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悪忍 加藤段蔵無頼伝


著者は戦闘シーンの書き方が抜群にうまいと思う。川中島合戦を描いた『天祐、我にあり』は戦闘シーンのダイナミズムを間近に感じられる力作だった。

本書は戦闘をより個人的な行いとして描いた作品だ。忍。忍とは人目を忍んで仕事をし遂げるのが極意。本書でも忍びの非道な生きざまはしっかりと描かれている。飛び加藤、鳶の加藤といえば、私も名を知っている有名な忍びだ。確か『花の慶次』にも出てきたはず。加藤段蔵が活躍したのは戦国群雄が割拠し、まだ覇者が誰かすらも定まらぬ時期。つまり、織田信長が頭角を現す前の時期だ。

そのような時期だからこそ、伊賀も自由に自治権を行使し、自由で放埓でありながら、生き延びるには厳しい国であることができた。そして、加藤段蔵のように伊賀ですら窮屈なはみ出し者が存分に活躍できたのかもしれない。伊賀に育ちながら伊賀に歯向かい、自由な一匹狼として忍びの世界で悪名をとどろかせる。痛快ではないか。その生きざまには迷いがない。ただ悪を貫くことに徹している。全ては己の人生のため、己が生き抜くため。武でも忍びでも一流ならば、人を惑わす達者な弁舌もだてではない。

加賀一向宗の実顕を相手にし、越後の長尾景虎を相手に堂々と引かず、朝倉の武将、富田景政を通じて朝倉宗滴に取り入り、甲賀の座無左を欺いて己が手下に使い、伊賀の弁天姉妹と怪しく絡みながら、児雷也を手下に術を掛ける。その一方で千賀地服部や雑賀衆、軒轅などの忍びの軍団とも戦う。本書には伝説の忍びともいわれる加藤段蔵の姿が生き生きと描かれている。まさにエンターテインメントとして楽しんで読める一冊だ。

上にも書いた通り、加藤段蔵が活躍したのは、戦国がもっとも戦国だったころだ。その頃を描いた小説を読むことが最近は多い。それは、人物が諸国を自由に往来し、自由に戦えたからだろうか。登場する人物が生き生きと振る舞っているのだ。それに反し、信長が天下布武を宣してからは、クローズアップされるのはトップの大名である武将たち。忍びや武芸者が活動する余地がどんどん狭まってしまう。要は窮屈なのだ。せいぜい、宮本武蔵のような風来坊の武芸者にしか許されない生き方なのだろうか。私は、組織に属することを潔しとしない人間だ。なので、なおさら、加藤段蔵のような一匹狼に心ひかれてしまうのかもしれない。加藤段蔵のような人間がのびのびと活躍できた頃、戦国が割拠していた頃の物語が面白い。

私にそう思わせるほど、加藤段蔵も、周囲の人物も魅力的だ。登場人物のそれぞれがきっちりと書き分けられているし、魅力的に描かれている。著者の筆の冴えだ。忍びの術を駆使しての戦闘シーンは、声や闘気などの擬音を漢字一文字に凝縮する工夫がとても効果を上げている。それが躍動感を与え、展開にスピーディーなリズムを加えている。忍びとはなんと魅惑に満ちた存在か。最近、和田竜氏による『忍びの国』が映画化された。私はその原作を読んだ(レビュー)。多彩な忍びの技が繰り出され、伊賀を縦横に駆け抜ける内容に、忍術の魅力をあらためて知った。忍びを題材にとった小説など講談もので使い古されたと思いきや、まだまだ書きようによっては魅力的な題材ではないか、ということを『忍びの国』から教えられた。だが、忍びの非情さが描けているか、という観点から読むと、本書のほうが『忍びの国』より上回っていたように思う。それは、本書のテンポや文体が、迅速こそ命の忍びに合っているからだと思う。

私は歴史小説を何冊も読んできたし、名作と思えるものにも数多く触れてきた。だが、細部の描写のうまさは著者が一番ではないかと思うぐらい、著者の細部の描写が気に入っている。こればかりは作家が持って生まれたセンスとしか言いようがない。

ただ、後半にいたり、弁天姉妹が登場し、彼女たちが段蔵にちょっかいをかけ始めるあたりから、少々筆が急ぎすぎてしまったような気がしてならない。前半の濃密な展開が素晴らしかっただけに、少しバランスが欠けたのが残念だ。そのあたりから、段蔵の描写からもすごみが消えたような気がするのは私だけだろうか。弁舌の巧みさは、眼光の鋭さと無類の武芸の強さとのバランスがあってこそ。後半はそのバランスが弁舌に傾きすぎていたような気がする。

さらにいうと、本書の終わり方にも少し不満がある。続編の存在を存分に匂わせつつ、物語が唐突とも言えるほどに終わるからだ。果たして最初から続編を見越して書かれていたのかどうか。それは私にはわからない。本書から6年後に『修羅 = El diablo de la lucha 加藤段蔵無頼伝』が発行されており、本書の続編が書かれたのは確か。ただ、それならばもう少し本書の終わらせ方にも工夫があってもよかったはず。細部の描写が優れているだけに、全体の構成がチグハグだったのが惜しい。著者の他の作品もそう。構成がアンバランスなのだ。

そうした不満はあれど、本書の細部には神が宿っている。この描写の妙を楽しむためにも、続編はぜひ手に取ってみるつもりだ。たとえ構成のバランスが崩れていたとしても、細部の描写で私を魅了させてくれるに違いない。そして私を忍びの世界へといざなってくれるはずだ。

‘2017/10/2-2017/10/4


翔る合戦屋


第一作の「哄う合戦屋」で鮮烈なデビューを果たした石堂一徹。巻末で、落ち延びる遠藤軍を追う仁科盛明の軍勢を山間の狭間で止めようとする一徹と六蔵。若菜の為なら命をも顧みない男気溢れる結末は、強烈な印象を残した。

第二作と第三作の「奔る合戦屋」上下巻では、時代を遡る。そこでは遠藤家に仕官する前の一徹が描かれる。村上義清の配下にあって、若き一徹は村上軍の中でも戦上手の伝説を作り上げていく。しかし、理に勝ち過ぎ周りが見え過ぎる一徹の戦略は、主村上義清の戦術を凌駕するに至り、主従間の溝は大きくなる一方。ついに、一徹の戦略を苦々しく思っていた村上義清は独断で武田軍に小競り合いを仕掛ける。そこには折悪しく一徹の愛する朝日と子供たちと一徹子飼いの郎党として手塩にかけて育て上げてきた三郎太がいた。

主村上義清の器を見限り、放浪した挙句、一徹が辿りついたのは遠藤家の領地。そこから、第一作の「哄う合戦屋」に繋がる。

そして、本書は第四作「翔る合戦屋」である。第一作の終わりで一徹と六蔵は仁科勢を食い止めようと死地に身を投げる。しかし仁科盛明は遠藤家を追ったのではなかった。それよりも、遠藤家の武名を一手に負っていた一徹を武田家に招きたいという。しかし、一徹は「故あって武田家に帰参することはできない」と云う。著者が第一作「哄う合戦屋」の後に第二作、第三作で一徹の過去を語った理由はここにある。妻子を武田家配下の者どもに殺された一徹が武田家の旗下に参ずることはありえない。そのことは「奔る合戦屋」上下巻の読者にはたやすくわかることだ。つまり第一作の後に一徹の過去を語った後でなければ、続きは書いてはならないとしたのだろう。なお、本書では他にも「奔る合戦屋」上下巻を踏まえた記述が出てくる。なので、本シリーズは書かれた時代順ではなく、刊行順に読むのが正しい。

第一作では、遠藤家の主君吉弘は戦で一徹と張り合おうとする。挙句、豪族連合軍があっけなく仁科軍の裏切りにあって瓦解すると、己の愚を悟る。そして一徹に許しを請うとともに、若菜を一徹にやると云い捨てて逃げ去る。

晴れて夫婦となることを許された一徹と若菜は、仮祝言を挙げて閨を共にする。若菜は朝日がかつてそうだったように、一徹の賢夫人として輝きを増す。一徹が調略で得た仁科盛明の家族の懐にも入り込み、そのカリスマ的な魅力の本領を発揮する。一方、中信濃(安曇郡全域と筑摩郡北部)に領地を得た遠藤家は、来たる武田家の侵入に備えて領地経営に精を出す。一徹もまた、門田治三郎に銘じて攻城車を作らせるなど、戦の準備に余念がない。

内政と軍事の準備を進める中、一徹は外交にも気を配る。そして、かつての主君村上義清の許へ向かう。武田軍との戦いに備え、遠藤家と同盟するよう意を尽くして語る為だ。9年ぶりに訪れた石堂村、父や兄との邂逅の様子などが描かれる。このシーンもまた「奔る合戦屋」上下巻を読んでいないと分かりにくい。

物語はやがて風雲慌ただしくなる。武田家の侵攻が迫るのだ。そこでは一徹の戦略が功を奏し、武田晴信は砥石城攻略に拘った挙句に、多大な時間と将兵を喪うことになる。世に言う「砥石崩れ」である。しかし、その機に乗じて村上義清は晴信本人の首を獲ることに失敗し、晴信は何とか本拠に逃げ帰る。

晴信が叩かれたその隙に深志城を奪取することを画策する一徹。深志城とは今の松本城のこと。大きな濠が特徴的な名城である。おそらくは当時も濠があったのあろう。その濠を攻略するための攻城車が図に当たる。武田軍の拠点としての深志城をあと一歩のところまで追いつめる遠藤軍。しかし、晴信が放った苦し紛れの流言策があたり、晴信が攻めてくるとの恐怖心に慄いた村上義清の離陣によって、深志城奪取はならなかった。

それによって、信濃制覇目前にして大魚を逃した一徹は、深く自信を喪失する。そして煩悶し、己の生き方について深く考える。

一徹が至った結論は、軍師廃業である。では何を生業とするのか。それが、第一作から一徹の特技として再三出てきた木彫の技である。おそらく著者は第一作で一徹を登場させた時から、この結末を見据えて書き継いできたのではなかろうか。

一徹は己の後半生を軍師ではなく木彫師として生きようと決意する。その落ち着き先は越後。この当時の越後と云えば上杉謙信がすぐに想い出される。この時はまだ長尾景虎と名乗っており、越後国内の統一もままならない状態。だが、一徹は景虎の中に己に似た軍才を見出し、景虎もまた一徹を伽衆として己の領内に取り込もうとする。なお、本書の舞台は天文十九年。天文十九年は川中島の第一次合戦が戦われる3年前である。つまり本シリーズは川中島合戦のプロローグでもあるのだ。本書を読んだ方には、川中島合戦で軍神と呼ばれた上杉謙信の背後に一徹の影を見るはずだ。

以降、一徹は己の果たしえなかった夢を越後の虎に託し、若菜と共に物語から去る。そして遠藤家の面々や仁科家にもきちんと落とし前をつけて本シリーズの幕を引く。実にあざやかとしか言いようがない。かつて一徹は朝日や若葉、桔梗丸や三郎太を亡くした。同じ轍を踏まない結末は、なるべく簡潔に戦を収める一徹の面目躍如と云えよう。

後書きで著者自身が明かしているが、史実に残る武田晴信、村上吉清、仁科盛明の動きと、本書で書かれた彼らの動きには些かの矛盾もないという。史実を歪めず、その上で史実の間隙を縫うかのようにして、一徹や遠藤吉弘、若菜といった架空の人物を自在に動かす。このことがどれほど賛嘆されるべき仕事かは、一言で語りつくせない。とにかく賞賛の念しか浮かばない。実に素晴らしい。

また、第三作「奔る合戦屋」下巻のレビューで、本シリーズの魅力について書いた。それは、組織の中で才を持ち、かつ、上を持ち上げる生き方のできない男の悩みを掘り下げていることだ。つまり、組織でうまく立ち回ってゆけない男の不器用さへの共感が本シリーズには満ちているのである。その男とはもちろん一徹を置いて他にない。

本書の結末の一徹の軍師引退、木彫師としての転身からは、脱サラという言葉が連想される。組織を抜けて自分の得意な仕事をして生きていくことは、サラリーマン諸氏にとって憧れだろう。脱サラを単なる現状からの逃避として考えるのであれば、決して良い結果は産まない。しかし、一徹のように真摯に悩み、その結果自らを縛り付けていた価値観の殻を破った結果であれば、きっと成功するはずだ。深志城攻略に失敗した後の一徹は、まさに軍師という固定観念の殻を破り、木彫師という立場へと翔けようとする。まさに翔る合戦屋である。

精々が出家といった選択肢しか持たなかった当時の戦国武将の転身として、本書で書かれた結末は或いは突飛なものかもしれない。しかし、そのような余生を選ぶ主人公が描けたのは、最初から一徹を創造した著者に与えられた特権ではないだろうか。ただし、その特権を活かして続編といったことは控えて頂きたいものだ。本書のラストは物語の続きを仄めかしているが、素直に戦塵から身を洗い、木彫師として一徹に生きて欲しい。私はそう思う。

‘2015/01/25-2015/01/28