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浮世の画家


先日、読んだ『遠い山並みの光』に続く著者の二作目の長編小説である本書。前作と同じく戦後の日本が舞台となっている。

テーマは、時代による価値の移り変わりに人はどうあるべきか。
『遠い山並みの光』にも戦前の考えを引きずったまま、戦後になって世の中の転換に困惑する人物が登場した。主人公の義父にあたる緒方さんだ。

本書の主人公である画家の小野は、その緒方さんをより掘り下げて造形した人物だ。
戦前に戦争を推進する立場についていたため、戦後になって世の中から声を掛けてもらえず、引退も同然の毎日を過ごしている。
かつて盛り場だった街で、昔からのなじみであるマダム川上がやっているバーに通う日々。
本書の時代背景は、1948年10月から1950年6月にかけての一年八カ月の期間だ。

その時期とは、ようやく戦後の復興が端緒についた時期。進駐軍による占領は続いており、その中で戦後の新体制への移行や憲法の施行が行われ、戦時中の日本のあらゆる価値がもっともドラマチックに捨て去られた時期だ。
その時期の日本の某都市を舞台に、小野の周りの人間模様を描くことで日本の置かれた状況を描き出している。

だが、本書には終戦後の日本を彩った歴史の年表に並ぶような出来事はほぼ出てこない。
著者はあえてそうした社会の変動を描かず、社会の通念の流れと価値の観念が揺り動いたことを本書の登場人物の日常から表現する。

人々の考えが変わった証し。それは、小野に対する目に見えない冷淡な世間の対応として現れる。
考え方の変化を読者に伝える題材として、著者はお見合いに着目する。お見合いとはまさに日本の慣習であり、人々の考え方の変化がもっとも見えやすい対象だ。

小野の次女の紀子は、先方からの急な断りによって縁談を破談にされる。あまりに急な先方の豹変に困惑する紀子と姉の節子。その理由を敏感に感じた節子は、父にそれとなく理由を伝えようとする。だが、小野の反応はあいまいなもの。なぜ破談になったのかを気づいていないようにすら思える。

著者が巧みなのは、小野の周囲に人物を配置する手法だ。小野のかつての弟子だけでなく、娘二人とその家族や見合い相手を置く。それだけで、戦後日本の風潮の転換を具体的な思想やイデオロギーを出さずに表現しているのだから。

長女の節子は息子の一郎を連れてくる。が、一郎の幼さに迎合しようとする小野は、ローン・レンジャーに夢中になり、アイスクリームを欲しがる太郎に手を焼く。
かつてならば、家長の権威を振りかざし、いうことをきかせられたものを、孫に厳しく接することにためらい戸惑う小野。

人々の価値が変わってしまったことを如実に示すのが、小野と一郎の関係だ。

モリさんこと師匠の森山に対して小野が放った決別の言葉も、小野に跳ね返ってくる。
「先生、現在のような苦難の時代にあって芸術に携わる者は、夜明けの光と共にあえなく消えてしまうああいった享楽的なものよりも、もっと実体のあるものを尊重するよう頭を切り替えるべきだ、というのが僕の信念です。画家が絶えずせせこましい退廃的な世界に閉じこもっている必要はないと思います。先生、ぼくの良心は、ぼくがいつまでも〈浮世の画家〉でいることを許さないのです」(267ページ)

森山は、かつて武田工房に属する一人の画家に過ぎなかった小野を招いてくれた人物だ。
だが、技巧に秀でた小野はさらに独立への道を選ぶ。そして、同時期に知り合った国粋主義の思想を持つ松田知州に誘われる。そしてともに新日本精神運動を起こす。
小野が戦後に冷遇される理由は、翼賛体制に寄り添った新日本精神運動へ参加したことが原因と思われる。戦中に軍国主義を推進した政治家や実業家が戦後に公職から追放されたのと同じ理由と理解すればよい。

だが、単純に小野をかたくなな軍国主義の持ち主として描いていないことが著者の工夫だ。
小野がモリさんこと森山のもとを去った理由となる作風の変化は、社会の低層をキャンバスに写し取ろうとした小野の決意にある。それは、作中には描かれていないが、軍部が問題視したプロレタリアの精神すら感じさせるものだ。
組織を去ってまで己の道を貫こうとした小野のあり方は、進め一億火の玉だと叫ばれた戦前の風潮とは一線を画している。そこを見逃してはならないと思う。
小野はただ、時代の風潮に寄り添うことを良しとせず、自らの道を歩もうとしただけなのだ。そうした意味では、小野もまた時代の犠牲者に過ぎないと思う。

一方。小野は自らが冷遇されていることを心の底では理解していながら、娘たちにはなんでもない風を装う。そして、紀子の見合いの席では率直に自らの戦時中の言動を謝罪しようとする。小野は本書において頑迷な人物としては描かれない。見苦しい自己弁護に堕ちない小野の印象は、物語を読み進めるほどに変わってゆく。共感すら覚えたくなる人物だ。

小野の具体的な過ちが一体何かは、終盤までぼやかされている。にもかかわらず、本書はある種の清々しさがある。
それは周囲が小野の過去にこだわって距離を置こうとする対応とは逆に、小野自身は時代の流れに乗ろうとせず、人としての信念のままに過去から未来へと、たどたどしいながらも歩もうとしているからだろう。それは、浮世の画家というタイトルから受ける印象とは逆だ。

日本人の血をひいているとはいえ、異国の英語文化の中で育った著者。そんな著者が著した日本の物語は、価値の転換や文化の違いなどを隔てているだけに、層をなしていて読みごたえがある。

‘2020/01/05-2020/01/09


やぶれかぶれ青春記


本書も小松左京展をきっかけに読んだ一冊だ。

小松左京展では、著者の生い立ちから死去までが、いくつかの写真や資料とあわせて詳しい年表として紹介されていた。
著者の精力的な活動の数々は、小松左京展でも紹介されていた。あらためて圧倒された。だが、若い時期は苦しみと挫折に満ちた青春時代を送ったそうだ。小松左京展では、それらの若い頃の雌伏についても紹介していた。
だが、業績や著作があまりにも膨大な著者故、著者の若い頃については存分に紹介されていたとはいいがたい。少なくともその時期に焦点を当てた本書に比べれば。

本書は、著者のファンではなくても、自伝としてもと読まれるべきだと思う。それほど素晴らしい。そして勉強になる。何よりも励まされる。

やぶれかぶれ、というのはまさに文字通りだ。
本書の性格や意図については、本書のまえがきで著者自身が書いている。少しだけ長いが引用したい。

「編集部の注文は、大学受験期を中心とした、「明朗な青春小説」というものだった。ーそして、それは私自身の自伝風のものであること、という条件がついている。」(7P)

「まして、私の場合など、この時期と、戦争、戦後という日本の社会の、歴史的異常状況とが重なってしまったから、とても「明朗な青春」などというものではなかった。なにしろ妙な時代に生まれたものである。私の生まれた昭和六年には、満州事変がおっぱじまり、小学校へ上がった十二年には日中戦争がはじまった。五年生の時太平洋戦争がはじまり、中学校にはいった年に学徒動員計画がはじまった。徴兵年齢が一年ひきさげられて、学徒兵の入隊がはじまった。中学二年の時にサイパン玉砕、中学生の工場勤労動員がはじまり、B29の大空襲がはじまる。中学三年の時には大阪、神戸が焼野が原となって終戦、あとは占領下の闇市、食料欠乏の大インフレ、預金凍結、新円切りかえ、中学五年で旧制三高にはいったと思ったら、その年から学制が現在の六三制にかわり、旧制一年だけで新制大学第一期生に入学、その年日本は、大労働攻勢と、大レッドパージの開始で、下山、三鷹、松川事件と国鉄中心に会事件が続発し、翌年朝鮮戦争勃発…。政治、思想、人生などの諸問題、そして何よりも飢餓と貧困にクタクタになって、やっと昭和二十九年、一年おくれで卒業した時、世の中は「もはや戦後でない」という合い言葉とともに「神武景気」「技術革新」の時代に突入しつつあった。その年、家は完全に倒産した。」(12P)

小松左京展でも、著者の戦時体験については一区画が設けられていた。著者の諸作のあちこちに反戦の思いが散見され、著者が心から戦争を嫌っていたことが感じられる。
実際、右傾化した世の中で、著者は相当ひどい目に遭わされたそうだ。そのことが本書にも紹介されている。

鉄拳制裁や教師の無定見からくる差別。理不尽な扱いはしょっちゅう。
何のためにやっているのかわからない勤労奉仕。無意味な作業。
そして戦後になったとたん、戦時中に放っていた勇ましい言葉をすっかり忘れたかのような大人たちの変節。

中学生の時に著者が受けた扱いの数々は、当時の世相や暮らしの実態を知る上でとても興味深い。

戦後、人々がなぜあれほどに左翼思想へと走ったのか。それは戦時中の反動からという説はよく目にする。
実際、著者も大学の頃に共産主義の運動に足を突っ込んだことがあるという。
それもわかるほど、軍国主義に嫌気がさすだけの理由の数々が本書には書かれている。

戦後になって一念発起し、旧制高校にはいった時の著者の喜び。それは本書からもよく感じ取れる。
その無軌道な生活の楽しさと、それが学制改革によって一年で奪われてしまった著者の無念。それも本書からはよく理解できる。

よく昭和一桁世代という。だがその中でも昭和六年生まれの著者が受けた運命の運転や、その不条理な経験は本書を読んでもうんざりさせられる。人を嫌いにさせるには充分だ。
著者の計り知れない執筆量。さらには文壇や論壇の枠からはみ出し、万博への関与や政財界にまで進んだエネルギーが、全てこの時期に培った反発をエネルギーと変えて噴出させたことも本書を読むとよく理解できる。

大学に進んだ著者は、完全に自由なその生活を謳歌する。そしてやぶれかぶれのやりたい放題をする。
その辺の出来事も面白おかしく描かれている。

自伝によくあるのは、ドラマチックなところだけ取れば面白いが、その他の経歴は淡々と読み進める類のものだ。だが、本書は、エピソードの一つ一つが破天荒だ。そしてどれもがとても面白い。そのため、どんな人にとってもスイスイと読めるはずだ。

本書で描かれる大学時代の日々はとても面白い。だが、ある日になって浮かれている著者を置き去りにして周りがフッと醒めていく。周囲の空気の変化を感じた著者が、モラトリアムの終わりを予感するくだり。本書は私にとっても身につまされる描写が多い。

本書に描かれていない出来事は他にもある。そうした情報は小松左京展でも展示されていた。
実家の工場の倒産と、工場長として後始末に駆けずり回る毎日。残された借金を返済するために大量に書きまくる日々。そうした苦しみの数々を小説へのエネルギーに変えたところなど、とても面白い。
おそらくこの時期の著者には面白い出来事をもっと持っていることだろう。そうした体験は著者が別の場所に発表しているはずなので探してみたい。

そして、私にとっては、もう二度と戻ることのない青春時代に、もっとはちゃめちゃな毎日を過ごしておけばよかった、と思うのだ。
私の場合はそれを取り戻そうと、中年になった今でも自由で気ままに生きようと日々を生きているつもりだ。だが、著者のやぶれかぶれで破天荒な青春にはとてもかなわない。

末尾には著者のこの時期を物語る四つの短編が納められている。
「わが青春の野蛮人たち」「わが青春」「わが読書歴」「気ちがい旅行」

これらもあわせて読んでいくと、巨大な著者の存在がより近づく。またはより遠くなってしまう。だが、より親しみを感じられるはずだ。

冒頭にも書いた通り、本書は自伝としてとても推薦できる一冊だ。

‘2019/12/30-2019/12/31