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タイタンの妖女


著者の名前は前から知っていた。だが、きちんと読んだのはひょっとすると本書が初めてかもしれない。

本書のタイトルにもある”タイタン”は、爆笑問題の太田さんが所属する事務所は本書のタイトルが由来だそうだ。著者のファンである太田さんに多大な影響を与えていることがわかる。

正直に書くと、本書はとても読みにくい。
訳者は、SF小説のさまざまな名作を訳した浅倉久志氏である。だから訳文が読みにくいことが意外だった。氏が訳した他の作品では、訳文が読みにくい印象を受けた覚えがない。それだけに意外だった。本書はまだ浅倉氏が駆け出しの頃に手がけた訳文なのかもしれない。

本書は直訳調に感じる文体が読むスピードを遅らせた。
でも、作品の終盤に至って、ようやく著者の描こうとする世界の全体が理解できた。そして読むスピードも早まった。

著者が描きたいこと。それは、人類の種としての存在意義とは何かという問いだ。その問いに沿ってテーマが貫かれている。
人は何のために生き、どこに向かっているのか。私たちは何のために発展し、どこに向かって努力し続けるのか。
その中で個人の意識はどうあるべきなのか。
そのテーマは、SFにとどまらない。純文学の世界でも昔からあらゆる作品で取り上げられている。

今、科学の力がますます人類を助けている。それと同時に、人類を無言の圧力で締めあげようともしている。
科学の力は必要。そうである以上、SFはそのテーマを探求するための最も適したジャンルであるはずだ。
本書は、そのテーマを取り上げたSFの古典的な名作として君臨し続けるだろう。

本書は人が人であり続けるための過去の記憶。その重要性を描く。過去と現在の自我は、記憶によってつながっている。
記憶が失われてしまうと、過去の自分と今の自分の連続性が損なわれる。そして人格に深刻な支障が出る。
火星人の軍隊として使役されるだけの兵隊の姿。それは、記憶をしなった人格がどれほど悲惨なものかを私たちに示してくれる。
マラカイ・コンスタントは、彼の生涯を通してさまざまな境遇に翻弄される。記憶を失った人格が翻弄される様子は、ただただ痛ましい。

一方、神の如き全能者であるウィンストン・N・ラムファード。彼は本書において、人の目指す目標を描くための格好の存在として登場する。現在と過去、そして未来の出来事。それらをあまねく把握し、自在に創造も干渉もできる存在として。
そのような神の如き存在は、私たちにとっては理想でもある。人類とは、これまでその理想を目指して努力してきたのかもしれない。
だからそのあり方の秘密が明かされるとき、私たち人類は何のために誕生し、そして進化したかについて深刻な疑問を抱くに違いない。

マラカイ・コンスタントの大富豪としての存在は、ツキだけで成功を収めてきた人生の虚しさを突きつける。経済とは、富とは、生きがいとは何か。そのような深刻な疑問は読者にとっても人類にとっても永遠のテーマだ。それを著者は読者に突きつける。

そうした疑問に答えられる存在。それは普通、神と呼ばれる。
だが、本書においてはそれは神ではない。
むしろ神よりももっと厄介で認めたくない存在かもしれない。
私たち人類を、創造し、遠隔で操ってきた存在。より高次の生命体、つまり異星人である。

異星人の不在は今の科学では証明できない。そうである以上、人類がそうした生命体によって操られていないとだれが断言できようか。
そうしたテーマこそ他ジャンルで取り上げるのは難しいSFの独擅場でもある。

自由な意思を奪われ、地球、火星、水星、土星の衛星タイタンと運命を操られるままにさすらうコンスタント。
ツキだけに恵まれ、好き勝手に豪遊する本書の冒頭に登場するコンスタントには好感が持てない。
ところが記憶を奪われ、善良にさすらうコンスタント、あらためアンクの姿からは、人の悪しき点が排除されている。だから好感が持ちやすい。
そうした描写を通して著者が書こうとするのは立身出世のあり方への強烈なメッセージだ。
私たちが社会の中で成功しようとしてあがき、他人を陥れ、成り上がろうとするあらゆる努力を本書は軽々と否定する。

種としての生き方の中で個人の意思はどこまで許されるのか。そしてどこまでが虚しい営みなのか。
宗教とは何で、進化とは何か。科学の行く先とは何か。芸術とはどういう概念で、機械と生物の境目はどこにあるのか。
本書はそうした問いに対して答えようとしている。その中で著者のメッセージはエッセンスとしてふんだんに詰め込まれている。

本書は新しく訳し直していただければ、とても読みやすい名作となり得るのではないだろうか。

一つだけ本書で印象に残った箇所を引用しておきたい。
本書の筋書きにはあまり関係がないと思われる。だが、今の私や技術者がお世話になっているクラウドについてのアイデアは、ひょっとしたら本書から得られたのではないか。
「一種の大学だ――ただし、だれもそこへは通わない。だいいち、建物もないし、教授団もいない。だれもがそこにはいっており、まただれもそこにはいっていない。それは、みんなが一吹きずつのもやを持ちよった雲のようなもので、その雲がみんなの代りにあらゆる重大な思考をやってくれるんだ。といっても、実際に雲があるわけじゃないよ。それに似たあるもの、という意味だ。スキップ、もしきみにわたしの話していることがわからないなら、説明してみてもむだなんだよ。ただ、いえるのは、どんな会議も開かれなかったということだ」(286ページ)

不気味なほどに、インターネットの仕組みを表していないだろうか。

‘2020/05/12-2020/05/19


心霊電流 下


二人のなれ初めから、約二十年の間、離ればなれになっていたジェイミーとジェイコブズ師の数奇な縁。
一度は身を持ち崩しかけていたジェイミーは、再会したジェイコブズ師から手を差し伸べられる事で身を持ち直す。そして、それを機に二人の縁は再び離れる。

ジェイミーは、ジェイコブズ師から紹介を受けた音楽業界の重鎮のもとで職を得て、真っ当な生活を歩み始める。そして数年が経過する。
ジェイミーが次にジェイコブズ師の名を目にした時、ジェイコブズ師の肩書は、見せ物師から新興宗教の教祖へと変わっていた。電気を使った奇跡を売り物にした人物として。

かつて信仰に裏切られたジェイコブズ師が、今度は自ら信仰の創造主となる。その動機には何やら不穏なものを感じさせる。
それどころか、ジェイコブス師の弁舌に魅せられたコミュニティまでできている。太陽教団やマンソンが率いた教団のような。
ジェイミーは、ジェイコブズ師との数十年にもわたる因縁に決着をつけるため、再び会いにゆく。

老いたジェイコブズ師は、自らの研究の集大成として、ジェイミーをとある場所へと誘う。
そこは、彼らが最初に出会った街の近くにある、雷を集める自然の避雷針スカイトップ。
ひっきりなしに雷が落ちるこの場所を舞台に、ジェイコブズ師は最後の忌まわしい実験に乗り出す。
それはまさに、神も恐れぬ冒涜。おぞましく不吉な結末が予感できる。

この結末は、著者が今までの傑作の中で描いてきたカタストロフィーと比べても遜色ないっq。

ただ、今までのカタストロフィーは、壮健な人々によって演じられてきた。
それに比べて、本書では老いてゆくジェイコブズ師によって成されてゆく。そのため、演者としての迫力は弱い。
ただ、本書で展開される世界の秘密のおぞましさ。そこにホラーの帝王である著者の本領が発揮されている。

ジェイコブズが呼び出したおぞましき世界。そこでは、神の冒涜を主題とした本書のテーマを如実に体現した、究極の終末とも言える世界だ。
神の救い、神の恩寵、神の御手。それはどこにもない。ひたすらに救いようのない世界。
私たちが信ずる来世のおぞましさ。
今まで、神の名において未来への希望を掲げていた教団は、神の名を借りて、人々をたぶらかしてきた。

われわれは何のために生き、そして何のために死んでいくのか。
本書の結末は、そのような問いをはねつけ、絶望に満ちている。
果たして、ジェイコブズ師が一生をかけて神に背き続けた復讐は、この世界を呼び出す事によって成就したのだろうか。
なぜ、私の妻子は無残に死ななければならなかったのか。なぜ私はそれほどまでの仕打ちをくだされなければならないのか。私が神に何をしたというのか。
絶望と呪いに満ちたジェイコブズ師による実験。
その目的が残酷な現実とは違う、理想の世界を見ることにあったとすれば、神の虚飾の裏にあるおぞましい世界を呼び出した事は、牧師の人生にとって最後のとどめとなったはずだ。

本書は、あくまでも神の不在と神への冒涜が主題となっている。
もちろん、本書で描かれた世界が真実とは限らない。来世は誰にも見えない。
だが、神なき世界の真実とは、案外、このようなものなのかもしれない。

本書のカタストロフィーは、それを主宰するジェイコブ師が老いているため、迫力に欠ける事は否めない。
だが、現れた世界の圧倒的な欠乏感。そこに、今までの著者の作品にはない恐ろしさを感じる。

それは、上巻のレビューにも書いた通り、ホラー作家として突き抜けた極みだ。
神の徹底的な否定。そして、私たちが真実と信じているはずの科学技術、つまり電気が引き起こす奇跡の先に何が待っているのか。
本書は著者による不気味な予言ではないだろうか。

あわれなジェイコブズ師がまだ敬虔な牧師だった頃、ジェイミーたちに示した電気じかけのキリスト。
それはまさに、今の世の中に氾濫する価値観の象徴である。
私たちは一体、何を頼りにこれからの世界を生きていれば良いのだろうか。
宗教もだめ、科学技術もだめ。では何が。

そんな戸惑いを尻目に、時間は私たちを等しく老いへと追いやる。
下巻では、上巻でジェイミーの初体験の相手となったアストリッドが老いて死に瀕した姿で登場する。
その残酷な現実は、まさに本書のテーマそのものだ。
人は誰もが老い、そして誰もが取り返しのつかない人生を悔やむ。誰もその生と時間を取り戻すことは不可能だ。

結局、人間にとって唯一の真理とは、時間が人を死に追いやってゆく事に尽きるのかもしれない。
だが、人はその事実を認めようとせず、欲望や見栄や見かけの栄華を追い求める。ある人は神や宗教を奉じ、自ら信じたものを信じて時間を費やす。

そのような人生観にあっては、死さえも救いとなりうる。本書には何度か、このような文句が登場する。
「永遠に横たわっていられるなら、それは死者ではない。異様に長い時の中では、死でさえも死を迎えうる」(263ページ)

それに比べ、ジェイコブス姿が呼び出した世界の寒々としたあり様。それはまさに無限の生。無限に苦しみの続く生なのだ。死してのちも続く無残な生。

おそらく著者は、老境に入った自らの人生を顧み、本書のような福音のない世界を著したのだろう。
そして、その事実に気づくのはたいていが老年に入ってからだ。
私はまたその年齢に達しておらず、自分の人生を充実したものにしようと、一生懸命、日々をジタバタと生きている。
私の考えが正しいのか、それとも間違っているのか。それは死んでからの裁きによって決まるはずだ。そもそも永遠の無が待っているだけかもしれないし。

本書に唯一の救いがあるとすれば、救われない未来が待っていたとしても、本書によってある程度は免疫が得られる事だろうか。
でも、著者は神の背後に覆い隠されていた言いにくいことをズバリと書いた。本書は、ホラー作家としての著者の畢生の作品だと思う。
著者にとって、もはや思い残すところがない。そう思う。

‘2019/5/19-2019/5/20


心霊電流 上


ミステリに寄った三部作を出していた著者が、再びホラーに戻ってきたことでファンを喜ばせたのが本書だ。
数年ぶりに出された本書は、ホラーの王道を行く作品となった。

本書の凄まじさ。それは、ついに著者が神の問題に真っ向うから取り組んだことだ。
これまでにも著者は、さまざまの怪奇現象や超常現象を作品で登場させてきた。超常現象を体験する人物には牧師もいたし、教会を舞台とした怪奇現象も描かれていた。
そう考えると、惨劇を牧師や教会と結び付けること自体が神への冒涜だったのかもしれない。
だが、それを差し引いても、今までの著者は正面切って神を否定してはいなかったように思う。

神はあまねく世界を統べる。だが、神のみわざと関係なく怪異は起き、悪霊ははびこる。
神は全能だが、その関知しない領域は確かにある。そうした隙間に悪は入り込み、怪奇を起こす。
それが今までの著者のスタンスだったように思う。
もちろん、ホラー自体が敬虔なクリスチャンに受け入れられるかは、別の問題とした上で。

だが、本書において著者は神を真っ向から否定しにかかっている。
私たち日本人にとっては、神を否定することへの心理上の抵抗は西洋ほどはない。
日本が多神教をベースとしている以上、一人の神を否定することに抵抗は感じにくいのだ。それが良くも悪くも絶対的な信仰を持たない日本の特徴だとも言える。

だが、いまだに天動説を信じる人が多いというアメリカでは、宗教についての保守的な風潮がまだ根強いと聞く。
安易に神を否定することへの心情は、日本とは段違いだ。私はそう認識している。

つまり、著者が本書で、これほどまでに神を否定し切って見せたことは、私たちが思う以上にすごいことなのではないだろうか。
神の忠実な僕であるはずの牧師の口から、かくも激烈な神を冒涜したセリフを吐かせる。
それは作家として突き詰めるべき極点だ。と同時に触れてはならないタブーだと思う。だが、ホラーを扱う以上、いつかは越えねばならないリミットなのかもしれない。

初老を迎えたジェイミー・モートンが本書の主人公であり、語り手だ。
ジェイミーが六歳の時、街の牧師として着任してきたチャールズ・ジェイコブズ師。電気が好きで、説教に電気の仕掛けを使った見せ物を扱う風変わりな人物だ。
ジェイコブズ師に気に入られたジェイミーは、キリスト教の手ほどきとともに、電気で動く奇跡の魅力と、ジェイコブズ師の若々しい活力に育まれて少年期を過ごす。

ジェイコブズ師は牧師であり、敬虔なキリスト教徒でもある。美しい妻と聡明で愛される息子。何一つ曇りのない明快な人生。
そんなジェイコブズ師の人生は、自動車事故によって妻子を失う悲劇によって一変する。それは牧師にとって神の不在を意味することに他ならない。
神はなにゆえ、忠実な神の使徒である自らにこのような悲劇を与えるのか。そこに神の試練という安易な解釈を当てはめ、片付けてしまってよいのだろうか。あまりにも無慈悲ではないか。ジェイコブズ師は悩み、煩悶する。
そして復帰した説教壇の上から聴衆に向け、神を否定するにも等しい激烈な説教をする。
そんなジェイコブズ師に背を向け、人々は教会から去ってゆく。そして後日、教区からジェイコブズ師は追放される。

私のように信仰心の薄い日本人には、神を万能で全能な存在とみなす考えは受け入れにくい。
というのも、今までキリスト教の名の下、数えきれないほどの不条理に満ちた死が人々を覆い尽くしてきた。
宗教戦争、教化と言う名の人種殲滅、宗教改革によって起きた虐殺。また、キリスト教国の中で二度の世界大戦の間におきたポグロムやジェノサイド、ホロコーストなど。
それらの出来事は、神の存在を掲げるキリスト教の教義をあざ笑っている。
と同時に私たち異教の者の眼には、神の不在を如実に表わす証拠に映る。

人の心にとって、神は確かに救いとなる存在だ。最善の発明だったとさえ思う。
人間が作り上げた頼れる対象。神とは言ってしまえばそうした存在だ。
むしろ、そうであるからこそ神は必要であり、多くの人々にとって神は存在しなければならない。私はそう考えている。

だが、今までに過ぎ去った広大な時間と空間の中で無数の人が宗教の名のもとに弑されてきたことも事実だ。宗教の名のもとに無限の悲劇が起こってきた事も間違いない。
それらの出来事に神が救いを差し伸べる事はなかった。だから、不運な出来事に遭遇してしまった人は、神の不在を呪うしかない。
ジェイコブズ師も同じだ。ジェイコブズ師が壇上から行う悲痛な説教に対し、聴衆からは非難の声が浴びせられる。神の試練を受け止められる気骨がない、と。
だが、人は弱い存在だ。私に言わせれば最愛の妻子を失いながら、神の試練を理由に平静でいられる方がむしろどうかしていると思う。

運命とは作為がなく、かつ無慈悲なもの。
不運に出会った人とは、神の存在に関係なく、無限に張り巡らされた運命の糸の中で、たまたま悪い糸に絡まってしまったにすぎない。それを運と人は呼ぶ。
私は運命や人生をそうとらえている。

ただし、運命の糸のどれをまとい、どれを避けるかによって人の一生は変わる。悪い結果をはらむ糸をくぐり抜け、より良い人生を生きるための糸を身にまとうことで、私たちの人生は好転する。そのためにこそ、私たちは勉学に励む。そして、スキルと能力を強化し、経験と鍛錬に勤しむのだ。
それでもなお、神の意思を言い募り、人の努力を無視する考えは、人の存在を軽視する事につながると思っている。
ジェイコブズ師が悲痛な説教の中で訴えた主旨もまさにそうだった。

神は無力であり、人間の作り上げた幻想に過ぎない。
そんな冷酷で救いのない事実を、著者はついに本書の形で小説の内容にぶちまけた。
ジェイコブズ師が出て行ったあとの誰もいない教会でジェイミーは叫ぶ。
「「おまえは偽物だ」と僕は叫んだ。「本物じゃない! ぺてんの寄せ集めだ! くだばれ、キリスト! くだばれ、キリスト! くたばれ、くたばれ、くたばれ、キリスト!」」(122ページ)

神の問題は、文筆をなりわいとする者としては見過ごしてはならないテーマだと思う。
そして、それをついに取り上げたことは、ホラー作家の巨匠としての著者の矜持だと思う。

多分、本書によって著者は保守的な層からの非難を受けたことだろう。
だが、今や老境にあり、十分な名声と財産を蓄える著者にとって、そうした非難は無意味なはずだ。失うものは何もない。
今まで著者は神を遠慮がちに描いてきた。
だが、ホラーの本質である、神の不在を書いてこそ、作家人生の締めくくりになる。
著者はそう思ったのではないか。

本書はジェイミーという一人の少年の成長を描いた青春小説でもある。
だが、それだけではない。本書は彼が信心の呪縛から逃れる様子を描く。
むしろ、それが本書の主題と言っても良いかもしれない。
子供の頃は大人に呪縛され、長じてからは宗教やその他の判断基準に染められる。
そこから逃げる術を見つけることはとても難しい。
われわれを取り巻く形の有無を問わないしがらみや同調せよと迫る圧力。
その事実はデジタルが幅を効かせる今も厳然として存在する。私たちの人生を見渡せばすぐにその事実は分かる。

ジェイミーは音楽に活路を求め、生計を立てて行く。それは放浪と無頼に満ちた日々だ。麻薬で死にそうになり、人々の信頼を失う。
そんなジェイミーの姿はは、宗教のくびきがとかれ、さまよう人の姿をまざまざと表している。
そんな廃人寸前のジェイミーが偶然にジェイコブズ師に出会う。電気じかけの見せ物師に身を落とし、宗教から足を洗った元牧師。
ジェイコブズ師に救われるジェイミーは、出会うべくしてジェイコブズ師に会ったのだろう。

もちろん、そうした描写は下巻への布石である。
本書のように複数の人数が交わり、複雑な人生模様をかき分けて行く物語において、著者の手腕に揺るぎはない。
だから、読者としては、著者の紡ぐ流麗な物語にただ乗っかって居れば良い。
ジェイミーとジェイコブズ師の間に織られてゆく数奇な運命はまだまだ続く。
下巻でのカタストロフィまで。

‘2019/5/15-2019/5/19


恐るべき子供たち


ジャン・コクトーは、昨年観劇した「双頭の鷲」の作者として興味を抱いた。レビュー(https://www.akvabit.jp/%e5%8f%8c%e9%a0%ad%e3%81%ae%e9%b7%b2/)の冒頭では、ジャン・コクトーの異才ぶりを表現した有名なコラージュ写真を引き合いに出し、その異才の一部に触れた。実際「双頭の鷲」自体がとても面白く、ジャン・コクトーがなぜこれほどまでに高名なのか、その理由が少しだけ理解できた気がする。

ジャン・コクトーは作家としても才能を発揮したとされている。私は本書を読むまで作品を一冊も読んだことがなかった。だが、私は岩波文庫に収められた本書を持っていた。異能の人が描く小説とはいかなるものか。「双頭の鷲」のように今の私たちにも理解できる作品に仕上がっているのか。それで本書を読んだ。

私は本書を期待して読み始めたのだが、ちょっと期待値を高く持ちすぎたようだ。しっくり来ない。小説の世界に没入しきれないまま読み終えてしまった感じだ。

なぜ小説の中に入れなかったのか。それが何かをつらつら考えながら本稿を書いている。まず思ったのは、訳文が古いということ。しかも”てにをは”にいくつか間違いがある。この2つは読みながら感じたことだ。本書の奥付には、本書の初版が1950年代と書かれている。さすがに半世紀前の訳文は今の時流にそぐわない。訳文のあちこちに時代のずれを感じる。

もう一つは本書に付けられた『恐るべき子供たち』という邦題だ。確かに本書の原題は『Les enfant Terrible』で、直訳すると『恐るべき子供たち』に間違いない。ただ”子供”という単語の語感からは10歳以下の児童を想像する。だが、子供たちという割に、登場人物の年かさはティーンエージャーのそれだ。 しかも、本書に登場する”子供”は、娼婦と一夜を過ごすこともある。つまり、子供と呼ぶには年を食いすぎている。

それでいて現代の感覚から見ると本書の”子供”たちは、それほど大それた事をしでかしていない。 本書で描かれたような出来事が仮に10歳以下の子供たちだけで行われたとすれば、現代でも”恐るべき”で通用するのかもしれない。だが今や海外では10歳以下の子供による銃発砲事件も起きているという。本書のように雪つぶての中に石を仕込んで相手を気絶させる程度では驚かない。これは時代の変化であり、どうしようもないことだ。そもそも本書の”子供たち”が”子供たち”でいるのは一部の間だけだ。数年たった後が書かれる二部では結婚もするし、登場人物の一人はフランスと海外を行き来するビジネスマンになっている。となると、”子供たち”という表現からはますます遠ざかる。

一つは、本書にちりばめられた詩的表現だ。詩人としても名作を残したジャン・コクトーであるがゆえ、文章のあちらこちらに詩的表現が目立つ。その表現は古びた訳文の中にあってなおも光を放っている。だが、訳文が古いため、それらの詩的表現は光を放つ前に訳文の中で浮いている。

と、散々本書には批判を加えた。が、私の批判にもかかわらず、本書は今でも名作となりうる要素がたくさん詰まっていると思う。
それは登場人物たちの関係性が明確に定まっているからだ。主人公のポール。その姉のエリザベート。エリザベートを愛してしまうジェラール。エリザベートの勤める店にいた娘アガート。ポールとエリザベートは姉と弟だが、二人の絆は強い。だが、もろく崩れやすい。本書は複数の人物がポールとエリザベートを翻弄し、はかなげな二人に人間の運命を突きつける物語だ。

ポールが思春期に入ってすぐ、ダルジュロスが彼の心を魅了する。そこには同性に対する憧れがある。異性に興味を持つ前、少年は自分を導き、支配してくれる同性に憧れる時期がある。私もそうした心の動きには心当たりがあるからわかる。ところがダルジュロスはポールが自分を崇拝する気持ちに乗ずるあまり、石入りの雪玉を胸に投げ、ポールの前から退学という形で去ってしまう。ポールの胸を体の痛みに加え、ダルジュロスを失った空白がむしばむ。ついでポールの依存する心は姉のエリザベートに向かう。ところが姉弟の母が亡くなったことで、姉弟を守るものがいなくなったばかりか、ジェラールとエリザベートが結婚し、ポールの心の落ち着き先がなくなる。

エリザベートはジェラールと結婚したものの、ポールに対して複雑な感情を抱き続けている。それは異性に対するものでなければ、一人の弟としてでもない。年の若い、弱い者への支配欲とでもいおうか。だからこそ、ポールがアガートと結ばれそうになると、エリザベートの心には嫉妬心が芽生える。そんなエリザベートに付け入ったのが、再び現れたダルジュロス。彼は本書の物語に波紋を生じさせ、物語を進めるために姉弟の関係を乱す。いわゆるトリックスターだ。第一部ではダルジュロスのこしらえた石入りの雪玉がポールを倒す。そして第二部で再登場したダルジュロスはエリザベートを通じて、ポールを再び倒す。

弟の関係を頼り、頼られる関係から描いたこと。そこに、ティーンエージャーの持つ心の揺らぎが加わり、周りの人間たちとの関係がますます存在自体をかき乱す。人間とは不安定な運命の下にある。その真理をティーンエージャーの群像の上に投影したのが本書だ。

関係性をきっちり読者が把握しないと、本書はわけが分からない。だからこそ、今の文体でもう一度日本語訳を行なければならない。そうすれば、本書はジャン・コクトーの傑作として再び評価されるのではないだろうか。

おそらく「双頭の鷲」も当時の脚本をそのまま脚本として使えば古めかしいはず。それを今のスタッフが現代の感覚で翻案したからこそ見応えのある舞台になったのだろう。多分、本書も新訳で読むと違った印象を受ける気がする。光文社からも新訳が出ているというし、萩尾望都さんが漫画化もしているという。私もそれらを読んでみたいと思う。

‘2017/06/13-2017/06/18