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雀の手帖


著者の父君は明治の文豪、幸田露伴だ。尾崎紅葉と並び称され、当時の文壇を率いた活躍は紅露時代と名付けられ、日本文学史にしっかりと刻まれている。ところが私は幸田露伴の著作を読んだ事がない。何度か『五重塔』は読もうとした。だが、その度に文語調の文体に手を焼き、断念した。

そして本書だ。著者は文豪の娘であるが、その立場に安住しない。自らも作家として大家の中に伍している。父露伴を描いた諸作品を著し、エッセイの名手としても名を高めている。実は私は著者の文章を読むのは初めてだ。著者が書くエッセイの妙味を味わってみたくて本書を手に取った。

エッセイとは簡単なようで難しい。日記だけなら私もこの四、五年ほど、毎日Facebookにアップしている。ところがそれは日記でしかない。私は、たとえ”SNS”であろうとも、自分の書いた物にはエッセイのような一味を加えた味わいを出したい。そして自分がFacebookにアップする文章には過度なビジネス臭を漂わせたくない。そう思っている。普段、ビジネスに忙しくする中、自分の人生にどうやって変化をつけるか。しかも無味乾燥な事実の羅列ではなく、読むに耐える内容をつづれるか。これが難しい。日々の鍛錬を欠かすと、途端に文は乱れる。私が毎日Facebookに文章をアップする理由はこれだ。

さらなる文章の高みに至るにはどうすれば良いか。それは先人の著した文章を参考にすることだ。たとえば本書のような。私が本書を手に取ったのはエッセイの名手である著者の文体に触れるためでもあるし、エッセイを毎日記す営みの一端を知るためでもある。私はその本書によってその極意にほんのわずかだが触れる事ができたと思う。

その極意とは、読者の共通項に訴える事だ。読者といってもさまざまだ。住んでいる場所や性格、人生観が変わる違えば価値観も違う。ただ、読者に共通している事がひとつある。それは時間だ。季節の移りゆく時間。本書はここに焦点をあてている。それがいい。

本書の内容は昭和34年の元旦から100日間、西日本新聞の紙面に連載された文章が元になっているという。日々のよしなし事や作者の目に映る百日間の世間。著者はそれを毎日筆にしたため、本書として成果にした。発表した媒体こそ西日本新聞、つまり九州の読者に向けて書かれているが、著者が住んでいるのは東京。つまり、本書は西日本と東京に共通した歳時記として記されている。

季節の移ろいは、日本の東西南北の各地で多彩で豊かな顔を見せる。だが、極端な違いはない。さらに、季節が見せる変化は、少々の時代が違っても変わりないと言っても良い。例えば本書が書かれた六十年後の今も、本書で描かれた当時の歳時の描写は理解できる。そこに共通しているのは、日本の風土なのだから。日本の東西に共通する季節の様子をおろそかにせず描いたからこそ、本書はエッセイとして成り立ち、六十年後にも生き残っている。ただし、そのためには折々の文化、事物への豊富な知識が必要だ。私にはそれが足りない。普段の生活から季節感を感じ取るにはアンテナの感度も足りない。

また、知識として歳児を知るだけでは足りない。それだけでは弱いのだ。日々の季節の出来事だけなら、私が日々アップする日記にも時々登場させている。それ他に本書をエッセイとして完成させているのは味わいだ。著者の独特の視点が文中に出汁を効かせている。さらに、独特の文体が複雑で深みのある味わいを出している。

本書の解説で作家の出久根達郎氏が書いているが、著者の文体には魅力がある。私もそれに同意する。特に擬態語と擬音語の使いかたに特徴がある。私もさまざまな本を読むが、著者が繰り出す表現は、本書でしか見た事がない。この斬新な言い回しが本書の記述に新しい感覚を与えている。

ただ、正直に言うと、本書には退屈な所もある。それは仕方ない。なにしろエッセイだ。著者の身の回りにそうそう劇的な出来事ばかり起こるわけではない。身の回りのあれこれをしたためている以上、退屈な描写になってしまうこともある。そもそも昭和34の日本の暮らしは、現代から見ると刺激に富んでいるとはいい難い。そんな素朴な描写の中、随所に挟まれる新味の表現が本書のスパイスとなり、読者を引きつける。

日によっては変わり映えのない題材を取り上げているにもかかわらず、そうした日には身の回りの些事を描いているにもかかわらず、著者は百日間、エッセイを書き続ける。それが素晴らしい。

昭和34年の日本。それは今の世から見るとすでに歴史の一部分だ。先日退位された上皇夫妻の結婚式があり、日本経済は来たる東京オリンピックに向けて高度成長のただ中にあった。もはや戦後ではないといわれた日本の成長の中、かろうじて明治大正、戦前の素朴な日本が残っていた時期でもある。そのような時期に著者のエッセイは、父露伴から受け継がれた明治の日本をかろうじて書き残してくれている。実は退屈に思える日々の描写にこそ、本書の資料的な価値はあると思う。

また、著者は当時、徐々に社会に浸透し始めたテレビ文化の発信者でもあった。本書には、当時、テレビに出演する機会があったエピソードにも触れられている。当時にあっては著者の立場は先進的であり、本書が決して懐古的な内容でないことは言っておきたい。徐々に戦後の洋式化しつつある文化を受け入れつつあった日本の世相が存分に記されているのも本書の良さだ。

今の私が日々、SNSにアップする内容は、果たして後世の日本人が平成から令和に切り替わった今の日本を書き残しているだろうか。そうしたことを自問自答しつつ、私は日々のSNSへのアップを書きつづっていきたいと思う。

‘2018/07/20-2018/07/21


柳田國男全集〈2〉


本書は読むのに時間が掛かった。仕事が忙しかった事もあるが、理由はそれだけではない。ブログを書いていたからだ。それも本書に無関係ではないブログを。本書を読んでいる間に、私は著者に関する二つのブログをアップした。

一つ目は著者の作品を読んでの(レビュー)。これは著者の民俗学研究の成果を読んでの感想だ。そしてもう一つのブログエントリーは、本書を読み始めるすぐ前に本書の著者の生まれ故郷福崎を訪れた際の紀行文だ(ブログ記事)。つまり著者の民俗学究としての基盤の地を私なりに訪問した感想となる。それらブログを書くにあたって著者の生涯や業績の解釈は欠かせない。また、解釈の過程は本書を読む助けとなるはず。そう思って本書を読む作業を劣後させ、著者に関するブログを優先した。それが本書を読む時間をかけた理由だ。

今さら云うまでもないが、民俗学と著者は切っても切れない関係だ。民俗学に触れずに著者を語るのは至難の業だ。逆もまた同じ。著者の全体像を把握するには、単一の切り口では足りない。さまざまな切り口、多様な視点から見なければ柳田國男という巨人の全貌は語れないはずだ。もちろん、著者を理解する上でもっとも大きな切り口が民俗学なのは間違いない。ただ、民俗学だけでは柳田國男という人物を語れないのも確かだ。本書を読むと、民俗学だけでない別の切り口から見た著者の姿がほの見える。それは、旅人という切り口だ。民俗学者としての著者を語るにはまず旅人としての著者を見つめる必要がある。それが私が本書から得た感想だ。

もとより民俗学と旅には密接な関係がある。文献だけでは拾いきれない伝承や口承や碑文を実地に現地を訪れ収集するのが民俗学。であるならば、旅なくして民俗学は成り立たないことになる。

だが、本書で描かれる幾つもの旅からは、民俗学者としての職責以前に旅を愛してやまない著者の趣味嗜好が伺える。著者の旅先での立ち居振舞いから感じられるのは、旅先の習俗を集める学究的な義務感よりも異なる風土風俗の珍しさに好奇心を隠せない高揚感である。

つまり、著者の民俗学者としての業績は、愛する旅の趣味と糧を得るための仕事を一致させるために編み出した渡世の結果ではないか。いささか不謹慎のような気もするが、本書を読んでいるとそう思えてしまうのだ。

趣味と仕事の一致は、現代人の多くにとって生涯のテーマだと思う。仕事の他に持つから趣味は楽しめるのだ、という意見もある。趣味に締切や義務を持ち込むのは避けたいとの意見もある。いやいや、そうやない、一生を義務に費やす人生なんか真っ平御免や、との反論もある。その人が持つ人生観や価値観によって意見は色々あるだろう。私は最後の選択肢を選ぶ。仕事は楽しくあるべきだと思うしそれを目指している。どうせやるなら仕事は楽しくやりたい。義務でやる仕事はゴメンだ。趣味と同じだけの熱意を賭けられる仕事がいい。

だが、そんなことは誰にだって言える。趣味だけで過ごせる一生を選べるのなら多くの人がそちらを選ぶだろう。そもそも、仕事と趣味の両立ですら難儀なのだから。義務や責任を担ってこそ人生を全うしたと言えるのではないか。その価値観もまたアリだと思う。

どのように生きようと、人生の終わりではプラスもマイナスも相殺される。これが私の人生観だ。楽なことが続いても、それは過去に果たした苦労のご褒美。逆に、たとえ苦難が続いてもそれは将来に必ず報われる。猛練習の結果試合に勝てなくても、それは遠い先のどこかで成果としてかえってくる。また、幼い日に怠けたツケは、大人になって払わされる。もちろんその水準点は人それぞれだ。また、良い時と悪い時の振幅の幅も人それぞれ。

著者を含めた四兄弟を「松岡四兄弟」という。四人が四人とも別々の分野に進み、それぞれに成功を収めた。著者が産まれたのはそのような英明な家系だ。だが、幼少期から親元を離れさせられ郷愁を人一倍味わっている。また、英明な四兄弟の母による厳しい教育にも耐えている。また、著者は40歳すぎまで不自由な官僚世界に身をおいている。こうした若い頃に味わった苦難は、著者に民俗学者としての名声をもたらした。全ての幼少期の苦労は、著者の晩年に相殺されたのだ。そこには、苦難の中でも生活そのものへの好奇心を絶やさなかった著者の努力もある。苦労の代償があってこその趣味と仕事の両立となのだ。

著者が成した努力には読書も含まれる。著者は播州北条の三木家が所蔵する膨大な書籍を読破したとも伝えられている。それも著者の博覧強記の仕事の糧となっていることは間違いない。それに加えて、官僚としての職務の合間にもメモで記録することを欠かさなかった。著者は官僚としての仕事の傍らで、自らの知識の研鑽を怠らない。

本書は、官僚の職務で訪れた地について書かれた紀行文が多い。著者が職務を全うしつつもそれで終わらせることなく、個人としての興味をまとめた努力の成果だ。多分、旅人としての素質に衝き動かされたのだろうが、職務の疲れにかまけて休んでいたら到底これらの文は書けなかったに違いない。旅人としての興味だけにとどまることなく文に残した著者の努力が後年の大民俗学者としての礎となったことは言うまでもない。

本書の行間からは、著者の官僚としての職責の前に、旅人として精一杯旅人でありたいという努力が見えるのである。

本書で追っていける著者の旅路は実に多彩だ。羽前、羽後の両羽。奥三河。白川郷から越中高岡。蝦夷から樺太へ。北に向かうかと思えば、近畿を気ままに中央構造線に沿って西へと行く。

鉄道が日本を今以上に網羅していた時期とはいえ、いまと比べると速度の遅さは歴然としている。ましてや当時の著者は官僚であった。そんな立場でありながら本書に記された旅程の多彩さは何なのだろう。しかも世帯を持ちながら、旅の日々をこなしているのだから恐れ入る。

そのことに私は強烈な羨ましさを感じる。そして著者の旅した当時よりも便利な現代に生きているのに、不便で身動きの取りにくい自分の状態にもどかしさを感じる。

ただし、本書の紀行文は完全ではない。たとえば著者の旅に味気なさを感じる読者もいるはずだ。それは名所旧跡へ立ち寄らないから。読者によっては著者の道中に艶やかさも潤いもない乾いた印象を持ってもおかしくない。それは土地の酒や料理への描写に乏しいから。読む人によっては道中のゆとりや遊びの記述のなさに違和感を感じることもあるだろう。それは本書に移動についての苦労があまり見られないから。私もそうした点に物足りなさを感じた。

でもそんな記述でありながらも、なぜか著者の旅程からは喜びが感じられる。そればかりか果てしない充実すら感じられるから不思議なものだ。

やはりそれは冒頭に書いた通り、著者の本質が旅人だからに違いない。本書の記述からは心底旅を愛する著者の思いが伝わってくるかのようだ。旅に付き物の不便さ。そして素朴な風景。目的もなく気ままにさすらう著者の姿すら感じられる。

ここに至って私は気づいた。著者の旅とわれわれの旅との違いを。それは目的の有る無しだ。いわば旅と観光の違いとも言える。

時間のないわれわれは目的地を決め、効率的に回ろうとする。目的地とはすなわち観光地。時間の有り余る学生でもない限り、目的地を定めず風の吹くままに移動し続ける旅はもはや高望みだ。即ち、旅ではなく目的地を効率的に消化する観光になってしまっている。それが今のわれわれ。

それに反し、本書では著者による旅の真髄が記される。名所や観光地には目もくれず、その地の風土や風俗を取材する。そんな著者の旅路は旅の中の旅と言えよう。

‘2016/05/09-2016/05/28


福崎の町に日本民俗学の礎を求めて


4月に福崎を訪れました。

福崎と言えば、日本民俗学の泰斗として著名な柳田國男氏の出身地です。

昨秋、友人たちと横浜山手の洋館巡りをした際、神奈川県立文学館で催されていた柳田國男展を訪れました。ただ、入館した時点ですでに閉館時間まで1時間しかなく、駆け足の観覧を余儀なくされました。短い間でしたが、柳田氏の生涯を概観して印象付けられた事があります。それは、氏が官僚を辞し、本格的に民俗学の探求を始めたのが40代半ばという事です。それなのに氏は日本民俗学を創始し、後世に巨大な足跡を遺しました。そのことは私のように中年にさしかかった者にとっては励まされる事です。柳田國男展の観覧記についてはこちらにアップしました。
生誕140年 柳田國男展 日本人を戦慄せしめよを観て

それ以来、福崎には一度行きたいとの思いは募るばかり。今回の関西出張に際し、1日休みを確保して福崎を訪れる事にしました。

なのに、例によって旅先で行きたいところを詰め込む悪癖が発症。福崎に滞在した時間は4時間と少し。そんな短時間では到底福崎を回りきれる訳もなく、次回の再訪に持ち越しとした箇所は両手に余ります。 そんな駆け足の訪問でしたが、柳田民俗学の揺籃の地としての福崎は目に焼き付けてきました。柳田氏自身が「日本一小さい家」と呼んだ生家と柳田國男・松岡家顕彰会記念館をじっくりと観て回れたのが良かったです。

福崎訪問マップ1
福崎インターから福崎駅までのルート
(クリックすると拡大します)

柳田國男生家を訪れる前に、福崎の町を車で流しました。福崎インターで高速を下り、典型的な郊外ロードサイドの風景を眺めつつ駅へ。駅の近くには旧市街の風情を残した道並みにも巡り会えました。駅からは福崎インターの方角へ戻り、インターを通り過ぎて柳田國男生家のある辻川界隈へ。車による移動だったため、街中を隈なく歩いたわけではありません。が、福崎を走って感じた捉えどころのない町という印象は今も拭えません。その印象は後日地図で確認しても同じです。どこが中心なのか分かり難い町。


福崎訪問マップ2
福崎駅から柳田國男生家付近までのルート
(クリックすると拡大します)
その印象は今も変わりありません。 銀行の支店や各種公共施設のある場所が町の中心点。私が今までに趣味の町歩きで得た経験則です。その伝でいけば福崎の中心とはすなわち銀行の支店のある場所と見なしてよいでしょう。福崎の町にある銀行の支店は駅周辺と福崎インター周辺に点在しているようです。福崎インターのすぐ側には町役場もあります。播但線の福崎駅と福崎インターという交通の結節点がすなわち町の中心点。地図から読み取れる福崎の地理はそのような構造になっています。ですが、私が訪れた際、福崎インター周辺に繁華街は見当たりませんでした。福崎駅近辺も同じ。駅付近には旧市街らしき由緒ありげな町並みはありました。が、その街並みも福崎の町のへそではなさそうです。結局、福崎にいる間、町の中心を見出せないままでした。

町の中心がないという事は、福崎の抱える地理的な条件による気がします。まず、町の東西を分断する市川の存在。さらには生野街道から離れた場所に設置された播但線の福崎駅の位置。それらは、福崎の発展に大きな影響を与えたと思われます。さらには播但有料道路が旧生野街道に取って替わるように南北を貫き、東西には中国自動車道が町を太く横切っています。昔よりも福崎の町が交通の結節点としての色を強めていることは間違いないでしょう。なのに、交通の要衝ではなく通過点でしかないのが今の福崎といえます。それらの交通網が町を結束させるどころか分断しているように思えました。

福崎訪問マップ3
柳田國男生家周辺の地図
そのようなとらえどころのない町の佇まいの中、柳田國男生家の周辺は、訪れた人の期待を裏切りませんでした。柳田少年が見たそれとは違い、今の風景が観光地化していることは確かでしょう。でも、現代人にはほっとできる風景であることに違いありません。

ただ、柳田國男生家の周辺が昔の風景を残していたとして、それは風景の中の話。私の目に映る福崎が、柳田國男少年にとってのそれと似通っている事が確認できただけの話です。肝心なのは柳田國男氏の築き上げた民俗学の礎を福崎に見つけられるかどうかです。その為に福崎に来たのですから。

そう考えると、生家周辺が農村風景を維持していようがいまいが、それは柳田國男氏の業績とは関係のない話です。確かに、福崎の町にヘソのない事は、柳田少年の心を旅人へと仕立て上げるには充分だったことでしょう。茫洋とした福崎の町並みにあって、その中に漂う風土のエッセンスを確かめたいという衝動。この衝動が少年を長じて民俗学へと向かわせたと言えなくもないのですから。

もちろん、柳田國男少年を民族学へと駆り立てたのは、そのような衝動だけではなかったはずです。福崎にあって松岡家は裕福ではありませんでした。それは五人兄弟という子沢山だったこともあるでしょう。でも、その五人が五人とも後に名を成したのですからすごいことです。柳田國男・松岡家顕彰会記念館と名づけられているのももっともで、この記念館で展示されているのは柳田國男氏のみではありません。他の四兄弟の業績や、父母のことまで紹介されています。長兄は医師で政治家としてあり、今でいう千葉の我孫子あたりの布佐町の町長まで務めた人物。次兄は眼科医の傍ら歌人としても皇室の御歌所寄人に撰ばれるほどの国文学の研究者。真ん中には柳田家に養子に入った國男氏。その下の弟は海軍軍人として大佐まで進み、病気で退役してからは言語学の学者として名を成しています。末弟は映丘という雅号で美大の教授として大和絵の大家となっています。五人ともがWikipediaに項目が設けられています。松岡五兄弟と称され後世でも顕彰されるだけのことはあります。おそらくは松岡家が貧乏だったのは、教育に金を使ったからでしょう。でもそれが後世に名を残すことになったのですから、そのことは安易に否定すべきではありません。記念館にはご両親の肖像画も飾られていましたが、この兄弟にしてこの親ありという面構えで私を射すくめました。

IMG_6504IMG_6491私が訪れた柳田國男生家は、昔ながらの茅葺の日本家屋。間取りとしては決して狭い家とは思えませんでした。少なくとも私には、柳田國男氏が日本一小さい家と呼んだのが卑下にすら思えました。でも、よく考えるとこの家屋に男五兄弟は狭すぎます。後には長兄が嫁をとり、その奥さんも同居したといいます。であれば、國男少年の記憶に日本一小さい家という記憶が染み付いたのも分からなくもないです。

この生家も随分昔、柳田國男少年が10歳のときに人手にわたり、辻川周辺を二箇所ほど転々とした後に福崎町が柳田國男生家として今の場所に移築した経緯があるようです。松岡五兄弟にとってみれば、福崎という町は終生郷愁を掻き立てられる地であったようです。しかし、身寄りのある親戚がいなかったため気軽に帰れる地ではなくなってしまいました。結局、長じた五兄弟の誰も福崎で暮らすことはありませんでした。でも、それぞれが郷愁を感じたのは確かのようです。柳田國男氏も「故郷七十年」という著書の中でこう述べています。

「村に帰っても、私には伯父も伯母もないので、すぐにお宮に詣って山の上から自分たちの昔住んでいた家の、だんだんと変形して心から遠く離れてゆくのを寂しく思い行く所といえばやはり三木の家であった。ゆっくり村の路を歩いて誰か声をかけてくれるかと期待しても、向うが遠慮して声をかけてくれない。私にとっては、山水と友だちになるとか、村人全体と友だちになるような気持ちで故郷に帰るのであったが、故處子の『帰省』の気持ちとだんだん違ったものになってきた」

この文章に柳田國男氏を民俗学へ向かわせたエネルギーが潜んでいると見るのは私だけでしょうか? もはや身寄りなく寄る辺もない故郷。しかしその故郷の風景や人々の暮らしが懐かしく思えてならない。喪われた故郷を自分の裡に再生するため、日本中を旅し、風俗を研究し、言葉の変遷を調べた。故郷再生こそが柳田氏の民俗学への情熱を支えた。私はこの文を目にしてそんな思いにとらわれました。

上の引用文にあるお宮、とは生家のすぐ脇に鎮座している鈴が森神社を指しているのだと思います。私も参拝しました。また、生家とお宮の間には路が上へと延びています。その先にあるのが上の引用文に出てくる山に違いありません。IMG_6502IMG_6507今回、この山へは時間を惜しんで登りませんでした。今更ながら登っておけば、と思います。登って山の上から辻川や福崎の町並みを一望するべきだったと思います。それぐらいこの付近は柳田國男少年の当時を保っているように思えたからです。かつてのよすがを思い起こさせるような静謐な環境の一方で、家族連れを呼び込むように、生家のすぐ前には辻川山公園が設けられ、その中の池には30分置きに河童の河次郎が現れます。これは私も目撃しました。池のほとりには河童の河太郎と天狗が待ち受けています。子供たちがうれしそうに河童の兄弟の30分おきの出会いを見守っていました。そのすぐ横には逆さ天狗が30分毎に現れるような仕掛けもできています。IMG_6479
辻川山公園からみたもちむぎの館
IMG_6488報道によれば丁度私が訪れる前の週から設置されたそうです。今回はタイミングを逃したのか見られませんでした。また、池のすぐ近くには福崎の物産を集め、食事もできる「もちむぎの館」といった施設も備わっています。きっかけはこういった観光施設でもいいのです。私も含めた観光客がこの地に訪れたことをきっかけに、柳田國男氏が生涯をかけて見つけようとしたものが何かを考えられればいいなと思います。少なくとも私には得られるものがありました。

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私が思う柳田國男氏とは、民俗学者である前に一人の旅人でした。違う土地の暮らしや人々の習俗に興味を持ち、調べて文章に著す。私がやりたいようなことを柳田國男氏は一生の業として歩まれました。氏が旅した当時、まだ日本にはかろうじて旧弊の文化が残されていました。それでいて、文明の利器-汽車-の力を借りて、効率的に各地を訪問できました。云わば、一番良い時期に旅に明け暮れる日々を送った訳です。それはただただ羨ましいばかりです。今回、四時間という時間ではあるものの福崎の地を訪問しました。そして民俗学者、旅人としての柳田氏の故郷を目にしたことで、ますます氏のような人生を歩みたいという思いが強くなりました。冒頭に書いたとおり、柳田氏が本格的に民俗学の探求を始めたのは40台に入ってからのこと。私もまだ間に合うはず。そのためにも今できる仕事をきっちりと仕上げ、自分の望む仕事スタイルを全うできるような基盤を作りたいと思います。IMG_6509


川の名前で読み解く日本史


私の関心対象のひとつに川がある。川は面白い。上流部の岩場や滝は荒々しく。中流部の草生い茂る川面と緑豊かな土手はのどかに。清濁合わせ呑んだ下流部の拡がりは悠々自適。川を人の一生に例えることは昔から行われてきたが、その気持ちもわかる。

私は、未熟で無鉄砲な上流部が好きだ。生まれたての雫が人跡未踏の沢を下り、木々の間を自由にすり抜けるかと思えば、断崖を急落下する。思うままの独り旅。憧れる。

しかし、人間と川の歴史を語るのであれば、それは中下流部だろう。水在るところ人々は集い、歴史を作ってきた。

本書は、4章にわたって日本各地の川と人々の関わってきた歴史を紹介する。本書に登場するのは本邦の有名河川たち。多々良川以外は全て一級河川である。それらが4章のそれぞれの切り口から取り上げられている。

第一章 名前で読み解く川の歴史
淀川・九頭竜川・球磨川・利根川・筑後川・多々良川
第二章 合戦のゆくえを知る川
千曲川・姉川・手取川・長良川
第三章 川の恵みに育まれた信仰
四万十川・信濃川・吉野川・富士川・天竜川
第四章 アイヌ語に秘められた川の由来
最上川・北上川・石狩川・日本各地の「金」の川

第一章は、それぞれの川の名前から、その地域の歴史や風土を絡めて紹介する。第二章は、合戦の舞台として著名な川である。なお、千曲川の合戦という合戦はないが、川中島の舞台といえばお分かりだろうか。

本書は紙数の限界もあって有名な川のみの紹介にとどまっているが、まだまだ我が国には見るべき河川が多数ある。小さな川まで数えれば、河川の数だけ故郷があるといっても過言ではあるまい。私にとっても武庫川・久寿川・猪名川・芦屋川といった河川には愛着があるし、ほぼ毎朝晩に渡河している多摩川・鶴見川も捨てがたいものがある。本書を通して川に興味が湧き、少しでも美化意識が高まることを願ってやまない。

‘2014/10/26-10/31