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知の巨人 荻生徂徠伝


隔月で知り合いの税理士事務所からお便りのDMをいただいている。その表紙には毎回、代表の方があいさつを兼ねた文章を載せている。

ある号の表紙でとても印象に残ったことが載っており、弊社法人のFacebookアカウントで転載させていただいた。それがこちらだ。

一、人の長所を初めから知ろうとしてはいけない。人を用いて初めて長所が現れるものである。
二、人はその長所のみをとればよい。短所を知る必要はない。
三、自分の好みに合う者だけを用いるな。
四、小さい過ちをとがめる必要はない。ただ、仕事を大切にすればよい。
五、人を用いる上は、その仕事を十分に任せよ。
六、上にある者は、下の者と才智を争ってはいけない。
七、人材は心ず一癖あるものである。それは、その人が特徴のある器だからである。癖を捨ててはいけない。
八、以上に着眼して、良く用いれば、事に適し、時に応じる程の人物は必ずいるものである。
九、小事を気にせず、流れる雲のごとし。

これは徂徠訓。ここでは九条までが載っている。が、一般には八条からなっているようだ。

原文はこうだ。

 一つ、 人の長所を、初めより知らんと求むべからず
     人を用いて 初めて、長所の現れるものなり
 二つ、 人は その長所のみを取らば、すなわち可なり
     短所を知るは要せず
 三つ、 おのれ が 好みに合う者のみを用うるなかれ
 四つ、 小過を、とがむるなかれ
     ただ事を 大切に なさばすなり
 五つ、 用うる上は 信頼し、十分にゆだねるべし
 六つ、 上にある者、下にある者と才知を争う事なかれ
 七つ、 人我は必ず 一癖あるものと知るべし
     但し、その癖は器材なるが、ゆえに 癖を捨てるべからず
 八つ、 かくして、上手に人を用うれば、事に適し
     時に応ずる人物、必ずこれにあり

これらは為政者向けの内容だ。組織の中で上に立つものの教えと言うべきか。私も年齢的にリーダーシップを発揮しなければならぬ年齢に差し掛かっている。ところが、人を教え導けるようになりたいと願ってはいるものの、なかなか思ったようにいかない。

そう悩んでいたところ、DMの表紙にあった徂徠訓の教えが私の心に刺さった。これを一つの原則として肝に銘じ、暗記できるぐらいになりたいと思った。そして、荻生徂徠という人物に興味を持つきっかけにもなった。

昨年と一昨年は上杉鷹山、細井平洲、徳川光圀、二宮尊徳といった江戸時代の高名な学者の遺跡や遺訓を集中的に学んだ。となれば、荻生徂徠も学ばねばなるまい。いや、むしろ遅すぎたくらいだ。

本書を読んで思ったのは、荻生徂徠の人間的な一面が描かれていることだ。人間臭さとでも言おうか。

私は聖人を簡単には信じない。自らの欲を滅し去り、品行方正で一生あり続ける。そんな人物が描かれていたとすればそれは絵空事。江戸時代の人物にしてもそう。学者として高名であることと、その人物が人間的に非の打ち所のない人物かどうかは別の話だ。本書で荻生徂徠が聖人ではなく人間的に描かれていたことは、私に本書への親しみを持たせた。

もちろん、本書で書かれた荻生徂徠がそのままの人物であるはずがない。著者の解釈や脚色が大いに混じっていることだろう。だが、それをおいても本書で描かれた荻生徂徠からは人間の生身の姿が漂ってくる。

荻生徂徠の教えの神髄は私にはまだつかめていない。が、荻生徂徠が学問を修めてきた道は理解できたように思う。それを要約すると徹底した原典への参照だ。原典を読み込むあまり、漢文を書き下し文に頼らず読めるようになった徂徠。私たちも中・高の古典の授業で漢文には触れた。その時、私たちは書き下し文を使って読むことを教えられた。書き下し文とは、レ点や一、二点が漢字の横につくあれだ。本書によると、書き下し文を使って漢文を読むことは江戸時代でも当たり前だったようだ。当時の人々もそうやって漢文を学び、読み解いていったのだという。しかし、荻生徂徠は書き下し文に頼ることを拒んだ。漢字そのもので読み下してこそ原典の精神に触れられる。それが荻生徂徠の掴み取った信念だったのだろう。

漢文へのこだわりは、荻生徂徠を唐音の習得へと向かわせる。そして仲間内で勉強会を開いてはひたすら学問に打ち込む日々が続く。

そんな荻生徂徠の生計は何で成り立っていたか。それは柳沢家の江戸藩邸の住み込みの学者として。自ら学ぶうちに柳沢家に取り立てられ、そこで長らく養われた身。それが荻生徂徠の生き方だった。その暮らしは確かに荻生徂徠の衣食住を保証した。しかし、一方で荻生徂徠を世に出る機会を妨げ続けた。

柳沢家といえば柳沢吉保公が有名だ。徳川綱吉の側用人として知られている。私はよく山梨に行く。恵林寺にも。恵林寺には柳沢吉保公の像が安置されている。もともと武田家の家臣だった柳沢家だが、吉保公が将軍綱吉のお気に入りとなり、出世を果たした。荻生徂徠も主家の隆盛に従い、藩邸でお抱えの学者として生活できたわけだ。

だが、綱吉が亡くなり、家宣に将軍が変わった。柳沢家も吉保公から次の代に変わった。すると荻生徂徠のような学者をいつまでも養っておけない。つまり、荻生徂徠も世に出て糧を得なければならない。そのような境遇の変化があって初めて腰を上げるあたり、野心が少ないとみるのか、要領がよくないとみるのか。それは私にはわからない。ただ、本書で描かれる荻生徂徠は、自らの名声が世に伝わらないことを気に病む人物として描かれる。新井白石や室鳩室、伊藤仁斎といった荻生徂徠の学問を軽視する人々をけなし、誰かに自らの学問が認められたといっては喜ぶ。そんな人間的な荻生徂徠がたくさん描かれている。それが本書の特徴だ。

とはいえ、本書は軽いだけの本ではない。それどころか、至るところに漢文の読み下し文や古文訳が引用される。それらの部分を読み進めるのは、正直、古文に慣れていないとしんどい。私も苦しかった。

しかし、その部分を突破しないと、朱子学を凌駕した荻生徂徠の業績は見えてこない。晩年の荻生徂徠は将軍吉宗のブレーンとして政治の要諦を教える役目を担った。つまり、為政者が持つべき視点こそが、荻生徂徠の学問の要諦なのだろう。

本書の270Pにはこう書かれている。
「むろん儒学は老荘の学(道教)や仏学と違って政治を重視するが、宗儒や江戸期のこの時代までの儒者は道徳とか仁義とかを政治に優先させた。身を律することに重きをおいた。徂徠はそれを引っ繰り返し、政治を道徳や仁義から切り離した。儒学の世界を根底から覆した」
私はこの文にこそ荻生徂徠の業績の要点が込められていると思う。著者が言いたかったことも。

つまり徂徠は、来るべき科学万能時代を先取った人物。道徳や仁義ではなく、より科学的な営みとして政治をとらえた先進性こそ畏敬すべきなのだ。もちろん、その良し悪しや評価基準は時代によって変わる。だが、その思想を封建時代に打ち立てたことは評価されるべきだ。徳川吉宗の行った政治が享保の改革として今に伝えられているのも、徂徠の薫陶が少なからず影響を与えているに違いない。

今の私は荻生徂徠のすごさを上に書いたような内容でしか理解できていない。そして、冒頭に掲げた徂徠訓ですらまだ理解の途中だ。経営者としてはまだまだ荻生徂徠から学ぶべき事は多い。人間味を備えた経営を行うための教訓として。

‘2018/04/22-2018/04/26


上杉鷹山の経営学―危機を乗り切るリーダーの条件


本書はユニークなアプローチを取っている。歴史上の人物を取り上げ、伝記や小説に仕立てるのではなく、そこにビジネス論を含めているのだ。つまり、本書はビジネス書と小説のハイブリッドといえる。

本書の主人公は上杉鷹山公。歴史上の人物でしかない上杉鷹山公の事績を、伝記とビジネスのハイブリッドで迫れるのも上杉鷹山公が単なる歴史上の人物ではないからだ。故ケネディ米大統領が尊敬できる日本人として挙げた人物。それが上杉鷹山公である。

上杉鷹山公は名字からも分かるように上杉家の方である。上杉家といえば軍神として知られる上杉謙信公が良く知られている。群雄割拠の戦国時代を駆け抜けた謙信公も病に倒れ、それから信長、秀吉、家康へと権力者は移り変わる。上杉家も謙信公から景勝公へと代替わりし、滅亡の憂き目を見ることなく、時代の波を乗り切った。しかし上杉家も無傷ではすまなかった。豊臣政権下では五大老の一人として名を馳せたが、越後から会津へ移封される。会津藩では120万石の大藩であったが、関ケ原合戦で東軍に敵対したため、30万石の米沢藩に転封されてしまう。しかし謙信公からの名藩意識は容易には抜きがたく、石高120万石の大藩意識を引きずったまま江戸時代を凌ごうとする。参覲交代に普請奉仕と幕藩体制にあって出費は嵩む一方。それなのに、1/4に石高が減らされたにも関わらず、人員は120万石の体制を抱えたまま。そんな訳で鷹山公が藩主に就いた頃は、藩籍奉還、つまりは藩を幕府に返上することを画策するまでに追い詰められていた。

しかし幾多の困難を経て果敢に改革を断行した鷹山公は米沢藩を再生させる。莫大な借金を完済したのは鷹山公の次々代であったが、その功績は間違いなく鷹山公にあるといってよい。

日本人は世界でも稀なメンタリティーを持っていると言われる。それは個人の意思よりも集団の意思を重んじる心性だ。それは長所であるが、こと改革を行う上では短所となり枷となる。外圧なく自己変革を成し遂げた事例が稀な我が国において、内側から変革を成し遂げた所に鷹山公の凄さがある。しかも鷹山公は日本人とかけ離れたメンタリティーを持っていたわけではない。むしろ人一倍日本人の心性の持ち主だったと思われる。つまり、鷹山公が成したことは、今の日本を変える上で大いなるヒントとなるのだ。

財政難とプライドに絡め取られて二進も三進もいかず、跡継ぎもない米沢藩。そんな落ち目の藩主として、宮崎の高鍋藩秋月家から養子として入ったのが鷹山公。若く、人脈もなく、経験も足りない鷹山公。しかし、鷹山公は自らの弱点を冷静に受け入れ、その上で素直に忠言を聞き入れる度量を備えていた。また、目的へのビジョンやそのために率先して自らが為すべきことも弁えていた。そして、何よりも覚悟を持っていた。

鷹山公の改革は江戸から始まる。手始めに対象となったのは、本国から疎んじられ江戸藩邸に遠ざけられていた士、改革を志す人々。彼らをまず鷹山公は味方につける。打算でなく改革への意志をもつ故に江戸に追いやられた志士達。彼らこそ藩の改革に欠かせない人物として登用する。その上で鷹山公は、まず彼らに対して改革へのビジョンを語る。語る言葉の内容に曖昧さが含まれていれば逆効果。改革の士達は新たな若き藩主を見限ってしまうことだろう。しかし、そこで鷹山公が語ったとされるビジョンには、以下の要素が含まれていたという。

何がしたいか・・・・理念・目的の設定
どこまで出来るか・・・・限界の認識
なぜ出来ないか・・・・障害の確認
どうすれば出来るか・・・・可能性の追求

上記の4項目は、文中においてもその形のまま箇条書きで記述されている。ここが本書の特徴だ。小説の体裁を取りながら、ビジネス書の風味が実に濃厚なのだ。通常の小説ではこのような書き方はしない。しかし、このような書き方によって読者の理解を助ける点に本書がビジネス書である所以がある。

小説の場合筋を追う事に没頭するあまり、ビジネスに活かすためのヒントを読み流してしまう。が、上に箇条書きで書いた4項目は、鷹山公の改革へのとば口である。ここを読み飛ばすことは、鷹山公の改革の根本を見逃すことに等しい。本書がビジネス書の体裁を濃厚に備えているのは、鷹山公の事績を通じて、現代の経営に役立つ重要なメッセージを余さず取り込むためである。この4点はビジネスにあってもプロジェクトにあっても無意識に考えるはずの事項だからだ。

続いて鷹山公は、本国へ出立する。藩士に対して自己の改革の意思を明確にするために。本国では、全藩士を城の大広間に集めるという前例のない行動によって自らの意思を直接全藩士に伝える。著者はそこで読み上げたメッセージもビジネスに活かせるよう箇条書きにまとめる。

実態の報告
方針の明示
自己の限界明示
協力要請

上記4項目を達成するために、

情報の共有
討論のすすめ
コミュニケーション回路を太く短く設定する
トップダウンとボトムアップを滑らかにする

といった具体的な策を著者は書き記す。江戸時代の文章をそのまま提示したのでは、今の多忙なビジネスマンの心には届かない。そう意図したのだろう、著者は現代文に書き下した上で箇条書きにして記載する。念には念を入れて。

以下、本書は鷹山公の改革をつぶさに紹介する。その内容は実に先進的であり、封建社会の江戸時代に為された施策であるとは俄かには信じられない程だ。私自身、鷹山公の事績についてまとまった本を読むのは本書が初めてだ。そのため、鷹山公の行った施策を詳しく知れば知るほどその内容には驚くばかり。江戸時代ばかりか日本史上における名君として外国の大統領からも尊敬を受ける理由も分かる気がする。

もともと本書を読んだのは小田原市で開催された第8回嚶鳴フォーラムがきっかけである。誘ってくれた友人と一緒に出掛けた嚶鳴フォーラムは、全国の自治体、それも郷土ゆかりの偉人を擁する自治体の首長が一堂に会し、互いの偉人を紹介し合い、その叡智に学ぶのが主旨だ。第8回の会場が小田原だったので全般的には二宮尊徳公が取り上げられていた。だが、嚶鳴フォーラムには参加自治体が地元ゆかりの偉人を紹介する時間もきっちりと設けられている。当時の安部米沢市長もその一人として登壇され、上杉鷹山公の事績を紹介して下さった。それで改めて鷹山公に興味を持ったのが、本書を手に取った理由だ。

士農工商穢多非人という身分差別がまかり通っていた江戸時代にあって、身体障害者を始めとした弱者の命は現代とは比べ物にならないくらい軽視されていたことだろう。しかし鷹山公は藩内の身体障害者に対する虐待禁止を打ち出したという。また、出生直後の乳児を殺してしまう間引き。これも当時はよく行われていた風習らしいが、鷹山公によって禁止されている。また、自助、互助、扶助を三位一体として弱者への福祉に力を入れたという事績も伝わっている。姥捨山や間引きなど、弱者にとって生きにくい世。それが江戸時代であった。そんな中、このような政策を打ち出した鷹山公の先進性には驚きを禁じ得ない。また、鷹山公に輿入れした幸姫が、小児脳性麻痺の障害者だったことも付け加えておかねばならない。幸姫を受け入れた度量があってこそ、福祉政策に理解があったのかもしれない。

本書で挙げられた改革の全ては資金あってのものだ。そして米沢藩とは債務超過藩として名を馳せた藩である。では乏しい資金の中、どうやって鷹山公は改革を成し得たのか。それは、殖産政策による収入の増加に励んだからである。収支のバランスが崩れた場合、普通は支出から先に削る。しかし鷹山公が改革に着手した当時の米沢藩の財政状態は、生半可な経費節減策では焼け石に水であった。それほどまでに追い込まれていたのが米沢藩だ。そのため、鷹山公は支出の削減と同時に収入の増加という二方向で改革を進めた訳だ。

殖産政策として特筆されるのは、武士を農商業の作業に向かわせたことだ。士農工商の身分社会にあって、武士が農商業に手を染めることに対する反発は相当だったらしい。武士だけでなく奥方始め家族にもその対象は及んだというのだから徹底している。

では、武士を農商業に向かわせたことによって何が変わったのか。それは仕事のための仕事、報告のための報告が一掃されたことだという。そのような生産性ゼロの仕事に従事するくらいなら、作物を植え畑を開墾する農作業に使ったほうが余程生産的。結果として鷹山公の指導の下、武士たち自身も荒れ地を開墾し、新田開発を担ったというから奮っている。いわば武士に対する意識改革の達成であり、謙信公からの大藩意識の革命でもある。

鷹山公の改革を見てみると、形式主義の一切を否定していることがわかる。〜だからだめ。〜だからできない。それでは改革は進まない。そのような思い込みが組織を硬直化させ、改革の芽を摘む。それは現代においても思い当たることばかりだ。

しかし現代においても抵抗勢力はいる。過去においてもそれは同じ。自らの生まれ育った文化を捨て去ることへの抵抗は思いのほか大きい。成果が見え始めれば尚の事、抵抗勢力にとっては自らの存在意義が失われることを意味する。そんな抵抗勢力による反撃が鷹山公を襲う。それは反対派の重臣たちによる藩主軟禁。寸でのところで改革派の重臣達の機転で辛くも逃れることに成功した。

ここで鷹山公が示した抵抗勢力に対する処罰。この処置もまた鮮やかなものであった。むしろ、この処罰によって鷹山公の名声が後世に残ったのかもしれない。一定の改悛期間を与え、それでも悔い改めぬ者に対して死罪を含めて厳畯な対応を行う。単に優しいだけでは民も家臣も付いて来ない。藩主として改革を示すだけではだめなのだ。それだと家臣は面従腹背の態度を身に付けてしまう恐れがある。いざとなれば改革のためには部下すら切り捨てるだけの覚悟。その覚悟を懐中に潜ませ、いざという時には伝家の宝刀として抜く。そういった凄みを漂わせた者にしか改革は成し得ない。私自身、この点がまだまだ足りないと自覚している。今後の課題として、鷹山公が成した処分の詳細は肝に銘じておきたい。

また、さらに難しいのは功遂げた家臣が堕落した時の毅然とした対応だ。功臣だからといって甘い顔を見せると、改革の成果は一気に瓦解する。鷹山公の場合、藩主就任の初期から改革を共にした竹俣当綱に対する処分がこれに相当する。不要な企業功労者は処断せよ、と著者は言う。功臣といえども権力を握ると錯覚を起こし堕落に走る。起業家ならずとも肝に銘じておくべきことだろう。

最後に著者はリーダーに必要なのは、次代の後継者へ改革を伝えること、という。鷹山公はその点も怠らなかった。伝国の辞を作り、後継者に託したのだ。そこには藩主たるもの、国家と人民のために存在しており、国家や人民が藩主のために存在しているのではない、と書かれていたらしい。封建時代の藩主の言葉とはとても思えない先見性は、ここでも見られる。

エピローグにおいて、著者は鷹山公が自身の改革の本質を機関に見立てていたのではないかと指摘している。つまり属人的な政治ではなく、普遍的で恒久的な機関である、と。鷹山公が仮に亡くなったとしても、藩が機関であれば改革は継続して成し遂げることができる。では、機関がその根底に持つべき思想とは何か。それを著者は愛という言葉で表す。他人への労り、思いやりを持ち続けてこその愛。しかしこのことを実践するのは難しい。しかし、やらねばならないのもまた事実。会社のトップとして、家長として。努力せねばならないことは私自身まだまだある。

本書は何度も折に触れて読み返そうと思う。鷹山公が成し遂げた改革を自らの血肉としていかねばならない。得難い本である。

‘2015/04/13-2015/04/13