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少年は残酷な弓を射る 下


幼稚園でも問題行動を起こすケヴィン。シーリアという妹ができれば兄として自覚を持ち落ち着いてくれるのでは。そんな両親の願いを軽々と裏切り、ケヴィンの悪行には拍車がかかる。むしろ始末が悪くなる一方。悪知恵がついた分、単なるやんちゃを超え、より悪質な方へと向かう。

下巻が幕を開けてすぐ、ケヴィンは同じ幼稚園に通う園児の心に一生残るであろう楔を打ち込む。その楔の深さはその園児に一生涯消えない傷として残るはず。知恵をつけ始めるとともに、ケヴィンの行いは狡猾な色を帯びてゆく。エヴァから見た息子の行動や発言は見過ごせないほどの異常さが感じられる。だが、それらの邪悪さは夫フランクリンには映らない。それどころかケヴィンの異常さを訴えること自体が母親エヴァの育児の至らなさの結果と映る。会社の経営にかまけて、母としての役割がおろそかになっていないか、というわけだ。実際、ケヴィンは母に対して見せる姿と、父に対しての態度を巧妙に演じ分けるのだ。エヴァの訴えは夫には通じず、エヴァは手をこまねくしかない。エヴァが手を打てずにいる間にクラスメイトだけでなく、担任や隣人、ペットなど身の回りのあらゆるものにケヴィンの悪意は向けられてゆく。

妻の訴えを信じず、理解ある父を懸命に演じようとする父フランクリンは滑稽だ。だが、彼の滑稽さを笑える世の父は私も含めそういないはず。もちろん、私だって娘たちに対してはよき父であろうと心がけている。至らぬところも多々あるし、実際に至らないと自覚もしている。だが、子どもは成長すると知恵を身に付けてゆくもの。親といえども子が何を考えているか完璧に見抜けるのはずはない。

あまたの人間の織りなす社会。そこでは、硬軟や裏表、公私を使い分けなければ世を渡ることすらままならない。素の姿で飾らず、まっすぐ真っ当に生きたい。だれもが思うことだ。それは当然、子供との関係にも当てはまる。純粋で無垢な理想の父子を、せめて子供との関係では守りたい。本書で描かれるフランクリンからはその意思が痛々しいほど感じられる。

エヴァはフランクリンに向けてつづる便りの中で、ケヴィンが裏表を使い分けずる賢くフランクリンを欺いていたことも暴く。そして、フランクリンが息子に騙され続けていた事実も指摘する。だが、ケヴィンが取り返しのつかない犯罪を起こしてしまった今、何を言っても過去の繰り言にすぎない。実際、エヴァは、フランクリンを難詰しない。ただ騙されていたことを指摘するだけで。後から当時を振り返り、分析するエヴァの手紙には、諦めどころか傍観者のおもむきさえ漂っている。今さら夫を責めたところで過去は変えられないとの達観。

この達観は、大量殺戮犯の息子を持たない限り、普通の人が至ることのない境地だ。一瞬、魔がさして過ちを犯したのならまだわかる。だが、将来の殺人犯を育てる長年の過ちとは一瞬の過ちが入り込む余地はない。一瞬ではなく、徐々に積み重なった過ちだからこそ本書はリアルに怖い。本書はリアルな恐怖を読者に与える。自らの子どもが殺人犯になる未来が子育ての先に黒い口を開けて待ち構えている。そんな恐ろしい可能性は、どの親にも平等に与えられている。だからこそ恐ろしいのだ。その恐怖は本書がフィクションであろうと、そうでなかろうと変わりがない。親として子育てに携わる限り、そのリスクを避けるすべはない。どの親にも殺人犯の親になってしまう機会は均等にある。

上巻のレビューの冒頭にも書いたが、子育てとは、とても深淵で取り返しのつかない営みだ。本書は、その事を私たちに思い知らせてくれる。普通の親がいともやすやすとやり遂げているように思える子育て。そこには親子の間に交わされる無数のコミュニケーションと駆け引きと思惑がある。それほどまでに難しい営みで有りながら、結果は出てしまう。そして全ては結果で判断される。ああ、あそこの家の子は教育がよかったから◯◯大に行っただの、△△省に就職しただの。逆もまたしかり。やれニートだ、やれ不良だ、やれ引きこもりだ。極端な例になると、本書のケヴィンのように全国に汚名を轟かせることになる。

でも、それはあくまで結果論に過ぎない。子育ては細かい触れ合いやコミュニケーション、イベントや感情の積み重ねの連続だ。ことさらに記念日やイベントを持ち出すまでもなく。経緯をないがしろにして結果だけをあげつらうのはフェアではない。そしてその経緯を知っているのは当の親子だけ。全ての親子。いや、親子ですら、そこまでに積み重ねたあらゆる選択肢を反省することは不可能。だからこそ、子育ては真剣な営みであるべきだし、取り返しがつかない営みなのだ。私自身、幼い頃に親から言われた事がしつけの結果として脳裏をよぎる事がいまもある。逆に、言われなかった、しつけられなかった事によって私の行動に欠陥だってあるはずだ。

本書は子育ての恐ろしさを世に知らしめるには格好の題材だと思う。子を持つ親として、私はその事を本書から痛いほど突きつけられた。

エヴァの追懐は、事件の日ヘ一刻と近づいてゆく。夫に対して語りかけながら、息子の罪に向き合う。そして少年院で囚われのケヴィンとの面会に臨む。エヴァやフランクリン、シーリア、そしてケヴィン。この一家は今、どうしているのか。エヴァが認める自らの罪、そして失敗の先にはなにが待っているのか。エヴァが親として人間として向き合おうとする心はケヴィンに届くのか。これは実際に本書を読んで確かめてほしいと思う。

本書を読み終えた時、さまざまな感情が渦巻くはずだ。親であることの恐れ多さ。今まで自分が真っ当に育てられたことの感謝。親として子への接し方に襟を正す思い。人であること、親であることの難しさ。母とは、父とは、そして母性とは。

本書は重い。だが傑作だ。子を持つ親にはぜひ読んでほしいと思う。

‘2017/04/15-2017/04/19


虚ろな十字架


大切な人が殺される。その時、私はどういう気持ちになるのだろう。想像もつかない。取り乱すのか、それとも冷静に受け止めるのか。もしくは冷静を装いつつ、脳内を真っ白にして固まるのか。自分がどうなるのか分からない。何しろ私にはまだ大切な人が殺された経験がなく、想像するしかないから。

その時、大切な人を殺した犯人にどういう感情を抱くのか。激高して殺したいと思うのか。犯人もまた不幸な生い立ちの被害者と憎しみを理性で抑え込むのか。それとも即刻の死刑を望むのか、刑務所で贖罪の余生を送ってほしいと願うのか。自分がどう思うのか分からない。まだ犯人を目の前にした経験がないから。

でも、現実に殺人犯によって悲嘆の底に落とされた遺族はいる。私も分からないなどと言っている場合ではない。私だって遺族になる可能性はあるのだから。いざ、その立場に立たされてからでは遅い。本来ならば、自分がその立場に立つ前に考えておくべきなのだろう。死刑に賛成するかしないかの判断を。

だが、そうはいっても遺族の気持ちになり切るのはなかなかハードルの高い課題だ。当事者でもないのに、遺族に感情移入する事はそうそうできない。そんな時、本書は少しは考えをまとめる助けとなるかもしれない。

本書の主人公中原道正は、二度も大切な人を殺された設定となっている。最初は愛娘が殺されてしまう。その事で妻との間柄が気まずくなり、離婚。すると娘が殺されて11年後に離婚した元妻までも殺されてしまう。離婚した妻とは疎遠だったので知らなかったが、殺された妻は娘が殺された後もずっと死刑に関する意見を発信し続けていたことを知る。自分はすでにその活動から身を引いたというのに。

それがきっかけで道正はもう一度遺族の立場で死刑に向き合おうとする。一度逃げた活動から。なぜ逃げたのかといえば、死刑判決が遺族の心を決して癒やしてくれないことを知ってしまったからだ。犯人が逮捕され、死刑判決はくだった。でも、娘は帰ってこない。死刑判決は単なる通過点(137ページ)に過ぎないのだから。死刑は無力(145ぺージ)なのだから。犯人に判決が下ろうと死刑が行われようと、現実は常に現実のまま、残酷に冷静に過ぎて行く。道正はその事実に打ちのめされ、妻と離婚した後はその問題から目を背けていた。でも、妻の残した文章を読むにつけ、これでは娘の死も妻の死も無駄になることに気づく。

道正は、元妻の母と連絡を取り、殺人犯たちの背後を調べ直そうとする。特に元妻を殺した犯人は、遺族からも丁重な詫び状が届いたという。彼らが殺人に手を染めたのは何が原因か。身の上を知ったところで、娘や妻を殺した犯人を赦すことはできるのか。道正の葛藤とともに、物語は進んで行く。

犯罪に至る過程を追う事は、過去にさかのぼる事。過去に原因を求めずして、どんな犯罪が防げるというのか。本書で著者が言いたいのはそういう事だと思う。みずみずしい今は次の瞬間、取り返せない過去になる。今を大切に生きない者は、その行いが将来、取り返せない過去となって苦しめられるのだ。

本書は過去を美化する意図もなければ、過去にしがみつくことを勧めてもいない。むしろ、今の大切さを強く勧める。過去は殺された娘と同じく戻ってこないのだから。一瞬の判断に引きずられたことで人生が台無しにならないように。でも、そんな底の浅い教訓だけで済むはずがない。では、本書で著者は何を言おうとしているのか。

本書で著者がしたかったのは、読者への問題提起だと思う。死刑についてどう考えますか、という。そして著者は306-307ページで一つの答えを出している。「人を殺した者は、どう償うべきか。この問いに、たぶん模範解答はないと思います」と道正に語らせる事で。また、最終の326ページで、「人間なんぞに完璧な審判は不可能」と刑事に語らせることで。

著者の問いかけに答えないわけにもいくまい。死刑について私が考えた結論を述べてみたい。

死刑とは過去の清算、そして未来の抹殺だ。でも、それは殺人犯にとっての話でしかない。遺族にとっては、大切な人が殺された時点ですでに未来は抹殺されてしまっているのだ。もちろん殺された当人の未来も。未来が一人一人の主観の中にしかありえず、他人が共有できないのなら、そもそも死刑はなんの解決にもならないのだ。殺人犯の未来はしょせん殺人犯の未来にすぎない。死刑とは、遺族のためというよりも、これ以上、同じ境遇に悲しむ遺族を作らないための犯罪者の抑止策でしかないと思う。ただ、抑止策として死刑が有効である限りは、そして、凶行に及ぼうとする殺人者予備軍が思いとどまるのなら、死刑制度もありだと思う。

‘2016/12/13-2016/12/14