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造花の蜜〈下〉


下巻である本書では、視点ががらっと変わる。

上巻では圭太君の母香奈子や橋場警部に焦点が当たっていた。しかし、本書では犯人側の内幕が書かれる。その内幕劇の中で、実行犯とされる人物は逃亡を続ける。何から逃亡しているのか。そしてどこに向かっているのか。やがてその人物は逮捕され、取調べを受けることになる。本書は、実行犯であるその人物の視点で展開する。そして、視点は一瞬にして転換することになる。読者にとって驚きの瞬間だ。

実行犯の背後には黒幕がいる。その人物は狡知を張り巡らせ、正体をつかませない。実行犯の視点で描かれているとはいえ、それはいってみれば遣いッ走りの視点でしかない。黒幕は一体誰なのか。いや、これからこの物語はどこへ行こうとするのか。読者は本書の行く末が読めなくなる。

圭太君の誘拐劇の背後に家庭事情が絡んでいることは上巻のあちこちで触れられていた。本書ではそれらの事情も種明かししながら、実は圭太君の誘拐劇の裏側には違う犯罪が進んでいたことが明らかとなる。複雑な構成と胸のすくような転換の仕込み方はお見事という他はない。そう来たかという驚きは優れた推理小説を読む者にのみ与えられる特権だ。

そして、この時点で黒幕である人物はまだ捜査の網の外にいる。事件はまだ終わっていない。

ここで、本書は2回目となる視点の転換を迎える。圭太君の誘拐劇の舞台となった小金井や渋谷ではなく、今度の場所は仙台。圭太君誘拐劇から1年後のこと。ここに圭太君誘拐劇に関わった人物は誰一人現れない。たまたま仙台に来ていた橋場警部を除いては。人物の入れ替わりの激しさは、もはや別の物語と思えてしまうほどだ。本書はここで大きく二つに割れる。

第三部ともいえる仙台の事件をどう捉えるか。それは本書への評価そのものにも影響を与えると思う。私自身、仙台の話は蛇足ではないかと思ってみたり、黒幕の知能の高さを思い知る章として思い直してみたり。第三部については正直なところいまだに評価を定めきれずにいる。

誤解しないでもらいたいが、第三部も完成度は高いのだ。そして一部と二部で打たれた壮大な布石があってこその第三部ということも分かる。しかし第一部と第二部だけでもすでに作品としては完成していることも事実だ。それなのに第三部が加えられていることに戸惑いを感じてしまう。実は本書の最大の謎とは第三部が加えられた意味にあるのではないかとまで思う。読者を戸惑わせる意図があって曖昧に終わらせたのならまだ分かる。しかしそうではない。第二部が終わった時点で読者は一定の達成感を感ずるはずだ。

読者は本書を読み終えて釈然としないものを感じることだろう。そしてその違和感ゆえに、本書の余韻は長く続くこととなる。

第三部のうやむやを探ろうと著者自身に聞きたいところだが、それはもはや叶わない。残念なことに著者は亡くなってしまったからだ。どこかで著者が本書の第三部について語った内容が収められていればよいが、その文章にめぐり合える可能性は低い。あるいは著者は、死してなおミステリ作家であり続けたかったのかもしれない。自らの作品それ自体をミステリとして存在させようとして。あるいは、著者の他の作品に謎を解く鍵が潜んでいないとも限らない。私自身。著者の読んでいない作品はまだたくさんある。それらを読みながら、第三部の謎を考えてみたいと思う。

‘2015/11/21-2015/11/22


造花の蜜〈上〉


本書のレビューを書くのはとても難しい。

推理小説であるため、ネタばらしができないのはもちろんだ。でも、それ以上に本書の構成はとても複雑なのだ。小説のレビューを書くにあたっては最低限の粗筋を書き、レビューを読んでくださる方にも理解が及ぶようにしたいと思っている。しかし、本書は粗筋を書くのがはばかられるほど複雑なのだ。そして粗筋を書くことで、これから読まれる方の興を削いでしまいかねない。

本書下巻ではテレビドラマ脚本家の岡田氏による解説が付されている。岡田氏も本書の解説にはとても苦労されている様子が伺える。そして、私も本稿には難儀した。本書はレビュアー泣かせの一冊だと思う。

でも、本書はとても面白い。そして構成が凝っている。ミステリーの系譜では誘拐ものといえばそうそうたる名作たちが出揃っている。本書はその中にあっても引けをとらないほど面白い仕掛けが施されている。子供を間に置くことで、視点の逆転をうまく使っているのが印象的だ。

上巻である本書では、圭太君の母香奈子と橋場警部に焦点を当てつつ話は展開する。圭太君があわや連れ去られそうになるが、実は誘拐未遂であり、しかも実行犯が父親というのがミソだ。そしてその体験を語るのが幼い圭太君であることが、混乱を誘う。圭太君の言葉は無垢な言葉であり、その言葉には作為は混じらない。だからこそ大人は惑わされるのだ。冒頭の誘拐未遂の挿話で読者ははやくも著者の仕掛けた謎に惑わされてゆく。

はたして一カ月後、圭太君は再度誘拐される。犯人の知略にもてあそばれる警察側。著者によって小道具が効果的に出し入れさえ、巧妙に視点と語りが混ぜ込まれる。著者の幻惑の筆は冴え渡る。なるほど、こういう誘拐の手口もあるのか、と読めば驚くこと間違いなし。造花の蜜という題名のとおり、本書では金という甘い蜜を巡って虚虚実実の駆け引きが繰り広げられる。ここでいう蜜とは、金の暗喩であることは言うまでもない。そして蜜は金としてだけでなく、小道具としても印象的に登場する。蜜に群がる蜂を多く引き連れて。

鮮やかな誘拐劇の中、ほんろうされ続ける橋場警部。

上巻は、犯人への対抗心に燃える橋場警部の姿で幕を閉じる。これが下巻への布石となっていることはもちろんだ。

‘2015/11/20-2015/11/21