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鉄道と国家 「我田引鉄」の近現代史


旅が好きな私。だが、鉄道で日本を網羅するまでには至っていない。日本全国に張り巡らされた鉄道のうち、私が乗ったのはせいぜい5分の1程度ではないだろうか。

今、鉄道が岐路に立っている。私が子供の頃、鉄道の網の目はさらに細かく張り巡らされていた。それが、日本国有鉄道(国鉄)の末期に多くの赤字路線が廃止されたことによって、今のような鉄道網に落ち着いてきたいきさつががある。

それほど細かく長大な路線網を日本国中に敷き詰めた原動力とは何だったのか。その理由を考えるとき、国の軍事上の要請があったことに思い至る。わが国は道路の整備に消極的だ。それは群雄割拠の時期が長かったことに遠因がある。だから明治維新後、道路よりも鉄道の整備が優先された。

鉄道に限らず、さまざまなインフラ整備の背後には、軍事の影がちらつく。鉄道の場合、軍の果たした役割はより明らかだ。軍部の要望によって優先的に日本国中に鉄道網が敷き詰められていったからだ。明治維新の後、急速に開国し、国力を充実させる必要に迫られた明治政府は、全国に鉄道を敷設することで軍事用の鉄道を急いで充実させた。本書にはそうしたいきさつが改軌(狭軌から広軌)の問題も含めて提示される。

当時、部隊を大量に戦地に送るには、船または鉄道に頼るほかなかった。その中でも、より早く迅速に輸送する手段として鉄道は欠かせない。日清・日露の戦いの中で日本中の兵隊が迅速かつ大量に広島や呉、下関から出征し、戦勝に寄与したことでもそれは明らかだ。

経済の要請よりも、政治が優先された時代。それは鉄道と国家を考える上で興味深い。だが、そうした国家の意志があったからこそ、鉄道は迅速に日本中に敷き詰められたのだろう。

そして、軍事的に重んじられなくなり、なおかつ日常の生活の移動にも鉄道が利用されなくなったことで、鉄道の廃止の流れが加速している。結局、住民の移動だけが目的であれば、車で事足りてしまう。鉄道は時代の流れに取り残されてしまったのだ。

鉄道とは国の要請や政策の変動に翻弄されてきた。それは新幹線計画ですら同じ。戦時中に弾丸列車として構想された新幹線は、戦後復興のシンボルとして、オリンピックと並び称される存在になった。そこには佐藤首相が鉄道院出身だったことも関係しているだろう。国によって復興のシンボルと祭り上げられる新幹線。ここでも鉄道は国に利用されている。

鉄道とは移動の道具。そして移動とは庶民にとって手の届かないぜいたくだった。明治維新より前、自由に移動ができたのは国民のうちでもわずか。いわば封建からの解放の象徴が移動だ。その手段が国によって整備されて、短期間で長距離の移動が可能になった事は、政府の威信を国民に示す絶好の機会となったはずだ。

また、それは政治家にとっても有効な武器となったに違いない。本書にも駅の誘致や停車駅の設置などの事例が登場する。例えば岐阜羽島駅、深谷駅などがそうだ。また、そもそも路線自体を政治の力で誘致する例もある。例を挙げれば岩手の大船渡線は奇妙に路線が迂回している。諏訪から松本までの路線が辰野廻りになっているのもそうだ。また、上越新幹線の開通に田中角栄の力が大きく発揮されたことは周知の事実。そうした「我田引鉄」の事例は、駅が街の発展の中心であった時代を如実に表している。

だが今や、駅周辺はシャッター通りと化している。車で行ける大きなショッピングモールが栄え、さらにショッピングモールすらネット社会の到来によって変化を余儀なくされている。本書には新幹線の南びわこ駅が知事の一存で中止にされた事例も登場しているが、それも鉄道の重要性が低下したことの一つの表れなのだろう。

明らかに鉄道が国家にとって重要でなくなりつつある。少なくとも、主要な都市間を輸送するのではない用途では。本書にはそうした地方自治体の長たちが廃止を回避しようと努力する姿も紹介する。北海道の美幸線に対する地元町長の涙ぐましい努力もむなしく廃止され、近年の災害で不通になった路線も次々と廃止されている。これもまた、時代の流れなのだろう。ただ、田中角栄が

旅が好きな私。だが、鉄道で日本を網羅するまでには至っていない。日本全国に張り巡らされた鉄道のうち、私が乗ったのはせいぜい5分の1程度ではないだろうか。

今、鉄道が岐路に立っている。私が子供の頃、鉄道の網の目はさらに細かく張り巡らされていた。それが、日本国有鉄道(国鉄)の末期に多くの赤字路線が廃止されたことによって、今のような鉄道網に落ち着いてきたいきさつががある。

それほど細かく長大な路線網を日本国中に敷き詰めた原動力とは何だったのか。その理由を考えるとき、国の軍事上の要請があったことに思い至る。わが国は道路の整備に消極的だ。それは群雄割拠の時期が長かったことに遠因がある。だから明治維新後、道路よりも鉄道の整備が優先された。

鉄道に限らず、さまざまなインフラ整備の背後には、軍事の影がちらつく。鉄道の場合、軍の果たした役割はより明らかだ。軍部の要望によって優先的に日本国中に鉄道網が敷き詰められていったからだ。明治維新の後、急速に開国し、国力を充実させる必要に迫られた明治政府は、全国に鉄道を敷設することで軍事用の鉄道を急いで充実させた。本書にはそうしたいきさつが改軌(狭軌から広軌)の問題も含めて提示される。

当時、部隊を大量に戦地に送るには、船または鉄道に頼るほかなかった。その中でも、より早く迅速に輸送する手段として鉄道は欠かせない。日清・日露の戦いの中で日本中の兵隊が迅速かつ大量に広島や呉、下関から出征し、戦勝に寄与したことでもそれは明らかだ。

経済の要請よりも、政治が優先された時代。それは鉄道と国家を考える上で興味深い。だが、そうした国家の意志があったからこそ、鉄道は迅速に日本中に敷き詰められたのだろう。

そして、軍事的に重んじられなくなり、なおかつ日常の生活の移動にも鉄道が利用されなくなったことで、鉄道の廃止の流れが加速している。結局、住民の移動だけが目的であれば、車で事足りてしまう。鉄道は時代の流れに取り残されてしまったのだ。

鉄道とは国の要請や政策の変動に翻弄されてきた。それは新幹線計画ですら同じ。戦時中に弾丸列車として構想された新幹線は、戦後復興のシンボルとして、オリンピックと並び称される存在になった。そこには佐藤首相が鉄道院出身だったことも関係しているだろう。国によって復興のシンボルと祭り上げられる新幹線。ここでも鉄道は国に利用されている。

鉄道とは移動の道具。そして移動とは庶民にとって手の届かないぜいたくだった。明治維新より前、自由に移動ができたのは国民のうちでもわずか。いわば封建からの解放の象徴が移動だ。その手段が国によって整備されて、短期間で長距離の移動が可能になった事は、政府の威信を国民に示す絶好の機会となったはずだ。

また、それは政治家にとっても有効な武器となったに違いない。本書にも駅の誘致や停車駅の設置などの事例が登場する。例えば岐阜羽島駅、深谷駅などがそうだ。また、そもそも路線自体を政治の力で誘致する例もある。例を挙げれば岩手の大船渡線は奇妙に路線が迂回している。諏訪から松本までの路線が辰野廻りになっているのもそうだ。また、上越新幹線の開通に田中角栄の力が大きく発揮されたことは周知の事実。そうした「我田引鉄」の事例は、駅が街の発展の中心であった時代を如実に表している。

だが今や、駅周辺はシャッター通りと化している。車で行ける大きなショッピングモールが栄え、さらにショッピングモールすらネット社会の到来によって変化を余儀なくされている。本書には新幹線の南びわこ駅が知事の一存で中止にされた事例も登場しているが、それも鉄道の重要性が低下したことの一つの表れなのだろう。

明らかに鉄道が国家にとって重要でなくなりつつある。少なくとも、主要な都市間を輸送するのではない用途では。本書にはそうした地方自治体の長たちが廃止を回避しようと努力する姿も紹介する。北海道の美幸線に対する地元町長の涙ぐましい努力もむなしく廃止され、近年の災害で不通になった路線も次々と廃止されている。これもまた、時代の流れなのだろう。ただ、田中角栄が『日本列島改造論』の中で赤字であっても地方ローカル線の存続を訴えていたことは本書で初めて知った。地方創生の流れが出てきている最近だからこそ、なおもう一度光が当たってもよいかもしれない、と思った。

だが、都市間輸送に限れば日本の路線が廃止されることは当分なさそうだ。それどころか海外に鉄道システムを輸出する動きも盛んだ。本書の終章ではそうした国を挙げての日本の鉄道システム輸出の取り組みが描かれている。今や日本の鉄道が時間に正確であることは世界でも知れ渡っているからだ。

鉄道によって発展してきたわが国は、自らが育てそして養われてきた鉄道システムを輸出するまでになった。ただ、その鉄道が結局は地域のインフラになりえなかったこともまた事実。その事に私は残念さを覚える。その一方で今、抜本的な鉄道システムの研究が進んでいると聞く。それは例えば、自動運転を含めて交通のあり方を概念から変えることだろう。

だからせめて、軌道だけは廃止せずに残しておいてもらえると、今後の鉄道網が復活する希望が持てるのだが。少なくとも私が乗りつぶしを達成するまででもよいから。

‘2018/10/30-2018/10/30


小栗上野介 忘れられた悲劇の幕臣


歴史が好きな私だが、小栗上野介はあまりマークしていなかった。幕末の日本を動かしたキーマンの一人であるはずなのに。勝てば官軍の逆を行き、負けた幕軍の中で歴史に埋もれてしまった人物。

小栗上野介が世間で脚光をあびる事はなく、せいぜい、赤城山に徳川の埋葬金を埋めた張本人では、と伝説の中で取り上げられるぐらい。あれほどの幕末の激動の中で、幕府側の人物はほとんどが明治になって語られることがなくなった。今も取り沙汰される幕府側の人物といえば、最後の将軍徳川慶喜は別格としても、西郷隆盛と会見し、江戸を無血開城に導いた勝海舟や、五稜郭まで新政府に抵抗したのち、明治政府でも大臣まで歴任した榎本氏ぐらいだろうか。だが、彼らに比べて、幕府のために粉骨砕身した小栗上野介は、今もなおあまりにも過小評価されている人物だといえる。

なぜ私が急に小栗上野介の本書を読もうと思ったか。それは、ある日、家族でこんにゃくパークへ向かう道中で、小栗上野介の隠棲した場所を訪れたからだ。それはまさに偶然のたまものだった。そもそも草津に行くつもりで向かっていたのに、急に草津行を中止し、こんにゃくパークへ行き先を変えたのも偶然ならば、道の駅くらぶちに訪れたのも偶然。道の駅に小栗上野介を顕彰する展示があり、じっくり見られたのも偶然。極めつけはその近辺の地名だ。「長井石器時代住居跡」や「長井の道祖神」、「長井川」。ここまで偶然が続くと、これも何かの縁だと思うしかない。そういうわけで、今まで全く縁のなかったはずの小栗上野介について調べてみようと思い、本書を手に取ってみた。

先に挙げた明治以降も名が伝えられた幕府側の人々。彼らの名前が残ったのは、明治まで生きのびたためだろう。そのため、優れた能力を明治以降でも発揮することができた。ところが、明治維新の前に非業の死に倒れた人物はその事績が正当に伝えられていない。かろうじて安政の大獄で迫害された人々は、弟子たちが明治新政府の要職についたためその人物や事績が後世に伝えられた。だが、幕府側の人物は、正当な立場で論じられていない。安政の大獄の当事者である井伊直弼もそうだし、開国時の老中だった阿部正弘もそう。そして、本書が取り上げる小栗上野介もその一人だ。

本書は小栗上野介の生涯を紹介している。事績の割には、後世にその偉大さが忘れられている小栗上野介。

本書の帯には、小栗上野介の事績の一端を紹介するため、明治の大物である二人が語った言葉が記されている。
「明治の近代化は
  ほとんど小栗上野介の構想の
  模倣に過ぎない」大隈重信

「日本海海戦の勝利は、
  小栗さんが横須賀造船所を
  造っておいてくれたおかげ」東郷平八郎

また、同じ帯には小栗上野介を「明治の父」と評した司馬遼太郎の文章も紹介されている。つまり、小栗上野介とはそれだけのことを成し遂げた人物なのだ。

一八六〇年、日米修好通商条約批准のためアメリカへ旅立った遣米使節団。八十人弱と伝わる一行の中で、正使、副使に次ぐ地位にあったのが目付役の小栗上野介だった。その旅は太平洋からアメリカに向かい、パナマ運河を超えて東海岸に渡りワシントンへ。帰りは船のトラブルがあり、大西洋から喜望峰、香港と巡った一行は世界一周を果たした。その一行の中でもさまざまな文物を吸収し、それを幕政に積極的に取り入れようとしたのが小栗上野介だ。その過程の一部始終が本書には紹介されている。

後年、明治の元勲たちも欧米を視察した。榎本武揚も小栗上野介に遅れること2年でオランダ留学を果たした。だが、彼らと小栗上野介が違うのは、小栗上野介は江戸幕府にあって改革を推進できる立場だったことだ。

当時の幕府には黒船来航から巻き起こった動乱を乗り切るための人材が底をついていた。なので、積極的に小栗上野介を登用し、小栗上野介もそれに応える仕事をする。だが残念ながら、めまぐるしい情勢の変化は、小栗上野介に腰を据えて改革するための時間を与えなかった。

薩長がイギリスと結んだことへ対抗するため、幕府がフランスと結び、軍制改革に当たったことはよく知られている。その推進を担ったのが小栗上野介だ。小栗上野介がなした最大の業績が横須賀造船所の建造であることは先にも東郷平八郎の言葉として出ている。それも小栗上野介が持っていたフランス人とのつながりから生まれたもののようだ。他にも大砲製造所や反射炉の建設など、幕府の改革に取り組んだ小栗上野介。時流に遅れた幕府のため、必死になって幕府を再建しようと努力した跡が感じあっれる。フランス語学校も設立したというから、まさに孤軍奮闘にも似た働きだったのだろう。もし幕末の情勢がどこかで少しでも変わっていたら、日本にはフランスを由来とする文物がもっとあふれていたかもしれない。

また、経済にも明るかった小栗上野介は、日米修好通商条約の際に為替比率を見直そうと旅先で交渉に励んだという。アメリカとの間に結んだ為替比率が、日本の貨幣に含まれる金銀の含有量からして不公平だと、フィラデルフィアの造幣局で貨幣の分析試験を求め、不均衡を証明したという記録も残っている。また、日本最初の株式会社を設立したのも小栗上野介だという。よく坂本龍馬が作った亀山社中こそが株式会社の元祖というが、亀山社中が設立された二年後に小栗上野介の作った兵庫商社のほうが、先に株式会社を名乗っていたらしい。

ところがそれほどの逸材も、交戦派として将軍慶喜からは罷免される。そして上州に引っ込んでしまう。そして薩長軍が上州にやってくる。従容と捕縛された小栗上野介だが、無駄なあがきはせずに潔く斬首されたという。それらの地こそ、私が訪れた倉渕。今もなお小栗上野介が顕彰されていることからも、穏やかに隠棲していたことが伺える。

能力のある官吏であり、新政府でも相当の働きをしたはずの小栗上野介。だが、要領よく立ち回って延命しようとの野心はなかった様子からも、私利私欲の目立つ人物ではなかったようだ。小栗上野介を捕縛した人物の愚かなふるまいがなければ、小栗上野介の名前が忘れられることなかったはずなのが惜しい(捕縛した人物は後に大臣や各県知事を歴任し、昭和十一年まで生きたという)。

この時、立ち寄った倉渕は、のんびりとした感じが良い印象を残している。にもかかわらず、この時はこんにゃくパークへ急ぐため、小栗上野介の墓所や斬首の場をきちんと見ていない。私の名が付くあちこちの史跡も。なるべく早く再訪したいと思っている。

‘2018/09/22-2018/09/23