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槍ヶ岳開山


日本の仏教をこう言って揶揄することがある。「葬式仏教」と。

平安から鎌倉に至るまで、日本の宗教界をリードしてきたのは紛れもなく仏教であった。しかし、戦国の世からこのかた、仏教は利益を誘導するだけの武装集団に堕してしまった。その反動からか、江戸幕府からは寺院諸法度の名で締め付けを受けることになる。その締め付けがますます仏教を萎縮させることになった。その結果、仏教は檀家制度にしがみつき「葬式仏教」化することになったのだと思う。

では本当に江戸時代の仏教は停滞していたのか。江戸時代に畏敬すべき僧侶はいなかったのか。もちろんそんなことはない。例えば本書の主人公播隆は特筆すべき人物の一人だろう。播隆の成した代表的な事跡こそが、本書の題にもなっている「槍ヶ岳開山」である。

開山とは、人の登らぬ山に先鞭を付けるということだ。人々が麓から仰ぎ見るだけの山。その山頂に足跡を残す。そして、そこに人々が信仰で登れるようにする。つまり、山岳信仰の復興だ。山岳信仰こそは、行き詰っていた江戸仏教が見いだした目標だったのだろう。そして現世の衆生にも分かりやすい頂点。それこそが山だったのだ。登山を僧や修験者といった宗教家だけのものにせず、一般の衆生に開放したこと。それこそが播隆の功績だといえる。

だが、播隆が行ったのは修行としての登山だ。修行とは己自身と対峙し、仏と対話する営み。純粋に個人的な、内面の世界を鍛える営みだ。それを、いかにして小説的に表現するか。ここに著者の苦心があったと思われる。

本書には、越中八尾の玉生屋の番頭岩松が、後年の播隆となって行く姿が描かれている。だが、その過程には、史実の播隆から離れた著者による脚色の跡がある。wikipediaには播隆の出家は19の時と書かれているらしい。wikipediaを信ずるとなると、19で出家した人間が番頭のはずがない。ただ、どちらを信ずるにせよ、槍ヶ岳を開いたのが播隆であることに変わりはないはず。

播隆に槍ヶ岳を登らせるため、著者はおはまを創造する。越中一揆において、おはまは岩松が突き出した槍に絶命する。仲の睦まじいおしどり夫婦だった二人だが、夫に殺された瞬間、おはまは夫をとがめながら絶命する。一揆の当事者として成り行きで農民側に加担することになった岩松は、越中から逃げて放浪の旅に出る。おはまが最後に己に向けた視線に常に胸を灼かれながら。

一揆で親を亡くした少年徳助を守るという名分のもと、旅を続ける岩松は椿宗和尚のもとに身を寄せることになる。そこで僧として生きることを決意した二人は、大坂の天王寺にある宝泉寺の見仏上人に修行に出される。そして見仏上人の下で岩仏という僧名を得、修行に明け暮れる。次いで京都の一念寺の蝎誉和尚の下に移り、そこで播隆という僧名を与えられることになる。八年の修行の後、播隆は椿宗和尚の元に戻る。

八年のあいだ、俗世から、おはまの視線から逃れるため、修行に没頭した播隆。皮肉にも修行に逃れようとしたことが播隆に威厳を備えさせてゆく。俗世の浮かれた気分から脱し、信心にすがり孤高の世界に足を踏み入れつつある播隆。だが、一方で播隆を俗世につなぎとめようとする人物も現れる。その人物とは弥三郎。彼はつかず離れず播隆の周りに出没する。一揆の時から播隆 に縁のある弥三郎は、播隆におはまの事を思い出させ、その罪の意識で播隆の心を乱し、女までめとわせようとする。播隆 と弥三郎の関わりは、本書のテーマにもつながる。本書のテーマとは、宗教世界と俗世の関わりだ。

だが、僧の世界にも積極的に俗世と関わり、そこに仏教者として奉仕することで仏業を成そうとする人物もいる。それが播隆 を僧の世界に導いた椿宗和尚だ。椿宗和尚は、播隆こそ笠ヶ岳再興にふさわしい人物と見込んで白羽の矢を立てる。

播隆は期待に応え、笠ヶ岳再興を成し遂げる。しかし、その偉業はかえって播隆 を、事業僧として奔走する椿宗和尚の影響下から遠ざけてゆく。播隆にとっての救いは、笠ヶ岳山頂でみた御来迎の神々しさ。おはまの形をとった 御来迎に恐れおののく播隆 は、おはまの姿に許しを得たい一心で名号を唱える。

再びおはまの姿をとった御来迎に槍ヶ岳の山頂で出会えるかもしれない。その思いにすがるように播隆 は槍ヶ岳開山に向け邁進する。だが、笠ヶ岳再興を遂げたことで弟子入り希望者が引きも切らぬようになる。一緒に大坂に修行に向かった徳助改め徳念もその一人。また、弥三郎は播隆にめとらせようとした女てると所帯を持つことになるが、その双子の片割れおさとを柏巌尼として強引に播隆の弟子にしてしまう。俗世の邪念を捨て一修行僧でありたいと願う播隆に、次々と俗世のしがらみがまとわりついてくる。

皮肉にも槍ヶ岳開山をやり遂げたことで、仏の世界から俗界に近くなってしまう播隆。そんな彼には、地元有力者の子息を弟子にといった依頼もやってくる。徳念だけを唯一の弟子に置き、俗世から距離を置きたがる播隆は、しつこい依頼に諦めて、弟子を取ることになる。さらには槍ヶ岳開山を盤石にするための鎖の寄進を願ったことから、幕府内の権力闘争にも巻き込まれてしまう。それは、犬山城を犬山藩として独立させようと画策する城主成瀬正寿の思惑。播隆の威光と名声は幕政にまで影響を与えるようになったのだ。播隆本人の意思とは反して。

播隆の運命を見ていると、もはや宗教家にとって静謐な修行の場はこの世に存在しないかに見える。それは、宗教がやがて来る開国とその後の文明開化によって大きく揺さぶられる未来への予兆でもある。宗教界も宗教者もさらに追い詰めて行くのだ。宗教はもはや奇跡でも神秘でもない。科学が容赦なく、宗教から神秘のベールをひきはがしてゆく。例えばたまたま播隆の元に訪問し、足のけがを治療する高野長英。彼は蘭学をおさめた学者でもある。長英は播隆に笠ヶ岳で見た御来迎とは、ドイツでブロッケン現象として科学的に解明された現象である事を教えられる。

本書は聖と俗のはざまでもがく仏教が、次第に俗へと追い詰められて行く様を播隆の仏業を通して冷徹に描いている。まな弟子の徳念さえも柏巌尼 との愛欲に負けて播隆のもとを去って行く。1840年、黒船来航を間近にして播隆は入寂する。その臨終の席で弥三郎がおはまの死の真相やおはまが死に臨んで播隆 に向けたとがめる視線の意味を告白する。全てを知らされても、それは意識の境が曖昧になった播隆には届かない。徳念と柏巌尼が出奔し、俗世に堕ちていったことも知らぬまに。西洋文明が仏教をさらに俗世へと落としてゆく20年前。播隆とは、宗教が神秘的であり得た時代の古き宗教者だったのか。

取材ノートより、という題であとがきが付されている。かなりの人物や寺は実在したようだ。しかしおはまの実在をほのめかすような記述は著者の取材ノートには触れられていない。おそらくおはまは著者の創作なのだろう。だが、播隆が実在の人物に即して書かれているかどうかは問題ではない。本書は仏教の堕ちゆく姿が主題なのだから。獣も登らぬ槍ヶ岳すらも人智は克服した。最後の宗教家、播隆自身の手によって。誤解を恐れずいうなら、播隆以降の仏教とは、葬式仏教との言い方がきつければ、哲学と呼ぶべきではないか。

‘2016/11/15-2016/11/19


柳田國男全集〈2〉


本書は読むのに時間が掛かった。仕事が忙しかった事もあるが、理由はそれだけではない。ブログを書いていたからだ。それも本書に無関係ではないブログを。本書を読んでいる間に、私は著者に関する二つのブログをアップした。

一つ目は著者の作品を読んでの(レビュー)。これは著者の民俗学研究の成果を読んでの感想だ。そしてもう一つのブログエントリーは、本書を読み始めるすぐ前に本書の著者の生まれ故郷福崎を訪れた際の紀行文だ(ブログ記事)。つまり著者の民俗学究としての基盤の地を私なりに訪問した感想となる。それらブログを書くにあたって著者の生涯や業績の解釈は欠かせない。また、解釈の過程は本書を読む助けとなるはず。そう思って本書を読む作業を劣後させ、著者に関するブログを優先した。それが本書を読む時間をかけた理由だ。

今さら云うまでもないが、民俗学と著者は切っても切れない関係だ。民俗学に触れずに著者を語るのは至難の業だ。逆もまた同じ。著者の全体像を把握するには、単一の切り口では足りない。さまざまな切り口、多様な視点から見なければ柳田國男という巨人の全貌は語れないはずだ。もちろん、著者を理解する上でもっとも大きな切り口が民俗学なのは間違いない。ただ、民俗学だけでは柳田國男という人物を語れないのも確かだ。本書を読むと、民俗学だけでない別の切り口から見た著者の姿がほの見える。それは、旅人という切り口だ。民俗学者としての著者を語るにはまず旅人としての著者を見つめる必要がある。それが私が本書から得た感想だ。

もとより民俗学と旅には密接な関係がある。文献だけでは拾いきれない伝承や口承や碑文を実地に現地を訪れ収集するのが民俗学。であるならば、旅なくして民俗学は成り立たないことになる。

だが、本書で描かれる幾つもの旅からは、民俗学者としての職責以前に旅を愛してやまない著者の趣味嗜好が伺える。著者の旅先での立ち居振舞いから感じられるのは、旅先の習俗を集める学究的な義務感よりも異なる風土風俗の珍しさに好奇心を隠せない高揚感である。

つまり、著者の民俗学者としての業績は、愛する旅の趣味と糧を得るための仕事を一致させるために編み出した渡世の結果ではないか。いささか不謹慎のような気もするが、本書を読んでいるとそう思えてしまうのだ。

趣味と仕事の一致は、現代人の多くにとって生涯のテーマだと思う。仕事の他に持つから趣味は楽しめるのだ、という意見もある。趣味に締切や義務を持ち込むのは避けたいとの意見もある。いやいや、そうやない、一生を義務に費やす人生なんか真っ平御免や、との反論もある。その人が持つ人生観や価値観によって意見は色々あるだろう。私は最後の選択肢を選ぶ。仕事は楽しくあるべきだと思うしそれを目指している。どうせやるなら仕事は楽しくやりたい。義務でやる仕事はゴメンだ。趣味と同じだけの熱意を賭けられる仕事がいい。

だが、そんなことは誰にだって言える。趣味だけで過ごせる一生を選べるのなら多くの人がそちらを選ぶだろう。そもそも、仕事と趣味の両立ですら難儀なのだから。義務や責任を担ってこそ人生を全うしたと言えるのではないか。その価値観もまたアリだと思う。

どのように生きようと、人生の終わりではプラスもマイナスも相殺される。これが私の人生観だ。楽なことが続いても、それは過去に果たした苦労のご褒美。逆に、たとえ苦難が続いてもそれは将来に必ず報われる。猛練習の結果試合に勝てなくても、それは遠い先のどこかで成果としてかえってくる。また、幼い日に怠けたツケは、大人になって払わされる。もちろんその水準点は人それぞれだ。また、良い時と悪い時の振幅の幅も人それぞれ。

著者を含めた四兄弟を「松岡四兄弟」という。四人が四人とも別々の分野に進み、それぞれに成功を収めた。著者が産まれたのはそのような英明な家系だ。だが、幼少期から親元を離れさせられ郷愁を人一倍味わっている。また、英明な四兄弟の母による厳しい教育にも耐えている。また、著者は40歳すぎまで不自由な官僚世界に身をおいている。こうした若い頃に味わった苦難は、著者に民俗学者としての名声をもたらした。全ての幼少期の苦労は、著者の晩年に相殺されたのだ。そこには、苦難の中でも生活そのものへの好奇心を絶やさなかった著者の努力もある。苦労の代償があってこその趣味と仕事の両立となのだ。

著者が成した努力には読書も含まれる。著者は播州北条の三木家が所蔵する膨大な書籍を読破したとも伝えられている。それも著者の博覧強記の仕事の糧となっていることは間違いない。それに加えて、官僚としての職務の合間にもメモで記録することを欠かさなかった。著者は官僚としての仕事の傍らで、自らの知識の研鑽を怠らない。

本書は、官僚の職務で訪れた地について書かれた紀行文が多い。著者が職務を全うしつつもそれで終わらせることなく、個人としての興味をまとめた努力の成果だ。多分、旅人としての素質に衝き動かされたのだろうが、職務の疲れにかまけて休んでいたら到底これらの文は書けなかったに違いない。旅人としての興味だけにとどまることなく文に残した著者の努力が後年の大民俗学者としての礎となったことは言うまでもない。

本書の行間からは、著者の官僚としての職責の前に、旅人として精一杯旅人でありたいという努力が見えるのである。

本書で追っていける著者の旅路は実に多彩だ。羽前、羽後の両羽。奥三河。白川郷から越中高岡。蝦夷から樺太へ。北に向かうかと思えば、近畿を気ままに中央構造線に沿って西へと行く。

鉄道が日本を今以上に網羅していた時期とはいえ、いまと比べると速度の遅さは歴然としている。ましてや当時の著者は官僚であった。そんな立場でありながら本書に記された旅程の多彩さは何なのだろう。しかも世帯を持ちながら、旅の日々をこなしているのだから恐れ入る。

そのことに私は強烈な羨ましさを感じる。そして著者の旅した当時よりも便利な現代に生きているのに、不便で身動きの取りにくい自分の状態にもどかしさを感じる。

ただし、本書の紀行文は完全ではない。たとえば著者の旅に味気なさを感じる読者もいるはずだ。それは名所旧跡へ立ち寄らないから。読者によっては著者の道中に艶やかさも潤いもない乾いた印象を持ってもおかしくない。それは土地の酒や料理への描写に乏しいから。読む人によっては道中のゆとりや遊びの記述のなさに違和感を感じることもあるだろう。それは本書に移動についての苦労があまり見られないから。私もそうした点に物足りなさを感じた。

でもそんな記述でありながらも、なぜか著者の旅程からは喜びが感じられる。そればかりか果てしない充実すら感じられるから不思議なものだ。

やはりそれは冒頭に書いた通り、著者の本質が旅人だからに違いない。本書の記述からは心底旅を愛する著者の思いが伝わってくるかのようだ。旅に付き物の不便さ。そして素朴な風景。目的もなく気ままにさすらう著者の姿すら感じられる。

ここに至って私は気づいた。著者の旅とわれわれの旅との違いを。それは目的の有る無しだ。いわば旅と観光の違いとも言える。

時間のないわれわれは目的地を決め、効率的に回ろうとする。目的地とはすなわち観光地。時間の有り余る学生でもない限り、目的地を定めず風の吹くままに移動し続ける旅はもはや高望みだ。即ち、旅ではなく目的地を効率的に消化する観光になってしまっている。それが今のわれわれ。

それに反し、本書では著者による旅の真髄が記される。名所や観光地には目もくれず、その地の風土や風俗を取材する。そんな著者の旅路は旅の中の旅と言えよう。

‘2016/05/09-2016/05/28