライトに向かい、十字架を擬する。観客はニジンスキーの神を騙るかのような十字の影に彼の本心と狂気を観る。もはやナレーターではなく、兄に憧れ嫉妬する女性としてのニジンスカが、この時発する「あなた・・・狂ってる」。

私はこの時、全身にゾクゾクする戦慄を味わった。ニジンスキーの狂気と舞台人としての役者たちの演技に。

一度見ただけでは本作の時間軸を理解し尽せたとは思えない。ニジンスキーの手記もまだ販売されているそうなので、本作のDVDと合わせてもう一度見てみたいと思わされた。

2014/4/27 開演 14:00~
http://gingeki.jp/special/nijinsky.html