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「死」とは何か イェール大学で23年連続の人気講義 完全翻訳版


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本書はその重厚な分厚さと、壇上にあぐらをかいて語る著者の風貌が目につく。本屋や書評でも見かけ、読みたいと思っていた。
そこで47歳の誕生日の自分へのプレゼントとして妻に買ってもらった。

47歳。あと3年で50歳を迎える。いわゆるアラフィフだ。人生の後半戦であり、その後にやってくる死が意識の端にのぼり始める。

永遠に続くはずと思い込んでいた日々。そのはるか先に暗闇、つまり無が口を開けている。無が私たちの前途を黒く塗りつぶす光景は、想像の難しい領域だ。だが、誰にも必ずその終わりは来る。それに備えておかなければ。
本書のテーマである「死」は、私にとって知っておかねばならないテーマだった。

本書はイエール大学で23年間続いたという講義の内容をもとにしている。
とはいえ、本書は死についての本質を明快に語ってくれるわけではない。世に多くある哲学書と同じく、本書は死の概念の周囲を歩き回りながら、さまざまな視点と切り口から死の本質を覗き込もうとしている。
死は著者の慧眼を持ってしても一言で言い表せる類の概念ではない。そのため、本書は決して読みやすいとは言えない。

だが、ありとあらゆる切り口と視点から死と生を語る本書は、私たちにその概念を考えるきっかけを与えてくれる。

自己の同一性や時間の概念。魂の存在や死後の世界。そして自殺は倫理的に正しいのかについての考察。

以前もどこかで書いたように思うが、子供の頃の私は死を恐れていた。
死んだらどうなるのか。自分が死んだ後、世の中は何も変わらず続くのに、世界でたった一つの自我は無に消える。そのことが耐え難く恐ろしく、心の底から死に慄いていた。
頭では、ほぼ全ての人間が自我を持っていることは分かっている。だが、自分の主観から見た世界は、他人の客観から見た世界の間には絶対的な違いがある。唯一無二の自我。それがどうにも理解できないでいた。

それから40年以上が経過した今、私は日々の仕事の忙しさを乗りこなすのに精一杯だ。死や虚無を恐れる暇がない。
私にとって仕事とは、死の恐怖を忘れるために人類が発明した営みだと思っている。
でなければ仕事のための仕事や、管理のための管理がまかり通っている理由がない。

だが、無我夢中で仕事と戦っていた時期に終わりが見え、ある程度乗りこなせるようになってきた。子育ても娘の卒業が見えた今、関わる必要が薄れてきた。

そうなると、次に考えるのは自分の死にざまだ。後半生では、死に向かうだけの自分の生きかたを考えなければ。

だが、今の私には死それ自体や、死の後に来るはずの虚無よりも恐ろている事がある。それは、残りの時間に自分がやりたいことがやれない未練だ。死の瞬間、私は自分のしたいことができずに死んでいく無念を全霊で悲しむだろう。

そうした迷いの数々を振り切りたくて、本書を手に取った。

著者はまず自らの死生観を明らかにする。そこで明言するのは、死後の魂を否定することだ。来世や輪廻、天国を否定する著者の口調に一切の迷いはない。死ねばそれで終わり。救いもなければ、やり直す機会もない。そもそも著者にとって死は悪いものですらない。

死は悪くない。その考えは果たしてどこから来るのか。死とはいったい何にとって悪いのだろうか。死を残念がるのは、死する主体、つまり魂なのか。その時に死ぬのは肉体だけで、魂は別と主張する人もいる。
では、肉体と魂は別々の存在なのだろうか。肉体が死んでも魂が別ならば、死を恐れる必要がない。魂があるなら死後の世界も生まれ変わりもあるだろう。天国すら存在するかもしれない。
だが、それを実証する術は私たちにはない。著者は魂の不在を主張する。だが、ないことを証明できない以上、魂が存在しないとも断言しない。

魂や意識は今の科学でも説明ができない。物質主義に寄った立場を隠そうとしない著者も、魂の存在については両者が引き分けと言っている。

著者は物質主義を貫くが、性急に結論を出さない。デカルトやプラトンの見解を援用し、詳細に彼らの哲学を検討し、本当に魂は存在しないのかについての綿密な論考を重ねてゆく。

私たちが魂を信じる理由は、自己の一貫性があるからだ。夜に寝て朝に起きた時、前の日の私と今の私は同一人物だ。私たちはそれを当たり前のこととして受け入れている。だが本来、それは証明ができない。同一に見えるのは外見だけ。もし精神に変調をきたした場合、前の日と次の日の自分は同じなのだろうか。それを証明する手段はない。だが、私たちはその同一性を当たり前のようにして日々を生きている。

著者はこの同一性を魂ではなく人格だと説く。記憶、肉体、魂で歯なく人格。
著者は人格こそが人の本質であることをほのめかす。この自己同一性があるからこそ、私たちは自分の人格を信じる。同一性が大切なことは、時間と空間を隔てても保持できることからも分かる。肉体と魂は別ではく、肉体の一機能である脳機能の発現こそ人格。

ここまで、本書の400ページ弱が費やされている。まだ半分だ。死とはまず何の主体に対しての死なのか。それをきちんと定義しておく。それが著者のアプローチだ。

ここまで論を深めた上で、著者はようやく死とは何かについて語る。意識の不在が死であるなら、睡眠もまた死と言えるはずだ。だが、睡眠が死とは違うことは誰もがわかっている。
そもそも本人にとって悪い事とは何か。悪い事と意識が認識して初めて、それが悪い事になる。意識とは生きている。悪い事を認識するには生きていることが必要だ。
では、意識が虚無である死のなかで、死は本人にとって悪い事なのだろうか。

さらに、意識のない状態が悪ならば、生まれてくる前の状態は本人にとってどういう状態なのか。生とは無限の時間の中で一瞬だけの間の話なのだろうか。

死が人間にとって悪くないとすれば、生きている間は人にとってどのような状態なのか。それが永遠に続く、いわゆる不死の状態は人にとって果たしてあるべき姿なのか。それは悪いことではないのか。

上に出てきた自己同一性の問題も不死が必要なのかについて考える題材になる。不死の体現者となった時、人は何百年、何万年と生きるだろう。その時、膨大な時を隔ててもその人は果たして同じ人物と言えるのだろうか。
10,000年前の自分が考えていたことを完全に覚えていない場合、自分は10,000年前の自分と同じ人物と言えるだろうか。
不死も同じ理由だ。しかも、不死と言っても常に成長を続けることはできない。どこかで衰えや飽きに苛ませられる。その時、不死は人にとって良いことではなくなる。むしろ、身の毛のよだつと言う表現まで使って著者は不死を拒否する。
そのように突き詰めて考えると、死は悪いことでない。

その上で著者は人生の価値、人生の良し悪しが何かについて述べる。
結局、人は死によってその生を中断させられる。来世も転生もなく。限られているからこそ、生を輝かせようとする。

著者は本書において明確な生の本質を語らない。むしろ、著者自身も自らの考えをまとめながら死を考えているように思う。
だが、著者による回りくどくも精緻な分析は、私たちが普段、考えずにやり過ごしている己の生を考えさせてくれる。本書から明確な死の定義を求めようとしても無駄だ。
だが、宗教が形骸化し、元となった仏典や経典が顧みられなくなった今、現代の人が死を考え直さねばならない現実を本書は教えてくれる。

正直に言うと、私は本書を読んでもなお、膨大な時間を求めている。数万年の生を。だが、いざ不死が自分の身に訪れた時、一億年もの間、衰えや飽きを知らずに生きていけるだろうか。
それを考えるためにも折に触れ、本書を読みなおしてみようと思う。

2020/9/2-2020/9/25


土門拳の写真入門―入魂のシャッター二十二条


「もっと早く本書を読んでおけば」
本書を一読しての私の感想だ。新刊本で購入した本書。あろうことか、一年以上も積ん読状態にしていた。怪しからぬ扱いを本書にしていたと反省している。そもそもなぜ本書を購入したか。それは自分の撮った写真の質に飽きたらなかったから。

三、四年前からFacebookに毎日写真付き投稿を行っている。投稿にあたって自分に課した縛りとは、毎日、自分自身が撮影した、違う被写体の写真を投稿すること。そのココロは日々が単調に陥るのを防ぐことにある。さらにFacebookは実名なので自然と文章に責任が伴う。だらだらと匿名で文章を書き散らすのではなく、締まりのある投稿を習慣付けたかった。その二点については日々のFacebookへの投稿を通して成果が出たと思っている。が、肝心の写真の品質はといえばまだまだ。被写体の見栄えが良ければたまに良い写真は撮れた。しかしそれは素材自体の出来がよいから。私ではなくて他の人による同じようなアングルの写真など、Instagramやflickrを覗けば無数に落ちている。

もっと私の個性を写真に出したい、写真に魂を込めたい。そのことをずっと思っていた。もっともっと日々の生きざまをくっきりと刻むような写真が撮りたい。そういった写真を毎日撮り収めたい。

が、私の写真で満足できる出来はごくわずか。やはり独学ではなく、きちんと学ばねば。そう思っていた私が書店で見かけたのが本書。他にも写真撮影入門が並ぶ中、本書は他と比較した上で購入した。

なのに本書を一年以上も平積みのままにしていた。それではせっかく本書を新刊で買った甲斐もない。

本書は土門拳氏の生涯を取り上げている。土門氏についての私の知識はないに等しかった。もちろん写真家として一時代を築き上げた人という認識は持っていた。でも土門氏の代表作はと問われても黙るほかなかった。そんな私の浅い知識は、本書に描かれる土門拳氏の写真への執念にガツンとやられた。本書は読者に写真を撮る事への覚悟を突き付ける。

そもそも本書は、私が漠然と期待したような写真ノウハウ本ではない。写真の技法に触れた記述ももちろんあるがそれはごく一部。それよりも土門拳氏の写真への執念と被写体の本質を原版に焼き付けるための不屈の魂を伝えるためにのみ書かれたといってよい。本書から私は他の書籍ではおそらく得られなかったであろう写真の心を受け取ったように思う。

例えば人の肖像写真を撮る前にはその人についてのありとあらゆる文献に目を通す。被写体が仏像であれば、創られた時代背景、彫仏師の生きざま、思想などなど。土門氏は単にファインダーに写るモノを切り取るだけの写真屋ではない。土門氏は対象の質感はもちろんのこと、写真に写るはずのない対象の情念すらもファインダーに捉えた上でシャッターを切る。

私がアップした写真も含め、巷のSNSには写真が溢れている。けれどもその中に土門氏が被写体に対して燃やした情熱と同じ熱量の写真はあるのだろうか。多分ないだろう。高価なレンズを用意し、貴重なネガに感光させ、慎重を期して現像液に浸し、ようやく現像できる土門氏の時代。その頃に比べると今は恵まれている。撮り損じてもすぐに削除できるデジタルカメラ。即座に自分の写真を世界に発信できるインターネット。われわれには、もはや氏の求道心を真似ることは不可能なのだろうか。私はこれを書いている今もなおデジタルカメラの便利さに頼っている。時間のない事を言い訳にして。

本書を読み終えて数日後、知り合いの方からFacebook経由で御招待を頂き写真展を訪問した。

そこで見たものは、土門氏の好む被写体ではなかったかもしれないが、私の好む被写体だった。すなわち山。そこで展示されている写真は、SNSに氾濫する写真とは対極にある。自然と対峙した写真家が、刻一刻と変わる被写体の一瞬を切り取る。寒い中、シャッターチャンスを待ち続ける写真家の志は、土門氏のそれを継承するといってもよいだろう。

この展示会で思ったことはもうひとつある。それは、写真を選ぶということだ。ここで出展した写真家のほとんどは、一人あたり多くて二点の出展にとどめている。展示された一枚の写真の背後にはその何十倍、何百倍の写真があるはずだ。土門氏も写真集の発刊に当たっては掲載点数の数百倍の写真を撮ったという。

写真家とは、撮る労力を惜しまず、選ぶ労力も引き受けるから写真家なのだ。ことに被写体を徹底的に調べ抜く土門氏の労力は抜きん出ていると思う。そのことは本書に明らかだ。

撮り忘れた一枚を思い出したとの理由で広島への夜行に飛び乗っていった話。それも本人の結婚記念日当日と言うのだから奮っている。二度の脳卒中を経て体の動かぬ中、投げ入れ堂を撮るために全身をぐるぐるに縛らせ持ち上げさせた話も壮絶だ。土門氏の写真への鬼気迫る姿勢を物語るエピソードは本書に豊富に紹介されている。本書から伝わってくる土門氏の写真家としてのプロとしての意識は凄まじいと言うしかない。

さて、写真に対する姿勢のいい加減な私である。毎日違う被写体で、という目標を立てたのだから毎日違う被写体をアップするのはいい。私の場合、投稿は一日一回と決めている。けれどアップしたい写真には限りがない。そんな中選んだのが複数写真を一つにまとめる策だ。でも、複数の写真を並べて一つの写真としてアップするのは本書を読んだあとでは恥じ入るしかなかった。上に挙げた展示会に出展するような方々や土門氏から言わせると、複数写真を組み合わせる私のやり方は素人写真の典型なのだろう。自分でもそう思う。私はその状態を改善するため、不定期ではあるがInstagramにも写真をアップし始めた。これかなと思う写真を一点選び、写真をフィーチャーするためキャプションは最低限の言葉に留めている。タグをいっぱい付け、多くの人に配信されるようにしている。写真の顕示に特化しているため、思ったよりも反応がある。

でも、まだ足りない。油断するとすぐに写真がダレてしまう。まずは機会を見て土門氏の「ヒロシマ」「古寺巡礼」を観てみようと思う。気合の入った写真から学ぶものはまだまだたくさんある。一眼レフカメラはそれからだ。

‘2016/05/08-2016/05/08


魂のリアリズム 画家 野田弘志


写実画。現実と寸分たがわぬ姿を再現する表現法である。目を中心に五感を最大限に働かせ、最新の手先の技術を駆使し、現実を別の次元であるキャンバスに写し取る。素晴らしい作品ともなると、その場の様子ばかりか、時間や匂いまで再現されており、ただ魅入るばかりである。私も抽象画よりはどちらかというと写実画の方が好みである。

だが、最近のIT技術の進展は、素人でも簡単に現実の一瞬を写し取ることを可能にした。デジカメの力を借りて。ディスプレイの画素を通し、プリンタから印字した紙の上で、人々はいとも簡単に現実の断面を鑑賞する。一見すると、画家が精魂込めた作品を、素人が労せずに再現しているようにも思える。写実画とはなんのために存在するのか、と疑問を持つ向きも多いだろう。写実画が好きな私にしても、心の片隅でそのような疑問を持たなかったと言えばうそになる。

本作は、現代日本にあって写実画の第一人者とされる野田弘志氏に焦点を当てたドキュメンタリー映画である。野田氏の製作過程や芸術・美に対する考え方などが、71分という短めの尺に凝縮されている。前にも書いた写真と写実画の違いについては、本作が雄弁に語っている。

雄弁に語ると書いたが、本作は解説のセリフをだらだら流すだけの、教則ビデオのようなものではない。むしろ逆である。台詞は極限までそぎ落とされ、静謐と思えるほどの間が全編を通して流れる。ギターやチェロによる効果音楽も合間に流れるが、野田氏の製作過程の場面では、静寂、または時計のチクタク音のみが流れる。真摯な眼差しと手先の筆さばきがアップで映され、観客は、スクリーン全体で雄弁に語られる写真と写実画の違いを受け止める。そのあたり、本作では音響の使い方が実に適切である。監督を始めとするスタッフの真摯な仕事ぶりが本作で取り上げられている内容に反映されているのが感じられる。

本作冒頭で、野田氏の代表作の数々が映し出される。本作の中心に据えられるのは『聖なるもの THE-IV』という鳥の巣をモチーフとした作品である。野田氏のアトリエ近くに設えられていた野生の鳥の巣を巨大キャンバスに再現した一枚。本作ではその製作過程を中心として進行する。当初見つけた時は巣の中に1個の卵だったのが、2個になり、5個になり、5羽の雛が孵る。が、ある日野田氏が見てみると巣ごと忽然と消えていたという。おそらくは他の動物に雛ごとさらわれたのであろうと野田氏は語る。生と死をテーマに据える野田氏は、その誕生の尊さと、その儚さについて、生き永らえることのなかった雛たちの生が、キャンバスに永遠に残ることを願う。

製作過程はこうである。まず、デジカメで精緻な写真を撮影する。そしてキャンバスを自らの手で貼りつける。次にデジカメ写真を2m×2mほどのキャンバス大まで拡大する。拡大の際は、下書き用の写真なので複数の用紙に分割して印刷し、それをテープで貼り合わせる。キャンバスにカーボン紙を貼り付け、その上に先ほど貼り合わせた写真を載せる。あとはそこから輪郭などを線描ですべて書き込んでいく。毛布やタオルやクッションを駆使しての重労働である。終われば、書き込んだ内容がカーボン紙を通してキャンバスにうっすらと写し取られている。キャンバスを今度は可動式の台に垂直に立て、撮影した写真を観ながら、正確に写しつつ描いていく。

野田氏は語る。ただ写すだけでなく、デフォルメなどは自身の解釈も含めると。眼前にある美を目に映ったままに再現するのではなく、その奥に隠れている口には言えない美の本質を再現したいと。それは現実の単なる模倣ではなく、作品として魂を入れる作業である。製作過程を観ていると、本当にこれが精密な作品に仕上がるのか、と不安になるような出だしである。写真の輪郭をカーボン紙で模写した直後も、油絵具を塗り始めてからも、完成品に比べると遠く及ばない。それを野田氏は何度も粘り強く油絵具で重ね塗りを加えていく。すると絵に命が吹き込まれていく。見る見るうちに現実的なフォルムになる。色合いが写真に近づき、それを上回る。質感さえもが写真を凌駕する。

製作過程の合間に、北海道伊達市のアトリエ周辺の景色の季節の移り変わりが挟まれる。有珠山は色づき、太陽が山を鮮やかに染め、落ち葉が舞い、雪が白く覆う。野田氏はその合間にも奥様と雪かき道具を持参でゴミ捨てに行き、広島で整体師による整体治療を受け、講演を行い、絵画塾の主催者として弟子に絵の心を伝達する。画商の訪問を受け、愛弟子をアトリエに招いて絵の道を教え諭す。

野田氏はいう。一枚の絵に一年はかかると。本作もまた、一年の季節の移り変わりと、『聖なるもの THE-IV』製作過程の進展を同調させる。一年の間に野田氏がこなす様々な仕事の姿を通し、野田氏の肉声を通して、その芸術観や美に対する考え方が紹介される。

最後に入念なチェックと、署名を終えたときの、野田氏の満足げな顔が実によい。自らに向き合う魂の仕事を終えた男の顔である。この顔を観るために、もう一度本作を観ても良いぐらいである。作中で野田氏が語る一節で、イラストレーターの仕事を辞め、画家として一人立ちする決意を述べる下りと、何をどのように書きたいとかではなく、ただ絵が描きたいと思ったという下り。そして愛弟子に絵の道を諭す時の下り。仕事とはこうありたいものである。

’14/8/30 テアトル新宿