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背番号なし戦闘帽の野球 戦時下の日本野球史 1936-1946


当ブログでは、幾度か野球史についての本を取り上げてきた。
その中では、私が小学生の頃から大人向けの野球史の本を読んできたことにも触れた。

私の記憶が確かなら、それらの本の中には大和球士さんの著作も含まれていたように思う。
残念なことに、当時の私は今のように読書の履歴をつけておらず、その時に読んだ著者の名前を意識していなかったため、その時に読んだのが大和球士氏の著作だったかどうかについては自信が持てない。
だが、40年近く前、球史を網羅的に取り扱った本といえば、大和氏の著作ぐらいしかなかったのではないだろうか。明治から大正、昭和にかけてのわが国の野球史を網羅した大和球士氏の著作の数々を今、図書館や本屋で見かける事はない。おそらく廃版となったのだろう。

それは、大和氏のように戦前の野球史を顧みる識者が世を去ったからだけではなく、戦前の野球そのものへの関心が薄れたことも関係していると思われる。
毎年のペナントレースや甲子園の熱闘の記録が積み重なるにつれ、戦前から戦中にかけての野球史はますます片隅に追いやられている。

ところが、この時期の野球史には草創期ならではのロマンが詰まっている。
だからこそ最近になって、早坂隆氏による『昭和十七年の夏 幻の甲子園』や本書のような戦前から戦中の野球史を語る本が発刊されているのだろう。

なぜ、その頃の野球にはロマンが感じられるのだろうか。
理由の一つには、当時の職業野球がおかれた状況があると考える。
職業野球など、まともな大人の就く職業ではないと見なされていた当時の風潮。新聞上で野球害毒論が堂々と論じられていた時期。
だからこそ、この時期にあえて職業野球に身を投じた選手たちのエピソードには、豪快さの残滓が感じられるのかもしれない。

もう一つの理由として、野球とは見て楽しむスポーツだからだというのがある。
もちろん、野球は読んでも面白い。そのことはSports Graphic Numberのようなスポーツジャーナリズムが証明している。例えば「江夏の21球」のような。
そうしたスポーツノンフィクションは、実際の映像と重ね合わせることによってさらに面白さが増す。実際の映像を見ながら、戦う選手たちの内面に思いを馳せ、そこに凝縮された瞬間の熱量に魅せられる。私たちは、文章にあぶりだされた戦いの葛藤に極上の心理ドラマを見る。

野球の歴史を振り返ってみると映像がついて回る。古来から昭和31年から33年にかけて西鉄ライオンズが成し遂げた三連覇や、阪神と巨人による天覧試合。そして巨人によるV9とその中心であるONの活躍。阪神が優勝した時のバックスクリーン3連発も鮮やかだったし、イチロー選手の活躍や、マー君とハンカチ王子の対決など、それこそ枚挙に暇がない。

ところが、野球史の中で映像が残ってない時期がある。それこそが戦前の野球だ。
例えば沢村栄治という投手がいた。今もそのシーズンで最高の活躍を残した投手に与えられる沢村賞として残っている名投手だ。
沢村栄治の速球の伸びは、当時の投手の中でも群を抜いていたと言う。草薙球場でベーブ・ルースやルー・ゲーリックを撫で切りにした伝説の試合は今も語り草になっているほどだ。ところが、沢村投手の投げる姿の映像はほとんど残っていない。その剛速球の凄まじさはどれほどだったことだろう。
数年前、一球だけ沢村栄治が投げる当時のプロ野球の試合の映像が発掘され、それが話題になった。そうした映像の発掘がニュースになるほど、当時の映像はほとんど残されていないのが現状だ。

景浦將という阪神の選手がいた。沢村栄治のライバルとして知られている。景浦選手の自らの体をねじ切るような豪快なスイングの写真が残されているが、景浦選手の姿も動画では全く残っていない。
他にも、この時期のプロ野球を語る上で伝説となった選手は何人もいる。
ヘソ伝と呼ばれた阪急の山田伝選手の仕草や、タコ足と言われた一塁手の中河選手の捕球する姿。荒れ球で名を遺す亀田投手や、名人と称された苅田選手の守備。
そうした戦前に活躍した選手たちの伝説のすべては、文章や写真でしか知るすべがない。延長28回の試合なども有名だが、それも今や、字面から想像するしかない。
だからこそ、この時期のプロ野球には憧れやロマンが残されている。そしてそれがノンフィクションの対象として成り立つのだと私は思っている。

私も戦前のプロ野球については上述の大和氏の著作をはじめ、さまざまな書物やWikipediaで目を通してきた。だが、本書はそうした私の生半可な知識を上回る内容が載っている。

たとえば戦時中に野球用語が敵性語とされ、日本語に強制的に直されたことはよく知られている。だが、それらの風潮において文部省や軍部がどこまで具体的な干渉を野球界に対して突き付けていたかについて、私はよく知らなかった。
文部省からどういう案が提示され、それを職業野球に関わる人々はどのように受け入れたのか。
もう一つ、先にも書いた延長28回といった、今では考えられないような試合がなぜ行われたのか。そこにはどういう背景があったのか。
実はその前年、とある試合で引き分けとなった試合があった。その試合が引き分けとなった理由は、苅田選手の意見が大きく影響したという。ところが、その試合が戦いに引き分けなどありえないという軍部の心を逆なでしたらしい。その結果、勝負をつけるまでは試合を続ける延長28回の長丁場が実現したという。
そうした些細なエピソードにも、軍国主義の影が色濃くなっていた当時の世相がうかがえる。

本書はプロ野球だけではなく、戦時中の大学野球や中等野球についてもさまざまな出来事を紹介している。
大学野球が文部省や軍部の横やりに抵抗し、それにも関わらず徐々に開催を取りやめていかざるを得なかったいきさつ。
私は、当時の大学が文部省や軍部の野球排斥の動きに鈍感だった事を、本書を読むまで知らなかった。
中等野球についても、戦時色が徐々に大会を汚してゆく様子や、各大会の開催方式が少しずつ変質させられていった様子が描かれる。そうした圧力は、ついには朝日新聞から夏の甲子園の開催権を文部省が取り上げてしまう。

厳しい時代の風潮に抗いながら、野球を続けた選手たちの悲劇性は、彼らの多くが徴兵され、戦地に散っていったことでさらに色合いを増す。
本書は、戦没選手たちの活躍や消息などにもきちんと触れている。
少しずつ赤紙に呼ばれた選手が球場から姿を消していく中、野球の試合をしようにも、そもそも選手の数が足りなくなってゆく苦しさ。選手だけでなく、試合球すらなかなか手に入らなくなり、ボールの使用数をきちんとカウントしては、各球場でボールを融通し合う苦労。著者が拾い上げるエピソードの一つ一つがとてもリアルだ。

選手の数が減ってくると、専門ではないポジションなど関係なしに持ち回ってやりくりするしかない。それは投手も同じ。少ない投手数で一シーズンを戦うのだから、今のように中四日や中五日などと悠長なことは言っていられない。南海の神田投手や朝日の林投手のシーズン投球回数など、現代のプロ野球では考えられないぐらいだ。高校野球で最近議論された投手の投球数制限など、当時の時代の論調からいえばとんでもない。そう思えるほどの酷使だ。
そうした選手や関係者による必死の努力にも関わらず、昭和19年になるともはや試合の体をなさなくなるほど、試合の質も落ちてきた。
そんな中、昭和20年に入っても、有志はなんとかプロ野球の灯を消さないように活動し続ける。
そうした戦前と戦中の悲壮な野球環境が本書の至るところから伝わってくる。

本書の前半は少々無骨な文体であるため、ただ事実の羅列が並べられているような印象を受ける。
だが、詳細なエピソードの数々は、本書を単なる事実の羅列ではなく、血の通った人々の息吹として感じさせる。

ここまでして野球を続けようとした当時の人々の執念はどこから来たのか。野球の熱を戦時中にあっても保ち続けようとした選手たちの必死さは何なのか。
野球への情熱にも関わらず、応召のコールは選手たちを過酷な戦場へと追いやってゆく。
才能があり、戦後も活躍が予想できたのに戦火に散ってゆく名選手たちの姿。ただただ涙が出てくる。

本書は昭和20年から21年にかけて、プロ野球が復活する様子を描いて幕を閉じる。
そうした復活の様子は本書のタイトルとは直接は関係ない。
だが、野球をする場が徐々に奪われていく不条理な戦前と戦中があったからこそ、復活したプロ野球にどれだけ人々や選手たちが熱狂したのかが理解できると思う。
大下選手が空に打ち上げたホームランが、なぜ人々を熱狂の渦に巻き込んだのかについても、戦中は粗悪なボールの中、極端な投高打低の野球が続いていたからこそ、と理解できる。

本書を読むと、東京ドームの脇にある戦没野球人を鎮める「鎮魂の碑」を訪れたくなる。もちろん、野球体育博物館にも。

本書は、大和球士氏の残した野球史の衣鉢を継ぐ名著といえる。

‘2019/9/5-2019/9/6


甲子園 歴史を変えた9試合


そろそろ夏の甲子園が始まる。本稿は百回記念大会が始まる前日に書き始め、百一回大会が始まる前日にアップした。

私の実家は甲子園球場に近い。なので、甲子園球場には幼い頃からなじみがある。長い夏休みを持て余す小学生には、高校野球の開催中の外野スタンド席は絶好の暇つぶしの場だった。最近でこそ有料になったと聞くが、私が子供の頃の外野席は無料だった。私の場合、外野スタンド席だけでなく、アルプススタンドにも無料で入ったことがある。長野高校の応援団にスカウトされ、応援団の頭数に入れられたのだ。全く縁のない選手たちに声援を送った経験はいまだに得難い経験だったと思っている。

また、私は甲子園球場のグラウンドにも入った。西宮市の小・中学生は、もれなく甲子園球場のグラウンドに入る機会が与えられるのだ。西宮市小学校連合体育大会、西宮市中学校連合体育大会は毎年行われ、グラウンドで体操やリレーを披露する。いや応なしに。私は都合四回、グラウンドで体操を披露したはずだ。

実際の選手たちが試合を行うグラウンド。そこに入り、広大な甲子園球場を見回す経験は格別だ。西宮市民の特権。私は初めて甲子園球場の中に入った時、高校野球の試合は何試合も見た経験があった。数え切れないほど。その中には球史でたびたび言及される有名な試合もある。

そうした経験は、私に甲子園に対する人一倍強い思いを持たせた。西宮市立図書館には野球史に関する本がたくさん並んでおり、子供の私は球史についての大人向けの本を何冊も読んだ。プロ野球史、高校野球史。だから、大正時代の名選手や昭和初期の名勝負。甲子園の歴史を彩る試合の数々は、私にとって子供の頃からの憧れの対象だ。

本書は、そんな私にとって久々の甲子園に関する本だ。内容はいわゆるスポーツ・ノンフィクション。雑誌の「Sports Graphice Number」で知られるような硬派な筆致で占められている。本書の発行元は小学館。Numberのようなスポーツ・ノンフィクションを出している印象はなかった。だから、こういう書籍が小学館から出されていることに少し意外な思いがあった。

だが、本書の内容はとてもしっかりしている。むしろ素晴らしいと言っても良い。本書は全部で9章からなっている。それぞれの章はそれぞれ違う執筆者によって書かれている。各章の末尾には執筆者の経歴が載っているが、私は誰も知らなかった。だが、誰が執筆しようと、内容が良ければ全く気にしない。

本書の各章で取り上げられる試合は、どれもが球史に残っている。

まず冒頭に取り上げられているのが、ハンカチ王子こと斉藤投手とマー君こと田中投手が決勝でぶつかった名試合。平成18年の夏、決勝。早稲田実業vs駒大苫小牧の試合だ。決勝再試合が行われたことでも知られている。この両試合をハンカチ王子は一人で投げぬいた。マー君は両試合ともリリーフの助けを借りたが、ハンカチ王子は一人でマウンドを守り、優勝を果たした。本編はハンカチ王子の力の源泉があるのかを解き明かしている。

本編にはハンカチ王子が鍼治療を受けていたことが描かれる。私はそのことを本書を読むまで知らなかった。プロに入った後、斎藤投手は今も鍼治療を受けているのだろうか。甲子園で名声を高めた斎藤投手のその後を知っているだけに、そのことが気になる。

本書は2007年に初版が出ている。当然、その後の両投手については何も書かれていない。マー君がニューヨーク・ヤンキースでローテーションの一員として活躍していること、ハンカチ王子が日本ハムに入団するも、芽が出ずに苦しんでいることも。

続いて描かれるのは、平成10年夏の決勝だ。横浜vs京都成章の試合。横浜の松坂投手が決勝でノーヒットノーランを59年ぶりに成し遂げたことで知られる。

本書が出版された後の松坂投手も浮き沈みのある野球人生を歩んでいる。西武ライオンズからレッドソックスに移籍し、ワールドシリーズでも優勝を果たした。ところが、日本に戻ってからはソフトバンクで三年間、一度も一軍で勝ち星を挙げられず、その翌年に拾われた中日ドラゴンズで復活を遂げた。本書ではレッドソックスに入団したところまでが書かれている。松坂投手の選手生活の成功を誰もが疑わなかった時期に描かれているからこそ、今、本編を読むと感慨が増す。

ところが本編の主役は京都成章の選手たちだ。決勝でノーヒットノーランを許してしまった男たちのその後の人生模様。これがまた面白い。それぞれが松坂投手のような有名人はない。だが、有名でなくても、人にはそれぞれドラマがある。どんな人の一生も一冊の小説になり得る。本編はそれをまさに思わせる内容だ。社会人野球、整体師、スポーツ関係のビジネスマン。高校時代の努力と思い出を糧に人生を生き抜く人々の実録。私がついに無縁のまま大人になり、今となっては永遠に得られない高校時代の死に物狂いの努力。だからこそ今、京都成章の選手たちに限らず、全ての球児がうらやましく思える。

続いては昭和59年夏の決勝。取手二vsPL学園。
わたしはこの試合、球場に観に行ったのか、それとも家で観戦したのか覚えていない。記憶はあいまいだ。わたしが最も甲子園観戦に熱中した時期は、この試合も含めたKKコンビの活躍した三年間に重なるというのに。PLがこの試合で負けた事は覚えている。この年の選抜も岩倉高校に負けたPL学園。だが、わたしの中ではこの時期のPL学園こそが歴代の最強チームだ。

それは、自分が最も高校野球にはまっていた時期に強さを見せつけたチームだから、ということもある。私がPL学園の打棒を目の当たりにしたのは、この翌年。昭和60年夏の二回戦の事だ。東海大山形を相手に29-7で打ちまくった試合だ。この試合、私は弟と外野スタンドで観ていた。そしてあまりの暑さに体調を崩しかけ、最後まで観ずに帰った。だが、打ちまくるPL学園の強さは今も私の印象に強く残っている。

その試合から30年ほどたったある日、私は桑田選手の講演を聞く機会があった。娘たちの小学校に桑田投手が講演に来てくれたのだ。巨人と西武に別れたKKコンビ。かたや巨人でケガに苦しんだ後、復活を遂げ、大リーグ挑戦まで果たした。かたや引退後、覚醒剤に手を出し、苦しい日々を送っている。清原選手については以前、ブログにも書いた。29-7で勝った試合では清原選手がマウンドに立つ姿まで見た。PL学園とはそれほどのチームだった。ところが今や野球部は廃部になっている。過ぎ去った月日を感じさせる思いだ。

昭和57年夏の準々決勝。池田vs早稲田実業。
私の中でPL学園がヒーローになった瞬間。それは池田高校を昭和58年夏の準決勝で破った時からだ。その大会でPLが打ち負かした池田高校は、私の中で大いなる悪役だった。なぜ池田高校が悪役になったか。それは、本章に書かれた通り。大ちゃんこと荒木投手を無慈悲なまでに滅多打ちにした打棒。それは、幼い私の心に池田高校=悪役と刻印を押すに十分だった。

アイドルとして甲子園を騒がした荒木投手のことは、幼い私もすでに知っていた。荒木投手のファンではなかったが、あれだけ騒がれれば意識しないほうが変だ。ちなみに私が初めて甲子園を意識したのはその前年のこと。地元の西宮から金村投手を擁して夏を制した報徳学園の活躍だ。この時、すでに荒木投手は二年生。この頃の甲子園は。毎年のように話題となる選手が私を惹きつけた。良き時代だ。

本編では早実と池田の数名の選手のその後も描いている。あの当時の早稲田実業、池田、PLの選手は、九人の皆が有名人だったといえる。だからこそ、その後の人生で良いことも悪いこともあったに違いない。著者は有名だからこそ被ったそれぞれの人生の変転を描く。当時のメンバーが年月をへて、調布で再び縁を結ぶくだりなど、人生の妙味そのものだ。

昭和49年夏の二回戦。東海大相模vs土浦日大。
この試合は私が生まれた翌年に行われた。この試合で対決した両チームの中心選手は、プロ野球の世界でも甲子園を舞台に戦う。原選手と工藤選手のことだ。工藤選手は1980年代の阪神タイガースの主戦投手としておなじみ。原選手はいうまでもなく甲子園でやじられる対象であり、今はジャイアンツの監督だ。

本章は原貢監督を抜きには語れない。この数年前に三池工を率いて夏を制した原監督。その性根には炭鉱町の厳しさが根付いている。この試合でサヨナラのホームを踏んだ村中選手もまた、炭鉱町を転々とした少年期を過ごした方で、今は東海大甲府の監督をされているという。土浦日大の村田選手の人生も野球とは縁が切れない。厳しさが敬遠される昨今、当時は普通に行われていたであろうスパルタ指導は顧みられない。だが、本編を読むとスパルタ指導があっての制覇であることは間違いない。その判断は人によってそれぞれだが、その精神までは否定したくないものだ。

平成8年夏の決勝。松山商業vs熊本工。
この試合が今の世代にとってのレジェンドの試合になるだろうか。ここで戦った二校は大会創成期から古豪の名を確かにしている。そんな二校が60年以上の時をへて決勝で戦う。しかもともに公立校。興奮しない方がおかしい。ところがこの頃の私は、甲子園から関心が離れていた。球児どころか自分の人生の面倒を見られずにさまよっていた時期。

当時の私には今と比べて圧倒的に時間の余裕があり、まだ甲子園の実家に住んでいた。なので、タイミングが許せば生でバックホームを見られたかもしれない。今さらいっても仕方がないが、私の人生自体が、本編で描かれた奇跡のバックホームのようなドラマを求めていた雌伏の時期だったこともあり、この試合は見ておきたかった。

直前のライト守備交代。そして直後の大飛球とバックホームによる捕殺。まさにドラマチック。バックホームの主役である人物は本編ではテレビ業界の営業マン。当時、両校を率いた名監督も既に他界、もしくは引退している。もう本稿を書いている今から数えても22年もの時がたっている。それは伝説にもなるはずだ。

昭和36年夏の準決勝。浪商vs法政二。
そう考えると、本編が取り上げたこの試合は、もはやレジェンドどころか歴史に属するのだろう。長い高校野球の歴史でも速球の速さでは五本の指に入ったと称される尾崎行雄氏。そして私が野球をみ始めた頃には、既に現役を引退する寸前だった柴田選手。両校が三期連続でぶつかり、どの大会も勝った側のチームがその大会を制したというから、並みのライバル関係ではない。

オールドファンにとっては今も高校野球で最強チームというと、この二チームが挙がるという。時代を重ねるにつれ、より強いチームは現れた。だが、屈指の実力を持つ二チームが同時に並び立ち、しのぎを削った時期はこの頃の他にない。この時期を知る人は幸運だと思う。宿命のライバルという言葉は、この二チームにこそふさわしい。二チームに所属するメンバーを見ると、私が名前を知るプロ野球選手が何人もいる。それほどに実力が抜きんでいたのだろう。それにしても、一度は尾崎投手の投げる球を生で見たかったと思う。

平成12年夏の三回戦。智辯和歌山vsPL学園。
これまた有名な対決だ。この時、私は既に東京に出て結婚していた。私が人生で高校野球から最も離れていた頃。だから本編で書かれる試合の内容にはほとんど覚えがない。この試合に出場していた選手たちすら、今や30代後半。この試合の出ていた選手の中でも、後年プロに進んだ選手が数名いるとか。だが、残念なことに彼らの活躍も私の記憶にはほとんどない。

当時の私は一生懸命、東京で社会人になろうとしていた。それを差し引いても、この頃の私が野球観戦から遠ざかっていたことは残念でならない。甲子園歴史館にはよくいくが、展示を見ていても、この頃の高校野球が一番あやふやだ。

昭和44年夏の決勝。松山商vs三沢。
冒頭に書いた通り、子供の頃の私は高校野球史を取り上げた本はよく読んでいた。その中で上の浪商vs法政二と並び、この決勝再試合は必ず取り上げられていたように思う。三沢のエースだった太田幸司氏は、プロ入り後、近鉄で活躍されており、プロを引退した後もよく実家の関西地区のラジオでお声は耳にしていた。無欲でありながらしぶとく勝ち進んだ背景に、基地の街三沢の性格があることを著者は指摘する。今の三沢高校には復活の兆しが芽生えているとか。

この試合は本書の冒頭に描かれたハンカチ王子とマー君による決勝再試合によって、伝説の度合いが薄れた。とはいえ、この試合もやはり伝説であることには変わりない。

本書が取り上げているのはこの9試合のみだ。だが、中等野球から始まる長い大会の歴史には他にもあまたの名勝負があった。春の選抜大会にも。そうした試合は本書には取り上げられていない。たとえば昭和54年の箕島vs星稜。江川投手が涙を飲んだ銚子商との試合。奇跡的な逆転勝利で知られる昭和36年の報徳学園と倉敷商の試合。そうした試合が取り上げられていない理由は分からない。取材がうまくいかなかったのか、その後の人生模様を描くうえで差しさわりがあったのか。ひょっとすると他の書籍でノンフィクションの題材になったからなのか。延長25回の激闘で知られる、昭和8年の中京商vs明石中の試合も本書には登場しない。私の父が明石高の出身なのでなおさら読みたかったと思う。

100回記念大会の開幕日。私は実家に帰った。観戦はできなかったものの、第四試合のどよめきを球場の外から見届けた。そのかわり、甲子園歴史館に入って大会の歴史の重みを再び感じ取った。明日、百一回目の甲子園の夏が始まる。

百回大会は金足農業の快進撃が大会を盛り上げ、今年も地方大会からさまざまなドラマが繰り広げられた。また、素晴らしいドラマが見られればと思う。私も合間をみて観戦したいと思う。

‘2018/07/23-2018/07/24