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日本ふーど記


著者はエッセイストとして著名だが、著作を読むのは本書が始めて。

最近はエッセイを読む機会に乏しい。
それは発表されるエッセイやそれを産み出すエッセイストの問題ではなく、ネット上に乱舞するブログやツイートのせいだろう。
エッセイもどきの文章がこれだけ多く発信されれば、いくら優れたエッセイであっても埋もれてしまう。
雑誌とウェブでは媒体が違うとはいえ、雑誌自体が読まれなくなっている今では、ますます紙媒体に発表されるエッセイの存在感は薄れる一方だ。

だが、紙媒体のエッセイとウェブの情報には違いがある。それは稿料の発生だ。
ウェブ媒体にも稿料は発生する場合はある。ただ、その対象はより専門分野に偏っている。
そうした中、著者の日々のよしなし事をつづるエッセイに稿料をはらう例は知らない。ましてや有料サイトでは皆無ではないだろうか。

もちろん、そこには文化の違いがある。ウェブ日常の情報収集の手段とする世代と、昔ながらの紙の媒体を信奉する世代の違いが。
ただ、エッセイとして稿料が支払われるには、それだけの面白さがあるはず。ましてや、本書のようにエッセイとして出版されるとなると、理由もあるはずだ。
もちろん、ブログがあふれる今と本書が発行された昭和の終わりではビジネス環境も違う。
だが、著者はエッセイストとして、エッセイで生計を立てている。そこに何かのヒントはないか、と思った。

本書を町田の高原書店の入り口の特価本コーナーで見つけた時、私は会津で農業体験をして間もない頃だった。日本の食にとても関心が高く、何かできないかと思っていた。
だからこそ、本書が私の目にひときわ大きく映った。

本書は著者が日本各地の食を巡った食べ歩記だ。だからうまそうな描写が満載だ。
だが、うまそうな描写が嫌みに感じない。それが本書の良いところだ。
本書を読んでいると、食い物に関するウンチクもチラホラ出て来る。ところが、それが知識のひけらかしにも、自由に旅ができる境遇の自慢にも聞こえないのがよい。
著者は美味を語り、ウンチクも語る。そして、それと同じぐらい失敗談も載せる。その失敗談についクスリとさせられる。結果として、著者にもエッセイにも良い読後感をもたらす。

実はエッセイもブログもツイートも、自分の失敗や弱みをほど良く混ぜるのがコツだ。これは簡単なようで案外難しい。
ツイートやウォールやブログなどを見ていると、だいたいいいねやコメントがつくのは、自分を高めず、他を上げるものが多い。
だが、往々にして成長するにつれ、失敗をしでかすこと自体が減ってくる。プライドが邪魔して自分の失敗をさらけ出したくない、という意識もあるだろう。そこにはむしろ、仕事で失敗できない、という身を守る意識が四六時中、働いているように思える。

だからこそ、中高年の書くものには、リア充の臭いが鼻に付くのだ。
私もイタイ中年の書き手の一人だと自覚しているし、若者とってみれば、私の書く内容は、オヤジのリア充自慢が鼻に付くだろうな、と自分でも思う。
私の場合、ツイートでもウォールでもブログでも、自分を飾るつもりや繕うつもりは全くない。にも関わらず、ある程度生きるコツをつかんでくると、失敗の頻度が自然と減ってくるのだ。
大人になるとはこういう事か、と最近とみに思う。

そこに来て著者のエッセイだ。
絶妙に失敗談を織り込んでいる。
そして著者は、各地の料理や人を決してくさす事がない。それでいて、不自然に自分をおとしめることもしない。
ここで語られる失敗談は旅人につきものの無知。つまり著者の旅は謙虚なのだ。謙虚であり博識。博識であっても全能でないために失敗する。

「薩摩鹿児島」では地元の女将のモチ肌に勘違いする。勘違いしながら、居酒屋では薩摩の偉人たちの名が付けられた料理を飲み食いする。
「群馬下仁田」では、コンニャクを食い過ぎた夜に異常な空腹に苦しむ。
「瀬戸内讃岐」では、うどんとたこ焼きまでは良かったが、広島のお好み焼き屋で間髪入れさせないおばさんに気押され、うどんと答えた著者の前に焼かれるお好み焼きとその中のうどんに閉口する。
「若狭近江」ではサバずしを食したまでは良かったが、フナずしのあまりの旨さになぜ二尾を買わなかったかを悔やむ。
「北海道」では各地の海や山の産物を語る合間に、寝坊して特急に乗り損ねたために悲惨な目にあった思い出を語る。
「土佐高知」では魚文化から皿鉢料理に話題を移し、器に乗せればなんでもいい自由な土佐の精神をたたえる。かと思えば、最後に訪れた喫茶店でコーヒーと番茶で胃をガボガボにする。
「岩手三陸」ではホヤから話を始めたはずが、わんこそばを食わらされてダウンする。
「木曾信濃」は佐久の鯉料理からはじまり、ソバ、そして馬肉料理と巡って、最後はハチの子料理を著者の望む以上に食わされる。
「秋田金沢日本海」ではキリタンポやショッツルが登場する。そして日本の、裏側の土地の文化を考えあぐねて胸焼けする。
「博多長崎」に来てようやく、失敗談は出てこない。だが、ヒリョーズや卓袱料理、ちゃんぽんを語った後に長崎人はエライ!と無邪気に持ち上げてみせる。
「松坂熊野」は海の幸に松坂牛が並ぶ前半と、高野山の宿坊で精進料理にひもじい思いをさせられる後半とのギャップがよい。
「エピローグ/東京」では、江戸前鮨の成り立ちと歴史を語り、ファストフードの元祖が寿司である以上、今のファストフードもどうなるかわからないと一席ぶっておきながら、おかんじょう、と小声で遠慮がちに言う著者が書かれる。

そうしたバランスが本書の心地よい点だ。
かつてのエッセイストとは、こうした嫌味にならず、読者の心の機微をよく心得ていたのだろう。
私もそれにならい、そうしたイベントをほどよく織り交ぜたい。私の場合、ビジネスモードを忘れさえすれば、普通に間の抜けた毎日を送れているようなので。

‘2018/10/31-2018/10/31


大久保利通の肖像 その生と死をめぐって


私が本書を読んだ頃、我が家には薩摩弁が飛び交っていた。いや、飛び交っていたというのは正確ではない。話されていた、というのが正しい。誰によって話されていたかというと、うちの妻によって。

2016/11/20を千秋楽として、宝塚星組北翔海莉さんと妃海風さんのトップコンビが退団した。その退団公演のタイトルは「桜華に舞え」という。主人公は人斬り半次郎こと桐野利秋。全編を通して鹿児島訛り全開のこの作品を何度も観劇し、感化された妻は、日常の言葉すら薩摩訛りになったわけだ。

「桜華に舞え」は桐野利秋の生涯に男の散りざまを重ねた、北翔海莉さんの退団を飾るに相応しい作品だった。そして桐野利秋といえば西郷南州の右腕として、西南戦争でともに戦死したことでも知られる。

その西南戦争で薩摩出身でありながら、新政府軍側についたのが、本書で取り上げられている大久保利通だ。維新の薩摩を語るには欠かせない人物であり、維新の三傑であり、明治政府の元勲でもある。敵方だったためか「桜華に舞え」では脇役に甘んじている。そればかりか、明治維新に関する人物の中でも、大久保利通の人気は極めて低い。旧世代の士族につき、死んでいった桐野、西郷を見放し、敵に回したことで、情知らずのレッテルを貼られてしまったらしい。不平士族の不満の爆発に乗って乗せられた桐野、西郷の二人と違い、新生日本の理想を冷徹に見据えた大久保利通は、旧階級である氏族にくみするつもりなど毫もなかったはずだ。

大久保利通とは、情より論が勝った人物。それゆえに人気のなさは維新を彩った人士の中でも指折りだ。

だが、近年再評価の気運も高まっているという。

私自身、さまざまな書で大久保利通の事績や個人的なエピソードを知るにつけ、大久保利通とはたいした人物だと思うようになった。加えて、大久保利通が暗殺された紀尾井坂は、私が数年にわたって参画したプロジェクト現場に近い。清水谷公園に立つ大久保利通遭難碑は何度も訪れ、仰ぎ見たものだ。

本書を読むきっかけは、「桜華に舞え」以外にもある。それは仕事で郡山市を訪れたことだ。大久保利通最後の仕事となった安積開拓。それこそが今の郡山市発展の礎となった。私はそのことを郡山市開成館の充実した展示を読んで理解した。

安積開拓とは、猪苗代湖の水を安積の地、つまり、今の郡山市域に引き込み、巨大な農地に変える事業を指す。それによって明治日本の殖産を強力に推し進めようとした。その事業を通して大久保利通が発揮した着眼点や企画力は、まさに内政の真骨頂。その貢献度は、計り知れないものがある。

その貢献は、郡山市にあるという大久保神社の形をとって感謝されている。神殿こそないものの、祭神として大久保利通は祀られているという。まさに神だ。郡山市とは猪苗代湖を挟んで対岸に位置する会津若松が、いまだに戊辰戦争での薩長との遺恨を取り沙汰されていることを考えると、そこまで大久保利通の評価が高いことに驚くばかりだ。私は大久保神社の存在を本書によって教えられた。郡山の訪問時にそれを知っていれば訪れたものを。もし開成館の展示で紹介されていたとすれば、見落としたのかもしれない。不覚だ。

本書は、大久保利通にまつわる誤解を解くことをもっぱらの目的にしている。大久保利通にまつわる誤解。それは私が知るだけでもいくつかあるし、それらは本書にも網羅的に紹介されている。たとえば藩主後見の久光公に取り入るためだけに囲碁を身につけた、という処世術への軽蔑。紀尾井坂で暗殺された際、敵に背を向けた格好だったという汚名。佐賀の乱で刑死した江藤新平へ冷酷な対応をしたという伝聞。それらのエピソードを著者はおおくの資料を紐解くことで一つ一つ反論する。幕末の血なまぐさい日々にあって、志士達の前で示した勇敢なエピソード。佐賀の乱で刑死した江藤新平への残忍な態度だけが後世に伝えられた裏側の事情。征韓論に敗れて下野した西郷隆盛とは友情が保たれていたこと。西南戦争で示した大久保利通の心情の一端がこぼれ落ちた挿話。家族では子供思いであったこと、などなど。

そして著者がもっとも力を入れて反駁するのが、紀尾井坂で襲撃されたさい、見苦しい様を見せたという風評だ。著者はこの誤解を解き、悪評をすすぐため、あらゆる視点から当時の現場を分析する。私も本書を読むまで知らなかったのだが、紀尾井坂の変で襲撃を受けた時、大久保利通が乗っていた馬車は現存しているのだという。著者はその馬車の現物を見、馬車の室内に入って検分する。

そこで著者は馬車内で刺されたとか、馬車から引きずり出されたとかの目撃談が、遺された血痕の状況と矛盾していることを指摘する。つまり、大久保利通は、自らの意思で馬車の外に出て、襲撃者たちに相対したことを示す。背を向け、武士にあるまじき死にざまを見せたとの悪評とは逆の結論だ。

襲撃された際、大久保利通は護身用ピストルを修理に出していたという。間抜けなのか、それとも死生を超越した豪胆さからの行いかは分からない。だが、幕末から維新にかけ、血なまぐさい時代で名を遺すだけの才覚は持っていたはず。今さら無様な命乞いで末節を汚す男とは思えない。

だからこそ、本書には証拠となる馬車の写真は載せてほしかったし、イラストでよいから血痕の様子を図示して欲しかった。文章だけで書かれても説得力に欠けるのだ。大久保利通の最期が武士らしい決然としたものであってこそ、本書で著者が連綿と書き連ねた誤解への反論に箔が付くというもの。

最後にそれは本書の記述がもたらした、私にとってとても印象的なご縁について書き添えておきたい。そのご縁は、大久保利通と姫野公明師、そして私と妻を時空を超えて巡り合わせてくれた。

姫野公明師とは一説には明治天皇の御落胤とも言われる人物で、政財界に崇拝者も多いという。その姫野公明師が戸隠に移って建立した独立宗派の寺院が公明院となる。本書を読む5カ月前、私はとある団体の主催する戸隠参拝ツアーに参加し、公明院に入らせていただく機会を得た。公明院はとても興味深い場であり、護摩焚きの一部始終を見、貴重な写真や品々を拝見した。

大久保利通の最後を見届けた馬車が紀尾井坂から今の保存場所に行き着くまで。そこには、著者によるととても数奇な逸話があったらしい。そして、その際に多大な尽力をなしたのが姫野公明師だという。この記述に行き当たった時、わたしは期せずして身震いしてしまった。なぜかと言えば、ちょうどその時、私の妻が同じ戸隠参拝ツアーで公明院を訪れていたからだ。

わたしが文章を読んだ時刻と妻がが公明院を訪れた時刻が正確に一致したかどうか定かではない。ただ、ごく近しい時間だったのは確か。そんな限られた時間軸の中で姫野公明師と大久保利通、そして妻と私の間に強い引力が発生したのだ。そんな稀有な確率が発生することはそうそうない。スピリチュアルな力は皆無。占いも風水も心理学で解釈する私にして、このような偶然を確率で片付けることは、私にはとうてい無理だ。そもそも私がツアーに参加する少し前に、妻から公明院の由緒が記されたパンフレットを見せてもらうまで、姫野公明という人物の存在すら知らなかったのだから。今まで読んできた多くの本や雑誌でも姫野公明師が書かれた文章にはお目にかかったことがなかった。それなのに本書で姫野公明師が登場した記述を読んだ時、その公明院を妻が訪れている。これに何かの縁を感じても許されるはずだ。

戸隠から帰ってきた妻に本書の内容を教えたところ、とても驚いていた。そして本書を読んでみるという。普段、私が薦めた本は読まないのに。たぶん、本書を読んだ事で薩摩への妻の熱は少し長びいたことだろう。そのついでに、桐野、西郷の両雄と敵対することになった大久保利通についても理解を深めてくれればよいと思う。少なくとも怜悧で情の薄いだけの平面的な人物ではなく、多面的で立体的な人物だったことだろう。

私も引き続き、薩摩へ訪れる機会を伺い続け、いつかは明治を作った男たちの育った地を訪れたいと思う。

‘2016/11/20-2016/11/24


人斬り半次郎 幕末編


本書を手に取ったのは、「桜華に舞え」という舞台がきっかけだ。宝塚歌劇団星組のトップ退団公演。その公演で退団する北翔海莉さんが扮したのが、人斬り半次郎こと桐野利秋である。

「桜華に舞え」は劇団の演出家によるオリジナル脚本であり、本書は原作としてクレジットされていない。でも本書が全くの無縁だったとは思えない。脚本には間違いなく何らかの影響を与えているはずだ。

そんなわけで人斬り半次郎とはいかなる人物かを、舞台を観る前に本書で知っておこうと思った。

薩摩示現流と名乗る剣術の流派がある。映像で稽古風景を見た事があるが、撃ち込み一筋の気迫のこもった稽古だった。ただひたすらに攻めに徹する。そして気迫で相手を圧倒する。そこには守りや間合いといった静はなく、ただただ動の一点張り。人斬り半次郎こと中村半次郎も、示現流の達人である。

だが、彼は途中で示現流の道場を辞めてしまう。それは道場で不和が起こったからだ。半次郎のあまりの強さに、他の門下生が太刀打ちできなくなったのだ。しかもその多くは藩の上士。一方で半次郎は下士であり、本来ならば上士を手合わせすることすらはばかられる立場なのだ。そこでいざこざが生じたため、半次郎は道場を辞め、稽古を自己流で行うことになる。

普通の人であればここで剣術を諦めてしまい、後の世に名を残すことはない。だが、彼が普通の人々と違ったのは、自己流であっても鍛錬を惜しまなかったことだ。なにがそこまで彼を駆り立てたのか。それは己に打ち勝つため。己の置かれた状況に打ち克つためだ。

唐芋侍。半次郎が属する郷士の事を薩摩ではさげすんでこう呼んだという。幕末の薩摩藩といえば開明の印象が強い。だが実は藩内には歴然とした階級があり、半次郎が属する郷士は下級武士、つまり下士として下に見られている。下士が藩主直参の上級武士として取り立てられることはほぼなかったという。半次郎の場合、父が公金横領の罪で訴えられたこともあり、ほぼ上士になる見込みはない。それもあって半次郎は上士に対する対抗意識が強く、道場でも世渡り下手の自分を押し通してしまったのだろう。

だが、半次郎は腕力に訴える粗暴なだけの男ではない。本書で描かれる半次郎は人間的にとても魅力的な男だ。美男子で女にはめっぽう優しく、そして惚れやすい。つまり男にはめっぽう強くて女には弱いのだ。一人の人間の中に強さと弱さが同居している。複雑ではなくむしろ単純。半次郎は決して粗暴なだけの男ではなかったが、彼の生きざまは示現流の影響を受けたのか、守りや間合いを知らなかった。おそらく世が世なら世事に疎く不器用な男として薩摩の吉野郷で生を終えていただろう。要領よく頭角を現すといった形では世に出られなかったに違いない。

彼の境遇を変えたのは黒船来航をきっかけとした国内情勢の変化と、藩主斉彬による登用策だ。それによって西郷隆盛が取り立てられる。郷士の中の暴れものとして城下の若手武士たちから恐れられ遠ざけられていた半次郎は、西郷の訪問を受ける。そして、半次郎が武芸を鍛錬する気迫と開墾に一心不乱に取り組む姿、弁の立つ様子は西郷を感心させる。

西郷にとって、小賢しいだけの男は不要だ。己の地位に満足せず、さわやかな男ぶりをみせる半次郎は、これからの薩摩に必要な人材と映ったのだろう。西郷の上士や下士といった身分にとらわれぬスケールの大きさは、本書を通じてさまざまなエピソードによって明らかにされてゆく。

半次郎が後日、西郷のもとにあいさつに訪れたときのこと。土産にと大きな唐芋を三本持ってきたのだが、それを見た西郷の弟小兵衛が笑う。それを見咎めた西郷が、小兵衛を叱る。この唐芋は半次郎の厚志であり、それを笑うとは何事であるか、というわけだ。情に厚く理想家肌だったと伝えられる西郷の人柄がしのばれるエピソードだ。この出来事によって半次郎は西郷に心酔し、この人のためなら、と一生を賭けることになる。

ここに、西郷に目を掛けられた半次郎の立身出世の物語が始まる。ただ、西郷の立場も弱い。薩摩の実権は前藩主斉彬公の急死によって久光公に移っている。そして斉彬公によって取り立てられた西郷と久光公はそりが合わない。先日も、島流しの憂き目にあったばかりだ。同士である大久保市蔵にとりなされ、罪を許されて戻ってきたとはいえ、まだのびのびと藩政を切り回すまでの力はない。しかし緊迫する情勢は久光公に上京を迫っていた。そのお供として半次郎を推す西郷。大久保市蔵に半次郎の腕の冴えを実検させ、大久保に認められた半次郎は出世への足がかりをつかむことになる。

彼の強さは、攻めの局面であれば、より強さを引き寄せる。だが、半次郎はすでにこの時気づいていない。攻めの局面に夢中になっていると、背後で失われてゆくものもあるということに。半次郎は女性を引き寄せる魅力的な男だ。夜這いの風習のある吉野では年上の幸江と恋仲になっていた。だが、立身出世に逸るあまり、半次郎は幸江を忘れて上京してしまう。幸江が実在の人物かどうかは知らないが、このくだりは、本書において半次郎の負い目となってずっとついて回る。

上京した久光公に随行して京に出た半次郎。だが、この時期の薩摩藩が置かれていた情勢は薄氷の上を歩むようなものだ。西郷もそれを見越した上で薩摩藩に良かれと思い、久光公の命令に反して自己判断で動く。それが久光公の逆鱗に触れ、また島流しにあってしまう。それと前後して寺田屋では薩摩藩士同士による刀傷沙汰も起こっている。世にいう寺田屋騒動だ。

めまぐるしく薩摩藩を巡る情勢は変化する。そんな中にあって、もくもくと勤めを全うする半次郎。が、彼の剣術の腕は少しずつ京の街中に知られてゆく。青蓮院宮の衛士として幾度も宮の危機を救う。そして、扇子問屋を営む松屋の娘おたみを救う。おたみを救ったことで、彼女が気になってしまう半次郎。武士が女に惚れることは弱点につながる。しかも、勤務の最中に知り合った法秀尼とは、性の愉楽に身をゆだねる仲となる。

この謎めいた法秀尼が、西郷のいない京において半次郎の成長に大きな役割を果たすことになる。前に半次郎を攻める一方で守りを知らないと書いた。だが、半次郎とて愚かではない。剣術以外に自分の身を立てる武器が必要であることを悟り、法秀尼に書を習うのだ。さらには本も読みふける。仕事も剣術も手習いも含めて強靭な体力でそれらをこなして行く。人斬り半次郎が後年、桐野利秋となったのは、この時期の精進のたまものだろう。

著者は幕末の情勢と半次郎の日々を鮮やかに書き分けていく。天下の情勢と薩摩藩の置かれた立場が複雑に変動する中、任務と自己鍛錬を怠らぬ半次郎の日々。堅苦しいだけでなく、法秀尼と肉欲に溺れるゆとりも見せる。そんな日々にあって、長州藩との抗争に目覚しい活躍を見せる半次郎は、薩摩藩にあって伍長としてそれなりの地位を固めたといえる。幸吉という自分を慕う少年も手元におき、一見すると半次郎の日々は順風満帆に思える。だが、半次郎が抱くおたみへの少年のような恋心は募るばかり。おたみもまた、自らを救ってくれた半次郎を慕うのだが、それに半次郎は気づかない。殺伐とした幕末の京にあって、すれ違う二人の心がもどかしくも、とても新鮮だ。多情多彩な半次郎の日々を、彼は要領は悪いなりに、全力でこなしてゆく。こういう不器用なところが半次郎の魅力なのだ。

そんな中、二年ぶりに許された西郷が京に来る。そして土産話として吉野の幸江が嫁に行ったことを半次郎に知らせる。そのことを聞かされた半次郎はうろたえる。法秀尼との情事やおたみへの思慕など、多情な半次郎だが、幸江のことに衝撃を受け、苦しむ。この多情さが彼の魅力であり、煩悶する彼はとても人間くさく、好感がもてる。

そんな忙しい中でありながら剣術の鍛錬は怠らないので、半次郎の剣術の冴えは人々のますます知るところとなる。法秀尼からもらった和泉守兼定を懐に差し、西郷の遣いとして長州を視察して回り、半次郎は忙しい。京を覆う物騒な世相は池田屋事件を起こし、半次郎が長州から戻ってきた直後には禁門の変がおきる。それによって長州と薩摩の対立は決定的なものとなる。そして薩摩に中村半次郎あり、という武名は京や江戸、そして長州にも達する。

そんな日々が半次郎を変えていったのだろう。久々に薩摩に帰った半次郎は、あまりにも立場が上がったことで吉野の人々から仰ぎ見られる存在となる。一方で、自信に満ちた半次郎に眉をひそめる人々もいる。守りも間合いも知らない半次郎がいちずであればあるほど、人々との差は開いてしまう。そんな不器用で直情な半次郎の悲しい性が少しずつあらわになってゆく。吉野でかたくなに半次郎に合うのを避ける幸江の態度は、そんな半次郎の後年の孤独を予見するかのようだ。人は栄達してもなお、少年の頃と同じような心でいられるか、という問題がある。成長は自信へと変わるが、その自信は人々の目に尊大に映る。私自身も気をつけねばならない点だと思っている。

半次郎の肥大しつつある自信は、淀川の決闘であわや命を落としかけることによって足元をすくわれる。同郷の大山格之助によって助けられたことは、天狗になりかけた自らを諫める機会になったはずだ。だが、徳川幕府の命運もわずかな今、半次郎に自らを省みる時間が与えられることはない。そして倒幕の勢いはいっそう増してゆくばかり。時代に翻弄される半次郎の悲劇が、ほのめかされるかのように上巻は終わる。

‘2016/08/06-2016/08/08


秀頼脱出


唐突ながら、出版社には格があると思う。格が何かを表現するに、新聞を例にあげると良いだろう。例えばガセネタといえば東スポ、大スポであり、信頼できる新聞といえば日本経済新聞というように。もっともこの例も最近は怪しくなりつつあるけれど。要するに情報の発信元への信頼度を格といい替えてみた。

出版社によってはトンデモない珍説を堂々と出版してしまうこともある。記載された情報を著者の主観だけでろくに裏取りせず、堂々と帯に新説として打ち出してしまうなど。そのようなトンデモ本の類いは「ト学会」に面白おかしく取り上げられ出版社としての格を落とす。そうしたトンデモ本を出す出版社の本は、どれほど真面目な内容であってもエンターテインメントの一種として見られ、読者は読んでいる間、眉に唾を付けっぱなしとなる。出版社や著者にとっては甚だ不本意な話であると思う。

では、本書の発行元である国書刊行会はどうか。国書刊行会は、私にとっては格の高い出版社である。世界のマイナーだが面白い本、日欧米以外の国で出版された名作や前衛作、そして問題作を我が国に積極的に紹介するその志には常々敬服している。格の高さだけでなく志を持っている出版社だと思っている。その二つを兼ね備えた出版社となるとなかなか見当たらない。

正直言って私が本書を手に取ったのは、題名と出版社の落差に興味を持ったからだ。もし本書が私にとって格の落ちる出版社から発行されていれば本書は手に取らなかっただろう。なにせ題名が「秀頼脱出」である。豊臣秀頼は大坂城で死んだのではない、という陰謀説の臭いが題名からもうもうと立ち込めている。そして本書は小説ではなく歴史書の類だ。しかも著者の名は本書で初めてお見かけした。となればなおさら本書は敬遠の対象となる。しかし、そのような偏見を抱きかねない本書は国書刊行会から出版されているのだ。私ががぜん興味を持ち、本書を手に取ったのはそういう経緯からだ。

なお、私は歴史にまつわる伝説の類いは好きだ。高木彬光氏の名著「成吉思汗の秘密」はそれこそ10回は読んでいる。こういう悠久の歴史の中で遊ぶロマンは好きだ。史実を金科玉条のように崇め奉るだけではロマンは生まれない。しかし、ロマンはロマン。それを史実として吹聴することについてはちょっと待て、と思う。

秀頼が死なずに薩摩辺りに逃れたという説があるのは以前からおぼろ気には知っていた。だが、今までの私は太閤の栄華を惜しむ民衆の心情が作り上げたよくある陰謀説の一つとしてあまり本気にしていなかった。

わたしがここに来て秀頼の脱出に興味を持った理由は二つ。一つは先日読み終えた「とっぴんぱらりの風太郎」だ。(レビュー)。秀頼はこの本において主要な脇役として登場する。その哀愁と愛嬌の両方を備えたキャラ設定には親しみを覚えた。そして「とっぴんぱらりの風太郎」は大坂城の大爆破でクライマックスを迎えるのだが、秀頼の最期は曖昧に描かれていた。果たして「とっぴんぱらりの風太郎」の中で秀頼はどうなったのかという疑問が喉に引っ掛かっていた。

もう一つは大河ドラマ真田丸の存在だ。本書を読んだ時点ではまだまだ先だが、いずれは秀頼の最期もドラマ内で映し出される日も来るのだろう。その時に秀頼の最後がどう描かれるのか、という興味だ。結局、私は真田丸の視聴を途中で断念してしまったのだが。

本書では秀頼脱出に真田大助が先導役を果たしたという説まで紹介されている。著者の探求は幸村一行の消息までは及んでいない。著者が追及し検証するのはあくまでも秀頼が大坂城を脱出し、薩摩へ逃れたという仮説の構築だ。そこに著者は重きを置いている。

その検証を進めるにあたり、著者の姿勢は慎重この上ない。そもそも著者が秀頼脱出説に興味を持ったのは、木下家の現当主、木下俊凞氏から木下家に一子相伝で伝わる伝承を教えてもらったからだという。その伝承とは、秀頼の遺児国松は京で斬首に処せられたのではないというものだ。豊臣秀吉の若き日の姓名が木下藤吉郎であることはよく知られている。諸説はあるが木下とは父の名乗っていた姓だという。そして秀吉の死後は秀吉の妻北政所の一族が木下家を継いだという。いずれにせよ木下家は秀吉に縁ある家柄だ。江戸幕府からは一定の配慮を受け江戸時代を生き延び、今に至っている。そんな一族に伝わる伝承だからこそ、著者は俗説として退けず、真剣に向き合ったのではないか。

さらに著者は、ある縁で多田金山に眠る伝説に真田幸村の家臣として知られる穴山小助が絡んでいたことを知る。太閤埋蔵金伝説で知られる多田金山には、今も眠ったままの財宝があるという。金山の資金の一部は、大阪冬夏の陣や秀頼の薩摩行きにあたり豊臣家のためとして使われたという。こういった周辺の伝承も、著者の心を調査へと駆り立てる。

著者は秀頼脱出説の真偽を調べるため九州へ飛ぶ。木下家に伝わる伝承によると、木下家が藩主となった立石藩5000石から初代藩主木下延俊の意思によって日出藩が分家された。日出藩の藩主となった人物こそ、大阪城から逃れた国松ではないかと著者は推測する。そこには立石藩主木下延俊が設けた子の名前が六人とも同じ縫殿助という名となっていて、いかにもな証拠となっている。

一方、国松の父秀頼は薩摩の谷山でかくまわれ、そこで子を成したのち45歳で自死した伝承が残っているらしい。それを裏付けるかのように地元には秀頼が薩摩に来た伝承が野史に残っていたり、秀頼の墓と伝わる石塔が今も立っている。著者はそれらの伝承は確認したものの、それ以外に碑や墓、書状という明確な形では確証が得られなかったようだ。本書にはそのことが正直に記してある。

著者の探求はかつて日出藩があった今の日出町へと向かう。日出藩菩提寺だった松屋寺には豊臣と銘された石柱や石灯籠が多数並んでいる。それらは写真として本書に紹介されている。また、日出藩領にある長流寺は、他の寺にはあまり見られぬ場所に石柱が立っている。その石柱にはただ一言『興亡三百年』と彫られている。これも写真で掲載されている。

著者が住職に伺った話でも、国松が立石藩初代藩主延由であることは公然の事実として伝えられているらしい。位牌にも豊臣の名が刻まれており、その位牌の写真も本書に紹介されている。

こういった著者の探求は、読者をして国松生存説に傾かせるには魅力的だ。冒頭に書いた通り、国書刊行会という名のある出版社が本書を出すからには相当の裏付けがないと難しい。著者が調べて本書に掲載した裏付けは、国松生存説を補強し、出版に踏み切らせるだけの強力な調査結果だったと思われる。

あとは秀頼である。秀頼は著者の調べるによると宗連と名を変えて薩摩に住んでいたという。だが、薩摩には確とした痕跡が残されていない。薩摩藩としては幕府の目を憚って証拠を残さぬように処置したのだろうと著者はいう。そして、著者の主張する通り国松生存が濃厚であれば、秀頼もまた生存していたと考えるのが自然である。薩摩には秀頼生存の確とした証拠がない代わりに、あちらこちらに伝説は残されている。著者はそれらの説も紹介するのだが、秀頼生存説の決定打となる証拠がない。

膠着状態の著者を救うかのように、埼玉の木場氏という方からの連絡がある。木場氏は、自家に伝わる一子相伝を語る。それによれば豊臣家に仕えた馬場文次郎という武士がいて、この人物が秀頼の大坂城脱出にあたって多大な貢献を果たしたとか。そのため、島津藩では木下の”木”と恩人である馬場の”場を組み合わせて木場という家を創設し、秀頼の子孫に名乗らせたというのだ。木場家では一子相伝の口伝として代々伝承されているというのだ。

木場家の伝承は歴史ロマンとしては魅力的だが、正直いって口伝なのが弱い。口伝だけでなく手紙や書状が残っているのであれば、本書でその手紙を紹介して欲しかったのだが。

また、木場家の伝承の中では真田大助が落ち延びる秀頼と鶴松に同道して薩摩へと向かったとあるようだ。木下家に伝わる一子相伝にも木場家に伝わる一子相伝にも、真田幸村ではなく大助が薩摩落ちに関係したという。双方の一子相伝を信ずるならば、真田幸村は薩摩に落ち延びず大助だけが落ち延びたことになる。つまり真田信繁の名を日ノ本一の兵として高めた大坂の陣での活躍は、死なずに落ち延びたという行いに汚されなかったことになる。これには正直ほっとした。兵をおいて将が薩摩に落ち延びたとすれば幻滅だからだ。

本書では巻末で私も初耳の説が紹介されている。それによると秀頼が設けた息子の一人に羽柴天四郎秀綱がいたという。そして島原の乱の首領であったと記された文書があるという。いうまでもなく天草四郎である。また、そこには秀頼自身も参戦していたともいう。その書状も本書には紹介されていないし他の証拠もない。これが本当なら歴史ロマンの花開く話なのだが。

著者が本書を世に問うた後、どのような調査を行ったのか。そして日本の史学会が秀頼脱出説をどう扱ったのか。そのことをとても知りたく思う。史実として秀頼脱出を認めるわけではないが、火のないところに煙は立たないともいう。何がしかの新事実があるのならなおさらだ。脱出説には関係なく、秀頼を再評価する動きも歴史家の間にあるとも聞く。戦国の世を締めくくる合戦の大将の末路が、城と共に飛散したのか、それとも今の世まで脈々と伝わっているのか。それはとても興味があるのだが。

‘2016/03/22-2016/03/24


桜華に舞え/ロマンス!!


今年初の観劇となったのは、宝塚歌劇団星組演ずる本作だ。

本作はまた、星組トップの北翔海莉さん、妃海風さんの退団公演でもある。そんな退団公演の題材として選ばれたのは、意外にも桐野利秋。 桐野利秋とは日本陸軍の初代少将であり、南州翁こと西郷隆盛にとって近しい部下としてよく知られる人物だ。だが、宝塚が取り上げるには少し意外と言わざるを得ない。

なぜ、 北翔さんは退団にあたって桐野利秋を演ずるのか。それは私にとってとても気になることだった。

北翔さんは以前から妻が好きなタカラジェンヌさんである。私も始終その人となりは聞かされていた。舞台人としても苦労して這い上がり今の高みまで達した努力の人でもある。その努力はタカラヅカの活動だけに止まらない。重機の運転やサックス演奏、殺陣の振る舞いをタカラジェンヌとしての活動の合間にマスターしたこともそうだ。人生を前向きに捉える飽くなき向上心は見習うほかはない。また、 北翔さんは技量だけでなくかなりの人徳を備えた方であると伺っている。それは、その人間性が認められ、一旦は専科という役回りに退いたにもかかわらず、星組のトップとして呼び戻されたことでもわかる。いわば異能の経歴の持ち主が北翔さんである。

では桐野利秋はどうなのか。それを理解するため、私は小説に力を借りることにした。 作家の池波正太郎の作品に「人斬り半次郎」というのがある。この作品こそまさに桐野利秋の生涯を描いており、桐野利秋を理解するのに適した一冊といえる。唐芋侍として蔑まされる鹿児島時代。自己流でひたすら剣を振り続けることで剣客として認められ、島津久光公の上洛に付き従う従者の一人として取り立てられる。以降、尊皇攘夷や公武合体など、目まぐるしく情勢が入れ替わる殺伐の世相の合間で剣を振るう日々。それだけでなく、薩摩藩士としての活動の合間に書籍を読み、書を極めて人物を磨いた。女好きでありながらも豪放磊落な利秋は人情の機微を解する人格者としても慕われたという。

つまり、桐野利秋とは北翔海莉さんのキャラクターを思い起こさせる人物なのだろう。殺陣をマスターした北翔さんと剣の達人でもあった桐野利秋。様々な異能を持つ北翔さんと独学で書や儀典をこなすまでになった桐野利秋。人徳の持ち主北翔さんと親分肌の桐野利秋。こう考えると、北翔海莉さんと桐野利秋という取り合わせがさほど奇異に思えなくなってくる。

だが、退団公演に桐野利秋をぶつける理由とはそれだけではない気がする。まだあるのではないか。

先年、宝塚歌劇団は100周年を迎えた。その当時、星組のトップを務めていたのは柚希礼音さん。宝塚の歴史の中でも有数の人気を誇った方として知られる。そんな柚希さんの後を託された人物として 北翔さんが専科から戻されたわけだ。そこには正当な100年の宝塚歌劇の伝統を後代につなげてほしいという宝塚歌劇団の思惑もあるだろう。中継者として北翔さんの人徳や技能が評価されたともいえる。だが、言い方は悪いが、体のいいつなぎ役ともいえる。もっと油の乗った若い時期に正当に評価されるべき方だったのかもしれない。北翔さんは。

本作には、そのあたりを思わせる演出が随所にある。 季節外れに咲いた桜を指してボケ桜と呼ぶシーンがそれを象徴している。生まれてくる時代が早すぎたというセリフもそうだ。北翔さんにとってみれば、もっとはやく評価されたかった。もっとはやくトップに立ちたかった。そんな思いもあったのかもしれない。或いはそれは穿った意見なのだろうか。

だが、北翔さんはトップ就任時の約束どおり、3作でトップを降りることになる。それは潔い決断だ。

本作のみのオリジナルキャラとして衣波隼太郎が桐野利秋の親友として登場する。彼を演ずるのは紅ゆずるさん。北翔さんの次の星組トップとして内定している方だ。衣波隼太郎は桐野利秋と袂を分かって大久保利通、つまり新政府側に付く。そして、本作の最後、城山のシーンでも官軍の軍人として登場し、桐野利秋の最後を看取る。新しい日本の礎となって死んだ桐野を悼み、「義と真心をしっかりと受け継いで」というセリフが衣波隼太郎の口から発せられる。義と真心の持ち主とは、すなわち北翔さんに他ならない。それは次のトップ紅さんによる新時代の宝塚を作っていく決意表明でもあり、伝統への餞とも取れる。

果たして、北翔さんの衣鉢は次代に受け継がれていくのだろうか。本作のサブタイトルはSAMURAI The FINALと銘打たれている。SAMURAI、つまり北翔さんのようなタカラジェンヌは最後になってしまうのだろうか。たたき上げのタカラジェンヌとしての努力の人としてのタカラジェンヌはもう現れないのだろうか。それとも、100周年を経た宝塚は新たな芸術を模索していくのだろうか。とても気になる。

その模索は本作の娘役と男役の関係にすでに顕れているように思える。娘役トップの妃海風さんは、本作で退団する。私が知る限り、本作の娘役と男役と関係は、明らかに今までの関係と違っている。男役に殉じたり従順である娘役像とは一線を画し、独立独歩の姿を見せているのが本作の特徴だ。これは新しい宝塚を占う上で参考としてよい演出なのだろうか。あるいはそうではないのか。とても気になるところである。

本作の並演のロマンチック・レビュー「ロマンス!!」は本編とは違い、伝統的なレビューを見せてくれる。多分、本編のステージ「桜華に舞え」の作風と釣り合いを持たせるためなのだろう。ただひたすらに王道を極めているといえる。ラインダンスありのデュエットダンスありの、そして大階段ありの。個人的にはエルビス・プレスリーのHound DogやDon’t be Cruelの曲が流れた際、指揮者の塩田氏がカラダを揺らしてRock and Rollしていたのがとても印象的であった。

今年初めての観劇となった本作であるが、時代の移り変わりを体験でき、さらには王道のレビューも観られ、とても満足だ。

あ、そうそう。本作は薩摩弁で全編通すなど、とても地域色に演出の気が遣われていた。その一方で、史実ではシカゴですでに髷を断髪しているはずの岩倉卿が、本作で依然として髷を結った姿で西郷の征韓論を一蹴していたのが気になった。折角方言を活かしていたのに、もうちょっと時代考証に気を使ってほしいと思わずにはいられなかった。でも、西郷さんに扮する美城れんさんは本作でもとても印象的だった。この方も本作で退団されるのだとか。残念である。

‘2016/8/26 宝塚大劇場 開演 15:00~
https://kageki.hankyu.co.jp/revue/2016/ouka/