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選別主義を超えて―「個の時代」への組織革命


本書は、私が人を雇用し、そろそろ組織を構築しなければ、と思い始めた頃に読んだ。

私の社会人のキャリアは、人とは違う道を歩んだように思う。
新卒で就職する事を諦めた私は、フリーター・ニートの道へ。しばらく、アルバイト生活を転々とした後、就職を決意するもののブラック起業に入ってしまい、揚げ句に皆の面前でクビを宣告され。
そこから、いきなり上京した私は派遣社員の道へと。やがて正社員に登用された私は程なくして転職。そこで個人事業主として会社の立ち上げにスカウトされ、さらにそこを抜けた後は個人事業主として、複数の現場を渡り歩くフリーランサーの稼業へと。やがて、個人事業主を法人にし、雇用に踏み切って今に至った。
このテーマでは、以前鎌倉商工会議所で登壇して話したこともある。

私のキャリアは上に書いたとおりだ。そのため、組織の中で組織の論理に苦しめられた経験が少ない。むしろ、苦しめられたらすぐにそこを離れた。そして、組織の論理に縛られるのを嫌って、その度に自分にとって楽であろうと選択を重ねてきたら今に至った。

本書の後半には、組織の中で自営業のように自由に動く働き方や、フリーランスの形を選ぶ働き方が登場する。ところが、私はだいぶ前にフリーランスの生活を選んだ。すでに本書に書かれている内容は自分の人生で実践していた。つまり、私は本書から学ぶところは本来ならばなかった。

だが、ここに来て私は人を雇用し、組織を作る側になった。すると、本書の内容は私にとってちがう意味を帯びてくる。

組織になじめず、組織から遠ざかっていた私が組織を作る。この皮肉な現実について、本書はいろいろな気づきを与えてくれた。
つまり、私が嫌だったと思う事を個人にしないような組織。それを私が作り上げていけばよいのだ。

しかし、どのように自分に合った組織を作ればよいのだろうか。
例えば経営者としての私が人を雇い、評価し、昇進・昇給させる。その時の基準はどこにおけば良いのだろうか。
私が人を昇進させ、昇給させる営み。それはつまり選別することに等しい。
一方、本書のタイトルは「選別主義を超えて」と題されている。選別がそもそも今の世の中にそぐわなくなり、その次を説いている。
と言う事は、私の中でされて嫌だったことをする必要はない。そのかわり、新たな手法を駆使して組織を運営していかなければならない。ここで私の脳内は堂々巡りを始める。

第一章 席巻する選別主義

この章では、今までのように横並びで入社し、終身雇用の名の下に全ての社員を平等に扱う建前から、早めにエリートを選別し、昇給や昇進にもあからさまな差をつけるやり方が広まっている現状を紹介している。

弊社はまだ零細企業だ。メンバーも少ない。一括で何十人も採用できるような規模になるにはまだ早い。そもそも、働けない社員を雇う余裕はない。そのため、弊社は採用面接の段階で選別をしなければ立ち行かなくなる。

また情報技術を旨とする弊社であるため、昔ながらありえたような単純作業のために人を雇うつもりもない。むしろ、そうした作業は全てシステムに任せてしまうだろう。

第二章 選別主義の限界

この章では、そうした選別主義がもたらす組織の限界について触れている。
社員間に不公平感がはびこること。そもそも選別を行うのは人間である以上、完璧な選別などありえないこと。本章はそうした限界が紹介される。
私も今、経営をしながらそれぞれの社員の適性やスキルや進捗を見極めるようにしている。だが、規模がより広がってくると、私一人ですべての社員の評価をすることは不可能だ。そもそも、私も人の子だ。完璧に客観的な評価ができるか正直自信はない。

第三章 「組織の論理」からの脱却を

ここからは、新たな働き方への転換を紹介している。

組織が人を選別することの限界が来ているのなら、一人一人の社員が個々の立場で自立し、組織に頼らない人間として成長する。そうした道が紹介されている。

この章で書かれているのは、私が組織の中にいながら次の道を模索した試行に通ずる。実際、私はそのような選択を自分の人生に施してきた。今の私は弊社のメンバーにも、自立できるような人になってほしいと望んでいる。

もう、組織に頼りっぱなしで生きる生存戦略は、その本人の一生にとって良くない結果をもたらす。

何も言わず、文句も言わず、ロボットのように働いてくれる社員は果たして経営者にとってありがたいのか。おそらく私はそうした社員の明日は厳しいと感じる。

第四章 適用主義の時代へ

この章で紹介するのは、選別主義に代わる新たなパラダイムである適応主義だ。ある一定の年数がたてば昇給していくのではなく、その都度の会社の業績と個人・部署の業績を社会の状況に照らし合わせ、その都度で評価を行う。それが本書のいう適応主義だ。つまり年功序列は関係ない。

まさに今、社会はこのようになりつつある。

著者は、そのような社会になるためには、学校自体も変わらなければならないと言う。つまり従来のように新卒で大量採用し、といった企業側の要請が変わりつつある以上、学校側も変わらなければならな。企業からも任意のタイミングで社員を学校で学ばせることもある。柔軟で流動的な制度とカリキュラムも必要だとする。

私もこの点は同感だ。
今のような複雑な社会において、企業に入った後は勉強せずに過ごせる訳がない。会社に入っても常に勉強しなければ、これからは社会人としては通用しないと思う。
では、人々は何をどのように学べばよいか。それは企業側では教えにくい。だからこそ大学や専門学校は、常に社会人に対して門戸を開いておかなければならない。

第五章 21世紀の組織像
本書が刊行されたのは2003年。すでに21世紀に突入していた中で21世紀の組織像を語っている。
本書が刊行されてから19年がたち、ますます組織のあり方は多様化している。情報技術の進化がそれを可能にした。

本書で、フリーランスなどの新たな働き方が紹介される。それは、会社や組織を一生の働き場として見ず、スキルアップの場として見る考えだ。キャリアの中で組織に属するのは、あくまでも自らをバージョンアップさせるため。

本章で書かれていることは、私から見ると当たり前の事のように思える。たが、まだまだ組織に依存する働き方を選ぶ人が多いのは事実だ。2022の今でも。まだまだこれは改善の余地はある。そして、企業側でも流動的に働き方を前提に業務を組み立てることが求められる。

終章 日本型システムを見つめ直す

この章では、欧米の最新型の経営手法を安易に持ち込み、日本でまねる事の危険性を述べている。

私もまだ、自分なりの経営手法については試行錯誤の段階だ。
結局、私がいくらあがいたところで、組織としてきちんとした運営ができるようになには、規模が大きくなければ意味がない。
弊社の今の規模であれば、まだ私一人で対応できる。だが、やがては人事担当者を設け、本格的に考えていかなくては。
ただ、そうなったら今度は私個人のくびきを離れ、組織が組織としての自前の論理を備えていく。そうなったとき、個の時代を標榜する本書の意図に反した組織になっていかないか。

そうした段階に達したとき、どこまで経営者の、つまり個を重視する私の考えが評価の中に生かされていくのか。
本書を読むと、そうした課題のあれこれが果てしない未来になるように思える。努力するしかない。

2020/10/21-2020/10/28


坂の上の雲(六)


本書を通して著者は、日露戦争で陸海軍の末路が太平洋戦争の敗戦にあることを指摘する。
さらに著者は、このころの陸軍にすでに予断だけで敵を甘く見る機運があったことも指摘する。
例えばロシアの満州軍は、厳冬のさなかには矛を収めるはずという予断。その予断からは児玉源太郎ですら逃れられなかった。いわんや陸軍の全体は言うまでもなく。
ただし、秋山好古が率いる騎兵団を除いて。

騎兵団から敵情視察の結果、幾たびもロシア軍に動きがあるとの報告をあげても、参謀本部はたかをくくったまま。
好古はここにきて腹を決める。敵軍の動きをわずかな手勢で食い止めるしかないと。
秋山好古が幾たびもの軍の壊滅の危機をどうやって防いだか。それはただ耐えることに尽きる。動じない。愛用の酒の入った水筒を携え、ただ呑み、ただ耐える。
その忍耐こそが好古の名を後世に残したといってもよい。

陸軍首脳が完全にロシア軍の意図を読み違えていた「黒溝台付近の会戦」は、軍の動員の状況からロシア軍の攻勢までのすべてにおいて日本に不利だった。そう著者はいう。
その結果、一方的に押し込まれる日本軍。しかもロシア軍の攻勢は好古のいる翼の側面に集中する。
そんな攻勢をやり過ごすため、好古は騎兵の長所である馬をあきらめる。そして秋山支隊に支給された機関銃を携え、壕にこもって防戦する。守戦に徹しつつ、将の風格である豪胆さを示す。そこに秋山好古の真骨頂はある。

そんな風に危機に瀕していた日本軍を救ったのはロシア軍の分裂だ。
グリッペンベルク将軍が率いる第二軍の攻勢に乗じ、クロパトキン将軍の第一軍の攻勢が合流すれば戦局は決したはず。
だが、グリッペンベルク将軍の策が的中し、功を挙げることで自らの立場が喪われることを懸念したクロパトキン将軍は、攻めるのをやめ、そればかりか退却を指示する。
9割以上の兵が無傷に残されていたというのに。官僚の打算が日本を救ったのだ。まさに僥倖という他はない。

さて、バルチック艦隊は、マダガスカルの北辺にあるノシベという小さな港で二カ月待機している。それはロシア政府からの指示を待っていたため。
ロシア外務省の外交力はまったく効果を上げていない。そして旅順艦隊が消え去った今、新たな艦隊をこれ以上派遣することに意味があるのか。そんな意見の分裂があったかどうかは資料に残っていない。
ただ言えるのは、そうした時間の浪費が日本の連合艦隊の傷を完全に癒やしたことだ。そればかりか日々の厳しい砲撃訓練によって、連合艦隊の精度は上がってゆく。

そして著者の筆は、長期の停泊によってバルチック艦隊を覆った士気の低下と、長期にわたる航海が露わにした石炭の補給の問題に進む。それは、バルチック艦隊が最初からはらんでいた宿命だ。
ロシア皇帝はそんなバルチック艦隊のために、第三艦隊を追加で編成させる。そして極東に向けて出航させる。

そこにはロシア政府の思惑もあった。ロシアの国内で起こる革命の機運を鎮めるためにも、バルチック艦隊には勝ってもらわねばならないという。
それほどまでにロシアの国内には不穏な空気が充ちていた。
その空気の醸成に一枚も二枚も噛んでいたのが、明石元二郎大佐だ。
本書では明石大佐の八面六臂の活躍がつぶさに描かれる。その活躍はロシアの屋台骨を揺るがし、ロシア革命へとつながる道を帝政ロシアに敷いた。
その活躍によるかく乱の戦果は、一説には日本軍の二十万に匹敵したというほどだ。

帝政ロシアの害悪とは、ただ専制体制だったからではない。
極東に侵略の手を伸ばしたように、東欧やバルト海沿岸でもロシアの侵略の手はフィンランドやポーランドに苦しみを与えていた。
明石大佐はそうした国際風潮を即座に読み取る。そして明石大佐は謀略の全てを実名で行った。そうすることで信頼を得、ロシアの周辺国とロシアの内部から反帝政の機運を煽ったのだ。

およびスパイが持つ暗いイメージとは反対のあけすけで飾りを知らない人物。そんな人物だからこそ明石は信頼されたのだろう。
また、その行動を助けるように、反ロシアの空気が充満していたからこそ、彼の行動は広い範囲に影響を与え、絶大な効果をあげたのだと思う。

本書とは関係がないが、明石元二郎は日露戦争後、台湾総督をつとめた。
その縁からか、元二郎の子の元長が、国共内戦で苦境に陥った臺灣の国民党軍を助けるため、日本の根本博中将を台湾に送り届ける役割を果たしたという。
その事実を扱った本を読んだのは、本書を読む二週間ほど前の話。
それを知っていたから、本書で八面六臂の活躍を見せる明石元二郎の姿には、単なるスパイではなく別の印象を受けた。

明石元二郎がどれほど変人だったかは、本書にも描写されている。たとえば生涯、歯を磨かなかったとか。
そういえば、本書に登場する秋山好古も生涯、風呂を嫌っていたという。
そうした人物が活躍できるほど、当時の社会は匂いに鈍麻していたのだろうか。現代の私たちが何かあればすぐ臭いを言いつのる事を考えると隔世の感がある。

そして本書はいよいよ、奉天会戦と日本海海戦へ向けて時間を進める。
まずは、士気の低下したままのバルチック艦隊の様子を描く。
後世ではあまり芳しくない評価を与えられているバルチック艦隊。そして、司令長官のロジェストウェンスキーへの評価も辛辣だ。
著者は辛辣に描きつつ、彼を若干だが擁護する。それはロシアの官僚主義が司令長官の力だけではどうにもならなかったという指摘からだ。

ロシアの満州軍は、黒溝台付近の会戦の結果、辞表を叩きつけたグリッペンベルク将軍が本国に帰ってしまう。
残されたクロパトキン将軍は奉天を最終決戦の場にするべく準備を進める。
準備を行うのは日本側も同じ。
遊軍に近い扱いの鴨緑江軍を満州に送り込んだ大本営の意図は、奉天会戦を見込んだのではなく、日露戦争の戦後を見据えたものだ。少しでも有利な条件を勝ち取れるよう、敵の占領地を確保することが鴨緑江軍の目的だった。が、現地の参謀本部は少しでも軍勢を増やすため、鴨緑江軍を戦場の遊軍として組み入れる。

奉天会戦が迫る中、日本の連合艦隊は砲術の猛特訓を行い、バルチック艦隊がいつ日本近海に現れてもよいように万端の準備を進める。

‘2018/12/17-2018/12/22


エビータ


昨年、浅利慶太氏がお亡くなりになった。7/13のことだ。私は友人に誘われ、浅利慶太氏のお別れ会にも参列した。そこで配られた冊子には、浅利慶太氏の経歴と、劇団の旗揚げに際して浅利氏が筆をとった演劇論が載っていた。既存の演劇界に挑戦するかのような勢いのある演劇論とお別れ会で動画として流されていた浅利慶太氏のインタビュー内容は、私に十分な感銘を与えた。

ちょうどその頃、私には悩みがあった。その悩みとは宝塚歌劇団に関係しており、私の人生に影響を及ぼそうとしていた。宝塚歌劇団といえば、劇団四季と並び称される本邦の誇る劇団だ。だが、ここ数年の私は宝塚歌劇団の運営のあり方に疑問を感じていた。公演を支える運営やファンクラブ運営の体質など。特に妻がファンクラブの代表を務めるようになって以来、劇団運営の裏側を知ってしまった今、私にとってそれは悩みを通り越し、痛みにすらなっていた。その疑問を解く鍵が浅利慶太氏の劇団四季の運営にある、と思った私は、浅利慶太氏のお別れ会を機会に、浅利慶太氏と劇団四季について書かれた本を読んだ。キャスティングの方法論からファンクラブの運営に至るまで、宝塚歌劇団と劇団四季には違いがある。その違いは、演じるのが女性か男性と女性か、という違いにとどまらない。その違いを理解するには演劇論や経営論にまで踏み込まねばならないだろう。

宝塚の舞台はもういい、と思うようになっていた私。だが、お別れ会の後も、劇団四季の舞台は見たいと思い続けていた。今回、妻のココデンタルクリニックの七周年記念として企画した観劇会は、なんと総勢三十人の方にご参加いただいた。妻が25人の方をお招きし、妻が呼びきれなかった5名は私がお声がけし、一人も欠けることなく、本作を鑑賞することができた。

浅利慶太氏がお亡くなりになってほぼ一年。この日の公演も浅利慶太氏追悼公演と銘打たれている。観客席の最後方にはブースが設けられ、浅利慶太氏のポートレートやお花が飾られている。おそらく生前の浅利氏はそこから舞台の様子や観客の反応をじっくりと鋭く観察していたのだろう。ロビーにも浅利慶太氏のポートレートや稽古風景の写真が飾られ、氏が手塩にかけた演出を劇団が今も忠実に守っている事をさりげなくアピールしている。とはいえ、カリスマ演出家にして創始者である浅利氏を喪った穴を埋めるのは容易ではないはず。果たして浅利慶太氏の亡きあと、劇団四季はどう変わったのか。

結論から言うと、その心配は杞憂だった。それどころか見事な踊りと歌に心の底から感動した。カーテンコールは8、9回を数え、スタンディングオベーションが起きたほどの出来栄え。私は今まで数十回は舞台を見ているが、カーテンコールが8、9回もおきた公演は初めて体験した気がする。

私はエビータを見るのは初めて。マドンナがエバ・ペロンを演じた映画版も見ていない。私がエバ・ペロンについて持つ知識もWikipediaの同項目には及ばない。だから、本作で描かれた内容が史実に即しているかどうかは分からない。本作のパンフレットで宇佐見耕一氏がアルゼンチンの社会政策の専門家の立場から解説を加えてくださっており、それほど荒唐無稽な内容にはなっていないはずだ。

本作で進行役と狂言回しの役割を担うのはチェ。格好からして明らかにチェ・ゲバラを指している。周知の通り、チェはアルゼンチンの出身でありながらキューバ革命の立役者。その肖像は今もなお革命のアイコンであり続けている。同郷のチェがエバ・ペロンことエビータを語る設定の妙。そこに本作の肝はある。そしてチェの視点から見たエビータは辛辣であり、容赦がない。そんなチェを演じる芝清道さんの演技は圧倒的で、その豊かな声量と歯切れの良いセリフは私の耳に物語の内容と情熱を明快に吹き込んでくれた。

搾取を嫌い、労働者の視点に立った理想を追い求めたチェと、本作でも描かれる労働者への富の還元を実行したエビータ。いつ理想を追い求める点で似通った点があるはず。だが、チェはあくまでもエビータに厳しい。次々に男を取り替えては己の野心を満たそうとする姿。ついにファーストレディに登りつめ、人々に施しを行う姿。どのエビータにもチェは冷笑を投げかける。これはなぜだろうか。

チェが医者としての栄達を投げうちアルゼンチンを出奔したのは、史実では1953年のことだという。エビータがなくなった翌年のこと。ペロンは大統領の任期の途中にあった。チェの若き理想にとって、ペロンやエビータの行った弱者への政策はまだ手ぬるかったのだろうか。または、全ては権力や富を得た者による偽善に過ぎないと疑っていたのだろうか。それとも、権力の側からの施しでは社会は変えられないと思っていたのだろうか。おそらく、チェが残した著作の中にはエビータやペロンの政策に触れたものもあっただろう。だが、私はまだそれを読んだことがない。

本作は、エビータが国民の母として死を嘆かれる場面から始まる。人々の悲嘆の影からチェは現れ、華やかなエビータの名声の裏にある影をあばき立てる。そしてその皮肉に満ちた視点は本作の間、揺るぐことはなかった。本作は、エビータが亡くなったあとも国民からの資金では遺体を収める台座しか造られず、その後、政情が不安定になったことによって、エビータの遺骸が十七年の長きに渡って行方不明だったというチェのセリフで幕を閉じる。徹底した冷たさ。だが、チェの辛辣さの中には、どこかに温かみのようなものを感じたのは私だけだろうか。

本作の幕の引き方には、安易に観客の涙腺を崩壊させ、カタルシスに導かない節度がある。その方が観客は物語のさまざまな意図を考え、それがいつまでも本作の余韻となって残る。

敢えて余韻を残すチェのセリフで幕を下ろした脚本家の意図を探るなら、それはチェがエビータに対する愛惜をどこかで感じていたことの表れではないだろうか。現実の世界でのし上がる野心と、貧しい人々への施しの心。愛とは現実の世界でのし上がるための手段に過ぎないと歌い上げるエビータ。繰り返し愛を捨てたと主張するエビータの心の裏側には、愛を求める心があったのではないか。私生児として蔑まれ、売春婦と嗤われた反骨を現実の栄達に捧げたエビータ。その悲しみを、チェは革命の戦いの中で理解し、軽蔑ではなく同情としてエビータに報いたのではないだろうか。

そのように、本来ならば進行役であるはずのチェに、物語への深い関わりをうがって考えさせるほど、芝さんが演じたチェには圧倒的な存在感があった。本作のチェと同じような進行役と狂言回しを兼ねた役柄として、『エリザベート』のルキーニが思い出される。チェのセリフが不明瞭で物語の意図が観客に届かない場合、観客は物語に入り込めない。まさに本作の肝であり、要でもある。本作の成功はまさに芝さん抜きには語れない。

もちろん、主役であるエビータを演じた谷原志音さんも外すわけにはいかない。その美貌と美声。二つを兼ね備えた姿は主演にふさわしい。昇り調子に光り輝くエビータと、病に伏し、頰のこけたエビータを見事に演じわける演技は見事。歌声には全くの揺れがなく、終始安定していた。大統領選で不安にくれる夫のペロンを鼓舞するシーンでは、高音パートを絶唱する。その場面は、主題歌である「Don’t Cry For Me , Argentina」の美しいメロディよりも私の心に響いた。

そしてペロンを演ずる佐野正幸さんもエビータを支える役として欠かせないアクセントを本作に与えていた。史実のペロンは三度大統領選に勝ち、エバ亡き後も大統領であり続けた人物だ。だが、本作でのペロンは強さと弱さをあわせ持ち、それがかえってエビータの姿を引き立たせている。また、顔の動きが最も起伏に富んでいたことも、ペロンという複雑なキャラクター造形に寄与していたことは間違いない。見事なバイプレイヤーとしての演技だったと思う。

また、そのほかのアンサンブルの方々にも賛辞を贈りたい。一部のスキもない踊りと演技。本作は音楽と演技のタイミングを取らねばならない箇所がいくつもある。そうしたタイミングに寸分の狂いがなく、それが本作にキレと迫力を与えていた。さすがに毎回のオーディションで選ばれた皆様だと感動した。

そうした魅力的な人物たちの活動する舞台の演出も見逃せない。本作のパンフレットにも書かれていたが、生前の浅利慶太氏は、最も完成されたミュージカルとして本作を挙げていたようだ。もとが完成されていたにもかかわらず、浅利氏はさらなる解釈を本作に加え、見事な芸術作品として本作を不朽にした。

自由劇場は名だたる大劇場と比べれば作りは狭い。だが、さまざまな設備を兼ね備えた専用劇場だ。その強みを存分に発揮し、本作の演出は深みを与えている。ゴテゴテと飾りをつけることんあい舞台。円形に区切られた舞台の背後には、自在に動く二つの壁が設けられている。らせん状になった壁には、ブエノスアイレスの街並みを思わせる凹凸のレリーフが刻まれている。

場面に合わせて壁が動くことで、観客は物語の進みをたやすく把握できる。そればかりか、円で周囲を区切ることで舞台の中央に目には見えない三百六十度の視野を与えることに成功している。舞台の中央に三百六十度の視座があることは、舞台上の表現に多様な可能性をもたらしている。例えば、エビータの男性遍歴の激しさを回転する扉から次々に現れる男性によって効果的に表現する場面。例えば、軍部の権力闘争の激しさを椅子取りゲームの要領で表現する場面。それらの場面では物語の進みと背景を俳優の動きだけで表すことができる。三百六十度の視野を観客に想像させることで、舞台の狭さを感じさせない工夫がなされている。

そうした一連の流れは、演出家の腕の見せ所だ。本作の幕あいに一緒に本作を観た長女とも語り合ったが、舞台を演出する仕事とは、観客に音と視覚を届けるだけでなく、時間の流れさえも計算し、観客の想像力を練り上げる作業だ。総合芸術とはよく言ったもので、持てる想像力の全てを駆使し、舞台という小空間に無限の可能性を表出させることができる。今の私にそのような能力はないが、七度生まれ変わったら演出家の仕事はやってみたいと思う。

冒頭にも書いたが、8、9回に至るカーテンコールは私にとって初めて。それは何より俳優陣やスタッフの皆様、そして一年前に逝去された浅利慶太氏にとって何よりの喜びだったことだろう。

理想論だけで演劇を語ることはできない。赤字のままでは興行は続けられない。浅利氏にしても、泥水をすするような思いもしたはずだ。政治家に近づき、政商との悪名を被ってまで劇団の存続に腐心した。宝塚歌劇団にしてもそう。理想だけで劇団運営ができないことは私もわかる。だからこそ、ファンの無償の奉仕によって成り立つ今の運営には危惧を覚えるのだ。生徒さんが外のファンサービスに追われ、舞台に100%の力が注げないとすれば、それこそ本末転倒ではないか。私は今の宝塚歌劇団の運営に不満があるとはいえ、私は宝塚も四季もともに日本の演劇界を率いていってほしいと思う。そのためにも、本作のような演出や俳優陣が完璧な、実力主義の、舞台の上だけが勝負の演劇集団であり続けて欲しい。演劇とは舞台の上だけで観客に十分な感動を与えてくれることを、このエビータは教えてくれた。

私も友人にお借りした浅利慶太氏の演劇論を収めた書をまだ読めていない。これを機会に読み通したいと思う。

最後になりましたが、妻のココデンタルクリニックの七周年記念に参加してくださった皆様、ありがとうございます。

‘2019/07/06 JR東日本アートセンター 自由劇場 開演 13:00~

https://www.shiki.jp/applause/evita/


BLOCKCHAIN REVOLUTION


本書は仲良くしている技術者にお薦めされて購入した。その技術者さんは仮想通貨(暗号通貨)の案件に携わっていて、技術者の観点から本書を推奨してくれたようだ。投資目的ではなく。

ブロックチェーン技術が失敗したこと。それは最初に投機の側面で脚光を浴びすぎたことだろう。ブロックチェーン技術は、データそれ自体に過去の取引の歴史と今の持ち主の情報を暗号化して格納したことが肝だ。さらに、取引の度にランダムに選ばれた周囲の複数のブロックチェーンアカウントが相互に認証するため、取引の承認が特定の個人や組織に依存しないことも画期的だ。それによって堅牢かつトレーサビリティなデータの流れを実現させたことが革命的だ。何が革命的か。それはこの考えを通貨に適用した時、今までの通貨の概念を変えることにある。

例えば私が近所の駄菓子屋で紙幣を出し、アメちゃんを買ったとする。私が支払った紙幣は駄菓子屋のおばちゃんの貯金箱にしまわれる。そのやりとりの記録は私とおばちゃんの記憶以外には残らない。取引の記録が紙幣に記されることもない。当たり前だ。取引の都度、紙幣に双方の情報を記していたら紙幣が真っ黒けになってしまう。そもそも、現金授受の都度、紙幣に取引の情報を書く暇などあるはずがない。仮に書いたとしても筆跡は乱雑になり、後で読み取るのに難儀することだろう。例え無理やり紙幣に履歴を書き込めたとしても、硬貨に書き込むのはさすがに無理だ。

だから今の貨幣をベースとした資本主義は、貨幣の持ち主を管理する考えを排除したまま発展してきた。最初から概念になかったと言い換えてもいい。そして、今までの取引の歴史では持ち主が都度管理されなくても特段の不自由はなかった。それゆえ、その貨幣が今までのどういう持ち主の元を転々としてきたかは誰にもわからず、金の出どころが追求できないことが暗黙の了解となっていた。

ところが、ブロックチェーン技術を使った暗号通貨の場合、持ち主の履歴が全て保存される。それでいて、データ改ざんができない。そんな仕組みになっているため、本体と履歴が確かなデータとして利用できるのだ。そのような仕様を持つブロックチェーン技術は、まさに通貨にふさわしい。

一方で上に書いた通り、ブロックチェーン技術は投機の対象になりやすい。なぜか。ブロック単位の核となるデータに取引ごとの情報を格納するデータをチェーンのように追加するのがブロックチェーン技術の肝。では、取引データが付与される前のまっさらのデータの所有権は、ブロック単位の核となるユニークなデータの組み合わせを最初に生成したものに与えられる。つまり、先行者利益が認められる仕組みなのだ。さらに、既存の貨幣との交換レートを設定したことにより、為替差益のような変動利益を許してしまった。

その堅さと手軽さが受け、幅広く使われるようになって来たブロックチェーン。だが、生成者に所有権が与えられる仕様は、先行者に富が集まる状況を作ってしまった。さらに変動するレートはブロックチェーンに投機の付け入る余地を与えてしまった。また、生成データは上限が決まっているだけで生成される通貨単位を制御する主体がない。各国政府の中央銀行に対応する統制者がいない中、便利さと先行者利益を求める人が押しかける様は、ブロックチェーン=仮想通貨=暗号通貨=投機のイメージを世間に広めた。そして、ブロックチェーン技術それ自体への疑いを世に与えてしまった。それはMt.Goxの破綻や、続出したビットコイン盗難など、ブロックチェーンのデータを管理する側のセキュリティの甘さが露呈したことにより、その風潮に拍車がかかった。私が先に失敗したと書いたのはそういうことだ。

だが、それを差し引いてもブロックチェーン技術には可能性があると思う。投機の暗黒面を排し、先行者利益の不公平さに目をつぶり、ブロックチェーン技術の本質を見据える。すると、そこに表れるのは新しい概念だ。データそれ自体が価値であり、履歴を兼ねるという。

ただし、本書が扱う主なテーマは暗号通貨ではない。むしろ暗号通貨の先だ。ブロックチェーン技術の特性であるデータと履歴の保持。そして相互認証による分散技術。その技術が活用できる可能性はなにも通貨だけにとどまらない。さまざまな取引データに活用できるのだ。私はむしろ、その可能性が知りたい。それは技術者にとって、既存のデータの管理手法を一変させるからだ。その可能性が知りたくて本書を読んだ。

果たしてブロックチェーン技術は、今後の技術者が身につけねばならない素養の一つなのか。それともアーリーアダプターになる必要はないのか。今のインターネットを支えるIPプロトコルのように、技術者が意識しなくてもよい技術になりうるのなら、ブロックチェーンを技術の側面から考えなくてもよいかもしれない。だが、ブロックチェーン技術はデータや端末のあり方を根本的に変える可能性もある。技術者としてはどちらに移ってもよいように概念だけでも押さえておきたい。

本書は分厚い。だが、ブロックチェーン技術の詳細には踏み込んでいない。社会にどうブロックチェーン技術が活用できるかについての考察。それが本書の主な内容だ。

だが、技術の紹介にそれほど紙数を割いていないにもかかわらず、本書のボリュームは厚い。これは何を意味するのか。私は、その理由をアナログな運用が依然としてビジネスの現場を支配しているためだと考えている。アナログな運用とは、パソコンがビジネスの現場を席巻する前の時代の運用を指す。信じられないことに、インターネットがこれほどまでに世界を狭くした今でも、旧態依然とした運用はビジネスの現場にはびこっている。技術の進展が世の中のアナログな運用を変えない原因の一つ。それは、インターネットの技術革新のスピードが、人間の運用整備の速度をはるかに上回ったためだと思う。運用や制度の整備が技術の速度に追いついていないのだ。また、技術の進展はいまだに人間の五感や指先の運動を置き換えるには至っていない。少なくとも人間の脳が認識する動きを瞬時に代替するまでには。

本書が推奨するブロックチェーン技術は、人間の感覚や手足を利用する技術ではない。それどころか、日常の物と同じ感覚で扱える。なぜならば、ブロックチェーン技術はデータで成り立っている。データである以上、記録できる磁気の容量だけ確保すればいい。簡単に扱えるのだ。そして、そこには人間の感覚に関係なくデータが追記されてゆく。取引の履歴も持ち主の情報も。例えば上に挙げた硬貨にブロックチェーン技術を組み込む。つまり授受の際に持ち主がIrDAやBluetoothなどの無線で記録する仕組みを使うのだ。そうすると記録は容易だ。

そうした技術革新が何をもたらすのか、既存のビジネスにどう影響を与えるのか。そこに本書はフォーカスする。同時に、発展したインターネットに何が欠けていたのか。本書は記す。

本書によると、インターネットに欠けていたのは「信頼」の考えだという。信頼がないため、個人のアイデンティティを託す基盤に成り得ていない。それが、これまでのインターネットだった。データを管理するのは企業や政府といった中央集権型の組織が担っていた。そこに統制や支配はあれど、双方向の信頼は醸成されない。ブロックチェーン技術は分散型の技術であり、任意の複数の端末が双方向でランダムに互いの取引トランザクションを承認しあう仕組みだ。だから特定の組織の意向に縛られもしないし、データを握られることもない。それでいて、データ自体には信頼性が担保されている。

分散型の技術であればデータを誰かに握られることなく、自分のデータとして扱える。それは政府を過去の遺物とする考えにもつながる。つまり、世の中の仕組みがガラッと切り替わる可能性を秘めているのだ。
その可能性は、個人と政府の関係を変えるだけにとどまらないはず。既存のビジネスの仕組みを変える可能性がある。まず金融だ。金融業界の仕組みは、紙幣や硬貨といった物理的な貨幣を前提として作り上げられている。それはATMやネットバンキングや電子送金が当たり前になった今も変わらない。そもそも、会計や簿記の考えが物理貨幣をベースに作られている以上、それをベースに発達した金融業界もその影響からは逃れられない。

企業もそう。財務や経理といった企業活動の根幹は物理貨幣をベースに構築されている。契約もそう。信頼のベースを署名や印鑑に置いている限り、データを基礎にしたブロックチェーンの考え方とは相いれない。契約の同一性、信頼性、改定履歴が完全に記録され、改ざんは不可能に。あらゆる経営コストは下がり、マネジメントすら不要となるだろう。人事データも給与支払いデータも全てはデータとして記録される。研修履歴や教育履歴も企業の境目を超えて保存され、活用される。それは雇用のあり方を根本的に変えるに違いない。そして、あらゆる企業活動の変革は、企業自身の境界すら曖昧にする。企業とは何かという概念すら初めから構築が求められる。本書はそのような時期が程なくやってくることを確信をもって予言する。

当然、今とは違う概念のビジネスモデルが世の中の大勢を占めることだろう。シェアリング・エコノミーがようやく世の中に広まりつつある今。だが、さらに多様な経済観念が世に広まっていくはずだ。インターネットは時間と空間の制約を取っ払った。だが、ブロックチェーンは契約にまつわる履歴の確認、人物の確認に費やす手間を取っ払う。

今やIoTは市民権を得た。本書ではBoT(Blockchain of Things)の概念を提示する。モノ自体に通信を持たせるのがIoT(Internet of Things)。その上に価値や履歴を内包する考えがBoTだ。それは暗号通貨にも通ずる考えだ。服や本や貴金属にデータを持たせても良い。本書では剰余電力や水道やガスといったインフラの基盤にまでBoTの可能性を説く。本書が提案する発想の広がりに限界はない。

そうなると、資本主義それ自体のあり方にも新たなパラダイムが投げかけられる。読者は驚いていてはならない。富の偏在や、不公平さといった資本主義の限界をブロックチェーン技術で突破する。その可能性すら絵空事ではなく思えてくる。かつて、共産主義は資本主義の限界を凌駕しようとした。そして壮大に失敗した。ところが資本主義に変わる新たな経済政策をブロックチェーンが実現するかもしれないのだ。

また、行政や司法、市民へのサービスなど行政が担う国の運営のあり方すらも、ブロックチェーン技術は一新する。非効率な事務は一掃され、公務員は激減してゆくはずだ。公務員が減れば税金も減らせる。市民は生活する上での雑事から逃れ、余暇に時間を費やせる。人類から労働は軽減され、可能性はさらに広がる。

そして余暇や文化のあり方もブロックチェーン技術は変えてゆくことだろう。その一つは本書が提案する音楽流通のあり方だ。もはや、既存の音楽ビジネスは旧弊になっている。レコードやCDなどのメディア流通が大きな割合を占めていた音楽業界は、今やデータによるダウンロードやストリーミングに取って代わられている。そこにレコード会社やCDショップ、著作権管理団体の付け入る隙はない。出版業界でも出版社や取次、書店が存続の危機を迎えていることは周知の通り。今やクリエイターと消費者は直結する時代なのだ。文化の創造者は権利で保護され、透明で公正なデータによって生活が保証される。その流れはブロックチェーンがさらに拍車をかけるはず。

続いて著者は、ブロックチェーン技術の短所も述べる。ブロックチェーンは必ずしも良いことずくめではない。まだまだ理想の未来の前途には、高い壁がふさいでいる。著者は10の課題を挙げ、詳細に論じている。
課題1、未成熟な技術
課題2、エネルギーの過剰な消費
課題3、政府による規制や妨害
課題4、既存の業界からの圧力
課題5、持続的なインセンティブの必要性
課題6、ブロックチェーンが人間の雇用を奪う
課題7、自由な分散型プロトコルをどう制御するか
課題8、自律エージェントが人類を征服する
課題9、監視社会の可能性
課題10、犯罪や反社会的行為への利用
ここで提示された懸念は全くその通り。これから技術者や識者、人類が解決して行かねばならない。そして、ここで挙げられた課題の多くはインターネットの黎明期にも挙がったものだ。今も人工知能をめぐる議論の中で提示されている。私は人工知能の脅威について恐れを抱いている。いくらブロックチェーンが人類の制度を劇的に変えようとも、それを運用する主体が人間から人工知能に成り代わられたら意味がない。

著者はそうならないために、適切なガバナンスの必要を訴える。ガバナンスを利かせる主体をある企業や政府や機関が担うのではなく、適切に分散された組織が連合で担うのがふさわしい、と著者は言う。ブロックチェーンが自由なプロトコルであり、可能性を秘めた技術であるといっても、無法状態に放置するのがふさわしいとは思わない。だが、その合意の形成にはかなりかかるはず。人類の英知が旧来のような組織でお茶を濁してしまうのか、それとも全く斬新で機能的な組織体を生み出せるのか。人類が地球の支配者でなくなっている未来もあり得るのだから。

いずれも私が生きている間に目にできるかどうかはわからない。だが、一つだけ言えるのは、ブロックチェーンも人工知能と同じく人類の叡智が生み出したことだ。その可能性にふたをしてはならない。もう、引き返すことはできないほど文明は進歩してしまったのだから。もう、今の現状に安穏としている場合ではない。うかうかしているといつの間にか経済のあり方は一新されていることもありうる。その時、旧い考えに凝り固まったまま、老残の身をさらすことだけは避けたい。そのためにもブロックチェーン技術を投機という括りで片付け、目をそらす愚に陥ってはならない。それだけは確かだと思う。

著者によるあとがきには、かなりの数の取材協力者のリスト、そして膨大な参考文献が並んでいる。WIRED日本版の若林編集長による自作自演の解説とあわせると、すでに世の趨勢はブロックチェーンを決して軽んじてはならない時点にあるがわかる。必読だ。

‘2018/03/09-2018/03/25


夜になるまえに―ある亡命者の回想


私が本ブログでアップした『夜明け前のセレスティーノ』は、奇をてらった文章表現が頻出する小説だった。その表現は自由かつ奔放で、主人公とセレスティーノの間に漂う同性愛の気配も印象に残る一冊だった。(レビュー

本書は『夜明け前のセレスティーノ』の著者の自伝だ。本書の冒頭は「初めに/終わりに」が収められている。ともに著者自身による遺書のようなものだ。ニューヨークで本書を著した一九九〇年八月の時点の。著者はエイズに感染したことで自ら死を選んだ。自ら世を去るにあたり、著者が生涯を振り返ったのが本書だ。エイズが猖獗を極めるさなかでもあり、著者の心には諦観が漂う。エイズに罹ったことについても。著者の筆致は平らかだ。ただし、著者が生涯を通じて抱き続けた疎外感と怒りは消えない。「どんな体制であれその体制における権力者たちはエイズに大いに感謝しなくてはならない。なぜなら、生きるためにしか呼吸しない、だからこそ、あらゆる教条や政治的偽善に反対する疎外された住民の大部分はこの災いで姿を消すことになるのだから」(16-17P)

そして著者の自殺をもって本書は幕を閉じる。まだ著者がキューバから亡命する前から書き始められていたという本書は、著者の生きざまそのものであった。「初めに/終わりに」の筆をおいた時点で著者は速やかにに死へと向かう。「初めに/終わりに」で著者は自らの文学的業績についても振り返っている。五部作と位置付けた作品群が完結できぬまま、死ぬ自分を歎き、カストロ政権を民衆が倒してくれることを祈りつつ。

「仕事を仕上げるのにあと三年生きていないといけないんだ。ほぼ全人類に対するぼくの復讐となる作品を終えるのに」(17P)。五部作は完結に至らなかったが、本書が著者による人類への復讐であることは明らかだ。その刃はホモ・セクシャルを決して許容しなかった人類に対して向けられている。

本書はホモの営みを赤裸々に描いている。先に、『夜明け前のセレスティーノ』には同性愛の気配が漂うと書いた。本書は漂うどころではない。全編にモウモウと満ちている。著者がホモ・セクシャルへと目覚めた瞬間から、ホモのセックス事情に至るまで。その内容は本稿に引用するのもはばかられるほどだ。その発展家の様子はすさまじいの一言につきる。なにせ初体験が8歳だというのだから。そして「エロティシズム」と題された144p~169pまでの章。ここでは出会いと交渉、そして性行為に至るまで、ありとあらゆるホモの性愛のシチュエーションが描かれる。

著者が育ったのはカストロ政権下のキューバ。共産主義と言えば統制経済なので、国民に対して建前を強いる傾向にある。そして建前の国にあって同性愛などあってはならないことなのだ。だが、本書で書かれるキューバ革命前後までのホモの性愛事情はあけすけだ。それこそ何千人斬りという人数もウソではないと思えるほどに。「六〇年代ほどキューバでセックスが盛んだった時代はないと思う。」(157P)。と「エロティシズム」の章で振り返っている。そして返す刀で著者は何がキューバをそうさせたのかについても冷静に分析する。「何がキューバの性的抑圧を押し進めたのかといえば、まさしく性解放運動だったのじゃないだろうか。たぶん体制に対する抗議として、同性愛はしだいに大胆に広がっていったのだろう。一方、独裁は悪と考えられていたので、独裁が糾弾するものはどんなものであれば肯定的なものであると、体制に従わない人たちはみなしていた。六〇年代にはすでに大半の人がそんな姿勢だった。率直に言って、同性愛者用の強制収容所や、その気があるかのように装ってホモを見つけ逮捕する若い警官たちは、結果として、同性愛を活発化したにすぎないと思う」(159P)という辛辣な分析まで出てくる。

著者とて、キューバ革命が進行する時点では反カストロだったわけではない。キューバ革命の成功がすなわち、著者をはじめとしたホモ・セクシャルの迫害に直結ではないからだ。そもそも著者はキューバ革命においてカストロ軍の反乱軍と行動をともにしていた。むしろ、腐敗したバティスタ政権を倒そうとする意志においてカストロに協調していたともいえる。著者がキューバ政府ににらまれた原因は著者の作品、たとえば『夜明け前のセレスティーノ』が海外で出版されたことによる。それが評判になったことと、その内容が反政府だと曲解されたことで当局ににらまれる。だからもともとはホモ・セクシャルが原因ではなかったようだ。が、キューバが対外的に孤立を深め、統制を強め、建前を強化する中で、ホモ・セクシャルが迫害の対象になったというのが実情のようだ。そして、著者の周辺には迫害の気配がじわじわと濃厚になる。

カストロ政権はもともと共産主義を国是にしていていなかった。革命によって倒したバティスタ政権が親米だった流れで、反米から反資本主義、そして共産主義に変容していったと聞く。つまり後付けの共産主義だ。キューバが孤立を深めていくに従い、後付けされた建前が幅を利かせるようになったのだろう。

なので、本書の描写が剣呑な雰囲気を帯びるのは、1967年以降のこととなる。そこからはホモ・セクシャル同士の出会いは人目を忍んで行われるようになる。大っぴらで開放的なセックスは描かれなくなる。ところが、海外で出版した著者の作品が著者の首を絞める。小説が当局ににらまれたため、人目を忍んで原稿を書き、書いた原稿の隠し場所に苦労する。『ふたたび、海』の原稿は二度ほど紛失や処分の憂き目にあい、三度、書き直す羽目になったとか。投獄された屈辱の経験が描かれ、アメリカに亡命しようとグアンタナモ海軍基地に潜入しようとするあがきが描かれる。キューバから脱出しようとする著者の必死の努力は報われないまま10数年が過ぎてゆく。

本書の描写には正直言うと切迫感が感じられない。なので著者がグアンタナモ基地周辺で銃撃された恐怖感、原稿の隠し場所を探しまわる危機感、亡命への努力をする切迫感が、どこまでスリリングだったかは伝わってこないのだ。それは多分、私がキューバを知らないからだと思う。そのかわり、著者が独房で絶望に打ちひしがれる描写からは悲壮な気配がひしひしと伝わってくる。中でも著者がキューバ国家保安局のビジャ・マリスタで強いられた告白のくだりは悲惨だ。著者は「ビジャ・マリスタ」の章の末尾を以下のような文章で締めくくる。
「いまや、ひとり悲惨な状況にあった。誰もその独房にいるぼくの不幸を見ることができなかった。最悪なのは、自分自身を裏切り、ほとんどみんなから裏切られたあと、それでもなお生きつづけていることだった」(278P)

著者の悲惨さより一層、本書の底に流れているテーマ。それは、権力や体制に楯突くことの難しさだ。権力にすりよる文化人やスパイと化した友人たちのいかに多いことか。生涯で著者はいったい何人の友人に裏切られたことだろうか。何人の人々が権力側に取り込まれていったのか。著者の何人もの友人が密告者となり果てたことを、著者はあきらめにも似た絶望として何度もつづる。

本書で著者が攻撃するのは、裏切者だけではない。そこには文化人も含まれる。ラテンアメリカ文学史を語る上で欠かせないアレホ・カルペンティエールとカストロの友人として知られるガブリエル・ガルシア=マルケスに対する著者の舌鋒は鋭い。日本に住む私からみると、両名はラテンアメリカ文学の巨人として二人は崇めるべき存在だ。それだけに、キューバから亡命した著者の視点は新鮮だ。あのフリオ・コルタサルですら、著者の手にかかればカストロのダミー(359P)にまで堕とされているのだから。著者はラテンアメリカ文学の巨匠としてボルヘスを崇めている。そして、ボルヘスがとうとうノーベル文学賞の栄誉を得られなかったのに、ガルシア=マルケスが受賞したことを著者は嘆く。
「ボルヘスは今世紀の最も重要なラテンアメリカ作家の一人である。たぶんいちばん重要な作家である。だが、ノーベル賞はフォークナーの模倣、カストロの個人的な友人、生まれながらの日和見主義者であるガブリエル・ガルシア=マルケスに与えられた。その作品はいくつか美点がないわけではないが、安物の人民主義が浸透しており、忘却の内に死んだり軽視されたりしてきた偉大な作家たちの高みには達していない」(389-390P)

著者が亡命に成功したいきさつも、本書にはつぶさに描かれている。それによると、キューバ国民によるデモの高まりに危機感を覚えたカストロは、国から反分子を追放することで自体を収拾しようとする。著者は自らをホモと宣言することによって、堂々と反分子として出国した。そこにスリリングな密航はない。キューバからみれば著者は反分子であり、敗残者であり、追放者なのだ。著者は平穏な中に出国する。ただ、その代償として、著者は自らの意に反した告白文を書かされ、そればかりか、名誉ある出国すら許されなかったが。

そうした亡命を余儀なくされた著者の魂がニューヨークで落ち着けるはずがない。ニューヨークを著者は「何年かこの国で暮らしてみて、ここは魂のない国であることが分かった。すべてが金次第なのだから。」(401P)

著者が友人たちに残した手紙。その内容が公表されることを望んで著者は本当に筆をおく。「キューバは自由になる。ぼくはもう自由だ。」(413P)

「全人類に対するぼくの復讐」(17P)を望まねばならないほど絶望の淵に立つ著者が自由になるには、もはや死という選択しか残されていなかったのだろう。

ホモというマイノリティに生まれついてしまった著者。著者が現代のLGBTへの理解が進みつつある状況はどう思うのだろう。おそらく、まだ物足りない思いに駆られるのではないか。そもそも著者の間接的な死因であるエイズ自体への危機感がうせている昨今だ。私にとって、エイズとはクイーンのフレディ・マーキュリーの死にしか直結していない。フレディー・マーキュリーがエイズに感染している事を告白し、その翌日に亡くなったニュースは、当時の私に衝撃を与えた。フレディ・マーキュリーの死は著者側亡くなった11カ月後だ。

私が性欲を向ける対象は女性であり、著者のようなホモ・セクシャルの性愛は、正直言って頭でも理解できていない。それは認めねばならない。偏見は抱いていないつもりだが、ホモ・セクシャルの方への共感にすらたどり着けていないのだ。著者が本書で書きたかったことは、偏見からの自由のはずだ。だが、私にとってそこへつながる道は遥か彼方まで続いており、ゴールは見えない。

著者が自由になると願ったキューバは、著者がなくなって四半世紀が過ぎた今もまだ開かれた状況への中途にある。それはカストロの死去やオバマ米大統領による対キューバ敵視政策の見直しを含めてもなお。

そのためにも、本書は読み継がれなければ、と思わせる。そして、赤裸々なホモ・セクシュアルの性愛が描かれている本書は、LGBTの言葉が広まりつつある今だからこそ読まれるべきなのだろう。

‘2018/01/01-2018/01/09


ひかりふる路~革命家、マクシミリアン・ロベスピエール/SUPER VOYAGER!


事前に本作を観ていた妻子から言われていたこと。それは「ロベピッピはパパも気に入ると思うよ」だった。なぜ本作をロベピッピと呼ぶのかはさておき、パパ向きの作品と太鼓判を押されていた本作。確かにおっしゃる通り見応えある作品だった。

本作の何がよかったか。それは、フランス革命にそれほど明るくない私に革命の流れを思い出させてくれたことだ。実のところ、本作を観るまで私がフランス革命について知っていた知識とは高校の世界史でならう程度。歴史は得意だったので、大まかな流れは覚えていたとはいえ、寄る年波がだんだん私の記憶を薄れさせていた。だが、年のせいにしていつまでも若いころの知識を更新しないのはさすがにまずい。なんといっても宝塚歌劇団とフランス革命は切っても切れない関係なのだから。ヅカファンの妻子とこれから仲良くやっていく以上、私もフランス革命の知識くらい持っておかないと。それぐらいは夫として父としての責務ではないか?

そもそも私は宝塚歌劇団の歴史を語る上で欠かせない『ベルサイユのバラ』を観劇していない。原作も読んだことがない。『ベルサイユのバラ』はフランス革命を真っ正面から扱っていたはず。なのにそれを見ていない。これはまずいかも。『ベルサイユのバラ』だけではない。私には舞台、小説、映画のどれかでフランス革命を真っ正面から扱った作品に触れた経験がないのだ。たとえば、私がおととし観た『スカーレット・ピンパーネル』やかつて読んだディケンズの『二都物語』。これらも側面からしかフランス革命を描いていない。また、かつてテレビで放映されていた『ラ・セーヌの星』も内容をろくに覚えていない始末。つまり私はフランス革命の最も熱い時期を扱った作品を知らない。目まぐるしく変わる情勢に人々が翻弄された時期こそフランス革命の肝だというのに。そう、本作こそは、私にとって「はじめてのフランス革命」となったのだ。

もう一つ、本作が私を引きつけた要素がある。それは、革命家の挫折をテーマとしていることだ。本作の主人公は、タイトルにもあるとおり、マクシミリアン・ロベスピエール。私の高校生と同じレベルの知識でもフランス革命の立役者として記憶に刻まれている人物だ。本作のパンフレットで作・演出の生田大和氏が語っている。「彼の人生を想う時、ごくシンプルな疑問として「理想に燃える青年」がなぜ「恐怖政治の独裁者」に堕していったのか」。このテーマは、理想主義にはまりかけた青年期を経験した私にとって身に覚えのあるものだ。

私のような凡人を例に出すまでもなく、歴史とは革命家の挫折の積み重ねだ。旧体制を打倒することに全精力を使い果たし、そのあとの国の仕組み構築に失敗する人物のいかに多かったことか。古くは項羽。彼は秦を倒したのち、ライバルの劉邦を戦いでこそ圧倒したが、人望に秀で内政に長けた劉邦に敗れた。ロシア革命は確かにロマノフ王朝を打倒した。が、レーニン亡き後、スターリンによる大粛清の時代が待ち受けている。中国共産党もそう。国共内戦の結果、国民党を台湾に追いやったはよいが、大躍進政策の失敗で幾千万人もの餓死者をだし、文化大革命では国内の文化を破壊せずにはいられなかった。キューバ革命も、革命のアイコンであるチェ・ゲバラが革命後どういう生涯を送ったか。彼は革命当初はカストロの右腕として内政を担当した。それはまさに孤軍奮闘が相応しい活躍だった。革命の理想に現実を近づける事業に疲弊した彼は、キューバを出奔してしまう。内政を諦めたゲバラはコンゴやボリビアでの革命闘争に自らの天命を捧げることになる。我が国でも同様の例はある。日本赤軍があさま山荘事件で破滅するまでの間、凄惨なリンチと自己批判の末に内部崩壊したことは記憶に新しい。革命後に国を運営することに成功したまれな例である我が国の明治維新ですら、維新後十年もたたずに内乱と暗殺によって維新の三傑のうち二人を失っているのだ。

乱世の梟雄でありながら、治世の能臣たり得ること。それが困難なことは上に挙げたように今までの歴史でも明らかだ。ロベスピエールもその困難を克服できなかった。彼は体制のクラッシャーとしては名をはせた。しかし、体制のクリエイターとしては失格の烙印を押されている。

そもそも、革命を軌道に乗せるためには、革命を支持した者への利害の調整が求められる。ただ旧体制の打倒とスローガンを掲げておけばよかった革命期とちがうのはそこだ。革命そのものよりも、革命後の治世こそ格段に難しい。そして、革命に掲げた自らの理想が高ければ高いほど、革命後の利害の調整にがんじがらめになってしまう。その結果、ロベスピエールが採ったような極端な恐怖政治の路線に舵を切ってしまうのだ。追い込まれれば追い込まれるほど、自分の理想こそが唯一無二であると殻をまとってしまう。そして視野は絶望的に狭くなる。本作はそのような状態に陥ってゆく人物の典型が描かれる。徐々に追い詰められ、自らの理想で首が絞まってゆくロベスピエールを通じて。

彼の抱く理想は、決して荒唐無稽なものではなかった。例えば、
 ロベスピエール「人にはそれぞれの心がある。そして心で憎み合い、争い、奪いあう。その連鎖を止める手立てを探している。その理を見つける事ができるなら、私は私の命を差し出しても惜しくない」
 マリー=アンヌ「それがあなたの理想なの?」
  ロベスピエール「いや、願いだ。願いは未来だ。理想は思い出と共にある」
第7場のこのやりとりで、ロベスピエールは自らの理想が過去にあることを図らずも吐露している。過去にあったことは、実現できた経験に等しい。「未来へ~」と合唱するマリー=アンヌとロベスピエールの願いは美しく響く。それはロベスピエールの理想が過去に実現されたもの、すなわち未来にかなうはずの願いだからこそ美しいのだ。

しかし、彼の理想は現実の前に色あせてゆく。第10場で盟友だったはずのダントンから投げられる言葉がそれを象徴している。
 ダントン「これだけは覚えておけ、俺たちは理想のために革命を始めた。だが、政治ってやつは俺たちが思っている以上に現実なんだ。現実の前では理想なんて無力なもんだ」
 ロベスピエール「無力だと」
このセリフなどは、先にも紹介した歴史上の革命家がたどった挫折そのままだ。

第13場Bの場面では、ダントンが最後にロベスピエールを説得しようとして、ロベスピエールの理想主義者としての致命的な弱点を暴く。
 ダントン「わかってないのはお前の方だ。理想だ、徳だと口では言うが、おまえが与えているのは血と生首と恐怖だ」
 ロベスピエール「今はそう見えるかもしれない。だが、革命が達成されればいずれ」
 ダントン「いいや、そんな日は来ない」
 ロベスピエール「なぜ、そう言いきれる」
 ダントン「おまえが喜びを知らないからだよ。どういうわけか、お前は喜びを遠ざける」
結局、人は理想よりも、目の前の美食や美酒、美女に目移りする生き物なのだ。清廉であろうとすればするほど、潔白であろうとすればするほど、それを人に強要した時に思い通りに動いてくれない他人と自分の思惑にずれが生じてゆく。上のダントンとの会話などまさにその事実を証明している。

なお、今回はこれらのセリフを本レビューで再現すべきだと思ったので、妻にお願いしてLe CINQという劇の詳しいパンフレットを買ってもらった。その中には全セリフが収められており、上記もそこから引用させてもらっている。

本作の何がよいかといえば、場面転換のメリハリだ。本作はセットとライトアップがうまく組み合わされており、場面が転換する瞬間と、前後の場面の主役が誰なのかを観客に明確に伝えることに成功している。今まで見た観劇よりも本作で場面転換の鮮やかさが印象に残った理由は何か。私が思うにそれは、本作のいたるところに描かれていたギロチンをかたどった斜めの線だと思う。開幕前に上がった緞帳の裏には、幕に銀色の筋が右上へと伸びていた。20度ほどの角度で右上に伸びる線がギロチンをかたどっていることはすぐにわかった。そしてこの線は建物のひさし、橋に映る影など、本作を通して舞台のあちこちで存在感を主張する。中でも印象に残るのは、上に紹介したロベスピエールとマリー=アンヌが語らうシーンだ。このシーンで二人が語らう橋に映る影として。それはロベスピエールの目指す革命がギロチンによって断ち切られることを予期しているのと同時に、二人の目指す未来が右肩上がりの線上にあることも示しているのだと思う。つまり、彼の目指す革命とは、この時点では実現が見込めており、二人の未来と表裏一体だったのだ。本作では場面ごとの主人公の心理が斜めによぎる線の色や輝きで表現されている。そのため、場面ごとに何に感情を移入すればよいのか、観客には絶妙なガイドになっているのだ。私はそう受け取った。私が本作の場面転換のメリハリが効いていたと思うのは、そういうところにある。

あと、本作で良かったのは声の通りだ。私が座ったのは1階22列。結構後ろのほうだ。それなのに出演者が発するセリフも、そして何十人もの合唱の言葉も比較的聞き取れた。実は私はあまり耳の聞こえが良くない。今までも観劇をしていて聞き取りにくいことなどしょっちゅうだった。が、本作のセリフはよく聞き取れた。これはとても珍しくそしてうれしい。上でLe Cinqからセリフを引用したのも、本作のセリフがよく聞き取れるがゆえにかえって覚えきれなかったことが理由だ。トップの二人の歌声も素晴らしく、それに加えてセリフもよく聞こえる本作は、私にとって気持ちのよい一作となった。

なお、トップ娘役の真彩希帆さんの演ずるマリー=アンヌは、作・演出の生田大和氏がパンフレットで語った言葉によると本作において唯一の架空の人物のようだ。何の不自由もない貴族の暮らしが革命の勃発によって婚約者ともども奪われ、その復讐のために革命の立役者として著名なロベスピエールを狙って近づくうちに恋に落ちるという設定だ。まさに絶妙な設定であり配役だと思う。上に挙げたシーンでは、ロベスピエールの望む理想の暮らしが、マリー=アンヌの失った日々にシンクロするという演出が施され、彼らの掲げる理想が実現する可能性が説得力をもって観客に迫ってきた。

本作は二幕物が好きな私にとって、一幕でも尺の短さが気にならないほど、起承転結がしっかりとまとまった作品として記憶に残ると思う。

さて、レビューである。私がこのところ宝塚を観劇する上で心がけていること。それはレビューの魅力に開眼することである。凄惨な処刑のシーンや悩み苦しむ主人公を見るだけでは観客のカタルシスが得られない。それは私もわかっているつもりだ。だからこそ一幕物の後にはレビューが配され、華麗なラインダンスや目まぐるしく切り替わるきらびやかなシーンで観客の目を奪わねばならない。それも理解しているつもりだ。

正直なところ、まだ舞台に物語性を求める私にとって「SUPER VOYAGER!」と名付けられた本作の魅力がつかみ取れたとは言えない。だが、私は本作を観る前から肝に銘じていたことがある。すなわちレビューに物語性を追うのが徒労だということだ。そういう物語性を排した視点から見ると、本作は二カ所が記憶に残った。一つ目はシーン17,18で披露された白燕尾の群舞のシーンだ。大階段を上り下りしながら、斜めに交差する動き。実に見事だったと思う。あと一つ印象に残ったこと。それはオーケストラボックスの演奏だ。本作で惹かれたのはここだ。リズム隊やギターなど、オーケストラボックスから流れる演奏にビートと切れがみなぎっていた。

私は演奏する姿を見るのが好きだ。ロックコンサートでもついついドラマーの一挙手一投足に目が行ってしまうくらいに。そんな私なので、キレっキレの本作の演奏が流れてくるオーケストラボックスの中をついのぞいてみたくなった。そしてオーケストラボックスの中の人々を表に出せないのだろうか、と妄想をたくましくしてしまった。もちろんオーケストラが表に出れば、舞台のジェンヌさんは隠れてしまう。それはほとんどの観客にとって不本意なことに違いない。多分、圧倒的多数の方に反対されるだろう。でも、オーケストラボックスを底上げするなどして、オーケストラの皆さんを表に出す演出もあってもいいではないか。一度くらい、舞台の華麗な群舞と歌、そして楽器を奏でる皆さんが一堂に集まる様を眺めてみたいと思うのだが。どうだろうか?

‘2018/02/01 東京宝塚劇場 開演 13:30~

https://kageki.hankyu.co.jp/revue/2017/hikarifurumichi/index.html


澄みわたる大地


魔術的リアリズムの定義を語れ、と問われて、いったい何人が答えられるだろう。ほとんどの方には無理難題に違いない。ラテンアメリカ文学に惹かれ、数十冊は読んできだ私にも同じこと。魔術的リアリズムという言葉は当ブログでも幾度か使ってきたが、しょせんは知ったかぶりにすぎない。だが、寺尾氏による『魔術的リアリズム』は、その定義を明らかにした好著であった。

その中で寺尾氏は、魔術的リアリズムに親しい小説や評論をかなり紹介してくださっている。その中には私の知らない、そもそも和訳がまだで読むことすらままならない作品がいくつも含まれていた。

著者略歴には寺尾氏が訳したラテンアメリカの作家の著作も数冊載っている。それによって知ったのは、寺尾氏が、理論だけでなく実践「翻訳」もする方であること。私は寺尾氏がまだ知らぬラテンアメリカ文学を翻訳してくれることを願う。

そんなところに、本書を見掛けた。著者はラテンアメリカ文学を語る上で必ず名の挙がる作家だ。だが、上述の寺尾氏の著作の中では、著者の作品はあまり取り上げられていない。作風が魔術的リアリズムとは少し違うため、寺尾氏の論旨には必要なかったのだろう。だが、著者の名は幾度も登場する。メキシコの文学シーンを庇護し、魔術的リアリズムを世界的なムーブメントへと育てるのに大きな役割を果たした立役者として。その様な著者の作品を訳したのが寺尾氏であれば、読むしかない。

本書はセルバンテス文化センター鯵書の一冊に連なっている。セルバンテス文化センターとは、麹町にあってスペイン語圏の文化を発信している。私も二度ほど訪れたことがある。セルバンテス文化センターでは、スペイン本国だけでなくスペイン語圏を包括している。つまり、本書のようなメキシコを舞台とした文学も網羅するわけだ。

そういったバックがあるからかは知らないが、本書の内容には気合いが入っている。小説の内容はもちろんだが、内容を補足するための資料が充実しているのだ。

脇役に至るまで登場するあらゆる人物の一覧。メキシコシティの地図。本書に登場したり、名前が言及されるあらゆる人物の略歴。さらには年表。この年表もすごい。本書の舞台である1950年代初頭までさかのぼったメキシコの近代史だけでなく、そこには本書の登場人物たちの人物史も載っている。

なぜここまで丁寧な付録があるかというと、本書を理解するためには少々の知識を必要とするからだ。革命をへて都市化されつつあるメキシコ。農地を手広く経営する土地持ちが没落する一方で、資本家が勃興してマネーゲームに狂奔するメキシコ。そのようなメキシコの昔と今、地方と都市が本書の中で目まぐるしく交錯する。なので、本書を真に理解しようと思えば、付録は欠かせない。もっとも、私は付録をあまり参照しなかった。それは私がメキシコ史を知悉していたから、ではもちろんない。一回目はまず筋を読むことに専念したからだ。なので登場人物達の会話に登場する土地や人物について、理解せぬままに読み進めたことを告白する。

筋書きそのものも、はじめは取っ付きにくい思いように思える。私も物語世界になかなか入り込めないもどかしさを感じながら読み進めた。それは、訳者の訳がまずいからではない。そもそも原書自体がやさしく書かれているわけではないから。

冒頭のイスカ・シエンフエゴスによる、メキシコを総括するかのような壮大な独白から場面は一転、どこかのサロンに集う人々の様子が書かれる。紹介もそこそこに大勢の人物が現れては人となりや地位を仄めかすようなせりふを吐いて去ってゆく。読者はいきなり大勢の登場人物に向き合わされることになる。やわな読者であればここで本書を放り投げてしまいそうだ。本書に付されている付録は、ここで役に立つはずだ。

前半のこのシーンで読者の多くをふるいにかけたあと、著者はそれぞれの登場人物を個別に語り始める。それぞれの個人史は、すなわちメキシコの各地の歴史が語られることに等しい。メキシコの地理や歴史を知らない読者は、物語に置いていかれそうになる。またまた付録と本編を行きつ戻りつするのが望ましい。

実のところ、中盤までの本書は導入部だ。読者にとっては退屈さとの戦いになるかもしれない。

しかし中盤以降、本書はがぜん魅力を放ち始める。本書は、文章の表現や比喩の一つ一つが意表をついた技巧で飾られている。それは、著者と訳者による共作の芸術とさえ言える。前半にも技巧が凝らされた文章でつづられているのだが、いかんせん世界に入り込めない以上は、飾りがかえって邪魔になるだけだ。だが、一度本書の世界観に入り込むことに成功すると、それらの文章が生き生きとし始めるのだ。

文章が輝きを放つにつれ、本書内での登場人物達の立ち位置もあらわになって行く。ここに至ってようやく冒頭のサロンで人々が交わす言葉の意味が明らかになっていく。本書はそのような趣向からなっている。

登場人物たちが迎える運命の流れは、読者にページをめくる手を速めさせる。本書を読み進めていくうちに読者は理解するはずだ。本書がメキシコを時間の流れから書き出そうとする壮大な試みであることに。

革命とその後に続く試行錯誤の日々に翻弄される人々。その変わりゆく営みのあり方はさまざまだ。成り上がり階級の人々が謳歌していた栄華は、恥辱に塗れ、廃虚となる。没落地主の雌伏の日々は、名声の中に迎えられる。人々の境遇や立場は、時代の渦にはもろい。本書の中でもそれらは不安定に乱れ舞う。吉事に一喜し、凶事に一憂する人々。著者のレトリックはそんな様子を余すところなく自在に書いてゆく。閃きが縦横に走り、メキシコの混乱した世相が映像的に描き尽くされる。

だが、それらの描写はあくまでも比喩として多彩なのだ。非現実的な出来事は本書には起こらない。つまり、本書は魔術的リアリズムの系譜に連なる作品ではないのだ。それでいて、本書の構成、描写など、間違いなくラテンアメリカ文学の代表として堂々たるものだと思う。おそらくは、寺尾氏もそれを考えて『魔術的リアリズム』に本書を取り上げなかったと思われる。だが、魔術的リアリズムを抜きにしても、本書はラテンアメリカ文学史に残るべき一冊だ。寺尾氏も我が意を得たりと、本書の翻訳を引き受けたのだと思う。

‘2016/07/17-2016/08/05


THE SCARLET PIMPERNEL


タカラヅカのスターシステムはショービジネス界でも特徴的だと思う。トップの男役と娘役を頂点に序列が明確に定められている。聞くところによると、羽の数や衣装の格やスポットライトの色合いや光度まで差別されているとか。

トップの権限がどこまで劇団内に影響を及ぼし得るのか。それは私のような素人にはわからない。だが想像するに、かなり強いのではないか。それは演出家の意向を超えるほどに。本作を観て、そのように思った。

今回観たスカーレット・ピンパーネルは、星組の紅ゆずるさんと綺咲愛里さんがトップに就任して最初の本格的な公演だ。ほぼお披露目公演といってもよい。鮮やかな色を芸名に持つ紅さんだけに、スカーレットの緋色がお披露目公演に選ばれたのは喜ばしい。

紅さんを祝福するように舞台演出も色鮮やかだ。革命期のフランスを描いた本作では、随所で革命のトリコロール、今のフランス国旗でも知られる自由平等博愛のシンボルカラーが舞台を彩る。青白赤が舞台を染め、スカーレット・ピンパーネル、つまり紅はこべの緋色がアクセントとして目を惹く。イギリス貴族達のパーティーでは、フランスからの使節ショーヴランの目を眩ませるため、あえて下品とも言えるド派手な色合いの衣装に身を包む貴族達。ここで下品さを際立たせる事で、他の場面の色合いに洗練された印象を与える。つまり、舞台の演出効果として色使いだけで下品さと上品さを表現しているのだ。

この演出は、本作の主役のあり方を象徴している。イギリスの上流階級に属する貴族パーシーと、フランス革命に暗躍しては重要人物をフランスから亡命させるスカーレット・ピンパーネル、そして大胆にもフランス革命政府内部でベルギーからの顧問として助言するグラパン。これらは同一人物の設定だ。実際、これら三役を演ずるのは紅さん一人。この三役の演じ分けが本作の見所でもある。

ただし、演出と潤色を担当した小池氏の指示が及ぶのはここまでだろう。ここから先の演出はトップの紅さん自らが解釈し、自らの持ち味で演じたように思う。本作は、演出家の意図を超え、トップ自らが持ち味を演出し、表現したことに特徴がある。

トップのお披露目とは、トップのカラーを打ち出すことにある。殻にハマった優等生の演技は不要だ。とはいえ、本作での紅さんの演技はいささかサービス過剰といっても良いほどにコメディ色が奔放に出ていたように思う。紅さんは、タカラヅカ随一のコメディエンヌ(いや、この場合コメディアンと言うべきか?)として知られる。紅さんのシリアスな演技とは一線を画したコメディエンヌの演技は、本作に独特の味を付けている。そして、この点は本作を観る上で好き嫌いの分かれる部分ではないか。

紅さんがおちゃらけた演技を見せる際、どうしても声色が高くなってしまう。地声も少し高めの紅さんの声がさらに高くなると言うことは、女性の声に近くなる。知っての通り、ヅカファンの皆様は男役の皆さんが発する鍛え抜いた低音に魅力を感じている。それは、トップであればあるほど一層求められる素養のはず。男役トップのお披露目公演で、男役トップから女性らしさが感じられるのはいかがなものか。第一幕で感じたその違和感は、男役にのぼせることのない私でさえ、相当な痛々しさを感じたほどだ。幕あいに一緒に観た妻に「批判的な内容書いていい?」確認したぐらいに。私でさえそう感じたのだから、タカラヅカにある種の様式美を求める方にとっては、その感情はより強いものだったと思う。

だが、第二幕を観終えた私は、当初の否定的な想いとは別の感想を持った。

私がそう思ったのは、紅さんのバックボーンに多少触れたことがあるからかもしれない。まだ娘達がタカラヅカの世界に触れ始めた数年前、父娘3人で通天閣を訪れたことがある。紅さんの出身地に行きたいとの娘たちの希望で。当時、二番手男役として頭角を現していた紅さんは、紅ファイブなるユニットを組むほどにコメディに秀でた異色のタカラジェンヌさんだった。

通天閣のたもととは、大衆演劇の聖地。街を歩けば商店街の各店舗がウィットに富んだポスターを出し、そこらにダジャレがあふれている。ツッコミとボケが日常会話に飛び交い、それを芸人でもない普通の住民がやすやすとこなす街。紅さんはこのような街で生まれ育ち、長じてタカラジェンヌとなった。隠そうにも出てしまうコメディエンヌとしての素質。これは紅さんの武器だと思う。

一方で、タカラヅカとは創立者小林逸翁の言葉を引くまでもなく、清く正しい優等生のイメージが付いて回る。随所にアドリブは挟みつつもまだまだ演出に縛られがち。そもそもいくらトップとはいえ、対外的には生徒の位置付けなのだから、演出家の意向は大きいのではないか。自然とトップとしての持ち味も出しにくい。実際、妻の意見でも、最近のジェンヌさんは綺麗な美少年キャラが多くなりすぎ、だそうだ。

そんなタカラヅカに、新風を吹かせるには、紅さんのキャラはうってつけ。お笑いを学んだSMAPがお茶の間の人気者になったことで明らかなように、生き馬の目を抜くショービズ界で生き残るには笑いがこなせなければ厳しい。であれば、本作の紅さんの過剰なコメディ演技に目くじらを立てるのはよそうじゃないか。幕間に私はそんな風に思い直した。

すると、第二幕では、第一幕で感じた痛々しさが一掃されたではないか。視点を変えるだけで舞台から受ける印象は一変するのだ。ただ、その替わりに感じたのは、紅さんの魅力をより際立たせる演出の不足だ。それはメリハリと言い換えても良い。私の意見だが、演出家は、メリハリを男役トップの紅さんのコミカルさと、二番手のショーヴランを演じた礼真琴さんの正統な男役としての迫力の対比に置こうとしたのではないか。確かにこの対比は効果を上げていたし、礼真琴さんの男役としての魅力をより強めていた。私ごときが次期トップをうんぬんするのは差し出がましいことを承知でうがった見方を書くと、次期トップの印象付けととれなくもない。

だが、上に書いた通り、紅さんのトップお披露目は、タカラヅカ歌劇団が笑いもこなせる万能歌劇団として飛躍するまたとないチャンスのはず。であれば、紅さんのコメディエンヌとしての魅力をより引き出すためのメリハリが欲しかった。そのメリハリは、役の演じ分けで演出できていたはず。本作で紅さんは、パーシー 、ピンパーネル、グラパンで等しくおちゃらけを入れていた。だが、それによってキャラクターごとのメリハリが弱まったたように思う。例えばパーシーやピンパーネルでは一切おちゃらけず、替わりにグラパンを演ずる際は徹底的にぶっ壊れるといった具合にすると、メリハリもつき、コメディエンヌとしての紅さんの魅力がアップしたのではないか。特にずんぐりむっくりのグラパンからスラッと爽やかなピンパーネルへの一瞬の早がわりは、本作の有数の見せ場なのだから。この場面を最大限に活かすためにも、コミカルな部分にメリハリをつけていれば、新生星組のトップとして、笑いもオッケーの歌劇団として、またとないお披露目の舞台となったのに。

‘2017/06/06 東京宝塚劇場 開演 13:30~

https://kageki.hankyu.co.jp/revue/2017/scarletpimpernel/index.html


チェ・ゲバラ伝 増補版


彼ほどに、その肖像が世界に知られている人物はいるだろうか。本書で取り上げられているチェ・ゲバラである。彼の肖像はアイコンとなって世界中に流布されている。そして、遠く離れた日本の私の机の脇でも眼光鋭くにらみを利かせている。その油彩の肖像画は、数年前にキューバ旅行のお土産として頂いたものだ。

だが、チェ・ゲバラが日本に来たのは、肖像画としてだけではない。私の部屋で飾られる遥か前にチェ・ゲバラは来日していた。私は恥ずかしながらそのことを本書で知ることとなった。いや、正確にいえば微かには知っていた。しかし、後の首相である池田通産相と正式なキューバの使節として会談したことや、広島の原爆慰霊碑へ献花を行ったことなどは本書で知ったことだ。

机の脇に肖像画を飾っていながら、チェ・ゲバラとは私にとって歴史上の人物でしかなかった。しかし、本書を通じ、初めてチェ・ゲバラが残した足跡の鮮やかさを知ることができた。そしてなぜ彼の肖像がこの地上の至る所でアイコン化されるに至ったのかが理解できたように思う。私にとってチェ・ゲバラの認識がアイコン化された伝説の人物から、血の通った人間へと改まったのは、本書による。

本書が素晴らしいのは、相当早い時期に書かれ始めたということだ。チェ・ゲバラがボリビアのジャングルで刀折れ矢尽きて土と化したのは1967年の10月のこと。本書の母体となる「チェ・ゲバラ日本を行く」が雑誌に発表されたのは、1969年のことという。世界はおろか、キューバでさえも、チェ・ゲバラが死んだ事実をうまく消化できていない時期。そのような早い時期から、著者は精力的に生前のチェを知る関係者に取材している。つまり本書が軽々しくブームを後追いしたものではない、ということだ。

著者の足跡は、チェの生国アルゼンチン、生まれながらのキューバ市民の称号を得たキューバ、キューバに続いての革命の夢潰えたボリビアにまで至る。取材対象も、チェ・ゲバラの両親や、奥さん、幼少期の友人、戦友など多岐にわたっている。また、著者は本書を書くにあたり、取材だけでなく他にもチェの書いた日記や自伝、演説のたぐいまで読み込んだと思われる。

その労あってか、本書の内容は実に濃厚。チェ・ゲバラという稀有な人物の幼少期から死ぬまでの生涯が描かれている。ただ、本書で描かれたチェに批判的な記述がほとんど見当たらないことは言っておかねばならない。その筆致はチェ礼賛の域に近付いていると言っても過言ではない。おそらく著者は、チェ・ゲバラの取材を進める中でチェの思想や人格に心底心酔したのではないだろうか。しかし、本書で著者が描き出すチェに虚飾の影や空々しい賛辞は感じられない。左翼の文献に出てきがちな「細胞」とか「オルグ」とか「ブルジョア」といった上っ面の記号的な語句も登場しない。ただ、「革命」や「帝国主義」という語句は散見される。それらから分かるのは、チェの生涯がマルクス主義の理念よりも愚直な実践を軸に彩られていたことだろう。チェが単なる頭でっかちのマルクス理論家であれば、歴史的にマルクス経済学が否定された今、世界中でアイコン化されているはずがないからだ。地に足の付いた実践家だったからこそ、彼は伝説化されたのだ。

そもそも、著者がいかにチェを礼賛しようにも、史実がそれを許さない。というのもチェの後半生は、挫折また挫折の日々であったからだ。

そもそもキューバ革命自体が、アメリカ資本による搾取からの解放を旗印にしていた。当然、革命の結果としてアメリカとの外交関係は当然悪化する。となるとキューバの外交関係の活路をアメリカと対立関係にある国に求めなければならない。

本書を読む限り、カストロ・ゲバラの二人は元々マルクス主義者ではなかったのではないか。彼らの目的は、時のキューバを牛耳っていたアメリカ資本の走狗であるバチスタ政権打倒でしかなかったように思える。しかし、幸か不幸か革命が成ってしまったがために、革命家は統治者へと変わることを余儀なくされる。そこにチェの悲劇の一つ目はあった。チェはその統治責任を引き受け、誠心誠意粉骨砕身働く。しかし、アメリカと対立した以上、アメリカの息が掛かった国には行きづらい。つまりアメリカに対立する国、即ち社会主義国に近付かざるを得なくなった。反階級主義を理想に掲げたにも関わらず、階級闘争を運動のエネルギーとするマルクス主義の仮面を被らなければならない。そこにチェの悲劇の二つ目はあったのではないか。しかも、労働の過程ではなく結果の平等を問うマルクス経済学は、ラテンアメリカの人々の気質に合わなかった。そう思う。本書には、チェの並外れた克己心や自制心が何度か紹介される。チェが自らに課した努力は、当時のラテンアメリカの人々には到底真似の出来ないものだった。それがチェの悲劇の三つ目だったと思う。キューバの頭脳と称されるまでになった数年にわたるチェの努力も空しく、チェは手紙を残してキューバを、そしてカストロの元を去る。三つの悲劇はとうとう克服できないままに。

その手紙の全文は、もちろん本書でも紹介されている。カストロに宛てた感動的な内容だ。しかし、その内容が感動的であればあるほど、その行間に強靭な自制力によって隠されたチェの失望を見るのは私だけだろうか。本書で著者は、チェがキューバを去った理由を不明としながらも答えは手紙の中にあるのではないか、と書く。革命を求め続け、キューバ革命の元勲としての地位に甘んじないチェの高潔さこそが理由である、と。しかし、チェがキューバを去ったのはやはり挫折であったというしかないだろう。キューバ使節として世界中を飛び回るも、その訪問先のほとんどは社会主義国である。むしろ日本だけが例外といえる。カストロが親日家という背景もあったようだが、チェもわざわざ広島に訪れて原爆慰霊碑に献花し、平和資料館では日本人に向けアメリカへの怒りを抱かないのか、という痛烈な言葉を残したという。その言葉の底にはアメリカ一辺倒の世界への怒りが滲む。

キューバを去ったチェは、コンゴで革命を成就すべく奔走する。しかし、よそ者のキューバ人たちにコンゴでの活躍の場はなかった。そもそも、キューバでも成功することがなかった革命後の統治をどうするかという課題。革命は成り、帝国主義を追い払った。では、何をして民を養うか。この答えには、結局チェをもってしてもたどり着けなかったと思われる。

マルクス経済が歴史上衰退したのは、人間の克己心や欲望に対する自制心を過大に見積ったからだと思う。それが、統制経済の下の停滞を産み出し、人々からマルクス主義を捨てさせるに至った。それはまた、人一倍自己を律することが出来たチェが、同じくキューバ、コンゴ、ボリビアの人々に自らと同じレベルを求めた過ちとおなじであった。

だが、皮肉なことに人一倍自己を律することが出来たチェは、そのストイックさと純真さ故にアイコン化された。

一体いつチェの抱いた理想は実現されるのか。おそらくは世の中に彼の求めた理想が実現されない間はチェ・ゲバラのアイコンはアイコンであり続けるのだろう。そして、それとともに本書もロングセラーとしてあり続けるに違いない。

‘2015/11/09-2015/11/18