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改憲について


 先日、第三次安部内閣が成立しました。

 賛否はありますが、今の日本の現状を考えると、他に選択肢がなかったということでしょう。

 早速、安部首相も記者会見を行い、第三次内閣の抱負を語りました。ここで語られていたのが、経済対策、そして憲法改正です。前者はともかく、後者をここで持ち出すことに、安部首相の悲願ともいうべき改憲への強い思いが見えます。

 私も自分の中で改憲についてどう思っているか整理するために、本稿を書いてみます。

 結論としては、私も改憲すべき、と思っています。

 理由を以下に書きます。 

 日本国憲法は公布されてから68年という年月が流れました。他国を侵略した結果、敗戦の憂き目を見た我が国。その後の驚異的な復興は世界史上でも例がないものです。その復興に当たり、日本国憲法が我が国に与えた恩恵は否定されるものではありません。制定の過程こそ、GHQに押し付けられた憲法です。が、誇るべき憲法といってもいいでしょう。

 しかし、いくら内容が誇るべきものであっても、人間の社会を前提に作られているものに不磨の大典というものはありません。いくらか今の日本の現状と合わない点も出てきていることも否めません。

 例えば9条の第2項。
 「前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。 」
 とあります。自衛隊が、戦力であることは誰も否定できません。私は96条はもっと精緻な内容に書き換えられるべきと思います。今の状態では、日本が攻められた際、憲法解釈で時間を空費し時機を逸するのが眼にみえています。

 自衛に関しては戦力の行使を許し、その指揮権や手続まで記載すべきだと思います。日本の領土を侵略した相手に対しては一歩も引かないという覚悟を示す必要があります。ただし自衛というのは国土および日本の主張する排他的経済水域に限り、それ以外には、一歩も自衛隊を出さない、ということ。これが重要です。たとえ攻められた際に絶好の反撃機会があっても、たとえ同盟国に要請された場合でも。文字通り自衛隊は領土の外に一歩も出さないこと。それは自衛隊の海外派遣任務も含みます。

 しかし、領土に一歩足を踏み込んだ他国の軍隊、ミサイルは直ちに撃墜される。本来は国防とはそうあるべきですし、憲法に自衛に対する対処も書かれているべきではないでしょうか。自衛は徹底的に迅速に、しかし国外には一歩も武力を行使しない。

 自衛隊に対するシビリアンコントロールは重要だと思いますが、行使の範囲が国内に厳格に指定されていれば、戦前に起きたような暴走は防げるのではないでしょうか。

 続いて96条
 改憲に必要な手続きの厳格さは、日本の憲法が長きにわたって変わらなかった大きな理由の一つでしょう。安部首相もまずここから変更したいという意思をもっていると思います。
 私もここはもう少し要件を緩めてもよいのではないかと思います。3分の2ではなく半数ぐらいでも。

 ただし、改憲要件を許すべき条文を限定するのです。具体的には9条の専守防衛に関する部分。国外に一歩も自衛隊を出さないという部分が、簡単に過半数の賛成で変えられたら、あとはなし崩しです。ここを守るため、改憲要件の適用範囲を決める必要があると思います。変更すべき条文は柔軟に変更でき、堅持するべき骨格は堅持する。

 日本の国土が置かれた地理的条件。これは憲法が何であれ、他国がどうあれ、変えようがありません。日本は外に打って出られるような地形にはない。これは飛鳥時代からの歴史を見ると分かるのではないでしょうか。白村江、朝鮮出兵、シベリア出兵、満州事変。いずれも失敗です。日清・日露戦争ですら、戦闘では勝利したとはいえ、戦争によって確保したはずの領地確保に失敗しています。日本が大陸に橋頭保を築くのは、もう無理なのだと思います。であれば、国外への戦力行使は一切諦め、自衛には徹底的に対処する。これは尖閣や竹島、北方四島も含めて良いと思います。あるいは徴兵しても良いぐらいです。

 日本は素晴らしい国だと思います。世界に誇れる国だと思います。が、長らく日本国憲法の下での繁栄に慣れすぎました。危機感も目標も失いつつあります。そこから目を覚ますためにやるべきは、国外への侵略ではありません。まずは自衛への自覚だと思います。日本人が国外に打って出るには、武力など必要ありません。日本人の持つ勤勉さと能力だけで十分です。そのことに、そろそろ日本人は気づいてもいいのではないでしょうか。


現代について


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タカ派路線が幅を利かせる今の日本。だが、一昔前までは、ハト派路線が全盛であった。その反動が、今のタカ派隆盛に繋がっているともいえる。保守論客として知られる著者は、ハト派全盛の頃から保守論客として気を吐いていた方である。

私は保守というのは、防御してこそ本分を発揮すると考えている。我が国の歴史を紐解いてみても、外に打って出た際は、大抵痛手を蒙ってきた。それは、白村江の戦い、秀吉の朝鮮出兵、満州事変からポツダム宣言受諾までの15年に顕著である。一方、日本が防御に徹する時、なかなかの試合巧者ぶりを発揮している。二度に亘る元寇の来襲も撃退し、安土桃山時代にはスペインやポルトガルといった当時の世界の覇者の進出を、鎖国という手段で退けている。日本海海戦もバルチック艦隊を迎え撃った形で勝利している。防御に徹した時のほうが、日本は繁栄を享受しているように思えるのは私だけだろうか。それは島国という地政学的な条件もあるのかもしれないが、地震や火山噴火や台風といった度重なる自然災害から得られた風土の教訓ではないだろうか。

そのような考えから、私は日本のナショナリズムを考える際、防御的な反応であれば是とする者である。反対に、国内を覆うナショナリズムが、国外に刃を向けることを危惧する。昨今もすでにヘイトスピーチという形で、その歪んだナショナリズムが噴出し始めており、危惧を覚えている。ヘイトスピーチは、当事者に言わせると防御反応なのかもしれないが、どうみても過剰防衛である。関東大震災の際の朝鮮人虐殺で知られるように、本来臆病な日本人は、過剰防衛という過ちを犯しかねない。

オピニオン誌や新聞もあまり読む間もない最近故、著者の言説をこのところ目にすることが少ない。私の印象では、保守派とはいえ、著者の言説には戦前の日本の侵略行為を美化するといった言説はあまりされていなかったように思う。むしろ著者の思想は、諸外国が貶めようとする日本を、防御するために構築されたとも思える。そのペン先は、諸外国を貶めるために使わず、日本を守るために使う。それが、私が著者の言説を信頼する理由でもある。過剰防衛にならぬよう、周到に、緻密に著者の論は防御網を張り巡らす。

本書は、1987年頃から1995年頃に書かれた論文を中心に編まれたものである。
 <五十年前の歴史をどうとらえるか>
 <国際政治に照らしてみた自民党と社会党>
 <オウムと破防法>
 <日本の安全保障>
 <難民時代と日本の労働力>
 <欧米への挑戦>
 <日本とドイツ~その戦後史>
 <教育問題~どうすれば改革ができるか>
 <一九八九~九〇年――世界激変への証言>
といった本書の章題を眺めるだけでも、その防御的な論調が見て取れるのではないだろうか。実際、自虐史観に対しては第一章で徹底的に論破している。第三章についても日本の身中の虫に対する防御についてであり、第四章は章題からして防御そのものである。中でも第五章については、20年前に書かれたとはいえ、今の少子化に苦しむ日本にとって参考となるところが大である。本稿を書く前に著者のブログを確認したところ、先日も移民問題シンポジウムを取りまとめられ、その内容が本になったとか。第八章についても、防御のための知恵は、教育から生まれること必定である。そのあたりも著者は疎かにしない。

移民問題も含め、今の日本には、激変する世界に対応する防御策の構築が求められている。それも、鉄壁の防御壁と流れに逆らわず受け流す硬軟二面の構築が。傘寿に手が届こうとする著者であるが、まだまだ硬骨の論陣を張り続けて頂きたいと願っている。

’14/07/16-‘14/07/23