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震災列島


著者の作品を手に取るのは、「死都日本」に続き2冊目だ。前作は九州南部に実在する加久藤カルデラがスーパーボルケーノと化し、カタストロフィを引き起こす内容だった。本書では東海地震を取り上げている。ともに共通するのは、今の日本が抱えている破滅的リスクが現実となる仮想未来を題材としていること。いわゆるパニック小説と云ってもよい。

しかし、単なるパニック小説として本書を片付けてしまうのはもったいない。前作においては、しっかりした科学的知見に裏付けられた破局噴火の描写が秀逸だった。前作がいかに科学的知見の裏付けある小説だったかは、実際に行われた火山学者によるシンポジウムが「死都日本」と題されたことでもわかる。絵空事ではない、現実に起こり得る最大限の天災を描いたのが「死都日本」であった。

本書は、前作に比べてよりパニック小説として工夫している箇所が見られる。それは復讐譚としての側面である。前作は火山からの逃避行の描写に多くを割いたため、物語の筋としては一方通行になってしまったキライがあった。本作の構成はその点を踏まえた著者なりの工夫なのだろう。

主人公明石真人はボーリング業者として生活を営んでいる。ボーリング業者とはいわゆる地質屋に等しい。建築物を立てる前にその地層を調べるのが業務内容だ。つまり、地震に対する基礎知識を持った主人公という設定となっている。名古屋市南部の海抜ゼロメートル地帯で親や家族と共に暮らしている。が、そこに工務店の顔をして乗り込んできたのが阿布里組。阿布里組とは企業の顔をしているが実は企業舎弟、いわゆるヤクザである。その阿布里組によって、地域の人々の生活は脅かされる。主人公の父善蔵は、町内会長として阿布里組に抗議する。が、その意趣返しとして主人公の娘友紀は誘拐され、さらには強姦されてしまう。救い出された友紀は自殺を図る。その復讐を遂げるため、前兆現象が確実に起こっている東海地震を正確に予測し、そのどさくさで阿布里組に復讐を企てる。果たしてそのような予測が可能であるかどうかはともかくとして、友紀への強姦シーンを含めた仕打ちの描写は、凄絶なものがある。主人公が阿布里組に抱く復讐動機としては充分すぎるものである。娘を持つ私にも絵空事と見過ごせないと思えてしまうほどの内容だった。

主人公と善蔵の見立て通り、本震は発生する。その描写は凄まじいものがある。名古屋中心部のビル街の惨状、津波による街の一掃。メタンハイドレート層の崩壊による爆発。そして、浜岡原発のメルトダウン一歩手前までの事故。こういった描写が科学的知見に裏打ちされていることは前作でも実証済み。起こり得る損害はかなり正確に書かれているのではないかと思う。この辺りは実際の科学者による解説が欲しいところだ。

ちなみに本書が発行されたのは、2004年10月。文庫版である本書でさえ2010年1月に発行されている。東日本大地震と福島第一原発の事故が起きる数年前に、すでに本書のような内容の小説を執筆していたことに畏敬の念を覚えずにはいられない。特に浜岡原発の事故描写の迫真振りといったら、鳥肌が立つほどのもの。発電所長は主人公が住む町の住人で単身赴任しているという設定だが、ご都合主義という批判は脇に追いやるほどの迫真の描写である。

そして、前作と同じく、天災を機に政府が発動する緊急経済政策が登場する。著者にとって、または日本の裏を知る人々にとって、日本の財政問題を解消する手段は天災にしかないかのように。

本書の最期は、復讐劇のクライマックスとなり、47人の阿布里組員達は全て復讐の犠牲となる。が、それはもはや本書の主旨にとって重要なものではなく枝葉の出来事だ。その証拠に復讐を遂げた主人公にあるのは達成感でもなんでもない。ただただ虚脱感があるのみ。虚脱感が巨大地震に襲われた街並みと主人公の心に取りつく。

ただ、本書は虚脱感では終わらない。本書で著者が訴えたかったことは、エピローグにこそある。主人公が発する台詞「生きて考えるよ。不完全な生き物だから」にそれが集約されている。

来ると言われて久しい東海地震。または東南海地震。さらには首都直下型地震。私が生きている間に、おそらくこのどれかに遭遇することだろう。すでに阪神大震災と東日本大震災に遭遇した私だが、災害の覚悟だけは常時持ち続けていたいものだ。ゆめゆめ油断だけはすることなかれ、と肝に銘じたい。本書を読んで得たもの、それは知識だけではない。地震に遭遇しても折れないだけの心の拠り所、だろうか。

2015/8/4-2015/8/6


幽鬼の塔 他一編


私が9歳の時に出会った江戸川乱歩。この出会いによって私の人生は決定づけられたといっていい。以来30年以上、傍らに書物のない時間が皆無と言っても過言ではない。私の書物愛好人生にもっとも影響を与えた作家である。

この時に西宮市立図書館で出会ったのは「妖怪博士」である。ポプラ社の江戸川乱歩少年探偵シリーズの1冊だった。ポプラ社の同シリーズは、46冊からなっており、大きく分けて2種類に分けられる。すなわち、怪人二十面相の出る作品と、そうでないものである。怪人二十面相が出るものは、子供向けに書かれた本がそのまま収められている。そうでないほうは、大人向けに書かれたものを子供向けに翻案したものである。「妖怪博士」は怪人二十面相が出る方の作品である。

「妖怪博士」によって江戸川乱歩の世界に招き入れられた私は、むさぼるように同シリーズの46冊を読破していく。怪人二十面相が出ない方の著書を読む機会はすぐに訪れた。当時、明石に住む祖父母宅の家によく遊びに行っていた私。帰りに明石ステーションデパートの本屋で本を買ってもらうのが楽しみだった。この時に買ってもらったのが、同シリーズの1冊「幽鬼の塔」である。私にとって初めて買ってもらった江戸川乱歩である。また、怪人二十面相が出てこない方の作品を初めて読んだのもこの時だったように思う。

初めて買ってもらった本という以上に、本作は思い入れのある作品である。柳行李を後生大事に運ぶ謎の男。男は好奇心から明智青年に行李の中身を盗まれ、見つからないと知った後は取り乱して浅草の五重塔に忍び込み、そこから首を吊る。その柳行李の中身を追って、次々と明智青年の前に表れる謎の男女。男女の意外な今と過去の暗い記憶が次々と暴かれてゆく。そして最後の対決から、さわやかな幕切れへと物語は急流のように進む。本書のスリリングな展開と後に涼風吹くような余韻は、少年の私の心に深く楔を打ち込んだ。以来30年以上、私の心は、この時の衝撃を超える読書の喜びを、ただひたすらに、飽くことなく求め続けているともいえる。

ポプラ社の同シリーズの1冊「幽鬼の塔」は子供向けに翻案されていたと先に書いた。本書は、その翻案前のオリジナルである。だが、私に記憶に残るポプラ社の粗筋と、本書の粗筋は、ほとんど変わるところがないように思える。長じてから読んだ他の著者の著作を、ポプラ社の同シリーズに収められていたものと比べてみると、子供向けに際どいエロ・グロ・猟奇趣味描写が注意深く除かれていることに気付く。しかし、本書はその内容や読後感にあまり違いがなかった。つまり、本書のオリジナルには、猟奇趣味と言われた著者の持ち味が比較的薄かったということかもしれない。そのため、ポプラ社の同シリーズの1冊に収めるにあたり、あまり翻案の必要がなかったと思われる。

いずれにせよ、大人向けの本書を読むのは初めてであり、少年の日に幾度も読み返した「幽鬼の塔」の興奮がまざまざと蘇ってきた。粗筋は先に書いた通りだが、読後感のさわやかさも同じである。もちろん、大人になった私が読むと、粗がないでもない。だが、書物とは、読む者の心に何を与えるか、である。本書が私に与えた影響から言って、これ以上私に何が述べられようか。

述べるとすれば、本書に収められているもう一編のほうである。恐怖王。これはポプラ社の同シリーズにも収められておらず、初めて読む一編である。こちらは著者の猟奇趣味が存分に出た一編。死体を盗み出しては死化粧を施し、花嫁と仕立てあげ、情死体として発見されるように仕向ける。見るからに怪しげなゴリラ男や謎の未亡人などが登場し、ことあるごとに空中に飛行機雲で恐怖王の文字を描き、死体に入れ墨で恐怖王と大書するなど、恐怖王の自己顕示を忘れない犯人。大風呂敷を拡げるだけ拡げた本編は、ポプラ社の同シリーズに収められなかったのも頷けるほど、猟奇趣味の横溢した内容である。しかも恐怖王恐怖王と事あるごとに自己顕示を怠らなかった犯人が、行方をくらましてしまう結末である。読者としては宙ぶらりんな読後感を拭えない。著者お得意の大風呂敷がきちんと畳まれずに終わった一編である。が、その猟奇趣味に溢れた内容は、著者の作風を味わうには格好の一編ともいえる。

’14/06/23-‘14/06/25