Articles tagged with:

夜更けのエントロピー


著者の名前は今までも知っていた。だが、読むのは本書が初めてかもしれない。

著者の作風は、本書から類推するにブラックな風味が混ざったSFだが、ホラーの要素も多分に感じられる。つまり、どのジャンルとも言えない内容だ。
完全な想像上の世界を作り上げるのではなく、短編の内容によっては現実世界にもモチーフを求めている。
本書で言うと2つ目の「ベトナムランド優待券」と「ドラキュラの子供たち」、そして最後の「バンコクに死す」の三編だ。これらの三編は「事実は小説より奇なり」を地で行くように、過酷な現実の世界に題材をとっている。
史実で凄惨な現実が起こった場所。そこを後年の現代人が迷い込むことで起きる現実と伝説の混在。それを描いている。
人の醜さが繰り広げられたその地に今もなお漂う後ろ暗さ。その妖気に狂わされる人の弱さを描き出す。
本書の全体に言えるのは、現実の残酷さと救いのなさだ。

本書には近未来を題材にとった作品もある。「黄泉の川が逆流する」「最後のクラス写真」の二編がそうだ。ともに現実の延長線にありそうな世界だが、SFの空想としてもありうる残酷な未来が描かれている。

残りの二編「夜更けのエントロピー」「ケリー・ダールを探して」は、過去から現代を遡った作品だ。歴史的な出来事に題材をとらず、よりパーソナルな内容に仕上がっている。

本書の全体から感じられるのは、現実こそがSFであり、ホラーであり、小説の題材であるという著者の信念だ。
だが著者は、残酷な現実に目を背けず真正面から描く。それは、事実を徹底的に見つめて初めて到達できる境地だろう。
この現実認識こそ、著者の持ち味であり、著者の作風や創作の意図が強く感じられると理解した。

以下に一編ずつ取り上げていく。

「黄泉の川が逆流する」
死者を復活させる方法が見つかった近未来の話だ。
最愛の妻を亡くした夫は、周囲からの反対を押し切り、復活主義者の手を借りて妻を墓場から蘇らせる。
だが、夫の思いに反して、よみがえった妻は生きてはいるものの感情がない。精気にも乏しく、とても愛情を持てる相手ではなくなっていた。

死者を蘇らせたことがある家族を崩壊させていく。その様子を、ブラックな筆致で描いていく。
人の生や死、有限である生のかけがえのなさを訴える本編は、誰もが憧れる永遠の生とは何かを考えさせてくれる一編だ。

「ベトナムランド優待券」
解説で訳者も触れていたが、筒井康隆氏の初期の短編に「ベトナム観光公社」がある。
ベトナム戦争の戦場となった場所を観光するブラックユーモアに満ちた一編だ。ただ、本編の方が人物もリアルな描写とともに詳しく描かれている。

日常から離れた非現実を実感するには、体験しなければならない。
観光が非日常を売る営みだとすれば、戦争も同じく格好の題材となるはずだ。

その非現実を日常として生きていたのは軍人だろう。その軍人が戦場を観光した時、現実と非現実の境目に迷い込むことは大いにありうる。
本書はブラックユーモアのはずなのに、戦場の観光を楽しむ人々にユーモアを通り越した闇の深さが感じられる。それは、著者がアメリカ人であることと関係があるはずだ。

「ドラキュラの子供たち」
冷戦崩壊の中、失墜した人物は多い。ルーマニアのチャウシェスク大統領などはその筆頭に挙げられるはず。
その栄華の跡を見学した主人公たちが見るのは、栄華の中にあって厳重な守りを固めてもなお安心できなかった権力者の孤独だ。
この辺りは、トランシルバニア、ドラキュラの故地でもある。峻烈な統治と権力者の言動を絡め、残酷な営みに訪れる結末を描いている。
正直、私はルーマニアには知識がない。そのため、本編で描かれた出来事には入り込めなかったのが残念。

「夜更けのエントロピー」
保険会社を営んでいると、多様な事件に遭遇する。
本編はそうした保険にまつわるエピソードをふんだんに盛り込みながら、ありえない出来事や、悲惨な出来事、奇妙な出来事などをちりばめる。それが実際に起こった現実の出来事であることを示しながら。
同時に、主人公とその娘が、スキーをしている描写が挿入される。

スキーの楽しみがいつ保険の必要な事故に至るのか。
そのサスペンスを読者に示し、興味をつなぎとめながら本編は進む。
各場面のつなぎ方や、興味深いエピソードの数々など、本編は本書のタイトルになるだけあって、とても興味深く面白い一編に仕上がっている。

「ケリー・ダールを探して」
著者はもともと学校の先生をやっていたらしい。
その経験の中で多くの生徒を担当してきたはずだ。その経験は、作家としてのネタになっているはず。本編はまさにその良い例だ。

ケリー・ダールという生徒に何か強い縁を感じた主人公の教師。
ケリー・ダールに強烈な印象を感じたまま、卒業した後もケリー・ダールと先生の関係は残る。
その関係が、徐々に非現実の様相を帯びてゆく。
常にどこにでもケリー・ダールに付きまとわれていく主人公。果たして現実の出来事なのかどうか。

人との関係が、本当は恐ろしいものであることを伝えている。

「最後のクラス写真」
本編は、死人が生者に襲いかかる。よくあるプロットだ。
だが、それを先生と生徒の関係に置き換えたのが素晴らしい。
本編の中で唯一、生ける存在である教師は、死んだ生徒を教えている。

死んだ生徒たちは、知能のかけらもなくそもそも目の前の刺激にしか反応しない存在だ。
そもそも彼らに何を教えるのか。何をしつけるのか。生徒たちに対する無慈悲な扱いは虐待と言っても良いほどだ。虐待する教師がなぜ生徒たちを見捨てないのか。なぜ襲いかかるゾンビたちの群れに対して単身で戦おうとするのか。
その不条理さが本編の良さだ。末尾の締めも余韻が残る。
私には本書の中で最も面白いと感じた。

「バンコクに死す」
吸血鬼の話だが、本編に登場するのは究極の吸血鬼だ。
バンコクの裏路地に巣くう吸血鬼は女性。
性技の凄まじさ。口でペニスを吸いながら、血も吸う。まさにバンパイア。

ベトナム戦争中に経験した主人公が、20数年の後にバンコクを訪れ、その時の相手だった女性を探し求める。
ベトナム戦争で死にきれなかったわが身をささげる先をようやく見つけ出す物語だ。
これも、ホラーの要素も交えた幻想的な作品だ。

‘2020/08/14-2020/08/15


闇に香る嘘


本書は乱歩賞を受賞している。
それも選考委員の満票一致で。
私もそれに同意する。本書はまさに傑作だと思う。

そもそも私は、本書を含めて全盲の視覚障害者の視点で描かれた小説を読んだ記憶がない。少なくとも本書のように全編を通して視覚障碍者の視点で描かれた小説は。
巻末の解説で有栖川有栖氏が谷崎潤一郎の「盲目物語」を挙げていたが、私はまだ「盲目物語」を読んだことがない。

視点が闇で閉ざされている場合、人はどう対処するのだろう。おそらく、自分の想像で視野を構成するのではないだろうか。手探りで、あるいは杖や記憶を頼りとして。
それでも、健常者に比べて情報の不足は歴然としている。

私も本書を読んだ後、目を閉じて少し移動してみた。だが、たったそれだけのことが大変だった。
暗闇の視野の中、街を歩くことを想像するだけで、もう無理だと思ってしまう。ましてや、謎解きなどとんでもない。
視覚情報を欠いて生きることは、とても不便なのだ。

本書が描くような闇の中を手探りで行動する描写を読むと、普通の小説がそもそも、正常な視点で語っていることに気づく。その当たり前の描写がどれだけ恵まれていることか。
全盲の人から見た視野で物語を描くことで、著者は健常者に対して明確な問題意識を提示している。
本書は、健常者に視覚障碍者の置かれた困難を教えてくれる意味で、とても有意義な小説だと思う。

もう一つ、本書が提示しているテーマがある。それは、中国残留孤児の問題だ。
太平洋戦争が始まる前、政府の募集に応じて満洲や中国大陸に入植した人々がいた。それらの人々の多くは敗戦時の混乱の中現地に放置された。親とはぐれるなどして、現地に放棄された人もいる。ほとんどが年端のいかぬ子どもだった。彼ら彼女らを指して中国残留孤児という。
彼らは中国人によって育てられた。そして成長してから多くの人は、自らのルーツである日本に帰国を希望した。
私が子どもの頃、中国残留孤児の問題が新聞やニュースで連日のように報じられていた事を思い出す。

彼らが親を見つけられる確率は少ない。DNA鑑定も整っていない1980年初めであればなおのこと。
双方の容貌が似ているか、もしくは肉親が覚えている身体の特徴だけが頼りだった。
当然、間違いも起こり得る。そして、それを逆手に他人に成り済まし、日本に帰国する例もあったという。

幼い頃に比べると顔も変化する。ましてや長年の間を離れているうちに記憶も薄れる。
ましてや、本書の主人公、村上和久のように視覚障碍者の場合、相手の顔を認められない。
そこが本書の筋書きを複雑にし、謎をより魅力的な謎に際立たせている。
視覚障碍者と中国残留孤児の二つを小説の核としただけでも本書はすごい。その着想を思いついた瞬間、本書は賞賛されることが約束されたのかもしれない。

自らの孫が腎臓移植を必要としている。だが孫のドナーになれず、意気消沈していた主人公。さらに、血がつながっているはずの兄は適合検査すらもかたくなに拒む。
なぜだろう。20数年前に中国から帰国した兄。今は年老いた母と二人で住んでいる兄は、本当に兄なのだろうか。

兄が検査を拒むいくつかの理由が考えられる。背景に中国残留孤児の複雑な問題が横たわっているとなおさらだ。その疑心が主人公を縛っていく。兄と自分の間にしがらみがあるのだろうか。それとも、兄には積りに積もった怨念があるのだろうか。
それなのに、村上和久にはそれを確かめる視野がない。すべては暗闇の中。

そもそも、視覚でインプットされる情報と口からのアウトプットの情報との間には圧倒的な断絶がある。
私たち健常者は、そうした断絶を意識せずに日々を暮らしている。
だが、主人公はその断絶を乗り越え、さらに兄の正体を解き明かさねばならない。
なぜなら、孫娘に残された時間は少ないから。
そうした時間的な制約が本書の謎をさらに際立たせる。その設定が、物語の展開上のご都合を感じさせないのもいい。

中国残留孤児のトラブルや思惑が今の主人公にどう絡み合っているのか。そこに主人公はどのように組み込まれているのか。
そうした相関図を健常者の私たちは紙に書き出し、ディスプレイで配置して把握することができる。だが、主人公にはそれすらも困難だ。
そのようなハンディキャップにめげず、主人公は謎の解明に向けて努力する。その展開に破綻や無理な展開はなく、謎が解決するとまた新たな謎が現れる。

目が見えない主人公が頼りにするのは、日々の暮らしで訓練した定位置の情報だ。
だが、それも日々の繰り返しがあってこそ。毎日の繰り返しからほんの少しでも違った出来事があるだけで主人公は異変を察知する。それが謎を解く伏線となる。
主人公の目のかわり、別居していた娘の由香里も担ってくれるようになる。あるいは謎の人物からの点字によるメッセージが主人公に情報を伝える。

白杖の石突きや踏み締める一歩一歩。あるいは手触りや香り。
本書にはそうした描写が続出する。主人公は視覚以外のあらゆる感覚を駆使し、事件の真相の手がかりを求める。
その五感の描き方にも、並々ならぬ労力が感じられる。実に見事だ。

本書の解説でも作家の有栖川有栖氏が、著者の努力を賞賛している。
著者は幾度も新人賞に落選し続け、それでも諦めず努力を続け、本作でついに受賞を勝ち取ったという。
そればかりか、受賞後に発表した作品も軒並み高評価を得ているという。

まさに闇を歩きながら五感を研ぎ澄ませ、小説を著すスキルを磨いてきたのだろう。
それこそ手探りでコツコツと。

あり余る視覚情報に恵まれながら、それに甘えている健常者。私には本書が健常者に対する強烈な叱咤激励に思えた。
ましてや著者は自らの夢を本書で叶えたわけだ。自分のふがいなさを痛感する。

‘2020/02/19-2020/02/20


「超」怖い話


考えて見ると、怪談本を読むのはえらく久々かもしれない。夏といえば怪談、ということで図書館の特集コーナーに置かれていた本書を手に取ったわけだが。

読者からの体験談をもとに、二人の編者が文章を再構成し、編みなおした一冊。怪談ネタなど出し尽くされたのでは、と思うのだが、なかなかどうして、そうではないらしい。かつて谷崎潤一郎が陰翳礼讃で取り上げたような、昔ながらの日本家屋が醸し出す闇。本書にそういう家屋は全く登場しない。だから、ますます怪談の出る幕がないようにも思える。

ところがあらゆる場所が立体である以上、陰もあれば闇も生じる。そして人間の恐れが生み出した幽霊や魂魄も出現する。彼らは陰をねぐらとし、闇に漂う。そんなわけで本書のような怪談は、この技術社会にあっていまだに健在だ。むしろ、かつてのように闇に慣れていない今の私たちのほうが免疫がない分、闇を怖がるのだろう。

本書に収められた話の全てが一級品に怖いわけではない。体験投稿をもとにしているため、むしろ当たり前だ。むしろ、それがかえって本書をリアルにしている。そして作り物と本書の話を分けている。編者と文章の編集を担当しているのは作家の平山夢明氏だ。平山氏は先日当ブログにアップしたDINERの著者だ(ブログ)。DINERもそうだったが、肉体の変容とそのグロテスクさを書かせれば当代きっての書き手だと思う。彼が描き出す霊魂は、悲惨な事故によって肉体をグロテスクに変えられている分、無念さを抱えている。その無念が念入りに描写されていればいるほど、存在自体が恐怖を与える。

よくよく考えると、日本古来の怪談には、本書で平山氏が書いたほどには人体を蹂躙した話が登場しない。せいぜいがお岩さんのような目の上の爛れ。妖怪のように人体の一部が変異を起こした物の怪。そんなところだろう。多分、昔は人体にそこまで強く理不尽な力が加わることもなかったはず。いや、ちがう。戦場では惨たらしい死体などザラにあったはず。ということは死んだ人体が損壊していることなど普通だったはず。ところが、もともと普通の人体だったものが生きながらにして変容することが珍しかったのだろう。それが幽霊となっていったのかもしれない。

その意味では平山氏の書かれたような人体の変容を焦点とした怪談は珍しい。それは怪談にとって新たな機軸となるだろう。なにしろ、現代とは人の死から遠ざかった時代だから。それゆえ、今のわれわれは死に免疫を持たない。そして恐怖におののく。闇だけでなく、死からも遠ざかっているのだ。そして今の世とは、ますます死の実感とかけ離れつつある。人工的なものが我が物顔で世にあふれ、人が動物であることすら忘れてしまう。そんな時代だからこそ、人体が損壊されることでしが死を実感できない。そこに本書が目指す怪談の方向性の正しさがあると思う。

‘2017/08/25-2017/08/26


眩談


著者の民俗学・妖怪学への造詣の深さが尋常ではないことは、今さら言うまでもない。そのことは、京極堂シリーズをはじめとした著作のなかで実証済みだ。両方の学問に通じた著者は、妖怪の産まれ出でる背景にも造詣が深い。著者の代表作でもある「嗤う伊右衛門」や「覘き小平次」や「数えずの井戸」は、いずれも著名な怪談噺に着想を得ている。妖怪がなぜ産まれるのか、についての深い知識を有する著者ならではの作品といえる。妖怪の産まれ出でる背景とは、開放的でありながら、陰にこもったような日本家屋の間取りをいう。かつて陰翳禮讚の中で大谷崎が詳細に述べたような陰翳の多彩な空間から、妖怪は産まれ出でる。

著者の書く物語、特に本書ではそのあたりが濃密に意識されている。

ただし、本書に収められた小編が家屋を舞台としているわけでない。見世物小屋や温泉旅館、街並みなど、多彩な舞台が用意されている。舞台はそれぞれだが、陰影の醸し出す不安感、畏れがいずれの小編にも濃密に描かれている。

著者は本邦における妖怪の第一人者だけに、闇に潜むモノ、蠢く怪したちの棲む陰影を小説のモチーフとして見逃すはずはない。我が国において産まれ消えていった幾多の妖怪たち。それらを産み出した陰影とそこに棲むモノへの畏れ。著者は本書において、陰影に拘りをもって物語の背景を描く事に筆を費やす。

陰に濃淡を与えるのは、何も光の加減によってのものだけではない。浮世を渡る快活な人々の狭間にも陰は生じる。快活な人々の谷間で世をやっかむように浮世を徘徊する「常ならぬ人」もまた人間の陰を体現している。また、晴朗な精神がふとした拍子に変調し、その途端、曇天の下に隠れるように暗く覆われる心の動きも陰を表現している。とかく世の中にはそのような陰が至る所にある。その影について本書は究める。妖怪が産まれいずる場所を探し求めて。本書には、それら陰影から妖怪が産みだされる瞬間を切り取り、物語として織り上げた成果が収められている。

考えると、今まで著者が世に出した作品のほとんどは、既存の妖怪を下敷きにしていたように思う。先に上げた三作や京極堂シリーズなどはそうだった。しかし本書では、そのような手法から一歩踏み出している。妖怪の産まれる舞台や人の抱く畏れを描き出すことで、著者は新たな妖怪を創造している。伝承や口伝、民話には頼らずに新たな妖怪を創造することは、云う程に容易いことではない。凄いことというしかない。

本書は8編から成っている。

「便所の神様」は、日本家屋の不気味な陰々とした気配の中に棲む、怪しを描いている。本編では家屋の滅滅とした気配のおおもとを執拗に描写する。その描写は視覚だけではない。臭気までをも執拗に描写する。トイレではなく便所。今の水洗トイレからは徹底的に締め出され、蓋をされた便所の匂い。家の汚濁が全て集積した場所。著者の筆は匂いを徹底して描き、暴き立てる。そこに何があるのか、その匂いの中心にいるのは・・・あやしの爺。

「歪み観音」は、本編の中では毛色の変わった短編である。主人公は高校生の女の子。会話からして今風で、出てくる言葉もCGやら食洗機やら。陰影など出てくる余地がなさそう。しかし、そうではない。女の子の陰。目に映るものすべてが歪む心の陰が執拗に描き尽される。心の中の歪みそのものが妖怪であるかのように。主人公の女の子は歪んだ世の中を成敗するかのように観音様に罰当たりな行為をする。その瞬間、女の子の心の歪みは歪んだ世界に同化する。うつつか夢か、夢か歪みか。まさに妖怪の産まれた瞬間である。

「見世物姥」は、昔の縁日でよく出ていたという見世物小屋に舞台を借りた一編。見世物小屋は、その特異な怪しさから言って日本の怪談にとって欠かせない舞台装置だと思う。本編では神隠しと見世物小屋という二つの怪談要素を複合させ、一編の怪談として仕立てあげている。かつての少年にとって、夜店の雰囲気は魅惑的な大人の世界の入り口として避けて通れない存在だった。私にとってもその想い出は強く残っている。本編の主人公のように幼馴染の女の子を連れて行ったら神隠しにあったという経験は、少年の心に決定的に妖怪の存在を刻印したことだろう。

「もくちゃん」は、あるいは本書の中でも一番の問題作かもしれない。私の幼少期には、家の近所に少しおかしな人が普通に住んでいた。子どもの頃は気になったけれど、忙しい大人になると急に見えなくなってしまうおかしな人。本編ではそのおかしな人に憑かれてしまう恐ろしさを描いている。決して悪気がなさそうなのに、何を考えているか分からないおかしな人。本編では注意深く言葉狩りに遭いそうな語彙は避けられている。そういった語彙は出さないが、本編はおかしな人が妖怪に変わる瞬間を描く。かなり印象に残る一編である。妖怪の本質とは、人の心に棲む畏れが変化したものなのだろう。その変化は、こういったおかしな人への畏れからも産まれるともいえる。これは差別意識を通り越した、普遍的な人の心の有りようなのかもしれない。

「シリミズさん」は、「便所の神様」にも通ずる家屋の闇を描いた一編。とはいえ、本編は陰惨な様子は描かれない。その替り描かれるのは付喪神が憑いていそうな古い家屋に、来歴不明で祀られ続けている謎の生物である。本編の語り口は実に軽い。敢えて陰影を遠ざけるかのように軽い語り口で語られる。しかし起こる出来事は支離滅裂で怪異の極みである。産まれいずるというより、そこに前からいた妖怪の不条理を描いた一編である。産まれるのではなく、元から或るというのも妖怪の存在様式の一つであることを描いている。

「杜鵑乃湯」は、ひなびた温泉旅館に起こる怪異を描いた一編である。離れにある不気味な湯に取り込まれる男の心理描写が秀逸である。妖怪とは怪異とは、心に疚しい思いを抱く者の心に容易に現れ、その者を容易く取り込んでしまう。まさに本編は自らの心が産み出した妖怪に取り込まれる男の自滅を、ホラータッチで描いている。本書の中では唯一怪談ではなくホラーに相応しい一編といえる。読んでいて怖気に襲われた。

「けしに坂」は、前の一編と同じく心に疚しさを抱える男の産みだす物語である。本編に登場するのは幽霊。舞台も葬式。葬式の場で、無意識に秘めた罪悪感が次々と男の視界に怪異と幽霊を産み出す。妖怪が産まれるのが、心の闇や陰であることを示す一編である。

「むかし塚」は、時間の流れをうまく使った一編。時の流れに沿って思い出が消え去り、街並みも変わっていく。その時間の中で浄化される想い出もあれば、変質してしまう思いでもある。その時間の経過は人の心に陰を落とし、怪しの跋扈する隙を与える。まるで百年経った道具が妖怪に変わるかのように。本編では子供の頃に借りたマイナーな漫画という小道具で、その想い出の陰影を色濃く出している。

‘2014/11/23-2014/11/28