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東京大地震は必ず起きる


確信に満ちた力強いタイトル。地震が取り上げられた文章において、確信は避けられる傾向にある。なぜなら、地震予知は難しいから。急が迫っている場合ならまだしも、何年単位のスパンで確率が何パーセントと言われても、受け取る側に危機感はない。それどころか、下手に煽って経済活動が止まれば経済の損失がかさむ。特に日本のように交通機関のダイヤグラムにうるさい国の場合はなおさらだ。だから地震学者は地震の予知には慎重になる。慎重どころか及び腰になる。そこに来て本書だ。著者は防災科学技術研究所理事長の肩書を持つ方。地震予知が専門でない分、本書のように一歩踏み出したタイトルをつけられるのだろう。そして、本書のようなタイトルの本を著したことに、首都圏に迫る直下型地震の現実味と焦りを感じる。

著者は率直に述べる。阪神・淡路大震災が予想外だったと。1995年1月17日、著者は地震防災に関するシンポジウムのため大阪のホテルに泊まっていて早朝の地震に遭遇したそうだ。関西では大地震は起きない。そんな定説に安住していたのは何も私たちのような一般市民だけではない。防災学者にとって、関西で地震が起こるなど、ましてやあれほどの被害が発生するとは想像できなかったらしい。

著者は防災の専門家として、阪神・淡路大震災のちょうど一年前にアメリカ西海岸で起きたノースリッジ地震を例に挙げ、そこで高速道路が倒壊したようなことは日本では起きないと大見得を切っていたという。しかし、阪神高速は脆くも倒壊した。わたしの実家のすぐ近くで。著者はその事を率直に記し、反省の弁を述べる。その態度は好意的に受け止めたい。著者の態度は、同時に地震の予知や防災がいかに難しいかを思い知らされる。

たとえ確率が数パーセントであっても、それはゼロではない。そして地震は起こってしまうのだから。事実、阪神・淡路大震災が起こったとき、日本政府も関わっていた地震予知計画は成果があったとして第七次計画中だったが、阪神・淡路大震災を予知できなかったことにより、第七次で打ち切られたという。防災計画も、著者らは火災の延焼による被害が都市にダメージを与えると考えていたらしい。ところが都市直下型地震ではなく、日本の誇る堅牢な構造物すらあえなく崩れる。学者の無知を著者は悔やむ。

著者はその教訓をもとに、首都圏に迫る直下型地震に警鐘を鳴らす。それが本書だ。著者は震災が都市に与える影響を四つに分けていた。火災、情報、ライフライン、経済の四つだ。そして著者は阪神・淡路大震災によって、構造物の問題にも目を向けた。だから今は五つの要素が年に影響を与える。

東海地震や南海地震、それらが複合する東南海地震。これらの地震の発生が差し迫っていることは、ずいぶん前から言われて来た。しかし、この10数年は、それに加えて首都圏の地下を走る断層が引き起こす首都圏直下型地震についてもとり沙汰されるようになった。もし朝夕のラッシュ時に強烈な揺れが都心を襲えば、被害は阪神・淡路大震災の比ではない。私も死ぬことは覚悟しているし、そのリスクを避け、都心での常駐作業をやめた今でも、商談で都心に赴いた際に多い。だから地震で命を落とす可能性も高いと妻子には伝えている。

著者は防災の観点で、首都圏で震度6強の地震が起きたらどうなるかを詳細に書く。兵庫県と比べると東京の抱える人口や経済規模はレベルが違う。路地の狭さや公園の人口あたりの面積も。交通量の多さも。どれもが被害を膨大に増やすことだろう。「東京における直下地震の被害想定に関する調査報告書」は二編で千百ページにも達するという。著者はこの報告書の言いたいことは最初の20ページで良いという。その上で残りの部分を著者が要約し、被害の想定を述べる。

面白いのは著者がこの報告書に批判的なことだ。はっきりと「過小評価」と言っているし、そもそも想定自体が専門家による仮定に過ぎないという。おそらくこの報告書は建築物の分布や、電柱、地盤、道路などさまざまな条件をもとに作られている。だが、当日の気候や風、発生時間、震源地は仮定で考えるしかない。著者が言いたいのは、報告書を鵜呑みにしない、ということだろう。

著者はそれを踏まえ、液状化や火災発生、延焼、停電、断水など報告書で詳しく載せられている23区のそれぞれについて、データの読み方を述べている。この章は、都心に住んでいたり、仕事をしている方には参考になるはずだ。

続いて著者はライフラインとは何か、について述べる。上下水道、ガス、電気、道路、鉄道、電話などだ。本書は東日本大震災の前に出版されているため、福島の原発事故やそれが東京の電力需給に大きな影響をもたらした事には触れていない。そのかわり、阪神・淡路大震災でライフラインが広範囲に断絶した状況について、かなり触れている。

私の経験を語ると、東日本大震災で経験した不便など、阪神・淡路大震災で味わった不便に比べるとわずかなものだ。3.11の当日の停電では、妻は錦糸町から帰れず、私も娘たち二人とロウソクで過ごした。その後の計画停電では、仕事にも支障をきたした。私は当時、毎日日本橋まで通っていたので、交通網の混乱も知っている。だが、阪神・淡路大震災の時はそもそも電気もガスも水道も来ない状態が続いたのだ。わが家は大きな被害を受けた地域の東の端。すぐ近くの武庫川を渡れば、その向こうはまだ生活が成り立っていたので、買い出しや風呂はそこにいけば大丈夫だった。だから当時神戸市内に住んでいた方の苦労など、私に比べたらもっと大変だったはず。
阪神・淡路大地震での体験はこちら
人と防災未来センターの訪問記はこちら
地震に対する私の気構えはこちら

3.11で味わった地震の不便をもとに、首都圏の人が地震の被害を考えているとすれば大きな間違いだと思う。

本書は地震が起こってしまった場合のさまざまなシミュレーションもしてくれている。立川に官邸機能が移ることも。そして、私たちが何をすれば良く、普段から何を準備しておくべきかを記してくれている。本章に書かれた内容は読んでおくべきだろう。また、東京都民であれば、都から配られた『東京防災』も読んでおくことをお勧めしたい。私も本稿を書いたことで、あらためて『東京防災』を読んでおかねば、と思った。

不幸にして揺れで亡くなった場合は、その後のことは考えようがない。だが幸運にも生き残った時、そこには想像以上の不便が待っているはずだから。

末尾には著者が防災専門家の目黒公郎氏と対談した内容が載っている。そこに書かれていることで印象に残ったことが一つある。それは亡くなった方が思うことは、ライフラインの充実ではない。それよりも家の耐震をきっちりやっておけばよかった、と思うはず、とのくだりだ。地震の被災者になった事で、次への備えを語れるのは生き延びた人だけなのだ。私もそう。幸運にも生き延びた一人だ。だからこそ、このような文章も書けるし、日々の仕事や遊びもできる。このことは肝に命じておきたい。

また、村尾修氏との対談では、WTCのテロの現場を視察しに行った村尾氏の経験と、そこからテロに備える防災について意見を交換する。東京は地震だけでなく、テロにも無防備だとはよく言われることだ。だが、テロはどちらかといえば点の被害。震災は面の被害が生じる。また、アメリカは戦争の延長で防災や事後対応が考えられている事が、日本との違い、という指摘は印象に残る。

最後は著者が国会の委員会に参考人として呼ばれた際の内容をおさめている。その内容はまさに本書のまとめというべき。

私も常時都心にいることはなくなったとはいえ、まだまだ都心に赴くことは多い。本書を読みつつ、引き続き備えを怠らぬようにしたい。そして、生き残った者として、何かを誰かに還元する事が務めだと思っている。

‘2017/09/29-2017/10/01


地震に備える仕事と生活


熊本で大きな地震がありました。

奇しくも兵庫県南部地震(阪神・淡路大震災)と同じマグニチュードだったそうですね。
断層を震源とした都市直下型としても同じ構造のように思えます。

当時、兵庫県南部地震で被災した者としては、今回の地震には思うところが多々あります。

その思いは、どうしても目前に迫っているといわれる首都圏直下型地震にたどり着きます。2020年のオリンピックも近づいている東京ですが、耐震対策については依然として改善の兆しが見えません。

私はこの4月からワークスタイルを変えました。3月までは月~金は都心で客先に常駐するスタイル。4月からは週の半分を弊社事務所や町田近辺で仕事するスタイル。ワークスタイル切り替えの理由の一つは、地震に対するリスク回避です。

2011/3/11。東日本大震災が起きた日の私はたまたま家で仕事をしていました。当時、私は日本橋の某金融機関本店で勤務していました。しかし、この日は個人で請けていたお仕事を進めたくて、家で仕事をしていたのです。一方、妻は地震発生の瞬間、仕事で錦糸町にいました。結局妻が帰って来たのは翌朝のこと。小学校に通っていた娘たちを迎えに行ったのは私でした。

もしそのとき、私が普段どおり日本橋に向かっていたら、娘たちは父や母の迎えもないまま、心細い思いを抱えて学校で一夜を過ごすことになったことでしょう。

その経験は、私に都心常駐の仕事が抱えるリスクを否応なしに意識させました。個人事業主となってから5年。ゆくゆくは常駐に頼らぬ仕事を目指そうと漠然とは思っていました。でも、都心常駐から町田近辺での仕事へ、という切り替えを真剣に模索するようになったのは3.11の後です。そして昨年は1.17の阪神・淡路大震災が発生して20年の節目でした。自分の被災者としての思い出を振り返るにつれ、ワークスタイル切り替えの思いはさらに強まりました。

私が個人事業を法人化したのはその余韻もさめない4/1のことです。法人化にあたって、どこにビジネスの基盤を置けばよいか、かなり考えました。個人事業主であれば身軽です。仮に首都圏直下型地震が起き、都心で受託していた仕事が継続できなくなったとしても、別の場所で仕事を頂くことができたかもしれません。でも法人化を成した後ではそうも身軽ではいられません。いざ都心が地震で甚大な被害を蒙ったとして、ビジネスの重心が都心に偏っていると、経営基盤にも深刻なダメージが及ぶでしょう。弊社のような創立間もない零細会社としてはなおさらです。そのようなリスクを軽視することはできませんでした。

法人化当初から描いていたワークスタイルの変更は、1年を経てこの4月から一部ではありますが成し遂げることができました。しかしまだまだです。私の目標は日本全国にあります。人を雇って支店を置くのもよいですが、できれば私自身が日本を巡り、巡った各地域の人々と交流できるような仕事がしたいと思っています。いわば旅の趣味と仕事を両立できるようなワークスタイル。

実際、私が大阪で非常にお世話になり、東京でも度々お世話になった方は、堅実な士業に従事しながらも、全国から引き合いを受けては地方を度々訪れているそうです。この方のワークスタイルやライフスタイルは、昔から私の目標とするところです。

私がそういったワークスタイルを実現できたあかつきには、各地を訪れてみたいと思います。地震の被害から復興され、ますます名城としての風格を備えた熊本城を見つつ、地域振興の仕事をお手伝いできているかもしれません。東北の沿岸部では活発な市場の掛け声の中、IT化のお手伝いができるかもしれません。雪深い新潟の山里では、うまい日本酒を頂きながら地元の人々と日本酒文化を世界に発信するための戦略を肴に歓談しているかもしれません。実家に帰った際には、30年前の阪神・淡路大震災からの歴史をかみ締めながら、地元の友人たちと飲んでいるかもしれません。

でも、まずは足元です。足元を固めないと。そのためにはワークスタイルの変革をぜひとも成功させるために努力することが必要です。町田にビジネスの拠点を置いたとして、首都圏直下型地震のリスクは少しは軽減されますが、立川断層を震源とした地震が起きた場合は甚大な被害を受けるでしょう。富士山が仮に噴火した場合もそうです。火山灰による被害は都心よりもさらにひどいものになるでしょう。結局、問題とすべきでは場所ではなく、一箇所に長く留まるようなライフスタイルといえるのかもしれません。

また、どこにいても災害が起こりうるのであれば、いつも災害に関して備えておく必要があります。昨年の秋、東京都民には充実した防災手帳が配布されました。内容はすばらしいの一言です。これを再び読むことを怠ってはならないでしょうね。また、普段から「いつも」地震に備えるためには、以前にも読ん読ブログでも紹介しました以下の本が参考になります。
地震イツモノート―阪神・淡路大震災の被災者167人にきいたキモチの防災マニュアル

なお、こちらの内容はWebでも無料で公開されています。是非お読み頂くことをお勧めします。

最後になりますが、熊本で被災された方々に平穏の日々がなるべくはやく訪れますように。私個人の体験から、被災された方にとって外部でどういった報道がされようが、どういったブログが書かれようが、何のイベントが自粛されようが、全く関係ないことはよくわかっているつもりです。私が書いたこのブログにしても、ほとんどの被災者の方には届かないことでしょう。

でも、私自身にとって熊本の地震には何かのご縁を感じるのです。それは冒頭に挙げたような阪神・淡路大震災の類似もあるでしょう。さらには、ここ2週間私が開発で使っているCodeIgniterというフレームワークを介したご縁もあります。3.11が起きた日、私が自宅で作業していたのが、まさにCodeIgniterを使った開発でした。それ以来数年ぶりに使っていたら今回の地震に遭遇しました。

そんな訳で、熊本の地震には何かの縁を感じます。その縁を私がどういう行動で太くするか、それはこの後考えてみようと思います。まずは先に紹介した地震イツモノートを紹介して、これからの地震への備えについて注意喚起しようと思います。


阪神・淡路大震災から20年 私のたたかい


本書は阪神淡路大震災の被災者による手記です。

昨年、2015年は兵庫県南部地震が起きて20年。各地で追悼イベントがありました。私自身、被災者です。20年目を迎えた1/17にはblogもアップしました。そこで、私なりに20年の区切りを付けたつもりです。また、その3ヶ月後には、灘区にある「人と防災未来センター」にも訪れ、その時に感じた事をblogにも書きました。

本書は訪れた「人と防災未来センター」の売店で購入した一冊です。

本書のような体験記は今までにも多数読んできました。東京大空襲、広島・長崎の原爆投下については多数の書籍で。東日本大震災についてはWebで。

でも、私自身が被災者となった天災といえば、阪神・淡路大震災が唯一です。東日本大震災でも自宅で被災しましたが、あれしきの経験ではとても被災者と自称することはできません。実際に被災された方々にも失礼ですし。でも、阪神・淡路大震災であれば、私自身、被災者と自称しても許されるのではないでしょうか。

それでも私の体験など、当時阪神・淡路に住んでいた方々の中にあっては、その一つに過ぎません。当然ですよね。震災に遭われた方の数だけ震災体験はあるのですから。本書はそのことを強く思わせてくれます。

揺れを感じた場所の違いもさることながら、震災時の立場の違いは実に大きいと思います。私の場合、学年末試験開始当日でした。とはいえ、実際に社会に出て仕事をされていた方々に比べると、私の苦労など持ちだすことすらおこがましいです。社会で地位を得、仕事をしながら地震の後始末もする。その苦労を思えば私の体験など気楽なものです。

もちろん、私は当日だけではなくその後に至るまで色々と動きました。吹田市への避難先の探索を友人に依頼したり、借家の契約も行ったり、引っ越し作業にあたっては車で何往復したことか。でも、所詮は学生の身分。時間があったからできたことです。社会人となった今は、あの頃社会人でありながら被災者であった方々の苦労に思い致すことができます。

本書には当時社会の一線で働いていた方々の体験談が多数収められています。

また、何よりも感じるのは、本書に寄稿されている方の多くは、地震の後も阪神間に留まっています。地震後、四年少しで関東に出てしまった私とは大きく違います。本書のサブタイトルにも「私のたたかい」という文字が含まれています。いうなれば私は地震への闘いを4年で中断し、東京へ逃げてしまった者ともいえます。たたかいを続ける両親や弟を残して。

街が復興していく様子。少なくとも表面的には傷が癒えて行く様子。記憶が風化していく焦りや寂しさ。そういった感情は、私には薄くしか残っていません。闘い半ばにしていなくなったのだから。私のように年に2、3度の帰省だけでは見えない街の移り変わりを見続けてきたのが、本書に寄稿された方々なのだと思います。

皆様の文章から感じられるのは、地震体験が生々しく残っていることです。勿論その記憶には風化やすり替えも含まれているでしょう。私自身の記憶ですらそうなのですから。

でも、共通しているのは、この記憶を後世に伝えたいということです。私自身、少なくともそういう気持ちは持ち続けたいと思っています。地震の巣である東京で仕事の基盤を持っている今、決してそのことは忘れてはならないと思っています。

今の東京は、地震の痛みを忘れてしまっています。皆さんが記憶しているのは精々が計画停電による、朝のラッシュの長蛇の列でしょう。

原発稼働の有無や、福島第一原発事故による放射能について警鐘を鳴らすのは無駄とは思いません。が、それ以上に、東京の様な地震多発地帯に国の三権ばかりか、経済文化が集い続けていることに危機感は増す一方です。

「人と防災未来センター」の訪問ブログでも書きましたが、私が訪れた際は、丁度震災20周年の特別展が催されていました。その中で、もし東京で大地震が発生したら、という題で多数の東京のランドマークがイラスト化され、崩れる建物や避難民が書かれていました。

今の東京住民の方々は決してその予想を軽んじてはなりません。なぜ軽んじてはならないか。その答えが本書に寄稿されている方々の体験から読み取れます。私も含め、神戸を地震が襲うなど考えもしなかった方々。その方々の衝撃と狼狽、復興の実情が本書には詰められています。

さらには、忘れてはならないことがあります。ここに寄稿されている方々は私も含め、運よく震災体験を書く事が出来た方々です。その陰には、体験を書くどころか、思い出す機会すらないまま無念の死に直面した人々の存在があります。6500弱もの人々の存在が。

彼らの言葉にならぬ無念は、今の東京に暮らす皆様にはどう捉えられているのでしょう。もはや別の国、別の歴史の出来事になってしまっているのではないでしょうか。

亡くなった方々の幾分の恐怖や無念を伝える本書のような体験記は、東京に住む人々にこそ知られるべき。私はそう思います。

‘2015/05/03-2015/05/05


地震イツモノート―阪神・淡路大震災の被災者167人にきいたキモチの防災マニュアル


今年(2015年)は阪神・淡路大震災が起きて20年。1/17には自分自身の記憶を新たにするため、当日の動きやその後の私の対応をブログに書いた。また、春の帰省時には神戸の「人と防災未来センター」にも行き、資料や映像からも当時の記憶を新たにした。

その際、一つ印象に残った展示があった。それは首都圏に地震が起こったらどうなるかを訪問者に想像させる展示だ。首都圏に住んでいれば誰もが場所を想像できる場所のイラストが20~30箇所分、部屋を囲むように貼りつけられている。そのイラストには特徴的な場所の様子に加え、避難民が多数書かれている。地震が起きたと仮定し、その後の想定される動きをイラストにすることで、イメージを喚起させることが狙いなのだろう。

しかし、この展示には一つ問題がある。それは当展示を一番見るべき人が見られないということだ。首都圏に住む人々こそ、この展示を見て、地震に対する備えを行うべき。なのに、首都圏の人々のほとんどはこの展示を知らぬまま、地震に遭うこととなる。そのあたりの想いや訪問の感想は、以下のブログでも書いた。

私は、首都圏直下型地震や東南海地震が私の存命中に起きることはほぼ確実と思っている。その被害がかなりの確率で私の生命を奪いかねないことも覚悟している。とはいえ、それについて具体的な備えをしているかと云えば、ノーである。

本書は、「人と防災未来センター」の協力も一部得ている。地震が「もしも」起きた場合に備えるのではなく、「イツモ」起きることを前提とし、「イツモ」持っておくべき備えや心の持ち方について書かれている。

ただ、いくら備えが大事とはいえ、字面ではなかなかそのメッセージは伝わりづらい。本書は、それを防ぐため、相当量のイラストが付されている。寄藤文平氏によるイラストの数は百点では済まない。本書に収められた情報量は、文章五割、イラスト五割に達しているのではないだろうか。JTの大人たばこ養成講座の公共広告のイラストで知られる寄藤氏のイラストは、親しみやすく、出しゃ張らず、それでいて必要なメッセージを伝えている。

本書には、多数の被災者から寄せられた経験が集められている。地震の際に何が起き、何が必要になるか。その膨大な集合知こそが、本書の肝である。いくら寄藤氏のイラストが多数添えられていたとしても、それが行政からの上から目線のメッセージでは住民の心には届かない。実際に被災し、地震の恐ろしさや不便さを体感した人々によるメッセージこそが、有事の際に我々を救ってくれる。メッセージの有用性は、実際に被災した私自身で良ければいくらでもお墨付きを与えられる。細かい点まで多々挙げられており、私が読んでも新たな気付きが得られるほどだ。

先日、東京都から防災手帳が配布された。その内容は素晴らしく、まさに世界に冠たる地震都市東京の総力が結集されたといっても過言ではない。しかし、その中に含まれていないものがある。それは、本書に書かれている経験や知恵だ。1923年以来、東京に足りていないのは地震の経験である。今度その経験を得られる時は、多くの人々の尊い命が引き換えとなることは確実だろう。その中には私自身も含まれている可能性も高い。

都市型直下地震の備えが書かれた本書は、実はもっと見直され、取り上げられないといけない。そして首都圏の人々にもっと読まれなければいけない。そう思う。

‘2015/04/26-2015/04/26


1995年


先を越された。そんな思いだ。本書を読み終えた直後に抱いた感想は、それから半年以上を経て本稿を書いている今も変わらない。

未だ道半ばの私の人生。その人生において、特筆すべき年を挙げるとすれば、1995年をおいて他にない。だからといって他の年が順風満帆だったり、起伏や抑揚のない平凡な年だった訳ではないのはもちろんだ。

大学を卒業したのは1996年。衝き動かされるように鞄一つで上京したのは1999年。結婚したのも同じ1999年。初めての子が産まれたのは2000年。苦労の末に当時の家・土地を売却、今の家・土地を購入したのが2005年。個人事業主になったのは2006年。法人化が2015年。

上に挙げたイベントは、私の人生で大きな節目となっている。むしろ人によっては人生の一大イベントとして扱われることだろう。にも関わらず、私はそれらイベントをさしおいて、1995年を自分史の筆頭に挙げる。

何故か。

それは、自分の内面と、自分を取り巻く社会の変動がリンクしたのが1995年だからである。

年明け早々の阪神・淡路大震災。以前にも書いたが、我が家は全壊し、なおかつ早朝の壊滅した街を西宮から明石へと車を駆って見届けた。それからの1ヶ月は、命の儚さや社会のもろさを心に刻むには充分過ぎる経験であり、短すぎる日々だった。

オウム真理教による地下鉄サリン事件。これもまた、当時地震の影響もあって躁状態になりつつあった私を宗教から遠ざけた。当時の危うい私にとってオウム真理教はこれ以上無いほどの反面教師となった。この事件がなければ、或いは地震後に揺れる心のまま、どこかの宗教に入信していたかもしれない。実際、大学に入ってからというもの、キャンパス内でも勧誘を受けたことが2度ほどあったぐらいなのだから。

就職氷河期の到来。1995年は私にとって就職活動の年でもあった。氷河期と言われる割には、最終面接まで到達し、調子に乗って旅行三昧に走り、全てを台無しにした。あそこで真っ当に新卒採用されていたら、私の人生航路も違う航跡を描いていたことだろう。後悔は全くないが、当時の社会状況と心の動きが私の心に乱気流を起こしたと云えるだろう。

また、Windows95の発売も忘れてはならない。といっても私の家にPCが入るのは翌96年の秋になってから。この時はまだブラインドタッチが出来る程度で、ITの世界で飯を食っていくことになろうとはつゆほども思っていなかった。しかし1995年がWindowsブームの年であったことは、私のIT技術者としての原点に大きく影響を与えているはずだ。私が芦屋市役所にアルバイトで雇われたのが1996年。ここでWindows95に親しみ、今に至るIT技術者としてのスタートを切ったのだから。

本書には、上に挙げた4つの出来事以外の様々な出来事が取り上げられている。これらを読むと、1995年が地震やサリンだけの年ではなかったことを痛感する。それら事件を著者は丹念に新聞・雑誌から拾い上げ、本書で開陳する。しかも、そのほとんどが、浮かれていた私の記憶からこぼれ落ちていたことに今更ながら気づく。

例えばラビン・イスラエル首相の暗殺。青島都知事・横山府知事の当選。都市博は中止となり、住専問題や二信組問題が世を騒がした。カラオケが全盛期で、ヒットチャートにはメガヒット曲が並び、T.Kサウンドが一世を風靡した。イチローが210本のヒットを放ち、オリックスがパ・リーグを制したのもこの年で、野茂投手が米国で旋風を巻き起こしたのも懐かしい。

これら全てを、私は22歳の若者として享受し、浮かれ、永遠に今の時間を楽しめるものと考えていた。社会人になる直前のモラトリアム最後の年が1995年。どれだけ多くの物を与えられ、かつ、取り逃したことか。昔はよかったというつもりはないが、幸せな時期であったのは確か。

著者も私と同じく1973年の生まれだという。おそらくは私と同じく青い時代を楽しみ、事件に衝撃を受けたことと察する。しかし私と違うのは、著者は本書としてきっちり1995年の総括を果たしたということだ。私とて、本書を読む2日前の1/17に震災の日の自分をようやく振り返った。が、まだ当時の社会や経済を振り返るところまでは至れていない。本稿の冒頭に書いた「先を越された」とは、私が行うべきことを著者に先に越された悔しさでもある。と同時に、同世代の著者がそれをしてくれたことに一抹の安堵も覚えた。

‘2015/1/19-2015/1/21


「人と防災未来センター」を東京にもつくるべき


先週、4/26日に帰省した折、HAT神戸にある「人と防災未来センター」を訪問してきました。

のっけから結論をいうと、
「人と防災未来センター」を東京にもつくるべき。
これです。

さらに言えば、
特別企画展として催されていた「1.17 阪神・淡路大震災20年 伝えよう 未来へ 世界へ」も含めて東京での展示をお願いしたい。
これです。

このセンターの目的は、再び阪神・淡路大震災の被害を繰り返さぬため、後世に、未来に向けてメッセージを発信することにあると思います。確かに、阪神・淡路大震災の被災者にとり、遠い未来の阪神・淡路地域の防災を願うのは当然のことです。

しかし、それだけでよいのでしょうか。

私は、当センターの展示物の持つメッセージは、今の首都圏に住む人々にとってこそ切実に発信されるべきだと思うのです。江戸の昔から、東京には地震がつきもの。これは云うまでもありません。ここ150年に限っても安政江戸地震、関東大震災が発生しました。間隔から算出すると首都圏が大地震に襲われることは必至と言われています。

先日の東日本大震災では、首都圏も大きな揺れに襲われました。とはいえ、震源地は宮城県沖です。地震による直接の被害といってもお台場のビルが燃え、京葉工業地帯で爆発が起こったぐらいでした。首都圏に住まわれるほとんどの方にとって、地震の被害として記憶に残っているとすればなんでしょう。計画停電や電車遅延による心労、放射能汚染に対する恐れがせいぜいではないでしょうか。いづれも直接の地震被害ではありません。二次被害です。

しかし、このセンターの展示で阪神・淡路大震災の被害を見ると、東日本大震災で首都圏が被った地震による直接被害は、まったく過小なものであったと思わされます。そして、憂うべきなのは、そのことによって首都圏に住む方々が、地震への畏れを過小に認識し、それを定着させてしまったことでしょう。地震と言ってもたいしたことではない、という無意識の油断。このような油断が地震災害を広げることは云うまでもありません。当センターの目的は、そういった油断を諌め、将来の教訓とするためにこそあります。

なぜこのようなことを書くかというと、私自身、1.17と3.11の揺れをともに体験しているからです。といっても、1.17と3.11の揺れや建物被害の程度は比較にもなりません。町田で体験した3.11の震度五強の揺れは、1.17で体験した震度六強の揺れに比べても僅かなものでした。では、阪神・淡路大震災と同じ程度の揺れが首都圏を襲ったら何が起こるか。その被害の程度については私にも想像がつきません。相当な被害になる事は間違いないでしょう。私自身、あるいは命を落とすこともあるでしょう。

今回、初めて当センターを訪問し、そのことを強く感じたからこそ、自分への戒めとして本文を書くこととしました。

以下に、センターを訪問しての感想を述べていますが、結論は冒頭に書いた通りです。首都圏が阪神・淡路大震災と同じ揺れが起きたらどうなるか。そのことについて、首都圏の人はあまりに無関心です。首都移転の議論もすっかり下火となり、2020の東京オリンピックだけが先走っているように思えてなりません。私はそのことを強く危惧しています。少しでも多くの首都圏の方に、このセンターと同じような展示を見て頂きたい。

承知のとおり、今年は兵庫県南部地震、いわゆる阪神・淡路大震災が発生して20年の節目の年です。1/17には追悼行事の報道で、当時の記憶を新たにした方も多いのではないでしょうか。わたし自身、薄れる一方の記憶を呼び起こし、当日にこのような一文をしたためました。

人と防災未来センターでは、20年を総括する特別展が催されています。今回の帰省は高校時代の友人達に招かれたのですが、良い機会と捉え、まだ未訪問だった当センターに足を運びました。IMG_3532

ガラスで覆われた印象的な外観のセンターは、西館と東館に別れています。西館一階から入場した私は、エレベーターで四階に案内されました。四階から二階へと下り、一度降りると上階へは戻れないようになっています。

四階は震災追体験フロアと銘打たれています。案内されたのは、立ち席のシアター。シアターの入り口には震災追体験を望まれない方は三階へお進みくださいと看板が立てられています。この看板の意味するところは、シアターを体験すればすぐに分かります。

当センターの目的は、防災の精神を未来に伝える事と受け止めました。防災の精神は、単に写真や遺物や文章を眺めるだけでは養われません。揺れの凄まじさに堅牢な建造物がいとも簡単に破壊される都市直下型地震の恐怖。この恐怖が刷り込まれてこそ、防災の必要性に目覚める。私はこのシアターの意味をそう体験し、心に刻みました。

shockと名付けられたシアターは、不規則で大きな凹凸が覆われたスクリーンが立体的に設置されています。直角三角形の長辺を想像すると分かりやすいです。観客は、震動を体感できる台のような場所に立ちます。前面のシアターには地震の揺れの凄まじさが映り、フラッシュが幾度も鋭く明滅し、サラウンド音響がシアター内に轟き、足元は揺れます。揺れるといっても、震度七の揺れではありません。それでは観客は映像を体験するところではなくなってしまうでしょう。揺れは抑えられているとはいえ、凸凹スクリーンに映る揺れの映像は凄まじい出来です。正直言って、これCGですよね?現実の映像ではないですよね?と聞こうかと思った程です。野島断層が断裂する瞬間を、阪急伊丹駅が崩壊する刹那を、長田区の住宅が粉々になる過程を、センター街のアーケードか原型を失う一瞬を、阪神高速神戸線が倒壊する数秒を、明石の天文科学館が揺れに翻弄される様子を、走行中の阪神電車が脱線する衝撃を、これら揺れの瞬間を偶然納めたアマチュアカメラマンの映像が残っており、それが上映されたかのよう。そのくらいリアルな映像でした。 

起震車という車があります。機械の力で震度七が体験できるというものです。私も体験したことがあります。その揺れに比べたらこのシアターの揺れはそれほどのことはありません。あの日の朝、両手で家を捕まれてめちゃくちゃに振り回されたような感覚を知る私にすればシアターの揺れは遠く及びません。でも、映像のリアルさがあまりにも真に迫っているため、20年前の恐怖が呼び起こされたようです。小学生以下のお子さんだと泣くかもしれません。

揺れの衝撃を味わった我ら観客は、シアターの外へ誘われます。そして、そこで目にするのは、病院の待合室。強烈な揺れに翻弄され、様々なものが散乱した病院に迷いこみます。20年前の朝に引き戻されたような空間です。病院の一方の壁は大破し、5時46分の明け方の暗い空が見えます。外に出ると、崩落した家の瓦礫が道路を塞ぎ、傾いた電柱から垂れ下がった電線が頭上に迫ります。高架からは路盤が崩れ、ずり落ちた線路が。これらのリアルな等身大ジオラマが、あの朝の、辺りを満たす奇妙な静寂を思い起こさせます。

ずり落ちた線路を潜ると、大震災ホールへと続きます。このシアターには、光も揺れも音響もありません。語り手は地震当時15歳の女性。激震により家は大破し、瓦礫の中に生き埋めとなるも、火の迫るなか、近隣の住民に助けられた経験を語ります。隣の部屋にいた姉は、「いいから、早よ行き!」という言葉を残し、焼死します。彼女がそのあと体験した、不安と寒さ、避難所生活のストレス、救急物資のありがたみが語られます。町は徐々に復興していきますが、土地を離れた人、賑わいを取り戻せない商店街の寂れなどをへて、彼女は震災体験を活かし、看護師になります。

ブログにも書いたように、私自身、地震当日からしばらくの時期は生きるのに必死で、復興の様子や街並みの様子はあまり覚えていません。しかし、こうやってシアターの彼女の体験を追ううちに、20年経って忘れてしまったこと、20年の時間の中に封じ込めてしまったものが思い出されます。感動しました。小学生の姉妹を連れた家族連れも来ていましたが、最初のshockでは平気だったのに、こちらのシアターではずっとすすり泣きの声を上げていました。

最初のshockの入り口に、震災追体験を望まれない方は三階へお進みくださいとの看板のことを書きました。その意味がよくわかりました。人によってはこれらの展示は余りにも強く当時を思い出させます。PTSDの症状に襲われる可能性も否定できません。常連客が再度の追体験を省くためだけといった理由もあるのでしょうが、シアターの内容にショックを受ける人への配慮もありそうです。この二つの映像と等身大ジオラマにはそうさせるだけの力があります。

続いて下りのみのエスカレーターで三階に降ります。震災の記憶フロアと名付けられたここは被害と互助、復興についての場です。かなり濃密な空間となっています。正直すべての展示を見るには体力と気力がいります。一字一句くまなく追うことは断念しました。でも、鷹取商店街の高熱でぐにゃぐにゃに溶けたアーケードの残骸や、揺れによってひどく歪んだ側溝の蓋など、印象に残る展示物も多かったです。様々な方の震災体験が豊富に展示され、行政の動きやNPOの活動など、実に濃い空間です。NPOには私も関心を持っており、ことさらじっくりと拝見しました。阪神・淡路大震災の起きた平成七年が日本のNPO元年とも言われるぐらい、地震後のNPO活動には特筆すべきものがありました。こういった専門的なことも学べるのがこちらのフロアです。IMG_3534

続いて二階へと下りました。一度二階に下ると三階のフロアには戻れないため、三階は生半可な気持ちでは見て回れません。しかし、防災・減災体験フロアという名の二階フロアは、比較的子供向けのワークショップや体験的な展示物が多く、少し拍子抜けしました。とはいえ、日本各地のハザードマップを集めたコーナーや多数用意されたPCによる災害ページの閲覧コーナーなど、じっくり腰を据えると学ぶべき点は多いです。家庭に備蓄すべき防災グッズも数多く展示されており、首都圏の人にこそ見てもらいたいフロアといえるでしょう。

こちらのセンターは西館と東館に別れていると書きました。二階には渡り廊下が設けられていて、東館に渡ることができます。東館の展示は、根本の限られた地球の資源や環境の大切さを学べる展示となっています。そして特別展示の場所としても。常設展はどちらかというと子供向けの内容が多く、帰京の時間が迫っていた私は、じっくりと見て回りませんでした。でも、特別展示は別です。

「1.17 阪神・淡路大震災20年 伝えよう 未来へ 世界へ」と題された特別展はじっくりと見て回りました。手作り感あふれるボードに書かれた当日の被害やその後の復興が分かりやすくまとめられています。被災地の全ての家屋が白地図で貼りだされ、被害度に応じて色分けされています。被災して全壊認定を受けた私の実家も白地図でくっきりと示されており、色も塗られていました。しかしこうやって全体で見ると、我が家よりも重度の被害に遭った家屋の多さに言葉を失います。IMG_3550

こちらの特別展で首都圏の人々に特に見て欲しいのは、南海トラフ巨大地震や首都直下地震など将来発生する大規模災害についての展示です。首都圏に住む人々にはお馴染みの景色が手書きイラストで30枚近く展示されています。戸越銀座や三軒茶屋、押上やお台場、新宿や多摩センターといった景色の。あえてキャプションは付されていませんが、首都圏に住む人にとってはどこを描いたか想像の付くイラストです。これらのイラストは全てあるテーマを基に描かれています。それは、地震発生後の人々が避難する様子です。あえて建物は想像し易くするため原型のまま描かれていますが、そこに登場する人々の様子は切迫しています。普段住んでいる街が被災したとき、何が起こるか想像してみて欲しいというのがこの展示の主旨なのです。

しかし、私は展示を観ながら素朴な疑問を抱くに至りました。それは、阪神間に住む人々はこれらのイラストをみてどこか想像つくのだろうかというものです。さらには、果たしてこの展示を首都圏の方々が見ることはあるのだろうか、という展示自体への疑問にもつながります。

ここにきて、冒頭にもあげた結論に繋がる訳です。「特別企画展として催されていた「1.17 阪神・淡路大震災20年 伝えよう 未来へ 世界へ」も含めて東京での展示をお願いしたい。」という結論に。今のままではこの展示は首都圏のほとんどの人の眼に触れることなく、特別展示の期間が終われば破棄されてしまうでしょう。それはあまりにも惜しい。防災がいま日本でもっとも必要な都市はどこかといえば、東京を中心とした首都圏に他なりません。当センターの展示物をもっとも見るべき人々が住まう場所も同じです。なのに、それが首都圏の人々に届いていないもどかしさ。私が本文を書こうと思い立ったきっかけもまさにそこにあります。

 叶うならば、東京に地震が来ないで欲しい。でも、科学的見地から、東京が地震に襲われることは免れない。であれば、少しでも被害が減らせるような方策を取るしかない。そのためには、首都圏に住まう人々に少しでも当センターのことを知らせるような運動を起こさねば。そのような動機から、本文を書きました。願わくはこの文をきっかけとし、首都圏の方々が当センターの展示に関心を持って下さるように。

 そうでなければ、20年前に亡くなられた6434人の犠牲が活かされなくなってしまいます。


あの日から20年


 午前5時46分。巨大な両手で家を捕まれ、前後左右に強く振り回されました。以来20年が経ちましたが、あの朝味わった揺れの強烈さは感覚の底に未だにこびりついています。その揺れは、何千人もの人々の命を奪い、私の家族をはじめ、何十万もの人々から家や想い出を奪いました。兵庫県南部地震、いわゆる阪神・淡路大震災です。1/17が来るたび、この日の思い出が蘇ります。

 幸いなことに私は怪我もなく、阪神間に住んでいた親族も無事でした。しかし、野島断層に生じたずれと、そこから弾けた衝撃波は、私の家と、その後の人生をも大きく揺さぶりました。私にとって生涯忘れることのできない揺れです。とはいえ、20年とは赤子が成人に育つだけの年月です。当時を振り返ろうにも、私の脳裏からはかなりの記憶が失われてしまいました。しかし、記憶に積もった埃を払うには、今が最後の機会かもしれません。大学3回生の、挫折を知らぬ太平楽な青年も、20年の年月が経てば、上京し結婚し2児の父となり、それなりに生きる苦みと素晴らしさを思い知ります。今年に入り、本ブログを本格的に活用しようと決めました。決めた以上は、20年の節目を指をくわえて見過ごすわけにはいきません。払った埃がまだ空中に舞っている間に、思い出せる限り当時のことを書いてみようと思います。私が経験したこと、思ったこと。地震が日本に与えた影響について。両親から当時の写真をデータで頂いたので、写真付で綴ってみようと思います。

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 まずは前日。平成7年1月16日に記憶を巻き戻してみます。

 その日、私は明石に住む友人と会っていました。高校、大学と窓を同じくし、共に過ごした気の置けない友人です。その日何をしていたかは、もはや記憶の藪の中です。彼とは大学は同じでも学部が違っていたので、1月17日から始まる予定の期末試験の相談をしていたとも思えません。おそらくは二人でよくスキー旅行に出かけていたので、季節柄スキーの計画を立てていたのでしょう。

 夕方、明石の彼の家を出た私は、車で西宮の実家に戻りました。その時、何を思ったか、直線コースの2号線、43号線を使わず、長田辺りから山手幹線を通って帰りました。長田といえば翌朝の震度7の揺れとその後の火災旋風でかなりの被害が出た場所です。翌朝にそこが焼野原になることなど知る由もなく、ましてや再び明石に救援に戻ることなど思いのほかでした。予知能力などといった高尚な能力は持ち合わせませんが、偶然の暗合として、未だに思いだすエピソードです。

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 そして当日。平成7年1月17日。午前5時46分。

 当時も今も、私の実家は甲子園の某所にあります。今の家は、地震で全壊した旧宅を更地化し、そこから両親の力で建て直したものです。その朝、2階建て木造一軒家の我が家は震度6の揺れに激しく震えました。築30年の風雪に耐え、あちこちで古びつつあった我が家は、私が幼稚園生の頃に前の持ち主から買い受けた家です。前の持ち主の調度や壁紙、扉などかなり凝っており、建売住宅とは一線を画した造作になっていました。その家の2階の1室が私の部屋でした。部屋の押し入れを寝室として使っており、凄まじい揺れも押し入れで体感しました。気楽な大学生にとって朝の5時46分は深夜も深夜。熟睡中でした。そんな中、ものすごい揺さ振りです。それを夢うつつの中で感じ、起きたのは揺れが収まってからです。でも、巨大な手によって掴まれた家が、強烈に揺さぶられる感覚は、未だに拭い去ることができません。

 襖で隔てられた隣の部屋は家族がクローゼットとして使っていました。丁度その瞬間、早朝からのゴルフの支度に余念のない父に、強烈な揺れで崩れたタンスが襲いかかりました。危うくタンスに命を奪われかけた父ですが、なんとか急所を外し、私の安否を尋ねてくれました。それで私もはっきりと覚醒しました。しかし私の部屋は、多数の本が散らばり、床は一面本の海。しかも、眼鏡が地震の揺れで行方不明となり、探すのに難儀しました。揺れが収まった直後の奇妙な静寂と、やがて近所から聞こえてくる泣き声。何か大変なことが起こったことを、その静寂が教えてくれました。

 1階に寝ていた母と2階の別の部屋で寝ていた弟は無事でした。1階に集合し、まずラジオを点けました。ラジオが伝える報道では、震源地は明石海峡付近であるとのこと。明石には父の両親が住んでいます。しかも住まっている家は戦前から変わらぬ佇まい。リフォーム知らずの老朽度は、かなりの年季入りです。震源地を間近にし、80代の老夫婦がそのような家に住んでいたら、何が起こるか。

 混乱覚めやらぬ中、確か私から父に申し出たように覚えています。「明石に行ってくる」と。父からは瞬時の逡巡の後、「よし、行ってきてくれ」との返事がありました。かくて、震災の朝、私の明石への救出行は始まりました。車を駆って震災の混乱の中、西宮から明石へ。もちろん、何の準備も情報もありません。あるのはただただ無鉄砲な祖父母を案ずる思いだけでした。私が家を出たのは、確か朝の6時半頃だったように思います。

 家の近くを走る国道2号線。まずここまで出ました。車の量は少ないとはいえ、信号が全く作動していません。作動していない信号を、注意深く何度も横切ります。行き交う車がお互い注意し合えれば、何とか通行できる程度の交通量でした。私は車を西へ西へと運転します。しかしその運転も長くは続きませんでした。2号線と171号線が交差する札場辻交差点。ここから車が動かなくなり、進む様子を見せません。私はここで車の向きを変える決断を下しました。すなわち、北へ。171号線から、市立体育館の横を抜け、廣田神社の参道を通ります。道すがら見た街の様子は一変していました。一方通行を逆走した記憶もあります。崩れた土砂の上を渡ったような記憶もあります、が、そのほかの風景はあまり覚えていません。それだけ運転に必死だったのでしょう。目指すは盤滝トンネル。西宮の北部から山道を越え、有馬温泉から六甲の北を回って明石に抜けるルートです。高校時代の友人の家が岡場にあり、当時よく遊びに行っていたので地理勘もあります。

 ところが、この道が大変な難所でした。西宮市街地から船坂地区へは盤滝トンネルをくぐります。震災の数年前に開通した盤滝トンネルへの道は、甲山の脇を抜け、六甲山最高峰への道に重なります。ところがその朝、盤滝トンネルは地震の影響で閉鎖されていました。ここで私は再度決断を下します。盤滝トンネルが開通するまで、船坂地区と西宮市街地を結ぶ唯一の道だった、小笠峠を越えるルートに車を進めました。やむを得ない決断とはいえ、真冬の早朝、道は凍結しています。さほど広くない道には地割れや落石が頻発し、道路のあちこちを塞いでいます。落石と言っても小さい物から、軽トラックほどの大きさの岩まで様々な障害物が転がっています。万が一、上から落ち掛かられたら命はありません。凍結と地割れと落石をどうやってやり過ごしたのか、全く記憶にありませんが、なんとか峠を越えて船坂地区へ。そこからは比較的被害が少ないように見える道を、順調に明石へと向かいます。船坂からは金仙寺湖、流通センター、岡場と過ぎ、押部谷へと至ります。この間、北側の八多、淡河を通るルートと、南側の神戸電鉄有馬線沿いのルートがありますが、どちらを通ったのか、全く覚えていません。思いはただ、西へ、明石へ。

 押部谷に着きさえすれば、あとは明石までは南下するだけです。明石までどのようなルートを辿ったのか覚えがありませんが、側溝に横転してはまり込んだ軽自動車や、神戸方面の空が妙に赤かったことは記憶にあります。よく、戦災体験の手記を読むと、彼方の空が赤く底光りしていた、といった記述を見かけます。まさにそのような空の色だったように思います。といっても視覚イメージは私の脳裏から失われてしまい、その時にそう思った思考の残滓だけがいつまでも焼き付いているだけですが。20年の月日が記憶を風化させてしまいました。

 明石の祖父母の家は、到着前に抱いていた暗い予想を裏切り、祖父母とともに無事でした。室内の物が雪崩れたとはいえ、拍子抜けするほどに被害がありませんでした。これは後学ですが、野島断層からの亀裂は真っ直ぐ東の神戸方向に伸びました。そのため、天文科学館のすぐ裏手だった祖父母の家はさほど揺れず、被害が最小限に抑えられたのかもしれません。片づけを手伝おうにも切迫した危機も、近隣の住宅が崩れたといったこともありませんでした。すると今度は西宮の家が心配になります。なので、あまり明石の祖父母宅に長居せず、再び来た道を戻ることにしました。電話はもちろん不通で、携帯電話もない時代です。全ては自分の判断が頼りでした。

 途中、腹ごしらえに神戸学院大近くのローソンに寄りました。店内の商品はきれいになくなっていました。道中、何を食べたのか覚えていません。ローソンでわずかに売れ残っていた食料を買ったのか、お菓子を買ったのか。時刻は昼ごろだったと思いますが、災害時の買い占めといった事態に初めて出会いました。その前に通りがかった明舞団地あたりでは、ガス漏れの匂いがあたりに立ち込めていたことも思い出されます。でも、総じて、明石近辺の被害は、第一報の印象よりもはるかに僅少でした。そしてその頃には、大震災の被害状況が少しずつ私の耳に入ってきていました。

 その朝、私が運転中にずっと聞いていたのはラジオ関西でした。普段はAMラジオなどめったに聞くことのなかった私ですが、道中、ひたすらラジオ関西の報道だけが頼りでした。後日、ラジオ関西は震災当日とその後の一連の報道によって、賞を受けたとか。それも然りと思わせるほど、冷静で感情を抑えたCM抜きの報道にどれだけ救われたことか。感謝の気持ちただそれだけです。

 ラジオ関西からの情報により、一番ひどい被害が須磨区から長田区、兵庫区、中央区と東に向かって帯状の地帯に集中していることを知りました。であれば、昨夕通った2号線と43号線ルートは使えません。行きと同じく、六甲の北を回るルートで帰りました。行きのルートもあまり記憶にありませんが、帰りのルートもほとんど記憶に残っていません。ただ、早朝に命からがら峠越えした小笠峠のルートは通らず、176号線を宝塚まで出て、そこから武庫川沿いに南下したことは覚えています。

 家に帰ると、すでに辺りは夕闇でした。電気・ガス・水道はもちろん通じません。ガラス窓も大方割れてしまい、床も散々な有様でしたが、私が明石へと往復している間に、家族が応急処置をしてくれたのでしょう。家族4人、無事に夜を迎えることができました。といっても、帰宅してからの記憶は殆どありません。どこで寝たのかも、家族4人が一緒の部屋で寝たのかも忘却の中です。ただ、この日は期末試験で、どうせ試験も中止、と決めつけたような記憶はあります。電話も使えず、せっかく明石に行ってきたのに、その前日に会ったばかりの友人の安否も知らず、我が家の安否すら誰にも教えられぬまま、不安の夜を過ごしました。

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 1月18日から、2月初めの吹田への引っ越しまでの間。

 震災翌日から、私は色々と動きました。西宮市役所へ被災届を出しに行ったのも私。西宮市役所の職員の方が充血した目と無精ひげのまま応対して下さったこと、未だによく覚えています。顔すらぼんやりと思いだせるほどに。父が公務員であったにもかかわらず、偏った世間知らずの学生知識で、公務員は楽な仕事といった少しの偏見を持っていました。が、この職員の姿を見てから、そのような誤った考えは私から消えました。直接に助けられる機会はありませんでしたが、自衛隊に対する考えが一変したのもこの時からです。国防は脇に置くとしても、災害時の救助活動で自衛隊の活躍に及ぶ物はない、という考えに。また、これを書いている震災20年を迎えた今、仕事の法人化準備を進めているのですが、その中でNPOについても勉強しています。NPOの意義が世間に遍く行き渡ったのも、阪神・淡路大震災であること。これも学んだことの一つです。

 もう一つ忘れられないのが、先輩からの届け物です。これは確か震災翌日だったように思います。隣の尼崎に住んでいた大学の先輩が、自転車で食料を届けにきて下さいました。後日、様々な方から沢山の助けを頂きましたが、一番最初に手を差し伸べて下さったのがこの先輩です。震災の翌年には、職に就かずにいた私に芦屋市役所でのデータ入力の仕事を紹介し、私をITへの道に導いて下さりました。私にとって終生の恩人です。残念なことに、東日本大震災の数日前、逝去されました。2つの大地震の発生日に近づくと、この先輩のことを偲ばずにはいられません。

 混乱の中、市は僅かずつ、機能を取り戻しつつありました。ご担当者が早めに動いて下さり、我が家は全壊認定を受けました。赤紙です。強い余震でぺしゃんこになってしまう恐れがあります。なので、私以外の家族3人は、家から徒歩5分の自治会館で寝泊まりすることになりました。夜の留守番は私独りです。おのずと感覚も鋭敏になります。なんと、地震の揺れがくる数秒前に、地震を予知できるようになりました。1階の部屋で寝ていると地震が来るのがわかるのです。ゴゴゴゴゴ・・・と遠くから徐々に音が大きくなり、近づいてきたその音が寝床の真下に来ると、グラグラっと家が揺れます。この戦慄の感覚は今でも明確に脳裏にあります。しかし、地震が頻発する東京に住んで15年になりますが、この時に会得した地震予知能力は喪われてしまいました。残念です。地震直後の異常な状況が、私の感覚を研ぎ澄ましていたのでしょう。

一見するとあまり被害を受けていないように見えるが、全壊認定を受けた我が家。img034
門柱には亀裂が走り、塀は今にも倒れそうな状態。img035
一番被害が甚大だった浴室と洗面所。足を踏み入れることすらできない状態に。img036
水場は地震の被害に特に弱いことを痛感しました。img057
洗面所は、鏡が残って居なければ、何だったかすら定かではありません。img046
私の当時の部屋。大分片付けたのですが、地震直後は床が本で埋まりました。ゲルググやドダイのプラモデルが懐かしい。部屋の真ん中につるしていたハリセンボンが懐かしい。ペリー・ローダンの文庫本が懐かしい。KENWOODのミニコンポが懐かしい。各地で買い集めた通行手形が懐かしい。20年前の自分よ、私はこんなおじさんになりました。
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 家は全壊認定を受け、もはや壊すほかなくなりました。地震のため、大学の期末試験は代替レポート提出で免除されることになり、私は日々買い出しで尼崎や大阪まで出る日々が続きました。家のすぐそばを武庫川が流れているのですが、武庫川を渡ると、そこは全くの別世界。被害状況たるや西宮と尼崎では天地の開きがあります。阪急伊丹駅こそ全壊しましたが、西宮以西の惨状とは違う光景に戸惑いの日々でした。風呂に入れなかったので、高槻の親戚の家まで風呂を浴びさせにもらいにいったり、吹田の大学に行ったり。そんな中、家探しも並行して行っていました。それは専ら私の役目。私がお願いしたのは大学の友人達。大学が吹田にあり、私の友人たちが大阪府や奈良県に散らばっていたので、彼らに助けを乞い、めぼしい物件を探してもらいました。そしてはやくも2月の初めには、吹田市のめぼしい物件を契約できました。阪急千里線の南千里駅からすぐ、高級住宅地の一角にある家でした。この家を見つけてもらった友人とは、大学時代はよく会っていたにも関わらず、大学卒業後に連絡が途絶えてしまいました。以来20年、彼の消息は常に気に掛かっています。一度改めてお礼したいと願っているのですが。

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 家は地震から3か月半後、5月2日に、取り壊し始めました。昭和54年から住み始め、16年弱。この解体は父が見届けました。

手前にみえる部屋の壁は私の部屋の壁です。img060
手前にみえる部屋の壁は、地震の日の朝、父がタンスに襲われた部屋です。img078
近隣の家屋はほとんど全壊となり、時期を同じくして解体されました。
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 地震は、私の人生観を一変させました。人がいかに不安定な現実の上に依っているか。腹が据わったとも云えましょうか。冒頭にも書いたとおり、家族・親族こそ無事でしたが、私の知人で亡くなった方は何人もいます。九死に一生を得た知人もいます。恥ずかしい話ですが、この地震から初めて、自分の人生を生きねば、という自覚を持ったように思います。それまで順風満帆な21年間を生きてきた私が、初めて遭遇した異常時。それがこの地震でした。

 東日本大震災の際、世間が自粛モードに染まりつつある中、私は自粛の態度を取りませんでした。それはこの地震で被災者となった経験によるものです。災害に巻き込まれた当事者にとって、身の回りの世界の外に住む人が自粛していようがいまいが全く関わりのないことです。そんなことに気を回す間もないほど、身の回りのことだけで忙殺される。それが被災者です。自粛に意味があるとすれば、地震当日、私が聴き続けたラジオ関西のように、CMよりも役に立つ安否情報や被害情報を流す必要に迫られた場合です。こういう自粛は意味ある自粛です。

 写真というメディアの有効性は、地震から年を追うごとに私の中で高まりました。地震当日の貴重な記憶が、上にも書いたようにほとんどすっ飛んでしまっています。非常時、心に目の前の光景を焼きつけるだけの余裕は与えられません。撮っている余裕があったかどうかはさておき、当日の朝にこの目で見た状況を記録するカメラを持たなかったことは痛恨の極みです。後年、旅行先でカメラを手放さず、風景を撮りまくるようになったのも、この経験を心象イメージとして記憶できなかった自分への戒めから来ています。Facebookに日々写真をアップするのもその一環です。その当時、写真の重要性に気付かなかった私は、我が家周辺の被害状況を写真に収めることすらしませんでした。下に挙げる写真は弟が撮ってきたものです。

有名な高速道路の落下現場。甲子園球場のすぐ傍、久寿川に掛かる橋です。img064
阪急電車の高架崩落現場。西宮北口⇔夙川間。img066
西宮市役所前に並べられた支援物資。img083

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 2月より吹田に引っ越した我が家。地震により期末試験の代替レポート提出を課せられた私ですが、地震後の片づけやら手続きやら引越やらをしていて、すっかりレポート提出を忘れる始末。大学で独り反省文を書かされたのは苦い思い出です。オウム真理教が日本を震撼させる中、大学の部室に入り浸る日々。4回生になり、就職活動が始まるも、高揚した気分のまま、勢いで就職活動をこなし、就職氷河期の中、するっと最終試験へ。そこで調子にのって就職活動を辞めた所、それらの最終試験が全滅。しかし私の舞い上がった気持ちは、その夏のほとんどを西日本、九州、沖縄、台湾への旅へと駆り立てました。

 そんな無軌道な4回生のキャンパスライフを過ごした私。翌年3月に大学は卒業したものの、内定無しという現実が待っていました。とはいえ、地震の経験から吹っ切れた就職浪人の私は、吹田の家で自由な時間を謳歌する日々。やがて地震の翌年、平成8年の10月に更地から家を建て直し、西宮に戻ることになります。そのタイミングで、先にも紹介した先輩が私の身を案じ、芦屋市役所のアルバイトを紹介して下さいました。ここでITの道に開眼する私ですが、舞い上がった気持ちは反動でどん底へ。生涯で一番きつい鬱の日々が続きます。この時に読みまくった本達。その後の新たな出会いを求めての活動。さらにはインターネットを通じて今の妻との出会い。ブラック企業での理不尽で不条理な日々。その悔しさからの一念発起の上京。結婚や家土地売却の試練、娘達の誕生、個人事業主への独立。歯科医院の開業。そして今、法人化に向けてようやく踏み出そうとする私があります。

 阪神・淡路大震災。戦後の日本が遭遇した有数の出来事です。ここに書いたことはあくまで私の、私自身の体験でしかありません。しかし、その体験は、私自身の人生を確実に変えました。そして人生に対する、世の中に対する考え方をも変えました。20年の月日が経ち、改めて地震の日を振り返る機会を持てたこと、それによって積もった埃を振り払い、こうやって一文をモノすることもできました。自分の今後の行く末を占ううえで、有意義な振り返りだったと思います。挫折を知らぬ青年が、20年を経て世間に揉まれ、とうとう法人化を企てるまでになりました。法人化を為そうとするに当り、一体自分はどういう人間で、どういう信条を語り、自分の来し方にどう落とし前をつけるのか。本文を著す経過の中、そういった一つのけじめが出来たように思います。


震度0


警察内部というよりも組織の中で戦わねばならぬ閉じた世界のやるせなさ。仕事場だけでなく家庭にも裏表を持ち込む組織内の争いの陰惨さを描き出そうとした著者の意図がくみ取れる。

震度0というタイトルには様々な意味を込めてのものであろうが、それは、表だって力に訴えることなく、背後では後ろ暗い陰謀を張り巡らせる力の表現であり、物語の背景で同時進行している阪神・淡路大震災の震度7の惨状を尻目に身内で争う様を対比する指標としての震度0であったりする。もちろん、自然の力に対する人間の争いの小ささを表す尺度であったりもする。

実際の被災者である私にとっては、あの現場に立ち会っていない者どもの醜さとして、この対比の手法は効果を上げているように思えるのだが、本筋に関係ない、あくまで著者の意図をより鮮明に浮き彫りにするためだけの地震の取り上げ方については賛否両論があろうと思われる。

’12/3/2-12/3/3