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沖縄 だれにも書かれたくなかった戦後史 〈下〉


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下巻では、多士済々の沖縄の人物たちが取り上げられる。

瀬長亀次郎と言う人物は私もかねてから存在を知っていた。かつて琉球独立論を掲げた人々が沖縄にはいた。瀬長氏もその一人だ。
独立論を掲げた人々は、今でも独立論を堅持し、県政に主張を通そうとしているそうだ。瀬長氏以外にもそうした人々がいる事は知っておきたい。
そもそも、沖縄は独立できるのかとの問いがある。ただ、それは私たちが本土の人間が考える問題ではない。沖縄の人々が主体で考えるべきことだ。
私は日本に属していた方が得ではないかと考える。だが、それは沖縄にとって部外者の私がいっても無意味な話だと思う。

部外者としての私の無知は、模合を知らなかったことでも明らかだ。模合とは、頼母子講や無尽と同じ、民間の参加者同士が掛け金を出し合うシステムだ。
日本の本土では講や無尽は衰えた。だが、沖縄ではまだまだ模合が民間に強く根付いているそうだ。
日本の本土と沖縄で経済活動に違いが生じたのは言うまでもなく、米軍軍政下の時代の影響だ。それによってアメリカの自由主義が沖縄に蔓延し、経済の体質が変わってしまった。それが今に至るまで日本本土とは異なる経済体制を作った原因となった。だが、私たち本土から来た人間がリゾートの沖縄を歩いている間はそういうことには気づかない。私も気づかなかった。それに気づかせてくれるのも本書の優れたところだと思う。

また、本書からとても学びになったのが、軍用地主を扱っていることだ。
沖縄と言えば必ず基地問題がセットでついてくる。私たち本土の人間は沖縄の基地問題と聞けば、民を蔑ろにした国と国との折衝の中で勝手に沖縄の土地が奪われているとの文脈で考えてしまう。
その補助金が沖縄を潤している現実は理解していても、それはあくまで国有地をアメリカに使わせている補償として眺めてしまう。
だから、日米安保の大義名分の中で沖縄を犠牲にする考えが幅を利かせてきた。そして、中国や北朝鮮などの大陸からの圧迫を感じる今になっては、米軍基地の存在に対して考える事すら難しい状況が出てきている。
だから、その米軍に基地を貸し出している地主が33,000人もいると知った時は驚いたし、そこに沖縄の複雑な現実の姿を感じ取った。

私が国のからむ土地の地主と聞いて想像するのは、三里塚闘争で知られたような反戦地主だ。だが、軍用地主はそうした地主とは性質を異にしているという。
むしろ、軍用地は不動産物件としては利回りが大きく、とても地主にとっても利潤をもたらすのだと言う。実際、それは不労所得の真骨頂ともいえる優雅な暮らしを生み出す収入だ。
著者は地元の不動産会社や軍用地主連合会に取材することで、そうした裏事情を私たちに明かしてくれている。著者がいう「軍用地求む」という広告ビラをとうとう私は見たことがない。米軍基地反対運動へのお誘いビラは多く見かけたが。

単純に基地問題といっても、こうした事情を知った上で考えると、また違う見方が生まれる。根深い問題なのだ。

他にも本書には沖縄の知事選を巡る裏事情や、ライブドアの役員が殺害された事件などにも触れている。上巻にも登場したが、沖縄とは剣呑な一面もはらんでいる。特に米兵による少女暴行事件など、民が踏みつけにされた歴史は忘れるわけにはいかない。

その一方で、著者は女性たちが輝く沖縄について筆を進めている。牧志公設市場の異国情緒の中で感じた著者の思い。沖縄とは人の気配が息づく街なのだ。

本書を読んでいると、沖縄の魅力の本質とは人であることに気づく。
平和学習やビーチや水族館の沖縄もいい。だが、長らく中国大陸と日本の影響を受け続け、その間で生き抜いてきた人々が培ってきた風土を知ることも沖縄を知る上では欠かせない。むしろ、その影響がたくましくなって沖縄の人には受け継がれている。それは著者のように人と会ってはじめて気付くことだ。
著者はジャーナリストとしてこのことをよくわかって取材に望んでいることが分かる。沖縄とは人と交流しなければ決して理解できないのだ。

本レビューの上巻では、私が今までの三回、沖縄を旅したことを書いた。そこで私は、何か飽き足らないものがあると書いた。それが何か分かった。人だ。私は旅の中で著者程に人と会っていない。
私が沖縄で会って親しく話した人は、皆さん本土から移住した人だ。観光客の扱いに手慣れた方なら何人かにお会いした。だが、沖縄の情念を濃く伝えた人と親しく話していない。
そのことを私は痛感した。

私が本土にいて沖縄を感じるのは、沖縄のアンテナショップで買う物産や、せいぜい琉球音楽の中だけだ。
著者は、沖縄芸能史も本書で詳しく触れている。
いまや、沖縄出身の芸能人は多い。
琉球音楽の観点や、沖縄の三線運動など、沖縄の民俗芸能はそれだけで奥が深い。私も那覇の国際通りでライブを鑑賞したことがあるが、本土の衰退した民謡とは違う明らかなエネルギーのうねりを感じた。著者は最近の沖縄の若者が日本の本土のようになってきたことを憂えているが。

本書は締めで本土の人間にとって関心毎である国内/国際政治と沖縄の関係や沖縄の歴史に立ち戻る。

本書を読んでいると、基地問題もまた別の観点から考える必要があると思える。確かに基地は沖縄にとって迷惑のもと。
ただし、その一方で国からの補助金や助成金によって、沖縄の産業が守られてきたこともまた事実だ。その矛盾は、沖縄の人々をとても苦しめたことだろう。

それを感じさせるのが冒頭の民主党による沖縄の基地問題への対応である。当時の鳩山首相が日米を混乱させる言動を連発したことは記憶に新しい。
沖縄を守るのも殺すのも日本政府に課せられた責任のはずなのだが。
かつて琉球処分によって尚氏を琉球国王の座から追いやり、統治すると決めたのは日本政府。
本書にはその尚氏がたどった明治維新後の歴史も詳しく紹介されている。
そして今や日中間の紛争のタネとなっている尖閣諸島の所有者である栗原家についてのルポルタージュも。

とても濃密な本書は、また沖縄に行く前にも目を通すべき本だと思う。

‘2020/08/23-2020/08/27


サウンド・オブ・メタル ~聞こえるということ~


本作を映画館で見られてよかった。心底そう思った。
もともと聴覚に関心があった私は、本作に対してもほのかにアンテナを張っていた。昨日になって上映がまもなく終わると知り、慌てて劇場に行くことに決めた。もし間に合わずにテレビやパソコンで見たら、本作の真価は味わえなかったに違いない。

聴覚に失調をきたした時、どのように聞こえるのか。本作はそれをリアルなサウンドで体感させてくれる。

主人公のルーベンはドラマーだ。恋人のルーがボーカルで金切声を上げる後ろで、ハードなメタル・サウンドをドラムで刻んでいる。ボーカルとドラマーという変則コンビの二人は、トレーラーで暮らしながら街から街をライブで巡っている。

だが、ある日突然ルーベンの聴覚がおかしくなる。くぐもった音しか聞こえなくなり、急速に会話にも支障をきたすようになる。ルーとの演奏も合わなくなり、ライブ活動どころではなくなる。
聴覚失調者のコミュニティに入ることになったルーベンは、ルーと別々に暮らす。そしてコミュニティの中で手話を覚え、やがてコミュニティに溶け込む。リーダーのジョーにも信頼されたルーベン。
しかし、ジョーから今後ずっとコミュニティに関わってもらえないかと言われた後、トレーラーを売って脳内にインプラントを埋める手術に踏み切る。
ジョーからはコミュニティの信念に反するため荷物をまとめて出てゆくように言われる。
「失聴はハンデではなく、直すべきものではない」との言葉とともに。
ルーベンは、インプラントを埋め込んでも聴覚が完全に回復しなかったことを知り、ある行動に出る。
これが本作のあらすじだ。

ルーベンの視点に立った時、音が歪み、不協和音を立てる。そのリアルな音響は、聴覚が壊れたら私たちの生活が壊れるとの気づきを観客に与えてくれる。
ただ、聴覚が狂っても振動は感じられる。それも本作が教えてくれたことだ。
私が本作を見たのは新宿のシネマートだが、BOOST SOUNDというシステムを導入している。このBOOST SOUNDは普通よりスピーカーを多く備え、サウンドのリアルな変化や、重低音による振動を腹で感じさせてくれた。
ルーベンの冒頭のメタル・ドラマーとしての迫力の音や、施設の子どもと振動でコミュニケーションする様子など。
本作こそ、映画館で見なければいけない一本だと思う。

私が聴覚に関心があると書いたのは、私自身、あまり聴覚がよくないからだ。
十数年前に96歳で亡くなった祖父は、晩年、ほとんど耳が聞こえていなかった。うちの親や兄妹が補聴器を買ってあげたが、ノイズを嫌がったのかあまりつけておらず、晩年は孤独の中にいたようだ。私はそんな祖父の姿を見ていた。

そして、私も上京した20代の中頃から音の聞こえにくくなってきたことに気づいた。
大学時代に友人とノイズのライブ(非常階段)に行ったことがあるが、ライブの後、数日間は耳がキーンとしていた記憶がある。その後遺症が出たのか、と恐れた。または祖父の遺伝が発言したのか、と。
ただ、私の場合、耳の不調は鼻の不調(副鼻腔炎)に関係しているらしい。そのため、耳の手術や補聴器には踏み切っていない。だが、七、八年前に聴覚の検査をしてもらった際は、ぎりぎり正常値の下限だと診断された。

最近はリモートワークでヘッドホンを使うようになり、ようやく仕事にも影響を及ぼさなくなった。だが、電話で連絡を取り合っていた時期は、相手の滑舌が悪かったり、電波がつながりにくかったりすると全く聞こえず、私を苛立たせた。また、居酒屋での会話は今もあまりよく聞こえない。
本作でルーベンが最初に自覚したくぐもった音は、私にとっては自分の実感として体験していることだ。

だからこそ、本作は私にとって重要な作品だった。また、私自身の今後を考える上でも自分事として身につまされながら見た。

本作は、聴覚障碍者向けにバリアフリーで作られている。つまり、作中の音についても全て字幕が表示されるのだ。ルーベンのドラムやため息。ルーの鳴き声、風のざわめきや歪んだ鐘の音など、全ての音。
また、コミュニティでは人々が手話で話し合う様子がリアルに描かれている。十人ほどの人が輪になってめいめいが手話を操ってコミュニケーションを取る様子。それは、テレビでよく見かける、話者の横にいる手話通訳者のように一方通行ではない手話であり、とても新鮮だった。
そうした意味でも聴覚障碍者が見ても自分のこととして楽しめるに違いない。
だが、やはり正常な聴覚を持っている人にこそ、本作は見てほしい。

もう一つ、本作を見ていて気になったことがある。それは「Deaf」という言葉が頻繁に登場することだ。
「Deaf」とは、いわゆる英語の聴覚障碍者を表す言葉だ。日本では放送禁止用語になっている「つんぼ」にあたるのだろうか。
最近は聴覚障碍者という呼び名が定着しているが、英語ではそうした読み替えはないのだろうか。とても気になった。
最近はSDG’sやMeTooやダイバーシティーやLGBTという言葉が浸透している。だが、昔はそうではなかった。だから差別を助長するのではとの懸念から「つんぼ」が忌避されたのは分かる。
だが、今の時代、そうした差別の意図はあからさまに出せないはずだ。「つんぼ」「めくら」などの言葉には否定的なニュアンスがあるから復活できないのだろうか。「Deaf」が英語圏ではどのようなニュアンスなのか調べてみようと思う。

本作は終幕になるにつれ、ルーベンを演じたリズ・アーメッドの演技に引き込まれていく。パワフルなドラミングと自らを襲った悲劇に悪態をつく様子と、失調の苦しみを懸命に押し込もうとする演技は、アカデミー主演男優賞にノミネートされただけはある。
彼の感じる聴覚の不自由さが観客に伝わるからこそ、彼の表情が生きる。

また、ジョーに扮するポール・レイシーの演技も見事だ。何とかルーベンを立ち直らせよう、コミュニティに溶け込ませようとする演技も素晴らしかったと思う。
「静寂の世界は私を平穏な気持ちにさせてくれる」という言葉は、本作を見る上でキーになるセリフだ。

‘2021/10/24 シネマート新宿


海の上のピアニスト


本作が映画化されているのは知っていた。だが、原作が戯曲だったとは本書を読むまで知らなかった。
妻が舞台で見て気に入ったらしく、私もそれに合わせて本書を読んだ。
なお、私は映画も舞台も本稿を書く時点でもまだ見たことがない。

本書はその戯曲である原作だ。

戯曲であるため、ト書きも含まれている。だが、全体的にはト書きが括弧でくくられ、せりふの部分が地の文となっている。そのため、読むには支障はないと思う。
むしろ、シナリオ全体の展開も含め、全般的にはとても読みやすい一冊だ。

また、せりふの多くの部分は劇を進めるせりふ回しも兼ねている。そのため、主人公であるピアニスト、ダニー・ブードマン・T・D・レモン・ノヴェチェント自身が語るせりふは少ない。

海の上で生まれ、生涯ついに陸地を踏まなかったというノヴェチェント。
私は本書を読むまで、ノヴェチェントとは現実にいた人物をモデルにしていたと思っていた。だが、解説によると著者の創造の産物らしい。

親も知らず、船の中で捨て子として育ったノヴェチェント。本名はなく、ノヴェチェントを育てた船乗りのダニー・ブードマンがその場で考え付いた名前という設定だ。
ダニー・ブードマンが船乗りである以上、毎日の暮らしは常に船の上。
船が陸についたとしても、親のダニーが陸に降りようとしないので、ノヴェチェントも陸にあがらない。
ダニーがなくなった後、ノヴェチェントは陸の孤児施設に送られようとする。
だが、ノヴェチェントは人の目を逃れることに成功する。そして、いつの間にか出港したヴァージニアン号に姿を現す。しかもいつの間に習ったのか、船のピアノを完璧に弾けるようになって。

そのピアノの技量たるや超絶。
なまじ型にはまった教育を受けずにいたものだから、当時の流行に乗った音楽の型にはまらないノヴェチェント。とっぴなアイデアが次から次へと音色となって流れ、それが伝説を呼ぶ。
アメリカで並ぶものはなしと自他ともに認めるジェリー・ロール・モートンが船に乗り込んできて、ピアノの競奏を挑まれる。だが、高度なジェリーの演奏に引けを取るどころか、まったく新しい音色で生み出したノヴェチェント。ジェリーに何も言わせず、船から去らせてしまう。
その様子はジャズの即興演奏をもっとすさまじくしたような感じだろうか。

本書では、数奇なノヴェチェントの人生と彼をめぐるあれこれの出来事が語られていく。
これは戯曲。だが、舞台にかけられれば、きらびやかな演奏と舞台上に設えられた船内のセットが観客を楽しませてくれることは間違いないだろう。

だが、本書が優れているのは、そうした部分ではない。それよりも、本書は人生の意味について考えさせてくれる。

世界の誰りも世界をめぐり、乗客を通して世界を知っているノヴェチェント。
なのに、世界を知るために船を降りようとしたその瞬間、怖気づいて船に戻ってしまう。
その一歩の距離よりも短い最後の一段の階段を乗り越える。それこそが、本書のキーとなるテーマだ。

船の上にいる限り、世界とは船と等しい。その中ではすべてを手中にできる。行くべきところも限られているため、すべてがみずからの意志でコントロールできる。
鍵盤に広がる八十八個のキー。その有限性に対して、弾く人、つまりノヴェチェントの想像力は無限だ。そこから生み出される音楽もまた無限に広がる。
だが、広大な陸にあがったとたん、それが通じなくなる。全能ではなくなり、すべては自分の選択に責任がのしかかる。行く手は無限で、会う人も無限。起こるはずの出来事も予期不能の起伏に満ちている。

普通の人にはたやすいことも、船の上しか知らないノヴェチェントにとっては恐るべきこと。
それは、人生とは本来、恐ろしいもの、という私たちへの教訓となる。
オオカミに育てられた少女の話や、親の愛情に見放されたまま育児を放棄された人が、その後の社会に溶け込むための苦難の大きさ。それを思い起こさせる。
生まれてすぐに親の手によって育まれ、育てられること。長じると学校や世間の中で生きることを強いられる。それは、窮屈だし苦しい。だが、徐々に人は世の中の広がりに慣れてゆく。
世の中にはさまざまな物事が起きていて、おおぜいのそれぞれの個性を備えた人々が生きている事実。

陸にあがることをあきらめたノヴェチェントは、ヴァージニアン号で生きることを選ぶ。
だが、ヴァージニアン号にもやがて廃船となる日がやってきた。待つのは爆破され沈められる運命。
そこでノヴェチェントは、船とともに人生を沈める決断をする。

伝説となるほどのピアノの技量を備えていても、人生を生きることはいかに難しいものか。その悲しい事実が余韻を残す。
船を沈める爆弾の上で、最後の時を待つノヴェチェントの姿。それは、私たちにも死の本質に迫る何かを教えてくれる。

本来、死とは誰にとっても等しくやってくるイベントであるはず。
生まれてから死ぬまでの経路は人によって無限に違う。だが、人は生まれることによって人生の幕があがり、死をもって人生の幕を下ろす。それは誰にも同じく訪れる。

子供のころは大切に育てられたとしても、大人になったら難しい世の中を渡る芸当を強いられる。
そして死の時期に前後はあるにせよ、誰もが人生を降りなければならない。
それまでにどれほどの金を貯めようと、どれほどの名声を浴びようと、それは変わらない。

船上の限られた世界で、誰よりも世界を知り、誰よりも世界を旅したノヴェチェント。船の上で彼なりの濃密な人生を過ごしたのだろう。
その感じ方は人によってそれぞれだ。誰にもそれは否定できない。

おそらく、舞台上で本作を見ると、より違う印象を受けるはずだ。
そのセットが豪華であればあるほど。その演奏に魅了されればされるほど。
華やかな舞台の世界が、一転して人生の深い意味を深く考えさせられる空間へと変わる。
それが舞台のよさだろう。

‘2019/12/16-2019/12/16


心霊電流 下


二人のなれ初めから、約二十年の間、離ればなれになっていたジェイミーとジェイコブズ師の数奇な縁。
一度は身を持ち崩しかけていたジェイミーは、再会したジェイコブズ師から手を差し伸べられる事で身を持ち直す。そして、それを機に二人の縁は再び離れる。

ジェイミーは、ジェイコブズ師から紹介を受けた音楽業界の重鎮のもとで職を得て、真っ当な生活を歩み始める。そして数年が経過する。
ジェイミーが次にジェイコブズ師の名を目にした時、ジェイコブズ師の肩書は、見せ物師から新興宗教の教祖へと変わっていた。電気を使った奇跡を売り物にした人物として。

かつて信仰に裏切られたジェイコブズ師が、今度は自ら信仰の創造主となる。その動機には何やら不穏なものを感じさせる。
それどころか、ジェイコブス師の弁舌に魅せられたコミュニティまでできている。太陽教団やマンソンが率いた教団のような。
ジェイミーは、ジェイコブズ師との数十年にもわたる因縁に決着をつけるため、再び会いにゆく。

老いたジェイコブズ師は、自らの研究の集大成として、ジェイミーをとある場所へと誘う。
そこは、彼らが最初に出会った街の近くにある、雷を集める自然の避雷針スカイトップ。
ひっきりなしに雷が落ちるこの場所を舞台に、ジェイコブズ師は最後の忌まわしい実験に乗り出す。
それはまさに、神も恐れぬ冒涜。おぞましく不吉な結末が予感できる。

この結末は、著者が今までの傑作の中で描いてきたカタストロフィーと比べても遜色ないっq。

ただ、今までのカタストロフィーは、壮健な人々によって演じられてきた。
それに比べて、本書では老いてゆくジェイコブズ師によって成されてゆく。そのため、演者としての迫力は弱い。
ただ、本書で展開される世界の秘密のおぞましさ。そこにホラーの帝王である著者の本領が発揮されている。

ジェイコブズが呼び出したおぞましき世界。そこでは、神の冒涜を主題とした本書のテーマを如実に体現した、究極の終末とも言える世界だ。
神の救い、神の恩寵、神の御手。それはどこにもない。ひたすらに救いようのない世界。
私たちが信ずる来世のおぞましさ。
今まで、神の名において未来への希望を掲げていた教団は、神の名を借りて、人々をたぶらかしてきた。

われわれは何のために生き、そして何のために死んでいくのか。
本書の結末は、そのような問いをはねつけ、絶望に満ちている。
果たして、ジェイコブズ師が一生をかけて神に背き続けた復讐は、この世界を呼び出す事によって成就したのだろうか。
なぜ、私の妻子は無残に死ななければならなかったのか。なぜ私はそれほどまでの仕打ちをくだされなければならないのか。私が神に何をしたというのか。
絶望と呪いに満ちたジェイコブズ師による実験。
その目的が残酷な現実とは違う、理想の世界を見ることにあったとすれば、神の虚飾の裏にあるおぞましい世界を呼び出した事は、牧師の人生にとって最後のとどめとなったはずだ。

本書は、あくまでも神の不在と神への冒涜が主題となっている。
もちろん、本書で描かれた世界が真実とは限らない。来世は誰にも見えない。
だが、神なき世界の真実とは、案外、このようなものなのかもしれない。

本書のカタストロフィーは、それを主宰するジェイコブ師が老いているため、迫力に欠ける事は否めない。
だが、現れた世界の圧倒的な欠乏感。そこに、今までの著者の作品にはない恐ろしさを感じる。

それは、上巻のレビューにも書いた通り、ホラー作家として突き抜けた極みだ。
神の徹底的な否定。そして、私たちが真実と信じているはずの科学技術、つまり電気が引き起こす奇跡の先に何が待っているのか。
本書は著者による不気味な予言ではないだろうか。

あわれなジェイコブズ師がまだ敬虔な牧師だった頃、ジェイミーたちに示した電気じかけのキリスト。
それはまさに、今の世の中に氾濫する価値観の象徴である。
私たちは一体、何を頼りにこれからの世界を生きていれば良いのだろうか。
宗教もだめ、科学技術もだめ。では何が。

そんな戸惑いを尻目に、時間は私たちを等しく老いへと追いやる。
下巻では、上巻でジェイミーの初体験の相手となったアストリッドが老いて死に瀕した姿で登場する。
その残酷な現実は、まさに本書のテーマそのものだ。
人は誰もが老い、そして誰もが取り返しのつかない人生を悔やむ。誰もその生と時間を取り戻すことは不可能だ。

結局、人間にとって唯一の真理とは、時間が人を死に追いやってゆく事に尽きるのかもしれない。
だが、人はその事実を認めようとせず、欲望や見栄や見かけの栄華を追い求める。ある人は神や宗教を奉じ、自ら信じたものを信じて時間を費やす。

そのような人生観にあっては、死さえも救いとなりうる。本書には何度か、このような文句が登場する。
「永遠に横たわっていられるなら、それは死者ではない。異様に長い時の中では、死でさえも死を迎えうる」(263ページ)

それに比べ、ジェイコブス姿が呼び出した世界の寒々としたあり様。それはまさに無限の生。無限に苦しみの続く生なのだ。死してのちも続く無残な生。

おそらく著者は、老境に入った自らの人生を顧み、本書のような福音のない世界を著したのだろう。
そして、その事実に気づくのはたいていが老年に入ってからだ。
私はまたその年齢に達しておらず、自分の人生を充実したものにしようと、一生懸命、日々をジタバタと生きている。
私の考えが正しいのか、それとも間違っているのか。それは死んでからの裁きによって決まるはずだ。そもそも永遠の無が待っているだけかもしれないし。

本書に唯一の救いがあるとすれば、救われない未来が待っていたとしても、本書によってある程度は免疫が得られる事だろうか。
でも、著者は神の背後に覆い隠されていた言いにくいことをズバリと書いた。本書は、ホラー作家としての著者の畢生の作品だと思う。
著者にとって、もはや思い残すところがない。そう思う。

‘2019/5/19-2019/5/20


心霊電流 上


ミステリに寄った三部作を出していた著者が、再びホラーに戻ってきたことでファンを喜ばせたのが本書だ。
数年ぶりに出された本書は、ホラーの王道を行く作品となった。

本書の凄まじさ。それは、ついに著者が神の問題に真っ向うから取り組んだことだ。
これまでにも著者は、さまざまの怪奇現象や超常現象を作品で登場させてきた。超常現象を体験する人物には牧師もいたし、教会を舞台とした怪奇現象も描かれていた。
そう考えると、惨劇を牧師や教会と結び付けること自体が神への冒涜だったのかもしれない。
だが、それを差し引いても、今までの著者は正面切って神を否定してはいなかったように思う。

神はあまねく世界を統べる。だが、神のみわざと関係なく怪異は起き、悪霊ははびこる。
神は全能だが、その関知しない領域は確かにある。そうした隙間に悪は入り込み、怪奇を起こす。
それが今までの著者のスタンスだったように思う。
もちろん、ホラー自体が敬虔なクリスチャンに受け入れられるかは、別の問題とした上で。

だが、本書において著者は神を真っ向から否定しにかかっている。
私たち日本人にとっては、神を否定することへの心理上の抵抗は西洋ほどはない。
日本が多神教をベースとしている以上、一人の神を否定することに抵抗は感じにくいのだ。それが良くも悪くも絶対的な信仰を持たない日本の特徴だとも言える。

だが、いまだに天動説を信じる人が多いというアメリカでは、宗教についての保守的な風潮がまだ根強いと聞く。
安易に神を否定することへの心情は、日本とは段違いだ。私はそう認識している。

つまり、著者が本書で、これほどまでに神を否定し切って見せたことは、私たちが思う以上にすごいことなのではないだろうか。
神の忠実な僕であるはずの牧師の口から、かくも激烈な神を冒涜したセリフを吐かせる。
それは作家として突き詰めるべき極点だ。と同時に触れてはならないタブーだと思う。だが、ホラーを扱う以上、いつかは越えねばならないリミットなのかもしれない。

初老を迎えたジェイミー・モートンが本書の主人公であり、語り手だ。
ジェイミーが六歳の時、街の牧師として着任してきたチャールズ・ジェイコブズ師。電気が好きで、説教に電気の仕掛けを使った見せ物を扱う風変わりな人物だ。
ジェイコブズ師に気に入られたジェイミーは、キリスト教の手ほどきとともに、電気で動く奇跡の魅力と、ジェイコブズ師の若々しい活力に育まれて少年期を過ごす。

ジェイコブズ師は牧師であり、敬虔なキリスト教徒でもある。美しい妻と聡明で愛される息子。何一つ曇りのない明快な人生。
そんなジェイコブズ師の人生は、自動車事故によって妻子を失う悲劇によって一変する。それは牧師にとって神の不在を意味することに他ならない。
神はなにゆえ、忠実な神の使徒である自らにこのような悲劇を与えるのか。そこに神の試練という安易な解釈を当てはめ、片付けてしまってよいのだろうか。あまりにも無慈悲ではないか。ジェイコブズ師は悩み、煩悶する。
そして復帰した説教壇の上から聴衆に向け、神を否定するにも等しい激烈な説教をする。
そんなジェイコブズ師に背を向け、人々は教会から去ってゆく。そして後日、教区からジェイコブズ師は追放される。

私のように信仰心の薄い日本人には、神を万能で全能な存在とみなす考えは受け入れにくい。
というのも、今までキリスト教の名の下、数えきれないほどの不条理に満ちた死が人々を覆い尽くしてきた。
宗教戦争、教化と言う名の人種殲滅、宗教改革によって起きた虐殺。また、キリスト教国の中で二度の世界大戦の間におきたポグロムやジェノサイド、ホロコーストなど。
それらの出来事は、神の存在を掲げるキリスト教の教義をあざ笑っている。
と同時に私たち異教の者の眼には、神の不在を如実に表わす証拠に映る。

人の心にとって、神は確かに救いとなる存在だ。最善の発明だったとさえ思う。
人間が作り上げた頼れる対象。神とは言ってしまえばそうした存在だ。
むしろ、そうであるからこそ神は必要であり、多くの人々にとって神は存在しなければならない。私はそう考えている。

だが、今までに過ぎ去った広大な時間と空間の中で無数の人が宗教の名のもとに弑されてきたことも事実だ。宗教の名のもとに無限の悲劇が起こってきた事も間違いない。
それらの出来事に神が救いを差し伸べる事はなかった。だから、不運な出来事に遭遇してしまった人は、神の不在を呪うしかない。
ジェイコブズ師も同じだ。ジェイコブズ師が壇上から行う悲痛な説教に対し、聴衆からは非難の声が浴びせられる。神の試練を受け止められる気骨がない、と。
だが、人は弱い存在だ。私に言わせれば最愛の妻子を失いながら、神の試練を理由に平静でいられる方がむしろどうかしていると思う。

運命とは作為がなく、かつ無慈悲なもの。
不運に出会った人とは、神の存在に関係なく、無限に張り巡らされた運命の糸の中で、たまたま悪い糸に絡まってしまったにすぎない。それを運と人は呼ぶ。
私は運命や人生をそうとらえている。

ただし、運命の糸のどれをまとい、どれを避けるかによって人の一生は変わる。悪い結果をはらむ糸をくぐり抜け、より良い人生を生きるための糸を身にまとうことで、私たちの人生は好転する。そのためにこそ、私たちは勉学に励む。そして、スキルと能力を強化し、経験と鍛錬に勤しむのだ。
それでもなお、神の意思を言い募り、人の努力を無視する考えは、人の存在を軽視する事につながると思っている。
ジェイコブズ師が悲痛な説教の中で訴えた主旨もまさにそうだった。

神は無力であり、人間の作り上げた幻想に過ぎない。
そんな冷酷で救いのない事実を、著者はついに本書の形で小説の内容にぶちまけた。
ジェイコブズ師が出て行ったあとの誰もいない教会でジェイミーは叫ぶ。
「「おまえは偽物だ」と僕は叫んだ。「本物じゃない! ぺてんの寄せ集めだ! くだばれ、キリスト! くだばれ、キリスト! くたばれ、くたばれ、くたばれ、キリスト!」」(122ページ)

神の問題は、文筆をなりわいとする者としては見過ごしてはならないテーマだと思う。
そして、それをついに取り上げたことは、ホラー作家の巨匠としての著者の矜持だと思う。

多分、本書によって著者は保守的な層からの非難を受けたことだろう。
だが、今や老境にあり、十分な名声と財産を蓄える著者にとって、そうした非難は無意味なはずだ。失うものは何もない。
今まで著者は神を遠慮がちに描いてきた。
だが、ホラーの本質である、神の不在を書いてこそ、作家人生の締めくくりになる。
著者はそう思ったのではないか。

本書はジェイミーという一人の少年の成長を描いた青春小説でもある。
だが、それだけではない。本書は彼が信心の呪縛から逃れる様子を描く。
むしろ、それが本書の主題と言っても良いかもしれない。
子供の頃は大人に呪縛され、長じてからは宗教やその他の判断基準に染められる。
そこから逃げる術を見つけることはとても難しい。
われわれを取り巻く形の有無を問わないしがらみや同調せよと迫る圧力。
その事実はデジタルが幅を効かせる今も厳然として存在する。私たちの人生を見渡せばすぐにその事実は分かる。

ジェイミーは音楽に活路を求め、生計を立てて行く。それは放浪と無頼に満ちた日々だ。麻薬で死にそうになり、人々の信頼を失う。
そんなジェイミーの姿はは、宗教のくびきがとかれ、さまよう人の姿をまざまざと表している。
そんな廃人寸前のジェイミーが偶然にジェイコブズ師に出会う。電気じかけの見せ物師に身を落とし、宗教から足を洗った元牧師。
ジェイコブズ師に救われるジェイミーは、出会うべくしてジェイコブズ師に会ったのだろう。

もちろん、そうした描写は下巻への布石である。
本書のように複数の人数が交わり、複雑な人生模様をかき分けて行く物語において、著者の手腕に揺るぎはない。
だから、読者としては、著者の紡ぐ流麗な物語にただ乗っかって居れば良い。
ジェイミーとジェイコブズ師の間に織られてゆく数奇な運命はまだまだ続く。
下巻でのカタストロフィまで。

‘2019/5/15-2019/5/19


世界が音楽で熱くなった頃-The Beatles


中国の武漢から発生したコロナウィルスが世界を止めてほぼ一カ月。
私たちは今、人類の歴史の中でも有数の事件のまっただなかにあります。

コロナウィルスに翻弄される今を、第二次世界大戦以来の危機とたとえる人もいます。
ここまで世界中に影響を与えた事件が他に思い浮かばないことを考えると、この例えもあながち間違っていないと思います。

私は家で過ごす時間が増えたため、その時間を生かし、二十世紀を振り返る年表に目を通しました。
年表の中には、数え切れないほどの事件が載っており、激動の時代を如実に表しています。

私は年表を眺めるうちに、世界中に影響を与えた事件の多くが、良くない出来事で占められていることに気づきました。
良いとされる出来事も、実は苦しみからの復活に過ぎないことがほとんどのようです。既存の差別からの解放や災害や戦災からの回復という意味で。

世界的に明るさをもたらした出来事を数えると、万博、五輪、W杯などの定期的に催されるイベントが目立ちます。それらを除けば、アポロ11号による月面着陸ぐらいでしょうか。

そんな中、目についたのはビートルマニアの存在です。
彼女、彼たちが熱狂した対象。それはThe Beatles。言わずと知れた世界を熱狂させた四人組のロック・バンドです。
その熱狂は全世界を席巻し、20世期の年表の中にはまず間違いなく掲載されています。
悲劇で塗りつぶされた世界の歴史の中にあってまぶしく光りつづけている、それがThe Beatles。

今、止まってしまっている世界。
それに比べ、かつて世界を熱くさせた彼らの実績は色あせていません。
1969年のウッドストックまで、ロックとは人々にとって自由と希望の象徴でした。その流れに乗ったのがThe Beatlesでした。時代の空気が彼らの絶大な人気の源泉だったことは言うまでもありません。

私はこの二日間、The Beatlesが残した全てのアルバムを聴き直しました。そして、あらためて彼らの残した音楽の素晴らしさに聞き惚れました。

彼らが巻き起こした旋風のすさまじさは、今さら振り返るまでもないでしょう。
それよりも、私が全てのアルバムを聴き直して思ったのは、彼らの音楽から感じられるエナジーです。
50年前に解散したグループとは思えない創意工夫とエネルギー。
初期の音源こそ、古びて聴こえるのは否めません。ですが、後期の作品からは今なお新鮮さすら感じられます。
何よりも、メロディーが普遍的なメッセージとなり、英語のわからぬ私の耳になじんできます。

音楽が世界をつなぐ、との使い古されたスローガン。
彼らの音楽からは、そうしたスローガンを具現する力がまだ放たれているようです。
そして、世界が動きを止めた今こそ、そうした音楽の力が求められている。そう思うのは私だけでしょうか。

ロックン・ロールが生まれて65年。以来、あらゆるジャンルの音楽が生まれ、消費されてきました。
さらに、LP盤からCD、そしてストリーミングへ。音楽の消費も形を変えてきました。
そうした変化の波は、あまたの曲を生み出してきました。
その結果、残されたメロディーも枯渇しつつあるように思えます。
私は最近の曲もなるべく聴くようにしています。ですが、斬新かつ耳になじむメロディーにはなかなか出会えません。
それは、俗説にある通り、私の耳が老化しているからなのでしょうか。

とはいえ、今の音楽が50年前とは変わってしまっており、それらの変革がThe Beatlesから始まったことに異論はありますまい。

そんな今だからこそ、彼らの残した音楽を味わってみるべきだと思ったのです。
世界的な出来事に不慣れな1973年生まれの世代として。
彼らが解散して50年が過ぎた節目の年にこうした奇禍に襲われたことをきっかけとして。

The Beatlesが活動した1962年から1970年までの年月とは、世界中で学生運動など、変革を求める嵐が吹き荒れた時期と重なっています。
そうした嵐の象徴として彼らがいた。

今、世界は動きを止めています。
ですが、いずれ世界は再び動き出すことでしょう。
その時、何か巨大で革新的なムーヴメントが世界を席巻し始めるような気がしてなりません。60年近く前にThe Beatlesが巻き起こしたような何かが。

今回のコロナにより、政治、社会、経済、文化などが大きく揺さぶられています。コロナウィルスが地球史の年表の中で大きくページを占めることは間違いないでしょう。
ただ、おそらくコロナが明けた世界からは、CO2の濃度が減って大気がクリアになったように、既存の価値観も除去されてクリアになっているはずです。
働き方、移民、科学技術、経済体制。リモートワークが市民権を得、通勤という習慣が廃れるばかりか、さらに大きな変革にさらされることは間違いないと思った方が良さそうです。
さしずめ、二十世紀の年表の中で苦難からの回復が重要な出来事として刻まれているように。

何がどう変わろうとしているのか。
何が生まれようとしているのか。
私にはまだ見えていません。

ですが、彼らの音楽には、50年前に世界を動かしたうねりの余韻が感じられるのです。私は、彼らの音楽をききながら、ばく然とした未来への期待に身を委ねていました。
再び彼らが起こしたのと同じぐらいの規模で、人類が熱狂するような何かが起こる期待に。

もちろん、私も弊社もその何かが起こった際には、微力でも協力したいと思っています。

最後に213曲あると言われる彼らの曲の中から、私が好きな20曲を選んで以下に載せています。上から順に好きな曲を並べましたが、私の好みなど、時が過ぎれば違ってゆくはず。このリストも違う順番に変わっているでしょう。

ですが、リストに挙げたうちの一曲「Here Comes The Sun」の歌詞が示すメッセージは変わらないはず。

Here comes the sun
Here comes the sun, and I say
It’s all right

きっと世界はコロナを克服し、太陽がまた昇るに違いないと信じてこの曲を口ずさもうと思います。

20曲のリストです。
Here, There And Everywhere
Strawberry Fields Forever
Come Together
Please Please Me
All My Loving
Let It Be
Here Comes The Sun
Hey Jude
Good Day Sunshine
Yesterday
When I’m Sixty-Four
While My Guitar Gentry Weeps
Michelle
If I Fell
Girl
Helter Skelter
A Day In The Life
Octopus’s Garden
Two Of Us
In My Life


BLOCKCHAIN REVOLUTION


本書は仲良くしている技術者にお薦めされて購入した。その技術者さんは仮想通貨(暗号通貨)の案件に携わっていて、技術者の観点から本書を推奨してくれたようだ。投資目的ではなく。

ブロックチェーン技術が失敗したこと。それは最初に投機の側面で脚光を浴びすぎたことだろう。ブロックチェーン技術は、データそれ自体に過去の取引の歴史と今の持ち主の情報を暗号化して格納したことが肝だ。さらに、取引の度にランダムに選ばれた周囲の複数のブロックチェーンアカウントが相互に認証するため、取引の承認が特定の個人や組織に依存しないことも画期的だ。それによって堅牢かつトレーサビリティなデータの流れを実現させたことが革命的だ。何が革命的か。それはこの考えを通貨に適用した時、今までの通貨の概念を変えることにある。

例えば私が近所の駄菓子屋で紙幣を出し、アメちゃんを買ったとする。私が支払った紙幣は駄菓子屋のおばちゃんの貯金箱にしまわれる。そのやりとりの記録は私とおばちゃんの記憶以外には残らない。取引の記録が紙幣に記されることもない。当たり前だ。取引の都度、紙幣に双方の情報を記していたら紙幣が真っ黒けになってしまう。そもそも、現金授受の都度、紙幣に取引の情報を書く暇などあるはずがない。仮に書いたとしても筆跡は乱雑になり、後で読み取るのに難儀することだろう。例え無理やり紙幣に履歴を書き込めたとしても、硬貨に書き込むのはさすがに無理だ。

だから今の貨幣をベースとした資本主義は、貨幣の持ち主を管理する考えを排除したまま発展してきた。最初から概念になかったと言い換えてもいい。そして、今までの取引の歴史では持ち主が都度管理されなくても特段の不自由はなかった。それゆえ、その貨幣が今までのどういう持ち主の元を転々としてきたかは誰にもわからず、金の出どころが追求できないことが暗黙の了解となっていた。

ところが、ブロックチェーン技術を使った暗号通貨の場合、持ち主の履歴が全て保存される。それでいて、データ改ざんができない。そんな仕組みになっているため、本体と履歴が確かなデータとして利用できるのだ。そのような仕様を持つブロックチェーン技術は、まさに通貨にふさわしい。

一方で上に書いた通り、ブロックチェーン技術は投機の対象になりやすい。なぜか。ブロック単位の核となるデータに取引ごとの情報を格納するデータをチェーンのように追加するのがブロックチェーン技術の肝。では、取引データが付与される前のまっさらのデータの所有権は、ブロック単位の核となるユニークなデータの組み合わせを最初に生成したものに与えられる。つまり、先行者利益が認められる仕組みなのだ。さらに、既存の貨幣との交換レートを設定したことにより、為替差益のような変動利益を許してしまった。

その堅さと手軽さが受け、幅広く使われるようになって来たブロックチェーン。だが、生成者に所有権が与えられる仕様は、先行者に富が集まる状況を作ってしまった。さらに変動するレートはブロックチェーンに投機の付け入る余地を与えてしまった。また、生成データは上限が決まっているだけで生成される通貨単位を制御する主体がない。各国政府の中央銀行に対応する統制者がいない中、便利さと先行者利益を求める人が押しかける様は、ブロックチェーン=仮想通貨=暗号通貨=投機のイメージを世間に広めた。そして、ブロックチェーン技術それ自体への疑いを世に与えてしまった。それはMt.Goxの破綻や、続出したビットコイン盗難など、ブロックチェーンのデータを管理する側のセキュリティの甘さが露呈したことにより、その風潮に拍車がかかった。私が先に失敗したと書いたのはそういうことだ。

だが、それを差し引いてもブロックチェーン技術には可能性があると思う。投機の暗黒面を排し、先行者利益の不公平さに目をつぶり、ブロックチェーン技術の本質を見据える。すると、そこに表れるのは新しい概念だ。データそれ自体が価値であり、履歴を兼ねるという。

ただし、本書が扱う主なテーマは暗号通貨ではない。むしろ暗号通貨の先だ。ブロックチェーン技術の特性であるデータと履歴の保持。そして相互認証による分散技術。その技術が活用できる可能性はなにも通貨だけにとどまらない。さまざまな取引データに活用できるのだ。私はむしろ、その可能性が知りたい。それは技術者にとって、既存のデータの管理手法を一変させるからだ。その可能性が知りたくて本書を読んだ。

果たしてブロックチェーン技術は、今後の技術者が身につけねばならない素養の一つなのか。それともアーリーアダプターになる必要はないのか。今のインターネットを支えるIPプロトコルのように、技術者が意識しなくてもよい技術になりうるのなら、ブロックチェーンを技術の側面から考えなくてもよいかもしれない。だが、ブロックチェーン技術はデータや端末のあり方を根本的に変える可能性もある。技術者としてはどちらに移ってもよいように概念だけでも押さえておきたい。

本書は分厚い。だが、ブロックチェーン技術の詳細には踏み込んでいない。社会にどうブロックチェーン技術が活用できるかについての考察。それが本書の主な内容だ。

だが、技術の紹介にそれほど紙数を割いていないにもかかわらず、本書のボリュームは厚い。これは何を意味するのか。私は、その理由をアナログな運用が依然としてビジネスの現場を支配しているためだと考えている。アナログな運用とは、パソコンがビジネスの現場を席巻する前の時代の運用を指す。信じられないことに、インターネットがこれほどまでに世界を狭くした今でも、旧態依然とした運用はビジネスの現場にはびこっている。技術の進展が世の中のアナログな運用を変えない原因の一つ。それは、インターネットの技術革新のスピードが、人間の運用整備の速度をはるかに上回ったためだと思う。運用や制度の整備が技術の速度に追いついていないのだ。また、技術の進展はいまだに人間の五感や指先の運動を置き換えるには至っていない。少なくとも人間の脳が認識する動きを瞬時に代替するまでには。

本書が推奨するブロックチェーン技術は、人間の感覚や手足を利用する技術ではない。それどころか、日常の物と同じ感覚で扱える。なぜならば、ブロックチェーン技術はデータで成り立っている。データである以上、記録できる磁気の容量だけ確保すればいい。簡単に扱えるのだ。そして、そこには人間の感覚に関係なくデータが追記されてゆく。取引の履歴も持ち主の情報も。例えば上に挙げた硬貨にブロックチェーン技術を組み込む。つまり授受の際に持ち主がIrDAやBluetoothなどの無線で記録する仕組みを使うのだ。そうすると記録は容易だ。

そうした技術革新が何をもたらすのか、既存のビジネスにどう影響を与えるのか。そこに本書はフォーカスする。同時に、発展したインターネットに何が欠けていたのか。本書は記す。

本書によると、インターネットに欠けていたのは「信頼」の考えだという。信頼がないため、個人のアイデンティティを託す基盤に成り得ていない。それが、これまでのインターネットだった。データを管理するのは企業や政府といった中央集権型の組織が担っていた。そこに統制や支配はあれど、双方向の信頼は醸成されない。ブロックチェーン技術は分散型の技術であり、任意の複数の端末が双方向でランダムに互いの取引トランザクションを承認しあう仕組みだ。だから特定の組織の意向に縛られもしないし、データを握られることもない。それでいて、データ自体には信頼性が担保されている。

分散型の技術であればデータを誰かに握られることなく、自分のデータとして扱える。それは政府を過去の遺物とする考えにもつながる。つまり、世の中の仕組みがガラッと切り替わる可能性を秘めているのだ。
その可能性は、個人と政府の関係を変えるだけにとどまらないはず。既存のビジネスの仕組みを変える可能性がある。まず金融だ。金融業界の仕組みは、紙幣や硬貨といった物理的な貨幣を前提として作り上げられている。それはATMやネットバンキングや電子送金が当たり前になった今も変わらない。そもそも、会計や簿記の考えが物理貨幣をベースに作られている以上、それをベースに発達した金融業界もその影響からは逃れられない。

企業もそう。財務や経理といった企業活動の根幹は物理貨幣をベースに構築されている。契約もそう。信頼のベースを署名や印鑑に置いている限り、データを基礎にしたブロックチェーンの考え方とは相いれない。契約の同一性、信頼性、改定履歴が完全に記録され、改ざんは不可能に。あらゆる経営コストは下がり、マネジメントすら不要となるだろう。人事データも給与支払いデータも全てはデータとして記録される。研修履歴や教育履歴も企業の境目を超えて保存され、活用される。それは雇用のあり方を根本的に変えるに違いない。そして、あらゆる企業活動の変革は、企業自身の境界すら曖昧にする。企業とは何かという概念すら初めから構築が求められる。本書はそのような時期が程なくやってくることを確信をもって予言する。

当然、今とは違う概念のビジネスモデルが世の中の大勢を占めることだろう。シェアリング・エコノミーがようやく世の中に広まりつつある今。だが、さらに多様な経済観念が世に広まっていくはずだ。インターネットは時間と空間の制約を取っ払った。だが、ブロックチェーンは契約にまつわる履歴の確認、人物の確認に費やす手間を取っ払う。

今やIoTは市民権を得た。本書ではBoT(Blockchain of Things)の概念を提示する。モノ自体に通信を持たせるのがIoT(Internet of Things)。その上に価値や履歴を内包する考えがBoTだ。それは暗号通貨にも通ずる考えだ。服や本や貴金属にデータを持たせても良い。本書では剰余電力や水道やガスといったインフラの基盤にまでBoTの可能性を説く。本書が提案する発想の広がりに限界はない。

そうなると、資本主義それ自体のあり方にも新たなパラダイムが投げかけられる。読者は驚いていてはならない。富の偏在や、不公平さといった資本主義の限界をブロックチェーン技術で突破する。その可能性すら絵空事ではなく思えてくる。かつて、共産主義は資本主義の限界を凌駕しようとした。そして壮大に失敗した。ところが資本主義に変わる新たな経済政策をブロックチェーンが実現するかもしれないのだ。

また、行政や司法、市民へのサービスなど行政が担う国の運営のあり方すらも、ブロックチェーン技術は一新する。非効率な事務は一掃され、公務員は激減してゆくはずだ。公務員が減れば税金も減らせる。市民は生活する上での雑事から逃れ、余暇に時間を費やせる。人類から労働は軽減され、可能性はさらに広がる。

そして余暇や文化のあり方もブロックチェーン技術は変えてゆくことだろう。その一つは本書が提案する音楽流通のあり方だ。もはや、既存の音楽ビジネスは旧弊になっている。レコードやCDなどのメディア流通が大きな割合を占めていた音楽業界は、今やデータによるダウンロードやストリーミングに取って代わられている。そこにレコード会社やCDショップ、著作権管理団体の付け入る隙はない。出版業界でも出版社や取次、書店が存続の危機を迎えていることは周知の通り。今やクリエイターと消費者は直結する時代なのだ。文化の創造者は権利で保護され、透明で公正なデータによって生活が保証される。その流れはブロックチェーンがさらに拍車をかけるはず。

続いて著者は、ブロックチェーン技術の短所も述べる。ブロックチェーンは必ずしも良いことずくめではない。まだまだ理想の未来の前途には、高い壁がふさいでいる。著者は10の課題を挙げ、詳細に論じている。
課題1、未成熟な技術
課題2、エネルギーの過剰な消費
課題3、政府による規制や妨害
課題4、既存の業界からの圧力
課題5、持続的なインセンティブの必要性
課題6、ブロックチェーンが人間の雇用を奪う
課題7、自由な分散型プロトコルをどう制御するか
課題8、自律エージェントが人類を征服する
課題9、監視社会の可能性
課題10、犯罪や反社会的行為への利用
ここで提示された懸念は全くその通り。これから技術者や識者、人類が解決して行かねばならない。そして、ここで挙げられた課題の多くはインターネットの黎明期にも挙がったものだ。今も人工知能をめぐる議論の中で提示されている。私は人工知能の脅威について恐れを抱いている。いくらブロックチェーンが人類の制度を劇的に変えようとも、それを運用する主体が人間から人工知能に成り代わられたら意味がない。

著者はそうならないために、適切なガバナンスの必要を訴える。ガバナンスを利かせる主体をある企業や政府や機関が担うのではなく、適切に分散された組織が連合で担うのがふさわしい、と著者は言う。ブロックチェーンが自由なプロトコルであり、可能性を秘めた技術であるといっても、無法状態に放置するのがふさわしいとは思わない。だが、その合意の形成にはかなりかかるはず。人類の英知が旧来のような組織でお茶を濁してしまうのか、それとも全く斬新で機能的な組織体を生み出せるのか。人類が地球の支配者でなくなっている未来もあり得るのだから。

いずれも私が生きている間に目にできるかどうかはわからない。だが、一つだけ言えるのは、ブロックチェーンも人工知能と同じく人類の叡智が生み出したことだ。その可能性にふたをしてはならない。もう、引き返すことはできないほど文明は進歩してしまったのだから。もう、今の現状に安穏としている場合ではない。うかうかしているといつの間にか経済のあり方は一新されていることもありうる。その時、旧い考えに凝り固まったまま、老残の身をさらすことだけは避けたい。そのためにもブロックチェーン技術を投機という括りで片付け、目をそらす愚に陥ってはならない。それだけは確かだと思う。

著者によるあとがきには、かなりの数の取材協力者のリスト、そして膨大な参考文献が並んでいる。WIRED日本版の若林編集長による自作自演の解説とあわせると、すでに世の趨勢はブロックチェーンを決して軽んじてはならない時点にあるがわかる。必読だ。

‘2018/03/09-2018/03/25


SING シング


吹き替え版を映画館で観ることは滅多にないけれど、本作は家族の意向もあって吹き替え版で観た。それもあってか、劇場内は小さい子供達で沢山。予告編を観た感じでは子供向けの内容だろうなと思っていたけれど、私の予想以上に子供が多かった。

潰れかけた劇場を歌で救う、という内容はそれだけだとありきたりに思える。でも、本作はステージで歌を唄う登場人物たちに細かくキャラ設定されている。それも子供を飽きさせないよう手早く。また、筋書きも登場人物たちの抱える事情をうまく演出に組み合わせ、奥行きのあるストーリー展開を展開している。その辺りの演出上の配慮には好印象を抱いた。

潰れかけた劇場のオーナー、コアラのバスター・ムーン。極度のあがり症だが音楽が歌うのも聞くのも大好きな、ゾウの少女ミーナ。彼氏と組んでパンクロックを演っている、ヤマアラシのアッシュ。父が頭目の盗賊団に行きたがらず音楽の道を目指す、ゴリラのジョニー。陽気な性格でステージデビューを遂げる、ブタのグンター。25人の子育てに奮闘しながら、自分の可能性を追いたい、ブタのロジータ。音大を出たプライドを持ちながらストリートミュージシャンで生計を立てる、ネズミのマイク。彼らは種族も境遇もそれぞれに違う。それぞれが自分の生活に苦労しながら、共通するのは音楽が好きなこと、そして音楽で自分を表現すること。

多分それは、本作で声優に起用された俳優や歌手にとっても同じに違いない。本家も吹き替え版も関係なく。今回は吹き替え版を鑑賞したわけだが、皆さんとてもお歌が上手い。音楽の好きで心の底から楽しんでいる感じがとてもよかった。特にミーナを演じたMISIAはさすがに上手かった。皆、音楽が好きで演じるのが好きで本作に起用されたことが良く分かる。

SINGというタイトル通り、本作には歌があふれている。英語圏の映画だけに、洋楽が好きな人にはおなじみの曲が何曲も登場する。1960年代のGimme Some Lovin’や My Way、そしてVenus。1980年代のWake Me Up Before You Go GoやUnder Pressure。90年代、00年代、10年代もレディー・ガガやテイラー・スイフトとか、曲名が出てこないけど知ってる曲ばかり。欧米の世代を超えて通じる曲の多さには嬉しく、そして羨ましくも感じる。

我が国には本作で取り上げられたような、世代を超えて歌われるような曲はどれぐらいあるのだろう。本作を観ていてそう思った。例え落ちぶれて身ぐるみ剥がされるまでになっても、喉が元気なうちは歌がある。そして、落ち込んだ時に唄える歌が口ずさめることは、どれだけ気が楽になるか。日ごろから忙しい生活を過ごしていると、分かっていてもなかなかそれに気づかないものだ。音楽の力とは言い古されているかもしれないが、確かにある。そしてカラオケボックスの中よりも、不特定多数の人々の前で歌い上げるという経験によると思う。人前で声を上げて自分を主張することは、人生を変える力を確かに持っている。本作は、そんな音楽の力に気づかせてくれる。

そんな余韻を味わいながら映画館を出て、家族で向かったのはパルテノン多摩。Brass Festa多摩 2017を鑑賞した。吹奏楽の祭典。ホールに音楽が響きわたる。演目の中には時代劇の有名テーマ曲があり、日本に伝わる唱歌の吹奏楽アレンジがあり。これがかなり胸に響いた。我が国にもこういった歌があるのだ。そのことにあらためて気づかされた。そしてアンコールでは観客も交えて「ふるさと」を唱和した。これがよかった。ただ聞くだけでなく、自ら歌うことの効能といったら!

本作の登場人物たちも、唄うことで、自分を表現することで自分の人生を変えようと努力している。多分それは、本作をみた観客にとっても言えることだと思う。人生はSINGすることで、良い方向に持っていけるはず!

’2017/03/20 イオンシネマ多摩センター


マダム・フローレンス! 夢見るふたり


この映画は、観る人のさまざまな感情を揺り動かす映画かもしれない。喜怒哀楽。観終わった観客はいろいろな想いを抱く事だろう。私もそうだった。私の場合は二つの相反する想いが入り混じっていた。

一つは、夫婦愛の崇高さへの感動。もう一つは、表現という行為の本質を理解しようとしない人々への怒りと悲しみ。

一緒に観に行った妻は感動して泣いていた。本作でヒュー・グラントが演じたのは、配偶者の夢を支えようとするシンクレア・ベイフィールド。その献身ぶりは観客の心を動かすだけのものはある。ヒュー・グラントのファンである妻はその姿に心を動かされたのだろう。

一方、メリル・ストリープ扮するマダム・フローレンスは純真そのもの。自分に歌手としての天分があり、自分の歌声が人々の癒しとなることを露ほども疑っていない。だが、彼女の無垢な想いは、NYポスト紙の劇評によって無残に汚されることになる。その劇評は、カーネギーホールで夢叶えた彼女のソロリサイタルについて書かれていた。彼女の無垢な夢は、叶った直後に汚されたことになる。そればかりか、その記事で彼女は現実を突きつけられることになる。人々が自分の歌声を嘲笑っており、自分は歌手に値しない存在という容赦ない現実を。夢を持ち明るく振舞うことで長年患っていた梅毒の進行をも止めていた彼女は、現実を突きつけられたことで気力を損ない、死の床に追いやられる。彼女が長い人生で掴んだものは不条理な虚しさでしかなかったのか。その問いは、観客によっては後味の悪さとして残るかもしれない。

籍は入れてなかったにせよ、最愛の伴侶のために25年もの長きにわたって献身的にサポートしてきたベイフィールドの努力は無に帰すことになる。ベイフィールドの献身的な姿が胸に迫れば迫るほど、救いなく死にゆく彼女の姿に観客の哀しみは掻き立てられるのだ。

だが、彼女の不条理な死は本当に救いのない死、なのだろうか。君の真実の声は美しい、と死に行く妻に語る夫の言葉は無駄になってしまったのだろうか。

ラストシーンがとても印象に残るため、ラストシーンの印象が全体の印象にも影響を与えてしまうかもしれない。だが、ラストシーンだけで本作の印象を決めてしまうのはもったいない。ラストシーンに至るまでの彼女は、ひたむきに前向きに明るく生きようとしている一人の女性だ。たとえ自らが音楽的な才能に恵まれていると勘違いしていようとも、才能をひけらかすことがない。ただ健気に自らをミューズとし、人々に感動を与えたいと願う純真な女性だ。

彼女の天真爛漫な振る舞いの影に何があったのか。時間が経つにつれ、彼女の人生を覆ってきた不運の数々が徐々に明らかになってゆく。そして、彼女を夢の世界にいさせようとする懸命な夫の努力の尊さが観客にも伝わってゆく。

明るく振る舞う彼女の人生をどう考えるか。それは、本作の、そして史実のマダム・フローレンスへの評価にもつながるだろう。彼女が勘違いしたまま世を去ることこそ彼女の人生への冒涜とする見方もある。彼女の脳内に色とりどりの花を咲かせたままにせず、きちんと一人の女性として現実を認めさせる。そして、そんな現実だったけれども自分には愛する夫が居て看取られながら旅立てるという救い。つまり、彼女を虚しいお飾りの中に住む女性ではなく、一人の人間として丁重に見送ったという見方だ。

私には、本作でのメリル・ストリープの演技がそこを目指しているように映った。一人の女性が虚飾と現実の合間に翻弄され、それでも最期に救いを与えられる姿を演じているかのように。

実際、本作におけるメリル・ストリープの演技は、純な彼女の様子を的確に表現していたように思う。リサイタル本番を前にした上ずった様子。ヤジと怒号に舞台上て立ちすくみ、うろたえる姿。幸せにアリアを絶唱する立ち姿。それでいて、その姿を能天気に曇りなく演ずるのではなく、自らを鼓舞するように前向きに生きようとする意志をにじませる。そういった複雑な内面を、メリル・ストリープは登場シーン全てで表現する。まさに大女優としての技巧と人生の重みが感じられる演技だ。本作では髪が命の女優にあるまじき姿も披露している。彼女の演ずる様は、それだけでも本作を観る価値があると言える。

ただ、私にとって彼女の演技力の成否が判断できなかった点がある。それは、マダム・フローレンスが音痴だったことが再現できているのか、ということだ。

そもそも、マダム・フローレンスは音痴だったのだろうか。実在のマダム・フローレンスの音源は、今なおYouTubeで繰り返し再生され、かのコール・ポーターやデヴィッド・ボウイも愛聴盤としていたという。カーネギーホールのアーカイブ音源の中でもリクエスト歴代一位なのだとか。そういった事実から、彼女の歌唱が聞くに耐えないとみなすことには無理がある。

音源を聴く限りでは、確かに正統な声楽の技術から見れば型破りなのだろう。コメディやパロディどころではない嘲笑の対象となったこともわかる。でも、病的な音痴という程には音程は外していないように思える。むしろそれを個性として認めても良い気がするほどだ。コール・ポーターやデヴィッド・ボウイが愛聴していた理由は知らないが、パフォーマーとして何か光るモノを彼女の歌唱から感じ取ったに違いない。

そう考えると、メリル・ストリープの歌唱がどこまでオリジナルを真似ていたのか、彼女の歌唱が音痴だったかはどうでもよいことになる。むしろ、それをあげつらって云々する事は彼女の音楽を浅薄に聴いていること自ら白状していることに他ならない。つまりは野暮の極みということ。

だが、本作を理解するには彼女の歌唱の判断なしには不可能だ。歌唱への判断の迷いは、本作そのものについての判断の迷いにも繋がる。冒頭に、観る人のさまざまな感情を揺り動かす映画かもしれないと書いたのは、その戸惑いによるところが大きいと思う。

その戸惑いは、彼女を支える男性陣の演技にもどことなく影響を与えているかのように思える。配偶者のシンクレア・ベイフィールドに扮するヒュー・グラントの演技もそう。

シンクレア・ベイフィールドは、単に自己を犠牲にしてマダム・フローレンスに尽くすだけの堅物男ではない。俳優の夢を諦めつつ、舞台への関わりを断ち切れない優柔不断さ。彼女が梅毒患者であるため性交渉を持てないために、妻合意の上で愛人を他に持つという俗な部分。また、彼の行いが結果として、伴侶を夢の中に閉じ込めたままにし、彼女の人生を冒涜したと決め付けてしまう事だって可能だ。それこそ体のいい道化役だ。 単なる品行方正な朴念仁ではなく、適度に人生を充実させ、気を紛らわせては二重生活を続けるベイフィールドを演ずるには、ヒュー・グラントは適役だろう。

複雑な彼の内面を説明するには、マダム・フローレンスの歌唱を内縁の夫としてどう評価していたか、という考察が不可欠だ。本作でヒュー・グラントはそれらのシーンを何食わぬ顔で演じようとしていた。だが、彼のポーカーフェイスがベイフィールドの内面を伝え切れたかというといささか心もとない。とくに、彼女の歌唱の上手い下手が判断できなかった私にとってみると、ベイフィールドの反応から、彼がどう感じていたかの感情の機微がうまく受け止められなかった。裏読みすれば、ベイフィールドの何食わぬ顔で妻を褒める態度から25年の重みを慮ることが求められるのだろうか。

また、彼女のレッスンやリサイタルにおいて伴奏を務めるコズメ・マクムーンの役どころも本作においては重要だ。

初めてのレッスンで彼は部屋を出るなり笑いの発作に襲われる。だが、ベイフィールドからの頼みを断れず、恥をかくこと必至なリサイタルに出ることで、ピアニストとしての野心を諦める。カーネギーホールでの演奏経験を引き換えにして。そういった彼の悩みや決断をもう少し描いていればよかったかもしれない。

具体的には、マダム・フローレンスがいきなりマクムーンの家を訪ねてきて、彼女の中の孤独さに気づくシーンだ。あのシーンは本作の中でも転換点となる重要な箇所だと思う。あのシーンで観客とマクムーンは、マダム・フローレンスの無邪気さの中に潜む寂しさと、彼女が歌い続けるモチベーションの本質に気づく。マクムーンがそれに気づいたことを、本作はさらっと描いていた。しかし、もう少しわかりやすいエピソードを含めて書いてもよかったのではないか。そこに、彼女の歌唱が今なお聴き続けられる理由があるように思うのに。

なぜ、マクムーンが彼女に協力する事を決めたのか。なぜ一聴すると聴くに耐えないはずの彼女の歌唱がなぜ今も聴き継がれているのか。なぜ、リサイタルの途中で席を立った記者は辛辣な批評で彼女の気持ちを傷つけ、その他の観客は席を立つ事なく最後まで聴き続けたのか。なぜ、最初のリサイタルでは笑い転げていたアグネス・スタークは、野次る観客に対し彼女の歌を聴け!と声を挙げるまでになったのか。

歌うことは、自己表現そのものだ。彼女の歌には下手なりに彼女の音楽への希望がこめられている。そして苦難続きだった前半生から解放されたいという意志がみなぎっている。その意志を感じた人々が、彼女の歌に愛着を感じたのではないだろうか。彼女の歌がなぜ、愛されているのか。その理由こそが、ここに書いた理由ではないだろうか。

‘2016/12/4 イオンシネマ新百合ヶ丘


音楽は多様であってこそ-1970年代の音楽について


今日はグレン・フライが亡くなりました。先日のデヴィッド・ボウイに続き、私の好きなアーティスト達が去っていく事にショックを隠せません。

グレン・フライといえばイーグルスのフロントです。1970年代に数々のヒット曲を送り出したイーグルス。中でも「One Of These Nights」と「Hotel California」は大好きな二曲です。Google Play Musicで私の好きな洋楽曲を百曲以上リスト化していますが、上の二曲ともにトップ10に入っています。

Google Play Musicでリスト化した百曲以上のうち、1970年代の曲は他にも沢山あります。それらの曲は1973年生まれの私にとっては、全て物心つく前に流行ったものです。でも、親がカーペンターズやサイモン&ガーファンクルのレコードを良く掛けていたので、私の耳にはよく馴染んでいるのです。

中三で洋楽に興味を持ってから、1970年代の曲やアルバムはよく聞きます。レッド・ツェッペリンやディープ・パープル、イエスやジェネシス、ビリー・ジョエルにスティーブ・ミラー・バンド、あとデヴィッド・ボウイやクィーン、その他色々。彼らの多くは1980年代にも名盤と呼ばれるアルバムを出しています。

でも彼らの遺したアルバムで、私が好きなものは70年代に発表されたものばかりです。「最終楽章(コーダ)」よりは「レッド・ツェッペリンⅣ」。「パーフェクト・ストレンジャーズ」よりは「マシン・ヘッド」。「ロンリー・ハート」よりは「こわれもの」。「インヴィジブル・タッチ」よりは「眩惑のブロードウェイ」。「イノセント・マン」よりは「ニューヨーク物語」。「アブラカダブラ」よりは「フライ・ライク・アン・イーグル」。「レッツ・ダンス」よりは「ジギー・スターダスト」。「カインド・オブ・マジック」よりは「オペラ座の夜」。

所詮は私個人の趣味嗜好に過ぎないのかもしれません。幼時の音楽体験を引きずっているだけなのかも。

でも、ひょっとしたらそれ以外に理由があるのかも。今回、私を立て続けに襲った悲しいお知らせに、改めて1970年代の洋楽とはなんぞ?を考えてみました。

1960年代は、モータウンに代表されるアフリカルーツのサウンドが一世を風靡 しました。ブルースがロックミュージシャンに取り上げられたのもこのころ。一方、1980年代はイギリス色が強く、洗練されたきらびやかなサウンドがシーンを席巻しました。

では、1970年代とは何だったのでしょう。私は音楽の多様性が一斉に花開いた時代だったと思っています。ハードロックやメタル。フォークロックやブルースロックにシンガーソングライターたち。サザンロックそしてプログレッシブロック。パンクやディスコやグラムロックも1970年代。百花繚乱です。さらには英米だけではありません。ABBAに知られたスウェディッシュポップや、ボブ・マーリーによるジャマイカン・レゲエも広まりました。また、カエターノ・ヴェローゾやジルベルト・ジル、ガル・コスタなどによるブラジルMPBのムーブメントも忘れてはなりません。1970年代の音楽を一言で云い現わすとすれば、多様性につきると思います。そして、それこそが私が1970年代の音楽に惹かれる理由なのでしょう。多様性。素晴らしい言葉です。

冒頭に挙げた「ホテル・カリフォルニア」には、あまりにも有名な歌詞の一節があります。

“We haven’t had that spirit here since 1969”

「ホテル・カリフォルニア」は音楽ビジネスの繁栄の裏にある虚しさを描いた曲として、あまりにも有名です。ここに挙げた歌詞の1969とは、ウッドストック・フェスティバルが催された年。要は1970年代以降の音楽にはスピリッツ、つまり魂がないと自虐的に歌ったのが「ホテル・カリフォルニア」です。それを歌ったのが1970年代を代表するアーティストであるイーグルスであるところがまたしびれます。

でも、魂を失ったからこそ、それを求めてミュージシャン達は様々な方向性を模索したのですよね。

1970年代の音楽ビジネスの裏側はすでにどろどろしていたかもしれませんが、真の音楽を求めるスピリッツだけは喪っていなかった年代。私は1970年代をそう位置づけています。私自身が意識することなく、それでいて幼い感性で空気を感じていた時代。それこそが1970年代なのです。

今、日本の音楽シーンもにぎやかなようです。しかし残念なことに、音楽性とはかけ離れた俗な話題でにぎわっているに過ぎません。

ゲスの極み乙女は、サカナクションと並んで私が最近興味を持って聞いている日本のバンドです。が、今回の騒動ではバンド名を絡めて揶揄される存在に成り下がっています。それはとても残念なことです。せっかく光る音楽性を持っているのに。

smapは音痴ネタが独り歩きするなど、音楽よりも他で才能を発揮したグループだったかもしれません。でも、音楽面で全く聴くに値しないグループだったとも思いません。「ライオンハート」はよく聴きましたし。昨秋もパラ駅伝で彼らのステージを偶然観る機会がありましたが、まぎれもなく日本の一時代を築いたグループであると感じました。今回の騒動の結果、彼らが仮に独立出来ていたとすれば、新たな事務所のもとで新境地に至ることが出来たかもしれません。

今回の騒動がゲスの極み乙女やsmapのあり方を損なうことにならなければいいのですが。そう願ってやみません。デヴィッド・ボウイやグレン・フライと系統は違うかもしれませんが、彼らもまた、音楽の多様性を担う存在なのですから。

1970年代に多大な遺産を遺したアーティスト達も、やがては独りずつ舞台を去っていくのでしょう。でも音楽は消えることはないし、彼らの音楽を伝承し、発展させてゆくであろうアーティストには頑張ってほしいです。ゴシップ記事のネタに堕ちるよりよっぽどいいです。

今夜はイーグルスを聴きながら、仕事をすることにします。


日本の音楽ビジネスの転換期がきている


Groovesharkという音楽ストリーミングサービスがあります。オンライン上のストリーミングをフリーで提供し、様々なジャンルのオンラインラジオを運営しています。

こちらが、先週、インターフェースの装いを一新しました。曲やアーチストがタイムラインに表示され、それらをフェイバリットした人々のリストが脇にならんだデザインに変わりました。よりソーシャルメディアへの接近を図ったかのように思えます。

今までのGroovesharkは、無料で音楽聞き放題のサービスとして、個人的にかなり重宝していました。一時は千枚以上買い溜めたCDを処分しようかと迷ったくらい、Groovesharkの登場には衝撃をうけました。

Groovesharkの利点は、壁一面を埋めるCDスペースを失くせるだけではありません。視聴履歴から割り出した好みのジャンルのお薦めアーチストも表示してくれるので、私を潤す音楽の幅も拡げてくれます。こういった優れたサービスが無料かつ合法で手に入る時代に感謝です。

Groovesharkには好きな曲を並べてリスト化する機能もあります。カセットテープにお世話になった方は、自分のオリジナルベストをCDやLPからカセットに録音した経験がおありでしょう。それがブラウザ上で簡単にできることに、私はただただ感動しました。

感動しただけでなく、勢いに任せてすきな60~00年代の洋楽百曲をリストにしてしまいました。10曲ずつのリストを10個のリストに。それを作ったのは今から一年半前になります。

今回のインターフェース一新を受け、早速リストを聴きながら仕事しようとしたところ、残念なことに気づきました。10曲入っているはずのリストに5曲しかありません。リストによっては6曲残っているものもありますが、ほとんどが5曲に減らされています。

以前にもジョン・レノンのwomanがいきなり消えたことがありました。が、今回の消去量は半端ではなくサービスの根幹にも関わりかねない部分です。もちろん利用規約 https://www.grooveshark.com/terms の Storage and Limitsの章で運営会社の単独の裁量で特定の機能やサービスに制限を課すことを認めると記載されています。推測するに、レコード会社との契約上で問題がある曲やアーチストは今回のインターフェース一新のタイミングで軒並消されたということでしょう。こちらも無料で利用させてもらっている以上は、どうこういう筋合いはありません。が、なんらかの通知をリスト呼び出し時に出来ないものかと思います。これは要望としてあげてみようかと思います。

さて、要望はさておき、Groovesharkには邦楽の音源がほとんど収められていません。よく知られているとおり日本の音楽流通の商慣習はかなり特殊であるといわれ、ガラパゴス業界の好例としてよく槍玉に挙げられます。海外ではストリーミングサービスによる売り上げがCDのそれを上回ったとのニュースも配信されています。が、日本にはほとんどのストリーミングサービスが上陸を目前にして何かに阻まれています。有名どころではGoogleやAmazon、Spotify、Apple、Deezer、Beats Musicなどが挙げられます。

日本の音楽市場はパイが大きいです。それだけに云い方は悪いですが、既得権益を守るための抵抗も強いのでしょう。ビジネスである以上それは当然の判断です。とはいえ、メディア販売による音楽の売上はとっくに飽和しています。先日もオリコンの集計対象からチケット付CDが除外されるとのニュースが流れたばかりです。握手券付CDについても除外は時間の問題でしょう。問題はそうでもしなければ売れないメディアになってきているのです。CDは。

アーチストにとってみれば、デジタルの力に頼らないライブなどの場に活動の場を広げるほかないでしょう。先日も娘がOne Directionのコンサートに行きましたが、会場内では音源や映像の録音は全てし放題だったようです。もはや海外のアーチストにとって、データの二次利用、三次利用は当たり前になってきており、それを制限しようとする行為が無駄な事も熟知していると思われます。上に描いたGroovesharkへの音源供給の中止も、単なる拒絶ではなく、他の媒体への提供などマーケティング効果を考えてのことではないかと思います。昨年、U2の新譜がiTunesに一方的に無料配信され、音楽業界に衝撃を与えたことは記憶に新しいです。私もすぐに入手し、内容にも衝撃を受けたことを思い出します。

海外流のやり方が全て正しいとは思いませんが、そろそろ日本の音楽シーンも演奏技術、歌のうまさMCや演出の素晴らしさといった、ライブでこそ集客できるアーチストの時代が来るような気がしてなりません。海外ではGrateful Deadがマーケティングに長けたバンドとして有名です。日本でも永ちゃんこと矢沢永吉が先駆者といえるでしょうが、他のアーチストの意識も変わっていくのではないかと思います。

まずはストリーミングの扱いをどうするか。日本の音楽業界の転換点が、この点に対する対応を注視することで目撃できるのではないかと思っています。